新版・現場主義のジンパ学

再開の辞  北海道大学文学部名誉教授 尽波満洲男

 コロナ禍の後、再構成のためと称してほぼ2年も休講したから、学外の人は我が北海道大学のジンパ学講座を忘れたかも知れないので言っとくが、私がこの講義を担当する尽波です。
 本日からの講義再開を知り、早速私の講義を聴きに来てくれた諸君が思いの外、多いので実にうれしい。いまいる全員に単位を進呈したいくらいだが、学問には厳しさがなきゃいかん。来春には試験代わりのジンギスカン料理に関するレポートを必ず出してもらうからね。
 休講中の「いいわけページ」に書いたことだが、わがキャンパスのどこでもジンパをやれた時代の「現場主義のジンパ学」の講義録は、その後の学内情勢の変化に合わなくなったので、講義録の公開は止めて全面更新に取りかかりました。
 しかしながら、老いた私の頭脳と体力では、残念ながら全面どころか、前バージョンの閉鎖前に公開できなかった講義録を仕上げるだけで精一杯。週2回のジム通いで足腰を鍛えても西区から市立中央図書館や豊平の札幌大学まで、かつてのように自転車でホイホイ行けなくなっちゃった。
 じゃあ生成AIを使ったらいいではないかと思うでしょう。ところが、彼等の知識はウィキペディアと大差ないのです。たとえば「札幌の豊平館食堂の開設以来の経営者を教えて」とCopilotとGeminiに質問したら、どちらも初代の原田伝弥(Copilotは伝也とした)は示したが、2代目以降は豊平館全体の管理者などを挙げ、食堂の経営者は示せなかった。
 札幌農学校のブルックス先生着任祝いの晩餐会のメニューにね、イモが5回も出たわけを調べたことから端を発して、2代目石垣道直、3代目金沢源太郎、4代目杉山菊次郎と知ったのだが、そこまで書いた本はないから埋め合わせとしてそういう答えになったとみます。
 ただ Gemini が「第二次世界大戦後、豊平館は札幌市に移管されました。 1950年~2006年: 株式会社札幌グランドホテル」、「1950年、札幌市は豊平館を株式会社札幌グランドホテルに貸し付けました。札幌グランドホテルは、豊平館をレストランや宴会場として運営しました。2006年~現在: 株式会社札幌豊平館厨房」と答えたことは、電電か電通か電の付く会社が豊平館の管理者だった時期があったという私の記憶と異なるので、いずれ調べてみますが、こういう公的記録のない身近なことは苦手なのです。
 ところで今後の講義録の配置ですが、バージョンを新と前に分けます。講義回数の多い前バージョンの目次は、この新ページ経由とします。また前バージョンの講義録は無修正で公開するけれど「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」だけ大幅に資料を増やしたので、新バージョンに移しました。前バージョンの中には、いま見ると古色蒼然、ユニコードが未整備で16ピクセル角で自作した漢字、記号を使った講義録もあるが、公開時のままで書き換えていません。
  新バージョンにふさわしくとHTML言語では最新の HTML Living Standard を選択したため、プログラミングの学習及び作成は予想以上に難航しました。更にできあがっても、私が望むページの姿はグーグルのクロームで読む場合だけで、マイクロソフトのエッジとモジラのファイヤーフォックスの場合、引用した書誌情報の位置ズレが生じ、特にファイヤーフォックスは字体も明朝に変わります。それで出来得れば新バージョンの講義録はクロームで読んで下さい。
 ただ前バージョンは閉鎖の際に講義録によってはリンクさせていた補助資料、もしかすると55回あるはずの講義録本体でも、サーバーからの回収後、紛失したものがあるかも知れません。すぐ見つからない場合は、外付けデスクもを探してみますが、内容を思い出せず復元を諦める資料もあるかも知れません。
 ちょっと、いや、かなりかな、脱線だが、来年、つまり令和7年で我が北大は創基150年になる。それでだ、私がジン鍋アートミュージアムの顧問だから思い付いたのだが、ジンバの発祥地にふさわしくジンギスカン鍋150種の展示会を総合博物館の記念行事に加えることを提案したい。
 岩見沢の鍋博物館には600枚近い鍋があり、溝口雅明館長は法学部OBだし、煙処理でジン鍋で焼く家庭の減少を憂慮し、ジン鍋なくして正統ジンギスカンなしと、鉄鍋の使用を奨励しているから賛成するに決まっておる。
 問題は大学当局の認可及び鍋輸送と展示の人手だね。先般、東京同窓会が北大東京ジンパ2024を開き、798人のギネス世界記録を作ったが、あれは東京だから集まったのだ。札幌でやってご覧、200人も集まるかどうか。私は東京同窓会のエルム新聞を作ったりしたからいえるが、札幌から離れているから同窓会活動は盛んなのであって、そのころ地元札幌の同窓会は名ばかりだった。
 そこで今も札幌同窓会があるなら、もし150種展示案が採用されたら、20人は集まってジン鍋運び、飾り付けなどをやり、札幌同窓会も存在していることを天下に示してもらいたいが、まず、ふざけた記念行事だと認められないか、ハッハッハ。


新バージョンの講義録目次


尊称ジンギスカンを得たテムジンと鍋釜問題
本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた
豊平館3代目拝借人は金沢源太郎なのだ
ジンギスカンで道内の緬羊を食べ尽くした道民
昭和の北大卒各位、ジンパを知ったのは何年でしたか
戦後の料理書に現れたジンギスカンの料理法(平成編)

前バージョンの講義録目次へ
(読める講義録は◎印で示す、無印は紛失した講義録)



お知らせ(1)

 令和3年9月に慶応義塾大学出版会から出版された岩間一弘
氏の著書「中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえ
て」で引用された前バージョンの講義録の3カ所とその注をそ
れぞれ示し、クリックすると目次を使わず、直接呼び出して
読めるようにしました。

137ページ
 ちなみに、『中国名菜譜』によれば、咸豊四(一八五四)年
に北京の前門外に開店した「正陽楼」が羊肉しゃぶしゃぶ(
「涮羊肉」)を販売した漢族の最初の店であるといい、それは
肉を切る技術を改良して名を馳せた。(13)この正陽楼の羊肉料
理が、一九一〇年代以降に満洲の日本人社会、さらに日本へと
伝わったジンギスカン料理の原型であると考えられている。(14)
そして東来順は、一九〇三年に回民の丁子清が開業した飯屋が
始まりで、一二年に正陽楼の優秀な切肉の技師とその弟子たち
を招聘して、羊肉しゃぶしゃぶを売り始めた。一九四二年に正
陽楼が休業すると、東来順の羊肉しゃぶしゃぶが、北京でもっ
とも有名になったという。(15)

注49ページ
(14) 1913年10月に満鉄第二代総裁の中村是公が北
京を訪れた際,同窓の山座円次郎公使とおそらく正陽楼で会食
して,「成吉斯汗時代の鋤焼鍋なるもの」の珍味に驚かされた。
大連に戻った中村総裁は1913年11月8日夜,官民の名士
を満洲館に招待して「鋤焼会の饗応」を行った(「珍饌山賊料
理 総裁の北京土産」『満洲日日新聞』1913年11月9日
5頁)。これが満洲の日本人社会にジンギスカン料理が伝わっ
た最初の記録である(尽波 [n.d.] の「中村総裁が大連に持ち
込んだ烤羊肉」)。 ここをクリックする。


158ページ
 一九三四年七月にジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下
「JTB」と略す)の大連支部は、『旅行満洲』(一九三八年
四月号より『観光東亜』に改名)という旅行雑誌を創刊した。
それを見ると、南満洲鉄道株式会社が経営するヤマトホテル、
鉄道の食堂車、国策旅行会社のジャパン・ツーリスト・ビュー
ローなどが、満洲国独自の食文化の創成を目指して、ヤマトビ
フテキ、ジンギスカン料理、高粱の菓子といった名物を創り出
していたことがわかる。ただし、これらの「満洲料理」「満洲
食」は、現地中国人の支持を欠いており満洲国崩壊後、中国東
北部ではほとんど痕跡をとどめなかった。(25)
 他方で、日本本国には、満洲の料理として、焼き餃子やジン
ギスカン料理などが伝わった・中国語の「餃子(jigozi、
ジャオズ)」に対する日本語の「ギョーザ」「ギョウザ」とい
う発音が、二〇世紀前半当時の中国東北(満洲)訛りの中国語
音であることは、根拠になる同時代の文献史料が複数あるので
間違いない。(26) また、羊の焼肉料理を「ジンギスカン」と
名づけたのは、一九一〇年代の北京にいた日本人記者であり、
ジンギスカン料理は、北京から満洲および日本内地の各都市に
伝播したと考えられている。(27)
一九二七年一一月、陸軍糧秣廠の外郭団体である糧友会の機関
誌『糧友』(二巻一一号)は、巻頭で「羊肉食宣伝の趣旨」を
掲載している。その頃から、日本内地でもジンギスカン料理の
普及が始まった。例えば、一九三三年三月、東京・大井の春秋
園で開かれた満洲国建国の一周年を記念する晩餐会のメイン料
理は、ジンギスカン料理であった。(28)

注51ページ
(27) 尽波満洲男 (n.d.) ,とくに「北京の鷲澤・井上命
名説を検討する」。 ここをクリックする。

513ページ
 そして昭和モダンとしての中国料理ブームのなかで普及した
ものの一つに、回転テーブルがある。回転テーブルの発祥は、
日本では長らく、一九三一年に目黒に雅叙園を開店するのに合
わせて、細川力蔵が作らせたのが始まりと説明されてきた。細
川は、席に座ったまま料理を取り分けて、次の人に譲れる回転
テーブルを、当時出入りの棟梁に相談して作らせていた。(57)
 しかし、近年には多くの資料が発掘されて、ホテル雅叙園東
京の中国料理店「旬遊記」(旧・目黒雅叙園)で今も使われて
いる修復済みの回転テーブルは、「現存最古」を称されるよう
になった。今明らかになっている日本で一番古い回転テーブル
の記録は、一九二九年九月三日晩、日本橋「濱のや」で開かれ
た第一六回食道楽漫談会で使用された回転テーブルの写真(図
4-3)である。(58)

注65ページ
(58) 「長寿延命若返り」『食道楽』3(10),192
9年10月,58~77頁の集合写真(58頁)。詳しくは,
尽波 (n.d.) の「夏の宵,鎌倉由比ヶ浜で試みた松葉いぶし」
「正陽楼の本物での鍋で焼かせた濱町濱の家」を参照された
い。
 「夏の宵…」はここをクリックすると読めます。
 「正陽楼の…」はこちらをクリックしてください。
 尽波注 店名「濱の家」は「濱のや」と平仮名が正しいの
ですが、久保田万太郎が小説「じんぎすかん料理」に初めて
店名を書いたとき「京蘇料理の濱の家」としたので、前バー
ジョンではそれ以降同店の名前は「濱の家」で統一していま
した。

お知らせ(2)

 また令和5年3月に彩流社から出版されたノンフィクション
作家山本佳典氏のデビュー作「羊と日本人」の第二章「前途を
拓く」81ページの「成吉思汗料理のルーツを巡って語られる
鷲沢与四二や井上一葉ら新聞記者」の注(112)は、 ここ をク
リックすると、前バージョンが読めます。


 また第五章「戦争と羊」194ページの「道庁管轄となった
滝川種羊場では月寒種羊場勤務だった山田喜平技師が移管後の
初代場長を務めていた。<略>北海道ジンギスカン史では、札
幌狸小路「横綱」の試食会で喜平・真佐子夫妻が指導役を担っ
ていたことが知られる。」の注(18)は、ここ をクリックす
ると、前バージョンが読めます。


何もないはずなんです。
 文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気付きの点がありましたら、まずは
 shinhpjinpagaku(@)gmail.com 
尽波満洲男へご一報下さるようお願いします。



    参考文献

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大藤幹著「プロを目指す人の『HTML&CSSの教科書」、令和4年5月、マイナビ=原本
赤間公太郎、狩野咲、鈴木清敬著「MTML&CSS コーディングとサイト制作の教科書」、令和4年2月改訂2版、技術評論社=原本
藤川麻夕子著「HTML+CSS ワークショップ 手を動かして学ぶWebデザイン」平成29年5月、インプレス=原本
エビスコム著「作って学ぶHTML&CSS モダンコーディング」、令和3年9月、マイナビ=原本
竹内直人、竹内瑠美著「これだけで基本がしっかり身につく HTML/CSSのデザイン 1冊目の本」、令和4年5月4刷、翔泳社=原本
MANA著「1冊ですべて身につくHTML&CSSとWebデザイン」、令和6年3月2版、SBクリエイティブ