本日からの講義再開を知り、早速私の講義を聴きに来てくれた諸君が思いの外、多いので実にうれしい。いまいる全員に単位を進呈したいくらいだが、学問には厳しさがなきゃいかん。来春には試験代わりのジンギスカン料理に関するレポートを必ず出してもらうからね。
休講中の「いいわけページ」に書いたことだが、わがキャンパスのどこでもジンパをやれた時代の「現場主義のジンパ学」の講義録は、その後の学内情勢の変化に合わなくなったので、講義録の公開は止めて全面更新に取りかかりました。
しかしながら、老いた私の頭脳と体力では、残念ながら全面どころか、前バージョンの閉鎖前に公開できなかった講義録を仕上げるだけで精一杯。週2回のジム通いで足腰を鍛えても西区から市立中央図書館や豊平の札幌大学まで、かつてのように自転車でホイホイ行けなくなっちゃった。
じゃあ生成AIを使ったらいいではないかと思うでしょう。ところが、彼等の知識はウィキペディアと大差ないのです。たとえば「札幌の豊平館食堂の開設以来の経営者を教えて」とCopilotとGeminiに質問したら、どちらも初代の原田伝弥(Copilotは伝也とした)は示したが、2代目以降は豊平館全体の管理者などを挙げ、食堂の経営者は示せなかった。
札幌農学校のブルックス先生着任祝いの晩餐会のメニューにね、イモが5回も出たわけを調べたことから端を発して、2代目石垣道直、3代目金沢源太郎、4代目杉山菊次郎と知ったのだが、そこまで書いた本はないから埋め合わせとしてそういう答えになったとみます。
ただ Gemini が「第二次世界大戦後、豊平館は札幌市に移管されました。 1950年~2006年: 株式会社札幌グランドホテル」、「1950年、札幌市は豊平館を株式会社札幌グランドホテルに貸し付けました。札幌グランドホテルは、豊平館をレストランや宴会場として運営しました。2006年~現在: 株式会社札幌豊平館厨房」と答えたことは、電電か電通か電の付く会社が豊平館の管理者だった時期があったという私の記憶と異なるので、いずれ調べてみますが、こういう公的記録のない身近なことは苦手なのです。
それに彼らは満足してもらえる答えではないとわかるようで、すぐ専門家や大学の研究者に聞け、専門書を探せと指導教官みたいなことをいうから、私は怒るんだ。ジンギスカンの研究者とか専門家はいないし、それらしい本もないから自分で調べるしかないんだ、もしかするとお前さんが何か知っているかも知れないと思って尋ねたのであって、そんな助言、指導は及びでない、余計なお世話だとね。ふっふっふ。
ところで今後の講義録のことですが、休講前の講義回数の多い方を前バージョンと呼び、その目次は新バージョンのここを通って見るほか、以前同様、単に「ジンパ学」で呼び出せるようにしました。また前バージョンの講義録は全部無修正で公開するけれど「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」だけは大幅に資料を増やしたので、新バージョンに移し、この下の青い主題をクリックして開くようにしました。前バージョンの中には、いま見ると古色蒼然、シフトJISが未整備で16ピクセル角で自作した漢字、記号を使った講義録もあるが、公開時のままで書き換えていません。
それからね、新バージョンにふさわしくとHTML言語では最新の HTML Living Standard を選択したため、プログラミングの習得及び作成は予想以上に難航しました。更にできあがっても、私が望むページの姿はグーグルのクロームで読む場合だけになるとは知らなかったね。本にそんなこと書いてなかったぞと怒っても後の祭り。
マイクロソフトのエッジとモジラのファイヤーフォックスの場合、引用した書誌情報の位置ズレが生じ、特にファイヤーフォックスは字体も明朝に変わります。それで出来得れば新バージョンの講義録はクロームで読んで下さい。
それから前バージョンには閉鎖の際、講義録によってはリンクさせていた補助資料の紛失してます。丁寧に探したけど見つからないので、形だけになっていることを知っておいてほしい。
去年「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」は資料が多いので、各自引用文が読めるパソコン備え付けの教室を使い、昭和分から平成分に移るところで15分の休憩を入れて話したが、大変だった。参加したことはないが、フルマラソンを完走したらこうじゃないかと思うぐらい疲れた。家に帰ったらバッタリ、10時間寝てしまったもんね。
それで、令和7年の正月に、この再開の辞の挨拶を書き直し、新学期から昭和50年以前と以後の2回に分けて話すと予告した。そのときの全引用件数が544件だったが、その後の件数が増え、この4月15日現在で597件になっていました。それで前言通り昭和50年で分けするより、わずか7日間の昭和64年末までの393件と、今後の続きを見込んで平成元年以降の204件で区分けすることにした。その書き換え中にまた追加したから、トータルでは600件を超えたはずです。
また呼び方は昭和64年までは「明治・大正・昭和編」、平成元年以降の分は「平成・令和編」としたが、今後は当然ながら「平成・令和編」が増えるよね。ふっふっふ。
ちょっと、いや、かなりかな、脱線だが、この令和7年で我が北大は創基150年になる。それでだ、私がジン鍋アートミュージアムの顧問だから思い付いたのだが、ジンバの発祥地にふさわしくジンギスカン鍋150種の展示会を総合博物館の記念行事に加えることを提案したい。
岩見沢の鍋博物館には600枚近い鍋があり、溝口雅明館長は法学部OBだし、煙処理でジン鍋で焼く家庭の減少を憂慮し、ジン鍋なくして正統ジンギスカンなしと、鉄鍋の使用を奨励しているから賛成するに決まっておる。
問題は大学当局の認可及び鍋輸送と展示の人手だね。先般、東京同窓会が北大東京ジンパ2024を開き、798人のギネス世界記録を作ったが、あれは東京だから集まったのだ。札幌でやってご覧、200人も集まるかどうか。私は東京同窓会のエルム新聞を作ったりしたからいえるが、札幌から離れているから同窓会活動は盛んなのであって、そのころ地元札幌の同窓会は名ばかりだった。
そこで今も札幌同窓会があるなら、もし150種展示案が採用されたら、20人は集まってジン鍋運び、飾り付けなどをやり、札幌同窓会も存在していることを天下に示してもらいたいが、まず、ふざけた記念行事案だと認められないか、ハッハッハ。
新バージョンの講義録目次
尊称ジンギスカンを得たテムジンと鍋釜問題
本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた【明治・大正・昭和編】(随時追加)
本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた【平成・令和編】(随時追加)
豊平館3代目拝借人は金沢源太郎なのだ
昭和5年から猪ジンギカン招待を始めた光永電通社長
諸兄姉よ、ジンパの思い出を知らせてくれ給え 8月26日公開、異見歓迎
ジンギスカンで道内の緬羊を食べ尽くした道民
戦後の料理書に現れたジンギスカンの料理法(平成編)