新版・現場主義のジンパ学

本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた【平成・令和編】

 新年度を期として「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」の講義を2回に分けると予告してきたが、きょうはその後半、2回目の「平成・令和編」です。4月15日現在597件になっていたが、だんだん本探しが億劫というか、大儀になってきてね。今後はあまり増えないでしょう。ともあれ資料がざっと半分になったんだから、前回よりは私も楽になったはずだが、とにかくジンパあっての北大という人気をますます集めるためにも、我がジンパ学の講義はね、極めて重要な役割を担っておるのである。オホンオホン。
 ところで昭和の後半あたりから、シンギスカンという料理とその食べ方が広く知られるようになってきてたせいか、そうした説明が少なくなった代わり、食べる過程での会話量が多くなったと感じてます。それに書き手は平仮名好きなのか漢字を使わないから字数が増え、さらに発言毎に改行するから行数も増え、一見長く引用した感じになるので、いささか私は気にしているんだ。それはさておき、引用文が読めないモニターあるかな。
 はい、始めます。昭和64年に続く平成元年の(1)は、確かに元年発行ではあるが、中身は20年前の本です。出版社は「『講座日本風俗史』の新装について」で「内容はまったく同じである。ちなみに旧版の発行日は昭和三十四年八月二十五日である。また執筆者は次のとおりであり、当時も一流の執筆者である。肩書きも当時のままであることを付け加えておきたい。」(1)と弁解している。
 引用した「ジンギスカン料理のいわれ」を書いたのは餌取秀樹だが、屠殺方法は糧秣本荘廠の主計中佐川島四郎が昭和13年の「糧友」に「蒙古人の羊の屠殺要領は簡にして要を得てゐるので、現地物資利用上の参考に掲載することゝせり。」(2)として写真9枚とその説明からなる「蒙古人の羊の屠殺要領」と、その詳細説明である同年11月号の「栄養学上から見たる蒙古FOOD記」を下敷きにしたことは明らかだね。
 日本交通公社案内記編集長だった餌取は「羊を車にしばり、道中しながら、のどに長刀をつきつけ血をまず抜いてしまう。」と書いたが、川島の記事は「車の上に羊の脚を縛つて横に寝かして置」き「頸動脈を切り」車を進める。それで「切られた羊の頭が車の外に垂れてゆられて完全に血が抜ける」(3)です。私なんか最初「車にしばり」は、車輪に縛り付けると受け取ったもんね。
 (2)は「暮しの手帖」の読者投稿ページ「家庭学校教室」に採用された嘆きの声です。同教室は「『お前はまず第一に妻であり母親なのだ』『…何よりも第一に、私は一個の人間です。あなたと同じように……』このセリフが書かれたのは一八七九年でした。」というイプセンの「人形の家」の台詞を入れて生徒を募集していました。「妻母親に限らず振るってどうぞ。」ともあるので、ではではと質実剛健派の祖父さんが一筆書き送ったらしい。
 (3)はちょっと問題ありだが、田辺聖子の「姥うかれ」です。というのはだね、本当は昭和62年に出た本ですが、私が買ったのは平成1年7月発行の第3刷だったので、平成元年本としてここに並べました。
平成元年
(1) ジンギスカン料理のいわれ
       講座執筆者  俳人       長谷川浪々子
              教育大学助教授  西山松之助
              豆相史談会    鳥羽山瀚
              文学博士     大島延太郎
              教育大学     渡辺一郎
              法学博士     滝川政次郎
              近世社会風俗研究 田村栄太郎
              近世庶民風俗研究 中野栄三
              日本交通公社   餌取秀樹
              文部省史料館   遠藤武
              郵政審議会    三井高陽

 ジンギスカン料理のいわれ 最近は新劇や、映画でじ
んぎす汗物語というのがはやっている。もとよりこれは
蒙古の大偉人成吉思汗のことだ。本篇には、成吉思汗と
は関係がないが、動く道中食糧を歴史から説くには、成
吉思汗に登場してもらわないと、日本にはかかる豪壮な
道中食糧が見当らない。成吉思汗は各国を征服する為、
遠征軍と一緒に緬洋<原文通り>の大群を引きつれて、アジアを一蹴
した。将兵は 羊の肉を常食とし、野天で大平原を見な
がら、血祭りにあげた 羊を食べる。豪快な道中食糧の
雄である。
 彼等が、かぶっているカブトの上で、やいたものが、
今、日本でも流行している成吉思汗料理である。勿論日
本で売られている料理は、あらゆる調味料をまぜ合せ、
くさみの完全に消える香辛もいれ、たべ易くしているが
屋根の下では感じが出ない。蒙古では犠牲にすべき緬羊
を車にしばり、道中しながら、のどに長刀をつきつけ血
をまず抜いてしまう。駐屯する頃には、血が全部なくな
った緬羊になっている。これの皮を直ちにはがし肉をと
る。厳寒の頃には、羊皮はすぐ凍ってしまう。腐る心配
もない。<略>

(2) かわいいマゴとバアさんにアイソづかし
           E(ABC順並びで5番目)
           
 近くに住む孫をサイクリングに
誘った。
 観光地にカーで行き、野外ジン
ギスカンを食べることが自然との
ふれあいと思っている孫に、造成
されたのでない原野で、草木の名
や遠望の地名を教えてやった。
 ところが、ちっとも関心を示さ
ない。スニーカーのよごれを気に
しているので、たずねたら、ブラ
ンド物のなんとかで、よごれたら
クリーニングに出すという。足の
先から頭のてっぺんまで、ブラン
ド物だといい、その知識のくわし
いこと。
 「おじいちゃんのは、在職時代
の古ズボン、ディスカウントショ
ップのスニーカーだ」
 といって動じない。
 帰宅して、おばあちゃんに、
 「あいつは、自然不感症でブラ
ンド敏感症、もう、連れて行くの
はご免だ」
 と云うと、
 「ママがいうには、おじいちゃ
んはなんも買ってくれなかった。
スニーカーをクリーニングに出し
てくれっていわれたそうよ」
 えいっ、いったい、どっちの味
方だ。(E)

(3) 姥けなげ
           田辺聖子

<略> ほどなく山頂に着く。いっぺんに気温が下り、山頂は早い秋であった。木々に囲まれたホテルの庭園にジンギスカンの台が幾つもある。休日のせいか、客はかなり多いようである。
 フェンスの彼方、緑の梢越しに、アルミ片のきらきらした市街が見え、海が見える。
 それを楽しみつつ、神戸牛や野菜をジンギスカン鍋で焼こうという趣向である。
 あちこちで煙が盛大に流れ、早秋の空へたちのぼる。
「伯父さん、ぼく、沢山ようけ食べるけど、かまいませんか」
 ノボルが顔を輝かせていう。
「おお、なんぼでもお上り」
 と長男はいい、
「何人前でも追加できるねんから」
 嫁も言葉を添える。長男はビールをノボルについでやるが、
「ビールより、めしがいいです」
 そんなことをいって肉の焼けるのを待ちかねているノボルの顔を見れば、とても親爺さんに「死ね!」なんていうように見えない。笑うとみそっ歯が出て、一層、幼い。焼けた肉を頬張りながら、
「ケンちゃんも来たらよかったのに」
 と長男の息子のことをいう。
「大学生になったら、もう親について来よらへん」
 長男がいうのへ、嫁が要らざる言葉を添える。
「ノボルちゃんも来年はがんばらないと」
 食事をしているときに、叱咤激励しなくてもいいのに。私はノボルが今にも「死ね!」といわないかと心配したが、美味なご馳走に満足したのか、「うん」と素直にいって食べつづけている。相手と環境によっては、若者は、ころっとかわるものであるらしい。<略>
 平成2年は8冊あります。その(1)は漱石の孫のエッセイスト夏目房之介が「現代」編集部から鍋論の注文を受け、同編集部のタケナカ君と共に「家族的ダンラン、郷土的ヌクモリと鍋の関係とは……。秋田で〝しょっつる〟を前にして考えた」報告です。570字枠のために「新宿とか池袋とか、田舎者のあつまる繁華街のネオンに氾濫するナントカ鍋! そういう街を小型にしたような赤ちょうちん横丁をいろどるカントカ鍋! あれらの鍋群はみんな〝都会の中のフルサト〟を標榜しておるわけね。会社とラッシュと不倫で疲れたおじさんが、つい『無礼講、無礼講!』などと叫んでしまい、その実きっちり中間管理職による部下懐柔の場だったりする郷土料理屋。地方出身の学生達が合コンなどと称して人恋しさやウサや下心を煮こんだりするのが、そういった場所の鍋なのである。」(4)といった独自の視点を大幅カットせざるを得ませんでした。
 (2)は芥川賞作家高橋揆一郎の「じねんじょ」です。国後島を正面に望む漁業と農業のまち庶別町の山中にある川上温泉という元町営の露天温泉の管理人として、横浜に住む75歳の梅岡礼吉がワゴン車できて、5月から9月末まで滞在する。
 4年目となる今回も礼吉は、まず同温泉愛好会の大山会長宅の納屋から前年預けた発電機、冷蔵庫はじめ様々な生活道具を取り出し管理人小屋へ運ぶ。男女別の浴槽を掃除など今夜は飯を炊く余裕がなかろうと大山夫人差し入れの弁当を礼吉はカラーテレビを見ながら食べた。
 引用した箇所は、その翌日の夕方、大山夫妻、義弟夫婦2組の6人が開いた礼吉の歓迎宴の様子からです。
 (3)は文学者の渋沢龍彦が俳人であり評論家でもあった加藤郁乎とジンギスカンを食べに行き、鍋を掛ける焜炉へのガス漏れで青くなったという危機一髪みたいな話です。原本は加藤が書いた「後方見聞録」の「渋沢龍彦の巻」で、それによると加藤が渋沢と初めて会ったのは昭和37年で加藤の句集「えくとぷらすま」の出版記念会のときで、引用した二次会はその続きのことなのです。以来、加藤は渋沢と親しくなり、鎌倉の渋沢宅に数日泊まり、酒を飲みながら語り合った情景を伝えています。
 (4)は「こどもと暮らすインテリア術」、「ひきこもり支援ガイド」などを書いた奈浦なほさんが、結婚して東京から札幌に移住して、その違いをたくさん並べた中の一部です。「結婚祝いに親からファックスを買ってもらった。札幌ですぐ生活費を稼げるはずもなかったので、東京の仕事をそのまま持ってきたのだ。それにファックスを使って『地方』で仕事をするなんて、ちょっとカッコイイかもしんないとも思った。」(5)ともあるから、時代を先取りしていたことになります。
 (5)は第22代日本銀行総裁だった佐々木直の追悼録からです。忘年会のジンパ会場として湯島の緬羊会館の名前がありますが、同会館のジンギスカン料理店は昭和39年に開店、同56年に会館改築のため1年休み翌57年に新会館で再開しているので、直さんがずっと通して顔出ししていたのでしょう。
 (6)は水産庁などで多年鯨研究に携わった須賀敬三農学博士が書いた「捕鯨盛衰記」にある羊肉ならぬ鯨肉を焼く鯨ジンギスカンの話です。鯨のジンギスカンは未経験だが、焼けば脂が飛び散るというのだから羊肉同様にいけるでしょう。
 (7)は「地震学会ニュースレター」という正真正銘、学術雑誌からです。これには「ジンギスカンパーティーとは」という説明はない。そこで読み比べてもらいたいのは、このずっと前、昭和41年分にある土木学会の総会記録だ。それでは「ジンギスカン料理というのは,コンロの炭火の上に鉄板をのせ,その上で,羊の肉をジュージュー焼きながら,タレ汁をつけながら食べる」(6)と説明している。つまりそれから30年後、この「地震学会ニュース」の読者は、皆ジンギスカンを知っているという前提で遠藤氏は書いている。ジンギスカンはこの30年でそれぐらい広く普及したと言えます。
 そこです、料理としては知られるようにはなったけど、烤羊肉からジンギスカンに至る歴史、調理及び器具の変遷は知られていない。それらを調べ、わかったことを公開しているのは、オホン、我がジンパ学のみと申しても過言ではないのである。勝手にやっているだけといわれれば、それまでだが、まあ、この際、いっておこう。
 (8)は作家藤本義一の「家出旅」です。中学生時代、彼は結構なワルで、仲間2人と米軍宿舎でピストルを盗んだ。先輩がそれを使って強盗を働き、捕まった。盗んだ藤本たちは逮捕されると沖縄で重労働という噂を聞き、各自隠れることになり、藤本は北海道に来て函館で泊まった。雑誌「現代」の企画でその時の旅館探しをしたという半ば思い出の記です。
 44年前となると、昭和21年か22年前、青函連絡船に乗るときDDTを浴びせられ、浮遊機雷にヒヤヒヤしながら運航していたころじゃないかな。先輩がピストルは俺が盗んだとかぶってくれたか、とにかく藤本たちは少年院行きにならずに済んだようです。
 (9)はワンマン宰相といわれた吉田茂を巡る5つの挿話の3つ目、旧満洲を支配していた軍閥張作霖の豪華晩餐に招かれ、しきたりを無視して、張を憤激させようとしたことがあるというのです。ただ、この「スピーチのねた」の筆者の名前がないので、羊肉料理だけでも60種以上はともかく、烤羊肉は怪しいね。ふっふっふ。
平成2年
(1) 鍋と愛を煮つめて
           夏目房之介

 鍋は愛である。厳しい現代社会の風圧をかわして身を寄
せる家庭のダンランを求めて、また砂漠化の進む都会でお
互いのフルサトへの想いを慰めんとして、あるいは管理社
会に傷ついた心にヌクモリを欲して、われわれは無意識に
鍋の愛を求めている。<略>
 あなたは郷土料理というとやたらとナントカ鍋であるこ
とに疑問を持ったことはないだろうか?
「そういえば多いですね。有名なところで石狩鍋、ジンギ
スカン鍋、あんこう鍋、ふぐ鍋。さくら鍋、スッポン鍋に
鯛ちりもいいなー……」
 それ、ああたが食べたいものを並べてないか? 何しろ
フグ鍋もスッポン鍋も食べたことがないヒトだからなー。
「だって去年まで学生ですからねー、はふはふ、ンー、た
らもおいひいでふねー、はひ」
「いずれにせよ日本国民の食思想を支配する鍋のダンラン、
フルサト、ヌクモリという象徴作用の強力さには注目すべ
きものがあるね」
「僕の調べたところでは、煮ている鍋から食べる料理は十
八世紀頃からあるようですけど、各地に名物鍋がどっとふ
えるのは明治以降みたいです。あの寄せ鍋だってルーツは
中国で大正の初めに渡来したらしいし、ジンギスカン鍋も
同じ頃の日本人の創作鍋だし」
「だからこの貝焼きも、ひょっとしたら〝郷土料理なら鍋
だべ〟思想に汚染されて鍋化されたのかもしれない」

(2) じねんじょ
           高橋揆一郎

<略> 礼吉が湯元の高みまで見回り、あらためてホースの加減
を調整し、入浴の注意事項を誌した看板をきれいに拭きあ
げ、沢水にころげ落ちた石をとり除いたりする間に、二人
はもの静かに湯から出たり入ったりして夕方近く、ありが
とうさんでした、よろしく頼みますといって帰っていっ
た。
 入れかわりにトラックの重々しいエンジン音がして、大
山農場の若者二人が休憩所用の折り畳み式のテーブルや椅
子を運んできた。
 続く乗用車で大山会長夫婦とその義弟夫婦の四人連れ
が、礼吉の歓迎宴だといってジンギスカン料理一式を持ち
込み、静まり返っていた山峡の湯治場は急ににぎやかにな
った。
 一行六人が思い思いに湯に入り、日が傾くころにはテン
トの横にビニールの敷物が敷かれてジンギスカン鍋に火が
入った。暮れなずむ空に羊を焼く煙が立ちのぼり、いい
匂いが漂う。
 ――毎年同じことをいうようだが、梅岡のじいちゃんは
救世主といっしょだとおれは思ってるんだ。どこからとも
なく現れてこの温泉の守り神になったんだからね。並みの
人じゃないね。
 会長の細君が、毎年雪どけ時期になるとことしはきても
らえないのではないかと、みんなでびくびくしてもう四年
め、やっぱりこうしてきてくださるんだから手を合わせて
拝みたくもなるよと、義妹という人とうなずきあってい
る。
 会長の音頭でビールのグラスをあげて乾杯したあとも話
題はしばらくそこに集中する。酒の飲めぬ礼吉は恐縮して
聞くばかりである。<略>

(3) 後方見聞録――澁澤龍彦の巻
           加藤郁乎

<略>二次会に行く途中、神楽坂の坂道を彼と肩を並べて歩きながら、私は鎌倉から飛来してくれた美貌のエンジェルの翼をもぎ取って隠してしまいたいような、ホモ的な気分にひたっていた。二次会場のジンギスカン料理屋でサシで飲みはじめたところ、ゴム管の上に坐っていたらしく、ガス漏れで深夜の思想家渋澤龍彦の蒼白な顔がさらに青白くなるという一幕があった。彼は殺気立つ気配などいささかも示さずに、苦笑しながらパイプの頭を叩いて言った。「あんた、僕を殺したいんでしょう」そして、じーっと私の顔を覗き込むようにして呟いた、「この顔は写楽だ!」以来、彼から示された決定的な友情の始まりを記念して、シャラクセイエフ・イクヤーノフなどと名乗ったりしている。

(4) 北海道≠東京の反対語
           奈浦なほ

<略> ビールといえばサッポロビール。ジンギスカンといえば、ラム肉を
買うと肉屋でジンギスカン用の七厘を貸してくれる。花見といったら
ジンギスカンなんである。ラム肉はどこの肉屋、どこのスーパーでも
売っている。
 季節になるとキノコ類が豊富で値段も安いが、毎年キノコ狩りで年
寄りが何人か必ず行方不明で死ぬ。
 ごはんを盛るしゃもじをヘラといい、お味噌汁をよそうおたまを
しゃもじという。
 中華まんじゅうといえば、肉まんやあんまんは関係なく、大きなど
ら焼きを三日月形にしたお菓子をさす。端午の節句には柏餅でなく「べ
こ餅」という米の粉でつくられたお菓子を食べる。
 いもの煮っころがしといえば、サトイモでなくジャガイモの煮っこ
ろがし。
 鳥の唐揚げを「ザンギ」と呼ぶ。
 ヤクルトやヨークより「カツゲン」。漢字で書くと活源となるのだ
ろうか。「ナポリン」という名のジュースもある。奈浦なほとしては
親しみを感じる。<略>

(5) 月曜クラブと直さん
           小林庄一

 月曜クラブという、一二〇人くらいの会員が毎月集まって懇談を重ねている会合がある。始まってからもう約三〇年になる。佐々木直参は、亡くなられるまでの約五年間、この会の事実上の会長であった。<略>
 やはり月曜クラブの会員で、群馬県の沼田の奥の大地主で、千明康という人がいた。奥日光で丸沼温泉ホテルを経営しており、かつては毎年秋に、会員が大挙して慰安旅行に訪れた。直さんも一度や二度は参加されたはずであるが、なにしろ大勢で深夜まで大騒ぎだったから、はっきりとした記憶がない。それよりも同じ千明さん主催の忘年会が毎年、湯島の緬羊会館でジンギス汗鍋を囲んで催されたが、これにはたいてい直さんの姿があった。これらの会合には、橋爪や千明が日頃ひいきにしていた飲み屋の女の子たちも大勢加わって、今思えば随分と華やかなものであった。<略>

(6) 鯨食文化
           奈須敬二

<略> ちょっと変わった食べ方では、成吉思汗鍋もどきの鯨吉思汗焼があげられよう。油が飛び散るため、子供のようにあてがわれたヨダレ掛けに、皆大はしゃぎであった。成吉思汗鍋と全く同じ鍋にのせたラードが溶けるのを待ち、タレを付けてジュージューと軽く焼いた鯨肉の味は絶品で、友人たちの人気を集めた。彼らもまた佐香さんと同じように、「こんなにおいしい鯨の肉が食べられなくなる日が本当に来るのか」という問いに重ねて、「そのような日のこないようにすることはできないのか」というのが、友人たちから異句同音に発せられた筆者への質問であった。<略>
 さて、鯨の肉は安価で栄養が豊富であるということから、広く一般家庭の食卓を賑わした時代があった。そのような食生活も、商業捕鯨が全面禁止という事態になってからは遠い過去の存在となったことは寂しい。しかし、鯨肉の家庭料理も記録に残しておくとことは、あながち無意味ではなかろう。

(7) ジンギスカンパーティーの成功
           遠藤政男

 去る10月2日~4日,北海道大学学術交流会館
において1990年度地震学会秋季大会が盛大に開催
されました.ご存じの方も多いかと思いますが,そ
の最終日の10月4日に私を中心とした北海道大学
理学部地球物理学教室の学生主催による〝学生によ
る学生のための〟ジンギスカンパーティーが開催さ
れました.この模様をこの場をお借りしてご報告い
たします.
 もともとこの企画は,前回地震学会が北海道で開
催されたときに同じ様なことが行われたということ
を耳にした宴会好きの私が「それでは」と軽い腰を
上げて企画したものなのです.
 当日をむかえるまではどのくらいの人数が集まる
のか見当も付かなかったのですが,いざふたを開け
てみると,他大学(北大以外)から56名(これは用
意していたチケットの枚数をはるかに越えるもので
した).北大側から21名,松尾さんや事務の方々8
名,その他飛び入り数名を含めたおよそ90名の
方々が北大・地球物理学教室の前庭に集結したので
す(さすがにこれは予想外の人数でした).
 前半は皆さんジンギスカン(半分は牛肉)をつつ
いたり,酒を飲んだりと各々の七輪(しちりん)で
盛り上がっていましたが,後半は各大学のかくし芸
大会へと発展していきました.私も半年ぶりに〝ア
フリカ〟と〝17歳〟という芸(中身は出席された方
にでも聞いてください)を披露させていただきまし
た.3時間にも及ぶこのパーティーは予想以上の大
成功に終わったわけです.<略>

(8) 十四歳・家出旅
           藤本義一

<略> 四十四年前の家出コースをたどってみよう
というのが、今回の旅である。
 思い出たどれば、まずは北陸路を走る鈍行
の窓から見た日本海の黒っぽい海。青森は浅
虫に一泊して、翌日は青函連絡船で函館に上
陸し、ジンギスカンなるものをはじめて口に
した感動。そして函館のはじめての宿がアサ
ヒヤかアサヒカンであったこと。二階の小さ
な部屋で寝た記憶。宿帳には逃亡者だから偽
名を書いたという思い出といったところで、
さて、このアサヒヤかアサヒカンを捜し出そ
うということになった。通路に面していたが、
少し奥まっていた宿だった。入口の右手に階
段があった。が、そのアサヒが〝朝日〟か〝旭〟
か。それとも〝 あさひ〟なのか判然としな
い。
 が、あったのだ。〝旭屋〟があった。で、飛
び込んでみると、美人の女将さんがお出まし
になり、二十五年前に嫁いできましたので、
四十四年前はなかったのではないかという答
え。がっかりして、次にストリップ劇場を捜
しに行くと、そこには雑草が生えているばか
り。函館山に登って見渡してみたが、なんの
記憶も蘇ってこない。四十四年前には、たし
か函館山の山腹には穴ポコが開いていたと地
元の運転手氏にいうと、
「ああ、当時はまだ軍の火薬庫の名残りがあ
ったアーね」という。
 そこでジンギスカンを食い、もう一度〝旭
屋〟に立寄ると、さくらももこさんのような
女性が出てきて、
「あれから、奥さんとなにかと話し合ってわ
かったんですが、四十四年前はオバアチャン
が〝旭屋〟という旅館をやってなさったよう
です」<略>

(9) 吉田茂が湯豆腐が好きで、
   荒畑寒村がヒジキを食べなかった理由
           文芸春秋

<略> ただ、吉田は百戦錬磨の外交官でもあっ
    たから、すさまじいこともやった。
 奉天総領事として中国にいたとき、のちに
関東軍によって爆殺された軍閥の張作霖から
晩餐に招待された。羊肉の料理だけでも六十
種類が出されるという豪華な食事だったが、
吉田はとうとう一口を食べなかった。招待に
応じておきながら、こんな失礼な話はない。
張作霖の面目は丸つぶれである。
 こうした振る舞いに及んだ理由を訊ねられ
た吉田はたった一言、「汚いからだ」と答え
た。中国の宴会では、まず主人が料理に箸を
つけ、それから同じ箸で客に料理を取り分け
るのが習慣である。吉田はそれがいやだった
というのだ。
 しかし、これはどう考えても詭弁だ。外交
官として中国勤務が長かった吉田が、中国の
宴会のしきたりを知らないわけがない。それ
を熟知したうえで招待に応じたのだから、吉
田はあきらかに意図的に無礼をはたらき、張
作霖を挑発したのである。
 平成3年の(1)は、題名のサフォークはどこへ行ったと言われても仕方がないくらい短縮させてもらった北海学園企画調査室の佐藤正之氏の「北国の経済学 サフォークの挑戦」からです。
 「1999年の干支がヒツジだったこともあって、年末から正月にかけて、新聞紙上やテレビにヒツジがしばしば登場した。」としてサフォーク種を紹介。東京の通勤圏にある神奈川県秦野市農協のサフォーク導入を取り上げ、こうした首都圏のサフォークに比して「物流コストが割高になる」道産サフォークのハンディ克復には品質改良とともに「ジンギスカン以降の『風土にとけこんだ食文化』を北海道でいかに定着させて、これまで以上に育てるかの視点がぜひ必要だと思う。」と結んでいます。
 同(2)は、このところ坊さんみたいなことを書いている作家五木寛之が書いた「海外に飛びだした三人組が、マカオ・グランプリとインドの南十字星団に挑む痛快小説。(7)」だそうです。なにしろ20冊以上のシリーズなので付き合いきれません。愛読者のブログなどからすると、竜さんはプロのドライバー、おれといっているジローは車マニアの青年、ミハルは美容師だそうで、ジンギスカンが出るのは札幌のサッポロビール園で食べるところだけのようです。
 (3)は嵯峨島昭の本「ラーメン殺人事件」の中の「第六話 ジンギスカン料理殺人事件」です。読むと犯人逮捕より北海道流の焼き方を教えるために書いたという感じがします。テレビ撮影班が入った店は石狩市のペケレット湖園となっているが、焼き方はどこの店でもタマネギを敷いて肉を乗せると給仕の女性にいわせ、肉の上に野菜でなく野菜の上に肉が北海道流なんだと吉田プロデューサーに認めさせ、強調してます。
 私はどこの店でも「野菜の湯気で蒸され」た肉を食べさせるとは思いませんね。ウィキぺディアの写真も野菜の上に乗せているが、長年あのまま掲載されてきたのは、焼き方の一例としてであり、皆がそうするわけではない。
 ジンギスカン焼きともいうように、脂身で焼き面に脂を塗り、羊肉は直に焼き面に乗せ、同時に野菜も並べるのが普通で、野菜の湯気で蒸し焼きにするようにと書いたレシピはないはずです。
 それから嵯峨島は札幌出身の芥川賞作家の宇野鴻一郎の別名です。「ジンギスカン殺人事件」という中津文彦が書いた本もあるので、読みたいと思った人は間違えないように。
 (4)は永く札幌鉄道病院の皮膚科医長を務め、のち札幌皮膚科クリニック院長に転じた高島巖氏の随筆集「これでも医者だどさ」からです。北大医学部OBの同氏は学生時代からジンギスカンを食べに薄野へ出掛け「昭和二十三年のころだと思うが、マトンだのラムだのという英語が定着していなかった時代、札幌で羊肉を買えるのは雪印の肉売り場だけであった。そして二歳のオスがうまいとわれていたが、当時もう今のようなスタイルの焼き鍋があったかどうか定かでない。」と豪語するくらいの古強者です。
 函館生まれの同氏は「食いしんぼう人生」の部の「朝の朝イカ」で「イカ刺しは、ご飯にぶっかけてかっこむものだから、昔から素麺のように細く切るものであって、イカソーメンという特別なものがあったわけではない。」と書いているが、私もその説には異議なし賛成だ。
 (5)は国鉄の技術研究誌「RRR」からです。書いたのは国鉄技術研究所車両研究部長だった三品勝暉氏。同氏はJRの車両解説の本を書いており、それらの著者紹介によれば、昭和35年国鉄入社、中央鉄道学園で1年間研修の後、札幌鉄道管理局苗穂工場に配属されてからの苦労話です。
 部品の磨耗修正の要不要を巡り古手工員組と対立、夕方工場寮に来いと言われる。殴られる覚悟で部屋に入ると、こわいオジサン達がトグロを巻いて生ビールの樽をまん中におき、もう酒盛りをはじめており、三品氏にウィスキーをたっぷり入れたビールの大ジョッキを飲めという。一気飲みしたら親玉級のオジサンが「今まで悪かったな、今日から仲良くしようや」といわれ、それからは失敗も皆に助けてもらえるようになった。「このときの体験が、その後の私にとってどれほど役立ったか判からない。」(8)と感謝している。
 (6)は若手社長の交友談ですが、ご両人が食べたアイスランド産羊肉は調べたことがなかったので、チャットGTPの「AIアシスタント」に尋ねたら要旨「アイスランドの厳しい自然環境の中で育つため独特の風味と質感があり、同国では「ハルダル(Hákarl)」という発酵させた羊肉やスモークされた羊肉が好まれる。価格は年によって異なるが、2020年代初頭は1キロ約2000~3000アイスランドクローナ(約2000〜3000円)で取引されることが一般的でした。」と答えました。
平成3年
(1) 北海道のヒツジ
           佐藤正之

■北海道のヒツジ
<略> そもそも、ジンギスカン料理が、
札幌で話題になりだしたのは
1935(昭和10)年ごろ、羊毛生産の
役目を終えたヒツジの肉の有効利用
策だったという。それがいつ、北海
道の名物料理になったのか。少なく
とも、1966年にオープンしたサッポ
ロビール園が、食べるという意味で、
消費拡大に寄与したことは疑いない
ところであろう。<略>
 ところが、ヒツジの飼養頭数は、
羊毛の輸入自由化や化学繊維の普及
によって、1976年にはなんと1万頭
にまで減ってしまった。その一方で、
北海道におけるジンギスカンの名声
はますます高まる。需給の帳尻が合
っていたのは、毛用種の食いつぶし
とオーストラリア、ニュージーラン
ドからの羊肉の輸入の増大があった
からである。<略>
 北海道という風土がジンギスカン
を育てたといってよい。大衆に支持
されて消費が拡大した。それととも
に、各種の香辛料を混ぜ合わせたタ
レの考案が背景にあったことは記憶
されてよい。
■サフォーク種のセールスポイント
<略> いまではラムのステーキやシャブ
シャブ、略してラムシャブも、なか
なかの人気である。観光客も名物と
いうことで、胃袋を羊肉に開放する。
 士別市では、いま「サフォークラ
ンド」の創出を、まちづくり運動のキ
ャッチフレーズにしている。<略>

(2) 速度無制限の国へ行きたい
               五木寛之

<略> うまそうな匂いがただよっている。
 じゅうじゅうと肉の焦げる匂いもする。
 おれたちはサッポロ・ビール園のジンギスカン鍋をかこんで、肉が焼けるのを待っていた。
 支笏湖でジンギスカンの隠された宝の発見に失敗したおれたちは、これから身のふりかたを考えるために、ここへ集まったのである。
「もう焼けたんじゃないか」
と、竜さん。
「もうすこしよ。ジンギスカン鍋はよく焼いたほうがおいしいのよ」
 ミハルが竜さんの箸をおさえて言った。
 そのうちようやく、鍋の上で肉や野菜が焼けてきた。
 ジンギスカン鍋はおれの大好物だ。
 羊の肉は牛肉とちがって、いくら食べても飽きることがない。
 それにリンゴの香りのするたれはさっぱりしていて、内地ではあじわえない味覚である。
「なあ、ジロー」
と、竜さんがビールの泡を口につけながら、おれに言った。
「なんですか」
「おれは考えたんだが、九州から北海道まで歩き回ったんだ。今度はどっか国外へ出るというのはどうだろう」
「国外へ?」<略>

(3) ジンギスカン料理殺人事件
           嵯峨島昭

<略> お運びの少女が、アルミ盆にうす切りの羊肉、玉ネギ、ジャガイモを盛って運ぶ。なくなると、どんどん追加を配る。茹でたトウモロコシや握り飯も配る。全員のノドがゴクリと鳴った。
「カメラ、もう用意しといてよ」
 と菊川ディレクターが言った。
「配られたら、まず肉を焼く。ジュウとうす青い煙が出るところをカメラにおさめたい。肉にまず焦げ目をつけて、肉汁を封じこめるんだ。それから、上に野菜をのせて、肉をむし焼きにするんだ」と吉田プロデューサー。
 お運びさんがテーブルに来た。まず熱したジンギスカン鍋に玉ネギをのせ、その上に肉をのせる。
「あっ、まず肉の焦げる煙を撮ろうと思ったのに……これが北海道風なの?」と吉田プロデューサー。
「はい、どこでも、そうしてますよ」とお運びの娘。
「そうか……北海道はボク、はじめてなので知らなかったよ。じゃ、ここは北海道流で撮影しよう。ウソの画面を作るのは、いけないからな」
 うす切りの丸い、柔らかそうな仔羊肉は、野菜の湯気で蒸されて、みるみる灰色に変わってゆく。まだ半生なのに、みな争って箸をのばした。
 西郷は、ジンギスカン鍋のフチの、脂がたまってジュワジュウいっている部分の鉄板に肉を押しつけて、ちょっと焦げ目をつけた。その端をタレにつけて、口にほうりこむ。
「ハフッ……うま、うまい。ああ、肉汁が口の中にあふれる……いい味だ。<略>

(4) 成吉思汗
           高島巌

<略> すすきのに生肉の炭焼きを売り物にした古い成吉思汗屋・だるまがある。昭和二十九年開店ということだが、学生時代から何人か連れ立って行っても、いつも満員で入れたタメシがない。それがこの頃、毎週通う韓国語学校の帰り、八時半頃その前を通るとしばしば空いているときにぶつかる。そうすると腹が空いていようがいなかろうが、肉の食いたい日であろうがなかろうが、入らなきゃ損とばかりついつい反射的に入ってしまう。
 右も左もみな生肉・炭焼きの成吉思汗屋なのに、客の混んでいるのはこの店だけである。しかし、さすがに生肉はうまい。ここの味を覚えたら市販の冷凍肉など見向きもしたくなくなる。聞くともなしに耳に入ってくるところによると、人手を増やして早番、遅番の二交代制にして仕入れ量を増し、コスト高の長葱一本やりを玉葱と半々にして今に至っているという。おかげで十二時近くでも売り切れということがなくなくなった。
 この店が開店したての頃、札幌でも成吉思汗を食べられる人は少なかったという。先の朝日百科によると、北海道で初めて羊肉を食ったのは昭和の初めで、どうも滝川の種羊場の職員が初めであったようである。成吉思汗という名も、ガクのある獣医さんあたりが命名したものではなかろうか。
 先年定年退職された北大癌研の小林教授のお話を聞く機会があった。話題は癌予防医学のことだが、発癌性突然変異惹起物質の最たるものが、脂身の混じった獣肉のコゲであるという。先生、「よく成吉思汗なんか食べるものだ」とおっしゃった。サーテお立ち合い、どうなさる。私のような年になってイソイソとだるまの門をくぐるとは、これでも医者だどさといわれても仕方あるまい。

(5) 想い遙かに
           三品勝暉

<略> さて,いよいよ苗穂工場機関車職場へ赴任した。主棟のなかには
C51,D50,D51等々私の好きな蒸気機関車がごろごろしている。気
の遠くなる程の興奮をおぼえ,しみじみと苗場が配属されたことを
幸福だと思った。早速,入検実習に入ることになったが,これが地
獄のはじまりであった。煙室,火室内でまっ黒になるのは当然とし
て我慢できるのだが主台枠のボルトゆるみを検査していると直径50
mmはあろうかと思われるようなボルトが次々に私めかけて投げられ
る。同じ下まわりに何人もの人がむらがっているのだけれど何故かボルト
類は私の所へしか飛んでこない。何の前ぶれもなく私のそばでクロスヘッドが滑
り棒からたたき落とされる。こちらもぼんやりしていたかもしれないが,どうも
私に対するいやがらせ,いじめじゃないかと思いたくなる。そういえば誰もろく
に口もきいてもくれない。折角蒸気機関車に接していながら,すっかり気持ちは
暗くなってしまった。おまけに独身寮が言語に絶するひどさで,私の入る前に自
殺者が出、入っている間に精神状態のおかしくなった奴が出、私が出た後には放
火する奴が出る程すさみきっていた。更に,悪のたまり場が3ヶ所あり、泥棒,
恐喝,夜中に女を連れ込む等,無茶苦茶な状態だ。とてもこんな寮からはろくな
労働力は生まれないと考え,思いきって事務次長に話したら「それなら君が自治
会長をやって少しでもよくしてみろ」と云われてしまった。何人かの良識を持っ
た年長者の協力を得,まず寮の草抜きをしてみることにしたが,女とジンギスカ
ンの煙を上げている奴もいたりして,とても草抜きなどをする雰囲気にない。後
に事務次長が私の身辺をひそかに調査するくらいに,思想家との徹底的につき合
い,議論もしたが,寮の改善などちっともすすまない。半分麦の入ったメシでは
すぐ腹もへるので,毎晩駅前でジンギスカンを喰い焼酎を飲みながら夜行列車の
ドラフトをきくのが唯一の楽しみとなってしまった。<略>

(6) ゆかいな仲間
           小宮山義孝

 出会いは二十数年ほど前になるのだが、ここ五、六年、親しくしていただいたのが、北海道の地崎工業社長地崎昭宇さん。昭和十九年生まれの同い年ということもあって、話のはずむの友人である。<略>
 彼は小唄などもたしなむが、囲碁にいたっては四段の腕前。とてもかなうわけはないのだが、すすめられるままに囲碁に取り組みはじめた。年を取ってから役に立つのでは……と始めたが、頭の体操にもなるし、手軽に楽しめるところが気に入っている。
 そのうえ食通ときているから、北海道行きも、一段と楽しいさを増す。この間も「札幌ジンギスカン」という店に連れて行ってもらったが、ここの羊は最高だった。アイスランドからの輸入肉で、くさみがほとんどない。なんでも、ここの羊は、海草を食べているそうで、それが肉を上質なものにしているのだろう。また、ポートワインの収集家としても地崎さんは知られている。年代もののポートワインともなれば、実に芳醇な味わいで、口の中に豊かな甘さが広がる。
 <略>
 平成4年の(1)は「月刊しにか」3月号からです。引用した「森の都――北京」の筆者安保久武という人物はどこかに登場させた覚えがあり、検索したら前バージョンの「北京を訪れた人々の記憶に残る正陽楼」で見せた7枚の組み写真を撮った毎日新聞の記者でした。
 正陽楼は昭和17年に閉店したため、同店で働いていた烤羊肉を刻む職人、コンロに薪をくべる給仕、さらに細長い鉄板を並べた鍋を囲んで食べる人々など貴重な写真ですから、初めてこの講義録を読む学外の人はぜひ前バージョンの写真を見なさい。
 (2)は「大学4生のために臨時増刊号をつくりました」と表紙にうたった就職特集の「週刊朝日」からです。これは1ページごとに各大学の4年目の学生一人の就職経験談と「うちの大学自慢」という短い談話を載せています。それで北大の見出しは「交通費で金持ちになる」で、鉄鋼メーカーに就職する経済学部の男子学生の就職経験談とうわさ話、「うちの大学自慢」は北大教養部事務長岩沢健蔵さんの談話です。
 学生は15社ぐらいの就職担当者と会い、ごちそうになり少し太ったくらい。それより5、6社の面接を東京で受けると、各社から交通費がもらえる。面接日は殆ど同じだから、1往復で済み交通費の残りは「懐」で50万円もらうけたやつのもいるという話を聞いた
(9)とあります。
 (3)は私の知る限りではジンギスカン鍋ではなくジンギスカン釜と呼んだ唯一の随筆です。作家稲垣は初めてジンギスカンを食べる訳ではないと思うが、焼くのは豚肉なので鍋でなく釜と呼んだのかも知れないし、近く店を始めるという太田なる主人が、話題づくりにジンギスカン釜と呼んでいるとも考えられる。また「人間タンク」とはロボットが出てくる映画だが、そのブリキ缶に目鼻みたいな顔、稲垣の言う「お面のようなもの」の上に肉を載せたはずなのに、撃剣のお面の上で焼いた肉はうまいという。別々に焼いたと受け取れなくもないが、どうもよくわかりませんなあ。
 (4)は札幌学院大の公開講座における十勝・池田町助役、大石和也氏の講演記録からです。講師紹介によれば「ワイン町長で知られる丸谷金保町長のもとで真っ先にドイツに渡り、ワインづくりの研修に専念、栽培から醸造までを学んで帰り、今日の「十勝ワイン」を築き上げた。」(10)とあります。
 かつて十勝では牛肉はほとんど食べなかった。牛肉は「うまいというと、自分の家で飼っている牛をみんな食べて仕舞うから、牛肉が乳臭いなどというのは、それを予防するための陰謀ではなかったのか、とさえ思うくらいです。これはまんざらでもない推測と思えるふしがあります。」(11)と、2年で町内の全綿羊消滅の実例を挙げたのです。
平成4年
(1) 森の都――北京
           安保久武

<略> だが何といっても大きな魅力は食べ物。それも有名料理店とい
うのではなく庶民的な食べ物の何と豊富だったことか、夜業に疲れ冷え
た私たちの体を癒してくれた、大きな豚の骨をだしにしたホントンの熱
い汁の味、少々懐が暖かければ烤羊肉(ジンギスカン)の豪快な雰囲
気、羊の肉を焼く煙が夜空に高く昇るのを眺めながらパイカルを傾けて
は肉の皿を積み重ねていくあの騒々しい雰囲気の中での味は格別。羊肉
は苦手という人には烤牛肉という店も在り、その店の粟の粥のとろける
ような甘さも、こう書いていると思い出しながらよだれがでそうになっ
てしまう。僅か五年余の私の生活でも次から次へと尽きぬ思い出に、北
京は奥深かったという思いでいっぱいです。
              (あぼひさたけ・元毎日新聞北京支局員)

(2) うちの大学自慢
           朝日新聞北海道報道部・秋野禎木

 やっぱり自然に恵まれた広いキャンパスですね。冬木構内でスキーの練習ができるし、夏は緑の木陰でジンギスカン鍋のコンパなんかやってます。しかも、170万都市・札幌のど真ん中ですから、とても便利です。(北大教養部事務長 岩沢さん)

(3) 早春抄
           稲垣足穂

<略> 夕方、城左門、岩佐東一郎を伴い来る。誘われて衣巻と合して四人、近所の太田さんという家へ出掛ける。其処でジンギスカン釜を食わせようというのである。雨が降っている。木立の梢が煙っている。もう春雨だ。材木屋の横を曲る。笹の葉に白紙が刺してあったと思ったら、座敷で笹沢未美明に初対面面した。蓆敷の上に炉が置いてあって、その上に人間タンクのお面のようなものをおっかぶせる。その上に豚肉を載っける。葱が転り落ちる。薬味は唐芥子の油、ニラの花の味噌、ゴマ味噌、豆腐味噌、エビの油等。太田さんの奥さんか妹さんかどっちか判らない婦人から、小生だけ大蒜を貰う。撃剣のお面の上で焼いた肉はうまい。が、ジンギスカン釜と云うからには、もっと線の荒いのが本当ではなかろうか。スキ焼流の切り方は温和しいし、又日本酒の盃では興がない。牛でも豚でも、羊でも狸でもいいが、もっと部厚いのを焼いて、丼鉢のようなものでもって玖瑰露かウォッカァを飲みたかった。主人は終りまで顔を出されなかったが、近くこの料理を何処かで始めてみたい計画があるのだそうである。笹沢氏が昵懇なので今夜吾々をして試食せしめたという事であるが、商売にするなら今少し胡沙吹く界域の気分を出して貰いたい。衣巻も同感した。「あれなら普通のチャップと余り変らんではないか」と。<略>

(4) 牛肉の消費を進める運動
           大石和也

 ワイン・アンド・ビーフというんですが、だいたいワイン片手に牛肉を食べるというのがヨーロッパスタイルで、このスタイルでないとハイカラではない、といって我々が考えていたのが、昭和四二、三年頃です。それでまず、池田町の人に牛肉を食べさせる運動をやろうということになったわけです。これが昭和四四年頃です。肉牛はたまたま安く買って育てたら、ある時高くなりまして、それらはみんな町民に還元したらいいだろうということで、わざわざ牛肉の日をつくったわけです。一カ月に一回と、それから三カ月続けてやりますとか、そもそも昭和四〇年代以前までは十勝で肉を食べるということは、豚肉が主体であって、誰がいったかわかりませんけれども、「牛肉は乳臭くてうまくない」ということになっていました。<略>
 昭和三五、六年頃にジンギスカンがうまいということが広まった時、町に三〇〇〇頭いた綿羊が、二年間で一頭もいなくなりました。ジンギスカン用の綿羊をどこに行って探すかというと、内地にいかなければ綿羊が手に入らなくなってしまったのです。ジンギスカンがうまいというと、二年間で三〇〇〇頭ですよ。あっという間に食べちゃったんですね。だから、あんまり牛肉はうまいなんていったら、密殺してみんな食べてしまうから、牛肉は乳臭くてうまくないよ、せいぜい豚で我慢しなさいといったのではないかと思うのも、あながち的外れではないように思えます。当時、十勝あたりでは、すき焼きといっても豚肉を使っていたものです。<略>
 平成5年の(1)はジンギスカン関係の文献ではないけど、北大ならではの原始的ジンギスカンパーティーの写真を見付けたので紹介します。筆者の宮崎忠夫氏は昭和47年卒ですが、OB名簿で確認すること忘れたので、今何学部出かはわかりりません。「2年生の時はほとんど講義がなかったり」「大学本部が数カ月間にわたり占拠されたり、大学正門前で機動隊とデモ隊が夕方から翌朝またぶつかりあったというような」ことが北大でもあったと書いています。
 またこのころ硬式野球部の監督を務めた故竹村八郎氏は理学部で化学、学士入学で文学部で社会学を専攻した勉強家でした。学生時代、札幌松竹座の夜警のアルバイト以来の友人であり、私のゴルフのコーチでもありました。
 (2)に入れた作家、藤本義一の「記憶の中の道標」は、平成2年分にある同氏の「十四歳・家出旅」と同じ思い出です。「十四歳・家出旅」は雑誌社の企画による旅行記だったが、この単行本「旅に出る理由」の奥付の前のページに「本書は、『翼の王国』一九九一年一月号~一九九二年十二月号の連載に、書き下しを合わせてまとめたものです。」とあるので、これで2度目で、もしかすると「翼の王国」にも書き3度目なら「1粒で2度おいしいキャラメル」で売ったグリコ顔負けだよね。
 文中のギンは10数年前訪れた道東の標津川の河口あたりで聞いた鮭の大群の呼び方のようです。
 (3)は俳誌「ホトトギス」からの随筆です。キツネは登山者が野営する場所をよく心得ていて、パトロールするでしょう。飯山さんたち3人はコーヒーを飲んだ後、起き出して「ジョギングをして少し体を温めたが、暗闇の中で熊がうろついているような気がしてすぐに石室に戻った。」(12)そうだが、初心者でなくても用心するに越したことはないよね。
 (4)は道産子の元レスリング選手で、現役のジンギスカン店主が筑波大の修士課程を修了した実話です。
 道内高校レスリングの名門士別高から中央大レスリング部選手になった新出隆さんは、メキシコ五輪の夢破れたことから卒業後、コンクリート・パネル製造業に就職。若い親方として奮闘、資金を貯め2年後に東京・赤羽に最初のジンギスカン料理店を開いた。
 さらに3年後、都内東十条にも1店を開き、レストランや居酒屋もと手を広げていたとき、旭川南のライバル選手で中央大レスリング部では主将・副将の間柄となった親友、中田茂男さんから「人生は仕事や金だけではないぞ」と言われて第2の人生を模索し、筑波大大学院へ進むことにしたそうです。
 (5)は北大山岳部OBで登山家の新妻徹氏が日本山岳会北海道支部の会報「ヌプリ」に書いた「支部創立の経過と想い出」からです。私より2年先輩の新妻さんは農学部畜産学科卒、進駐軍の高官が視察に来て屠畜場が不潔という理由で畜産学科が廃止されそうになった秘話を伺ったことがあります。
平成5年

(1) 70年安保と大学紛争
           宮崎忠夫

<略>なお、野球の思い出では、多分他の日とは誰も書かないと思うので、敢えて言わせて頂きますと、私は全日本選手権でヒットを1本打ちました。

資料その1
練習の後のジンギスカン・パーティー。土を掘って鉄板を乗せて。モリモリ。左から宮崎、荊木(旧姓小島)、菊池、馬場。提供 馬場哲也氏(47)

(2) 記憶の中の道標
           藤本義一

<略> 四十四年前の秋だと思う。生れてはじめて家出をし、北海道の函館へ行った。昭和二十一年のことだ。十四歳、中学二年だった。
 家出の理由は米軍キャンプを仲間と荒して拳銃を盗み出した。といっても、はじめから拳銃を盗もうとしたのではない。ダークグリーンの箱の中にチョコかガムでも入っているのだろうと思って開いてみたら、拳銃と実弾十数発がキチンと納まっていたのである。
 仲間の一人が予科練帰りの先輩にそいつを売った。売った金を山分けして腹を満たし、新しい靴とベルトとマフラーを手に入れたまではよかったが、買った先輩が事件を起した。拳銃の出所が手繰り寄せられ、われわれ三人が大阪水上署に判明したという情報が入ったので、三人は別々の方角に逃亡しようということになった。
 籤引きをした結果、北海道が当った。二人の仲間は九州、関東だった。
 一人当りの逃亡資金が二百円也。現在の金額にすると三、四十万円ぐらいかと思う。
 北陸を北上し、青森に出て、青函連絡船に乗り、函館に出た。<略>
 函館で泊った宿が今もあるだろうか。木造二階半(屋根裏部屋)があった。名前は、アサヒヤかアサヒリョカンである。〝朝日〟ではなくて〝旭〟であったように記憶していた。
 この四十四年前の記憶をギンのように遡行してみようと試みた。忠実に行うには陸路だが、時間がないので空路にした。函館から長万部、そして四十四年前は札幌に出たわけだが、今回は札幌を割愛した。カメラマンのT君が同行してくれた。<略>
 そして、やっと〝旭屋〟という小さな宿を見付けた。案内を乞うと美人の女将さんが現れた。清潔な人だった。が、こちらが理由を話すと、その頃は旅館のをやっていなかったという。そして、その人は二十五年前に嫁いできたので、四十四年前の事情は分からないが、この場所は材木屋だったのではないかという答が返ってきた。
 がっくりきて、ストリップ劇場跡に立つと、そこは枯れはじめた雑草で埋められた空地だった。次第に空虚さに襲われ、ジンギスカンを食べていると、急に活力が湧き、あの〝旭屋〟こそは間違いないと確信を抱き、迷惑を承知で再度訪ねてみると、女将さんは外出中だったが、お手伝いさんふうの女性がにこやかに出て来て、「あのー、四十四年前もね、おばあちゃんが旅館をやってなさったんですって。奥さんがあの後すぐに御主人のお勤め先に電話を入れられて確められて……。藤本サンに悪いこといったと気に病んでました」
 やった!
 私はT君にVサインを示していた。

(3) 石室
           飯山広美
 
 九月五日と六日、大雪、お鉢平めぐり男女十一人の登山パーティー
に参加した。水や食料、着替えなどの入った重いリュックを背負い、
初心者の私は皆に助けられながら夕刻黒岳の石室に着いた。
 テントを張り終え、夕食のジンギスカンを囲んでいると、いつ来た
のか痩せたキツネが一匹じっとこちらを見ている。焼けた肉片が弧を
描いてキツネの足元に落ちる。「野生動物に親切にしては却って動物
の為によくない」と注意の声があがる。しかし、空腹のキツネにとっ
てこの匂いは残酷だと思った。
 食事の後、テントに入ったが夜中に寒くなると予測した私たち女性
三人は石室へ移ることにした。薄暗い石室の中はほぼ満員である。あ
るだけの衣服をまといシュラフにくるまっても体は冷える一方であっ
た。余り寒がるので、東京からの登山者の一人がコッフェルにお湯を
沸かしコーヒーを入れてくれた。両の手の中で一口ごとにコーヒーは
冷めていった。<略>          (平成四年九月二十日)

(4) 居酒屋のオヤジが哲学的に
    体育方法学を研究し大学院修了
           週刊東洋経済

 「よく頑張ったね」という一言に、
 思わず熱いものがこみ上げて
きた。手渡されたばかりの卒業証書
を固く握りしめながら「しんどい三
年間だったが、よくしのいだぜ」と、
自らの労をねぎらってやりたい気持
ちだった。円形脱毛症に悩まされな
がら、毎日毎日、辞書片手になれぬ
原書と格闘し、やっとつかんだ修了
書である。メキシコ五輪を目指して、
レスリングで汗を流した二三年前に
比べて、何倍もしんどい三年間だっ
た――。
 3月25日に行われた筑波大
学の平成4年度大学院修了
式。最年長の新出隆さん(四
七歳)は、江崎玲於奈学長か
ら特別に言葉をかけられて、
「生涯学習の本格的な指導は今
日からだ」との思いを強くした。
 東京の赤羽と東十条で、二
〇年以上ももジンギスカン料
理の店を経営する自称〝居酒
屋のオヤジ〟が書いた修士論
文は『ゆとりの基礎研究』。元
エール大学の教授で、国際ス
ポーツ哲学会の創設者ポール
・ワイス博士が説く『自然と人
間』をベースに、スポーツ・体育にお
ける「ゆとり」を取り上げたもので、
大学院での専攻は体育方法学という
も、きわめて哲学的なテーマである。
<略>
 三年前、四四歳になったところで
突如、学習意欲にかられた感じの新
出さんだが、そこに至るまでには当
然ながら長い伏線がある。
 「生涯学習に一日も早く取り組も
うと、いつも自分に言い聞かせてい
たが、実行に移すまでに一五年も
かかったのです。そう、あの一言か
ら……」
 高校、大学を通じての親友、中田茂
男さん(自衛隊体育学校体力管理室
長)が、こう言ったのだ。「オマエな、
人生は仕事やカネだけではないぞ」。
<略>

(5) 支部創立の経過と想い出
        新妻徹

<略> 私は昭和四十年八月十三日に高沢
光雄、浅利欣吉氏らとニペソツ登山
で杉沢にキャンプされていた深田久
弥氏のジンギスカン夕食にアタック
をかけたことがあります。深田久弥
著『山頂の憩い』には〝皆で豪勢な
焚火を囲んだ時は、もう暗くなりか
けていた。ビールに御馳走はジンギ
スカン。昨日から十分に果汁など吸
収させておいたというマトンである。
その珍味に舌鼓を打ちながら楽しく
歓談している最中、突然の夜襲を受
けた。背後から歌声を放ちながらバ
ラバラと人が現われた。何ごとぞと
思ったのは束の間、すぐそれが私の
友人たちであることがわかった。か
つて北海道の山を一緒に歩いたこと
のある札幌在住の日本山岳会員であ
る。(中略)彼等は私のニペソツ登
山を聞きつけ私たちの饗宴の潮時を
見計らって夜討ちをかけてきたので
あった。おまけに彼等は奇襲のため
の即興の歌まで用意していた。新妻
君が登山道で作詞したという「エー
デルワイスの皆さん今晩は」を皆で
合唱し、その歌声は夜空にひびいた。
(後略)と書かれています。<略>
 平成6年の(1)は作家中薗英助の「わが北京留恋の記」からです。中薗はかつて北京にあった邦字紙「東亜新報」の記者だった。それで「あとがき」によると昭和62年、中華人民共和国の首都となった北京などを訪れ、変わり様を見てきた。「見果てぬ夢の蓮子粥」はその時の見聞の一部で、翌63年2月、東京新聞に掲載されました。
 (2)は笠原淳の「茶色い戦争」です。ある日、学園農場の緬羊群が脱走して〈ボク〉の家に押しかけ、六畳間から庭を通り抜ける事件があり、それで塾長と森山さんが詫びにきたところからです。ジンギスカンと明記していないので、前バージョンでは入れなかったけれど、今回は基準を緩めたので取り上げました。
 森山という青年は農学科研究室の看板を下げている牛舎の専任者で、そこに住んでおり〈ボク〉にお茶を御馳走しては詩の読み聞かせをする。あるとき「幾時代かがありまして/茶色い戦争がありました」から始まる詩を読んでくれたので〈ボク〉は「ゆあーんゆよーん」を覚えた―と話が展開していきます。
 (3)は海老沢泰久著「美味礼讃」のフランス最高のレストランといわれる「ビラミッド」で、辻調理師学校副校長の辻静雄が貴重品みたいなラム料理を食べるところからです。これは昭和36年、まだ羊肉イコールマトンの時代だったから、辻が「マトンは牛肉が食べられないときに我慢して食べるもの」と蔑視していたのですなあ。辻夫妻と一緒に食べるマダム・ポアンは「ピラミッド」のオーナー・シェフのフェルナンド・ポアンの奥さんで旦那の死後、経営を引き継いでいたのです。
 また、一読するとわかるが、筆者の海老沢が辻夫妻と一緒に味わっていたような感じがするぐらい細かく書けたのは、向井繁の「解説」によると、辻に50回も会って話を聞き、辻の世話でフランスに渡り1週間、毎日2店ずつ三ツ星レストランでフルコースを食べ飲みして味を確かめたからだそうだ。豪快なジン鍋の対極が正統派のフランス料理なんだね。
 (4)は「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」で一躍有名になった俵万智の第2歌集「かぜのてのひら」にあったジンギスカンを入れた一首です。万智が大雪山系を歩いたときの作歌のようで「夏の目覚め」17首のなかに「岩そして岩そして岩『なぜ』という言葉の数だけ続いておりぬ」、「黴やすき肺の清さを思いおりチチチ、チチチと鳴くナキウサギ」という歌も入っています。
 同書は平成3年に単行本で出ましたが、私が見付けたのは3年後に出た文庫本でした。
 (5)は農学博士阿部禎の「干支の動物誌」の中の羊の項からです。昭和からここまでこの講義録を読んできたら、何度かあちこちで読んだ話ばかりと思うはずです。「札幌の精養軒が元祖だと主張」する方々は、辰木久門・達本外喜治説の戦前の精養軒ホテルと戦後に食堂として再開した精養軒のどちらと主張しているのか是非伺いたいね。
平成6年
(1) 見果てぬ夢の蓮子粥
           中薗英助

<略> だが秋風無惨というべきか。天安門前や王府井(ワンフーチン)あたりの押すな押すな賑わいとちがって辺、あたりには観光客の姿もなく、湖面をわたってくる風がひとしお身にしみてくるばかりである。
 わたしは同行のO、Yの両君をさそって、橋のたもとにある烤肉季(カオローチ)というジンギスカン料理で名の知れた料理店に入ったが、まさか昼間からジンギスカンで盛大にというわけにもゆくまい。生ぬるい北京ビールを一本飲んで、見果てぬ夢のはすいけを去ることにした。
 帰りがけに二階の雅座(上等席)をのぞくと、白人のカップルが忘れられた置物のようにポツンと中央の席にすわっているきりだった。什刹海は蓮とともに観光ルートからも外されてしまったのかもしれないが、四、五年たったらぜひとも再々訪して、蓮子粥が復活したかしなかったかを確かめたい。
 そのとき酒はいらない。老舎がいうように、ジャスミン入りの一杯の香片茶(シヤンピエンチヤ)があればよい。

(2) 茶色い戦争
           笠原淳

<略> 後刻、塾長と連れ立って管理不行届を詫びに来た森山さ
んは、どうして緬羊が暴走したか原因が分らないと首をひ
ねり、多分何かにおどろいたのだろうが、と言ったが、何
におどろいたのかは見当もつかないらしかった。
 或いは、緬羊たちは不吉な予兆に脅え、気が立っていた
のだったかもしれない。というのは、その日の午後、教職
員の家々に羊の肉が配られたのだ。いつ屠られたものかは
分らないが、俸給の遅配の埋め合わせとして時折こういう
思いがけない配給が行われた。羊でなく豚肉であったり老
鶏の肉であったり学園の農場で採れた作物であったりもし
た。
 日が落ちる頃になると、父の同僚の先生たちがうちに集
まってくる。手に手に配給の酒瓶だの、中には来る途中の
学園の菜園で引き抜いた葱や大根などを泥つきのまま下げ
てくる先生もいる。その頃には緬羊に踏み荒らされた玄関
脇の六畳間に炭火をおこしたコンロが運び込まれ、人数分
の座布団が並べられ、そして昼間配給された羊肉を焼く準
備がととのえられている。
 五、六人の客で六畳間はいっぱいになる。やがて、羊肉
の網焼が宴が始まる。肉に漬けた醤油や油の焦げる匂いが
みるみる家の中に充満し、先生たちの燥いだ笑いや話し声
が茶の間にいる〈ボク〉の気分を浮き立たせる。<略>

(3) 第三部
           海老沢泰久

<略> ヴァンサンがつぎの料理を運んできた。皿の上にはちいさな肉のかたまりが二つと、グラタンのようなつけ合わせが載っていた。
 「Agneauのステーキよ」
 とマダム・ポワンはいった。
 「仔羊よ」
 とマダム・ポワンはいった。
 「アニョー?」
 と辻静雄はきき返した。きいたことのない言葉だった。
 辻静雄は自分の知ってるマトンの肉のことを思い出して、ピラミッドのようなレストランでどうしてそんなものを出すのだろうと思った。彼の知っているマトンは牛肉が食べられないときに我慢して食べるものだった。
 「食べてごらんなさい」
 マダム・ポアンがいった。
 辻静雄は食べた。その瞬間、彼がそれが自分の知っているマトンとはまったくちがったものだったことを知って、思わず顔を赤らめた。塩、胡椒をしてバターでさっとバラ色に焼いただけのものだったが、彼がいままでに食べたどんな肉よりもおいしかった。シカゴのポーセリアンで食べたステーキもおいしいと思ったが、それもこれを食べるまでのことだった。ジョン・ペインブリッジが、ひとたびピラミッドの料理を食べたら、あとの料理はみんなゴミと同じように思えるといったのは本当だった。
 「これは仔羊は仔羊でも、Agneau de laitアニヨ-・ド・レといって、生後三十日ぐらいの乳呑み仔の肉なの。つまり、まだ一本の草も食べていない羊の肉なのよ。あらゆる肉の中でもっともすばらしい肉といってもいいかもしれないわね」
 辻静雄は、知らないということは本当に怖ろしいことだと思った。もしマダム・ポワンに教わらなかったら、マトンだと思って永遠に食べなかったかもしれないのだ。これからは先入観を捨て、あらゆるものを食べて、判断するのは食べてからにしようと決めた。<略>

(4) 夏の目覚め
           俵万智

   一日を歩いて暮れて星空の下のジンギスカンを忘れず

(5) 羊(ヒツジ)
           阿部禎

<略>しかし、遊牧民の生活に詳しい中尾佐助博士(旧大阪府立大教授)のお話によれば、もともとの蒙古では皮を剥いだヒツジを丸茹でにして、塩もつけずに食べるのが普通で、焼き肉はやらなかったとのことですから、ジンギスカン料理の蒙古起源説には、いささか疑義を覚えます。
 むしろ、それよりは戦中・戦後の月寒で、ヒツジの研究一途に取り組まれた釣谷猛さんが、東北農業試験場へ畜産部長として赴任された際に、昨今流行のジンギスカン料理のアイデアは、北京料理の一種である烤羊肉カオヤンロウに由来するのではないかと指摘されていましたが、この説などまさに傾聴に値するようです。すなわち、烤羊肉とは、蒙古の奥地から集めたヒツジを、北京郊外で黒大豆を餌に三か月間肥育したのち、松葉と枝を燃やしながら鉄板の上で焼き、海老の油に大蒜のたっぷり入ったタレをつけて食べるという、すこぶる野趣に富んだ料理なそうです。煙がもうもうと立ち昇り、野外でなければとうてい出来なかったこの料理を、なんとか我が国の家庭へ持ち込もうとして苦労を重ねたさる御仁が、大正一二年ごろ、焜炉の上にロストル型の鉄板を載せて焼くことを思いつき、さらにタレも我が国古来の味を活かすべく改良を加え、かくして産まれたのが月寒流ジンギスカン料理だったとか。しかし、これには異論もあって、故事来歴を重んずる一部の識者は、古来、お江戸に伝わるお狩場焼きこそがその原型で、札幌の精養軒が元祖だと主張しています。
 平成7年の(1)は作家高橋揆一郎が書いた小説「未完の馬」からです。道産子なら馬の前半身だけで後半身がない絵を知っていると思うが、その絵を描いた画家神田日照は十勝の農民でもあった。その神田の親友が「鍋で煮たジンギスカンを食べた。」と書いていたという点に注目しました。つまり50年前、ジンギスカンの一種として十勝でも羊肉を煮る食べ方が知られていたということだ。名寄では、どうも煮込みジンギスカンが広まる以前、昭和61年分にある通り単にジンギスカンと呼んでいたそうだし、大々的にPRしたのは平成24年、加藤剛士市長になってからだから、米山将治氏もただ「鍋で煮たジンギスカン」と書いたようです。
 また平成7年に十勝毎日新聞社は高橋氏の「未完の馬」を単行本として出版した。同書の「あとがき」に高橋氏は昭和57年のNHKテレビ出演から平成6年、2代目神田日照記念館館長就任にに至る経緯を書き「『室内風景』との出会い以来二十年余、幽明相隔てながら互いに印し続けた軌跡がこうした結実を見たことにどれほど感慨を深くしてもし尽くされることはない。」(13)とある。若い君たちに、この心情がわかるかどうかな。
 (2)は学生時代の思い出を語る「週刊文春」の連載「わが母校」が紹介した演出家、和田勉の談話です。平成16年に出た本「むかし、みんな軍国少年だった」にも和田が書いたとみられる「戦時中も玉手箱は天国の思い出」がある。それでは緬羊と乳牛の飼い換え命令について「父は迷わず、一夜にして決断実行してしまったのだ。」として緬羊450頭を一挙に感電屠畜したとあり、実行は海軍とするこれとは違う。屠畜状況はあっちの方が詳しいが、真相はわかりません。
 蛇足だが、元海軍中将福留繁著「海軍生活四十年」によると、福留は昭和19年6月から鹿屋基地に1カ月半、第2航空艦隊司令長官しとして滞在、その間「牛肉など不思議に入手できたし、鐘紡が飼育していた緬羊のジンギスカン料理もできたし、猪の非常に多い土地だから山くじらにもありつけた。」(143)とあるよ。
 (3)は道内のジンギスカン普及活動に携わった市立名寄短大の河合知子、滝川市保健センターの久保田のぞみ両氏の実情報告からです。別の講義でも話しますが、道内農村部に配置された生活改良普及員による食生活改善の指導は、大きな効果を挙げた。おいぼれ羊でも生かして毛を採った戦時中の飼育経験の慣性で「屠殺などもったいなくてとてもできなかったが,たまたま犬に噛まれて死んだ羊を食べてみた。最初は味噌漬けにして食べたが,後に味つけのしかたを種羊場で習った」(15)という滝川市の農家の談話が、引用した報告の直前に入っているが、道内のジンギスカンは羊が沢山いた農村地帯に先に普及し、羊肉と共に都市部へ伝わっていったのです。
 またジン鍋にしても、脂落としの隙間はいらないと北海道から言ってきたので、隙間なしになったとその昔ジン鍋の流通に携わった方から聞いたことがあります。農村なら庭先で煙濛々でもさして困らないが、都市部でその鍋を使うと隣近所が迷惑するからね。そうした注文があったからこそ、隙間なし鍋が主流になったとみられるのです。
 (4)は「本の雑誌」のコラムの書き出しというか冒頭です。道産子の筆者が何年ぶりかで松尾の味付き肉を食べた―それは置いといて、と食べられない本の話に移る。見出しの鈴木輝一郎ですが、坂東はあるパ-ティーで鈴木に会い「第47回日本推理作家協会賞受賞作『新宿職安前託老所』出版芸術社より二月末日発売」と赤字で印刷した名刺を渡された。自著を売ろうとする鈴木の努力を「ぶっ飛びパワー」と評価し、書評に取り上げています。
 (5)は渡辺淳一の「これを食べなきゃ――私の食物史」の「平原で食べてこそ成吉思汗」からです。彼は私と同じく昭和27年入学で教養課程の後、札幌医大に移りました。 抜き出した箇所の少し後ろに「入学祝いをかねて仲間四人と酒を飲み、一晩に十五キロの羊肉を平らげた。」「だが、さすがに四キロも食べると、満腹で動けない。そのまま3人の友達はわたしの家に泊まったが、翌朝、起こしにきた母の話では、四人が寝ている部屋には、ヒツジの匂いが充満していたという。」(16)とあります。私も彼もそういう無茶なことができた時代があったのですよ。ふっふっふ。
 (6)は賀曽利隆が書いた本「バイクで越えた1000峠」で北海道のジンギスカンを褒めた箇所です。賀曽利は50ccのバイクで昭和42年、日本人として初めてサハラ沙漠横断に成功したのをはじめ、日本一周、世界一周、インドシナ一周に成功したバイク乗りです。その後バイク雑誌ま企画で「秘湯めぐりの峠越え」を目指してスタート、19年掛けて1000峠越え、1年遅れて1000秘湯巡りを達成しました。
 (7)はね、パラバラとページをめくっていたら、大釜らしい写真が見えた。それで読んだら頼りないが、ジンギスカン率いた蒙古軍は鉄板焼きをしていたという住民の話が書かれていたのです。釜と見たのは「草原の道観にあった鋳鉄製の天水槽(直径180cm,高さ85cm,口縁部肉厚8cm)」(17)でした。
 田口勇専修大教授(元国立民俗博物館教授)が雑誌「鉄鋼界」に同書を紹介して「氏から調査の詳細について話をお聞きすることができた。リュックサックに強力な磁石をぶらさげた単独調査に、氏の鉄に対する愛着と歴史探求への執念を感じた。目的地で鉄を見出すにはどうされるのかとの問いに、『テツ、テツと現地語で繰り返していればよいのですよ』との答えは大変印象深かった。」(18)と書いています。
平成7年
(1) 室内風景
           高橋揆一郎

<略> もうひとつ、親友の米山将治氏が新聞に書いたエッセイ
「人と作品」から。
  一九七〇年二月。鹿追町笹川から40粁ほどの道のりを
 帯広市内まで絵具を買いに来た彼に、小型トラックで誘
 われて、ぼくはその農宅へ二泊したことがある。文明と
 風土、大衆と個人、その他もろもろのことをどこからど
 こへ移り亘ったかもう忘れたが、はじめの一日は現代美
 術の多様な原風景を明瞭につきとめ巡歴してみることだ
 った。話の合い間には、鍋で煮たジンギスカンを食べ
 た。北海道や独立展の作家たち、あるいは「ポデス同人
 展」解散後の郷土画史的な細部まで、次の日もぼくらは
 検討をつづけた。そして同時に、十年ぶりの全道展帯広
 巡回展を復活するという共有の企てのため、お互いの立
 場の確認でもあった。<略>
  その後、洗いざらい彼に見せてもらったスケッチブッ
 クや古いノートのなかに。妙に断片的な素描が何枚かあ
 った。簡潔な線で設定された室内に空き缶が転げてお
 り、紙袋の一部分があったり、蛍光灯の下に椅子があっ
 たりした。机の上にリンゴと魚の骨と自転車の古い空気
 入れがあったりしていた。
「室内風景」はその後、三月から製作された。ほぼ百二十
日余の間に構想が進展するにつれて、蛍光灯は裸電球に変
わり、椅子がセーターを着た人物像に変わった。日の丸印の
マッチ箱、集金カバン、灰皿が登場した。背景は毎日届けら
れる新聞紙を描写して隅々まで埋められていったようだ。
<略>

(2) 防空壕でむさぼり読んだ
    菊池寛や有島武郎の小説
           和田勉

 僕はね、羊飼いの息子なんで
す。父が鐘紡系列の牧場の雇わ
れオーナーだったので、小さい
頃は日本各地の羊牧場を転々と
として育ちましたよ。
 昭和十四年から二十年までを
鹿児島県で過ごしました。敗戦
の時は、旧制鹿屋中学校の三年
生でした。鹿屋は大隅半島の要
衝で、海軍特攻隊の大きな基地
があった町です。〝独立国・薩
摩〟の「よそもん」であった僕
は、思いっきりいじめられっ子
でしたね。なにしろパレスチナ
に紛れ込んだユダヤ人のような
心境で毎日を過ごしていました
から、学校のことなんてあまり
覚えていないです(笑)。
<略>
 二十年の一月に、牧場の四百
五十頭の羊を殺さざるを得なく
なりました。軍から「乳牛を飼
え」と命令されたんです。たし
か、海軍の兵隊が来て、電気を
使って殺していきました。肉は
腐らないよう土に埋めていたの
ですが、それから一カ月、毎日
毎日ジンギスカンでしたよ。食
料難だったのに、僕はあの時す
でに〝飽食の時代〟を体験して
しまった。おかげで今でもジン
ギスカンは苦手ですけど。
<略>

(3) 北海道における羊肉消費の展開
           河合知子、久保田のぞみ

<略>生活改良普及員が配置された当初から1960年ごろにか
けて,めん羊を飼育している地域においては,食
生活改善指導の一環として肉類の加工貯蔵があげ
られている。なかでも,ジンギスカン鍋の普及
は著しく,ある改良普及員は,次のように回想し
ている。「農協の畜産担当者と共に農家に出掛
け,ジンギスカンのたれの作り方の指導に歩いた。
たれの作り方は農協の畜産担当者からもらった資
料にもとづいて,りんご,にんにく,しょうがな
どをすりおろし,醤油,砂糖,酒で調味する。当
時は便利な調理器具もなかったので,大根おろし
器で固い人参をすりおろして,はかどらなくて大
変な仕事だと思った記憶がある。肉を漬け込んで
から30分くらいが一番おいしいという話を共済の
獣医や農協の技術員が言っていたが,1~2時間
漬けておいて,ジンギスカン鍋で焼いていた。ま
た,保存食作りも勧めていたが,羊肉加工もその
中のひとつで,味付けした肉を保存瓶に詰め,殺
菌,脱気,密封などの技術講習も行った。対象は
農家の主婦や4Hクラブの男女青年で,反応は良
く,また生活改良普及員も珍しい頃だったので楽
しく仕事ができた。相手が喜んでくれた時,いい
仕事だなあとうれしい思いで現地の会館から我家
へと自転車で帰った頃のことが思い出される。」<略>

(4) 〝託老所〟が舞台の異色作!?
     ぶっ飛びパワーの鈴木輝一郎に注目
           坂東齢人

 先日、五年振りぐらいにジンギ
スカンを食った。北海道出身の飲
み友達が、帰省した際に「松尾の
ジンギスカン」という北海道人な
ら誰でも知っているパックされた
味つきラム肉を1キロ買ってき
て、それを小耳に挟んだぼくが、
おれも実家から送ってもらうから
ジンギスカン・パーティをやろう
と叫んだのがことのはじまりだ。
 ジンギスカンなんて、ここ数年
食べていない。さっそく、2キロ
の松尾のジンギスカンを送ってく
れるよう母に頼んだのだが、届い
たのは3キロ。やはり、母の愛は
強い。いやあ、食った食った。死ぬ
かと思うほど食いました。人生、
やっぱりジンギスカンです。母親
様、そのうちまた送ってください。
<略>

(5) 平原で食べてこそ成吉思汗
               渡辺淳一

 この料理の日本での歴史はあまり古くはない。
 わたしが成吉思汗料理という言葉をはじめてきいたのは、たしか戦後四、五年経った高校生のころである。
 札幌の丸井デパートで、ヒツジの肉と一緒にいろいろな形の鉄鍋を売っているというので、友達と見にいった覚えがある。そのころはまだ鍋が高かったのか、肉を買うとタレと一緒に鍋を貸してくれた。
 食生活の貧しかった当時としては、栄養があるうえに旨いということで、このころから急速に家庭でも流行りだした。
 このころの肉は今のように上質なラム(仔羊)でなく、大人のヒツジのマトンであった。
 それでも、初めて食べた時は実に新鮮であった。
 大体、当時のドサンコには(多分、日本人すべてがそうだったと思うが)ヒツジの肉を食べるという発想がなかった。
 そのころ、北海道に住んでいた人々が食べていたのは、まず第一に馬肉で、次いで牛、豚、鶏といったたぐいであった。

(6) ★美幌峠のジンギスカン
           賀曽利隆

<略> 美幌峠からの眺望をしっかりと目の底に焼きつけたところで、峠のレストランで、ジンギスカンを食べる。ジンギスカンといえば、今では北海道を代表するような郷土料理になっている。このジンギスカンを食べると、
 「あー、北海道にやって来た!」
 と、実感するほどである。
 さっそく、美幌峠のジンギスカンをむさぼり食う。
 独特の兜のような形をした鉄鍋で、羊肉と付け合わせの野菜類を焼いて食べるジンギスカンは、ボリューム満点の料理。ずっしりと腹にたまる。このジンギスカンにかぎらず、北海道の料理というのは、どれをとってもボリューム満点だ。量が多いということが、北海道料理の大きな特徴になっている。
 食べ方にしても、チマチマ焼くのではなく、ドサッと羊肉や野菜類を入れ、豪快に焼くのだ。すべてが大陸的なのである。
 羊肉はくさみが強いとよくいわれるが、北海道のジンギスカンに関しては、そのようなことはない。羊肉を食べる習慣が、日本の他地方よりも根強いことが影響し、ジンギスカン用の羊肉専門の会社もあるほどで、それだけ羊肉の食べ方の研究もなされているのだろう。牛肉は焼きすぎると固くなってしまうので、まだすこし赤身が残っているくらいのをタレにつけて食べるのだが、いくらでも食べられるほどのうまさだ。<略>

(7) 鉄使用の少ない蒼き狼達
           窪田蔵郎

 蒙古といえば遊牧民族発祥の地、風のごとく押し寄せる精悍な匈奴の軍団、そしてチンギスカーンの時代、さらに果てしなき草原に生活する蒼き狼の子孫達。そうした風景を誰しも想像する。一時期、世界の五分の一を席捲した彼らのことであり、鉄器の使用については、刀剣などの武器類はもちろん。各種の生活用具にも相当な量が用いられたはずであるが、今日実際に現地へ出掛けてみると、蒙古らしい雰囲気のところでは、鉄製品を使用している姿を見掛けることは誠に少なく、期待にイメージばかりが膨らんでしまっていた感じである。
 著者が回ったのは、僅かに呼和浩特市と包頭市付近だけなので、蒙古の鉄文化を知るにはあまりにも資料不足だが、農村部で聞いても関心は少ないようであった。質問に対する答えは、せいぜい包頭の鉄鋼コンビナートの盛んなことと、身近なものでは鉄板焼は、チンギスカーンが遠征した時の陣中料理に始まるなどといった話で、古代製鉄のことなどには全くふれて貰えなかった。<略>
 平成8年の(1)は、羊肉を焼く正しいジンギスカンでははなく、満洲で野生のノロという鹿の肉をジンギスカンみたいにして食べたという元陸軍航空隊員の思い出です。昭和11年10月、筆者の新藤常右衛門隊長率いる戦闘機1中隊が、外蒙古寄りの地平線が見えないぐらいの大平原の真ん中のハイラルにね、常駐したときのことだそうです。引用したのは文庫本からだが、同書名で単行本として同じ光人社から単行本として出ています。
 (2)は「日本の味探求事典」からです。機械可読目録によると「多彩な食材に恵まれた、日本の食べ物の中から、約1400種を採録し、『日本の味を探究する』という視点で解説。」しているそうだが、本場モンゴルの味と日本の醤油ベースの味の違いはどうなんでしょうかね。羊肉の呼び方に不審な点があるという程度にとどめます。
 (3)は100人の食べ物随想の中にあったジンギスカンの思い出です。率直な書き方なので特に説明を要すところはないでしょう。焼酎も私が2年目のころ20度が売り出されたので試飲したら、25度より飲みやすいとは思いましたが、効き目は同じようなものだったような気がします。ジンギスカンで飲むと急に効き、花見で飲んだら何故かズブ濡れになった。後で先輩に聞いたら「お前は小川の中に座ったからだ」といわれたことがあります。多年の経験でいえば、そのときはわかっているが、一眠りすると何をしたか全く思い出せないんですなあ
 (4)は札幌の観光名所、サッポロビール園と月寒のツキサップじんぎすかんクラブは、その昔、深く結ばれていたという「サッポロビール12年史」で見付けた意外な話です。
 脱線だか、ここに出てくる花田緑朗さんは北大OBの息子さんとともに、東京同窓会でも熱心に活動された。それで東京同窓会は毎土曜午後、銀座ライオンで談話室と称するプチ飲み会を開いていた。私もちょいちよい加わって「都ぞや弥生」が出来たころの思い出などを拝聴したもんです。
 (5)は道立滝川畜産試験場の研究者高石啓一さんの論文「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」からです。高石さんはこの年3月、研究雑誌「畜産の研究」3月号に「日本の羊肉物語」を発表したばかりでした。その内容は日本に於ける羊肉食の普及、日本人の好みに合う羊肉料理の研究などの考察で、特にジンギスカン料理に関して論じた論文ではありません。
 その3カ月後、高石さんは畜産研究者としての立場から、昭和51年の農家向け雑誌「農家の友」に載った郷土史家吉田博による「成吉思汗料理物語り」にある①ジンギスカン料理は満鉄公主嶺農事試験場②命名者は満鉄調査部長駒井徳三―という吉田説のほか、月寒種羊場技師だった山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」の刊行年から「少なくとも執筆の構想は前年の昭和5年頃であろう。昭和5年になってやっと『成吉思汗(ジンギスカン)』料理なるものが東京にて喧伝されるに到ったものと推定される。」ことや、東京・成吉思莊の鍋開発などの研究結果を追加したのです。
 これにより駒井徳三命名説がね、昭和36年の日吉良一による「成吉思汗料事始」で登場、日吉の打ち消しを知ってか知らずか15年後に吉田博が「成吉思汗料理物語り」で復活させ、さらに20年後、高石氏の「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」でリバイバルされ、いまも人工AIが駒井命名説が有力と出力しているのです。ジンパ学の講義を聞くことによって、皆さんだけでもこういう流れを知ってほしいんだなあ。わかるかな。
 (6)は酒場専門のルポライター太田和雄による高知市の「とんちゃん」訪問記です。55年続いた「とんちゃん」は平成21年、経営者夫妻が体力的にきつくなったと閉店しました。同15年1月、北海道新聞が連載した「探偵団がたどるジンギスカン物語」の探偵が訪れ「厨房の鉄板で焼き、皿に盛られた『ジンギスカン』は、北海道流の鍋で焼くイメージとはほど遠い。だが、口に入れると確かに羊肉の味。秘伝のたれは、しょうゆとショウガが効いており、かなり濃くて辛口。酒のさかなにはぴったりだ。」(19)と報告しました。
 (7)は赤井川村にある有名なアリス・ファームの経営者、藤門弘の「牧場物語」からです。藤門氏は中尾佐助著「料理の起源」を読み、どの民族も食べる植物にはうるさいことはいわないのに、こと動物となると回教徒やユダヤ教徒はは豚、ヒンズー教徒は牛を食べないといった厳格なタブー、偏見を持っている。
 さらに民族によって尊重するランクが異なり、中国では豚・羊・鶏・牛。インドのヒンズー教では山羊・羊・鶏・豚・馬であり日本では、牛・豚・鶏・鯨・羊・山羊・馬という順になっているという説
(20)を知り、それで羊はなぜ5番目なのか―と考えたところからです。
 なお、今アリス・ファームのホームページを見ると、もう羊はおらず、山羊がいますね。「アリス・ファームの書籍一覧」というリストもあるので数えてみたら、平成19年までで藤岡関係はこの「牧場物語」を含めて19冊、共同経営者宇土巻子関係16冊、共著・共訳5冊、合計40冊でした。
 (8)は尼僧瀬戸内寂聴が作家瀬戸内晴美として売り出すもっと前、昭和18年の秋、結婚して夫ともに北京で暮らし、有名店東来順でカオヤンロウことジンギスカンを食べることになった経緯です。
 夕食の買い物帰りに書店で宇野千代の本「人形師天狗屋久吉」を買い、彼女は一読して「私は子供の頃から小説家になりたかったのだった。」「天狗久吉の小説は、一遍に私の小説への憧れと夢を眠りの中からゆさぶりおこしてきた。」(21)ところから、切り出した情景になったのです。国会図書館図書館の同書は「色ざんげ」と合わせた戦後出た本ですが、さすが徳島県立図書館、実在の人形師からの徳島弁の聞き書きの価値を認めてか、東京の文体社が昭和18年2月に出した同書を4冊も所蔵しています。
平成8年
(1) 匪賊討伐に大空の出陣
           新藤常右衛門

<略> この地方も、九月にはいればもう冬である。冬にならぬうちに、蒙古の月を賞しようではないかと、八月の満月の日に、中隊全員で、草原で観月会を催すことにした。
 その日の午前の航空訓練のとき、私は飛行場南方の草原でノロ(鹿の一種)の大群を見つけた。私はその群れの上空を旋回飛行しながら、小銃をもった乗用車が現場にやってくるのを待っていた。
 地上には、多少の起伏はあったが、自動車の運行は自在である。
 ノロの進路を、地上すれすれの低空飛行で牽制しながら、なるべく自動車の進路方向に群れを向けさせようとしていた。やがて自動車は追いついてきた。三、四発、白煙が散ってノロが二、三頭倒れたようだ。私は着陸する。まもなく自動車が、撃ちとめたノロを積んで帰還してくる。
 さっそく料理して夕方から野宴を張る。
 ガソリン缶の側面の下部に、たくさんの穴をあけて、これに炭火をカンカンにおこし、缶の上部にノロの肉をくっつけてジュウッと焼き、醤油をつけて食べるのである。即席のジンギスカン料理ともいうべきもので、一人一合ずつの酒もある。
 草原から満月が昇る。
 兵も楽興に乗じて軍歌の大合唱から、故郷をしのんでの民謡などを大いに歌いまくっている。月光いよいよさえわたる蒙古の大草原である。この夜の思い出は、いまもあざやかに眼底に浮かぶ。

(2) じんぎすかん 成吉斯汗 (北海道)
           岡田哲
                    中国北方の料
                    理・烤羊肉カオヤンロー
加熱調理方式が似ている。モンゴル軍の兜のような鉄製の
ジンギスカン鍋で、羊肉の付け焼きをする。英雄のジンギ
スカンは、一三世紀のモンゴル共和国の始祖である。この
地方では主食に羊肉を焼くので、このような勇者の名が付
けられたのだろう。昭和の初め頃に見られるが、第二次大
戦後に、滝川市の道立種羊場が緬羊飼育を奨励し、北海道
の名物料理となる。脂肪の多い羊肉を、ジンギスカン鍋で
焼くと、余分の油が落ちておいしくなる。タマネギ・ピー
マン・モヤシ・ニンジン・ナス・ジャガイモを共に焼いて、
好みのタレを付ける。タレはかなり凝ったものがあり、醤
油・砂糖・ニンニク・唐辛子・リンゴ・ニンジン・タマネ
ギを組み合わせ、羊肉の臭いを消して食べやすくしている。
焼いてからタレを付けるものと、タレに漬け込んだ羊肉を
焼くものと二種類ある。羊を表す英語は、随分沢山ある。
羊はsheep 牡羊はram 牝羊はewe 羊はlambという。
食材としては、羊肉はmutton 羊の肉はlambである。レス
トランに、羊肉(ラム ram)とあれば間違いである。〈エ
ゾ鹿のジンギスカン〉もよい。

(3) 我が青春のジンギスカン
           沖田重敏

<略> 昭和三十年以降急激に普及したジンギスカンは、当時、ラム肉などはなく、繁殖不適応の羊肉(マトン)だけでした。もちろん、食品の冷蔵技術もまだ進んでいなかったので、食べたい時は、精肉店で道内産羊肉(現在市販されている肉の三、四倍の厚切りでした)を切ってもらうのです。量の多い時などは「切っておくから他の用事を済ませておいで」等と言われたりして、実に悠長な時代でした。肉は四人分であれは「四百下さい」と言えば良かったのです(一人分百匁見当だったので)。タレは、精肉店で作ったものを計り売りで買っていました。
 仕事が終わり、職場の若い者同志で夕暮れ時に空き地の芝生の上にコンロを持ち出し、大正時代に考案されたといわれるロストル性の鍋に、今と同じ方法で野菜と肉をのせて焼くのです。油の強い羊肉には、絶対焼酎が合うと先輩諸氏に教えられていましたから、ストレートで飲んで酔い、青春談義を交わしたものでした。当時は、今のように焼酎の番茶割りや、水割り、お湯割り等は考えもしなかったし、誰でも焼酎はストレートで飲むものだと思っていたものです。そして、いかに経済的に早く酔うかが先決でもありました。飲んだ後は、おにぎりとなるわけですが、肉とタレの味とおにぎりのお米の甘さとが絶妙にブレンドされ、口の中と胃の満足感にしたったものでした。<略>

(4) 成吉思汗鍋の由来
           サッポロビール社史編纂室

 サッポロビール園の名物料理は,何と言ってもジ
ンギスカン鍋である。同園は昭和41年7月の開業時
からバイキング方式でこの料理を取り入れ,その後,
各地で展開されたビール園事業の多くも,ジンギス
カン鍋を主要メニューの一つとしている。実はこの
ジンギスカン鍋,サッポロビールやサッポロ会とは
深い因縁で結ばれていた。
 大正10年ごろ,北海道で多く飼育されるようにな
った羊の肉の料理方法が,札幌の月寒種羊場(現・
国立北海道農業試験場)の技師たちによって種々考
案された。そして,ラムステーキやアイリッシュシ
チューなどが札幌市内のレストランで賞味されるよ
うになった。昭和11年ごろには札幌にジンギスカン
鍋を食べさせる店もあったが,まだ一般的ではなか
ったという。
 戦後の食糧事情の悪いなか,月寒学院(現・北海
道農業専門学校)の院長栗林元二郎はこのジンギス
カン鍋の普及について新たな構想を抱いていた。
サッポロビール会の会員でもあった同氏は,27年
ごろに同郷の花田緑朗が工場長をしていた札幌工場
に,試食会の話を持ち込んだ。旧札幌支店2階広間
で開かれた試食会には,花田工場長,穴釜支店長ら
工場・支店の幹部が集まったが,試食会の羊肉はた
ちまち品切れになり,大好評であった。
 同年秋、サッポロビール会の会員が推進役となっ
て,法人や著名人が1口5万円を出資して月寒に「成
吉思汗倶楽部」が開設された。幹事5人はいずれも
サッポロビール会のメンバーであった。広大な原野
で楽しむ野趣豊かなジンギスカン鍋は,道内外でし
だいに喧伝され,地元はもとより観光客,修学旅行
団,各種大会参加者に広く利用された。サッポロ会
はもちろん,当社も特約店や酒販店の各種会合や,
社員・家族慰安会などでさかんに利用した。

(5) 2「ジンギスカン」の誕生を探る
           高石啓一

 小生が,初めて仕事についての歓迎会で,これ
が「ジンギスカン」といってご馳走になった。以
降,よく味付けジンギスカンの調理方にさせられ
たことなどを思い出すが,そんなときは先輩達に
「いつからですか? どうしてジンギスカンという
ですか?」と尋ねても明快な回答を得ることがで
きなかった。
 ところが,やっと「ジンギスカン」というもの
の誕生に迫るルーツへのきっかけが提供されたの
である。時は昭和51年のことで,「農家の友」昭
和51年8月号に札幌の郷土史家吉田博氏が著書
とした「ジンギスカン料理物語り」である。それによ
ると羊肉料理の萌芽は大正時代に入ってからであ
ろうと述べている。丁度その頃に満洲に進出して
いった日本人が「羊に対して丸焼きや羊肉の水煮
などと利用されていることに大いに啓発されての
ことだ」とも述べている。また,日本人の嗜好に
合うよう考え出されたとある。
 調理の方法は「当時,満州鉄道の公主嶺農事試
験場畜産部(主に緬羊を飼育)が作り出したもの
だ。今,あるものは当時のものと同じ」とも書か
れている。
 また,名付け親についても触れており,昭和初
期の頃「当時の満鉄調査部長駒井徳三氏であろう」
とある。同氏は後に満州国の総務長官となり建国
に活躍したといわれている。また,長女には満洲
野と名付けており,その彼女による「父とジンギ
スカン鍋」という一草があると書かれており,名
づけの好きな父と記されているとある。「ジンギス
カン」の説としては詳細に述べられており,以降
この説の引用が多い。しかし,年次等は明らかで
ない。今少し考察してみたい。<略>

(6) 酒場放浪記(高知)
           太田和雄

<略> 高知の酒のみで細工町の「成吉思汗とんちゃん」を知らぬ者はない。戦後、公園で羊肉屋台を始めインテリも含め圧倒的な支持をうけ、その後通りの角に二階家を建てた。十周年記念(昭和四十年頃か)の小冊子『屋台の歌』に高知の作家前田とみ子(宮尾登美子)が「男が男を上げる場所」と題し小文を寄せている。「……店に一歩入るや一瞬にして時間は逆流し目の前に北満は場末の飯店の再来、黄塵万丈の風が……にんにく、にらの匂いが充ち豚肉の油煙が目に沁みる。並みいる男たちは荒野に駿馬を駆るひょうかんな大陸武士の面魂だ、お、ここには満州がある。この店ではなんと男たちが魅力的に見えることか……」
 明治四十一年高知に生まれた御主人吉本さんは昭和十四年、三十一歳で骨を埋める覚悟で満州へ渡り大陸を駈けめぐった後、現地で召集。シベリア収容所抑留ののち昭和二十四年帰国し、ほどなくして屋台をはじめた。「私は屋台の方が好きです。一生屋台のつもりでしたが道路事情でできなくなり、こうなりましたが私はここを屋台と思っています」
 八十八歳になる吉本さんが笑った。焦茶のべレー帽を粋にかぶった顔は色つやがいい。その言葉どおりこの店はすべて手造りの素朴な木造でカウンターも柱も無秩序成行まかせで作っていったアナーキーな追力がある。<略>

(7) 「林さん丸焼き」が始まりそうだ
           藤門弘

<略> それにしても日本の羊はずいぶん低い位置にいる。捕鯨が禁止となって鯨が抜けたにしても羊は第四位なわけで、これはかなり不当なことのように思う。おそらく、戦後のある時期にオーストラリアあたりから安いマトンの肉が輸入され、その結果羊肉は「くさくてまずいが安い」というイメージが定着してしまったのだろう。前にいった廃羊の肉をこのマトン肉と考えていい。
 それを無理矢理利用したのがジンギスカン料理で、薄くスライスして焼き、味の濃いソースにどっぷり漬けて食べる、というどうしようもない料理が発明されたに違いない。椎名さんもいっているように、モンゴルにはジンギスカンなんていう料理はないのだ。<略>
 北海道ではいま、肉用のサフォーク種が主力になっているが、これに連続して穀類を与えればどんどん太って肉が大量にできる。ただしこういう肉は決して上等ではない。
 我々が飼っているのは主としてチェビオットという種類の羊で、これはどちらかというと毛を取ることが目的の羊だ。いい毛が取れるのだが欠点は成長が遅いことで、生後丸一年たっても親のサイズにはならない。だから肉にするには一年半が必要で、我々はこれをラムと呼んでいる。
 半年で成羊になる肉用種に較べると大変効率が悪いが、その分チェビオットの肉質は上等で、ある羊の権威にいわせれば、日本にいる羊のうちで一番おいしいのではないか、とのことだ。自画自賛だけどぼくもそう思っている。

(8) 宇野千代さんとの半世紀
           瀬戸内寂聴

<略> 夕暮れの部屋の中で灯もつけないでぼんやりと涙を流している私を見つけた夫は、びっくりして、どこか悪いのかと訊いた。私は頭を垂れ、
「すみません、私、小説家になりたかったんです。それなのに結婚してしまって……」
 と、呻くようにつぶやいていた。
 その時の自分の言葉を思い出すと、宇野さんの晩年の小説や随筆を読んでいて、思わずふき出してしまう時のような、おかしさを感じずにはいられない。しかし、私はその時、真実真剣であったし、夫に対しては、その後の他の時よりも誠実であったと、今にしてわかったのである。
 夫は私のうわ言を、馴れない異国の暮しに起った少し早すぎる単なるホームシックのせいだと解釈したようだった。私の膝の上の本を取りあげてぱらぱらとめくりながらいつもより更に優しい口調で、
「いいよ、いいよ、そんなに好きなら小説家になればいいじゃないか、それじゃ、未来の宇野千代のために、今夜はカオヤンロウを食べに行こう」
 といって、東安市場の有名な店につれ出してくれたのだった。その日、私も夫も、自分の言ったり、したことが、どんな怖しい未来を招くかということに全く気づいていなかった。
 平成9年の(1)は「北海道/アウトドアライフまるかじり」からです。「キャンプから野外料理まで」という副題の通り花見やハイキングでも役立つノウハウが書いてあります。
 (2)は「モンゴルの天使の歌声」と言われるモンゴル出身の歌手オユンナに尋ねた日本での日々の感想です。
 (3)は北海道女子短大(北翔大の前身)の山塙圭子教授の論文からです。 山塙さんは昭和三年の羊肉料理講習会のために東京から教えにきた講師の名前は書いていませんが、このとき来道したのは、お茶の水女子高等師範学校で羊肉の臭いを感じさせない料理を研究し、大正11年にジンギスカンの先祖といえる「羊肉の網焼」を発表した同校講師一戸伊勢です。
 いまはジンギスカン用はラムが当たり前になっているが、かつては羊肉といえば老廃羊の堅くて臭いマトンだったので、一戸さんは臭味消しの一助として、羊肉を厚さ3ミリぐらいに切り「これを焼く際には松葉か、又松笠など火の間に置き、多少此の煙の出る処にて焼けば一層風味を増す。」(22)と書いた。この松葉いぶしが昭和22年のところに入れた久保田万太郎の「じんぎすかん料理」の由比ヶ浜での松葉燻しまで、いやその後もレシピには書き継がれました。
 (4)は道総合企画部経済調査室統計課の佐藤周規氏が「建設統計月報」の連載「ふるさと回覧板」に書いた随想からです。ジンギスカンのほか地ビール、チャンチャン焼き、札幌ラーメンと並べ「統計とあまり関係のない内容になりましたが、北海道のおいしさが分かっていただけたでしょうか。全国の皆さん,北海道を丸ごと食べに来てください!」と呼びかけていました。この随想の先頭は「北海道は,本島と508の島があり」だ。カスベ形の周りにそんな沢山の島があるなんて知らなかったなあ。
 (5)は元農林水産省北海道農業試験場長の西部慎三さんを招いて月寒史料発掘会員が月寒関係の歴史を伺った記録からです。西部さんは昭和27年に北大農学部獣医学科を出て月寒の農林省北海道農業試験場に入り24年研究生活を送り、その後九州や四国の試験場長などを経て昭和61年、月寒に戻って3年場長を務めた研究者です。それだけに牧畜だけでなく、戦後米軍の演習地に使われたり札幌ドーム建設での土地分譲などにも話が及んでいます。
 それから、この史料には、西部さんが「高畑氏の調べによると大正8年頃から羊肉を食べ始めていたというが、それは味噌漬けとか粕漬けとかで食べられていたもので、ジンギスカンを主体に連動的に広く食べられるようになったのは、戦後の20年代後半以降のことだ。」(23)と語ったことも記録されています。
 ちょっと戻るが、昭和11年秋に狸小路の「横綱」で道庁主催のジンギスカン試食会を開いたと書いたのは、道新の昭和42年元旦号の「ジンギスカンなべ物語り」が初めて―寡聞にして先例を知りません。
 あの記事の飼育関係者はエドウィン・ダンと山田喜平夫妻とこの西部さんだけです。記事を書いた道新のA記者と私は北大同期で、学部は違うが後に知り合い、戦後薄野に移った横綱のことは聞いたけれど、試食会の年月日確認は全く思い浮かばなかった。
 先年、彼の訃報を聞き、手遅れを悔やんだが、どうしようもない。あの記事には「だれそれによると」とか「と某氏は語った」と書いておかしくないのに、それがない。それでね、試食会の様子に続いて羊肉料理の臭い消しの話で西部さんが登場しているので、私は試食会の開催年月なども西部さんから聞いたと考えます。
 西部さんは昭和27年に琴似にあった農林省北海道農事試験場に務めた。そこで先輩から試食会の話を聞いたとすると、それから15年、西部さんの記憶は少し怪しくなっていたし、まして合田さんにすると40年前のことですからね。昭和11年より前だった可能性があります。
 東京精養軒考案の鍋は間違いだ。札幌の精養軒の女将青木チイさんはテレビの取材で鍋のことを聞かれで、川口の方に頼んだと答えたそうだし、西洋料理専門の名門、東京の精養軒がジンギスカンを出したら、店に資料はなくても必ずや新聞に載っているはずですからね。
 (6)の小説「天池」はは連載の12回目で、ここまでの経過はわかりませんが、山の中の宿に泊まっている中年のフリージャーナリストと校閲記者、経営する夫妻と長女と次女らしい高校生、老人がいる。妻が町でラム肉とオリーブ油を買ってきたが、薄荷がないとラムのローストはできないならとジンギスカンに変えたらしい。食べている最中に都会育ちの校閲記者は、庭を照らす月の明るさに驚くと、娘は幽霊が出ると脅かす―という情景です。
平成9年
(1) 料理のミニ知識
           横山博之、岩城道子

●ジンギスカンの焼き方、食べ方
 北海道では、人が集まると必ずジ
ンギスカンが始まる、といわれるほ
ど人気の焼き肉料理で、本州の人た
ちにうらやまれています。
 生肉、冷凍肉、味付け肉―いずれ
も大ぶりに切ったラム肉と野菜を網
にのせ、秘中の自家製や市販のタレ
を付け、ビールを友に食べる食感は
なんともいえない解放感にひたれま
す。
 おいしく食べるコツは、タレの善
しあしにありますが、焼き肉は短時
間にしてあまり火を通しすぎないこ
とです。レアかミディアム程度に焼
くことです。一度に多くの肉をのせ
ますと、話し込んでいるうちに肉が
焼けすぎて硬くなり、おいしくあり
ません。少し赤み部分を残し食べま
しょう。鍋を熱したら、ラム肉の脂
をのせます。
 羊肉はジンギスカンのほか、ステ
ーキとして食べることをお勧めしま
す。あまり焼きすぎないことがコツ
で、肉汁を逃がさないために手早く
焼くことです。コショウを振り掛け
て焼くことが多いのですが、におい
を消すにはむしろニンニクをすりお
ろした汁を、しょうゆに混ぜて食べ
たほうがうまみを増しておいしいで
す。<略>

(2) 日本の料理でジンギスカン
    鍋だけは絶対許せない!
           歌手オユンナ

<略> その彼女が日本で絶対に許
せないことがひとつあるとい
う。何かと思ったら――
「ジンギスカン鍋。あるとき
日本人の方が私に気をつかっ
てくれて、ジンギスカン鍋を
食べに連れて行ってくれたん
です。出てきた料理を見て、
私、ビックリして怒っちゃっ
たんですよ。どうしてこれが
ジンギスカンなの!? って。
モメちゃいました(笑)。ジ
ンギスカンといったら、モン
ゴルの英雄ですよ! それを
料理の名前にするなんてとん
でもないことですよ、だいた
いモンゴルにジンギスカン鍋
みたいな料理はないんですか
ら。肉に羊を使っているだけ
じゃないですか。
 それに日本には、源義経が
モンゴルに渡ってジンギスカ
ンになったという説があるけ
ど、あれだって許せない。ど
うして義経がジンギスカンに
なるんですか」
 考えてみれば、彼女の指摘
はもっともなことばかり。記
者は返答に窮しシドロモドロ
である。<略>
 彼女はしみじみ言う――
「いまでもモンゴルの食べ物
が食べたくなります。モンゴ
ルではお祝いのときに、羊と
かヤギの丸焼きを食べるんで
すよ。あれが食べたいです。
日本では食べられないですか
らね。おいしいんですよ」
 インタビュー中にはじめて
彼女が見せた望郷のまなざし
であった。

(3) 獣肉類
           山塙圭子

<略> ジンギスカン料理は今や北海道の代表的郷土料理であるが、羊肉の食用が目につくようになるのは、大正末期である。羊肉は羊毛生産の副産物としての利用だったが、大正九年十二月に北海道庁では、羊肉の消費宣伝に羊肉の大廉売会を行っている。ついで昭和三年には、同じく道庁主催による羊肉料理講習会を、東京から講師を招いて札幌、小樽、函館の各都市で開催している。この中には羊肉スキヤキ、鍋羊肉(カンヤンロー)と現在のジンギスカン料理と似たものが含まれている。羊肉特有の臭いを消すためにゴマ油や味噌、酢、葱などを用いることが推奨されている。しかし、当時の羊肉は老廃羊のため臭気が強く、庶民には普及しなかった。羊肉がジンギスカン料理としての地位を得るのは戦後になってからである。
 北海道における大正四年の年間一人平均の獣肉消費量が算出されている。それによれば道内生産物から三〇四匁(一・一四キログラム)、他府県からの移入分を加えると、日本の平均二八八匁(一・〇八キログラム)よりかなり多くなる。北海道は日本の中で第一番の肉食地方とされており、肉食普及の速さを示している。<略>

(4) 北海道を丸ごと食べよう!
           佐藤周規
 
<略> 道産子の古い習慣にとらわれない、おおらか
な気質と広大な土地から生産された新鮮な素材
を使った料理のいくつかを紹介してみよう。
 雪がとけて,桜の花が咲くころから無性に食
べたくなるのがこれである。

ジンギスカン(成吉思汗)を食べよう!

 道産子ならだけでも知っているジンギスカン
鍋。食べ方は,いたってシンプル,鍋を裏返し
にしたような鍋で,煙が出ようが,脂が飛び散
ろうが気にしないで羊の肉や野菜を焼き,醤油
にショウガ、ニンニク,いろいろなスパイスを
入れた特製のタレにつけて食べる。
 食べ方はシンプルでも,おいしくするコツを
一つ。
 まず,肉はくせのないラム(子羊)がいい,
火をとおりやすくするため,できるだけ薄く切
り,臭みが気になる人は,リンゴ,みかん,タ
マネギ,しょうがなどを擦りおろしたものに約
2時間,漬け込むことがポイントである。
 野菜は,もやし,ピーマン,じゃがいも,タ
マネギ,春は甘みがあるアイヌネギ(ギョウ
ジャニンニク)と相性がよい。
 真夏に,野外でにぎやかにジンギスカン鍋を
囲みビールを飲み干す。これは最高!
<略>

(5) 西部慎三氏からの聞き書き
           紹介者 高畑滋
           聞き手 斉藤忠一
           聞き手 池田信昭

<略> 私は大学を出て羊の骨付肉を截断できる技術があったから、ある面では貴重な存在として昭和27年頃からジンギスカンとしての食べ方や、羊の肉そのものをどう食べるか、また、どう保存するかなどについて指導して歩いた。
 その当時私は肉の保存方法は塩漬けのほかに今でいうレトルト食品の方法を考えた。<略>道の生活改良専門技術員達と一緒に、農林省から保存食品普及の予算をもらって、地方へ行って指導したことがある。その時はジンギスカンも勿論指導した。
 私は学生時代からジンギスカンを食べていた。羊ケ丘に入ると試験場でもジンギスカンは食べていた。それぞれ好みの方法でタレを作っていたが、私はそのタレに工夫をし羊の肉になぜこれを使うか屁理屈を付けて、標準化したものをつくるようにした。九州農試でも作ってやったし、つくば市の農研センターでも作った。農研センターとは農水省がつくばに試験場を集めたとき、その中心となる機関として作られたものだが、私はそのセンターの初代の企画連絡室の責任者であった。各機関から集まった人達の一体化を図るため懇親会を企画し、春の蒔きつけをの終わった「さなぶり」でジンギスカンをやった。
 昭和30年代に入ると全国あちこちで羊の肉が手に入るようになり、ジンギスカンなどで食べてみると美味いということで知られるようになった。羊の肉は宗教にも関係なく全世界の人たちが食べていたし、食べると美味しかった。(日本人だけがそれまで食べていなかった)その当時、輸入自由化で羊の肉が容易に手に入るようになり、加工用の原料としてハム、ソーセージなどにも使われた。ところが羊の独特のにおいがするため、この臭いをいかに消すかが大変なことだった。私は羊ケ丘の伝統的な調理法を標準化して、日本人の好む食べ方を普及させようとした。<略>

(6) 天池
           日野啓三
 
<略> ミントがなくてローストできなかった仔羊の薄切り肉の
残りをジンギスカン鍋に置きながら、若主人が言った。炭
火に滴り落ちる脂が濃厚な音と匂いをたてる。
「ああ、恥かしいよ。思いもをかけなかった、ずっと向こう
の庭の草の一本一本、その影まで見分けられるとは」
「幽霊の影だって見えるわよ」
 上機嫌に女主人が言う。
「幽霊が出るんですか
 と応じた校閲記者の声は半ばふざけていたが、ひとり
残った若い娘がいきなりこう言った口調はそうではなかっ
た。
「いるようよ。この屋敷には」
「どんな幽霊? 美人の?」
 校閲記者は体ごと振り向いて尋ねた。
「そうらしいわ。声と気配しか知らないけど」
 娘は顔を上げて低く擦れた声で言った。
 ふっと皆が黙った。滴った脂が焼け焦げる音だけ、今夜
は風は静かだ。
 老人はゆっくりと黙って義歯で肉を噛み続けている。女
子高校生は俯いて鍋の上の肉をひっくり返している。若主人
は食卓に落ちたタレを布巾で拭いている。中年男の客と長
女は平然と食後のお茶を飲んでいる。<略>
 平成10年の本では(1)の吉田稔の「牧柵の夢」があります。吉田は昭和9年に農学部畜産を出たOBで道庁に入り道立種羊場長も務めました。真駒内にエドウイン・ダン記念公園と記念館がありますが、吉田はこれらの設立運動を進めたエドウイン・ダン顕彰会は「私と北大同期で十勝の道立拓殖実習場長をしていた塩谷正作さんという男の発案である。<略>設立のきっかけをつくった塩谷の生臭さ坊主は、退職後は本州に行き亡くなったのであるが、晩年になってから札幌にきて『よくダンを世に出してくれたな』といわれたことも頭にあった。(24)」と書いています。
 この塩谷は元満鉄職員でジンギスカンという料理名は満鉄調査部長駒井徳三が命名したという作り話を料理研究家の日吉良一に聞かせた人物です。それを真に受けて日吉は「北海道農家の友」に駒井命名説を紹介した。しかし、事実ではないと知り別の雑誌で命名説を否定し、ほとんど広がらなかった。
 でも25年後、元道職員の随筆家吉田博が塩谷・日吉説に駒井の娘の随筆を証拠のように使って「農家の友」を通じて駒井命名説を生き返らせ、今もって有力とされているのです。
 この本には「昭和十一年ころだったか」と狸小路のおでん屋「横綱」でのジンギスカン試食会のことも書いているが、当時吉田は滝川種羊場勤務であり昭和11年開催を証明する内容ではありません。
 (2)は和田由美の「日曜日のカレー」からです。和田が社長を務める出版社、亜璃西社のホームページに「北海道新聞夕刊『おふたいむ』に連載の好評エッセイが、1冊にまとまって登場。」と紹介した本です。和田は「続・和田由美の札幌この味が好きッ!」ではニュージーランドからマトンをまるごと1頭輸入、切り分けて4つの部位のマトンの味が楽しめる(25)狸小路7丁目のジンギスカン店を取り上げています。
 (3)は「最後の晩餐」なんだから、元WBC世界フライ級チャンビオンらしい豪華料理を選ぶだろうと期待して会いに行ったと思いませんか。
 ところか案に反して、ごく平凡なジンギスカン鍋ときた。略しましたが、戦う勇利のポスター3枚を壁に張った部屋で、大判の薄切り肉をてんこ盛りにした皿を鍋と並べて食べている写真と「どうやら、食べ物にそれほど関心がないらしい」という説明から、私は人選を誤ったという戸塚記者の弁解を感じましたね。ふっふっふ。
 (4)は、いまはもうない東京の成吉思荘で食べた経験の持ち主、千石涼太郎の本からです。千石は「やっぱり北海道だべさ!!」、「なんもかんも北海道だべさ!」、「なしても北海道だべや!!」、「なまら北海道だべさ!!」、「いんでないかい!!北海道」、「へんでないかい!?北海道」といった調子で北海道のあれこれを書いています。どれかに「おじさんも北大でジンパがしたいのだ」とあったから、彼を見かけたらジンパにカテテやったら(北海道弁で仲間に入れてやったら)きっと「やっぱ、ジンパは北大だべさ!!」と本に書くかも知れんよ。うっふっふ。
 (5)の「道草のグズベリー」は「旅は道草をしながら北海道北上しよう」という至極ゆるい旅日記です。精選版日本国語大辞典の「道草を食う」は「馬が道ばたの草を食って進行が遅くなる。転じて、目的地に行く途中で、他のことに時間を費やす。道草をとる。」ですが、坂崎・北川コンビの「道草」の定義は「行き当たりばったりですぐ横道にそれる」でした。
 だから「滝川辺りでジンギスカン鍋の看板があると、そうだ、この辺りはジンギスカン鍋の発祥地なんだよなと装丁家がつぶやく。じゃあ、今夜はジンギスカンだね。今夜は滝川どまりだ、と日も沈まないうちから評判の店を探し始める」となるのでした。
 (6)は札幌のジンギスカンの老舗「だるま」の鍋にピントを合わせた珍しい記事です。
 (7)は久間十義の「心臓が二つある河」からです。ウィキペディアによると、久間は新冠町出身だそうで、そのせいか隣町の新ひだか町の長い桜並木の花見を小説に取り込んでます。久間の「限界病院」では、日高の架空都市、富産別市の病院に着任した医師にナースが、北海道の花見は5月になるが「それでも御料牧場は何キロも続く桜並木があって、そこに千歳の自衛隊からどっと隊員が乗り込んできてジンギスカン鍋でお花見をするんです」といい、医師が「ジンギスカン鍋か。一度、東京で食べたことがあるよ。羊の肉を鉄鍋で焼いて食べるヤツだろう」(26)と応じるくだりがあります。この「心臓が二つ…」の冒頭で、桜並木の花見ではジンギスカン鍋が定番だというだけですが、取り込みました。はっはっは。
 (8)は作家渡辺淳一の「これを食べなきゃ 私の食物史」からです。彼は私と北大入学同期だが、3年目になるとき札医大に移り一人前の医師になったのに、転進して華やかな作家生活を送り早世した。多分ゴルフと飲み過ぎのせいだろうね。ともあれ昭和61年の彼の日記公開関係で書いたが、恵比寿ビール園をどう書いたか確認用に買った文庫本が平成10年出版だったので、ここに入れました。それで故渡辺君と集英社は、雑誌と単行本と文庫本で3度稼いだが、私も前バージョンも含め講義で彼の本をこうして4回は使い、いい勝負か。はっはっは。
 (9)は大蔵省広報誌「ファイナンス」平成10年12月号からです。同号は「関税局・税関特集」で函館税関小樽税関支所の川合義房支所長が、主題「北の海の関守 小樽港のパワフルな税関マン」として、ロシア貨物船検査の苦労話などを書いています。観光客用が主だとしても20年も昔、こんなにラム肉を輸入・消化していたとは、マトン派の私としては意外だったね。
平成10年
(1) 牧柵の夢
           吉田稔

 昭和三十年ころから北海道のめん羊事情が変わってきた。終戦直後は農家は衣料用として毛がほしいのでどんどん飼い始めた。戦時中に毛を軍隊に収めるためにめん羊飼育を奨励したときは、さほど増えなかったのに、本当に自分のために飼った戦後は見事に増えて全道で五〇万頭近くまでになった。ところが、世の中が落ち着いてきて化学繊維が出てきた。羊毛に似た化学繊維も出てくるようになった。こうなると、農家の人は苦労してめん羊を飼い、毛を紡ぐことを止めてしまった。
 そこに戦前の講習会で指導したジンギスカン鍋が登場する。農協や役場などで何か事があると、毛が必要でなくなっためん羊をつぶして食べる。北海道のめん羊はこうして食べられてしまい、一万頭近くまで減ってしまった。都会のほうでは、田舎で流行っているジンギスカン鍋を町でもやろうという人が現れて、札幌では西洋軒とか月寒学院などで復活した。滝川には松尾さんという目先のきく方がいて、滝川種羊場の職員から羊の捌きかた、タレの作り方を習って、松尾ジンギスカンとして名をあげた。今ではまるで北海道の郷土料理のように有名になっている。戦後は肉を食べることが主流になったので、めん羊の種類も毛取り用のコリデールから、今はほとんどが肉用の顔の黒いサフォークになっている。

(2) 北の味覚
           和田由美

◆…………〝野蛮人〟といわれて
 ある日、友人でもある東京の雑誌編集者から電話があった。彼女がいうには、花見にジンギスカン鍋を食べるのは北海道だけの風習という。本州で花見弁当を食べることはあっても、公園で火を使って肉を食べ、さらにカラオケの機械を持ちこんで歌うことなど信じられない話とか。
 モンゴルの英雄・成吉思汗(チンギス・ハン)の末裔のようで、〝野蛮人〟と言われた気もするが、考えてみると大胆な話だ。幼い頃から炊事遠足や自宅の庭で当たり前に食べていたが、花見に合う食べ物かといえば確かに不釣り合い。
 ともあれ、彼女が花見の食べ物特集のためにジンギスカンを撮影したいというので、会社創立以来、初の花見を開いた。つまり、撮影のための、まさにサクラというわけ。ゴールデン・ウイーク後だったので、肝心の桜は大半が散っていたが、野外で食べるジンギスカンはやっぱりおいしかった。
 そもそも、ジンギスカンが流行し始めたのは昭和初期で、中国の羊肉料理にヒントを得て生まれたといわれる。北海道の気候風土に適していたのか、今や郷土料理を代表するまでに成長。陽光を浴びて野外で豪快に食べるジンギスカンは、まさしく北の気候風土にふさわしい。本州からきた食通に、屋内で中途半端な板前料理をご馳走するよりも、ずっと喜ばれる。<略>

(3) 最後の晩餐(18) 勇利アルバチャコフ
     ジンギスカン鍋
           戸塚省三

 ハングリースポーツの代表ともいえる
のが、ボクシングである。ただし、この
場合のハングリーとは精神的な貪欲さの
意味なのだが、試合前のボクサーは減量
に次ぐ減量で、文字通り空腹との戦いを
強いられる。<略>
 だから、勇利の最後の晩餐が「ジンギ
スカン鍋」というのは、もっともな気が
した。何しろ世界チャンピオンを九回防
衛し、その度に減量を繰り返してきたの
である。最後くらいは肉を腹一杯食べた
いではないか。それに、勇利は蒙古との
国境に近い西シベリア、タシュタゴール
の出身だ。やっぱり羊肉を使ったジンギ
スカン鍋のようなものがいいに違いない。
と、はじめそう思っていた。<略>
 故郷のタシュタゴールでいつも食べて
いたのは、母親が作る川魚のスープや、
豚や馬の肉を煮込んだもので、中でもペ
リメリというロシア風水餃子とピロシキ
は今でも時々食べたくなるそうだ。けれ
ども、羊はその地方ではあまり食べなか
ったし、ジンギスカン鍋なんてものも、
もちろん日本に来てから初めて知った。
函館にある奧さんの実家から送られてき
た肉に、「ジンギスカン」という妙な名前
が書かれていたので、すぐに覚えた。
 そこで改めて、ジンギスカン鍋を選ん
だ理由を聞くと、たまたま最初に思いつ
いただけで、別に他のものでも良かった
のだそうだ。どうやら食べ物にはそれほ
ど関心がないらしい。<略>

(4) ジンギスカンを食べずして北海道を語るなかれ
           千石涼太郎

<略> ジンギスカンを発明したのは、内地の人。北海道で食べられるようになるよりずっと前、たしか大正時代に、鍋の形状を含めて、特許だか実用新案だかを取っていたらしい。
 彼の後継者が、数年前まで東京の杉並区内で「成吉思荘」(成吉思汗荘だったかもしれない)というジンギスカン料理の店を開いていて、歩いていける距離に住んでいた私は、そんなこととはつゆ知らず何度も食べに行ったものである。
 私はその店で「ジンギスカン発祥の店」という貼り紙を見ていたのだが、「そんなバカな、発祥は北海道が最初に決まってるべさ」と、ろくに目を通さなかった。ある日、なにげなく東京ローカルのTV番組を見ていると、成吉思荘の御主人だった人物が映し出され、事実を知ることになったのだ。
 その人物は「店を閉めた」と語りつつ、レポーターにある書類を見せた。当時のパテントの証書である。これにはさすがの私も、北海道発祥説を取り下げるしかなかった。<略>

(5) 道草のグズベリー
           坂川栄治、北崎二郎

<略> ジンギスカン鍋の発祥は日本で
ある。大正から昭和初期の頃にな
ると北海道でも羊を多く飼うよう
になり、羊毛の取れなくなった年
老いた羊の肉もなんとか食用に活
用しようと考えた。そこで官民一
体となって羊料理のレシピを考え
たが、なかなかいいアイディアが
浮かばない。当時は中国大陸の農
業開発も盛んで、札幌農学校出身
の人たちが深く関わっていた。そ
こで現地の烤羊肉という料理にヒ
ントを得て北海道で生まれたのが
ジンギスカンだという。ジンギス
カンという名は蒙古の英雄・成吉
思汗が松樹の火にあたりながら、
羊肉を焼いて食べたという話がも
とになっている。
 ジンギスカン鍋には焼いてタレ
をつけるものと、タレにつけ込ん
で下味をつけた肉を焼くという2
種類がある。元祖は下味をつけた
もののようだったようで、発祥の
地を自負する滝川市にはこの下味
つきのジンギスカン鍋が多い。
 ぼくらはタレ自慢の老舗に行く
ことにした。味は、……。北海道
は甘い味つけがお好きなようだ。
そういえば装丁家が言っていたの
を思い出した。北海道では納豆に
は砂糖醤油、赤飯にはささげでは
なく甘納豆をまぶすのがポピュラ
ーであったと。

(6) 鍋の穴が羊の脂を燃やして
    味をつくる
         サライ

<略> 話を戻そう。客が席に座ると即七
輪に真っ赤におきた炭が入り、ジン
ギスカン鍋がのせられる。鍋は鋳物
で4~5mmの厚さがあり結構重い。
鍋はご存じ、ジンギス・カンの兵た
ちが被っていた鉄兜の形だ。ただし、
割箸ほどの太さの山形状の穴が、四
方から何本も開いている。この穴か
ら見る炭の色がまた美しい。が、こ
の穴、美的感覚で開けられたのでは
もちろんない。羊を美味しく食べる
ための、道産子の知恵なのである。
 羊の脂肪分は強い。脂を火の上に
落とし、煙をどんどん出す。脂肪分
が低下した肉は煙にいぶされ。俄然
旨くなる。
「溝がついている鍋を使うところが
多いですね。溝の場合そこに油が溜
まり、肉は焼けるのではなく脂で煮
える状態になります。こんなジンギ
スカンはジンギスカンではないんで
すよ」と金官さんは言う。「先代が
鍋をあと50個残してくれていますの
で、ひとまず安心しています」と、
つけ加える。
 ジンギスカンを旨く食べるには、
鍋は穴あきが鉄則。しかし、七輪で
はなくガスコンロを使用していると
ころは、食べた後の掃除が面倒なの
で、穴のない鍋を使うことが多い。
<略>

(7) 心臓が二つある河(その1)
           久間十義

<略> 初め御料牧場はこの姉去コタンを含む、広さ七万ヘクタ
ールの大規模なものだった。ものの本には御料牧場は一八
七二年(明治五年)、のちの北海道開拓長官・黒田清隆が開
いたと書かれている。その後、天皇の牧場として宮内省の
管轄になって軍馬の生産にかかわった。この地方は競走馬
の産地として有名だが、それはこの御料牧場があったこと
が大きな原因だ。
 戦後の解放運動で一部が民有地になり、現在は農水省が
管理するこの牧場は、しかし、今では富産別の近隣の人々
にはむしろその一角にある桜並木で知られている。
 旧・姉去コタンを横切って、そのエゾヤマザクラの並木
は延々八キロ・一万本の長さで続く。北海道の遅い春、あ
らゆる木々や草々がいっせいに芽吹き、花咲く五月の中旬
に、御料牧場のその道の両側にどこまでも続く桜のアーチ
ができると、人々はただただ桜の花一色に染まったアーチ
の下に集まってくる。そしてこの地方独特の短い抑揚で会
話を交わし、酒を飲み、歌をうたって、ジンギスカン鍋の
お花見を楽しむのだ。<略>

(8) 平原で食べてこそ成吉思汗
           渡辺淳一

<略> だが最近の成吉思汗料理は、どこも建物の中で食べるように改められている。たまに戸外で食べられるところがあっても、狭いところに沢山のテーブルを寄せ、上に陽除け傘などがおかれている。
 ビール会社で直接経営しているところはよく繁盛しているが、あの人混みと騒音に接しただけで、たちまち食欲を失ってしまう。
 もともと成吉思汗料理は大衆的なものだから、気取らず自由闊達に食べるべきである。だがあの狭いところでの、若者たちの騒々しさと一気飲みの馬鹿はしゃぎにはうんざりする。豊かさの象徴かもしれないが、ずいぶん贅沢な飲み方をするものである。
 かつて、成吉思汗の精鋭がそうであったように、成吉思汗料理はやはり、夕暮れの草原で風に吹かれながら食べたい。大自然の懐に抱かれて、空や風や雲を友達に食べてこそ味がある。
 だが残念ながら、いまはそうしたところは北海道にもほとんどない。大体、外で食べること自体が、今では既に贅沢なのかもしれない。
 してみると、わたしはよき時代のよき成吉思汗料理を食べてきた、ということになるのかもしれない。<略>

(9) 道産子は羊肉が好き
           川合義房
 
 小樽港から輸入される冷凍羊肉(マト
ン・ラム)は、ニュージーランド、オー
ストラリアから、平成九年に約九千トン
(全国輸入量の約二六パーセント)、大
部分はハム・ソーセージ 等の加工用原料
品であるが、そのうちの一部は、北海道
に観光に来ると、一度は食べる北海道な
らではの味「ジンギスカン鍋」用に欠か
せないものとして消費されている。特に、
くせのない子羊の肉は、「ラム」といっ
て好まれるが、これは数量的にはあまり
多くないものの、小樽港揚げが約一千一
百トン、全国輸入量の約九四パーセント
を占めている。     ―閑話休題―
<略>
 平成11年の(1)は、は作家中沢けいによる御料牧場訪問記からです。羊群の大きな写真の説明「エリート羊が牧草地でのびのびと育つ」は編集者が書いたのかも知れないが「宮中晩餐会でたびたび登場し、世界中からの賓客に『世界一美味しい』と絶賛されるのが、御料牧場の羊。秋山主厨長の時代も、羊の腿肉の蒸し焼き、ジンギスカンなどの料理が多く出されていた。」(27)と書いています。
 中沢は「夕方から夜中にかけて放牧するというのは意外だ。」と書いている。つまり、ここの羊群は朝〝牧舎に帰り〟夜は護羊犬なしで牧草地で過ごすらしい。これが「世界一美味しい羊肉」にするノウハウの一部かも知れないね。
 (2)は札幌市民でも信じられない光景を見たという「週刊朝日」からの記事です。略したところはY子さんの家族全員「真ん中を丸くくり抜いた新聞紙を頭からかぶり、シンギスカンをつついて」いたというのです。新聞紙かぶりは当時の常識で、例えば昭和40年に私がやっている写真をお目に掛けよう。資料その14は逆光でいい男に見えないけどね、32歳の私ですよ。
資料その2
 いまならきっとだれかがスマホで写真を撮り、こんなジンパ見たよとSNSに投稿するかも知れんが、24年前ですから全く無理。もし、このK子さんが見た大通何丁目かの集団ジンパの写真を持っていたら、ここに追加するから私宛にメール添付で送ってほしい。お礼にジン鍋の絵も入った「おいしいにっぽん」切手10枚シートを1枚進呈しますよ。本当に。
 (3)はジン鍋とは直接つながらないが、中国新疆ウイグル自治区で作家椎名誠が知った羊を屠殺してからの慣習の話です。思うに、我々が鯛や鮪の頭だけを兜煮と称して別に食べるのと同じように、いずれその羊の頭も食べるが、放置すると、だれかに持ち去られる恐れがあるので、習慣として目の届く鍋のそばに置くのであって、その行為から生け贄・饅頭につながるというのは椎名式連想だと思うが、どうかね。
 (4)は小説「なんとなく、クリスタル」で一躍有名になった作家、田中康夫が長野県知事に立候補し、当選する直前のこの年、雑誌「噂の真相」10、11月号に書いた日記の一部です。W嬢と成田を何度も書いているから、W嬢は多分田中氏がね、いわゆるナンパしたスッチーの可能性大です。
 8月10日分によると上野のジンギスカン店で食べたら、以前取材で会った道新と朝日の記者2人がすぐそばにいたという、世の中実に狭いね。タレにリンゴ含まれずとケチを付けたあたり、彼は果汁で薄甘くした、さらっとしたタレが好みなんじゃないかな。
 (5)の作家の司馬遼太郎は、かつて戦車兵として満洲にいた経歴からみて、満蒙型の烤羊肉を書いているだろうと検索したけど見付からなかった。ようやく「街道をゆく」で1例見付けましたが、それも20年も昔、小樽の峠で食べたときの肉が見事な薄切りだったというだけで、よそではもっと厚いとも書いていません。ということは、小樽以来ジンギスカンを食べていない、食べたいとも思わない人だったと思わざるを得ません。
 あるとき羊肉で検索して出てきた創価大教授の加藤九祚の「虚空にたいする畏れ」に「司馬さんの"偏食"を知る 」という一章がありましてね。加藤が司馬に贈った自著「続・ユーラシア文明の旅」の礼状に「銀色のヨモギを家畜がたべる、牛がこのヨモギをたべるといいミルクが出る、「ヨーロッパ・ロシア方面の羊はこのヨモギを食べない」というあたり、ユーモアを感じました。羊にも偏食があったのか(小生はやや偏食です。魚がたべられないのです)と、救われる思いでした。」とあり、それで加藤は「司馬さんがそれほどの偏食とは、私は知らなかった。高峰秀子さんによると、司馬さんは鳥肉を食べないとのことだが(前掲「司馬遼太郎の世界」一九五ぺージ)、魚まで食べられなかったとは……。」(28) と書いていたんですなあ。
 そうとわかれば司馬と親しかった高峰秀子の本です。高峰は「しかし、司馬先生といえども天は二物を与えなかった。頭の中は健康優良児でも、肉体的にはいささかのハンディがある。それはこの世の美味といわれているカニ、エビ、の類を食すと、ただちにジンマシンが起き、鳥料理を見ただけでも気分が悪くなるという哀れな体質を持っていられることだ。だから司馬先生を囲む食卓にはこの三種の美味は断固として出現しない。あのとてつもない銀髪は、先生の体質となんらかのカンケイがあるのだろうか?と、私はいつもふしぎに思っている。」(29)と書いていました。
 つまりだ、ジンギスカンは「鍋の上の煙」で十分と彼は思っていたのではないかなあ。ふっふっふ。
平成11年
(1) 世界一美味しい羊たち
           中沢けい
 
「牧場は牧場だから、変わった事があるわけ
ではないかもしれない」という不安は、門を
入ったとたんに消えたと書いたけれども、恐
れ入りましたという気持ちになったのは、世
界一美味しいと賛辞を送られている羊を見せ
てもらった時だ。新聞に掲載される宮中晩餐
会のメニューを見ていると、しばしば羊が使
われる。この前、金大中韓国大統領が訪日し
た時の晩餐会でも、メインディシュは羊肉の
料理だった。古くはイギリスのエリザベス女
王が訪日の時も、羊肉がメインディシュだっ
たと記憶している。エリザベス女王の来日時
の宮中晩餐会が、そもそも、晩餐会のメニュ
ーに興味を持った最初だった。以来、さまざ
まな国の大きな晩餐会があるたびにメニュー
を読むのを楽しみにしているのだが、日本の
皇室の場合、羊肉の料理と富士山型アイスク
リーム(グラス・フジヤマ)は、必ずと言っ
ていいほど登場する。特にデザートの富士山
型アイスクリームはなかったことがない。そ
れに備えて牛乳は年間六万リットルも搾られ
ている。それは後から書くとして、ともかく
まずは世界一美味しいという羊の話。
 羊舎では繁殖用の雌と、食肉用の当歳、つ
まり今年生まれた羊と、二歳の羊は別々に飼
育されている。<略>朝、集牧と言って
羊舎に集めた羊に餌を食べさせ、再び放牧に
出すのは、午後の三時頃だ。翌朝にかけて羊
たちは広々とした牧草地で過ごす。夕方から
夜中にかけて放牧するというのは意外だった
が、これは馬も同じで夜を自由にしますのだ
そうだ。<略>

(2) 北海道の名物
    ジンギスカン
    新聞紙活用術
           デキゴトロジー

 広告代理店に勤務するK子さ
ん(三一)は、昨年五月、出張で札
幌へ行った際、北海道ならでは
の光景に遭遇した。
 以前から北海道の人はジンギ
スカンが大好物だと聞いてはい
たが、大通公園で目にしたの
は、一分の隙もないほど敷き詰
められたビニールシートの上に
「マイ七輪」「マイ鉄板」を持
ち込み、盛大にジンギスカン・
パーティーを開いている光景。
 一年で最もさわやかな新緑の
季節にもかかわらず、あたりは
煙でモウモウ、まるでスモッグ
に包まれているようだ。だが、
がそんなことにはお構いなく、
「ちょっと~、ジンギスカン食
べていけないよッ!」
 などと観光客に声をかける地
元の人々を見るにつけ、
(この人たちは本当にジンギス
カンが好きなんだな……)
 と妙な感慨を覚えたものだ。
 それから半年後の昨年十二月
初め、K子さんは再び札幌を訪
れた。今回は雪が降り積もり、
さすがに野外でのジンギスカン
を見かけることはなかった。
 しかし、仕事が終わった夜、
地元の食品メーカーに勤める友
人のY子さん(三〇)から、
「家でジンギスカンやるんだけ
ど、来ない?」
 と誘われた。
「でも、家の中だと煙が出る
し、大変でしょう」
 ところがY子さんは、
「大丈夫。秘策があるのよ」
 誘われるままY子さんの家を
訪ねると、既にジンギスカンは
始まっていて部屋の中は煙がモ
ウモウ。<略>

(3) すっぽんの首
           椎名誠

 タクラマカン砂漠をクルマで越えて、まだ開放前の楼蘭
にいったとき、日本の探検隊の食事を用意をしてくれたの
は中国隊であった。
 ときおり羊の料理がある。羊は生きたのをそのまま連れ
ていった。
 羊は首を切って殺される。羊を料理するたびに中国人の
料理人は屠った羊の首を料理の鍋の前に置いていた。
 つまりその羊の生首は自分の肉は料理されるのを自分で
眺めている、という仕組みになるのである。
「なんでそんなことをするのか?」
 と、中国人の料理人に聞いた。
「はっきりした理由はわからないが、自分の郷里では羊を
殺すといつもこうしているのだ」
 と、その料理人は答えた。
 その時はそれで話は終わってしまったが、日本に帰って
きてあとでいろんな本を読んでいると、少しその理由がわ
かったように思った。
 源はどうやら中国の古代の生贄制度にあるようだ。
 その昔、中国ではなにかというと生贄をささげて城だの
橋だのを作った。すなわち神に人間の生首などを捧げてい
たわけである。しかし時代をへてくるにつれて、それでは
あまりに酷たらしいというので、やがてそれは人間のかわ
りに豚や羊の首で代用されていった。
 へっついの羊の生首はどうやらそういったしきたりの名
残であったようだ。<略>
 
(4) 田中康夫の過激な1カ月
    東京ペログリ日記
           田中康夫

 7月20日(火)
 成田でW嬢をピックアップ。ジン
ギスカン鍋を食そうと欲するも、料
理店を見出せず。上荻の白頭山。何
故、称揚する向きが居るのか。同日
付「産経」」が社説で、神戸空港不要
論を改めて展開。
<略>
 7月25日(日)
 鎌倉、石原慎太郎、小沢一郎の各
氏も出席のカドキホール。神式なる
告別式を初めて体験の後、火葬場。
下顎の部分を拾う。
 自宅に立ち寄り、成田でW嬢をピ
ックアップ。三里塚に隣接の大清水
に位置する野沢羊肉店でジンギスカ
ン。極めて秀逸。御料牧場が存在せし
往時と異なり、ニュージーランド産
とか。W嬢、御満悦。帰路、湾岸幕張
パーキングエリア売店で納豆味キテ
ィ煎餅、味噌味キティ拉麺を発見。バ
ービー人形と並んで目がないW嬢に
買い求める。後者はキティ丼付き。
<略>
 8月10日(火)
<略>
 W嬢をピックアップ。神宮外苑花
火大会で青山通りは大渋滞。上野に
の東京ジンギスカン。タレに林檎が
含まれず、今一つ。と支配人に提言し
ていると頷く隣席の男性二人。話す
や、一名は81年春に札幌でインタヴ
ューを受けし「北海道新聞」M氏。一
名は89年に名古屋でインタヴューを
受けし「朝日新聞」A氏と判明。共に
鮮明に僕も記憶する。取り分け後者
は、デザイン博と銘打った海洋経済
的空間に於けるシンポジウムで、僕
がイヴェント自体を痛烈に批判した
恐い物知らずな過去を語り、思わず
微苦笑。三里塚から程近き野沢羊肉
店のジンギスカンを薦める。<略>

(5) オホーツク街道
           司馬遼太郎

<略>昨夜は、稚内で一泊した。夜、街に出て、宗谷湾の
水蛸を薄くスライスしたものを、シャブシャブにして
食べた。
 スライスは、北海道のお得意芸らしい。二十数年前、
苫小牧の製紙工場が試製したという燻鮭(スモークド・サーモン)をもらっ
て、うまさにおどろいた。当初は手切りだったそうだ
が、ハムスライサーを改良した機械で薄く薄く削ぐよ
うになったのだそうである。
 もう一つ記憶がある。昭和三十二年ごろ、小樽に
ちかい峠のレストランで、熱した半球の焼き道具の上
に、透けそうに薄い羊肉をのせて食べた。店では成吉
思汗鍋とよんでいた。おそらく当のチンギス・ハーン
も、これほどの薄切り肉を食ったことがなかったろう。
 ミズダコは亜寒帯の海底に棲むタコだそうである。
大きいのは三メートルほどもあり、その足の一片の薄
さはハスの花びらのようだった。
「稚内名物です」
 と、講釈をきかされた。大阪あたりでこの食べ方が
おこなわれていたのを、ミズダコの産地の稚内にもち
帰ったのだという。<略>
 平成12年の(1)は雑誌「日本語学」1月号の特集「食べ物とことば」からです。「各地方言の食生活語彙を散歩する」の北海道方言について北海学園大の菅泰雄教授が書いています。菅さんによれば「北海道では、『生ずし』『生ちらし』と、『生』を付けて言うのが普通である。この言い方は、いわゆる『気づかない方言』と言えるもので、方言であることを意識している人は少ない。」(30)と言われて、私もそう言われれば「ソダネー」と認めます。
 私が特に注目するのは「筆者の頃にはなかった『ジンコン』とか『ジンパ』ということば」です。北大文学部同窓会員名簿によれば、菅さんは国文専攻で昭和56年博士課程満期だから、それまでにジンパ、ジンコンという言い方はせず、単にジンギスカンだったということであり、それも国語専門だったOBの証言だから信用したいよね。
 北大150年史編集室では「ジンギスカンを大学構内のどこで行っていましたか? また、それを『ジンパ』と呼んでいましたか?」と北大の公式ホームページで同窓生に尋ねているんだよ。知らなかっただろう。2行下の「ここをクリックする」をクリックすると、その重要にページが見られるようしたから必ずクリックしなさい。
ここをクリックする
 それで私も数人の有志にお尋ねして得られた答えを同編集室に伝え、さらに新バージョンでは仮題「最難問は北大生がジンパと呼び始めたころ」というページを開き、OBOGの記憶を尋ねることにしておるのです。匿名、ニックネームでも結構、メールで知らせてくれたら、ジン鍋の絵の切手を進呈するつもりです。
 (2)は函館短大の村元直人教授が書いた「北海道の食」からです。「北海道の食」という本だから、羊毛、羊肉を利用しようとしたのは、当然道民となるのでしょうが、初めから焼き肉として食べることしか考えていなかったような表現ですよね。まあ、焼き鳥風にして食べようと工夫したといえなくもないがね。
 巻末の「蝦夷・北海道食物史関係年表」に「一九三七(昭和一二)広尾村内で初めてジンギスカン鍋の料理法が紹介された。」(31)とあります。昭和3年に札幌、小樽、旭川3市で鍋羊肉としてジンギスカンの料理講習会を開かれたことを思えば、郡部では随分遅かったことがわかります。
平成12年
(1) ●北海道
           菅泰雄

 <略>今から三〇年程前、筆者が大学生の頃、仲間でスキヤ
キを作ろうということになったが、東京出身の学生が牛
肉を買ってきたため、皆驚いたという話があった。スキ
ヤキと言えば、庶民レベルでは豚肉が普通だったのであ
る。また、ネギもタマネギを使うのが普通であった。今
では、牛肉、長ネギと「共通語化」している。
 肉と言えば、羊肉もジンギスカンとして道民や観光客
に人気がある。北大のキャンパスでは、学生達がジンギ
スカンを囲んでいる光景を見かけることがある。筆者の
学生時代でもあった伝統が今でも受け継がれているので
あるが、ただ一つ変わったことがある。筆者の頃にはな
かった「ジンコン」とか「ジンパ」ということばである。
ジンギスカンコンパ、ジンギスカンパーティーの略で、
北大キャンパスことばと言えるものである。

(2) ジンギスカンのルーツ
           村元直人

 羊毛は衣類に利用されたが、羊肉の利用は思うように進まなかった。羊毛を刈る品種の肉には独特の「臭さ」があり、それが人々の嗜好に合わなかったものと思われる。満州事変から日中戦争へと戦争が拡大して食料事情が悪化すると、ようやく羊肉が食材として注目されるようになった。羊肉の匂いを消すため、ニンニクやタマネギを醤油に加えた「たれ」を工夫し、これに羊肉を浸して焼いたり、あるいは焼いた羊肉に「たれ」をつけて食べた。「たれ」にはニンニクなどのほか、リンゴをすったり各家庭独自のものであった。 当時の羊肉は脂が多く、家のなかで焼くと匂いがしみつくので、屋外で焼いて食べることが多かった。これが近年北海道にさかんに食べられている、「ジンギスカン」という羊の焼き肉料理である。近ごろ北海道で食べている羊肉は、日本人の嗜好にあう肉用の羊で臭みはない。羊肉の「ジンギスカン」料理はつとに有名であるが、北海道で生産しているわけではなくほとんど輸入品である。「たれ」もまた家庭でつくることがなくなって、市販されているものを使用している。北海道を代表する「ジンギスカン」料理ではあるが、北海道で生産してるものがなにひとつないといってよいほどの料理である。
 平成13年の(1)は昭和63年からの第30次と平成9年からの第38次の2回、調理担当隊員として南極で越冬した海上保安官、西村淳の「面白南極料理人」からです。
 初めて越冬隊員になったとき「イメージとして、『日本中から選抜された観測隊員に対しては毎日ごちそう責めにしてやらなければいけない』と崇高な使命感に燃え」(32)高級食材はごっそり持ち込んだものの、サンマなどの大衆魚を見事に忘れた。さらにオーストラリアで「牛肉の安さに歓喜して」またもや鶏肉や豚肉を買い忘れた。
 その結果、30次越冬隊員は「Tボーンの焼豚風・牛ひれのハンバーグ・伊勢エビ団子のみそ汁・サーロインの角煮など、日本の調理人が聞けば、あまりの採算度外視、八方破れに脳溢血を起こして倒れてしまうメニュー」(33)が楽しめたそうだ。それはともかく、南極ジンパは羊肉を凍らせないよう鍋奉行は忙しかったことは確かなようです。
 (2)は「北大野球部100年史」からです。「動物のお医者さん」ですっかり有名になった獣医学部のある北大ならでは、でね。鶏を絞めるのもなかなか面倒なのに、綿羊をですよ「皮をはぎ、骨を外し、食べやすいように肉を刻む。」とあっさり書いているあたり、察するに獣医学部の部員もいたんでしょう。綿羊1頭当り食べられる肉量は20キロとみて2頭で40キロ、40人で食べたらしいから1人当り1キロ、飲みながらですから充分だったでしょう。そのときのスコアは16対6、北大の大勝とは出来すぎじゃないかなあ。
平成13年
(1) ジンギスカン大会
           西村淳

<略> マイナス四〇℃でジンギスカンパーティーを行うと、どんな風になるのか説明しよう。まず焼けた肉や野菜は皿に盛って、その後おもむろに口に持っていく通常の過程は不可能。焼けたら速攻で口に投入しなければ、たちまち、ほんとにガチガチの冷凍状態に逆戻りしてしまう。もちろん解凍してボールに盛ってある肉も、焼く分だけ鍋の上に置き、後は屋内と会場を忙しく行ったり来たりを繰り返さないと、氷の塊に変身してしまう。
 飲みもの類は、缶ビールは空けてから一分以内に空にしなければただの苦い氷になってしまうし、日本酒は紙コップに入れてものの数分でシャーベット状に返信。かろうじてウオッカやウィスキーは持ちこたえるが、これも二〇分ぐらいで瓶の中に氷の柱が立ってくる。
 最後まで頑張るのが、まさにこの目的のために存在していると言っても過言ではない「コンクウィスキー」だった。通常のウィスキーは四五度くらいだが、これは六五~七〇度のアルコール度数。「しらせ」艦内でも記念品として配布されるが、グラスに注ぐとアルコールのもやもやが立ち上がり、通常はとても飲めた代物ではない。それがこういう環境で飲むと、飲んだ瞬間はキリッと冷たく、胃に収まるとカーッと腹の底から熱気が上がってくる。ダイナマイト! 酔いが回ってくるのもダイナマイトで、こればかりで酒盛りを進めていくと瞼にシャッターが降りるごとく、ある瞬間に意識がとぎれて闇の世界に落ちていく。<略>

(2) ジンギスカン料理でもてなし
           北海道大学野球部

<略> 北大の打線が爆発して圧勝したが、試合後の合同コンパが語り種になった。北大側は球場から恵迪寮に取って返すと、2グループに分かれた。獣医学部から2頭の羊を購入し、絞めてもらっていたが、1グループはその解体に取り掛かった。皮をはぎ、骨を外し、食べやすいように肉を刻む。手を血だらけにしての作業だ。野菜類も次々刻んだ。別のグループはタレ作り。大量の大根とニンニクをおろし、しょう油にぶち込み、それに肉を漬け込んで準備を完了。
 夕方から寮の裏の原始林でジンギスカン料理での接待が始まった。両チーム合わせて40人ほどがジャンボボトルのビールを飲みながらの歓談で、肉はいくらでも食べられた。双方から歌も飛び出し、宴は遅くまで続いた。東北大との定期戦は1951年に復活後、仙台と札幌で交互に催されてきたが、1956年に他の競技も参加しての総合対抗戦になったことから野球は55年・56年と続けて仙台開催になった。その返礼もあって、北大側がジンギスカンなべの宴を企画したものだ。
 1947年、インターハイ東北予選に出場した当時の北大予科ナインが二高明善寮で混ざり物のない白米の握り飯を供され、随喜の涙をこぼしてから、ちょうど10年目のことだった。タレ作りをした恵迪寮の野球部員の居室は1週間以上ニンニクのにおいが消えなかったが…。
 平成14年の(1)は明治大教授黒川鍾信氏が書いた「神楽坂ホン書き旅館」にある戦前の「成吉思荘」の繁昌ぶりです。平成19年に新潮社が出した文庫本からですが、同14年5月に日本放送出版協会から出た本でもあるので、ここに入れました。
 主題の旅館「和可菜」の経営者、和田敏子は和田つまこと女優木暮実千代の妹で、戦前から義母和田津るとともに「成吉思荘」を手伝っていた。それで陸軍大将阿南惟幾は同荘を訪れる度に、敏子を可愛がり、いい婿さんを見つけてあげるとよく言っていたという。
 黒川氏は和田家の親類で平成7年に「木暮実千代 知られざるその素顔」を出しているが、その取材で「成吉思荘」の松井統治さんに何度か話を聞いたようで、私が松井さんに「黒川という人が木暮実千代のことを書いた本が出てますね」といったら「余計なことを書くなよと言ってやったんだ」と言われたように記憶してます。それは和田津る、敏子あっての成吉思荘みたいに書くなよということだったんですね。
 (2)と(3)は奇しくも札幌市月寒にある八紘学園の創立者栗林元二郎を中心とする本です。それで(2)の「八紘学園七十年史」では昭和11年9月に石狩平野で行われた陸軍特別大演習で来道した八紘学院理事長でもある海軍大将財部彪はじめ陸海軍大将9人が学院視察に訪れ、生徒の様々な農作業を見た後、昼食としてジンギスカンなどを食べたあたりを引用しました。
 (3)の「続・ほっかいどう百年物語」からは戦後、校名を月寒学院と変えさせられ、有志からの援助もなく、苦しい学院経営を支えるため「ジンギスカンクラブ」を開業し、ジンギスカンが北海道名物となるきっかけとなったことなどを示します。ただ「百年物語」には長くなるので引用していないが、220ページから221ページにかけてジン満洲からのジン鍋持ち込みに関して重要なことが書いてあるので、そこを読みます。

 しばらくすると経営も安定し、学生数も増えたため、昭和14年、43歳の時には、国策で中国東北部開発にも乗り出しました、アーチョン市郊外に4千ヘクタールの土地を確保して「八紘村」を建設、元二郎はここで酪農を主体とした大農式の農業を展開しようとし、全道から募集した総勢5百名の移民団を組織して、馬や牛、農業機械も持って行きました。
 ところが日本の敗戦で、この事業は水の泡となってしまい、元二郎や八紘学園の卒業生は、運営や指導を続けられなくなり、引き揚げることになってしまいました。<略>
(34)
 これを受けて「ところで、元二郎が中国から帰国とした時、一緒に持ち帰ったものかありました。それは、シンギスカン鍋でした。もともと羊の肉は、モンゴルの主食のようなものでしたが、中国では伝わっておらず、羊肉を鍋て焼いて食べるようになったのは、日本人が行ってからてした。」(35)と書いてあります。
 これだと栗林さんは終戦当時、旧満洲にいたことになりますが、彼は札幌にいたのです。だからジン鍋を持っての引き揚げはあり得ない。私は満洲引揚者だから知っているが、写真すら取り上げられたし、現金も1人何円と制限され、尽波家は極貧の夫婦子供合せて7人分の金なんかない。なにがしかの謝礼をもらう約束で、金満夫妻から7人分満タンになるだけ預かって乗船したことを覚えています。
 八紘村を開いた一帯の中国人は緬羊と牛馬は飼っていなかったとしても、豚とロバは飼っていたでしょう。羊肉はなくても困らない暮らしだったと思いますね。
 この後の平成15年の本として「北海道聞き書き隊選集」があるが、それに八紘学院助手だった千田恵吉さんの話があり、千田さんは栗林さんがジン鍋を満洲から持ち帰ったのは昭和12年。「なにしろジンギスカンの兜のように頭がとんがっている。ひっくり返して深い方を底にして使うのかと思ったらどうもそうでもないらしい。<略>農場の片隅で七輪に火を起こして、私ら助手を集めて「満洲じゃみんなこうやって喰っている」と云って喰わせてくれました(36)と語っています。
  満洲に行ったのは「追想記 栗林元二郎」の年譜「この一生」によると、昭和12年4月、満洲国新京市の嘱託となり、同年末には新京酪農株式会社創設代表者になっている(37)ことから、これらの出張の土産に鍋を買ったのでしょう。
 この年譜で初めて知ったのですが、昭和41年8月、いまは国土交通省ですが、当時の運輸省からと思うのですが、栗林さんは「ジンギスカン開拓の功績に対して観光産業功労章を授与さる」(38)とあります。道内某町観光協会が受章した例があるので、もしかすると北海道遺産委員会も受章ずみかも知れませんよ。うっふっふ。
 (4)は作家の金井美恵子が30年前「ドをつけたい田舎町」で味わった焼き鳥店の味噌ダレについて、檀太郎の「木の実ダレ」のレシピから推理する随筆です。その店では焼き鳥のほかに「突き出し風に生のキャベツの角切り」にも味噌ダレを付けて食べさせていた。「確かにとてもおいしい」そのタレは「ニンニク、ネギ、ショーガ、唐ガラシにサンショウ、コショウ、ゴマ、それにクルミ」入りと金井姉妹は判定し「どうやって作るのですか、と、つい質問しました。返って来た答えは、『企業秘密だから』でした。」。それで金井さんは切れた思い出があったのです。
平成14年
(1) 実母の思い
           黒川鍾信

<略> その後の和田牛乳店は、早死にした重夫に代わって津るが守ってきた。だが、戦争に男手を奪われ、昭和十七年の暮れには本店や郊外の牧場を閉めなければならなくなった。これは和田だけの問題ではなく、東京市内の牛乳店はどこも同じだった。
 津るは女学生の敏子を連れて杉並区高円寺に移り、和田の親戚が経営する料理店で働くことになった。この店はジンギス汗鍋を中心とした肉料理店「成吉思荘」で、この頃は陸軍御用達の料理店として飛ぶ鳥を落とす勢いであった。首相で陸軍大臣を兼任していた東条英機、小磯内閣で陸軍大臣を務めた杉山元、鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣を務めた阿南惟幾などが来店するだけでなく、大將、中将、少将クラスの陸軍幹部が馬事公苑で行う遠乗りの日の打上げ宴会や、軍事会議が終わったあとの夕食会など、いまで言うケータリング・サービスなどもしていたのである。
 雇われ女将として都るが店を切り回すようになってから、店は益々栄えた。津るは、商家に生まれ商家に嫁ぎ、下谷区でつねに五指に入る多額納税店・和田牛乳の女将さんだった人である。商才だけでなく才色兼備の人だったので、陸軍のお偉方を贔屓筋にするのは彼女にとってさほど難しいことではなかった。<略>

(21) 陸軍大演習と学院
           八紘学園七十年史

 昭和一一年九月末、昭和天皇の来道をお迎えして陸軍特別大演習が石狩平野を舞台にして繰り広げられた。演習には陸軍の将官多数が視察のために来道したが、そのなかに学院評議員の菱刈隆陸軍大将も含まれていた。また海軍出身の財部理事長も陪席のため来道、学院に宿所を定めていた。菱刈隆大将はこれまで学院を訪問する機会がなかったため、財部理事長を通じて、来道を機に、自分の目で学院の実情を視察したいと申し出た。これを知った学院では菱刈大将のみでなく、来道した多くの将官にも学院の現状を紹介し、大規模農業と青年教育への理解を深めてもらおうと、財部理事長を通じて来道中の陸海軍の将官の学院への招待を申し出た。これに対して各将官が招待に応じ、大演習の合間の一〇月二日、前、元陸海軍大臣を含む、陸海軍の九大将が学院に会するという前代未聞の招待視察が実現した。<略>
 視察後は正午からテニスコートの中にしつらえた会場で九将官を歓迎する野宴が開かれた。会場では学院の独特の野天に火を焚いてのジンギスカン焼き、豚のさつま汁、赤飯や燕麦飯、農場特産の果実類が机いっぱいに並べられ、さらにビール会社から差し入れのビール樽も積み上げられ、余興には生徒らによる"八紘相撲"も登場して参会者一同、歓を尽くした。<略>

(3) 栗林元二郎(1896~1977)
           続・ほっかいどう百年物語

<略> ところで、元二郎が中国から帰国した時、一緒に持ち帰ったものかありました。それは、シンギスカン鍋でした。もともと羊の肉は、モンゴルの主食のようなものてしたか、中国では伝わっておらず、羊肉を鍋て焼いて食べるようになったのは、日本人が行ってからてした。
 戦後、八紘学園の農地解放問題が起こり、以前から築いていた中央財界の人たちからの資金援助も一切なくなったため、学園の経営はかなり厳しい状態に陥りました。そこで元二郎は苦肉の策として、昭和28年、学園のキャンパス内で「ジンギスカンクラブ」を発足させました。クラブ方式にしたのは、学園の設備を整えるための資金集めか狙いでした。
 このクラブでは、室内では部屋中に匂いかついてしまうという欠点を補うため、野外で食べるようにしました。また、昔からあった石炭ストーブのロストル式の鍋を用いて、余分な脂肪を下の炭火に落としながら焼き匂いを消すという工夫もしました。
 元二郎は、各界の名士を招いては宴会を開き、このジンギスカンクラブを大々的に宣伝しました。特に、北海道は政財界の要人の来訪か多いため、昼食に北海道らしい食べ物で接するには、ジンギスカンのような、野性的な趣きの料理が向いていたのです。
この元二郎のおもわく通り、人々は皆珍しいジンギスカンに興味津々で、社交の場としてもおおいいに効果をあげました。
 昭和40年代になると、道内のめん羊飼育数は20万頭になり、ジンギスカン料理の専門店が次々とオープンするようになりました。当時、羊の肉は比較的安く、また野菜も道内で豊富に取れるモヤシやたまねぎと良く合うため、家庭でもジンギスカン料理を楽しむようになり、様々な行事に欠かせない北海道名物になりました。

(4) 秘伝のタレ
           金井美恵子

<略> さて、それから、ほぼ三十年たった、つい何日か前です。夕食のテーブルの仕度をしながら見ていたNHKの「きょうの料理」に檀太郎が出演していて、父君一雄氏の「木の実ダレ」というのを作っていました。中国の北方でよく食べる羊の肉のシャブシャブやジンギスカン焼に付けて食べたのだそうで、作り方は、ミキサーを利用すれば、とてもスピード・アップ出来ます。檀家では、昔は、子供たちが変りばんこに材料の木の実を摺鉢で摺って半日仕事だったと語っていましたが、子供の時は摺鉢でゴマを摺る手伝いをすると、本当に腕がだるくなったのを思い出しました。
 メモしておいた作り方は、『檀流クッキング』という、そういえば、そういう「元祖男の手料理」とも言うべきか、男の手料理といえば、豪快という神話を作ったのかもしれない本があった、と思い出した檀一雄の料理本に出ているそうですが、<略>「木の実ダレ」をキャベツに付けて試食しましたが、舌の記憶というものは恐ろしいもので、期せずして、二人とも、ババアのところには、カシュー・ナツツと松の実が入ってはいなくて、サンショウと麻の実が入っていた、と気付いたのでした。
<略>この「木の実ダレ」の味は、さすが、と言ってもいい、微妙でかつ気取らない深みのある、それでいて、爽やかで、たとえば、なんとなく香港テレビ味という感じのするXO醤のような物のとは比べようのない上品で淡白な味わいで、「タレ」とか調味料というより、それその物を食べている、という感じの食べ物です。<略>
 平成15年の干支は未年。それで北海道新聞は記者2名を探偵団として羊肉料理のジンギスカン料理のルーツなどを調べさせた。その3回目の報告が「ジンギスカン料理」という名前調べで「ジンギスカン料理の権威」である道立中央農業試験場の高石啓一研究主査に尋ねたら「命名者は札幌農学校出身で、満州国建国に深くかかわった駒井徳三氏でしょう。」と答えたというのです。
 高石さんは7年前に知った吉田博の「ジンギスカン料理物語り」をじっくり吟味した筈ですが、駒井徳三命名説イコール元満鉄社員塩谷正作の作り話を真実と認定したのですなあ。
 何度も言うが、藤蔭満洲野エッセイは「命名した」ではない。「私は亡父についての原稿を依頼され、また逆に、ジンギスカン鍋は父が日本に紹介した始めての人だということなども知った。」ぐらいの関係だったので、正直に「なんとなくつけたのかも知れない。」と書いた。探偵共は「札幌百点」で確かめずに書いたとしか思えないね。
 それでね、道内では最大発行部数を誇っていた道新がですよ、駒井命名説を広めたことになり、今やジンギスカン料理・鍋の命名者は駒井とするホームページが大多数になり、最新の生成AIも駒井命名説が有力ですと答えるようになったのです。
 (2)は「人事院月報」という堅い雑誌の連載「地方事務局から」に北海道事務局の宮本義晴局長が寄せた「単身生活よもやまばなし」からです。同氏は「地方勤務の経験はなく、初めての転勤であった。札幌出身の妻にとっては、朗報であり異存のあろうはずはなく、てきぱきと引っ越しの段取りをするその手際の良さにその喜びようが見てとれた。」にも関わらず、親の介護と家の管理のため奥さんは置いて来た。霞ヶ関暮らしの長い同氏にすれば日々は驚くことばかりと記してますす。
 (3)は昭和19年、八紘学院が校舎復旧協力のお礼と千島出動の送別宴を兼ねて、月寒の第25聯隊の兵士にジンギスカンを食べてもらったという実話です。
 千田さんの思い出話で引用できなかった箇所によると、昭和18年1月、火事で学院の校舎と棟続きの寄宿舎が全焼した。復旧用の資材が手に入ったとき、隣の北部軍の樋口季一郎司令官が兵士を派遣して校舎と寄宿舎を再建してくれたそうです。もっとも、栗林院長は将官待遇で千島や樺太にいる北部軍のため野菜栽培を指導しており、樋口司令官と親しかったということもあったようです。
 (4)は札幌に住んでいる作家小檜山博氏の43年前の花見の思い出です。おしまいの方に奥さんから「なんだか浮かない顔してるわね」といわれ「そうかなあ」とはぐらかしたとあるが、それは43年前の好きだった女性が花見に現れ愕然とした思い出が、桜を見ていて、ふっと蘇ったからだということはわかるよね。脱線になるからやめとくが、私は円山の花見より今は北海道神宮と呼ばれる札幌神社お祭りの方がきっちり記憶に残ってますな。
 (5)は長男の肇が終戦までプロペラを造っていた大阪のS金属に電話して、工員200人を統率していた亡父が俳名「はなを」で投稿していたことを知り、大阪の図書館で句誌を捜し「椿赤しかたへの梅はまだ咲かず」を見付る。さらに「春眠の覚めがたきかな歌時計」「幟見る産褥の窓開けやりぬ」などから過ぎし日々を追憶する―というストーリーです。
 (6)は雑文製造販売処「鉢山亭主人」と称する作家、佐藤隆介が全国33の料理店と名物について書いた「がんこの卓上 日本口福紀行」からてす。道内では札幌の「だるま」のジンギスカン、函館の五島軒のカレーライスを味わい、別海漁協の塩引鮭も紹介している。
 ジンギスカンのことで「羊肉の焼き加減はロゼに決まり」とあり、初耳のロゼとは何ぞやと宮中料理のメニュー解読に使った「フランス料理仏和辞典」で確かめたら、バラ色、薄赤の色という形容詞で「ピンク色くらいに火を通したフォアグラ」などという例文が並んでいたので、とにかく正しい料理用語と納得したが、塩と胡椒だけで味付けした骨付きラムチョップが大好きという佐藤氏ならではの表現でしょう。
 ただ、わがジンギスカンの原形とみられる北京や満蒙型の烤羊肉は薄切りして高熱焼きを旨とし、ロゼなんて全く念頭にない。また一戸伊勢、糧友会、山田喜平というジンギスカンの流れにも、バラ色焼きはなく松葉燻しの香りつけだし、ジンギスカンの羊肉は厚めに切るとよいと書いた料理書もない。やっぱりジンパの肉は速く焼けるよう薄切りがいいよね。
 (7)は林真理子の「トーキョー偏差値」からです。日本大学の公式サイトを見ると、同大OB「撮影:篠山紀信」と説明付きの林真理子理事長の写真付きの理事長メッセージかあります。理事長のプロフィールを見ると、昭和51年芸術学部文芸学科卒、6年後にエッセイ集「ルンルンを買ってお家に帰ろう」を出版。以後多くの著書を出したことは知っておるが、フランス政府からレジオンドヌール勲章、日本政府から紫綬褒章を授けられたお方とは知らなかったね。
 サッカーのベッカムは平成2年、アルゼンチンとの対戦のために札幌に来たから、林さんはそのとき札幌まで出かけたわけだ。「仕方なく、何年かぶりかに夫と旅行することにする。」という倦怠感がいいなあ。
 (8)は、ここの(1)にも出た高石啓一さんが「畜産の研究」10月号で発表した「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」からです。未年だからね、道新に「ジンギスカン料理の権威」と書かれた道立中央農試の研究主査は、やはり黙っていなかった。平成8年に発表したようにジンギスカンという名前は日本人の命名であり、昭和5年頃から使われたと思うと書いたのです。高石論文はもう少し後で、もう一度取り上げます。
平成15年
(1) 調査報告その3 ルーツを探る
           北海道新聞探偵団

<略> ジンギスカン料理がこの名前なのはなぜ? これが探偵団をとらえた最初の疑問だった。「モンゴルがルーツだからだろう」と、聞き込みを始めた。しかし…。
 「モンゴルではもちろん羊肉を食べる。でも、ジンギスカン料理はありませんね」
 中国・内モンゴルで羊料理を学び、滝川市でラム料理の店「ラ・ペコラ」を開く河内忠一さん(48)が軽やかに答えた。いきなり見込み違いだ。
 内モンゴルの羊肉の料理は塩味で煮た「シュウパウロウ」がメーン。羊肉を焼いた中華料理「コウヤンロウ」もあるが、ジンギスカンとはほど遠いという。
 道立中央農試(空知管内長沼町)にジンギスカン料理の権威がいる。高石啓一研究主査(59)だ。わらにもすがる思いで高石さんを訪ねた。
 「羊の肉をどう利用するか。そのためにジンギスカン料理ができたんです」
 明治時代、羊毛は厳寒地用の軍服の素材に欠かせなかった。だが、第一次大戦時に輸入が絶え、政府は一九一八年(大正七年)、羊毛自給をめざす「綿羊百万頭計画」を開始した。軍備を支える国策としての綿羊飼育で、滝川や札幌・月寒など全国五カ所に種羊場が開設された。肉の活用も種羊場を核に進められたというわけだ。
 では、ジンギスカンはだれがいつ考えたのか。「命名者は札幌農学校出身で、満州国建国に深くかかわった駒井徳三氏でしょう。ジンギスカンの文献での初出は昭和六年(一九三一年)にさかのぼれる」と高石さん。
 日本軍の旧満州(現中国東北部)進出にからみ、身近だったコウヤンロウをヒントに日本人の口に合う羊肉料理が考えられる。そして義経伝説に連なるジンギスカンの名前が付けられた-。
 駒井氏が満州にちなんで名付けた娘の満洲野(ますの)さん=故人=も「父がジンギスカン鍋と命名した」と一九六三年発表のエッセーに書いている。
 孫で登山家の今井通子さん(60)=東京都世田谷区=は、祖父の豪快な姿をよく覚えている。「撃ったカモを腰にぶら下げて帰り、ごちそうしてくれた。温和さと野性味を併せ持つ人でした」。大陸的なロマン漂う命名をしたのもうなずける。<略>

(2) 単身生活よもやまばなし
    ―豊かな北の大地に魅せられて―
           宮本義晴

●初めての転勤<略>
●単身赴任の暮らしぶり
<略>
 チラシをみててショックを受けたのは、不動
産物件の価格である。数年前東京郊外に必死の
おもいで小さな住宅を手に入れた。男子の本懐
を遂げ「夕べに死すとも可なり」の心境であった
はずが、あまりの安さに、買う気も資金もない
が、何かの間違いではないかと、憑かれたよう
に内覧会やオープンハウスの見学に行き、どの
物件も文句のつけようがない。
 これも豊かで広大な「北の大地」のなせるワザ
なのか。<略>
●札幌の四季折おり
 例年、桜の開花はゴールデンウイーク明けだ
そうだが昨年は十日ほど早かったそうで、北海
道神宮や円山公園には大勢の市民がくり出し、
東京では考えられないが、桜と梅が同時期に開
花した木々の下では、あちこちでジンギスカン
を焚き、待ちに待った春の到来を愛でる宴もた
けなわといったにぎわいである。
●おわりに
<略>
 また、地下鉄やバスの優先席が老人や身体に
障害を持つ人がいなくても、だれも座ろうとし
ないことや、傍若無人に携帯を使っている姿も
ついぞ見かけない。テレビ手も毎日のように、
地域のボランティア活動や自然や歴史などを取
り上げ放映しているのもいいい。
 赴任してまだ一〇か月で旅行者的視点かも知
れないが、あながち間違っていないのではない
かと思う。
 景気の低迷、雇用不安等身近なものから政
治、経済等まで混沌としている世情の中でも、
どっこい元気溌剌生きている「道産子・さっぽ
ろっこ」に、そして全てを豊かにする「北の大
地」にエールを捧げたい。
          (みやもと・よしはる)

(3) 兵士の送別ジンギスカン
           千田恵吉

<略> いよいよ壮行会当日です。兵士たちは何も知らされず、雪上
訓練という名目で、福住の農業試験場のあった雪原まで雪中
行進です。兵士達の行軍で踏み固められてできた道の最後か
ら大きなソリを何台もついていきます。ソリの上には何十個
の七輪、それに炭俵が積んであります。別のソリには解体し
た緬羊の肉が山積みされてます。
 そうです。栗林先生の発案で兵士達のために雪上ジンギス
カンが農業試験場の雪原で開かれたのです。そのときたれ作
りを担当したのが私です。たれといってもケチャップにソー
スと醤油を混ぜて、適当に香辛料を入れて味付けしただけで
すが、農産加工をまかされていたのでいつのまにか舌がうま
みをおぼえていたのですね。自分でいうのも何ですが、でき
あがったものはなかなかのものでした。
 いまから思うと素朴な味でしたが、なにも知らされずに
ゴザの上に並べられた七輪を囲んだ兵士たちは焼き肉のごち
そうにびっくりです。まだいまのようなジンギスカン鍋はあ
りませんでしたから、鍋は平な鉄板焼きみたいなものでした。
それでも始めて口にするジンギスカンに兵士達は大喜びです。
なかには涙ぐんでいた兵士もいました。樋口司令官も栗林先
生とおいしそうに七輪を囲んでいました。これが私のジンギ
スカンとの二度目の出会いでした。<略>
 実際にあのとき、樺太に渡った兵隊の皆さんはソ連軍の攻
撃、その後のシベリア抑留で二度と祖国の土を踏むことなく
亡くなった人も大勢います。<略>

(4) 円山の花見
           小檜山博

<略> サクラは三月末に関東で開花したあと、一日に二十キロの速さ
で北上、四月末に青森、津軽海峡を一週間かけて渡り
札幌は五月五日ごろに開花する。
 ぼくと妻は毎年、札幌・円山公園へ花見に行く。北
 海道神宮の境内に入ると綿飴屋や金魚すくい、お面屋
や焼きイカ屋など出店が並び、拡声器から音量をいっぱ
いの流行歌が流れている。おびただしい人波だ。
 ぼくらは缶ビイルと焼きイカ、味噌オデンを買い、
サクラの花の下へビニイルを敷いて座る。まわりでは
何十組もの人々が携帯のガスコンロで綿羊の肉を焼い
て食べている。ジンギスカンだ。円山公園は花見の時ときだけ火
を焚いて煮たり焼いたりするのが許される。<略>
五月、ぼくは同じ下宿の二十九歳の銀行員に花見に誘われた。
好意をもっている女性と行くのだが、自分一人で行くのは
いかにも露骨なのでぼくに付き合ってくれというものだった。
 円山公園に行って驚いた。銀行員が連れて行った女性は、
ボクが教えている中学生の姉なのだった。ぼくはひどい
めまいがし、体がだるくてしゃがみこんでしまいそうになった。
<略>
 焼きイカを食べながらサクラを見上げていた妻がこっちを
見、なんだか浮かない顔してるわね、と言った。いや、そうか
なあ、とぼくは缶ビイルを口へ当てて顔を上向けた。眼の中が
サクラで埋まった。

(5) 子の隠し
           神林槻子
 
<略> 「じいちゃんはな、いまは旭川でちっちゃい食堂を
やってるけど、若いころは大阪のS金属プロペラ製
造所で製品検査の工長をやってたんだ」
 旭川から土産に持ってきたジンギスカンをジュー
ジュー焼くのは、こつをのみこんだ父の仕事になっ
ていた。慣れない者が焼くとすぐに焦げ付かせてし
まう。
「それっ、若い衆、たっぷり食えよ」
 マトンやモヤシ、タマネギ、サツマイモなどを孫
たちの皿にとり分けてやりながら、いかにもいま、
秘密を明かすといわんばかりの口調で、今年もまた
父の自慢話が始まった。毎年、十二月はじめに肇の
家にやってきて、一月半ばまで滞在するのが慣例の
ようになっている。中二の敏、小二のゆかりはお年
玉をたっぷりはずんでくれるじいちゃんが大好き
だ。
「じいちゃん、いつ頃の話?」
 声変わりした敏が、笑いを我慢しながらさそう。
「昭和十四年の一月からだな、お前の父さんが二歳
くらいになってたかなあ」
「それまでは?」
「普通の工員よ。戦闘機のプロペラの製品検査は、
ちょっとした狂いも許されない、神経を使う仕事で
ね。軍人が監視してたな。これがいやだった。工員
がずいぶん殴られたもんだ。軍部は増産とスピード
アップをやかましくいうけれど、こっちはね、一ミ
リの精密度が要求されるんだ。結構大変だったんだ
よ」<略>

(6) ジンギスカン
           佐藤隆介
 
<略> マトンにはマトンの賞味法がある。世界中に数えきれないほどあるマトン料理の中で、何といっても白眉はジンギスカンである。特有の臭気を逆手にとり、香辛料に工夫を凝らしてマトン臭を個性的な香りに昇華させ、牛肉にも勝ってキメの細かい肉質を生かし、肉をむさぼり啖う歓びを堪能させる……それでいて安い。
 家族そろってステーキ屋へ繰り出し、みんなで腹一杯食べたらどうなるか。考えただけで恐ろしいが、ジンギスカンならまず懐の心配はない。
<略> だるまのジンギスカン一人前は厚切りのロース・ロース・赤身(もも)の盛り合わせで約一三〇グラム、七百円(他店では普通一〇〇グラム)。六十過ぎの老書生にはどう頑張っても二、三人前が限界だが、これまで五十年間の最高記録は何と十三人前と聞いて、私はシュンとした。
 羊肉の焼き加減はロゼが決まりで、外はこんがり、中はバラ色であるためには、当然、肉はある程度厚切りでなければならぬ。冷凍肉を紙のように薄く切る機械切りでは所詮望むべくもない至福の深い味がここにあった。
 マトンならではのうまさを生かすだるまのたれは、さらっとしてまったく甘くないのが最大の特徴である。それだけで間然とする所がない風味だが、「ご自由にお好きなだけどうぞ」とカウンターに置いてある韓国南蛮と青森にんにくを加えると、さらにいい。
 中国産の十倍も高いという青森産のにんにくをいっぺんに百キロもつぶすのも女主人の仕事。ミキサーにかけたり摺りおろしたりすると汁が出るからダメだという。瓶入りの市販にんにくもガーリックパウダーも無論問題外。
「私があれだけ苦労してつぶした高価なにんにくを、みんな大さじで三杯も四杯も入れるんだから、たまったものじゃないわよ……」
 と、金官澄子はこぼしてみせたが、その目は満足げに笑っていた。<略>

(7) いとしのベッカム
           林真理子

<略> それで小樽まで足を延ばすことになったのであるが、ギリギリになって、もう一枚チケットが手に入ることになった。もうホテルはとれないということで、同室できる人、ということになり、私の夫に声がかかった。仕方なく、何年かぶりかに夫と旅行することにする。
 そして一行は札幌到着、心配されていたフーリガンの姿はなく、目に入ってくるのは警備の人ばかりである。
「試合前に、前菜っていうことでジンギスカンを食べに行こうよ」
 ということで、すごく流行っているお店へ行った。正直いってかなり汚いお店で、コンロでお肉を焼いてくれる。けれども、そのおいしさといったらない。私たちはガツガツとお肉を食べ、生ビールを飲んだ。
 やがてカウンターの横に、二人の男のコが来て座った。顔をイングランドの国旗に塗っているではないか。
「これってどうするの」
 友人が話しかけたら、
「文房具屋さんで売っている、顔用のマジックですよ。よかったら貸してあげますよ」
 赤と白の二本のサインペンを差し出した。
 私はベッカムのファンではあるが、それほどイングランドチームが好きというわけではなかった。けれども、そのサインペンを使って、夫が頬っぺたにイングランドの国旗を描いてくれた。不思議なもんで、ワールドカップを観に行くとなると、こういうことをしても恥ずかしくない。そして次第にイングランドファンになっていくのである。<略>

(8) まとめ
           高石啓一

 「成吉思汗料理」の原点は,大正時代に作られた
羊肉料理法の中にある「羊肉の網焼」であった。
陸軍糧秣本廠の満田百二が昭和6年4月20日増補
再版発行の「緬羊と羊肉料理」糧友会編纂のもの
に記載している「成吉斯汗(ジンギスカン)」で
は,「羊肉の網焼」という言葉を用いており,この
「羊肉の網焼」を「成吉斯汗料理」と充てている。
 したがって,「成吉斯汗」なるものは日本人が命
名した料理であることがハッキリしてきた。<略>
 糧友会の「緬羊座談会」が昭和5年11月8日東
京赤坂三会堂にて行われた。この座談会は農林省
の講演,糧友会主催で催され,<略>
その中で,満田百二「羊肉料理は焼肉がよ
い」と発言しており,今日の試食には,「成吉斯汗
(ジンギスカン)を用意している。と述べた座談
会記録があった。
 ジンギスカンという言葉が出現したのは、先の
「畜産の研究」第50巻第6号で考察したように,昭
和5年に,「ジンギスカン」という名が世に出現し
たといってよいと思う。
 幾人かの人達が中国の北京市街にあった正陽楼
で「烤羊肉」を食べたことをもって成吉思汗が中
国にあったという。なぜに中国の烤羊肉を成吉思
汗料理と強いていうのだろうか。中国で「成吉思
汗」をと注文してもテーブルには出てこない。
和製のものであることは疑う余地もない。時を経
過したことで曖昧としているのか,いや時代の作
為があったといえよう。陸軍糧秣本廠の羊肉食普
及宣伝の秘策という姿が隠れているらしい。<略>
 平成16年の(1)は 平成16年の(1)はジャーナリスト里縞政彦氏が雑誌「自由」に連載していた「保守派のための読書ノウト」70回目の「日本人よ、志に生きよ」からです。内容は佐藤隆介著「がんこの卓上――日本口福紀行」を読み「謙虚な姿勢で食べ歩いているのが厭味がなくていい。」と褒めています。
 さらに狂牛病問題の次にジンギスカンに触れたのは、里縞氏が「がんこの卓上」でジンギスカンのことを読み、網走で食べたことを思い出したからだろうと察してね、図書館で読んでみたらドンピシャ、札幌の「だるま」の味を書いていた。この直前の平成15年の(4)の「がんこの卓上」は、そういう私の推理からの本だったのです。
 (2)はコラムニスト熊谷誠彦氏が北海道で食べたジン鍋に匹敵する美味ジン鍋が東京にないかと食べ歩き、やっと見つけた店に何回か通い、好みのコースが決まったところで書いたルポですな。タイトルの「ラムだっちゃ」の「だっちゃ」は仙台弁で「~だよね」ということだっちゃ。
 (3)は東京・野村獣医科Vセンター院長が自分で飼っている100種もの動物を観察し、そのうちの40種の性質を人間にあてはめてみた本で、羊型は褒めていないので一部にしました。代わりにミルクスネークという小型の蛇の分を紹介すると、赤、黒、白または黄のまだらで、猛毒のサンゴベヒという蛇とそっくりだが、毒なしでペットになる。人なら「一見ハデハデの警戒タイプ。その実つきあいやすい」タイプ―という風に説明しています。
 (4)は道新朝刊1面のコラム「卓上四季」です。前年の道新ジンギスカン探偵団が、お膝元の北大生たちがジンパと呼び、構内のあちこちでジュージューやっていたのに気付かず、高知や岩手のジンギスカン調べをしたように、論説記者がジンパという別名を知るのも遅かったようで「それならこっちは何十年も前からやっている」と負け惜しみを書いてます。ふっふっふ。
 (5)は佐々木道雄氏の「焼肉の文化史」からです。この本はね、文学部同窓会のホームページの読み物だった「現場主義のジンパ学」で、ちょっとの間だけ見せた正宗得三郎画伯が描いた北京・正陽楼の中庭で客が烤羊肉を食べている絵、資料その3をコピーし、同書330ページに《図9-7》として「北京正陽楼のジンギスカン料理(『時事新報』連載・里見惇「満支一見」の挿絵<昭和5(1935)年6月発表>……北海道大学文学部同窓会ホームページ・e楡文(いーゆぶん)の「現場主義のジンパ学」(尽波満洲男)より再掲載)(39)と丁寧すぎる説明付きで使ってくれたので、私は慌てたね。著作権終了まで少し間があったので、すぐ府中市におられた息子さんに弁解とお詫びの手紙を送りましたよ。
 その返信で画伯は昭和2年に満支旅行をしており、そのときの絵と知り、本を検索したら村山鎮雄著「史料 画家正宗得三郎の生涯」に「昭和二年秋満州鉄道本社の招きで有島生馬と大連、遼陽、長春、吉林、ハルピンなど満州各地と北京、天津を写生旅行をし、良い画題を得てその成果は昭和三年第一十五回二科展出品の『北京風景』などに現れている。」(40)とありました。
資料その3
 佐々木本で私が名言だと思うのは「俗説は繁栄する」という一言。真実を証明しても面白い説明になるとは限らない。面白くてもっともらしく作られた俗説がどんどん広がる中で「事実を掘り起こし、それまでの俗説を否定することは、とても大変な努力を要する。私は〝焼肉〟について調べ見て、そのことを肝に銘じた。」(41)と述懐してます。ジンパ学の場合「誰云うとなく」説を消去してしまった駒井徳三命名説がそれだ。駒井説のホームページが後から後からと現れるもんね。
 (6)は北京生まれで10年間医師を務めてから文学史学研究に転じた北京燕山出版社編集長の趙珩が書いた「中国美味漫談」からです。引用し箇所は本では16行だが、ここに烤の字が24字も入っている。烤の定義を取り上げているのだから当然ではあるが、烤羊肉を書いた多くの本があるが、こんな過密な書き方は初めてだろうね。この趙氏の分類に従えば、我が国のジンギスカンは糧友会などが主導した初期は金網を使った烤肉から始まり、敗戦後は金属が自由に使えるようになり、様々な国産鍋が現れて炙肉になったといえます。
 (7)は日経新聞の野瀬泰申記者による「全日本『食の方言』地図」です。野瀬記者は食べ物・グルメ関係を調べて日経の紙面より雑誌などに書いた方が多いんじゃないかと思いますが、それはともかく、同書は食関係のチャットをまとめたような本です。
 (8)はNHKテレビのプロデューサー、演出家として知られた和田勉の少年時代の思い出です。和田によると、父親がカネボウ所有の綿羊の管理者だったため、羊群を連れてカネボウ系列の牧場を移動するたびに転校し、昭和20年には特攻隊の基地があった鹿児島県鹿屋にいた。それで綿羊を乳牛に代え牛乳を供出するよう軍命が下り、やむなく450頭の羊を一挙に感電屠殺したというのです。
 見出しの「玉手箱」は、和田の父親が搾った牛乳を届けて行くと、基地の司令官からたまに渡される小箱のことで、それは特攻隊員へ与える菓子箱だったのです。
 (9)は当時、IT開発やバイオ研究の技術者派遣会社のベンチャーセーフネット会長だった関口房朗氏が、月刊誌「BOSS」に連載していた「馬主日記」からです。苫小牧市のノーザンホースパークでの競走馬のセリでこの日、3頭を落札、4頭目をライバル馬主近藤利一氏に競り合ったのです。翌日もセリに参加、合計9頭、12億2600万円の買物をした。これは国内最高額だったが、関口氏は外国で当時のレートで1頭5億6000万円で買ったこともあるそうだ。まあ、私に言わせれば、異次元の日記だね。
 (10)は農学部OGの作家谷村志保さんの小説「蒼い水」からです。検索で得た情報によれば、谷村さんは函館の雰囲気が好きで、それで函館を舞台にした作品が多く、何度も函館で自著を朗読する会を開いたそうです。沢山ある彼女の作品の中には、ほかにジンギスカンがらみの情景をより詳しく書いた本があるかも知れません。
 (11)は兄の夢路いとし、弟喜味こいしのコンビの十八番だった「ジンギスカン料理」です。「食べもんにもやっぱり好き嫌いはあるわね?」「そら、好き嫌いはある」から始まり、鍋物をあれこれ取り上げ、いとしはジンギスカンを知っているのに、知らぬ振りをしてからかい、抜き出したような応答で終わるのです。
 同書には毎日放送プロデューサー高垣伸博氏による「いと・こいを科学する」という面白い報告が付いている。2人に7分半のネタを実演してもらい、それを解析したら言葉のやりとりが284回、間は15分の1秒だった。別の実演を音声分析したら2.5キロヘルツ帯にという聞きやすい周波数帯だったそうです。
平成16年
(1) 日本人よ、志に生きよ
           里縞政彦

<略> 十二月某日 佐藤隆介氏の『がんこの卓上――日本口福紀
行』(NHK出版)を読む。がんこといっても、こういうが
んこならまだいいだろう。著者は池波正太郎氏の書生を務め
ていたとのこと。食に関しては師匠が師匠だから頑固といっ
たところか。
<略>
 河豚などは下関(周辺)で獲れるのは僅かで、遠くで獲れ
たものをわざわざ下関まで運んで、下関にて水揚げの「ブラ
ンド」を得ているのが現状だとは知らなかった。狂牛病がア
メリカで発生したとのことで、日本の食肉産業が再び「殿様」
に戻るのではないかと私は危惧しているが、これからは本書
にも出てくるジンギスカンなどに目を向けるべきではない
か。ラムステーキの方が好き、でジンギスカンは北海道網走
で五月に小雪の中花見をしながら食べたりしたぐらいだが、
ちょっと臭みのあるものの悪くはない。近所のスーパーで羊
肉が一切ないのは牛肉・豚メーカーの陰謀ではないかと思わ
ないでもないが、さていかが? <略>

(2) 焼酎・泡盛のベターハーフは
    北海道直送のラムだっちゃ
           勝谷誠彦

 勝利の余韻がまだ残る、
東京ドームの帰り道。ふら
り立ち寄る路地裏に、素敵
な煙がたまってる。牛でも
豚でもないコクは、こりゃ
羊の匂いだぞ。
 東京でジンギスカンを食
べることに長く苦労してき
た。滅多に旨い店に当たら
ずに、あれはやはり北海道
の乾いた空気のなかで食う
から旨いものなのか、と思
ったりもしたものである。
 だから、この店を見つけ
た時はうれしかったですね。
まず店の構えを見て当たり
だと確信した私。よくいえ
ば開拓地風。本音はいえば
いーかげん。こういう店が
旨いんですよ。北海道でも。
 ジンギスカンといえばビ
ールというのがガイドブッ
クが作り上げた幻影である。
ビールで腹がいっぱいにな
ったら肉が食えないでない
の。だから焼酎ずらりと揃
えたこの店は偉い。<略>
 さ あ肉が焼けた。なん
   といってもここでは
生ラム。北海道でも今では
冷凍が主流なのだが、一度
生を食うと元には戻れない。
肉の繊維が違う。肉汁の甘
さが違う。肉をワシワシ。
もやしをシャキシャキ。
 そこへ今度は日本酒だ。
この逞しさに対抗しうるの
は「郷の里/霞山」九五〇
円は肉の倍だが、この本末
転倒こそ酒呑みの真髄だあ。
こっくん羊にクイクイお酒。
うっメエ~~~~~。くっ
たり焼き過ぎたモヤシがま
た、肴にいいんだなあ。
 野球で勝ってご飯もアタ
リ、この喜びを伝えたい。
ふらつく足でお立ち台、自
分にヒーローインタビュー。

(3) 他人の心の痛みがわからない愚かなる大衆
           野村潤一郎

<略> タンザニアではヤギ、ウシに次いでヒツジが多く飼われていまして、スワヒリ語でヒツジを「コンドー」と言うんですが、この単語には馬鹿とかノロマという意味があるんです。つまりヒツジ、イコール馬鹿なんです。これは、羊飼いの先導がないと自分たちで自分たちの行くべき方向が決められないところからきたんでしょう。聖書にも「迷える子羊」の記述がありますね。あれは、ヒツジ、イコール軽挙妄動する人間のことなんです。つまり、ヒツジ型は愚かなる大衆で、聖職者は牧師、つまり羊飼いであると。
 そのようにヒツジは馬鹿な半面、群れで管理できるという利点から、農業用家畜としては一番早く家畜化された動物で、中東のメソポタミア地方では紀元前9千年には飼育されていたと言われています。要するに、ウマみたいに1頭1頭を手塩にかけて育てるタイプではなくて、個体識別をする必要もなく、楽に多頭飼育ができる動物なんです。祖先種はムフロン、ウリアル、アルガリの3種の野生羊ヒツジだと言われていまして、現在品種は1000種にもおよんでいます。
 利用方法としては、肉用種、毛用種、乳用種があって、世界的に見ると、最も多いのは肉用種です。ちなみに羊肉は生後6~10カ月の子羊をラム、1年以上をマトンと呼び、カロリーが低いので、海外ではヘルシー食品としても注目され、よく食べられています。日本での利用法は一般に的には羊毛で、馴染みがある羊料理と言えばジンギスカンぐらいで、あまり食べる習慣はないようです。<略>

(4) 卓上四季
           道新論説委員室

「ジンパ」と最
近の若い人は言
うそうだ。何の
ことかと思った
ら、羊肉を鉄鍋
で焼くあのジン
キスカンを楽しむパーテ
ィーの略称だという。そ
れならこっちは何十年も
前からやっている▼「と
にもかくにも、羊を焼い
て、大いにけぶし、大い
に喰らう、また楽しから
ずやだ」。食通で鳴らし
た作家、檀一雄が「わが
百味真髄」でジンギスカ
ン鍋を手放しで礼賛した
のは、三十年ほど前のこ
とだ▼ジンギスカン鍋と
いう名は昭和初期にはつ
けられていたようだ。普
及したのは戦後だ。それ
がこのところ、あらため
て脚光を浴びている。牛
海綿状脳症(BSE)騒
ぎなどのせいか、消費者
が羊肉にも目を向けるよ
うになったらしい▼札幌
では若者向けにおしゃれ
な内装の店もできた。煙
を減らす工夫をした店も
ある。食肉業者らでつく
るジンギスカン食普及拡
大促進協議会の棟方悦子
事務局長は「栄養価が高
くて健康にも良いこの料
理を見直そう」と力を入
れる▼協議会の申請に基
づき日本記念日協会は今
年、四月二十九日を「羊
肉の日」と決めた。「ヨ
ウニク」のごろ合わせだ
が、大型連休の初日で時
期としてはいい。協議会
は来年、羊肉の日に向け
人気を盛り上げる催しを
考えているそうだ<略>

(5) ジンギスカン料理の由来
           佐々木道雄

 昭和12(1937)年2月発行の料理月刊誌『料理の友』の「成吉思汗鍋料理」(吉田誠一)という記事(以降、「成吉思汗鍋料理」という)に、ジンギスカン料理のいわれが記されている。それによると、北京在住のある日本人(井上某)が1910年代頃に、北京前門外にある正陽楼の烤羊肉カオヤンロウという料理に接して感激し、在留邦人に吹聴してまわった。そこで、その料理の原始性にふさわしい名を付けようということになり、ある人が成吉思汗が陣中でこれを好んで食べたという話をしたことから、鷲沢某が成吉思汗と名を付け、皆がそれに賛同したと伝えられる。
 このようにジンギスカン料理は烤羊肉という料理に北京在住の日本人が勝手につけた名
 であった。食べ方は『現代食糧大観』(糧友会編、1929年)に、次のように紹介さ
 れている。

  「これを食するには庭前で、時期は冬、寒天に高く星がまたたき、雪がチラチラと降
  ってくる。その暁に、机上に備えた鍋に半焼きの木炭を燻らすと、煙と火の粉が盛ん
  に立ちのぼる。6尺(約182cm)の腰掛けに片方の足をかけ、薄く切った羊肉を
  箸に突き刺し、特別のたれをつけながら煙にあてて立食する。空を仰ぎ、談論しなが
  ら馬上杯を盛んに傾けつつ、中国特有の焼酎をあおる」(現代語訳は引用者)

 モンゴルの平原を思わせるような情景で、ジンギスカンの名がぴったり合うようにも思われる。だが、それはとんだ誤解である。

(6) 異化されたモンゴル烤肉
           趙珩
           鈴木博訳

 わたしの考えでは、正真正銘の烤肉カオロウは北京の「烤肉宛」と「烤肉季」のものだけであり、近年、北京に登場した韓国のプルコギ、多味斎の花正〔はなまさ〕の焼肉、ブラジルのシュラスコなどは、舶来品に属し、烤肉の列に加えることができない。北京の烤肉のもっとも主要な特徴は鉄炙子テォエチーツ〔鉄網〕の上であぶることであり、「鉄炙子」を「鉄支子」と書く人がいるがまちがいである。というのは、いわゆる「烤」の過程は、その実、「炙」の過程にほかならないからである。
 「烤肉宛」が斉白石老人〔一八六三~一九五七〕に扁額を書いてくれるよう頼んだところ、先生は「烤」の字について考証し、『説文解字』〔後漢代の許慎(五八?~一四七?)が著した中国最初の字書〕には「烤」の字はなく、「烤」は「炙」をあてるべきだと指摘したという。烤と炙の違いは、火にじかに触れるかいなかにあり、火にじかに触れるものが烤、火にじかに触れないものが炙であると思う。この点からいえば、ブラジルや南アメリカ諸国の烤肉は名実相伴う烤肉であるが、北京の烤肉宛と烤肉季をはじめ、日本と韓国の焼肉は、いずれも炙肉というべきである。アジアについていえば、西アジアと中東には烤肉が多く、東アジアには炙肉が多い。わが国は多民族国家であるので、烤と炙が並存しており、ウイグル族とモンゴル族にはともに烤肉があり、満洲族と回族は長期にわたる漢族との文化的融合によって炙の食べものが烤の食べものよりも多い。北京の有名な烤肉店のうち、烤肉宛と烤肉劉はもともと清真〔ムスリム〕であるが、烤肉季はもとは清真ではなく、国営に改められたのち清真の料理店になったのである。鉄炙子で牛肉や羊肉を烤るのは、北京地区の回族、満洲族、漢族の文化が共同で産み出したものといえよう。 <略>

(7) 冷やし中華は「冷麺」なのか「冷やしラーメン」なのか
           野瀬泰申
ご意見
 「炊事遠足」って北海道独特の行事だったのですか? 知りませんでした。ちなみに私の学校では「ジンギスカンは料理じゃない」ということで禁止されており、最低でもカレーライスあるいは豚汁を作るよう言われました。中学のときはスパゲティミートソースを作った記憶があります。ちなみに大学の新入生歓迎コンパも定番はジンギスカンでした。鍋は大学生協で肉を買うと貸してくれました。(三月ウサギさん)
野瀬びっくり
 一番驚いたのは大学生協で肉を売っているということです。北海道の学生は生協に肉や鍋を置かなければいけないほど頻繁にジンギスカンをやっているんですか。(182ページ)
<略>
ご意見
 基本的にこの「炊事遠足」は北海道のほとんどの小(高学年)、中、高が取り入れている学校行事なのですが、本来の意は「飯ごう炊さん」です。災害などに遭っても飯ごうでご飯が炊け食事ができるようにとの一種の訓練のようなものがベースにあるのです……そのうちに花見のシーズンぐらいから秋口かけて天気の良い休日に家族で河原でジンギスカンを行う習慣が定着し、さらに使い捨ての軽い鍋の登場から、炊事遠足も河原でジンギスカンが定番になっていったようです。(悪巧み! さん)
野瀬註
 前回は北海道の大学生協でジンギスカン用の肉を売っている話にたまげましたが、今回は「使い捨てジンギスカン用鍋」にびっくりしました。使い捨ての鍋というのは紙かなんかでできているのかなあ。アルミ製なら家に持って帰ればまた何回かは使えそうだし、ペットの餌入れとかにもなりそうですが……。どんな使い捨て鍋なんでしょうか。想像できません。(196ページ)

(8) 戦時中も玉手箱は天国の思い出
           和田勉

<略> そのうちに、牧場の四五〇頭の羊をすべて殺して、ここを乳牛牧場に変えろという軍命が来きた。僕はどうするのかと思っていたが、父は迷わず、一夜にして決断実行してしまったのだ。羊の殺し方は、現在の豚の処理のしかたと原理的にはほとんど同じで、まず牧場に幅五十センチメートルほどの溝を百人ばかりの小作の人たちを動員して掘削する。そこに裸電線を通し、シープドッグたちが羊を溝の中に追い込む。そして長大な羊のタテ列が溝の中に並んだところで、一気に電流を流すのであった。四五〇頭の羊たちは、この方法で感電瞬死していったのだ。
 こうして昭和十九年の暮れから、わが家を含め周辺の小作の人たちもみんな、明けても暮れても羊料理を食った。そのおかげで、あれから六十年ほど経った今になっても、僕は「ジンギスカン料理」という看板を見ると吐き気がするのだ。
 そして、乳牛が十頭ほど運ばれてきた。軍や市は、親父にそれで牛乳を搾り、ゆくゆくはバターを作れと言った。そしてそれを航空隊に納入しろと言ってきた。当時は基地内に二千人ほどの兵士や徴用の人が居住していたと思う。そして親父はそれを呑み、毎朝親父が指揮して搾った牛乳をトラックで基地に届けていたのだった。

(9) 関口房朗の馬主日記
           関口房朗

<略> 会場はシーンと静まりかえ
っている。「早よハンマー下
ろさんかい」という私の思い
を知らずか、場立ちは「五億
円ありませんか」「五億円あ
りませんか」と何度も声をか
けながら近藤氏の方を見てい
る。あるわけないだろうと思
う間もなくパーンというハン
マーの音と同時にウォーとい
う喚声が上がった。わが国に
おけるセリ市場の最高額だっ
たからだ。
 立ち上がってこれに応えな
がら、落札したばかりの〝四
億九〇〇〇万円〟を見に外に
出ると、アッという間に大勢
の報道陣に囲まれてしまった。
その外側をさらに人垣が囲ん
でいる。いましがた争った近
藤氏もやってきて「おめでと
う」と言ってくれる。渋い顔
をしているのは私の金庫番く
らいで、皆なぜかニコニコし
ている。景気のいい話は、や
っぱり人を愉快にしてくれる
ものなのだろう。
 その後、生産者であるノー
ザンファームが差し入れてく
れたドンペリで乾杯、外国の
報道陣も含めたいくつものイ
ンタビューをこなしてから札
幌に引き上げ、今度は札幌一
の美味しいジンギスカン料理
を食べさせてくれる「ふくろ
う亭」での祝勝会に臨んだ。
ノーザンファーム差し入れの
「森伊織」の一升瓶がアッと
言う間に空になったところを
みると、皆よほど気分がよか
ったに違いない。モウモウと
立ち込める煙の中で出された
色紙には「四億九〇〇〇万円
落札の日に。関口房朗」と記
しておいた。<略>

(10) 蒼い水
           谷村志穂

 <略>帯広市内を通過するウツベツ川の川べりに、その木造のジンギスカン店はあった。
 車が近付いた時点で、既に肉の焼ける香ばしい匂いがしている。
 古い店らしかった。それぞれのテーブルにあの鉄兜のような鍋が置かれ、すでにあちらこちらの席で、肉や野菜がこんもりと盛られ焼かれている。
 深雪たちは、皆でビールを飲み、肉を焼き、口に運んだ。
 涙を出すと体が楽になる。その分、食欲が出るのかもしれない。人間は単純なのだと、深雪は今は信じたいような気がしている。だめなときがあっても、淀みは膨張し切れると流れていくのだ、と。
「お母さんを、無理矢理、帯広へ誘ったの。何度も何度も誘ったの。電話でも手紙でも誘ったのよ。今度ははじめから美雪ちゃんに、玲子さんを引っぱり出してき来てくれるように頼むわね」と、和子おばさんは、深雪の携帯電話の番号とメールアドレスを、自分の携帯電話の中に控えた。「さすが、女子大生ですね」と、深雪が言い、皆が笑った。<略>

(11) ジンギスカン料理
           西村博

<略>こい 焼けた鉄板の上へジュウジュウジュウと塗る。
いと あッ、ジンギスカンはジュウジュウジュウと塗りますか?
こい え~?
いと ジュジュジュ~ウはイカンか?
こい 好きなだれ濡れ!
いと ほな、ジュジュジュ~ウと塗るわ。
こい 塗ったな。
いと 塗った!
こい しばらくしたら、この油が踊るから。
いと 何なんですか?
こい しばらくしたら、油が踊るから。
いと 誰が歌うねん?
こい 違うちゅうねん! 油はねるやろ? はねるのを踊るちゅうねん。
いと ピチピチすんの?
こい 油が踊り出したら、
いと 踊り出したら。
こい ジンギスカン、つまりヒツジの戒名。
いと はい。
こい マトンの肉をのせて、表が焼けたら裏を焼いて、裏が焼けたら表を焼いて。
いと あのォ、ヒツジの肉の裏表はどこで見分けるねん?
こい 知らん! エエ加減焼いてタレをつけて食え!
いと  エエ加減焼いてタレをつけて食うの?
こい ジンギスカン!
いと タベたべたわ。
こい もうエエ!
 平成17年の(1)は創業50年となった松尾ジンギスカンが発行した「Matsuo Jingiskan Magazine」創刊号のトップ記事です。発行年月日が見当たらないので、年表「松尾ジンギスカン50年の歩み」の最新記事が「平成17年3月1日 千歳市新千歳空港内に直営店『まつじん』出店」であり、裏表紙全面が同店の広告なので、3月発行と見なしました。記事の1行の長さが変なのは、襟に「松尾盆踊大会」と染めた浴衣姿の故松尾氏の写真の形に合わせて組んであるためです。
 (2)は首都圏で急増したジンギスカン店とは―と出掛けた東海林さだおの「いま大ブームのジンギスカン」です。彼にいわせると「旅先で大変おいしかったものは、ふつうもう一度食べたいと思うものなのに」ジンギスカンは「そういう気が起きない不思議なな鍋物だった」(42)が、いま大ブームというから中目黒の店に行き「忘我の陶酔境」で「ガンガン」食べて確かめたというのです。
 (3)はルポライターの見た平成17年当時の「ジン鍋進化論」からです。首都圏のジン鍋屋急増を認めつつ、筆者内田は平成4年の社会現象みたいに急増したモツ鍋屋が、あっさり消えたのは「急激な店舗数の増加に、高品質の原材料の供給が間に合わなかったことと、まずいモツ鍋屋が増えたこと」という飲食業関係者の分析を示しています。
 確かにブームみたいにジン鍋屋は増えたけれど、その後はラムを加えてモツ鍋ほど急な衰退はなく、一定の店数に落ち着いたんじゃないか。
 (4)は専門誌「月刊レジャー産業資料」の慎重な見方です。
 (5)もジンギスカン店関係。「小説宝石」平成17年6月号の井上尚登の「ストックオプションの罠」です。「金融探偵七森恵子の事件簿」という副題が示すように、七森恵子は外資系投資会社で働いた経験を持つ経済情報専門の探偵で、アルバイトと称してバイオ生物研究所に務め、株式公開の情報を探っている。そして企業調査の専門家でフリーで仕事をしている如月浩二郎と一緒に中目黒の「ひつじごや」へ調査に行く。
 「なぜ中目黒にジンギスカン料理店が多いのか、理由はわからない。隣の益の恵比寿にもジンギスカン料理店が多いのも不思議だ。浩二郎の話では中目黒・恵比寿ゾーンに八店もあるという。」というのは事実らしい。それも「女性誌に紹介される店だけあって、打ちっ放しのコンクリートの壁に汚れはなく、白い床も別にべとついた感じはなかった。(43)」というから、いわゆる「小じゃれた」店なんだろうね。それでいて肉は女性好みのラムかと思えば、意外にもマトンで、脂が縁にたまるというから、鍋は脂落としの隙間のないタイプですね。
 (6)は芥川賞作家伊藤たかみの小説からです。ここ20年は本よりインターネットでの検索専門でね、こうした小説の紹介は苦手なので手短かに言うと、この連載小説「海峡の南」5回目にキーワード「ジンギスカン」が入っていたので引用させてもらいました。
 本州から道北のどこかに来た洋と歩美という夫婦ではなさそうな2人がジンギスカンを食べているが、ジュージューという擬音語だの、野菜は周りに―などという説明がない。代わりに連れの女に肉一切れごとに、この羊肉が私の贅肉を落とすといわせている。ジンギスカンを食べながら、そんなことをいう女性は道内にはめったにいないと思いうが、ちゃんと調べたわけではないから、まあよろしい。
 「遠軽から宗谷岬まではやはり百キロ」うんぬんとあるが、この回の始めに行き先らしい宗谷岬まで車で「ゆっくり走って片道八時間」とホテルのフロントにいわせ、家出した父親と自分との溝の距離は何百キロと表現している。ちゃらんぽらんな父親の情事に同行させられた子供時代の思い出など複雑な男女の関係も絡ませた小説の一部です。
 (7)は道内で羊肉卸しと羊肉料理店サイドの重鎮御三家による座談会です。匂いあっての羊肉ということで意見は一致してますね。羊肉の匂いをはっきり感じさせる料理法としてジンギスカンは最適だと思うね。
 (8)はこの年の「小説宝石」6月号に載った井上尚登の「ストックオプションの罠」です。「金融探偵七森恵子の事件簿」という副題が示すように、外資系投資会社で働いた経験を持つ経済情報専門の探偵七森恵子が主人公です。この回は企業調査の専門家でフリーで仕事をしている如月浩二郎と共に中目黒の「ひつじごや」へ調査に赴く。
 (9)は料理研究家飛田和緒による「飛田和緒の台所の味」です。レシピでなく冷蔵庫の中身や調味料が知りたいという読者のリクエストにこたえ「手間ひまいらずの保存食と常備菜」と「待つのも楽しみなお取り寄せ」と「味つけに決めての調味料」の3部構成です。飛田家では「肉のやまもと」(千歳市)からの生ラムを使い「ざく切りにしたたまねぎともやしを合わせて、肉を焼き、肉とセットで届けられる特製のタレをじゅわっとかけて、からめて食べます。」と書いてあります。
 (10)は放送作家の高橋洋二のコラム「昼下がりの洋二」からです。彼がジン鍋を知ったのは20年前だが、3年前、札幌の「だるま」で本場の味を知った。それで都内にジンギスカンの店がどんどん増えたので最近食べに行ったら「だるまで食べたもの」に似ていたので安心、これから一軒ずつ食べ歩いて流派の違いを確かめるそうだ。
 (11)は、この年916日から3日間、羊ヶ丘で開くジンギスカンサミットに魁けてジンギスカン食普及拡大促進協議会が出した「北海道遺産記念 ジンギスカンミニガイド」に掲載された北海道遺産構想推進協議会の辻井達一会長の挨拶です。同ガイドには、八木橋厚仁札幌医大講師の「美味しいだけじゃない!ジンギスカンのチカラ」、料理研究家東海林明子さんの「ジンギスカンのタレを使ってひと工夫 アイデア料理」なども掲載されています。
 (12)も同じくジンギスカンサミットに合わせてジンギスカン食普及拡大促進協議会が発行した「ジンギスカン新聞」4面に掲載された同協議会の会長、札幌大の飯田隆雄教授の挨拶です。同じ4面にある同協議会の「活動概要」から平成17年2月のさっぽろ雪まつり期間に「ジンギスカン新聞を発行」とあるので、札幌サミットに合わせたこのA3サイズ8ページ、カラー印刷のこれは多分第2号でしょう。
 (13)は旭川生まれの作家清水博子の小説です。関西のすき焼きに対比させて「半冷凍のマトンの塊をつつきまわしてばらす野蛮なジンギスカン鍋を両親に教えられた」というから、道産子かなとウィキペデイアを見たら、やっぱり旭川市出身だった。また、この「Vanity」は芥川賞候補になったことも書いてありました。
 ここまでの粗筋をいえば、アパートの火事で大学生画子は住むところを失い、アメリカ留学中の婚約者の関西の上流家庭に暫く滞在することになり、すき焼きで歓迎されたところです。
 (14)は山本幸久著「幸福ロケット」です。初めの10ページほどで小学生の山田香な子の生活環境を軽快な語り口で紹介する。この日の夕食は香な子の母義江の5歳年下の弟、義昭が持参した新品の鍋で焼くラム肉と野菜によるジンギスカン。義昭は売れない漫画家で香な子宅の夕食にありつこうとちょいちょい現れる。ポプラ社の粗筋紹介が「ちょこざいな『あたし』(山田香な子、小五♀)とへんてこなコーモリ(小森裕樹、小五♂)の東京、下町で動きだす幸福のものがたり。」というのだから、煙やジンタレの説明なしはやむを得ないか。ふっふっふ。
 (15)は「オール読物」の「北海道・炭鉱町の廃墟を訪ねて」です。作家小川洋子氏が夕張鹿鳴館、三笠、美唄の炭鉱跡を回り、最後の探訪先は何と札幌のレトロスペース・坂会館という構成には笑ってしまった。多彩極まる収集品について作家ならではの描写は全くその通り、実にうまく書くものだと感心しました。
 我がジンパ学の初期研究では、あそこの坂館長と中本副館長には大変お世話になった。だからというわけではないが、私は昔の直熱式真空管のラジオとシャッター超不調のニコンFを寄付したことがあるんだよ。
 我路を忘れるところだったが「そして肝心の民宿我路であるが、完全に崩壊していた。ただ瓦礫だけが小山となって、老婆と共に長い眠りについていた。」そうです。

平成17年
(1) タレの開発に10年。ジンギスカンを
     北海道名物に変えた一人の男のあくなき探究心。
           Matsuo Jingiskan Magazine

 「うまい!こんなうまいもの食べたの初めてだ」。
戦後まもない昭和21年の滝川市。知人の家で食
べたその肉のあまりのおいしさに一人の青年が感
動の声を上げました。その声の主は、松尾ジンギ
スカンの創業者松尾政治。当時、寒さの厳しい北
海道では衣料用の羊毛のために多くの羊が飼わ
れていましたが、戦後になって外国から化学繊維
が入ってくると、羊毛の需要は一気にダウン。羊は
羊毛ではなく食肉としての需要が検討されはじめ
ていました。しかし、この頃はそもそも肉を食べる
習慣があまりなくその上、羊肉が臭みがきつく、焼
くと硬くなることから、なかなか
普及は進みません。そんな中、
滝川市郊外にある種羊場(現・
道立滝川畜産試験場)では肉
をやわらかくするために醤油
ベースのタレに漬け込むと
いう方法を考えました。政
治が食べた肉は、実はそ
の種羊場でつくったも
のだったのです。<略>

■PROFILE
松尾政治まつお・まさじ[故人]
大正7年生まれ。松
尾ジンギスカン創業
社としてジンギスカ
ンの普及・拡大に努
め、北海道慣行にも
大きく貢献する。

(2) いま大ブームのジンギスカン
           東海林さだお

<略> それが突然の大ブーム。
 都内でも北海道でも、ジンギスカ
ンの新規開店が急増しているという。
 東京新聞の記事によると、昨年の
全国の羊肉輸入量は前年比三割増、
道内に限ると五割増。札幌市内のジ
ンギスカン専門店は、この三年間で
倍増の五十店舗になったという。
 しかもそのブームを支えているの
がおやじではなく若い女性たちとい
うその理由は何か。
 キーワードは「モデル御用達のお
肉」と「カルニチンでダイエット」。
 カルニチンというのはアミノ酸の
一種で、体内の脂肪を燃焼させ、コ
レステロールを下げる」ので、ダイ
エット業界が目をつけ、それに若い
女性達がのったという図式が見えて
くる。<略>
 まわりがガンガン食べているので、
それにつられておじさんもガンガン食
べる。
 いわゆる焼肉と違って、羊の肉はと
てもさっぱりしている。
 それにこの店は、タレにつけ漬け
てから焼く方式ではなく、生肉を焼
いてからタレにつけて食べる方式な
ので、鍋にのせたとたんすぐ焼けて
すぐ食べられる。
 鍋にのせる、すぐ焼ける、すぐタ
レにつける、すぐ口に入れる、また
すぐ鍋にのせる……という手順にリ
ズムができあがるとそのリズムにだ
んだん酔ってくる。
 盆踊りの輪の中に入っていつのま
にか自然に手足が動くような、そこ
のところに合いの手が入るような、
ア、コーリャ、ア、ドーシタ、と、
どんどんやいてどんどん食べる、モ
ー、ナニガナンダカワカラナイ……。
 これが店内に充満する〝ガンガン〟
の正体である。<略>

(3) 激増するジンギスカン鍋店
           内田麻紀

<略> いまジン鍋(ジンギスカン鍋)
が熱い。2、3年前まで都内に数
件だったジン鍋屋は、昨年夏から
急増し、現在では30軒を超えたと
いう。また、専門店は、関東近郊
にまで進出。昨年11月には宇都
宮市内に初のジン鍋専門店が開店
した。
 今後、ジン鍋屋の勢力は、飛躍
的に拡大する見通しだ。そば屋
『高田屋』などの飲食事業を展開
するタスコシステムは3年以内
に200店舗のジン鍋屋をFC経
営する計画。JR北海道も社内ベ
ンチャー制度で首都圏にジン鍋
専門店を出す。
  食べて痩せる効果
 ブームの理由は、ひとつには、
流通経路の発達により、新鮮で良
質な生の羊肉が手に入りやすくな
ったこと。とかく「クサイ」「硬い」
「マズイ」といった羊肉のイメー
ジは格段に向上した。
 もうひとつにねBSE問題。
牛肉の安全性が危ぶまれ、焼き肉
が安心して食べられなくなった。
焼肉店は苦肉の策で、豚トロな
どのメニューを考案したが、白身
肉なのでうまみが牛とはまったく
異なる。そこで、同じ赤身肉の羊
に注目が集まった。しかも、ジン
ギスカンは、飲んで食べて一人
3千~4千円で済む。
 さらに、カロリーが控えめな羊
肉には、なんと「食べてやせる効
果がある」といわれている。とい
うのも、羊には脂肪の燃焼を促し、
コレステロールの増加を抑制する
「カルニチン」という成分が、牛
肉の2倍、豚肉の5倍も含まれる。
それを聞いて2人前も3人前も羊
肉を平らげていくツワモノOLも
増えているそうだ。<略>

(4) ビール会社も便乗する「ジンギスカン」人気
   冷蔵ラム肉、引く手あまた
           堀隆孝
 
<略> ジンギスカン好きの仲間が集まる東
京ジンギス倶楽部の野村昌彦会長は、
店舗情報を発信している同会のホーム
ページに「1カ月に10万件のアクセス
がある」という。

 におい少なく、ヘルシー

 そんなジンギスカン人気の裏で、実
は羊肉の輸入に変化が起きていた。
 国内消費の99%は外国産だが、輸
入会社アンズコフーズの金城誠社長
は、「1990年頃は冷凍マトンが主流だ
った」と話す。マトンは生後1年以上
経った羊の肉のこと。過去10年で輸
入量が4倍に膨らんだのは生後1年未
満の冷蔵ラム肉。マトンや冷凍ラムよ
り羊肉特有のにおいが少なく、敬遠し
ていた人も箸をつけるようになった。
 金城氏らの「ラムはダイエットに効
果的」とのPR効果も手伝って、手頃
な値段で食べられるヘルシーな料理と
して女性にも注目され出した。
 ジンギスカン専門店が続々とオープ
ン。「都内ではこの5年で8軒から51
軒に増えた」(野村会長)。参入が比較
的容易で、開業熱は高まる一方だ。<略>

(5) BSE問題の余波か?
    羊肉=ジンギスカン料理店が続々都内にお目見え
           安田理
 
 ジンギスカンは羊肉を使った日本独自
の焼肉料理で、外国にはこの呼称
の料理はない。日本独自とはいっても、全
国的に食される料理ではなく。北海道のい
わば郷土料理といってもよい。北海道を訪
れたことのある人なら名物料理として食べ
た経験があるかもしれないが、少なくとも
首都圏に居住している人たちにとってはほ
とんどなじみのない料理であった。
 しかし2000年に入ってから、都内に
徐々にジンギスカン専門店が出店されるよ
うになり、03年に入ってからはその数を急
速にふやし始めた。05年3月末現在では、
都内および近郊を含めすでに40店舗を超
え、ちょっとしたジンギスカンルームとも
いえる現象がみられるまでになった。
<略>
 とはいえ、ジンギスカン料理の将来
性というと、判断がむずかしいところ
だ。何よりも日本人にとって羊肉はま
だまだ親しみのない食肉である。現在
のジンギスカン料理店に甘んじてしま
うと、それこそもつ鍋と同じ一過性の
ブームに終わってしまう危険性もある。
いまや日本人に完全に制作した焼き肉
という業態を考えてみると、居酒屋的
な焼き肉店もあれば、郊外におけるフ
ァミレス的な焼き肉チェーン、さらに
芸能人がお忍びでやってくる客単価1
万5000円を超える高級店まで実に
多彩な業態開発がなされてきた結果、。
今日の定着をみたのである。こうした
業態開発のプロセスをみれば、ジンギ
スカン料理は、まだスタートラインに
立ったばかりといえよう。<略>

(6) 海峡の南
           伊藤たかみ
           
<略>「なんかわかってきたわ、あんたが家を出ていったおじちゃ
んのこと放ったらかしにしてきた理由。そのままのほうが心
地よかったんやな、昔のおじちゃんといるみたいで、あれや
ん、ええと、不在という名の実在やったっけ、不在という名
の存在?」
 そんな言葉は聞いたことがない。それに歩美には、自分で
言葉をねつ造する癖があった。どこかで耳にしたものを脚色
して勝手に都合のいいものに変えてしまい、それらしく使う。
そう言えば今夜は二人でジンギスカンを食べたが、彼女は肉
を口にするたびに、羊肉は痩せるのだと呪文のように唱えて
いた。だが、いくらどんな効果があっても食べて痩せるはず
がない。百が八十になることがあっても、スタートラインよ
り痩せるはずはない。
 けれどときどき、そんな嘘のほうが本当らしく思えるとき
もある。不在という名の存在はまさに父にうってつけだった。
遠軽から宗谷岬まではやはり百キロしか離れていないと言わ
れたほうが、色々なものがしっくりくるのと同じことだった。
<略>

(7) 匂い、これもらしさ(・・・)ですよ
      大金畜産(株)常務取締役   大金頌明氏
      アサヒビール園「羊々亭」店長 佐藤仁泰氏
      (株)マツオ常務取締役    松尾吉洋氏

 ―ジンギスカンは独特の匂い
がありますが。
 佐藤 当店も匂い対策とし
て、無煙ロースターを入れてい
ますが、上手に焼く人ですと野
菜をしいて、その上で肉を焼き
ますが、火を強めて肉だけを焼
いてしまうと、実際のところ煙
が勝って全部は吸い込まないで
すね。でも、羊肉に限らず匂い
は焼肉店全般に付きものです
よ。
 大金 匂いの問題は難しい
ね。匂いを消してしまうと、ど
の肉なのか分からなくなってし
まう。
 ずっと以前に、調味料の加減
で匂いを消して実際テストした
ら「ラムの味がしないから駄目
だ」という結論になったのです
よ。
 松尾 当社も新千歳空港店の
オープンに際し、一番気になっ
たのが実は匂いだったんです
よ。「味が美味しければ匂いは
大丈夫」というお客さんの反応
でした。だから思ったほど障害
にはならなかったんですね。
 大金 匂いを消してみて分か
った。お客さんも匂いがなけれ
ば羊肉と認めてくれない。食べ
ていて「何の肉?」となるんで
すよ。食べていて分からなけれ
ば困るんですよ。匂いを消すと
お客さんを欺すことにもなるわ
けで、この匂いもまた羊肉らし
さですよ。

(8) ストックオプションの罠
           井上尚登

 メニューはシンプルだ。
 マトンと野菜、箸休めにキムチ。あとは
デザートがあるだけで、カフェといった外
観とは裏腹にジンギスカンだけで勝負する
という意気込みが感じられた。ただし店内
に流れるBGMがなぜかジャズである。<略>
 すぐに炭が真っ赤に燃えている七輪が運
ばれてきた。つづいて中央が盛り上がった
ジンギスカン鍋とアルミのトレイに入った
肉と野菜がやってきた。店員はマトンの白
い脂身をジンギスカン鍋のてっぺんに置く
と「脂身から油が出てくるまでお待ちくだ
さい。そのあとで野菜をまわりに置き、
マトンを中央で焼いてください」と指示し
て去っていった。
 言われたとおりにしばらく待ってから野
菜を置き、肉を焼く。
 ジンギスカンを食べるのは何年ぶりだろ
うか? もしかしたら学生時代に仲間と北
海道旅行をしたとき以来かもしれない。焼
き上がったマトンをたれにつけて口に運
ぶ。羊の肉といえば臭いという印象がある
が、ここのマトンは気になる臭みもなく食
べやすい。浩二郎が例によつてサンフレッ
チェ広島がどうだこうだと話すのを軽く聞
き流しながらマトンを食べていると、マト
ンから落ちた油がジンギスカン鍋の縁にた
まり、そこでもやしがいい具合に焼けてい
たので、それも食べる。かりかりとしてい
い食感だ。<略>

(9) ジンギスカン用生ラム
         飛田和緒

<略> ジンギスカンで思い出すのは会社勤めをしていたころ、よく
北海道でのスキーツアーに参加し、夜は決まってビール園での
ジンギスカン宴会。そのときの肉は凍ったままのラムやマトン
を薄切りにしたものが大皿にのってきました。若さもあり、ス
ポーツあとの食事ともあって、そのときにはモリモリと食べて
いましたけれど、味の印象はまったくといってありません。お
いしい記憶がないのです。それからずいぶんとたち。何年か前
に札幌の「だるま」というジンギスカンのお店で食べて以来、
生ラムにはまりました。この年になってやっとおいしいジンギ
スカンにありつけたというわけです。
 友人から聞いた話では、札幌では、家庭でも焼肉同様ジンギ
スカンは好まれる味なのだそうです。当然おうちにはジンギス
カン鍋があり、スーパーやお肉屋さんでは豚や牛の肉とおなじ
ように、ラムやマトンの肉が並んでいるとのこと。珍しい食材
ではないのですって。友人宅ではジンギスカンの日にはテーブ
ルの下に新聞紙を敷き詰めて、油や煙対策をして食べるのだそ
うです。そういえばジンギスカンを食べに出かけると全身にい
ぶされたような匂いがつきますものね。
 うちでは朝から煙をモクモクというわけにはいかないので、
ホットプレートで手軽でチャチャっと作ります。<略>

(10) 流行が去るまでの間に
    東京のナンパーワンを見つけたい。
           高橋洋二

<略> そして前述したとおり、今年
の6月になると、我が家の近所
にもチェーン展開しているジン
ギスカン専門店がオープンする
くらい、ジンギスカンは東京を
席巻する。その間私はどうして
いたかというと指をくわえて見
ていただけであった。もし、ヤ
なかんじの店で、あの素晴らし
いだるまの思い出を台無しにし
てしまわないだろうか? いつ
のまにかジンギスカンに関して
臆病になってしまっていたのだ。
 でも歩いて行けるとこにも出
来たのだから、と3年ぶりのジ
ンギスカンを、そのチェーン店
の専門店で食べてみたところ、
実に全く予想通りの味だった。
肉質もタレも今イチ。しかし、
「だるまで食べたもの」に似て
いるものを久々に食った! そ
れも近所で! という妙な満足
感も得たのだった。
 これで恐れることをやめた私
は東京のジンギスカンブームを
冷静に見つめなおす。札幌では
マトンが中心だが、東京はラム
を推す店が多い。しかも本当に
うまいものは上質のマトン、も
しくはその中間のホゲットであ
ろう。そして輸入肉は、オース
トラリアやニュージーランドも
いいが、アイスランドのものが
一番うまいのではないか? ま
た、今やオールドスタイルの冷
凍ロール肉にこだわりを持つ店
もあるというから、これから一
軒一軒流派の違いを確かめに行
ってまいります。

(11) ジンギスカンサミット開催に寄せて
     北海道遺産構想推進協議会・辻井達一会長

 ジンギスカン食普及拡大促進協議会からの応募を受
けて昨年11月にジンギスカンが北海道遺産に登録され
ました。食に関連していた他の候補と比べて、道民への
親しみや、培ってきた歴史の長さが選定の決め手とな
りました。また、ジンギスカンツで名前にモンゴルの草
原や義経伝説と重なる壮大なイメージがあることも、北
海道遺産として非常に優れていると感じています。それ
から、ジンギスカンは地域や生産者によって、味わいのバ
ラエティーが実に豊かです。今年7月に滝川市でジンギ
スカンサミットが行われましたが、その会場で私自身8種
類ものタレを味わい、どれも美味しかった。ラーメンとは
違う意味で、奥が深い料理だと実感しました。これからは
私たち道民だけでなく、全国の人たちの舌をもっともっ
と楽しませて欲しい。私見ですが、ジンギスカンは野外で
味わうのが相応しいと考えています。だから冬の寒い野
外でアツアツのジンギスカンを味わうイベントがあって
もいいのでは。観光客もきっと喜んでくれるでしょう。ま
ずは初秋の札幌を舞台に行われるジンギスカンサミット、
大いに期待しています。

(12)ジンギスカンサミット開催に寄せて
     ジンギスカン食普及拡大促進協議会会長
           飯田隆雄・札幌大学教授

 北海道の食文化におい
て、ジンギスカンは代名
詞とも言える大切な郷土
料理です。その弁当を、
後世に伝えていきたい。
そして、観光客をはじめ
全国各地の人たちにもっ
ともっと気軽に味わって
もらいたい。それがひい
ては、北海道全体の活性
化につながるはず――。
そんな思いを共有する各
界の有志が集い、平成15
年11月にジンギスカン食
普及拡大促進協議会が
発足しました。同時に
「北海道食文化フォーラ
ム ジンギスカン」を開
催しました。平成16年に
は4月29日を羊肉(ヨウ
ニク)の日とし、日本記
念日協会から認定を受け
ました。同年11月にジン
ギスカンは北海道遺産に
選定され、当協議会が授
与されました。その後、
様ざまな活動を通じて、
ジンギスカンを世に広め
ることに努めています。
今年は、2月の「ジンギ
スカン新聞」発行を皮切
りに、4月29日の羊肉の
日からスタートした全道
羊肉・ジンギスカンキャ
ンペーン、7月は滝川市
でジンギスカン サミット
を共催しました。さらに
9月16日から札幌で始ま
るジンギスカンサミット
では、ジンギスカン料理
店、ジンギスカン製造業、
タレメーカー、羊肉卸、
酒造メーカーな が一丸
となり、羊肉の普及と新
しい時代のニーズにあっ
た食べ方を追求し、イベ
ントは最高潮を迎えます。
これが、大きなムーブメ
ントに発展することを願
って止みません。

(13) Vanity
           清水博子

<略> あらおそかったのね、お夕食待ってたのよと、画子はむかえいれられ、マダムとすき焼きの鍋をはさんだ。ヘッドをなじませた鉄鍋に肉をしきつめ砂糖をふりかけ醤油をそそいで焼き、白瀧と春菊と焼き豆腐と焼き麩を肉の周囲に置き、さらに醤油をたらし味をなじませる。焦げそうな場合は水を少量足すが、関東風の割りしたはつかわない。
 ふたりだけだから最初のお肉は二枚でいいのだけど慎一郎の分もいれておいてあげてね、あしらいはまだよ。
<略>あしらいとは白葱の斜ななめ切りと青葱のぶつ切りと玉葱の半月切りであると知ったのは、山ン中の家に到達した夜だ。はじめておめにかかったおしるしですからお鍋にしようとおもうのだけどチーズフォンデュとすき焼きとどちらがよくって、とマダムに問われ、画子はしきたりが簡単そうなすき焼きを選んだのだった。フォンデュにすれば鉄串で刺されるのではないかとちらりとあやぶんだ憶えもある。うちの息子をたぶらかして、と。
 牛肉は一枚ずつ箸でめくって鍋に入れ、煮えたのを食べ終えてからつぎの一枚をめくる。半冷凍のマトンの塊をつつきまわしてばらす野蛮なジンギスカン鍋を両親に教えられた画子にとって、関西風のすき焼きはじれったい。じれったいのと上品なのは似て非なるものである気がする。<略>

(14) お父さんのオムライス
           山本幸久

 その日の夕食はジンギスカン鍋だった。
 香な子うまれてはじめてラム肉を食べた。義昭オジサンとお父さんは発泡酒片手に、
うまいうまいと食べている。
「どう、おいしい?」とお母さんがきいてきた。
「うん、まあまあ」
「なんだよ、カナちゃん、まあまあかよ」オジさんが不満げにいった。「オレがなけなし
の銭、はたいて肉買ってきたんだぜ。このジンギスカン用の鍋も買っちゃったわけだし。
オニーサン、この鍋代は払ってくださいよ」
 お父さんは苦笑いをするだけだ。横から口をはさんだのはお母さんだった。
「その鍋はあなたが勝手に買ってきたんでしょう。ホットプレートでもよかったんだから」
「えー、そりゃないよ」義昭オジさんがふてくされた。
「いいよいいよ、食材はぼくが払う」とお父さんがオジサンをなだめるようにいった。す
っかり真っ赤だ。
「そいつはどうも、オニーサン」
「だめよ、お父さん」ヨウチャンではなかった。「ヨシアキあまやかしちゃあ。こないだ
も実家で、お母さんからお金借りてんのよ」
<略>
「やめなさい、ヨシエ」おとうさんがいった。あのテレビ番組で、役所の人を説得すると
きにだしていた声だ。
 しばらく沈黙があった。
 鍋のうえで肉や野菜の焼ける音だけが響いた。
「許してケロ、ネーサン」
 語尾のケロなんかつけるふざけたオジサンを、香な子はお母さんのかわりに腹立たしく
おもった。<略>

(15) 何かがついてきた?
           小川洋子
           
 その日の晩ご飯は、S嬢おすすめのお店
「ひつじ御殿」でジンギスカンを食べた。
おばあさんが一人で切り盛りしている、カ
ウンターだけのこぢんまりしたお店なのだ
が、ちょっと変わった構造をしており、カ
ウンターの奥が隣の店とつながっている。
隣は居酒屋「魚御殿」である。
 で、私たちが〝熊ごろし〟(〝熊ころり〟
だったかもしれない)などの日本酒を注文
すると、隣の「魚御殿」から若いアルバイ
トのお兄さんが一升瓶を抱えて登場し、注
いでくれる。たぶん、おばあさんには一升
瓶が重すぎるからではないかと思われる。
その雰囲気が、おばあさんをいたわる優し
い孫、といった感じでこの上なく微笑まし
い。<略>
 私が一人すがすがしい気持に浸っている
と、S嬢が不思議な話をはじめた。明日訪
れる予定にしている美唄市我路町に、その
名も「民宿我路」という宿がある。既に営
業はしておらず、人も住んでいないのだ
が、以前その前を通った時、二階の窓に、
赤ん坊を背負って立つおばあさんの横顔が
見えた。誰に聞いてもあそこに人などいる
はずがないと言うが、決して見間違えなど
ではない。確かに赤ん坊とおばあさんだっ
た。きっとあれは…………。
 そこまで言いかけた時、誰が触れたわけ
でもないのに、不意にS嬢の座っていた椅
子が音もなくつるりと滑り、彼女は床に転
げ落ちてしまった。「炭鉱から何か、つい
てきたんじゃないのか?」豊浦氏が怪しそ
うな目でS嬢の背中のあたりを見やった。
「大丈夫かあ。ひつじの脂がだいぶ染み込
んでいるからなあ」カウンターの向こうで
おばあさんが、曲がった背中を精一杯伸ば
していた。<略>ちなみに「ひつじ御
殿」のアイルランド産ラム肉(アイスラン
ド産だったかもしれない)は、風味があっ
て大変に美味しかった。<略>
 平成18年の(1)は「現代用語の基礎知識」からです。1697ページもある厚い本だけに、ジンギスカンは3部門の用語と欄外1カ所に出てくる。共通しているのは狂牛病(BSE)、鶏インフルエンザ、O-157といった家畜の流行病とは無縁ということで羊肉が見直され人気が出たという説明です。それでね、その説明以外のところを紹介します。
 私が私的著作権問題顧問として頼りにしている某先生に依れば、引用する字数は著作権法では縛っていないそうたが、それにしても合計 1300字だからね。恐る恐るの引用です。
 (2)は、これまた分厚い「imidas2006」に掲載されたレストランジャーナリスト犬養裕美子によるジンギスカン・ブームの概況報告です。平成10年代前半、日本では牛海綿状脳症(BSE)が発生し、米国産牛肉の輸入停止もあり、多くの消費者がそうした病気のない羊肉に注目し、独特の風味のあるマトンだけでなく、柔らかいラムの料理が家庭や飲食店で広がったが、北海道にいた我々は東京あたりのそんな拡がりには無関心だったように思います。
 (3)は味付け羊肉で知られる道内長沼町のかねひろが売っているジン鍋の話です。焼き面の頂天が大きな円形で丸々と太った羊で、真ん中にかねひろと入っています。売り物の肉に合うよう鍋の良を続けるのは滝川の松尾だけではないのです。
 (4)は元国立民族学博物館館長の石毛直道著「ニッポンの食卓」からです。石毛さんが「石毛直道自選著作集」8冊を示して語るYOUTUBEの動画によれば「これまでに書いてきた約3000の作品」から選んで12冊にまとめた。新たに写真も加えており「この自選集は私の自画像のようなものです。お近くの図書館などに紹介して頂ければ幸いです。」(44)と語っている。北大図書館の目次情報ではわからないので、東京都立中央図書館を検索したところ、この「日本の食卓」は第6巻に入っているとわかりました。
 (5)は芥川賞作家、辻仁成の「春のイメージ」のサーカス団が帯広公演をするところを引用しました。辻氏は函館で10代を過ごしたそうだが、いまはパリに住み、日本にいないため何人か偽辻仁成が出没しているそうで、彼のホームページの日記に気をつけてと書いていますよ。
 (6)は北海道らしくジンパができる列車の紹介です。本当にそういう列車があるのかと検索したら、ウィキペディアにバーベキュー車2両の前後に気動車か付いた4両編成の写真があり、バーベキュー車は高速有蓋車を改造した車と説明していました。
 (7)は日経BP社で20年「音楽や映像、街やファッションなどジャンルなどのジャンルでヒット商品、ヒットメーカーの取材」を経験し「日経エンタテインメント!」発行人となった品田英雄氏による「新製品の誕生と消費者心理の関係」解説の一部です。
 (8)は元北大講師の出口裕弘氏による北海道産のうまいものの話です。5行目に「所帯を持ったのが札幌なので」とあるが、これは確かだ。というのは、ヨット部の札北出身の後輩の姉さんが出口夫人だと知っとるからです。ふっふっふ。
 連絡船の「出航を告げる銅鑼の音」の序破急というような鳴らし方だったなあ。船室に座ると白服のボーイというオジサンが盆に載せてお茶を出したね。小樽生まれの母親が帰省の度にやっていたのか「10円をしのばせて茶碗を返しなさい」というから、私はその言いつけを守りましたよ。こうしたチップが結構な実入りになるらしく、船を下りたら車で帰るのは船長とボーイだけという伝説を聞いたことがあるよ。はっはっは。
 (9)は室蘭生まれの芥川賞作家三浦清宏の「海洞――アフンルパロの物語」からです。引用したのはアメリカ留学から日本帰ってきた大浦清隆は室蘭を訪れ、いとこの武林克夫が専務になっているレストラン「蓬莱城」でジンギスカンとビールをごちそうになりながら「これからは室蘭でなければできないこと、その1つが観光だ」と意気込みを聞かされます。
 港の文学館前に三浦の文学碑があります。私は室蘭に行ったことはないが、写真から碑には「室蘭、子供の頃の清隆にとってはこんなに懐かしい響きを持つ言葉はなかった。室蘭は銀座や浅草とはまったく違った別天地で、そこに行くのは最高の『お出かけ』であり冒険ですらあった。」(45)と「海洞」からの一文が刻まれていることがわかります。
 (10)はは映画・演劇評論家の山口猛が書いた「幻のキネマ満映 甘粕正彦と活動屋群像」からです。アナキストの大杉栄と伊藤野枝らを殺害した甘粕事件で知られる元憲兵中尉甘粕正彦は服役後、満洲で特務機関を作って満洲国建国に協力した。。その功績で満洲映画協会の理事長に推され国策映画を作った。それでね、甘粕は仕事や軍関係で客を接待するとき、ジンギスカンなら「萩の茶屋」という料理店に決まっていたというのです。
 前バージョンの「新京のジンギスカン料理店の元祖はカフェーだった」に、この名前はないので新聞広告は出さなかったか、店名が和風なので私が気付かなかったのでしょう。多分、その店のケータリングを頼んだと思うのですが「ジンギスカン」の1語による引用なので、これ以上の説明はできないのが残念なところです。
 (11)は作家開高健の友人による追悼鼎談からです。世界11カ国に及ぶ開高の魚釣りに同行、撮影したカメラマン高橋曻、モンゴルでのイトウ釣りでの案内と通訳を務めた元亜細亜大学長鯉淵信一、2度のモンゴル釣り紀行のプロデューサーで読売広告社長の岩切靖治氏がメンバーでね。ともにモンゴルの塩茹で羊肉はうまいと褒め、高橋氏は「それでモンゴルの人たちは『ここのよりゴビで育ったヒツジのほうがうまい』とか、ご当地自慢をするんだよね。日本人にとっては同じだけど、モンゴルの人たちにとってはいろいろと違った味かするんだろうな」とも語っています。
 鯉淵さんによると、イトウ釣りのテレビを見た当時のモンゴル首相が「これはいい画像だ」と褒めて、取材に同行したモンゴルテレビのスタッフを昇進させたそうです。
 (12)はね、銀座は流行の変化が早くて、もうジンギスカンが桜鍋に代わっているよという44歳の林家正蔵の寸感です。平成17年分に都内のジン鍋店が急増して30軒を超えたが、平成4年のモツ鍋ブームが2年で終わり、都内400店が姿を消したのと同じ運命をたどるのではないかというルポがありますが、それはどうやら杞憂に終わりましたね。
平成18年
(1) 現代用語の基礎知識
           自由国民社
 
「今年の料理ブームとその作り方」解説 嶋岡尚子(包編集室)
◆ジンギスカン
<略>日本で羊肉といえば、ジンギスカン。東京では昨日ま
で焼肉屋だった店が今日はジンギスカン店に、といっ
た具合にかつてないほど急増しているが、本場は北海
道。大正時代に満洲に渡った日本人が、中国の焼羊
肉にヒントを得て北海道で始めたものらしい。北海道
では、炊事遠足といえばジンギスカンと相場が決まっ
ていて、肉を買えば、店によっては鍋を貸してくれた
ものだ。
かぶと型の鉄鍋で焼くのが特徴的。このジンギスカン
鍋は、大阪で一家に一台のたこやき器に匹敵して、北
海道では大概の家にある。火力はぜひ七輪に炭といき
たい。前もってタレに漬け込んだ肉を焼く方法と、肉
を焼いてからタレをつけて食べる方法がある。肉はマ
トンでもラム(⇒別項)でも。野菜はタマネギ、ピー
マン、大量のモヤシ。鍋を火にかけ、油をまわす。充
分熱くなったところで肉を鍋の頂上から中腹部分に置
き、野菜を裾野、およびツバの部分に置く。タレは自
家製でなければという人もおり、関西人に各人の「お
好み焼き道」があるように、北海道人には各人の「ジ
ンギスカン道」がある。

「北海道」解説 永江朗(フリーライター)
漢字で書くと成吉思汗。ジンギスカンは北海道の代表
的な郷土料理である。ルーツは中国料理のカオヤン
ローであるといわれる。「ジンギスカン」の名は、モン
ゴルで羊肉料理が盛んなことと、源頼朝に追われた源
義経が、奥州平泉から北海道に渡り、やがてチンギス
ハーンになったという伝説にちなんでいる。北海道で
はごく日常的な料理だが、北海道以外では新鮮な羊肉
の入手がむずかしく、ほとんど普及していなかった。
ところが数年前から全国に広がり、チェーン店も登場。
<略>

「食文化」解説 小倉朋子(フードプロデューサー)
◆ジンギスカン
(Genghis Khan)
羊肉と野菜を専門の鍋で調理する
北海道で親しまれてきた料理。
<略>羊肉は独特な匂いが特徴
でもあるんが、匂いの少ないラム(仔
羊)を使用したジンギスカン専門
店などの登場とともに、新たな需
要が拡大された。羊肉は比較的手
頃な値段で、栄養面においても、
豚や牛に比べカロリーも低く、コ
レステロールを減少させるといわ
れる不飽和脂肪酸を含み、脂肪を
燃焼するカルニチンも豚肉の2倍
以上、ビタミンB群や鉄分も豊富
とされるため、ヘルシー志向の客
にも訴求した。羊肉は成長により
呼び名が異なり、生後1年以上を
マトン、生後1年未満をラムと称
する。

「美容」解説のページ下の欄外
◆ジンギスカン 2004年、北海道庁から北海道遺産に指定された郷土料理の一つ。モンゴルの英雄、ジンギスカン軍の兜に見立てた半ドーム型の鉄板に牛肉やかぼちゃ、タマネギなどの野菜を乗せ、焼いて食べる。羊肉のにおいが苦手という人が多かったが、さらにラム肉のダイエット効果などが人気を呼び、東京にも多数の専門店が進出するなど本格的なブームに。「まずいのに売れる」ジンギスカンキャラメルも人気。〔流行食〕

(2) ジンギスカン
           犬養裕美子
           
羊肉の焼肉料理。中央が盛り上がっ
た独特の鍋を使い、ラム肉(子羊の
肉)やマトン肉(成羊の肉)を野菜と
一緒に焼き、タレで食べる。羊の産
地である北海道ではポピュラーな料
理だったが、ここに来て全国で大ブ
レイク。その背景にはBSE問題に
よる牛肉の供給不足や牛肉離れもあ
るが、牛肉よりも安くて、意外に食
べやすいというのは広く好まれる理
由。オーストラリア産などのクセの
ない羊肉が喜ばれている。東京の中
目黒、恵比寿などのエリアでおしゃ
れなジンギスカン店がオープンした
ことから、ファッション業界などに
も広まった。低カロリーなうえ、1
人前1500~2000円でお腹もいっぱい
になるという手頃さもうけ、会社帰
りのサラリーマンやOL、家族連れ
などにも人気が出た。

(3) 石炭ストーブのおかげで生まれた
    本場、北海道のジンギスカン鍋
           中島羊一

<略> かねひろ特製の鍋は直径をより大き
くし、山の傾斜を緩やかにしてある。
こうすることで中央部分の「肉焼きス
ペース」が、より広く取れるのだ。ぱ
っと見ただけでは分からないが、実は
〝計算されたフォルム〟なのである。
 一方、野菜は鍋の周辺部分で焼く。
流れ落ちる脂でいい塩梅に焼けるのだ。
鍋の縁には脂を受けるための溝が付い
ている。あらかじめタレに漬け込んだ
「味付けラム」を焼いた場合、この溝に
どんどん肉汁が溜まり、野菜に染み込
んで一層旨くなる。
 特製鍋では、この溝をかなり深く取
ってある。普通のジンギスカン鍋だと
溝が浅く、肉汁ですぐ満タンになって
しまう。焼いている途中で頻繁に汁を
捨てなければならず面倒なのだ。本場
の人間でなければ思いもよらない工夫
である。表面の凹凸は焦げを洗い落と
しやすいよう、浅く作られている。こ
れも特製鍋ならではの改良。
 製造を請け負うのは、栗沢町にある
岩見沢鋳物という会社。<略>昔は
石炭ストーブも手がけていたそうだ。
 意外なことに、その石炭ストーブが
ジンギスカン鍋の誕生と深くかかわっ
ているらしい。
 厚みの少ないものを鋳物で作る場合、
職人たちはそれを「薄もの」と呼ぶ。
<略>つまり、薄もの作りにはそのための手
間と技術が必要なのだ。かつて大量に
作られた石炭ストーブがまさにそう。
北海道の鋳物工場はそこで技術を培っ
た。だからこそ容易に、ジンギスカン
鍋のように薄い鋳物製品が生まれたと
いうわけだ。<略>

(4) ジンギスカン料理 ◆北京発祥、和風に変化
           石毛直道

<略> ジンギスカン料理のルーツは、清朝時代の北京にある。十七世紀前半の北京で、ヒツジの焼き肉を食べさせる行商や店舗ができた。
 漢族は肉や魚を焼いて食べることはせず、炒めたり、煮て食べるのが普通だ。北京の焼肉店の、いちばんの顧客は、清朝をつくった満州族の官吏たちで、満州族は焼肉を好む習慣があったからだという。その後、涮羊肉とよばれるヒツジのしゃぶしゃぶとならんで、烤羊肉という羊の焼き肉が、北京の名物料理になった。
 ジンギスカン料理という名前につけたのは、大正時代末から昭和初期にかけて中国に在住した日本人たちである。北京烤羊肉の名店では、屋外にしつらえた炉をかこんで焼き肉を食べたあとで、屋内に移動して他の料理を食べさせる。北京の屋外バーベキューが、草原の英雄ジンギスカンの軍隊の野営地での食事を連想させ、ジンギスカン料理といわれるようになったのだろう。
 ジンギスカン料理が流行するのは、昭和三十年代からで、いまでは北海道の名物料理になった。焼き鍋も、タレに使用する調味料も、日本で独自に考案されたものに変形している。ルーツはさておき、新種の日本料理としてよいであろう。

(5) 「春のイメージ」
           辻仁成
 
<略> 公演初日が近づいたある夜、九は団員を引き連れてジン
ギスカン料理を食べに出掛けた。西二条の大通りを上った
途中に、料理店はあった。奧の大座敷を借り切り、一同で
ジンギスカンプレートを囲んだ。
 象使いの青年はジョー、ブランコ乗りの女性はサクラ
コ、そして、ピエロを演じる青年はユンタといった。この
三人が、赤沼強太不在のサーカス団の中にあって、九の右
腕的な役割を担っていた。分銅についで九が信頼を寄せる
若者たちである。
 ジョーが声を潜め、店の者に聞かれないか警戒しながら
一本のスプーンを差し出した。
 「あの、これ、持参してきました」
 ユンタがスプーンが詰まった小箱をテーブルの中程にど
んと置いた。団員たちが手を伸ばす。襖の側に座していた
団員らが襖を締め切る。笑顔が一同に広がった。
「誰でもスプーンを曲げることができるって、九さんは前
におっしゃいました。今日は是非、教えていただきたいん
です」
 分銅が九さんじゃない、副団長だろ、と忠告した。
「副団長、わたし一生に一度でいいから、スプーンを曲げ
てみたいんです」
 サクラコが前かがみに訴える。九は肩を竦めてみせ、隣
に座るユンタからスプーンを受け取った。
「確かに、誰でも簡単に曲げることができる。おそらくこ
ん中で一人か二人は今夜のうちにその方法ば会得するやろ
う」
 九が真面目な顔で話すと、青年らの顔からすっと笑みが
消えた。<略>

(6) 全国トロッコ列車ベスト10
           桜井寛
 
 北海道にはもう一つ。ぜひ紹介したいユ
ニークなオープンエア列車がある。その名
は「バーベキュー号」。厳密にはトロッコ
列車ではないが、社内でバーベキューを焼
けるとあって、もちろん窓はフルオープン
可。もっとも、煙くて窓を開けずにはいら
れない。
 運行区間は函館本線の函館~森間や、根
室温泉の新得~落合間など、北海道の中で
も屈指の雄大な車窓風景が堪能できる路線
である。列車は3両編成で1、3号車が自
由席、そして真ん中の2号車が指定席のバ
ーベキューカー。私が乗車したのは函館発
森行きの「大沼・流山温泉バーベキュー
号」だったが、函館駅発車と同時に早くも
ホットプレートでジンギスカンを焼き始め
たグループもあって、車内にはいい香りが
漂い、自由席の乗客からは羨望の眼差しが
集中。これ見よがしに私もジュージュー焼
き始めた。
 このバーベキューカーの指定席料金は、
わずか300円というのもリーズナブルだ
が、4人グループなら1テーブル1000
円の割引料金が適用される。
 食材も飲み物も持ち込み自由だが、函館
駅でバーベキューセット(3千円)が販売
されている。内容は、和牛焼肉、牛タン、
イカ、ホタテ、エビ、野菜、オニギリ、サ
ッポロビール。北海道ならではの味覚がう
れしい。おっと、焼くことと、食べること
に夢中で、せっかくの雄大な車窓風景を見
逃してしまいそうだ。

(7) 新しいからといってオシャレなわけではない
           品田秀雄

 女性たちの集める話題のトレンディスポットは時
代の空気をよく反映している。
 ここ数年、東京では六本木、丸の内、汐留、品川
などの地域が再開発され、世界的に有名なブランド
ショップやレストランが数多くオープンしている。
むろん、女性たちはそうした地区にも足を運んでい
るのだが、今、東京の女性たちが〝大人系デートの
三大スポット〟と呼ぶのは神楽坂、麻布十番、そし
て中目黒である。この三つの地域では新しい店がオ
ープンしたり、古くからの店が話題を集めたりして
タウン情報誌などでは「デートならこの三地区」と、
格上に扱われていることが少なくない。
 神楽坂、麻布十番、中目黒を実際に歩き回ってみ
ると面白い発見がいくつもある。<略>
 中目黒は渋谷から東横線で2駅、恵比寿から地下
鉄で1駅の距離がある。3つの中では一番新しい。
桜の名所になった目黒川に沿って、ブティックやカ
フェ、美容院などのファッションの新しい店が集ま
っている。また、このところ人気のジンギスカン料
理の店が多いことでも注目されている。
 3カ所に共通するのは大きな盛り場から離れてお
り、裏通りには隠れ家風の店が点在することである。
道が細くクルマが少ないので安心して歩くことがで
き騒音も少ない。住宅と商店が混在しており、裏通
りは自然に屋敷町へと続く。大きな公園がなくても
庭木の緑があり、気持ちのよい散歩道が続く。
 駅からちょっと離れたロケーションが素敵という
のは、バブル経済が起きる前に西麻布、乃木坂、芝
浦がブレイクしたのと一見、共通している。が、バ
ブル時と決定的に異なる点がある。神楽坂、麻布十
晩、中目黒には洒落たレストランやブティックとと
もに、昔からあるパチンコ店や焼肉店が点在してい
ることである。生活臭さを持たないことがオシャレ
度の基準だったバブル期に比べると、格段に人間臭
くなっている。
 かつて人々は〝ダサい〟生活空間から逃れるため
に、非日常的な空気を持つ街に集った。しかし、今
は非日常性の強過ぎる街は、時に冷たく、時にウソ
っぽいと感じさせると女性たちは言う。人間臭さは
成熟の証とでもいうように、街にも人間らしさがあ
る方が〝本物〟らしいと感じるようだ。単に新しく
て洗練されているだけでは求心力が薄れ、昔からの
花街や老舗のもつ雰囲気に好奇心や魅力を感じる人
が増えていると思われる。<略>

(8) わが北海道を食べ歩く。
           出口裕弘

  私  の北海道は古くて新しい。
     昭和二十九年から三十八年
     まで北大の仏語教師の職を
得て札幌に住み、その後古巣の東京に
舞い戻りはしたが、所帯を持ったのが
札幌なので海峡の向こうに縁者が多
く、お互いに行き来が絶えない。札幌
在住のころは青函連絡船の全盛期だっ
た。出航を告げる銅鑼の音が今なお耳
の奥で鳴っている。
 その、半世紀あまりの昔、札幌の二
条市場で初めて生ウニを啜った。晩秋
の月寒種羊場で、みな二十代だった同
僚たちとジンギスカン鍋を囲んで大宴
会もした。宅配便で冷凍ものがたちま
ち届く世の中ゆえ、釧路の某店からサ
ケのカマを、余市の某店からはウニや
毛ガニを取り寄せ、あいかわらず北海
道の〝食〟を堪能してはいるが、野外
での、鮮烈な紅葉を眺めながらのジン
ギスカン鍋はもう手の届かない昔のこ
とになった(三年前の夏、札幌のビー
ル園でジンギスカン鍋の御馳走にあず
かったが、すでに煙にもうもうという
〝野戦料理〟ではなくなっていた)。
 今度、東京で北海道物産館を三カ所
も見て回ったが、そのジンギスカン料
理が一式ととのった形で真空包装され
ているのには目をみはった。フライパ
ン一つでOK、簡便、清潔。なるほど
時代はすでに二十一世紀、とあらため
て感嘆した。<略>

(9) なして日本に帰ったのさ
           三浦清宏

<略>「こんなにたくさんいい場所があるとは知らなかった
よ。室蘭も捨てたもんじゃない」
「んだ」
 克夫は大きく頷いて、
「あんまり長い間『鉄の町』なんて言われてきたんで
鉄以外には何もないように世間は思ってるが こんな
自然に恵まれた町はほかにはないさ。小樽や函館だっ
てかなわない。測量山からの眺めは北海道一だべさ。
近くには温泉まである。それもでっかいのが二つもあ
るからな」
 と自分の言ったことがおかしいことであるかのよう
に笑った。大皿の上の羊肉をコンロの鉄網の上にどん
どん放り出すように載せ、箸でひっくり返しながら、
「これからはもう鉄や石炭の時代じゃない。室蘭は昔
から戦争があるたびに景気がよくなった。軍需産業都
市だったんだ。<略>戦争に負けるといったんダメにな
ったが朝鮮戦争で息を吹き返した。だが、それももう終
わった。もう戦争で儲ける時代じゃない。 日本は平和
国家を宣言したしな」
「さっきの人の話じゃ、今でも室蘭は景気がいいそう
じゃない」
「アメリカが買ってくれてるからさ。そのおかげで向
こうは製鋼業が斜陽になりかかっている。輸入制限で
もされたら日本はおしまいだ」
 克夫は焼けた肉をどんどん自分の皿に載せ、たれに
付けながら大きな肩を前に傾けてしゃぶるように食べ
ている。二、三枚を清隆の皿にも載せ、
「食べれや。うめえぞ」
と顔を見せた。<略>

(10) 湖西会館
           山口猛
 
<略> 湖西会館は、満映裏の南湖に面した瀟洒な建物であり、ここに甘粕理事長は、賓客を招待し、食事をとりながら映画を見ていた。
 そこで上映されるのは日本、ドイツの最新映画はもちろん、アメリカ映画も含まれていた。<略>
 皇帝溥儀は湖西会館を利用しなかったが、宮内府宮廷係の吉岡安直中将は、よく出入りし、溥儀の弟溥傑や夫人の浩は、ここで時々映画を見ていた。あるいは、張景恵総理など、たまに甘粕抜きで利用したこともあった。
 湖西会館詰めの斎藤亮男の仕事は、将校をはじめとする甘粕の客に案内状を出し、彼が決めたその日のメニューを、出入り業者に頼み、宴会の最中には甘粕の命令を聞くことだった。
 出入りの業者は、中華料理は「菜羹香」、和食は「香蘭」、ジンギスカン料理は「萩の茶屋」と決まっていた。もっとも三笠宮殿下が満映を訪れた時などは、ヤマトホテルから洋食担当のコックを呼んだ。なかでも「香蘭」の主人野田市太郎は、甘粕が贔屓にして、彼を北京まで連れて行ったこともあった。
 湖西会館で、宴会が始まるのは、満映が終わる 午後六時すぎから、文化映画をつけて、劇映画を上映し、そして食事、酒宴という段取りだった。ここでの甘粕はホスト役に徹し、いわゆる「甘粕が乱れる」と言われることになるのは、この後の料亭からだった。

(11) モンゴルのものはモンゴルに。
           高橋曻

<略>
高橋 社会主義だから、チンギス・ハーンという英雄がいちゃいけない、と。
鯉淵 そうです。教科書などにはまったく出てこなかったですね。チンギス・ハーンは公式には侵略者ということで批判される対象でした。しかしそれは表向きで、本音は多民族国家であるソ連型社会主義と相容れなかったということなんです。チンギス・ハーンはなんといってもモンゴル民族の英雄ですから、それを許すとモンゴル民族の民族主義を鼓舞することになります。ソ連国内の民族主義に火をつけてしまうことを恐れたわけですね。
岩切 チンギス・ハーンの名を口にして捕まった人が何人いるかわからないって、先生が言ってましたよ。
鯉淵 ところが、「なんでモンゴルのホテルにチンギス・ハーンの名を使っちゃいけないんだ」という運動が起こったんですよ。それがちょうど先生がチンギス・ハーンの陵墓探査を計画し始めたころ、その計画と重なり合うような形で、「日本にはジンギスカンという名の料理まであるそうじゃないか」といった記事が新聞に出たり(笑)ま、あのイトウ釣りの映像がモンゴルの人々に与えた影響は大きかったという気がしますね。モンゴル人自身がモンゴルの素晴らしさを見直したと思うんです。さっきも話に出ましたが、先生は釣り上げたイトウをリリースするとき「チンギス・ハーンのものはチンギス・ハーンに、モンゴルのものはモンゴルへ」という言葉を添えて放すんですが、この言葉はモンゴル人にとっては実に深い、胸にし沁みる言葉だったのです。彼らの心の琴線に触れるひと言でした。もちろん開高先生はそうした意味を込めてあの言葉を発したと思います。

(12) 馬肉ブーム
           林家正蔵

 どうやら巷では、馬肉ブームらしい。
ついこの間まで、雨の降った後にタケ
ノコがニョキニョキと生えるように、
「ジンギスカン、ジンギスカン」と羊
肉がもて囃されていたが、この羊ブー
ムも一段落したようだ。何軒かは生き
残り、後から便乗した店は、暖簾を仕
舞った。一時、やたら流行していたモ
ツ鍋が復活の兆しを見せているが、静
かなブームは馬肉だ。
 そういわれてみれば、銀座の居酒屋
でも若い女性のグループが、焼酎のオ
ン・ザ・ロックをぐびぐびやり、馬刺
をパクパク。生肉にも抵抗も何もない
のであろう。「やっぱり疲れた時はレ
バ刺より馬肉がいいよネェー」「私は、
やっぱタテガミ好き―」なんて会話を
している。若い女性が飛びつきのだか
ら、このブームはどうやら本物らしい。
<略>
 平成19年の(1)はジンギスカンは1回しかいわない座談会からです。出席したのは作詞家で京都造形芸術大教授の秋元康、日経トレンディグルメ探偵団のライター永浜敬子、レストラン・ジャーナリスト犬養裕美子。「挽き肉の逆襲が始まる!」と銘打ってはいるものの、ほとんど飲み歩きの話。最後の子供の頃食べ物の話では、秋元が生トウモロコシが好きで「僕は夏に北海道から取り寄せて食べてます。」と語っています。
 (2)は脱線だ。椎名誠率いる「麺の甲子園」審議団5人が南北海道ブロックとする函館、札幌、小樽を廻り、札幌では特にジンギスカンの〆ラーメンを注文「札幌で今、大人気という〆のラーメン。気持ちはわかるけど、ううむ……という感想(十鉄)」(46)と現場写真2枚を付けてます。函館塩、函館イカ、札幌味噌、札幌〆の各ラーメンと小樽豪雪うどんの対戦の結果、ブロック優勝は札幌味噌ラーメン。ラーメンはジンパ学の研究対象ではないのだが、オマケして入れました。
 (3)は、北海道のことを知らない若者に、ふるさとの魅力を覚えてもらうために考案された「北加伊道カルタ」制作委員会(伏見信治代表)が結成され、100人を超える会員が考えたカルタの句から44枚を厳選、道新日曜版で毎週1枚ずつ紹介された。ジンギスカンの札は肉片を並べたジン鍋、羊、リンゴ、ミカン、玉葱などが描いてありました。
 (4)は新渡戸さんが亡くなって3年後、太平洋の彼方からジンギスカンを食べに成吉思莊に現れたという怪談です。いいですか、新渡戸さんは昭和8年にカナダで亡くなられた。若いとき太平洋の架け橋になりたいと言われた方ではあるが、そんなことあるわけないよね。はっはっは。
 これは成吉思荘の生みの親である東京赤坂の松井精肉店が明治39年、羊肉を売り出したころの話と、その松井精肉店が後に羊肉卸し問屋も兼ねるようになり、昭和11年に羊肉食普及で開いた成吉思荘を混同したことから生じた大間違いですね。
 前バージョンの講義で話したと思うが、松井初太郎さんの思い出によれば、松方農場産の羊肉を買いにくる客はほとんどが外国人、日本人では新渡戸さんぐらいだったそうです。
 それからこの章の前の章は「北海道遺産に認定されている!?」で、道民は花見でジンギスカンを食べる「うらやましい土地柄」と書いています。それはよろしいが、続けて「北海道大学では、サークルなどの新人歓迎会で、ジンギスカンパーティー(略してジンパ)をするのだとか。大学構内のあちこちで煙が立ちのぼる光景は北大名物とのウワサも…!?」(47)」とある。「とか」「うわさも」とは、なんじゃ。平成以前からやっている伝統ある行事だぞ。世の中には、こんな本も売っているということです。
 (5)は女性より若い男とのラブを書いた本だが、私は若い頃、こんな風に年上の女性にゴチになるなんて大事件は一度もなかったなあ。君たちは知らないかも知れないが、私が助手になったころ「兼高かおる世界飛び歩き」というテレビ番組があってね、その兼高女史が説明するとき「~ですの」などの山手言葉を多用した。私はこの小説の麻子の「そうお」にそうした上品な雰囲気を感じたね。また何でも「そうかい」と相づちを打つ道産子も思い出したよ。ふっふっふ。
 この本の著者紹介に「若い女性たちの〝恋愛のカリスマ〟として、その人気を不動のものにする。」とあることを付け加えておきます。
 (6)は作家開高健のある日のエピソードです。彼が通った茅ヶ崎のジンギスカン店は、黄色い看板が目印で店名は「ジンギスカン」といい「現在は酒の持ち込みはできないが、かつて開高は高級ワイン「ロマネ・コンティ」を持ち込んで空けたという〝伝説〟も残っていた。」(48)と産経新聞が伝えていました。
 (7)は「芸能一筋を美徳とするような生き方は好まない」という俳優の山崎努の随筆です。誰でも老いて死ぬが、古希の山崎は「死の前に、呆けることも覚悟しておこう。」といい、孫との電話で「いま、どこにいるの?」「……いまね、いま、ここ」と答えたことを挙げ「呆らけるならこんなふうに呆けたい。」と結んでいる。私はね、先日、飛行機の予約番号6桁を間違って打ち込み、発券機がおかしいとカウンターに知らせてボケがばれたが、私より3つ若いだけの山埼君も似たようなことをやっとるんじゃないかな。ふっふっふ。
 (8)は美術鑑定家、料理評論家として知られる勝見洋一氏の本からです。北京の有名老舗「東来順」の羊肉料理は皆、牝の肉だとはね、私もこの本で初めて知りました。字数枠の都合で本文で省略したフランスの続きは「ノルマンディーの海岸近くの牧草地で育った仔羊は、潮の香りが焼いた肉から薫る。これを海岸端で食べては面白くない。人工都市ともいえる石造りのパリの街のレストランで『ああ、モンパルナスに海が見えるようだ』などと洒落るのが文化なのだろう。」(49)です。
 もう1つ、ハヤシライスの章から「不意に記憶の底から旧ソ連時代のモスクワが湧き立つように思い出されて慄然とした。なぜか。モスクワにハヤシライスが存在したからなのだ。あの暗い社会主義統治時代、料理店や酒場はみんな国営資。チキン・ア・ラ・キエフもピロシキもすべて国営工場から配給された半完成品。つまりどこに行っても国家が管理した同じ味だった。」(50)食べ歩きが楽しめない国だったのですね。
 (9)は自分でイラストも描くルポライター内沢旬子著「世界屠畜紀行」の「まえがき」の書き出しそのものです。これだけで、なるほど、こういうことを書いている本なんだなと、すくわかった。編集者も同感だったようで、羊の内臓洗いの情景104字を削って、この本の帯のコピーに仕立てています。ジンバ学ではモンゴルと中国の羊の屠殺状況は調べてきたが、国内分ではジンギスカン料理専門で、肉になるまでのプロセスは全く触れてこなかった。
 この本は東京芝浦屠場の牛と豚、沖縄の山羊の屠畜状況は詳しいが、綿羊のそれには触れていない。屠畜場法の関係もありそうで、私としては率直なところ、調べてみるとしかいえない。
 (10)は明治大教授黒川鍾信氏が書いた「神楽坂ホン書き旅館」にある戦前の「成吉思荘」の繁昌ぶりです。平成19年に新潮社が出した文庫本からですが、同14年5月に日本放送出版協会から出た本でもあるので、ここに入れました。
 主題の旅館「和可菜」の経営者、和田敏子は和田つまこと木暮実千代の妹で、戦前から義母和田津るとともに「成吉思荘」を手伝っていた。それで陸軍大将阿南惟幾は同荘を訪れる度に、敏子を可愛がり、いい婿さんを見つけてあげるとよく言っていたという。
 黒川氏は和田家の親類で平成7年に「木暮実千代 知られざるその素顔」を出しているが、その取材で「成吉思荘」の松井統治さんに何度か話を聞いたようで、私が松井さんに「黒川という人が木暮実千代のことを書いた本が出てますね」といったら「余計なことを書くなよと言ってやったんだ」と言われたように記憶してます。それは和田津る、敏子あっての成吉思荘みたいに書くなよということだったんですね。
 (11)は「3人家族(父、母、小学生の僕)で一度に丸肉(別名ロール肉、わかりますよね?)2キロは食べていた」(51)釧路の宇佐美家で育った宇佐美伸の「ジンギスカン」からです。
 宇佐美家では漁船員と同じくベル食品の缶入りタレを愛用し、焼いてからタレを付けたが、筆者はその缶の穴開けが楽しみで、そのタレには胡椒を「わんさか振りかけるのが僕流だ。」(52)と書いてます。
 換気扇のない部屋で焼くから「家中のあらゆるものがジンギスカン臭にまみれ」つるつるになり、畳に敷いていたビニールレザーが「ジンギスカン後は滑る滑る! 実に釧路っ子の多くはこれで途端にスケーティングの真似をするのがお約束。だからこそ、多くの名選手をを輩出しているのだ(と、個人的には確信している。)」(53)というあたり、年配者は思い当たる懐かしい情景ではないでしょうか。
平成19年
(1) 戦国時代! 肉の下剋上が……
           秋元康
           犬養裕美子
           永浜敬子

秋元 いきなりですが肉部門。僕はジンギ
スカンも馬肉も、もうピークに達したと思
っています。
犬養 えっ! もうそんな核心をついてし
まうのですか?
永浜 羊でも馬でもなかったら、次は……

秋元 まぁ、あまり結論を急いでも面白く
ないですから、まずは肉ブームの変遷を振
り返ってみましょう。
犬養 狂牛病や鶏インフルエンザで食べら
れない肉が出たのが一番大きな問題でした
ね。
秋元 気にします? 僕は全然気にしない
ですね。
永長 私も気にしません。
犬養 牛丼や鶏肉が食べられなくなったの
は驚きでした。
秋元 僕がおいしい牛の脳みそを食べた翌
日に、日本で狂牛病が発覚したんですよ。
あの時はさすがに吃驚しましたね。いつか
僕も、よだれ垂らしておかしくなってしま
う日が来るのかな……。
一同 ……。
永浜 症状が出るのはずっと先だから、ひ
とまずは大丈夫ですよ! 最近、牛は霜ふ
り=おいしいではなくなっていると思いま
す。受け売りですが、霜ふりって簡単に作
れるらしいですよ。ビタミンAを欠乏させ
たり、作為的に何か手を加えるらしいで
す。<略>
永浜 では冒頭に戻って、馬の次は何がく
ると思いますか?
秋元 ずばり断言すると挽き肉ですね。こ
れからは挽き肉のの時代が来る!
女子一同 ……え、ええ!
秋元 つまりは、牛と豚と鶏を自分でブレ
ンドする挽き肉料理がくるのではないかと
いうわけです。<略>

(2) 味噌もカレーも一緒
           椎名誠

<略> 麺の巡礼団は次にジンギスカン専門店に
行った。ジンギスカン鍋がモンゴル料理と
聞いて、モンゴルに初めていったとき、本
場のジンギスカンが食えるのかと思った
が、そんなものはどこにもなかった。
 以来何度もモンゴルに行くうちにわかっ
たがモンゴルにはジンギスカンなどという
食い物は存在しない。なぜならモンゴル人
は肉を焼いて食うということは絶対しない
からだ。いまでこそ韓国資本がヤキニク店
をつくって牛肉など焼いているが、遊牧民
は今でも肉は焼かない。何故なら牧畜業の
かれらは動物を大事にする。それを食べる
ときは血も脂も大切な栄養源として食べ
る。肉を火で焼くと脂が垂れて燃えてしま
う。そんなもったいない料理はしない、と
いう考えだ。
 したがってジンギスカンは「日本人だけ
が食っているモンゴル料理」というわけの
はわからないものなのである。
「十鉄」という店に入った。サッポロクラ
シックの生ビールがうまい。生ラム肉、塩
ホルモンなどをばしばし食って、目的のジ
ンギスカンのつけだれで食うラーメンを注
文した。期待が大きかったが小さな鍋でイ
ンスタントラーメンっぽいのを煮て食うと
いうどうしようもないシロモノでこれには
まいった。見るからにまずそうで食ったら
やっぱり圧倒的にまずい。
「基本的に無理がある。甘いジンギスカン
のタレにラーメンが合うわけがないではな
いか」
 楠瀬が怒ったようにいう。
「札幌冬季オリンピックふうにいうと、ジ
ャンプは成功したけれど着信に失敗という
ところですかな」

(3) 遊ぶたびに北海道がわかる「北加伊道カルタ」誕生
           ONTONA

 長く北海道に住んでいても、北海道
の歴史や地理、文化や産業など知らな
いことはたくさんありますね。さらに
これから時代が進むにつれ、古いこと
は少しずつ忘れられてしまうかもしれ
ません。それを危惧(きぐ)した有志が
集まり〝遊ぶために北海道が分かる〟を
テーマに「北加伊道(ほっかいどう)カル
タ」を生み出しました。誕生日きっか
けや、完成までの道のりを紹介します。
<略>
 44の句は、古くは北海道の氷河時代から、つい昨年
のことまで約2万年もの長い期間にわたっています。
<略>
思い入れのある句を尋ねると「どれも思い入れがあり
ますね。例えば『り』の『リンゴに玉ネギ ジンギス
カン』などは、単語を並べただけですが、シンプル
で面白いでしょう。ジンギスカンのタレにどうしてリ
ンゴと玉ネギを使うか知っていますか?北海道で羊
はもともと、羊毛を取るための軍事
目的で育てられていました。余った
肉は、においがきつくて食べられな
かったんです。それを食べる工夫と
してにおい消しのために、タレにリンゴと玉ネギを入
れたのが始まりなんですよ」(蛭川さん)
 調べれば調べるほど奥が深い北海道の文化。制作委
員自身もさまざまなことを学び、年代によって着目点
が違うことを知ったといいます。「一番若い人は当時
大学生で年長が74歳の私。私の若いころは道路の除雪
がなく、降った雪はそのまま積もって2階の窓から家
に出入りしたり、居間に置いた鉄瓶の湯が凍っていた
もの。世代によって、生活も視点も違いますね。昨今
話題のカーリングを入れたのは、若い人からの提案な
んです。世代間やさまざまな職業間の交流があって、
刺激になりました。楽しかったですよ」(蛭川さん)

(4) ジンギスカンの元祖って…じつは!
           桑沢篤夫
           (有)フロッシュ

 近年、ジンギスカンは羊肉に含まれるカルニチンとい4物質によって食べても脂肪がつさにくいとされ、美容やダイエットに効果があるということでブームとなり、東京にも多くのジンギスカン店が開店しているが、じつはその元祖の店は、何を隠そう東京だった!?
 昭和11(1936)年、日本初の羊肉専門店「成吉思(じんぎす)荘」は、東京都杉並区に開店した。開店当初、羊肉になじみがないせいか、利用客は外国人ばかりで、唯一の日本人客といえば、あの旧5000円札のモデルにもなった新渡戸稲造だけだった、という逸話も残っている。それほど当時はもの珍しかった料理だったのだろう。

(5) 愛があれば年の差なんて!?
           梅田みか
 
<略>「うまい!うまいなあ」
 仲幸は心から感動した様子で、ジンギスカンを頬張った。その様子に麻子はほっとして、自分もネギ塩焼きを一片箸でつまんで口に入れた。ラム肉の独特の旨みと白葱のシャキシャキとした食感が合わさった絶妙の味が口中に広がって、思わず目を閉じてしまいそうになる。もちろん、前に座っているのが気のおけない女友達だったら、もっとじっくり味わえるし、自分のペースで好きなだけ食べられる、というのはあるけれど。
 仲幸との記念すべき食事をどこでしようか、麻子は考えに考えたあげく、この中目黒の隠れ家的ジンギスカンの店に決めた。仲幸と同じく北海道出身のオーナーが地元から毎週厳選したラムを国内空輸で生のまま仕入れているため、この店の肉には臭みがいっさいない。「東京のジンギスカンなんて、ジンギスカンじゃない」なんて得々と語る北海道出身さえうなるほどだ。
「ほんとにうまいっすねえ、ここ。東京でこんなにうまいジンギスカン、初めて食べました」
「そうお、よかった。いっぱい食べてね」
 仲幸の口から聞きたかった台詞をほぼそっくりそのまま聞くことができたので、麻子は満足して生ビールを飲んだ。
「麻子さんって、休みの日は何してるんですか?」
 ジンギスカン鍋の上でジュウジュウ音を立てているラム肉を挟んで仲幸と向き合って、あらためてこんな定番の質問をされると、麻子は急に緊張してきた。<略>

(6) 開高健の杯
           菊谷匡祐

<略> あるとき、茅ヶ崎の家に遊びに行く
と、開高さんが悪戯っぽい目つきで言
いだした。
「おい、旦那、今日はちいっとばかり
いい酒、飲ませよか」
「いいですね、何です?」
「まあ、急くな……」
 開高さんは戸棚に寝ているボトルの
中から三本引き出した。
「こんなんで如何かな?」
 それを見て、わたしは目を剥いた。
ロマネ・コンティが二本とシャトー・
ディケムである。が、何年物だったか
は覚えていない。
「こんなの飲ませてもらえるんですか?
ここでやります?」
「いや、駅前のジンギスカン屋へ行こ
か。ディケムは、君、家に持って帰っ
てかあちゃんとでも飲め、オレは、ど
うも貴腐ワイン好かんねん……」
 R・Cとディケムを紙袋にそっと入
れ、タクシーを呼んで駅前に出かけて
行った。夕方に一歩手前というぐらい
の時刻で、ジンギスカン屋には客の姿
もない。まず持参した針金の栓抜きで
R・C二本のコルクを抜き、一皿三〇
〇円だかのロースやらモツやらを注文
しておいて、R・Cが空気になじむの
を待った。<略>
「それにしても、ロマネ・コンティを
こんなふうに飲んでいいんだろうか。
何となく気が咎めるなぁ」
「だったら結構、君は飲まんでもええ
んやで」
「バカ言っちゃいけません。飲みます
よ、ありがたく飲ませていただきますっ
て……」
 ジンギスカンをつまみながら、ふた
りは、ビールの景品についてくるよう
なコップで、R・Cを飲んだ。そのと
きの香りと味についてはともかく、ジ
ンギスカン屋でロマネ・コンティを飲
むという破天荒な行為が、じつにうれ
しく愉しかったものである。<略>

(7) いま、どこにいるの?
           山崎努
           
 去年十二月の誕生日で七十歳になった。
 きのうの続きが今日になっただけという感じで、
改まって特別の感慨もないが、ひとつだけ思い出す
光景がある。
 もう三十年近く前になるが、黒澤明監督の映画で
北海道に長期ロケをした。黒沢さんは、仕事仲間と
一緒に大勢で飲んだり食べたりすることが好きだっ
た。だから晩飯はみんな揃ってワイワイガヤガヤ、
いつも賑やかな宴会になる。たいがいはホテルの近
くのジンギスカンの店で、肉も野菜もわしわし食べ、
ビールもたくさん飲む。満腹ほろ酔いで全員連なっ
て機嫌よく歩いて帰る。食事をしながらマエストロ
は青年のように熱っぽく映画づくりの面白さを話し
てくれた。演出について、演技について。興味深か
った。
 ある晩の帰途、僕は黒沢さんと並んで歩いていた。
ゆっくりと歩調を合わせたつもりだったが、黒沢さ
んは歩き疲れたようで、少し荒い息になり、僕の肩
に手を置いた。そして「山崎、おれももう七十だ
よ」と、珍しくしみじみとした口調で呟いた。僕
は、え、黒沢さんが、もう七十! こりゃ大変だ、
と、声には出さず、思った。皮ジャンにジーンズ、
スニーカー姿の黒澤明はとても若々しかったので、
よけいにショックだった。
 その七十に、自分がなったわけだ。<略>

(8) 羊肉
           勝見洋一

<略> 羊は臭いと言う人がいる。
 羊は臭くないと言う人がいる。
 これで全地球の人類と文化は区別できる。なんて単純なのだろう。
 臭くない国の代表はフランスと中国。
 フランスは、肉の中に臭い細胞が溶け込む前の仔羊の段階でさっさと食べてしまうから、臭いがあるわけはない。むしろあまりに個性がなくて歯がゆいほど。<略>
 一方、中国は海ではなしに、大地が見えるという。羊が旅をしてきた道のりに思いをはせるのだ。
 北京の悪友、羊のしゃぶしゃぶで名高い老舗「東来順」の柳壮図氏が「はじめて回教徒以外の人間に教えてやる」と秘密を開陳した。
「冬のうちにモンゴルを出た羊、それも初めての子を産んだ雌に、豊富に栄養をやりつつ、長い旅をさせる。それが厳冬の張家口にある市場に集まるわけだ。そこで買いつけられた美人ばかりが、また北京までの旅に出る。雪解けの水を飲みながら早春には北京にやってくる。その旅の途中で臭いが消えるんだ。だから羊の旬は春なんだよ。春が一番旨い。普通の店は雄の羊を使うけれど、ウチでは買わないんだ」
 たしかに書物にも載っていない話だ。
 一方、臭いというのには二つある。
「臭いから嫌だ」と「臭いがあるのはあたりまえじゃないか」の二派である。
 前者の代表は日本。それはそうだろう。輸入されるラムの多くは、臭細胞を包む膜が裂けて肉にたっぷりと臭みが回っているのだから、悶絶して当然。
 さて、臭いのがあたりまえと思うのは、モンゴルの一部から中近東にかけての地域だ。アジア大陸のど真ん中、シルクロードの天山北路と南部地帯である。<略>

(9) まえがき
           内沢旬子

 屠畜という、動物を殺して肉にする行為をはじめて目にしたのは、1993年、モンゴルでのことだった。中部ゴビの大草原に点在するゲル(遊牧民のテント)に滞在していたとき、ゲルの脇で夕食のもてなしのために、女性が数人がかりで羊の内内臓を洗っていたのだ。血で赤く染まった鍋に浮かぶ長い腸を見てぐあんと衝撃を受けた。すごい! これをこれから食べるんだ。そうだよな、肉って血が滴るものなんだよな。グロテスクだとか、羊かかわいそうだとか、そんなところまでまったく気が回らなかった。なによりもその辺を走ってる羊が、鍋にちゃぷちゃぷ浮かぶ内臓や肉になるまでの過程を見損なってしまったことが悔しくてたまらない。どうやるのかな、羊の中身ってどうなってんのかな。肉ってどうついてんのかな。頭の中はもうそれだけでいっぱい。<略>

(10) 実母の思い
           黒川鍾信

<略> その後の和田牛乳店は、早死にした重大に代わって津るが守ってきた。だが、戦争に男手を奪われ、昭和十七年の暮れには本店や郊外の牧場を閉めなければならなくなった。これは和田だけの問題ではなく、東京市内の牛乳店はどこも同じだった。
 津るは女学生の敏子を連れて杉並区高円寺に移り、和田の親戚が経営する料理店で働くことになった。この店はジンギス汗鍋を中心とした肉料理店「成吉思荘」で、この頃は陸軍御用達の料理店として飛ぶ鳥を落とす勢いであった。首相で陸軍大臣を兼任していた東条英機、小磯内閣で陸軍大臣を務めた杉山元、鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣を務めた阿南惟幾などが来店するだけでなく、大將、中将、少将クラスの陸軍幹部が馬事公苑で行う遠乗りの日の打上げ宴会や、軍事会議が終わったあとの夕食会など、いまで言うケータリング・サービスなどもしていたのである。
 雇われ女将として都るが店を切り回すようになってから、店は益々栄えた。津るは、商家に生まれ商家に嫁ぎ、下谷区でつねに五指に入る多額納税店・和田牛乳の女将さんだった人である。商才だけでなく才色兼備の人だったので、陸軍のお偉方を贔屓筋にするのは彼女にとってさほど難しいことではなかった。<略>

(11) 聞違いなく鍋に渦巻く
    道産子のフロンティアスピリット
           宇佐美伸

 そう言えば2004年頃、首都圏で降って湧いたようにジンギスカ
ンブームが起こった。それまでせいぜい4、5軒だった専門店が20
0軒に膨れ上がったのだ。そのブームは最近になってやや落ち着いた
が、うねりはまだ続いている。
 わがふるさと北海道が誇る郷土食もついに全国区になったかと感慨
を抱きつつ、新橋にあった人気店に飛び込んだら、ちょっと違うんだ
よなあ。狭いカウンターに七厘、プラスチックのお椀に丸椅子、むき
出しの大型ダクトに新聞紙エプロンと、レトロな殺風景さを醸して雰
囲気は確かにひと昔前って感じなんだけど、なんかおしゃれ過ぎるの
だ。肉はニュージーランド産で生後何カ月未満だかのメスを手切りし
たラム生肉、タレはリンゴとタマネギのすり下ろしをたっぷり加えた
自家製、塩はモンゴルの岩塩とこだわりは色々、でもって紙エプロン
が英字新聞風の印刷だ。明らかに狙っている。案の定、中は若い女性
客が多い。<略>
 しかし僕は叫びたい。《道産子が愛するジンギスカンは絶対におし
ゃれであっちゃいけないのだ!》と。そりゃあ北海道は広いからジン
ギスカンにも様々な流儀がある。<略>細かい違いを挙げればきりが
ないけどただ一点、道産子のジンギスカンはとことんB級であるべき
なのだ。というかオジサンはそうあって欲しいのだ。<略>
 平成20年の(1)は東洋大の松原聡教授が「料理店のコストパフォーマンスを通じ、投資額に見合った価値の見極め方を示す集中講義」とうたう「週刊エコノミスト」からです。
 松原教授は「社内ベンチャーから誕生したひつじくもだが、そろそろパイロット期間が終わり、子会社化するかどうかの判断が近い。」と書いていますが、令和5年の春、検索したときはJR北海道のホームページに「『成吉思汗(ジンギスカン) ひつじくも』は、平成16年度JR北海道社内ベンチャー制度事業化案件として平成17年12月に、東京都吉祥寺にオープンいたしました。以来多くのお客様にご利用頂きましたが、平成21年3月30日をもちまして閉店することとなりましたので、お知らせいたします。」というページがあったが、いはそれもない。残念ながらJR北海道の「ひつじくも」は実現しなかったのです。
 (2)は「日本からウランバートルまでの直行便はなかった」ころ「開高健がやってきたドキュメンタリーがらみ」の映画ロケで、椎名誠はじめ9人のスタッフが、1月近くモンゴルに滞在した体験談です。北京から軍用大型ヘリで運ばれ、無事ウランバートルに到着。ホテルのレストランで出されたロシアビールは「濾過も熱処理もしていないので瓶の中の微生物や細菌が生きているのもあり、何本かに一本でそういうのにあたると確実に激しい下痢をする。つまりはロシアビールはロシアンルーレット状態で飲むようなものだった。」(54)が、乾杯したところからです。
 (3)は「『からすき』とは牛馬に引かせて田畑を耕す道具。さしずめ鋤焼きのはしり」と書いてもおかしくないのに、わざわざジンギスカン鍋を引き合いに出しているので採用しました。もしかすると鋤の刃の曲面からジン鍋の曲面を連想したからかな。
 この後に明治6年に中国人のコックが大阪の西区で豚屋十五番という店を開き、串に刺した豚肉の天ぷらを売ったのが串カツの始まりとあります。
 (4)は「ジンギスカン屋」という呼び方が珍しいと取り込み、初めてと紹介する前にね、念のためこの長大な「本や雑誌にジンギスカン料理はこう紹介された」を検索したら、なんと4回も使われており、もう笑うしかない、はっはっは。
 その内訳は開高健の発言で2回、小檜山博と松尾ジンギスカンの創業者松尾政治が1回ずつだ。私も時々用例を投稿する日国友の会の「投稿カード」を見たら、~料理、~鍋、~焼の3種しかないから、忘れないうちに、ジンパ学の成果の一つとして、私が「ジンギスカン屋」の初の用例として投稿しておきます。
 (5)は余市出身の俳人櫂未知子の季語解説です。解説あり、昭和48年の佐々木丁冬の解説では季語となっていないとあり、櫂の平成20年までの35年の間に冬の季語ということに落ち着いたらしい。
平成20年
(1) 野趣と繊細さを併せ持つ羊肉の旨さを堪能
           松原聡

 「塩で食べてください!」
 ジンギスカンは、タレにつけた肉を食べるものだと思い込んでいた私には、驚きの一言であった。言われるままに塩でいただくと、しっかりとした歯ごたえのある羊肉から、ジューシーな肉汁が口の中にあふれ、肉そのものの味が楽しめた。<略>
 今回紹介するのは、JR吉祥寺駅(東京都武蔵野市)近くのジンギスカン店「成吉思汗 ひつじくも」。ウリは数量限定ながら美深産など、北海道産の生羊肉3種を揃えていることだ。
 この店との出会いは、私の研究テーマである「民営化・規制緩和」がきっかけだ。10年ほど前、JR北海道に民営化のヒアリングに行き、その時対応してくださったのが小池明夫会長(当時は常務取締役)だった。小池氏は民営化の苦労や成果を丁寧に熱っぽく語り、それ以来北海道を訪ねるたびにお会いするようになった。
 ある時、小池氏からJR北海道で社内ベンチャーを募集している話を聞いた。2004年4月に募集を始め、集まった96件の中から「首都圏におけるジンギスカン店」などが最終審査を通過、その提案者が、ひつじくもの店長となった高橋忍氏(31歳)だった。 最終審査を通過した企画には、JR北海道が事業化調査から開業準備、事業運営まで全面支援する。「ジンギスカン店」の企画は、応募から1年半後の2005年12月に、吉祥寺での開業にこぎつけた。<略>

(2) 第十回 丸い穴から星など見える
           椎名誠

<略> とにかくまずは乾杯。
 食い物は冷たいソーセージとチーズのようなものしかな
い。モンゴルといったら「ジンギスカン」ではないか。しか
しジンギスカン鍋を下さい、と言っても全然通じない。どん
なものだ? と聞くので記憶をまさぐり北海道のビール園な
どで食ったジンギスカンの鍋の絵を描いた。帽子のような格
好をして縦に筋のある鍋の上に羊の肉を置いて焼いて食うも
のだ、と言ったら「そんなものはこの国の料理にはない。あ
りえないのだ!」と激しい口調で言った。
「存在不可能である」と。
 あとでそれが本当であることがよくわかった。モンゴル人
は断じて肉を焼いて食わないのである(今現在のモンゴルに
は韓国資本の飲食店が沢山進出していて韓国焼き肉などが大
はやりだから、肉を焼いて食うようになったが、当時はきわ
めて頑だった)。<略>
 したがってモンゴルにはジンギスカン鍋などというものは
存在しないのである。あれは北海道の人が「モンゴル料理」
と言って好んで食べているけれど、日本人だけが食べている
モンゴル料理、というわけのわからないシロモノなのであっ
た。<略>

(3) すきやきのはじまり

           三善貞司

<略>緒方洪庵の学問所「適塾」(北浜三丁
目)で学んだ福沢諭吉は「(安政二年(一八五
五)ごろ)大阪市中には牛なべを食わす店が二
軒あった」と書いている。一軒は難波橋南詰、
もう一軒は新町にあり、常連客は遊び人か塾生
ばかりだったそうだ。牛なべファンになった諭
吉は江戸へ出てからも味が忘れられず、慶応三
年(一八六七)芝の料理屋の主人中川嘉兵衛に
調理法を教える。嘉兵衛はさっそく今の新橋駅
あたりに新しく店を出し、「牛鍋」と張り紙し
たところ珍しがりやの江戸っ子に大好評で繁盛
これが東京風すき焼き第一号だといわれる。
<略>本場の大阪ではもちろんヒットするが、同二年、
西区川口の川口居留地で獣医係をしていた下田
徳兵衛は、同区本田二番町で副業として牛鍋屋
を開き、メニューをふやして「ぼたん(猪鍋)
や「やまどり鍋(鳥・鶏)」も出し、これらを
数寄焼すきやき」と称した。これがすきやきの起こり
というが、江戸期に刊行された『料理談合集』
に、「鴨鹿の類をたまり(しょう油の原型)に
漬けおき、からすき火の上に置きて焼く」とあ
る。「からすき」とは牛馬に引かせて田畑を耕
す道具。さしずめジンギスカン鍋のはしりであ
ろう。また薄く切って焼くから、透き焼きと呼
んだともいう。<略>
初期のすきやきは牛肉と野菜だけ、豆腐やこん
にゃくを加えたのはもう少しあと、各店が味を
競いだしての工夫。<略>

(4) 人には人の人生観あることを認めぬ大きなお世話
           吉村達也

<略> 娘がまだ幼稚園だったころ、まもなくその役割を終えようとする青函連絡船に乗って、冬の北海道に渡った。まさに「津軽海峡冬景色」の世界である。そしてレンタカーを借りて、白い雪景色の中を走って長万部に着いた。その町で、軒先に何本ものツララが下がったジンギスカン料理屋に入った。店の中には犬がいた。
 いまから二十年ぐらい前のことを、なぜ詳細に覚えているかというと、注文をとりにきた店のおばちゃんのひと言が、やけに頭にこびりついているからだ。それで、いっしょにそのときの光景も記憶に焼きついてしまったのだ。
 おばちゃんは私から注文を聞いたあと、幼い娘に向かってこう言ったのだ。
「お父さんといっしょでいいわねえ。で、お母さんは?」
 このおばちゃんの「よけいなお世話」を非難する資格は、私にはない。すでに書いたように、私は以前、息子さんを持つ語学学校の男性教師に対し「で、奥さんは……」と話しかけてしまった。そして返ってきた答えが「私は離婚している」だった。フォローのしようがない失策だった。その痛い失敗のおかげで、私はこの手の不用意な質問はしなくなった。
 ジンギスカン屋のおばちゃんは、もしも私が語学教師と同じ答えを言ったら、どういう反応しただろうか。ちょっと見てみたかった気がする。

(5) アウトドア季語
           櫂未知子

 ところで、わが郷里の北海道にはジン
ギスカン鍋がある。かつてはマトンの臭
みが敬遠され、他の都府県の人々にはな
かなか理解されなかった。最近は癖のな
いラム肉が主になったため、都内でも結
構食べることができる。カロリーが低い
ので女性にも人気がある。
 このジンギスカンは、アウトドア料理
の代表格である。北海道民は、何かとい
えばジンギスカン、ジンギスカン――桜
が咲いた、はい、ジンギスカン。紅葉狩
に行こう、はい、ジンギスカン。私が中
学・高校の頃は、「炊事遠足」なるもの
があったが、もちろん、生徒のほとんど
はジンギスカン鍋を選択した。
 青空のもとで何かを食べる。これほど
幸福なことはない。芋煮は匂い等では派
手ではないが、青い空のよく似合う楽し
い鍋物である。ジンギスカン鍋ももちろ
ん同じ。ところが、大きな歳時記では、
ジンギスカン鍋は冬に分類されている。
 真冬に、自宅でこの鍋を楽しむ人に出
会ったことはない。北海道の住宅では、
冬に窓を開けることはしないため(とい
うより、凍っていて窓が開かないため)、
「ジンギスカン鍋は冬の季語なんですっ
て」と伝えたら、びっくりする人が多い
のではないだろうか。
 平成21年の(1)は「思えば小学校の炊事遠足の定番がまさにジンギスカンだった」という札幌生まれの道庁「食のサポーター」出村明弘の「ことばのご馳走」にある羊肉料理というより、羊料理に深い愛情と感謝の気持ちを持ち続けるシェフの物語です。
 (2)は立石敏雄が雑誌「ペン」に8年間連載したコラムを集めた本「笑う食卓」からです。立石はスペインで暮らしたこともあるからといって「あらかじめ羊肉に味をつけて焼くのは、世界広しといえど、日本のジンギスカンくらい。」は、ないよね。大いなる誤解でした―だ。つまり焼いてからタレを付ける食べ方を全くご存じないお方らしいから書名の通り笑っちゃうね。
 私はジンギスカンを食べて体がほてったと感じたことがないね。ほてるほどたんまり食べたことがないせいか、年のせいかわからん。若い皆さんはどうかな。
 (3)は小説からですが、何か昔の同級生と久し振りに飲んだとき、これといった共通の話題がなくて、一方的に聞かされた話を元にして書いたような感じがします。これを読んで七輪に火を起こすとき、新聞紙からどうやっていたか、パッと思い出せなかった。昭和は遠くなりけり―ですな。
 (4)の題名の「ビールがうまい」は聞いたような―と考えたら「きょうも元気だ 煙草がうまい」という専売公社のCMでした。私が北大に入った頃、上級生はもちろんほぼ全員、煙草のみでした。それで北大生協では煙草のバラ売り、つまり10本か20本入りの煙草を買う金がないけど吸いたいという貧乏人のために1本、2本と売っていた。むき出しの煙草をポケットに入れると、折れるので大抵、安いアルミ製のシガレットケースを持っていましたね。
 そうそう、ビールは瓶を酒屋に戻せば何10円か戻るジャアンツという大瓶ぐらい、コンパはもっぱら安い合成酒か焼酎、つまみの定番はカサカサした江戸揚。油で揚げたかき餅で、それも塊りをガバッと喰われないように、わざわざ砕いて長持ちさせながら飲んだもんだ。ふっふっふ。
 (5)は昭和36年、辻静雄夫妻がフランス料理の最高峰といわれるレストラン「ラ・ピラミッド」で食べた晩餐の話です。新聞記者だった辻静雄が辻調理師学校の副校長になり、妻明子と共に予算500万円でフランスへの食べ歩きに行き「ラ・ピラミッド」を訪れ、ミシュラン3つ星の料理を味わったのです。
 私の「フランス料理仏和辞典」によると、agneauはアニョーと読み「仔羊、仔羊肉」とあり、さらにagneau de laitは「乳呑み仔羊〔生後30~40日の離乳前に屠殺し,重さ8~10kg,肉はたいそう柔らかく,繊細だが,味が薄い〕」とある。さらに「agneau blanc アニョー・ブラン〔一般に仔羊といわれているものは大部分これである.生後70~150日で屠殺し,重さ20~25kg,濃いピンク色の肉で,脂肪は白い〕(55)と書いてある。ジンパセットのラムはこっちだね。
平成21年
(1) 羊を愛した調理人
           出村明弘

<略> さらに、この羊を調理したシェフの話を聞いて感動が本物になってしまったのだ。
『よく、あんな可愛い羊を調理できますよねと言われます。でも、私はいつも羊に対する愛情、そして感謝でいっぱいです。ご存知でしょうが……羊は従順な生き物です。屠殺する時、自分の番をおとなしく待ち、その時が来たらメェーと一声鳴き、死んでいくのです。周りの羊は、それを見ても鳴き騒ぐことなく順番を待っている。その光景を初めて見た時、胸がジーカと熱くなりました。私が幼い頃、その毛を使って母がセーターを編んでくれました。〝お前が世話をした羊さんからの贈り物だよ〟……私は滝川の隣町、赤平の農家の長男として生まれ、小学生の頃から家畜の羊を二頭世話していました。当時、羊の内臓は使われることなく、全て捨てられておりました。子供ごころにショックで、そこであらためて日本では羊料理はジンギスカンしかないことに気づいたのです。本当に羊に対して申し訳なく思っていました。
 やがて私は調理人の道に入り、そして羊一頭、血の一滴も無駄にすることなく食べ尽くす遊牧民の住むモンゴルで修業しました。私は一生、羊を愛し続けたい。だからこそ全てを美味しく食べていただきたいのです』
 滝川市内にあるレストラン「ラ・ペコラ」のオーナーシェフ河内忠一氏の話で、少なくとも私の羊観は変わった。(06年3月)

(2) 熱帯夜にジンギスカン鍋は、大いなる誤算でした。
           立石敏雄

<略> ジンギスカンに使われたのは、おいぼれマトンで、それも食用肉ではないから、匂いがきつく、硬かっただろう。なので、匂いを消し、肉質を軟らかくするために、濃く味をつけて焼いたのがジンギスカンの始まり。
 あらかじめ羊肉に味をつけて焼くのは、世界広しといえど、日本のジンギスカンくらい。ふつうはどこでも、焼いて塩を振って食べる。中央アジアの一帯では、これにコリアンダーの葉を添えて食べるらしい。うまそうだ。<略>
 当コラムの担当編集W君は、旭川の出身。実家ではよくジンギスカンやりましたと言うW君の先導で、やっと先日ジンギスカンを食べに行ってきた。
 北海道でジンギスカンが始まったのは、羊肉が手近にあったという他に、羊肉には身体を温める作用があるからとも言われる。なんでも、羊肉にはカルチニンという脂肪を燃やすタンパク質が牛豚肉などより多量に含まれているのだとか。だから、ジンギスカンを食べると、身体がぬくぬく温まる。
 これが、大いなる誤算だった。食べた日は熱帯夜で、それでなくても裸で窓開けて寝ている暑がりの私だから、往生した。内側から身体がボッポと火照って、気が違いそうなほど。ほとんど、泣きそうでしたね。

(3) 遊ばせている駐車場
           安戸悠太

<略> 祖父の家にも、我々のため空き駐車場が用意されていた。
 車を持たない夫婦二人暮らしの家の建て替えにあたって、
庭半分を削り駐車場を設ける案は意外と自然に挙がったらし
い。日々ひとり庭の世話を焼いた祖父が喜んだのは、もちろ
ん手間の軽減が理由ではない。<略>
 駐車場設置により、庭先で行われていたイベントはやむな
く廃止か、規模縮小せざるを得なくなった。夏のビニールプ
ール、西瓜割りなど、建て替え後には一度もやっていない。
それでも根強く毎年開催されたのはジンギスカンパーティー
だ。いま振り返ると住宅地の一泊に炭火を焚き、羊肉の煙を
もうもう上げるなんて、目も当てられない迷惑行為だったと
想像が付く。父が車を背に「これで往来の人目は避けられる
な」、そう苦笑した気持も分かる。だが本当に美味しく、楽
しみな春先の恒例行事だった。
 祖父母も父も北海道の人間で、年季の入った本格的ジンギ
スカン鍋を持っていた。浅い帽子の形をし、重く、押し入れ
から出してくるだけで手が真っ黒になる。七輪も古く薄くヒ
ビが入り、平らな所だと安定が悪いため土の地面に据えなけ
れば危険だった。火を起こすとき、まず火種にする新聞紙を
子供たちが千切り丸める。「そんなにカチカチにしちゃ駄目
だよ」祖父がわたしたちには穏やかな声しか出さないので、
注意されたガキ三人は調子に乗り紙玉を量産するばかり。<略>

(4) それゆけ! きょうもビールがうまい
           平松洋子

<略>おお! 一面に白いガーデン
チェアと丸テーブル、夜七時を回ったば
かりだというのに老若男女がジョッキ片
手に盛り上がっている。夜風に揺れる黄
色い提灯、スピーカーから響き渡る「G
LAY」ビート、ジンギスカンの香ば
しい香り。
「生ビール四つ、ください! それから
ジンギスカン」
 小走りでテーブルを縫って戻ってきた
お兄さんが「ハイどうぞっ!」。そのジ
ョッキを間髪入れず握って、お約束の
「カンパーイ!」
(……くーっ、うまいっ)
 この一瞬の空白こそ、感動と満足の雄
叫び。ふうう、四人がいっしょに宙を仰
ぐ。<略>
 若者とおじさん、そこに女性がちらほ
ら混じる五、六人組というのが、どうや
らビアガーデンの基本のようです。上着
を脱いで、ネクタイはずして、なかよく
ジンギスカン用の紙エプロンを首に掛け
て、星空をひとり占め。
「いきなりのアウトドア感覚ですねー」
 銀座のどまんなか、屋上までたった数
十秒ですてきな逃避行。
 ジンギスカン鍋が日ごろの憂さを晴ら
すかのように煙を上げる。羊肉が焼ける
香ばしい香りに誘われて割り箸を伸ばす
と、口の中にじんわり肉汁があふれる。
「ジンギスカンって、すごい」
「もやしもすごい。うまみをぜんぶ吸い
こむ感動的な存在感!」
 もやし人気、急上昇。二杯目の生ビー
ルを注文すると、スピーカーの大音響は
今となっては涙なくしては聴けない小室
ファミリーのメドレーに変わった。

(5) 「美味礼讃」の陥穽
           榊原英資

<略> 辻静雄がラ・ピラミッドで最初にマダム・ポワンに出される料理もなかなかのものです。まず、食事はソーテルヌ地方の貴腐ワインの最上級品であるシャトー・ディケムから始まります。これとフォワグラを合わせてオードブルという訳です。ブリオッシュのフォワグラ詰めです。ブリオッシュはフランス革命の時、民衆がパンを与えよ と蜂起した時、マリー・アントワネットが「パンがなければブリオッシュを食べればいいのに」と言ったというのが有名ですが、バターと卵の入ったいわば菓子パンです。
 ディナーはエクルヴィス(ザリガニ)のサラダに続いて、乳呑み子羊(Agneau de Lait)のステーキがメインとして出ます。今でこそ、子羊は日本でもフランス料理ではかなり一般的なメニューになっていますが、一九六〇年代に羊といえば、マトン(成育した羊)が一般的で、北海道でジンギスカン料理等にして食べていた頃です。若干、匂いが強く、牛肉どころか豚肉にも劣る肉という見方が一般的でした。辻静雄も、どうしてばラ・ピラミッドで羊等を出すのだろうと不思議に思ったのですが、初めて食する子羊の美味しさに感動するのでした。
 ワインはボルドー地方やブルゴーニュ地方のものでなはなくローヌ地方のコート・ロティー。このワインはブルゴーニュのピノ・ノワールやボルドーのカベルネ・ソービニョンやメルロー種等の葡萄とは一味違ったシラー種のもので、若干スパイシーな香りのするものです。このワインはロックフォールのような青かびのチーズともなかなか合うものです。
 チーズのワゴンを楽しんだ後はデセール。タルト・タタン、要するにアップル・パイですが、これが、また、辻静雄には大変なおいしさだったようです。<略>
 平成22年の(1)はしっぽの長い燕尾服に扇子という出で立ちで「ご主人は妻や子供のためにと汗水流して働いて、酒と薬を交互に飲みながら、会社のために手となり足となり」と引きつけておいて「首になる」と落として笑わせる―といった「きみまろ節」で知られる漫談家綾小路きみまろがね、ギャル曽根がいくら大食いでもジンギスカンで羊肉4キロは無理だろう。負けたらカツラを脱ぐという賭けをして負けた。
 それで「ツルツル」でも「ピカピカ」でもない秘部を見せたら「テカテカしてて、かわいいィー!」と「お褒めめ言葉をいただいて」番組の収録は終わったそうです。
 (2)は雑誌「畜産の研究」2月、3月、4月と3号連続で掲載された元滝川畜産試験場職員高石啓一氏の「農家の友にみた成吉思汗の顛末」からです。高石氏は平成8年の「日本の羊肉物語」を皮切りに雑誌「畜産の研究」に下記の11論文を発表しており、うち平成8年のそれと15年の2件は紹介済みです。

平成8年3月号   日本の羊肉物語
平成8年6月号   羊肉料理「ジンギスカン」の一考察
平成15年10月号 羊肉料理「成吉思汗(ジンギスカン)」の正体を探る
平成18年2月号  料理の友による成吉思汗鍋料理考
平成21年7月号  北海道の羊毛加工とホームスパン(1)
平成21年8月号  北海道の羊毛加工とホームスパン(2)
平成21年11月号 北村史にみた成吉思汗鍋考
平成22年2月号  農家の友に見た成吉思汗の顛末(1)
平成22年3月号  農家の友にみた成吉思汗の顛末(2)
平成22年4月号  農家の友に見た成吉思汗の顛末(3)
平成22年5月号  緬羊と山田喜平と成吉思汗と

 この「農家の友に見た成吉思汗の顛末」はね、尽波満洲男なる自称北大名誉教授が、後発のくせに私が唱える「北大OB駒井徳三氏がジンギスカン料理と命名したという証言」はあり得ない、間違いだと「現場主義のジンパ学」と名乗るホームページで繰り返して書いておるから、奴が唱える「日吉良一は駒井徳三命名説を塩谷正作技師談として『農家の友』に書いたが、ホラ話とわかり『北海道の文化』という別の雑誌で取り消した」という尽波説を吟味して始末してやるかね―とは書いていないが、同じ資料を使って考察してみた―というのです。3カ月連載ですからね、力の入れようがわかるよね。
 科学実験の結果は、ぴったり再現できなければ誤りと判定するのと同じ、同じ資料を読んで考えれば、極度にひねくれた見方をしない限り同じ結論に達するはずです。高石氏は日吉良一が「北海道の文化」に書いた塩谷談取り消しは尽波説通りだったと認めるだけに止め、尽波の北京在住邦人の命名説と中村是公ジンパに端を発する「ジンギスカンなべ」という呼び方の発生説は「農家の友」の顛末とは無関係と判断なさったらしく触れていません。
 ホームページに書いてあることは雑誌「畜産の研究」掲載と違って、紙の印刷物と違って簡単に書き換えられる。だから尽波が書いたことを取り込むと、書き換えられていて、本当かなと画面を見たとき、もう加筆訂正されていて、見当たらないことがあるかも知れないから、使わなかったというのは結構。まあ、この3番目の論文を「畜産の研究」が発売されたとき、講義録の参考文献には不実記載なる現象は認められなかったようで、さぞや安心されたことでありましょう。
 私は「『誰となく言い出した』と曖昧にして」おりません。鷲沢・井上コンビの二千歳命名が蒙古の成吉思汗を想起させ、中村満鉄総裁が大連で広めようとし、ジンギスカン料理はさておき、その新聞記事から「ジンギスカンなべ」という呼び方が広まったのだと唱えておる。駒井命名説は真実ではないとわかればいいのです。クラークさんの教え「ビー・ジェントルマン」だよねえ。ハッハッハ。
 (3)はミステリー短編。千街晶之の解説を借りれば、フリーター探偵の風水火那子が往年の名探偵新道正子とともに旅する途中で事件に遭遇したという設定(56)の札幌編です。
 これは570字枠に収まるよう切り出したので、千街のいう「タイトル通りジンギスカン尽くしの趣向で全体を統一した遊び心(57)」は、ほとんど感じられないが、焼くを得ません、ふっふっふ。北大図書館にはないが、札幌市立図書館にはあるから、ジンパの話題にしたい人は読んでみなさい。
平成22年
(1) ギャル曽根さんの食べっぷりはホンモノです
           綾小路きみまろ

<略> そんな折、フジテレビ系の『独占! 金曜日の告白』という番組でギャル曽根さんと共演する機会に恵まれました。
 しかし、父が痛風、母が糖尿のハーフであるわたしがギャル曽根さんと大食い競争をしたら、すぐに死んでしまいます。そこで彼女がジンギスカンを三十人前食べたら、一月二十日発売のわたしのCD第3集を視聴者の皆さまに抽選で三百五十枚プレゼント、三十五人前食べたら、わたしは一人でブラジルを旅して、アマゾンで謎の巨大魚を捕獲するという条件となりました。
 さらに彼女がジンギスカンを四十人前食べたら、私がカツラを脱ぐことになったのですから、わたしにとっては一大事でした。
 でも、四十人前ですよ、四十人前。ふつうの人が食べたら病院行きです。
 さて、撮影は、きみまろがプロデュースしたジンギスカン・ダイニング『あ・うん亭』で行なうことになりました(山梨県河口湖のそばです)。
『あ・うん亭』のジンギスカン一人前は、厚いお肉がだいたい六枚です。細身の奥さまなら一人前で十分、大食漢のご主人でも三人前でお腹がパンパンになります。
 四十人前といえば、六枚×四十皿で、お肉が二百四十枚です。重さを計算したら、なんと四キロ! 奥さまの体重の二十分の一。
 四キロ減ったら、奥さま、何キロになりますか? その逆に、四キロ太ったら大変なことになるでしょう?
『あ・うん亭』の料理長も、お肉を切りながら思ったそうです。「いくら何でも、これだけ食べたら化け物だ}と。
 しかも、制限時間は四十五分。ご主人、四十五日じゃありません。ギャル曽根さんは、二百四十枚、四キロの肉を四十五分以内に食べるというのです。

(2) 農家の友にみた成吉思汗の顛末(1)
           高石啓一

 北海道では「農家の友」という雑誌が北海道農業
改良普及協会から発行されている。創刊は昭和24
年9月で,その当時は北海道農務部農業改良課に設
けられた外郭団体の北海道農業改良普及員協会か
ら刊行されていた。発刊から第9巻までは「北海道
農家の友」というタイトルが使われていた。だがそ
の第9巻の途中で何時の間にか北海道の冠が取れ
「農家の友」と誌名変更がされている。
 元職場を訪れた時,資料室に旧書庫の古い雑誌や
書籍が搬入されていた。その中に創刊当時の「農家
の友」があり 閲覧する機会を得た。「農家の友」の
目次をめくるうちに,拙稿「羊肉料理「ジンギスカ
ン」の一考察」で参考とした「成吉思汗物語り」を
執筆している郷土史家吉田博氏は30年代に農政課
長を務め,「日本の農業のうごき」を始め,多くの原
稿執筆をしている。また郷土史家更科源蔵氏も「北
海道を築いた人 エドウィン・ダン」を書いて寄稿
していたことがわかった。
 本稿を記述するに当たって,インターネットで
「現場主義のジンパ学」を講義する尽波満洲男なる
人物が,既に「北海道農家の友」という雑誌名を上
げて記載しているサイトがある。同じ雑誌資料では
あるが緬羊に係る課題と羊肉料理「成吉思汗」を小
生なりの論考で成吉思汗の顛末として論述する。<略>

農家の友にみた成吉思汗の顛末(3)より
<略>
 おわりに
<略> 太田編集長は,「日吉氏の発表した」とする原稿
は本部の発行誌に掲載しただろう。そして,当時
健在であった両氏に電話で話を伝えたのだろう。と
ころが,「それは少々言い過ぎで,自分達はそうし
た宣伝をせよと駒井氏から受けたことはなく,大正
末年頃向うの日本人間で誰となく言い出したものが
真実」と語られた。そのことを札幌の日吉に知らせ
た結果,日吉は,「駒井説は言い過ぎだ」と知り,
塩谷技師談はまずかったと思った。だが,時既に遅
く農家の友に「成吉思汗料理事始」を送った後で間
に合わなかった。もしかすると,「事始」の括弧書
きにした「北海道開拓経営課塩谷正作技師談によ
る」は後で無理やり挿入して貰ったのかも知れない。
とにかく早く訂正しようと「北海道の文化」に打ち
消し説を書いたと推測される。
 中国での日本人の間で「誰となく言い出した」と
曖昧にして真実を閉じ込められていった。塩谷情報
の再確認や裏話でもないのだろうかと思いつつ,
「農家の友」の顛末を一先ず終える。

 主な参考文献(27点は略)

「注記: 尽波満洲男なる人物のインターネットサイト「現場主義のジンパ学」は詳細な文献調査によるものであるが,サイト上では更新が常に行われるため,引用は不実記載となる場合も派生する。そのため,文献収集などは大いに参考とし,利用資料は原典にあたったことを付記する。」

(3) 札幌ジンギスカンの謎
           山田正紀

<略> 「ジンギス館」に入る。
 広い。が、陰気で、暗い。
 人の姿が見えない。要するに、流行っていないの
だろう。
 右手にレジがあり、それと向かいあわせ――左側
に厨房の入り口がある。床に三段ほどの段差があ
り、その先は吹き抜けのホールになっている。西部
劇の酒場のような印象といえばいいかもしれな
い。
 テーブルは何脚か並んでいるが、そのうちの一つ
しか客がすわっていない。男が一人に、女が一人。
――正子と火那子が店に入っていくと、同時に顔を
あげて見つめる。
 テーブルの中央には兜のような丸いジンギスカン
の鍋がある。タマネギとモヤシが山盛りになった皿
に、ビールの大ジョッキが二つ――まだ肉は用意さ
れていない。
 店内は薄暗い。まだ昼前だからということもある
だろうが、最低限の照明しか点されていない。それ
なのに妙にぼんやりと明るい。
(雪は小降りになったみたいだけど、それでも光が
射してるのはおかしいな……)
 火那子はふとそれを疑問に思った。
 何かの錯覚かもしれない。
 中央に幅の広い階段があり、中二階のように回廊
がホールをめぐっている。その回廊の窓から吹雪が
舞っているのが見える。
 窓枠の下に動物の頭蓋骨が飾られている。真っ白
だ。その目が虚ろに暗い。頭蓋骨のうえで窓がガタ
ガタと小刻みに鳴っていた。<略>
 平成23年の(1)は、JA長野厚生連佐久総合病院の医師、保健師、事務長だった3人による「衛生指導員ものがたり」からです。引用したのは、健康診断の血液検査でコレステロール、中性脂肪などの異常を指摘されるが、本当に食生活が関係しているのかどうか、自分たちで食物を変えて血液がどう変わるか調べようと集まった松川町の「モルモットの会」16人による健康づくりの実例ですが、内容の多くは同病院に近い八千穂村(佐久町と合併し現在は佐久穂町)での50年にわたる健康づくり推進の物語です。
 (2)は横浜湊高校のバドミントン部員水嶋亮を主人公とする青春スポーツ小説「ラブオールプレー」からです。私も研究室で遊んだことはがあるが、正式の試合では、野球物やテニスの「プレー、ボール」に相当する審判のかけ声が双方ゼロという「ラブオール、プレー」とは、この本を読むまで知らかったね。
 (3)は、とにかく羊肉大好きという角田光代の「未年女、羊を食らう」という、ちょっと勇ましい題の随筆です。
 これによると角田さんがギリシャで食べた羊肉は「臭みの少ない羊」というからにはラムだったらしい。羽田に戻ってからは、ご飯よりラムと食べまくっているぐらい気に入ったんだね。ジンパ学はジンギスカンについて研究しているが、糧友会みたいに羊肉食を奨励しているわけではないから、角田さん、どうぞたっぷりお召し上がりくださいませ―だね。
 全文を読みたいと思ったらだね、「角田光代」と「羊肉」の2語をキーワードにして検索すると「今日もごちそうさま」という角田さんのホームページが出るから、そのNo.008の「未年女、羊を喰らう」を読みなさい。
平成23年
(1) 肉をたらふく食べて
           松島松翠
           横山孝子
           飯嶋郁夫

 集まったメンバーは十六人。
 まず日常食べる機会の多いジンギスカンの焼肉会。たらふく肉を食べて、その前後の血液を調べる。次の月はアルコールの影響。野菜だけおかずにして、しっかりと酒を飲む。次はバイキング方式によるパーティー。何種類ものおかずをつくり、自分の好みのものばかり腹一杯食べる。
 こういう実践は出席率がとてもよい。最後まで落伍者は一人も出なかった。もちろんそれだけでなく、きちんと栄養士に「バランス食」を作ってもらって、それを食べる会も行なった。
 さて、血液検査の結果は?
 焼肉会の翌朝の検査では、とくに中性脂肪の変化が目についた。バランス食のあとは、中性脂肪の変化が最も少なかった。アルコールの場合はその中間だった。ともかく一回の食事ですぐ変化するのは中性脂肪だと分かった。
 ところが中性脂肪といったってよくわからない。それならみんなで学習しようということになり、保健婦、栄養士に頼んで資料をつくってもらい、中性脂肪、コレステロール、尿酸、アルコールなどについて、会食会をやりながら学習を始めた。
 この会のモットーは「よく食べ、よく飲み、よく学ぶ」である。こうして回を重ねるうち、いつもなら、のどにつかえるくらいよく肉を食べる人が、次第に脂身の少ないところだけを食べるようになった。また酒もバカ飲みはしなくなったという変化が出た。
 メンバーたちは、「いつも総合健診で相談のほうへ回されたが、今年は良いと言われたので嬉しくて……。体重6キロ減ったけれど、まだまだ落とすに!」とか、来月に予定している今年の総合健診が待ち遠しいな、どう変化しているか、その読み取りの学習が楽しみだに」
と話している。

(2) 夏合宿、そして夏の終わり
           小瀬木麻美

<略> 俺たちは、こちらもわざとらしくもう一度深々と頭を下げ、「お疲れ様でした」と二人に声をかけてから、六人揃って歩き出す。しばらくしてこっそり振り返ったら、ずっと向こうに、裏門から出たせいで、駅への遠回りの道を並んで歩く二人の後ろ姿が見えた。
「輝、今日、ジンギスカンなの?」
「いえ、普通のバーベキューですよ、でも、遊佐さんは羊の肉がダメなんですよ」
 輝はにっこり笑ってそう言った。
「え? どういうこと?」
「苦手な食材で、嫌みをシャットアウトしたってことだろう」
 陽次の言葉に松田が答える。
 なるほど、しかし意外だ。合宿中の食事でも、遊佐さんは何でもうまそうにパクパク食べていた。好き嫌いがあるようには見
えなかった。
「羊の肉だけがダメらしいですよ」
「なんで?」
「遊佐さんが幼稚園の頃、家族で牧場テーマパークに行ったそうです」
 俺たちは、ふんふんと頷き、話の続きをうながす。
「羊や山羊と無邪気に戯れた後、おきまりの、名物料理のジンギスカンを食べたわけです」
 俺も同じような経験がある。意外にうまかった思い出しかないけれど。
「おいしいねとお母さんに言ったら、さっきの羊さんのお肉だよと言われたそうです」
「ああ、それはちょっとまずいな。さっきのっていうのがね」
松田が顔をしかめる。そういえば、松田もそういうところ気にしそうだ。
「で、つまり、それがトラウマになったらしいです」
「なるほど、あの人、そういう変に繊細なところあるかもな。でも輝って、どこからそういう情報仕入れるているんだ?」
「主に海老原先生ですが、機会があればみんなのご両親からも伺います。食べ物の好き嫌いや、怖いこと、嫌なこと、苦手なことなんかは試合の前のメンタルに影響しますから、なるべく避けられるよう特に細かくデータを取ります」
 はあ~っと、一斉にため息がもれる。
 つまり、輝の頭の中には、俺たちの欠点や弱みがたんまり詰め込まれているということだ。恐るべし、内田輝。<略>

(3) 未年女、羊を食らう
           角田光代

<略> 我が人生に、いつ羊肉が介入してきたかといえば、三十歳過ぎ、異国を旅したときである。
 それまでにも、札幌を旅行してジンギスカンを食べたことはある。でも、おいしいな、とは思ったけれども、愛までは到達しなかった。羊への思いを愛に高めたのは、忘れもしない、ギリシャである。<略>
 以来、肉派の私に、愛する肉がもう一種類増えた。そしてなんという幸運であろう、私が羊への愛に目覚めるのとときを同じくして、東京にジンギスカンブームが巻き起こったのである。それまで、ジンギスカンといえば、タレに浸かった、独特のくせのある肉だった。ところがこのブームでポピュラーになったのは、タレに浸かっていない新鮮な羊肉。ギリシャで羊に目覚めた私が愛するのも、やっぱり、タレに浸かっていない臭みの少ない羊である。
 うれしいのは、このブームのおかげか、スーパーやデパートでもごくふつうにタレに浸かっていない羊肉を買えるようになったこと。ラムチョップばかりでなく、ショルダー、肩ロース、モモ、などと部位別に売っているのがありがたい。以前はスーパーでは丸くて薄い臭みのある肉か、タレに浸かったものしか買えなかったのだ。
 私がもっとも好きな羊の食べ方は、ただ塩、胡椒してグリルしただけのもの。あるいは、ニンニクとローズマリーとオリーブオイルをかけて焼いてもおいしい。羊カレーも煮込み料理もおいしいが、でも、シンプルなグリルにはかなわない。<略>
 平成24年の(1)は今は昔、北大構内ではこういう札幌市民による大規模なジンパも開かれていたという実例、通信文化協会北海道地方本部のホームページからです。
 同ホームページによると、前年9月10日にも総合博物館横で親子167人、(58) 平成22年10月2日に152人によるジンパ(59) を開いたことがわかります。
 (2)はジンパをすることを「ギスる」ともう1段縮めた動詞を発明し、学校で堂々とギスる末恐ろしい高校生の話です。思うに彼等は中学生のときから、学区内の高校にの入学定員を調べ、俺たちを落としたら定員割れが目立ち、高校統合問題が起こるから落とす訳がないと遊びまくっており、警察のご厄介になるような事件を起こされないうちに送り出してしまおうと先生方も気配りしておるとか。ふっふっふ。
 こりゃ私の作り話だが、本の内容はオーバーではないそうだ。
 (3)は「イラストでよくわかる きれいな食べ方」という本に載っているジンギスカンの食べ方です。鍋の使い方がわからんという方々が食べ方指南を書けば、食べ方がよくわからん人々が買って読むということらしい。
 それで、鍋の縁に近いあたりを溝と呼ぶのは許すとして、肉を敷き詰めてから「タレを注ぐ」が理解できない。どうも筆者たちは味付きの存在を知らないらしい。まあ普通の羊肉を使うとして溝に入れた野菜から水分が出るまでとは、溝の底から湯気が出るくらい待てば、頂点の肉はもう焦げているような気がするが、どうかな。「タレを注ぐ」の溝の野菜かな。隙間なく置いた肉にタラタラと振りかけろというのか不明。「最初から鉄板を焦がさないことを心がけ」るとしたら、煮るしかないと思うね。こういう本もあるということです。
 (4)の「ムラサキ いろがさね裏源氏」はジンパ学にとって貴重なフレーズ「『ジンパ』という言葉まで会話で頻繁に使われるのだから。」という前後を抜き出しました。大抵の本や雑誌は「ジンギスカン・バーティーを略してジンパと呼んでいる」程度なのに、この著者は道民の会話を丁寧に聞き「「『ジンパ』という言葉まで会話で頻繁に使われる」と書いておる。
 この講義では長短400を超える用例を示すが「頻繁に」という形容動詞を使った描写は初めてだ。それでね、北大語「ジンパ」を全国に広めてくれる本として、春本の類いではあるが、私は喜んで紹介するわけです。
 ジンパという単語は、北大内外で昭和末期から使われていたはずなのに、未だ平成10年以前の本などの物証が見つからず、北大150年史編集室の諸氏と共に懸命に探しているのです。小集団内でジンギスカン・コンバなんて使っていたから、ジンコンという単語もあったことは知られている。それやこれや在学当時の証言を我々は求めておるのです。ぜひ私か編集室に思い出メールを送ってくれ給え。
 (5)はですね、この年、北海道新聞創刊70周年を迎えたと、20ページの記念広告特集「ジンギス刊」を付けた。それに「ジンギスカン大好き!」と題して「北海道に縁のある著名な方々からジンギスカンにまつわるエピソードを語っていただきました。」とあり、小説家円城塔、TEAM NACS戸次重幸、元プロボクサー・タレント内藤大助、南極料理人西村淳、絵本作家・イラストレーターそら、フリーキャスター・気象予報士菅井貴子の6氏がそれぞれ執筆しています。
 皆紹介したいところだが、文学部同窓会のホームページ時代に記事転載で、道新にお詫びした前科もあるから自重して、マトン好みの戸次さんのコラムの一部を引用させてもらい(5)にしました。
 (6)は平凡社の「俳句歳時記 冬」新装版からです。ジンバ学を研究する私としては、ジンギスカンは冬の季題にふさわしくない、間違いだと言いたい。多分、ざっと70年前、初版の季題選定にあたった巨匠たちは鍋とも呼ぶし、北京で食べた人々が冬の夜空の下で飲みながら食べるにふさわしい料理だと得意げに書いたり話したりした影響を受けて、冬の食べ物に入れたに違いない。我らがジンバは四季いつでもOKではあるが、冬よりは春夏秋の方が楽しめることは皆よくわかってるよね。平成20年分にある道産子の俳人櫂未知子氏も「大きな歳時記では、ジンギスカン鍋は冬に分類されている。真冬に、自宅でこの鍋を楽しむ人に出会ったことはない。」と指摘している通りです。
平成24年
(1) 絶好の空模様の下で北大ジンパ
    札幌市内の局長ら230人参加
           通信文化協会北海道地方本部

 通信文化協会北海道地方本部主催の北大ジンパ(ジンギスカンパーティー)が8月18日に開かれ、参加者たちは緑したたるエルムの森で舌鼓を打ち、鋭気を養いました。今年で3年目のジンパには、今秋から始まる統合に向けて力を合わせて欲しいとの願いを込め、日本郵政グループ各社に参加を呼びかけたところ約230人が応じました。<略>  その後、農学部前の芝生にセットされたシートを敷いた45個の七輪席に、交流のため郵便局と支店、両支社などの参加者を5人1組に割り振り、鍋を囲んでもらいました。「心をひとつに」と書かれた横断幕を背に佐渡本部長が「地域のためになる郵政事業の新たな組織、歴史づくりに、お集まりのみなさんがこの横断幕と同じ想いで再び挑戦して欲しい」と呼びかけ、全員で高らかに乾杯の声をあげました。
 肉や野菜類が焼け、ビールが進むにつれて各席はにぎやかになり、時折日が差す絶好の空模様に一層拍車がかかった様子でした。お昼には同大経済学部教授から札幌国際大学に転じ、北大関係者に限られた会場使用を仲介した濱田康行学長も顔を出しました。通信文化協会のシニア会員でもある濱田学長は「北海道郵政局時代にはセミナー講師などでお世話なり、この秋からの統合にも関心を持っています。道民に欠かせないインフラとしての郵便局づくりに力を合わせて欲しい」とエールをおくっていました。<略>

(2) 夏は屋上でBBQを楽しみ
   冬は教室で鍋パーティを開催
           日本底辺教育調査会

<略> 実は、この校内バーベキューを行っているド底辺高校はほかにもある。しかも、地域色が出るのが特徴だ。
「ウチはジンギスカン。1kg1000円以下の安いラム肉は簡単に手に入るし、野菜は最低モヤシさえあればOKだから。アルミに製の使い捨て鍋だって300円で売っているし、友達とシェアすれば1人300~400円で食える。月に2~3回は屋上で〝ギスる(=ジンギスカンを食べる)〟かな」(北海道の公立2年男子)
 なお、雪が積もる冬場はさすがに屋上に
は出られないため、教室で鍋を囲むとか。
「卓上式のガスコンロを持ち込んで、石狩
鍋やキムチ鍋なんかはよく食ってますね。
みんなで食材を家から持ち寄れば、これも
お金はほとんどかからない」(同)
 しかし、火災の危険を恐れた学校側は、
教室の壁に「コンロ持ち込み禁止」と貼り
出したという。
「仕方ないから、卓上の電気コンロに代え
ましたよ。学校は鍋がダメと言ったわけ
じゃないし、ただ、ガスコンロに比べると
雰囲気が物足りないですね」(同)
 学校側は「鍋禁止」と貼り出さなかった
ことを後悔しているに違いない。

(3) ジンギスカン
           ミニマル+BLOCKBUSTER

 ジンギスカン 北海道を代表する郷土料理「ジンギスカン」。極上の肉汁に包まれた羊肉と野菜の組み合わせは絶品! だけど、あのドーム型の鉄板の使い方、実はよくわからない……。
スマートな食べ方
1 野菜を敷き詰め、肉を焼く
 野菜をすべて溝に入れ、その後、鉄板に隙間
 なく肉を置く。野菜の種類はさまざまだけど、
 最も一般的なのはモヤシだよ。
2 上からタレを注ぐ
 溝にたまった野菜から水分が出てきたら、
 タレを注ぐ。肉は色が変わってくるまで
 放っておき、焦げ目がついたら裏返す。
3 お肉の色が変わったら…
 3分くらいして肉の色が変わったら食べ
 頃。ずっと放置してするとカタくなるので、
 注意しよう。
4 お肉の追加は食べてきってから
 肉を食べきったら、すぐに肉の追加をせ
 ず、溝にある野菜を鉄板にのせて食べる
 など、 鉄板を空にすること。その後は①
 と同じ手順で追加の肉を焼こう!
5 シメまでおいしく
 うどんは溝に入れて煮込みつつ、たまに
 鉄板の上にのせて焦げ目をつけたりする
とおいしくなるよ。溶いたたまごをつけ
て食べるとまろやかなお味に!

鉄板を焦がすと、うどんの味が焦げ臭くなるなどイマイチのものに……。おいしく
食べるためにも、最初から鉄板を焦がさないことを心がけよう!

(4) あけぬ夜に
           柏木いづみ

<略> 火のおきた炭を几帳面に並べながら、ヒカルが紫沙に話しかけた。いまはふたりだけの会話なので、紫沙もちゃんと応える。
「チア・リーディング部でも、けっこう話題になってるよ、ハイジニーナのこと。剃刀で処理してる子もいるみたい」
「そうだね、日本ではもともとアスリートのひとたちのあいだで定着した習慣だからね。でもね、自己流で剃刀を使うと、かえって毛が太くなるらしいよ。高校生の女の子でも利用できる値段のエステができたら、いいと思わない」
「うん、当たると思うよ、それ」
 そんな会話が進むうち、いよいよジンギスカンの準備も整った。
 ドーム型の鍋で羊肉や野菜を焼くジンギスカンは、いまや全国に知られているが、北海道には、「盆、暮れ、正月、花見にジンギスカン」という言葉がある。アウトドアでも屋内でも、ひとが集まればジンギスカンだ。なにしろ 近頃はジンギスカン・パーティーを略した「ジンパ」という言葉まで会話で頻繁に使われるのだから。
 かつて、札幌、函館など北海道の中央部、南部ではスライスした生肉を焼いてタレをつけて食べる生ジンギスカンが主流だった。一方、北の旭川、滝川などで好まれたのが、タレにあらかじめ漬け込んだ肉を焼く味付けスタイルだ。いまでは、とくに土地で食べ方が違うことはなく、どちらのスタイルも人気がある。紫沙が幼いころから明石家のジンギスカンは味付けスタイルで、多佳子が作る秘伝のタレに一晩漬け込んだものだ。
 油を引いた鍋に肉を載せる。食欲をそそる音。爽やかな微風のそよぐキャンプ場に香ばしい煙が立ちのほる。
「うん、うまい」
「ママ、グーよ、このお肉」
「ヒカルさん、どんどん召し上がって」
「美味しい。いくらでも食べられますね」
「本当に美味しゅうございます。至福の時間とはこのことでございますね」
 男性三人、女性三人、ジンギスカン鍋を囲んでしこたま食べた。運転手の馬場を除く大人たちはビールの缶をたくさん空にした。<略>

(5) 臭くないジンギスカンの
      何がジンギスカンだ
    TEAM NACS 戸次重幸

<略> 30歳を過ぎ東京
に出てから<略>
「ジンギスカンは臭い
がキツ過ぎてダメ」という
意見を聞いたときの「?」
という想いが忘れられな
い。冷凍のしかもいろんな
部位を混ぜ合わせ、円柱型
になったマトンのジンギス
カン。それを子供の頃から
食べ続け、正直その臭いが
臭いとも感じられなくなっ
ていた生粋の道民たる僕に
とって「ジンギスカンはダ
メ」という意見そのものが、
本当に何を言っているのか
分からなく、腹立たしいと
さえ思っていた。
 しかし、これも30歳を過
ぎ、沖縄に行った際初めて
ヤギの肉を食べた時、なる
ほど本州の人にとってのジ
ンギスカンは、道民にとっ
utてのヤギみたいなものかも
しれないと納得した。沖縄
の人は、ジンギスカンの何
倍も強烈な臭いのするその
ヤギの肉を「ヤギはこれぐ
らいの臭いじゃないと旨く
ない」と言う。まさに我々
のジンギスカンに対しての
想いと同じじゃないだろう
か。それからジンギスカン
がダメという人に対しても
優しくなれた気がする(笑)
 今では臭いの少ないラ
ム、しかも生ラムが主流に
なりつつあるジンギスカ
ン。そんな風潮もジンギス
カンの普及のためには仕方
がないと思っているが、沖
縄の人にとってのヤギのよ
うに、僕もある程度はジン
ギスカンに臭いを求めてし
まう。生ラムの美味しさを
認めた上で、それでも「臭
くないジンギスカンの何が
ジンギスカンだ」という想
いがあるということ。だか
ら僕にとってベストなジン
ギスカンのお店は、生ラム
も生マトンも、なんなら臭
いのキツくなる冷凍マトン
も全て置いてあるお店とい
うことになる。<略>

(6) 成吉思汗鍋(三冬)
           俳句歳時記

【解説】 羊肉の附焼で北京料理の烤羊肉かおやんろう 。中央部が高くなった独特の成吉思
汗鍋に、羊肉のすき身を、一枚ずつのせて焼き、醤油、砂糖を、にんにくそ
の他の香味料とともに煮つめたたれにつけて食べる。鍋のふちに肉を焼いた
脂がたまるようになっていて、その脂の上に四つ割にした玉葱をのせて焼く。
蒙古から伝わったともいうが、羊肉を常食とする蒙古の英雄は、陣中にあって
かくもしたろうとの連想から日本人の命名したもので原始への郷愁から生れ
た夢とも言われる。肉を焼く匂いと煙とが激しいので野外で味わうにふさわ
しい。
 平成25年の(1)は、ジンギスカンが北海道名物になったのは、敗戦で満洲から引き揚げてきた人々が開拓民として道内に入植したことが関係しているという変わった見方の「日式中華の起源」からです。
 「ちくまweb」によると、新井氏は明治大教授で中国語でも本を書き、中国料理の本を2冊も書いている方(60)だが、日本の羊肉食普及の見方は違うね。農林省、畜産団体、糧友会などが戦前、くさいなどと敬遠されていた羊肉を食べる新たな習慣づけを図り、普及活動を展開した時期があったことと、戦後の一時期、道内には50万頭も緬羊がいたことを無視した見方だと私はいいたい。
 私は満洲育ちで、新京(いまの長春)東光在満国民学校時代の同期生たちとの旅行会で月寒羊ヶ丘に案内してジンギスカンを食べましたが、皆新京では食べことがない、初めてだと喜んでくれました。満洲に住んでいた日本人全員がジンギスカンを知っており、食べていたとは限らないのです。餃子を焼いて食べるものにしてしまったのも同じ、あれは蒸すのが本式だと私は信じとるんだがね。
 (2)は札幌の光塩学園女子短大食物栄養科の前田和恭教授の「北海道遺産になったジンギスカン料理」からです。なにしろ22ページもの大論文でね。羊の種類、羊肉、羊毛、羊乳、羊の生産国と輸出国、肉の部位、栄養価、食肉の歴史、処理法、食肉の組成、料理法、世界の羊肉料理ときて、やっと「ジンギスカン料理の誕生、発展、定着」となる、いわば羊大事典です。
 命名者については、引用したように日吉良一の「誰言うとなく成吉思汗料理と云うに至った。」が妥当かとしながらも「ジンギスカン料理が何時、何処で、どのような経過で誕生したのか、命名者は誰か、その何れについても明らかではない。わが国の歴史や北海道の風土と絡んで推測はされるものの、正式な調理法とともに確定した説はない。」(61)要するにわからん―ですな。
 また「ジンギスカン料理の歴史は浅く、本格的に食べ始められてからまだ60年であり、ワイルドな野外料理といった性格が強く、わが国の料理を記した専門書には全く記載されていない。」(62)とあるが、例えば光塩学園の創始者南部あき子がジンギスカンを書いている平成2年の「北の食卓 四季のおかず」は、専門書の範囲に入らないのかね。
 南部さんは翌3年「光塩学園女子短大紀要」に「これからの日本人の食生活についての一考察」を書き「北海道を旅行する若者たちに人気の高いジンギスカンなべは、羊肉と野菜をカブトの形をした鉄器で手早く焼いて、独特のたれをつけて食べる野外料理である。このたれは、羊肉の臭みを消し、また、家々の主婦の秘伝のものがある。野菜は北海道特産のジャガイモ、カボチャ、トウモロコシなどが入る。」(63)と書き、レシピがあるんだなあ。ふっふっふ。
 (3)は65歳でもアンビシャスをもって頑張ろうと励ます本です。私はこの本を読んで、北大同期入学の三浦が書いた本なら、マトンなら1キロ、ラムなら2キロはいけたね―なんて、勇ましいことを書いてることを期待して彼の「75歳のエベレスト」を読んだらね、簡単すぎて当て外れ。私の見落としがなければ「当時は札幌に住んでいたが、外で食事をする機会が多かった。ジョッキでビールを五杯飲んで、ああ、元気です、という調子で、飲み放題、焼肉、ジンギスカン食べ放題の世界。」(64)だけでした。
 (4)はノンフィクション作家、北野麦酒の「蒐める! レトロスペーズ・坂会館」です。私がジンパ学の研究を始めたころ、坂会館にはジン鍋が沢山あるので、大いに勉強させてもらった。それで全鍋の重さ、直径、頂点と縁の高さ、周環の雷紋の有無、取っ手の形など10種ぐらいを測定、ジン鍋の平均値を求めようとしたことがあります。脂落としのすき間、皆さんが溝とか隙間と呼ぶあれの形も大事と撮影した。ところが真上からでは皆同じよう写り、諸データも写真との対応をよく考えずに記録したため、結びつけられず失敗、そのまま温存しております。
 それらのお礼じゃないが、私の古いニコン、もらった古いラジオも寄付した。直熱型真空管のラジオでね、進呈する前に家でテストしたら音が出なかった。それでスイッチを入れ、この通り故障品だが、見せるだけだからいいでしょうと説明していたら、突然鳴り出した。私としたことが、直熱型のラジオは音が出まで暫くかかることを忘れていた。自然体な人、坂さんは岩見沢のジン鍋博物館の名誉館長でもあります。
 (5)は8冊はある岡田哲著の何々事典の中の「たべもの起源事典」からです。まず「モンゴル軍の兜」は永久不変というわけはないでしょう。時代によって戦闘形式が変わり、兜の形も変化したでしょう。烤羊肉の鉄製の肉載せ器の形は、皆同じではなかったので、初めて見た日本人は鉄弓とか鉄条とか鉄棒を並べたものとか様々に表現してます。
 「ジンギスカンなべ」という呼び方が現れたのは大正3年というのが尽波説で、始めにジンギスカン鍋ありき―ではないんですなあ。さらに調べれば「モンゴル兵の鉄兜のような鍋」と初めて書いた人も見つかるかも知れないから、岡田さん、お待ち下さい。ハッハッハ。
 昭和6年の久保田万太郎たちの由比ヶ浜ジンパから濱町濱の家とつながったように、東京の方が先に「見られた」のに、それに触れず「北海道のジンギスカン料理は,昭和初期に見られる」としたのは、岡田氏はジンギスカンの起源は北海道と見ているからではないかな。
 岡田氏が翌年出した「たべもの起源事典 世界編」では、食べ物の種類が激増するせいか、ぐっと圧縮して「日本では,第二次世界大戦後に,北海道の滝川道立種羊場が始め」とある。つまり第二次大戦以前に、何国かで始まってた「たべもの」ということなんだね。
 (6)は、北海道博物館学芸部長の池田貴夫氏が北海道開拓記念館の学芸員だったとき出した本「なにこれ!? 北海道学」からです。道産子や道内に長くいる人々の常識であり普通のことでも、本州育ちの人々から見れば、まったく変だと感じることが多々あるんだね。
 私もそういう分類でいけは中学高校だけの本州育ちで、八戸では冬にブルジョアは石炭ストーブ、学校や貧乏宅は薪ストーブを使うのが常識なのに、札幌に来たら逆でブルジョアが薪、プロレタリアは石炭だったのにはちょっと驚いたね。
 (7)は乾ルカの「メグル」からです。北大構内の描写が詳しいと思ったら乾氏は藤女子短大出身でした。この小説に出てくる学生部は、百年記念館の向かいの木造2階建てというから、私の学生時代の大学本部だね。学長室は2階にあった。1階にあった厚生課がバイトや住居の斡旋をしており、私もご指名でお世話になったりした。
 その学生部にたまたま入ってみた橋爪は、ただ食事をするだけで時給5000円、6日間のバイトを勧められた。金に困っていたわけではないが、橋爪は引き受けた。この不思議なバイトの依頼者は資産家の独身男性、趣味でレストラン顔負けの御馳走を作る。
 橋爪は小食でトラウマもあり余分に食べると吐き気がする体質で、初日は食べきれず持て余した。それで橋爪は2浪同士で親しくする大食漢の小泉に御馳走を食べるバイトを譲り、2人で依頼者宅へ行き、小泉が食べている間、橋爪は別室でテレビなどを見て過ごすことにした。
 (8)は卒論は苺の栽培研究だった農学部OGの芥川賞作家、加藤幸子氏の「苺畑よ永遠に」からです。北大文書館に農学部の星野勇三、島善鄰両教授とその教え子と思われるOBたちが余市の附属りんご園でジンパをやっている写真がある。私は農学部OBらしいジンパと見ていたが「苺畑よ永遠に」を読み、かなり以前からりんご園実習の最終日はジンパをやっており、園芸学専攻のOBたちは実習時代を懐かしでの会場選定かと見方を変えました。
 加藤氏は私より3期下で昭和34年卒、私は33年までいたので構内の風景は同じだが、中央ローンで応援団が新入生に教えたのは応援歌だったが、加藤さんによると歌声グループがロシヤ民謡などを合唱していたという違いがある。万物は流転す。はっはっは。
平成25年
(1) 日式中華の起源
           新井一二三

<略> 北海道名物ジンギスカン鍋が、北京料理烤羊肉の変
種であることにも疑問の余地はなさそうだ。中心部が
丘状に盛り上がり、周辺に転落防止の塀がついたよう
に見える鍋の原型も彼の地にはあるので、訪中の際に
はぜひ、北京什刹海銀錠橋のたもとにある「烤肉季」
に行き、二階の窓から湖面に映る柳の風情などを楽し
みつつ、本場の上品で繊細な烤羊肉をお楽しみいただ
きたい。あのあたりは清朝時代、旗人とよばれた満州
貴族が住んだ閑静な住宅街で、看板にある「烤肉季」
の文字は、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟、溥傑
が書いたものなのだ。<略>
 北京の羊料理が日本に伝わったのは、二十世紀の日
中戦争で、日本軍による北京の占領が八年におよび、
多くの日本人が終戦まで現地で暮らしていたことが関
係している。そして、特に北海道に伝わったのは、国
策で入植した「満州国」から引き揚げた人たちの中に
は、帰国しても内地に落ち着くべき故郷を持たず、再
度国内植民地たる北海道に開拓民として向かったケー
スも少なくなかったことが背景にある。引揚者が伝え
た料理といえば餃子だが、標準中国語のジャオズでは
なく、山東なまりのギョウザとして日本で広まったの
は、「満州国」の漢族住民に山東省出身者が多かった
ためで、ジンギスカン鍋の来歴にもつながる話なので
ある。<略>

(2) (2)命名
           前田和恭

 昭和51年(1976年)、吉田博は「農家の友」の「成吉
思汗料理物語」において、羊肉利用の萌芽は大正時代で
あり、調理法は、当時満州鉄道の公主嶺農事試験場畜
産部が創り出したもので、命名者は満州鉄道調査部の駒
井徳三、その時期は昭和初期と記している。
 駒井徳三の娘である藤蔭満洲野は昭和38年(1963年)、
「月刊さっぽろ」に「父は名前をつけることが好きで…
(中略)…ジンギスカン鍋も蒙古の武将の名をなんとな
く付けたのかも知れない。」という文を寄せている。葵
会の「札幌の食いまむかし」においても同様である。北
海道新聞の北海道立中央農業試験場研究員高石啓一への
取材記事「ルーツを探る」においても、日本軍の満州進
出にからみ、「烤羊肉」をヒントに工夫された料理であ
るとし、幻の義経伝説に連なるChinggis Khanの名前
が付けられ、命名者は札幌農学校出身の駒井徳三ではな
いかとしている。
 一方、日吉良一は、前述の陸軍糧秣廠の外郭団体であ
る糧友会理事丸本章造がかつて満州で食した「烤羊肉」
について記した文章「…誰言うとなく成吉思汗料理と云
うに至った」から、その文章通り、当時、現地で誰とい
うことなく言い出したものではなかろうかと推察してい
る。昭和38年(1963年)の「たべもの語源」の中の
「ジンギスカン鍋」においても、駒井徳三説を示しつつ
も同様の説を述べている。
 両者の中国における活躍地域と時期から考えて、日吉
良一説が妥当のように思える。

(3) 年齢にとらわれない生き方
           岩崎日出俊

<略> もっと身近な例では、75歳でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんがあげられるでしょう。
「いや、三浦さんは若い頃からスキーと登山で鍛えていた。冒険家と我々一般人とは比較できないだろう」
 そう反論する方もおられるかもしれませんが、三浦さんも簡単にエベレストに登れたわけではありません。彼の著書『75歳のエベレスト』(日本経済新聞社刊)を読むと、50代の三浦さんはビールを飲み放題、ジンギスカン料理を食べ放題の生活を送り、気がついたらメタボ体型。60歳を過ぎる頃には身長165センチ、体重82キロ、体脂肪率40パーセント、血圧は200近くになっていたとか……。検査数値から見れば立派な成人病患者で、「このままでは長生きはできない」と医師から宣告されるまでに至りました。
 ここで最初に三浦さんの頭に浮かんだのは、体を治して冒険生活からは引退することだったそうです。しかし彼は、65歳になってその考えを覆します。普通の65歳の体に戻るだけではなく、20歳の頃に夢見たエベレスト制覇を70歳で果たそう、と決意したのです。<略>

(4) 誤解を招く場所
           北野麦酒

<略> そうなると、ここにはないものがない、といった方がいいのかもしれない集められるものは
すべて集めましたといえそうだ。それほどさまざまなものがここにはある。しかも、ここにあるものは幅広く、まったくジャンルは問わない。一見、主張はなさそうなくらい幅広い。ひとりの人のコレクションとは思えない。
こんなものもと驚いたのが、ジンギスカン鍋だった。

【ジンギスカン】 北海道といえばジンギスカンだ。ラムやマトンをタマネギやもやしなどと一緒に焼く羊肉料理。肉をタレに漬け込むやり方や後付けタイプがある。当初は綿羊を食用として活用するために、ジンギスカンが普及したといわれる。

 北海道といえばジンギスカンだ。北海道のソウ
ルフードとよくいわれる。かつてはどこの家庭に
もジンギスカン鍋はあったという。いまでは、家
庭にはなくなってしまって、今、家庭でこういう
ものを使う人はいない。コレクターがいた。
「ここには、何十枚もあるよ」という。
「大通公園のところの教会のものだというんだが、
十字架になっていて、教会が特別に作らせたもの
だとか」と、珍しいジンギスカン鍋を示しながら、
坂館長は話した。
「苦労して手に入れたものなどない。私、無理し
てやったりとかはない。若いと、せっせと血が上
ってやるけど、もう若くないから、実際に自分で
使ったものだから。いま簡単に手に入るものも十
年後にはなくなる。そのときにはあったんだよ」という。
<略>

(5) じんぎすかん(成吉斯汗)
           岡田哲

じんぎすかん(成吉斯汗)
北海道の名物郷土料理.中国
北方の涮羊肉カオヤンローと調理法式が似
ている.モンゴル軍の兜のよ
うな鉄製のジンギスカン鍋で,
羊肉の付け焼きをする.英雄
のジンギスカンは,13世紀
のモンゴル共和国の始祖であ
る.北海道のジンギスカン料
理は,昭和初期に見られる.
1935年(昭和10)に,農林
大臣官邸で,ジンギスカン鍋
ま試食会が行われる.1937
年(昭和12)に札幌市内の
レストラン・横綱に,初めて
ジンギスカン鍋が現れる.第
二次世界大戦後に,滝川市の
道立種羊場が,緬羊飼育を奨
励すると,北海道の名物料理
となる.札幌市月寒の料理も,
よく知られる.脂の多い羊肉
を,ジンギスカン鍋で焼くと,
余分の油が落ちて美味しくな
る.タマモギ・ピーマン・モ
ヤシ・ニンジン・ナス・ジャ
ガイモを焼いて,好みのタレ
を付ける.タレは,かなり凝
っていて,醤油・砂糖・ニン
ニク・唐辛子・リンゴ・ニン
ジン・タマネギを組み合わせ,
羊肉の臭いを消し食べやすい.
焼いてからタレをつけてもの,
タレに漬けこんだ羊肉を焼く
ものの2種類がある.

(6) バケツでジンギスカン?
           池田貴夫

 私はジンギスカンがあまり得意では
ない。それは、肉の味がうんぬんとい
う理由からではなく、焼き方の違いが
大きいと思っている。
 埼玉出身の私がこれまで培ってきた
焼き肉の食べ方と、どうも合わないの
である。自分の陣地を確保し、肉一
枚を丁寧に焼き、食べてから次
の一枚をまた丁寧に焼く。こ
れが、私にとって肉を焼く
ペースだったからだ。
 数年前、私の父が埼玉から友人を連
れ、北海道にゴルフに来た。夜は、私
も交えてのジンギスカン。皆、肉を一
枚一枚丁寧に焼いていた。思わず笑っ
てしまった。
 とはいえ、鍋の形も食べ方も、北海
道の人々が長年をかけて試行錯誤を重
ね、築きあげてきたことだろう。そ
の営みの歴史に、敬意を表さずに
はいられない。
昭和初期、羊毛の必要
に迫られ、北海道
で羊の飼育が奨励
されていた。その
際、羊毛だけでは
もったいなかった
ため、さまざまな羊
肉の料理法が紹介さ
れる。その一つがジ
ンギスカンであったと
される。そして、ジン
ギスカンは北海道を代
表する食文化として、
内外からも認知されるに
至ったのだ。<略>

(7) タベル
           乾ルカ

<略> 授業中に嘔吐したせいで、中学三年間『ゲロリーマン』と呼ばれ、虐げられ続けてきた事実を打ち明けると、小泉は「だっせーあだ名だな」と笑った。橋爪は腰を下ろした中央ローンの芝を毟ってそこらへ投げた。ローンの西側では、十名ほどの集団がジンギスカンをしている。その匂いが橋爪たちの近辺まで漂ってくる。
「で?」
 抹殺したいとまで思いつめていた屈辱の出来事を話し終え、大きく息をついた橋爪に小泉は続きをせがんでくる。橋爪は眉をひそめた。
「で、ってなによ?」
「だから、その後」
「おまえ、ちゃんと聞いてたのか?」橋爪は呆れた。「あのたった一日で、俺はゲロリーマンになってずっと中三までからかわれた。その後なんかねーよ、あったら自殺してるよ」
 すると、小泉は随分と拍子抜けしたような、どこか呆けたような顔になったのだった。「まさかそれだけのことで、食わないとか言ってんの?」
「それだけ?」小泉の反応を橋爪は極めて無神経だと思った。「俺にとっては最悪のトラウマなんだよ。どんどん具合が悪くなっていくあの感覚も、教室でゲロを吐くっていう屈辱も、クラスの皆の反応も、全部忘れられないことなんだよ」
 バン、と大きな音がして、ジンギスカンのグループがざわめいた。花火を始めたらしい。YOSAKOIソーランの練習は終わったのか、音楽はいつしか止んでいる。
 夜風がローンの中央部に立つ楡の枝葉を揺らす。見えないがきっとポプラの綿毛もゆらり舞っているのだろう。

(8) 苺畑
           加藤幸子

 農学部の一年目のカリキュラムには、様々な実習メニューが組みこまれていた。平生の出席日数が少なくても、ペーパーテストである程度の点数が取れればすんでしまう教科とちがって、実習では必ず出席しなければ単位をもらえない。何のために農学部に在籍しているのかわからない連中が、ぞろぞろ現われるのは、実習の日であった。たまに画家の卵の諸口と顔を合わせるのも、こういうときだった。
 佐智はもともと退屈な講義よりは、実習の時間になると張りきるたちだった。都会育ちの彼女は、土いじりや動植物の生態を目の当りに見たり、扱ったりすることが面白くてたまらなかった。そしてこのような実習の場で、がぜん精彩を放ったのが、三田たち農家出身者であった。それほどの努力を見せずに、彼らは田植えでも麦刈りでも除草でも、他の者の半分の時間でノルマを果たした。<略>
 代々受けつがれた伝統として、学生側に期待されるプログラムは、サッポロから二時間ほど離れた海辺の町にある附属リンゴ園での作業だった。初めの二度まではそれほど変わりばえがせず、脚立に乗って葉隠れに摘果や袋掛けを行っていても、口だけは自由であったから即席の冗談が園内を飛び交うぐらいであった。しかし最終回の実習日に期待は報われた。急にがらんとしたりんごの樹下で棍炉に炭火がおこされ、学生と教官は円になってジンギスカンを食べた。収穫したばかりのりんごは、脂っこい料理の口直しのデザートと消化剤として好きなだけ提供された。
 平成26年の(1)は前年に続く岡田哲著「たべもの起源事典 世界編」からです。こう切り詰められると、ジンギスカン鍋は先頭の「北京料理の羊肉の付け焼き」のことだとわかる。それで「日本では,第二次世界大戦後に,北海道の滝川道立種羊場が始め」た「たべもの」であり、かなり変ってはいるけれど「北京の羊肉の付け焼」が起源なのだよと教えて下さるわけだ。
 ジンギスカン大好き人間は「羊肉を焼いて主食にする」地域はどこか岡田さんに聞いてご覧とか、事典と名付ければ図書館向けに確実にある部数が裁けるから、出版社も安心して出せるだろうなんて、私は余計なことはいいませんよ。
 (2)は北大柔道部OBの作家増田俊也が入部したときの主将和泉唯信と対談「思いを、繋げ」からです。講道館柔道とは全く違う七帝柔道の稽古に励んだ思い出話だが、竜沢という部員がジンギスカンがトラウマになった原因は両人とも熟知しているからワガママだったなで終わっている。それで私は増田がこの本の前に出した「七帝柔道記」に書いてあるんじゃないかと読んでみた。
 ところが「新入生歓迎ジンギスカンパーティ」1回と「ジンギスカンパーティ」2回、「ジンギスカン」「滝川ジンギスカン」各1回と計4回、ジンギスカンという単語が現れるだけで竜沢のトラウマはわからん。
 それで今は20歳未満の1年目には飲ませないが、増田が入学した昭和59年ころは飲ませており、柔道部の新入生歓迎ジンギスカンパーティでは1年目に上級生が焼酎を飲め飲めと勧めた。
 増田は「朦朧とした頭で、そうか、最初から酒で潰すつもりで一年目のぶんの肉は買っていないのだと気づいた。許せない――。十六杯目を飲み干したところで立ち上がり、走って逃げた。」(65)ため10時間で目覚めたそうだが、1年目全員が部室に寝かされていた。ですから竜沢は翌日起きれないくらい参って羊肉嫌いになったと想像しました。
 (3)は時期ははっきりしませんが、池辺はテレビドラマで、女優の木暮実千代より年上なのに息子の役をやったことで、お母さんのいうことを聞きなさいと木暮に「あたしの伯母が荻窪でジンギス汗鍋のお店を始めたのよ。」と成吉思荘へ行くよう命じられ仲間の俳優2人を連れて食べに行った思い出です。
 木暮は成吉思荘を経営した松井家の親類だったので、その宣伝もしていたようで、三船敏郎や大木実といった俳優たちも食べに行った。私は松井統治さんから彼等がふざけ合っている写真などを張ったアルバムを見せてもらったことがあります。
 木暮は新聞記者の和田日出吉と結婚し、和田が大新京日報の社長になったため満洲に渡り、戦後引き揚げてカムバックしましたが、蒙古ではこうだったと語った成吉思荘の女性が木暮のいう伯母さんかどうかわかりません。ただ570字枠で割愛した所に、この女性が女将だと名乗ったとあるので、黒川鐘信著「神楽坂ホン書き旅館」に「成吉思荘が戦前よりも繁盛したので、女将として先頭に立ち、二長町時代より何倍も忙しい日々を送っていた」とある和田津る(66)だったかも知れません。
 それから日出吉さんですが、雑誌「政界往来」の昭和32年11月号に随筆「ノーマン大使との邂逅――ヴァンクーバーと東京で――」を書いている。それによると、和田さんは昭和30年にバンクーバーで軽井沢生まれのカナダの外交官ノーマン氏に会い「私達の家には私達が満洲にいたころから、自慢の成吉思汗鍋と云うのがある。それを東京でお目にかかつたとき御馳走しましよと約束した。日本通のノーマンさんも成吉思汗料理のことは知らなかつた。」(67)と書いています。その後、ノーマン氏は駐エジプト大使になったけどカイロで自殺、和田家を訪れることはなかったのです。
 資料その4は雑誌「近代映画」が掲載した和田夫妻が力士を招いたジンパの写真をです。もちろん自宅の庭ですが、大判のジン鍋なのでコンロ上からはみ出してるね。
資料その4
 最近すつかり相撲ファン(マニアかな?)になつてしまつた木暮実千代さん
 真夏のある夜、西荻窪の自邸へ。一群の関取りを招いてなごやかな宴を催しました
 双葉山関、若葉山、鏡里、不動岩と云つた諸氏が集い、中庭は時ならぬ賑いを呈しました
 ご主人の和田さん、篝ちやんも大喜び
当夜の模様は本文に
 キャメラ・長島勝人
(以上は写真7枚が並ぶページ全体の説明)
(68)
 (4)はマット・グールデングが書いた長い名前の本「米、麺、魚の国から アメリカ人が食べ歩いて見つけた偉大な和食文化と職人たち」です。英文のウィキペディアによると、著者のマット・グールディングは「スペインのバルセロナを拠点とするアメリカのフードジャーナリスト、作家、プロデューサーである。 彼はメンズヘルス誌のフードエディターで、書籍シリーズとなったコラム「Eat This, Not That」を執筆していた。」(69)そうです。またYouTubeに函館のイカから始まるこの本を宣伝するための動画があります。2回写される左手で箸持つ男が、もしかすると著者かもね。
平成26年
(1) ジンギスカンなべ(成吉思汗鍋)
           岡田哲

北京料理の羊肉の付け焼き.モンゴル軍の兜を象り,表面
に溝のある鉄鍋で,羊肉・野菜を焼き,独特のタレを付け
る.モンゴル帝国の始祖ジンギス・カン(在位1206~27)
に因む呼称とする説がある.この地域では,羊肉を焼いて
主食にする.鉄鍋の表面の溝は,余分の油が火のなかに落
ちないように取り除く工夫で,肉の臭みが抜けてほどよく焼
き上がる.代表的な料理に,烤羊肉がある.日本では,第
二次世界大戦後に,北海道の滝川道立種羊場が始め,各地
に普及する.→ひつじにく

(2) ヤギ 山羊
           高島俊男

<略> いま中国であの動物が shān yáng と呼ばれていることはまちがいない。英漢辞典で goat を引くと「山羊」とある。倉石中国語辞典(中国人の話し言葉の辞典)で
shān yáng を見ると、日本語訳「山羊」とある。日本でヤギを「山羊」と書くのは、字は中国語なのである。それを強引に直接「ヤギ」と読んでいるわけだ。
 以上かんたんにくり返すと――
 この動物は多分室町ごろにオランダ人が長崎へつれてきた。日本人(主として通詞)はこれをオランダ語でそのままボッコ・ボックなどと言い、字で書くときは「野牛」と書いた。これを音声で読む時は、ヤギウ・ヤギと言った。江戸時代にこの動物は日本の東にひろがり、呼名のヤギウ・ヤギもともなった。江戸では字で書くときは「野羊」と書いた。漢字「山羊」は中国語である。これも広く使われるようになった。今の日本人はこの漢字「山羊」を直接「ヤギ」と読んでいる。しかしもともと日本語「ヤギ」と中国語の漢字「山羊」とは由来がちがい無関係なんだから、「山」をヤと読み「羊」をギとよんだわけではない。以上日本語ヤギの朝鮮語由来の線は出てこなかった。多分その線はないのだろう。

高島俊男著「本はおもしろければよい お言葉ですが…別巻7」68ページ、「ヤギ 山羊」より、平成29年3月、連合出版=原本

(2) VTJ前夜の中井裕樹
           増田敏也

<略>増田 ただ、和泉主将の時代の滅茶苦茶な練習量で本当に一年間で体もできたんですね。休養が全くなくて、ここまでやったらオーバーワークだと思ったんですけど、順応するんですね、人間って。すごく体が変わりました。僕が一年目のとき、ずーっと思っていたのは、ここである日突然、和泉さんのプレゼントで、「今日は技の研究だけじゃ、段取りなしじゃ」って言ってくれたら、この疲労が取れるのにって、一日だけでいいからって。でも妥協が全くなかった。朝から晩まですべて柔道。 練習の合間に、寝て、食べるだけ。
和泉 そういえば、山内さんのところは居酒屋(「北の屯田の館」)じゃけ、みんなずいぶん可愛がってもらって、ジンギスカンとか食わせてもらって...まあ、竜沢はジンギスカンにトラウマがあるからワガママを言って「豚肉!」とか言うとったけど(笑)。
増田 そう、コンビニで豚肉を買ってきて一人で焼いて食ってました。一年目から四年目までそれを通したていう(笑)。すごいですよ。傑物です。
和泉 はっははは。妥協しないワガママじゃねぇ(笑)。<略>
 
(3) ジンギス汗鍋
           池辺良

 <略>何度も涙を流すのは伯母さんの自由だが、そんなに美味しいと言う目の前の羊の肉は、いつ食べさせてもらえるのかと焦って、
「肉は兜に乗せて、自分勝手に焼いてもいいんですか」と小声で聞いたら、
「池部さん、いいことおっしゃいますね。
 ジンギス汗鍋と言っても、煮ものをするお鍋を使っておりません。蒙古では鉄串を使っておりますが、このお店を始めるとき焼き易いように、滴る脂を無駄なく使えるように私共で、おっしゃるように兜の鉢のようなお道具を発明致しましたの。切れている溝の脇に刻ってある溝に焼けたお肉の脂が流れ落ちまして兜の周りにある溝に溜って、そこに置いた野菜を炒めます。
 ジンギス汗鍋は、お客さま銘々で肉や野菜をお焼きになると、焼き頃、炒め頃が御自分の御自由ですから楽しゅうございます。
 では、ごゆっくり」と言った伯母さんは「包」を出て行った。
 ジンギス汗鍋を日本の秋の食べものの仲間に入れては些か無理と言うものだが、僕なんか東京に生れて育った人間は、人付き合いにしても考え方にしてもせこいところがあって、みみっちいやる瀬ない暮しに追われ勝ちだ。木暮さんの伯母さんが店の宣伝のためとは言いながら蒙古の蒼い高い空、草原、媚のない羊の肉の味には太古の悠久とおおらかさが偲ばれますと説明して下さったのが脳裏に焼きつけられた。<略>

(4) 北海道
           マット・グールデング

<略> しかし、私が探しているのは、ラーメンでも刺身でもカベルネワインでもカマンベールでもない。北海道で過ごす最後の日の真夜中、札幌では有名なジンギスカンを探し求めていた。その名前はマトンを焼く金属製のドームが、モンゴルの軍隊のヘルメットに似ているところからつけられたという。おそらく日本軍の衣類に使われた羊が北海道にはたくさんいたので、モンゴル軍はラムを楯やヘルメットで焼いたと想像して、こういう料理法と名前を考えついたのだろう。現在、何十軒ものジンギスカンの店が札幌にある。<略>
 マトンがジュウジュウ焼けているあいた、私は冷たいサッポロビールを飲む。明治時代になってすぐに、ドイツで勉強した北海道人が作った日本で一番古いビールだ。ザ・ビーチ・ボーイズの曲がスピーカーから流れているが、肉の焼ける音のコーラスで、ろくに聞こえない。肉が焼き上がると、私はヘルメットからとり、花びらのようなたまねぎといっしょに箸でつまみ、にんにくと唐辛子で味つけした醤油のたれに浸す。
 それは深夜のすばらしい食事だったが、肉を噛みながらさらに重要な質問をしたくなった。これまで日本で羊を見たことがないが、どんなふうにジンギスカン料理は札幌を征服したのか? 非常に男っぽい料理にもかかわらず、どうして店には女性しかいないのか?マトンの臭いをコットンシャツやジーンズからとるにはどうしたらいいのか? しかし夜が更けていくにつれ、臭いは服に浸みこんでいき、ビールは血液中をめぐり、納屋みたいな臭いのするマトンで目がチクチクしてきて、質問はきれいに消えてしまった。日本人食事客、アメリカ音楽、モンゴルの神話。筋が通る答えはひとつだけだった。これが北海道だからだ。
 平成27年の(1)は「47都道府県・肉食文化百科」からです。書名の通り食肉の消費量や牛豚鶏羊猪鹿などを食べる郷土料理を都道府県別にまとめた図書館向きの本です。北海道の羊肉はだいだい知られていることを書いています。
 ただ豚肉の項で根室の郷土料理として知られるエスカロップは「もともとは、子羊の薄切りソテーをトマト味のスパゲッテイの上にのせて、ドミグラスソースをかけた料理」(70)44ページだったとは知りませんでしたね。
 それで道内のことなら〝なんもかんも〟書く千石涼太郎の本を読んだら、最初は「牛の薄切り肉のカツレツをパスタ(スパゲッテナポリタン)の上にのせ、ドミグラスソースをかけたもの」(71)とあった。薄切り牛肉がどうしてラム肉だったことになったのか。
 とうやらナポリタンが微塵切りの竹の子ライスに変わったように、カツレツでなくハムソテーで試した店があり、その話が伝わるうちにハムがラム、子羊の薄切りに化けてしまったという尽波仮説はどうかね。千石君、もう一遍、本に書けるよ。ハッハッハ。
 (2)は一志治夫著「奇跡のレストラン アル・ケッチーノ」からです。この店名は山形県の庄内弁の「そういえばあったわね」という意味の「あるけっちゃの」を、イタリア料理店らしくイタリア語風にもじったものだそうだ。
 引用したのは丸山公平が生産する優れた羊肉をシェフ奥田政行が身銭を切って東京の有名レストランに持って行き、その旨さが知られるようになる発端部です。みずみずしくて美味しいけど皮が薄く傷つきやすいため多量販売に向かないキュウリといった地場の農水産物を守り続けている農漁家の苦労、それらの持ち味を生かす料理を工夫する奥田の思想がたっぷり書いてある。最上段に「羊のカルパッチョ」とある黒板に書いたメニューのカラー写真が本の扉になっています。
 (32)は東京農大教授の小泉武夫の「くさい食べもの大全」です。彼は「地球上で最も強烈なにおいをもった食べものは何か? そう聞かれたら、私は迷いなく『シュール・ストレミング』と即答する。そのにおいはもはや強烈を超え、悶絶するほどのとてつもない超強烈な臭気だ。(72)」と書いており、くさい度数は5つ星以上を付けている。5つ星は「失神するほどくさい。ときには命の危険も。」と評価している。
 ジンギスカンは「くさい。濃厚で芳醇なにおい。」と2つ星を付け「ヒツジ」としてモンゴルで塩を振りかけて食べた茹で羊肉は「あまりくさくない。むしろかぐわしさが食欲をそそる。」ので1つ星だ。
 小泉はアラバスターという臭い測定器を使いauという単位で強さを示すと、納豆368、焼いたクサヤ1267だが、シュール・ストレミングは10870で断トツ。(73)スウェーデンのホテルで缶を開けたら汁が噴出「私は呼吸困難と吐き気で、命の危険を感じたほどである。(74)」と述懐しています。
 実はね、私はこの缶の味見をしたことがあるんだなあ。元高校校長の大先輩が爆発物だと持ってきたので、外で後輩に開けてもらった。かなりの時間放置して、もう匂わないぞと同窓会室に持ち込み3人で賞味していたら、ガス漏れしてないかと隣室の学部長先生が飛び込んで来られてね、参りました。ハッハッハ。
 (43)はNHKの井上恭介プロデューサーが、食糧輸入の取材で知った世界の牛肉市場の変化を伝える「牛肉資本主義」からです。ジンギスカン好きにすれば、牛肉は関係ない、羊肉があればいいと思うかも知れないが、それは大間違い。中国では何千年も前から肉と言えば豚か鶏で、牛はほとんど食べず、ランクを付ければ豚、鶏、牛だったのに、近年、人々の価値観が変わり、牛、豚、鶏に変わったという。
 それで牛肉の需要が激増、中国商社が値上がりしても牛肉を大量に買うので、オーストラリアなどの牧場では羊より5倍もうかる牛に切り替えるため羊は減る一方、牛肉につれて羊肉も値上がりして、牛丼もジンギスカンも食べられなくなるというのです。
平成27年
(1) 知っておきたいその他の肉と郷土料理・ジビエ料理
            成瀬宇平、横山次郎

<略> 北海道の農家で、ヒツジを飼育していたピークは1945~19
55(昭和20~30)年で50万頭以上飼育されていた。現在の飼育頭
数は約4000頭にまで減少している。現在、ジンギスカン鍋の材料とな
る羊肉はほとんど海外からの輸入もので、北海道産の羊肉を食べれるのは
少数の高級フレンチレストランに限られている。羊肉のジンギスカン料理
は北海道のソールフードともいえるので、羊飼育農家は少しずつ飼育頭数
を増やしていくように努めている。
①ジンギスカン料理
 北海道の魚介類で握ったすしと同様に北海道の人が客をもてなす料理
の一つである。羊肉を中心とし、野菜などをジンギスカン用の特別な鉄製
の鍋で焼く料理である。北海道の各家庭では、ジンギスカン鍋か用意し
ていない家庭ではホットプレートを利用している。<略>
 現在のジンギスカンの調理には、溝のある独特のジンギスカン鍋が使わ
れる。ジンギスカン鍋の中央部には羊肉を、鍋の縁の低い部分は野菜を焼
くことによって、羊肉から染み出した肉汁が鍋に作られている溝に沿って
下へと滴り落ちて、野菜が味付くようになっている。つけだれにはすりお
ろしたりんごやにんにく、しょうがを入れる。羊肉を2~3時間たれに漬
け込んでから焼く方法と、味付けをしないで焼いて、タレをつけて食べる
方法がある。道北(旭川市、滝川市)では味付け肉を使用し、道央(札幌
市)、道南海岸部(函館市、室蘭市)、道東海岸部(釧路市)では「生肉」
を使うのが主流である。<略>

(2) 素材への限りなき愛情
           一志治夫

 なんとか、自分の店を開いたものの、奥田政行の気持ちは必ずしも晴れ渡ってはいなかった。まだ実家の借金問題がくすぶっていたのだ。借金返済に当てるようにと父親と兄に渡していた給料の一部は、一攫千金を狙った博打に吸い込まれてしまっていた。少ない利益の中からひねり出している金が消えていたことを知り、奥田は落ち込む。
 滅入る奥救ったのは、庄内のひとりの羊肉生産者だった。
 ある日、「この肉はすごいと思う」と常連が店に持ってきたことで奥田は丸山公平が育てる羊と出会う。それはまるでクセのない深いコクと香りのある羊肉だった。
 奥田はすぐに丸山に連絡を入れ、2日後に畜羊場を訪ねた。
 奥田は、丸山に、
「是非、うちの店でも使わせてください」
 と言った。しかし、丸山か返ってきたのは意外な答えだった。
「実は、もう羊は売れないからやめようと思っているんだ」
 奥田は衝撃を受けたものの、すぐに支えようという気持ちになる。庄内の生産者を元気にしようと帰郷した奥田がまさにいま、行動すべきときだった。しかし、なんとかしようと言っても、奥田の店で仕入れる量などたかが知れている。奥田は考えを巡らせた。
 丸山が羊を飼い始めたのは、1970年代半ばのことである。
「当時はジンギスカンの第一次ブームのようでした。ちょうど山形県で全国高校総体があり(1972年)、そのときに、ジンギスカンがメインディッシュとして出されて広まったんです。私は学生を終えた頃で、食べてみたら旨かった。子どもの頃には毛取り用として家でも飼っていて、経験はあったし、飼えるんじゃないかと思ったんです。ちょうどその頃、転作が始まって、その転作の畑で牧草を作ればいけるんじゃないか、と思ったんだけど、まあ、そんなに簡単にはいかなかったね」
 と丸山は振り返る。
 丸山の畜羊の特長のひとつは大豆やトウモロコシ、米ぬかといったエサの他に、地元産のだだちゃ豆を2回ボイルし、サヤこと与えていることだ。それもまた、独特の風味を出している一因なのだろう。
 しかし、そうやって、30年余にわたって営んできた畜羊を丸山は諦めようとしていた。

(3) 【ジンギスカン】 くさい度数 ★★
           小泉武夫

<略> 戦後は、主に北海道でジンギスカンがよく食べられてきた。旧満州から戻った人たちが広めたと思われるが、今でも北海道では、川原でのバーベキューといえばたいていジンギスカンだし、夏の海の砂浜でもテントを張ってジンギスカンを食べている光景がよくみられる。だから、北海道の人にとって、「ヒツジの肉がくさい」なんて話は不本意に違いない。しかし、ジンギスカンのように味の濃いタレをつけた食べ方でも、ヒツジの肉はくさいという人がいる。そういう人は、先にお話ししたようにラム(仔羊)肉を選べば、何の問題もない。
 個人的には、北海道の旭川市で食べたジンギスカンがうまかった。男山酒造の山崎志良さんが、酒蔵の前にある池のほとりで、私のためにジンギスカン・パーティーを開いてくれたのだ。やわらかいラム肉を秘伝のタレにつけて、ジンギスカン鍋で肉を焼き、心ゆくまで口に放り込んでもりもり食べたのだが、とにかくタレが絶品だった。その秘伝の中身を聞いたら酒粕を使っているとのこと。さすが酒蔵育ちの食いしん坊だ。それ以来、私も焼肉のタレをつくるときは、いつも隠し味に酒粕を使う。<略>
 このことを横浜の行きつけの屋台のおっちゃんに話したら、マトンの料理をメニューに加えてくれた。以来、ヒマを見つけてはそこへ通い、マトンとカストリで「うめーえ、うめーえ」と嬉しく酔っている。<略>

(4) 「すすきの」で気づいた異変
           井上恭介

<略> 雪の降りつもった路地裏を歩くと、 あちこちに専門店が見えてくる。「生ラム」と大きく書かれた赤い暖簾をくぐると、羊独特のにおい、ジュージューという小気味いい音が、あちこちから聞こえてくる。<略>牛と比べて割安でしかも旨いとの評判から、出張などで札幌を訪れる人も、羊肉に求めて、ジンギスカンの店に繰り出すことが多くなっていると聞くし、私自身もそんな感覚を共有している。<略>
「メーカーは違っても、みんな(羊肉を)値上げしてきていましてね。なかなか値段が下がらないと言っている。オーストラリアやニュージーランドで、困ったものです」
 ずっと割安だった「庶民の味」に突然起きた異変。「なぜだ、なぜだ」と追いかけ、世界各地に足を延ばしてその原因をたどっていくと、グローバル市場独特の奇怪な現象が突如姿を現した。壮大な「玉突き」が起きていたのだ。<略>
 私たちはニュージーランドの広大な放牧地を訪ねた。行けど行けども緑の大地が続く
見渡す限りの牧草地。<略>
「(羊と牛では)儲けの違いは歴然としている」
と、大転換に打って出た農家の男性は、語気を強めた。
「90年前の祖父の代から羊を飼ってきた。父も同様に羊を飼ってきた。しかし同じ面積であれば羊よりも牛を飼ったほうが、5倍以上利益が違ってくる。牛の方がコストはかかるが、それらを差し引いても、牛の方が羊よりもはるかに儲かるのです」
 平成28年の(1)は、これぐらい北大とジンパの関係を書いてくれれば、学問的には問題なしとしないが、日本一と褒めてくれたのだから黙過しよう。それから、この章には漫画が1ページあり、その1コマに羊ヶ丘のクラーク像の影絵があり「ちなみに有名なクラーク像(全身)は北大にはありませんのでお間違いのないように」とある。あっちのクラークさんが、なんで右手を挙げ西の方を向いておるか知っとるかね。あれはね、本物はあっちという謙虚なお姿なのだよ。ハッハッハ。
 (2)はソラチのタレのキャッチフレーズを題名にした珍しいジンギスカンの解説です。ここに入れようとして初めて(1)と同じ「北海道ルール 最新版」からと気づいた。同じ本から2件紹介は手抜きみたいで避けてきたが、ソラチ関係なので特例として加えました。
 ちょっと脱線だが、私は国会図書館で空知タイムスの昭和33年5月から3年分を調べたことがある。タブロイド版2ページ、週3回発行だったから、さして時間はかからない。その結果、芦別ラムネの広告はあったが空知ラムネは見つけられなかった。広告で注目したのは昭和33年7月から芦別市内の飲食店「いさ美」が広告にジンギスカンを「御注文により 特別奉仕」と入れ、その後2店が追随したと推察される広告。芦別ではこのころからはやり出したようだね。
 またソラチがいつジンタレを売り出したか調べたが、社史はないし確実に空知タイムスに発売広告があるとも思えない。ただ同社の「北海道のたれ屋ソラチ 業販サイト」(平成28年閉鎖)の平成18年分にあった自社熟成の生ラムとそれ専用のタレとの組み合わせセットの説明に「ジンギスカンのたれを作り続けて50年!」とあるから素直に逆算すると昭和31年となる。同年はベルもジンタレ発売と公称しているが、新聞広告ではベルタレ同様ソラチも見かけない。だからソラチのジンタレ広告を調べたレポートは+αで評価します。
 (3)は国会図書館でキーワード成田で検索して見付けた本「成田歴史玉手箱」からです。前バージョンで話したかも知れないが、三里塚御料牧場記念館にね、鉄板に鉄棒の足4本を付けたこたつ櫓みたいな物体がある。外交団招待の際のジンギスカンを焼く専用とみて、写真を撮ろうとしたら、千葉県教育委員会だったか、文化財保護委員会だったかの許可がいると止められた。それは10年ぐらい前のことだったが、令和4年に道新日曜版にその焼き面だけの写真が載って資料その5として見せましょう。
 真ん中が幅広の溝になっている。ここで焼いて両サイドに揚げて皿に盛って出すのか、片側に積んで自由に取ってもらうのか、立ち会ったことがないのでわかりません。
資料その5

 足も入れた全体の写真は、三里塚御料牧場記念館を写した許多の写真の中の1枚に写っている。URLで教えたいが、そのサイトではリンクを断られたことがあるから、キーワード「なんとお召し機となる航空機の特別機は天皇利用の度に座席を取り替え、西陣織の特別席やベッドも運びこまれる」で出てくる写真の中にあるから、見たければ探しなさい。羊の形の白板の前にある簡素なテーブルがそれです。
 (4)の荒井宏明著「北海道民あるある」の著者略歴によると、同氏は札幌市内の大学で「情報資料論」などを教えておられるそうだから、北海道沿岸部の道民は匂いに関しておおらかでマトン臭なんか気にしない、だから後付けが好きなのだという調査報告類を知っておられるのでしょう。「『味付け肉』が滝川市で生まれ」普及するまで「内陸の地域」の人々はジンギスカンを知らなかったか後付け派だったと思うがねえ。
 (5)は警視庁OBの作家、濱嘉之著「聖域侵犯」からで、鶏肉のジンギスカンといえる鶏ちゃんを説明しています。伊勢志摩サミットで厳戒中、真珠の養殖棚の引き揚げで偶然、重り付きで沈められていた水死体が見つかる。サミット警備で名古屋にきていた警視庁公安部公安総務課管理官の青山望も水死体の身元調べのため、情報源の岡広組幹部の白谷に会うため岐阜県可児市に行き、鶏ちゃんで知られる料理店に入ったところからです。
 (6)小樽生まれ、大学生ながらテレビ番組制作に関わり、プロの放送作家になった瑞木裕の「どーでもミシュラン」からです。瑞木によると、日本のお茶の間にテレビが入ったのは東京オリンピックの前年というから昭和38年で「もう一つ、その頃まで北海道なのに家庭にはなかった物があります。それは、なんとジンギスカン鍋です。」(75)と自信ありげに書いている。
 私はね、日本緬羊協会から派生した日本緬羊株式会社が昭和25年から川型の鍋を売り出し、つきさっぷジンギスカンクラフが、いまもその改良型の鍋を使っているし、翌26年の北海タイムスに札幌の荒物店が鍋の広告を出しているので、精肉店の貸し鍋もその頃から始まり、それでジン鍋を知った家庭が増え、20年後半代から鍋持ち家庭が増え始めたとみていたのですが、こうはっきり書いた御仁は記憶にない。
 彼は「個人的な見解ですが」と断りながら中華料理の烤羊肉は日本兵が満洲から持ち帰ったという説は怪しい。成吉思汗鍋というが、中国の「鍋」は火鉢であり、おかしい。道内初の成吉思汗鍋の営業をした札幌の精養軒となっているが、それは今様のスタイルのジン鍋とは絶対に違うはず。そこで―引用した瑞木説を読みなさい。
 (7)は食べるジンギスカンの話ではなく、誰かと雑談をしているときでも、もたつかずに話を進める話し方が大事だよと、その手本としてね、おいしいジンギスカン料理店を見つけたことを使った例です。
 (8)は、いまや600枚近いジンギスカン鍋を所蔵する博物館、正式にはジン鍋アートミュージアム(略称鍋博)の溝口雅明館長、いや開館直前だったので、北星学園大学短期大学部教授の肩書きで日本経済新聞に書いたジン鍋随筆です。
 彼は「56年は私の生まれた年」と書いている。その年は我が輩が文学部を出た年であり、それぐらい年は違うが、彼が某シンクタンク所員だったときに知り合い、彼が立ち上げたパソコン通信の略称ヨコネットの仲間、さらにジンバ学の研究仲間としても永く、それで私は鍋博の顧問なのだ。
 字数の関係で引用できなかった末尾は「今月中旬に収集した鍋を展示する『ジン鍋博物館』を正式オープン(冬季休業)するが、『家ではもう使わないから』と鍋が集まるのは、さびしいことでもある。うまいジンギスカンをみんなでわいわい食べて、食文化を盛り上げていければいい。」(76)です。
平成28年
(1) 敷地面積&ジンパ実施率
    日本一(!?)の北大
           大沢玲子

 ジンパ(ジンギスカン・パーティー)はジンギスカンを食べるイベントのみならず、この地の文化なり!? そう思わせられる事件が2013年、ジンパの聖地・北大で起こった。
 さて、念のために解説しておくと、北大とはこの地で最もカシコい大学、北海道大学。「オレ、北大出身」と言う人にあったら、「スゴ~い!」と返しておくのが正解だ。
 前身は開拓のための人材育成を目的に作られた札幌農学校。東京ドーム約38個分(!)という日本一広いキャンパスには、歴史を感じさせるアカデミックな雰囲気の建造物やポプラ並木などがあり、人気の観光スポットでもある。
 この構内で春から秋にかけて、目につくのが、モウモウと煙をあげ、この地のソウルフード・ジンギスカンに興じる学生たちの姿。通称〝ジンパ〟と言われ、生協でも肉と野菜、鍋などがセットになったジンパセットが売られている。
 だが、その伝統風物詩に対し、2013年、大学から「マナー違反が相次いでいる」としてジンギスカン禁止令が出されたのが事の発端となる。学生側は一方的な禁止令に疑問を呈し、対策委員会を設立、SNSを使ったキャンペーン、署名活動をスタートしたところ、大反響。道新(北海道新聞)、北海道文化放送などのメディアでも報じられた。
 こうして話し合いの結果、新ジンパエリアの設置という妥結案に着地。2014年5月、1年2ヵ月ぶりに、ジンパが復活した。
 たかがジンパ? いや、されどジンパ。ジンパのない北大なんてありえないのだ!?<略>

(2) タレといえば
    「♪ソラチジンギスカンのたれっ♪」◇焼き肉大国
           大沢玲子

 全国区で肉のタレといえば、「♪エバラ、焼き肉のたれっ♪」。
 だが、この地では「♪ソラチジンギスカンのたれっ♪」が常識!?
 そう、北海道を語る上で欠かさない肉料理が、羊肉を食らうジンギスカン。まずは基本
編PART1として、食べ方に大きく2つの流派があことを押さえておきたい。
 第一の派閥が、タレに漬け込んだ肉を焼く〝先漬け〟(漬け込み)派。もう一つは焼い
た後でタレを付ける〝後付け〟派だ。
 それぞれ、滝川と月寒にあった種羊場が推奨した食べ方がルーツだが、
「肉本来の味を楽しむなら、後付け派」
「タレを付けるんじゃタダの焼肉じゃないかい?」
「タレはソラチ派、ベル派に分かれる」
 などと、何かと居住・出身エリア、個人の好みによって論争が湧き起こりやすいネタと
化している。
 といいつつ、自由人・道産子の大半にとって、ジンギスカンは焼肉の一部。
 専用のジンギスカン鍋での調理にこだわる人もいる一方、細かいことは抜きに、豚肉や
牛肉などと一緒に並べ、ホットプレートで焼いて食べる家庭も多い(同じくコンニャクを
焼いて食べる人も多い。なぜ?)。
 そして、基本編PART2。同じ羊肉でも、さまざまな種類が存在することも一応、
知っておきたい。クセの無いのは、生後4~8ヵ月のラム肉。だが生後12ヵ月以上のマ
トン肉の独特の風味を好み、「臭いのがいいんだよ~」と言いたがるツウも多い。<略>

(3) 下総御料牧場貴賓館
           成田歴史玉手箱
 
<略> 貴賓館は、牧場の経営責任者として明治政府に雇用されたア
メリカ人アップ・ジョーンズの官舎として両国(現在の富里
市)に建てられました。彼の退職後は牧場事務所として使わ
れ、明治21年に現在の三里塚へ移築されました。
 大正8年、新しい牧場事務所(現在の三里塚御料牧場記
念館)が完成すると、同館は、ギリシャ様式のホールを設ける
など内部を大改装し、各国大公使を招待する施設として生まれ
変わりました。昭和24年4月にイギリス代表者などを招待し園
遊会が開催されました。以後恒例となり、28年に第1回在京各
国外交団招待が開かれ、毎年開催(昭和34年は実施されてい
ない)されるようになりました。この行事は3日間にわたり、
多くの外交官やその家族が来場し、馬や馬車で場内を散策し、
昼食には牧場の新鮮な牛乳やジンギスカン料理を楽しみ、国際
親善の発展に大きく寄与しました。当時を知る三里塚の人々は
その時の印象を「各国の人々に大変好評だったのは、新緑の牧
場の風景とジンギスカン料理でした」と語っています。
 昭和41年7月、この地に新東京国際空港を設置することが閣
議決定され、翌年新牧場を栃木県高根沢とし、同44年8月に牧
場閉場式が行われ、約1世紀にわたる幕を閉じました。

(4) ジンギスカンは「漬け派」? 「あと付け派」?
           荒井宏明

相容れない関係。それはジンギスカンの「あらかじめタレに漬け込んでお
く派」と「焼きあがってからタレを付ける派」です。この2派は物理的に
一緒に食事ができません。そもそも肉をタレに漬け込んだ「味付け肉」は
滝川市で生まれました。滝川のように内陸の地域では「漬け派」が多いよ
うです。かつてジンギスカンといえば「マトン」(成羊肉)が主流で、内陸
の人たちはこの独特の匂いを避けようとタレを漬け込んだようです。一方、
沿岸部は魚文化によって匂いにおおらかなことから、あと付けを好んだと
いわれています。札幌では会員制のジンギスカンクラブが臭みのないマト
ンを出し、あと付けで食べていたのがジンギスカンのはじまりでした。で
すから、札幌および周辺ではあと付け派が優勢になっています。いまはラ
ム(子羊肉)が主流で匂いを気にする人は少なくなりました。

(5) 闇の集積
           濱嘉之

<略> 主人が卓上コンロの上に鉄なべを用意した。
 鶏ちゃんという食べ物は青山が想像していたものとはやや異なっていた。
「この店の鶏ちゃんは、鶏のムネ肉やモモ肉に加えて、レバー、ハツに、きんかんや、
きんかんのさらに小さな小梅サイズの『つぶつぶ』も入っているんです」
 白谷が言うと主人が笑顔で解説を始めた。
「この料理は北海道のジンギスカン料理が起源になっていると言われています。大正時
代に国の方針として『緬羊百万頭計画』という羊の飼育が全国的に始まったんです。日
本人は従来、羊肉を食べる習慣がほとんどなかったのですが、北海道では羊肉の臭みを
消す調理法としてジンギスカン料理が生まれたようです」
「ジンギスカンか……僕は鉄鍋を見て、てっきり相撲のちゃんこ鍋が原点かと思ってい
ました」
 青山が興味深げにうなづく。
「なるほど、いろいろ勘違いされて来られるお客さんも多いです。岐阜ではジンギスカ
ンの調理法を応用して、鶏肉を同様に調理するようになったんです」
 確かに羊肉か鶏肉かという違いを除けば、味のついた肉を野菜と一緒に焼いて食する
調理法はジンギスカン料理に似ていた。
「鶏ちゃんの名称は、同じく北海道の郷土料理で、『鮭のちゃんちゃん焼き』から来て
いるそうです」
「ジンギスカンとちゃんちゃん焼きを、主材を鶏に変えて郷土料理にしてしまった発想
が素晴らしいな」<略>

(6) 成女思匂汗鍋(ジンギスカン鍋)
           端木裕

<略>筆者は勝手にこう思うことにしています。たぶん、現在のスタイルのジンギスカン鍋の成り立ちは、港町・小樽市とニュージーランドの南島にあるダニーデンという港町を結ぶ航路ができ、友好都市として頻繁に行き来することになって物資を安易に運ぶことが出来るようになり、超安い冷凍マトンが北海道に入って来るようになったからだと思います。その頃の輸入関税についてはあまり詳しくは知りまぜんが、当時のお肉屋さんの値段の記憶を紐解くならば、豚肉のロース薄切り肉の値段が百グラム八十円だったのに対して、マトンの肉は百グラムニ十円を切っていて十六円という安いお店も多くありました。鶏の小間切れと同じくらいの値段だったと思います。<略>
 しかし、ジンギスカン鍋という料理が北海道民の心を鷲づかみした要因は、もう一つあったと思います。<略>それはベル食品が発売した成吉思汗のタレ、道産子が呼ぶ「ベルのタレ」でした。何が凄いかと言うと、実は「ベルのタレ」はマトンの臭みを抑えるというよりは、臭みの個性を生かして旨さに変えていることです。だから、韓国焼肉のタレやバーベキューのソースみたいに甘さや辛さ、スパイスやニンニクなどが自己主張して食材の臭いを抑えるのとは真逆に、あっさりしているんです。それはまさに、相手の力や癖を利用して己のカに変える「食の合気道」という感じでしょうか。

(7) 雑談では、話の内容よりも先に
      テンポを合わせること
           安田正

<略> だらだらと話すのではなく、話すときは
  ・一文を短く
  ・テンポよく
 話すことが重要だとお伝えしました。
X 「そういえばですね、この前の休みにビアガーデンに行ってきたんですけど、
あっ、そこは百貨店の上にできたやつで、ちょっと割高ではあるんですが……それで
私、ジンギスカンって、あの独特の匂いが苦手であんまり食べなかったんですけど、
あそこのは食べられたんですよね~……」

○ 「この前、とんでもなくおいしいジンギスカンを見つけたんですよ。私、ジンギ
スカンって匂いがどうしてもダメだったんです。でも、そこのはおいしくて箸が止ま
らないんです。場所は百貨店の上にできたビアガーデンなんですけれど……」

 と、相手が理解しやすい順番に並べて情報を一つひとつ区切っていくと同じ内容で
も引きつけ方が変わってくる、ということをお伝えしました。
 これは、「自分が話すとき」リズムカルに話すためのコツです。

(8) ジンギスカン 鍋も味わい
           溝口雅明

 羊肉を焼いて食べるジ
ンギスカン。真ん中が盛
り上がった特徴的な形の
専用鍋をご存じの方も多
いだろう。北海道ではな
じみ深い料理で、鍋を持
っている家庭は多い。私
は古い鍋に興味を持ち、
およそ10年で約150枚
が集まった。収集を通じ
て食文化や道具の移り変
わりが見えてきた。
 私は夕張の北にある万
字炭鉱の商店街で育っ
た。肉といえばジンギス
カン。羊肉は割安でもあ
り、長年日常的に親しん
できた。50歳の頃、この
料理のルーツを研究して
いる旧来の知人に協力し
ようと、実家で古い鍋を
探したのが始まりだ。4
枚が見つかり、2枚は古
新聞に包まれていた。

  ◎ ◎ ◎
 精肉店にレンタル鍋

 1枚のさびを落として
油を塗ると「ベル食品」
の文字が浮き出てきた。
ジンギスカンのタレの有
力メーカーだ。調べると
同社は約60
年前にレン
タル鍋を作
って精肉店
に置き、羊
肉を買った
お客さんに
貸し出して
いた。
 当時は家
庭でしょう
ゆや薬味を
混ぜてタレを作ってい
た。鍋はベル食品が発売
したタレを普及させる宣
伝の役目があったのだ。
そして食料品店だった私
の実家に、鍋が捨てられ
ずに残っていた。
 ベル食品によると19
56年にタレを発売。当
時は経営難で、社運をか
けた新商品だった。レン
タル鍋を作ったが、製造
枚数など詳細を記録する
余裕はなかったという。
56年は私の生まれ年でも
あり因縁を感じ、収集熱
に火が付いた。
 ジンギスカンは中国東
北部から大正~昭和初期
に伝わったとされる。当
初は鉄製の大きな格子状
の道具(ロストル)を使
っていたが、日本に伝わ
ると七輪用に直径30㌢前
後に小型化したようだ。
<略>
 平成29年の(1)は、雑誌「将棋世界」の編集長から転じて作家となり、棋士にまつわる作品が多い大崎善生の「最高の贅沢だった味付けジンギスカン」です。「今から五十年前の札幌の街」は「ビルは四丁目にデパートがあるだけ」は、ちょっとおかしい。平成29年の50年前は2017-50=1967即ち昭和42年、大崎さん10歳のときとなる。
 「写真が語る 札幌市の100年」(77)というホームページの「さっぽろ雪まつり<中央区・昭和40年>」という写真を見ると、大仏の雪像の向こうに、拓銀と道新と秋田銀行のビルが並んで見える。それとは関係ないが、札幌グランドホテルは昭和9年開業で5階建て、駅前通のあそこに建っていました。昭和33年まで在学した私の記憶では、繁華街を離れるとガクッと変わり、、大崎さんのいう田舎町でありましたね。ふっふっふ。
 (2)は食文化研究家畑中三応子著「カリスマフード――肉・乳・米と日本人」からです。平成17年頃ジンギスカンのブームが起きて、僅か2年で終わったとあるが、東京限定の見方じゃないかな。道民の多くは子供のころから食べつけており、この後、出てくる平松洋子の「かきバターを神田で」にね、ジンギスカン大好きの道民魂という言葉が出てくるが、確かにそういうタイプがいるから、モツ鍋店みたいな極端な増減はなかったように思っています。
 日本食糧新聞社北海道支社が出した本「みんなのジンギスカン 札幌エリア完全版2017」の掲載店は103店、掲載遠慮店は8店でした。その2年前の2015年、平成27年の国勢調査によると、札幌市の人口は約195万人だったから、1店当たり約1万8000人という比率であり、その後ブームは起きなかったと畑中女史はいうのだから、いまもこの比率はそう変わってないんじゃないかな。
 (3)は「北海道 ジンギスカン四方山話」の中のね、わがジンパ学の講義録を激賞はオーバーか、とにかく最近全くなかったヨイショしてくれた一節です。講義録を開いたころは、ジンギスカン店のページなんか皆無で、納豆研究者の方が下手な推理小説よりスリルがあると褒めてくれたり、時事新報北京特派員鷲沢与四二の親戚の方が鷲沢家の菩提寺についてメールを下さったりしたが、ちょっと手直しの筈の閉鎖が2年に延び、ジンパという北大語が天下に広まり、ホームページのタイトルに入れるもんだから、そうした支持者の方々のページは埋没して見えなくなって久しい。
 ここで私が「四方山話」は、ジンギスカンについて広く、かつわかりやすく書いた良書だとお返しでなく真面目に褒めれば、この本を出版した彩流社が増刷するかも知れないので、その際訂正すべき箇所を挙げれば「濱の家」は正しくは「濱のや」。
 これは講義録では何回か断ったはずだが、久保田万太郎の「じんぎすかん料理」で「濱の家」と書いたので、その後で「濱のや」と書くと別の店と誤解されるかも知れないので、講義録は全部「家」に統一したからです。それと「大井秋園」は単に「春秋園」だからね。ふっふっふ。
 (4)は「新 いわみざらの民話」からです。国会図書館で成田市の「成田歴史玉手箱」を見付けたので、鍋博物館のある岩見沢も何か作ってないかなと、岩見沢市のホームページを見たら「新 いわみざわの民話」があったのです。内容は岩見沢、志文、栗沢、北村の民話に分かれていて「北村の民話」に「ジンギスカン料理発祥の地北村」が入っていました。非売品とあるから本も作ったのかと国会図書館を検索したら「新いわみざらの民話」が納本されていました。
 鍋博物館のある万字関係は「栗沢の民話」に入っており「万字炭山~百年の基礎を築いた人々~」に商店街の明治44、5年開店組にある溝口鮮魚店が、今のジン鍋博物館につながるのです。
 (5)は石毛眞著「コスパ飯」です。日本マイクロソフト社長だったので、交際費や接待、自腹でうまいものを食べたと認め「はじめに」に「高度成長期も今も、日本はオリジナリティに弱いと言われる。他国のどこかの企業がつくったものを、より高性能に、完成されたものにする力はあるものの、ゼロからイチをつくるのは苦手とされてきた。<略>この本は食べ物の本である。だから開き直りたい。我々はオリジナル料理を作るより、どこかで出会ったうまい料理を、家でよりうまくつくることが得意だし、好きだし、それを楽しめばそれでいいのだと思う。<略>そんなわけで、私は模倣すべき味探しと、家でのよりよい再現というプロセスを愛している。」(78)とね。でもジンギスカンでは、うまい味探しが難航しているらしい。
 (6)は国会図書館で読める新聞記事データベースにある「朝日クロスサーチ」からの記事「ジンギスカンのタレの付け方」です。月寒845字、松尾813字で公平に要約しにくいので原文のままです。
 ただ、私は後付けという言い方は、なんだか後から普及したみたいで好かんのだ。元々マトンを焼き、すぐタレを付けて食べていたのだからね、いうなれば直ぐ付ける、直付け派という呼び方に変えてもらいたいが、こういう立派な記事などで「後付け」が定着し、蟷螂の斧ではあるが「直付け」がいいと賛成する人もいることを期待して、この際言っとこう。ハッハッハ。
 (7)はドイツのNGOの一員としてトルコ国境のシリア難民キヤンブで救援活動をしていた及川瑞希がイスラムの過激派に拉致されたと外務省から父親及川隆二に電話が入る。瑞希は爆撃で壊れた抑留施設から逃げ出し、生還するまでの間の国内外の動きを描いた小説です。私としてはね、ジンギスカン王国を標榜する滝川市民らしく、及川のレストランでは客の有無はさておき、常にマトンを用意しているとした表現を評価し、ここに入れました。
 (8)は北大路公子著「流されるにもホドがある」25編の中の21番目にある「氷上記」からです。そのずっと前、5番目「愛の館へ(予告編)」その次の「愛の館へ(答え合わせ編)」は北大路さんと東京の北大路担当編集者K嬢によるニッカウヰスキー余市蒸留所の探訪記だが、これが傑作。
 要約すればテレビ「マッサン」が始まったので、北大路氏が「何気なくツイッターでつぶやいたところ、驚くべき勢いでツイートされてしまった」。それとは別らしい記憶で書いた原稿に間違いがあるんじゃないかと心配になり、K嬢と共に余市に行き「答え合わせ」と称する現場検証の結果、ウイスキー工場に見せかけた「政孝とリタの愛の館」であることを「確かめあったのだった。」。
 それはそれとして、私が心配するのは「流行漂流記」のほんの一部とはいえ、ここで引用すること。奥付に著作権の注意事項に加えて「購入者以外の第三者による本書のいかなる電子複製も一切認めらておりません。」という厳しい警告が入っているんだ。それでね、用心して購入者だと証明するために本及び3種の挿入物件の写真を関係者に見てもらうために下記の「流されるにもホドがある」をクリックすれば出現するようにしました。好奇心の強い人、私と同じようにブログかなんかで著作権が気になる諸君はクリックしてみなさい。これは絶対の決め手とはいえないが、無為無策よりマシだと信じなさい。おや、早くも強烈なキミコ風文体に感化されたかも知れんぞ。
   「流されるにもホドがある」
 そうそう、北畠、いや北大路さんは呪文「ジンギスカンビール」を唱えながら強力な気を放つことが出来ると「氷上記」にあります。ほんとだよ、ハッハッハ。
 (9)は怪談作家丸山政也の「頑固オヤジの店」というジンギスカン店で遭った恐い話です。なぜ頑固オヤジなのかというと「四十代半ばの偏屈を絵に描いたような男」が店主で、「野菜のうえに肉を乗せて間接焼きにしろ」など「客を客と思わない横柄な振る舞い」を繰り返す(79)からで、グルメサイトに口うるさい店主がいると書かれていたそうだ。
 (10)は馳星周著「神(カムイ)の涙」からですが、並のジンギスカンではなく、シカ肉とジンギスカンのタレが登場します。屈斜路湖の湖畔に住む木彫り名人の平野敬蔵は弟子入り志願の尾崎雅比古をはねつけるが、阿寒湖畔のホテル社長が仲を取り持ち、雅比古はホテルに雇われ、休日は車で敬蔵宅へ通い手伝いをすることになったのです。
 (11)は札幌生まれの作家、喜多みどりによるグルメ本「弁当屋さんのおもてなし 海薫るホッケフライと思い出ソース。」からです。ウィキペディアを見ると「光炎のウィザード」というシリーズ10冊の名前があるので、角川ビーンズ文庫のサイトにある第1作の「はじまりは威風堂々」の試し読みを読んだら、私とは全く異次元のストーリーと挿絵だった。その点、料理とりわけジンギスカンとなると見逃せない。  引用箇所がよかったかどうか見直そうと図書館へ行き、うっかり借りたのが最初に出た「ほかほかごはんと北海鮭かま」。内容が大違いとわかり、すぐ借り直すのも気が引けてね、別の本を読んでいるうちに忘れて帰ってきちゃった。もしかするとページ番号が違っているかも知れんよ。
平成29年
(1) 最高の贅沢だった
    味村けジンギスカン。
           大崎善生

 私は昭和三十二年に北海道の札幌市で生まれ、
その街で育った。今から五十年前の札幌の街は今か
らでは想像もできない世界から見放されたような田
舎町だった。ビルらしいビルは四丁目にデパートが
あるだけで、あとはほとんどが木造の平屋かせいぜ
い二階建て。<略>豪雪の年には家が屋根からすっ
ぽりと埋め尽くされてしまった。石油ストーブも珍
しい時代で、ほとんどが薪か石炭ストーブで寒さを
しのいでいた。
 しかし子どもたちはあきれるほど元気だった。雪
に埋もれた屋根はまるで自然が作ってくれたジャン
プ台のようなもので、暗くなるまで尻にビニールを
一枚敷いて飛び続けていた。そんな北国の子どもた
ちにとっての強い味方、最高のご馳走がジンギスカ
ンだった。冷凍技術も発達していない時代で、生肉
などない。私にとってのジンギスカンとは肉屋の片隅
で、がっちりと味付けをされて袋詰めされたもの
だった。羊肉の特有のにおいを消すために、業者が
それぞれに工夫をした味付けをした。義経のジンギ
スカン。松尾のジンギスカン。それが私にとっての
二大ブランドである。札幌の狭い台所で凍えるよう
な冬の日、煙を充満させながら、兄と母と三人でジ
ンギスカン鍋を囲みながら食べた。夢のような遠い
日、今も残る煙と甘い肉の記憶。自分の体の半分は
札幌ラーメンで、そして残りの半分はジンギスカン
でできているようなものだ。<略>

(2) 軍人に愛されたジンギスカン
           畑中三応子

<略>五五年のピーク時を境に国産緬羊の価値は急降下してしまったのである。
 そこで、不要になったヒツジの肉をおいしく食べられるジンギスカンが奨励され、昭和三〇年代から四〇年代前半は、安い国産マトン肉が都市部の精肉店でも普通に売られるようになった。食用にまわされるのは老廃羊だったので固くて臭みも強かったが、値段の安さと物珍しさもあってちょっとしたブームになり、ジンギスカンは急速に家庭料理にも浸透した。すりおろしたショウガやりんご入りの醤油ダレに漬け込めば臭みがかなり抑えられ、なによりご飯とよく合う味だった。
 ところが緬羊飼育の衰退は止まらず、七六年(昭和五一)にはわずか一万頭に減少してしまった。ジンギスカンはとくに緬羊飼育が盛んだった北海道を中心に、信州と東北でも郷土料理として定着したが、それ以降はもっぱらオーストラリアとニュージーランドから輸入のラム肉が使われるようになった。
 二〇〇一年九月の国内初BSE(海綿状脳症)発生、〇三年のアメリカBSE発生と牛肉輸入禁止、続く〇四年一月の鳥インフルエンザ発生の影響で、にわかに羊肉が注目を浴びて東京では空前のジンギスカンブームが起こったが、たった二年でブームは終焉した。二〇一五年の未年ですら、ブーム再燃の兆しもなかった。富国強兵を重く背負い、国策に翻弄されたジンギスカンは、いまも彷徨っている。

(3) 成吉思汗
           北野麦酒

<略> 「ジンパ」という言葉がある。ジンギスカンパーティーの略だ。
 いつの時代でも、言葉を略してしまう。それをあるタイトルにして、長文の論文を書き続けている大学の先生がいる。作品はネットでも発表しているので、だれでも読むことができる。
 しかも、そのひとつひとつがとても興味深く、面白い。最初から、順番に読むと、ジンギスカンの歴史もよくわかる。大学の先生が書いているので、ただ面白いだけでなく、学術的でもある。調べるところは徹底的に調べ尽くしている。まさに、これでもかこれでもかと調べていることが分かる。この論文がすぐれているのは、ジンギスカンについての講義録であるが、自身が調べていくその過程を忠実に説明していること、うまくいったときのことだけでなく、失敗したそのときのことも、詳しく説明されている。結果よりも、その思考、行動、活動の詳細な過程を知ることで、まるで先生の頭のなかを覗いているかのようだ。
<略>

(4) ジンギスカン料理発祥の地 北村
           新いわみざわ民話
 
<略>緬羊飼育で名を発した北村は、紡毛・染毛を経てホームスパンの織製まで、一貫して行っている村として、日本全国に知られるようになり、その中核である北村農場には、全国から数多くの視察者や見学者が訪れるなど、技術提供や実演、そして講習会などを開いていた。
 このホームスパンが、皇室御買い上げの栄に浴したことから、北村農
場は益々有名となり、多忙な日々となってきた。従って純国産ホーム
スパン発祥の地(ルーツ)は北村であったことが、北村農場産業組合日
誌に記述されている。緬羊飼育が盛んになるにつれて、牡羊座や老羊を
どう活用したらよいか頭を悩ませていた。
 我が国では、ずっと以前より牛肉を『黒牡丹肉』と称し、薬として
用いていた記録があり、『牛肉丸』という売薬もあったことから、一般
には獣肉を食べる習慣はなかった
ようである。ところがある時、当時
の空知農学校(現在の岩見沢農業
高校)に解剖用として羊を寄贈
し、その時羊肉が食されたことから、
北村飼羊組合が総会後初めて試食
されたことが、当組合日誌に記され
ている。その後農場内では大正から
昭和時代にかけて、羊肉料理法が
いろいろと試されており、中でも
醤油味の網焼きが一番癖のない
ことから、農場に来られるお客様
のおもてなし料理として、普及した
といわれている。
 このころほかの地域では、羊肉を
食べる習慣がなかったことから、北村が羊肉料理発祥の地といっても
過言ではない。さらにはジンギスカン料理発祥の地は、北村であると
いえるだろう。

(5) 北海道人の飽くなきジンギスカン愛
           成毛眞

<略> 北海道民にとって、肉と言えば羊であり、鉄板でその肉を焼いて食べる料理といえばもちろんジンギスカンである。大阪にたこ焼き器のない家庭はないと言われるが、北海道にもジンギスカン鍋のない家庭はないだろう。しかも、携帯に便利なアルミ製、熱伝導率に優れた鋳物製など、複数を揃えていることが珍しくない。
 そのジンギスカン鍋で焼くのは冷凍ロール肉である。最近都内のスーパーなどでも見かけるようになった。普通にスライスされた生ラム肉ではなく、冷凍ロール肉である。
 ロール肉とは、ばっと見たところ、ハムのような円柱状をしている。しかし、ハムがスライスすると1枚の薄い円盤になり、焼いてもそのまま丸いのに対し、ロール肉はばらぱらとほぐれる。なぜなら、様々な部位の肉を集めて丸めたのがロール肉だからだ。羊はウシや豚に比べて体が小さく、同じようにスライスすると小さくなってしまうため、丸めてまとめて、それをスライスするという手法をとったのだ。
 ジンギスカンには、このロール肉がうってつけである。
 今時のジンギスカンは、鍋の縁に溜まった油で野菜をアヒージョのごとく煮ることもあるが、それはしない。ジンギスカンは、肉も野菜も焼いて食べる料理なのだ。
 北海道では、ことあるごとにジンギスカンである。花見と言ってはジンギスカン、バーベキューと言ってもやはりジンギスカンである。東北では秋に河原で芋を煮るようだが、北海道では当然、秋もジンギスカンだ。<略>

(6) ジンギスカンのタレ、あなたは?
           朝日新聞「スクエア」

■<後付け派>
   肉本来の味わい楽しんで
      「ツキサップじんぎすかんクラブ」の専務千田祐司さん(65)
 ――「ツキサップじんぎすかんクラブ」は、焼いてからタレをつける元祖とか。
 「当店は札幌市豊平区の『八紘(はっこう)学園』の敷地内にあります。学園の創立者の栗林元二郎が野戦料理だった『ジンギスカン』を旧満州から北海道に持ち帰り、お客さんに振る舞ったことがルーツと言われています」
 「月寒地区ではもともと、軍服に使う羊毛を生産するために多くの羊が飼われていました。
毛を刈り取った後もなんとか利用できないかというのが発祥のようです。会員制の『成吉思汗(ジンギスカン)倶楽部』として1953年に開店しました」
 ――後付けにこだわるのはなぜでしょうか。
 「新鮮な肉は臭みがなく、そのまま焼いてOKです。当店は創業以来、ニュージーランド産の新鮮な生マトン(生後1年以上経ったもの)を使っています。羊肉本来の奥深い味わいが特徴です。焼けすぎず、少し赤みが残るくらいがちょうどよいあんばいです」
 「タレはしょうゆベースです。一般的なタレに比べて少しスパイシーな風味がします。常連さんが多いので、昔の味そのままを心がけています。ニンニクを入れたり一味唐辛子を入れたりと、好みは様々です」
 ――鍋に切れ込みが入っているのが特徴的ですね。
 「一般的な焼き網だと脂が火に落ち、肉が焦げっぽい色や味になります。当店の鍋は野菜が落ちない程度の切れ込みが入っていて、脂は適度に落ちますが肉は火に当たりすぎず、ほどよくスモーク加減に楽しめます。当店では肉と野菜がセットで、おにぎりも2個付きます。食事の最後に、焼きおにぎりにして食べていただくのがお勧めです」
 ――「ジンギスカンをワインで楽しんで」ともPRしています。
 「当店のワインセラーには700本以上の在庫があり、気軽に楽しんでもらいたいと考えています。スパイシーなジンギスカンには、赤のカベルネ・ソーヴィニヨンやシラー系がよく合います。もちろん白ワインやスパークリングワインもいいですよ」
 (聞き手・上地兼太郎)
■<味付き派>
   「焼く、煮る」食べ方2通り
      「マツオ」の松尾吉洋社長(43)
 ――「松尾ジンギスカン」の味付き肉はどうやって生まれたのですか。
 「かつて滝川には羊毛をとるための滝川種羊場があり、老廃羊の食べ方も研究されていました。祖父で創業者の松尾政治(2005年死去)から聞いた話ですが、ある日、地元の綿羊組合長から『うまいものがあるから食べにこい』と誘われた。井戸につるしてあった味付き肉はとてもおいしく、羊だと聞いて驚いた。老廃羊の肉は臭くて食べられたものじゃないと思っていたからです」
 ――そのタレに工夫を加え、1956年に現在マツオを創業したのですね。
 「祖父は『二束三文の肉がこんなにおいしくなるなら商売になる』と、タレの研究を進めました。滝川周辺はリンゴとタマネギの産地です。これに生ショウガやしょうゆ、秘伝の香辛料を加えて肉を漬け込むと、酵素の働きで柔らかくおいしくなります。ニンニクを使わないのがうちのこだわりで、今も創業以来の味を守っています。肉質や丁寧な下処理も自慢です」
 ――味付きの魅力は。
 「肉をじゅうじゅう焼く、肉汁が出たタレで野菜をぐつぐつ煮る、両方のスタイルを同時に楽しめます。白ごはんが進みます。さらに鍋物のようにうどんを加えて煮るのが定番ですが、お薦めは餅。最近札幌の店で出したフェットチーネ(平打ちのパスタ)も意外合うと評判です」
 ――鍋の形が独特ですね。
 「中央の丸い山の部分で肉を焼き、周りの溝で野菜を煮ます。山の高さや溝の本数などを変え、今使っている鍋は5代目です。すべて南部鉄器の特注品です」
 ――味付きには、名寄名物の煮込みジンギスカンのような派生もありますね。
 「祖父は自宅で煮込み方式でジンギスカンを食べていました。味付きのバリエーションと言えます」
 「白米が合うから、丼にもなるんですよ。一昨年から新業態のフードコートでジンギスカン丼を売り出していますが、『熱々のつゆだくがおいしい』と好評です」
 (聞き手・渕沢貴子)

(7) 人質
           荒木源

 その電話がかかってきたのは、及川隆二がカツカレーのカツを揚げている最中だった。
「フローラです。そうです。え? どちらさん?」
 ワイヤレスの子機を傾けた首と肩のあいだに挟んで及川は声を張り上げた。油のはぜる音のあいまに、「ガ」なんとか「ショウ」という相手の声がかろうじて聞こえたが、その音列を「外務省」と結びつけることはできなかった。
「今、お話できますでしょうか」相手は続けて言った。
「あー、今ランチでちょっと忙しいんで、後にしてもらえるほうが助かるな。そうね、二時くらいだったら落ち着いてます。はいはい。はいはい」
 それから一時間ちょっとに、及川は八人分の食事を作った。一番多く出たのがショウガ焼き定食で次がカツカレーだった。今日もジンギスカン丼を注文した客はいなかった。
 ここ滝川市には味付けジンギスカンのメーカーが集まっており、市は観光資源にしたい思惑もあって、メニューに取り入れるよう飲食店に働きかけている。しかしジンギスカン目当てに北海道の片田舎まで観光客が押し寄せるはずがない。
 市民のその料理への愛着はよその土地に比べれば強いようだが、やはり食うならしかるべき雰囲気でビール片手にと思うのが一般的で、昼飯に選ぶ人間はさほどいない。専門店にまかせればいいとほとんどの店が決め込む中、フローラの冷蔵庫に今もマトンがストックされているのは、及川の素直ともあまり物事を深く考えないとも言える性格によるところが大きかった。<略>

(8) 氷上記
           北大路公子
           
 十二月某日
 競技二日目。明日一緒に出かける友人のハマユウさんとともに、あっちゃん先輩
の泊まっているホテルを訪ねる。久しぶりに会ったあっちゃん先輩は、昨夜もフィ
ギュアの後ですすきのに繰り出し、地酒を「行」で飲んだと言って、とても元気そ
うだった。お昼は三人でジンギスカン。午後から観戦をひかえたあっちゃん先輩の
ために、早めに食べて(飲んで)解散するつもりが、
「ジンギスカンは十一時半からで、それまでは海鮮丼です」
 と、非常に選択肢の少ないメニューを提示されて、結局ロビーで時間を潰すこと
に。おあずけをくらった犬のように「ジンギスカンビールジンギスカンビールジン
ギスカンビール」と全身から無言の気を放っていたら、「なるべく早くご用意しま
すね」とお店のおねえさんに優しく声をかけられた。私の気に圧倒されたのかもし
れない。
 食事中は、あっちゃん先輩のフィギュアスケート愛に耳を傾ける。いつ何がきっ
かけで好きになったのか、今までどんな大会を観に行ったのか、一流と言われる選
手の演技のどこがどう素晴らしいのか、実に熱心に語ってくれたが、半分以上はや
はり呪文で構成されており、十分な感想を述べられなかったのが申し訳なかった。
 結局、ここでも私に理解できたのは、「真駒内は国内で一番寒いリンクだと思い
ます」という耳を覆いたくなる情報のみで、寒さ対策のために六個のカイロを身体
に貼り付けているというあっちゃん先輩が、胸やら腰やらをブロックサインのよう
に叩きまくって、その貼付箇所を教えてくれるのを「そこまでしなければならない
のか……」と呆然と眺めるしかなかった。<略>

(9)   頑固オヤジの店
           丸山政也
 
<略> また一見客のRさんはこんなことを語った。
 半年ほど前のこと。
 Rさんは友人とふたり、初めて店に入ってみたという。
<略>そう思いながら肉を焼いていく。友人とは久しぶりだったので会話も弾み、すっかり話し込んでしまった。
 慌ててジンギスカン鍋に眼をやると、――肉が一枚ものっていない。野菜がじゅうじゅうと音をたてながら焼けているだけである。
 見ると、友人はキョトンとした顔で、手元の取り皿を指さしている。Rさんも自分の取り皿を見て、ぎょっとした。ほどよく焼けた肉が何枚かのっている。自分だけでなく、友人のほうにも同じ量が取り分けられていた。無意識に鍋から箸で取っていたのだろうか。いや、そんなことはしていない。
「肉の焼け方を見ると、たったいま鍋から取り上げたばかりの感じだったそうです。口に入れたら熱かったみたいですから。もうこれ以上ないくらい、ちょうどいいか焼き加減だったそうですよ」
 それ以降も、同じようなことをいう客が何組かいたそうである。

 後日、オーナーの弟さんはAさんにこんなことを語った。
「兄は口うるさかったのは常連の方からよく聞かされますが、単にお節介なだけなんですよ。美味しく食べてもらいたい気持ちからそうなってしまうんでしょう。健康にとても自信があるひとでしたから、おそらく自分が死んだことを理解していないのかもしれませんね」
 成仏できていないのではないか、とも考えたが、別にそれ以上の怪しい現象は起こらないので、店に関しては特に供養やお祓いはしていないそうだ。<略>

(10) 神の涙
           馳星周

<略> 味噌汁の味見をしていると肉の解凍が終了したことを告げる音が鳴った。肉をスライスし、大根と人参も薄いイチョウ切りにする。
 顔見知りになった地元の人間たちからよくエゾジカの肉をもらう。おかげでエゾジカ料理もお手の物だ。
 中華鍋で油を熱し、煙が立ったところで肉と野菜を炒めはじめる。塩胡椒と冷蔵庫にあったジンギスカンのタレで味付けした。
 ご飯が炊きあがるのを待っていたというように、敬蔵が風呂からあがってきた。スエットの上下に着替え、バスタオルで頭を拭きながら台所にやって来る。冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、旨そうに飲みはじめた。<略>
「旨いじゃないか」
 エゾジカ肉の炒め物を頬張り、敬蔵が目を細めた。
「ジンギスカンのタレは万能調味料ですから」
 雅比古も炒め物に箸を伸ばしした。<略>

(11) 第三話 ジンギスカン騒動
           喜多みどり

<略> とにかく、荷物は運び終わり、千春たちは七輪とジンギスカン鍋を中心に、持ち込んだ折りたたみ椅子や備え付けの丸太椅子に腰を下ろした。
 ジンギスカン鍋は中心部がまるく盛り上がり、表面に溝が入った構造だ。中心部で肉を焼くと、溝を伝い落ちた肉汁が周囲の野菜に絡まる構造になっている。
 羊肉は多少臭みがあるので好みは分かれるだろうが、千春はあまり気にならなかった。何より肉と野菜をこうして青空の下で焼いては食べ、焼いては食べて、時折ピールを呷ると、ものすごく気持ちよくて美味しい。あらかじめたれに浸されたちょっとお高めの羊肉を味わって食べるのも、味がついていない薄っぺらい羊肉ともやしにユウ特製のたれをつけてもりもり食べるのも、どちらもそれぞれに良さがある。
 車の持ち主である橘はノンアルコールビール、佐倉と、仕事の一環として来ているユウはウーロン茶だから、ビールを飲んでいるのは千春だけだ。最初は遠慮したのだが、せっかく冷えたものを持ってきて、誰も飲まないのはもったいないというユウの言葉に甘えさえてもらった。
 ジンギスカンにビールはすごく合う。羊肉の脂と独特の臭みと甘辛だれでべたべたした感じの喉を、ビールの強めの刺激が通り抜けていくのが心地よい。普段そんなに得意ではないビールの苦味が呼び水になって、次の肉、次の肉へと自然と箸が伸びる。<略>
 平成30年の(1)は、アマゾンの宣伝文によると「累計1万部突破のロングセラー歴史読本『北海道の歴史がわかる本』が、2008年の発刊から10年目にして初改訂」だそうだが、ジンギスカンについては改訂されたと思えないね。
 山田喜平の初レシピは糧友会のそれのコピーであり、駒井徳三命名説は元満鉄社員のホラ話が出所だと、我がジンパ学の講義録を公開して20有余年、蟷螂の斧、いや諸君は読めんかも知れんから言い換えよう。
 「二階から目薬」だね、2階にいるだれかから目薬を差してもらうようなもの、とても滴がストライクで目に入りそうもない。ジンパ学が正しいと信じてもらえそうないということだ。私としては、ここで昭和6年以前の再読を切望してやみません。
 (2)は文学博士の学位論文をもとにした本からです。この講義の先頭にした小谷武治著「羊と山羊」の序として、新渡戸さんは「宜なる哉毛織物の需用は上下を通じて漸く普及し嘗て贅沢視されたる羅紗、毛斯綸、フランネル等は今や殆ど日用欠く可らざるものとなれることや。其の製品及び原料の輸入年額少き時も千万円を下らず、多き時は三千余万円に達す、而して将来愈増加すべきは疑を容れざるなり。是に於て国内に牧羊を起して以て輸入の幾分を防遏せんことは国家経済上忽にすべからざる問題に属する」(80)と書いた。生糸と茶の輸出でしか外貨を稼げなかったような当時の日本としては、羊毛の輸入増加は抑えたかった。著者は「北方の戦争に向けて」羊の飼育を始めたというが、スタートはそうではない。
 でも国内の羊はさっぱり増えず、第1次世界大戦で羊毛輸入が一時途切れたことから、政府は100万頭計画を立て、羊毛自給に力を入れ始めた。毛だけでなく肉も金になれば飼育農家は収入増になると頭数を増やすはず、一方臭いと食べなかった国民には羊肉を食べる習慣をつけさせようと、ジンギスカンなど受けそうな料理の普及を図ったのです。
 太平洋戦争では金属供出だったが、日露戦争では露営用の毛布供出を新聞が伝えている。軍服作りで精一杯、毛布は間に合わなかったようです。
 次の(3)と(4)は雑誌「dunchu」の同じ号からの引用になりました。羊肉食関係の本が少なかったせいかも知れないが、もっとあると思うので、今後も探して追加するつもりだから、たまに読んで見なさい。
 (5)は北大生として重要必須の史実です。平成25年春「学生のほか学外から訪れた人たちの飲酒やごみ捨てマナーの悪化など」(81)を理由に、北大当局は大学構内でのジンバを禁止したことがあったのです。
 それで学生グループ「北大ジンパ問題対策委員会」が立ち上がり、約1600人の署名を集め、当局と復活交渉を始めた。これは私ら教職員にも関係することなので、後押ししたはずだ。ほぼ1年後に「日時や人数を事前申請することなど」と「専用エリアは校舎から離れた2カ所、約千平方㍍」(82)で開くことで、再びジンパができるようになったのです。
 復活折衝の先頭に立った工学部OB斎藤篤志元委員長が「『マナーを守ってジンバを自由に楽しんでほしい』と話す。」(83)のは、また乱れてきたと、大学が禁止令を復活させることを懸念してのことだろう。多分「北大創基150年史」には、ジンパという北大語の発生年代と同様に載る事件だと私はみておるがね。皆さんもジンパをやるときは、届け出など規則を守ってやりなさいよ。
 (6)もジンバ。雑誌「Tarzan」に連載していたスタイリスト石川顕氏の随筆からです。北大農学部の森樊須教授に何かを辞めさせられた女子学生が有名な作家となり、ジンギスカンは「EATでなくDO!」の名言を残したというのです。農学部OGで該当するのは、芥川賞作家の加藤幸子以外にいない。平成25年分にも出た彼女は鴎外の孫の森教授との接点はあったのか。
 ウィキによると森さんは昭和27年農学部卒、助手から講師にならず同36年に助教授に就任した。「全国大学職員録 昭和37年版」によると専門は動物学汎論・農業薬剤学。(84)一方、加藤氏の作品「苺畑よ永遠に」では、動物専攻を望んだが、クマなど相手で「女性には無理」と名前は伏せてね、教授に断られたと書いてある。そのころ森さんはまだ助手で教授じゃない。だから「森樊須に学び、辞めさせられ」たはあり得ないから、これは石川氏の誤解だね。
 前号の随筆によると、石川氏はジンギスカンが流行り始めたころ「ライターと有名な女性作家」と共に「雑誌の仕事で北海道まで食べに行かされ」た。ライターの愚問に対して女性作家が「『だからーーー道産子のジンギスカンはどこの肉を食うかじゃなく、ジンギスカンはやるのかやらないのかなんだよーーコンニャロ』。ライターさん『はぁ』。『だからあーーーEATじゃなくてDOなんだよーーー!』。名言出ました。」(85)と書いていた。スキーは2回しか経験がないのに北大スキー部山班に入り、雪山登りの勉強もした加藤さんらしい発言ですなあ。
平成30年
(1) ◆昭和初期の綿羊事情とジンギスカンの誕生
           桑原真人
           川上淳

<略> さて、ジンギスカンが文献に初めて登場するのも、この昭和初期である。その初出は、初代北海道庁種羊場長も勤めた山田喜平による『緬羊と其飼ひ方』とされ、同書に「成吉思汗料理」の文字が見られる。その誕生にはまだ検討の余地があるものの、恐らくジンギスカンは、この本が発行された1931(昭和6)年頃生まれたと考えられる。
 1936(昭和11)には、山田喜平・マサ夫妻の指導の元、札幌の狸小路にあった横綱という店で、羊肉普及のためのジンギスカン鍋料理試食会が行われた。その3年後の1939(昭和14)には、マサによって「成吉思汗鍋」が紹介され、「支那料理」では「鍋羊肉(カオヤンロウ)」と言うものであると紹介されている。この辺りから徐々にジンギスカンが広まっていったようだ。ちなみに「ジンギスカン」の名付け親は、満州建国に大きく関わった駒井徳三という人物であるとする説が有力である。

(2) 戦後日本と満洲の緬羊飼育
           江口真規

<略> 満洲における羊毛事業は一大国策であり、羊毛の輸出を目指して改良種一五〇〇万頭増殖の目標が立てられた。一九〇〇年代初頭、満洲には約二〇〇万頭の羊がいたが、毛質が粗く衣服用としては不適であったため、羊毛生産は僅かしか行われていなかった。そこで農事試験場では、オーストラリア産のメリノ種や、内地の下総牧場で改良に成功した種羊を輸入し在来種と交配させることにより、毛質の改善がはかられた。
 以上のように、日本の緬羊飼育は中国・ロシアなど北方の戦争に向けての衣料製造を第一の目的として開始され、そして日露戦争で租借された大陸へと渡り、満鉄という国策会社によって経営されていた。羊は満洲に渡った農業移民によって飼育されることにもなり、日本の植民政策と切り離すことのできない動物だったのである。
 戦前の満洲におけ緬羊飼育事業は、戦後の日本内地における緬羊振興の発展へとつながっていった。その一端を示しているのが、羊肉の需要である。満洲では、羊の飼育頭数が増加するにつれ、羊肉消費の普及も提唱された。牛肉に代替する食糧として適切な調理法の開発が行われ、軍隊や農業移民の間で羊肉料理が消費された。戦後の食糧不足の状況下では、内地でも羊肉が宣伝され、その調理法として考案されたのが羊肉鍋料理の「ジンギスカン」である。特に一九五〇~六〇年代は、国内産豚肉の価格上昇に伴い、ニュージーランドから輸入羊肉の消費が増加した時期でもあり、羊肉料理店の開業や羊肉料理の紹介が頻繁になされた。<略>

(3) ジンギスカン
           植野広生

 初めてジンギスカンを食べたのは小学生の頃。
家で食卓にガスコンロをのせ、例の鉄兜形の鍋を
置き、玉ねぎやもやしと一緒に、パック入りの味
つけジンギスカンをどばとばと焼きました。いつ
もの食卓とは違う、イベント感にあふれてウキウ
キしていたのですが、肉の味はまったく覚えてい
ません。記憶の奥底に、甘辛いタレの味がかすか
に残っているだけです。
 ジンギスカンは甘辛い焼肉、というイメージは、
その後20年近く経ち、札幌で〝本場〟のものを食
べて変わりました。ロール状に固められた肉を焼
いてタレをつけて食べるスタイル。羊独特の匂い
が印象的でした。焼肉とは全く異なるものだと思
い知りました。
 そして、15年近く前、東京で生ラムのジンギス
カンを食べて、そのイメージは激変しました。軽
やかな香りと味わい、心地よい歯ごたえ、食べた
ことがない深い美味しさ、今まで食べてきたもの
は一体何だったんだ……。
 こうして、僕のジンギスカン人生(?)は紆余
曲折を経てきましたが、最近、改めて食べ歩いて
みて、ある考えに至りました。甘いのも辛いのも
匂いも軽やかさも、すべてジンギスカンの美味し
さであったのだ、と。
 人生とジンギスカンは、迷える仔羊です。
  dunchu編集長 植野広生

(4) 羊をめぐる妄見
           大岡玲

 羊肉を初めて口にした十歳の時の情景は、半世紀を経た今
もはっきり覚えている。川越のどこかにあった広い養魚場兼
釣堀の、管理棟の前にしつらえられた長いテーブルに、いく
つものジンギスカン用の鍋がのっている。毎日のようにつる
んで遊んでいた友だちの伯父が経営するその養魚場に、友た
ぢ一家に連れられて遊びに行き、ジンギスカン・パーティー
で歓待してもらったのである。
 あの頃のことだから、羊はたぶんマトン、タレをからめた
肉が鍋に置かれるやいなや、夕景の中に白い煙が立ちのぼり、
食欲をそそるニンニクとショウガの匂いがあたりを充たす。
大人の「まだまだ、まだまだ」の声が「いいよ」に変わった
瞬間、肉片を割り箸ですくい取って口に運ぶ。その衝撃と驚
き! タレの味のむこうから、いままで経験したことのない、
青々とした草をちぎったような香りがあらわれ、奥歯から鼻
腔に抜けていくではないか。かつて経験したことのないその
香りの、エキゾティックな蠱惑に、十歳の私はただもう夢中
になって肉を頬張るばかりだった。<略>

(5) 札幌・北大のジンパ
    野外で囲む伝統の鍋
           文・末角仁
          写真・国政崇

 「焼けたぞ」「乾杯!」
 札幌市北区の北大キャンパ
ス。ジンギスカン鍋で羊肉や野
菜を焼く香ばしい匂いと学生の
歓声が、構内に広がる。道民の
ソウルフード「ジンギスカン」
を屋外で食べる北大の伝統行
事、ジンギスカンパーティー(ジ
ンパ)だ。
 マナー違反もあり、一時は存
続の危機にあったが、学生有志
らが署名活動をなどを行い、復活。
学生や教職員が北海道の短い夏
を楽しむ風物詩となっている。
<略>
 ジンパの再開では、教職員有
志の動きも後押しとなった。大
学院法学研究科の吉田広志教授
(47)は「一方的に禁止する以外
の方法があるのでは」と、再開
を求め教職員約100人の署名
を集めた。自身のゼミでもジン
パは恒例行事だ。
 北大が掲げる理念は「自由、
自主、自立」。吉田教授は「学
生には、伝統のジンパを守った
心意気を引き継いでほしい。構
内でジンパを楽しめる大学は恐
らく北大だけ。学生時代ならで
はの経験を重ねてほしい」と期
待する。
 今年、ジンバに新しい動きが
あった。コンビニエンスストア
道内大手のセコマ(札幌)が今
月24日、北大内に「セイコーマ
ート北海道大学店」をオープン
した。1階店舗で同社オリジナ
ルのジンギスカン肉などを販売
するほか、2階には学生、教職
員がジンパに使える屋外テラス
も備える。
 北海道の食文化を堪能する伝
統の北大ジンパは、さまざまな
形で継承され、学生たちの心に
刻まれるだろう。
㊤湯気と香りが立ち上がるドーム状の丸いジンギスカン
鍋を囲む学生たち㊦敷地面積約177万平方㍍を誇る北
大キャンパス。緑のに中でのジンギスカンは食が進む

(6) なんか感じ出るねぇ、それ、重要だから
           石川顕

 前  回の続きですがジンギスカ
    ンは「EATじゃないDO!」
    つまり「どこの肉食べるか
はどうでもよく、今日やるのかい?
やるしょ!」です。僕が一番そうだ
なと思ったのは北海道大学のジンギ
スカン。構内で学生たちが芝生の上
に新聞紙敷いて。なんでやっている
の?と聞いたら夏休みなのに故郷に
帰れない友達のためだと。売店で肉
と一緒に鍋とコンロのセット貸して
くれるそうです。「なんか感じ出る
ねぇ」。
 北大農学部といえば森鴎外のお孫
さんがダニの研究者としていました。
突然ですが思い出したんですが実家
に文学全集がありました。僕が一度
も開いたことがない赤い児童書があ
りました。あれって本が読みたいわ
けでも読ませたいわけでもなく、イ
ンテリアですよね? 素敵な家が手
に入り本棚とか買ったはいいがそこ
に立派な本がないとなんか感じが出
ない」。それでまあまあ高い全集を
ルックス重視で揃えてみましたと。
<略>
 突然と少し話戻しますが、北大に
いた鴎外の孫の森樊須(もり・はん
す)に学び、辞めさせられて、後に
作家となったのが、「EATでなく
DO!」の名言を残した有名な女性
の作家です。学者じゃなく文学者の
方が「なんか感じ出てた」と思った
んでしょうね、流石。
 ジンパ学のように元号で年度を分けていくと、元日から4月30日までの4カ月とはいえ、平成31年分が入り用になる。それでここにも1冊は入れたいと検索したら2冊あった。その(1)は志賀貢医師が書いた「男を強くする!食事革命」のラム肉の勧めです。
 この本の奥付によると、同氏は小説やエッセイをたくさん書き「女を『その気』にさせる技術」などはベストセラーになったそうだ。さらに「美空ひばり『美幌峠』『恋港』の作詞も手掛け」「美幌峠に歌碑が建立されている。」とあるので、検索したら歌はYOUTBEで聴けるし、写真もいろいろあるとわかりました。
 (2)は尽波さんのホームページみたいな本があるよと、ある先生に教えられた本、それは平成31年2月27日第1刷発行の魚柄仁之助著「刺身とジンギスカン 捏造と熱望の日本食」でした。
 読んでみたら主に婦人雑誌からの情報で、ジンパ学の見方の後追いみたいな内容だった。ただこの本の兜鍋の広告を見てね、鍋の写真と記事を思い出し、前バージョンの講義録のどれかに追加したはずです。どの講義録か思い出せないので、手元の鍋の写真を資料その6として見せましょう。
 昭和11年11月11日付東京日日新聞朝刊5面からです。きれいな半球形でしょう。周環がとても深く見えるが、野菜も焼く考えはなかった時代だし、飾りかも知れないが、ここをどう使うのかわかりません。
資料その6
 先頭に「敗戦の一九四五年(昭和二十年)からしばらくは料理本にジンギスカン料理は出てきません。」とあるが、米さえないも同然だったから料理らしいことなんかできない。それこそ「戦後六年くらい」の間に生まれた人々は知らんだろうが、敗戦後は配給米が少なく、インフレで闇米が高いから、芋でもカボチャでも腹の足しになるのは何でも食べて昼飯抜きの一日2食、農家の方々以外は皆栄養不良でふらふら暮らしていた。紙だって中々手に入らないから、新聞はタブロイド版2ページがやっと、本は薄黒い紙でなんとか発行を再開するような時代で、羊肉もないのにジンギスカンのレシピなんか書くわけがないのです。
平成31年
(1) ラム肉を食べて、草原の王者ジンギスカンにあやかろう
           志賀貢

<略> とくに北海道では札幌を始め大きな専門店が至る所にあり、マトンやラム肉を食べる習慣がすっかり根付いています。私も北海道にいた頃にはこのジンギスカンの鉄板焼きで、よく宴会を開いたものです。
 中でも、たれに漬け込んだラム肉は柔らかく、野菜と一緒に焼き肉にすると、いくらでも食べられます。その魅力は、牛肉などに比べると価格が安いということもあって、肉好きの人にとっては非常に人気があります。
 ラム肉とは生後1年以内の子羊の肉のことを言いますそれ以上成長した羊の肉をマトンと呼んでいますラム肉の特徴は何と言ってもその肉に含有されている死亡にあります
 ラム肉には、ほかの動物の肉に比べて不飽和脂肪酸が非常に多く含まれています。
この脂肪に関しては、魚介類の所でも述べましたが、コレステロールや中性脂肪を取り除くはたらきがあることがわかっています。
 したがって、動脈硬化が始まるシニア世代の人が食べる肉として、誠に理想的なものと言えるかもしれません。
 もうひとつの特徴は、カルニチンというアミノ酸が多く含まれていることです。この成分は、体内の脂肪を燃焼させるはたらきをします。したがって、脂肪が体につき始めた更年期以降の女性にも大変効果が期待できそうです。
 このカルニチンは、ほかの動物の肉類にも含まれています。例えば、鶏レバー・牛肉・豚肉などに多いのですが、中でも羊の肉が突出して多いのです。このカルニチンは、日本人の一日の摂取量約75ミリグラムに対して、モンゴル人の摂取量は約8.5倍の約425ミリグラムです。
 つまり、このカルニチン効果が、モンゴル相撲や草原を駆け巡ったチンギス・ハーンのパワーのに結びついていることは、間違いないのです。
 男は、この草原の王者のパワーにあやかりたいものです。そのためにも、もう少しジンギスカンの鉄板焼き料理を食卓に並べようではありませんか。

(2) ジンギスカン料理は日本食である
           魚柄仁之助

<略>敗戦の一九四五年(昭和二十年)からしばらくは料理本にジンギスカン料理は出てきません。再び登場し始めるのは戦後六年くらいたってからです。しかしそのジンギスカン料理はもう羊肉料理ではなく豚肉料理になっていて、但し書きとして(本来は羊肉だったのだが……)が付いていました。戦後十年頃になると、戦時中に満蒙の地で烤羊肉やジンギスカン料理を食べた経験がある人たち(例えば森繁久彌など)がノスタルジックにジンギスカン料理を語るようになります。そしてニュージーランドやオーストラリアから羊肉の輸入が始まったことで、羊肉を使ったジンギスカン料理ができるようになりました。そのようなジンギスカン料理復活の条件が整ってきた頃に、北海道の観光料理として注目されるようになりました。戦時中の満州と違って日本では野菜がたくさん取れるから、羊肉と野菜をおいしく食べるために肉汁で野菜を煮ることができる幅の広いつば(へり)が付いた鍋が開発され、それが今日のジンギスカン鍋になりました。これが第二期ジンギスカン料理の始まりでした。第一期ジンギスカン料理は羊毛増産を目的とした国策の一環で始まり、第二期ジンギスカン料理は北海道を代表する料理として育てようというところから始まったわけです。そもそも庶民が「食べたい!」と思ったり、何とかしておいしく食べられないだろうかといった知恵や工夫が生み出した料理だったわけではなく、国策として誕生し、戦後、郷土料理・観光料理として発展したのです。
 平成31年5月は令和元年5月に変わり、その(1)は平松洋子の「道民魂」からです。平松作品は平成21年にあり、2度もどうかと思ったが「羊肉の味をカラダで覚え」「「吸血鬼みたいに羊の肉が食べたくなる」道民は、過半数ではないけれど実在することを本州の方々に知ってもらうという観点から引用しました。
 (2)は昭和39年の東京五輪マラソンで銅メダルを獲得し、次のメキシコ五輪での活躍が期待されたのに「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と、27歳で世を去った円谷幸吉選手の軌跡を伝える松下茂典著「円谷幸吉 命の手紙」からです。
 学生時代のことだが、悪友たちと円山競技場に忍び込み、トラック1周で伸びてしまった当時の私と彼の身長が、同じ163センチだったとは信じられん。鍛えに鍛えたアンヨが桁違いだったということだ。それで私はね、年は取ってもポタポタとかヨチヨチ歩きにならないようジムに通って足を鍛えとるんだよ。福島県須賀川市には彼の偉業を後世に伝える円谷幸吉メモリアルアリーナと円谷幸吉メモリアルパークがあります。
 (3)は如月陽子著「どうしてみんな死にたいの?」の初めの方からです。主人公工藤夕夏は札幌で祖父母と母京子と暮らし、父は長年単身赴任で東京にいる。ところが祖父母が相次いで亡くなり、母京子も病死してしまう。それで小学校を出るまで母の兄宅に預けられ、中学は東京でと転居したら父はある女性とその子らと暮らしていた。中学校を出た夕夏は札幌で働きながら定時制高校に通うと決め、父と共に下宿させてもらう父の親友宅に着いたところを引用しました。
 (4)は紋別市で日々ランニングに励む小松憲一氏が著した「負けないで! 精神主義ランニングの道」の阿蘇カルデラスーパーマラソンの体験記です。平成2年、27歳で走り始めて徐々に実力をつけ、阿蘇へ行く2週間前の足慣らしに美幌町でのハーフマランに参加、自己ベスト記録を更新したが、右ふくらはぎに激しい痛みが生じた。疲れかと思ったが、痛みは引かず「歩くことも満足にできない状態」。でも「たとえ完走できなくてもレースには参加する。そして行けるところまで行く」と、心に決めてして阿蘇へ向かったそうだ。
 なお同書の「精神主義ランニング」によると、90歳(日本人)がホノルルマラソンで完走、ロンドンマラソンでは101歳が完走したとある。私も30年ジム通いを続けているが、こういうスーバーマンにはとてもかなわんよ。
 (5)は日本調理科学会編「肉・豆腐・麩のおかず」からですが、なぜか昭和の家庭でのジンギスカンを思い出させるなあ。多分、私が昭和生まれで新聞紙という言い方が懐かしく、包んだり、焚きつけにしたり馴染んでいたせいもあるね。ニュースはスマホで間に合うと今は新聞を取らない家庭が多くなり、新聞社は夕刊をやめたり、電子版を売ろうとしているが、経営は青息吐息。おっと脱線してしまったが、この本では羊肉は北海道、馬肉は青森、秋田、山形県、猪肉は岡山、島根、徳島、高知県で好まれる料理を取り上げています。
 (6)は「これでいいのか北海道札幌市」からです。花見は北海道神宮でなきゃという札幌市民は多いと思う。初詣だと寒いからさっさと退散するのに対して、春は暖かいら出掛ける人も多いし急いで帰らない。それで犬が主役の映画の宣伝をするバイトがあり、私が大型のグレートデンと小さいスピッツを1匹ずつ連れて、プラカードを持って薄野から円山まで歩き、にぎやかな神社一帯を一回りして戻ったことがあるよ。あのころの花見は飲んで歌ったり踊るぐらいで、ジンギスカンはやってなかったはずです。
 (7)はカベルナリア吉田著「ニッポンのムカつく旅」からです。カベルナリアとは―と検索したら、吉田氏がひいきにする女子プロレスラー吉田万里子の必殺技の名前とウィキペティアにありました。一見某国人とみられ怒った同氏はね、仕返しに食べ放題のジンギスカンを「バカバカ食べて支配人の顔を真っ青にしてやろう」としたが、加齢のせいで3皿でギブアップしたそうだ。
 面白いのは同じページにあるビールのジョッキと皿に載せたトウキビ1本の写真。芽室町の居酒屋で「お通しです」と出されたそうで「ホントにこれが出てきたんだよさすが北海道!」との説明には笑ってしまったね。
 (8)は「旬の食材時候集」です。著者は「プロフィール及び活動」562ページによれば「昭和38年仙台の割烹に見習として入社、その後、東京・京都の料亭・ホテルで修業、大本山天竜寺で精進料理を学ぶ」とあります。平成13年に宮城の名工、同29年に現在の名工としてそれぞれ受章。それで表紙に「料理人 現代の名工(平成二十九年)」と著者の肩書きがあります。
令和元年
(1) 道民魂
           平松洋子

 厚切りの生ラムがじゅっ。
 ジンギスカン鍋が音を上げると、隣で生ツバを飲み込む音が聞こえた。札幌出身、ヨシダさんの目が心なしか潤んでいる。ソウルフードを食べるのは十か月ぶりだわ~、よく我慢できたなあ、とつぶやく。
「吸血鬼みたいに羊の肉が食べたくなるわけです。道民としては」
 飢えたヨシダさんの迫力がびんびん伝わってきた。<略>
 ヨシダさんの箸は止まらない。道民でなくても、たまらない。熱い鍋肌にへばりつかせてふわっと焼いた羊肉。アチチと噛むと、香ばしい肉汁が口いっぱいに充満する。牛肉でも豚肉でもなく、鶏でも鹿でも猪でもなく、羊肉の穏やかで優しい味にやたら癒される。<略>
 箸に羊、左手にビール。恍惚となったヨシダさんの道民魂が燃えさかる。
「北海道の小・中学校には、春から秋にかけて炊事遠足という行事があります。炊事のできる公園に行って、みんなでジンギスカン。ええもちろんジンギスカン鍋を持っていく。ここで羊肉の味をカラダで覚えるわけです」<略>
 炊事遠足という言葉もはじめて聞いた。そういえばもう小一時間、三軒茶屋の路地裏で立ったまま肉をえんえん焼いているけれど、何の違和感もない。<略>
「最後にロールが食べたいな」
 ヨシダさんが言った。羊肉のいろんな部位を円柱状に固めてスライスしたロールは、複雑な味がして大好きだという。道民魂の大花火である。

(2) 帰省の車中でなぜ演歌を
           松下茂典

<略> 幸造が振り返る。
「手術した腰やアキレス腱の状態をきっと確かめたかったんでしょうね」
 朝日を浴びながら畦道を走る幸吉の後ろ姿を見送りながら、幸造は複雑な気持ちだった。
「ランニングフォームは、東京オリンピックのころと全然違っていました」
 四男・喜久造同様、五男・幸造も足が速く、高校時代は一五〇〇メートルでインターハイに出場していた。それだけに走る幸吉の後ろ姿を見ただけで、おおよその状態がわかった。
 幸造によると、幸吉は年末年始もランニングを欠かさなかったという。
「大晦日は三〇分程度の軽いジョギングでしたが、元日は八キロ、二日は一六キロも走っていました」
 昭和四二年最後の夜、円谷家の人たちは、鍋を囲んだ。毎年、大晦日にはジンギスカンを食べる習わしであった。
 幸造によると、円谷家は家畜も飼っていたという。
「牛一頭、馬一頭、山羊二頭、ニワトリ一〇羽ですが、牛は和牛で、売って肉になりました。馬は農耕馬なんですが、血統書付きの馬がいたこともあり、郡山の草競馬に出場しました。子供の時、幸吉の担当は山羊で、朝晩の乳搾りが日課。私は鶏を育て、たくさん卵を産ませるのが仕事。<略>」
 幸吉は大晦日に懐かしい故郷の味を堪能し、人生最後の年、昭和四三年を迎えるのであった。

(3) 私は邪魔者?
           如月陽子

<略> それから、皆で布団やら何やら必要な物を一階から運んだ。
「昼飯は回転ずしを奢るよ」との誘いを父は「いや、二人でジンギスカンを食いに行こうと思っているんだ」と断った。奥さんが「そうよ、ジンギスカンは道産子のソウルフードだもの。親子で食べるのにピッタリよね。いってらっしゃい」と送り出してくれた。
 教えてもらった地元の人達が行くという旨い店が見えてきた。入り口の上に掛かっている脂で汚れた看板には<生ラム>と太い字で書いてあった。出入り口の引き戸に近付くと、中の客が焼いているラム肉の美味しそうなニオイが空腹を刺激した。
 数年ぶりに食べるジンギスカンは、思わず父と眼を見合わせ頷き合うほど美味しく感じた。
「今まで食べたジンギスカンの中で一番美味しい」
 夕夏の素直な言葉に父は嬉しそうにニッコリした。
 部屋に戻ると、父は皆に見せるためと言って、スマホで玄関から順に室内の写真を撮った。撮り終え振り返ると、ついでのように夕夏に封筒を渡してきた。
「ほら、これ…」
 夕夏が反射的に受け取ろうとすると、父は付け加えた。
「五十万円入っている。当座の生活費にしろ」
 夕夏は、慌てて手を引っ込めた。
「えっ! お父さん、こんなにしてくれなくていいよ。これじゃ、何から何までじゃない。私のわがままでしてる事なんだから…ちゃんと働くから大丈夫だよ」
「いいか、高校生のバイト代なんかこづかいみたいなものだ。生活費だけだって夕夏が考えている以上に掛かるものなんだぞ」
 そう言うと、父は封筒を夕夏の手に押し付けて来た。
「ありがとうございます。紗希さんにお礼の電話を掛けます」
「ああ、日は哲平の学校の用事で忙しいから、夕方の方が良いんじゃないか」
「うん、わかった」と言って、夕夏は旅行バッグの下の方に封筒を大切にしまった。
 父が乗る飛行機の時間がから逆算すると、もう、あまり時間がなかった。父は新海さんご夫婦にご挨拶をし、二人は札幌駅へ向かった。父の口数か少なくなった。<略>

(4) 阿蘇のヤマを走る
           小松憲一

<略> 平成六年六月五日、記念すべき一〇〇kmマラソン初挑戦の日。
 朝――というよりも夜中一時半に起床し身支度をした。
 ウルトラマラソンの大会は早朝に行われるのが常識だが、僕の場合一〇〇km初挑戦だっただけにこれほど早く起きたことはなかった。比較的深夜まで起きていて〝遅寝〟の僕にとってはむしろこの時間に寝ることが多かっただけに時差ボケの感覚があった。<略>
 それまで経験がなかったが、脚腰を痛めている身には上りよりも下りの方が遙かにきつい。体重がかかるから一歩つくたびに激痛が走る。僕は一度立ち止まってどうしたらよいものか考えた。
 前を走っているランナーのほとんどが後ろ向きにで走っていた。奇妙な光景だ。しかしこれは妙案だった。スピードは極端に遅くなるが、確実に前(後ろというべきか)に進める。
 僕は道路を斜めに走って根気強くこの長い坂道を下りることにした。
 九十五kmを過ぎると阿蘇のマチに入った。大きなマチではないが、長く山道を走ってきた僕には大都会に感じた。
 十一時間四十七分十秒――約半日走ったことになるが、はじめての一〇〇kmは途轍もなく苦しいレースだった。
 ゴール地点で開催されたジンギスカン・パーティーでのこと。走り終えて皿に肉を盛り、口に運んだとき、今度は口の中に激痛が走った。長く走って口の中が渇いたところへ焼き肉を放り込んだため、火傷をしたような状態になっていた。
 この日の夜は脚の激痛のため眠れず、布団から出るにも出られず、地元に帰ることができないのではないかと心配した。これほどの全身筋肉痛を味わったことはなかった。
 ただでさえ苛酷な一〇〇km。そのレースに故障を抱えて出場したこと、しかしこれが僕が目指していた「精神主義」――精神を鍛えるという意味においては意義のある内容だったと思っている。<略>

(5) <北海道>ジンギスカン鍋
           協力=砂澤洋子
           著作委員=山口敦子

 北海道を代表する肉料理といえ
ばジンギスカンです。昔はどの家
にもジンギスカン鍋があり、長い
冬は茶の間に新聞紙を敷いて七輪
に炭をおこし、夏は野外で炭をお
こし、丸い形の冷凍マトンロール肉
と野菜をジュージューと豪快に焼
きながら家族で食べました。
 現在<マトンは輸入品が多いの
ですが、昔は北海道産でした。羊
毛生産のため大正時代初期に滝川
や札幌の月寒に種羊場がつくられ、
戦後から道内の農家で羊の飼育が
さかんになりました。年をとった
羊の活用法としてジンギスカンが
食べられるようになったのです。
 焼くときは肉は上、野菜は下に
置きます。鍋は中央が少し高くな
り溝があるので、肉から出た脂は
溝を伝わって野菜にもなじみ、最
後に余った脂は鍋のふちにたまり
ます。鍋のふちで焦げた野菜がま
たおいしく、たれにまぶしてご飯に
のせて食べるのです。片づけが面
倒だと、近年家庭ではホットプレ
ートを使うことが多くなりました
が、やはりジンギスカン鍋で焼く
と格別のおいしさです。
 材料<略>
 つくり方<略>

(6) 短い温暖な季節を楽しみ尽くす!
           マイクロマガジン社

 冬眠していた札幌人は、雪解けがやってきた途端、活発に動き出す。暖かい
家の中でぬくぬくと過ごしているものの、やはり春がやってくるのは待ち遠し
いのだ。冬の間、だらだらとしていたのが嘘のように、札幌人はジンギスカン
でアウトドアを楽しみだす。最近は札幌でも自転車がブームになっており、市
内のあちこちでスポーツタイプの自転車を見かける(まあ、冬が長いだけ出番
も少ないだろうけど)。遅い春を待ち構えていたように、ゴールデンウィーク
には「花見」と称してジンギスカンとビールに手を出す。花見のメッカ・円山
公園では毎年、桜並木の下にもうもうと肉が焼ける臭いと煙が立ちこめてお
り、「おいしい、最高!」とジンギスカンをつつきながら、ビールを片手に盛
り上がる札幌人の姿が。「お花見よりも大勢で集まって飲み食いして楽しけれ
ば、それでオッケー! 長い冬は終わったし、ジンギスカンがうまい!!」(中
央区在住の20代男子大学生)家の外に出られない時期が長いので、札幌人にと
って春の開放感はハンパない。桜の花は、「(ジンギスカンのついでに)咲いて
いるだけでいい」のが本音のようだ。
 つかの間の春が過ぎ去ると、札幌人は「次は海辺でキャンプとジンギスカ
ン!」に繰り出す。北海道の夏は短く、市民は夏を最大限に楽しみ尽くすため
の努力を惜しまない。カップルや家族連れが砂浜の上にテントを張り、ラム肉
と野菜を取り出してジンギスカンを始める。海で泳ぐのは余興程度。また冬が
来る前に、できるだけ外で楽しんでおかなきゃ、とはしゃぎまくるのだ。<略>

(7) サッポロール園の女
           カベルナリア吉田

 札幌でジンギスカンを食べたくなり、サッポロビール園に行った。ちなみに俺は北海道生まれなので、ジンギスカンは物心ついた時から離乳食代わりに食べていた。だから、
「私ぃ~、ヒツジはぁ~、匂いがダメでぇ~」
とか言う女とは付き合えない。ちなみにヒツジの匂いがする女とも付き合えない。
サッポロビール園は半世紀近く前、5歳のときに行って以来だ。ここのバイキングは、確かにそのとき幼稚園児は無料で、バカバカ食べていたら支配人らしきおっちゃんが来て「僕はよく食べるね!」とか言って笑っていた。だが大人用の盛り合わせをガンガン平らげ、5歳児にはありえない量を食べる俺を見て、おっちゃんの顔から微笑みが消えたのを今でも覚えている。
 そんな半世紀ぶりのビール園に着くと、レストランが開くのは30分後。だがすでに大量の人がいて、クソみたいな大声でわめいている!
「○×▼◆☆◎※△●×▽!」
 おお神よ! 中国人がざっと200人が大声でわめいている! まさかコイツらもレストランへ?と思ったら入場無料のビール博物館へゾロゾロ向かっていった。奴らはドケチだからメシはここで食わず、コンビニで買って東横インのロビーで宴会しつつ食べるのだろう。そして奴らがいなくなりホッとしたのも束の間、観光バスが来て、大量の中国人が降り立つ。ぶにゃーん。
 そんなこんなで30分経ち、俺はレストランへ。だが入口のスタッフのお姉さんが言った!
「ニーハオ! エクスキュースミー! ジスイズ ア レストラン。ノット ミュージアム!」
 <略>

(8) 羊
           佐藤信

ひつじ
時候 通年
 羊は偶蹄目ウシ科の哺乳動物。胃は四室に
分かれ、反芻により消化する草食動物。性格
は温和で臆病者。群れ集団を作り、先導者に
従う傾向が強い。羊は用途により大別し肉用
種、毛用種、毛肉用種、乳用種、毛皮用種で
品種は一〇〇〇種を超える。日本での飼育は
一八七五年(明治八年)に入り牧羊場が新説。
北海道では羊料理(ジンギスカン)を食する
が、わが国全体としての需要は低い。
肉用種としてサウスダウン種、サフォークダ
ウン種、ロムニーアーユ種が主である。
繁殖季節は九月から一月と長く、妊娠期間は
一五二日で出産は春二月から四月が多い。離
乳は三~四ヶ月、生後二年で成熟。寿命は一
〇年程。

羊肉の名称と生後の期間
○ホットハウス 生後九週から十六週の間
○スプリング  生後十六週から八ヶ月の間
○ラム     生後八ヶ月から一年未満
○イヤリング  一年から二年未満
○マトン    二年以上
代表部位<略>

料理 ジンギスカン シャブシャブ
   ロースト ステーキ カレー
 令和2年の(1)は岩見沢出身の中村まさみ著「金縛りの恐い話です。若い女の別れ宣告で男がアパートのその女の部屋で自殺した。女はそのまま住み続けていたが、ある夜、どうも人の気配がすると同じアパーにいた柳の姉に訴える……。
 内容の恐いのは当然としても、本そのものもちょっと不気味でね。この一文を書くとき読み直そうと、手元の何冊かと一緒に置いた筈なのに見当たらない。その辺中探して使い、書棚に入れた筈なのに「怪談5分間の恐怖 金縛り」という背表紙が見えないのに気付いた。でも、もう用なしだから探さずにおります。
 志賀直哉の「怪談」はどう紹介されているか知るために、古本の「日本の名随筆 別巻」を注文したら、書店が同シリーズではあるが、別の本を寄越した。本が違うと連絡したら注文の本を送る、間違い本は差し上げますと1冊頂いちゃった。怪談本はどうも人を惑わす何かがあるんじゃないかなあ。
 (2)は関西学院大の島村恭則教授の「「みんなの民族学 ヴァナキュラーってなんだ?」にある遠野ジンギスカンで使われる独特のバケツコンロの話です。
島村さんがこの本の前に出された「民俗学を生きる ヴァナキュラー研究への道」ではなかった遠野のジンギスカンが、この本に加えられている。それなのに北海道や信州のジンギスカンに言及していないのは、同氏のいう「何気ない日常生活に隠された意外な問題を『発見』する」ことができない、締めにラーメン、うどんを食べる程度では意外性が足りないんでしょう。その点では名寄の煮込みジンギスカンは、鍋だけでも民俗学の研究対象になる可能性があると思うが、どうかな。
令和2年
(1) 水風船
           中村まさみ

「今晩ジンギスカンをごちそうするから、時間を空けといてくれ」
 車つながりの友人である、柳という男から、嬉しいおさそいの電話があった。
 約束の時間に教えられた場所へむかうと、小ぎれいな焼肉店のまえで、すでに柳が待っていた。
「おお、悪いな、急なことで、実はおれの姉ちゃんが、お前に聞いてほしい話があるらしくてさ。
 いっしょにきて、先に中で待ってるから、じっくり話を聞いてやってくれ。
 とにかく店に入ろう。ここはおれの先輩がやっている店なんだけど、ジンギスカンがめちゃくちゃうまいんだよ!」

 柳に招き入れられ店に入ると、ひとりの女性がわたしにむかってほほえんでいるのが見える。どうやら彼女が柳の姉らしい。
 かんたんなあいさつを交わし、わたしはふたりのむかいの席にすわった。
 テーブルに備え付けのコンロに火をつけ、柳は、あらかじめ用意されていた野菜を焼き始めた。
「こっちは、おれやるから、姉貴、話せよ」
 柳がとなりにすわる姉に目配せすると、彼女がぽつぽつと話し始めた。
「何年かまえのことなんだけど、わたしがいます住んでるアパートで、ひとりの男性がガス自殺をしたのね。こんな話、肉食べながらするようなもんじゃないと思うけどさ……」
(たしかに、なんで焼肉を選んだ!)
 といいたいところだったが、わたしはだまって、姉の話に耳をかたむけた。<略>

(2) 遠野市
           島村恭則

<略> ただ、めん羊を飼育する農家の一部を別にすると、羊肉を食べる習慣は一般化していなかったといわれている。
 そうした状況の中で、戦前、満洲で従軍し、そのとき現地で羊肉を食べたことのある安部氏が、めん羊の肉を用いてジンギスカンをつくることを思いついたのである。
 当初、客は羊肉をなかなか受けつけなかったようだが、羊肉は値段が安いこともあって、次第に広まっていった。また、食肉店のほうでも羊肉を小売りし、羊肉を買った客には、自分でジンギスカンができるよう七厘の貸し出しも行った並行して、ほかの食肉店でも羊肉を扱うようになった。
 こうしたことから、次第に遠野市民の間に羊肉が広まっていったのである。現在、遠野の人びとは、忘・新年会や野球大会、消防団の寄り合いなど、ことあるごとにジンギスカンを食べるようになっている。
 ところで興味深いのは、「ジンギスカンバケツ」なるものの存在である。前出、安部氏が一九六九年に発明したもので、中に固形燃料を入れ、上にジンギスカン用の鉄鍋をのせて調理するためのブリキのバケツである。バケツには、通気孔としていくつかの穴が開けられている。それまで安部商店では七厘を客に貸し出していたが、破損して返却されてくることが多かった。そこで破損しにくく安価でつくることのできる道具として、安部氏が開発したのが穴開きバケツであった。その後、市内の金物店による商品化も進み、市内の家庭には自家用のジンギスカンバケツが相当数普及しているといわれている。遠野における現代の民具の一つであるといえるだろう。
 令和3年の(1)は阿古真理の「日本外食全史」です。この本の「ジンギスカン鍋は、一九一八年頃から札幌・月寒羊ヶ丘の種羊場でつくられようになる。」というくだりは「焼肉の文化史」も引用した「北のパイオニアたち」だね。
 「大正八年、北大生のころ、月寒へ見学に行って、生れて初めてジンギスカンなべというものをごちそうになった。めん羊でも、こんなにうまいものかと思った。種羊場ができたのは大正七年だから、そのころから始まったのではないだろうか」と、道緬羊協会副会長の中西道彦さん(七六)は語る。」(86)に基づくとみられる。
 前バージョンの講義録「昭和11年ではなかった狸小路『横綱』の試食会」を読んでもらいたいが、中西さんは大正9年北大予科入学であり、同8年は浪人として札幌にいたとしても北大生ではなかったのに、こうです。
 また昭和10年に札幌の焼き鳥とおでんの店横綱でジンギスカン試食会が開かれという説があるが「『高級な肉というイメージを広めるため、初めは一流の料理店をねらったが、ことわられた。困っているとき、きっぷのいい合田さんが頭に浮かんだ』と、道の畜産技師だった中西さん。」(87)と「北のバイオニアたち」にあるが、当時中西さんは十勝支庁勤務であり、帯広にいる人が札幌に出て来てだよ、試食会の会場探しをしなきゃならんほど、本庁は人手不足だったとは思えない。こうした点から大正8年ジン鍋初体験証言は信用できないのです。
 (2)は秋川滝美の「マチのお気楽料理教室」です。自宅を改造して料理教室を開き、前歴のツアーの添乗員で知った観光地の名物料理を教えている万智が、高校同級の桂のリクエストで、北海道への修学旅行の思い出のコアになっているジンギスカンを一緒に食べてみる。さすれば、桂は往時のおいしさを感じるか、ただ食べるより「少しはあのときの味に近づくのではないか」という実験話です。
 顧みれば、私の高校時代の修学旅行は昭和26年秋、各自米3合を持って奈良と京都と東京を回りました。これで女生徒との間にあった見えない壁がだ、ベルリンの壁如く崩れたね。はい、時間がないから次へ移ろう。
 (3)は慶応大の岩間一弘教授が出した「中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえて」からです。昭和35年のところで見せたマッチのラベルの写真を私に送ってくださった中国料理の研究者から、岩間さんがジンバ学を褒めたと聞いてはいたけど、この本で前バージョンの3講義録を参考文献に挙げていたとはねえ、文句なしにこに取り込んだのでありますよ。
 これより先、再構成のため前バージョンは閉鎖中ではあるが、岩間先生が示した「中村総裁が大連に持ち込んだ烤羊肉」、「北京の鷲澤・井上命名説を検討する」、「正陽楼の本物での鍋で焼かせた濱町濱の家」の3講義録だけは読めるようにしておりました。
 その点、ウィキペディアの「ジンギスカン」は、私が講義録で丁寧に示した参考文献を抜き取りながら、ジンパ学の存在を無視しおって、けしからんのだ。いいですか、たとえば《日吉良一、「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」『L'art Culinaire Moderne』昭和36年10月号、1961年、p29、東京、全日本司厨士協会》の「L'art Culinaire Moderne」は、だれが見付けて読んだのか。
 ともあれ岩間先生におかれましては、我がジンパ学の成果をお認め下さり、私としては光栄に思っております。ふっふっふ。
 (4)は北大水産学部の研究員の松田純生(あやか)さんの本「クジラのおなかに入ったら」です。なにか童話みたいな題名ですが、「ストランディング」という漂着したクジラを調べる水産科学の本です。
 北大生による北海道らしい研究グループとしてクマ研が有名だが、函館の水産学部にクジラの研究グルーブがあるとは知らなかったなあ。松田さんは高校時代にそれを知ったというから立派、その鯨研を経てれっきとした研究者になったのです。鯨研は羊肉でなく鯨肉のジンギスカン、ゲイジスカンとも呼ばれる料理をやるのかどうか確かめずに司書さんに本を返しちゃったので、後日確かめます。
 (5)は森崎緩の「総務課の渋澤君のお弁当」です。道産子の若社員が最近見付けたジンギスカン料理店に入り、女子店員に肉を焼いてもらうところを引用しましたが、検索すると沢山出てくる〝ほとんどが会話〟で情景描写は少しというスタイルの小説といえますね。
令和3年
(1) しゃぶしゃぶとジンギスカン鍋
           阿古真理

 羊肉を使うジンギスカンは、戦前に誕生。『焼肉の文化史』は、これが日本人にとって肉を焼きながら食べる料理の先駆けで、焼き肉の発展に影響を及ぼしたとしている。
 一九三七年二月発行の『料理の友』にジンギスカンが好んだといわれが載っているが、これは間違っていると同書は指摘する。北アジア研究第一人者加藤九祚が、モンゴルでは煮る料理が主体だからと述べているからだ。<略>
 では本当の始まりはどうだったのか。まず『焼肉の文化史』によると、一八七五年から下総御料牧場で始まり、翌年に札幌牧羊場で本格化する養羊が背景にある。当初の目的は軍需品の羊毛を自給するためだった。
 ジンギスカン鍋は、一九一八年頃から札幌・月寒羊ヶ丘の種羊場でつくられようになる。動物性たんぱく質の資源確保に熱心だった政府は、羊も食用として活用するために普及活動を推進し、一九三六年に札幌市狸小路のおでんとやきとりの店「横綱」で試食会を開いたが、客はさっぱりこなかったという。
 東京では、一九二九(昭和四)年に陸軍省管轄の糧友会が主催した食糧展覧会で、羊肉調理法を実演した中心がジンギスカン鍋だった。昭和初期は健康促進のための博覧会が活発に開催された。一九三五年にも中央畜産会主催の全国食肉博覧会が開かれ、ジンギスカン鍋の試食会が行われている。博覧会の効果か、東京には一九三六年創業の高円寺「成吉莊」など専門店がいくつもできたようだ。ジンギスカン鍋は、戦後全国に広まっていく。

(2) ジンギスカンの宴
           秋川滝美

<略> 高校の修学旅行で食べたよね、と桂は嬉しそうに言う。
 それは万智も覚えている。高校二年生のとき、万智と桂は同じクラスだった。行動
班を決めるとき、生徒の自由に任せると仲間はずれが出かねないということで、くじ
引きになってしまった。これは一緒になれないな、とがっかりしていたら、奇跡的に
同じ班になれて、ふたりで手を取り合って喜んだ。
 そんな修学旅行はとにかく楽しくて、中でも最終日に食べたジンギスカンのことは
今でも忘れられない。桂はとりわけ気に入って、食べ放題をいいことに次々肉を追
加、明らかにキャパシティオーバーなのに、食べ放題で残すのは御法度と無理やり詰
めこんだ。結果として、満腹のあまり息をするのも苦しい状態に陥ってしまったの
だ。
 あれからずいぶん時が過ぎたけれど、桂は今でも時々、あのときのジンギスカンは
美味しかった、もう一度食べたい、と言う。それを聞くたびに万智は、そんなに気に
入ったのなら同じ店の肉を取り寄せればいいじゃないか、と言うのだが、桂は残念そ
うに首を横に振った。
 実は既に何度か取り寄せてみたらしい。それでもあのときの美味しさは再現できな
かった。きっと『修学旅行』という味が足りないのだろう。あの味は、若さ任せの馬
鹿騒ぎがあってこそのものだったに違いない、と言うのだ。
 確かにその点は否めない。だが、あの店は肉そのものもタレの味も上等だった。普
通に食べても十分美味しいはずだし、幼なじみと一緒に食べたら、少しはあのときの
味に近づくのではないか。
 そんな理由から、半ば実験的に、万智は北海道からジンギスカン用の肉を取り寄せ
たのである。
「ついでにジンギスカン用のお鍋も買っちゃった。これで私たちがどれぐらい高校時
代に近づけるか、やってみようよ」
「おー!心の友よ!」<略>

(3) 世界無形文化遺産への登録をめぐる議論
           岩間一弘

<略> 例えば、中国国内で四つの地域の端午節を国家級の無形文化遺産に登録すると、それ以外の地域の端午節は、むしろ廃れる危機に瀕した(11)。また、牛・豚肉の調理技術の典型として国家級の無形文化遺産に二〇〇八年から登録されたのは、北京の「東来順」などの老舗企業であり、豚肉を食べない回族(中国ムスリム)の多い寧夏や甘粛の料理ではなかった(12)。
 ちなみに、『中国名菜譜』によれば、咸豊四(一八五四)年に北京の前門街で開店した「正陽楼」が、羊肉しゃぶしゃぶ (「涮羊肉」)を販売した漢族の最初の店であるといい、それは肉を切る技術を改良して名を馳せた(13)。tこの正陽楼の羊肉料理が一
九一〇年代以降に満洲の日本人社会、さらに日本へと伝わったジンギスカン料理の原型であると考えられている(14)。そして東来順は、一九〇三年に回民の丁子清が開業した飯屋が始まりで、一二年に正陽楼の優秀な切肉の技師とその弟子たちを招聘して、羊肉しゃぶしゃぶを売り始めた。一九四二年に正陽楼が休業すると、東来順の羊肉しゃぶしゃぶが、北京では最も有名になったという。

(4) いざ、北大鯨研へ!!
           松田純佳

<略> 紆余曲折を経て、私は北海道大学に入学することができた。2008年4月のことだ。生まれ育った関西を離れ、初めての東日本、いやもはや飛び越えて北日本。言葉がぜんぜん違う。文化がぜんぜん違う。例えば味付けが西日本より、全体的に甘い印象を受けた。テレビのチャンネルが地域によって違うこともじつはこのときまで知らなかった。すべてが新鮮で、大地は広く、そして空がでかい。キャンパスがでかい。札幌キャンパスの大きさは東京ドーム約38個分くらいある。キャンパスの中には小川が流れているし、ジンギスカンパーティ(通称ジンバ)を行う場所まであった。自転車がないと授業に遅刻する。焦ってメンストを激チャする。遊び過ぎて寝つぼる。これは北大(札幌キャンパス)あるあるだ。
 北海道大学水産学部は函館にある。函館キャンパスからは徒歩10分で海だ。私が入学した頃は、札幌キャンパスで大学1年生から2年生の前期までを過ごし。2年生の後期から函館キャンパスへ移った。札幌にいる頃もそれはそれは楽しく過ごしたのだが(楽しみ過ぎて成績は微妙そのものだったが)、水産学部を希望した私にとっては、函館キャンパスに移ってからが本番だった。
 そもそも私が北海道大学水産学部を選択した理由は、高校生の頃にインターネットで北海道大学鯨類研究会というサークルの存在を知ったからである。サークル目当てで大学を選んだ。<略>
※1 メンストを激チャする メインストは北海道大学のメインストリート、激チャは自転車を猛スピードでこぐこと。
※2 寝つぼる 寝坊して授業に遅刻・欠席すること。

(5) 鮭のちゃんちゃん焼きと卵焼き
           森崎緩

<略>「お客様、当店は初めてですか?」
 若い女性の店員さんが愛想よく尋ねてきた。
「はい」
「ではお肉の最初の一枚は私がお焼きしますね」
 店員さんが鍋に白い牛脂を置く。熱した鍋にじゅうじゅうと擦りつけるように
牛脂を馴染ませていく、その作業すら郷愁を感じてたまらない。
「ジンギスカンはよく食べられるんですか?」
 ラム肉の最初の一枚を焼きながら聞かれた。こちらも上機嫌で答える。
「」久しぶりなんですよ。実は北海道出身で、でも東京へ来てからは全然食べる機
会がなくて」
「えっ!  北海道の方にお出しするなんて緊張しちゃいます」
 店員さんは気を引き締めるように姿勢を正した。
「ずっと食べに来たいと思ってたんです。楽しみにしてます」
 気負わせても悪いし、明るく告げて笑いかけたら途端に弾けるような笑顔が返
ってきた。
「はい、頑張って焼きますね!」
 結果、頑張って焼かれたラム肉はミディアムレアのいい焼き加減だった。少し
分厚めの肉は柔らかく、噛むと漬け込まれたタレの旨味がじわっと染み出してく
る。地元で食べる薄切りラムのジンギスカンとは趣が違うが、これはこれでとて
も美味しい。
「せっかくですから、ゆっくりなさってくださいね!」
 この店の店員さんはサービスがよく、鍋の周りに野菜まで並べていってくれた。
お言葉に甘えてじっくり味わうことにする。ジンギスカンはラム肉の美味さもも
ちろんだが、その脂が染み込んだ野菜をまた美味い。定番のモヤシやキャベツも
頬張りつつ、しばらく黙々と堪能した。<略>
 令和4年の(1)では、売れっ子イラストレーターの和田誠・極めて賑やかな料理愛好家の平野レミ夫妻が子供たちとジンギスカンを食べに行ったとき、和田氏が言った渋いおやじギャグを紹介します。上野樹里さんは長男唱の奥さんで女優、和田明日香さんは次男率の奥さんでレミさんと料理本を書いています。
 (2)は平成27年の「くさい食べもの大全」で初登場した小泉ムサボリビッチ・ヒツジンスキー先生が、その後書かれた「北海道を味わう」の閉店した名店の思い出です。先生の「親船研究室から石狩河口橋を車で渡って二キロほどのところにあった『清水ジンギスカン店』」がそれです。
 ご本人が清水ジンギスカンの魅力について熟考した結果、第一は肉を手で揉みながら丹念につけ込んだらしいということ、第二は清水の羊肉は植物油の主成分である不飽和脂肪酸か多いらしいというほかに、ジンギスカン一人前550円、小ライス110円という安さと判明した(88)そうです。
 (3)は、大正3年の満洲日日新聞が初めて成吉思汗鍋と書いたという道新の記事です。道新は作り話なのに駒井徳三命名説を信じる人々を連載記事や広告に起用してきたが、記者のだれかが「現場主義のジンパ学」を読んだらしく「味力探訪」という名物料理を尋ねるシリーズにジンギスカンを加えたいと西田記者が来訪したので、私のペンネームで書いてもらうということで取材に応じました。
 序でだからいうが、駒井徳三命名説を初めて公表した日吉良一が、塩谷某の作り話と知り、すぐ取り消したという事実も「現場主義のジンパ学」で公表したのだが、視聴率が低いうえに、あのころはインターネットにアクセスする人が少なかったこともあり、道新はじめマスコミは永く駒井命名説を続け、1回鍋の名前の由来を載せたところで、いずれ忘れられるね。私が終活で「現場主義のジンパ学」を閉鎖したら、また駒井説の天下になりそうだが、それはもう、ケ、セラセラだ。
 (4)は「婚活食堂 7」という本からです。ウィキペディアを見たら作家山口恵以子は同じ題名で続け書く人なんだね。「食堂のおばあちゃん」と「婚活食堂」がシリーズの双璧で「婚活食堂 7」は同シリーズの7番目の作品と理解しました。
 店員が「最初に野菜を鍋に並べ、次に全体を覆うように肉をかぶせる。」と教えたとあるが、つまりここ10年不変のウィキペディアのジンギスカンの写真みたいな置き方だ。私は肉は直焼き、野菜はあまり好かんが、分けて置く方がいいね。
 糧友会が長期愛読者にジン鍋を無料贈呈したときの使い方説明の挿絵を見なさい。肉片だけで野菜なし。昭和10年にその鍋でジンパをした某家では、栄養学的見地から野菜も食べなきゃと、野菜は串刺しで別の七輪で焼いたとの証言を伺った。元々ジンギスカンは酒の肴であり、野菜はせいぜいブツ切りの葱ぐらいだったのです。焦げたマトンの匂いもいいもんだよ。
 (5)は食文化研究者の松浦達也による「教養としての『焼肉』大全」からです。同書は、いわゆる焼き肉について論じており、ジンギスカンの歴史を紹介した4ページは、模様で縁取りしたうえ「YAKINIKU COLUMN」とページ番号は丸で囲んで別枠扱いだ。つまり、肉を焼いて食べる行為は同じなのに、生まれ育ちが全く違うということを示しています。
 (6)は侠飯と書いてオトコメシと読む福沢徹三著「侠飯。8 やみつき人情屋台篇」からです。引用したのは、ユーチューバーの葉室浩司と仲間の拓海が、上野公園のお好み焼きの屋台を手伝い、経営者柳刃が出した夜のまかないのジンギスカンともう1品を食べるシーンです。柳刃オリジナルらしいタレのレシピ以外、ラムとマトンの違い、肉の味付けの違いなんか、本州から来たばっかりの1年目の諸君はいざ知らず、道民なら常識だよね。それからジンパ学ではタレに関しては後づけ派でなく先焼き派と呼んでおる。レポードでこれを間違えないように。ふっふっふ。
 (7)は井上荒野の「何ひとつ間違っていない」からです。ここまでの荒筋は、雑誌に連載した小説家白川沙穂の小説を単行本にする計画が取りやめになる。沙穂がツィッターに「なんかもう、心が折れた。ここから這い上がれる気がしない」と書いたので、沙穂担当の出版社編集部員橋本柚奈は心配になり、田舎から羊肉を沢山送ってきたから、うちでジンギスカンしないと誘われて一度行った沙穂のマンションを訪れてみたら、沙穂が独りで飲みながら肉を焼いていた―です。
 (8)は「身長は173センチ、体重は60キロくらい、日本ではごく平均的なからだのおおきさだけど、たべる量を知ったら、きっちとみんなおどろくと思うよ」(89)という小林尊氏が書いた「食べるスポーツ フードファイターの挑戦」からです。テレビ東京の人気番組「TVチャンピオン」で優勝、日本のチャンピオンとなったのです。
 北海道で行われた決勝戦は4ラウンド制。1ラウンドは茹でたジャガイモ。小林氏は30分で2.7キロ食べ6人中4位で通過。ウニとイクラの2ラウンドは30分で7杯と3分の2で通過し、ジンギスカン勝負でも勝ち、塩ラーメンの4ラウンドでは、水を飲まずに食べ、最後にペースを挙げて逆転させる作戦が成功、日本の大食いチャンピオンという栄冠と優勝賞金50万円も得たのです。
 (9)は羊囓協会の菊池一弘代表が書いた本「食べる!知る!旅する! 世界の羊肉レシピ 全方位的ヒツジ読本。」の「繰り返す羊ブームとは何なのか?」からです。
 菊池氏は明治末から昭和10年代を第ゼロ次ブーム、昭和30年代を第一次ブーム、そして引用した平成10年代を第二次ブーム、平成末から令和を第三次ブームと分類し、特に第三次について「もうブームとは言わないかもしれないぐらい羊肉は定番化していますが、説明の便宜上敢えて『第三次ブーム』と言います。」と断り、羊肉が認知されるようになった理由として「企業主導ではなく、消費者が羊肉に慣れて羊肉を食べるようになったことから始まった(ジビエ、熟成肉、赤肉などの肉ブームで日本人の食肉の選択肢が広がったとも言える)」「ジンギスカン以外の食べ方の普及」(89)など10項目を挙げています。
 羊肉の今後は「ブームは終わり固定化の流れに入っています。<略>ブームから普通のお肉へ。繰り返すブームを経て、羊肉はやっと日本へ定着し始めていると言えるでしょう。」(90)と述べています。
 (10)は「不況に強いビジネスは北海道の『小売』に学べ」という長い名前の本からです。テレビのCMでニトリがよく知られていると思うが、ことジンギスカンでは著者白鳥氏にいわれなくても、道民なら松尾ジンギスカンとベル食品のジンギスカンのタレが双璧と挙げるだろうね。札幌にいるときは気付かないが、就職して北海道を離れて暮らすようになると、学生時代食べた何々軒のあれは最高だった、食べたいなあと思うそうだから、皆さんは懐の許す限り飲み且つ食べておきなさいよ。
 (11)は旅行作家の芦原伸氏の「世界食味紀行」からだが、まず札幌市立中央図書館の話が面白い。芦原氏が昭和36年の「農家の友」と同38年の「札幌百点」があると知って「『よくぞ、こんな古い資料が残していましたね!」と感動すると、係員は記録を見つつ、『あなたがはじめての読者です』と、逆に尊敬されてしまった。」(91)とは、これ如何に。個人ならいざ知らず、図書館なんだからね、戦後間もなく出た雑誌でも集めて保存してるさ。わかりませんね。
 それから、いまどき図書館で本を貸し出すたびに閲覧記録を調べたりしないから、古い記録というのは、もしかすると裏表紙貼り付けの袋に残る昔の記入なしの貸出票ではないかな。何度も「札幌百点」を調べた私としては、もはやどうでもいいことではあるけれど、いささか気になるやりとりです。
 芦原氏は「『札幌百点』には、実娘の藤蔭満洲野の「父とジンギスカ鍋」のエッセイが載っている。父親を懐かしみながら書いているが、その文中、父親の駒井は、「諸氏よ、これからわれわれ日本人は羊肉料理を〝成吉思汗料理〟と呼ぼうじゃないか」と提案し、部下に大いに宣伝させたようである。」(92)と書いているが、これは全くの間違い。
 これは日吉良一が「成吉思汗料理事始」に書いた塩谷正作の作り話であり、載っているのは「農家の友」だ。藤蔭エッセイは「蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない。」であり、父親の宣伝命令なんか書いていない。
 「今や北海道では花見、海水浴などの野外行事で、煙もくもくの〝ジンパ〟は風物詩となっている。聞き慣ぬ〝ジンパ〟とはジンギスカン・パーティのことで、北海道では老いも若きもジンパで酔い、歌うことが定番行事だ。」(93)とだけでジンパと北大の関係は触れていない。札幌を離れて永いOBだから無理もないか。
 令和4年
(1) 和田家の嫁姑鼎談
           平野レミ
           上野樹里
           和田明日香
           
平野 こんな所で改まって座談会だなんて、なんだか変な感じね!
上野 レミさん家でいつも集まってますしね(笑)。和田家にはそんな堅い雰囲気、全然ないですし、私はまだ仲間に入って数か月ですが、よくわかります。レミさんは、見たまんまの楽しい人で、優しくて、周りから「レミさんって普段もあんなにテンション高いの?」ってきかれるたりするんですけど、すごく高いってわけじゃないですよね?
和田 いや、それはもう樹里ちゃんが慣れちゃったんだと思う(笑)。私、初対面のときなんか、なかなかのハイテンションでパクチーを刻みまくってるところだったから、「おお、これが平野レミか」って圧倒されちゃいました。和田家で圧倒されたことを言えば、ご飯の量もそうで。
平野 なになに?
和田 お正月でも誕生日でもないのに、テーブルが見えなくなるくらい、おかずがたくさん出てくるじゃないですか。みんながお腹いっぱいになっても、まだなにか作っているし。
平野 テーブルに隙間があるのがいやなの。バランス考えてると、あれもこれもって作りたくなっちゃうのよね。あーちゃんも樹里ちゃんもよく食べてくれるし。
上野 そんなレミさんを、誠さんはいつも静かにニコニコ見守ってますよね。この間なんて、ジンギスカン屋さんに行って、羊の肉を焼いてたら、羊がどんなにヘルシーかと熱弁してた唱さんに、誠さんがボソッと「必需(ヒツジ)品だね」って。
和田 アハハ。おもしろいですよね、誠さん。穏やかで、優しくて。
平野 やさしいけど、無口でつまんないわよ。頭の中にはぎっしりいろんなことが詰まっているのに、なんにも喋らないからもったいなくて。
和田 レミさんが喋りすぎだからですよ。でも、そんなにぎやかなレミさんがなぜか気になって、誠さんからアプローチされたんですよね。
平野 そうそう、和田さんが私のラジオを聴いてて、この人は家庭的ないい奥さんになるだろう、嫁にするならこの人しかいない、って思っちゃったんだって。
上野 会う前に声だけでそう思ったって、すごいですよね。<略>

(2) ジンギスカンへの憧憬
           小泉武夫

 私が最初にこの店に興味を持ったのは、周りの人たちが「ジンギスカンの王道とはあの店のことだべ」とか「完成されたジンギスカンていうのは、清水で味わうことでないかい」などと絶賛する声をしばしば耳にしたからだ。親船研究室から車で行けばたった一〇分ほどしかかからぬところに、そのような名店があるのならばと、ある日の昼飯時に涎を流しながら行ってみたのだった。<略>
 ところが、ある夏の日の昼飯時、何日ぶりかで「「清水ジンギスカン」へ行くと一大事が起こっていた。店の戸口に暖簾がかかっていないばかりか、玄関のガラス戸も完全に締め切られ、屋根の軒下に「清水ジンギスカン」と書いて貼り付けてあった看板も外されていたのである。私は誰もいないその淋しい店の前で、ただ唖然呆然として立ち尽くすしかなかった。<略>
 私は「清水ジンギスカン」に通うようになったある日のこと、店を切り盛りする女主人に聞いたことがあった。
 私「この店はいつ開店したんですか?」
 女主人「昭和三十五年です」
 私「お店はいつもお客さんが多いですが、すぐにてきばきと対応してくれますね。いったい何人で店を動かしているのですか?」
 女主人「二人です」
 私「えっ? たったの二人?」
 女主人「ええ、私と娘だけです」
 淋しくなった店の前の貼紙を見ながら、私はかつてそんな会話をしたことをぼんやり思い出した。もしかしたら娘さんが嫁いだのかなあ、いやひょっとしたら女主人の体調がすぐれないのかもしれない。しかし何であれ五三年間、よくがんばってきたなあ。そんなことを思いながら、残念だが「清水ジンギスカン」での昼飯はきっぱり諦めようと気持ちを整理し、オールドパーに向かった。

(3) ジンギスカン
      漱石の親友 命名に一役?
           西田浩雅
        写真 植村佳弘

<略> 北海道を代表するこの料理。その背
景は思いのほか広く、深い。命名には
夏目漱石の親友で南満州鉄道総裁だっ
た中村是公が一枚噛んだ節がある。
 「小生過般旅行の際、燕京(現在の
北京)に於て成吉斯汗時代の鋤焼鍋な
るものを発見致し候處、(略)今夕
六時拙者庭園に於て鋤焼会相催候」
 是公が満鉄幹部に送った招待状が13
年(大正2年)11月9日の満洲日日新
聞に転載されている。同紙はこの話題
を何度も取り上げ、翌年1月に「成吉じんぎ
思汗鍋すかんなべ」とルビを振った。20年以上に
わたりジンギスカンの歴史を調べる北
野隆志さん(88)によれば「名前が使わ
れた最初期のもの」だ。<略>
 「成吉思汗時代の鋤焼鍋」に幹部を
招いたのは漱石との旅の4年後だ。好
評ゆえか宴は翌日も開かれ、出席者の
ひとりは後日、満鉄工場に「成吉思汗
鋤焼鍋」を5個注文している。
 満洲日日新聞は一連の話題を料理法
も含めて逐一報道。その表記は「成吉
思汗鍋(くわ)」を経て「成吉思汗鍋
(なべ)」へと変わっていった。
 北野隆志さんによれば、北京の日本
人社会で先に「成吉思汗」の言葉が使
われた可能性があるが、記録として確
認できる中ではこれが初出という。
 この料理の起源を巡っては従来、中
国の羊肉料理・烤羊肉(カオヤンロウ)
を、旧満洲の日本人が「ジンギスカン」
として持ち帰ったとの説が一部で唱え
られてきた。一連の記事は、その傍証
となるかもしれない。<略>

(4) ジンギスカンは婚活の味
           山口恵以子
 
<略> レストランはカフェテリア方式で、お客さんが店内に置いてある肉や野菜を買ってテーブルに運んでゆく。
 恵も屋外のテーブルを選ぶと、子供達と食材を買いに行った。店の一角にスーパーの陳列ケースのような台があって、色々な食材が並んでいた。肉はラム、牛、豚、自家製ソー セージがあって、薄切り肉、厚切り肉に加えてラムチョップも置いてある。
プルコギセットもあり、ご飯やキムチも買える。ノンアルコール飲料は一人三百円のドリンクバーが利用できた。<略>
 食材を買ってから店員を呼ぶと、テーブルに鍋をセットし、ガスコンロに点火してくれた。
「ジンギスカンの焼き方は分かりますか?」
「実は初めてなんです」
「それでは、まず脂を鍋に満遍なく敷きまして……」
 最初に野菜を鍋に並べ、次に全体を覆うように肉をかぶせる。こうすると野菜が蒸焼きになり、肉は野菜から出る蒸気で蒸す感じだという。
「こちらはオリジナルの秘伝のタレでございます。ジンギスカンを浸けてお召し上がり下さい」
 初めてのジンギスカンは美味しかった。特にタレの味が良い。後になって、マザー牧場のジンギスカンは「タレの味が違う」と好評なのを知った。
「あ~、お腹いっぱい!」
「ご馳走さまでした!」
 子供達もよく食べた。<略>

(5) 酷似しながら交わらない
    焼肉とジンギスカンの不思議
           松浦達也

<略> 現在のような様式のジンギスカンが確立されたのは第二次世界大戦後のこと。1950年代に入ると、種羊場のあった札幌と滝川でほぼ同時に複数の店舗が羊料理に力を入れ始めた。
 戦前から「成吉思汗鍋」料理の試食会が行われていた札幌・狸小路の「横綱」は戦中の休業を経て、1951(昭和26)年に営業を再開。2年後には札幌に「成吉思汗倶楽部」(現・ツキサップじんぎすかんクラブ)が生まれている。
 滝川でも連綿と受け継がれてきた羊食文化は、1956(昭和31)年には漬け込み系ジンギスカンの雄「松尾ジンギスカン」の祖となる「マツオ」が誕生する。
 現在のジンギスカンへと続く流れは、生ラム・生マトンを焼く札幌・月寒系と、漬け込みタイプの滝川系という北海道発の2大系統へと収斂することになる。
 奇しくもジンギスカンも焼肉同様、スリット入り鉄板と炭×網という異なる焼き台のスタイルがあり、味つけも漬け込みも生かという2系統がある。焼肉とジンギスカンは外形的に符合する点も多いが、食文化としては明確な接点のないまま、それぞれの道を歩んできた。だからこそわれわれは焼肉とジンギスカンをそれぞれ提供してくれる(例えば帯広の「平和園」のような)名店を楽しむことができるのだ。

(6)赤ワインが止まらない。北海道と中華の絶品グルメ
           福澤徹三

<略> いただきますの合掌のあと、グラスに注いだビールで喉をうるおすと、焼肉っ
ぽい方から箸をつけた。厚めに切った肉は見た目に反してやわらかく、噛むた
びに熱い肉汁があふれだす。肉にからんだタレは甘みと酸味のバランスが絶妙で、
生ニンニクの強烈な辛さが食欲をかきたてる。
 野菜は、さっき柳刃が刻んでいた玉ネギとカボチャとピーマンだ。肉の脂とタ
レがしみた玉ネギ、ほっこりしたカボチャ、ほのかに苦くて甘いピーマンは、こ
れだけでもビールが進む。うほー、と拓海が叫んで、
「めちゃうまッ。なんなんですか、この肉」
「生ラムだ」
 と柳刃が答えた。
「ラムって羊っすよね。前にジンギスカン食べたとき、匂いが気になったけど。
これはぜんぜん気にならない」
「生後一年以上が経過した羊肉はマトンと呼び、独特の匂いがある。生後一年未
満の仔羊の肉がラムで、やわらかく匂いもない。それでも冷凍すると固くなりが
ちだが、これは冷蔵保存の生ラムだ。そのなかでも、特にやわらかいロースを使
った」
 拓海がいったとおり羊肉はクセが強いイメージだったが、これは別物だ。その
旨さをひきだすタレが気になって、柳刃に作りかたを訊くと、
「北海道でジンギスカンのタレといえば、ベル食品とソラチが圧倒的な人気だ。
この生ラムは野菜と炒めたあと、ベル食品のタレに生のすりおろしニンニク、刻
んだ青ネギ、一味唐辛子、ゴマ油少々を混ぜたものをかけて仕上げた」
「北海道民はベル食品派とソラチ派にわかれてるそうですね」
 と火野がいった。柳刃はうなずいて、
「タレの味つけ派と後づけ派もある」
「味つけ派と後づけ派?」
{肉をタレに漬けこんでから焼くか、肉をそのまま焼いてからタレにつけるかだ。
大ざっぱにいうと札幌から北は味つけ派、札幌から南では後づけ派が多い」
 浩司はふたりの会話を聞きながら、もうひとつの皿に箸を伸ばした。<略>

  (7) 何ひとつ間違っていない
           井上荒野

<略> 1DKの部屋の中は、以前来た時と変わっていないように見えた。あのときと同じに、奥の部屋にちゃちな座卓が置かれ、その上に卓の面積とほぼ同じくらいの大きさのホットプレートが載っていて、肉がじゅうじゅうと焼けていた。これも同じだ、と柚奈は気づいた。あのとき食べた、タレに漬け込んだ羊肉だ。不意に二の腕につめたいものが触れ、ぎょっとして振り返ると、沙穂が缶ビールを押しつけていた。
「飲むでしょ?」
「いいの?」
「いいよ。っていうか、飲まないなら何しに来たわけ?」
 それで、柚奈は座卓のそばに、沙穂と向かい合って座った。部屋が狭いのでベッドと座卓に挟まれる恰好になった。ベッドの上には午前中、沙穂が着ていた紺色のワンピースが丸めて脱ぎ捨ててあった。沙穂はホットプレートの上で焦げついている肉を自分の皿にひょいひょいと取って、新しい肉をのせた。どれぐらい前から肉を焼いていたのかはわからないが、少なくとも缶ビールは数本目だということが、散らばっている空き缶でわかった。柚奈が缶ビールのプルタブを開けると、沙穂は自分の飲みかけの缶を突き出して、
「乾杯」と言った。
 「ごめん」
 と柚奈は、缶が合わさると音と同じくらいの声で言った。
 「あやまってほしくない」
 と沙穂は言って、肉を裏返した。ホットプレートの一面にタレが焦げついていて、すごい匂いになっていた。<略>

(8) はじめての大食い大会
           小林尊

<略> すでに2ラウンドぶん食べておなかがふくれていたところに、3ラウンドめの勝負がはじまった。食べるのは北海道名物・ジンギスカンだ。
 もし3ラウンドめを通過できたら、決勝戦は翌日だ。ここは全力を出しきって、とにかく決勝戦までいきたい。ぼくは必死に食べた。
 でも、食べても食べても上位の3人に追いつくことができなかった。制限時間45分のうち、30分がすぎても最下位のまま。これはまずい……そう思ったぼくは、それまでと「食べ方」を変えることにした。
 ジンギスカンは羊のお肉だから、あるていどかんでから飲みこんでいた。でも、とっさにぼくは、かまずにのみこんで食べるようにした。すると、それまでの苦労がうそみたいに、するするとジンギスカンがおなかのなかに入っていった。反対に、上位の3人はつかれてきていたから、あっというまにごぼう抜きをして、3827グラムのジンギスカンを食べて、1位で決勝戦に進むことになった。
 あれ、もしかしたらこれ、優勝できるかもしれないぞ。ぼくはそんなことを思いながら、パンパンになったおなかをかかえて、ホテルでねむりについた。<略>
 そうやって、ぼくは1時間で16杯の塩ラーメンを食べて、優勝することができた。計算すると4分に1杯以上食べていたことになる。なんとぼくは、はじめての、しかもチャンピオン戦からいきなり出場した大会で、日本の大食いチャンピオンになった。

(89)は小林尊著「食べるスポーツ フードファイターの挑戦」2ページ、「まえがき」より、令和4 年10月、偕成社=原本
小林尊著「食べるスポーツ フードファイターの挑戦」30ページ、「大食いはスポーツ」より、令和4 年10月、偕成社=原本

(9) 【第二次ブーム・平成10年代】
     企業主導ジンギスカンブーム
           菊池一弘
 
<略>こちらは経験している人が多いはず。大体2004年ぐらいからスター
トしたブームでBSE(狂牛病)問題でBSE発生国からの牛肉
の輸入が止まり、全国の焼肉店が大パニックになりました。七
輪やコンロ、焼き台はあるのに提供していた牛肉が手に入らない!
そこで注目されたのが焼肉と同じオペレーションのジンギスカン
です。
全国の焼肉店がジンギスカン店に看板を変え、またその流れに
あやかろうと多くの企業がジンギスカン店をオープンさせました。
この時の羊肉は、牛肉の代替肉としての人身御供よろしく期せず
していきなり注目されました。つまり業界が意図的に世間に羊肉
を注目させた企業主導のブームです。この頃は、羊肉といっても
日本人にはあまりイメージがつきにくかったので、羊肉ではなく「ジ
ンギスカンブーム」として広がっていきました。毎日メディアでジ
ンギスカンが取り上げられ、店舗数も激増しました。まだTVな
どのメディアが強い時期で、多くの人がよく分からないままにメディ
アが紹介したお店に並びました。
しかし、牛肉の輸入が再開し営業日をPRする理由がなくなった
途端、一気に熱も冷めて激増したジンギスカンのお店も軒並み
クローズ。このブームは粗製濫造感もあり羊嫌いを量産してしまっ
た側面もありますが、ブーム前と比べてジンギスカン店が終了後
も一定数を維持し、マイナーな料理れたジンギスカンを聞いた
ことがあるのに変えた功績は大きいと思います。この時オープ
ンし、未だに営業している名店も結構あります! また、この時
期に話題となった「Lカルニチンで太らない!」といった健康思
考的な切り口も「煙もくもくのお店でおじさんがビールを飲みなが
ら食べる料理」というイメージを壊し、ジンギスカンを女性にま
で広めた機会でもありました。<略>

(10) 名物にうまいものあり
           白鳥和生

 ジンギスカンにスープカレー、ソフトクリーム、
海鮮丼、もちろんラーメンも……「名物にうまい
ものなし」とよく言われるが、食料自給率が20
0%を超える北海道にこの格言は当てはまらない。
観光を楽しむ中で食事やお茶をしたり、帰りに土
産物を買ったりするものに〝はずれ〟がないのが
北海道だ。<略>
 道内のスーパーやコンビニエンスストアは地域
性を生かして北海道のみのソウルフードを品ぞろ
えしている。代表格はお花見や行楽シーズンに家
族や仲間でジンギスカンを楽しむジンパ(ジンギ
スカンパーティー)用のラム肉やタレ。ジンギス
カンの食べ方は主に2つある。タレに漬け込んだ
肉の「味付け」は滝川や旭川など内陸部、焼いた
肉にタレを付ける「後付け」は札幌や函館などで
主流だ。味付けを道内に広めたとされる松尾ジン
ギスカン(滝川市)は、タマネギとリンゴ果汁、
ショウガなどで作ったタレに羊肉を丸一日漬け込
む。十勝地方では豚丼のタレも欠かせない。
 独自の弁当・惣菜で人気なのが「やきとり弁
当」だ。函館地区では13店舗を展開するコンビニの
ハセガワストアの名物 。白飯、海苔、しょうゆダ
レの豚バラ肉の串焼きという素朴な組み合わせ。
注文後に豚バラ串を焼き始め、提供までに約4分。
焼成時、霧吹きでかける「はこだてワイン」が豚
ばらの持ち味を引き出す。<略>

(11) 元祖、松尾ジンギスカンを訪ねる
           芦原伸
 
<略> 今や北海道では花見、海水浴などの屋外行事で、煙もくもくの〝ジンパ〟は風物詩となっている。聞きなれぬ〝ジンパ〟とはジンギスカンパーティのことで、北海道では老いも若きもジンパで酔い、歌うことが定番行事だ。
 元専務の歌原清さんに登場願った。
 「そのジンパで成功したのが初代の松尾政治です。一九歳で香川県から単身で来道して成り上がった。もともと〝馬くろう〟(馬の運送業)で身を立てていたが、その後、羊肉専門店を開いた。偉い人だった。滝川公園の花見へ、七輪、炭、鍋を持参して、現場で焼肉を売ったのが当たったのです。<略>
 折からの北海道ブームに乗じて、別館を作り、収容人数は二二〇〇人の大ジンギスカン専門店に成長した。滝川は旭川と札幌の中間にあり、観光バスの昼食所として賑わった。<略>
 「みなが貧しかった時代なんですよ。子羊を役場が各家庭に貸与したんだね。子供たちがそれを育ててね。家族五人だと五頭割り当てだった。みなが自分の羊に首輪つけて学校に通った。羊はやせた草でも育つからね。おとなしい優しい動物だよ。一年経って役場に返すと。代わりの子羊と羊毛をくれる。母親がそれで靴下や手袋を編んでくれた。羊毛は暖かかったね。お金のいらない家内産業だ」
 やがて頭数が増えて綿羊組合ができ、毛のとれなくなった成羊を処理。余った肉を利用しようとはじまったのがジンギスカン料理のルーツだった。<略>
 ようやく令和5年にたどり着きました。(1)は珍しい本で「本書はドラマ「PICU 小児集中治療室」のシナリオをもとに小説化したものです。小説化にあたり、内容に若干の変更と創作が加えられておりますことをご了承下さい。なお、この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは無関係です。」と先頭ページにあり、奥付も異形で発行年月がないので、国会図書館の書誌情報に従いました。また奥付の前に諸情報のページがあり、ドラマの配役に母親南に大竹しのぶ、取材協力に旭川医大の宮城久之氏の名前があります。
 (2)は日本記念日協会が札幌のベル食品が申請した4月22日を正式登録した日が3月20日なので、ここに入れました。22日は同社のホームページによれば「カレンダーで羊肉の日の上に位置する4月22日を『成吉思汗たれの日』に制定しました。ベル食品は記念日を通じてジンギスカンと『成吉思汗たれ』の普及を進めてまいります。」と説明している。
 引用したのはプレスリリース。ただ昭和31年発売とあるが、私の調べでは当時はラーメンスープ「華味」が主商品で、ベルタレの広告が新聞に現れるのは33年からだ。精肉店や食品店などへ卸し終えるまで広告を出さなかったからとみています。
 (3)は成田空港担当の航空記者だった山本佳典氏がノンフィクション作家に転じ、そのデビュー作品「羊と日本人」からです。外国から綿羊を導入し、日本の風土に合った飼育法を研究して増殖を図ろうと努力してきた多くの先人の墓に詣で、同時に探し出した子孫宅を訪ね、語り伝えられた秘話や代々保存されてきた写真など既存の綿羊飼育史や綿羊関係者による記録集とは全く異なる人物主体の綿羊史です。それでね、ジンギスカンはなかなか現れず、やっと宇垣一成の組閣準備と戦後の北海道の飼育状況から引用できたのです。
 脱線だが、山本氏はね、父親が満鉄公主嶺農事試験場の研究者だった土屋洸子さんから試験場関係者の話を聞き、次は尋ねるのは尽波だといったら、土屋さんが彼は北大でのクラスメイトでね、アドレスと住所は…と教えてもらったと連絡して会うことになったのです。ジンパ学も山田喜平など飼育研究者の業績調べをしているからね。少しは参考になったはずです。  彼は目下三里塚の旧御料牧場の諸調査と広報活動を続けているから、いずれ本に書くでしょう。それからね、いまジン鍋博物館にある昭和10年に糧友会が作った国内産初のジンギスカン鍋は、彼からの通報で手に入れた鍋なのです。
 (4)は溝口ジン鍋博物館長が引き受けている道新朝刊の読者コラム「朝の食卓」からです。君たち「青い山脈」という映画を知っているかな。古すぎて無理か。
 本当の話だが、昭和24年、八戸市とその近隣町村の中卒男子で普通科進学を望む者は、1年後に八戸東高に改名したけど、県立八戸女子高に入るしかなくてね、我々は男女共学の1期生になっちゃった。よその連中からうらやましがられたが、男女別学育ちだから女子に気安く声を掛けられない。あの映画の交友ぶりがうらやましかったねえ。
 だから(1)のような進取果敢なことは、ついぞなくてね、74歳さんのバレーとジンパの集いはうらやましいなあ。
 (5)は私の犬棒検索で見つけた松尾スズキ氏の随想からです。これを掲載していた月刊誌「GINZA」は最新のファッションや装飾品などの写真を満載しており「何が流行していて人気なのかがわかる、〝今〟を詰め込んだ特集です」とあるが、私にすれば全く異次元の本だね。筆者紹介によれば、松尾氏は「作家、演出家、俳優」で多忙な方らしく、羊肉についての講釈を聞きながら食べたたことがなかったらしいが、まあ、よろしい。フランスじゃ生後1月足らずの仔羊肉、アニョー・ド・レの焼き肉料理があるなんて、松尾氏に限っては知らぬが花だね。
 (6)の朝倉かすみの「よむよむかたる」を加えるために初めて電子版の「文芸春秋」を買ってみました。アマゾンのKindle版にしたら、本代はたまっていたポイントでOK。それはよかったが、間違って23年9月号を買っちゃった。「よむよむかたる」は載っていたが、ググって知った状況ではない。買い直すしかないかと、おまけみたいに付いてきた7月号を見たら大ラッキー、探した情景はこっちだったのです。
 引用したページ番号を書くために、前もって生成AIに電子版の本にページ番号は付いてるかと尋ねたら、即座に番号はありませんと答えたが、文春のそれはごく小さい字で(xx/xx)という形で示しており、またやられたと私はAI不信の念を強くしたのでありますよ。
 肝心の「よむよむかたる」はね、題名の通り小樽のある読書グループを軸とする連載小説で、引用したのは会員の自宅で開いたジンパの場面です。
 (7)は講談社の学術文庫版の秦郁彦著「明と暗のノモンハン戦史」からですが、内容は平成26年にPHP研究所が出した同名の本と同じです。それで日本人の観光客誘致にジン鍋を取り入れるようにと勧めた「あとがき」も同じだが、それとは別に「学術文庫本のあとがき」があり、秦氏は史実の空白を埋めきれず心を残こした1例を示している。
 「一九三九年七月三日に満蒙国境のハルハ河を一万人近い関東軍の大兵力が西岸に侵攻してソ連軍の戦車集団に反撃され、十時間後に東岸に逃げ帰った戦闘」で「どうやら『昭和天皇が知らぬ間に侵攻が始まり終わってしまった』ようだ」といい、その重大性は「決定的な『確証』が不足するので、私は『推理』にとどめるしかなかった。」と書いている。小学生だった私もそうだが、当時は皆、国境を無視して満洲に入ってきたソ連兵共をうんと懲らしめてやったと信じていたのです。
 (8)は元日本緬羊株式会社技師の市川章雄氏が成田市遠山緬羊協会の記念誌「三里塚とジンギスカン鍋」に寄せた「ジンギスカン料理の回想」です。市川さんの言う「テッカ」は餅網のようなものとは思ったが、念のため検索したら「韮山町史」第9巻の「歳の市」に「囲炉裏のテッキ(餅焼きなどに用いる扇状の鉄器)」があり「高知県方言辞典」でも「てっき (1)てっき(幡ア) 焼網。『テッキで餅を焼きよる』」とあるので、鉄棒で組んだ網か鉄棒を並べた器具ですね。
 「拾数種の調味料が規則正しく碁盤の目の様な器」のタレを各自か混ぜて使うのは涮羊肉の食べ方で、烤羊肉ではあり得ない―はず。でも涮羊肉と烤羊肉を共にジンギスカン料理と呼ぶと書いた本もあるから、ジンギスカンとして涮羊肉を食べ、既知のタレとの違いが記憶に残ったと考えられます。
 なお「三里塚とジンスカン鍋」からの引用についてだが、昭和43年分にある2件は「羊と日本人」を書いた作家山本佳典氏にコピーしてくれた原本からで、市川氏の記事は、山本氏らの下総御料牧場シンホジウム実行委員会が発行した再版本(A5判、84ページ)からです。
 (9)は作家角田光代が「オレンジページ」に連載している「ちょっと角の酒屋まで」からです。この人は食べる飲むを書くだけでけなく、インタビーユーに応じてよく語る人なんだね。対談をいくつか読んだが、ジンギスカンまで話が広がらない。
 アスペクトというサイトの「今日もごちそうさまでした」で、彼女の連載エッセイを公開してるので、ジンギスカンが出ないかと読み進め、遂にNo.58の「加齢とわさび」で発見した。
 それはね、わさび飯といって、擦った西洋わさびを熱い飯に掛けて掻き混ぜ、醤油をちょっと垂らして食べる。ツーンときて涙が出るそうだ。ジンギスカンと関係なさそうだが「わさび飯、ジンギスカンのお店にときどきあって、見付けると注文するが、あそこまで強烈なのはあんまりない。」(94)とさ。ハッハッハ。
 (10)は北大の江本理恵先生による真面目なジンパ解説です。学内でジンパを教えているのは私独りではないのです。省略したのは開催要領といえる部分です。
 先生にはぜひ一度、鍋博物館の600枚を見て頂きたい。一見は百聞に如かず、先生が行くわと一言おっしゃれば、溝口館長が学術VIPとしてJR野幌駅からご案内仕るでしょう。
 (11)は新聞に掲載された漫画家にして文筆家ヤマザキマリ氏へのインタビュー記事です。彼女の母親は「演奏家になる夢を追って」娘2人を連れて東京の実家を飛び出し、札幌交響楽団のビオラ奏者になった。「夜遅くまで演奏会の仕事があるので、妹と2人でよく留守番をした。机に夕食を買うための1000円が置いてあった。おかず代はよく漫画代に消えた。」が、それに添えて「ママは2人のことをずっと考えて仕事をしているのよ。どんな時も。それだけは忘れないで」(95)と手紙が置いてあったそうだ。泣かせるねえ。
 また彼女の発言からと思うが「汗をたらしながら食べた」がいい。「汗をかきながら食べた」より「汗をたらしながら食べた」の方が、コンロのそばで熱い肉を食べる、汗が吹き出すが、それをぬぐう間も惜しんで、ハフハフと食べ続ける感じがすると思わんかね。
 (12)は東大法学部卒のミステリー作家、新川帆立の「先祖探偵」からです。同書の末尾にある同じく東大法卒のミステリー作家辻堂ゆめとの対談によると、新川は「書き始めたのはコロナ禍の真っ只中で旅行に行けない頃だったから、代わりに小説を読んで旅行気分を浸ってもらえたらなと考えていました。」とあり、米国シカゴに住み資料を読んで書いたそうだ。だから「食べたい、書きたいという気持ちがどんどん募って、むしろ、食べて書くよりおいしそうに書けたかもしれない。」と語っているが、南部弁で「ひちみ」ともいう「ひっつみ」なんか特に美味の誇張しすぎを感じるね。
 (13)はここまてに何度か聞かせたモンゴルの羊肉料理の実態です。ただモンゴルから人をジンギスカンに誘ったりすると「なんでジンギスカンが食い物の名前なんだ。不愉快だ」と機嫌を損ねた元横綱の朝青龍はじめ、英雄であり日本の天皇のような神聖な存在であるジンギスカンの名を料理につけていることを不快に思うモンゴル人は他にもおり,日本人はそのことを知っておかねばならない(96)とこの本は書いています。
令和5年
(1) PICU 小児集中治療室
           脚本    倉光泰子
           ノベライズ 蒔田陽平

 網走の病院を辞めた矢野悠太が札幌に戻ってきた。実家の自室はすでに大学進学で出てきた甥が住んでおり、しばらくは志子田の家に居候することになった。
「息子が増えたみたいでうれしい」と南は大歓迎だ。
 幼なじみの河本と涌井桃子を招き、志子田家の居間は楽しげな声であふれている。食卓に置かれたホットプレートを前にジンギスカンの用意をしている矢野に、「悠太、あとこれ」と南が菜箸とトングを渡す。受けとりながら矢野が言った。
「ほかに何かある? 居候の身だからなんでもしますよ~」
「じゃあ、武四郎の面倒みてやって」
 台所で野菜を切っていた志子田が、「なんだよ」と声を張った。「俺がなんもできねえみたいじゃねえか」
「いつまでも親のすねかじっちゃって」
 すかさず河本が志子田に言う。
「武四郎はお母さんがいないとダメなんだよね~」
「ダメじゃないから。全然ダメじゃないから」
「強がっちゃって、ねえ」と矢野が南と顔を見合わせる。
「ねえ」
 準備が整い、ジンギスカンが始まった。やはり、北海道の宴会といえばジンギスカンだ。柔らかなラム肉を頬張っていると、面白いように酒も進む。
 矢野の空いたグラスを見て、桃子が訊ねる。
「ビール?」
 すかさず南が息子をうながす。「武四郎、ほら」<略>

(2) 4月22日「成吉思汗たれの日」制定の由来と目的
           ベル食品

4月29日は「よう(4)・に(2)・く(9)」の語呂合わせで「羊肉の日」として広く知られています。2004年に北海道遺産に選ばれた北海道のソウルフードであるジンギスカンは、羊肉を焼いて食べるというもっともシンプルでポピュラーな羊肉料理です。ベル食品の「成吉思汗たれ」は、焼いた羊肉にかけたり、ジンギスカンの締めでうどんにかけて焼きうどんにしたりと、ジンギスカンには欠かせない調味料。さらに北海道では「羊肉の日」も含む、春の大型連休に花見をしながらジンギスカン・BBQを楽しむのが定番で、「成吉思汗たれ」需要の最盛期になります。「羊肉にかける」「成吉思汗たれの需要が高まる時期」ということから、週間カレンダーで「羊肉の日」の真上に位置する4月22日を「成吉思汗たれの日」として制定しました。

「成吉思汗たれ」について
ベル食品の「成吉思汗たれ」は1956年(昭和31年)発売開始した日本初の家庭用焼肉たれ。ジンギスカンの発祥地である北海道において、ジンギスカンのたれジャンルでシェアNo.1の実績を誇る、「北海道のソウルソース」です。羊肉を焼くジンギスカンはもちろん、牛豚鶏などの焼肉、しゃぶしゃぶのたれ、野菜炒め、チャーハン、ザンギ(北海道の唐揚げ)の下味、カレーの隠し味、焼きそば・焼きうどん、冷奴、納豆、卵かけご飯、餃子のたれなど、幅広い料理に使える万能調味料でもあります。

(3) その後の羊たち
           山本佳典

 下総の牧場は百年近い歴史に幕を下ろした。失われた姿はもう戻らない。しかし、この国の羊の歴史がそこで終わったわけではもちろんない。日本の牧羊の中心は戦後、北海道へと移って今に至っている。
 北海道も本州以南と同様、羊毛・羊肉の輸入自由化、化学繊維技術の発達、そして農業の選択的集中という逆風の中で、羊の飼育頭数が減少の一途を辿った。ただ、戦後の羊毛生産から羊肉生産への転換に伴う肉羊種「サフォーク」の導入と、十二カ月未満の仔羊の肉である「ラム」の普及や外食産業での羊肉活用の努力を長年にわたって重ねたことで、羊文化は北海道に欠かせないものになった。<略>
 そうした道独自の行政支援の一方で、一九七〇年代後半以降、登別のハピー牧場、白糠の茶路めん羊牧場、恵庭市のえこりん村といった大規模経営が登場するようになり、地域の人々の暮らしの中でも、各家庭に普及したジンギスカンの楽しみはもちろん、羊毛を紡ぐむホームスパン文化も草の根的に受け継がれてきた。大正期の国立種羊場から出発した滝川畜産試験場の閉鎖は大きな不安要素でもあったが、近年では同じ滝川に「松尾ジンギスカン」が自社牧場を拓くなど、新しい動きも続いている。北海道は、戦前の緬羊人たちによって戦後の日本社会に託された希望の樹が、今でもしっかりと根を張る唯一の場所になった。<略>

(4) 78歳おさげ女子学生
           溝口雅明

 このコラムの読者から「こんな鍋、知って
いますか」と電話を頂くことがある。年配の
方が多く、ついつい話し込んでしまう。
 札幌市南区の78歳の女性から電話を頂い
た。「小ぶりの鋳鉄製で、穴や隙間がたくさ
ん開いている鍋です。高校卒業後、初月給で
買いました」と言う。
 私から鍋の特徴を補足すると、「盛り上が
ったドームの真ん中に『喜喜』の字がある『銀
星印イースタン鍋、小(23cm)』と判明
した。1958年に三重県桑名市で製造され
た鍋だ。道内でも持っている人がいて、博物
館も大中小のサイズを所蔵している。そのジ
ン鍋にまつわる話が面白かった。
 その人は59年に札幌市内の女子高に入学
し、合唱部に入った。コンクールで全道優勝
し、そのお祝いに同じく優勝した市内男子高
合唱部と「藻南公園」でジンギスカンをやる
ことになった。初めて食べるジンギスカン。
それも野外で。「女子はセーラー服におさげ
髪、男子は詰め襟の学生服。カッコ良かった
わよ」「ドキドキしたけど、おしいかった」
と生き生きと話をされた。
 卒業後、札幌駅前のデパートに就職。ジン
ギスカンの味が忘れられず、最初の給料をジ
ン鍋の購入に使った。家族は「そんな臭い肉、
食べん」というので台所でガスコンロに掛け
て一人で食べた。やっぱりおいしかった。結
婚後も夫と時々使ったが、マンションのガス
コンロは安全装置が働いて使えなかった。
 こういうジン鍋談義があるから、館長は楽
しい。    (ジン鍋博物館長・岩見沢)

(5) 踊ろう、手のひらの上で
           松尾スズキ

<略> 最近、レストランのメニューに仔羊や仔牛の
文字を見ると心が痛くなる自分がいる。それが
偽善であることもわかっているが、せめて大人
になるまで育ったものを、と、別のものを選ん
でしまう。死んだ仔羊や仔牛の肉が店にあるの
は事実なのである。食わねば彼らの死を無駄に
することになる。それもわかっているのに。
 この間、知り合いの俳優が店長をやっている
ジンギスカン屋に食事に行った。なにが美味し
いの? と、聞くと。やはりラム肉ですね、と
言う。だから頼んだ。うまかった。マトンもど
うぞ、と、言われて、それも食った。うまいが
ちょっと臭みもあるね、と、彼に言うと、やっ
ぱり仔羊のほうがうまいですね、と言われ、ハ
ッとした。
 わたしは、ラムやマトンを羊の部位の名称か
とこれまで思っていたのだが、ラムは仔羊のこ
とだったのか。食ってしまったものはしょうが
ないし、大人のマトンより子供のラムのほうが
うまい。それは現実である。だから毎日仔羊は
殺され、市場に出まわる。<略>

(6) 恋はいいぞ
           朝倉かすみ

<略> 室内ドアを開けると、みんな同時にこちらを見た。いや、その前に煙と熱気と肉の焼ける匂いが流れてきた。いやいやほんとの最初はドア越しに漏れるガヤガヤ音で、それがドアの開いた途端に静止画面になった、と思ったら、「やっ、くん、ダァ!」と歓声があがり動き出したのだった。
「ジンギスカン」
 シンちゃんが安田にうなずきかけた。新聞紙を敷いた背の低いセンターテーブルの真ん中に兜型の鉄鍋がでん、とある。小山には濃いピンク淡いピンクの羊肉たち、裾野はモヤシ玉ねぎピーマンの野菜勢。嘘みたいにジュージュー音を立て、煙だか湯気だかをモワッとあげている。ベランダの窓は開けているが、逃しきれない肉や脂や甘酸っぱくてやたらスパイシーなタレの匂いがリビングを完全に支配していて、安田は早くも白ごはんが欲しくなった。<略>
「健啖家!」
 マンマがシルバニアを冷やかした。どうもシルバニアはもう何度もお代わりをしているようだ。「あらやだ」とソファで隣に座っているマンマの肩を小突く。脇に置いたティッシュボックスから一枚抜き取り、口周りのギトギトを拭って、
「なんだか今日はナンボでも食べられそう」
 なぜなら調子がとてもいいので、とちょっと足を持ち上げソファの下部を踵でトントンと打った。「ジンギスカンだーい好き!」と堪えきれないように声を張ったあと、「アナタはもー少し食べないと」とマンマの小皿を覗き込んだ。その目をキョロッと上に向け、「ダイエットでしょ、こちとらお見通しですので」<略>

(7) あとがき
           秦郁彦

 ノモンハン戦史に関わったなかで、忘れがたい思い出は、一九八九年八月から九月にかけて訪れたハルハ河周辺の景観である。<略>
 パインツァガン高地を経て日本軍のハルハ渡河地点に至り、両岸に広がる草原を眺めていると、満州国とモンゴルが国境を争った理由がわかるような気がした。遊牧民にとっては河の両側に広がる豊かな牧草地が重要なので、ハルハ河を国境線に固定されては困る事情が呑みこめた。現在でも時季と場所を限り住民に両岸の往来を許していると聞く。
 ウランバートルのホテルから出張してきたコックたちが食事を作ってくれたが、羊肉の水煮ばかりなので、二日もすると見るのも嫌になり、ジンギスカン焼きを注文したが作ってくれない。理由を聞くと、羊肉の脂肪は酷寒の冬を越すのに欠かせぬ栄養分だから、焼いて捨てるのはもったいない、というもっともな言い分ではあった。
 しかたなく持参したカップ麺で間に合わせたが去りぎわに、日本人の観光客を呼ぼうと思ったら大草原のジンギスカン鍋がいいよと助言した。聞き入れてもらえたかどうかはわからない。

(8) ジンギスカン料理の回想
           市川章雄

<略> 昭和十四年の暮に私は初めてジンギスカン料理を食べ
た、東京高円寺の成吉思荘で興亜院の農林部の方々と一
緒に羊肉を口にして美味しいとうう者もなければ、まづ
いとゆう人もなかった、みんな若い人達ばかりであった
から肉でさえあれば何でも腹いっぱい食べたいという気
持が先にはしっていた為かも知れない。大陸から持帰っ
たという〝包〟(パオ)の中で中央に例のなべを置き、八
人で円陣になって珍らしい料理をついばんだ。羊肉は福
島県産が殆んどであるというが冬、肉のシーズンになる
と、とぎれがちで豚肉が皿に盛られていることもあると
いうことだった。
 松井さんが羊肉料理をはじめたのは大変に古く大正十
一年に現在の地に羊肉試食場としてスタートし、昭和十
一年に営業許可をとり〝マトン料理ジンギスカン焼〟と
して売出し、陸軍製絨廠や衣服庁等の羊毛に関係した軍
人客が多かったようだ。只今市販されている〝ジンギス
カンなべ〟は各種のものがあるが其の原型は松井さんの
焼肉器(ジンギスカン鍋)意匠登録によるもので、一部
の方が此の料理が蒙古から伝来したものの様にいってい
ますが此れは誤りで故・岸良一先生が農林省の緬羊係主
任をしておられた頃に〝羊肉の消費普及を考えたが何分
にも肉に特殊の香りがあって煮物ではまずいので火を通
して焼けば香りも少なかろうというような事から、あの
ような鍋を案出した〟とご本人から聞いたこともあった。
 私は蒙古の張家口と北支那の北京や青島で昭和十四年
頃に羊肉を食べたことがありますが、張家口や北京では
回教料理の一種として当時はぜいたくな料理とされてい
ましたが、なべは使用せず二cmくらいの鉄棒で造った、
昔もちを焼いて食べるとき使用した〝テッカ〟の様な具
を用い、タレは各人の好みで調合するよう拾数種の調味
料が規則正しく碁盤の目の様な器にもって出されていた。
とても私のような素人には調合は不可能でありまして支那
人の調理人にサービスをして頂いて食べました、青島で
は日本式のジンギスカン鍋が使用されていましたが此れ
は日本から持込んだもので料理法等も松井さんと大同小
異であったと思います。<略>

安達晴美編「三里塚とジンギスカン鍋」41ページ、市川章雄「ジンギスカン料理の回想」より、令和5年9月、 遠山緬羊協会、下総御料牧場シンポジウム実行委員会=原本

(9) 愛する羊
           角田光代

<略> 都内でジンギスカン店が続々オープン
し、値段も安い。しかもジンギスカンは
たれ付きの羊肉を焼くもの、と私は思い
こんでいたのだが、それらの店々では生
ラムが提供され、塩かたれか、調味料を
選んで食べることができた。このとき
だ。私の羊愛が爆発したのは。
 旅先で食べて感動しても、帰ってきて
食べられないとなれば、愛は爆発しな
かったろう。たとえば旅先でブラット
ソーセージに感動しても、帰国して、ど
こでも食べられるかといったらそうでも
ない。食べられる店をさがしてわざわざ
出向かねばならない。これでは愛は爆発
できない。
 だから私は幸運だった。当時、ジンギ
スカンの店は本当にどこにでもあった。
私の住む町にもあった。都心には行列店
もあったが、近所の店は気軽に入れて、
しかもおいしかった。
 その後、どういうわけかジンギスカン
ブームは下火になり、あれほど多かった
店がさーっと消えていった。心にぽっか
りと空洞ができたようなさみしさを味
わっていたのだが、その数年後、ジンギ
スカンではなく羊肉を扱う料理店のこと
を多く耳にするようになった。<略>
 そして今、冷静になって考えるに、私
の場合は食べ足りていないからではない
か。こんなに好きなのに、三十代半ばで
ジンギスカンブームを迎えるまで、羊肉
にきちんと出合えなかったのだ。若き日
に存分に愛せなかったぶん、今、こうし
て愛を補っているのではないか。

(10) ジンパ
           教授 江本理恵

ジンギスカン・パーティ=ジンパ。北大の夏を象徴する用語の1つ。
2021年10月に北大に着任した私にとっては、2023年の夏は、初・北海道の夏といってもよいぐらい。コロナで取りやめになっていたことが少しずつ復活してきており、その中の1つとして、この夏は「ジンパ」という言葉に出会いました。
私は、「ジンパ=ジンギスカン・パーティ」は、北海道内の一般的な用法だと思っていたのですが、もちろん、一般的でもあるものの、それ以上に北大の夏を象徴する言葉であることが判明しました。
さて、この「ジンパ」ですが、大きく3通りの実施方法があることがわかりました。ちなみに、20歳以上で泥酔しなければ、飲酒も許されています。<略>
この夏に私が学んだジンパ実施方法は上記の通りです。もし、他にもジンパ開催方法がありましたら、ぜひ教えてください。
このような「ジンパ」文化も、コロナで一度途絶えてしまって、もしかすると研究室やサークル等でも十分に引き継がれていないかもしれません。それはとても残念なこと。
学生の成長には正課外の活動も重要な役割を果たします。コロナで消えかけていたこれらの伝統ある行事が新しい形で復活して、そして、学生を育ててくれることを、私は楽しみにしています。そして、研究部の教員としても、様々な形で学生の課外活動を組織的に支援していきたいと考えています。

(11) 食は外交手段 創造力の源
         文 杉山恵子
崎デルス

<略> そんな母は2022年の暮
れに89歳で亡くなった。戦争
を経験し、1人で北海道へ移
住して娘2人を育てた。どん
なことがあっても、楽しみを
持って生きる姿を見せてくれ
た。親は子どもにとって一番
身近な人生の手本だ。
 「いやあ、ご苦労さんでし
た」と心から思う。楽団OB
らが企画してくれた追悼コン
サートの最後の曲は「威風堂
々」。終了後に母の大好きだ
ったジンギスカンをみんなで
汗をたらしながら食べた。
 人生には苦しいことがたく
さんある。それをきれいごと
でごまかさずに、孤独や悲し
み、理不尽なことは山ほどあ
ると母は教えてくれた。同時
に「きょうは素晴らしい曲を
やるから、楽屋に遊びに来な
さい」と感動も共有してくれ
た。つらいことがあっても、
それを忘れさせてくれる楽し
さや感動があれば、乗り越え
られると信じている。<略>

(12) 焼失戸籍とご先祖様の霊
           新川帆立

<略> 囲炉裏のある旅館だった。竹串に刺した山女魚を囲炉裏の周りに置いて、化粧焼きにしてある。炭の芯がほの赤く光っては消え、光っては消えを繰り返している。古新聞が焼けるような煤けた匂いを嗅ぎながら、山女魚の串を一本引き抜いた。
 口に入れると苦さと塩気がちょうどいい。魚でもさもさした口の中にどぶろくを流し込む。地元で造っているというどぶろくは甘口で、素朴だが華やかな香りがした。ほんのりとした酸味が効いて飲みやすい。
 しばらくすると、野菜と羊肉が盛られた大皿と円形の鉄板が出てきた。ジンギスカンは北海道のイメージだが、遠野一帯でもよく食べられているらしい。タレに漬けた羊肉を焼くのではなく、肉を焼いてから甘辛いタレにつけて食べる。臭みの少ない引き締まった味だ。脂の甘みがタレの辛さと混ざり合う。白米が欲しくなったが、焼いたキャベツに挟んでもう一口食べた。
 一通りジンギスカンを食べ終わったころに、鍋料理が続いた。「ひっつみ鍋」という。小麦粉をこねて薄く伸ばしたものを手で引きちぎって鍋に入れてある。手で引きちぎることを方言で「ひっつみ」と言うため、この名称になっているらしい。鶏肉や根菜、キノコもたっぷり入っている。ひっつみにはブルブルとした弾力があり、箸でつかみにくいほどだ。一口かじると出汁がじわりと口の中に広がる。はふはふしながら、食べ終えた。<略>

(13) モンゴルには,ジンギスカン料理がないってホント?
           宇田川勝司

   モンゴル料理ではないのにジンギスカンと呼ぶのはなぜ?
   ジンギスカン料理は,いつ,どこで,どのように誕生したのだろうか?

 ジンギスカンと呼ばれる焼き肉料理は,実は日本が発祥である。モンゴル出身の第69代横綱白鵬は,日本に来るまでジンギスカンという料理を知らず,21歳で初優勝したときに祝いの席で初めてジンギスカン料理を食べたという。6人前の肉をペロリと平らげ,初体験のジンギスカン料理にすっかり満悦したそうだ。
 ジンギスカンという料理の名は,もちろんあのモンゴルの英雄ジンギスカン(チンギス・ハン)に由来し,彼が活躍していた時代,モンゴル軍の兵士たちが陣中食として羊肉を鉄兜に載せて焼いて食べていたことが,ジンギスカン料理の起源であるという説がある。筆者もこの説をすっかり信じていたのだが,実はこの説は誤りだ。
 そもそもモンゴルには日本のように鉄板や網で肉を焼いて食べる習慣がない。モンゴルでは,古くから羊の遊牧が盛んであり,モンゴル人は今も昔も羊肉をよく食べる。ただ彼らの伝統的な羊肉の調理法は骨付きのブロック肉を塩で煮込むシンプルなもので,チャンサンマハと呼ばれる料理である。他には,羊肉を缶に入れて蒸し焼きにしたり,スープにしたりする料理があるが,モンゴルにはジンギスカンのような焼き肉料理はないのだ。<略>
 令和6年の(1)は十勝に住んでいる作家、河崎秋子の「私の最後の羊が死んだ」からです。彼女は以前「A&F COUNTRY総合カタログ2020」に「ギョウジャニンニク入りのジンギスカンを食べるために、秋に屠畜したマトンの肩ロースを冷凍してとっておく。羊飼いのささやかな贅沢だ。」(97)と書いた。私も経験したが、同ニンニクを食べると「全身の毛穴から特有の臭いを放出する。まる1日以上は人と会うことができないため、注意が必要だ。美味いものには、リスクがつきものなのである。」(98)という通りになる。
 それでね、この本ではどうかと読んでみたら、低リスクの普通のニンニク入りレシピだ。まあ、全国どこにでも生えていない野草だから当然でしょうが、ただ、焼く前にも肉と野菜をタレに漬ける2度付けでの食べ方は、ジン鍋博物館で焼き方・食べ方を研究している溝口館長も初耳と言っとる。これは彼女が信奉する近藤友彦流を超えた河崎秋子流レシピということだね。
 (2)は北海学園大同窓会の「同窓会結成70周年記念誌」に山際廣昭氏が寄せた「山は学校、山小屋は教室」の中にある札幌のジンギスカン店「百景園」開店の思い出です。山際氏は同大入学してすぐ創立2年目だった山岳部員となり、当時の豊平町から北海学園が譲り受けた冷水山小屋の管理のために部員集めの苦労はじめ山の話が殆どで、百景園関係は引用分で全部です。
 (3)は旅行案内本「地球の歩き方 2025~2026 北京」からですが、ちょっと扱い方を変えました。というのは「現場主義のジンパ学」とは書いてないけれど、北京の烤に関する諸情報があるよと親切に我がURL(Uniform Resource Locatorの略称)を紹介してくれているので、それがわかるように写真にしました。
 記事の下に写真2枚の上部が見えますが、左は「烤肉季」という有名店の復元大鍋の焼き面で、その上になにか写真付きの説明パネルがぶら下がっているようです。「長い箸で肉をつまみ、床几に片足をかけて肉を焼く(北京あんてぃーく倶楽部提供)」と説明してます。
令和6年
(1) 「廃用」の老羊をどう美味しく食すか
           河崎秋子

<略> スライスした肉がバットに山盛り用意できたら、次は下漬け液だ。リンゴ、タマネギ、ショウガ、ニンニク、ミカンをとにかくすりおろす。この下漬けは野菜と果物の酵素によって肉のタンパク質を柔らかくするのが目的だから、リンゴやミカンはジュースではなく生のものを用意する。ジュースだと加熱されているので酵素が働かないのだ(甘みをつける、という意味ではいいのかもしれないが)。
 すりおろしてドロドロしたものを清潔なガーゼで漉して、そこにスライスした肉を漬け込む。時間は二時間から半日はおいておきたいところだ。ちなみに、タマネギをすりおろす時やガーゼで漉す際、ビニール手袋等で手をガードすることをお勧めする。でないと掌に致命的なタマネギ臭が染みつき、美味しいジンギスカンと引き換えに三日間は憂鬱な日を過ごすためになる経験者が言うのだから間違いない。あれは辛い。
 肉を漬け込んでいる間に、漬けダレを用意する。醤油をベースに酒、砂糖、ごま油、少しのみりんを入れて鍋で煮立てておく。個人的には砂糖多めがいい。また、ごま油は絶対に入れた方がいい。
 さて、下漬け液にしっかり漬け込んだら、肉をザルにとって水けを切る。この時、肉が漬かっていた下漬け液がおよそ食品から発生したとは思えないドス黒さを帯びているが、無視して潔く捨てる。勿体ないから何かに使えるだろうか、という貧乏心を発揮してはいけない。
 煮立てて粗熱をとった漬けダレに肉と切っておいた野菜を入れ、軽く味をしみ込ませたらいよいよジンギスカン鍋でじゅうじゅうと焼いて、ジンギスカンの出来上がりだ。仕上がりは上々。<略>

(2) 父から継いだ土地から「百景園」がスタート
           山際廣昭(昭和32年卒、4期生)

 父が昭和二十八年に亡くなり、あとを継ぎました。否応なしにあの辺一
帯の土地をもとに、これから先食べて行くということに追われて、父がた
またま農業以外の仕事を少しやっていて、農業から転換をしなきゃならな
い時代だということで、飲食業を始めたんです。
 誰かが先にやっていることはすぐ競争になってしまうから、誰もやらな
い飲食業をやろうと、ジンギスカンを始めました。月寒の八紘学園が最初
に始めたんですが、何回か食べに行って「肉を肉屋から買ってきて作れば、
調理人がいなくても商売できる」と思いました。食品管理のいろいろな資
格を取るとか、屠殺といったことは面倒ですから、肉屋さんの卸と提携し
て、私はりんご農家でしたから、りんごをもぎながら、「好きなだけりん
ごを取って食べていいよ、その下で炭火でジンギスカンをやろう」と、そ
れが爆発的に当たりまして、それからは毎年、倍ぐらい客が増えて、天神
山に大きなジンギスカン屋「百景園」を作ったんです。
 それまでは若い人が肉を食べたいと思っても、肉の料理がなかったんで
す。本州のほうへ行くと松坂にしても近江にしても、牛肉の霜降りがいい
なんて言われますけど、牛肉だけだとものすごく臭くて食べにくいものな
のです。羊も臭いので匂いを消して食べる。
 一般の人でも焼肉は誰でもできることですが、調理人の世界というのは
ものすごく複雑なんです。本当に食品の良い悪いという知識のある調理人
は、まず千人に数えるだけしかいないものです。旬の山菜で中毒死する人
がいますが、そういう食べ物の恐ろしさというものを、商売をやっていく
うえでだんだん教えられました。
 規模が大きくなっていくうちに、畑で丸太の木を椅子にして、炭火で食
べるようなジンギスカンはあまり良くないということで、小屋を作り、屋
根をかけて、虫が入らないように網戸をつける、下もコンクリートにしな
きゃならない……となっていきました。だんだん贅沢になっていって、畳
を敷いて、夏は冷房、冬は暖房をつけなきゃ……と、こうなっていくわけ
です。

(3) 北京で楽しむ羊肉料理
           地球の歩き方編集室

 令和7年のトップはキャッチフレーズによると「浪曲界に25年ぶりに入門した逸材!」である玉川太福師が名寄煮込みじんぎすかんに相まみえたことを含む「玉川太福私浪曲唸る身辺雑記」からです。
 私はガクがなくて民謡などの始めに付ける記号は庵点(いおりてん)と呼ぶとは知らなかったね。うどんすすりのところで出てくる扇辰師匠というのは、玉川師の前に一席聞かせた落語の入船亭扇辰師匠のことです。あれこれ書きまくる浪曲師玉川太福師らしい「あぁぁぁ、いぃぃぃ」という表現は本の通りです。
 (2)は百度ここ愛著「シロクマのシロさんと北海道旅行記」からです。彼氏と同じ大学を受け、落ちたため別れを宣告されるやら母の嫌みで腹を立てた恵は家を飛び出し、札幌にいる大学生の姉のところへ向かう。そして新千歳からの快速エアポート内で、紺色のダッフルコートを着たシロクマと知り合う。姉が旅行中で不在のため、そのシロさんの部屋に泊めてもらい、シロさんと語り合いながら温泉にも入り、ジンギスカンも食べたりする不思議な旅行記です。
令和7年
(1) 名寄に行ってきました物語
           玉川太福

<略>
 〽いざ向かいますは テントサウナへとぉぉぉ
 ピヤシリスキー場というぅぅぅ そこまでバスで行きまして
 まずは揃って腹ごしらえ 名寄の誇るB級グルメぇぇぇ
 その名ぁぁぁ 名付けてぇぇぇ 煮込みジンギスカンんんん(爆笑)

 ジンギスカンってのは焼くイメージですけれども、煮込みジンギスカンってのがあって、本当見た感じ小さな土鍋に、いわゆる煮込みうどんみたいな容器に入ってきて、グツグツグツグツなっていて、実際うどんなんかも入っているんです。そん中に肉も入っていてジンギスカンだって話で。名寄版だから、餅が入っていたり厚揚げが入っていたり、って感じで美味しいですよ。ちょっと見た目は、煮込みうどんかなって感じなんですけれど、ちゃんとジンギスカンでね、味はちょっと濃いめで。
 ズズズズゥゥゥ(うどんをすする所作)。まぁ浪曲師としては結構上手いほうなんですけど(爆笑・拍手)。扇辰師匠の芸のあとで演ることではないんですけれど(笑)。「浪曲師でも、これぐらい出来るぞ」っていうね。
 さあ、いよいよ、ここからスキー場の片隅にね、テントサウナがあるっていうんですよ。
 <略>
 〽スゥノォーモォビルに引っ張られ バナナボートは進んでく
 スキーウエアの人々の 視線一身浴びながら(爆笑)
 白銀の中を駆けていく 思っていたのと違うのは(笑)
 ちょっと思っていたのと違ったのはぁぁぁ~
 ゆっくり ゆっくりぃぃぃ 進んでいくぅぅぅ(爆笑)
 <略>
 〽助けてくれますぅぅぅ
 (敬礼して)自衛隊がぁぁぁ(爆笑・拍手)
 <略>
 〽初体験のテントサウナぁぁぁ チャックを開けて入ります
 見るから堅牢なストーブ2台ぃぃぃ
 あっという間に温度は上がり 100℃以上になりまして
 サウナストーンにロウリュウすれば あがる蒸気のゆらめきにぃぃぃ
 寒さ忘れるぅぅぅ 心地よさぁぁぁ
 <略>
 〽手をつき膝をつき ゆっくりと 雪ダイブならぬぅぅぅ
 雪倒れぇぇぇ(爆笑・拍手)
 <略>
 〽ちょうど時間となりました
 名寄に行ってきました物語は まず!
 <略>

(2) ジンギスカン
           百度ここ愛
 
<略> ちょうどいいタイミングで、ジンギスカンが届く。
 ほかほかの湯気を立てるお肉は、いい色をしていた。
 お肉を焼いた香ばしい匂いが鼻の奥を刺激して、お腹をぐうぅと鳴らす。
 目の前のジンギスカンが冷める前に、と箸で摘む。ジンギスカンを一口食べてみれば、口の中で脂がじゅわりと染み出して、フルーティーなタレと相まって旨みが押し寄せてきた。
「おいしいですね」
「もう、食べ物の方に集中してるじゃない」
「いい匂いでずっと我慢してたんですもん」
「それもそうね」
 シロさんもハフハフと頬張って、幸せそうな顔で笑う。私もこんな幸せそうな表情で、笑っているのだろうか。
 マシマジと観察していれば、シロさんはお皿を持ち上げて横を向きながら食べ始める。
「あげないわよ」
「違いますよ!」
「じゃあ何?」
「おいしそうだなって」
「違くないじゃない」
 見ることをやめて、私もジンギスカンに集中する。白いご飯が欲しくなるようなタレの味だ。おいしくて、つい、私の唇も綻ぶ。
 きっと今、私はシロさんと同じ顔をして笑っているだろう。シロさんのマネだったけど、中指を立てることもしっくりきている。
「シロさんは」
「んー?」
「すごい人です」
「家族とも仲良くできないような、矮小な人間よ。中指立てるようなお行儀も悪さもあるし」
 シロさんはふっと自嘲的に笑って、ジンギスカンを口に運ぶ。<略>

 今回の講義はここまでだが、来年の「明治・大正・昭和編」とこの「平成・令和編」の講義までにね、私は犬棒検索で新旧の本を探し、そのエッセンスを話したいと思っておるが、この時代は漫画本とツアーガイド本が多くてね、労多くして本少なし、疲れるよ。しかし、ゆるがせにはできない。なぜならばだね、新しい日本語として北大生まれの単語「ジンパ」を各種の国語辞典にね、取り入れさせることを、我がジンパ学の新たな目標としたからなんです。
 それには先ず、ジンパという名詞がいつごろから北大生の間で使われるようになったという証明が必要だ。次回はそれらの考察について話すが、この講義録を読んでいるOBOG諸氏の協力が絶対に必要なので、ぜひまた講義録を読み、手がかりになるような思い出、これはと思う情報をね、ぜひ私か北大150年史編集室にメールで知らせてほしい。私のアドレスはこの講義録の末尾、すぐ下にあるからね。いまから御願いしておきます。はい、終わります。


続けて講義録【明治・大正・昭和編】を読む

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何もないはずなんです。
 文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気付きの点がありましたら、まずは
 shinhpjinpagaku@gmail.com 
尽波満洲男へご一報下さるようお願いします。

    参考文献

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(1)は雄山閣編「旅風俗〔Ⅱ〕道中篇 街道で起きる事件の泣き笑い」14ページ、「『講座日本風俗史』について」より、平成元年4月、雄山閣出版=原本
(2)は糧友会編「糧友」13巻3号98ぺージ、川島四郎「蒙古人の羊の屠殺要領」より、昭和13年3月、糧友会=原本
(3)は同巻11号86ページ、川島四郎「栄養学上から見たる蒙古FOOD記」より、同年11月、同
(4)は雄山閣編「旅風俗〔Ⅱ〕道中篇 街道で起きる事件の泣き笑い」176ページ、「道中の食糧」より、平成元年4月、雄山閣出版=原本
大橋鎮子編「暮しの手帖」19号144ページ、「家庭学校」より、平成元年4月、暮しの手帖社=原本
田辺聖子著「姥うかれ」174ページ、「姥けなげ」より、平成元年7月3刷、新潮社=原本
(4)は講談社編「現代」24巻1号40ページ、夏目房之介「鍋と愛を煮つめて」より、平成2年1月、講談社=原本
(5)は思想の科学社編「思想の科学」第7次129号9ページ、奈浦なほ「北海道≠東京の反対語」より、平成2年6月、思想の科学社=館内限定デジタル本
(6)は土木学会編「土木学会誌」51巻7号62ページ、「懇親会」より、昭和41年7月、土木学会=原本
講談社編「現代」24巻1号402ページ、夏目房之介「鍋と愛を煮つめて」より、平成2年1月、講談社=原本
文芸春秋編「文学界」44巻3号166ページ、高橋揆一郎「じねんじょ」より、平成2年3月、文芸春秋=館内限定デジタル本
「幻想文学」編集部編「澁澤龍彦――回想と批評」161ページ、加藤郁乎「後方見聞録――澁澤龍彦の巻」より、平成2年4月、幻想文学出版局=原本
思想の科学社編「思想の科学」第7次129号8ページ、奈浦なほ「北海道≠東京の反対語」より、平成2年6月、思想の科学社=館内限定デジタル本
佐々木直追悼録刊行会編「佐々木 直」80ページ、小林庄一「月曜クラプと直さん」より、平成2年7月、佐々木直追悼録刊行会=原本
奈須敬二著「捕鯨盛衰記」103ページ、平成2年7月、光琳=館内限定デジタル本
原本
地震学会ニュースレター事務局編「地震学会ニュースレター」2巻4号21ページ、遠藤政男「地震学会秋季大会ジンギスカンパーティーの成功」より、平成2年11月、地震学会=国会図書館デジタルコレクション
講談社編「現代」24巻12号176ページ、藤本義一「十四歳・家出旅」より、平成2年12月、講談社=館内限定デジタル本
文藝春秋編「文藝春秋」68巻14号204ページ、「スピーチのたね」より、平成2年12月、文藝春秋=原本
(7)は五木寛之著「珍道中!逆ハンぐれん隊」講談社書籍広告より、平成3年3月、講談社=原本
(8)は日本国有鉄道技術研究所監修「RRR」48巻11号34ページ、三品勝暉「想い遙かに―30年の鉄道生活を終えて―」より、平成3年11月、研友社=原本
日本評論社編「経済セミナー」432号108ページ、佐藤正之「サフォークの挑戦」より、平成3年1月、日本評論社=館内限定デジタル本
五木寛之著「珍道中!逆ハンぐれん隊」10ページ、平成3年3月、講談社=原本
嵯峨島昭著「ラーメン殺人事件」199ページ、「ジンギスカン料理殺人事件」より、平成3年8月、光文社=原本、初出は昭和62年の「別冊小説宝石 初夏特別号」
高島巌著「これでも医者だどさ」23ページ、平成3年11月、北海道新聞社=原本
日本国有鉄道技術研究所監修「RRR」48巻11号34ページ、三品勝暉「想い遙かに―30年の鉄道生活を終えて―」より、平成3年11月、研友社=原本
財界研究所編「財界」39巻27号92ページ、小宮山義孝(総武都市開発社長)「ゆかいな仲間」より、平成3年11月5日、財界研究所=館内デジタル本
(9)は朝日新聞社編「週刊朝日」34巻16号114ページ、「札幌」より、平成4年4月15日発行、朝日新聞社=原本
(10)は札幌学院大学人文学部編「北海道の村おこし町おこし」36ページ、大石和也講演記録「地域づくりにおける生活と文化の役割」より、平成4年7月、札幌学院大学人文学会=原本
(11)は同70ページ、同
大修館書店編「月刊しにか」3巻3号4ページ、平成4年3月、大修館書店=原本
朝日新聞社編「週刊朝日」34巻16号114ページ、「札幌」より、平成4年4月15日発行、朝日新聞社=原本
稲垣足穂著「星の都」182ページ、「早春抄」より、平成4年5月3刷、マガジンハウス=原本
札幌学院大学人文学部編「北海道の村おこし町おこし」70ページ、大石和也講演記録「地域づくりにおける生活と文化の役割」より、平成4年7月、札幌学院大学人文学会=原本
(12)はホトトギス社編「ホトトギス」96巻4号19ページ、飯山広美「石室」より、平成5年4月、ホトトギス社=国会図書館デジタルコレクション
北海道大学準硬式野球部OB会編「部の歩み 創立40周年記念誌 1992」40ページ、平成5年1月、北海道大学準硬式野球部OB会=原本
藤本義一著「旅に出る理由」67ぺージ、「道標に出会う旅」より、平成5年2月、PHP研究所=原本
ホトトギス社編「ホトトギス」96巻4号19ページ、飯山広美「石室」より、平成5年4月、ホトトギス社=国会図書館デジタルコレクション
東洋経済新報社編「週刊東洋経済」5142号86ページ、「人生二毛作 (92」より、平成5年5月8日発行、東洋経済新報社=原本
日本山岳会北海道支部編「ヌプリ」23号(北海道支部創立25周年記念号)3ページ、平成5年12月、日本山岳会北海道支部=原本
中薗英助著「わが北京留恋の記」42ページ、「見果てぬ夢の蓮子粥」より、平成6年2月、岩波書店=館内限定デジタル本
新潮社編「新潮」91巻3号7ページ、笠原淳「茶色い戦争」より、平成6年3月、新潮社=館内限定デジタル本
海老沢泰久著「美味礼讃」210ページ、「第三部」より、平成6年5月、文芸春秋=原本
俵万智著「かぜのてのひら」160ページ、「夏の目覚め」より、平成6年5月、河出書房新社=原本
小西正泰監修、阿部禎著「干支の動物誌」181ページ、平成6年10月、技報堂出版=原本
(13)は高橋揆一郎著「未完の馬」89ページ、「未完の馬―夭折の画家、神田日照」より、平成7年4月、十勝新聞社=原本
(14)は福留繁著「海軍生活四十年」234ページ、「高山町のうなぎ」より、昭和46年5月、時事通信社=国会図書館デジタルコレクション
(15)は日本農村生活研究会編「農村生活研究」39巻1号18ページ、「北海道における羊肉消費の展開」より、平成7年2月、日本農村生活学会=原本
(16)は渡辺淳一著「これを食べなきゃ――わたしの食物史」201ページ、「平原で食べてこそ成吉思汗」より、平成7年10月、集英社=原本
(17)は窪田蔵郎著「シルクロード鉄物語」52ぺージ、「草原に花開いた鉄文化」より、平成7年7月、雄山閣出版=原本
(18)は権田恩恵編「鉄鋼界」45巻10号61ぺージ、田口勇「定年退職後10年シルクロートの鉄に挑戦『シルクロード鉄物語』窪田蔵郎著」より、平成7年10月、社団法人日本鉄鋼連盟=国会図書館デジタルコレクション
文芸春秋編「別冊文芸春秋」176号386ページ、高橋揆一郎「未完の馬」より、昭和61年7月、文芸春秋=原本
文芸春秋編「週刊文春」37巻3号93ページ、和田勉「わが母校 旧制鹿屋中学校」より、平成7年1月19日発行、文芸春秋=館内限定デジタル本
日本農村生活研究会編「農村生活研究」39巻1号18ページ、「北海道における羊肉消費の展開」より、平成7年2月、日本農村生活学会=原本
椎名誠編「本の雑誌」20巻5号28ページ、坂東齢人「新刊めったくたガイド」より、平成7年5月、本の雑誌社=原本
渡辺淳一著「これを食べなきゃ――わたしの食物史」199ページ、「平原で食べてこそ成吉思汗」より、平成7年10月、集英社=原本
賀曽利隆著「バイクで越えた1000峠」35ページ、平成7年10月、JTB日本交通公社出版事業局=原本
窪田蔵郎著「シルクロード鉄物語」50ぺージ、「草原に花開いた鉄文化」より、平成7年7月、雄山閣出版=原本
(19)は平成15年1月8日付北海道新聞23面、連載「探偵団がたどるジンギスカン物語」その2=北海道新聞縮刷版
(20)は中尾佐助著「料理の起源」128ページ、「偏見の世界」より、昭和47年12月、日本放送出版協会=館内限定デジタル本
(21)は瀬戸内寂聴著「わたしの宇野千代」251ページ、平成8年9月、中央公論社=原本
新藤常右衛門著「ああ疾風戦闘隊 大空に生きた強者の半生記録」78ページ、「匪賊討伐に大空の出陣」より、平成8年1月、光人社=原本
岡田哲著「日本の味探求事典」159ページ、平成8年1月、東京堂出版=原本
100人の共同執筆「あの時あの味あの風景 食と味、あの話しこんな話し」75ページ、平成8年3月、スカット出版=原本
サッポロビール株式会社広報部社史編纂室編「サッポロビール120年史」537ページ、「不動産活用など関連事業の本格化」」より、平成8年3月、サッポロビール株式会社=原本
養賢堂編「畜産の研究」50巻6号72ページ、高石啓一「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」より、平成8年6月、養賢堂=原本
新潮社編「小説新潮」50巻6号250ページ、太田和雄「酒場放浪記(高知)」より、平成8年6月、新潮社=館内限定デジ本
藤門弘著「牧場物語 北海道アリスファームの四季」244ページ、平成8年10月、地球丸=原本
瀬戸内寂聴著「わたしの宇野千代」252ページ、平成8年9月、中央公論社=原本
(22)は東京裁縫女学校編「裁縫雑誌」21巻12月号80ページ、一戸伊勢「羊肉に就て」より、大正11年12月、東京裁縫女学校出版部=原本
(23)は月寒史料発掘会編「聞書き史料(1)~30」2ページ、平成9年11月19日記録=原本
横山博之、岩城道子著「北海道/アウトドアライフまるかじり キャンプから野外料理まで」124ページ、平成9年6月、北海道新聞社=原本、
光文社編「週刊宝石」17巻33号206ページ、「アジアン美女6人の日本ウルルン滞在記」より、平成9年9月11日、光文社=原本
芳賀登、石川寛子監修「全集日本の食文化(8) 異文化との接触と受容」190ページ、山塙圭子「北海道の洋食文化に関する研究(2) ――各種記録から見る洋食文化の受容――」より、平成9年10月、雄山閣出版=原本
建設物価調査会編「建設統計月報」418号ページ、佐藤周規「北海道を丸ごと食べよう!」より、平成9年10月、建設物価調査会=国会図書館デジタルコレクション
月寒史料発掘会編「聞書き史料(1)~30」2ページ、平成9年11月19日記録=原本
講談社編「群像」52巻12号219ページ、日野啓三「天池」より、平成9年12月、講談社=館内限定デジタル本
(24)は吉田稔著「牧柵の夢 北の畜産とともに生きて」87ページ、平成10年3月、デーリィマン社=原本
(25)は和田由美著「続・和田由美の札幌この味が好きッ!」68ページ、「真のマトン好きには堪らない大人の味わい」より、平成28年12月、亜璃西社=原本
(26)は久間十義著「限界病院」22ページ、令和3年11月、新潮社=原本
吉田稔著「牧柵の夢 北の畜産とともに生きて」87ページ、平成10年3月、デーリィマン社=原本
和田由美著「日曜日のカレー」63ページ、平成10年4月、亜璃西社=原本
文芸春秋編「文芸春秋」73巻5号ベージ番号なし、戸塚省三「勇利アルバチャコフ ジンギスカン鍋」より、平成10年4月、文芸春秋=館内限定デジタル本
千石涼太郎著「もっとおいしい北海道の話」162ページ、平成10年5月、ティーツー出版=原本
日本航空文化センター編「サライ」10巻11号96ページ、坂川栄治、北崎二郎「道草のグズベリー」より、平成10年6月、日本航空文化センター=原本
小学館編「サライ」巻号16ページ、「特集 旨さを生み出す玉手箱」より、平成10年6月4日、小学館=原本
講談社編「群像」53巻9号139ページ、久間十義「心臓が二つある河 その一」より、平成10年9月、講談社=原本
渡辺淳一著「これを食べなきゃ わたしの食物史」202ページ、「平原で食べてこそ成吉思汗」より、平成10年10月、集英社=原本
大蔵省大臣官房文書課編「ファイナンス」通巻397号44ページ、川合義房「北の関守 パワフルな税関マン」より、平成10年12月、大蔵財務協会=国会図書館デジタルコレクション
(27)は平凡社編「太陽 天皇の料理番特集」37巻1号ページ番号なし、「エリート羊が牧草地でのびのびと育つ」より、平成11年1月、平凡社=館内限定デジタル本
資料その2はそのころ定番のスタイル、新聞紙のエプロンをかぶってジンギスカンを味見中の尽波満洲男氏、ジン鍋の食ベ過ぎかビールのせいか当時は80キロ超だった。
(28)は中央公論社編「中央公論」1344号207ページ、加藤九祚「虚空にたいする畏れ―徳と功と言を立てた『不朽』の人からいただいたもの 」より、平成8年9月、中央公論社=館内限定デジタル本
(29)は文芸春秋編「司馬遼太郎の世界」79ぺージ、高峰秀子「菜の花」より、平成8年10月、文芸春秋=原本
平凡社編「太陽 天皇の料理番特集」37巻1号79ページ、中沢けい「すっと空気が変わる」より、平成11年1月、平凡社=館内限定デジタル本
朝日新聞社編「週刊朝日」104巻3号71ページ、「デキゴトロジー」より、平成11年1月22日発行、朝日新聞社=原本
文芸春秋編「別冊文芸春秋」226号227ページ、椎名誠「すっぽんの首」より、平成11年1月、文芸春秋=原本
噂の真相編「噂の真相」21巻11号98ページ、同12号100ページ、田中康夫「東京ペログリ日記」より、平成11年11月、11月、噂の真相=原本
司馬遼太郎著「司馬遼太郎全集」64巻138ページ、「街道をゆく」より、平成11年11月、文芸春秋=原本、底本は「週刊朝日」平成4年4月3日号、同4月10日号
(30)は明治書院編「日本語学」19巻7号62ページ、「各地方言の食生活語彙を散歩する」の「●北海道 菅泰雄」より、平成12年8月、明治書院=館内限定デジタル本
(31)は 村元直人著「北海道の食 その昔、我々の先人は何を食べていたか」305ページ、「蝦夷・北海道食物史関係年表」より、平成12年12月、幻洋社=原本
明治書院編「日本語学」19巻7号62ページ、菅泰雄「北海道」より、平成12年8月、明治書院=館内限定デジタル本
村元直人著「北海道の食 その昔、我々の先人は何を食べていたか」145ページ、「ジンギスカンのルーツ」より、平成12年12月、幻洋社=原本
(32)は西村淳著「面白南極料理人」106ページ、平成13年5月、春風社=原本
(33)は同106ページ、同
西村淳著「面白南極料理人」106ページ、平成13年5月、春風社=原本
100年史編集委員会編「北海道大学野球部100年史[1901~2000]」119ページ、平成13年10月、北海道大学図書刊行会=原本、
(34)はSTVラジオ編「続・ほっかいどう百年物語」221ページ、「栗林元二郎 1886~1977」より、平成14年9月、中西出版=原本
(35)はSTVラジオ編「続・ほっかいどう百年物語」221ページ、「栗林元二郎 1886~1977」より、平成14年9月、中西出版=原本
(36)は日本聞き書き学会編「北海道聞き書き隊選集」117ページ、聞き手斉藤秀世「ジンギスカン物語『八紘学園とともに』」より、平成15年3月、日本聞き書き学会=原本
(37)は栗林先生追想記刊行会編「追想記 栗林元二郎」166ページ、昭和58年2月、栗林先生追想記刊行会=国会図書館デジタルコレクション
(38)は同167ページ、同
黒川鍾信著「神楽坂ホン書き旅館」66ページ、「ここは牛込、神楽坂」より、平成19年11月、新潮社=原本
八紘学園七十年史編集委員会編「八紘学園七十年史」159ページ、平成14年7月、八紘学園=原本
STVラジオ編「続・ほっかいどう百年物語」221ページ、「栗林元二郎 1886~1977」より、平成14年9月、中西出版=原本
金井美恵子著「待つこと、忘れること?」213ページ、「秘伝のタレ」より、平成14年10月、平凡社=原本
平成15年1月9日付北海道新聞朝刊23面、「探偵団がたどるジンギスカン物語 調査報告その3 ルーツを探る」より=北海道新聞縮刷版
人事院総務課編「人事院月報」56巻2号38ページ、宮本義晴「単身生活よもやまばなし―豊かな北の大地に魅せられて―」より、平成15年2月、人事院総務課=原本
日本聞き書き学会編「北海道聞き書き隊選集」119ページ、聞き手斉藤秀世「ジンギスカン物語『八紘学園とともに』」より、平成15年3月、日本聞き書き学会=原本
文芸春秋編「文芸春秋」81巻4号102ページ、「札幌からの桜だより」より、平成15年3月、文芸春秋=原本
日本民主主義文学会編「民主文学」452号71ページ、神林槻子「子の隠し」より、平成15年6月、新日本出版社=原本
佐藤隆介著「日本口福紀行 がんこの卓上」35ページ、「ジンギスカン」より、平成15年7月、日本放送出版協会=原本
林真理子著「トーキョー偏差値」194ページ、「美人の道は果てしなく」より、平成15年9月、マガジンハウス=原本
養賢堂編「畜産の研究」57巻10号97ページ、高石啓一「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」より、平成15年10月、養賢堂=原本
(39)は佐々木道雄著「焼肉の文化史」330ページ、《図8-7》より、平成16年7月、明石書店=原本
(40)は村山鎮雄著「史料 画家正宗得三郎の生涯」182ページ、平成8年12月、三好企画=原本
資料その3は佐々木道雄著「焼肉の文化史」330ページ、挿絵「北京・正陽楼のジンギスカン料理」より、平成16年7月、明石書店=原本
尽波注=当時ホームページで使ったシフトJISの字に弴が無かったので里見惇とした。時事新報は正しく弴である。
(41)は佐々木道雄著「焼肉の文化史」382ページ、「俗説は繁栄する」より、平成16年7月、明石書店=原本
自由社編「自由」89ページ、「保守派のための読書ノウト(70)」より、平成16年3月、自由社=原本
ダイヤモンド社編「週刊ダイヤモンド」2004/04/24号139ページ、勝谷誠彦「 勝谷誠彦の食う!呑む!叫ぶ! 53回」より、平成16年4月、ダイヤモンド社=原本
野村潤一郎著「どうぶつ型 隣人をもっと深く知る40の方法」66ページ、「10 ヒツジ型」より、平成16年5月、岳陽舎=原本
平成16年6月21日付北海道新聞朝刊1面、コラム「卓上四季」より=原本
佐々木道雄著「焼肉の文化史」308ページ、「〝焼肉〟の起源再考」より、平成16年7月、明石書店=原本
趙珩著、鈴木博訳「中国美味漫筆」49ページ、「異化されたモンゴル烤肉」より、平成16年7月、青土社=原本
野瀬泰申著「全日本『食の方言』地図」、平成16年7月、日本経済新聞社=原本
瀬戸竜哉、小島裕子編「むかし、みんな軍国少年だった」292ページ、和田勉「戦時中も玉手箱は天国の思い出」より、平成16年9月、G.B.
経営塾編「月刊BOSS」19巻10号64ページ、「関口房朗の馬主日記 連載⑮」より、平成16年10月、経営塾=館内デジタル本
谷村志穂著「白の月」218ページ、「蒼い水」より、平成16年11月、集英社=原本
喜味こいし、戸田学著「いとしこいし 漫才の世界」230ページ、平成16年11月4刷、岩波書店=原本
(42)は朝日新聞社編「週刊朝日」110巻16号748ページ、東海林さだお「あれも食いたいこれも食いたい」878回より、平成17年4月8日発行、朝日新聞社=原本
(43)は光文社編「小説宝石」38巻6号158ページ、井上尚登「ストックオプションの罠」より、平成17年6月、光文社=原本
株式会社マツオ編「Matsuo Jingiskan Magazine」創刊号1ページ、「ジンギスカンに恋した男たち。」より、平成17年3月、株式会社マツオ=原本
朝日新聞社編「週刊朝日」110巻16号748ページ、東海林さだお「あれも食いたいこれも食いたい」878回より、平成17年4月8日発行、朝日新聞社=原本
朝日新聞社編「AERA」18巻25号48ページ、内田麻紀「ジン鍋進化論 激増するジンギスカン鍋店」より、平成17年5月16日発行、朝日新聞社=原本
日経BP社編「日経ビジネス」1293号23ページ、「売れ筋読み筋」より、平成17年5月30日、日経BP社=原本
坂本儀郎編「月刊レジャー産業資料」38巻5号166ぺージ、安田理「羊肉=ジンギスカン料理店が続々都内にお目見え」より、平成17年5月、綜合ユニコム=原本
文学界編集部編「文学界」62巻5号304ページ、伊藤たかみ「海峡の南(第五回)」より、平成17年5月、文芸春秋=原本
情報企画編「月刊イズム」16巻6号28ページ、座談会「ジンギスカンは北海道で最高の食文化だ!!」より、平成17年6月、情報企画=原本
光文社編「小説宝石」38巻6号158ページ、井上尚登「ストックオプションの罠」より、平成17年6月、光文社=原本
飛田和緒著「飛田和緒の台所の味」48ページ、「待つのも楽しみなお取り寄せ」より、平成17年6月、東京書籍=原本
江木裕計編「小説新潮」59巻9号442ページ、高橋洋二「昼下がりの洋二」より、平成17年9月、新潮社=原本
ジンギスカン食普及拡大促進協議会編「北海道遺産記念 ジンギスカンミニガイド」1ページ、辻井達一「ジンギスカンサミット開催に寄せて」より、平成17年9月、ジンギスカン食普及拡大促進協議会
同「ジンギスカ新聞」4ページ、飯田隆雄「ジンギスカンサミット開催に寄せて」より、同
新潮社編「新潮」102巻10号7ページ、清水博子「Vanity」より、平成17年10月、新潮社
山本幸久著「幸福ロケット」73ページ、「お父さんのオムライス」より、平成17年11月、ポプラ社=原本
文芸春秋編「オール読物」60巻12号123ページ、小川洋子「土地の記憶を歩く・北海道・炭鉱町の廃墟を訪ねて」より、平成17年12月、文芸春秋=原本
(44)はhttps://www.youtube.
com/watch?v=UnxXulgYVCM&t=37s
(45)は
https://www.tripadvisor.jp/
Attraction_Review-g1056644
-d21389754-Reviews-Monument
_for_Kiyohiro_Miura-Muroran
_Hokkaido.html
自由国民社編「現代用語の基礎知識 2006」、「食文化」1220ページ、「今年の料理ブームとそのつくり方」1582ページ、「美容」1284ページ、「北海道」1610ページ、平成18年1月、自由国民社=原本
imidas編集部編「imidas2006」1095ページ、犬養裕美子「フードトレンド」より、平成18年1月、集英社=原本
能勢剛編「日経おとなのOFF」50号119ページ、中島羊一「石炭ストーブのおかげで生まれた本場、北海道のジンギスカン鍋」より、平成18年1月、日経ホーム出版社=原本
石毛直道著「ニッポンの食卓 東飲西食」88ページ、平成18年3月、平凡社=原本、
長谷川浩編「すばる」28巻4号248ページ、辻仁成「右岸 連載51回」より、平成18年4月、集英社=原本
新潮社編「小説新潮」743号270ページ、桜井寛「全国トロッコ列車ベスト10」より、平成18年4月、新潮社=原本
経済企画協会編「ESP」408号41ページ、品田英雄「モノ余り時代のヒットのツボ」より、平成18年4月、社団法人経済企画協会
東京人編集室編「東京人」21巻8号148ページ、出口裕弘「わが北海道を食べ歩く。」より、平成18年7月、都市出版=原本
三浦清宏著「海洞――アフンルパロの物語」99ページ、第4章「なして日本に帰ったのさ」より、平成18年9月、文芸春秋=原本
山口猛著「幻のキネマ満映」ページ、「右翼、左翼、活動屋の華麗な饗宴」より、平成18年9月、平凡社=原本
高橋曻著「開高健 夢駆ける草原」46ページ、「モンゴルのものはモンゴルに。」より、平成18年10月、つり人社=原本
中央公論社編「中央公論」121巻12号201ページ、林家正蔵「高座舌鼓」⑰より、平成18年12月、中央公論社=原本
(46)は新潮社編「小説新潮」61巻3号55ページ、椎名誠「麺の甲子園」より、平成19年3月、新潮社=館内限定デジタル本
(47)は桑沢篤夫、(有)フロッシュ著「マンガで知る 日本全国名物グルメ誕生伝 東日本編」ページ番号なし、平成19年4月、ホーム社=原本
(48)は平成26年9月26日付産経新聞東京版朝刊26面「大人の遠足 神奈川県茅ヶ崎市 開高健の足跡をたどる(古川有希)」
(49)は勝見洋一著「匂つ立つ美味」21ページ、「羊肉」より、平成19年9月、光文社=原本
(50)は同201ページ、「ハヤシライス」より、同
(51)と(52)は宇佐美伸著「どさんこソウルフード 君は甘納豆赤飯を愛せるか!」156ページ、平成19年12月、亜璃西社=原本
(53)は同157ページ、同
新潮社編「小説新潮」753号203ページ、座談会「挽き肉の逆襲が始まる!」より、平成19年2月、新潮社=原本
新潮社編「小説新潮」61巻3号55ページ、椎名誠「麺の甲子園」より、平成19年3月、新潮社=館内限定デジタル本
平成19年3月28日付ONTONA(女性せいかつ情報紙)16面「暮らしアラカルト」=原紙
桑沢篤夫画、フロッシュ著「マンガで知る 日本全国名物グルメ誕生伝 東日本編」ページ番号なし、平成19年4月、ホーム社=原本
梅田みか著「年下恋愛」99ページ、「第5章 愛があれば年の差なんて!?」より、平成19年5月、マガジンハウス=原本
飛鳥新社編「icsue spring issue」5号16ベ-ジ、菊谷匡祐「開高健の杯 ジンギスカン屋でロマネ・コンティ」より、平成19年5月、飛鳥新社=館内限定デジタル本
文藝春秋編「文藝春秋」85巻6号170ページ、山崎努「いま、どこにいるの?」より、平成19年6月、文藝春秋=原本
勝見洋一著「匂つ立つ美味」21ページ、「羊肉」より、平成19年9月、光文社=原本
内沢旬子著「世界屠畜紀行」1ページ、「まえがき」より、平成19年9月、解放出版社=館内限定デジタル本
黒川鍾信著「神楽坂ホン書き旅館」66ページ、「ここは牛込、神楽坂」より、平成19年11月、新潮社=原本
宇佐美伸著「どさんこソウルフード 君は甘納豆赤飯を愛せるか!」154ページ、平成19年12月、亜璃西社=原本
(54)は講談社編「小説現代」46巻3号132ページ、椎名誠「新宿遊牧民 バカたちはずっと西をめざす」より、平成20年3月、講談社=原本
毎日新聞社編「週刊エコノミスト」86巻13号75ページ、松原聡「松原聡の喰えば投資が分かる!」より、平成20年3月1日号、毎日新聞社=原本
講談社編「小説現代」46巻3号133ページ、椎名誠「新宿遊牧民 バカたちはずっと西をめざす」より、平成20年3月、講談社=原本
三善貞司編「大阪伝承地誌集成」93ページ、「中央区(大阪市)」より、平成20年5月、清文堂=原本
吉村達也著「その日本語が毒になる」104ページ、「普通のようで変な日本語」より、平成20年5月、PHP研究所
講談社編「小説現代」46巻13号454ページ、櫂未知子「季語の引力」より、平成20年10月、講談社=原本
(55)は杉冨士雄監修、佐藤巌、岡部喬、松田照彦、加藤健次、伊東真実著「フランス料理仏和辞典」38ページ、平成4年3月9版、イトー三洋株式会社=原本
出村明弘著「ことばのご馳走 こころの滴をあなたに」111ページ、平成21年2月、柏艪舎=原本
立石敏雄著「笑う食卓」初版第2刷283ページ、平成21年4月、阪急コミュニケーションズ=原本
文芸春秋編「文学界」63巻4号267ページ、安戸悠太「遊ばせている駐車場」より、平成21年4月、文芸春秋=原本
文芸春秋編「オール読物」64巻7号84ページ、平松洋子「いまの味」より、平成21年7月、文芸春秋=原本
榊原英資著「知的食生活のすすめ 食文化と歴史から考える新しいライフスタイル」16ページ、「『美味礼讃』の陥穽」より、平成21年11月、東洋経済新報社=原本
(56)は本格ミステリ作家クラブ編「本格ミステリ’10 二〇一〇本格短編ベスト・セレクション」70ページ、平成22年6月、講談社=原本
(57)は同*ぺーじ、同
綾小路きみまろ著「一つ覚えて三つ忘れる中高年」75ページ、平成20年2月、PHP研究所=原本
養賢堂編「畜産の研究」64巻2号299ぺージ、高石啓一「農家の友にみた成吉思汗の顛末(1)」より、平成22年2月、養賢堂=原本
本格ミステリ作家クラブ編「本格ミステリ´10 二〇一〇本格短編ベスト・セレクション」70ページ、平成22年6月、講談社=原本
松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫著「衛生指導員ものがたり 『八千穂村全村健康管理50年』別冊」143ページ、「よく食べ、よく飲み、よく学ぶ」より、平成23年3月、JA長野厚生連佐久総合病院==原本
小瀬木麻美著「ラブオールプレー」163ページ、平成23年5月、ポプラ社=原本
角田光代著「今日もごちそうさまでした」8ページ、平成23年9月、アスペクト=館内限定デジタル本
(58)=
http://tontan303.blog51.fc2.com
/blog-date-201109.html
(59)=
http://tontan303.blog51.fc2.com
/blog-date-201010-3.html
通信文化協会北海道地方本部「統合の秋に向け鋭気養う」より=
http://tontan303.blog51.
fc2.com/blog-date-201208.html
 日本底辺教育調査会編「ド底辺高校生図鑑」60ページ、平成24年9月、扶桑社=原本
ミニマル+BLOCKBUSTER著「イラストでよくわかる きれいな食べ方」54ページ、平成24年9月、彩図社=原本
柏木いづみ著「ムラサキ いろがさね裏源氏」88ページ、「あけぬ夜に」より、平成24年10月、文芸春秋=原本
平成24年11月1日付北海道新聞・北海道新聞創刊70周年紀念広告特集「ジンギス刊」5面=原本
編集代表富安風生「俳句歳時記 冬」新装第2版309ページ、平成24年12月、平凡社=原本、初版は昭和34年11月
(60)は https://www.webchikuma.jp/
articles/-/3320
(61)は光塩学園女子短期大学編「光塩学園女子短期大学紀要」第12号99ページ、前田和恭「北海道遺産になったジンギスカン料理」より、平成25年3月、光塩学園女子短期大学=原本
(62)は同109ページ、同
(63)は同3号10ページ、南部あき子、南部しず子「これからの日本人の食生活についての一考察」より、平成3年3月、光塩学園女子短大=国会図書館ダジタルコレクション
(64)は三浦雄一郎著「75歳のエベレスト 」195ページ、「成人病患者に?」より、平成20年9月、日本経済新聞出版社=原本
集英社編「すばる」27巻2号221ページ、新井一二三「日式中華の起源」より、平成25年2月、集英社=原本
光塩学園女子短期大学編「光塩学園女子短期大学紀要」第12号101ページ、前田和恭「北海道遺産になったジンギスカン料理」より、平成25年3月、光塩学園女子短期大学=原本
岩崎日出俊著「65歳定年制の罠」83ページ、「年齢にとらわれない生き方」より、平成25年3月、KKベストセラーズ=原本
北野麦酒著「蒐める! レトロスペース・坂会館」81ページ、平成25年4月、彩流社=原本
岡田哲著「たべもの起源事典 日本編」357ページ、平成25年5月、筑摩書房
池田貴夫著「なにこれ!?北海道学」42ページ、平成25年7月、北海道新聞社=原本
乾ルカ著「メグル」213ページ、「タベル」より、平成25年8月、東京創元社=原本
加藤幸子著「加藤幸子自選作品集 第2巻」465ページ、「苺畑よ永遠に」より、平成25年9月、未知谷=原本
(65)は増田敏也著「七帝柔道記」175ページ、平成25年7月、「恐怖の伝統行事」より、角川書店=原本
(66)は黒川鐘信著「神楽坂ホン書き旅館」66ページ、平成19年11月、新潮社=原本
(67)は政界往来社編「政界往来」23巻11号103ページ、「ノーマン大使との邂逅――ヴァンクーバーと東京で――」より、昭和32年11月、政界往来社=国会図書館デジタルコレクション
(68)は近代映画社編「近代映画」7巻9号ページ番号なし、「私はお角力ファンです」より、昭和26年9月、近代映画社=館内限定デジ本
(69)は
https://en.wikipedia.org/
wiki/Matt_Goulding
岡田哲著「たべもの起源事典 世界編」301ページ、平成26年2月、筑摩書房=原本
増田敏也著「VTJ前夜の中井裕樹」141ページ、対談「思いを、繋げ」より、平成26年12月、イースト・プレス=原本
河出書房新社編「ぐつぐつ、お鍋」86ページ、池部良「ジンギス汗鍋」より、平成26年12月、河出書房新社=原本
マット・グールデング著、羽田詩津子訳「米、麺、魚の国から アメリカ人が食べ歩いて見つけた偉大な和食文化と職人たち」ページ、平成26年12月、扶桑社=原本
(70)は成瀬宇平、横山次郎著「47都道府県・肉食文化百科」44ページ、「知っておきたいその他の肉と郷土料理・ジビエ料理」より、平成27年1月、丸善出版=原本
(71)は千石涼太郎著「なんもかんも北海道だべさ!!」110ページ、「エスカロップは丼飯である」より、平成20年4月、双葉社=原本
(72)は小泉武夫著「くさい食べもの大全」16ページ、平成27年4月、東京堂出版=原本
(73)は小泉武夫著「くさい食べもの大全」14ページ、平成27年4月、東京堂出版=原本
(74)は同15ページ、同
成瀬宇平、横山次郎著「47都道府県・肉食文化百科」45ページ、「知っておきたいその他の肉と郷土料理・ジビエ料理」より、平成27年1月、丸善出版=原本
一志治夫著「奇跡のレストラン アル・ケッチーノ」68ページ、「素材への限りなき愛情」より、平成27年3月、文芸春秋=原本
小泉武夫著「くさい食べもの大全」95ページ、平成27年4月、東京堂出版=原本
井上恭介著「牛肉資本主義 牛丼が食べられなくなる日」50ぺージ、「ヒツジへの玉突き現象」より、平成27年12月、プレジデント社=原本
資料その5は令和4年5月22日付北海道新聞日曜版2面「味力探訪 ジンギスカン」に掲載された御料牧場記念館に残るジンギスカン焼鉄板と勝田健司さん(右)。来客をもてなす貴賓館の庭などで使われた(藤井泰生撮影)」=原本
 尽波註=勝田さんは同記念館の管理関係者。
(75)は瑞木裕著「どーでもミシュラン ホントに美味しい北海道に出会う食うんちく」171ページ、平成28年9月、ベストブック=原本
(76)は平成28年11月3日付日本経済新聞40面、溝口雅明「ジンギスカン 鍋も味わい ◇北の大地に博物館オープン、収集通じ食文化ひもとく◇」=原紙
都会生活研究プロジェクト・大沢玲子著「北海道ルール 最新版」36ページ、「〝でっかいどう〟が誇る! 日本一編」より、平成28年3月、KADOKAWA=原本
都市生活研究プロジェクト・大沢玲子著「北海道ルール 最新版」54ページ、「『♪ソラチジンギスカンの たれっ♪』&焼き肉大国」より、平成28年3月、KADOKAWA=原本
成田市教育委員会生涯学習課編「成田歴史玉手箱 成田市の文化財第47集」11ページ、「下総御料牧場貴賓館 ジンギスカン料理でもてなし国際親善に貢献」より、平成28年3月、成田市教育委員会生涯学習課=原本
荒井宏明著「北海道民あるある」77ページ、「北海道民グルメあるある」より、平成28年8月、TOブックス=原本
濱嘉之著「聖域侵犯」146ページ、「闇の集積」より、平成28年8月、文芸春秋=原本
瑞木裕著「どーでもミシュラン ホントに美味しい北海道に出会う食うんちく」173ページ、平成28年9月、ベストブック=原本
安田正著「超一流の雑談力『超・実践編』18ページ、「引き寄せる話し方」より、平成28年10月、文響社=原本
平成28年11月3日付日本経済新聞40面、溝口雅明「ジンギスカン 鍋も味わい ◇北の大地に博物館オープン、収集通じ食文化ひもとく◇」=原紙
(77)は、いき出版=
https://www.ikishuppan
.co.jp/pages/680/
(78)は成毛眞著「コスパ飯」5ページ、「はじめに」より、平成29年4月、新潮社=原本
(79)は丸山政也著「恐怖実話 奇想怪談」111ページ、「頑固オヤジの店」より、平成29年9月、竹書房
東京出版編「東京人」32巻1号14ページ、大崎善生「最高の贅沢だった味付けジンギスカン」より、平成29年1月、東京出版=原本
畑中三応子著「カリスマフード――肉・乳・米と日本人」87ページ、平成29年1月、春秋社=原本
北野麦酒著「北海道 ジンギスカン四方山話」106ページ、平成29年2月、彩流社=原本
郷土資料「岩見沢民話」調査研究・活用事業実行委員会編「新 いわみざわの民話」227ぺージ、「ジンギスカン料理発祥の地 北村」より、平成29年3月、岩見沢市教育委員会(非売品)=原本
成毛眞著「コスパ飯」78ページ、平成29年4月、新潮社=原本
平成29年4月8日付朝日新聞朝刊26面
荒木源著「人質オペラ」1ページ、「人質」より、平成29年5月、講談社=原本
北大路公子著「流されるにもホドがある キミコ流行漂流記」210ページ、「氷上記」より、平成29年6月、実業之日本社=原本
丸山政也著「奇想怪談 恐怖実話」115ページ、「頑固オヤジの店」より、平成29年9月、竹書房
馳星周著「神の涙」114ページ、平成29年9月、実業之日本社=原本
喜多みどり著「弁当屋さんのおもてなし 海薫るホッケフライと思い出ソース」160ページ、平成29年10月、角川書店=原本
(80)は小谷武治著「羊と山羊」1ページ、新渡戸稲造「序」より、明治45年4月、丸山舎書籍部=国会図書館デジタルコレクション
(81)は平成30年7月31日付北海道新聞朝刊13面、「夏『食』の風景 列島各地から」より=原本
(82)と(83)は平成30年7月31日付北海道新聞朝刊13面、「夏『食』の風景 列島各地から」より=原本
(84)は大学職員録刊行会編「全国大学職員録 昭和37年版」12ページ、昭和37年9月、 広潤社=国会図書館デジタルコレクション
(85)はマガジンハウス編「Tarzan」749号95ページ、石川顕「ジンキスカンのみ!道産子ですから。」より、同年9月、マガジンハウス=原本
桑原真人、川上淳著「増補版・北海道の歴史がわかる本」314ページ、平成30年1月、亜璃西社=原本
江口真規著「日本近現代文学における羊の表象 漱石から春樹まで」173ページ、「戦後日本と満洲の緬羊飼育――ホームスパンと『ジンギスカン』」より、平成30年1月、彩流社=原本
プレジデント社編「danchu」平成30年6月号13ページ、 植野広生「ジンギスカン」より、プレジデント社=原本
同14ページ、 大岡玲「羊をめぐる妄見」より、同
平成30年7月31日付北海道新聞朝刊13面、「夏『食』の風景 列島各地から」より=原本
マガジンハウス編「Tarzan」750号71ページ、石川顕「なんか感じ出るねぇ、それ、重要だから。」より、平成30年11月、マガジンハウス=原本
資料その6に関する詳しい説明は前バージョンの下記URLの講義録「顧みられなかったジン鍋の形の変遷を顧みる」の後方にある。
https://www2s.biglobe.ne.jp/~kotoni/
nabehaku.html
志賀貢著「男を強くする!食事革命」13ぺージ、「ラム肉を食べて、草原の王者ジンギスカンにあやかろう」より、平成31年1月、KKベストセラーズ=原本
魚柄仁之助著「刺し身とジンギスカン 捏造と熱望の日本食」138ページ、「ジンギスカン」より、平成31年2月、青弓社=原本
平松洋子著「かきバターを神田で」35ページ、「冬の煮卵」より、令和元年9月、文藝春秋=原本
松下茂典著「円谷幸吉 命の手紙」148ページ、「転落」より、令和元年10月、文芸春秋=原本
如月陽子著「どうして みんな 死にたいの?」58ページ、「私は邪魔者?」より、令和元年9月、共同文化社=原本
小松憲一著「負けないで! 精神主義ランニングの道」51ページ、「精神主義ランニング」より、令和元年10月、星雲社=原本
日本調理科学会編「肉・豆腐・麩のおかず 伝え継ぐ日本の家庭料理」42ページ、「羊と馬といのししの料理」より、令和元年11月、農山漁村文化協会=原本
鈴木士郎、みたむらみっち編「これでいいのか北海道札幌市」53ぺージ、令和元年12月、マイクロマガジン社=館内限定デジタル本
カベルナリア吉田著「ニッポンのムカつく旅」74ページ、「サッポロール園の女」より、令和元年12月、彩流社=原本
佐藤信著「旬の食材時候集」522ページ、令和元年12月、星雲社=原本
中村まさみ著「金縛り 怪談5分間の恐怖」188ページ、「水風船」より、令和2年3月、金の星社=原本
島村恭則著「みんなの民族学 ヴァナキュラーってなんだ?」174ページ、令和2年11月、平凡社=館内限定デジタル本
(86)は朝日新聞社北海道支社編「北のパイオニアたち」141ページ、「無料試食会も不人気」より、昭和43年7月、朝日新聞社北海道支社=国会図書館デジタルコレクション
(87)は同143ページ、同
阿古真理著「日本外食全史」327ページ、令和3年3月、亜紀書房=原本
秋川滝美著「マチのお気楽料理教室」197ページ、「ジンギスカンの宴」より、令和3年5月、講談社=原本
岩間一弘著「中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえて」137ページ、「世界無形文化遺産への登録をめぐる議論」より、令和3年9月、慶応大学出版会
松田純佳著「クジラのおなかに入ったら」41ページ、「鯨類研究者への道」より、」令和3年12月、ナツメ社=館内限定デジタル本
森崎緩著「総務課の渋澤君のお弁当 ひとくち召し上がれ」14ページ、「鮭のちゃんちゃん焼きと卵焼き」より、令和3年12月、宝島社=館内限定デジタル本
(88)は小泉武夫著「北海道を味わう」228ページ、「おらが道民の味自慢」より、令和4年3月、中央公論新社=原本
(89)は菊池一弘著「食べる!知る!旅する! 世界の羊肉レシピ 全方位的ヒツジ読本。」16ページ、「【第三次ブーム】平成末から令和」より、令和5年11月、グラフィック社=原本
(90)は同17ページ、同
(91)は芦原伸著「世界食味紀行 美味、珍味から民族料理まで」196ページ、「もとは中国の回々料理の「カオヤンロウ(烤羊肉)か?」より、令和4年12月、平凡社=原本
(92)は同197ページ、同
(93)は芦原伸著「世界食味紀行 美味、珍味から民族料理まで」201ページ、「元祖、松尾ジンギスカンを訪ねる」より、令和4年12月、平凡社=原本
平野レミ著、和田誠絵「おいしい子育て」150ページ、「和田家の嫁姑鼎談 平野レミ×上野樹里×和田明日香」より、令和4年2月、ポプラ社=原本
小泉武夫著「北海道を味わう」228ページ、「おらが道民の味自慢」より、令和4年3月、中央公論新社=原本
令和4年5月22日付北海道新聞日曜版1面「味力探訪 ジンギスカン」=原本
山口恵以子著「婚活食堂 7」ページ、「ジンギスカンは婚活の味」より令和4年5月、PHP研究所=館内限定デジタル本
松浦達也著「教養としての『焼肉』大全」91ページ、「YAKINIKU COLUMN」より、令和4年7月、扶桑社=原本
福澤徹三著「俠飯.8 やみつき人情屋台篇」98ページ、「赤ワインが止まらない。北海道と中華の絶品グルメ」より、令和4年8月、文芸春秋=原本
井上荒野著「小説家の一日」100ページ、「何ひとつ間違っていない」より、令和4年10月、文芸春秋=原本
菊池一弘著「食べる!知る!旅する! 世界の羊肉レシピ 全方位的ヒツジ読本。」15ページ、「【第二次ブーム・平成10年末】机上主導ジンギスカンブーム」より、令和5年11月、グラフィック社=原本
白鳥和生著「不況に強いビジネスは北海道の『小売』に学べ」86ページ、「名物にうまいものあり」より、令和4年11月、プレジデント社=原本
芦原伸著「世界食味紀行 美味、珍味から民族料理まで」201ページ、「ジンギスカンをめぐる冒険 ▼日本・北海道」より、令和4年12月、平凡社=原本
(94)はホームページ「今日もごちそうさまでした」の「No.058 加齢とわさび」より、アスペクト= http://kakuta.aspect.co
.jp/essay/201102.html
(95)は令和5年11月25日付日本経済新聞「NIKKEIプラス1」13ページ、「食の履歴書」=原本
(96)は宇田川勝司著「謎解き世界地理 トピック100」18ページ、令和5年11月、ペレ出版=原本
倉光泰子脚本、蒔田陽平ノベライズ「PICU小児集中治療室 下」12ページ、令和5年1月、扶桑社=原本
ベル食品ホームページ、「お知らせ」より、令和5年3月20日 PR TIMESのプレスリリース=
https://prtimes.jp/
main/html/rd/p/
000000010.000104982.html
山本佳典著「羊と日本人 波乱に満ちたもう一つの近現代史」296ページ、「その後の羊たち」より、令和5年3月、流彩社=原本
令和5年3月29日付北海道新聞朝刊26面「朝の食卓」より、溝口雅明著「78歳おさげ女子学生」=原本
マガジンハウス編「GINZA」27巻4号(通巻310号)178ぺージ、松尾スズキ「安全な場所から眺める景色」より、令和5年4月、マガジンハウス=原本
文芸春秋編「別冊文藝春秋」電子版50号321ページ、朝倉かすみ「よむよむかたる」より、令和5年7月、文藝春秋=原本
秦郁彦著「明と暗のノモンハン戦史」399ページ、「学術文庫版のあとがき」より、令和5年7月、講談社=原本
角田光代著「今日もごちそうさまでした」8ページ、平成23年9月、アスペクト=館内限定デジタル本
北海道大学高等教育研究部ホームページ、江本理恵「ジンパ」、令和5年11月24日、研究部ノート=
https://high.high.
hokudai.ac.jp/%E3%82%
B8%E3%83%B3%E3%83%91/
令和5年11月25日付日本経済新聞「NIKKEIプラス1」13ページ、「食の履歴書」=原本
新川帆立著「先祖探偵」2巻135ページ、「焼失戸籍とご先祖様の霊」より、令和5年11月、角川春樹事務所=原本
宇田川勝司著「謎解き世界地理 トピック100」18ページ、令和5年11月、ペレ出版=原本
(97)と(98)はエーアンドエフ編「A&F COUNTRY総合カタログ2020」22ページ、河崎秋子「東と北の果ての果てで」より、平成2年6月=キンドル版電子雑誌
河崎秋子著「私の最後の羊が死んだ」76ページ、「『廃用』の老羊をどう美味しく食すか」より、令和5年11月、小学館=原本
北海学園大学同窓会編「北海学園大学同窓会結成70周年記念誌」69ページ、山際廣昭「『山は学校、山小屋は教室』部員集めからはじめた山岳部の山小屋管理」より、令和6年10月、北海学園大学同窓会=
https://dousou.hgu.jp/wp22
hgud10/wp-content/uploads/
2025/01/kinenshi250123.pdf
地球の歩き方編集室編「地球の歩き方 2025~2026 北京」219ページ、「北京で楽しむ羊肉料理」より、令和6年11月、地球の歩き方編集室=原本
玉川太福著「玉川太福私浪曲唸る身辺雑記」113ページ、「名寄に行ってきました物語」より、令和7年1月、竹書房=原本
百度ここ愛著「シロクマのシロさんと北海道旅行記」233ページ、「第八章 ジンギスカン」より、令和7年2月、アルファポリス=原本