新版・現場主義のジンパ学

アインシュタインは札幌に来なかった

 きょうも冷えるね。話を始める前に資料を配ります。はい、どんどん廻して。1枚目の資料その1の写真の建物はわかるね。なに、豊平館はこんな池のそばでないってかい、その通りです。これは豊平館を中島公園に移転させる前、いまのNHK札幌放送局がある大通西1丁目にあったときの豊平館とその前庭の写真だからです。私か学生だったころはこうだったもんね。屋根の上に「Howohekan,Sapporo.」と右書きで「豊平館(札幌)」と読めるでしょう。
資料その1
 綿羊3頭が写っている資料その1の絵はがきのデジタル画像は、札幌市立中央図書館と函館市中央図書館と札幌市公文書館と3つのデジタルライブラリーにあり、誰でも見られます。白黒画像では函館が鮮明なので、画像を管理しているはこだて未来大学に掲載許可を求めるメールを送ったのですが、応答がなくあきらめました。札幌中央の画像は羊の背中がわずかに白く見えるぐらい黒過ぎる。元になった絵はがきを見せてもらいましたが、それ自体が暗かったから無理もないと納得しました。たまたま札幌市公文書館で見付けた画像は、同じ絵はがきでも手で色づけしたものなのでジンパ学の講義に使わせてもらいたいと許可を得ました。公文書館の情報によると北海道絵葉書倶楽部が大正7年以降に撮影して発行となっていますが、札幌市中央図書館の情報では昭和2年10月発行となっています。
 ただ、4代目の管理者になった杉山菊次郎の長男、5代目ともいえる杉山正次の思い出によると、豊平館の厩がまだ残っているころらしいが、その厩を羊舎にしてローンで綿羊を放し飼いしていた(1)そうだから、そのころなら、こんな構図の写真は何枚でも撮れたでしょう。この建物の裏、つまり北側は公会堂になっていて、私はそこでなんとか座の芝居を見たね。そのころまだ荷馬車、馬橇で荷物を運んでいたけど、豊平館に馬車でやってくるお客なんかあるはずもなく、厩はとっくに取り壊されたいたでしょう。
 建て増しの公会堂が完成したのは昭和2年11月(2)だから、中央図書館の撮影年月とほぼ同じなので、工事のため厩は撤去されていて綿羊はいなかったはずですね。つまりこれは白い建物と芝生で白い綿羊が遊ぶのどかな光景を撮ろうと、連れてきて写した写真だろうね。きょうは大通西1に聳えていた高級ホテル、豊平館の3代目からの経営者についてです。ジンバ学と何も関係ないじゃん―と思ったでしょうが、資料その1の綿羊ではないけど、ちゃんと羊肉の話になりますから聞いていなさい。
 開拓使の建てた豊平館は完成して間もなくから西洋料理店の店主、いま風にいうなら魁養軒のオーナーシェフ原田傳彌が拝借を願い出て経営を任された。原田が明治35年に亡くなった後、豊平館の初代看守兄弟の弟石垣直道が魁養軒の屋号もろとも引き継ぎ、明治37年元日に年賀を兼ねて引き継ぎの新聞広告を出しています。この講義録を読んでいる人は目次の「2説ある札幌初の洋食店の開業年」のおしまいにある石垣の年賀広告を見なさい。
 そこでだ、石垣の後を引き受けた3代目経営者はだれか。さっぽろ文庫の「豊平館・清華亭」では小南武朗の「豊平館の歩み」で「拝借人は原田伝弥以下、石垣家、金沢家、そして大正八年杉山菊次郎と交代」(3)とあり、さらに豊平館・清華亭関連略年表に「大正2年 ▽金沢キセ豊平館の管理を請け負う。」(4)とあります。札幌市公文書館に尋ねたら交代関係の年表、公文書のようなものは残っていない。金沢キセについては「札樽便覧」の長谷川楼の項目に記載を確認したけど、残念ながら豊平館との関係は確認できない(5)との丁寧なお答えを頂きましたよ。
 金沢キセ説も含めて石垣の次の3代目について本と研究会誌に書いてあることを集めたのが資料その2です。洋食史研究者の日吉良一は一貫して交代は大正3年説を唱え、資料その2(2)だけ「金沢基」で、ほか2回は単に「金沢氏」としてます。基は振り仮名がないので、なんと読むのかわかりません。これをキセと読めないし、金沢キセは当時知る人ぞ知る女傑でしたから、なぜキセと書かなかったわかりません。同(1)と同(2)は、ほぼ同時公開なのに後者では確証がなかったのか名前の「基」を外しています。同(3)は「以下は入江兵吉自ら手記して筆者に贈られた思い出の記であり」と説明している個所からですから、日吉の大正3年金沢説はコック入江兵吉の「手記」が根拠ですね。
 同(4)は「新聞にみる豊平館――北海タイムス(現・北海道新聞)から――」というタイトルの年表だから、それを信じて北海タイムスの大正2年のマイクロフィルムを2度読んだが、見付けられなかった。日吉の金沢基説の基の1字をキセと強引に読んだとしても、本当に北タイの記事だけで年表を作ったのか疑わしいのです。
資料その2
(1)
 伝弥氏の息子さんは日露の役で戦死し、その後幾莫もなく伝弥氏も歿した。その後を承けて石垣氏が五年間、その時のチーフはわからない、大正三年頃から金沢氏が経営した。東京の風月堂から聘せられてチーフとなつて来た入江氏(兵吉)は大正八年杉山氏の経営となつてからも引き続き勤めた。

(2)
 大正8年杉山菊次郎は豊平館の経営に当ることになつたが、この時チーフとし前任者金沢基時代から勤めていた入江兵吉を引続きチーフとして雇庸した。

(3)
 大正3年札幌豊平館を金沢氏が経営するに当り、半年の約束で来札したが、何か大陸的な気風が気に入り其後杉山菊次郎氏が経営者となつても引続き勤務し、

(4)
 大正2年 ▽金沢キセ豊平館の管理を請け負う。
 それでね、もしかすると、石垣の次は金沢ではないのかも知れんぞ―とね、どんどん読んでいけば、いずれ杉山が出てくるはずだと、私の若いときの語彙でいえばヤケクソだ。明治の北海道毎日から続けての読みだから、図書館の方々に北海道の新聞しか読まない爺さんとしっかり覚えられたが、とにかく3代目は金沢は金沢でも金沢源太郎、交代したのは大正4年8月とわかったのです。数少ない証拠の1つが資料その3の記事です。
 この「開業披露宴」における金沢源太郎の挨拶と招待されたメンバーなどはぜひ知りたいところだが、残念ながら北タイにはそうした記事は載っていない。9月末まで記事を探したが、全く載ってない。その後の電話番号の変更、求人広告はずべて金沢だけなので、金沢キセでなく金沢源太郎だと今回の講義の主題にしてはいるものの、証拠はこの記事1本というのが実情なのです。
資料その3
 それでね、新聞記事データベースを検索したところ、読売の「ヨミダス」に明治45年2月6日の記事として金沢源太郎の名前があった。読むから聞きなさい。「●小火三つ ▲京橋 一昨日午後五時四十五分頃月島東仲通三の一金沢源太郎方より発火せしも家人が発見し大事に至らず消止めたり原因取調中▲日本橋 同八時頃葭町十一井本春造方と隣り空家との間より発火しも通行人が発見し直に消止めたり原因は放火ならんと▲同 一昨夜八時頃蠣殻町二の一の空家より発火せしを付近の者が発見し大事に至らず消止めたり原因は之も放火ならんと」。(6)
 この記事の源太郎は多分豊平館の拝借人となった源太郎ではないと思うけれど、東京に居た入江兵吉コックを半年の約束で札幌に連れてきたというのが本当なら、源太郎はコック捜しである期間東京に滞在したでしょう。
 もしかすると源太郎は東京でコック修業をしていて入江を知った。洋食店の内情を知っていたから、豊平館支配を狙うパトロンに呼ばれたことが考えられます。入江は源太郎が経営した大正4年から杉山菊次郎と交代するまで半年どころか、4年も豊平館にいたのは源太郎が仲間として相応の待遇をしていたからかも知れません。
 なぜ交代披露の記事が載っていないか。第一、宴会当日の朝刊に記事が載ったという事実から私は源太郎側の宣伝下手のせいとみるね。元新聞記者の友人によると、こういう記事は10日ぐらい前にね、各社の記者に経営者が交代するからお出でを願うと電話でも知らせるべきどたそうだ。
 個別でもいいが、何人か来たら道庁長官、札幌区長、札幌農大総長とかね、招待状の送り先、源太郎の略歴と今後の経営方針など話し、あなた方もおいで下さいと伝える。すると、記事の少ない日にこういう記事は優遇されるし、たまには豊平館でゴチになるかと記者諸君も取材予定を組んで出席する。紙面の込みようによってはテーブルスピーチの話なんかも入れた記事が翌日か、数日のうちに掲載されるだろう。つまり運がよければ2回、豊平館が記事になるのだから、広告代とみれば安いもんだろうとね。
 なのに、この記事はたった4行、開業披露なんて豊平館という店が営業を始めるみたいな変な見出しからして無理矢理紙面に割り込ませた感じだ。もう2行入れる余裕があれば、東京で腕を磨いた料理人金沢氏が現拝借人石垣直道氏と交代する―と付け加えられたと思うのことだった。
 繰り返すが、私としてはかなり丁寧に紙面を見たんだが、金沢源太郎とフルネームだったのこの記事と大正5年から8年までの年賀広告の4回だけ。電話番号の変更はじめ求人広告は一切金沢だけで通したのです。
 ましてや、この金沢氏の前歴、どういう経緯で3代目拝借人になったのかなど一切わからん。今となっては金沢源太郎は私の先祖だとか、ヒイヒイ祖父さんだとか、子孫が当時の日記とか書類を持って名乗り出てもらうしかないのです。笑っているがホントの話だよ。
 それから資料その4の証拠を見なさい。ちょっと大きすぎると思うだろうが、大正2年金澤キセ交代という通説調べで、えらい時間と交通費を浪費させられた腹いせだよ。関係ないって、そうだね、はっはっは。
 「さっぽろ文庫」は「読んで楽しく、そのうえ札幌を知る事典・手引きとして役立つよう」(7)に作っていると北海道文学館長だった木原直彦氏が「開拓使時代」の「あとがき」に書いているけど、郷土史の本ではないんだから、読んで楽しければいいじゃんというものでもないでしょう。眉唾の話も本当らしく書いてある本も混じっている文庫本だということは、この1例だけでもわかりますね。
資料その4
 コピーのせいか全体に字が太字になっており、読みにくいと思うので、講義録では資料その5として別に読めるようにしておきます。いいですか、こんな重要なお披露目広告ですら金沢としか名乗らないのは、おかしいと思いませんか。
 たかが洋食店の店主、昔の武将みたいに「ヤアヤア遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ」と名乗るほどではないにせよ、やはり絶対に金沢何々と名乗ってはいかんと命じられていたといった事情があったんじゃないかと考えちゃうよね。
 この「謹告」の3行目、上から3番目と4番目の字が不鮮明だが、字の形から「輦轂」と推察して「大言海」を見たら「輦穀之下」があり「れんこく-の-もと(名)輦轂之下〔輦轂ハ天子ノ車輿ヲ云ヒ、転ジテ、在ス地、即チ、京都ノ意〕皇居ノアル地。天子ノオヒザモト。ミヤコ。京師。略シテ、輦轂。<略>」(8)とあった。つまり東京で有名な風月堂で腕を磨いてきたコックを入れたということですね。となると、入江が「大正3年札幌豊平館を金沢氏が経営するに当り、」なんて書いてくれたばっかりに、俺は大正3年金沢引き継ぎ説を唱えて恥をかいたではないかと、日吉さんが生きていたら怒ったでしょう。ふっふっふ。
資料その5
     謹告

残暑難耐ノ候各位益々御清福ニ被為渉候段奉慶賀候 陳者私儀
過般豊平館ノ西洋料理業ヲ引受ケ候ニ就キ内外ノ施設ヲ革タメ
且ツ輦穀ノ下ニ於テ好評嘖々タル斯業ノ大家風月ニ在リテ多年
コツクノ職ヲ勤メタル熟練ノ者ヲ聘シ総ベテ従來ノ面目ヲ一新
仕候間何卒御來臨ノ上御試食ノ栄ヲ賜リ度奉冀候
 尚ホ従來ノ電話(一〇六番)ハ更ニ関係無之當館ハ七六六番ヲ
 専用致居候間多少ニ拘ハラズ御用命被仰付候様御願申上候

         札幌大通西一丁目
 大正四年八月     豊平舘内金澤
             電話七百六十六番
 また源太郎さんは電話番号が766番に変わったと8月26日から31日迄資料その6の「電話 七百六十六番 札幌 豊平館」という1段広告を6回、毎日出しました。明治20年の豊平館の年賀広告以来、石垣も使った豊平館魁養軒の106番は石垣が売ったか差し押さえられたかして他人に渡り、大正12年には大通西1丁目の医師千秋幹一宅(9)の番号に変わっています。
資料その6
 この766番は明治44年の「札幌商工人名録」によれば、南3条西4丁目の雑貨兼印刷業の二印支店(本間清造)(10)の番号です。金沢源太郎は豊平館の洋食の充実を図ろうと入江を東京から招いた。当然、精養軒以上の給料を約束したでしょうし、豊平館としての電話がなくなったから二印から電話を買った。少なくともそれだけの資金を準備できた金沢という男は、それなりの金持ちかその息子か親族の援助を得られる立場のどれかですよね。
 引き継ぎ披露宴の前でもおかしくないのに、1月近くたってから開業披露と求人広告を出したのは、この電話番号が決まるまで待ったためでしょうが、石垣と金沢の交代は大正4年夏が正しく「さっぽろ文庫」の年表の大正2年、日吉論文の大正3年も間違いとわかったから一安心、また明治30年代に戻って、じっくり北海タイムスを読み直したのです。
 2代目管理者になった石垣は楊柳亭という料理店を経営した経験があったのに、いろいろ不手際があって豊平館の評判を落としたらしのいです。和食の板前、女中の扱いと、洋食の豊平館食堂部のコックやボーイは考え方や習慣が違っていて対人関係がまずくなり、ひいてはサービスが悪くなり、お得意が離れていったらしい。
 その極端な例が明治39年の新聞に書かれた会合だ。主催者側の打ち合わせの不徹底で主賓が早々といなくなり、加えて豊平館の手配のまずさもあったようで、札幌の有力者たちをカンカンに怒らせた事件があったのです。資料その7を読むと、これではもう豊平館の宴会に行くもんかと贔屓筋の足が遠のいていったのも無理ないと思います。宴会の悪口を2本に書き分けて載せるなんて珍しいが、取材にいった記者も相当頭にきたんですね。
資料その7
(1)
 ●悪魔の塵   一昨夜豊平館にて開會せ
る三局長招待會は近ごろになき御怨會であつ
た▲五時よりと云ふ通知なるに七時になつてもま
だ準備が整はぬ▲楼上の廣間は黄昏過ぎて真黒
闇になつても燈かし一ツの用意がない▲黒暗裡
に於て発起人が開會の辞を演べる抔珍無類だ▲
其れとも御先き真暗らな連中斗りの寄合ひだから
黒暗にしたのかも知れぬ▲其れに暗夜に牛を引張
りだした様の野呂間の助役先住の挨拶と來て居
るから一層対照が面白ひ▲開宴半ばと云ふなら
まだしもだが主客漸く席に着くか否なまた吸汁すーぷさ
へ持ち運ばぬ中早や御客さんも発起人もドコカへ
か逃げ出してしまつた▲主賓も主賓だ一言の挨
拶もなく黙つて退席する抔人を愚にした遣方であ
る夫れに官人連は揃ひも揃つて一同袂を払つて
退席する抔餘りの乱態亡状ではあるまいか▲又
発起人中の発起人たる河田と云ふ男は何たる馬
鹿物だろう己れ主となり會衆を集めながら是亦官
人連に尾行してノコノコ去つてしまふ抔實に無禮
至極だ▲誰れも忙がはしきに豊平館抔の宴會に
好んで出席するものは一人もないのだ只だ浮世の
義理を思へばこそ万忙繰り合せて態々出席する
のである▲一たび斯の如き失態を演ずると今後如
何なる佳賓の來札あるも誰一人好んで出席を
承諾するものはなくなるだろう▲札童歌ふて曰く化け
物屋敷が其れ程よけりや皆なお化けになるがよい
呵々(悪魔子)

(2)
○豊平館
 に於ける 宴會の乱状   一昨夜豊平館
に於て開会せられたる荒井大蔵床次地方酒勾
農務三局長招待會は近ごろ稀なる失態を演
出し當夜出席せるものは皆満腹の不快を感じ
再び官人連と席を同ふする宴会には誓つて出席
せざる旨放言して中途退席せるものも尠なからざ
りしやに聞く今其次第を記さんに當日三局長
招待會の発起人は札幌区長代理河田助役と
協賛會副會長斎藤親廣の両氏専ら斡旋の
労を採られたる次第にて重なる出席者は主賓三
名の外道庁よりは大塚高岡横山湯原中川の五
事務官農学校よりは佐藤南宮部の三博士を始
とし浅羽吉植の両代議士区内銀行諸会社の重
役道議會議員区會議員市中重なる實業家等無
慮五十餘名にして近來稀なる集りなりしが午後
五時開会と云ふに七時頃に至るも尚ほ開催に至
らず豊平館楼上の大広間は既に暗黒なるも一
ツの燈明の用意なく眞暗闇に於て区長代理の挨
拶を為す抔既に失態の第一幕を演じ次ぎに発起
者の先導にて階下食堂に入るや先づ酒勾農務
来賓を代表し何やら訳の判らぬ謝辞らしきものを
演べ了るや未だ吸汁の列席者に一巡せざる中何
の断りもなく早く主賓三名の姿は掻き消す如く
見失ひたり続いて道庁官人連は一人去り二人
去り終には道庁連一人も残らず退席し其れのみ
ならず當日発起人中の発起人たる河田助役も
二三分を後れて亦其影を逸したる為め参會者一
同は只だ呆然たるのみ呆気に取られたる會衆一
同暫し互ひに顔を見合せ不審の思ひを爲しつゝ
ありしが誰れ云ふとなく本夜は長官の御馳走に
て官人連一同は例の化物屋敷幾世に招請せら
れたる為め豊平館の煮冷しの粗餐にあたら腹を汚
さんより紅燈緑酒の間艶妖豊美の佳人に侍づか
れんこそ何よりの饗応なれと終に三々伍々相率ひ
て幾世にぞ馳せ参じたるなりと云ふかゝる事とは露
知らぬ會衆一同は如何にも奇怪千萬なりとて憤
然席を蹴つて立つもの殆んど半数以上に達し餘
りに人を馬鹿にせる振舞いかな野人禮に嫺はず抔
罵詈放言して思ひ思ひに退席したるは實に空前の
失態珍無類の光景なりしと云ふ
【戯画説明】▲来賓も発企人もなき招待會
 札幌の人口が増えるに従い飲食店も増えたでしょう。いつまでも西洋料理は豊平館魁養軒の専売特許というわけにはいきません。新しい洋食店が生まれて新しい洋食ファンを増やしたようです。なにしろ豊平館は高級ホテルであり、当然その辺の洋食店と客を取り合うことしないぞと態度がでかい。一方、新しい洋食店は豊平館に追いつけ追い越せと、ラジオやテレビはなかったから、多分張り紙を使ったと思うのですが、西洋料理を食べる楽しみを覚えてもらおうとしたでしょう。
 「新札幌市史」に「かつて西洋料理といえば豊平館ただ一軒であったが、二十一年滋養軒(南一条西三丁目)が開業し、牛肉や牛肉弁当の販売をはじめ牛鍋やスープ(ソップ)を食させ、西洋料理が身近になった。 」(11)とあり、2軒になったような印象を受けるが、実はもっとあったのです。
 原田魁養軒が開業を伝えた「札幌新聞」は明治13年から1年で廃刊になり、明治20年「北海新聞」が発刊されるまでの6年間は、札樽には新聞がなく、函館新聞か郵便報知新聞、もしくはだれかの手記にも書いていなければ、札樽の諸事情は知りようがない。だから「豊平館ただ一軒」だったなんて気安く言い切れないのです。
 皆さんは多分覚えてないと思うが、以前の講義で明治20年に南1条西4丁目に洋食店が2軒できたほか、南2条西3丁目の新盛楼も洋食を出すという函館新聞の記事3本をコピーした資料を配りました。それで今回、資料その8としたから、もう一度目を通しなさい。
 ああ、それからこの記事だと、豊平館内の魁養軒を経営する原田が豊平館に座敷を増やしたと受け取れるが、そうではなくてね、原田は開業したときの魁養軒の店名のまま建物を貸しており、そっちが玉突き台を増やした、玉らぬという洒落がわかるかな。
資料その8
○札幌の西洋料理  さきごろハ根室の西洋料
理の事を記せしが此頃札幌より來書のハしに曰
く當地洋食店は魁養軒のほかハなかりしところ
南一條西四丁目へ山十印といふが出來上等六十
銭中等四十銭下等三十銭なりまた南二條西三丁
目の新盛楼も洋食を兼業し其ほかにも二三軒出
来追々競争をなし魁養軒でハこれでハ玉らぬと
玉つき臺をすへ新たに座敷を増築したれば目下
之に敵するものなし
 明治41年の北海タイムスのマイクロフィルムを見ると、4日分から始まっています。2日は休刊するのが恒例ですから元日と3日分の紙面は保存しなかったか紛失したかですね。4日からの紙面でも豊平館魁養軒の年賀広告はなく、南1西4の○の中に吉の字のマルヨシという店名の洋食店と北3東2の有合亭が出しています。単に乳楽軒という広告もあるが、別ぺージで牛乳搾取販売・西洋割烹業として岩淵兵九郎の広告があり、住所が北4西3で同じだから西洋料理店に数えますか。また別のページの広告に南1西2の米風亭と一品洋食と書いた北友庵と○の中に片仮名で終わりのヲを入れた丸ヲ第二支店があります。
 また同年11月には丸吉洋食店が開業1周年売り出しとして3日から5日迄の3日間、来店者に粗品を差し上げるという広告があります。日吉が書いた「北海道西洋料理界沿革史」の「経営者小伝」の杉山菊次郎の章に「明治四十年五月十日の大火に罹災した小谷肉店は、その後復旧に当り洋食部を設立、同十一月三日開店した。屋号は洋食店、経営者は小谷熊造であつた。菊次郎は洋食部担当となり、初めて業界に顔を出すことになつた。」(12)とあります。1年続けられた感謝の印しですね。
資料その9
   1周年
 このマルヨシ洋食店は後に精養亭とと改名するのですが、その精養亭の写真があるので資料その10として見せましょう。これは大正7年に出た「札幌開始五十年記念写真帖」の有合亭と同じページに収められています。拡大してみると右の門柱の看板は「西洋御料理 精養亭」ですが、左の門柱の看板は御手軽らしい何字かの下は「牛鳥なべ」と読めます。肉鍋類も出していたマルヨシ時代の看板の儘で営業していたようです。札幌の料理店史で、この精養亭を精養軒と誤記している本が少なくない。まあそれぐらい東京の精養軒は有名だったということでもあります。

資料その10
 さて、もともと豊平館は開拓使が建てた洋式旅館であり、明治13年に完成して翌年の明治天皇の道内行啓のとき札幌での行在所になりました。でも年明治15年に開拓使が廃止になったため札幌区が管理することになった。明治18年に宮内省の管理に変わったので札幌区は公会堂として大事に使うから貸してほしいと陳情を繰り返し、明治43年に10年間という期限付き無料拝借を認められたのです。
 資料その11(1)と(2)はその記事ですが、私としては(2)をよく見てもらいたい。借家関係に例えれば家主は宮内省、タダで10年住めることになった店子が札幌区だ。帝国林野管理局に宛てた前半は家賃はタダではあるが、家主が使ったら駄目という部屋には入らないとか、家主から出ろといわれたら、ぐすぐすいわず、さっと退去します―などという念書ですね。
資料その11
(1)
●豊平舘貸下許可
札幌区に於ては区内豊平館を区の公会堂
として貸下を受けたき旨其筋に申請中の處
今回許可ありたる由なるが同館目下の借受
人は十年間使用すべき既得権を有せしもの
にて今後数年間は区は之に対して如何とも
する能はざるべきも既に貸下の認可を得し
上は相當に監督を加へて不休裁なき様注
意せしむる事肝要ならん
(明治43年9月2日付北海道毎日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)

(2)
●札幌区会 決議事項
一昨日の札幌区会に於て決議されし事項左の如し
▲議案第一號<略>
▲議案第二號<略>
▲議案第三號 豊平館拝借の件許可せられたるに依り提出すべき請書(物件調書及目録は全部省略)
右拝借の義本年五月五日発丙第九一號を以て出願致候處今般特別の御詮議を以て來明治五十二年十二月三十一日迄拾箇年間無料使用の義御認可相成候に就ては左記の各項堅く遵守可致事
一、拝借の建物は御指揮に從ひ修繕を施し他日行幸行啓の場合其他宮内省に於て
  一時御使用の必要あるときは御命令に從ひ何時にても御用に供し可申候事
二、階上各室の内御指定の部分に御監督の下に最鄭重に保管可致に勿論許可を得ず
  して濫りに使用不致候事
三、前項指定の各室を徐きたる階上各室は公會堂及貴賓の宿舎に充つる外他の目
  的に供用不致又階下は別紙に記載の條件を以て従來の拝借人に使用可為致候事
四、要所に消火器を備へ火の元用心可致は勿論平素番人を置き毎夜時刻を定めて
  警邏可為致候事
五、拝借の物件は十分注意を加へて保管使用可致は勿論甲号調書に掲載の備品は
  特に其都度御承認を得るに非れば使用不致事
六、庭園並に建物は怠らず手入を為し且つ構内の掃除等は常に之を行ひ清潔に可
  致候事
七、拝借期間内と雖も帝室に於て御要用の場合には何時にても必ず返納可致事
八、拝借期間満了の場合には直に返納し継続拝借の義は決して出願不致事
九、前項の場合は勿論第七項の規定に依り返納の場合と雖も建物の為特に備付け
  たる物品は現在の儘納附し其代価並に建物修繕の為加へたる費用等は一切請
  求不致事
十、拝借の備品を破損又は滅失せしめたるときは御指揮に從ひ其損害を賠償可致
  候事
  右区會の決議を経て此段御請仕候也

       年月日     札幌区長 青本定謙

帝国林野管理局札幌支庁長田所與三郎殿

  従来の拝借人に対する条件
一、本館は紳士の宿泊及公衆の會集並其賄方を目的とし使用せしむる事
二、館内の使用区域は階下全部とす 但階上は其必要に応じ特に使用せしむる
  事あるべし
三、使用期間は明治五十二年十二月三十一日迄十ケ年とす
四、宮内省の御用途又は区の公用に供する為め必要あるときは何時にても返納
  せしめ若は其使用を制限する事あるべし
五、前各項の外火元の取締其の他保管上必要なる事項に付ては適宜協約するも
  のとす
  (未完)
 後半の「従来の拝借人に対する条件」は具体的にいえば、豊平館内の1部屋と調理室を借りて食堂を経営しつつ、建物の保守をしている拝借人に対してね、札幌区が10年を過ぎたら食堂を続けて借りられるかどうかわからないよ、拝借人は店子の家に間借りしているようなものなんだから店子が転居したら、お前も出なきゃいかんよと改めて伝えたものと私は解釈します。
 私は法学部出身じゃないから法的解釈に自信はないけど、同(1)の記事は「目下の借受人は十年間使用すべき既得権を有せしもの」つまり目下の借受人石垣道直が10年間(13)食堂を使う権利があるから「今後数年間」の残っていて、すぐ追い出せないと解釈するね。
 では文句なしに10年使えるという借受人は権利は、いつから認められたのか。もしあったとしも石垣の場合、いつから10年間なのか。初代の原田伝彌が亡くなった明治35年からとすれは明治45年まで、あと2年は居座れることになりますがね。
 石垣が明治37年正月の新聞に「本館ニ於テ開業仕候ニ付一層相働候間前同様御引立御来臨之程奉希候」(14)と広告してるのに、なぜか「豊平館・清華亭」は「明治41年▽石垣道直が豊平館管理を請け負う。」(15)としている。素直にこれを信じれば明治51年までとなります。
 北海道放送番組審議会事務局長という肩書きの小南武朗氏は同書の「豊平館の歩み」に「この拝借経営者の営業権は、その後、豊平館がその所管をめぐってさまざまに揺れ動くなかで、既得権として、地位の継承が保証された。」(16)と同書に書いていますが、それなら代々の拝借経営者の名前と経営期間ぐらい公的文書に記録されていてもおかしくないと思いますが、それがないんだね。
 だから小南氏は資料その2で示した「北海道地方史研究」から、石垣の次は金沢某と知っても、源太郎だと確認できなかったか調べなかったので「拝借人は原田伝弥以下、石垣家、金沢家、そして大正八年杉山菊次郎と交代、現在杉山正次氏が経営する。」(17)としか書けなかったとみますね。
 資料その11は豊平館の10年間貸与が決まり、それまでと同じく館内で営業を続けられることになった魁養軒の店主石垣の談話に基づく記事です。石垣は2代目なのに、我が輩が豊平館ができたときから管理して魁養軒の面倒もみてきたのだと図々しく新米記者にぶったらしい。
 古参の記者なら「宮内省直轄の下に館の処理を當時館務に任ぜられ居たる官吏」と語ったとしても、豊平館の夜警だったこととか、料亭を経営していた前歴を知っているはずだから、こう聞かされた通りには書かなかったでしょう。原田時代を黙殺したまずい記事ではありますが、今回宮内省が豊平館を札幌区に貸してくれたので、魁養軒の料理も気楽に来て頂ける値段にするという内容だから、まあ大目にみておきましょう。
資料その12
●豊平館と洋食   明治十四年 聖上
陛下本道へ御巡幸あらせ給ふに際し北一
條西一丁目に行在所を造営せられたるは即
ち豊平館にして行幸後の残務は開拓使に
於て管掌され十五年三月宮内省直轄の下
に館の処理を當時館務に任ぜられ居たる官
吏石垣道直氏即ち現在の豊平館内洋食
兼ホテル営業者魁養軒主に委ねられ貴賓
客を待遇すべき唯一の機関に充て來り本道
に於て欧米料理の模範として今日に至りた
る處今回宮内省が其維持を札幌区に交付
することゝなり昨十三日を以て愈々引継を
了したるが館内の状況は従来と異なる處な
く却て総ての方法を寛和にし極めて平民的
に行はるべき事となりしを以て此際魁養軒
は大々的発展を爲すべく料理向には一大
改良を加へ総て佛蘭西式に仕出すこととな
りホテルも從來より其営業方針を拡張する
筈なりと又普通洋食は上等一圓五十銭中
等一圓三十銭並等一圓とし其他は需めに
応じて調進するといふ
 さっぱり綿羊が出てないと思うでしょうが、明治43年度の札幌区に於ける「屠畜数を聞くに牛九百六十頭馬四百三十三頭豚千三百五十八頭犢百二十九頭羊九頭計二千八百八十九頭なりと」(18)という記事があるので、9頭は豊平館はじめ洋食店の羊肉料理になったのでしょう。
 明治44年には東宮殿下、後の大正天皇のご順啓があり、豊平館に8月26日から4泊されたのです。豊平館としては大変光栄なことであり、それだけに借家ではありますが、念入りに整備し、歓迎準備が進められた。資料その13は北海タイムスに毎日のように掲載された奉迎準備を伝える記事の一部です。
資料その13
   ▲御座所の整備   道庁内正庁
として殿下を迎ふ可く予定の元長官室及
び内務部長室は悉く模様替及塗替を終え
一昨日室内消毒を行ひたれば扉を密閉し
て一切出入を禁せり又御旅館たる豊平館
の御座所並御寝室等も消毒の上閉鎖して
出入を禁せり供奉員室其他は目下内部の
設備に於て整備中にあり

  ▲御料用麺麭   殿下行啓中本道
内に於て御料に供進すべき麺麭は函館区
相生町精養軒事杉村米造及札幌区北一条
西三丁目北魁堂事小林勇松の両名製品に
御指定ありし由にて右両製造所にては器
具を新調し製造場を消毒し家族職工悉
く健康診断を行ひ製造に従事するときは
白衣白帽を戴き口覆を爲し着手前には石
鹸にて手指を洗滌し清浄なる温湯にて清
め製造用に供する水は総て御料用水を汲
み取り充分漉して用ふる筈なり

▼御旅館 豊平館は去る十四年陛下の本
道に行幸あらせられたる当時御旅館に充
つる爲めに建築したるものなれば之れを
修理して殿下の御旅館となし奉ることとな
せるが修理は遠藤氏主として担任し工事
を営めり使用材料中ペンキは森広氏に照
合した米国より直輸入をなし其質の良好
なる内地に於ては製出し得らるべきもの
にあらずと絨毯は宮内省の紹介にて巴里
より直輸入を爲し階上全部に用ふること
ゝせり電灯にも意を用ひ万一を慮りて
線は予備線共二本あり鉄管の中に入れて
通ずることとなす電灯は一灯毎に点消器を
附し殊に大広間に設備したる最新式装飾
用電灯は目下東京帝国座にあるのみにて
此外我国には未だ見ざる処なり
<略>
▼御食料品 牛乳は宇都宮仁太郎氏鶏卵
は真駒内野尻為三郎氏魚肉は開業社、蔬
菜数は東村爲吉氏より差上ぐる筈にて蔬
菜の培養は森弘氏、養鶏は養鶏園主千坊
由松氏担任せり

   ▲札幌区の諸準備   ▲設備品
札幌区の御旅館に使用する絨毯は宮内省
の紹介に依りて佛国巴里より直接輸入せ
ると聞けるが右は宮内省にあらず宮内省
の御用商人柴田某に依頼して義理より取
寄せたるものにて価格は東京にて買求む
るよりも二割方低廉なりしと尚ほ食料品
に就ては昨紙所報の点を補正すれば鶏卵
と養鶏は野尻為二郎蔬菜は森弘円山村の
藤森其他重なる三四人に命じ又鯉と鮒は
養鯉園主仙坊由松より差上ぐる筈なり此
外供奉員の寝具は赤塚茂吉氏が僅少の損
料にて用立つる由

●縁りも深
 き御旅館
  ▽豊平舘の設備

畏くも我日嗣の宮には親しく本道の民草
を臠はさんとの難有き思召より昨日を以
て函館に御上陸遊ばされ札幌区民が鶴駕
を奉迎し得るも茲四日を餘すのみとなれ
り記者は此機会に於て明治十四年 陛下
の御宿所に充てられし目出度き縁ある當
区に於ける東宮御旅館豊平館の洩れ聞け
る設備模様の一端を紹介し読者と共に此
館に殿下を御迎ひ奉るの日を楽み待たん


 ▲構内の設備
<略>二階左端の大
広間は拝謁の間にして花模様の絨緞
を一面に敷詰め緋色カーテンのうつりも
好く新式装置の五十燭電光七個と二十
五燈付の蝋燭のサンデリアは室内を照ら
して白昼を欺くべく中央には大なる生花
正面二つの大鏡前には各二個の挿花を置
き四方は金屏風にて囲み数個の盆栽を配
置し入口にも盆栽と時計を置きて趣あ
らしむ此室は拝謁と殿下の御運動間
に充つる筈なれば静かに玉歩を運ばせつ
ゝ区民が誠意になる煙火其他の余興を此
處より望まれては徒然を慰むるになん
<略>
 8月の行幸後の区民向けの玉座公開などで、魁養軒は長期休業を余儀なくされ、経営がより苦しくなったとみらますが、石垣は北海タイムスに資料その14(1)にした営業再開の広告を出して巻き返しを図りました。
 その広告は9月8日、9日、10日と3回続けて出しました。さらに少し後に出た「札幌商工人名録」にも(2)の文面の1ページ広告を入れています。
 同(3)はその「札幌商工人名録」に掲載されている「料理店之部」72店から抜き出した西洋料理店5店の営業税額です。何年度分と書いてませんが、出版年からみて明治43年度分でしょう。規模の違いもありましょうが、なんといっても豊平館がトップですね。でも全体では会席の幾久代の469円が最高納税店、蕎麦、寿しなど和食店10店が豊平館を上回っている。やはり市民はノレンを潜って入る店の方を気楽というか、好んでいたんだね。
資料その14
(1)
   御披露
謹啓時下酷暑之砌弥増御清祥奉拝候陳者弊店儀各位ノ御愛顧ニ依リ日ニ増シ繁栄ニ趣キ今日ノ隆盛ヲ致シ候段偏ニ深甚ナル御同情ノ賜ト切ニ感佩罷在候
 却説今回東宮殿下御巡啓ニ際シ畏クモ御旅館ト相成候爲メニ一時休業仕候處御発輩後従來ノ営業準備ヲ尽シ既ニ完成致シ候得者愈々來ル十日ヨリ開業仕リ従来ノ営業ニ一層ノ革進ヲ施シ原料ヲ精撰シ設備ノ十全ヲ期シ申候間何卒倍旧御引立ノ程奉希上候 敬具
 御料理ノ義ハ朝食金八十五銭、昼食金壱圓参拾銭、夕食金壱圓五拾銭ニ有之勿論其外何品ニテモ御好ミニ従ヒ御調進可仕尚出前ハ一品タリトモ迅速ニ調達シ宴会其他特別ノ御用ニ対シテハ精々勉強致シ候間多少ニ不拘御用命願上候
                  豊平舘魁養軒

(2)
   御披露
謹啓時下秋冷之砌弥増御清祥奉賀候陳者弊店儀各位ノ御愛顧
ニ依リ日ニ増シ繁栄ニ趣キ今日ノ隆盛ヲ致シ候段偏ニ深甚ナ
ル御同情ノ賜ト切ニ感佩罷在候却説今回東宮殿下御巡啓ニ際
シ畏クモ御旅館ト相成候爲メニ一時休業仕候處御発輩後従來
ノ営業準備ヲ尽シ既ニ完成致シ候得者従來ノ営業ニ一層ノ革
進ヲ施シ原料ヲ精撰シ設備ノ十全ヲ期シ申候間何卒倍旧御引
立ノ程奉希上候 敬具
 御料理ノ義ハ朝食金八十五銭、昼食金壱圓参拾銭、夕食金
 壱圓五拾銭ニ有之勿論其外何品ニテモ御好ミニ従ヒ御調進
 可仕尚出前ハ一品タリトモ迅速ニ調達シ宴会其他特別ノ御
 用ニ対シテハ精々勉強致シ候間多少ニ不拘御用命願上候
                豊平舘魁養軒
                  石垣道直

(3)
 営業税額 円  店名  店主名
 48.500  米風亭 本沢賴成
 51.060  精養亭 杉山菊次郎
121.470  豊平館 石垣道直
 51.960  幌陽軒 藤井ヤス
 40.400  有合亭 岩井徳松
 50.120  長州軒 真倉新太郎
 資料その14で有合亭の名前が出てきたので「札幌開始五十年記念写真帖」にある店の写真、当時の北大生との関係などを資料その15にまとめました。
 (1)は創業者の岩井徳松の長男安栗が、横浜での料理修業を終えて大正3年札幌に戻り、北2条西2丁目に「木造三階建の当時としてはハイカラなレストランを新築し、二代目として祖父の店を引継ぎました。」(19)と、安栗の長女あやが「有合亭物語」に書いた新店舗です。
 (2)は北海タイムスが大正2年3月に連載した人物紹介「札幌のコックさん」の4回目に取り上げられた徳松さんの紹介です。(3)は佐藤北大総長夫妻に媒酌人をお願いし、教会で式を挙げた後、有合亭で80人の披露宴を催したことがある雪印のお偉方、佐藤貢さんの思い出からです。
 (4)は有合亭はやめて岩井洋食店と改称したときの広告です。明治44年10月31日から3日続けて北海タイムスに載っている。明治44年10月4日の同紙4面に電話開通案内として「北三条東二丁目 洋食店 有合亭 岩井」は1052番と載っている。
 しかし、同年同月15日発行の「札幌商工人名録」に有合亭の電話は685番と載っている。それから半月後のこの改名広告の電話は485番。「商工人名録」では和洋雑貨店(藤川国三郎)の番号だ。何故こんな番号取り替えをしたのか。
 2行目に「電話名簿モイノ部ニ変更」とある通り岩井洋食店なら先頭グルーブだから、目に付きやすい。でも有合亭でなじんだ客は古い685番に掛けてくる。それで新しい4桁の番号はだれかに譲り、藤川と交渉して岩井洋食店の電話は485番と覚えもらおうとした。資料その15(4)Bがその一例。
 でも市民の多くは有合亭と呼び、諦めたか後の求人広告でユーゴー亭と書いたことがあったくらいで、同(4)Cのように電話は685番のまま、店名だけ有合亭に戻し昭和5年9月の閉店(20)まで有合亭と呼ばれたようです。
資料その15
   (1)

(2)
(四)有合亭のコツクさん は其初めフイートといふ米国宣教師の宅での料理術を覚ゐたもので外国人の同情から札幌西洋料理屋の屋号の中では一番気の利いて居る今の米風亭を開き自ら白前垂をかけて大部金貨を握つたので五六年前米風亭の経営を人に譲つて内地へ行き他の仕事に掛つたが泥鰌は鰻になれず失敗して又ぞろ札幌へ帰り北二条西三丁目へ元米風亭と名乗つて洋食店を開き又コツクの前垂を掛けたが今の米風亭を引受けた新経営者の方から苦情が起つたので有合亭と改め一昨年又自分の姓を取つて岩井亭と改称した三年程前麦酒の割引の事から四五の同業者とキリンの方へ連名して置きながら其を札幌ビールへ告げ世話になつたという噂もあるが事実の保証は出来ぬ今は六十二の爺さんで耶蘇信者質素な木綿着物で技術は広くないが有合ものゝ家庭料理として味がよいとの評判である。

(3)
    岩井さんと米風亭
       有合亭の思い出    佐藤貢
                     雪印乳業株式会社相談役
  有合亭の繁栄ぶり

 美観を誇る有合亭の新館が完成し、安栗さんが本格的な洋食を作られてからその名声は一段と高くなった。そして、禁酒を励行した関係で教会関係者は挙ってそこへ集まるようになったばかりでなく、北大では学生の出入りを推奨するに至った。そんな関係からインテリ振った学生を陣頭に相次いで姿を現わすようになり、またいつの間にかビクトル・ユーゴーの名に因んでユーゴー亭と呼ばれるに至って益々繁昌した。
 私の北大時代(大・五~八)に度々道外からの学生から、オイ、洋食を食べよう。アイゴーツーユーゴー、ユーゴーツーユーゴーなどとシャレ言葉に誘われて行ったものだが、当時の学生の云う洋食とはライスカレーとコーヒー、それにアイスクリームと二〇―三〇錢程度に限られ、それ以上のも物には手が出なかった。しかし、学生等はいかにも得意げにユーゴー亭で洋食を食って来たと友達に云いふらしたり、ビフテキを食べたことがあるかと、威張る学生もいた。<略>

    (4)A       同B         同C

    電話     電話    女子
 いま話した新聞記事の「札幌のコックさん」は4回連載で4人を取り上げたのですが、うち2人は豊平館に働いたことのある面白い人物でね、それを書きたくてこの連載を思い付いたのではないかと思うくらいだ。
 資料その16(1)と(2)がそれですが、まず目黒君の経歴。「目白大學にも割烹教授助手として三年間在勤」がすごい。自分の名前をもじっていったにせよ、東京新宿の目白大学の創立は大正12年(21)なんですよ。10年後にできる大学の名前を挙げ、そこに3年とはねえ、道を間違えた男といわねばならん。はっはっは。
 同(2)の原田君のお蔭で館滝蔵編「札樽案内」にある石垣名義の電話2本の魁養軒ではない「八〇二 石垣道直 魁養軒 北三西一 列車営業」(22)の列車営業とは、原田君がいた「停車場前待合出張店」とわかりました。魁養軒として次に説明する鉄道集会所の食堂も経営したけど、そこの電話は37番だから同じではない。それはさておき、この原田君は荒っぽい硬派かと思えば、ちゃんと軟派顔負けなこともやらかしたそうだから立派ですなあ。ふっふっふ。
資料その16
(1)
(一)目黒順司君 札幌へ来たのはまだ日は浅いが目の高いのと腕際の点では本道のコツク仲間の第一流者である無論札幌のコツク中には君の肩まで頭の來るのはない▼履歴を聞いて見ると明治廿八年に東京華族會館専属割烹長をして居た渡辺謙吉氏に就て割烹術を専修し卅一然松方泊及和蘭公使に聘せられ其後欧州航路オーピー号及郵船會社航路船に料理人として数年の間乗込み其後伊香保日光松島ホテル等に入り目白大學にも割烹教授助手として三年間在勤し本道では函館米国領事館英国領事館デンバー商會に勤め一昨年東宮殿下御巡啓の際御旅館豊平館に聘ばれたもので豊平館と鉄道倶楽部で一ケ年を過し昨年の九月から十一月迄旭川三條通八丁目の和洋料理店東京家へ教授を頼まれた旭川から帰つて丸吉洋食店へ入り目下は南一條西五丁目割烹教授の看板を出して専ら各方面の家庭の出教授となり奥様方へ料理やケーキの製造を教へて居る一斤の肉で料理店の二十銭の皿が四ツ出来るといふから温様型が之を覚えれば三十銭の肉で主人の食卓を飾るには十分だとの事だ兎に角区内のコツクでホテルに居たのは君一人で先づ力量は十分あると認られる至極体裁の整つた好男子年は三十七

(2)
(二)一進亭主人 昨年の秋から区立病院前へ一品料理を開いた一進亭の主人が此家のコツクさんである人柄はよいが横濱育ちて気が少し荒つぽい濱の異人屋敷から暇を取つて本道へ来たのは四年計り前の事初め月給七円で豊平館内魁養軒の停車場前待合出張店の方で働いて居た時分掃除番の娘のお腹を大きくしたとて十五円の涙金を取られ其後ビール會社技師さんの独逸人の家へ入つたが餘り主人の口が五月蠅いと癪を起して独逸人を擲つたので「あのコツクきかないペケあります」と解雇を喰つて丸吉や幌陽軒に宿を替へ昨年おかめ湯の仲介で女房も貰ふと同時に一進亭の主人になつたが間もなく細君の足とか腰とかを蹴飛した揚句「出て行け」と離縁話を持出したものだから女房もグツと癪に触つたが御亭の痘痕で跛行で背の低い面相を見ると離縁が呆れてしまひ「お前の様な者が誰に可愛がつて貰へる不足でも妾の腕に捲れて居なさい」と笑ひながら御亭の口許の泡を拭いてやつた女房は中々愛嬌者で専ら此方の楫取で御亭の危きを免れしめて居る御亭は小法螺を吹くのと気の荒いのが病だけれど料理は極く真面目で上手で最も職人肌の人だといふ名前は原田庄太郎といつて當年三十七歳
 次は「札幌のコックさん」には登場しなかったが、元豊平館魁養軒コック長だった男のことです。資料その17にした中央軒の広告が大正3年4月20日付北海タイムスに出ました。
資料その17
 この広告が出た3日後に「札幌カフエーは今回カフエー中央軒と改称是迄豊平館のコツク長なりし岩崎軒主となり調理を吟味し開業する事になれりと」(23)という記事が北海タイムスに載っている。
 つまり岩崎某は豊平館魁養軒の経営者交代を察知して独立に踏み切った「機を見るに敏」な男だったということで、ここに加えました。ちょうど花見時だから、このほかに「笑そめた櫻花が!/圓山の櫻花と/中央軒の洋食とは/共に札幌での名物也。」(24)なんて石垣が腰を抜かすような広告を連発してくれたのです。石垣はこういう猛者たちをいかにうまく働かせるか日々頭を悩ましていたに違いないのです。
 いま「札幌案内」の説明で鉄道集会所という皆さんは初耳だと思う建物の名前が出たが、札幌の駅前通りから道庁正門に向かう曲がり角にそびえていたのです。明治44年、北海道鉄道管理局が三井物産札幌出張所だった建物を買収して鉄道集会所にた。古い写真もあるが、資料その17とした建物の絵付き記念切符を見なさい。右側が駅前通り、左が道庁正門にゆく通りに面していた。資料その18の切符の裏の説明で建物の歴史はわかるでしょう。
資料その18
資料その19
 札幌鉄道集会所(記念切符の裏面)
 明治44年7月12日、札幌区北3条西4丁目にあった三井倶楽部を北海道鉄道管理局(大正9年5月札幌鉄道管理局と改称)が譲り受け、鉄道集会所として職員の社交施設及び会議室として利用したもので、構造は木造2階建て半地下1階の洋風で東に面し、そのしょうしゃな姿は駅前通りの一偉観をなしていました。
 1階は食堂と娯楽室で、囲碁やマージャンが用意され、2階は一つの大広間と二つの小部屋からなり、大広間は職員の会議や講習に当てられ、ときには能舞台を施設して職員が能楽を演じ、その鼓の音が街行く人びとの足をしばしとどめていました。惜しいことに終戦後進駐軍に接収されて内外部の改造が行われ、昭和34年12月9日に売却されました。
 かいつまんで言えば、三井が7万円で建てた札幌出張所だが、木材不況に勝てない。小樽に集約して空いた建物を5万円で鉄道に売った―ということだ。それで札幌の名士たち200人が、我々にも使わせてと鉄道倶楽部を結成し、社交場として利用したのです。それを知った石垣は動いた。私にいわせれば乾坤一擲、鉄道集会所の食堂を請け負い、さらに明治45年正月にかけて金メダル作戦を展開したのです。
 その前に資料その120、子供向けの色刷り絵本の絵と説明を入れた理由を説明しましょう。最初は緑色の建物だったが、私が学生のときは、この絵の通り白塗りだった。もう1つ大きな違いは、玄関北脇と南東端に見える三角形の鰭みたいな出っ張りが付いたことです。色とその鰭を見せたくて写真を使わなかったのさ。ふっふっふ。ツリーの後ろのあたりにもあったように思います。
 これは敗戦後、進駐してきたアメリカ軍が接収して、やはり兵隊のクラブとして使われたそうで、大勢の米兵がジルバなんか一斉に踊ると、木造・築27年だけに建物がぐらつくので補強したらしいのです。
 戦後しばらくの間、新聞のページが激減しており、鉄道集会所の改装という程度の記事は載らないと思って探さなかったけど、もしかすると米軍が外部に突っ支い棒の角材を取り付け、板張りにしたのでヒレ付きに変身という記事が載っているかも知れんよ。
 それからね、三井物産が札幌に出張所を置いてから鉄道集会所になり、三井家は北1西15の土地と建物を買収して別荘にした。それがいまの道知事公館なのです。
資料その20

   クリスマスツリー

アメリカに接収されていた、大きな洋館前
庭の大きな松の木にたくさんの豆電球が点
滅して、初めてクリスマスツリーを知りま
した。
うすぼんやりと暗い札幌駅前通りでこの洋
館だけは外国でした。全部の窓から明かり
がこぼれ、外国を盗み見するためらいと強
い憧れがもつれていました。
でも、サンタクロースを初めて知ったのは
この時ではなかったように思うのです。
            国鉄倶楽部
 資料その21にした魁養軒の広告の画像は、もうちょっと大きい方がよかったが、こういう内容だったという証拠として示しました。つまり左側の魁養軒、鉄道倶楽部内、魁養軒と大きな活字の3行は、ちらり見ただけで鉄道倶楽部の食堂は魁養軒だとわからせるためですね。
 その昔、この鉄道倶楽部は「停車場通『グリーイン』色ノ高層ハ鉄道倶楽部ナリ」(25)という宣伝文でわかるように、当時は緑色の建物だった。時計台より背高、豊平館と同じぐらいの高さらしいから、当時としては高層建建築でした。皇太子殿下の御順啓で一時休業はしたけれど、魁養軒はここの食堂を請け負うなど健在だぞ―という広告効果は充分果たしてます。
 この広告より先に「●鐵道倶樂部の料理 区内停車場通り鐵道倶楽部は玉突その他各種娯楽の設けあるが飲食物は洋食は勿論和洋酒或は一品料理の需めにも応すべしと右は部員の紹介有無に拘はずとなり」(26)という記事が北海タイムスに載りましたから、我が輩は倶楽部員ではないが、百聞は一見に如かず、どーれと訪れた人々も結構いたと思うね。魁養軒も実は鉄道員よりそういう方々の来訪を当てにしての出店だったでしょう。
資料その21

  世界的娯楽界ノ大発展
停車場通「グリーイン」色ノ高層ハ鉄道倶楽部ナリ
倶楽部ハ部員組織ノ娯楽場ナルヲ以テ部員ハ会合
及ビ部員同行者ノ互楽ニ適セリ
倶楽部ハ、囲碁室、喫煙室、球戯室、謡
室、食堂、集会室等ノ諸設備完全セ
ル理想的娯楽場ニシテ交際界本道唯
一ノ機関ナリ
食堂ハ魁養軒担当セリ
    鉄道倶楽部内
           札幌  魁養軒
 そして師走に入った途端、資料その22の幅広の大広告を奮発した。直接読めるサイズの画像にすると、講義録の設定幅からはみ出してしまうので縮め儘で形を見るだけにして、内容はその下に書き出して置いたから読みなさい。
 純金の方は金1匁付きとあるが、今ならいくらぐらいの価値になるのか知りたいよね。それで国会図書館を検索したが、デジタタルコレクションで金の価値の変遷を書いた本はなかった。それでインターネットを検索したら、東京銀座の銀座コインという通販サイトが出て、明治20年に20円金貨が発行されていたことを初めて知りました。それでいつだったか2000円札もあったことを思い出してね、いつだったかCopilotに聞いたら、君らが生まれるちょっと前、沖縄サミット記念で発行され平成12年だった。
 次いでGeminiに20円金貨についてあれこれ教わったが、令和6年6月23日現在、金1グラムは約1万3200円とのことだった。豊平館・魁養軒共通の純金メダルは1匁付き=3.75グラム含有だから4万9500円、それを15個というから、いまなら純金メダルだけでも約75万円というな支出を覚悟した売り出しだったのです。
資料その22


豊平館の発展と整備
  △忘年會懇親會に就て▽
本道唯一の紀念館に於て忘年會及び
懇親會の御催しは至極適當し居るは
言迄も無之候
  食堂の整頗   「コツクは多年欧米に於て修
養を蹟みたる斯道の大家を聘傭し調理の妙味と価格
の勉張と相待て宏壮の大建築と共に正に一頭角を現
し居候時は宴會の好時季に接し倍旧の御眷顧伏て奉
願上候
  仕出シ部の新発展  冬季風雪中は兎
角外出御會食の御不便と従來の仕出し料理は容器の
不完備のため遇々御家庭に於て御客来之饗応に當り
節角の調理も空しく冷却せしむる等の欠陥を補はん
ため今般本舖新案の仕出し函(温気数時聞保つ得る
設備)を使用し以て御來館御會食せらるゝと同様の
御便宜を図り遠近を不問迅速御届可申候
◎猶本館食堂日々の料理献立は毎朝献立表を御配布
可仕候
     本館は単に大宴會のみに限り扱ひ居やの御疑ひと且つ御来館
御注意  も自然御遠慮勝の嫌い有やに聞及候も決して些の御階級を不
     問假令一皿一食の御注文より「コーヒ」一酌の御客様にても最
     も歓迎之上懇切御用命に応可申候
    ――~~~~~~~~~~~~~~~――
  新年宴會と紀念品贈呈
本館は畏くも鶴駕を奉迎する二次、単に本館の光榮
のみならず、本道の一大紀念舘として最大の光榮を有
し本館は此光榮ある絶大の紀念と新春の祝賀を兼ね
 一月元旦より  御來館の各位へ左
         記の紀念品贈呈す
◎追テ札幌鉄道倶樂部へ御來車ノ御方ヘモ同様
 贈呈ス
          御一人前壱圓五十銭以上ノ御
          用命ニ対シ最モ公平ナル方法
贈呈紀念品     ニ因リ一個宛洩ナク贈呈ス尚
          一品ニテモ御注文之方へモ紀
          念品御進呈ス
 一 純金   一匁付 メタル 十五個  
 一 金色       メタル 七百個  
 (嶄新ナル意匠ニ大黒天ト子年)當區中野時計店謹製
 ◎贈呈純金メタル、御持参ノ方に本
  舘調進ノ料理壱割引トシテ弊軒営
  業中永久保証仕候
 ◎金色メタル、御持参ノ方ニハ同ク
  弊軒営業中五分割引仕候
 札幌  豊平館内(電話一〇六番)
              魁養軒
 札幌  鐵道倶樂部内(電話三七番)
              魁養軒
 豊平館と魁養軒の経営者石垣道直は44年12月28日にも年始の集客対策として北海タイムスに金キラ両メダル贈呈の広告を出しました。資料その23がそれだが、このサイズなら書き出さなくても皆、直接読めるよね。
資料その23
 金メダル作戦によって700人は無理としても、常連の多くはメダルをもらい魁養軒に食べに来るようになったのでしょう。新に進出した鉄道倶楽部の食堂要員も含めてだろうが、資料その24(1)の求人広告を4日続けて出したのですから、金メダル作戦が当たったか年初から客数が増え始めたようです。
 杉山菊次郎の長男で、後に豊平館の5代目経営者になった杉山正次は、さっぽろ文庫の「豊平館・清華亭」に「北大と豊平館の縁は深い。明治四十五年、不況の波を受けて苦境にあった豊平館二代目拝借経営者・石垣道直に〝結婚披露にもっと積極的に取り組んではどうか〟と助言したのが農学校(当時・東北帝大農科大学)佐藤昌介学長(のちの総長)である。石垣はその助言を実行して苦境を脱したという。」(27)と書いていますから、金メダルはカンフル注射に過ぎなかったのかも知れません。
 大正3年4月に石垣の後継者になるはずだったかどうかわかりませんが、石垣の長男が亡くなった。同(2)はその葬儀広告です。魁養軒の経営不振に加えて子供の長期療養などで石垣は手許不如意に陥り魁養軒を続ける意欲を失い、コックなどに次を引き受けないかと打診していたことも考えられます。
 一方、資料その24(3)のような投書が新聞に載っていたので「浅田屋の女将」とは何者か調べました。「北海道鉄道百年史」によると明治40年に火事で札幌駅の半分が焼けたので新築に取りかかり、翌41年に木造2階建ての新駅舎が完成した。「この駅本屋も客貨のふくそうにより度々模様替えされ、昭和8年には東側2階に浅田屋経営の公衆食堂(同11年7月にみかど株式会社に変更)を開設するするなど」(28)と浅田屋が出てきた。
 また「札幌駅百年史」では「駅食堂(みかど食堂)」として「昭和5年4月,当時札鉄局旅客係長であった斉藤忠(当駅第7代駅長)が退職して,経営に当たったのが始まりである。(略)個人経営であったが,昭和7年4月に札幌駅構内食堂として,国鉄職員遺家族の組合の手に移された。昭和11年4月,みかど食堂株式会社の経営となり」(29)とある。
 両書を合わせると、少なくとも昭和5年から同11年まで表向きの経営者は変わっても料理とサービスは浅田屋が担っていたことが考えられます。
資料その24
    (1)               (2)

   交代  

(3)
   鉄道集会所食堂無用論
            憤慨生
札幌の鉄道倶楽部の食堂は無用の長物で
ある。クラブは元来職員の娯楽所で浪費
場所ではない。アンナものがある為め職
員の浪費は大したものだ。殊に食堂のコ
ツク某の横着は非常で如何に北管の高
等官が浅田屋の女将に頭を押へ付け
られて居るからと云つて餘りに甚しいこ
とだ食堂は軍隊の酒保の如く手軽で安価
な点に存在の理由があるのだ。職員に浪費
させる様に出來手軽なものは出來ず高
くて悪くコツクは横着と来ては手の付け
様がない
 それと投書の「浅田屋の女将」は、どうつながるのか。調べていったら明治38年函館駅開業度同時に旅客向けの食べ物、土産などの売店を出した函館の浅田屋の女将らしいとなったのです。
 「函館市史」によると「弁当等の飲食物は、明治四十二年以来、浅田屋が担当し車内立売(男子)をしていたのである。」「駅構内食堂、売店、列車食堂、立売のみならず、赤帽、人力車、タクシーと駅内外の陸上運送にまでてを拡げていた。」(30)とある。明治43年に出た「北海道鉄道沿線案内」の青森函館間の連絡船から「上陸後停車場内には附属連絡待合所あり和洋待合室、新聞縦覧等の設備を為し、和洋料理弁当雑貨類を販売し、其他手荷物の運搬乗車券購求方等専ら来往旅客の為め便利を計れり」」(31)とあるこれですね。
 こうした「浅田屋の当主浅田清(女性)は「当時を知る者には一大の女傑と称せられたが、昭和十二年七月病没した」(「『函館駅80年の歩み』)(32)とのことだが、鉄道と青函連絡船に深く関係した商売だからね、それら全般を監督する北海道鉄道管理局の幹部諸氏には中元、歳暮は欠かさず、函館を通るときは人力車提供などサービスしていたでしょう。投書の「北管の高等官が浅田屋の女将に頭を押へ付けられて居るから」とは、こういう関係を指したのですなあ。
 石垣は鉄道集会所の食堂運営を引き受けはしたものの、本拠豊平館の経営不振で続けられず、間もなく浅田屋と交代したに違いない。だから昭和5年の札幌駅食堂開設も、斉藤は旅客扱いのベテランだったかも知れないが、食堂用の什器や食材仕入れなど一切素人ですからね、鉄道集会所を請け負っていた浅田屋の力を借り、結局は運営を任せて昭和8年の浅田屋による公衆食堂の開店につながったとみられます。
 豊平館魁養軒は金メダル贈呈なんて余裕ありそうな広告を出したが、実情は火の車、石垣は札幌区から豊平館の滞納した借家代を精算して立ち退けと訴えられていたのです。資料その25(1)にした北海タイムスの記事は石垣の滞納額を書いていないが、札幌区の明治43年度追加予算案に「豊平館貸付料二百七十円」(33)とあるから、4年分として1000円を超えていたかも知れません。「豊平館・清華亭」の年表通りなら、追い出されるのは金沢キセのはずなのに、その前任者の石垣なんですから、これからも年表の間違いがいえます。
資料その25
(1)
●豊平館 明渡し訴訟

札幌公会堂豊平館階下使用人石垣道
直は其賃貸契約に係る賃貸料滞納の
結果札幌區役所は同人に対し該使用
認可を取消したるに石垣は之を不當
とし曩に黒沢弁護士を代理人とし札
幌地方裁判所に賃貸借契約存続確認
の訴訟を提起し区は之に応訴する事
とし來る十日口頭弁論を開くべきが
右に就き札幌區役所よりは村田、濱
田両弁護士を代理とし新に石垣道直
に対し豊平館明渡しの訴訟を提起す
る事にせり

(2)
豊平館賃貸和解
     成立して告訴を取下る

札幌区大通西一丁目一番地石垣道直
が黒沢弁護士を代理として札幌区長
阿部宇之八氏を相手取り豊平館の賃
貸借契約確認の訴訟を去三月十八日
に札幌地方裁判所民事部に提起せる
事は当時報道せるが該訴訟は今六日
法廷に於て口頭弁論あるべきの處両
者の間に和解成立し告訴取下をな
し解決するに至れり
 札幌区はお役所だし、豊平館を公式行事で使うつごうもあり、次の経営者が現れるまで滞納やむなしと待っていたところ、本道鉄道一千哩記念式典の開催が決まり、祝宴は豊平館の料理と内定したことから、滞納で首の回らない石垣ではなく、次の拝借希望者金沢にそれを請け負わせようとして交代を強く求めたことが考えられます。

 入江の「大正3年札幌豊平館を金沢氏が経営するに当り、半年の約束で来札した」という手記から、私はね、金沢はこの1年前、つまり大正3年春から入江コックを豊平館に入れて石垣退任を待っていた。札幌区としては拝借人交代を促進するため、石垣の滞納額をなにがしか割り引くなどして滞納分を精算、豊平館明け渡しを促したんでしょう。
 入江手記の豊平館に入る前、9年分を抜き出したのが資料その26です。入江の後任コック長として築地精養軒からきた関塚喜平は「当時コック長は入江様といい、これも精養軒で経営しておりました東京神田神保町ドウキ倶楽部におられた方」(34)と書いていますから、精養軒出身者であることは確かです。
資料その26
<略>特に明治38年韓国京釜間の鉄道開通祝賀式の為の京城出張などは
印象深いものがある。折しも日本海の大海戦に遭遇して(東郷聯合艦
隊大勝利の時)釜山で一喜一憂の日を過し、やつと万才万才の日本に
帰つた時の感激。又翌39年には陸軍省嘱託として軍政司令長官楠瀬
中将(後陸軍大臣)と共に占領後の樺太に渡り、42年司令長官と共
に日露境界線の完成を視察し、帰途海豹島を視察した。其後司令長官
は豊辺少将と交代し、やがて民政となつて初代樺太庁長官には平岡定
太郎氏(三島由紀夫氏祖父)が着任、同時に司令長官と共に離島し、
精養軒に戻つた。44年銀座風月堂にチーフとして聘せられた。
店主は青年時代渡仏して洋食、洋菓を勉強して帰国した方で総べてに
先端を行きカタツムリ、食用蛙、スツポン等を初め季節季節に変つ
た野獣、野禽等の料理を番外新味(New dish)として献立に載せ
て常連の食通を楽しませた。又時々仏語と料理の講習もなし大いに得
る処があつた。
 入江は京城出張から精養軒に帰ったが「翌39年には陸軍省嘱託として軍政司令長官楠瀬中将(後陸軍大臣)と共に占領後の樺太に渡り」は明治39年7月6日の発令で楠瀬幸彦少将が淡路島の由良要塞司令官から樺太守備隊司令官に転勤(35)したとき同行したのでしょう。
 樺太庁は出来たてほやほやで初代長官を兼任した楠瀬が、ナンバー2の事務官熊谷喜一郎と大喧嘩をしたので、両成敗で明治41年4月、豊辺新作少将に代わり、中将になっていた楠瀬は第一師団司令部附で東京に戻り、熊谷は依願免官(36)になります。
 だから「同時に司令長官と共に離島し」たは明治41年7月であり、入江は樺太に1年10カ月いて精養軒に戻り、その3年後に凮月堂にスカウトされたことになります。
 さっぽろ文庫の「札幌事始」の「洋食」を受け持った五十嵐久一は「入江は日本の洋食店の元祖・築地精養軒の中堅コックだったが、明治三十九年陸軍省嘱託として占領後の樺太に渡り司厨を担当、同四十二年民政に移ったのを機にパリへ渡って、フランス料理を研修した。明治四十四年帰日、凮月堂のチーフとなっていたものである。」(37)と書いています。
 本当に花の都パリで修業してきたのなら、思い出の記に書き忘れるなんてことはないでしょう。私は入江が銀座凮月堂の主人、米津恒次郎は「青年時代渡仏して洋食、洋菓を勉強して帰国した方」と書いたのを、五十嵐は入江がフランスで勉強してきたと読んでしまったせいですね。
 それだけならまだいいよ。札幌農学校のブッルクス先生帰国のとき同行してアメリカで家政学を勉強してきた清水ナカを調べた松島千代野、北岡澄江著「ホーム・エコノミックス形成期の食文化史と日本洋食文化の生成発展に関する研究」に、入江はバリで修業してきたと書いてあるのは、この「札幌事始」の五十嵐説に拠ったからでしょう。
 大正5年の本道鉄道一千哩記念祝賀会を入江は「鉄道50年の式典」と書いたが、記念パンフレット「延長千哩之北海道鉄道」のトップに「本道拓殖の政施かれて茲に四十有八年(略)抑々本道に於ける鉄道の歴史は、早己に三十有七年の星霜を閲みし、現時官線九百四十五哩余、之に複線、専用線、民営線を加算すれば延長合計一千哩以上に達す。」(38)とあるが、その記念祝賀会だったから、当時なら「鉄道50年の式典」で通ったのでしょう。
 5月29日の祝賀会は「二時半更に宴会場を開くやこゝに四百五十餘名隈なく居並んで控ゆ、劈頭野村副会頭が挨拶を述べ来賓の爲に乾杯し俵長官は代表して謝辞を述べ協会の万歳を唱へ衆唱和協会側は北海道萬歳を高唱すれば衆またこれに和した上、洋食の会食に移る、芸妓の給仕女の斡旋でさしも叮重な宴の終つたのは三時、」(39)でした。
 豊平館が450人分もの洋食を仕出しするなんて滅多にないことだから、ここは豊平館が請け負うと札幌区民にアピールする最高のチャンスだったと思うが、この記事の通りで、私がこうして示さなければ誰も気にも留めないよね。こんな工合で金沢時代の豊平館の広告は年賀とボーイ見習い募集ぐらいで誠に影か薄い。
 ともあれ金沢源太郎は「豊平館・清華亭」に書かれた金沢キセの息子か親類で、キセに後押しされて豊平館の経営に乗り出したとしたら、何かつながる記事が載っていることを期待して新聞のマイクロフィルムを読んだのです。
 金沢キセの金沢は石狩町にあった実家の姓で、明治18年より前、横山晋之助と結婚したので横山キセとなり、明治41年まで記事は皆横山です。横山キセの名が初めて紙面に出たのは資料その26(1)の明治35年の火事見舞いお礼の広告です。横山キセはこのころ薄野遊郭にあった長谷川楼という店の女将だったのです。同(2)は旦那の晋之助の名前が出た初めての記事で、火事の8年前です。
 長谷川楼が開店したのは、もっと前で明治16年の函館新聞に「該廓内当時日の出の長谷川楼ハ昨年頃の月収入千四百圓に下らざりしが本年ハ平均八百圓程の収入なりといふ」(40)と載っている。
 長谷川楼の遊女たちが建物は焼けてしまったけど、皆逃げて無事でしたよと広告を出そうと書いたとは考えにくい。私は店のことは万事仕切ってきた女将が考えたことだと見ますね。逢いに来て頂戴よとなじみの客に出すラブレターと新聞広告は広がりか違います。
 ことに明治時代は木造の建物ばかりでしたから、一旦火事が起きると、どんどん燃え広がり、翌日の新聞は失火お詫びだけでなく、火事見舞御礼の広告が沢山載ります。火事見舞いお礼はこの2つ広告にもあるように「混雑の際に付御尊名伺漏れ」があるかも知れないからこの広告をお礼に代えるとして、だれも見舞いにこなくても見栄を張って出すこともあったでしょう。長谷川楼だけでなく、娼妓一同からも並べたら珍しいと話題になるはずと思い付は、即実行したのは、やり手の女将キセに違いないのです。
資料その27
(1)
類焼の節は早速御駈附御手伝被
下難有奉存候御蔭を以て妾等無
事立退き候間憚ながら御安意被
下度尚ほ混雑の際に付御尊名伺
漏れも難計に付紙上を以て御厚
礼申上けまいらせ候
  南四條西四丁目新川端
 六月      長谷川楼内
 十八日      娼妓一同

今朝類焼ノ際ハ早速御駈付御手
伝御尽力被下候ノミナラス態々
御見舞被下御厚志ノ段千万難有
奉鳴謝御蔭様ヲ以テ一家無事立
退キ候間乍憚御休神被下度候就
テハ一々拝趨御厚礼可申上候筈
之処混雑之際御尊名伺漏モ可有
之下被存候ニ付乍略儀紙上ヲ以
テ茲ニ御礼申上候也
 追テ当分之内南四條西四丁目十三番地新
 川端寓居居仕候間御承知置被下申添置候
 六月
 十八日 薄野     長谷川楼
            横山キセ

(2)
○消防組へ寄贈の金品  去る十日に於ける當区
消防組出初式に際し其祝として札幌警察署及び各
有志諸氏より寄贈したる金品尠からざるが其重
なるものは金二十圓宛札幌警察署北海道炭鉱会
社、金十圓電燈社、仝上並に手拭五十本田中以
曾、金八圓宛原田伝弥、北海道製麻会社、武田甚
左エ門、後藤銈太郎、向井嘉兵衛、金五圓宛北垣
国道、陶不窳次郎、鈴木米三郎、大竹敬助、清酒
八樽今井呉服店、仝五樽今井洋物店、仝四樽宛新
田織之助、後藤半七、池川新太郎、横山晋之助、
岡田左助、松永太郎次、仝三樽次札幌酒造組合、
朝明門吉諸氏外数十名なりしと
 明治41年に入って資料その27(1)の記事を見付けた。フィルムを巻き戻して年賀広告を見たら(2)の通り横山ですから、ほんとに金沢姓に戻ったのか疑わしい。養母キセというから晋介は実の子ではなく、ドラ息子であることだけは間違いない。ふっふっふ。
 ところが本当だった。翌日の紙面に(3)の珍しい女性の改姓広告が載ったので納得しましたね。それからが凄い。23日から始まり24日、25日、26日、27日、28日、閏年だったので29日と2月だけで7回も同じ広告を出し、3月1日にあったから合計8回も改姓広告を出したことになる。普通なら出さない、出したところで1回でしょう。こんなに繰り返したあたり目立ちがり屋の面目躍如です。
 その後の年賀広告は(4)と(5)のように太田楼という冠なしの「金沢きせ」でした。当時の広告は転勤とお知らせ、札幌を離れる際の見送りお礼、禁酒とか絶交宣言などさまざまに使われていたけど、女性が旧姓に戻すと8回連発なんてキセ以外にやる女性はいないでしょう。
資料その28
(1)
「不夜城」
<略>▲長谷川楼の相続人たる
横山晋介は目下鹿児嶋の中学校で在学中だ
が放蕩学の研究にのみ凝り固まり殊に養母
キセを女と侮つて今迄何度となく二百三百
と纏つた遊興費を要求して來たが際限がな
いので仕舞ひに一度送らぬ事があつたら此
間突然帰宅しダゝを捏ねて仕末に負へぬの
でキセも持て余まし親族会議を開て現在の
財産を二分し自分は実家へ復籍して離縁し
たが楼名は矢張り在来の長谷川楼の儘姓を
金澤と改めた丈だ▲<略>

(2)
謹賀新年
   南四絛西四丁目一番地(薄野)
     横山きせ
     (電話二百二十番)

(3)

(4)
謹賀新年
  札幌南四、西四(薄野遊廓遊園地通)
     金澤きせ
     (電話二百二十番)

(5)
謹賀新年
  札幌南四、西四(薄野角)
     金澤きせ
      電話 二百二十番
 明治・大正時代の新聞は花柳界の記事を沢山載せました。それで薄野長谷川楼の記事を探し、やっと見付けたのが資料その29の「列伝体/明治幌都花柳史(四) 」です。横山晋之助は大正元年からみて10数年前に亡くなっていたとなれば、資料その27(1)の火事見舞御礼広告の名義がキセなのは、既に晋之助はこの世にいなかったからですね。
 「列伝体/明治幌都花柳史」ではキセは名ばかりの太田楼所有者と書かれたけれど、資料その3の年賀広告の住所と電話番号は長谷川楼と同じ南4西4、220番だから家主としてそのまま住んでいたらしい。
資料その29
  ▽改まる所が御愛嬌横になつて
   秋の夜長に読んで下さるへし

  長谷川楼沿革

今回太田楼と改称せし元の長谷川楼の祖
は生ツ粋の江戸ツ子長谷川幸太郎といひ
嘉永二年江戸深川に生る青年時代より鳶
の群に入り身体一面の文身をなし居たる
より明治に入りて夏冬とも襯衣に身を包
み居たり明治四年頃渡道札幌に來り五年
中川良助等と消防組を組織して第三番組
々頭となり次で南五條西四丁目角(今の
西花楼のところ)に妓楼を建て長谷川楼
と命名して営業を継続し居りしが十一年
千代富座主(今の大黒座前身)池田新太郎
氏の依頼にて同座の支配をなし後遊廓座
と名く長谷川楼は横山晋之助に譲り晋之
助は石狩町の金澤キセといふを妻となし
キセは同楼の女将として大に活勧し居る
うち十八年長谷川幸太郎は卅七歳を一期
として病死し遊廓座は若狭謙吉氏支配し
次で同氏之を譲り受け大黒座と改称し十
万円に近き資産を作り四十五年春死亡し
又長谷川楼主横山晋之助は北海楼の跡へ
移転営業せしも十数年前死亡せしより未
亡人キセ活躍して大に長谷川楼の名儀を
上げしが後都合ありて實家金沢姓に復し
営業は依然継続し居たるも大正元年九月
に入り同楼を内實岡部金四郎に譲太田楼
と改称しキセは名のみの楼主となりたり
 長谷川楼でためた財産を義理の息子と2分したのだから、キセは金は持っていたはずだし、改姓広告を出す行動派だから、黙っているわけがない。金貸し業を始めた。大正2年4月の北海タイムスに「●夫は娼妓と逃る/嬶は家を売腐る」という記事が載りました。薄野の丸小印越見楼の楼主、小倉佐太郎は「昨年末区内五十嵐佐市金澤キセ外五六名より資金を得て開店」したが、女房を捨て丸ヨ印丸山勇蔵のところの胡蝶という娼妓と駆け落ちした。借金は殆んど返していないから女房サキは困っていると思ったら「少しも愚痴を言はず却つて好機となし越見楼從來の有体動産則ち畳建具から娼妓の使用しをる夜具箪笥など」を330円で古物商に売ったことにして運び出そうとして見つかり警察沙汰になった(41)という記事が載った。
 それで五十嵐とキセは貸金回収のためらしいが、北海タイムスに売り家広告を出したのです。資料その30がぞの広告で「売家」の下の文面は「薄野元新葉楼跡畳建具諸道具一切付御望ノ方ハ下名ヘ御來談ヲ乞フ 南四西四 新川端角 金澤」です。新葉楼は越見楼になる前の貸座敷の名前でしょう。これを7日間載せ続けたのです。
資料その30

        売家
 また「音羽」という料理屋も開いていた。これば大正12年の「北海道職業別電話名簿」(42)調べで見付けたんだが、大正11年から北海タイムスを見たら資料その31(2)の広告が見つかった。この電話帳では質屋業で金沢セキとなっているが、住所が「南四西四ノ一四」だからね。それに広告の文面も候文ながら素人っぽさを売り込んでおり、しかも「御なじみ浅き御當所」とくれば、店主は札幌に住み着いて間もないらしいと受け取るだろう。これは翌月から、ただの天麩羅ではなく「江戸式 金ぷら」と打つ伏線なのだから、娼妓の火事見舞い御礼と同様、キセのアイデアにだかない。ふっふっふ。
資料その31
   (1)                (2)
        
 大正2年9月、キセの実母ふみが死去、資料その32がその葬儀広告です。弟らしい源治郎はいるが、源太郎ではない。元新聞記者によると、葬儀広告で誤植すると代金をもらえないこともあるそうなので、源治郎は間違いないでしょう。
 となると、キセが子供のいない自分の老後を考え、東京にいた源治郎にコックを連れて札幌に戻り、豊平館の経営者になりなさい、私が後ろ盾にになるからと呼び寄せていたかも知れません。大正5年の北海タイムスの年賀広告が出るまで源太郎と書いた記事はたった1回であり、源治郎の間違いもあり得ると思ったが、やはり源太郎でした。
資料その32
    葬式
 またキセは消防関係の寄付はもちろん、多額の寄付もしました。大正8年に出た「北海道十字之光」という日本赤十字社北海道支部の特別社員の写真帳の説明が「質商/金澤キセ子氏/篤明治三十九年八月特別/札幌区」(43)となっています。日赤の「篤志表章授与」の規定がわかりにくいが、キセは25円の一時金を納めた特別会員であり、さらに「一時金二十五円以上ヲ納ムルコト一回乃至三回」(44)で一、二、三等篤志表章のどれかを授けらけられたらしい。資料その33の(1)が「北海道十字之光」にあるキセの写真、(2)は大正8年の北海タイムス元日号17面に載った豊平館の年賀広告です。
資料その33
        (1)             (2)
            

 また大正12年の関東大震災の義捐金に大枚50円を寄付(45)している。大正13年の「北海道実業大鑑」によると、札幌の質商22人中、キセは3番目に高い営業税230円(46)を課せられるぐらいもうけていた。だから豊平館の経営に乗り出してもおかしくないという見方が「大正2年 ▽金沢キセ豊平館の管理を請け負う。」となったらしいとしか言えないことがわかったかな。
 もし、キセでなかったら金沢源太郎の後ろ盾になったのはだれか。私は名字は同じ金沢でも肉屋の金沢彦吉を挙げます。杉山菊次郎との接点から遡る尽波仮説であり、全く違うかも知れないが、この際、話しておきたい。
 マイクロフィルムの北海タイムスを読んでいて大正8年4月の紙面で資料その34とした記事を見付けたのです。私はね、それまでの新聞読みで狸小路西2丁目の金沢肉店は生肉を売るほかに、店内で肉鍋を食べさせてきたことを知っていたかから、飲食店として参加できたなと、すぐ理解できた。
 このときが和食の金沢彦吉と洋食の杉山菊次郎が料理飲食店組合の幹事長と会計担当としての初の顔を合わせだろう。つまり、このあと彦吉は源太郎の次の豊平館拝借人を引き受けてほしいと杉山に話を持ちかけたというのが、私の見方なのです。
資料その34
●札幌飲食店
 組合の創立
 ◇昨日総会を開く

札幌区には従来料理店営業者の組
合あり組合員四十七名に依て組織
せられ居るも飲食店即ち西洋料理
其他の飲食店営業者の組合なき為
統一を欠き兎角に不便の点あるよ
り先達て金沢彦吉、安田栄次郎斉
藤アキ其他十九名発起人となり従
来の料理店に関係なく更に同業者
の健康保全を図り公衆衛生を重ん
じ風紀を矯正し相互に親睦を厚ふ
し営業上の改良発達を図るの目的
にて札幌料理飲食店組合を組織す
る事となり昨廿三日午後一時より
商業会議所楼上に創立総会を開き
たり会員は百三十五名に達し規約
を作り役員選挙の結果
組合長本沢直道、副組合長安田栄
次郎、岩井安栗、幹事長金沢彦吉、
会計杉山菊次郎、幹事中西勇作外
四名評議員原田敬蔵外九名
当選夫より札幌警察署山内署長の
訓話あり三時過ぎ終了
  もう一つ私が彦吉を有力候補にする理由があります。それは明治44年に出た細川碧編「札幌商工人名録」の売肉商の営業税額でみると、21人中4位だったからです。1位は南1西4の小谷義雄の75円10銭で、小谷は南3西4にも店を持っていて、こっちの35円19銭と合わせて断トツ。2位は南2西3の合資会社斉藤肉店の71円52銭、3位は南2西2の小口市太郎の57円39銭、4位金沢の52円49銭(47)の有力店でした。
 ここで資料その35として金沢彦吉のミニ伝記と写真を紹介しておこう。父親万雑の葬儀広告が大正8年7月14日の北海タイムス朝刊4面にあるが、それに並ぶ男の名前は常平、彦吉、勇治、一弥の4人で源太郎と姉妹らしい名前はない。源太郎が彦吉系列だったとすれば、常平ら3人と明治42年に亡くなった3男常治の子供だろう。
 出典は高橋理一郎編「北海開発事蹟」だが、高橋は大正10年9月と同11年7月に同名で2冊出しており、国会図書館に前者だけで後者はない。道立、北大、札幌中央の各図書館にはどっちもない。7年前のミクシィ日記によると、私は両方ある函館中央図書館でコピーさせてもらったとあった。ということは、今回の講義は少なくとも7年かかった研究成果ということになる。私が長生きしたからできたわけだよね、ハッハッハ。
資料その35
             紋付き

努力の結晶燦然として輝く
     札幌精肉業界の頭目
      金澤彦吉

無尽藏なる地中の宝庫、世界屈指の海底の富、随所に富源を示す大森林
連亘展開の大農牧場、十一州の全海陸宛然黄金の府の如く、光彩陸離観
者の目を奪ふ。ここに於て眩惑者は本道の成功者を目し直に財寳拾得者
なるかの如く思惟せるは人間の活動性を侮蔑するもの也。乞ふ見よ茲に
紅紫とりどりなる本道成功史上其事歴華やかならずと雖石を穿つ水滴の
堅忍と眞個のカに依り今日の光輝に到達せる金澤彦吉氏あり父を金澤萬
蔵と称し巖手縣釜石の出、氏は其長男明治十三年に生る。氏の出生に先
ち嚴父は漁業從事の爲め來道、氏出生の歳札幌に來り北一條東二丁目な
る札幌工業所の夫役を勤め薄給を節約し辛苦三年若干の資金を得て南四
條東三丁目に肉店を開業し馬肉販売を率先す、當時未だ食用馬肉の市に
現はるるものなく屠殺の要ありて斃せしものは野に捨つるの現状なりし
が此の先覚の創業は札幌の食肉界に一新紀元を劃し畜産界に新生面を開
きたり。氏幼時山下學校に學び、十八才學業終了後は專心家業を補け、
時に一隊の博労を牽ひ日高方面に買出しをなす等一意家業の進興に懸命
の努力を費し、父子協力の健闘は漸次成果の大を見るに至り、明治二十
二年長田萬太郎なる者の経營せる肉店(狸小路二丁目現住所)を買受け
て移店業務の擴張をなす。居諸と其に産愈加はり三十一年白石村字厚別
にて一町八反歩の田地を購入したる之現在百数十町に及べる金澤農場の
出発点なり、其後辛労蓄財を生み、蓄財を田地に代へ、三十幾人の所有
を次第に買ひ集めて今日の大を形成ずるに至り現時三十二戸の小作人を
包含せり。尚札幌区内に宅地数戸分及び貸家二十餘戸を持ち本道売肉業
界有数の資産と中堅の聲名を保持す、氏は寛厚温徳公共の念に篤く神社
學校或は道路に所有地を寄附せるもの数回に及び篤志感謝の表彰紀念品
を受くること一再ならず、氏忠實斯業の向上を計り道博出品に際しては
銀牌を受領し、更に同業組合の廃滅せんとするを挽回せる中興の功業は
斯業発展上特筆大書す可く又札幌料理飲食店組合設立に當りても熱心其
育成に尽力せり。後継者たる長男幸治氏は目下大学予科在学中なれば家
名興隆の前途愈光輝に満ち基礎益堅牢家慶倖歳を加へて益大ならんとす。
 「北海道史人名字彙 上」に海和欽哉という人物のことが書いてあります。貞明堂と称した易者で「性義侠にして慈善に厚く、平素収入の大半を以て貧民の救済に消費し、又書生を養ひ札幌農学校に入学せしめ、侠客金沢彦吉を牧畜業に成功せしめしが如き、其の教化の力多きに居るといふ。」(48)とある。
 彦吉は強きをくじき弱きを助ける気持ちを発揮した一例として、明治41年に肉類の値下げがあります。まず12月4日の北海タイムスに「肉類大々値下ゲ広告」として牛肉4種、馬肉と豚肉各2種の値段を掲げ「前記ノ廉価ヲ以テ来ル五日ヨリ大々値下ゲ大売出シ仕候間倍旧陸続御用命被仰付度奉懇願候」(49)という大きな広告を毎日出した。
 それで各肉店は客から金沢ぐらい安くしろといわれ、参ったらしい。12月29日に札幌売肉営業組合として肉類直段改正広告を出し「是まで各店に於て売出し等の為区々の価格を以て販売致来り候處明三十日ヨリ左の通改正仕候間不相変御引立の程奉希上候」と牛ヒレなら彦吉の大々値下げ価格より10銭高い百匁40銭、豚上肉なら2銭高、馬上肉なら4銭で売る(50)ことで手を打ったんですなあ。
 彦吉はその改正広告にくっ付けて「肉類直下ケ販売中ハ特別ノ御愛顧ニ預リ難有御礼申上候然ルニ兼テ予告致置広通組合協議成立致シ組合広告ノ如ク明三十日ヨリ直談改正仕候間倍旧御引立被仰付度此段御礼ヲ兼テ謹告仕候 敬白」(51)と勝利宣言の広告を出した。
 「札幌市史」に「札幌農学校の余剰肉を払下げて、はじめて肉鍋屋を開店したの、狸小路二丁目の小口肉店である。」(52)とあるが、資料その36にした新島繁編「蕎麦今昔集」に収められている開拓使の官員井上重寿の「左多楼平むだがき道中尻から毛」によれば、札幌農学校ではなく開拓使とみられます。
 正確に言えば「蕎麦今昔集」にある林美一が書いた「明治十三年の札幌たべある記」が引用した井上の「左多楼平むだがき道中尻から毛」からです。原本は立命館大の図書館にあり、以前は検索すればあっさり原本の画像を見ることができた。それで林美一氏が読めなかったか□3つで示した箇所は「ニ至ル迠」と判読し、魁養軒原田傳弥の講義で使った。ところが今検索してみたら閲覧手続きが厳重になっていて、学外から簡単に拝めなくなっている。それで参考文献は「蕎麦今昔」からにしました。
資料その36
<略>当札幌ハ牛肉ハ官ニテ屠牛セシヲ長官始メ属官□□□廻状ニテ誰々何斤入用ト印テ官員へ売払テ、残リヲ町家へ売渡ス事ゆへに、何分ニも日合をくれ(以下片仮名平仮名が混乱して使用されている)、其上老牛ゆヘニ、コハク、迚も東京ノ者ニハ喰せず、僕モ四五度も喰ニ行候得共、丸デ東京の肴込の牛店同様ニテ、カタデ(かたくての誤りか)不喰、其わリニハ鹿肉ハ極上等ナリ、風味よくうまし<略>
 「札幌市史」はさらに「明治十五年頃には小谷・金沢・郡司等が肉鍋酒店を開業、食肉の需要を一そう増大した。」(53)とあり、昭和34年に出た「北海道食肉名鑑」も同じことを書いているが、井上によれば明治13年の札幌には牛鍋店があったことは確かだが、鹿の肉鍋も出していたのかどうかはわかりません。
 大正元年10月、狸小路で火事がありました。狸小路2丁目の空き家から出火、2丁目と3丁目の南北両側32戸25棟が全焼した。2丁目南側にあった彦吉の金沢肉店と1軒置いた西隣の加賀肉店とも全焼。「南側は合計七千七百六十円位の見積なりと尚此外に金沢肉店の鶏十羽加賀肉店の鶏三十二羽豚五頭焼死したるあり」(54)と北海タイムスは書いています。
資料その37
    (1)
    肉屋

    (2)              (3)
   肉屋   肉屋  

    (4)              (5)

     肉屋     肉屋
 同(1)がこのときの火事見舞御礼広告の一部です。避難先、立退場所、立退所を併記しており、彦吉は南5西2に住んでいた父親万蔵宅、3カ月前に泣くなった加賀肉店の店主加賀清助に代わり、店を続けていて妻ハルは南3西3の千葉亭に避難しました。
 すぐ焼け跡の整理と再建工事が始まり、金沢肉店は元の位置でバラックだと思うのですが同(2)の広告からわずか6日後に営業を再開しますが、加賀肉店は狸小路2丁目には変わりないけど同(3)の広告から「筋向ヒ」小路南側元の店跡ではなく北側に移り、被災後40日で再開したことがわかる。
 加賀肉店の2丁目北側移転により跡地が空き、再開できず土地を手放した店もあったかも知れません。彦吉は隣接の土地を買ったか借りたか、同(6)の広告で休業して店舗を新築した。このとき食堂を併設したのですね。同(7)の大正2年6月から鍋の絵でわかるように肉鍋の提供を始め、このとき初めて料理店の仲間入りをしたとみられるのです。「北大文書館年報」によると「北海道帝国大学新聞」昭和5年9月号に金沢肉店が出した広告に「和食(肉鍋)※会合可能」(55)と入っているから、ちょっとした座敷もある食堂だったらしい。
 ここで金沢源次郎の後、豊平館食堂を引き受けた杉山菊次郎について話しておきましょう。菊次郎の長男杉山正次によると、菊次郎は千葉県の生まれだが、幼いころ小谷熊造夫婦に連れられて札幌にきた。小谷は豊平に牧場を設けたので、長ずるに及んで菊次郎は牧場管理とバター製造に当たった。
 一方、肉店の小口平二は妻子を札幌に呼び寄せ、娘テルは小谷家の養子義雄と結婚、同じく娘ナカは菊次郎と結婚した。「明治四十年、札幌の中心部の大火に遭ったあと、新築なった小谷肉店の裏手に小谷洋食店(のちの精養亭)を開いた熊造はその三年後に逝き、肉店は二代目の小谷義雄、洋食店を私の父が引き継ぐわけだが、私の生まれたころの父は、まだ肉店と牛舎の仕事に忙殺されていた。」(56)と小谷、小口、杉山の三家の関係を説明した。
 資料その38(1)は大正7年の小谷肉店の北向きの店全体の写真です。南1条通りなのに手前がガクッと下がっていて、下水溝になっているようだが、自転車と配達車が店の前にあるから、それらが通るぐらいの道幅はあったのでしょう。
 同(2)は精養亭か南向きで小谷肉店と背中合わせだったことがわかる地図です。両店ともの屋号が入っており、同(3)の年賀広告でも同じくを入れている。小谷肉店の店主小谷義雄は大正15年、東京の松井平五郎に次いで農商務省から指定羊肉商に指定され、道内での羊肉買い入れと販売で辛酸を嘗めることになったのです。
資料その38
    (1)
    肉屋
    (2)
     背中合
    (3)
     屋号
 資料その34で示した札幌飲食店組合ができて、金沢彦吉幹事長と会計杉山菊次郎が知り合ったとすると、源太郎が滞納した豊平館拝借料や借金は私が整理するからと、彦吉は豊平館食堂の経営を引き受けてくれと半年かけて杉山を口説いたことになる。
 それで杉山は大正年8年10月19日の北海タイムス9面に資料その39(1)の今月15日から豊平館食堂は精養亭が経営すると2段広告を出したのです。
 でも2段では迫力がないとみたか、21日に同文だが、3面に3段の広告と4面に求人広告を出した。それは「ボーイ 見習トシテ十五六才以上ノ者数名至急入用希望ノ方ハ御来談被下度候 豊平舘」(57)で石垣と交代直後に金沢が出した求人広告と文章も組み方も全く同じものでした。
資料その39
    (1)                 (2)
  肉屋      背中合
 犬も歩けば棒に当たるという諺から、私はちょいちょいい思いついた複数の単語を組み合わせて検索することを犬棒と呼んでいるが、私のデータベースによると、平成27年8月16日の犬棒で、札幌にある明清高校食物科同窓会のブログの「豊平館」を見つけたのです。そのブログはスタイルが変わって検索しにくくなっているが、探せばちゃんと読めます。
 それは平成24年2月16日の書き込みで「私の恩師である関塚康男(八重洲会々長)の父親”関塚喜平”は、その昔、豊平館で料理長をされた方です。」とあり「一番の思い出は、アインシュタインが豊平館に滞在され、帰る時に料理が素晴らしかったとチップをくれたことで、当時の100円、現在の価値で50万円位?だったそうです。」(58)のチップをくれた(1)という話が書いてあったのです。
 すぐ関塚喜平で検索したら「栄養と料理」のアーカイブに「天皇と食卓」と題する座談会があり、関塚は「20歳から宮内庁御用達の料理を作り、現在までの60年間鴨猟、園遊会の料理を作り続ける。」(59)と紹介されていました。
 しかも座談会では元宮内庁副主厨長、渡辺藤吉氏の「園遊会で喜ばれるジンギスカンのソースは半年くらい前から作って、貯蔵しておきます。五〇種類ほどのスパイスが入っています。」という発言に次いで関塚は「中島主厨長(二代目)から少しいただいてまねをしてみましたが、どうしても同じものが作れませんでした。」(60)と語っているんですよ。
 そうすると関塚は何かにジンギスカンのタレのことを書いているかも知れないと、本を探したら札幌にはないが、国会図書館に4冊組みの伊藤薫著「魯里人 フランス料理人伝説」があるとわかった。それで東京に出掛けて読んでみたら、関塚の100円チップのことが書いてある第3巻は関塚喜平著「関塚家三代」という本を参考にしてはいるけれど、フランス料理の神様らしい魯里人という案内役が現れては、私と対話したり、見せたい厨房に連れて行ったりという風にシーンを切り替えるオムニバス風の作品集でした。
 資料その40はアインシュタイン博士と関塚コックの関係がわかる最重要な場面なので、いささか長いが、そっくり引用させてもらいました。
資料その40
   アインシュタイン
<略>
 場面が変わった。
 豊平館の優雅な食堂の庭に面した窓側の席に、ひとりの白髪の外国人の紳士が座っていた。
どこかで見た顔だった。
 まさか、あのアインシュタイン博士か。
 そうだ、間違いない。
 喜平がやってきた。
 「グッドナイト、ミスター」
 「グッドナイト、キヘイ」
 あとはジェスチャーである。それでも、ふたりには不思議に通じている。
 ふたりともニコニコしながら、ボディーランゲージをしている。アインシュタインは今回、国賓として日本を訪れている。道庁より言われているのは、朝は一般の洋食の食事でも良いが、夕食はパン、コンソメスープ、ビーフステーキ、サラダ、フルーツのみで、毎日お給仕しろ、と言われている。
 喜平は困った。当時の北海道でVIPに出せる牛肉を毎日提供する事は、とても難しかったのだ。仕入れる牛肉がないのである。喜平は、肉屋を片っ端から回り、ようやく牛肉を手に入れ、それをマリネして使った。
 アインシュタインは、とても喜んで食べてくれた。そして、何も残さずに食べ切ってくれた。喜平は、アインシュタインが出かける時、いつもサンドウィッチを作って持たせた。アインシュタインは、そのサンドウィッチが大好きだった。
 世界的な大科学者である彼も、喜平には、とても親しく話しかけていたし、喜平の方も、気軽に声をかけていた。もっとも、言葉は全く通じてはいなかったが、ふたりの間には、友情みたいなものが芽生えていた。
 やがてアインシュタインが、出発する日が来た。
 出発の慌ただしい時間に、随行の人が喜平を呼びにやって来た。アインシュタインが、出発前に喜平に挨拶をしたい、との事だった。
 喜平は慌てて、コックコートを新しいものに着替えて、フロントへと向かった。
 アインシュタインは、喜平を待っていた。
 喜平の顔を見ると、近付き抱きしめた。喜平も抱きしめた。
 温かい時間が流れていた。
 アインシュタインは喜平に「あなたの料理は、本当に素晴らしかった。あなたのお陰で、北海道の滞在は、とても楽しいものとなりましたよ。ランチボックスも、いつも私を楽しませてくれたよ」と言って、喜平に封筒を渡して、車に乗り込んだ。車が遠ざかって見えなくなるまで、喜平は手を振り続け、見えなるなると、頭を下げ続けていた。
 シェフルームに帰って喜平は、もらった封筒を開いてみた。そこには、なんと百円もの大金が入っていた。現在の価値に直すと、100万円位か。
 天に愛された漢、喜平。25歳の時であった。
 魯里人が私を見て、右腕を激しく回した。場面が変わった。
 それからね、第4巻は「日本のフランス料理史」ビジュアル版としており、豊平館の前庭と思われる場所でちょびひげをはやした関塚はじめ大人19人と子供2人の写真がありました。杉山菊次郎の長男、杉山正次氏は「豊平館・清華亭」にこう書いています。「豊平館は当時唯一の公の会館であった。ホテル・レストランとして、いわば〝北海道の顔〟〝札幌の顔〟である。これを預る者の責任は重い。父と私は料理とサービス面の充実が先決だと考えた。それにはまず〝人〟である。弟・安次を東京築地の精養軒に業務の修業に出した。十二年春、安次が業を終えて帰札するとき、ムリを言って精養軒の若手コックの筆頭・関塚喜平をもらい受け、チーフに据えた。サービス部門も同じく増谷義一、川島忠雄外を招き、本格フランス料理提供をキャッチ・フレーズとする新生豊平館の陣容はこんな風にして整った。106ページ」(61)  資料その41の写真の背広組が札幌にやってきた精養軒出身のスタッフでしょう。中列の左から3人目が関塚喜平さんだそうです。
資料その41
   交代
 伊藤さんの4冊にはジンギスカンは出てこないけど「関塚家三代」には書いてあるのかも知れないので、私は伊藤さんにメールでお尋ねしたら、もう手元に資料は残っていないとのことでしたし、同書を出した東洋経済新聞社に問い合わせても要領を得ない。
 やむなく関塚を入れて犬棒を繰り返し、中村雄昂著「西洋料理人物語」と富田昭次著「ホテルと日本近代」と同「ホテル博物誌」でもアインシュタインの100円チップを書いていると知り、資料その42としてそれぞれ引用しました。ここから私はアインシュタイン略してアイさんと呼ぶからね。
資料その42
(1) アインシュタイン博士に誉められる
<略>
 豊平館での最大のトピックは、大正十一(一九二二)年十一月、改造社の山本実彦社長の招待で訪日したアインシュタイン博士が、北海道に立ち寄り、豊平館に宿泊したときのことである。北海道庁から食事についての細かい指示があったが、朝は一般のホテルで出すような普通の食事でよいが、夜の食事は、パン、コンソメスープ、ビーフステーキ、サラダ、フルーツで毎目給仕せよということであった。この中で問題になったのはビーフステーキで、当時、北海道では上等な牛肉が入手できないので、あちこち探し回った結果、ようやく納得できるものを、さる肉屋で見つけることができた。関塚はそれをマリネ(酢漬)してから焼いて出した。
 アインシュタインは、昼食には豊平館のサンドイッチを携えていき、夕食は何一つ残さずに食べた。アインシュタインがいよいよ東京に帰る日、昼食のサンドイッチを作り、お付きの人に渡し、やれやれ、やっと終わったわいと白衣を脱ぎ、くつろいでいると、お付きの人が「博士が君に会いたいとおっしゃるのだが……」というのである。出発までの時間が余りないと、見送りの人々がやきもきしているのに、アインシュタインはコック長にぜひ挨拶したいといいだしたのだった。関塚はあわてて新しいコートを着て玄関に出た。アインシュタインは、あの彫の深い顔におだやかな笑みを浮かべ、「とても料理が美味しかった。ありがとう、ありがとう……」と何度も関塚にお礼をいい、握手を二度も求め、手に百円を握らせた。関塚は涙してそれを受けた。「ああ、コックになってよかった……」と感激はとどまるところを知らなかった。

(2) アインシュタイン博士感動す
<略>
 関塚は約二年間にわたり、豊平館の料理長を務めた。その優れた技術か認められて、北海道庁で一年間料理講習会を開き、豊平館の名を高めた。しかし、とくに忘れられない体験は、アルバート・アインシュタイン博士の料理を担当したことだろう。
 中村雄昂の『西洋料理人物語』によると、博士はノーベル物理学賞を受賞を受賞した翌年、一九二二年(大正十一年)に豊平館に滞在したが、彼は、夕食には毎日ビーフステーキを出すよう注文していた。当時は上等な牛肉が簡単に入手できない状況にあった。しかし世界に名をとどろかせる博士のたっての注文とあれば、料理人としても手をこまねいてはいられない。発奮した関塚は、あちこち探し回って、ようやく納得できるものを見つけたのである。
 博士が札幌を去る日、出発まであまり時間がないのに、博士は料理長にぜひあいさつをしたいと言いだした。関塚はそれを聞いて、あわてて玄関に出た。博士は穏やかな笑みを浮かべて「とても料理がおいしかった。ありがとう、ありがとう……」と関塚に何度もお礼を言い、握手を求めて、手にチップの百円を握らせた。関塚は感激しながら、それを受けた。「ああ、コックになってよかった……」と感涙にむせんだという。

 なお富田昭次著「ホテル博物誌」は、この中村雄昴著「西洋料理人物語」からの引用を明示しているので略す。
 はい、目を通しましたね。伊藤氏はアインシュタイン來日は大正何年と書いていない。でも中村、富田両氏は大正11年と書いている。いいですか、正次談話は「十二年春、安次が業を終えて帰札するとき」「関塚喜平をもらい受け」ですよ。アイさんはそれ以前に日本に来た。講演で南は福岡、北は仙台まで回ったけれど、札幌には来なかった。だから豊平館に泊まるわけもなければ、喜平さんにチップの100円も渡すはずもない。
 そこです、時空を超えたこの謎は、相対性理論を持ち出さなくても、それはアイさんじゃない外国人だった―と、いとも簡単に解けるんだなあ、はっはっは。
 それにしてもこの100円チップ問題の真相を解明するには、何が何でも「関塚家三代」という本を見付けなければならなん。本だけでなく関塚喜平に関することを書いたホームページを探せばヒントが得られるんじゃないかと検索したら、東京・品川区で喜平氏の孫にあたる関塚信行さんが、その名も「喜平」というレストランを開いているとわかったんです。
 孫なんだから祖父さんから本をもらっているかも知れないよね。私は公開してよい部分を指定されてもいいから、ぜひ拝見させて頂きたい。「魯里人」によると、久邇宮殿下晩餐会に出した料理の緬羊密殺で警察に調べられ、始末書で済んだという秘話を知りました。小生は大学図書館などで研究目的を書類に書かされるときは「日本羊肉食普及活動史」と称しておりますが、これは皇族がらみで満洲公主嶺で秩父宮殿下がジンギスカン宴会で酔っ払ったことに匹敵する「事件」であり、是非ともジンパ学の講義に取り込みたいと率直に書きましたね。「関塚家三代」を拝見させて頂けるなら、お店でもお宅でも伺いますので、ご都合のよい日時を電話で結構ですからお知らせ下さいと手紙でお願いしたのです。平成28年1月のことですよ。
 すると4日後に信行さんから「お役に立てるかどうかわかりませんが、三冊もありましたので、お邪魔でなければ差し上げます。」という誠にありがたいメールが入り、四六判、紺色布張り、293ページ、箱入りの「関塚家三代」が贈られてきたのです。感謝感激あめあられ、ありがたや喜平様、信行様と非売品の本を拝んじゃいましたね。
 資料その43(1)は海老尽くしの大皿の写真を印刷した「関塚家三代」のつやつやしたアート紙のカバーを拡げた写真です。外箱から背の部分がはみ出ていたのに気付かず、日焼けさせてしまったが、西洋料理史として重要な本です。同(2)は「魯里人」第4巻に掲載された筆者の喜平さんです。説明はないが、胸の勲章らしいものは略歴によると勲6等単光旭日章。受章記念の写真ですね。
資料その43
       (1)
        関塚
       (2)
            喜平
       (3)
       関塚喜平
明治31年 8月27日栃木県足尾に生まれる。
大正7年  築地精養軒入社。20歳。
大正12年 札幌豊平館、料理長。25歳。
昭和5年  精養軒、立て直しに戻るも、倒産。32歳。
昭和6年  東洋新聞社、社員食堂。石橋湛山と出逢う。33歳。
昭和24年 東京屋設立。51歳。
昭和30年 (株)万惣設立。57歳。
昭和46年 (株 )喜山設立。73歳。
昭和48年 勲6等単光旭日章。
昭和63年 死去。90歳。
クラブ ・ガストロノミック・プロスぺール・ モンタニェ日本支部設立に寄与。
喜山は宮内庁御用達であったため、宮内庁の司厨長、秋山徳蔵や、中島伝二郎、斎藤文次郎とは特に親しかった。
500名の社員を有した喜山の売り上げは、当時、業界で最高峰のものであった。
政財界のトップとも親交が厚く、料理業界のドンとして業界の発展に大きく寄与した。その足跡は大きい。
 「序にかえて」から喜平さん75歳のときこれを書いたことがわかる。第1部は「祖父と父母の想い出」、第2部は「私の歩んだ道」、第3部は「家内と共にヨーロッパ食べ歩き」、それに「結びのことば」、年譜などで第2部第3章の16ベージからが「札幌豊平館時代」でした。
 でも豊平館とのつながりは、第2章の「小林吉蔵氏と札幌豊平館のボーイ見習」からでしたね。喜平さんは「小さいときからわがままに育ったので、腹が立つとがまんできず、つい乱暴して人に怪我させたりすることがよくありました。」(62)とご本人が認めているぐらい、すぐ手が出る質だったらしい。
 豊平館に行く前のことだが、ボーイ見習いから早く料理を出して下さいといわれ「馬鹿野郎、料理は宴会に間に合うように出しているのだ、早く出せば料理が冷める、貴様はそんなことがわからないのか」とビンタを1つ食わせてやったら、その小僧は驚いて3階に駆け上がっていった(63)とある。その小僧は、ボーイ見習いとして杉山菊次郎が精養軒に送り込んだ杉山安次だったのです。
 その宴会が終わるころボーイ長が本人に謝らせるから3階にきてほしいというので、行ってみたら「この者は北海道札幌の豊平館からボーイ見習に来ている者ですが、勝手がわからず大変失を致しました。どうか許してやって下さい」といわれ、さらに豊平館が明治天皇の行在所になったことと「今は札幌市の特別な建物として、宴会や婚礼場として使用している所です。この見習には、精養軒では給料も出さず、幹部にはこの親から逆に心付けが届いているということでした。」(64)と聞かされ、それ以後は喜平さんは安次氏と仲良くなり永く付き合ったとあります。
 その後、新任コック長を巡るもめ事があり、喜平さんは自分の地位を上げるために騒動を起こしたのではないと精養軒をやめ、大正12年5月、安次氏の誘いを受けて豊平館に移ったのです。
 また豊平館には「ちょうど私が精養軒にいたときの見習いコック小林昇がおりましたので、小林を相手に料理はできるだけ持ち回りに致し、目先の変わった料理をと努力しましたところ、町の人達に大変物珍しいと人気が出て参りました。」(65)と喜平さんは書いている。持ち回りとは、料理を盛った皿を配るのではなく、給仕が持つプラッターという大皿に乗せた料理を客に取らせるか、給仕が取り分けて客の皿にいちいち盛り付けることだそうです。
 資料その42と同じページに豊平館の大正12年5月9日晩餐のメニューが載っています。説明はないけれど、喜平さんが「いよいよ大正十二年の五月になり、北海道の札幌に参りました。緑の美しい、環境も良い町で、しかもご主人はじめ皆様が良い人達ばかりなので、私も大変うれしく思いました。当時コック長は入江様といい、これも精養軒で経営しておりました東京神田神保町ドウキ倶楽部におられた方で、私が参りましたことにより入江様を支配人に格上げして、私がコック長になりました。」(66)と書いているので、資料その44(1)は関塚コック長の初仕事のメニューでしよう。
 同(2)の記事はその3日後のことであり、伊藤組土建のホームヘージの沿革によれば結婚した2代目・伊藤豊次は「1923年(大正12年)、事業を継承。戦前から戦後の激動期を豊かな統率力で乗り切り、1946年(昭和21年)には株式会社としての伊藤組土建を設立。さらに、札幌商工会議所会頭や北海道商工会議所連合会会頭、北海道建設業協会会長などを歴任した。」(67)人であり、喜平さん、精養軒の最新の味を知ってもらおうと張り切ったでしょう。
資料その44
(1)
  一、カナッペー
  一、野菜スープ
  一、鱒バター焼
  一、羊乾酪焼
  一、アスパラガス
  一、七面鳥ロースト
  一、サラドセーブン
  一、苺アイスクリーム
  一、チーズ、小菓子
      果物 コーヒー

(2)
  伊藤氏結婚披露    当市
北五条西八丁目請負業伊藤亀太郎
氏の長男豊治氏は今回東京の西辰
子嬢と結婚に付其披露の宴を一昨
十二日午後六時より豊平館に於て
開催せり来賓は約八十余名にして
例のデザートコースに入るや伊藤
豊治氏起つて丁重なる挨拶も為し
且来賓一同の為に乾杯し之に対し
来賓総代として阿由葉市会議員謝
辞を述べ尚新郎新婦の為に乾杯し
列席者何れも十二分の歓談を尽し
其間種々なる奏楽ありて午後九時
頃散会したりと
 「また、お客が今までの洋食と違うし、非常に上等だと来る客来るからほめられ、だいぶお客様も多くなり、日増しに人気上昇したため、支配人の入江様もいずらくなり、独立して他に店を出すといって退かれました。退店の時に主人が月給を日割にして払ったということを聞きまして、私は大変気の毒に思い、開店の日に主人の二男の安次さんに相談して五尺で三段ほどのデコレーションケーキを夜なべで作り、ウインドに飾るようにと贈りました。今にして考えると、はなはだ出過ぎたことをしたと汗顔の至りです。」(68)とも書いています。
 資料その45(1)は入江兵吉が洋食店を開店にあたり出した新聞広告、ちょっと縮めすぎたので文面を同(3)にしました。穏やかな挨拶からみて豊平館とすっぱり絶縁したわけでなさそうで、気安く入れる今でいうならファミリーレストランでスタートしたようだね。
 同(2)は電話がついてからの記事中広告です。日吉良一は「大正12年今の南3西4の場所でイリエ洋食店とし親しまれた頃、業種別の食べ物店主10名(豊平館、牛鍋のときわ、そばの○<丸の中にキ>、てんぷらの天政、おでんのたこ福、お座敷おでんの西元、うなぎの辰已、洋食のイリエ)に働きかけて『札幌たべもの名代会』を結成した」(69)と書きましたが、フランス料理の豊平館とはひと味違う洋食店として名代会に名を連ねて共存共栄を図ったことが、同(2)の昭和15年の名代会の広告からわかりますね。
資料その45
       (1)             (2)
  入江  入江2
  (3)
洋食店開業

十一州人士に採りて最も恵まれた微風肌心地良ひ新緑
の夏がまいりました。私事多年豊平館に勤め皆様方よ
り多大なる御高援を蒙つて居りましたが今回札幌市南
三條西四丁目停車場通りに洋食店を開設致しました
當店は特に調理に注意し殊に奥様や御子様方を御同伴
の上お召上りになれるやう家庭的新設備を施しました
から是非御散策の節御立寄り下さいますやうに伏して
御願ひ申します
◇十六日開業三日間御土産差上ます
    札幌市南三條西四丁目停車場通り
         入江洋食店
               電話架設中
 大正12年7月、札幌で同仁会北海道支部総会が開かれました。同仁会は「支那其他亜細亜諸国に対する医事衛生に関する文化の普及」を目的とし、日本国内で寄付を集めて大正8年に北京、同12年漢口に病院を開き、上海にも建設を計画していました。それで道支部は会員を増やし寄付を募り総会を開くに当たり、昭和皇后陛下の親君の久邇宮殿下と妃殿下が來道されたのです。
 それで「お泊りは三井倶楽部でありましたが、第一日目の会合は七百名近いので札幌駅前鉄道倶楽部にて温い料理の仕出し、第二日は中島公園にて立食パーティー千二百名、第三日は豊平館において七十名の料理をと道庁からのご注文がありました。」(70)と喜平さんは書いているのですが、杉山菊次郎の長男正次は「久邇宮ご夫妻の賜餐(しさん)会は百五十人参加のフルコース。豊平館には入りきらぬので、鉄道倶楽部を借りて行われたが、無事成功。ただ予算は途中で九円から七円に縮小されたが、こちらの気持ちは損得抜きだった。」(71)と書いているし、新聞記事とも人数が違うのです。
 大正15年9月、赤十字社札幌、石狩両委員部総会が資料その18などで見せた鉄道集会所で開かれ、立食らしいが、350人が「冷酒洋肴に舌鼓を打つ」という北海タイムスの記事(72)があるから、詰めれば200人は座れるとしても、資料その46の喜平さんのメニューは正しくても「七百名近い」人数は思い違いでしょう。
 喜平さんのいう第1日、つまり7月11日夜の御賜餐の記事を小樽新聞は翌12日に短く載せたのに、北海タイムスは13日に載せました。この遅れは9日に起きた札幌農学校OBの作家有島武郎と波多野秋子の心中事件のせい。つまり赤いしごきで首を吊ったなどの細かい話とか関係者の談話などで紙面が埋まっちゃった。それでお食事会の記事は後回しになったのです。
 資料その46(1)が小樽新聞、(2)が北海タイムスの記事。どっちも出席者は約200人で喜平さんのいう人数の半分以下でした。
資料その46
(1)
   同仁会賜餐

十一日午後六時半より鐵道倶樂部
に於て同仁会有功会員及特別会員
の中二百円以上の寄付者約二百名
に対し賜餐あらせられたり

(2)
   久邇宮殿下
    御賜餐

久邇宮殿下御賜餐は昨夜午後八時
ゟ鉄道倶楽部に於て御開催相成り
たるが会場に充てられたる階上大
広間は青、白、紅其他の色彩を施
せる幔幕にて装飾し小国旗を天井
各所に交叉し一同着席と同時に宮
殿下は軍服、妃殿下は御洋装を召
され随員を随へさせられ一同起立
裡に入御御賜餐あり殿下には玉盃
を傾けられつゝ間断なく宮尾長官
佐藤北大総長国府宮務監督等を御
対手に御談笑頗る御機嫌麗しく拝
せらる斯くて宮尾長官は一同を代
表し両殿下の御許しを得て御礼を
言上すべしとて
 両殿下には本日親敷支部総会に
 御臨場御令旨を賜りたるのみな
 らず今又御賜餐の優遇を辱な
 ふし舜治等一同誠に感激に堪へ
 ず一同益々会の発展に尽し令旨
 に奉答せんことを期す
云々と述べ一同起立宮尾長官の発
声にて両殿下の万歳を奉唱九寺一
同起立敬礼裡に両殿下御退出二百
余の出席者此光栄を喜び合つゝ九
時二十分散会したり
 喜平さん700人は杉山150人、樽新と北タイ200人と比べると多すぎますが、それはさておき、資料その47は、同仁会道支部総会の3回の宴会の献立一覧と最後の宴会でやっちゃった喜平さんの失敗談です。
 道警本部から宮様に密殺した羊の肉を差し上げるなんて、とんでもねえと菊次郎親方はうんと叱られた。第3日のジゴード・ムトンローチに仕立てちゃったんですな。ただそれが新聞記事になると、道庁の監督不行き届きと責任問題になりかねないので始末書で済ませ、関係者全員に口止めしたか紙面にはそんな記事は全くない。
 それはともかく、ここでようやく羊肉が出てきて、ジンパ学の講義らしくなってよかったなあ。ハッハッハ。
資料その47
   献立
   第一日
  
 オードブル        前菜
 コンソメスープ      清羹汁
 鮭のグリエ        鮭網焼
 ビーフポエレ       牛肉赤ブドウ酒蒸煮
 アスペルジュ       アスパラガス煮込
 プリン          乳菓子
 フルーツ         各種盛合せ

   第二日 立食パーティー
 
コールビーフ       牛肉の蒸焼の冷製
チキンガランデン     若鶏の挽肉詰料理
サーモンショウーフロワー 鮭冷製マヨネーズ掛
全部ゼラチン掛にて造りました
 
   第三日
 
オードブル        前菜
ポタージュ        濃羹汁
ラングストフロワー    伊勢海老冷製
シユプレームドプーザン  若鶏の生クーム煮込
(バランシャンライス添え) スペイン風ライス
ジゴード・ムトンローチ   羊の股肉蒸焼
セロリ・オウジュウ    セロリの煮込
グラスメルバ       メルバ風冷菓
メロン          果物
  

<略> 以上のようでありましたが、最後に大失敗をしてしまいました。いつも月寒にあります宮内省のご料牧場から雄の羊の仔を七円にて払下げてもらい、豊平館の庭で燕麦を食べさせて飼育し、親に近くなったころ料理に使用すると、真白い脂肪が一寸から一寸五分位体全体につき大変美味しくなります。それを使用すべく献立に入れましたが、なにせ多忙に追われ、屠場に回すことをつい忘れてしまい、前日に気付きましたもののもう間合わず、やむなく密殺させそれを使用することに致しました。料理は殿下を始め会員のお客様に大変喜こばれ、私達もやれやれと一息つきましたところへ、主人に警察より出頭せよとの呼出しがあり、主人が出頭しますと、羊の密殺の件で獣医にも見せず、宮様にお出しするとは大変な違反だと怒られたと主人が青くなって帰って参りました。
 私もこれは失敗したと思いましたがもう後の祭り、主人も明日また警察に出頭しなければならないといいますので、私にも責任がありますので警察に参りますが、仕事で遅くなるかもしれません、その時は警察に、コック長は築地精養軒に勤め、常に宮内省や宮家の仕山しをしていた者で、その場合一旦献立を出した以上変更することはできません、そんな事になれば、それこそ腹切りです、また長年の経験により絶対に不安の無い肉として使用致しましたし、料理では殿下から特別なるお誉めの言葉も戴いております、しかし本人は、いかようなお裁きもお受するといっております、と話をして下さいと、主人にお願いをし、主人はそのように警察に話しましたところ了解してくれ、始末書だけで解決して貰いました。忙しさにつられたとはいえ、大変な失敗をした訳であります。
(関塚喜平著「関塚家三代」120ページ、昭和48年11月、関塚喜平=原本、)
 さて、締めくくりは大正12年の100円チップの真相です。資料その48が喜平さんが書いたその箇所、泊まるのはアイさんだと教えた人の名前はなかった。アインシュタインというえらい先生を喜ばせようと、喜平さんは去る間際までアイさんと会うこともなく、ひたすら美味しい料理作りに専念してたんですね。
資料その48
(1)
   アインシュタイン博士の温かい手
<略>
 当時世界の大学者で相対性原理のアインシュタイン博士が国賓として日本を訪問されたおり北海道にも来られ、豊平館に宿泊されることになり、道庁より特別なご注意やお食事についての細かい連絡がありました、その献立は、朝は一般のホテルで出すような普通の食事でよいが、晩の食事は、パン、コンソメスープ、ビーフステーキ、サラダ、フルーツのみで毎日お給仕しろとのことでありました。
 さてこの話を聞いて、はたと困りました。当時は、北海道では上等な牛肉が入手できず、また東京から仕入れするには少量すぎますし、しかも、当時は飛行機など無く、冷凍品もない時代です。あちこちの肉屋で良い物をと探し回って、やっと宮崎肉店で気に入った牛肉をみつけ、マリネ(油漬)にして使用しました。
 博士の滞在中の昼食には豊平館のサンドイッチを何日も持って行かれたので、付添の方も助かると喜んで下さいました。また夕食は何一つ残さず本当に良く食べて下さって、私も心から嬉しく思いました。博士がいよいよ東京にお帰りになる日、朝食を済まされた後、昼食のサンドイッチを作りお付の人にお渡しし、やれやれとズボン一つになり一服しておりますと、博士からのお呼出しがありました。ご出発までのお時間が無いと、お見送りする方々が急いでおられるのに、コック長に是非挨拶したいとのこと、至急玄関に来てくれとの連絡でした。汚れていては失礼と、新しいコートを着て急いで玄関に参りますと、博士は英語にて私に話しかけられましたが、チンプン、カンプン、私はただただ恐縮するのみでありました。博士は堅い握手を二度せられ、私の手に百円札を握らせて出発されました。当時の百円は、それこそ大金でした。百円の給料取りはそうはおりませんでした。
 私は食事を心を込めて作っているだけの裏方でありますので。ご挨拶はと、玄関先に出ませんでしたが、やはりお見送り致しべきだったと、今更の樣に考えさせられました。今でもこの事を想い出すたびに、博士のお手の温さを感じ、私はなんと恵まれた男かと幸福感にひたることがあります。
 喜平さんは豊平館に2年務め、札幌の9つ年下の女性と結婚(73)して「大正十四年(一九二五)二十七歳 四月 家業を助けるため足尾に帰る。」(74)と年譜にあります。足尾銅山の足尾町(現日光市)にある暢和館という料亭兼旅館が生家でした。老いたる両親に孝行しようとUターンした。
 となると、大正12年5月から14年4月までの2年の間にね、何日か泊まったアイさんに匹敵する高名な外国人の学者はだれか。これを調べ始めたときは、まだ生成AIは世に出ていなかったので、新聞社の記事データベースで検索するか、載っていなかったら2年間の新聞を全部読んで探すしかなかったんだが、私は検索の年季が入っとるからねえ、この場合、先ず探すべき情報源は札幌市公文書館の新聞スクラップ集だと判断した。
 ここの新聞スクラップはね、どういう基準で選んだのかわかりませんが、明治20年2月から主に北海新聞、北海道毎日新聞、北海タイムス、道新に載った札幌の様々な記事の切り抜き集です。
 しかも、ありがたいことにデジタル化されているので、鴨々川の向こうまで出掛けず自宅でゆっくり読めるんですなあ。それで喜平さん着任の大正12年5月から次々と北海タイムスの記事を見ていったら大正15年2月25日分に「医学関係の伯林化学者 北大に招かれ来札」という見出しがあり、クリックしたら資料その49(1)にした記事が張り付けてあった。
 記事によるとアイさんほどでないにしても「世界的権威」と大黒薫教授がおっしゃるんだから、レオノール・ミハエリス教授、この人らしい。続けて3月分を見たら7日に「ミ教授の講演 北大医学部で」という見出しがあり、同(2)の記事が張り付けてありました。これで十分、図書館で北海タイムスのマイクロフィルムを借りて略称ミハさん関連記事を探したらですよ、意外や意外、資料その49(1)と同(2)の記事はなかったけれど同(3)にした記事と同(4)の写真が載っていました。
資料その49
(1)
医学関係の
  伯林化学者
    北大に招かれ来札

北大医学部の招きに応じ三月上旬
約一週間の予定にて来札する伯林
大学教授レオノール、ミハエリス
氏に就き北大の大黒教授は語る、
『ミハエリス教授はまだ四五十歳
位の年輩の化学者であるが、医学
に関係のある学者であつて化学中
でも新しい物理化学を主にやつて
ゐる、殊に膠質化学に関しては世
界的権威であつて蛋白質其他の生
活體の膠質状態即ち存在状態に就
ては一方の旗頭とも言ふべき新し
い意見の所有者である、伯林に居
た頃は日本人が次ぎから次ぎに訪
れてゐた、私も三ケ月位行つてゐ
たが生物に関係ある物理化学者と
しては世界でも一番初めに数へら
る可き人だ、我国には愛知医科大
学に二ケ年の予定で招かれて來た
のだが延期して四ケ年になつた。
同大学ばかりでなく至る所喜ばれ
てゐる、その間一度渡米して各地
の大学で講演して來た、非常に謙
遜で穏かなそして日本に好感を持
つた人で夫人も見えてゐる、札幌
には約一週間滞在の予定で三月五
日七日十日の三日間十時半から医
学部講堂で物理化学の新知見なる
演題の下に講演することになつて
ゐる』云々

(2)
ミ教授の講演
  北大医学部で

北大医学部南講堂に於て『物理化
学に関する新知見』に就き講演中
なるミハエリス教授の今七日午前
十時半よりの項目は『吸着現象に
就きて』と題し、明後九日午前十
時半よりは『電離現象に関する新
知見』なる項目に就きて講演する
予定である

(3)
雪景色の美しさ
 本道は决して寒くない
  ◇來札した伯林大学教授
 
北大医学部の招きに応じ物理化學
講義の為め来札する伯林大学のレ
オノール、ミハエリス教授は青森
迄出迎への大黒教授と共に一昨夜
六時五十四分着札した、氏は二年
前より愛知医科大学に於て
  講義  してゐるが来朝後四
ケ月ほど日本語を勉強したが忙し
くて廃めたと語るに似合ず、假名
は元より「シ」「ソウ」も解り簡単な
漢字、月、氷、講習会などの文字
が読めるばかりでなく國をコクと
かクニとか読むことさへ知つてゐ
る北海道に対する感想を元気よく
語る『昨朝到着の筈であつたが吹
雪のため船が遅れて各駅に停車す
る汽車に乗つた、其ため反つて北
海道が良く見物出来た雪景色の関
係もあらうが
  非常  に美しい自然だと感
じて一週間位で訣れるのが惜い気
する今年は軽井沢に行くしことに
なつて居るが、もう一年日本に居
れるなら是非こちらで一夏過ごし
たいものである日本人は当地を寒
いと云ふがそんなに寒く感じない
名古屋の方が遙に不健康地だと思
ふ此の位広い土地があり恐らく利
用する處も多からうに内地の人々
が寒いからと云ひ恐れて來ない理
由が私には解らない』云々、氏は
來年四月より、米国ボルテイモワ
のジヨンスホフブギンス大学の化
學をやることに決つてゐると(S)

(4)
     交代    
伯林大学教授ミ氏と北大の首脳 向つて前列右から佐藤総長、ミハエルス氏秦医学部長後列左から三番目南農学部長次は吉町工学部長外医学部諸教授(記事参照)
 切り抜きがあるのに、新聞のマイクロフィルムに載っていないなんてありうるのか。若いとき新聞記者だった友人によると、スクラップは当時の札幌区内に配達した紙面の切り抜きで、マイクロフィルムは小樽も含む地方版だったら、紙面が違うから載ってないことはあり得る。いまは各新聞社とも最終版を保存し、マイクロフィルムにしている筈だが、昔はそう厳密に区分けして保存していなかったらしいというのです。
 それはそれとして、もっと別の角度からの情報はないかと検索したら、季刊誌「生化学」で「一枚の写真から:レオノール・ミハエリスの札幌」という記事が出てきた。北大と名大の学者3人の共同執筆で、酵素反応速度論の泰斗、ミハさんの写真が、大正15年に卒業した北大医学部1期生の卒業アルバムに入っているが、その撮影日時、場所がわからいないとあり、眼鏡を掛け、ちょび髭の中年外国人の写真が載っていた。私のmixi日記によると、令和元年4月14日のことで、掲載誌は平成24年11月に出た「生化学」34巻11号でした。
 それで、すぐアドレスのわかる2氏にお知らせしたいことがあるとメールを送った。ただ、ご本人のアドレスがわからないので所属部門宛だったから、スパム扱いされるだろうと期待しなかったが、やっぱりレスはなかった。
 ミハさんが入る講義録を公開することによる著作権問題が起きないかどうかと、公益社団法人 日本生化学会を検索したら「『生化学』誌に掲載された論文の著作権と利用に関するガイドライン」があり、この講義録は「3.利用が認められない場合 a. 不特定多数の者が閲覧可能になるように「生化学」誌に掲載の論文の電子ファイルをホームページ等に掲載する場合」に該当するらしい(75)とわかった。
 とにかくホームページは駄目というのだから引用は全くできない。ここまで示した記事を証拠して一連の写真の撮影日時、場所はこうだとわかったと書くのも駄目らしいから、代わりにウィキペディア、グーグルの画像を使ってあれこれ書く手はあるなと、キーワード「レオノール・ミハエリス」で検索したら、なんとエッジ、グーグル、ファイアバード、ヤフーなら該当記事が出できて、全文読めるんだね。
 キーワードを教えるだけなら「電子ファイルをホームページに掲載する場合」にならないよね。だから、ここからは「生化学」の肖像写真の記事を読んだ、もしくもそこを見ながら講義録を読んでいるとみなして話を続けます。
 注目すべきは、図3としているミハさんと大黒教授を入れた学生一同の写真です。1925年3月3日と日時が確定している。いいですか、大正時代ですよ、いまのようにスマホかデジカメでカシャカシャと簡単に写せなかった。プロの写真屋を呼んでおいて撮った記念写真に違いないのです。
 左端に学生の頭部が薄くなっている影が映っているが、陽光ならこういう影にはならないのではないか。箱形カメラにワイドのレンズを着け、写真師は連れてきた助手を右端に立たせ、合図してボンと大きな音を立てるマグネシウムのフラッシュを焚かせたとみますね。
 それから写真右側のカーテンを拡大して見なさい。8分割するように線の入ったドーナツ型の白い円を方向ランダムで沢山連ねた模様のある布だ。さらに拡大して中央の座っているミハさんのネクタイを見なさい。根元からフの字型とその下に斜めの白線と合わせて3本見えるよね。ミハさん独りの写真のネクタイを見なさい。そっくりだよね。背景の布も集合写真と同じ。肖像画は集合写真と同じ日に同じ写真屋が大黒邸内で撮影したと私は鑑定するが、異議あるかな。ハッハッハ。
 集会写真の前から2列目、左端のちょっと首をかしげている学生が、北大東京同窓会の中興の祖であり、私の右アキレス腱手術の恩人、宮川知平大先輩らしい。ただ私がお世話になった宮川さんは、この50年後だから、これは若すぎて断定できない。水泳部の大先輩として卒業年次を聞かれると、必ず「昭和元年じゃなく大正15年卒だよ」と答えた。1926年を昭和元年という人が多かったからです。
 それからね、試しにCopilotに「大正12年5月から14年4月 豊平館に泊まった外国人の学者」と尋ねたら「外国人学者についての記録は見つかりませんでした。」といい「特定の学者や出来事について知りたい場合、もう少し詳しい情報を教えていただけると、さらに調べることができるかもしれません。」続けて「どのような情報をお探しですか?豊平館は、明治時代から昭和初期にかけて多くの要人や外国人が宿泊した歴史的な建物です。」(76)と答えた。
 それで「伯林大学教授レオノール、ミハエリス先生はどうかな」と入れたら「レオノール・ミハエリス(Leonor Michaelis)は、ドイツの生化学者で、酵素反応速度論に関するミカエリス・メンテン式を確立したことで知られています。彼は1922年から1926年まで日本に滞在し、名古屋帝国大学(現在の名古屋大学)で生化学の教授を務めました。ミハエリスは1925年に札幌を訪れ、北海道大学で講演を行った記録があります。この時期に豊平館に宿泊した可能性がありますが、具体的な宿泊記録は見つかりませんでした。」(77)と答えた。よく勉強してますね。ハッハッハ。
 それから大事なことですが、ミハさんは当時としては破格の高給取りだったから、喜平さんに100円チップをはずめた。上智大教授の菊野正隆氏によると「大正9年に愛知医学専門学校が県立医科大学に昇格することになったとき,その当時の宮尾県知事の発案で山崎学長と協議の結果,世界的な学者を教授に迎えようという案が出た.ちょうどその頃ドイツは第一次大戦で,一般の生活は極度に苦しく学者の境遇もみじめであったので,日本からの招聘も効を奏したものと思われる.そのようないきさつでミハエリス教授は名古屋に来られたが,同教授の年俸は山崎学長の2倍で当時の貨幣で1万2千円(今日封書の郵便料金50円が当時は3銭であったから千数百倍とするとおおよその換算となるのではないか)」(78)として、金額は明示していない。
 「文部省職員録 大正十四年10月1日現在」によると、佐藤昌介総長は1等1級で年俸7000円(79)大黒教授は4等5級で同3100円、住所は西3北11(80)当時はいまの大黒胃腸科医院のあたりに住んでおられたのですな。
 一方、愛知医大は愛知県立なので山崎正董学長は「愛知県職員録 大正十四年五月一日現在」で勅任待遇1級で年俸7000円(81)年手当3600円が筆頭の講師9人の最後に「年手当一二、〇〇〇 レオノール、ミハエーリス」(82)と名前がある。医大学長の2倍近い年俸を差し上げる超VIPは本当だった。
 いま封書は84円だから2800倍、その倍率を当てはめると年俸1万2000円は3360万円、100円のチップは28万円となる。渡すには資料その40の「フランス料理人伝説」じゃないが、封筒がいりますね。
 それからね、大黒邸でピアノを弾く後ろ姿の写真があるが、ミハさんは「世界的な生化学者であると同時に、卓越したピアニストでもあり、その演奏は専門家の域に達していた。物理学者のアインシュタインが訪日した際、名古屋を訪れたときには、アインシュタインのヴァイオリンと合奏している。」(83)と愛知県立芸術大学音楽学部の井上さつき教授は「天野エンザイム」のホームページに書いています。それで「天野エンザイム」に掲載年月などをメールで問い合わせようとしたが、フリーメールは駄目と受け付けないので参考文献として説明できない。この文書は多分コンサートの案内の一部でしょう。
 大正11年11月と12月の名古屋新聞の関係記事5件をまとめると、12月2日にミハさんが着任、7日にアイさんが名古屋に着き、8日午後5時から4時間の講演をしています。9日にミハさんは東京へ向かっており、合奏をしたという記事はありません。
 でもアイさんに影のごとく付き添い、講演の通訳を務めた東北大の石原純教授は随筆集「夾竹桃」に「また機会があると、ヴァイオリンを手に私たちにもそれを喜んで聞かされました。帝国ホテルでの歓迎会の席上でも之を奏せらましたが、名古屋では医科大学にゐられたミハエリス教授と共にホテルの一室で合奏して午後の半日を楽しまれました。」(84)と書いているから、12月8日の午後、ミハさんがアイさんのいる名古屋ホテルに行き、講演前に合奏したのでしょう。ミハさんのこの合奏話が札幌に誤って伝わり、喜平さんはミハさんをアイさんだと信じたんですなあ。
 しつこいようだが、もう2つ因縁話がある。給料をうんとはずんで有名研究者を県立医大に招こうと決めた宮尾舜治愛知県知事は、2年後の大正10年から北海道長官になり、資料その46の記事にあるように久邇宮御來道の歓迎宴などを指揮したのです。
 それどころか、もっと前の大正2年、宮尾は拓務局副総裁をやめて満洲漫遊に出かけ、中村満鉄総裁が大連で初めて開いた山賊ジンパに加わり、確認はできないが、郷里新潟県の高田中学校に寄附したいと満鉄工場にジン鍋を5枚作ってくれと注文したとされる人でした。
 しつこく調べ続けてきたからこそ、こんなつながりがわかったのです。また、ご先祖喜平さんの、なんというか、触らないでもらいたいはずのチップ関係の記述かあるにもかかわらず、ジンパ学のために貴重な自家本「関塚家三代」をご恵贈下さった東京の関塚信行さんに深謝して終わります。


何もないはずなんです。
 文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気付きの点がありましたら、まずは
 shinhpjinpagaku(@)gmail.com 
尽波満洲男へご一報下さるようお願いします。



    参考文献

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資料その1の出典は、絵はがき「豊平館」、大正7年以降撮影、札幌市公文書館所蔵=原本

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(1)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」107ページ、杉山正次「豊平館とともに六十年」より、昭和55年11月、札幌市=原本

(2)は同25ページ、由良寛「公会堂時代」より、同

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(3)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」16ページ、小南武朗「豊平館の歩み」より、昭和55年11月、札幌市=原本
(4)は同310ページ、「豊平館・清華亭関連略年表」より
(5)は平成28年6月18日付の札幌市公文書館からの回答の要旨、「札樽便覧」は札幌図書出版館編、明治41年8月発行=原本

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(1)全日本司厨士協会北海道本部編「北海道西洋料理界沿革史」130ページ、日吉良一「資料西洋料理渡来四百年史」より、昭和37年8月、全日本司厨士協会北海道本部=原本
(2)北海道地方史研究会編「北海道地方史研究」48号18ページ、日吉良一「北海道地方洋食史(1)」より、昭和38年7月、北海道地方史研究会=館内限定デジ本

(3)同20ページ、「以下は入江兵吉自ら手記して筆者に贈られた思い出の記であり」という日吉の説明付きの箇所より、同

(4)札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」310ページ、昭和55年11月、札幌市教育委員会=原本

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資料その3は大正4年8月1日付北海タイムス5面=マイクロフィルム

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(6)は明治45年2月日付読売新聞朝刊3面=読売新聞記事データベース「ヨミダス」

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(7)は札幌市教育委員会文化資料室編「開拓使時代」ページ番号なし、木原直彦「あとがき」より、平成元年9月、札幌市=原本

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資料その4は大正4年8月25日付北海道タイムス朝刊5面の広告=マイクロフィルム

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(8)は大槻文彦編「大言海」4巻850ページ、昭和12年1月83版、富山房、初版は昭和10年9月=国会図書館デジタルコレクション

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資料その5は大正4年8月25日付北海道タイムス朝刊5面=マイクロフィルム

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(9)は北日本商工社編「大正十二年版 北海道職業別電話名簿」2ページ、大正12年8月、北日本商工社==国会図書館デジタルコレクション

資料その6は大正4年8月26日付北海タイムス4面より

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(10)は細川碧編「札幌商工人名録」10ページ、明治44年10月、札幌商業会議所=国会図書館デジタルコレクション

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(1)明治39年9月15日付北海タイムス2面=マイクロフィルム

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(2)明治39年9月15日付北海タイムス3面=マイクロフィルム

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(11)は札幌市教育委員会編「新札幌市史」2巻913ページ、「変わる食生活」より、平成3年10月、札幌市=原本

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資料その8は明治20年1月9日付函館新聞2面=マイクロフィルム

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(12)は日吉良一編「北海道西洋料理沿革史」129ページ、杉山正次「札幌豊平館略史」の「経営者小伝」より、昭和37年8月、社団法人全日本司厨士協会北海道本部=国会図書館デジタルコレクション

資料その9は明治41年11月2日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム

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資料その10は北海道農会編「札幌開始五十年記念写真帖」91ページ、奥付はないが、道立図書館では大正7年発行と推定=原本

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(1)は明治43年9月2日付北海道毎日新聞朝刊2面=マイクロフィルム

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(2)は明治43年9月14日付北海道毎日新聞朝刊2面=マイクロフィルム

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(13)は明治43年9月2日付北海道毎日新聞朝刊2面=マイクロフィルム

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(14)は明治37年1月1日付北海タイムス3面=マイクロフィルム
(15)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」310ページ、「豊平館・清華亭関連略年表」より、昭和55年11月、札幌市教育委員会=国会図書館デジタルコレクション
(16)は同16ページ、小南武朗「豊平館の歩み」より、同
(17)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」16ページ、小南武朗「豊平館の歩み」より、昭和55年11月、札幌市教育委員会=国会図書館デジタルコレクション

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資料その12は明治43年9月14日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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(18)は明治44年6月25日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム

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明治44年6月25日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム

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明治44年6月25日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム

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明治44年7月16日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム

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明治44年7月18日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム

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明治44年8月7日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム

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明治44年8月8日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム

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明治44年8月21日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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明治44年9月8日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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細川碧編「札幌商工人名録」ページ番号なし、明治44年10月、札幌商業会議所=国会図書館デジタルコレクション

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同22ページ、同

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(19)は岩井あや編「有合亭物語」10ページ、昭和56年8月、岩井あや=原本

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(20)は岩井あや編「有合亭物語」19ページ、昭和56年8月、岩井あや=原本

北海道農会編「札幌開始五十年記念写真帖」91ページ、奥付はないが、道立図書館では大正7年発行と推定=原本

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大正2年4月8日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム

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岩井あや編「有合亭物語」3ページ、昭和56年8月、岩井あや=原本

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(4)Aは明治44年10月31日付北海タイムス2面
同Bは大正2年1月1日付同14面
同Cは大正6年6月19日付同1面

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(21)はhttps://www.mejiro.ac.jp/
univ/about/history/

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(22)は舘滝蔵編「札樽案内」12ページ、「電話加入者名及番号」より、大正2年4月、舘滝蔵=国会図書館デジタルコレクション

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大正2年3月15日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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大正2年3月20日付北海タイムス5面=マイクロフィルム

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資料その17は大正3年4月20日付北海タイムス5面=マイクロフィルム

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(23)は大正3年4月23?日付北海タイムス3面?=マイクロフィルム

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(24)は大正3年5月3日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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資料その18は記念切符、昭和52年11月発売

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資料その19は同切符裏面の札幌鉄道集会所の説明

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資料その20は田中ゆう子著「小さな思い出 さっぽろの街かどで」57ページ、昭和61年1月、北海道新聞社=原本

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(25)は明治44年10月27日付北海タイムス3面=マイクロフィルム

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(26)は明治44年10月16日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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資料その21は明治44年10月27日付北海タイムス3面=マイクロフィルム

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資料その22は明治44年12月18日付北海タイムス2面=マイクロフィルム、)

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資料その23は明治44年12月28日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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(27)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」107ページ、昭和55年11月、札幌市・札幌市教育委員会=原本

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(28)は百年史編さん委員会編「北海道鉄道百年史」下巻110ページ、「札幌駅」より、昭和56年3月、日本国有鉄道北海道総局=原本

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(29)は札幌駅百年史編さん委員会編「札幌駅百年史」97ページ、「駅食堂(みかど食堂)」より、昭和55年11月、札幌駅長泉義一=原本

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(1)は明治45年1月27日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

(2)は大正3年4月15日付北海タイムス5面=マイクロフィルム

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(3)は大正3年12月9日付北海タイムス朝刊1面=マイクロフィルム

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(30)は函館市史編さん室編「函館市史 通説編」3巻562ページ、「旅客サービス業」より、平成9年3月、函館市=原本
(31)は北海道鉄道管理局編「北海道鉄道沿線案内」3ページ、「函館駅」より、明治43年8月、北海道鉄道管理局=国会図書館デジタルコレクション
(32)は函館市史編さん室編「函館市史 通説編」3巻564ページ、「旅客サービス業」より、平成9年3月、函館市=原本

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(33)は明治43年9月24日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム

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(1)は大正4年4月7日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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(2)は大正4年5月6日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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(34)は関塚喜平著「関塚家三代」113ページ、「札幌で開いた料理講習会」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本
資料その26は北海道地方史研究会編「北海道地方史研究」48号20ページ、日吉良一「北海道地方洋食史(1)」より、昭和38年7月、北海道地方史研究会=国会図書館デジタルコレクション

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(35)は明治39年7月7日付官報170ページ、大蔵省印刷局=国会図書館デジタルコレクション
(36)は明治41年4月25日付官報591ページ、大蔵省印刷局=国会図書館デジタルコレクション

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(37)は札幌市教育委員会文化資料室編「札幌事始」265ページ、昭和54年1月、札幌市・札幌市教育委員会=原本

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(38)は西村繁編「延長記念 鉄路一千哩」ページ番号なし、「編者識」より、大正5年5月、西村印刷所=国会図書館デジタルコレクション

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(39)は大正4年5月30日付北海タイムス2面=マイクロフィルム

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(40)は明治16年11月26日付函館新聞朝刊3面=マイクロフィルム

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(1)明治35年6月21日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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(2)明治27年1月13日付北海道毎日新聞朝刊1面=マイクロフィルム
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(1)明治41年2月22日付北海タイムス3面=マイクロフィルム

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(2)明治41年1月1日付北海タイムス其の一の3面=マイクロフィルム

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(3)明治41年2月23日付北海タイムス8面=マイクロフィルム

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(4)明治42年1月1日付北海タイムス22面=マイクロフィルム

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(5)明治43年1月1日付北海タイムス8の2面=マイクロフィルム

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大正元年10月20日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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(41)は大正2年4月6日付北海タイムス4面=マイクロフィルム

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資料その30は大正2年9月10日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム

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(42)は榊原玉樹編「北海道職業別電話名簿  大正12年版」12ページ、「料理業」より、大正12年8月、北日本商工社=国会図書館デジタルコレクション

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(1)大正元年11月20日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム

(2)は大正2年9月10日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム
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資料その32は大正元年9月10日付北海タイムス3面=マイクロフィルム

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(43)と資料その33は金子信尚編「北海道十字之光」ページ番号なし、大正8年2月、北海道十字之光編纂事務所=国会図書館デジタルコレクション
(44)は日本赤十字社編「日本赤十字社史続稿 上巻 自明治四十一年至大正十一年」896ページ、「篤志表彰授与」より、昭和4年10月、日本赤十字社=国会図書館デジタルコレクション

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(45)は大正12年9月29日付北海タイムス朝刊8面=マイクロフィルム
(46)は原野春太郎編「北海道実業大鑑」67ページ、大正13年12月、原野春太郎=国会図書館デジタルコレクション

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資料その34は大正8年4月24日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム

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(47)は大正8年4月24日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム

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資料その35は高橋理一郎編「北海開発事蹟」510ページ、大正11年7月、地方振興事蹟調査会=原本

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(48)は河野常吉編著「北海道史人名辞彙 上」205ページ、「海和欽哉」より、昭和54年11月、北海道出版企画センター=国会図書館デジタルコレクション
(49)は明治41年12月4日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム

(50)は明治41年12月29日付北海タイムス朝刊7面=マイクロフィルム

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(51)は明治41年12月29日付北海タイムス朝刊7面=マイクロフィルム
(52)は札幌市史編集委員会編「札幌市史 産業経済篇」88ページ、「食肉と屠場」より、昭和33年4月、札幌市長高田富与=原本

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資料その36は新島繁編「蕎麦今昔集」526ページ、林美一「明治十三年の札幌たべある記」より、昭和52年12月、錦正社=国会図書館デジタルコレクション

(53)は札幌市史編集委員会編「札幌市史 産業経済篇」88ページ、「食肉と屠場」より、昭和33年4月、札幌市長高田富与=原本

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(54)は大正元年10月23日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム

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(1)は大正元年10月26日付北海タイムス朝刊6面=マイクロフィルム

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(2)は大正元年10月26日付北海タイムス朝刊6面=マイクロフィルム

(3)は大正元年10月30日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム

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(4)は大正2年6月2日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム

(5)は大正2年6月2日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム

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(55)は北海道大学文書館編「北海道大学文書館年報」15号197ページ、中村美樹子、杉山和香奈「『北海道帝国大学新聞』掲載広告の商店一覧(1926―1945年)」より、令和2年3月、北海道大学文書館=原本

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(56)は昭和62年5月7日付北海道新聞夕刊9面

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(1)は北海道農会編「札幌開始五十年記念写真帖」ページ番号なし、小谷肉店、南1条西4丁目、大正7年

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(2)は金子信尚編「札幌区商工新地図」南1条西3丁目南側、明治43年9月、金子信尚

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(3)は大正4年1月1日付北海タイムス43面の年賀広告=マイクロフィルム

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(57)は大正元年10月26日付北海タイムス朝刊6面=マイクロフィルム

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(1)は大正年8年10月19日付北海タイムス9面=マイクロフィルム

(2)は同年同月21日付同3面=マイクロフィルム

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(58)は明清高校食物科 同窓会のブログのURLは https://blog.goo.ne.jp/k-noshin/e
/5bac7aa2cfcefb7adc125d9311c
96ba1
(59)は女子栄養大学編「栄養と料理」48巻6号74ページ、座談会「天皇の食卓」より、昭和57年6月、女子栄養大学「栄養と料理」デジタルアーカイブス
(60)は同78ページ、同

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伊藤薫著「フランス料理人伝説 第三巻 築地精養軒、喜山、そして宮内庁」69ページ、平成23年10月、エービーシーツアーズ=原本

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(61)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」106ページ、杉山正次「豊平館とともに六十年」より、昭和55年11月、札幌市・札幌市教育委員会=原本

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伊藤薫著「魯里人 フランス料理人伝説」4巻ビジュアル版118ページ、平成23年12月、エービーシーツアーズ=原本

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(1)は中村雄昂著「西洋料理人物語」49ページ、昭和60年11月、築地書館=原本

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(2)は富田昭次著「ホテルと日本近代」91ページ、平成15年5月、青弓社=原本

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資料その43(1)は関塚喜平著「関塚家三代」のカバー、外箱は薄褐色ボール紙製で背に「関塚家三代」とだけ入っている。

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同(2)と(3)は伊藤薫著「魯里人 フランス料理人伝説」4巻ビジュアル版118ページ、「関塚喜平氏」より、平成23年12月、エービーシーツアーズ=原本

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(62)は関塚喜平著「関塚家三代」95ページ、「腹立ちまぎれの乱暴の数々」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本
(63)と(64)は関塚喜平著「関塚家三代」104ページ、「小林吉蔵氏と札幌豊平館のボーイ見習」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本

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(65)は関塚喜平著「関塚家三代」114ページ、「札幌で開いた料理講習会」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本

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(66)は関塚喜平著「関塚家三代」113ページ、「札幌で開いた料理講習会」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本

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(67)は伊藤組土建株式会社のホームページ= https://www.itogumi.co.jp/company/
history.php

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(1)は伊藤薫著「魯里人 フランス料理人伝説」4巻ビジュアル版118ページ、平成23年12月、エービーシーツアーズ=原本、)

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(2)は大正12年5月14日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム)

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(68)は関塚喜平著「関塚家三代」114ページ、「札幌で開いた料理講習会」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本

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(69)は北海道地方史研究会編「北海道地方史研究」48号21ページ、日吉良一「北海道地方洋食史(1)」より、昭和38年7月、北海道地方史研究会=国会図書館デジタルコレクション

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(1)は大正12年7月16日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム

(2)は昭和11年11月13日付け北海タイムス朝刊7面=マイクロフィルム

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(3)は(1)の広告の文面

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(70)は関塚喜平著「関塚家三代」119ページ、「久邇宮殿下ご歓迎の宴」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本
(71)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」107ページ、杉山正次「本格フランス料理」より、昭和55年11月、札幌市教育委員会=国会図書館デジタルコレクション
(72)は大正15年9月8日付北海タイムス2面=札幌市文書館新聞スクラップ集

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(1)は大正12年7月10日付小樽新聞朝刊2面=マイクロフィルム

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(2)は大正12年7月13日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム

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第一日と第二日は関塚喜平著「関塚家三代」120ページ、「久邇宮殿下ご歓迎の宴」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本

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第三日と失敗談は同121ページ、同

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関塚喜平著「関塚家三代」123ページ、「アインシュタイン博士の温かい手」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本

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(73)は関塚喜平著「関塚家三代」127ページ、「相続奇縁―大親分の娘と結婚」より、昭和48年11月、関塚喜平=原本
(74)は同287ページ、「関塚喜平略年譜」より、同

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(1)は大正14年2月25日付北海タイムス朝刊4面=札幌市文書館新聞スクラップ集

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(2)は大正14年3月7日付北海タイムス朝刊3面=札幌市文書館新聞スクラップ集

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(3)は大正14年3月7日付北海タイムス朝刊3面=札幌市文書館新聞スクラップ集

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(4)は大正14年3月4日付北海タイムス朝刊9面=マイクロフィルム

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(75)は日本生化学会について=
https://www.jbsoc.or.jp/seika/wp-
content/uploads/2019/05/guideline
_2019.4.22.pdf

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(76)と(77)は令和5年7月6日深夜、尽波所有のパソコンで試問

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(78)は化学同人編「化学」32巻5号58ページ、菊野正隆「ミハエリス博士の蒔かれたもの」より、昭和52年5月、化学同人=館内限定デジ本

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(79)は「文部省職員録 大正十四年10月1日現在」223ページ、総長1等1級(親任待遇)7000円、大正14年12月、文部大臣官房秘書課=国会図書館デジタルコレクション
(80)は同234ページ、4等5級3100円、同
(81)は愛知県知事官房編「愛知県職員録 大正十四年五月一日現在」155ページ、大正14年6月、愛知県知事官房
(82)は同160ページ、同
(83)は井上さつき「名古屋が生んだヴァイオリン王 鈴木政吉と近代酵素学の創立者 レオノール・ミハエリス――知られざる出会い」=
https://www.amano-enzyme.co.jp/
corporate/foundation/pdf/16/pg08.pdf

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(84)は石原純著「随筆集 夾竹桃」122ページ、「アインシタイュン教授を我が國に迎へて」より、昭和18年7月、文明社==国会図書館デジタルコレクション