それで久保田たちの指示に従い、日本橋濱町の京蘇料理店「濱の家」鎌倉支店が由比ヶ浜に試食会場を設定し、羊肉を手に入れ、松葉燻しを実行し、里見弴の「満支一見」が伝えた北京正陽楼のジンギスカン料理の再現を図った。参加者の食べっぷりからね、濱の家主人富山栄太郎は、試食会で使った鍋を借り、親しくしていた雑誌「食通」編集人の松崎天民はじめ食通の客などに試食させ、客が喜ぶ目玉商品ならぬ目玉料理になると判断、間もなく店のメニューに加えた。
富山は同年11月に北京正陽楼に赴き、試食しただけでなく、鍋など一式を仕入れて北京スタイルを固めたのです。次いで京橋の中国料理店盛京亭がジンギスカンを始め、大井で開店して間もなくの春秋園が続き、1番から3番はこうなると話して来ました。
前バージョンの講義では、あまり力を入れていなかった「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」だが、新バージョンでは、キーワードの「ジンギスカン」が入ってなくてもそれとわかればよいと収集対象を広げてね、せっせと検索中にだ、昭和5年から毎年、新年会か忘年会に得意客や有名人を招き、猪肉の「成吉思汗焼き」を食べさせていた会社があったことを知ったのです。
料理店ではないから濱の家などのよう毎日ではなく、年1回とはいえ、ずーっと続けた事実は、ジンパ学としては「こう書かれた」の1コマには勿体ない、さらに関連情報を調べて講義で話すことにしたのです。論より証拠、まず昭和13年に出た「電通社史」の伝える猪ジンパの原文を読んでもらおう。
それからね、同書は著作権保護期間満了の本だから、新知見の昭和5年開始説が納得できると思う「第四十七章」の前半をね、怒濤の如く引用させてもらいました。旧仮名遣いだから違和感があるだろうが、それも勉強のうちだ。
資料その1
第四十七章 電通名物矢開会
光永社長は昭和四、五年の候より銃猟を初めた、最初は雉撃ち位の趣味であつたが、漸次大物に移つて行き、猪撃にまで進展された。或年は日光に、或年は雲ケ畑猟区に愛用の猟銃を持つて、猪鹿等を狩るべく山野を馳駆された。保健の為めと尚武の精神を養ふ目的に於て、今一つは猪の猛進するが如く猪突的に進めと言ふ意味に於てであつた。そうして此矢開会の成吉斯汗料理はこ此猪撃の結果として生れたものである。
第一回 第一回は昭和五年一月二十七日東京東京會舘の五層楼屋上にて開催された。来会者は数十名の多数であつたがその主なるものは新聞社の人々を初め
井上敬次郎 井上匡四郎 秦豊助 鳩山一郎 徳富猪一郎 大河内正敏 大谷竹次郎
横山助成 高島菊次郎 長岡外史 牛塚虎太郎 松野鶴平 有賀長文 木村久寿弥太
三輪善兵衛 平尾賛平 森永太一郎 望月圭介 杉村広太郎 各氏
であつた、爾後光永社長は年末忘年会の代りとして此成吉斯汗焼の矢開会を開くか、或は新年宴会の代りとして之を開いたのであつたが、閣僚連中も打揃つて顔を出し、其他政界実業界の知名士も多数の出席あり、今では電通名物の一として社交界の話題に上る程になつた。尚今日では市内の処々に成吉斯汗焼とか成吉斯汗料理とかの看板を出して居るのを見受ける様になつたが、此料理の創始者は実に我光永社長であつた。
野外料理としての珍趣向 成吉斯汗焼きは元来野外料である。光永社長はいつの年か「多摩川の河原へ持つて行つてやらうかな」と言はれた程である。社長としてはその会の目的意味からしてしても実は多摩川か奥多摩へでも持つて行き度いのであらう、併しそれでは来賓が来なくなる、来賓の寄りが悪くては折角の会も成り立たない、依つて社長は市内で之を催ふすにしても成るべく会の目的意味を濃厚に表現する様に、折角の趣向を凝らして、如何にも野外料理であるとの気分を逸せぬ様にした。第一回の会を東京會舘の屋上でやつたのもそのためである。何しろ成吉斯汗焼と言へば、火鉢にカン/\と炭火を起して火鉢の焼ける位真ツ赤にするそこへ鉄の網をのせる、之を更に充分に焼いてその上へ猪の肉をのせジウ/\と焼くのである。何の事はないビーフ・ステーキの荒っぽい奴である。其猪肉には胡麻醤油が充分に滲み込んで居る、だから肉に火が廻るに随つて得ならぬ美味の匂いが惜し気もなく八方に散る京東京會舘で此会の開かれる時には附近の建物には此猪を焼く匂ひが伝つて来て、ビルマンの鼻を刺戟し大に食慾をそそり立てたものと言はれて居る。更に電通の新館に移つてからは八階の大ホールで之を開いたのであるが、之も野外料理の味を失はぬやうにするため、鬱蒼たる大森林をホールの中に作り上げた、径四尺もある様な巨杉が十数本ホールの中に生えて、其巨杉の巨幹からは緑の杉の葉が生ひ茂つて居り、その葉の上には、白雪が皓々として積つて居る。宛然として白雪皚々たる大森林の中に入つた様な気がする。その樹間には食卓を置いて、扨て之からが猪肉の成吉斯汗料理である。
巨樹の間を洩れて猪の膏腴を焼く匂ひと、その烟りが濛々として室内に充満する、成る程之は野外料理で蒙古の成吉斯汗式料理に相違ないと、来賓方はその全く変つた趣向風物に度膽を抜かれてしまふ。焼肉に猪汁、宴会愈々酣なる時に紅裙の絲竹管弦に代へて、社員によりて勇壮活溌なる詩吟が吟詠される。来賓は飽くまで変つた趣向に酔はされて仕舞ふ。<略>
この記事か伝える猪ジンパのすごいところはの一つは「東京會舘の屋上」で開いたという事実です。そもそもこの「電通社史」という本がそんじょそこらにない。「日本の古本屋」で検索してご覧、6万円ぐらいから最安でも1万5000円ぐらいだ。国会図書館にもないから、私は手続きして東大の明治新聞雑誌文庫に行って書き写してきた。同文庫ではコピーできないので、改めて東大へ行き、大学院情報学環・学際情報学府図書室へ行き、そこの本から写真5枚をコピーしてきたのです。光永社長は昭和四、五年の候より銃猟を初めた、最初は雉撃ち位の趣味であつたが、漸次大物に移つて行き、猪撃にまで進展された。或年は日光に、或年は雲ケ畑猟区に愛用の猟銃を持つて、猪鹿等を狩るべく山野を馳駆された。保健の為めと尚武の精神を養ふ目的に於て、今一つは猪の猛進するが如く猪突的に進めと言ふ意味に於てであつた。そうして此矢開会の成吉斯汗料理はこ此猪撃の結果として生れたものである。
第一回 第一回は昭和五年一月二十七日東京東京會舘の五層楼屋上にて開催された。来会者は数十名の多数であつたがその主なるものは新聞社の人々を初め
井上敬次郎 井上匡四郎 秦豊助 鳩山一郎 徳富猪一郎 大河内正敏 大谷竹次郎
横山助成 高島菊次郎 長岡外史 牛塚虎太郎 松野鶴平 有賀長文 木村久寿弥太
三輪善兵衛 平尾賛平 森永太一郎 望月圭介 杉村広太郎 各氏
であつた、爾後光永社長は年末忘年会の代りとして此成吉斯汗焼の矢開会を開くか、或は新年宴会の代りとして之を開いたのであつたが、閣僚連中も打揃つて顔を出し、其他政界実業界の知名士も多数の出席あり、今では電通名物の一として社交界の話題に上る程になつた。尚今日では市内の処々に成吉斯汗焼とか成吉斯汗料理とかの看板を出して居るのを見受ける様になつたが、此料理の創始者は実に我光永社長であつた。
野外料理としての珍趣向 成吉斯汗焼きは元来野外料である。光永社長はいつの年か「多摩川の河原へ持つて行つてやらうかな」と言はれた程である。社長としてはその会の目的意味からしてしても実は多摩川か奥多摩へでも持つて行き度いのであらう、併しそれでは来賓が来なくなる、来賓の寄りが悪くては折角の会も成り立たない、依つて社長は市内で之を催ふすにしても成るべく会の目的意味を濃厚に表現する様に、折角の趣向を凝らして、如何にも野外料理であるとの気分を逸せぬ様にした。第一回の会を東京會舘の屋上でやつたのもそのためである。何しろ成吉斯汗焼と言へば、火鉢にカン/\と炭火を起して火鉢の焼ける位真ツ赤にするそこへ鉄の網をのせる、之を更に充分に焼いてその上へ猪の肉をのせジウ/\と焼くのである。何の事はないビーフ・ステーキの荒っぽい奴である。其猪肉には胡麻醤油が充分に滲み込んで居る、だから肉に火が廻るに随つて得ならぬ美味の匂いが惜し気もなく八方に散る京東京會舘で此会の開かれる時には附近の建物には此猪を焼く匂ひが伝つて来て、ビルマンの鼻を刺戟し大に食慾をそそり立てたものと言はれて居る。更に電通の新館に移つてからは八階の大ホールで之を開いたのであるが、之も野外料理の味を失はぬやうにするため、鬱蒼たる大森林をホールの中に作り上げた、径四尺もある様な巨杉が十数本ホールの中に生えて、其巨杉の巨幹からは緑の杉の葉が生ひ茂つて居り、その葉の上には、白雪が皓々として積つて居る。宛然として白雪皚々たる大森林の中に入つた様な気がする。その樹間には食卓を置いて、扨て之からが猪肉の成吉斯汗料理である。
巨樹の間を洩れて猪の膏腴を焼く匂ひと、その烟りが濛々として室内に充満する、成る程之は野外料理で蒙古の成吉斯汗式料理に相違ないと、来賓方はその全く変つた趣向風物に度膽を抜かれてしまふ。焼肉に猪汁、宴会愈々酣なる時に紅裙の絲竹管弦に代へて、社員によりて勇壮活溌なる詩吟が吟詠される。来賓は飽くまで変つた趣向に酔はされて仕舞ふ。<略>
資料その1の記事はね、書き写した一文を音声入力で処理したのて気付かなかったが、いま一太郎を使って講義録に仕立てていて「とうきょうかいかん」と打って変換させると「東京會舘」と出ることに気付いた。わかるかな「会館」じゃなくて「會舘」と変換する。一太郎は「会館」と変換できるのにおかしいと色々組み合わせてみたが、東京に続けて「かいかん」と入れるときだけ東京會舘と変換する。ウィキも東京會舘で統一している。こうなると一太郎の辞書に固有名詞で登録されていると推定せざるを得ない。それぐらいの格を維持するフランス料理のレストランなのだ。
多分、屋上で焼いてちょっと食べさせてから宴会場に移り、料理を食べてもらうことにするからと交渉して実現させたのではないか。北京正陽楼では中庭の⋄羊肉を満喫した後「また、前の部屋に戻つて、普通の料理ガ出るのだが、」(1)と里見弴は「満支一見」に書いているが、大正9年にシベリヤと満洲、翌10年に中国は北京などを視察してきた光永社長は、そうした本場の食べさせ方を体験してきたでしょう。
里見は正陽楼で食べてみた感想として「寧これは、うんと腹をへらして来て、終始一貫、――運動選手が仕合後に牛鍋へとッ附いた勢ひで、咽もとまで一杯に詰め込むべき性質の食ひもので、途中から普通の料理に乗り換へるなどは、あんまり大人の趣味に偏しすぎてゐて賛成しかねる。尤も、誰も彼もこれだけですまされては、料理屋の方がたち行くまいが。」(2)と書いた。
でも、この猪肉のジンギすかん焼きは、里見が⋄羊肉を食べた場面とはまったく状況が違います。そもそも招かれた政財界人たちは、猪肉を腹一杯食べたいとは思っていなかったでしょう。だから二切れか三切れ味見したら満足、猪肉は蒙古らしいオードブルと受け取って「途中から普通の料理に乗り換へ」とは感じなかったと私はみるね。
第47章の後半は、光永社長の挨拶と招かれた評論家徳富蘇峰氏、鳩山一郎文部大臣、後藤文男農林大臣による謝辞が、、永井柳太郎拓務大臣の謝辞なの省略しました。
矢開き会とも呼ばれたこの宴会では、猪だけでなく鹿のジンギスカンという年もあったのです。「日本を知る事典」によると「初矢の祝い・矢開きといって、南九州では集団狩猟に従って、生まれてはじめてイノシシを仕止めたときは、村中の者を招き、そのイノシシの肉をふるまい酒盛りをした。これによって一人前の猟師になったことが承認されることになるる」(3)とあるが、光永社長は熊県生まれだから、これに準じて矢開き会と呼んだのですな。資料その2は月刊誌「日本電報」が掲載した大阪毎日新聞の鹿肉ジンギスカンの新年会を伝える記事です。
資料その2
光永電通社長の武勇(二月十五日/大阪毎日新聞)
廿四貫の大鹿を射止む―
◆…きのふ愉快にジンギスカン鍋…◆
復 古の世態にクローズアツプ
されて、鹿の巻狩りが紀元
節、日曜の二日のお休みを利用して
雪の福知山線谷川駅奥杉原谷で四組
も行はれた。
その一組は、電報通信社光永星郎
社長以下一行八名で、廿四貫もある
大鹿を光永社長が三発で漸く射止め
るなど、四頭の獲物を舁いで意気揚
々と来阪したが、十四日正午から中
央公会堂で獲物のジンギスカン鍋を
つゝいて矢開会が催された。
会するもの谷中部防衛司令官、楠
本阪大総長、加藤中防参謀長、奥大
阪海軍監督長、奥村本社社長、平川
同主幹等八十余名で、光永社長の武
勇談に花を咲かせ、午後二時散会し
た。(大阪毎日新聞より)
◆
右 の如く吉例のジンギス汗会
が開かれたのであったが、
当日の出席者は左の如くであつた。
(敬称省略)
池田清 井上周
猪飼九兵衛 飯田直次郎
岩倉具光 乾卯平衛
長谷川透 林安繁
原田好郎 鳥井信治郎
奥信一 大竹虎雄
岡喜太郎 小畑源之助
小野茂平 加藤怜三
川端清蔵 加賀覚次郎
谷寿夫 高野源通
高木又次郎 種田虎雄
塚本義隆 中田守雄
中井光次 上山勘太郎
上田寧 楠本長三郎
久保田権四郎 黒川福三郎
山邑太左衛門 山田一衛
山野平一 増田邦彦
前田敬之丞 児玉破魔吉
近藤壌太郎 小西新右衛門
小宮陽 後藤猛雄
小林儀三郎 江崎利一
寺田甚吉 坂間棟治
佐藤博夫 佐多愛彦
木津谷栄三郎 鬼頭豊隆
木水栄太郎 北沢敬二郎
新庄清一 白井松次郎
春藤和 鹿倉吉次
後川晴之助 尾藤加勢十
平川清風 森信敬二
森平兵衛 瀬長良直
長谷川公一 守山又三
◆
尚 この前日即ち十三日にも中
央公会堂に於て同会を開催
し、在阪諸名士の出席を得て、盛会
を極めた。
【写真説明】
上=二月十三日大阪中央公会堂
に於けるジンギスカン会上
挨拶を述べる光永社長
左=同会上謝辞を述べる黒田重
平氏
それから資料その3は、大阪毎日新聞が掲載した記事に付けた2枚の写真の片方「二月十三日大阪中央公会堂に於けるジンギスカン会上挨拶を述べる光永社長」と説明してます。ジンパ学として重要なことはテーブルに置かれたジンギスカン鍋の直径です。後ろの光永社長の肩幅と同じぐらい、優に50センチはありそうです。焼き面を構成する細めの鉄棒は長短22本と認められます。前バージョンの講義録の「『糧友』愛読者にジンギスカン鍋プレゼント」で示した松井初太郎氏が試作した直径49センチの鍋かと思ったが、鉄棒の本数が18本以上あるので別物、満洲国奉天などにあった電通の支局経由で取り寄せたと考えています。
廿四貫の大鹿を射止む―
◆…きのふ愉快にジンギスカン鍋…◆
復 古の世態にクローズアツプ
されて、鹿の巻狩りが紀元
節、日曜の二日のお休みを利用して
雪の福知山線谷川駅奥杉原谷で四組
も行はれた。
その一組は、電報通信社光永星郎
社長以下一行八名で、廿四貫もある
大鹿を光永社長が三発で漸く射止め
るなど、四頭の獲物を舁いで意気揚
々と来阪したが、十四日正午から中
央公会堂で獲物のジンギスカン鍋を
つゝいて矢開会が催された。
会するもの谷中部防衛司令官、楠
本阪大総長、加藤中防参謀長、奥大
阪海軍監督長、奥村本社社長、平川
同主幹等八十余名で、光永社長の武
勇談に花を咲かせ、午後二時散会し
た。(大阪毎日新聞より)
◆
右 の如く吉例のジンギス汗会
が開かれたのであったが、
当日の出席者は左の如くであつた。
(敬称省略)
池田清 井上周
猪飼九兵衛 飯田直次郎
岩倉具光 乾卯平衛
長谷川透 林安繁
原田好郎 鳥井信治郎
奥信一 大竹虎雄
岡喜太郎 小畑源之助
小野茂平 加藤怜三
川端清蔵 加賀覚次郎
谷寿夫 高野源通
高木又次郎 種田虎雄
塚本義隆 中田守雄
中井光次 上山勘太郎
上田寧 楠本長三郎
久保田権四郎 黒川福三郎
山邑太左衛門 山田一衛
山野平一 増田邦彦
前田敬之丞 児玉破魔吉
近藤壌太郎 小西新右衛門
小宮陽 後藤猛雄
小林儀三郎 江崎利一
寺田甚吉 坂間棟治
佐藤博夫 佐多愛彦
木津谷栄三郎 鬼頭豊隆
木水栄太郎 北沢敬二郎
新庄清一 白井松次郎
春藤和 鹿倉吉次
後川晴之助 尾藤加勢十
平川清風 森信敬二
森平兵衛 瀬長良直
長谷川公一 守山又三
◆
尚 この前日即ち十三日にも中
央公会堂に於て同会を開催
し、在阪諸名士の出席を得て、盛会
を極めた。
【写真説明】
上=二月十三日大阪中央公会堂
に於けるジンギスカン会上
挨拶を述べる光永社長
左=同会上謝辞を述べる黒田重
平氏
資料その3
私は、この鍋の写真を見ていて、久保田万太郎たちの由比ヶ浜での試食会で使ったジン鍋はのサイズはどうだったのか気になってきたのです。和田氏はいずれはジンギスカンを食べようと鍋を持っていたのか、前バージョンの講義では調べなかったから、この際、とにかく調べてみました。
まずご本人ですが、パリで5年間、絵を勉強してます。それで検索したところ、パリで漬物を漬けていたと書いた本が見つかった。和田博文著「日本人美術家のパリ 1878―1942」という本に「一九一二年にパリに来た桑重(尽波注=義一)は、小杉未醒(放庵)、長谷川昇、満谷国四郎、山本鼎、柚木久太らと共に、シテ・ファルギエールのアプリを借りている。レストランのフランス料理に飽きると、彼らは一緒に牛鍋を囲んだ。四~五人分の調理だと、アルコールランプは火力が弱い。桑重のアトリエにはガスの設備があった。そのため「牛鍋党」が大挙して押し寄せてくる。アトリエには和田三造が作った漬物も常備している。与謝野鉄幹・晶子夫妻も訪れて、食事の準備の手伝いをしたが、晶子はキュウリを上手に刻めなかった。」(4)とあるから、和田氏は少なくともキュウリは漬け込んでいたでしょう。
また和田氏はパリでの食体験で舌が肥えて、自然に食通のように評価しつつ食べるようになっのではないか。というのは40年近く後のことですが、岐阜県高山市出身の作家、江馬修の随筆によると、ちょっと長くてもうしわけないが「高山にもう一軒、角正といふ精進料理屋がある。これも前者と並んで徳川時代からの古い料亭で、むかしは郡代の仕出しなぞやつてゐたところだ。かつて和田三造画伯が、こゝの精進料理を日本一だと東京の新聞でほめたてゝから俄然評判になり、今では観光客には洲崎(尽波注=前者の料理店、菊池寬が賞めた)なぞより一層知られている。」(5)と書いているからです。
もっとないかと検索したら、もう1件「濱の家」の相談役みたいに出入りしたらしい支那通の後藤朝太郎の本で見つかったけど、これは和田さんの食通証明の役に立たなかった。資料その4がそれです。
資料その4
北平の冬は、前門外の成吉斯汗料理とあつて、例の有名な正陽楼へと出かける。
雪がちらつく寒風凛烈の夜、野天に焚き火で、羊肉をつけ焼きする趣きは、その左
の片脚を上げて箸でつゝく喰べ方と合せて、如何にも北支那の冬の酒席を印象深く
刻みつける。日本では、和田三造画伯がこの羊肉鍋を提供して、鎌倉由井ケ濱の
「濱のや」で催したのがこの成吉斯汗料理の関東における嚆矢となつたのである。
私は最初、国立文化財機構・東京文化財研究所のホームページの和田さんの略年譜に「昭和6年 陸軍省より満州事変記録画を依嘱される。『色名総鑑」を発行。」(6)とあるので、このとき満洲に行き、鍋を持ち帰ったと考えていたんです。また和田さんは著書「日支事変戦線絵行脚」の「はしがき」に「私は去年の暮から今年春にかけて、朝日新聞社の嘱託として満洲に、海軍省の命を帯びて上海に急行しました。」(7)と書いていたから、てっきり由比ヶ浜試食会の前に満洲へ行ってきたんだなと納得していたわけで、これが大間違いだった。雪がちらつく寒風凛烈の夜、野天に焚き火で、羊肉をつけ焼きする趣きは、その左
の片脚を上げて箸でつゝく喰べ方と合せて、如何にも北支那の冬の酒席を印象深く
刻みつける。日本では、和田三造画伯がこの羊肉鍋を提供して、鎌倉由井ケ濱の
「濱のや」で催したのがこの成吉斯汗料理の関東における嚆矢となつたのである。
「日支事変戦線絵行脚」の奥付をよくよく見たら「昭和七年七月三日発行」試食会より後に出た本だ。念のために朝日新聞の縮刷版を見たらね、確かに7年元旦から2月19日まで23回連載、和田さんは連載が始まって間もなくの1月10日に東京に帰って来たという記事も載っていた。もう和田さんの満洲持ち帰り仮説は木っ端微塵だ。
それで私はね、由比ヶ浜試食会の準備をした濱の家主人、富山栄太郎から調べ直した。富山さんがどこかで講演した記録「支那料理探味」をよく読んだら、彼は参加者の紹介で「その当時羊の肉で料理で非常に御造詣の深い木下謙次郎先生や、和田三造先生、それから久米正雄先生、久保田万太郎先生、…」(8)という言い方をしている。木下と和田をコンビのように挙げていた。また久保田は「じんぎすかん料理」で、流れ解散で「久米君は、水上君を引つ張つて『ボットル落し』の店によつた。岡田先生は『金魚すくひ』の店のまへに立留つた。木下さんと和田さんは、どこへ引ッかゝつたか、いまそこに見えたと思ふうち、人波の中へまぎれてしまつた。……」(9)と書いている。
木下氏は昭和2年から関東州長官として2年間の在任仲に大連などでジンキスカンを食べたに違いない。和田氏はフランスでの羊肉料理を食べてきたということで、富山さんは別格と見たでしょうし、久保田さんは木下、和田両氏は試食会のために東京から出かけた非鎌倉市民だし、帰るとか泊まるとか2人が行動を共にすることは当然とみたようです。
しかし、木下、和田氏両氏はもっと前からの知り合てかも知れないと検索したら、泉鏡花の年譜の昭和4年の項に「同(尽波注=七)月二日から十九日まで、『風景と旅と座談会』の記録が『東京日日新聞』に掲げられた。出席者は、和田三造、筧正太郎、黒板勝美、小島烏水、近衛秀麿、木下謙次郎、鏡花の七名。」(10)とあった。さらに検索したら、雑誌「陶説」に「...木下謙次郎(文部大臣)、山本条太郎(商工大臣)、和田三造および小森の自序があり、特に和田、小森の序文はそれまでの経過が分かるので、次に掲示する。」(11)とあった。
私は「小森」でピンときたね。「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた【明治・大正・昭和編】」で「陶説」に松下亘氏が連載していた調査報告「土を化して玉と成す―小森忍の生涯―」を読み、その抜粋を昭和59年分に入れたからです。
講義録の見方から入って読んでもらいたいが、その重要箇所は小森が名古屋市守山区内に住んでいたときの「白鹿館や玉野川での遊びは、山茶窯のお客さん、特に行なわれたほか、友人、知人らと集って楽しみながら催した。時には、家庭的に守山の小森宅で〝ジンギスカン〟をつつくこともあったらしく、その時の写真が現存している。ナベは本式のもので満洲から持ってきたものであろう。」(12)だ。
「大気社80年史」によれば「小森忍は、建築材料だけではなく、食器の分野でも後世に残る事業を行ないたいという希望をもっていた。威の友人の画家和田三造は、西洋食器に東洋的な美を盛り込み、西洋人にも理解されるような東洋の陶器を創造すべきだという自説を小森に語った。これは西洋食器の東洋化というテーマを満洲時代から温め続けていた小森にとって、意を得たものであった。陶器に熱中していた威(尽波注=大気社社長上西威)も同感し、2人を積極的に後援すると約束した。」(13)とあります。
また「こうして昭和5年(1930)の秋、和田の意匠図案、小森の製作による食器製作が開始されることになった。」(14)とある。図案を持ち山花窯を訪れた和田さんの歓迎ジンバが玉野川の河原で開かれた。和田さんは初めてのジンギスカンについて、パリにはこんなムートン焼きはない、こういう鍋があっての味だなど食通らしい批評を聞かせたかもね。それで小森さんは、よかったら鍋を進呈しましょうとなり、和田さんはいずれ濱の家の仲間と使うことがあるかも知れないと持ち帰り、濱の家の16日例会で鍋持ちになった話を聞かせたでしょう。それを聞いた久保田さんは「じんぎすかん料理」に大雑把に「木曽川の磧」と書いたが、正しくは玉野川の川原であり、ホームページ「愛知県瀬戸市の百科事典」によれば、玉野川は玉野地域の古い呼び名で、いまは庄内川と呼んでいる (15)そうです。
単行本になった松下亘著「小森忍の生涯」にはね、小森と和田の関係がはっきりわかる「瀬戸山茶窯小森忍作新興食器集」の序文が載っていて大助かりしました。和田さんが小森さんと初めて会ったのは、由比ヶ浜試食会のざっと11カ月前、昭和5年11月だったことがわかる。その経緯がわかる本「瀬戸山茶窯小森忍作新興食器集」の序文を資料その5にしました。
資料その5
「瀬戸山茶窯小森忍作新興食器集」和田三造 序文
西洋の事と謂へば、一から百まで承認して愧ぢようとせぬ。つまり未だに改まらぬ西洋崇拝の気風にたたられて、日本の上下の永遠の過渡期的若くはコスモポリタン的光景は停止する事を知らない有様ですが、別けても西洋輸入の風俗習慣に至つては実に借り物の状態で大切に保存して何等これに工夫改変の手を染めようとしないのは醜悪と言わねばなりません。先方の人情風習に適応してなされたものを其儘国民全体が自我を枉げてこれに盲従しようと言う不自然な傾向を屡々認めます。実に悲惨な現象です。
この意味に於て、山本条太郎先生が提唱された洋食器に東洋趣味の移入と謂うことは、実に大きな意義と権威を有つ性質のもので偶々これが外国貿易に資する云々を結びつける事ことによって更に一段の妙味を添える事になります。山本先生の口吻に発憤した私は斯界の賢者小森忍君と語ってこれが実現に力めたのです。そして私は実に酷薄極まる条件を具して同君に強ふる處がありました。
一、質の堅い事。一、重量の軽い事。一、品質形状の多種多様なる事。一、値の廉なる事。一、上りが飽くまで清潔なる事。しかも趣味十二分である事。
以上の無理な矛盾した要求の下に造られた作品は、門外漢の吾々の再三の審議を経たのです。<略>
しかし所詮はこの試みに手を附けねばならぬものと思ひます。先ず曲りなりにも、第一回の試作としてこれを公にする機会を得た事を小森君の為めに悦びたいと思ひます。
昭和六年十月 和田三造
「瀬戸山茶窯小森忍作新興食器集」小森忍 自序
昨年十一月中旬、在東京建築家の菅原栄蔵氏の紹介にて、和田三造画伯にお目にかかりし際、同画画伯から、西洋食器を日本化、或は東洋化と言ふべきか、東洋食器の西洋化と言ふか、兎も角、東洋の食器の美と特徴を西洋人に理解せしめ、大に愛用せしむる必要がある。これは日本陶磁器界として採らねばならぬ。目下の急務であるまいか、と色々とこれに関する御高説を承り、丁度同席の菅原栄蔵氏、ジャパン・トレード・サービス・ビュローの江之沢氏、東京建材社長上西威氏なども非常に共鳴され、これ等の方の御後援によって、本研究に取掛る庫になり、本年二月より漸く試作に着手する運びになりました。<略>
小森さんを和田さんに会わせた菅原栄蔵という建築家は、銀座7丁目のサッポロビールの6階建てビルを設計しただけでなく、1階のビアホール・ライオンの大麦収穫の原画なども描いた。それだけに配色に厳密で、山茶窯にビル内のタイルを発注したが「銀座ビヤホールでは、無数の窯変タイルのすべてを決めた色に揃えなければならないという難題があって、菅原は窯出しのつど瀬戸に出向いては発色をチェックした。望みどおりの色を得るまでに、茜色のタイルは17回、深緑色のものはそれ以上の焼き直しをしたという。」(16)と「大気社80年史」にあります。西洋の事と謂へば、一から百まで承認して愧ぢようとせぬ。つまり未だに改まらぬ西洋崇拝の気風にたたられて、日本の上下の永遠の過渡期的若くはコスモポリタン的光景は停止する事を知らない有様ですが、別けても西洋輸入の風俗習慣に至つては実に借り物の状態で大切に保存して何等これに工夫改変の手を染めようとしないのは醜悪と言わねばなりません。先方の人情風習に適応してなされたものを其儘国民全体が自我を枉げてこれに盲従しようと言う不自然な傾向を屡々認めます。実に悲惨な現象です。
この意味に於て、山本条太郎先生が提唱された洋食器に東洋趣味の移入と謂うことは、実に大きな意義と権威を有つ性質のもので偶々これが外国貿易に資する云々を結びつける事ことによって更に一段の妙味を添える事になります。山本先生の口吻に発憤した私は斯界の賢者小森忍君と語ってこれが実現に力めたのです。そして私は実に酷薄極まる条件を具して同君に強ふる處がありました。
一、質の堅い事。一、重量の軽い事。一、品質形状の多種多様なる事。一、値の廉なる事。一、上りが飽くまで清潔なる事。しかも趣味十二分である事。
以上の無理な矛盾した要求の下に造られた作品は、門外漢の吾々の再三の審議を経たのです。<略>
しかし所詮はこの試みに手を附けねばならぬものと思ひます。先ず曲りなりにも、第一回の試作としてこれを公にする機会を得た事を小森君の為めに悦びたいと思ひます。
昭和六年十月 和田三造
「瀬戸山茶窯小森忍作新興食器集」小森忍 自序
昨年十一月中旬、在東京建築家の菅原栄蔵氏の紹介にて、和田三造画伯にお目にかかりし際、同画画伯から、西洋食器を日本化、或は東洋化と言ふべきか、東洋食器の西洋化と言ふか、兎も角、東洋の食器の美と特徴を西洋人に理解せしめ、大に愛用せしむる必要がある。これは日本陶磁器界として採らねばならぬ。目下の急務であるまいか、と色々とこれに関する御高説を承り、丁度同席の菅原栄蔵氏、ジャパン・トレード・サービス・ビュローの江之沢氏、東京建材社長上西威氏なども非常に共鳴され、これ等の方の御後援によって、本研究に取掛る庫になり、本年二月より漸く試作に着手する運びになりました。<略>
「こうして昭和5年(1930)の秋、和田の意匠図案、小森の製作による食器製作が開始されることになった。翌年、前菜皿、スープ皿、肉皿、ビールジョッキなど数十種類の試作品の制作に成功すると、東京と大阪で政財界の人々を招き、それらの用いた試食会を開いた。」(17)し「新興食器集」を出したが、予約はごく僅かだったが、宮内省が予約したくらいだからと製造を続けて大赤字を出し、山花窯は閉鎖、小森さんは製陶会社の技師に転進したのです。
その小森さんからの鍋の形はどうだったのか。久保田氏は里見さんが書いたように「『おそなへほどの丸味に盛あがつて』はゐたものゝ決してこのはうは碁盤目にくんでなかつた。真ん中にやや太い縦の一ト筋が入り、それを心に、細い、とはいへしつかりした幾本もの筋がこみつに両翼へながれてゐるばがりだつた。」(18)と書いている。
無理ではあるが、漢字で例えると筋は「囲」のような組み方と想像していたが、実物は「冊」のような組み方だったということだね。この試食会には関東州長官で本場のジン鍋を食べてきた木下謙次郎氏、鍋の持ち主の和田さんが参加していたのです。木下氏は必ず松葉をいぶして煙で雰囲気を出すようにと事前に濱の家に伝えたようですが、焼き方などは特に注文しなかったらしい。和田さんの名前は6回出てきますが、発言は濱の家主人の「これで月さへあれば……」という言葉を聞いて「いゝえ、入らない、そんなもの入らない」(19)と和田さんが言ったという1回だけでした。
ともあれ「あたりまへですよ、まだ八月になつたばかりですよ」(20)という濱の家主人の言葉を含む、この小説「じんぎすかん料理」は昭和6年8月25日から31日まで報知新聞夕刊に7回連載されたが、試食会はそれより少し前、昭和6年8月中旬までに催されたとみられます。
はい、ここで本命の電通の猪ジン鍋の話に戻します。資料その1の「径四尺もある様な巨杉が十数本ホールの中に生えて、其巨杉の巨幹からは緑の杉の葉が生ひ茂つて居り」という感じには物足りないが、昭和33年に出た「通信社史」の「電通の事業と社風」とという記事に「恒例成吉斯汗鍋 忘年会」と説明された屋外で開いた宴会みたいな写真があるので、電通の3名物行事の紹介した資料その6で一緒に見せましょう。右から3人目の眼鏡を掛けた鬚をはやした人物が光永社長、左下の顔写真も同社長、社員と同じく白鉢巻きを締め白衣を着て寒行に出かける写真の一部です。
資料その6
独特の社風=「電通」は株式会社ではあったが、創業以来光永星郎がほとんど独力で築き上げた社だけに、その社風としては光永の人となりを反映した独特のものがあった。
深夜の新年祝賀会=「電通」の新年祝賀会は元日の午前三時、つまり大晦日の深夜に行われた。これには社員一同かなり閉口したが、光永社長は信念をもってこれを続けた。
寒行=毎年大寒に入ると白衣をまとった一隊が「電通」の名入りの提灯をふりかざし「電通々々六根清浄」と叫んで帝都の街々を駆けながら、各新聞社や広告主のもと寒中見舞を行った。異様の行列に驚いて目を見はる市民は、先頭に同じ服装をした光永社長を直ちに見出すことができた。
富士登山競走=大正十四年(一九二五年)から光永社長の命によって富士登山競走が行われた。これは毎年夏社員、同家族、広告主、各新聞社員などを動員し、壮年組(三十三才以上)中年組(二十七才以上三十二才まで)青年組(二十六才以下)に分けて各組ごとに競走せしめ、優勝者には社長カップを授与するというものであった。光永社長もこれに参加した。
以上の三つが「電通」の三大年中行事といわれたものであるが、いずれもワンマン社長でなければできない行事であった。光永社長はこれを「電通魂」の養成に重要なものと信じていたし、外部でも「電通」名物として認めた。
名物矢開会=この会の第一回は昭和五年(一九三〇年)一月二十七日東京会館で行われたが、以後毎年忘年会または新年宴会として行う慣例となった。これは光永社長が猪猟の獲物をジンギスカン鍋で披露する宴会で、政、財界の名士多数が招待され、なかなか豪華な光永社長得意の「電通」の名物行事の一つで、彼の人柄を語るものとして興味がある。
光永社長が始めた名物年中行事のことは「電通66年」と「電通90年史」にもあります。資料その7がそれですが、どちらも第1回の猪ジンパは資料その1と同じく昭和5年、東京會舘で開いたとしている。
深夜の新年祝賀会=「電通」の新年祝賀会は元日の午前三時、つまり大晦日の深夜に行われた。これには社員一同かなり閉口したが、光永社長は信念をもってこれを続けた。
寒行=毎年大寒に入ると白衣をまとった一隊が「電通」の名入りの提灯をふりかざし「電通々々六根清浄」と叫んで帝都の街々を駆けながら、各新聞社や広告主のもと寒中見舞を行った。異様の行列に驚いて目を見はる市民は、先頭に同じ服装をした光永社長を直ちに見出すことができた。
富士登山競走=大正十四年(一九二五年)から光永社長の命によって富士登山競走が行われた。これは毎年夏社員、同家族、広告主、各新聞社員などを動員し、壮年組(三十三才以上)中年組(二十七才以上三十二才まで)青年組(二十六才以下)に分けて各組ごとに競走せしめ、優勝者には社長カップを授与するというものであった。光永社長もこれに参加した。
以上の三つが「電通」の三大年中行事といわれたものであるが、いずれもワンマン社長でなければできない行事であった。光永社長はこれを「電通魂」の養成に重要なものと信じていたし、外部でも「電通」名物として認めた。
名物矢開会=この会の第一回は昭和五年(一九三〇年)一月二十七日東京会館で行われたが、以後毎年忘年会または新年宴会として行う慣例となった。これは光永社長が猪猟の獲物をジンギスカン鍋で披露する宴会で、政、財界の名士多数が招待され、なかなか豪華な光永社長得意の「電通」の名物行事の一つで、彼の人柄を語るものとして興味がある。
資料その7
電通の名物行事
戦前の電通には、暁の仕事始め、寒行、駈け足会、富士登山、矢開き会などの名物行事があって、その一部は現在まで引きつがれている。これらの電通の行事には創業精神の高揚と得意先との関係を密にするねらいがあった。駈け足会にしても単なるスポーツではなく、電通の信条「健・根・信」につながり、社員に執務と行動の規律を示したものといえる。光永の趣味であった狩猟からはじまった矢開き会も、獲物をさかなに各界の人たちとの懇親を深めるのに役立った。
「仕事始め式」 新年午前三時の暁の仕事始めの由来についてはすでにふれたが、業績が向上した後も、太平洋戦争前までつづけられた。「初心忘るべからず」の趣旨からである。
「寒行」 明治四十五年(一九一二)一月から、「寒行」が始められた。毎年寒にはいると、光永社長を先頭に、白衣の一団が「電通」の二字を印した提ちょうちんをふりかざして、〝電通、電通、六根清浄〟と声高らかに唱えながら、各新聞社やおもな広告主のもとへ寒中見舞いをした。
電通の寒行は、都心の名物になったが、昭和十八年(一九四三)に取り止めになった。
「駈け足会」 駈け足解は昭和四年(一九二九)五月からはじまっている。<略>
「富士登山」 富士登山競走は大正十四年(一九二五)七月からはじまった。これは登山競走りによって敢闘精神を養成することと、山頂において顧客の繁栄、電通の発展を祈願しようという趣旨からであった。
第一回のコースは須走り口から登頂、次の年には吉田口に変更されたが、三回目から須走り口に決まった。最初の参加者は社員とその家族、新聞社員の希望者招待、社員は本社と大阪、名古屋両支局員、競走選手は壮年、中年、青年の三組に区分され、各組を通じて、最短時間の者に優勝カップが贈られた。
社長光永は毎回、未明から登山し、頂上の決勝点で一同を待って、式典を挙行、新聞社、広告主などに、暑中見舞のハガキを山頂郵便局から発送することを慣例とした。
また昭和九年(一九三四)の第十回登山を記念して、山頂の浅間神社に花崗岩の鳥居を検納した。しかし、この最初の鳥居は暴風のため倒れてしまったので、新しく補強の鳥居でそれを更新した。富士登山は昭和二十年(一九四五)に一時中止されたが、二十三年(一九四八)に再開して、今日もつづけられている。なお、二十五年(一九五〇)から須走口登山道の各合目ごとに毎年鳥居を一つずつ献納した。
「矢開き会」 光永は昭和四年ころから、銃猟をはじめた。はじめは雉子(きじ)撃ちぐらいであったが、だんだん大物をねらいだし、とうとう猪にいどむようになり、日光や雲ヶ畑の山野をかけまわった。
矢開き会は、獲物の猪を、ジンギスカン焼きにして、新聞人、広告人、政界、経済界の名士を招いたことからはじまる。第一回は昭和五年の一月二十七日、東京会館で開かれた。来会者の中には鳩山一郎、松野鶴平、望月圭介、大谷竹次郎、徳富猪一郎、杉村広太郎、三輪善兵衛、平尾賛平、森永太一郎などがいる。
この会はその後、その冬の獲物にタイミングを合わせて、ある年は忘年会がわりに、ある年は新年宴会のかわりに開かれた。
以上「電通66年」から。
6●富士登山,駈け足会,矢開き会
1925年(大正14)7月から,今も電通名物の「富士
登山」が始められた。これは,登山競走によって敢
闘精神を養うことと,山頂において顧客の繁栄と電
通の発展を祈願しようという趣旨の行事であった。
光永社長は,毎回,未明から登山し,頂上の決勝
点で参加者一同の到着を待って式典をあげ,広告
主や新聞社などに暑中見舞いのキガキを山頂郵
便局から発送した。'34年(昭和9)の第10回登山を
記念し,山頂の浅間神社に花崗岩の鳥居を献納し
たが,この鳥居は暴風で倒れたしまったため,後に
それを更新した。
また「駆け足会」なるものがゃ'29年5月光永の提唱
で始められている。これは実際に駈け足で走る会
ではなく,常に進取の気風をもって軽快に行動する
ことをモットーとする会であるが,その後具体的な行
動をした記録はない。
光永は,昭和初年ごろから趣味として猟銃をはじ
め,シーズンには猪に挑んで日光,雲ケ畑などの山
野へ出かけていた。「矢開き会」は,獲物の猪の料
理を新聞界,広告界,政界,経済界の名士を招い
て供したことから始まった。'30年1月27日がその第1
回目で,東京會舘での矢開の会の来賓には,鳩山
一郎,松野鶴平,望月圭介,大谷竹次郎,徳富猪
一郎(蘇峰),杉村広太郎に,三輪善兵衛,平尾賛平,
森永太一郎などがいた。
以上「電通90年史」から。
矢開会については、どちらも資料その1の要約だね。昭和5年1月27日の猪ジンギスカン料理の新年会は、由比ヶ浜試食会より1年早く行われ、その後も続けられていると説明している。それで私は昭和5年が「関東に於ける嚆矢」という新事実を教えることにしたわけだが、調べたら光永社長の伝記「八火伝」にね、もう1年早く、つまり昭和4年から始めたとあったので、資料その8にしました。戦前の電通には、暁の仕事始め、寒行、駈け足会、富士登山、矢開き会などの名物行事があって、その一部は現在まで引きつがれている。これらの電通の行事には創業精神の高揚と得意先との関係を密にするねらいがあった。駈け足会にしても単なるスポーツではなく、電通の信条「健・根・信」につながり、社員に執務と行動の規律を示したものといえる。光永の趣味であった狩猟からはじまった矢開き会も、獲物をさかなに各界の人たちとの懇親を深めるのに役立った。
「仕事始め式」 新年午前三時の暁の仕事始めの由来についてはすでにふれたが、業績が向上した後も、太平洋戦争前までつづけられた。「初心忘るべからず」の趣旨からである。
「寒行」 明治四十五年(一九一二)一月から、「寒行」が始められた。毎年寒にはいると、光永社長を先頭に、白衣の一団が「電通」の二字を印した提ちょうちんをふりかざして、〝電通、電通、六根清浄〟と声高らかに唱えながら、各新聞社やおもな広告主のもとへ寒中見舞いをした。
電通の寒行は、都心の名物になったが、昭和十八年(一九四三)に取り止めになった。
「駈け足会」 駈け足解は昭和四年(一九二九)五月からはじまっている。<略>
「富士登山」 富士登山競走は大正十四年(一九二五)七月からはじまった。これは登山競走りによって敢闘精神を養成することと、山頂において顧客の繁栄、電通の発展を祈願しようという趣旨からであった。
第一回のコースは須走り口から登頂、次の年には吉田口に変更されたが、三回目から須走り口に決まった。最初の参加者は社員とその家族、新聞社員の希望者招待、社員は本社と大阪、名古屋両支局員、競走選手は壮年、中年、青年の三組に区分され、各組を通じて、最短時間の者に優勝カップが贈られた。
社長光永は毎回、未明から登山し、頂上の決勝点で一同を待って、式典を挙行、新聞社、広告主などに、暑中見舞のハガキを山頂郵便局から発送することを慣例とした。
また昭和九年(一九三四)の第十回登山を記念して、山頂の浅間神社に花崗岩の鳥居を検納した。しかし、この最初の鳥居は暴風のため倒れてしまったので、新しく補強の鳥居でそれを更新した。富士登山は昭和二十年(一九四五)に一時中止されたが、二十三年(一九四八)に再開して、今日もつづけられている。なお、二十五年(一九五〇)から須走口登山道の各合目ごとに毎年鳥居を一つずつ献納した。
「矢開き会」 光永は昭和四年ころから、銃猟をはじめた。はじめは雉子(きじ)撃ちぐらいであったが、だんだん大物をねらいだし、とうとう猪にいどむようになり、日光や雲ヶ畑の山野をかけまわった。
矢開き会は、獲物の猪を、ジンギスカン焼きにして、新聞人、広告人、政界、経済界の名士を招いたことからはじまる。第一回は昭和五年の一月二十七日、東京会館で開かれた。来会者の中には鳩山一郎、松野鶴平、望月圭介、大谷竹次郎、徳富猪一郎、杉村広太郎、三輪善兵衛、平尾賛平、森永太一郎などがいる。
この会はその後、その冬の獲物にタイミングを合わせて、ある年は忘年会がわりに、ある年は新年宴会のかわりに開かれた。
以上「電通66年」から。
6●富士登山,駈け足会,矢開き会
1925年(大正14)7月から,今も電通名物の「富士
登山」が始められた。これは,登山競走によって敢
闘精神を養うことと,山頂において顧客の繁栄と電
通の発展を祈願しようという趣旨の行事であった。
光永社長は,毎回,未明から登山し,頂上の決勝
点で参加者一同の到着を待って式典をあげ,広告
主や新聞社などに暑中見舞いのキガキを山頂郵
便局から発送した。'34年(昭和9)の第10回登山を
記念し,山頂の浅間神社に花崗岩の鳥居を献納し
たが,この鳥居は暴風で倒れたしまったため,後に
それを更新した。
また「駆け足会」なるものがゃ'29年5月光永の提唱
で始められている。これは実際に駈け足で走る会
ではなく,常に進取の気風をもって軽快に行動する
ことをモットーとする会であるが,その後具体的な行
動をした記録はない。
光永は,昭和初年ごろから趣味として猟銃をはじ
め,シーズンには猪に挑んで日光,雲ケ畑などの山
野へ出かけていた。「矢開き会」は,獲物の猪の料
理を新聞界,広告界,政界,経済界の名士を招い
て供したことから始まった。'30年1月27日がその第1
回目で,東京會舘での矢開の会の来賓には,鳩山
一郎,松野鶴平,望月圭介,大谷竹次郎,徳富猪
一郎(蘇峰),杉村広太郎に,三輪善兵衛,平尾賛平,
森永太一郎などがいた。
以上「電通90年史」から。
創業者の伝記だから業績や悪評などは書かず、受けそうないい話を誇張するように、開始年を1年早く書いても困る人はいないとサービスしたかも知れないからね、まあ昭和5年説が本当でしょう。その章を資料その8にしました。
資料その8
十六 その特異な矢開会
矢開きを兼ねての成吉斯汗料理の忘年会は、得意先及び翁の交友圏における暮の名物であつた。
成吉斯汗料理とは蒙古料理で、蒙古人は羊の肉を脚ぐるみ、鉄火に焙つて、これに味をつけて喰うのである。焼けただれた肉を、舌の尖を焼きながら喰う味は、原始的であるとともに、他の料理では味えぬうまさがある。
こり性の翁は、狩猟の獲物からしてこの料理に思いつき、しかも、その興を広く得意先及び交友に分つことにし、その場所も、料理にふさわしい趣向をこらした。
この会のそもそもの始めは、昭和四年(一九二九年)一月、東京会館の屋上庭園で開いたもので、数日前、京都雲ケ畑猟区で猪一頭に、大鹿二頭の獲物を得、それを供して、来会の人たちに大好評を博した。現在の社屋に移つてからは、八階ホールを使用、杉の枝を配する等野趣味を出し、会毎に人気を得てすつかり有名になつたものである。
ところで光永社長ですが、彼はコンパスの刺し傷が悪化して左足5カ所を切開し、たまった多量の膿を排出する大手術を受け「左足の関節は癒着して硬直し、屈伸意の如くならず」となり、軍人になることを断念した(20)と「八火伝」に書いてある。それで電通を創立し拡大してから始めた社員による富士山への登山競走のゴールで待つために前夜から登り始めたり、長い棒2本に戸板を載せたような間に合わせの担架とか馬に乗って登ったこともあったようで、それぞれ写真が残っている。矢開きを兼ねての成吉斯汗料理の忘年会は、得意先及び翁の交友圏における暮の名物であつた。
成吉斯汗料理とは蒙古料理で、蒙古人は羊の肉を脚ぐるみ、鉄火に焙つて、これに味をつけて喰うのである。焼けただれた肉を、舌の尖を焼きながら喰う味は、原始的であるとともに、他の料理では味えぬうまさがある。
こり性の翁は、狩猟の獲物からしてこの料理に思いつき、しかも、その興を広く得意先及び交友に分つことにし、その場所も、料理にふさわしい趣向をこらした。
この会のそもそもの始めは、昭和四年(一九二九年)一月、東京会館の屋上庭園で開いたもので、数日前、京都雲ケ畑猟区で猪一頭に、大鹿二頭の獲物を得、それを供して、来会の人たちに大好評を博した。現在の社屋に移つてからは、八階ホールを使用、杉の枝を配する等野趣味を出し、会毎に人気を得てすつかり有名になつたものである。
だからね、私は多忙の人だし、時間を惜しんで巻き狩りのように追い出す人々を頼み、飛び出してくる獲物を撃つ銃猟だろうと思ったのだが、光永社長は意外にも辛抱強く獲物が出てくるのを待つ、魚釣りみたいな捕り方をしていたそうだ。資料その9は永社長と銃猟の関係、考え方です。
資料その9
6 唯一の楽しみ銃猟
<略> 翁にとつて銃猟の歴史は古い。すでに二十代の青年の時からで、台湾時代も、仕事の余暇に山野を歩いたものだ。ところが「電通」を創めてからは、これを忘れたように仕事に打込んで、銃を手にしなかつた。猟に対する愛着は、常にあつたろうが、銃を手にする時間的余猶がなかつたわけ。またそれだけの金銭的余猶もなかつたかも知れぬ。
この寝た児を起こしたのは、大正七、八年(一九一八、九年)頃からで、遂にはその常連で組織する矢吹会の会長に推され、また社団法人大日本猟友会の会長に推薦されるに至つた。福島県矢吹原の猟区へよく出掛け、そこの雉子豕の揮毫は翁の手になるものである。
猪撃ち、鹿撃ちのシーズンは、丁度積雪酷寒の頃で、好きだとはいつてもなかなか「猟師」も辛くしかも長い、険しい山径の雪下を歩き、その上積雪の下に屯ろして、長い間獲物を待つのだから、寒気が身体にこたえる。翁には、リウマチスという固疾があるので、荒猟はすこし差控えたらと、周囲で忠告したこともあつたが、こればかりは頑くなに聞き入れなかつた。矢開会は翁の猟の恵を知友、顧客とともにしようとしたものである。翁には、狩猟の徳を次のように一言したことがあつた。
ゴルフとか、野球とかも決して悪いとはいわぬが、あれは公園芸であり、座敷芸である。或は山を野をところ選ばず駈け歩く、いわゆる鹿を追う猟師山を見ず、縦横無尽の山地跋渉の運動方法は、狩猟以外にない。一発の銃声はよく神経弱の如きを全快せむること請合いだ。また狩猟の傍ら何時の間にか農作の吉凶、人情の厚薄山川風土の実際を詳かにして狩の獲物以上の拾得をなすことが多い……
明治時代初期は教育制度が次々と変わり、また私塾もたくさん開かれたりした。思想家として知られた徳富蘇峰こと猪一郎氏と光永氏はともに熊本県出身、徳富氏が3歳年上ですが、大江義塾を開いていた徳富氏が、父親徳富一敬氏が開いていた共立義塾に遊びに来て面白い話をした。そして僕の家に来たら「ギゾーの文明史を教える」とぃったので、光永氏は大量の本がある蘇峰宅を訪ねて講義を聞いた。また光永氏が東京で勉強すると挨拶に行ったら、東京、京都での勉強を打ち切り、熊本で新聞記者になっていた徳富氏は七言絶句の励ます漢詩をを贈ったそうだ。<略> 翁にとつて銃猟の歴史は古い。すでに二十代の青年の時からで、台湾時代も、仕事の余暇に山野を歩いたものだ。ところが「電通」を創めてからは、これを忘れたように仕事に打込んで、銃を手にしなかつた。猟に対する愛着は、常にあつたろうが、銃を手にする時間的余猶がなかつたわけ。またそれだけの金銭的余猶もなかつたかも知れぬ。
この寝た児を起こしたのは、大正七、八年(一九一八、九年)頃からで、遂にはその常連で組織する矢吹会の会長に推され、また社団法人大日本猟友会の会長に推薦されるに至つた。福島県矢吹原の猟区へよく出掛け、そこの雉子豕の揮毫は翁の手になるものである。
猪撃ち、鹿撃ちのシーズンは、丁度積雪酷寒の頃で、好きだとはいつてもなかなか「猟師」も辛くしかも長い、険しい山径の雪下を歩き、その上積雪の下に屯ろして、長い間獲物を待つのだから、寒気が身体にこたえる。翁には、リウマチスという固疾があるので、荒猟はすこし差控えたらと、周囲で忠告したこともあつたが、こればかりは頑くなに聞き入れなかつた。矢開会は翁の猟の恵を知友、顧客とともにしようとしたものである。翁には、狩猟の徳を次のように一言したことがあつた。
ゴルフとか、野球とかも決して悪いとはいわぬが、あれは公園芸であり、座敷芸である。或は山を野をところ選ばず駈け歩く、いわゆる鹿を追う猟師山を見ず、縦横無尽の山地跋渉の運動方法は、狩猟以外にない。一発の銃声はよく神経弱の如きを全快せむること請合いだ。また狩猟の傍ら何時の間にか農作の吉凶、人情の厚薄山川風土の実際を詳かにして狩の獲物以上の拾得をなすことが多い……
資料その10の狩猟随筆が示す徳富・光永両氏の親密ぶりは、そういう青少年時代から続く交友あってのことと納得するでしょう。また、光永氏はきわめて運のいいハンターだったこともわかります。「その日の夕方」と始まるのは、筆者川俣氏たち一行とは別のチームが同じ猟区にいるのを望見したという説明を省略したためです。
資料その10
狩猟札記
川俣馨一
其の日の夕
刻四時何分か矢吹発の上り列車で帰
途に着くと、列車の一隅に光永八火
翁が頑張って居た。けふの二区の天
狗は、光永翁であつたのである。ま
た此の頃は五十幾歳で、翁など言は
るべき年輩ではなく、然かも汽車の
窓際に雄雉一羽と、数羽の雌雉と、
兎一匹とをぶら下げて、得々然とし
てけふの猟慾を満喫して居られた。
聞けば雌雉と兎とは福島民報社員か
らの贈物とのことである。それから
五日目の国民新聞紙上に。かういふ
記事が掲載せられてゐた。
東京だより
蘇峰生
頃日東北講演の途、汽車中にて
電通社長光永星郎君と同車す。何
地へ行くやと問へば、矢吹国営猟
場へ雉猟の為めなりといふ。同君
の語る所によれば、矢吹は日本一
雉の棲息地なれば、明日は沢山捕
獲して、小生にも裾分けするとの
事なり。楽しみにして待つと、昨
日雄雉一羽届けらる。定めし多数
の猟果ありしなるべし云々。
狩猟鳥獣は五六十種あるけれど
も、実際我々の狩猟の目的物は、鳥
類にしては雉・山鳥・鴨・鴫・鶉・
鷭の類種であり、獣類では鹿・猪・
兎位のものである。
猟鳥として王位に君臨するは雉で
あり、獣類では、鹿と猪とである。
鳥類には散弾を用ゐるけれども、此
等の獣類には実弾銃を用ゐる。鳥類
狩猟の場合には、終日山野を跋渉し
て、一羽も捕獲しないといふやうな
ことは殆んどないが、これが猪・鹿
の大物猟になると、終日ところか、
運悪い狩猟者になると数年獲物の影
も見たことないという人がある。浦
和の市会議長をして居る尾崎芳次郎
君の如きは雲ケ畑と杉原谷村とを通
じて七年目に漸く大鹿に出会して捕
獲した前例がある。かうなると気の
短い人には出来ない芸当である。
□
我が八火翁ほど猟運に恵まれた方
は少ないのである。昨年の紀元節に
は三叉の大鹿を例の杉原谷村の寺山
の巌屋の上で打止めて居る。此の大
鹿の頭は、今蘇峰翁の家に剥製とな
つて、やさしく八方を睨んで居るの
がそれである。この時は出立の際、
蘇峰翁から、今度の猟果のうち、猪
ならば片股、牡鹿ならば頭をとの注
文を受けてゐたのであつたが、好運
にもこの三叉の大鹿を射止めて、其
の所望の責めを果されたものであ
る。<略>
この川俣馨一氏が書いている「国民新聞」からの切り抜き記事の雉猟と同じだと断定できないが、光永社長が大正年間には狩猟に出かけていたことを証明する徳富さんの随筆があります。資料その11がそれです。
川俣馨一
其の日の夕
刻四時何分か矢吹発の上り列車で帰
途に着くと、列車の一隅に光永八火
翁が頑張って居た。けふの二区の天
狗は、光永翁であつたのである。ま
た此の頃は五十幾歳で、翁など言は
るべき年輩ではなく、然かも汽車の
窓際に雄雉一羽と、数羽の雌雉と、
兎一匹とをぶら下げて、得々然とし
てけふの猟慾を満喫して居られた。
聞けば雌雉と兎とは福島民報社員か
らの贈物とのことである。それから
五日目の国民新聞紙上に。かういふ
記事が掲載せられてゐた。
東京だより
蘇峰生
頃日東北講演の途、汽車中にて
電通社長光永星郎君と同車す。何
地へ行くやと問へば、矢吹国営猟
場へ雉猟の為めなりといふ。同君
の語る所によれば、矢吹は日本一
雉の棲息地なれば、明日は沢山捕
獲して、小生にも裾分けするとの
事なり。楽しみにして待つと、昨
日雄雉一羽届けらる。定めし多数
の猟果ありしなるべし云々。
狩猟鳥獣は五六十種あるけれど
も、実際我々の狩猟の目的物は、鳥
類にしては雉・山鳥・鴨・鴫・鶉・
鷭の類種であり、獣類では鹿・猪・
兎位のものである。
猟鳥として王位に君臨するは雉で
あり、獣類では、鹿と猪とである。
鳥類には散弾を用ゐるけれども、此
等の獣類には実弾銃を用ゐる。鳥類
狩猟の場合には、終日山野を跋渉し
て、一羽も捕獲しないといふやうな
ことは殆んどないが、これが猪・鹿
の大物猟になると、終日ところか、
運悪い狩猟者になると数年獲物の影
も見たことないという人がある。浦
和の市会議長をして居る尾崎芳次郎
君の如きは雲ケ畑と杉原谷村とを通
じて七年目に漸く大鹿に出会して捕
獲した前例がある。かうなると気の
短い人には出来ない芸当である。
□
我が八火翁ほど猟運に恵まれた方
は少ないのである。昨年の紀元節に
は三叉の大鹿を例の杉原谷村の寺山
の巌屋の上で打止めて居る。此の大
鹿の頭は、今蘇峰翁の家に剥製とな
つて、やさしく八方を睨んで居るの
がそれである。この時は出立の際、
蘇峰翁から、今度の猟果のうち、猪
ならば片股、牡鹿ならば頭をとの注
文を受けてゐたのであつたが、好運
にもこの三叉の大鹿を射止めて、其
の所望の責めを果されたものであ
る。<略>
資料その11
一 白河の関
大正十五年十一月初六、上野を発しで白河に向ふ。偶然電通の光永社長の、矢吹御猟場解放に際し、先登第一の手柄を現す可く出掛くると同車した。矢吹は宛も人工的に、雉や山鳥を飼ひ殖したるも同様であれば、鶏を撃つよりも容易などと、車中の人々は云ひ囃してゐた。兎に角光永君の猟運目出度を祈りて相ひ別れた。
(追記 十一月九日光永君より雉の獲物を贈り来る。定めて猟運好首尾であつたであらう。)
「電通90年史」に、どこの駅かわからないけど、光永社長が狩猟仲間と乗車前に撮った写真があるので、資料その11にしました。左から2人目、鳥打帽をかぶり右肩に銃をになっているのが光永社長です。このペーシには「矢開き会で挨拶する光永社長」と説明した写真も載っています。大正十五年十一月初六、上野を発しで白河に向ふ。偶然電通の光永社長の、矢吹御猟場解放に際し、先登第一の手柄を現す可く出掛くると同車した。矢吹は宛も人工的に、雉や山鳥を飼ひ殖したるも同様であれば、鶏を撃つよりも容易などと、車中の人々は云ひ囃してゐた。兎に角光永君の猟運目出度を祈りて相ひ別れた。
(追記 十一月九日光永君より雉の獲物を贈り来る。定めて猟運好首尾であつたであらう。)
資料その12
昭和15年の「日本電報 電通創立40周年記念号」に光永社長の猪猟の思い出があったので、それを資料その13としました。富士登山だけでなく、猟区に赴くときも誘った側が気配りして、同氏を担架で運ぶことがあったのです。またお誘いするからには獲物なしには返されないと、猪を追い出す勢子も何人か集めており、ちょっとした巻き狩りだったと察せられるね。
資料その13
猪のカウスボタン
大村藤太郎
<略> それは、もう数年前の事であつた。猪猟に我々愛知県
猟友会の有志が光永さんを岡崎市から七里程離れた大沼
附近に御案内した事があつた。
光永さんは御身足がお悪い関係上、山道の御歩行き困
難であるので、我々としては、お籠を用意してお待ちせ
ねばならなかつた。扨そのお籠たるや我々の新な悩みで
あつた。
何故なら時は昭和の御代である。遊覧地でもない岡崎
附近で一挺の籠を見出す事は、なか/\の難事である。
せめて、下田の唐人お吉が乗つたと言ふ位のお籠でも
あれば幸せと、八方手分けして、探したのであるが、到
底我々の果無い望みは断念するより仕方がなかつた。止
むなく戸板の左右二本に棒を打ち付けて、速成のお輿を
作りその上に石油缶の空缶を載せ上へ赤毛布をかけて、
怪我人か田舎の重病人かを運ぶ格好から免れた積リであ
つた。
愈々当日が来た光永さんを岡崎駅へお迎へして、それ
から自動車で猟場へ、お気の毒でも我慢して頂いてこの
珍妙なお輿に乗つて頂き、光永さんを先頭に一行勢子を
併せて数十人大沼附近の山々を狩りした訳けである。
事業上の光永さんは私は知らない。猟の光永さんは実
に和気藹々たるもので、威あつて毅からず、我々が獲物
を打洩したと仰言つて、地団駄踏む位にお口惜しがられ
又獲物が獲れた/\と仰言つて、恰も恵比寿様が債券に
当つた程に相好を崩してお悦びになり、万歳/\と連呼
なさる。その我々凡人にお変りないところに我々は言ひ
知れぬ親しみと尊敬を覚えるのであつた。
猟は二日間に亘つて行つたのであるが、後の日は昼過
から生憎く霙になつたので、止むなく猟を中止して引上
て頂くことにした。然し光永さんは大変残念に思召した
のか構はずやらうと盛んに我々に慫慂なさつたのである
が、霙の為に猪の足跡の踏廻しが効かないので、不本意
乍ら御中止願はねばならなかつた。然しその壮者を凌ぐ
御元気さに我々一同これでこそ勝れた事業が御出来にな
る訳けであるとひたすら感じ入つた次第であつた。
<略>
光永社長が始めた新年会または忘年会兼矢開き会と社員の寒行は、いつまで続いたのかと調べてみた結果が資料その14です。昭和5年の初の新年会などは「電通社史」に書いてあるが、その後は何で確かめたらいいのか。社会の木鐸たらんとする誇り高き新聞を見れば、何々日の電通の恒例新年会に我が何々新聞社長が招待されたなんて記事を載せるわけがないし、宣伝の電通が全く黙々と続けている訳はないだろうと探したら、毎年電通が毎年出していた「新聞総覧」の新聞日誌という各社の前年の動静を記録するページに、毎年ではないが、ごく簡単に書いてありました。大村藤太郎
<略> それは、もう数年前の事であつた。猪猟に我々愛知県
猟友会の有志が光永さんを岡崎市から七里程離れた大沼
附近に御案内した事があつた。
光永さんは御身足がお悪い関係上、山道の御歩行き困
難であるので、我々としては、お籠を用意してお待ちせ
ねばならなかつた。扨そのお籠たるや我々の新な悩みで
あつた。
何故なら時は昭和の御代である。遊覧地でもない岡崎
附近で一挺の籠を見出す事は、なか/\の難事である。
せめて、下田の唐人お吉が乗つたと言ふ位のお籠でも
あれば幸せと、八方手分けして、探したのであるが、到
底我々の果無い望みは断念するより仕方がなかつた。止
むなく戸板の左右二本に棒を打ち付けて、速成のお輿を
作りその上に石油缶の空缶を載せ上へ赤毛布をかけて、
怪我人か田舎の重病人かを運ぶ格好から免れた積リであ
つた。
愈々当日が来た光永さんを岡崎駅へお迎へして、それ
から自動車で猟場へ、お気の毒でも我慢して頂いてこの
珍妙なお輿に乗つて頂き、光永さんを先頭に一行勢子を
併せて数十人大沼附近の山々を狩りした訳けである。
事業上の光永さんは私は知らない。猟の光永さんは実
に和気藹々たるもので、威あつて毅からず、我々が獲物
を打洩したと仰言つて、地団駄踏む位にお口惜しがられ
又獲物が獲れた/\と仰言つて、恰も恵比寿様が債券に
当つた程に相好を崩してお悦びになり、万歳/\と連呼
なさる。その我々凡人にお変りないところに我々は言ひ
知れぬ親しみと尊敬を覚えるのであつた。
猟は二日間に亘つて行つたのであるが、後の日は昼過
から生憎く霙になつたので、止むなく猟を中止して引上
て頂くことにした。然し光永さんは大変残念に思召した
のか構はずやらうと盛んに我々に慫慂なさつたのである
が、霙の為に猪の足跡の踏廻しが効かないので、不本意
乍ら御中止願はねばならなかつた。然しその壮者を凌ぐ
御元気さに我々一同これでこそ勝れた事業が御出来にな
る訳けであるとひたすら感じ入つた次第であつた。
<略>
また検索で「鳩山一郎・薫日記」と外交官の「天羽英二日記」に出席したことが書いてあると知り、それも入れたら昭和17年までなんとかつながりました。昭和9年までの「新聞総覧」の下に1ページとあるのは、先頭からのページ番号でなく「新聞日誌」のページとしての番号で、同10年から先頭からのページ番号です。
資料その14
新聞総覧
昭和6年の新聞日誌 1ページ
一月
△電通の恒例寒行は二十一、二十二の両日挙
行した。
十二月
△光永電通社長は廿四日丸ノ内会館に政界、
実業界の名士を招待忘年会を催したが、出
席者は床次、鳩山、泰の各閣僚、徳富蘇峰
氏、長岡外史将軍、木村久寿弥太氏等五十
余名。
新聞総覧
昭和七年の新聞日誌 1ページ
一月
一日
△電通恒例の寒行は二十一、二十二の両日に
亘つて挙行された。
電通社史 571ページ
十二月
二十二、三日、東京會舘で開かれた矢開会で光永社長が挨拶。徳富蘇峰氏、鳩山文相
ら3閣僚が謝辞を述べた。
新聞総覧
昭和八年の新聞日誌 1ページ
一月
△日本電報通信社恒例の寒行は廿一、廿二の
両日に亘つて盛大に行はれた。
十二月
12・18日(月)
0度前後 快晴 寒冷 屋内ニ感ズ
朝10時半 電通新築落成式ニ参列 新築家屋巡覧
来客 福健江文鐘、角田清彦、法貴顕貞、John Gibson Paton
(Australian Newspaper Cable Services)
加藤政明(不会)
12時半 次官 帰朝外交官招待
5p.m. 栗谷文部次官ノ招待 帝国ホテル 非常時国民教育関係者
二十八日
△日本電報通信社々長光永星郎氏は貴族院議
員に勅選された。
△日本電報通信社は二十四、五の二日に亘つ
て銀座西七丁目の新社屋に移転を完了。
12・28(木)
晴 曇 夜雨
御用納 多忙
電通ノ「ジンギスカン」すき焼き会 欠席
来客 林静夫 立石恵春(東京毎日) 頭本元貞(¥300) 徳田六郎
真鍋勝 来訪
夜 出淵大使ノ招待 赤坂三島 有田 栗山 次官 来栖 坪上等
東郷一昨日 桑島昨日帰省
新聞総覧
昭和九年の新聞日誌 1ページ
一月
二十三日
△電通恒例の寒行は二十二、三の両日に亘つ
て盛大に行はれた。
十二月
二十日
△日本電報通信社光永社長は恒例により、二
十日、二十一日の両日に亘り本社楼上に国
務大臣、新聞関係者、代理店幹部、広告主
社友等二百三十余名を招待してジンギスカ
ン鍋の接待をした。
12・21日(金) 晴
来客 山田長司(北米朝日新聞東京支社) 富永直次郎 佐藤観次郎
(中央公論「バーンビー」報告書2月号ニ掲載ノ件) 久保町辰二 前田亮
上村市之丞 佐々木霊山 山田広三郎
山本俊義(長岡隆一郎ノ使者)
長岡隆一郎関東局長官受諾
瀬尾栄次郎 来訪
野田普及部長来訪 華府条約廃棄通告ニ関シ当局談発表ノ件
昼 電通社毎年恒例「ジンギスカン」釜忘年会招待
光永 徳富 安達等
夜 「ストイチェスコ」夫妻ノ招待
英大使 重光次官 其他大勢〔昼以下大勢まで22日に記載〕
新聞総覧(1936)
昭和十年の新聞日誌 25ページ
一月
一日
△日本電報通信社では恒例により黎明三時を
期し、本社八階大広間に於て在京全社員◇
に業界関係者多数出席の上、新年宴会を開
催した。
十二月
△日本電報通信社長光永星郎氏は恒例により
二十七、八の両日本社楼上に業界関係者多
数を招待、忘年会を兼ね成吉斯汗鍋料理の
接待をした。
12・28日(土)曇 雨
御用納 移転ノ筈ナリシガ風雨ノ為延期
日加通商関係好転 当局談発表
同盟通信社幹部畠山敏行、岩永裕吉、古野伊之助挨拶来訪
白井静敏(一橋新聞部)来訪 新年原稿ノ件 今村忠助(介名古屋新聞)
不会
光永電通ノ招待 恒例「ジンギスカン」鍋招待 三国中佐、上田電通
ト通信ノ件会談
内閣ニ横溝書記官訪問 情報委員会組織ニ付会議ス
夜 杉江春次ノ招待 南洋興発連中 外務省関係者 山 二次会
三橋 斉藤文也、松島鹿夫
独逸新聞記者ノ「ビール」会欠席
新聞総覧(1936)
新聞日誌(昭和十一年) 31ページ
一月
一日
◇日本電報通信社では恒例により午前三時を
期し、本社八階大ホールに於て新年宴会を
開催、来賓として社友及各新聞社支局長等
多数出席盛大を窮めた極めた。
二十二日
◇日本電報通信社では恒例により二十一、二
の両日に亘り寒行を行つた。
12・28日(火)晴
朝 参内 大宮御所 年末御礼記帳
殿田読売来訪 上海行補助ノ相談
用件アリ登省 本野来訪 美代返礼
今暁日「ソ」漁業暫行協定発表
昼 電通社 光永星郎恒例「ジンギスカン」料理招待 賴母木、安達、
徳富、倉知、滝正雄、其他参会
1時過光専寺 井爪3周忌法会参拝
松岡均平男 年暮挨拶訪問
夕方浩平、大平ト遊戯
朝日 林記者来訪
夜 殿田及読売記者来訪(井上豊二)恒例「ウイスキー」壜贈呈
新聞総覧(1937)
昭和十二年の新聞日誌 31ページ
一月
一日
◇日本電報通信社では恒例により午前三時よ
り新年宴会を催し、終つて全社員を十数班
に分ちて、市内の全華主に年賀の廻礼をな
し、電通の広告華主に対してかねて抱いて
ゐる誠意を表する處があつた。
新聞総覧(1939)
昭和十三年の新聞日誌 59ページ
一月
一日
◇日本電報通信社に於ては十三年の仕事始め
として午前三時を期し、全社員集合、新年
宴会を催し終りて球場前に至り拝礼、明治
神宮参拝をなし、次いで市内広告華客への
年賀廻礼をなして活動的な一年の計を実行
した。
十二月
二十八日
◇日本電報通信社長光永星郎氏の社友及華客
招待成吉思汗料理会は二十八、九の両日例
年の如く開催された。
新聞総覧(1939)
昭和十四年の新聞日誌 59ページ
一月
二十一日
◇日本電報通信社の恒例寒行は二十一、二両
日挙行。
十二月二十八日 木曜
松下、依光両君、星ヶ岡五時半。正午電通八階、ヂンギスカン焼忘年会。
大崎君長男辰弥君戦死の記事あり。痛惜哀悼の至に堪へぬ。慶大ラクビーの主将として慶大の黄金時代を造つた立派なスポーツマン。清作君の心中や如何、全く同情する。人の事ではない、自分の事だ。
新聞総覧(1940)
昭和十五年の新聞日誌 64ページ
一月
二十一日
◇日本電報通信社の恒例寒行は二十一、二十
二の両 日挙行。
「日本電報」通巻8697号88ページ
新年仕事始式<略>
吉例矢開き会
電通の名物であり、年中行事である成吉斯汗料理の矢
開き会は、旧臘二十六、二十七両日、老杉うつさうたる
密林の如き八階ホールにおいて、華々しく開催された。
当日は、例年の如く、徳富蘇峰先生をはじめ朝野の名
士多数の御出席を得て、非常な盛会であつた。
年中行事の寒行
揃ひの白鉢巻、白衣、白足袋に身をかため、鈴の音も
いさましく、市内の華主を訪問し寒中見舞を行ふ、電通
の年中行事寒行は、今年も、一月二十二、三日の両日、
光永社長、光永専務、不破常務をはじめ、全員大元気で
決行した。
なほ、二十三日の夜は、全員九段の靖国神社を参拝。
護国の英霊に最敬礼を捧げた。
十二月
十日
◇日本電報通信社の創業四十周年記念式典に
全国新聞通信社四十年勤続者表彰式は帝国
ホテルに朝野の名士一千余名を招待し挙行
された。
礼開催、来賓として社友及各新聞社支局長等
多数出席盛大を窮めた極めた。
昭和十七年
十二月二十八日 月曜
多摩川水力。渡辺一家を招待(翌日に変更)。五時電通八階、ジンギスカン炙。鈴木四段、田中(亮一)、木下両氏。来訪者、中島、樋口、遠山、中野、植田諸氏、猪野毛氏。
昭和7年12月21日に開かれた矢開会における光永社長のあいさつに続き、招かれた徳富蘇峰氏からムチャ振りされた鳩山一郎文部、後藤文夫農林、永井柳太郎拓殖の3大臣それぞれのテーブルスピーチが「電通社史」に載っています。昭和6年の新聞日誌 1ページ
一月
△電通の恒例寒行は二十一、二十二の両日挙
行した。
十二月
△光永電通社長は廿四日丸ノ内会館に政界、
実業界の名士を招待忘年会を催したが、出
席者は床次、鳩山、泰の各閣僚、徳富蘇峰
氏、長岡外史将軍、木村久寿弥太氏等五十
余名。
新聞総覧
昭和七年の新聞日誌 1ページ
一月
一日
△電通恒例の寒行は二十一、二十二の両日に
亘つて挙行された。
電通社史 571ページ
十二月
二十二、三日、東京會舘で開かれた矢開会で光永社長が挨拶。徳富蘇峰氏、鳩山文相
ら3閣僚が謝辞を述べた。
新聞総覧
昭和八年の新聞日誌 1ページ
一月
△日本電報通信社恒例の寒行は廿一、廿二の
両日に亘つて盛大に行はれた。
十二月
12・18日(月)
0度前後 快晴 寒冷 屋内ニ感ズ
朝10時半 電通新築落成式ニ参列 新築家屋巡覧
来客 福健江文鐘、角田清彦、法貴顕貞、John Gibson Paton
(Australian Newspaper Cable Services)
加藤政明(不会)
12時半 次官 帰朝外交官招待
5p.m. 栗谷文部次官ノ招待 帝国ホテル 非常時国民教育関係者
二十八日
△日本電報通信社々長光永星郎氏は貴族院議
員に勅選された。
△日本電報通信社は二十四、五の二日に亘つ
て銀座西七丁目の新社屋に移転を完了。
12・28(木)
晴 曇 夜雨
御用納 多忙
電通ノ「ジンギスカン」すき焼き会 欠席
来客 林静夫 立石恵春(東京毎日) 頭本元貞(¥300) 徳田六郎
真鍋勝 来訪
夜 出淵大使ノ招待 赤坂三島 有田 栗山 次官 来栖 坪上等
東郷一昨日 桑島昨日帰省
新聞総覧
昭和九年の新聞日誌 1ページ
一月
二十三日
△電通恒例の寒行は二十二、三の両日に亘つ
て盛大に行はれた。
十二月
二十日
△日本電報通信社光永社長は恒例により、二
十日、二十一日の両日に亘り本社楼上に国
務大臣、新聞関係者、代理店幹部、広告主
社友等二百三十余名を招待してジンギスカ
ン鍋の接待をした。
12・21日(金) 晴
来客 山田長司(北米朝日新聞東京支社) 富永直次郎 佐藤観次郎
(中央公論「バーンビー」報告書2月号ニ掲載ノ件) 久保町辰二 前田亮
上村市之丞 佐々木霊山 山田広三郎
山本俊義(長岡隆一郎ノ使者)
長岡隆一郎関東局長官受諾
瀬尾栄次郎 来訪
野田普及部長来訪 華府条約廃棄通告ニ関シ当局談発表ノ件
昼 電通社毎年恒例「ジンギスカン」釜忘年会招待
光永 徳富 安達等
夜 「ストイチェスコ」夫妻ノ招待
英大使 重光次官 其他大勢〔昼以下大勢まで22日に記載〕
新聞総覧(1936)
昭和十年の新聞日誌 25ページ
一月
一日
△日本電報通信社では恒例により黎明三時を
期し、本社八階大広間に於て在京全社員◇
に業界関係者多数出席の上、新年宴会を開
催した。
十二月
△日本電報通信社長光永星郎氏は恒例により
二十七、八の両日本社楼上に業界関係者多
数を招待、忘年会を兼ね成吉斯汗鍋料理の
接待をした。
12・28日(土)曇 雨
御用納 移転ノ筈ナリシガ風雨ノ為延期
日加通商関係好転 当局談発表
同盟通信社幹部畠山敏行、岩永裕吉、古野伊之助挨拶来訪
白井静敏(一橋新聞部)来訪 新年原稿ノ件 今村忠助(介名古屋新聞)
不会
光永電通ノ招待 恒例「ジンギスカン」鍋招待 三国中佐、上田電通
ト通信ノ件会談
内閣ニ横溝書記官訪問 情報委員会組織ニ付会議ス
夜 杉江春次ノ招待 南洋興発連中 外務省関係者 山 二次会
三橋 斉藤文也、松島鹿夫
独逸新聞記者ノ「ビール」会欠席
新聞総覧(1936)
新聞日誌(昭和十一年) 31ページ
一月
一日
◇日本電報通信社では恒例により午前三時を
期し、本社八階大ホールに於て新年宴会を
開催、来賓として社友及各新聞社支局長等
多数出席盛大を窮めた極めた。
二十二日
◇日本電報通信社では恒例により二十一、二
の両日に亘り寒行を行つた。
12・28日(火)晴
朝 参内 大宮御所 年末御礼記帳
殿田読売来訪 上海行補助ノ相談
用件アリ登省 本野来訪 美代返礼
今暁日「ソ」漁業暫行協定発表
昼 電通社 光永星郎恒例「ジンギスカン」料理招待 賴母木、安達、
徳富、倉知、滝正雄、其他参会
1時過光専寺 井爪3周忌法会参拝
松岡均平男 年暮挨拶訪問
夕方浩平、大平ト遊戯
朝日 林記者来訪
夜 殿田及読売記者来訪(井上豊二)恒例「ウイスキー」壜贈呈
新聞総覧(1937)
昭和十二年の新聞日誌 31ページ
一月
一日
◇日本電報通信社では恒例により午前三時よ
り新年宴会を催し、終つて全社員を十数班
に分ちて、市内の全華主に年賀の廻礼をな
し、電通の広告華主に対してかねて抱いて
ゐる誠意を表する處があつた。
新聞総覧(1939)
昭和十三年の新聞日誌 59ページ
一月
一日
◇日本電報通信社に於ては十三年の仕事始め
として午前三時を期し、全社員集合、新年
宴会を催し終りて球場前に至り拝礼、明治
神宮参拝をなし、次いで市内広告華客への
年賀廻礼をなして活動的な一年の計を実行
した。
十二月
二十八日
◇日本電報通信社長光永星郎氏の社友及華客
招待成吉思汗料理会は二十八、九の両日例
年の如く開催された。
新聞総覧(1939)
昭和十四年の新聞日誌 59ページ
一月
二十一日
◇日本電報通信社の恒例寒行は二十一、二両
日挙行。
十二月二十八日 木曜
松下、依光両君、星ヶ岡五時半。正午電通八階、ヂンギスカン焼忘年会。
大崎君長男辰弥君戦死の記事あり。痛惜哀悼の至に堪へぬ。慶大ラクビーの主将として慶大の黄金時代を造つた立派なスポーツマン。清作君の心中や如何、全く同情する。人の事ではない、自分の事だ。
新聞総覧(1940)
昭和十五年の新聞日誌 64ページ
一月
二十一日
◇日本電報通信社の恒例寒行は二十一、二十
二の両 日挙行。
「日本電報」通巻8697号88ページ
新年仕事始式<略>
吉例矢開き会
電通の名物であり、年中行事である成吉斯汗料理の矢
開き会は、旧臘二十六、二十七両日、老杉うつさうたる
密林の如き八階ホールにおいて、華々しく開催された。
当日は、例年の如く、徳富蘇峰先生をはじめ朝野の名
士多数の御出席を得て、非常な盛会であつた。
年中行事の寒行
揃ひの白鉢巻、白衣、白足袋に身をかため、鈴の音も
いさましく、市内の華主を訪問し寒中見舞を行ふ、電通
の年中行事寒行は、今年も、一月二十二、三日の両日、
光永社長、光永専務、不破常務をはじめ、全員大元気で
決行した。
なほ、二十三日の夜は、全員九段の靖国神社を参拝。
護国の英霊に最敬礼を捧げた。
十二月
十日
◇日本電報通信社の創業四十周年記念式典に
全国新聞通信社四十年勤続者表彰式は帝国
ホテルに朝野の名士一千余名を招待し挙行
された。
礼開催、来賓として社友及各新聞社支局長等
多数出席盛大を窮めた極めた。
昭和十七年
十二月二十八日 月曜
多摩川水力。渡辺一家を招待(翌日に変更)。五時電通八階、ジンギスカン炙。鈴木四段、田中(亮一)、木下両氏。来訪者、中島、樋口、遠山、中野、植田諸氏、猪野毛氏。
私だったら、せいぜい猪肉のジンギスカンを御馳走になり、ありがとうございましたとお礼をいうぐらいしかできないが、こうした方々は場慣れしているというか、当意即妙、その場の雰囲気を読み、さっとそれに合うように話せるんですなあ。同書は著作権保護期間満了になっていることもあり、昭和10年代の宴席の雰囲気を伝える意味で全文を資料その15にしました。
資料その15
光永社長の挨拶
今日猪を差上げるに就いては多少の意義があるのであります。申す迄も猪は猪勇、猪突を表徴するものでありまして、今年も来年もその意気で進ん頂きたいのであります。更に狩猟奨励の意味も含んで居りますので、私は本年の四月からリウマチスに悩まされて居りまして、社の三階を上下するにも苦痛を感じて居りましたが、昨今は全く疼痛を覚えぬ様になりました。之も全く狩猟の賚であると信じ、狩猟が健康上重大な意義を持つてゐると思ふのであります。狩猟は人類の本能から出たものでありますから、今後私も皆様のお伴をして猪猟なり雉猟なりに参る事が出来ますれば、今日の催も意義ある次第と存じます。鳩山文相はゴルフをおやりの様でありますが、私はゴルフに反対をするのでありませんけれども、狩猟ほど好結果を来すかどうかを疑ふ次第であります。どうか各位に置かれても銃を肩に、或は山に或は川に與に共に馳駆する事を御許し下さいまして、猪勇を養ふ事の萬分の一に資する事が出来ますれば、此上なき光栄と思ひます。
徳富蘇峰翁の謝辞
私の後には鳩山文相、最も雄弁なると申せば申すまでもなく永井拓相、それに又現内閣で最も年少で、最も馬力の強い後藤農相と続くお話のある事と思ひます。どうぞそのお積りで聴を願ひます。光永さんが猪突と言ふ事を申されたが、之は社長の一面を代表したもので、他の一面を申しますれば、社長が一度極めたことは決して止めないと言ふ事であります。則ち信念、何と申しませうか、非常なる忍耐力があるのであります。
古い言葉に「必ず忍びあるものは、その事必ず成る」とあります。電通の今日の盛運を来したと言ふことは、一方には猪突、且つ徹底的にやり、他方には凡ての事に方つては堅忍不抜と言ふ様に、いつまでもやつて退けられる結果ではあるまいかと思ふのであります。なか/\鉄砲も御上手であるそうでありますけれども、その鳥や獣もよく逃げるのであります。今度は四十幾発かをお放しになつたとのお話であります。多分鳥や獣も社長の気根に負けて兜を脱いだのであらう。之は私の想像するだけであります。左様の訳でありまして昨年から今年にかけての一年間におきましての電通のお働きは絶大なるものであります。満州国の出来る前後、殊に我国の政変に際しましても、之は単に光永社長が一つの通信社の社長としてではなく、日本における新聞人として全く営業とか、事業といふ様な手を離れて、徹底的の愛国の精神をもつて、居られる結果でありまして、その功労は世人の等しく認むる處であります。この点私の平素常に感謝して居る處であります。この目出度き機会に一言所感を申上げた次第でありますが、満座の方にも定めて御同感でありませう。云々
鳩山文相
私は徳富先生には大変お世話になつて居りおりますので、先生より起つて話をせよとの事でありまして、全く止むを得ず起ちましたが、此卓で一番多く猪を喰つたのは後藤農相であるから、私は唯お礼を申上げる事のみにし、一番よく猪を喰つた報いとして、後から後藤農相から詳しくお話があると思ひます。
後藤農相
私が猪を一番よく喰つたと断定されたのは文部大臣でありますが、文部大臣は何の権能があつて、他人の喰つた高を断定するのであるか、私には判りません……が実は御招きにあづかる二三日前から腹を悪くしましたので、何か喰べる会には出ない事にしてゐたのでありますが、また本日茲へ来て猪を食ひ過ぎてはいけないと、実は失礼しやうと思つて居りました處、文部大臣から是非行かうとの誘はれて来たのでありますが、来て見ると遂ひ矢張り喰ふ事は喰ひました、これは御馳走が全く旨かつたからだと思ふのであります。
この猪と云うふものは山の中に勇敢に生活してゐるものでありまして、此の猪の肉を喰ふと云ふ機会はめつたにないのでありまして、思はず喰ひ過ぎてしまひまた、腹が悪くなりはしないかと実は心配してゐる處でありまして、旁々猪を喰つたむくひの甚だ容易ならぬ事を痛感致す次第であります。
而して社長の御好意に依りまして猪の御馳走にあづかりましたが先刻社長は猪突と云ふ事を申されましたが人間は或る場合には猪突でなければならぬ事もありますが、この猪突は人に迷惑をかける事が多々あるのでありますので、これは先刻蘇峰先生の申されました如く必ず忍びある者はその事必ず成ると云ふ信念をもつて、猪を本当に腹の中でこなして行き度いと思つてゐる次第であります。私のやつてゐる仕事は農林省なので、この猪も私の管轄下にあるのであります。この管轄の肉を皆様が召し上つ下さるのは、誠に愉快に存ずる次第であります、この猪は私の管轄でありますから今後は猪に対する改良を考へねばならぬかも知れませんが或は猪が改良されて来たならば、猪が鉄砲にあたらない様になるかも知れません。甚だ不躾な事を申述べましたが御馳走にあづかりまして誠に有難く一言御礼を申上ぐる次第であります。
永井拓相
今日は御馳走になりまして誠に有難うございます。鳩山君が私共を代表して御礼を申上げ、後藤君がまた代表的に猪を沢山喰つたものとして代表的の御挨拶をしましたので、私は他に何も云ふ必要はありません。
大体私は電通が言論自由のために多年闘つて来られたと云ふ事を非常に多として居るのであります。又徳富先生が同じく言論の自由のために奮闘される事を常に敬慕して居るおる次第であります。處がこの言論の自由と云ふものは二つの意味があり、一つはものを云ひたい時に云ふ自由と、他の一つは云ひたくない時に云はない自由と、この二つであります。
今日は鳩山君が云ふべきを云ひ、後藤君は挨拶すべく挨拶して私は云ふべき事はないのであります。この時は云はせないのが本当に言論の自由を尊重するものであります。然るに徳富先生は勝手に我々三人が何か挨拶すべきものがある様に御指名になられたのは、これは徳富先生が多年言論自由のため闘はれた歴史を汚すものであり、甚だ遺憾だと思ひます。後藤君は腹が痛い腹の具合が悪いとて、今日は余程慎んで居られたのことでありますが、慎んで居てあれだけ喰べられたのでありますから、本当に健康な時は何れだけ喰べられるか、私は実に後藤君のやうな勇壮なる同僚を得て頗る愉快に思ふのであります。この後藤君が農林省の管轄だからこれから猪を改良する、さうして改良すれば鉄砲にあたらなくなるかも知れんと云はれたが、夫れでは後藤君の益々猪を喰はんとする欲望と矛盾すると思ふのであります。何うか猪の改良は出来るだけ弾にあたる様にしていただき夫れと同時に猪をうんと養成して、明年はまた今日以上に沢山の猪をもつて成吉斯汗会を催されまして我々に振舞つていただき、其の時は言論の自由を蹂躙されずに充分に喰べさせていただきます様に今から徳富先生に充分に御警告致しまして私の御挨拶に代へる次第であります。
ここまで私は光永社長が率いる電通は、皆さんが知っている今の電通とは全く違うという説明はしなかったが、かなり違っていたのです。その大きな違いはね、光永電通は通信社、新聞社と同じように先を争って情報を集め、それをちゃんとした記事にして各新聞社に送り、その記事代を受け取る一方、さまざまな企業、商社商店から広告の原稿と広告代を集めて新聞社に渡し、その手数料を受け取っていたのです。今日猪を差上げるに就いては多少の意義があるのであります。申す迄も猪は猪勇、猪突を表徴するものでありまして、今年も来年もその意気で進ん頂きたいのであります。更に狩猟奨励の意味も含んで居りますので、私は本年の四月からリウマチスに悩まされて居りまして、社の三階を上下するにも苦痛を感じて居りましたが、昨今は全く疼痛を覚えぬ様になりました。之も全く狩猟の賚であると信じ、狩猟が健康上重大な意義を持つてゐると思ふのであります。狩猟は人類の本能から出たものでありますから、今後私も皆様のお伴をして猪猟なり雉猟なりに参る事が出来ますれば、今日の催も意義ある次第と存じます。鳩山文相はゴルフをおやりの様でありますが、私はゴルフに反対をするのでありませんけれども、狩猟ほど好結果を来すかどうかを疑ふ次第であります。どうか各位に置かれても銃を肩に、或は山に或は川に與に共に馳駆する事を御許し下さいまして、猪勇を養ふ事の萬分の一に資する事が出来ますれば、此上なき光栄と思ひます。
徳富蘇峰翁の謝辞
私の後には鳩山文相、最も雄弁なると申せば申すまでもなく永井拓相、それに又現内閣で最も年少で、最も馬力の強い後藤農相と続くお話のある事と思ひます。どうぞそのお積りで聴を願ひます。光永さんが猪突と言ふ事を申されたが、之は社長の一面を代表したもので、他の一面を申しますれば、社長が一度極めたことは決して止めないと言ふ事であります。則ち信念、何と申しませうか、非常なる忍耐力があるのであります。
古い言葉に「必ず忍びあるものは、その事必ず成る」とあります。電通の今日の盛運を来したと言ふことは、一方には猪突、且つ徹底的にやり、他方には凡ての事に方つては堅忍不抜と言ふ様に、いつまでもやつて退けられる結果ではあるまいかと思ふのであります。なか/\鉄砲も御上手であるそうでありますけれども、その鳥や獣もよく逃げるのであります。今度は四十幾発かをお放しになつたとのお話であります。多分鳥や獣も社長の気根に負けて兜を脱いだのであらう。之は私の想像するだけであります。左様の訳でありまして昨年から今年にかけての一年間におきましての電通のお働きは絶大なるものであります。満州国の出来る前後、殊に我国の政変に際しましても、之は単に光永社長が一つの通信社の社長としてではなく、日本における新聞人として全く営業とか、事業といふ様な手を離れて、徹底的の愛国の精神をもつて、居られる結果でありまして、その功労は世人の等しく認むる處であります。この点私の平素常に感謝して居る處であります。この目出度き機会に一言所感を申上げた次第でありますが、満座の方にも定めて御同感でありませう。云々
鳩山文相
私は徳富先生には大変お世話になつて居りおりますので、先生より起つて話をせよとの事でありまして、全く止むを得ず起ちましたが、此卓で一番多く猪を喰つたのは後藤農相であるから、私は唯お礼を申上げる事のみにし、一番よく猪を喰つた報いとして、後から後藤農相から詳しくお話があると思ひます。
後藤農相
私が猪を一番よく喰つたと断定されたのは文部大臣でありますが、文部大臣は何の権能があつて、他人の喰つた高を断定するのであるか、私には判りません……が実は御招きにあづかる二三日前から腹を悪くしましたので、何か喰べる会には出ない事にしてゐたのでありますが、また本日茲へ来て猪を食ひ過ぎてはいけないと、実は失礼しやうと思つて居りました處、文部大臣から是非行かうとの誘はれて来たのでありますが、来て見ると遂ひ矢張り喰ふ事は喰ひました、これは御馳走が全く旨かつたからだと思ふのであります。
この猪と云うふものは山の中に勇敢に生活してゐるものでありまして、此の猪の肉を喰ふと云ふ機会はめつたにないのでありまして、思はず喰ひ過ぎてしまひまた、腹が悪くなりはしないかと実は心配してゐる處でありまして、旁々猪を喰つたむくひの甚だ容易ならぬ事を痛感致す次第であります。
而して社長の御好意に依りまして猪の御馳走にあづかりましたが先刻社長は猪突と云ふ事を申されましたが人間は或る場合には猪突でなければならぬ事もありますが、この猪突は人に迷惑をかける事が多々あるのでありますので、これは先刻蘇峰先生の申されました如く必ず忍びある者はその事必ず成ると云ふ信念をもつて、猪を本当に腹の中でこなして行き度いと思つてゐる次第であります。私のやつてゐる仕事は農林省なので、この猪も私の管轄下にあるのであります。この管轄の肉を皆様が召し上つ下さるのは、誠に愉快に存ずる次第であります、この猪は私の管轄でありますから今後は猪に対する改良を考へねばならぬかも知れませんが或は猪が改良されて来たならば、猪が鉄砲にあたらない様になるかも知れません。甚だ不躾な事を申述べましたが御馳走にあづかりまして誠に有難く一言御礼を申上ぐる次第であります。
永井拓相
今日は御馳走になりまして誠に有難うございます。鳩山君が私共を代表して御礼を申上げ、後藤君がまた代表的に猪を沢山喰つたものとして代表的の御挨拶をしましたので、私は他に何も云ふ必要はありません。
大体私は電通が言論自由のために多年闘つて来られたと云ふ事を非常に多として居るのであります。又徳富先生が同じく言論の自由のために奮闘される事を常に敬慕して居るおる次第であります。處がこの言論の自由と云ふものは二つの意味があり、一つはものを云ひたい時に云ふ自由と、他の一つは云ひたくない時に云はない自由と、この二つであります。
今日は鳩山君が云ふべきを云ひ、後藤君は挨拶すべく挨拶して私は云ふべき事はないのであります。この時は云はせないのが本当に言論の自由を尊重するものであります。然るに徳富先生は勝手に我々三人が何か挨拶すべきものがある様に御指名になられたのは、これは徳富先生が多年言論自由のため闘はれた歴史を汚すものであり、甚だ遺憾だと思ひます。後藤君は腹が痛い腹の具合が悪いとて、今日は余程慎んで居られたのことでありますが、慎んで居てあれだけ喰べられたのでありますから、本当に健康な時は何れだけ喰べられるか、私は実に後藤君のやうな勇壮なる同僚を得て頗る愉快に思ふのであります。この後藤君が農林省の管轄だからこれから猪を改良する、さうして改良すれば鉄砲にあたらなくなるかも知れんと云はれたが、夫れでは後藤君の益々猪を喰はんとする欲望と矛盾すると思ふのであります。何うか猪の改良は出来るだけ弾にあたる様にしていただき夫れと同時に猪をうんと養成して、明年はまた今日以上に沢山の猪をもつて成吉斯汗会を催されまして我々に振舞つていただき、其の時は言論の自由を蹂躙されずに充分に喰べさせていただきます様に今から徳富先生に充分に御警告致しまして私の御挨拶に代へる次第であります。
大まかにいうと、それまでの広告専業の会社でもないし、記事を売る通信社とも違い、その両方を一緒にした独特の商法を光塚社長が編みだし、粘り強く実行してきたのです。これには独特の強みがあるのですね。簡単に言うと、たとえば、ある新聞が売れなくて電通から受け取った記事の代金をすぐ払えない、ちょっと待ってくれという状況になった場合、通信社は払ってくれるまで待つしかないが、光永電通は、その新聞社に渡すべき広告代金からその記事代を差し引いて相殺することで、資金ぐりが楽になり、通信網の規模拡大などに使えた。記事代相殺が度重なると、広告にしても、スポンサーの注文通りにしてくれないと広告代は満額払えないよと強く出ることができる。
ただし、それは経営が軌道に乗ってからのことで、電通創立のための出資勧誘は困難を極めたそうだ。設立前のことだが、光永氏は煙草販売界のリーダーだった村井吉兵衛氏に出資を頼もうと村井宅を何度も訪れたが、まったく無視された。それでも光永氏は諦めずに通い、114回目に面会を許され、会社設立に賛成してもらい、煙草広告の取り扱いの承諾も得たという実話が光永氏の伝記「八火伝」に載っています。元日午前3時の始業式、顧客のお礼を兼ねた寒行、富士登山競走は、こうした不屈の闘魂養成を図るのが狙いと説明しています。
だから、電通が昭和8年12月末、関東大震災で焼失した社屋のに代わる塔屋を入れて10階、1600坪余りの新社屋を銀座7丁目に新築したとき、資料その16のような悪口を書かれたりしたのです。もっともこれはたんまりある悪口のサンプルみたいなもんだよ。ふっふっふ。
資料その16
<略>
◇
日本電報通信社も、新築落成で、銀座街に乗出
すことになったが――この新築落成のお祝いに銀
行会社方面へ奉加帳を持ちまわつてお祝ひのおつ
き合ひをねだり廻つてゐるといふ評判だが、それ
はいかにもありさうな話。
◇
貰ふことゝ、ハネることが商売の電通である。
別して不思議なことではない。落成した電通の社
屋を、地方新聞の支局に間貸しをして、これでま
た家賃稼ぎをやらうというのだから、電通といふ
ヤツ、どこまで抜目がないのか、呆れ返へる。通
信料写真製版代――それ等を広告料で相殺して懸
け倒れのない電通が――その上間貸しでも、その
手で安全第一の家主サマにならうといふのだ。間
借りをしない支局には広告取扱を手加減をするぞ
――と脅してみるのも面白からう――イヤ、もう
その手は先刻承知のスケかも知れぬ。
資料その16◇
日本電報通信社も、新築落成で、銀座街に乗出
すことになったが――この新築落成のお祝いに銀
行会社方面へ奉加帳を持ちまわつてお祝ひのおつ
き合ひをねだり廻つてゐるといふ評判だが、それ
はいかにもありさうな話。
◇
貰ふことゝ、ハネることが商売の電通である。
別して不思議なことではない。落成した電通の社
屋を、地方新聞の支局に間貸しをして、これでま
た家賃稼ぎをやらうというのだから、電通といふ
ヤツ、どこまで抜目がないのか、呆れ返へる。通
信料写真製版代――それ等を広告料で相殺して懸
け倒れのない電通が――その上間貸しでも、その
手で安全第一の家主サマにならうといふのだ。間
借りをしない支局には広告取扱を手加減をするぞ
――と脅してみるのも面白からう――イヤ、もう
その手は先刻承知のスケかも知れぬ。
電通はさらに社業の発展を図るのですが「虹をかける者よ 電通90年史 1901―1991」に「'31年9月の満州事変を契機として,日本国内では急速に軍国主義への傾斜が深まりはじめ,政治,経済はもとより,言論,報道などの面でも国家による統制の必要と強調されはじめた。通信社については,とくに満州事変後,これを日本の侵略と非難する国際世論が高まり,日本が孤立化を深めていった過程で,対外宣伝強化のために,国の意見を反映できる強力な国策通信社をつくるべきだという意見が,政府部内で起こってきた。」(22)とあります。
その後の経過を大まかにいうとね、電通とそのライバル日本新聞聯合社(聯合)の合併交渉は、電通は営業権を新通信社に譲り、代償200万円を受け取って解散することで一旦は成立したかにみえた。ところがどっこい「通信の統制は報道の自由に反する」「同地域のライバル紙との差別化、東京紙との競争に不利なる」などと北海道、中京、九州の大手地方紙が猛反対したのです。
しかし、政府は方針を変えず聯合を社団法人同盟通信社とし、聯合の広告部門を切り離して電通と合併、電通は通信部門を同盟と合併させて広告専業になる分業案を推し通し、もめにもめた電聯合併は5年ぶりに実現した。ここで電通は記者など通信部門約300人を同盟に送り出し、聯合からはその広告部員約40人を受け入れて広告専業会社になったのです。
その4年後の昭和15年秋、光塚星郎社長は退任、弟の光塚慎三専務が2代目社長に就任しました。広告専業になった電通では、その後、首脳陣の交代はあったけれども、猪ジンパの矢開会に代わる政財界の要人や顧客招待の新年会・忘年会は続けられ、今も電通年賀会として盛大に催されています。検索すると今年も東京、大阪、名古屋、福岡、札幌の5市で開かれており、巳年の飾り付けを背景にした記念写真などが見られるし、メルカリの売り物に年賀会でもらったという干支のお土産類が出ているよ。
ということで終わりますが、もう一度、電通ビルの写真を見てほしい。電通ビルの左下の道路は銀座6丁目と7丁目を分ける道路だ。それに沿ってずっと奥の背の高いビルは、きょう初めに取り上げた菅原栄蔵が設計し、小森忍のタイルを使ったサッポロビールの社屋で、1階のホールが有名な銀座ライオン。それと電通ビルとの間にある5階建てで3階の半分が白く見えるビルは当時の北海タイムス、のちの北海道新聞東京支社です。道新は今、虎ノ門に移り、あそこはルイビトンが借りて水色のおしゃれなビルが建っているよ。終わります。