新版・現場主義のジンパ学

テムジン軍70人が捕虜になり釜茹で処刑された

 コロナ禍の後、また1年有余、再構成のため休講したから、忘れた人がいるかも知れないので言っとくが、私がこの講義を担当する尽波です。これからの講義は新版とうたったが、謙遜していえば、前回の講義に予定したが、皆さんに話すほど研究が足りず見送ったテーマを取り上げるのが主な目的です。
 それからね、ただ「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」というテーマの講義だけは、新たな基準で集めた材料を追加して新版とすることにしています。
 年のせいで声帯にも皺が寄ったか大きな声が出なくなったけど、私の講義は期末試験はなし、我が北大から発したジンパ及び関係諸分野のレポートで評価することには変わりなしです。
 これまで学外者向けの講義録のホームページは HTML4.01 で書いてきたが、新版とうたうからには、新しき酒は新しき革袋に盛れと、全面新しい HTML Living Standard で書くことにしたらだね、長い文章が主体になる講義録作りに役立つ参考書がないんだなあ。解説書はいろいろあるけど、商店の宣伝かカタログみたいにビジュアル重点というか大きな写真主体、説明は短く添えて、スマホでも格好良く見せられるホームベージの作り方ばっかり。我が講義録のようにだ、ほとんど文章で、ところどころに写真と引用した箇所の囲みもの、本の出所説明が入るようなページのプログラムは見つからない。
 それでね、ウェブと対になるカスケーディング・スタイル・シートはほとんど同型だけど、1対ずつファイルに納めて並べるなんて正しい使い方じゃないだろうが、試行錯誤の末、やっとこうしたスタイルにたどりついた。私としては、文献情報はウィキペディアみたいな吹き出しにしたくて、テストでは成功したが、講義録をたくさん並べたときでも、正しく動作するかどうかわからないので、右側に寄せる形にしました。
 孫にジイちゃんはパソコンに強いからとおだてられてスマホに変えたら、ガラリ、ガラケーと勝手が違うし、しょっちゅう充電しなきゃならない。電車の中はともかくエスカレーターに乗っても、あんな小さい画面をちらちら見ることはやめさせたい。だから一応この新講義録は Living Standard で組んだけど、スマホ読みへの配慮はしていなからね、あしからず。ふっふっふ。
 これまでは、ある程度目鼻が付いたことから話してきたので、明治の次が昭和とか、北京から東京なんて行き当たりばったりの講義になってしまった。これは私がジンギスカン料理、または鍋という食べ物の研究を始めたとき、参考になる専門書がなく、いや、今もないがね。どの人工知能とはいわんが、ジンギスカン焼きという呼び方の最古例なんかを尋ねたところで、詳しくは専門書を調べなさいとか、すみませんがこの会話を打ち切らせて下さいというのは、まだましな方。
 駒井徳三がジンギスカンと命名したという説は誤りと主張している研究者を尋ねてみたら、研究者5人とその論文名、発表誌を即答してくれた。私がだよ、存じ上げない方ばかりなのでね、調べてみたら全く架空の人物だった。どうして架空の答えが出るのかと尋ねたら、わかりませんと答えたね。
 私の場合、北大の隣みたいな南陽堂で買った古本で、小谷武治という札幌農学校OBが卒論の延長といえる「羊と山羊」という本を出したことを知り、その本に先輩新渡戸さんが喜んで序を書いていたことから、新渡戸さんは東京の牛肉店に羊肉を買いに来る数少ない日本人の一人だったことを知った、その牛肉店が羊肉の卸問屋に兼ねて、成吉思荘を開いたとか、中国北京や満鉄との関係から独特の鍋探しからジン鍋博物館までと研究範囲を広げたのでランダムになっちゃった。
 スタートしてからざっと20年、その間にジンパの本家、北海道大学に於けるジンパを巡る環境の大変化がありました。宮沢賢治じゃないけど、雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモ負けず、キャンパス到る処でやれたのに、ローンが傷む、行儀が悪いと大学当局は開催場所を指定し、それでも「不適切な使用」が続くいうことで平成25年4月、ついに全面禁止を発令したのです。
 学生、院生諸君による北大ジンパ問題対策委員会、教職員有志の復活運動により、翌26年春になんとか2カ所での開催を認められたという経緯があり、私の講義録の「どこでもドア」的ジンパは伝説になってしまった。それでね、ノーベル賞を得た鈴木章さんが飲め飲めと酒を注いでいたジンパの光景など53回の講義録のうち、歴史書に任せるべき分は間引くことを考えたが、羊と関係あるならとなんでも集めた証拠だからね。令和元年以降の研究結果と合わせて再度公開することにしました。
 はい、前口上はそれぐらいにして、まずこれまで同様、資料を配るから1部ずつ取って後ろへ渡しなさい。ジンギスカン鍋または料理という複合名詞の前半分のジンギスカンとは――から始めます。蒙古の英雄の名前ということは、よく知られているが、正しくはチンギスカカンと呼ぶべきなのです。知ってたかな。
 私はジンギスカン料理またはジンギスカン鍋と命名したのは誰か、ホントに駒井徳三かねという命名者捜しから始めたため、ジンギスカンという呼び方は調べてなかった。それで今回はジンギスカンについて書いた本捜しのことから始めようと、いささか調べてきました。あ、それから一言、新版の参考文献で国会図書館のデジタルコレクションで読める本は、それを利用するよう国会図書館デジタルコレクションと示しています。
 まずは彼の肖像画を見てもらおうと、もちろん想像で描いたものだが、グーグルの画像を検索したら意外や意外、カタカナだとずらり肉や野菜満載の鍋の写真、漢字の成吉思汗に変えたら先頭部はタレの写真が並ぶ。チンギスハンかチンギスハーンでようやく絵やその写真など出るとは知らなかったね。
 それでグーグルにもあるが、昭和11年、東京の羊肉問屋、松井精肉店が開いた北京料理店「成吉思荘」の社長松井初太郎が昭和10年に商標として登録した成吉思汗の肖像画を資料その1として見せましょう。窓ガラスの反射光が入って、サンタクロースみたいな白髭の顔は見づらいが「商標登録通知 特許局長官」は読めるよね。
資料その1
 国会図書館を検索すると、キーワード成吉思汗で出てくる最古の本は、明治6年に出た瓜生政和編「西哲叢談 巻之二」で「蒙古国にては大将のことを汗といふ成吉思汗とハ衆々の大将の上の大将といふ訳とぞ」(1)と説明している。
 それから年表とか源義経関係などが続きますが、ジンギスカンという呼び方に触れているのは、9冊目の北村三郎著「世界百傑伝」が初めてになります。北村は鉄木真テムチン、己ニ乃蛮ナイマン種民ヲ破リテ、全局ノ勝ヲ占メ、朶魯班トロハン塔児塔児タルタル哈荅吉ハタキ散只克テシクノ四部ヲ降シ、復タ蔑里乞メリキ部ヲ征シ、其所属帯児兀孫タイルゲソンノ女、忽蘭フーランヲ納レテ、哈敦カトント為ス、是ニ於テ鉄木真、大ニ諸将群臣ヲ幹難オノン河ニ会シ、汗位ニ即キ、成吉思可汗ジンギスカント号ス、」(2)とし、全文64ページの伝記のおしまいの方に「成吉思ジンギスハ、尊号ナリ、武略絶倫、特ニ世ニ顕ハレ、汗位ニ上ルノ時、受クル所ノ称ニシテ、猶ホ王中ノ王ト云フガ如シ、」(3)と説明はしています。
 その次は大田蒼溟著「世界歴史譚」で、即位式で「群臣斉しく尊号を上て、こゝに始めて成吉思汗と曰へり。盖し天賜の義になりと云ふ。強者を統御すといふの義なりと云ふ。時に<略>西暦千二百六年、我土御門天皇建永元年、義経死せし十七年後なりき。成吉思汗既に大汗の位に即く、即ち元老会議の議を経て、汗国憲典(ヤサ)及法規を制定して、政治の大綱、制度の組織を定めたり。」(4)と書き、この後は成吉思汗で通しています。
 同書が参考した文献に「ドツソン氏蒙古史」があるし、国会図書館が「早稲田大學卅六年度史學科第一學年講義録」としている河野元三述「蒙古史」も緒言に「本講議が主として拠りたる所はドオソンの蒙古史なり講者の力及はむかきりは支那方面の史籍と泰西方面の史籍とに参照する所ありしも甚しくドオソン以外に出たるものなし」(5)とあるところから、このころの成吉思汗伝は文政7年(1824)に出たコンスタチン・ドーソンによるフランス語の「蒙古史」を参考にして書いたらしいんだなあ。
 那珂通世訳註「成吉思汗実録」が出たのは明治40年でね、資料その1はジンギスカンは通称だと書いている箇所です。
資料その2
 元太祖実録と云はずして成吉思汗チンギスカン実録と名づけたるは何ぞや。成吉思汗は当時通行の尊号なり。太祖は世祖至元三年の追号なり。数十年の後なる追号を以て題すれば、数十年の後に成れる書の如く聞ゆる嫌あり。且大徳七年に奏進せる太祖実録は蓋今の太祖本紀の本源にして、疎漏なりし者と見ゆれば、その疎漏なる書と名を同じうすることを避け、当時の尊号を以て題したるなり。
 成吉思合罕チンギスカガンと云はずして成吉思汗チンギスカンと云へるは何ぞや、成吉思汗合罕チンギスカカンは当時の本号、成吉思汗は後世の略称なり、カンは、キミなり。可罕カガンは、カンカンキミキミにして大君オホギミなり。此書には、一たびも成吉思可罕の可を略きたる事なし。然れども太祖の大なる所以は名に関らず。故に便宜に従ひ略称を用ひたり。
 細かいことですが、那珂本は発行部数が少なかったらしく、入手困難で蒙古研究に支障を来していた(6)ため昭和18年に筑摩書房が出した「成吉思汗実録」は、忠実に原本を復元したと後記(7)にあるが、2回ともカガンになっています。
 明治42年に出たコンスタンチン・ドーソン著、田中萃一郎スイイチロウ訳の「蒙古史」では資料その3(1)のように書いてあります。原本の書名は「Histoire Des Mongols, Depuis Tchinguiz-Khan Jusqu'a Timour Bey Ou Tamerlan, Volume 1 」で、いまならフランス語版がアマゾンで買えるよ。私のフランス語は明治時代の宮中料理のメニューでもやっとだったくらいの学力だから買いませんでしたがね。ふっふっふ。
 同(2)は当時、金沢大助教授だった佐口透の訳によるカガンの説明です。
資料その3
(1)
 韃靼種族の遊牧民族をして法令の下に帰服せしむるに至れるを以て鉄木真はその新権勢に相当せる尊号を要することとなれり茲に於て一二〇六年の春斡難河源の附近にあらゆる民族の長官を以て組織せる総会即ち Couriltaï を召集しその地に九個の白蠹 Tougs を重ねて製したる一旒の軍旗を樹てたり。闊闊出 Gueukdjou と称する卜者 Came あり蒙古人の信用厚く数々之に向て神詫を伝へしが、厳かに鉄木真に声明しけらく既に古兒罕Gour Khan〔蒙古語古兒は総体の義を有するを以て古兒罕とは即ち蓋世之汗の義也。〕即ち大汗の称号を帯びたる幾多の君侯を撃破し滅亡せる後に於ては、彼の光輝の損傷せられたる同一の尊称を用ゐるは甚だ以て相応しからず、天の命ずる処により成吉思可汗〔Tchinkguiz Khan Tchinkは蒙古語強健の義 guizは可汗Khancanの約なり。〕即ち強大なる汗と称す可しと、諸氏族の長官はこの意見を賛成して鉄木真を祝して成吉思可汗 Tchinkguiz Khacan の尊号を上れり。〔辺、智、呂、波に拠る〕時にこの皇帝は四十四歳なりき。智に拠れば五十一歳。元史は此年より治政の年紀を数ふ。〕

(2)
 タタル種族の遊牧諸民族を支配下に収めたので、テムジンはその新しい権力にふさわしい称号を必要とすることになった。テムジンは、ここに一二〇六年の春、オノン河原の付近に、すべての部族の首領たちによって組織された総会議、すなわち《クリルタイ》を召集した。この地に九つの白い《蠹》を重ねて作られた一本の旗が樹てられた。ココチュという名の巫術師がおり、モンゴル人の間で信仰が厚く、しばしばモンゴル人に神託を言いふらしていたが、この時にテムジンのところへ来て厳かに宣言して《グル・カン》すなわち大カンの称号を帯びた多くの君主たちを打ち破り、滅ぼしたからには、その光輝に傷のついた同じカンという尊号を用いるのは適当ではなく、天の命ずるところにより《チンギス・カン》すなわち強力なるカンという称号を用いるべきであると言った。諸部族の首領たちはこの意見に賛成して、テムジンを《チンギス・カガン》として奉戴した。ときにこの帝王は四十四歳であった。
 著者ドーソンは「名を Constantine Mouradgea と云ひその先アルメニア人にして西紀一七八〇年頃コンスタンチノーブルに生まれたれり」(8)と、訳者田中は同書の序で父親イグナース・ムーラヂア・ドーソンのことから説明していますが、早い話が男爵の爵位と共に跡を継ぎ、本職はスエーデンの外交官でした。
 「而して外交官として巴里、ハーグ、伯林に駐在せしを以て自から史料の研究に便を得、加ふるに土耳古語、亜剌比亜語、波斯語、アルメニア語の素養深かりし爲め、波斯の有名なる史家ラツセツト、エツヂンの著をはじめ、亜剌比亜文、波斯文、土耳古文等の史籍二十有種を参照せり」(9)と田中の同僚阿部秀助は紹介していますが、ウィキペディアによるとアブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンという長い名前らしい。
 これでチンギスの一件落着かと思ったらそうではなかった。昭和14年に出たエレンジン・ハラ・ダワン著本間七郞訳「成吉思汗伝」には、チンギスは「蒙古・土耳古語の『テンギス』から出たもので、テンギスは海を意味している。従つて成吉思汗は海王或ひは全世界の王を意味することゝなる。」(10)そうなんです。
 だからオール蒙古に通用するとかというと、そうはいかないそうだ。「蒙古学者ウラジミル・コトヴィッチ教授の確言に従へば、東部蒙古人の間には『チンギス』なる言葉はない。」(11)使っているのは西部蒙古に住むオイラット・カルムイク人だけだと書いたのです。
 オイラット人のダワン先生の説明は、ややこしいので大事なところを本間訳のまま略さず、資料その4として引用しました。
資料その4
 即ち成吉思汗の死後、成吉思なる名(これは彼の固有の名前でなく称号として全帝国内に通用した)は服喪の意味から禁じられてゐたのである。ラシド・エツ・ヂンによれば、成吉思汗の公式服喪期間は二ケ年であつたが、称号に対する遠慮期間は永久的であつたかも知れぬ。ラシド・エツ・ヂンはまた、帝王の喪に際して国民がその名を呼ぶことを禁じられた場合が二度あることを挙げてゐる。その一つは成吉思汗の第四王子ツルイ(拖雷)の場合である。ツリは蒙古語の(鏡)にあたり、これは蒙古語から来たものである。それ故、国民は鏡をトルコ語式に「クズク」と呼ぶやうになつた。(カルムイク人は極く稀にコヂルドウルとも言ふ)恐らくかうした禁制からカルムイク人は今なほ鏡の本来の名称「ツリ」といふ言葉を用ひてゐないのである。(エヌ・バドマエフのロシヤ・カルムイク辞典を参照。「ツリ」なる語は主として僧侶が使用してゐる)………「チンギス」なる語と「ツリ」なる語が東部蒙古人に使用されて居らず、而も西部蒙古人によつて保存されてゐることからすれば、これは服喪の爲の禁止であると説明することが出来る。西部蒙古人は成吉思汗の出生地たる東部の人民よりも喪に服する期間が短かく、且又、西部蒙古人は忽必來の君臨時代既に東部蒙古人に敵対し始めてゐるのである。よつてラシド・エツ・ヂンの用いている「チンギス」、「ツルイ・トーリ」等の言葉の最初の意義をば、余は正しいと見るものである。蓋し、これは、オイラット人が用ひてゐるこの言葉の意味に合致するからである。東部蒙古人にこの言葉が使用されなくなつたことは、要するに帝王に対する服喪禁止の結果である、と余は説明するものである。
 そう喝破した著者ダワンの序によれば、同書は昭和4年、ロシアで出版された。それを満鉄経済調査会北方班員だった本間七郞が翻訳し、満鉄社員会叢書第19輯「成吉思汗伝」として昭和11年10月、満洲で出版され、国内では同13年に朝日新聞社から出版されたのでした。
 関西大の東洋史教授の石浜純太郎によると、この書名は「訳して『軍事指導者としての成吉思汗及び彼の遺産、十二~十四世紀蒙古帝国文化史論』とでも云ふのであつて、著者の私版である。この題名に於て著者は著者の目的を示唆してゐるのである。訳者は之を簡約に択んで成吉思汗伝としたものである。」(12)とのことです。
 さらに石浜は著者はロシア人として書いていることは明白だ。「たヾ蒙古人が成吉思汗を書いたからとて、絶大の讃辞を列ねて世に貽るは聊か不用意の譏りを免れまい。(13)と書いているが、ほぼ標準語の満洲から引き揚げて南部の田舎に住み、南部弁をマスターし、津軽弁もいささか聞けるようになっていた私としては、東部蒙古の人の話も見える西部蒙古育ちの学者だからこその考察だと信じますがね。
 チンギスの解釈はともかく、この即位について「成吉思汗は前の推戴式と此即位式とを合せて、二度即位の礼があつた訳である。区別していへば、前には蒙古一部の小主となり、今は天下の大君となつた次第である。」(14)といわれれば、よくわかりますよね。
 新型コロナウィルスは基礎疾患のある年寄りにとって非常に危険なウィルスと脅かされて、私は4回のワクチン接種は済ませるまでの2年間、地下鉄とJRには乗らず、バスだけにした。ホントだよ。でも単なる引きこもりではなく、自宅で読めるようになった国会図書館のデジタルコレクション本と個人送信限定の書籍、それから通販の中古本を頼りに研究は続けてきました。ジンパ学のレポート書きに利用しない手はないからね、参考文献は極力、国会図書館デジタルコレクションの本を使っています。
 ジンパ学の研究を始めてからだが、毎日5時間は検索し、ジンギスカン料理または鍋に関する研究論文や本を捜した。例えば「ジンギスカン」で検索したら令和4年9月現在、Google は980万件あると出るが「ジンギスカン 由来」に変えると37万件と激減する。犬棒効果だ。たまに Google のブックスでもやってみるかと「ジンギス汗」で検索したら、トップに「ジンギス汗の研究」「プレビューは利用できません」と本が出たのです。
 でも書名をクリックしてみたら「ページ数:194 言語:日本語 寄稿者:飯村穣」と出た。そこで国会図書館で「飯村穣 ジンギス汗の研究」を検索したら、あったんですよ、その本が。しかも国会図書館デジタルコレクションだったから、即読ませてもらいましたね。
 研究報告らしく、白いボール紙の表紙に「ジンギス汗の研究」とだけあり、表紙裏に「54.3.15」という国会図書館の検印がある。扉に「本書は、元陸大校長、飯村穣氏が戦略戦術研究上、参考となるとして推奨し翻訳されたものである。」とあり、飯村の横に鉛筆で薄く「陸軍中将」と書いてある。
 目次の次の「訳者前言」によると、原書はプラウヂン原著アンドレーコニエット氏仏訳「 Genghis Khan 」で「日本に一つ位ジンギス汗の一代記があってもよいと思ったから」それを完訳したが「之に予の註解所見も加えたので『ジンギス汗の研究』とした」(15)とあった。
 ウィキペディアやグーグルのブックスなどを検索して、飯村は石原莞爾と同期で、総力戦研究所長のとき総力戦机上演習でアメリカと戦うと日本が負けるという結論を出したことなどを知りました。確かに、この本にはあちこちにジンギスカンとソ連の戦略の類似など作戦参謀らしい短評が入っています。
 そもそもプラウジンが学者か作家なのかわからないが、私はフィクションの部分が少なければ、わがジンパ学に引用してもいいと思ったんですよ。それでね、国会図書館をキーワード「飯村穣 ジンギス汗」で出てくるもう1冊の ブラウヂン著、飯村穣訳「大統率者 ジンギス汗の謎」に何かヒントがあるんじゃないかと思ったが、これは館内限定で自宅では読めない。コロナが怖いから外出はしたくなし、通販で古本を買った。
 その本はね、飯村の自家本らしい「ジンギス汗の研究」の内容を壊さず、わかりやすくした本だった。プロデュースしたのは、飯村が陸軍大学校長のときの学生で、後に南方軍司令部で部下に引き入れた元陸軍大佐美山要蔵氏。「編集後記」にあたる「『人の心』を知る最良の書」を見ると、美山氏は「先生は仏語の達人で、イスタンブール在勤中の激務の中で、原書によってジンギス汗の統帥を研究されていました。それが、私に熟読を奨めて下さった『古事記』とともに、多分に先生の兵学の完成に強い影響を与えたのだと思います。」と書いており、飯村の「ジンギス汗の研究」は「将来の日本を双肩に担う青年諸君〝人の心〟を研究するための最高最善の資料であると痛感」(16)し、長い間出版を強く望んでいたそうだ。
 美山が千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会理事長だった昭和57年に、この「大統率者」を出したのは、同51年死去の飯村の7回忌に合わせたらしい。「訳者あとがき」に「天上界で先生が原著者と握手をされながら『美山、よくやってくれたナ』とニッコリされているのが眼に映じます。」(17)とも書いていますからね。また同書を発行した叢文社の伊藤太文氏のほかに大盛堂書店の舩坂弘氏にご好意によると書いているから、こうした書籍関係者によってリライトされたのでしょう。
 私が知った「大統率者」は館内限定デジタル本だったが、いまは国会図書館デジタルコレクションになり、本文は自宅で読めるが、資料その5にしたこの将軍らしいとんがり兜のカバーは拝めないよ。ふっふっふ。
資料その5

 なぜ美山氏は飯村閣下とか中将じゃなく先生と呼んだのか。伊藤智永著「奇をてらわず 陸軍省高級副官美山要蔵の昭和」によると、陸軍大学の図上演習で美山は教官から酷評されたが、そのとき飯村もいて、よくできたと賞めたらしい。それで美山は「半世紀も後になって日記に記したのは、当時の教官の一人で後に陸大校長も務めた飯村穣(陸軍中将)に、その時の作戦を思いがけずほめられたからだった。『感激に堪えない』と二度も繰り返している。老いてなお胸に秘めたトラウマだったのだろう。」(18)とありました。
 また飯村の回想録といえる「現代の防衛と政略」によるとね、昭和19年、飯村が南方軍総参謀長だったとき「南方軍の作戦地域を視察中の整備課長美山要蔵大佐が、視察を終ってマニラに帰って来たのをつかまえて、南方軍の作戦課長に任命して頂いた。美山大佐は、私が陸大の幹事、校長当時の学生で、これはと思って目をつけていた学生であった。そこで私は、私の関東軍参謀長になった時もこうだったといって、美山を内地に帰らせずに、そのままマニラに引きとめた。」(19)という関係でもあったのです。人の心の先生に目を掛けられては、とてもじゃないが、逃げられませんよね。
 ここまでの文献として使ったのは国会図書館にある飯村の「ジンギス汗の研究」ですが、私は犬棒でもう1冊、飯村の書き方が違う「ジンギス汗の研究」を見付けたんだなあ。それは表紙を含む11枚の写真付きでオークファンというオークションのページにあったんです。ただ、それは落札済みでぼかしで値段は読めなかった。でも中古ジン鍋のオークションを見ている経験から、ヤクオフにも出したとみて検索したら、写真11枚付きで同時に出品され、令和4年2月、4400円で落札されてました。
 それぞれ国会本とオーク本と呼ぶことにして比較すると、どちらも薄手の白いポール紙の表紙だが、オーク本はホッチキスの針金が露出しているのに対し、国会本は1枚で中身を包んでおり綴じた針金は見えない。またどちらも扉に「本書は、元陸大校長、飯村穣氏が戦略戦術研究上、参考となるとして推奨し翻訳されたものである。」とタイプ印刷されているが、改行の位置が違うのです。またオーク本は1段組みなので「訳者後言」が266ページなのに対して国会本は2段組みなので191ページと薄い。
 内容の一部として見られた111ページの「西方からキタンには冒険を…」という箇所の「から」に2本棒を引いて、そばに「カラ」と添え書きしている。これは誤植した字の置換・訂正ができない和文タイプライターを使って打った文書を元に作られた本だという証拠で、美山が「大統率者 ジンギス汗の謎」の「『人の心』を知る最良の書」に「私が頂戴し持っている本書は、ごく粗末な紙のタイプ印刷であって(20)と書いていることからも、オーク本は飯村が教科書みたいに書いた本に違いないのです。
 飯村は少なくとも2種の「ジンギス汗の研究」を書いたと思われるが、ここで資料その6として国会図書館デジタルコレクションの「ジンギス汗の研究」と「大統率者 ジンギス汗の謎」の同じ箇所の文章の違いを見てもらい、次に進みます。
資料その6
「ジンギス汗の研究」16ページ

 首かせをつけられた人間がオノン河を游ぎ渡ることは不可能
なので、兵士達は上下流に分れて河に沿うて馬を飛ばせた。只
一人騎士達の一番最後のものが長く岸に馬をとめて注意深く河
上を見つめた。鋭いこの騎士の眼は、投げ槍の射程内にある葦
の中に丸い或るものを認めた。外の騎兵が声の聞えない距離に
去つたのでこの男は言つた「ア、アーこんなことのためにオ前
を愛した筈ではなかつたのだ」と。こう言つて、この男は外の
ものに追いつくために静かに馬を走らせた。
 口迄水のなかにもぐり込んで居たテムジンは、この騎兵がソ
ルガン・シラー老人 Vieux sorgan Chira であること
がわかつた。この老人の子供達とは父ジェスガイのオルドウ(キ
ヤンプ)でよく遊んだのである。テムジンは周囲が静かになる
迄待ち、次で要慎しながら葦の間から出た。肩の高さに結いつ
けられた彼の両手は硬張り、彼の頸は「かせ」の重みで痛かつ
た。こんな情態で逃走することは不可能であつた。彼は草の上
に身をなげ、ころがつて着物の水を出した。そうして迂路を取
つてタルグウタイのキヤンプに這り込み、ソルガン・シラーの
天幕に入つて、羊毛の堆積の下に隠れた。

「大統率者 ジンギス汗の謎」34ページ

 首枷をつけた人間がオノン河を泳いで渡ることは不可能なこと、戦士たちは上流と下流に分れて河岸に沿って馬を走らせた。一人の戦士が岸辺に馬を止めて、注意深く河面を見つめ立ち去らない。鋭い戦士の眼は、投げ槍の射程内に繁る葦の中に何かを認めたようだった。他の戦士が遠ざかり、声の届かない距離に去ってから、
 「ああ、こんなことのために、お前を可愛がった筈ではなかったのだが……」
と言うと、戦士は他の者たちに追いつくために、静かに馬を進めた。
 口元まで水の中に潜っていたテムジンは、この戦士がソルガン・シラー老人(Vieux sorgan Chira)であることを知った。シラー老人の子供たちとは、は父イェスガイが存命中に父のオルドウでよく遊んだ。周囲が静かになるまで待ち、注意深く用心しながら葦の間から出た。肩の高さに縛られている両手は硬直し、首は「枷」の重みでひどく痛かった。この状態で逃走することは、まず不可能であった。テムジンは草の上に身を横たえ、衣服の水を出した。そして迂回路をとって、タルダウタイのキャンプに這り込み、シラー老人の天幕に入って羊毛の堆積の下に身を隠した。
 なんでテムジンは首枷をしたまま、河の中に隠れていたのか。そんな理由まで高校の世界史では扱わないだうし、そもそも少年少女時代なんか偉人伝でもなければ書かないよね。それでこの際、知っておこうと国会図書館のデジ本を検索しては斜め読みした結果、清水書院編集部編「新制学生の東洋歴史 新訂版」が、テムジンの即位までを短くまとめたよい本と私が認定した。その先も書いてあるが、きょうは不要。資料その7がその入り用分です。
資料その7
(2)成吉思汗の伝記
 蒙古民族は唐宋の頃から数部族に分かれている。
 ナイマン部(トルコ化した蒙古族)、キルギス部、ケレイト部、メルキツト部、オイラト部。タタル族及びモンゴル族等である。テムジンはモンゴル族の出身である。
 父はエスガイ・バートルといい、テムジン十二才の時に隣邦のタタル部の人に殺害せられた。遺児等の幼少なのにより部下の諸将は多く離叛してしまつた。
 賢母ホエルンはこの困難な境遇にありながら、きびしく諸子を教育し、他日の大発展の準備をなした。
 テムジンは先ず北隣のメルキツトを破り、ついで宿敵タタル部を討つて之を滅ぼした。かくてタイジヨウト、ケレイトを併せ、最後にナイマン部のダヤン・カンと決戦して勝ち、終に蒙古の諸部を一統した。(西紀一二〇六)
 オノン河の上源に一族の大集会を開いて皇帝の位につき、成吉思汗と称した。チンギス・ハンとは威勢の強大な君主という意味である。<略>
 こりゃ簡単すぎると思うだろうが、その辺の歴史書では人名と族名と地名がたんまり出てきて、絶対こんがらかってしまう。飯村本、浜中本と歴史書10冊以上を読んだ結論として、ジンパ学としては2回鍋または釜を使う事態が最重要だとわかったんです。
 さらに首枷事件の前後から、その最初の鍋釜問題までを、もう少し細かく説明するには、ルネ・グルッセ著、橘西路訳「ジンギス汗 世界の征服者」の年譜が最適とみたので、その一部を資料その8として、先に示した資料その7の伝記の行間を埋めておきます。
資料その8
  年譜
<略>
一一七六年 テムジンの婚約。数日後。父イェスゲイ、タタル人に毒殺される(『秘
      史』による算定。ラシードでは、テムジン十三歳の時)。
      これ以後約二十年間は、年代の解明に特に留意したラシードも正確には
      わからないことを認めている。以下、順だけを追う。
      ○テムジン一家、王族のタイチウト氏に追われる。一家の孤立、窮乏。母
      ホェルンの健闘。
      ○テムジンとカサル、異母兄を殺す。
      ○テムジン、タイチウト氏に捕われ、首枷をはめられる。脱走。家族のも
      とに帰る。
      ○馬泥棒の追跡。少年ボオルチュの助太刀。
      ○婚約者ブルテと結婚。
      ○ケレイト王トグリル(トオリル)の保護を求める。「黒い森」で父子の
      誓い。
      ○新妻ブルテをメルキト族に誘拐される。
      ○最初のメルキト征伐。ケレイト王と義兄弟ジャムカの兵を借りて、妻を
      奪い返す。
      ○ジャムカとの別れ。諸部族の分裂。
      ○王族に推され、モンゴル王、つまり汗に即位して、「チンギス・カン」
      の尊称を受ける。
      ○ジャムカと最初の戦い。
 イェスゲイに指揮されていた王族のタイチウト氏は、彼の死後、ころっと態度を変え、テムジン一家を移動集団から追い出した。置き去りにせず連れて行ってくれと哀願した下僕を結果として殺し、イェスゲイに捧げた言葉を思い出せというホエルンの叫びを無視して去った。
 それからすぐではなく何年かたってからと思うが、タイチウト氏の族長タルグタイ・キリルトゥク、飯村本では首長タルグウタイとなっている男ですが「勇士イェスゲイと強情な後家の倅どもが成人すれば、受けた辱しめをタイチウト氏の血であがなおうとすることは目に見えている。復讐されるのを待たずに、早いところ、雛の群れをそっくりつぶしてしまうにこしたことはない」(21)と、騎馬隊を率いてテムジン一家を襲った。
 応戦するホエルン一家にこっちが望むのはテムジンだけだと呼びかけたので、テムジンは森に逃げ込んだ。9日間隠れたが、野垂れ死にするより戦おうと森を出た途端、タイチウト氏に捕まってしまう。タルグタイ・キリルトゥクはテムジンを捕まえても、なぜかすぐ殺さなかった。
 テムジンを殺すより立派な戦士にして使おう、いや、殺すと自分のタイチュト族がテムジンの属するポルジギン族を敵に回すことになるから、この際、テムジンを人質にしておき、いずれテムジンを立てて従うことが自分のためになるとタルグウタイは考えた(22)とプラウディンは説明しているが、首枷をはめて各宿営地の家々に順番に預けるアイルというやり方を使って殺さなかった。
 そうした何日目かに夏祭りがあり、皆酔っ払ったとき、テムジンは首枷で番人を殴って逃げ、河の中に隠れていた―ということで資料その6につながり、シラーは現れたテムジンに羊肉を食べさせるなど助けてくれたのです。
 おっと、資料その8に出てきたラシードの説明を忘れるところだった。ラシードはラシード・ウッディーンという14世紀のイラン王朝の宰相、いうなれば首相でした。皇帝ガザン・ハンの命令でラシードはモンゴル民族史の編集を始めた(23)のです。資料その4のラシド・エツ・ヂンと書かれた御仁です。
 イランがなぜモンゴル民族の歴史の本を書くことにしたのか変だ、余計なことではないかと思うが、モンゴル人がペルシアにイスラム教徒として住みつくにつれてね、自分たちが何者で、どこから来たのかということを忘れてしまうおそれがあると思ったからだそうだが、ついでに―といっちゃあ解読に苦心している史学の人だちに叱られるかも知れないが、モンゴルだけでなく当時の主な民族、国家の歴史や地誌を加えた「歴史集成」を書き上げた(24)のです。
 それで専門家は「通史」と呼んでいる。つまり「ラシードでは」ということは、ラシードが書いた「通史」のモンゴル民族史によれば、ということです。
 さてと、プラウジン調べに戻します。とにかく学者か作家はわからないので、国会図書館をキーワード「成吉思汗」で検索し、出てきた567件を順に見て行ったら、古い順の213番目に「プラウディン著、浜中英田訳」の「成吉思汗、アジアの嵐」があった。運良く国会図書館ダジタルコレクションだった。
 浜中によると「ミヒャエル・プラウディンの著『成吉思汗、アジアの嵐』(Michaael Prawdin: Tschingis-Chan, der Sturm aus Asien: Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgalt)とある。さらに浜中は①伝記ではない②「原書の巻末に掲げられた夥しい参考書目によっても明」らかなようにドーソン本など同じように内容は的確③文体が美しい―の3点に於て「顕著な特色を有し、類書中に特異の位置を占むるがごとく思はれる。」(25)と高く評価している。そこでノンフィクションは承知の上で、人名地名漢字だらけみたいな学術書よりわかりやすいんだから、参考書として取り入れることにしました。
 それからプラウディンの本名は Michael Charol 、ロシア系ドイツ人(26)だそうで、それでドイツ語で書き、アンドレー・コニエットはその本をフランス語に訳したわけだし、飯村はそれを日本語に訳し、美山はさらにそれを添削したのですから、ドイツ語の本をすぐ日本語に訳した浜中の訳本とはは少なからぬ違いがあるはずですよね。
 京大の杉山正明教授は「モンゴルが世界史を覆す」に「チンギス・カンが、それなりに実像にちかい姿でとらえられるようになるのは、一二〇六年に高原を統合し、テムジンあらためチンギス・カンと称してのちのことである。つまり、政治上で文字どおり権力者になってからのことである。」(27)と書いています。さらに「日本史でいえば鎌倉時代のはじめころである。ところが、彼の生涯の多くは、ほとんど謎につつまれており」(28)生まれた年さえ定かでないことから、成吉思汗=源義経説が唱えられたりするわけです。
 資料その8に「婚約者ブルテと結婚」について稲村本はビュルテエまたはブルテと書いているが、花嫁はもちろん花婿も何歳だったかわかりません。ブルテの父ダイ・セッチェンはお祝いとしてテムジンの全財産より遙かに価値のある黒貂のマントを贈った。
 ともあれ、このころテムジンの周りにグループが出来ていたらしい。無警戒で宿営地にいたところメルキット族に襲撃されたのです。皆素早く馬に乗って逃げた。テムジンは黒貂のマントを持つなどして皆と共に逃げたのだが、お嬢様育ちのブルテは逃げ遅れて、さらわれてしまったのです。
 テムジンは助けを求めて、うんと離れた地域にいるケライト族の首長トグルウル汗に会いに行ったのです。トグルウルはイェスゲイとアンダの仲だったので、ブルテ取り返しの援助を頼み、黒貂のマントを捧げたというか贈った。贈答品の使い回しはこのころ既に行われていたんだね。ふっふっふ。
 案の定、その効果てきめん、テムジンはトグルウル汗の「心の子」と呼ばれることになり、大部隊をテムジンの支配下に入れてくれた。こうなると、首長タルダウタイを快く思っていなかった人々がテムジン側に戻ってきたし、アンダのジャムカも応援部隊を連れてやってきた。そしてブルテを取り戻し、襲撃にきたメルキト族の男300人は殺され、その妻たちは奴隷または妻用に連行されたとあります。これらは資料その8の「最初のメルキト征伐」という項までのことです。
 ここでトグルウルはイェスゲイとアンダの仲だったので、テムジンを助けたということからわかるようにアンダとは義兄弟、血のつながりはないけど兄弟として仲良くすると堅く約束した関係をいうのです。資料その8にある義兄弟ジャムカとテムジンは子供の頃一緒に遊びアンダの関係だったから、メルキト征伐に加わったのです。
 このころはこうした部族抗争に勝てば敵を殺すか奴隷にするほか、敵の財産は没収して戦闘員に分け与えるのが常識だった。それなのにテムジンはケライト族の取り分のほかに自分の取り分も進呈した。戦利品の分け方でのトラブル発生を避け、さっさとお帰りを願ったらしいのです。
 一方、これを機会にジャムカ、稲村本はジアムウガと書いているが、テムジンは子供時代のように彼と一緒に行動し始めたのです。それでいて、かつて捕虜にされたタイチウト族の領地に近寄らず用心しつつ、タイチウト族と接触する部族の人々との接触にものすごく気を使った。
 稲村本によれば「極端に鷹揚にふるまい、贈り物もご馳走も惜しまず、狩に招待しても獲物の分配も十分にやった。(訳注・敵の配下のこころをつかむ、巧妙な謀略である。毛沢東のやり方もこれに似ているところがある。)」(29)と書いてあります。稲村本のあちこちに、軍歴に基づくこうした見方や評価が入っていて、人生の参考になるよ。
 そうすることにより「テムジンは着ている着物でも脱いで我々に与え、乗っている馬から降りて、その馬を我々に贈り物としてくれる」と評判になり、タイチウト首脳部の横暴ぶりを嫌う部族がテムジン側に合体し、キャンプが大きくなっていった。
 テムジンとジャムカとは1年半一緒に行動したが、続かなかった。「テムジンのキャンプの中は、二派に分かれていた。テムジン派に属するものは、大部分が多数の馬や家畜を所有し、ジアムカ派のものは主として羊を有していた。両派の間では毎日摩擦軋轢があった。」(30)と稲村本にあります。
 ドーソン本は「二つの世界観が同一の幕営内で対立してゐた。鉄木真の心酔者は大部分多数の馬群と牛群とを所有し、札木哈の部下は主として閹羊と羊を有していた。日々に緊張と軋轢とがあつた。特に諤倫額格(オエレンエケ)孛兒特(ビルテ)と(母と妻と)が、礼儀作法を弁えぬ諳韃札木哈(アンダヂヤムガ)から速に分離するやうにと、鉄木真に迫るのであつた。」(31)と書いています。イギリスの歴史家ラルフ・フォックスは「ジャムカは羊どもを山峡の河ぞいに泊めようと望み、他方、馬を飼う方はもっと先までいって丘陵の草の生えた斜面に泊まろうと望んだ」(32)と書いたが、結局、婦唱夫随でテムジン派は夜通し移動してジャムカ派と分かれたのです。
 梅棹忠夫氏の記録に、羊が焚きつけに良い馬糞を食う話が書いてあるそうだし、テムジ派の牛糞をジャムカ派の羊飼いが燃料に持ち去るのはけしからんといったフン争が元じゃないのか―というのは冗談。モンゴルの歴史学者ナツァグドルジは自著「チンギス・ハーン」に、この離反について考察し、資料その9のように書いています。
資料その9
 テムジンとジャムハのいずれもが、ハマグ・モンゴルの貴族の中で、フトラ・ハーン以後ほぼ空位にあったハーンの座を望む者であった。テムジンが逆境にあったとき、ジャムハはケレイトのトグリル・ハンとともにテムジンを支援したが、彼の本意は別のところにあり、メルキトとの戦闘の後、ジャムハがテムジンから離れず牧地を共にし、自分の本拠地や民を放置して2年近くいたのは、テムジンを自分の片腕、僚友とし、彼の力を利用しようという密かな思惑があったのである。
 しかし、僚友どころかテムジンはハーンを望む者であることを、ジャムハはほどなく知った。テムジンはすぐに力をつけ、彼の名声が急速に広まっていくにつれジャムハの心は疼き、嫉妬と悪意が入り乱れ、幼なじみを倒す方策を探すようになった。
 一方テムジンも、手をこまねいているばかりではなかった。トクリル・ハンとジャムハの支援を後ろ盾に頭角を現したテムジンは、まずは、父親の支配下にあった民を自分の下に取り戻し、さらには、ハマグ・モンゴルのハーンの地位に登ろうと考えていた。しかし、彼のハーンへの道には、ジャムハが立ちはだかっていた。
 ナツァグドルジ氏は、テムジンはジャムハと漫然と行動を共にしたのでなく、ジャムハの支配下にかなりテムジン側の人間がいて、彼らを仲介として、自分の陣営に取り込む工作をうまく進めたらしい。それでテムジンが合図すれば、そうした部族はいつでもジャムハから離れる準備ができていたことを示している―と推察しています。
 この噂はすぐ広がり、あちこちの部族だけでなく、ジャムカ派からも転向した部族もあり、テムジンの部下は1万3000人になった。そこでテムジンは13の部隊に分けて隊形を変えたり、相手の中央を突破するなどゲームとして戦闘訓練を繰り返した。
 キャンプを移動させるときは、まず捜索兵を扇形に出して適当な場所を選び、それから前衛部隊が進み、続いて家畜や財産を積ん車両が進むといった実戦そのもののような移動を繰り返した。そしてあるとき捜索兵が武装したタイチウト族を見たと報告し、前衛が捕虜を連れてきて、かつてテムジンを捕らえたタルグウタイが全タイチウト族3万人を率いてテムジンの宿営地を襲撃しようとしていることを知った。
 プラウディンの著「成吉思汗、アジアの嵐」を訳した浜中本と飯村本は、タイチウトの首長タルグウタイがテムジンに決定的打撃を与えるために襲撃したとしているが、ほかの本、ドーソン本、「元朝秘史」を元にした本は、ジャムカの弟がテムジンの部下の馬を盗み、射殺されたのでジャムカか怒り、部族3万人で攻撃したとし、これを十三翼の戦いという言い方をしています。さらに対戦の結果、テムジンが勝ち、捕虜を処刑したとする本とジャムカが勝って捕虜を処刑したと分かれ、鍋か釜で煮殺したかどうかでまた違いが生じるが、それが私の言う最初の鍋釜問題なのです。
 ジンパ学ではあの中央が盛り上がったジンギスカン鍋は重要な研究対象だが、処刑に使ったのは五右衛門風呂みたいな大きな鍋か釜に違いないが、この際、白黒付けるみたいに鍋釜付けてやろうと調べてみました。まずプラウディン本を原書とする訳本3冊からです。
 美山本とは資料その5で示した表紙の本で、飯村本を読みやすくこなれた文章に書き直してますが、内容は変えていません。
資料その10
●浜中
 しかし、蒙古軍も亦重大な損害を被つた。鉄木真自らが、矢を頸部に受けて傷き、忠誠な者勒篾の死を冒しての奉公によつて、辛じて戦場から担はれてかへつた。
 意識を回復すると鉄木真は、塔兒忽台を首めしとして、七十人の首領を悉く処刑するやうに命じた。
 これは遊牧民の戦争にあつては珍しいことであつた。敵を捕虜すると、奴隷にするか、又は莫大な身代金をと取つて之を放免する。虐殺することは個人的な敵、支配権を争ふ競争者、及び謀反人に限られてゐた。即ち此の前代未聞の命令によつて鉄木真は七十人の首領に悉く、いはゞ也速該の息としての彼の正当の大権を窺ふ謀反人の極印を捺したのであつた。<略>
 波斯の歴史家は云ふ、鉄木真は泰赤烏惕の首領達を七十の鍋の中に生きながら煮たと。又露西亜の史書は、彼が塔兒忽台の頭蓋骨を銀を以て接合し、酒盃の用を弁ぜしめた、此の酒盃は後に、「成吉思汗の怒り」と云ふ名を冠らしめたと、記してゐる。

●飯村
蒙古軍の損害も甚大であつて、テムジン自身も首に敵の矢を受け、忠実なジエルメーが命をかけて彼を戦場外へ運び去つた。彼が正気にかえつた時、彼はタルグウタイを真先に、七十人のタイチウトの捕虜首長を殺せと命令した。
 これは遊牧民に取り若干習慣に反するものであつた。彼等は敵を捕虜にしても之を奴隷とするか又は沢山の身のしろ金をとつて釈放するかであつて、個人的な敵か、権力闘争の競争者か、謀反人の外は殺さなかつた。<略>ペルシヤの記録は、テムジンが彼の捕虜となつたタイチウトの首長達を煮え立つ釜の中に生きながら放り込ませたと主張し、又はロシアの史料は、彼はタイチウトの頭蓋骨を銀で覆い之を杯に利用し、この杯は後に「ジンギス汗の怒り」と呼ばれたとして居る。

●美山
蒙古軍の損害も甚大であり<略>テムジンが正気に戻った時、彼はタルダウタイを真先に、七十人のタイチュト捕虜の首長を殺せと命令した。
 この処置は遊牧民には少し習慣に反するものだった。敵の捕虜は奴隷にするか多額の身代金を取って釈放するのが習わしで、個人的な敵か権力争奪の競争相手、謀反人の他は殺さなかつた。<略>
 ペルシャの記録によると、テムジンは捕虜となったタイチュトの首長たちを、煮え立つ釜の中に生きながら放り込ませたと記されている。また、ロシアの史料では、テムジンはタイチュトの頭蓋骨を銀で覆い、杯に利用したとし、この杯はのちに「ジンギス汗の怒り」と呼ばれたとされている。
 ドーソンはどう書いたか、ドーモ気になったのでね、昭和11年の田中訳を見たら「この河畔に森林あり鉄木真は八十の鑊を並列して捕虜を烹たりと云ふ。」(33)と難しい字でね。精選版日本国語大辞典によると、鑊の訓読みはカマで、鼎の脚のないもの、浅く平たい鼎(34)というから鍋か。でも田中訳から32年後の「佐口訳では「この河畔に森があり、テムジンは残酷にもその捕虜を八〇の釜の中に入れ煮殺した。」(35)と釜でした。
 フランスの社会学者ジャン=ポール・ルーが書いた「チンギス・カンとモンゴル帝国」という本には、ぞっとする煮殺しの刑を描いた絵の写真が載っている。資料その11がそれで「捕虜をかまゆでにするモンゴル軍――多少は宣伝の意味合いがあったとしてもモンゴルの殺戮と破壊はすさまじいものであったことは間違いない。そこからありとあらゆる伝説が生まれたが,そのすべてが事実無根であったわけではない。ラシード・アッディーンが目撃した捕虜のかまゆで(左)もそのひとつである。恐怖政治のためなら,何でも許されたのである。」(36)と説明しています。手前の裸らしい男は熱湯に投げ込まれる順番待ちらしいが、突き出た足を見ているらしい彼の恐怖、心臓に悪いから想像しなさんな。
資料その11
 しかしだ、この処刑をしたのはジャムカだとする本もあります。「元朝秘史」を訳した那珂さんの「成吉思汗実録」は札木合ヂヤムカ言はく『斡難オナン哲咧捏ヂエレネノガれしめたり、我等』と云ひてカへる時、赤那思チノスの子ら(家の子一族)を七十の鍋に煮て、捏兀歹察合安兀洼ネウダイチヤカアンウワの頭を斬りて馬の尾にきて去りき。」(37)です。
 那珂さんは注として(堅都赤那は牡狼、烏魯克眞赤那は牝狼の義にして、赤那思は、狼なる赤那の複称なり。親征録の撰者は、修正秘史を訳するに当り、赤那思の姓氏なることを知らず「半途爲七十二竈、烹狼爲食」と訳せり)(38)と書いている。狼汁はともかく、竈では使ったのは鍋か釜かわからないよね。
 那珂さんの弟子である白鳥庫吉東大教授は自著「音訳蒙文元朝秘史 巻4」によると下記のように鍋で煮たことになっています。
資料その12
<略>成吉思被札木合推動。退著於幹難河哲列捏
地面狭處屯札了。札木合於是回去。将赤那思
地面有的大王毎。教七十鍋都煮了。又(砍)
断捏兀歹察合安的頭。馬尾上拖着去了。
 漢文は読めないけれど、これは苦労せずに見付けられたんです。それはね、那珂さんの「成吉思汗実録」では「巻の四」の4ページ目に捕虜の処刑が出てくるから、同じ「元朝秘史」だから、巻頭に近いところに書いてあるだろうとヤマを掛けたら5b、和綴本なら5丁裏、10ページ目にあった。気を良くして国会図書館にあった闕名撰という中国の作家らしい人物が書いた「元朝祕史10卷續2卷 [2]」を借り、同じように「巻四」を開いてみたら10ページ目、つまり5丁裏でしたね。ふっふっふ。
 しかも下記のように違いはたった1字。白鳥さんが、字を怪しんだか括弧でくくって「砍」とした字を闕さんは「斫」とした。この字は「斧で切る」意味ですから、戦闘用の斧を使ったのでしょうか。これを繁字体の中国語としてグーグルの翻訳に入れてみたら下記のように訳してくれた。成吉思と札木合をちゃんとチンギス、ジャムカと訳したところをみると、中英翻訳プログラムの辞書に2人の名前が登録されているんだね
資料その13
<略>成吉思被札木合推動。退著於幹難河哲列捏
地面狭處屯札了。札木合於是回去。将赤那思
地面有的大王毎。教七十鍋都煑了。又斫
断捏兀歹察合安的頭。馬尾上拖着去了。

【グーグル訳】
チンギスはジャムカに押された。 甘南川に退却し、ゼリーは地面を挟んで狭い場所に落ち着きました。 ジャムカは戻った。 中国の地にいるすべての王を連れて行ってください。 70個の鍋が沸騰しました。 彼はウー・エイ・チャ・ヘアンの頭を切り落とし、再びつまんだ。 ポニーテールを引きずりました。
 それより外交官だった新関欽哉氏の欧州土産としてもらったと稲村元中将がいう「アンドレーコニエット」の本をどうやって見付けるか―です。私はフランス語を習ったことがなく宮中の諸宴会のメニューでさえお手上げしたくらいだけど、何が何でも探さにゃならんと、まずカタカナでアンドレーコニエットとジンギスカンをグーグルで仏訳させた。この2単語を並べてググッたら、運良く「Genghis Khan: Michaël Prawdin [Pseud.]. Trad. par André Cogniet. [Oschingis Chan] 」と文字列があったんだなあ。1951年に Payot という出版社が出した232ページの本らしい。
 そこで国会図書館にあるかなと検索したらね、1冊あるんだが、残念ながら京都の関西館所蔵。でも同時に日仏会館に1冊あると出た。日仏会館とはと検索したら、日仏の文化交流を目的としており、渋谷区恵比寿にある同会館図書室で拝見できるとわかりました。
 すぐ私はフランス語はわからないが、この本にジンギスカンが捕虜を釜か鍋で煮殺したことを書いてあるはずだから、それを書き写してグーグルなど訳し、機械訳だがと講義で話すため、しかるべき箇所を見せてほしいとメールでお願いしました。
 司書の方のご配慮により該当ページのその箇所を示してもらえることになり、私は日仏会館の図書室で極めて正確に書き写したはずだったが、ド素人の悲しさ。書き写し文とそのグーグル訳とDeepL訳を添えたお礼メールを送ったら、これこれが抜けていると教えて下さったので、その通り修正したけど、まだバグなしの自信はないんだ。
 資料その14は、アンドレーコニエット本の処刑の記述と、そのグーグルとDeepLの翻訳文です。
資料その14
Les chroniqueurs perses pretendent qu'il fit jeter vivants danssoixante-dix
chaudières d'eau bouillante les chefs Taetchoutesqu'il avait captures; une source russe dit qu'il ordonna d'enchasser dans de l’argent le crâne de Targoutaï et qu’il l’utilisa comme coupe à boire, et que cette coupe prit plus tard le nom de « La colère de Genghis Kahn ».

【グーグル訳】
ペルシアの年代記者らは、彼が捕らえたテチョーテスの族長たちを70個の沸騰した湯の大釜に生きたまま投げ込んだと主張している。 ロシアの情報筋によると、タルグタイの頭蓋骨を銀で包み、それをコップとして使用するよう注文し、このコップは後に「チンギス・カーンの怒り」という名前になったという。

【DeepL訳】
ペルシャの年代記記者によれば、彼は捕らえたテチュウト族の首長たちを生きたまま70の煮えたぎる釜に投げ込ませたという。
捕らえたテチュウト族の首長たちを煮えたぎる湯に投げ入れたとするロシアの資料
ロシアの資料によれば、彼はタルグタイの頭蓋骨を銀で包むように命じ、それを酒杯として使ったという。
 聞くところによると、地獄の釜は Chaudière だそうだし、メニュー読みに使った「フランス料理仏和辞典」によると、汽缶、ボイラー、古語では大鍋<(39)とあるので、稲村・美山の釜と判定したが、プラウディンはドイツ語で書いたのですから、安心できません。
 一方、コニエット本の本家本元のプラウディンが書いた本の題名は、田中訳「蒙古史」のトップに「Michael Prawdin : Tschingis-Chan, der Sturm aus Asien」とあるから、それで検索したら京大と東北大ほか2カ所にあるとわかった。私もその昔、第2外国語にドイツ語を選択し、お情けの可だったとはいえ、所定の単位は頂いての文学部卒なんだから、きれいさっぱり忘れているけれど、無謀にも原書を買い勉強かたがた釜か鍋か確かめることにしたのです。
 ドイツのアマゾンを見たら古本が最安6ユーロ、買おうとしたら英語で住所などを細かく聞かれ、それに対しての私の答え方がまずかっか結果として買えなかった。クレジットカードに問題があるのかイギリスの古本屋にも拒否されたので、大阪の洋書輸入商社に頼み、かなり待ちされたが、表紙裏に Frank Fischer 1983 という前の持ち主らしい名前入りの青いクロース装幀の古本を7300円で手に入れたのです。
 読み解く準備として、使っていると思うる単語をグーグルで用意した。兵士は Soldat、捕虜は Kriegsgefangener、鍋は Topf、釜は Kessel、と覚えて、浜中本の区切りと同じと想定し、これらの単語を探した。ところが、この本は全文亀の子文字で大文字のEとGとSがまぎらわしいし、小文字のfとs、iとj、 kとlが似ていて虫眼鏡で見ないと判定できん。
 その昔、ドイツ語の教科書は赤い亀の子文字2行の白い表紙と覚えて買ったら、そっくりだけど別のクラス用だった。それで苦労させられたせいで亀の子がトラウマなんだが、そんなこといっている場合じゃない。
 それやこれや浜中訳の該当箇所を探すことすら難しかったが、粘って「13000 gegen 30000!... 」を含むページを見付けた。gegen は「に対して」だから、これは浜中本の塔児忽台タルグダイは乾坤一擲の決戦を挑むに足る勢力を回復してゐた。先づ泰赤烏タイチウ人を悉く召集した。又鉄本真との戦争が豊富な獲物を約束したが故に、若干の隣接部族をも誘ふことに成功した。かくて三萬の兵士を麾下に集め得た。 一萬三千対三萬!」(40)という訳文に対応する、つまり gegen する箇所だよね。そこから、さらに念入りに文字列を見ていったら、2ページ後ろの43ページに資料その7の捕虜煮殺しの記述があったのです。2行目の先頭、釜の kessel の複数形 kesseln があり、その直前の siebzig は70だからね、ふっふっふ。
資料その15
Verfifche Chronisten bebaupten, daβ er die Tai-Tschuten-Häuptlinge in siebzig Kesseln bei lebendigem Leibe kochen lieβ, eine russische Quelle gibt an,

【グーグル訳】
検証済みの年代記記者らは、彼がタイチュト族の族長たちを生きたまま70個の大釜で煮たと主張しており、ロシアの情報筋はこう述べている。

【DeepL訳】
タイ・シュートの酋長たちを生きたまま70の釜で茹でさせたという年代記の記録者もいるし、ロシアの資料にはこう記かれている、

【浜中訳】
波斯の歴史家は云ふ、鉄木真テムジン泰赤烏惕タイチウトの首領達を七十の鍋の中に生きながら煮たと。又露西亜の史書は、<略>
 ChatGPTと会話したとき、同じ独文を訳させたら「史料研究者たちは、彼(ジンギスカン)がタイ・チュート族の首長たちを生きたまま七十つの釜で煮たと主張しています。また、あるロシアの情報源によれば」と訳した。それで「DeepL と同じような訳文で、あなたはガクがありますね。」と入れたら「申し訳ありませんが、私はDeepLと同じような翻訳エンジンとは異なります。私はOpenAIのChatGPTと呼ばれる大規模な言語モデルです。自然言語理解や生成に関する能力を持っていますが、翻訳においては完全な翻訳専門のツールではありません。」と書き、さらに「私の翻訳能力は、機械翻訳エンジンよりも一般的な文章理解や文法的な応答に特化しています。短い文やフレーズの翻訳には対応できますが、特に専門的な文脈や複雑な表現については、正確性や適切性に制約があることをご了承ください。」とつけ加えたのには感心しました。
 はい、フランス語、ドイツ語ときたからには必修の英語は欠かせない。そう思って私は仏語本が届くまでの間にアマゾンでラルフ・フォックス著の「Genghis Khan」を買い、グーグル訳とDeepL訳を試していたのです。届いたのはインドのデリーにある LG Publishers Distributors で印刷された本で、ジンギスカンの銅像の写真を載せたカバーの表の折り返しにジンギスカンの略歴、裏側の折り返しに「Ralph Winston Fox (1900-19368) was a jounalist, novelist, and historian.」とあります。
 ラルフ・フォックスはオックスフォード大でフランス語と中国語を学び、在学中に共産党員になり、ロシアや中国で活動した。英国に戻って英国共産党中央委員となり文学活動をした。昭和11年12月スペイン内戦の共和党側で戦うためスペインに赴き、戦死したときは36歳だったそうてす。
 資料その16が原本のジャムカによる捕虜虐殺の箇所とグーグル訳とDeepL訳です。原文が釜とも鍋とも書いていないのですから用具判別は無理でした。
資料その16
【原文】
Jamuga, bitter at his brother's death, called together his men
and rode over the hills to settle accounts with Chingis. In this first
clash he was victorious, and drove Chingis to take shelter in the
valley of the Onon. Riding home from the fight he seized seventy
nobles, followers of Chingis, and took a frightful revenge for the
injuries he had suffered, boiling them alive.

【グーグル訳】
ジャムガは兄の死を悲しんで部下を招集した
そして馬で丘を越えてチンギスと清算をした。 まずこれで
この衝突では彼が勝利し、チンギスを車で避難させた。
オノン渓谷。 戦いから家に帰る途中、彼は70歳を手に入れた
チンギスの信奉者である貴族たちは、恐ろしい復讐をとった。
彼が負った傷は生きたまま茹でた。

【DeepL訳】
ジャムガは弟の死を恨み、部下を招集した。
チンギスとの決着をつけるため、丘の上に乗り込んだ。この最初の
この最初の衝突でジャムガは勝利し、チンギスをオノンの谷に避難させた。
オノンの谷に避難させた。戦いの帰途、彼はチンギスの従者である70人の貴族を
捕らえた。
チンギスの従者であった70人の貴族を捕らえ、ひどい仕返しをした。
生きたまま茹でた。
 ラルフ・フォックスの「ジンギスカン」の訳本が2冊あるので、それを紹介しましょう。主にポーランド文学の翻訳と紹介に務めた立正大学教授の加藤朝鳥と英文学者の東大教授の由良君美です。資料その15がそれぞれの訳文です。原文は鍋とも釜とも書いていないののだから、由良の「釜ゆで」は意訳ということになるんでしょうね。翻訳ソフト訳とは大違いで、誰が読んでもわかるちゃんとした和文になってます。
資料その17
【加藤訳】
 弟を殺されて忿怒に煮へくりかへつたジヤムガは即座に部下を召集し、山岳を越へて鉄木真迫つて一挙事を決せむとした。此の第一回の衝突において彼は勝利を得、鉄木真はのがれてオノン河の渓谷に身を匿さねばならなかつた。ジヤムガは鉄木真の部下だつた七十名の貴族を生擒つて凱歌をあげて帰り、それ等を生きながら煮殺し、かつて受けた怨恨に対し素晴らしくも獰猛な報復をやつた。

【由良訳】
 弟の死を聞いて怒り狂ったジャムカは部下を召集し、山々を駆けてジンギスにたいし、恨みを晴らそうとした。最初の遭遇戦でジャムカは勝ち、ジンギスを駆逐してオノン峡谷に隠れさせた。戦いから凱旋すると、七十名にのぼるジンギスの諸侯や輩下のものを捕縛し、自分の嘗めた損害のために怖るべき復讐を行い、彼らを生きながら釜ゆでにした。
 資料その12の前提として浜中訳で「かくて三万の兵士を麾下に集め得た。 一万三千対三万!」としか言わなかったが、この戦いはテムジン軍が13の小部隊による1万3000人で、同じく13部隊3万人のジャムカ軍に対抗したことから「十三翼の戦い」とも呼ばれています。
 多勢に無勢、ジャムカが勝ち、資料その10の説明のように、こうした際の捕虜は身代金を取って釈放する慣例を無視して惨殺したことにより「この身の毛もよだつ行いの噂は、これまでこの二人の指導者のいずれにつくべきか決心がつかなかった連中を踏み切らせてしまうことになった。ジンギスは戦闘には破れたものの、ジャムカは高貴な血統にあるまじき者になってしまった。ひとりまたひとりと、彼らは馬にのってジンギスの陣営に入り、ジンギスの部下たることを誓うことになった。」(41)(由良訳)のです。
 フォックスはジャムカが煮殺しに使ったのは鍋とも釜とも書いていないが、本を探しているときは鍋とした学者、翻訳者が多い感じで、ジンギスカン鍋の始まりは―という悪いジョークのネタになることを懸念したけど、まとめてみたら鍋釜大差なかったので、安堵したね。新バージョンのルールとしては出典は右側の参考文献の方に書くべきなのですが、本の冊数が多いので捕虜の処刑問題だけは引用箇所と一緒にしました。
 《5》の<註>は「遊牧民の戦いに戦闘員と非戦闘員の区別はない。一部族が戦場に赴く場合には、全家族を挙げて出動し、老人や女子供等も戦場附近に宿営することになるからである。戦いに勝てば敵の戦闘員を殆どすべて殺戮し、その家族と家財一切を奪ってしまう。女は妻妾や召使いとし、子供を使役に供する。それは残忍なようではあるが、遊牧民が草原という特殊な環境に置かれていたことや、かれらの戦いが徹底的な全体戦争であった点から見て、やむをえない手段であった。」(42)です。
資料その18
《1》
台察兒(/タイチヤル)は、拙赤荅兒馬刺(/ヂユチダルマラ)馬羣(バグン)を盗みて率て去りき。 拙赤荅兒馬刺は<略>台察兒の脊梁(セボネ)を折るべく射て殺すと、馬羣を率ゐて来ぬ。
「弟台察兒を殺されたり」とて、札木合(/ヂヤムハ)が頭となれる札荅囒(/ヂヤダラン)は、十三部伴なひて、三万人となりて、阿刺兀兀惕(/アラウウキ)(明訳文は阿刺兀惕)、土兒合兀惕(/トルカウキ)(二山の名。親征録 阿刺烏 禿刺烏二山)に依り越えて成吉思合罕(チンギスカガン)の処へ出馬して来ぬとて、亦乞咧思(イキレス)より木勒却脱塔黒(/ムルケトタク)(親征録 慕哥、元史孛禿の伝 磨里禿禿)孛囉勒歹(/ボロルダイ)(親征録 卜欒台、孛禿の伝 波欒歹)二人、成吉思合罕は、古咧勒古(/グレルグ)に居る処に報告を送り来ぬ。この報告を知ると、成吉思合罕は、- 十三団ありき。(団は、蒙語古哩延、その複称古哩額惕なり。親征録に十三翼と訳したるは支那風に書きたるなり。)- 亦三万人となりて、札木合の迎へに出馬して、荅闌巴勒主惕(/ダランバルヂユト)(親征録元史 荅闌f版朱思之野)に立ち合ひ(対戦し)て、成吉思合罕は、札木合にそこに動かされ(敗られ)て、幹難(/オナン)哲咧捏合卜赤孩(/ヂエレネカブチカイ)(哲咧捏の隘処)に遁れたり。札木合言はく「幹難の哲咧捏ヂエレネ)に遁れしめたり、我等」と云ひて(カへ)る時、赤那思(/チノス)の子ら(家の子一族)を七十の鍋に煮て、捏兀歹察合安兀洼(/ネウダイチヤカアンウワ)の頭を斬りて、馬の尾に(/)きて去りき。

《2》
 「テムヂン」乃チ兵一万三千ヲ率キテ到リ「タルグタイ」ト「ジヤムカ」ヲ「ダランダルジユト」(Dalandaijut)ニ迎ヘ戦ヒ機敏ナル活動ニヨリテ大ニ之ヲ破ル。之レ彼レカ最初ノ勝利ニシテ実ニ重大ナル結果ヲ来シタルモノトス。  「タルグタイ」ト「ジヤムカ」大敗シテ退キ、士卒或ハ死傷シ、或ハ逃亡シ、残レルハ擒トナリヌ。此大戦終リタル後「テムヂン」ハ軍ヲ率キテ戦地附近ノ森林ニ入リ、其処ニ捕虜ヲ配列シ、其重立チタル者ニ対スル刑罰ヲ議シ、己レノ父「エスガイ」ヲ毒殺シテ其部下ヲ誘拐シ、己レノ最モ怨メル敵「タルグタイ」ト力ヲ合セテ己レヲ攻メタル者等ヲ七十個(或ハ云フ八十個)ノ大鍋ノ中ニ生キナカラ煮テ之ヲ殺ス。

《3》
ヂヤムガの弟〔タイチヤル Taichar〕が、チンギス・ハンの一従臣〔サガリの原 Sagari-eher に住むヂユチ・ダルマラ Juchi-Darumala〕の所有である馬群を盗み率ゐ去つたのである。被害者は掠奪者を追求して、これを殺害し、盗まれた馬群を率ゐ戻つた。之を聞くやヂヤムガは部衆を集め、チンギス・ハンを攻撃し、後者も又進んで会戦したが、敗れてオノン河に退却を余儀なくされた〔有名な十三翼の戦、聖武親征録では諱みて札木合敗走すと記している〕。ヂヤムガは追撃せずして自分の掌中に陥つた数名の貴族〔ヂノス Chinos の家の子等〕に野蛮な復讐〔七十の鍋に煮殺したことを指す〕をした。これは育ちに結果を生んだ。部衆を挙げてチヤムガを離れ、チンギス・ハンに帰附した貴族的氏族が若干生じたのである。

《4》
 「弟のタイチヤルが殺された。」
といふのでヂヤムカを初めヂヤダラン氏族の十三部が味方となり三万の軍勢を率ゐ、アラググト山、トルカグト山を越えて、チンギス・ハガンの処へ出征して来ると、イキレス氏族からはムルケ・トタクとボロルタイの二人が、チンバス・ハガンがグレルグにゐるとき報告して来た。この報告を知るやチンギス・ハガンは十三の屯営〔十三翼〕があつたが、また三万の軍勢を起して、ヂヤムカの邀撃に出陣しダラン・バルヂュトの野に対戦したが、ヂヤムカのために、この地で敗れて、オノン河のヂエレネといふ狭間に遁走した。ヂヤムカは、
 「我が軍はチンギスをオノン河のヂエレネに敗走せしめた。」
と言つて、部下を班すに臨み、チナス(地名)の一族を七十の鍋で煮て、ネグタイ・チヤカガン、ウガの頭を斬り、馬の尾につけ之を引いて立去つた。

《5》
薄暮の頃、蒙古人の勝利は確定した。六千人余の泰赤烏惕タイチウトは斬り殺され、隊長の七十人は捕虜となつた。
 しかし、蒙古軍も亦重大な損害を被つた。鉄木真自らが矢を頸部に受けて傷き、忠誠な者勒篾ヂエルメの死を冒しての奉公によつて、辛じて戦場から担はれてかへつた。
 意識を回復すると鉄木真は、塔児忽台タルグタイを首めとして、七十人の首領を悉く処刑するやうに命じた。
 これは遊牧民の戦争にあつては珍しいことであつた。敵を捕虜にすると、奴隷にするか、又は莫大な身代金を取つて之を放免する。虐殺することは個人的な敵、支配権を争ふ競争者、及び謀反人に限られてゐた。即ち此の前代未聞の命令によつて鉄木真は七十人の首領に悉く、いはヾ也速該イエスガイの息としての彼の正当の大権を窺ふ謀反人の極印を捺したのであつた。而して彼は、直ちに全従者を引具して、幹難オノンの下流(塔児忽台タルグタイの旧領)に向つ進発し、且己の大権を重ねて四方に宣明した。
 波斯の歴史家は云ふ、鉄木真は泰赤烏惕タイチウトの首領達を七十の鍋の中に生きながら煮たと。

《6》
テムヂンは、戦場から追はれまして、オナンのヂェレネの隘処といふところに遁れた。ヂャムカは――
『わが軍はテムヂンをオナンのヂェレネまで追い勝つたぞ』
といつて、軍を返すことになつたが、その途中捕へた第十三団のチノ氏の後たるネウダイ人を七十の鍋で煮るといふ乱暴をなした上、団将チャカアン・ウワの首を斬つて、それを自分の馬の尾につけて曳いて去つた。戦勝を大きく見せたい心からやつたことではあらうが、これは戦敗者に対するあまりな侮辱であり残虐でありました。

《7》
 ジャムカの敵対行動の開始を聞き知ったテムジンは、早速麾下の諸族に命じて、各民族ごとに兵団を編成させ、みずから精鋭の近衛軍を中心に隊伍を整えた。その総勢はジャムカの軍に対抗して、やはり三万、十三兵団から成る兵力であった。両軍の主力はタランバルジュスの平原に対陣した。しかし戦術はさすがに老練のジャムカが強く、テムジン・チンギス汗の軍は一敗地にまみれて近くの山隘に身をひそめた。しかしながら勝利を占めたジャムカに、情勢は必ずしも有利に展開しなかった。彼がチンギス汗側に味方したチノス族を捕えて煮殺した事から、ジャムカに従っていた多くのモンゴル諸族は、ジャムカのこうした乱暴な態度に愛想をつかしてジャムカのもとを去り、かえって敗れたチンギス汗のもとに赴くようになったからである。こうしてジャムカがあせればあせるほど、チンギス汗の勢力は増大して行くばかりであった。

《8》
鉄木真の初期の軍事同盟は一頭の馬を屠り流水を掬して飲むという簡素な儀式によってかためられた。鉄木真は人生の甘苦を共に分つことを部下一統と誓った。そこで彼は自分のあらゆる馬や衣服のことごとく部下に分配してしまっても、部下らの謝意と自分自身の希望とのうちに富裕を感じた。彼は第一次の戦勝後七十の大釜を火にかけて煮立て、それに最も不逞な七十人の逆徒を投げこませた。驕慢者と滅亡と聡明者の帰服によって彼の注目の分野は漸次拡大した。

《9》
 やがてその時がきた。ジャムカの弟タイチャルがテムジンの配下のジュチダルマラの馬群を盗み、かえってジュチダルマラのために殺された。ジャムカは弟の復讐を口実に、属下十三部落の民三万を以てテムジンを攻めた。テムジンもおなじく三万の民を十三団に分けて、これをダランバルジュトの野に迎え討った。
 この十三団の戦闘は、ジャムカの戦利におわった。テムジンは敗れて兵をオノン河のジェレネの隘所に退いた。勝ちほこったジャムカは、捕えたテムジン属下の者を七十の鍋を以て煮、部将の首を馬の尾に結えて引きずり帰った。ところが、その残忍な行為はかえってジャムかの部将たちの反感をさそい、多数の部将がその配下をひきされてジャムカを離れ、テムジンのもとに帰属した。そのため、敗れたテムジンはかえってこの戦闘によって勢力を増大したのである。

《10》
 弟のタイチャルが殺された、といってジャムハはジャダラン族の十三翼、三万人を率い、アラウウト山とトルカウト山を越え、ヂンギス=ハンを目ざして兵を進めた。
 これをムルケ=トクタ、ボロルダイの二人がチンギス=ハンに報告した。この知らせによりチンギスは同じく十三翼、三万人を率い、ダラン=バルジュトの野にジャムハを迎え撃った 。しかし、チンギス=ハンはジャムハに敗れてオノン河のジェレネ=カプチカイに逃れた。
 ジャムハは兵を引き揚げて行く途中、チノス氏の一族を七十個の鉄鍋で煮殺し、ネウダイ=チャカアンとウワの首を切り落としてウマの尻尾に繋いで引いて行った。<註>

《11》
ジャムハが捕虜としたチンギス方のチノス族全員を七十個の鉄鍋で煮て殺し、ネウダイ=チャアン・ウフ(もとジャムハの部下でチンギス・ハン側についた人)の首を切り落とし、馬の尻尾につないで引いて帰った。

《12》
ジャムカは〔勝ち誇って〕申すよう。
「〔テムジンの奴をば〕オナン〔河〕のジェレネに敗走させたぞ、われらは」
と言って帰る途中、〔彼は自己の陣営から背き去った〕狼族の御子たちを七十の鍋で煮て、ネウス〔族〕の〔長〕チャカアン・ウアの頭を断ち切って、馬の尾で引きずり去ったのであった。

《13》
ラシードによれば、成吉思汗軍の太陽のような輝きのために敵兵は蒸発して空中に消え失せた。そして汗は七〇個の鍋を火にかけて捕虜を煮殺したという。一方、『元朝秘史』によれば結果は逆で、成吉思汗は敗れて逃げ、ジャムカは汗の兵を捕えて七〇の鍋で煮たとある。おそらく『秘史』の記事が真相で、ラシードは成吉思汗の敗戦を諱避したのであろう。

《14》
弟の死を聞いて怒り狂ったジャムカは部下を召集し、山々を駆けてジンギスにたいし、恨みを晴らそうとした。最初の遭遇戦でジャムカは勝ち、ジンギスを駆逐してオノン峡谷に隠れさせた。戦いから凱旋すると、七十名にのぼるジンギスの諸侯や輩下のものを捕縛し、自分の嘗めた損害のために怖るべき復讐を行い、彼らを生きながら釜ゆでにした。

《15》
ジャムハはチンギス・ハーンを追撃することをせず軍を返したが、その際、捕虜のチノス族の郎党七〇人を鍋で煮て殺し、またネグス族(ネウス族)の長の首を切り、これを馬の尾につけて去った。

《16》
オノン河のヂェレネに(チンギス合罕を)追い込んだ 我等は
と云って、帰るさ、チノス族の王子達を七十の鍋で煮殺して、ネウス族のチャガアン・グアの頭 を切りとって、馬の尾でひきずって行った。
 次いで多いのは釜。鑊、鼎は釜の仲間として資料その17に加えました。鑊は「現代漢語例解辞典」によれば「肉を煮るために用いる足のないかなえの意」とあるからです。
 脱線だが、明治の昔、札幌農学校などでは入学試験に漢文があった。明治41年の「最新問答全書」にね「湯鑊之誅の出処はいかゞ」という質問の答えとして「史記苑睢伝に賈有湯鑊之罪。云云とこれは釜にて烹らるゝ刑のことをいふなり」というのがあったんだなあ。だからね、刑罰専用の大型鑊もあったのかも知れません。
 ところが、この答えの苑睢伝という苑の字は范睢伝が正しいらしいとくるからややこしい。念のために、ある生成AIに尋ねたら、ここぞとばかりたっぷり答えたのには恐れ入ったね。
資料その17
《1》
帖木真の軍、寡と雖も、而かも大に衆に勝つ。こゝに於て、兀魯特・布魯特の二族、来り服す。戦地に近く河あり、林木多し。帖木真、令して七十の鑊を以て、俘虜を烹る。泰亦赤兀等の族、すでに敗れ、避けて林中に之いて散居す。

《2》
その後鉄木真は首尾克く某々の氏族を制令の下に糾合するを得て泰亦赤兀氏に対して戦勝を博し始めて利運を収むるに至れり。敵騎三万入寇し来れりとの報に接するや直ちに部下の兵を巴勒渚納 Baldjouna 河の平野に召集せり、河はインゴダ河に注げる細流なり。その兵僅に一万三千人に過ぎざりしも進んで泰亦赤兀氏を攻めて之を破れり。このこの河畔に森林あり鉄木真は八十の鑊を並列して捕虜を烹たりと云ふ。この成功を得たるの結果として多数の小部族は翻て鉄木真の旗下に走れり。

《3》
 彼は非常な窮地に置かれ乍らも自分の運命を自ら拓く努力をやめなかつた。そして先づ幾つかの氏族を麾下に糾合することが出来た。そして三万のな泰亦赤兀騎兵が入寇せりとの報を受くるや、即座に兵を巴勒渚納河畔に集結し、敵の半ばに足らぬ兵力を以て見事にこれを撃破し、河畔にある森林に八十鑊――釜を並べて捕虜を烹殺したと伝へられる。この大捷の後、 多くの少数部族が再び彼に従つた。

《4》
兎角する中に、不運なる青年酋長鉄木真テムチンツグ(蒙古の汗の旌旗)を押し立てゝ、捲土重来すべき時が至つた。即ち、彼は苦節幾年の後、漸く己が傘下に帰参せしめ得たる若干の部族を統率して、敢然、忽兒勒台タルグタイの指揮する泰亦赤兀タイチユト部以下諸部族聯合の大軍に馳せ向ひ、巴兒渚納河バルチユト河(幹難オノン河北方の高厚にある巴兒渚納バルジユト湖より流れ出づる小河、即ち土拉ツラ河の源流)の畔りに於て、苦戦の後、大いにこれを破り、怨み重なる敵族の捕虜数千を、河畔の森林中に拉致し、そこに並べた数十個の大鼎おおかなへで、一斉に煮殺したのであつた。

《5》
鉄木真の初期の軍事同盟は一頭の馬を屠り流水を掬して飲むという簡素な儀式によってかためられた。鉄木真は人生の甘苦を共に分つことを部下一統と誓った。そこで彼は自分のあらゆる馬や衣服のことごとく部下に分配してしまっても、部下らの謝意と自分自身の希望とのうちに富裕を感じた。彼は第一次の戦勝後七十の大釜を火にかけて煮立て、それに最も不逞な七十人の逆徒を投げこませた。驕慢者と滅亡と聡明者の帰服によって彼の注目の分野は漸次拡大した。

《6》
最後にテムジンの頭上に勝利が輝いたとき、彼は敵の有力者を駆り集め、七〇個の鉄釜を並べて煮殺したという。

《7》
ジャムカは深追いを手びかえたが、生けどりにした者、ネウド族やチノス族ののおもな者に野蛮な復讐を加えた。彼は宿営地に引きあげる前に、中国の戦国時代に行なわれた刑罰にあやかって、めぼしい捕虜の七十人を七十の大釜で「煮殺した」。

《8》
その軍勢はわずかに一万三千に過ぎなかったけれども、かれはタイチウト氏族を待って、これを破った。この河畔に森があり、テムジンは残酷にもその捕虜の捕虜を八〇の釜の中に入れて煮殺した。

《9》
『秘史』に語られている話が比較的本当らしいとするならば、ジャムカは戦場の勝者であるに止まり、一方テムジンは、うまく退却することができたのである。覇者ジャムカは、追撃することはあえてしないで、捕虜にしたチノス――《狼》――部族の有力者にたいし、残酷な復讐をした。捕虜ののうち七〇人が、七〇の釜で《ゆでられた》という。

《10》
彼らが自分に刃向かって軍を再編成するのを防ぐために、ジャムカは草原の歴史上もっとも残酷な復讐劇を演じた。まず捕虜にした指揮官の首を切り落とし、それを馬の尻尾に結びつけた。血を流したことと、体のなかでもっとも神聖な部分である頭部に不名誉を加えたことは、死者の魂に対する冒涜(ぼうとく)だった。加えて、その頭部を馬のもっとも汚らわしい部分に結びつけるにいたっては、死者の全家系を辱(はずかし)めることになる。
 伝えられるところでは、それについでジャムカは、捕虜の若者七十人を生きたまま大釜でゆでたという。それは彼らの魂を滅ぼし、その存在を完全に消滅させる処刑方法だった。
 捕虜の処刑方法に触れない、または鍋説と釜説両方を示した論文もあるので、それらを資料その18にまとめました。
資料その18
《1》
三日三晩に渉る戦闘の後、遂にテムチンの率ゆる軍の一翼は破られた。彼は速やかに彼の全軍をまとめはました、が、かくて彼は彼の六十年に余る長き生涯に於て、殆んど唯一つの敗戦の歴史を残して、オナン河畔のヂユレネといふ狭隘の地に退かなければならなかつた。チユムカは直ちに之を追撃したが、ヂユレネの要害を見て、彼は若干の戦利品と二千の耳とを得る事によつて、一と先づその戦を切り上げて帰るよりなかつた。――一寸附け加へておくべきは、かのイワノブキは此の戦に於て、流矢に当つて死んだという事である。

《2》
札木哈は一先づ鬱憤を晴して更に成吉思汗を追撃しようともせず、たヾ自軍の掌中に陥つた成吉思汗の部族のもの七十人を煮殺したに過ぎなかつた。而も此野蛮な復讐は却つて札木哈に不幸な運命しか齎らさなかった。<略>

《3》
戦闘は夜まで続いたが、結局、鉄木真の決定的勝利を以て終つた。五千乃至六千にも及ぶ敵兵の屍体が戦の野を蔽ひ、若干名の隊長と七十八名の兵が捕虜になつた。捕虜は敵に対するデモから直ちに死刑にせられた。

《4》
禍福はあざなふ縄の如くである。一時おさまつてゐたチヤムカとの葛藤が公然たる闘争に転化する時がきた。チヤムカの弟がテムヂンの部臣より馬を盗み、おはれて所有者のために殺された事件があつた、チヤムカは部衆を伴ひ、敵手に兵をすゝめ、これを破つてケルレン河よりオノン河に追ひ、これとその後援者ケレイト王罕とを離隔せんとした。然るにチヤムカは捕虜に対して残忍を極めたので、部将の内に憤激してテムヂンの許に来帰するものが生じた。

《5》
当時、蒙古諸部中最も有勢になつた泰亦赤兀タイヂコト氏を中心として、札只刺特ヂヤジエラト氏其の他の諸氏族が結合し、乞顔(キヤン)氏はいたく圧迫されたので、鉄木真は自ら一万八千の軍を率ゐて、之を打ち、インゴダ河畔に於て敵兵三万を撃滅しました。捕虜は生きながら熱湯に投じられたと言はれるが、未来の成吉思汗は既に此の時からその隣敵に対して蒙古の律法『ヤサク』主義、組織的威嚇を実行し始めたのであります。

《6》
 ジャムカの敵対行動の開始を聞き知ったテムジンは、早速麾下の諸族に命じて、各民族ごとに兵団を編成させ、みずから精鋭の近衛軍を中心に隊伍を整えた。その総勢はジャムカの軍に対抗して、やはり三万、十三兵団から成る兵力であった。両軍の主力はタランバルジュスの平原に対陣した。しかし戦術はさすがに老練のジャムカが強く、テムジン・チンギス汗の軍は一敗地にまみれて近くの山隘に身をひそめた。しかしながら勝利を占めたジャムカに、情勢は必ずしも有利に展開しなかった。彼がチンギス汗側に味方したチノス族を捕えて煮殺した事から、ジャムカに従っていた多くのモンゴル諸族は、ジャムカのこうした乱暴な態度に愛想をつかしてジャムカのもとを去り、かえって敗れたチンギス汗のもとに赴くようになったからである。こうしてジャムカがあせればあせるほど、チンギス汗の勢力は増大して行くばかりであった。

《7》
 この戦闘は十三翼の戦いとよばれて、チンギス・カーンにとっては生涯を通じてもっとも激しい、また危険な戦いであった。ジャムカはこのとき俘虜を残忍きわまる方法で処分したため、かれの残忍性をおそれた麾下の数氏族は、かえって敗れたチンギス・カーンに帰付したほどであった。ジャムカにとっては戦闘には勝ったが、結果は民心を失うという大きなマイナスとなった。しかもチンギス・カーンには、この敗北の痛手をぬぐう好機がきが意外に早く訪れた。

《8》
ジャムハは簡単に勝利をおさめたが、そのあとの彼のとった態度がいけなかった。彼はタイチウト集団の一族であったネグズ族が、テムジン側についたというので、戦争のおわったのち、この一族をとらえてこれを鏖殺してしまった。

《9》
 ことのおこりはジャムカの弟がチンギス・カーンのウルスのものの馬群を盗んで、かえってこれに射殺された事件であった。ジャムカは弟が殺されたといって三万人(?)を動員し、これを一三翼(隊)にわけてチンギス・カーンのウメスめかけて来襲した。チンギス・カーンもただちにこれに応じて、おなじく一三部隊をもって迎え撃った。両軍は死闘をくりかえしたが、けっきょくチンギス・カーンが敗れてオノン河に後退した。この戦闘は「十三翼の戦い」とよばれて、チンギス・カーンにとっては生涯を通じてもっとも激しい、また危い戦いであった。ジャムカはこのとき俘虜を残忍きわまる方法で処分したため、彼の残忍性をおそれた麾下の数氏族は、かえって敗北した チンギス・カーンに投じたほどであった。

《10》
これが十三翼の戦闘である。ジンギスカンはこの戦に敗れたとの説もある。ジンギスカンは河岸の林でチノス氏族の族長の子たち七十一人を焚くように命じ、かつ、とらえた悪意を抱く敵衆をことごとく煮た。

《11》
のちにチンギス・カンが「ジャムカの叛乱」と呼んだこのダラン・バルジュトの地における戦いは短時日のうちにジャムカの勝利となって決着した。
 ジャムカはチンギス・カンがオノン河のジェレネ狭間に身を避けたのを知ると、「オノン河のジェレネに追い込んだ」と勝利を謳い、兵を引き上げた。その帰還の際、かつて自分の麾下にあったネグスという名の氏族の王子たちを殺戮し、あまつさえその族長の頭を切り落とし馬の尾に結んで引きずっていった。

《12》
この戦争の結果は、『聖武親征録』と『元史』では、テムジン側が勝ってジャムハは敗走したことになっているが、『元朝秘史』では、テムジンはジャムハに敗れてオノン河畔の峡谷に逃げ込んだことになっている。
 どちらが史実かというと、『元朝秘史』には、ジャムハは勝利のあとで「チノスの子らを七〇の鍋で煮た」とあり、『聖武親征録』には「ジャムハは七二のかまどをつくり、狼を煮て食料とした」とある。モンゴル語で「チノス」は「狼」の複数形である。この戦いで、同族のタイチウトを裏切ってテムジン側についたチノス氏族の人びとが釜ゆでの刑に処せられたとすれば、ジャムハとタイチウト側が勝ったというのが真相だろう。

《13》
ところで『秘史』にはジャムカの初回の戦いにおいてチンギス=カンが敗れたとあるが,『集史』等3書にはみなチンギス=カンが勝ったとある。これについては,書くことがはばかられるチンギス=カンの敗北を記す『秘史』が事実を伝えていると,多く考えられてきた[那珂1907:Grouset1941:Pelliot,Hambis1951:村上1970-1976:札奇斯欣1979等]。だが上述の『秘史』編者の大胆な編纂姿勢を知ると,『秘史』が史実をまげたとの見方も十分に可能であると思われる。この後チンギス=カンのもとにジャムカ側からウルウド,マングド,コンゴタン等の有力諸部の者が来たとあり,その勝者ジャムカがチノス族の者を70の大鍋で煮殺した残酷さにジャムカを見限ったからとの推測も可能だが,『集史』では勝利したチンギスが捕虜にした敵を70の釜で煮殺すように命じたとあり,その恐怖からまさにそのときジュルヤド(『秘史』のジャウレイド)が服従者になってきたとあり,チンギス=カンを恐れて服属した者がいたようだから,勝者ジャムカの釜ゆでのことが,上記の有力諸部の者たちのチンギスへの服属の理由と断ずるわけにもいかないであろう。
 資料その19としてもう1冊、陸軍中将で男爵の阪井重季と漢学者で教育家の猪狩又蔵が「テムジンが負けたのは兵力が1万三千人だったから」つまり2対1で無理だったと指摘した本があります。
 後半で「イワニン中将の鉄木真帖木兒(タメルラン)用兵論」を引用しているが、それは日露戦争以前、日本の陸軍参謀本部が出したイワニン著、参謀本部編纂課訳述「鉄木真帖木児用兵論」ですね。
 ロシア帝国参謀本部員のミハイル・イグナチェビッチ・イワニン陸軍中将が出した戦術の本に「百万智略ヲ運セシ終ニ部下ノ兵一万三千ヲ以テ三万ノ敵兵ヲ破レリ[此戦鉄木真部下ノ兵ヲ分チ十三隊ト為シ漸次戦ニ臨マシメタリ想フニ当時鉄木真ノ軍略ハ蓋シ下文帖木児用兵術ノ記、兵法ノ条ニ載スル所ノ蒙古人常ニ勝ヲ制セシ戦隊ノ次第ト同一ナル者ノ如シ}」(43)と訳している。戦法としてはともかく多勢に無勢ではねえ、つぶされます。
資料その19
 ヂヤムカの弟にタイチヤル[台察兒]というものあり。 ヂヤラマ山の前なるオレ
ガイの泉に住めり。 而して鉄木真(テムチン)が麾下の士ヂユチダルマラといふものサア
リ川[薩里川]に在り。 タイチヤル来りてダルマラの馬群を盗み去りぬ。 ダルマラ
之を憤り単身にして追ひ行きて馬群のうちに隠れタイチヤルを射て之を殺し
たり。 是れ爆発すべき両雄の感情に一点火を与へたるものなり。 果せる哉。 
ヂヤムカは『我が弟タイチヤル殺されたり』と揚言し、ヂヤタラン部の十三族
を糾合して兵を挙げたり。 其の数三万と聞こゆ。

 ヂヤムカは大軍を率ゐてアラウウト、トルカウト二山を踰えて進み来りぬ。 
当時鉄木真はグレルグといふ所に在りしが、報を得て亦大に兵を集めたり。之
を十三翼に分ち、タランバヂユト[答闌版朱思之野]に至り、こゝにて両雄相会す。大戦の局鉄木真敗れてオナン河のほとりヂエレネといふ所に退きしかば、ヂヤムカ
は之を追撃し、七十の钁を据ゑて、捕虜其の他を煑たりと称せらる。史に之を十
三翼の戦といふなり。
 無比の戦将も当時、兵力猶ほ未だ足らず。 遂に此の大事の戦に敗北したりと
見ゆ。 然るをに後世の史家は、此敗戦を以て勝利と記すもの此々皆然り。
例へば
 帝時に軍を都爾本兆蘇之野に駐む。 変を聞きて大に諸部の兵を集め、十有三
 翼に分ちて、以て札木合克(チヤムカク)の至るを俟ち、與に大に戦ひ、破つて之を走らす[云云]
 [元史太祖伝]
 荅闌巴勒朱思に戦ふ。 帝の軍寡なりと雖も大に敵衆に勝つ。是に於て 兀魯特(うろと)布魯特(ふろと) 二族来り服す。 戦地に近く河あり。 林木多し。 帝は七十钁を以て
 俘虜を烹せしむ[云々][元史訳文證補] [ドーソンの記事亦要領を得ず]
といへるが如し。 単に敗を勝と転倒したるのみならず、ヂヤムカが七十の鍋を
以て敗兵を煮たるまでも、之を鉄木真が為す所とせり。 甚だしといふべきなり。
思ふに此の戦役当時はヂヤムカの勢力強大にして、鉄木真の力猶ほ之に敵する
に足らざりしなり。 其の十三翼と称するは<略>
 大略右の如し。 而して鉄木真の兵数また三万に上りたりと、成吉思汗実録に
見ゆるも。諸書の記す所は一万三千なりといふ。 イワニン中将の鉄木真帖木
兒用兵論に
 鉄木真……百万智略を運らし終に部下の兵一万三千を以て三万の敵兵を破
 れりと書し、註に此戦鉄木真、部下の兵を分て十三隊と為し、漸次戦に臨ましめ
 たり[云々]
 ドーソンは曰く
 其の兵僅かに万三千人に過ぎざりしも進んで、タイチアト兵を攻めて之を破
 れり。 この河畔に森林あり。 鉄木真は八十の鑊を並べて捕虜を烹たりとい
 ふ[云々]
 一万三千の兵数は当時の真相を得たりとすべく、殊に的確なる證は、鉄木真が
一翼千騎の兵制を採用したるにあり。蛟竜未だ雲雨に会せず。 猶ほ経営惨憺
たるのうちに在り。
 はい、ここまでテムジンとジャムカのどちらかが捕虜を殺したとする本を挙げてきましたが、どっこい、捕虜煮殺し説は誤訳だという歴史学者がいるのです。既に資料その9で引用したモンゴルのシャルダルジャヴィン・ナツァグドルジの著書「チンギス・ハーン」(44)にそう書いてあります。日本では平成28年に吉本るり子訳でアルド書店から出版されてます。
 同書に「『70の釜でチノスの子どもたちを茹で殺した』という記述を最初に訂正した人物は、中国の著名な学者、王国維てある。」(45)とあるから、それに従えば捕虜処刑を肯定する資料は誤りとなる。
 こりゃ大変、国会図書館デジタルコレクションで読める元闕名撰「元朝祕史」15巻にどう書いてあるかと探したら、4巻14丁表に「札木合於是回去、将赤那思地面有的大王毎、教七十鍋都煮了、」(46)とあり、これをグーグルに訳させてみたら「それからジャムカは戻ってきて、チナシの地面でダ・ワン・モーとジャオの鍋70個をすべて煮ました。」と訳した。まあ、いうなれば古文書だからまともな訳文は無理でした。
 ナツァグドルジ本にはね、残念ながら王国維の見解は書いていないけれど、内蒙古の研究者フフ・ウンドゥルによる論文「元朝秘史においてチノスの子どもたちを70の釜で茹でたと訳したことについて」の要旨を紹介しています。
 それによると、70人の煮殺しは「『ジャムハはギントゥ・チョノ、ウルグチン・チョノ(このような名前の人物がいた―筆者)の子どもたちを奪い追ってタラントージ帰った』という文章である」(47)という。ウンドゥルは奪うタラフ奪うデーレムレフ追うフーフ追うトーフ等のモンゴル語の音を読み違えて訳出したと指摘している(48)そうだ。
 ナツァグドルジ本によると、モンゴルの学者J.トゥムルツェレンは「元朝秘史」の70の釜ダラントゴー」は調理用具の鋳鉄や鉄の「トゴー」ではなく、地面を掘って作った穴だとする説とともに「70のダラン」という言葉は、必ずしも70という数をさすのでない、モンゴル人は多いということを、例えば「70の継ぎあてダランヌフース」「継ぎはぎだらけ」、「70の舌のあるダランヘルトカササギ」「おしゃべりなカササギ」等と表現すると述べる。また「茹でた」という言葉は、本当に煮て茹でたのでは無く「苦しめた」という意味である(49)と説明しているそうです。
 「いずれにせよこの意味不明の異様な行為については、研究者の今後の詳細な研究に期待する。」(50)とナツァグドルジは書いているから、モンゴルの歴史学者の間でも真実は鍋か釜か、半殺しか、いまだ定説はないことは確からしいので、ちょっと気が楽になりました。
 ここまでテムジンと命名された経緯について話しませんでしたが、テムジンの父イェスゲイがタタル族のテムジン・ウゲ捕らえてきたとき、右手に血の塊を握って生まれたので、その頃の習慣に従いテムジンと命名されたというのが定説です。ナツァグドルジによると、テムジンの生年月日は陽歴1162年4月16日(51)と明記し、続けてこの定説を書き、血塊については「これはチンギスが並外れた勇者になるといった、名声のための伝承(後世のものか?)だろう。」(52)としています。
 ところが、もっと長い名前だったとする説があるんですなあ。I.J.コロストウェッツ著、高山洋吉訳「蒙古近世史 ジンギス汗よりソヴェート共和国まで」によれば「エーゲレン・エツケは一一六二年瑞祥の中に一子を生んだ(支那やモハメツドの著述家達の一致した物語に従へば、この子供は生れたときに手に一片の血塊を握つてゐた)。この生誕が捕へられたテムジンの奪還と一致するので、親はこの子にテルギ・イン・エキユクセン・テムジンと名付けた。即ち「神から授かつたテムジン」の意味である。このテムジンが後の皇帝ジンギス汗である。」(53)と書いている。
 それからジンギスカンという通称についてコロストウェッツは、サンナン・セセン著「東蒙古史」からの引用として「一一八九年テムジンが二十八歳のとき、彼はケリユーレン河畔の草原でアルラート人から汗に任命された。この日から、とサナン・セゝンは語つてゐる、続いて三朝といふものは一羽の美しい鳥が雲雀になつて家の前の四角の石の上に降り立つて、『ジンギス、ジンギス!』と叫んだ。そこでテムジンはスツ・ホグダ・ジンギス・カンの名を得、その名で彼はあらゆる地方で有名になつた。」(54)としている。これは村上正二訳注の「モンゴル秘史」にもジンギスという呼び方の伝説として入っています。
 「蒙古近世史」は東蒙古というキーワードで検索したら出てきた本なので、国会図書館にあるかどうかと調べたらデジタルコレクションにあり、それを読んで著者は明治38年のポーツマス講和会議のときロシア全権ウィッテ伯爵の秘書を務め、同会議の回想録(和訳はポーツマス講和会議日誌)を書いたが、本職は北京やウランバートル駐在のロシア公使も務めた外交官とわかりました。
 それでね、この本のジンギスカン関係のことは初めの方に少しあるだけですが、スツ・ホグダ・ジンギス・カンという名を得たということは、ほかの本にはなかったと思うので取り上げたが、覚えなくてもよろしい。
 はい、ここまでで半分終わり、ここから2つ目の鍋釜問題に変わります。話が終わったら、私はまっすぐ帰って、フェイスブックで仲間の投稿を見るぐらいだけど、皆さんは違うでしょう。学生だったころは講義か終わったら、何々しようということが沢山あって忙しかったが、年を取るとだんだんやりたいことがなくなってね。講義より教授会の後なんか、特にガタッと疲れる。それで気の合う先生とね、赤提灯でちょっとやって帰ろうという気分になる。
 古今東西、こういう気分は共通らしい。裏金たんまりの国会議員なら赤坂とか、社長、タレントなら銀座、六本かな。諸君もどこか行き先があるだろうが、テムジンの時代はそういう遊び場所がなかったから、部族集会の後はその場、多分大草原の真ん中で輪になって座り、馬の乳で造った酒を飲んでいたらしい。
 京都大の杉山正明教授によると、クリルタイという大会議の後は必ずトイという宴会があった。「真の意味での人類最初の世界史叙述といっていい『集史』をはじめ、モンゴル時代とその以後のペルシャ語史書には『クリルタイ』と『トイ』は、ほとんどかならずワン・セットになってでてくる。モンゴル世界帝国においては、会議と宴会は一連のものであった。」(55)と杉山さんは本に書いている。トイ目当てで顔出しする部族代表も大勢、いや少なからずいたでしょう。ふっふっふ。
 真面目な本では、箭内亙著「蒙古史研究」に「西紀一一八九年(?)帖木真(Temudjin)はクリルタイの選挙によつて蒙古の合罕となり、始めて成吉思合罕(Chingis Khaghan)と称し、一二〇六年には、北方民族統一の故を以て、オノン河源の地に開かれたるクリルタイより、更に同じ尊号を上られて第二次の即位式を行ひしこと、秘史の記載に明なれども、而も其の会議の状況および即位の儀式等に就いては多くを知ること能はず。」(56)とあるが、トイはノーコメント。でも3日のトイの後、会議を開くなどだんだん儀式の順序が定まっていったそうです。
 テムジンは、2回のクリルタイでカンという尊称付きの地位に推挙された。1回目のクリルタイに続くトイは、テムジンの母ホエルンの再婚祝いでもあったという飯村本は書いている。それで気付いてほかの本はどうだったかと、鍋釜問題で読んだ本を見直すとね、クリルタイの後の宴会、トイも書いた本は、ブラウジンの本を訳した浜中英田の本と飯村・美山本だけらしい。3冊だけと言い切れないのは、私が捕虜の処刑と国会に相当する2回目のクリルタイの後のトイで使った鍋釜以外は記録してなかったからです。
 国会図書館の本以外でもトイも書いた本がありそうだから、念の為にね、ある生成AIに「クリルタイの後に開かれるトイという宴会について書いた本を教えて」と尋ねたら「トイについて書かれた本については、私の知識には詳細がない」と答えた。それでも、しつこく尋ねたら「トイ・プードルの気持ちと飼い方がわかる本」などトイレトレーニングの本5冊教えてくれた。
 プードルの本なんて架空の本じゃないのかと調べたら、1485円で売っているまともな本だった。ただ著者の加藤元、聞いたような名前だと検索したら、東京にあったニイナナ会、正式には「昭和27年北海道大学入学者の会」で一緒だった獣医君だった。世の中狭いね。ハッハッハ。
 まず最初のクリルタイの後のトイの様子を浜中本、飯村本、飯村本のリライトした美山本それぞれから抜き出したのが資料その20です。寡婦が亡夫の兄弟と再婚することは嫂婚制といって日本では行われてないけど、戦争未亡人の場合などでは稀にあったらしい。テムジンの父イェスゲイとはアンダ、義兄弟の仲だったムウンリクが寡婦だったオエルン・エケと再婚するは、実の兄弟との再婚と同様となるわけだね。
資料その20
●浜中
 汗の推戴は盛大に祝はれた。二十八歳の新汗は饗宴の費用を惜まなかつた。普通の馬乳酒―発酵するまで叩かれた馬乳―の外に、清馬乳酒―馬乳の濃厚な部分が悉く沈殿し、乳酒が清く澄み、酒精分強くなるまで叩きしもの―まで供せられた。
 祝ふべき第二の慶事があつた。蒙力克が鉄木真の母、諤倫額格と結婚したのである。これは蒙力克にとつて実に非常な名誉であつた。何故となれば、蒙古人の寡婦は通例再婚しなかつた。それは彼等が死後彼等の最初の夫の許に帰らねばならなかつたからである。それ故息子達は通常父の妻妾をも引受けることになつてゐた―尤も、自分自身の母は例外である。されば今蒙力克が諤◇倫額格と結婚することは、死せる也速該の息となることを意味する、いはゞ彼のために息として諤倫額格を保護ることであつたからである。
かゝる慶事は特に盛大に祝はれねばならぬ―諤倫額格と蒙力克も、客の饗応に物惜みをせぬ事は決して新汗に譲らなかつた。
 この祝宴には、恐らく馬乳酒が多過ぎたのであらう。突然或る首領の妻が、他の首領の妻に較べて、冷遇されてゐると言ひ出した。男達の中にも争ひが始つた。<略>

●飯村
 選挙の祝賀会は盛大に行われた。二十八才のまだ若い新しい
汗は、食物、飲料何も惜まなかつた。彼の呈供した飲料は単に
通常のクウミス Koumiss  (酸つぱくなつた馬乳で発酵
させたもの)だけでなく、カラクウミス Karakoumiss
までも呈供した。このカラクウミスはこの馬乳を更によくなら
したものであつて、濃い部分はなくなり無色透明となり素ばら
しくよく酔わせる飲料である。
 この祝賀会には別の意味もあつた。それはムウンリクがテム
ジンの母オエルウン・エケと結婚したことである。これは全く
特別な名誉である。如何となれば蒙古の社会では、寡婦は其死
後最初の夫と再会しなければならぬので再婚しないのであり、
子供が父の死後、自分の生母以外の父の妻としたのはこの為で
あるからである。ムウンリクが今、オエルウン・エケと結婚し
たのは、死んだジエスガイに対する彼の忠誠を証明するためで
あり、かくしてジエスガイのために其妻を保存するのである。
此の如き事柄は特別に祝賀さるべきものであり、ムウンリクも
オエルウン・エケも、主人役として新しい汗の下位に立つのを
望まなかつた。
 終りの頃の宴会で多分クウミスを余り与え過ぎたのであろう。
一人の首長の妻が他の首長の妻より悪い待遇を受けたというこ
とが原因で、この夫同志で喧嘩を始めた。<略>

●美山
 汗選出の祝賀会は盛大に行われた。弱冠二十八歳の新しい汗は、食べ物飲み物を少しも惜まず提供した。テムジンの供した飲み物は通常のクウミス(Koumiss)(酸っぱくなった馬乳で発酵させたもの)だけでなく、カラクウミス(Karakoumiss)まで供したのである。カラクウミスというのは、クウミスをさらによく熟らしたもので、濃い部分がなくなり無色透明となって、素晴しい酔い心地の飲み物である。
 この祝賀には、もう一つの意味があった。テムジンの母オエルーン・エケが、ムウンリクと結婚したことである。これは全く特別な名誉を持つことであった。蒙古社会では、寡婦は死後夫と再会しなければならないから、再婚しないのである。父が死ぬと子が生母以外の父の妻と結婚するのは、こうした事情による。ムウンリクがオエルーン・エケと結婚したのは、死んだイェスゲイに対する彼の忠誠を証明するためで、こうしてイェスゲイの妻を保護するのである。このような事柄は、特別に祝賀されるのであり、ムウンリクもオエルーン・エケも、主人役として新しい汗の下位に立つのを望まなかった。
 宴も終りに近づいた頃、クウミスを余り飲み過ぎたのか、一人の首長の妻が他の首長の妻より待遇が悪いという原因で、相方の夫同志が突然喧嘩をはじめた。<略>
 この後の経過を要約すると、テムジンとジャムカそれぞれ部族を率いて戦い、結局ジャムカが負け、本人が望む死に方であの世へ去り、ついにテムジンの天下になる。「一二〇六 テムジンがオノン河畔のクリルタイで即位、チンギス・カンと号する。」(57)と杉山さんの本にありますが、その盛大なる祝宴の様子についての飯村訳と浜中訳と飯村に少し手を入れた美山本を加えた3人の文章を資料その21にしました。ご馳走と飲み物が大きな入れ物でどしどし会場へ運び込まれます。それか私の言う第2の鍋釜問題でね、資料その21はその様子を書いた和訳3冊からの引用です。
資料その21
●浜中
 ついで「毛氈の帳牆ある民」の未だ曾て見なかつた盛大な祝
宴が始つた。人々は悉く成吉思汗の客であつた。数千の首領、
将軍、貴族は各自妻妾を従へて帳幕の中に、全民衆は帳幕外の
広場に参集した。馬肉を煮た巨大な鍋が車上に引出された。次
に食塩を入れた巨大な壺が。肉は口中に燃えて素晴しい渇を惹
起した。
 たとへ各自が如何に多くを啖ひ、その渇が如何に激しくても、
馬肉は鍋の中に堆の如く積み、馬乳酒は甕の中に泡立ちを止め
なかつた。人々は飲めぬと云つてはまた飲み、酔ひつぶれて二
三時間眠つては、再び飲んだ。歌ひ、舞ひ、武勲を語り、獲物
を誇り、装身具と衣服とを示し合ふのであつた。

●飯村
 続いて祝典が始まつた。この祝典たるや「フエルトの天幕の
中に住む諸国民」が未だ曾て見たことのない盛大なものであつ
た。全員がテムジンの招待客である。数千のプリンス、首長、
将軍、貴族は其配偶者と共に天幕の中で、一般民は外の広場で
ある。煮た馬肉で一杯になつた、多くの大きな釜が車輛で運ば
れそれと共に塩からいきついソースも大壺も運ばれた。このソ
ースで食べると、肉は口の中で焼ける様になり絶妙な渇を覚え
させるのである。しかし各人が如何に食べても又渇が如何に大
であつても、大釜は決して空になることなく、瓶から泡を立て、
流れるクウミスは絶えなかつた。人は吐くために外へ出て行き
更に沢山飲み直した。人は居る所、座つて居る場所で横になり、
そこで若干時間眠りまた始めた。楽人は各方面に配置され、人
はダンスし、食べ、手柄話や沢山の戦役でとつた戦利品や、貴
重な装身具や着物について自慢し合つた。

●美山
 祝典は「フエルトの天幕の中に住む諸国民」が、いまだかつ
て見たことのない、盛大さで行われた。全員がテムジンの招待
客である。数千のプリンス、首長、将軍、貴族が、配偶者と共
に天幕の中で、一般民は外の広場で宴を繰り拡げた。煮た馬肉
で一杯の釜がたくさんの車輌で運ばれ、塩からくきついソース
も大壺も運び込まれた。このソースで肉を食べると、口の中が
焼けるようになり、絶妙な渇を覚えさせる。しかし、いかに食
いかつ飲んでも、決して大釜は空くならず、瓶から泡立ってい
るクウミスは絶えなかった。人々は外へ出て吐いてきては、ま
た食いかつ飲んだ。座って居る場所で横たわり寸時眠っては、
起き上がってまた飲み食いを続ける。楽人は各方面に配され、
人々は踊り歌い、手柄話や多くの戦いでとった戦利品、貴重な
装身具や着物について自慢し合った。
 独語本から直接の浜中と仏語本が介しての稲村、美山の記述は、馬肉を煮たのは釜と鍋、味つけの塩っぱいソースと塩そのもの以外は、ほぼ同じといえますよね。
 プラウディン本は高い本でしたからね、トイの鍋釜も調べ、またグーグルと DeepL訳を比べてみました。それが資料その22です。プラウディンはこのくだりでも釜には Kessel を使っており私の和独辞典でも釜だ。そうなると Töpfe は釜ではない別の容器、鍋か壺かですよね。それでグーグルと DeepL は鍋、浜中は壺と訳した。日仏会館にコニエット本を書き写しに行ったときは捕虜の処刑しか思い浮かばず調べなかった。それで仏訳文はありません。
資料その22
Ungeheure Kessel boll gekochten Pferdefleisches werden auf Wagen herangefahren, dazu mächtige Töpfe mit scharfer Salztunke, daβ das Fleisch im Munde brennt und herrlichen Durft macht.
 Uber so viel jeder auch essen konnte, so groβ der Durst auch war, die Kessel wurden nicht leer, der Kumhs hörte nicht auf in den Krügen zu schäumen.

【グーグル訳】
ゆでた馬肉の巨大な大釜が馬車で運ばれ、肉が口の中でしみるような辛い塩だれの巨大な鍋も一緒に運ばれます。
 みんながどれだけ食べても、どれだけ喉が渇いても、大釜が空になることはなく、水差しの中でクムの泡が止まらない。

【DeepL訳】
完全に調理された馬肉の巨大な大釜が、熱い塩の入った巨大な鍋とともに馬車で運ばれてきた。
 各人がどれだけ食べても、どれだけ喉が渇いても、釜が空になることはなく、水差しの中でクムが泡立つのを止めることはなかった。

【浜中訳】
馬肉を煮た巨大な鍋が車上に引出された。次に食塩を入れた巨大な壺が。肉は口中に燃えて素晴しい渇を惹起した。
 たとへ各自が如何に多くを啖ひ、その渇が如何に激しくても、馬肉は鍋の中につかの如く積み、馬乳酒クミスは甕の中に泡立ちを止めなかつた。
 プラウディンはこのくだりでも釜には Kessel を使っており、そうなると Töpfe は釜ではない別の容器、鍋か壺かですよね。こう並べるとグーグルとDeeepLは鍋、浜中は壺とした違いがわかる。
 私が鍋釜問題なんて大げさな言い方をしたのに、翻訳者による訳語の違いでしたでは竜頭蛇尾もいいところだからね、日本語でいう鍋と釜の違いについて調べてみました。普通は鍋ならアルミをブレスした鍋で、釜は厚い木の蓋が乗った鍔のある飯炊きの釜を思い浮かべるよね。
 朝岡康二著「鍋・釜」によると、両者の形の違いは「鍋とは比較的に底の浅い器を指し、釜とは底の深い器を指す」が、より具体的にいえば「鍋は上広がりに作られており、下へ行くほど径が小さくなっていくのである」と書いている。さらに「『鍋』の上にもう一段立ち上がった上縁部を付けたものが『釜』である。その境目には通常鍔が突き出ている。こうして、鍋と釜の違いは単に鍔のあるなしにあるのではなく、それよりも、鍔の上にもうひとつ上縁部が付くかどうかがより本質的な相違であるということになる。」(58)と述べています。
 そういわれると、寸胴鍋を知る人は、あの鍋は下に行くほど径が小さくならず、口径と底の直径がほとんど同じだから、その定義はおかしい、寸胴釜と呼ぶべきだと思う人もいるでしょう。そこで何か訳ありで寸胴鍋と呼ぶに違いない。
 まずグーグルのブックスで寸胴鍋を書いた本を検索したら、トップは「太鼓腹の鍋に対抗して寸胴鍋?」という見出しの記事でした。東京の刃物の老舗、木屋が出した本で、寸胴鍋は西洋料理の深鍋「STOCKPOT」が日本に伝わったもので、フランスのスープ鍋「MARMITE」は太鼓腹の形が特徴とされている。明治36年の報知新聞に連載された料理小説「食道楽」を太鼓腹のスープ鍋の図が掲載されている(59)とあり、丸っこい一見壺みたいな鍋の絵が付いていた。この本は「日本橋木屋 ごはんと暮らしの道具」とわかるので検索したら、7年前に二見書房発売の電子書籍でした。
 MARMITEは「フランス料理仏和辞典」では「marmite[marmit マルミット](女)1 鍋,マルミット〔背の高い円筒形で,両側に取っ手があり,蓋のある大型のものをいう〕2 鍋の中身 3[料理]マルミット〔中身とブイヨンを別々に供するスープの一種〕」(60)とあるから間違いない。
 明治の食道楽とくれば村井弦斎、それで国会図書館を検索したら「食道楽 春の巻 増補註釈」の「万年スープ」という章に、木屋の本と同じ鍋の絵があったので、資料その23として絵とその前後の話を引用させてもらいました。鍋は太鼓腹というより今風なら肥満体という感じたね。
資料その23
資料その24
 <略>全体日本人の家では何時でも火鉢に火が起つて居て鉄
瓶がチン/\沸騰つて居る、あれは不経済の極点で、西洋人の家では三
食の外にストーブを焚く事が無い、と云つて日本風の家では客が来ると
火を出し茶を出すから火を絶す事も出来ん、そこで無用な火気を利用す
る為に此の万年スープをかけて置く、客が来て茶を出す時には湯沸し
で直ぐ沸くから少しも困らん、それに大根や人参の頭と尾を掃溜に捨て
るのも惜しい事だ、スープにすれば味も出るし滋養分も出るから即ち廃
物利用主義で此の万年スープを案出したのだ、最初原料を入れてから毎
日火へかけて四五日目位からスープが非常に美味くなつて、是れを食べ
ると普通の牛肉スープや鳥スープはモー食べられん子、その代り野菜の
分量が骨や肉の分量より多くなり過ぎると味が悪い、僕は十日目に一度
原料を取かへる事にした、夏になると牛肉や鳥肉を廃して魚の骨を捨て
ずに万年スープを作るが魚のスープには魚肉を少しでも入れては不可ん、
骨計りに限る」と一々講釈付きの御馳走、客はスープを喫しながら「成
程妙な味だ、僕は牛肉や鳥肉で計りスーブを作らせるが高いものに付く
よ」中川「それでは贅沢過ぎて味も悪い、僕の家では球葱スープだの豌
豆スープだのと野菜計りのスープも出来るよ」と相変わらずの料理自慢、
<略>
 「天皇の料理番」で知られた秋山徳蔵氏がパリで修行中、シェフの意思悪に腹を立てて、転ばしてスープをぶちまけたと(61)いうマルミットは重くて、普段は2人で持ち運びしていたらしいが、胴もそれなりに太かったのでしょう。
 これら村井、秋山ご両人の本には鍋の形は出てこない。それで寸胴という言い方はいつごろ生まれたのか調べてみたんです。明治31年に出た落合直文著「大増訂日本大辞典 ことはのいつみ」から10冊以上、国会図書館デジタルコレクションで読める国語辞典を調べたが、真っ直ぐ断ち切る「寸切」または「ずんどぎり」はあっても「ずんどう」は載ってない。
 それで最初に「ずんどう」を取り入れたのは、受験雑誌「蛍雪時代」で知られた旺文社の「掌中国語辞典」、昭和32年に出した辞典だった。2番目が金田一京助、佐伯梅友編「新解国語辞典」だった。国語辞典は最新流行の言葉は取り入れないはずだから、戦後生まれの名詞だね。
 「掌中国語辞典」は「ずんどう(名)《俗》太くて上から下まで同じ太さであること a stumpy」(62)、「新解国語辞典」は「ずんど【ずんど】〔名〕①ずんどぎり。②車夫が夏に着る白いはっぴ。③ふとくてかっこうの悪いこと。「背がひくく―だ」――切(ぎ)り〔名〕①→ずんぎり。②ふしのひとつついた竹の花筒。③大木の幹の上部をわぎりにして、茶室の庭などにかざるもの。」(63)と説明している。
 一般社会では昭和30年代からでも、荒物業界では戦前から寸胴という呼び名があったんだね、資料その25の鍋3種の呼び名を見なさい、寸胴鍋がある。これは敗戦の翌年、昭和21年に商工省工芸指導所が出した「工芸ニュース」の「厨房用の標準商品」という記事に添えた参考図で、鍋それぞれの特長を説明しているので、記事の一部を資料その26にしました。寸胴鍋は底の方に行くほど径が小さくなっていかない極端な形の鍋だね。使用例とみれば「掌中国語辞典」より10年早い。
資料その25
資料その26
 アルミニウム板金製品
  (第一金属製品部会)
 アルミ板金製品は純度九八%以上
のアルミニウム版で製造したもの及
び之にアルマイト加工を施したもの
とされて居り、各品種の寸法、公差
は±三%、重量では±五%とされて
ゐます。
1 鍋類は板金製品のな他にアルミ
ニウム鋳物と琺瑯引のものもありま
す。
 板金のものは、
 イ、寸胴鍋(共蓋付)これは側面
が垂直、即ち所謂ズンドウなのでこ
う呼ばれるのですが、寸法の割合に
容量が多く、底の面積が広いので電
気七輪などにかけるに適し、姿もカ
ツチリして落着いたものなので近年
相当愛用されてゐたものです。
 種類は、その内径を糎で表はした
数字で呼ぶこ
とになり、夫
々一八、二〇。
二二、二四、
二六の称呼が
あります。従
つて一八とい
うのは一八糎
の大きさであ
つて番号が直ちに寸法を表はしてゐ
るのです。従来の大、中、小などと
いふ呼び方とちがつて一段と進歩し
たものといへます。
 又共蓋付のものは身の方が蓋より
若干早く駄目になるものですが、各
メーカーの間にこのサイズが守られ
てゐればその間に蓋と身の融通が利
いて無駄も省けるわけです。
 ロ、朝顔鍋(共蓋付)これは朝顔
型に縁の開いたもので。梱包の際体
積をとらぬので、特に商人の方に喜
ばれてゐるものです。<略>
 ハ、段付鍋、これは前の二つに対
して普及型とでもいふべきもので、
蓋はついてゐませんから普通の木の
蓋を別に求める必要があります。そ
してその木蓋のために縁に段がつい
ているので、その名があるわけで
す。<略>
 ちょっと脱線するが、商工省は敗戦から立ち直るためにも雑多な商品の規格を整理して、その標準化を図ろうとした。「たとえば飛行機をとつて考へても、制式が多過ぎる結果、大量生産が困難となり、工作の単純化、検査の機械化による精度並に技術の向上が期せられないばかりでなく。資材の無駄、取扱ひ上の不便、部品互換性の欠如等が重なつて、生産並に使用上に非常な不利を来したことは、改めて説くまでもなかろう。今日軍需工業から民需工業へ生産の中心が移つても、規格生産の重要性は毫も減じない。否、戦時中より極度に乏しい資材をもつて尨大な需要を満足せしめるらは、ますます商品の標準化を徹底せしめなければならないのである。」(64)と説いている。
 「戦前、日本のお鍋の種類は約四千種あったといわれてゐます。意味もない一寸した大きさの違ひ、形の種々様々再びそのやうな混乱をくり返すのではなく、この機会に本当に科学的に考えてようお鍋の規格をつくりたいと思ひます。」(65)と、婦人之友編輯部は同ニュースに「「女性の立場から便利に組合はせ鍋の提唱」を提案している。
 アルミ鍋は鋳物鍋もあり、こっちは板金のものより大型で6種類、深さは口径の40%(66)としています。つまり4000もあったという鍋のサイズをだ、アルミ板の寸胴、朝顔、段付各5種類とアルミ鋳物6種類計11種類に絞ろうとしたわけです。
 またアルミ鋳物の釜も5種類定めておる。深さは口径の83%、鍔上は深さの37%、鍔のところの内径は口径の105%(67)としているから、鍔から上は、まあ寸胴。ともあれ、これがJISのアルミニウム製加熱調理器具という規格制定の始まりだったようです。
 敗戦後、間もないこのころ、私ぐらいの年配の人々の少年少女時代だが、配給米が少ないので、押し麦、芋、大豆、大根などをまぜて増量した粥か飯、それも朝夕の2食は普通で、いつも腹ぺこだったなあ。米だけの飯は銀シャリといって拝んで食べるぐらい稀だった。だから口に入るモノの料理は鍋で間に合うから、釜の出番はまずなかったと思う。
 三越と伊勢丹の厨房用品売り場の状況として「終戦直後大いにはやつた鉄兜をお鍋に更生する注文も今ではすつかり後を断つて」(68)と「工芸ニュース」にあるが、本当の鉄兜はいいとして、アルミ製の防空鉄兜も引き受けていたのかどうか触れていない。
 それからざっと20年、食材が豊富に出回るようになり、西洋料理も普及したのに合わせて調理器具も増えたのです。資料その27の参考図は昭和43年に出た飯野香、武保著「調理機器 ―その選び方・使い方―」からです。
 サイズなどは書いてないが、スープ鍋こと寸胴鍋は資料その25のそれと比べると、西洋料理用としてスープ鍋と呼び、胴は一段と太く長く変わっても、形としては寸胴鍋で、今でこそ鍋らしくないか、鍋らしかった時代があったことがわかったかな。
 資料その28は参考図の鍋の説明です。この本を出したとき著者の飯野氏は飯野設計事務所長、武氏は女子栄養大教授でした。狙いは東京オリンピック以後「短期間に多くの新しい機器が市場に現れたが、使用者はそれらの機器の機能を知る術もない.メーカーのいうがままに選んでみたものの,目的に副わないという苦情ほをよく聞く.転ばぬ先にアドバイスできたらと,機器ハンドブックを書いてみたが,理想とは大変違った本ができてしまった.」(69)と「はじめに」に書いているが、鍋の形説明には大変ぴったりの本でありますよ。ハッハッハ。
資料その27

資料その28
 ② 西洋料理用鍋
 西洋の鍋は底の平らな丸みの小さい寸胴形をしたなべが多い.材料は一般に厚手の鉄 のホーロー引きや厚手のアルミニウム製品である.ストーブの上に載せたりオーブンの 中に入れたりしても使われる.
 シチューパン・ソースパン: 片手柄付きの深型なべで,大型のものをシチューパン,小型のものをソースパンといっている.片手で握って片手で強くかき廻したりするソー ス類や長い時間煮込む料理に火当たりがやわらかく,液がブツブツとんでも外に飛び散らず,蒸発が少ない点で煮こみに適しているといえる.
 ソトワ: 片手柄付きの浅型なべで,ソテー,洋酒の蒸煮,煮込みなどに使うなべで,1列に並べて作る形を崩してはならないものに必要ななべである.柄のついていないものはオーブンに入れて使う.
 ソトーズ: アルミ製厚手のフライパン様のなべ,野菜を炒めたり,小麦粉をバターで炒めたり,ねり粉を流し焼きしたりするのに適したなべ.火当たりがやわらかいので粉がむらなくいたまり,野菜は色よくしんなりすたまり,ホットケーキなども美しい焼色に仕上がる.
 スープなべ: 両手つきのアルミ厚手の寸胴深型なべ,サイズは大型,スープストックをとるのに使われるのが,種々なストックの材料と大量の水を入れて,半量程度に煮詰めるので大型が必要になる.このほかスパゲティやマカロニをゆでたり,チキンを丸ゆでにしたり,ご飯を炊いたりにも使われる.
 ダブルパン: 湯せん用の二重なべで,外側のなべには湯,内側の鍋にはロードのついたかき回しにくく,焦げつきやすいものを入れて煮て,火を通したり煮詰めたりする.  フライパン: 鉄製の片柄付き浅型なべで,焼き物や炒め物,揚げ物などに使う.卵の目玉焼き,肉のステーキ,ムニエル,オムレツなど早く焼いて表面に焦げ目をつけるものに使ったり,魚のフライ,カツレツ,コロッケなど少しの油の中で揚げて表面に焼き色をつけたりするのに使う.その他少量の炒め物や,ホットケーキを焼いたりにも使う.サイズは口径が16cmから26cmまで2cm間隔の大きさのものがあり,業務用は40cmまである.オムレツを焼くには20~22cm 程度のものが扱いやすい.形はそ底が平らで角が丸みが小さく角張っているのがアメリカスタイル,角の丸みが大きく丸みをもったものがフランススタイル,日本ではフランススタイルのものが多く使われている.
 はい、ここでまたざっと800年前のジンギスカンの世界に戻します。1206年、テムジンが帝位に推戴された後の大規模なトイで、どうして羊肉の丸煮ではなく馬肉を出したのか。プラウディンの創作ではなく、なにかのお祝いでは馬肉を食べる決まりでもあったのか―です。
 ドーソンによれば「家畜は駱駝牛綿羊山羊殊に馬より成りその生計の資を之に仰ぎ之を以てそのあらゆる財産と爲せり。最も馬肉を好み、肉類を貯蔵するには之を小片と爲して或は空気中に曝し或は竈の烟に熏べて之を乾かせり。その他如何なる獣類の肉をも之を食ひその病に斃れたるをも嫌はず、又好んで馬乳の醗酵せるものを飲みこれを Coumiz と称す。」(70)とあります。
 トイに集まった全部族の首長や家族は皆大喜びで食ベたというのは大昔の話で、戦後出たモンゴル研究の本をあれこれ見たが、遊牧民の家庭で馬の乳を搾るとき、母馬のそばに子馬を連れてきて一口飲ませて、それから乳を搾るという搾乳の記事や写真はあるが、馬の屠殺や解体法のそれは見つからない。いまのモンゴでは観光客向けのタルタルステーキなどの馬肉料理はあるけれど、資料その29のように、かなり以前からふつうの家庭では食べなくなったらしいのです。
資料その29
《1》
 四月二十日。亦王府内に滞在す。小巴林王は未だ二十歳計の年齢なるが、其の父王は数年前没せしと云ふ。王妃は前々年喀喇沁より入輿せしなり。王妃の未だ喀喇沁にありし時、余の妻は親しく教導の任に当りし関係より、余等は大に優遇せられ、盛んなる饗応に預れり。其の献立の中に馬肉ありしが、此は日本と正反対にして、多く貴族の間に賞美せらるゝものなるが、近時は蒙古人も余り食せざるが如し。
 王府はコロコロテン河に臨む、その建築は支那風のものにして、王府の南方に位する大喇嘛廟の構造は西蔵風の建築なり。

《2》
 馬匹を食用に供する目的で屠殺する事はない。蒙古人は元来好んで馬の肉を食ふけれども遊牧者として其愛好する動物を殺して食ふことはしない。唯だ斃死した馬を食ふのみで満足して居る。即厳寒、春気の流氷、老齢及び前にも記した通り余り多く無い伝染病等之等の結果で蒙古人は馬肉を食ふ機会が与へられる。之と共に馬から取た原料品も亦市場に現はれるのである。東支沿線方面の市場では馬皮、馬尾及鬣等が取引される。

《3》
 太古の蒙古人は馬肉を最も嗜好したといふが、現代の蒙古人は馬肉を食用としない。従って馬を屠殺することなく、斃馬から馬皮をとるのである。故に実際用に供されることは多いが、その割に市場には出廻らない。
 やっと見付けたのが、後藤冨男氏の「内陸アジア遊牧民社会の研究」と題する本です。後藤氏は昭和9年に創立された善隣協会の調査部員でした。善隣協会は内蒙古に住む蒙古族を主対象として教育、医療、牧畜指導などを施そうと昭和9年、東京で設立された団体です。
 東京本部では蒙古研究のほか、留学生の寮を設けて日本語を教え、それぞれ進学させた。徳王を盟主とする政府ができてからは張家口に在外本部を設け、日本語学校や各地診療所を開きました。
 後藤氏は協会入りしてすぐオウエン・ラテイモア著「満洲に於ける蒙古民族」を訳して同協会から出版した。さら毎日新聞上海支局長から同協会調査部次長に転じた村田孜郎が昭和11年に「風雲蒙古」を出したが、その報告15編のうち「蒙古人気質」など6編は後藤氏による調査報告だったくらい熱心に取り組んだとみられます。
 後藤氏によると、古来ユーラシアの遊牧民にあって、屠殺は祭祀における重要な儀礼行為であり、その際、屠殺する家畜を提供することは階級を形成したり、そのランクを維持する上で重要なことだったらしいのです。資料その30はね、なるほど家畜ではないが、我々の社会でも似たような行為があると私が納得した後藤氏の見方です。
資料その30
 祭祀や信仰における儀礼行為はややもすれば経済的行動とは無縁のごとく解せられやすいが、当事者にとっては単なる非合理的行動―無目的な浪費ということはできない。けだし、儀礼行為によって追求される社会的な価値は、その文化にあってはあくまで財の消費という代償を支払って獲得すべきもので、またそれだけの値打ちのあるものと評価されている。祭祀の犠牲に、その文化にとっての非経済財の供せられることがないのも、価値あるものでなければ代償となりえないからである。家畜が供犠の対象となるのは、遊牧民にとってこれが貴重な財であるからであるが、しかもそれは食肉の対象とされる家畜にかぎっている。祭祀儀礼の一として会宴が神人共感の不可欠の手段とされる事実はまさにその証左なのであって、食肉とされない動物の供せられる例は見出されない。葬式に葬られる故人の愛馬でさえ、オロチョンは酒を汲み交しつつその肉を食うのであり、むしろかかる特別の機会に惜しみない消費が社会的に容認され、もしくは命ぜられている点に大きな意味があるように思われる。そして、何故そうした慣行があるかは、既述のように日常の生活の貧しく乏しいことに一半の原因がある。クルバナイ祭で肥えた三歳駒が屠られ、オボ祭には肉づきのよい若い羊が供えられる。その鮮肉を飽食することは平生は到底許されない贅沢なので、そこにはれの機会の大きな意義がある。施主がかかる機会を提供することによって社会的な体面prestigeを購ない、社会的地位をかちうるのは、その当然の報酬と考えられているのである。
 「祭祀や信仰における儀礼行為」は飲みニュケーション、いわゆる飲み会と考えてみなさい。飲み会のメリットはチームワークの強化、情報共有・情報交換、ストレスの緩和などを挙げることができるが、問題は会費だ。呼びかけ人が俺に任せろと全額持つか、細かく割り勘にするか―で、ありがたみがコロッと変わるよね。
 御招待は「かかる特別の機会」だね。「惜しみない消費が社会的に容認され、もしくは命ぜられている点」は、遠慮なく召し上がって下さいよなんて言われたときで、後で何か約束とか契約にサインさせられるかも知れないが、明日は明日の風が吹くと、飲んだり食べたりすることに「大きな意味があるように思われる。」。プラウディンが描いたカカン推戴の祝宴は、これなのでしよう。
 その「儀礼行為によって追求される社会的な価値は、その文化にあってはあくまで財の消費という代償を支払って獲得すべきもの」は、参加者それぞれ一様ではないが、気前のいい上司だとか、面白い奴、根がケチだとかお互いにわかることが、即ち「社会的な評価」ではないか。
 祭りなどの寄付集めで金持ちと目されている家では、並の家よりは高額の寄付イコール「非合理的行動」をすることによって、金持ちという「社会的な価値」を維持する。いまも続いているかどうかわからないが、かつて田舎では本家は分家の上に立つために何かと見栄を張る必要があったし、分家は一歩引く気配りをしたのです。
 かくしてスポンサーとか勧進元になることは「施主がかかる機会を提供することによって社会的な体面prestigeを購ない、社会的地位をかちうるのは、その当然の報酬と考えられているのである。」にぴったり当てはまる。
 ラーフ・フォックスは「羊肉を食らい 大食の饗宴と深酒を好むが、貧しさのため、そのような機会は稀れである。しかし初夏になって、羊の繁殖のおかげで最悪状態を脱し、牝馬は欲しいままに乳をだし、草は新鮮で緑したたる頃ともなると、彼は部落の会合にでかけてゆき、相撲や競技をたのしむ。そこでは宴会が催され、馬は屠殺され、わずかな間彼は満足感と豊かさの感にひたる。」(71)と「ジンギスカン」に書いている。
 一方、「馬のみは別で、貴族的家畜といはれるやうに平民は事実多くを持たぬが、牧民の誇として多々ますます喜ぶ傾向がある。金銭に換算すれば大きな財産であるが、彼らのはむしろ売却を欲せず、多数を持つといふことに誇を感じてゐるやうである。」(72)のに、これを食べてくれと持ち馬を差し出すことによって、その提供者は社会的地位を得るとか固めると後藤氏は見たのですね。
 では、どうして遊牧民たちは馬肉を食べなくなったのかという理由について後藤氏は資料その31のように説明しています。
資料その31
 十二、三世紀のモンゴルは馬肉をもっとも好んだといわれるが、再三引用する『黒韃事略』に「大燕会に非ざれば馬を刑せず」とあるとおり、このころすでに馬肉は庶民の平生口にできない上流会宴の珍味として尊重されたのであろう。仏教の禁制をまつまでもなく、実際にその慣行は一般性を失ないつつあったのである。その理由はほかでもない。騸馬がもっぱら乗用にあてられるにいたったからである。去勢ということの知られる以前には、群れの構成に妨げとなる多くの牡馬は、これを屠るより外に仕方がなかった。しかし去勢がひろく行なわれて、いままでの厄介ものが乗用として尊重されるようになると、当然食馬の習慣は衰えざるをえない。それと歩調を合せるようにして、古くはステップに多く見られた野生馬群もしだいに姿を消したのであるから、馬の肉は十二、三世紀になると王公にのみゆるされる贅沢物と化し、馬群をもたない庶民には手のとどかぬものとなっていた。ラマ教は、大所有者に屠馬を禁じ、いわば最後のとどめをさしたのであると考えられる。64ページ
 後藤氏は「屠殺の方法は家畜により同じではない。牛についてはまず前頭部を槌で強打し、動物が意識を失って倒れると、鋭利な刃物で頸椎と頭蓋の間を突きさす。」とし、羊については腹を切り開いて手を入れて心臓そばの大動脈を破る(73)と書いているが、馬は書いていない。註として「ユック・拙訳『韃靼西蔵支那旅行記』上巻・昭和十四年・三一六乃~至七ページ、Lottimore,O., op., cit,. pp189~190.」を挙げているので、同書の復刻版とみられるユック、ガベー著、後藤富男、川上芳信訳「韃靼・西蔵・支那旅行記 上」(74)の該当ページを見たが、羊の屠殺とそれに続く会食の観察報告で、馬のそれれではない。
 また後藤氏の著書「騎馬遊牧民」には馬の所有頭数調査、馬群の管理などが書いてあるが、馬の屠殺及び調理については触れていない。私は今回の講義のために蒙古関係の古い本も見たが、モンゴルの人々の馬肉の調理を書いた本はなかった。
 植竹伸太郎著「馬を食う」は、遊牧民族と馬肉の関係は「彼らにとっても馬肉は日常の食物とはいえない。文化人類学者の石毛直道氏らによると、彼らが馬を殺して食べるのは、特別の宴会か他に食物がない時だけだ。一年に一度、しかも一頭しか仔を産まない馬を日常的に食べていては、たちまち底をついてしまう。食用として大事なのは、乳である。乳でバターやチーズ、ヨーグルトを作るのだ。」(75)と、あっさり伝えるだけ。
 さらに「フランスでは、よく馬の首を描いた看板を掲げたレストランがあるそうだ。タルタル・ステーキを出す店である。」(76)「フランスでも、馬を食うのが一般的とはいい難いがたいようだ。パリの一流レストランのメニューには、タルタル・ステーキはまず載っていない。」(77)「タルタル=タタールとは、ソ連の一自治共和国のことだが、西欧ではしばしばモンゴル系の遊牧民全体を指す。多くのフランス人にとって、馬肉はどこか野蛮な、表立っては口に出せない食べ物なのである。」(78)と書いています。
 「善隣協会史」に同協会の関係者が懐旧記がたくさん載っているが、馬肉の思い出は見当たらない。もしかするとかなり以前から仏教の一派といわれる喇嘛教の影響もあり、馬を殺すことは皆無となり、草原で老衰死した馬を見付けたときだけ身内が集まって食べるだけとなっていた。それで善隣協会などの民俗調査で蒙古人の生活に密着しても、そういうチャンスに巡り会うことは滅多になかったということではないのか。
 そんなわけだから、来春のレポートには、国会図書館を検索すれば館内限定デジタル本として示される蒙古研究の本などにありそうな気がするんだが、遊牧民の馬肉食を取り上げてくれることを期待します―ということで終わります。


何もないはずなんです。
 文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気付きの点がありましたら、まずは
 shinhpjinpagaku@gmail.com 
尽波満洲男へご一報下さるようお願いします。



    参考文献


******************************
資料その1は故松井統治氏所蔵のアルバムより
(1)は瓜生政和編「西哲叢談」巻之二3丁裏、「元の太祖の伝」より、明治6年7月、瓜生政和=国会図書館デジタルコレクション
(2)は北村三郎著「世界百傑伝 巻一」10ページ、「成吉思汗銕木真ノ伝」より、明治23年8月、博文館=国会図書館デジタルコレクション
(3)は同63ページ、同
(4)は大田蒼溟著「世界歴史譚 第24編 成吉思汗」52ページ、「九游の白旂」より、明治34年5月、博文館=国会図書館デジタルコレクション

(5)は河野元三述「蒙古史」2ページ、明治35年9月に書いた「緒言」より、発行年は西暦1800年代、早稲田大学出版部=国会図書館デジタルコレクション
那珂通世訳注「成吉思汗実録」序論63ページ、明治40年1月、大日本図書=国会図書館デジタルコレクション
(6)は那珂通世訳注「成吉思汗実録」序文4ページ、有高巌「序文」より、昭和18年9月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
(7)は同、筑摩書房編輯部、ページ番号なし、同
(1)はドーソン著、田中萃一郎訳補「蒙古史」第1巻77ページ、明治42年5月、富山房=国会図書館デジタルコレクション
(2)はドーソン著佐口透訳「モンゴル帝国史 Ⅰ」87ページ、昭和43年3月、平凡社=原本
(8)はドーソン著、田中萃一郎訳補「蒙古史」第1巻2ページ、明治42年5月、富山房=国会図書館デジタルコレクション
(9)は三田学会雑誌1巻7号225ページ、阿部秀助「ドーソン男著蒙古史 田中萃一郎訳補」より、明治42年9月、三田学会=マイクロフィルム
https://koara.lib.keio.ac.jp/
xoonips/modules/xoonips/download
.php?koara_id=AN00234610-19090901-0103
(10)と(11)はエレンジン・ハラ・ダワン著本間七郞訳「成吉思汗伝」53ページ、昭和13年5月、東京朝日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
資料その4はエレンジン・ハラ・ダワン著本間七郞訳「成吉思汗伝」54ページ、昭和13年5月、東京朝日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
(12)は石浜純太郎著「東洋学の話」258ページ、「近刊成吉思汗伝を読んで」より、。昭和18年4月、創元社=国会図書館デジタルコレクション
(13)は同265ページ、同
(14)は中村久四郎著「蒙古研究白人の世界か黄人の世界か」90ページ、大正4年7月、晋文館=国会図書館デジタルコレクション
(15)は飯村穣訳「ジンギス汗の研究」1ページ、発行年月は不明だが表紙裏に昭和54年3月15日の消印あり、国会図書館デジタルコレクション
(16)はプラウヂン原著、飯村穣訳・注釈「大統率者―ジンギス汗の謎」303ページ、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
(17)は同304ぺージ、同
資料その5はプラウヂン原著、飯村穣訳・注釈「大統率者―ジンギス汗の謎」の表紙、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
(18)は伊藤智永著「奇をてらわず 陸軍省高級副官美山要蔵の昭和」34ページ、平成21年3月、講談社=原本
(19)は上法快男編「現代の防衛と政略 名将・飯村穣の憂国定見」376ページ、昭和55年第6刷、芙蓉書房=原本
(20)はプラウヂン原著、飯村穣訳・注「大統率者―ジンギス汗の謎」304ぺージ、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
プラウヂン原著、アンドレー・コニエット仏訳、飯村穣訳・注釈「ジンギス汗の研究」16ページ、昭和50年代、飯村穣=国会図書館デジタルコレクション
プラウヂン著、飯村穣訳・注「大統率者―ジンギス汗の謎」304ぺージ、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
清水書院編集部編「新制 學生の東洋歴史 改訂増補版」126ページ、「成吉思汗の伝記」より、昭和23年10月、清水書院=国会図書館デジタルコレクション
ルネ・グルッセ 著、橘西路訳「ジンギス汗 世界の征服者」375ページ、「年譜」より、昭和42年11月、角川書店=国会図書館デジタルコレクション
(21)はルネ・グルッセ 著、橘西路訳「ジンギス汗 世界の征服者」65ページ、「首枷をはめられるジンギス汗」より、昭和42年11月、角川書店=国会図書館デジタルコレクション
(22)はプラウヂン著、飯村穣訳・注「大統率者―ジンギス汗の謎」33ぺージ、「部将としての第一歩」より、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
(23)と(24)は「参考書誌研究」53号2ページ、白岩一彦「ラシード・ウッディーン『歴史集成』現存写本目録 ― -- Rashid al-Din's Compendium
of Chronicles: a bibiography
of the extant manuscripts --」より、
平成12年10月、国会図書館
(25)はプラウディン著、浜中英田訳「成吉思汗(アジアの嵐)」81ページ、昭和15年4月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
(26)は同7ページ、「解説」より、同
(27)と(28)杉山正明著「モンゴルが世界史を覆す」210ページ、「謎につつまれた前半生」より、平成18年3月、日本経済新聞社=原本
(29)プラウヂン原著、飯村穣訳・注「大統率者―ジンギス汗の謎」48ページ、「軍事遊戯による訓練法」より、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
(30)は同50ページ、同
(31)はドーソン 著、田中萃一郎訳「ドーソン蒙古史」9ぺージ、昭和8年10月、三田史学会=国会図書館デジタルコレクション
(32)はラーフ・フォックス著、由良君美訳「ジンギスカン」76ページ、「英雄の誓い」より、昭和63年7月新装版、筑摩書房=原本
資料その9はSh・ナツァグドルジ著、吉本るり子訳「チンバス・ハーン」51ページ、「ジャムハとの決別」より、平成28年8月、アルド書店=原本
●浜中はプラウディン著、浜中英田訳「成吉思汗 アジアの嵐」38ページ、「興隆」より、昭和15年4月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
●飯村はプラウヂン原著、飯村穣訳「ジンギス汗の研究」29ページ、昭和50年代、飯村穣=国会図書館デジタルコレクション
●美山はプラウヂン原著、飯村穣訳・注「大統率者―ジンギス汗の謎」56ページ、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
(33)ドーソン著、田中萃一郎訳補「蒙古史」上巻78ぺージ、昭和11年12月、岩波書店=国会図書館デジタルコレクション
(34)小学館国語辞典編集部編「精選版日本国語大辞典(あ―こ)」*ページ、平成18年*月、小学館=原本
(35)ドーソン著、佐口透訳注「モンゴル帝国史1」39ぺージ、昭和43年3月、平凡社=原本
(36)と資料その11はジャン=ポール・ルー著、杉山正明監修、田辺希久子訳「チンギス・カンとモンゴル帝国」33ページ、平成15年10月、創元社=原本
(37)那珂通世訳注「成吉思汗実録」124ページ、明治40年1月、大日本図書=国会図書館デジタルコレクション
(38)同125ページ、同
資料その12は白鳥庫吉著「音訳蒙文元朝秘史」巻四5ページ、昭和18年1月、東洋文庫=国会図書館デジタルコレクション
資料その13は元闕名撰「元朝祕史 10卷續2卷 [2]」5丁裏、 光緒34年*月、葉氏觀古堂=国会図書館デジタルコレクション
資料その14は Michaël Prawdin著、André Cogniet仏訳「Genghis Khan」40ページ、1951年*月、Payot
(39)は杉富士雄監修、佐藤巌、岡部喬、松田照彦、加藤健次、伊東真実編「フランス料理仏和辞典」323ぺージ、平成4年3月9版、イトー三洋株式会社
(40)プラウディン著、浜中英田訳「成吉思汗 アジアの嵐」36ページ、昭和15年4月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
資料その15はMichael Prawdin著「 Tschingis-Chan Der Sturm aus Asien 」43ページ、出版年月不明、Büchergilde Gutenberg Belin
【浜中訳】はプラウディン著、浜中英田訳「成吉思汗 アジアの嵐」39ページ、昭和15年4月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
資料その16は Ralf Windston Fox著
Genghis Khan」51ページ、First
Published 1936 First LG Edition 2018,
LG PUBLISHERS DISTRIBUTION
【加藤版】はラルフ・フオックス 著、加藤朝鳥訳「成吉思汗」122ページ、昭和13年8月、竹村書房=国会図書館デジタルコレクション
【由良訳】はラーフ・フォックス著、由良君美訳「ジンギスカン」86ページ、昭和42年6月初版、昭和63年7月新装版1刷、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
(41)はラーフ・フォックス著由良君美訳「ジンギスカン」86ページ、昭同63年7月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
(42)岩村忍訳「元朝秘史 チンギス=ハン実録」56ページ、昭和38年6月、中央公論社=国会図書館デジタルコレクション
那珂通世訳注「成吉思汗実録」123ページ、「巻の四」より、明治40年1月、大日本図書=国会図書館デジタルコレクション
ジヱレミヤ・コルチン著、清水友次郎訳「蒙古史」54ページ、大正6年*月、南満洲鉄道総務部交渉局=原本
ウラジミルツオフ著、小林高四郎訳「ヂンギス・ハン伝」55ページ、「チンギス・ハン蒙古諸部族を統一し、游牧帝國を建設す。ワン・ハンとの鬪爭」より、昭和11年4月、日本公論社=国会図書館デジタルコレクション
小林高四郎訳註「蒙古の秘史」88ページ、「蒙古の秘史 巻四」より、昭和15年2月、生活社=国会図書館デジタルコレクション
プラウディン著、浜中英田訳「成吉思汗 アジアの嵐」38ページ、昭和15年4月、富山房
柳田泉著「成吉思汗平話 壮年のテムヂン」139ページ、昭和17年1月、大観堂=国会図書館デジタルコレクション
民主主義科学者協会歴史部会編「世界歴史講座」2巻109ぺージ、村上正二「草原の英雄―チンギス汗―」より、昭和29年1月、三一書房=国会図書館デジタルコレクション
ギボン著、村山勇三訳「ローマ帝国衰亡史 十
」49ページ、昭和34年2月、岩波書店
奥野信太郎、佐藤春夫、増田渉編「新版・十八史略物語 第8巻」125ページ、駒田信二「成吉思汗物語」より、昭和37年2月、河出書房新社=国会図書館デジタルコレクション
岩村忍著「元朝秘史 チンギス=ハン実録」55ページ、 昭和38年6月、中央公論社=国会図書館デジタルコレクション
岩村忍、勝藤猛共著「大蒙古帝国」98ページ、昭和40年1月、人物往来社=国会図書館デジタルコレクション
村上正二訳注「モンゴル秘史1 チンギス・カン物語」270ページ、昭和50年7月、初版第3刷、平凡社=原本
勝藤猛著「草原の覇者」77ページ、昭和59年10月、清水書院=原本
ラーフ・フォックス著由良君美訳「ジンギスカン」86ページ、昭和63年7月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
川崎淳之助著「チンギス・ハーン世界帝国の謎 草原と熱沙に賭けた二人の王者の野望と夢」80ページ、平成8年4月、日本文芸社=原本
小沢重男訳「元朝秘史 上」138ページ、平成9年7月、岩波書店=原本
久保天随著「東洋通史 9巻」1144ページ、明治37年8月、博文館=国会図書館デジタルコレクション
ドーソン 著、田中萃一郎訳補「蒙古史」1巻35ページ、明治42年5月、富山房=国会図書館デジタルコレクション
ドウソン著、河原正訳編「蒙古史」12ぺージ、「第二章」より、昭和14年11月、大東出版社=国会図書館デジタルコレクション
野波淳著「蒙古歴史物語」44ページ、昭和17年4月、平路社=国会図書館デジタルコレクション
ギボン著、村山勇三訳「ローマ帝国衰亡史 十
」49ページ、昭和34年2月、岩波書店
宮崎市定著「世界の歴史 6宋と元
」322ページ、昭和41年12月23版、中央公論社=原本
ルネ・グルッセ著橘西路訳「ジンギス汗 世界の征服者」108ページ、昭和42年11月、角川書店=国会図書館デジタルコレクション
ドーソン著佐口透訳「モンゴル帝国史1」39ページ、昭和43年3月、平凡社=原本
ルイ・アンビス著吉田順一、安斎和雄訳「ジンギスカン――征服者の生涯――」58ページ、昭和49年7月、白水社=原本
ジャック・ウェザーフォード著横堀冨佐子訳「パックス・モンゴリカ チンバス・ハンがつくった新世界」99ページ、平成18年9月、日本放送出版協会=原本
近藤経一著「無名の道」306ページ、「或る時代の成吉思汗」より、大正10年6月、新潮社=国会図書館デジタルコレクション
有高巌著「物語東洋史」第8巻 元時代」53ページ、昭和13年2月、雄山閣=国会図書館デジタルコレクション
エレンジン・ハラ・ダワン著 本間七郎訳「成吉思汗伝」47ページ、昭和13年5月、東京朝日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
フェルナンド・グルナール著、後藤富男訳「伝記・チンギス汗――その人と時代――」49ページ、昭和14年3月、生活社=原本
石川三四郎著「東洋文化史百講 第3巻」244ページ、昭和19年5月、育生社弘道閣=国会図書館デジタルコレクション
民主主義科学者協会歴史部会編「世界歴史講座」2巻109ぺージ、「覇権の成立」より、昭和29年1月、三一書房=国会図書館デジタルコレクション
責任編集田村実造「東洋の歴史 7巻」31ページ、田村実造「統一への道」より、昭和42年4月、人物往来社=国会図書館デジタルコレクション
文藝春秋編「大世界史 第8巻」173ページ、村上正二著「蒼き狼の国」より、昭和43年1月、文藝春秋邦=原本
田村実造著「中国征服王朝の研究 中」113ページ、「十三翼の戦い」より、昭和49年3月2版、東洋史研究会
宮本高成編「軍事研究」8巻9号72ページ、大和田志郎著「ジンギスカンの虐殺」より、昭和48年9月、軍事研究社=国会図書館デジタルコレクション
佐藤正衛著「チンギス・カンの源流 モンゴル民族の基層文化と歴史」206ページ、平成18年5月、明石書店=原本
宮脇淳子著「モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで」70ページ、平成30年10月、刀水書房=原本
吉田順一著「モンゴルの歴史と社会」188ページ、令和元年12月、風間書房=原本
(43)はイワニン著、参謀本部編纂課訳述「鉄木真帖木兒用兵論後編」17ページ、「帖木児ノ世中亜細亜人民ノ状況」より、明治22年8月、陸軍文庫=国会図書館デジタルコレクション
資料その19は阪井重季、猪狩又蔵著「成吉思汗」51ページ、「十三翼の戦」より、大正4年7月、博文館=国会図書館デジタルコレクション
(44)はシャルダルジャヴィン・ナツァグドルジ著、T.ムンフツェツェグ監修、吉本るり子訳「チンギス・ハーン」、平成28年8月、アルド書店(奈良)=原本
(45)は同57ページ、同
(46)は元闕名撰「元朝祕史」4巻14丁表、光緒29年(1906年)、文瑞樓石印=国会図書館デジタルコレクション
(47)はシャルダルジャヴィン・ナツァグドルジ著、吉本るり子訳「チンギス・ハーン」57ページ、平成28年8月、アルド書店=原本
(48)は同57ページ、同
(49)は同57ページ、同
(50)は同58ページ、同
(51)は同30ページ、同
(52)は同30ページ、同
(53)はI.J.コロストウェッツ著、高山洋吉訳「蒙古近世史 ジンギス汗よりソヴェート共和国まで」5ページ、昭和13年9月2刷、東学社=国会図書館ダジタルコレクション
(54)は同5ページ、同
(55)は杉山正明著「モンゴルが世界史を覆す」56ページ、平成18年3月、日本経済新聞社=原本
(56)は箭内亙著「蒙古史研究」370ページ、「緒言」より、昭和5年10月、刀江書院=国会図書館デジタルコレクション
プラウディン著、浜中英田訳「成吉思汗 アジアの嵐」42ページ、「興隆」より、昭和15年4月、富山房=国会図書館デジタルコレクション
プラウヂン著、アンドレーコニエツト訳著、飯村穣訳・注「ジンギス汗の研究」32ページ、「テムジンの抬頭」より、昭和50年代、飯村穣=国会図書館デジタルコレクション
プラウディン著、飯村穣訳・注「大統率者 ジンギス汗の謎」60ページ、「テムジン汗となる」より、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
(57)は杉山正明著「モンゴル帝国の興亡」212ページ、「モンゴル帝国史年表」より、平成8年5月、講談社=原本
プラウディン著、浜中英田訳「成吉思汗 アジアの嵐」81ページ、「成吉思可汗」より、昭和15年4月、富山房=国会図書館デジタルコレクション
プラウヂン著、アンドレーコニエツト訳著、飯村穣訳・注「ジンギス汗の研究」64ページ、「テムジン ジンギス大汗となる」より、昭和50年代、飯村穣=国会図書館デジタルコレクション
プラウディン著、飯村穣訳・注「大統率者 ジンギス汗の謎」106ページ、「テムジン、ジンギス大汗となる」より、昭和57年3月、叢文社=国会図書館デジタルコレクション
Michael Prawdin著「 Tschingis-Chan Der Sturm aus Asien 」89ページ、出版年月不明、Büchergilde Gutenberg Berlin
(58)は朝岡康二著「鍋・釜」158ページ、「鍋・釜の形態分類」より、平成5年6月、法政大学出版局=原本
(59)は日本橋木屋監修、二見書房編「日本橋木屋 ごはんと暮らしの道具 十二ヶ月の小さなならわし」43ページ、平成27年5月、二見書房=原本
(60)は杉富士雄監修、佐藤巖、岡部喬、松田照彦、加藤健次、伊東真実著「フランス料理仏和辞典」1044ページ、平成4年3月9版、イトー三洋=原本
資料その23と同24は村井弦斎著「食道楽 春の巻 増補註釈」86ページ、「万年スープ」より、明治36年6月再版、報知社出版部=国会図書館デジタルコレクション
(61)は秋山徳蔵著「秋山徳蔵選集 第一巻」58ページ、「スープ鍋をぶちまける」より、昭和50年11月、みき書房=国会図書館デジタルコレクション
(62)は旺文社編「掌中国語辞典」487ページ、昭和32年3月、旺文社=国会図書館デジタルコレクション
(63)は金田一京助、佐伯梅友編「新解国語辞典」433ページ、昭和35年月、小学館=国会図書館デジタルコレクション
資料その25は商工省工芸指導所編「工芸ニュース」14巻3号22ページ、「厨房用の標準商品」より、昭和21年12月、商工省工芸指導所=国会図書館デジタルコレクション
資料その26は商工省工芸指導所編「工芸ニュース」14巻3号22ページ、「厨房用の標準商品」より、昭和21年12月、商工省工芸指導所=国会図書館デジタルコレクション
(64)は商工省工芸指導所編「工芸ニュース」14巻2号15ページ、「読者より」より、昭和21年月、商工省工芸指導所=国会図書館デジタルコレクション
(65)は商工省工芸指導所編「工芸ニュース」14巻3号16ページ、「女性の立場から便利な組合はせ鍋の提唱」より、昭和21年12月、商工省工芸指導所=国会図書館デジタルコレクション
(66)と(67)は商工省工芸指導所編「工芸ニュース」14巻2号23ページ、「厨房用の標準商品」より、昭和21年月、商工省工芸指導所=国会図書館デジタルコレクション
(68)は商工省工芸指導所編「工芸ニュース」14巻2号22ページ、「売行のよい厨房用具」より、昭和21年月、商工省工芸指導所=国会図書館デジタルコレクション
(69)は飯野香、武保著「調理機器 ―その選び方・使い方―」ヘージ番号なし、「はじめに」より、昭和43年4月、医歯薬出版株式会社=国会図書館デジタルコレクション
資料その27は飯野香、武保著「調理機器 ―その選び方・使い方―」160ページ、「少量調理設備と機器」より、昭和43年4月、医歯薬出版株式会社=国会図書館デジタルコレクション
資料その28は飯野香、武保著「調理機器 ―その選び方・使い方―」162ページ、「少量調理設備と機器」より、昭和43年4月、医歯薬出版株式会社=国会図書館デジタルコレクション
(70)はドーソン著、田中萃一郎訳「蒙古史」9ぺージ、「第一章」より、{昭和8年10月、三田史学会
鳥居龍蔵著「蒙古旅行」159ページ、「小巴林王府に到る」より、明治44年6月、博文館=国会図書館デジタルコレクション
「北満洲と東支鉄道 上巻」395ページ、「牧馬生産品」より、大正12年5月、南満洲鉄道株式会社庶務部調査課=国会図書館デジタルコレクション
 林田勲著「蒙疆の資源と経済」127ページ、「馬皮」より、昭和13年8月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
後藤冨男著「内陸アジア遊牧民社会の研究」66ページ、「食肉の慣行と屠殺」より、昭和43年3月、吉川弘文館=国会図書館デジタルコレクション
(71)はラーフ・フォックス著由良君美訳「ジンギスカン」32ページ、「テムジンのアジア」より、昭和63年7月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
(72)は後藤冨男著「内陸アジア遊牧民社会の研究」66ページ、「食肉の慣行と屠殺」より、昭和43年3月、吉川弘文館=国会図書館デジタルコレクション
後藤冨男著「騎馬遊牧民」64ページ、「家畜技術の伝統」より、昭和45年11月、近藤出版社=国会図書館デジタルコレクション
(73)は後藤冨男著「内陸アジア遊牧民社会の研究」67ページ、「食肉の慣行と屠殺」より、昭和43年3月、吉川弘文館=国会図書館デジタルコレクション
(74)は同73ページ、同
(75)と(76)と(77)は植竹伸太郎著「馬を食う」12ページ、「馬肉を食べる国々」より、昭和59年9月、銀河書房=国会図書館デジタルコレクション
(78)は同13ページ、同