全国民はオーバーだが、ジンパはジンギスカンを愛しやまない全道民は知っており、使っている向きも少なくない呼び方であるが、これがいつごろから言われ始めたのか。北大生のだれか、もしかすると、あるグループの隠語だったかも知れないが、北大内から始まったという見方に異論を唱える人はおるかな。いや違うと言おうにも物証がないはずだ。ともかく、それがいつごろなのか―が最大の難問、わからんのさ―といつまでも放置できなくなったのです。
初めのことだが、きょうは教える講義ではなく、オール北大卒業生、特に昭和50年代、おっと、西暦なら1980年前後のOBOGの方々へ向けての相談、いやお願いというべきか、ジンパという食べ方と呼び方が出来上がったのはいつごろなのか、知っていることを私に教えてもらうための講義です。この講義録を読んだ諸君は、クラスや部活でやったジンバを思い出して、ぜひ私に知らせてほしいのです。
ここまで読んで、なぜ「今でしょ」といわんばかりに、そういう思い出集めをするのか疑問に思った人もいるでしょう。当然です、そこです。「北大創基150年」がスターターなんですよ。
我等が母校、北海道大学は令和7年、2026年に創基150年を迎えます。札幌農学校として開校したときの校舎は時計台の辺り、いまのキャンパスは実習農場だった。コチャエの「ストームの歌」の通り、クマが住んでいて、飼育実習の豚を襲ったので、豚たちは札幌駅のあたりまでトン走してダウンしたという実話が残っています。
それはともかく、既に大学当局はその開学記念日は2026年8月14日、記念式典は夏休み明けの9月26、27日、場所は北1西1の札幌文化芸術劇場hitaruと公表しておる。これは重要事項だから、講義録では赤の太字にしておくが、これらの概要は下記URLにあるから卒業生は必ず読み、お情けでも何でも、とにかく卒業させて頂いた深い深いご恩に感謝して、最低でも送金手数料の2倍以上の寄付をしなさいよ。
ここをクリックして「創基150周年について」を読む
はい、だれでもこれを注意深く読めば、既に明治31年(1898)から昭和20年(1945)までの「資料編一」が出来上がり、インターネットで読めることがわかったはずです。それは「札幌帝国大学設立の必要を論す(1998年6月26日、札幌農学校学芸会編「札幌農学校」)」から「終戦前後の恵迪寮南寮の寮長日誌(1945年8月14~16日)」までの大勢がわかるように編集されているから一読すべきです。たとえば戦時中の金属供出でクラーク像など学内の全銅像が献納されたことが書いてある。いずれできあがる「資料編二」で、今の2代目クラーク像建立の経緯が読めるようになるでしょう。
そこでだ、近年の北大生の重要な動きとして見逃ないのがジンパの普及でしょう。ジンギスカン鍋を食べるパーテイーが、それ以前のコンパという呼び方に変わったとは言えても、ではいつ頃からか説明できるかね。それを調べて本か雑誌に書いたOBOG、歴史家はいるのかいないのか―もわからん。それでも150年史編集室では近年の北大生の生活で重要な位置を占めるジンパについて1項目作ろうと、資料集めをしていることは知らんだろう。
なにしろ大学の公式ページ担当の広報課ですら、そうしたページの有無を即答できなかったくらい探しにくいからね。そりゃ本当か、尽波さんの作り話だろうと疑う諸君向けに私はね、そのページを縮めてここで資料その1として示すことにした。サンプルだから字が小さくて完全読めないが、ジンパ関係で思い当たることがあればね、その下のURLをクリックして本物のページを読み、楽しかった思い出を150年史編集室か私にメールで送り給え。
私は来たメールを中継して同編集室へ送るだけでなく、この程度の詳しさが望ましいとか、5Wはこう具合にとかね、参考になる思い出メールを匿名で随時ここで披露し、ジンパの思い出集めをアシストします。集まりようによってはインセンティブとして、ポケットマネーで北大グッズを仕入れ、阿弥陀くじで進呈することも考えてます。ふっふっふ。
資料その1
ここをクリックして150年史編集室のページ読む
思い出の宛先は hu150(a)archives.hokudai.ac.jp
新渡戸さんじゃないが、論より実行、私が見つけた単語「ジンパ」の最古の物証を知らせておこう。物証とは本や雑誌、印刷した文書と私は規定しておるが、それは資料その2で示す平成12年(2000)に出た月刊誌「日本語学」が目下の最古例です。「るるぶ」など観光ガイド本でも札幌や北大ではジンパという単語が使われていると書いているが、私が見たこの類いの最も古い例でも平成14年ですからね。
これは講義録「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」の「平成・令和編」にも入っているので、読んだ覚えのある人もいるでしょう。北大文学部同窓会員名簿によれば、筆者の北海学園大の菅泰雄教授は国文専攻で昭和56年博士課程満期だから、院生のころの呼び方は単にジンギスカンだったかも知れません。
資料その2
●北海道
菅泰雄
<略>今から三〇年程前、筆者が大学生の頃、仲間でスキヤ
キを作ろうということになったが、東京出身の学生が牛
肉を買ってきたため、皆驚いたという話があった。スキ
ヤキと言えば、庶民レベルでは豚肉が普通だったのであ
る。また、ネギもタマネギを使うのが普通であった。今
では、牛肉、長ネギと「共通語化」している。
肉と言えば、羊肉もジンギスカンとして道民や観光客
に人気がある。北大のキャンパスでは、学生達がジンギ
スカンを囲んでいる光景を見かけることがある。筆者の
学生時代でもあった伝統が今でも受け継がれているので
あるが、ただ一つ変わったことがある。筆者の頃にはな
かった「ジンコン」とか「ジンパ」ということばである。
ジンギスカンコンパ、ジンギスカンパーティーの略で、
北大キャンパスことばと言えるものである。
私がいきなり「ジンパ」の物証として、目下最古とみられる菅氏の記事を紹介して理由を説明しましょう。小学館が発行した日本国語大辞典は日本最大の辞典であり、当然食べるジンギスカンの項目がある。昭和47年に出た同辞典第2版の『ジンギスカン』で「*手袋のかたっぽ(1943)(永井龍男)「成吉思汗(ジンギスカン)鍋は東安市場(トンアンシーチャン)の屋上にあるのださうで」(1)と使われ、さらに平成18年に出た「精選版 日本国語大辞典」では「*手袋のかたっぽ(1943)(永井龍男)初「雪の中で烤羊肉(ジンギスカン)を御馳走しよう」(2)と使われました。菅泰雄
<略>今から三〇年程前、筆者が大学生の頃、仲間でスキヤ
キを作ろうということになったが、東京出身の学生が牛
肉を買ってきたため、皆驚いたという話があった。スキ
ヤキと言えば、庶民レベルでは豚肉が普通だったのであ
る。また、ネギもタマネギを使うのが普通であった。今
では、牛肉、長ネギと「共通語化」している。
肉と言えば、羊肉もジンギスカンとして道民や観光客
に人気がある。北大のキャンパスでは、学生達がジンギ
スカンを囲んでいる光景を見かけることがある。筆者の
学生時代でもあった伝統が今でも受け継がれているので
あるが、ただ一つ変わったことがある。筆者の頃にはな
かった「ジンコン」とか「ジンパ」ということばである。
ジンギスカンコンパ、ジンギスカンパーティーの略で、
北大キャンパスことばと言えるものである。
だが「鍋」でなく「ジンギスカン料理」の説明は「満支一見(1931)(里見弴)成吉思汗料理「成吉思汗料理――そんな支那語があろう筈はなく、無論これは、その料理法なり、その場の情景から割出して、在留邦人の勝手につけた和名で」(3)に変わってる。この「満支一見」こそ、私が日国友の会に投稿した用例なのです。嘘じゃないよ、同辞典第3巻709ページの「用例提供等」のリストに私の名前があるから、なんなら探してみなさい。ふっふっふ。
ところで令和6年8月11日付日本経済新聞朝刊1面のコラム「春秋」によれば、小学館が「日本国語大辞典」の改訂作業を進め「2032年をめざし、まずデジタルで公開する『第3版』に3万~5万語を追加し、用例も充実させるという。」そうだ。
それです「創基150年史」に掲載されるだけではいかんのです。Be Ambtious、その第3版に単語「ジンパ」は、北大が生み出した学生語であると登録させたいのです。それで先駆けとして菅さんの用例を令和7年2月に日国友の会に投稿済みですが、まだ公開されていない。日国友の会の用例は古い方、同じ用例なら先に使った方が採用される。
だから菅氏の平成12年で満足せず、より古い用例を探しているのです。その意味で、自分や仲間の思い出だけでなく、平成12年以前の本や雑誌に現れたジンパの用例を知っているか、見付けたら是非私に知らせてほしい。たとえば平成11年8月に北大・小樽商大ヨット部創立50周年記念合同祝賀会が小樽市祝津で開かれときのジンギスカンは、部員達はジンパと呼んでいたはずですが、北大側の記念誌「帆楡」にはジンギスカンパー-ティーと書いてあり、1年早くするチャンスを逸しました。
これまでに150年史編集室にも送られてきたジンパ情報は余り多くないようで、令和6年に伺った情報では①最古は昭和50年(1975)と同55年(1980)に開いた野球大会(部活がどうか不明)の後のジンギスカンパーティーをジンパと呼んでいた②昭和60年ころにはジンギスカンパーティーと呼んでいた③昭和60~61年もテニスサークルがクリスマスパ-ティーをクリパ、ダンスパ-ティーをダンパと呼んでいた④昭和55年以降だが、大学生協がジンパセットを売り出したので、ジンバという単語を知った―といったところでした。
だから、いま皆さんにジンパという呼び方が流行出したころのことを思い出せと言ってもできるわけがない。それでね、私がこれまでに調べたことを話していくことにします。諸君はSNSのミクシィ、MIXIを知っていると思うが、インターネットにあまり明るくない学外の方々のために簡単に説明するとね、誰かに紹介されて会員になると、日記のスペーズが与えられ、また仲間づくりをするコミュニティという場を使えるようになります。
私は子供のころは何でも三日坊主だった。三日坊主とは物事にすぐに飽きて、長続きしない人を言うのだが、いまはあまり使われていないようだが、私は大人になるにつれて、だんだん長続きするようになり、今言ったミクシィの日記は平成15年から続いています。プライム会員になると、古い日記を検索できるから助かることかあります。
それで平成19年9月、ミクシィの北大コミュニティで「『現場主義のジンパ学』の尽波満洲男先生の雑用を務めている」24研と名乗って「ジンパセットの発売時期」を尋ねたことがあるんだ。それで約10人か覚えている時期を書き込んでくれたので、当時の投稿内容を別ページで読めるようにしたので、ぜひ読みなさい。それだけば詰まらんと読まない人がいると思うので、北大生協のジンパセットの価格が5人分4200円期、5000円期、5800円期それぞれ3枚の宣伝チラシの写真も見られるようにしたのでぜひ見てほしい。学外のOBOG向けに記録しておくが、令和5年は5人分8000円、同7年は5人分9200円になっているよ。
次の一言をクリックすれば、その「Mixiで思い出尋ねる」へジャンプします。向こうからのジャンプでこっちへ戻ります。
下記は暫定措置です。 私は平成19年にね、つまり前バージョン時代に、学内でジンギスカンを食べるようになった時期とジンバセット発売年のこと合わせて講義案みたいなページを公開したことがある。当時のスタイルは少し違うけれど、そのページの内容を資料その3として見せましょう。ただし、この中のジュージャンは何年後だったか、OB部員から今はやっていないと聞いたから、ヨット部内の一時の流行だったようです。
資料その3
平成19年9月、ミクシィの北大コミュニティで「『現場主義のジンパ学』の尽波満洲男先生の雑用を務めている」24研と名乗って「ジンパセットの発売時期」を尋ねたことがあります。
そのとき、ひろぽん、kawa、むー、にっこり@稼ぎ時、りんくま、シトロネラ、kyon、シバッチョのOBOG8人が書き込み、私を含めて書き込みは35件になったところで、1カ月ほどで出尽くした形になってしまいました。
8人の書き込みを纏めると、ジンパという呼び方は昭和61年卒と同62年卒があったと認めている。特に62年入学のシトロネラさんとりんくまさんの2人が認めているので、学部、所属部・サークル、居住場所による違いはあったにしても62年には使われていたと考えられます。
また、kawaさんが紹介した平成14年のあるホームベージは「北海道で花を愛でる、といえばジンカン(室蘭ローカルか?)。北大ではジンパというらしい。」とあり、私が平成16年5月2日付朝日新聞が1年目の学生が「クラスメートたちと構内で初めてジンギスカンパーティー(初ジンパ)を体験した。」、同年6月21日付道新のコラム「卓上四季」で「『ジンパ』と最近の若い人は言うそうだ。何のことかと思ったら、羊肉を鉄鍋で焼くあのジンギスカンを楽しむパーティーの略称だという。それならこっちは何十年も前からやっている<略>」を投稿しています。つまり平成10年代には学外にもジンパは北大独特の言い方として広まっていたとみられるのです。
このほか、北大コミュとは別にミクシィのメッセージを使って宇宙恐竜ゼットン、300km/h、退会したユーザーの3人から情報が寄せられた。宇宙恐竜ゼットンさんによると、教養部の食堂で使われていたアルマイト製のサービス盆は「ジンギスカン鍋として重宝」していたそうです。そのころアルミ鍋はまだ売ってなかったのかも知れず、調べてみます。
特に穏当な言い方をすれば、教養部の学生たちは、鋳物のジン鍋の代わりに極めて安く手に入るアルマイト製のお盆を使ってジンギスカンをやっていたらしいんですな。そんなとき食堂がプラスチック盆に切り替え始めらしく、その前にアルマイト盆を確保しておこうと皆あせったそうです。つまり、それぐらいジンギスカンは身近な食べ物になっていたということらしい。
そうポピュラーになれば何でも短縮していう学生語にならないわけがない。ジンギスカンでパーティーかジンギスカンのコンパが縮めてジンパとかジンカンになったのでしょう。私は現役のヨット部員がいうジュージャンとは何かと聞いたことがある。下宿住まいの学生も使っていたかも知れないが、ヨット部の場合、合宿所が祝津の丘の上にあり、ジュースはハーバー近くの商店まで行かなきゃ買えない。その坂道の上り下りがきついので、ジュースを買いに行く者を決めるジャンケン、ジュージャンは真剣勝負だったようです。
私は令和2年になってからゼットンさんにメッセージを送り、コロナウィルス感染の恐れがなくなったら、より詳しく思い出を聞かせてもらえることになりました。いくら鍛えた体とはいえ私は後期高齢者だからね、ジンパ学の残る課題を片付けるためにも、外出自粛で用心するに限る。ちょっと脱線だが、このミクシィ・メッセージのやりとりで、退会したユーザーさんは、私が出た高校の後輩で、同期生で母校の先生になったK君から英語を教わったという奇縁がわかりました。岩鷲寮に女子の後輩がいると聞いたことがありますが、男の後輩はユーザーさんが初めてでしたよ。
平成19年9月にクラーク会館で「恵迪百年祭」が開かれることを知ったので、集まる元寮生にプラカードでジンパの思い出を尋ねたことがあります。ジンパという北大語を知らない世代も来るから「昭和卒の方へ/ジンギスカン・セットを覚えていますか/食べた時期を教えて下さい」をメインにして「北大生協のアレです 七輪借りて焼いた」「ジンパという単語はどう」も加えて作った。取り付ける手頃に棒がなかったので、手に持って示すことにしました。資料その7がそのときの出で立ちとミクシィに書いた報告です。
資料その4の背景を無色にしたのは、資料その3とした公開ページの中の枠で囲んだ記事と写真だったことを示すためです。これは、このページを組んでいる私個人の趣味によるもので、内容には無関係です。そのとき、ひろぽん、kawa、むー、にっこり@稼ぎ時、りんくま、シトロネラ、kyon、シバッチョのOBOG8人が書き込み、私を含めて書き込みは35件になったところで、1カ月ほどで出尽くした形になってしまいました。
8人の書き込みを纏めると、ジンパという呼び方は昭和61年卒と同62年卒があったと認めている。特に62年入学のシトロネラさんとりんくまさんの2人が認めているので、学部、所属部・サークル、居住場所による違いはあったにしても62年には使われていたと考えられます。
また、kawaさんが紹介した平成14年のあるホームベージは「北海道で花を愛でる、といえばジンカン(室蘭ローカルか?)。北大ではジンパというらしい。」とあり、私が平成16年5月2日付朝日新聞が1年目の学生が「クラスメートたちと構内で初めてジンギスカンパーティー(初ジンパ)を体験した。」、同年6月21日付道新のコラム「卓上四季」で「『ジンパ』と最近の若い人は言うそうだ。何のことかと思ったら、羊肉を鉄鍋で焼くあのジンギスカンを楽しむパーティーの略称だという。それならこっちは何十年も前からやっている<略>」を投稿しています。つまり平成10年代には学外にもジンパは北大独特の言い方として広まっていたとみられるのです。
このほか、北大コミュとは別にミクシィのメッセージを使って宇宙恐竜ゼットン、300km/h、退会したユーザーの3人から情報が寄せられた。宇宙恐竜ゼットンさんによると、教養部の食堂で使われていたアルマイト製のサービス盆は「ジンギスカン鍋として重宝」していたそうです。そのころアルミ鍋はまだ売ってなかったのかも知れず、調べてみます。
特に穏当な言い方をすれば、教養部の学生たちは、鋳物のジン鍋の代わりに極めて安く手に入るアルマイト製のお盆を使ってジンギスカンをやっていたらしいんですな。そんなとき食堂がプラスチック盆に切り替え始めらしく、その前にアルマイト盆を確保しておこうと皆あせったそうです。つまり、それぐらいジンギスカンは身近な食べ物になっていたということらしい。
そうポピュラーになれば何でも短縮していう学生語にならないわけがない。ジンギスカンでパーティーかジンギスカンのコンパが縮めてジンパとかジンカンになったのでしょう。私は現役のヨット部員がいうジュージャンとは何かと聞いたことがある。下宿住まいの学生も使っていたかも知れないが、ヨット部の場合、合宿所が祝津の丘の上にあり、ジュースはハーバー近くの商店まで行かなきゃ買えない。その坂道の上り下りがきついので、ジュースを買いに行く者を決めるジャンケン、ジュージャンは真剣勝負だったようです。
私は令和2年になってからゼットンさんにメッセージを送り、コロナウィルス感染の恐れがなくなったら、より詳しく思い出を聞かせてもらえることになりました。いくら鍛えた体とはいえ私は後期高齢者だからね、ジンパ学の残る課題を片付けるためにも、外出自粛で用心するに限る。ちょっと脱線だが、このミクシィ・メッセージのやりとりで、退会したユーザーさんは、私が出た高校の後輩で、同期生で母校の先生になったK君から英語を教わったという奇縁がわかりました。岩鷲寮に女子の後輩がいると聞いたことがありますが、男の後輩はユーザーさんが初めてでしたよ。
平成19年9月にクラーク会館で「恵迪百年祭」が開かれることを知ったので、集まる元寮生にプラカードでジンパの思い出を尋ねたことがあります。ジンパという北大語を知らない世代も来るから「昭和卒の方へ/ジンギスカン・セットを覚えていますか/食べた時期を教えて下さい」をメインにして「北大生協のアレです 七輪借りて焼いた」「ジンパという単語はどう」も加えて作った。取り付ける手頃に棒がなかったので、手に持って示すことにしました。資料その7がそのときの出で立ちとミクシィに書いた報告です。
資料その4
9月22日開かれた恵迪百年記念祭で集まる元寮生諸氏にジンギスカンセットのことを尋ねてみようと、午前中にブラカードを自作し、昼過ぎからクラーク会館前にいた寮史・恵迪寮グッズ売りの現役諸君のそばで呼びかけてみました。恵迪寮同窓会総会、記念式典、記念講演が同館で続けて開かれるからです。
赤い目立つネームカードを首から下げた人たちが次々と会館にやってくるので、きょうの参加者だろうと思い、昭和50年代はいませんかと声を掛けたのですが、みな素通りです。だいぶたってから、それらは物理関係の学会出席者とわかりました。変な顔をされるわけです。
何人かと話しましたが、ジンギスカン関係で最古は昭和38年に北大生協から肉を買って十五島に行き、ジンギスカンを食べたはずという思い出を聞きました。その生協のそうした販売部門はクラーク会館の地下にあったそうです。そうなると、札幌などで羊肉を買った客に肉店が鍋を貸すサービスをしたように、生協のジンパセットは貸し鍋から始まったことが考えられます。
また、その方と同年代と思われる方は、ジンギスカンはよく食べたが、寮の近くの肉屋から買っていたので、生協の方はよくわからないということでした。確かに北18条あたりからでは無理もないと思いました。
それから帯広出身で横浜からこられたS氏です。北大工学部を含め7大学を出た方で、自宅にロストル型の鍋があるはずだというのです。すぐ拝見に横浜へ行けばよかったのですが、ついついその儘になってしまいました。
この写真は岡山からこられた文学部OGに撮ってもらったものですが、やはり少しオカシイ人として敬遠されたのでしょうね。また別の手を考えることにします。
資料その5
脱線ですが、日記によるとS氏は昭和21年入学、寮では重湯みたいな朝食、昼はカボチャ、夕食は少し飯らしいものだった。そんな食事でも食堂に入るときは上着を着て座る伝統を守った。敗戦直後のことであり、上着といっても軍服かボロ学生服だった。一部の寮生が夏ぐらい脱ぐことにしようと言い出したが、S氏は伝統を守れと食堂に檄文を張り出し、それは今も持っていると語った。20歳を過ぎていたので煙草の配給があり、煙草巻き器で巻いたそうだが、悠々と煙草を吸うオンケルの意見が通ったのかどうか迄は聞けなかった。私は午後3時半からクラーク像の後ろで円陣になっての大合唱にも加わり、おやつ代わりに学食で120円の月見うどんを食べて帰宅したとあります。
今思うと、後で書いて送るといったくれた元寮生が5人はいたはずたから、ミクシィにもう少し書き込みがあってもよさそうなものだが、この後、新しい人の書き込みはありませんでした。
ジンパという呼び方の発生時期はいつごろかと聞かれると、私はわからないと答えることにしています。わからないからジンパ学の講義録でも後回しにしてきた。知っていることがあったら教えてといいつつ15年たってしまったのです。
私が平成19年に道新データベースで「ジンパ」を検索した記録によると、65件出ましたが、ほとんどがバージンパルプかエンジンパワーでジンパは、たったの2件でした。1件は平成16年5月24日付夕刊の「ゆうたうん」です。北大構内を見る市民ツアーで學生ガイドがジンパをやっているサークルを見て「『ジンパ』と呼ばれています。道外出身の北大生は羊の肉が苦手」と話したとありました。
もう1件は同年6月21日付朝刊1面の「卓上四季」で「『ジンパ』と最近の若い人は言うそうだ。何のことかと思ったら、羊肉を鉄鍋で焼くあのジンギスカンを楽しむパーティーの略称だという。それならこっちは何十年も前からやっている<略>」でした。
道新データベースが昭和63年7月から記事の蓄積を始めたというせいもありますが、昭和の記事の蓄積はないんですなあ。
この百年祭から17年後の今、あれは無意味な行為だったと反省してます。あのとき集まったのはやはり経済的余裕があったOBであり、S氏よりは若いように見えるボーイズだったが、彼らは戦時中から戦後に掛けての食糧難時代、ジンギスカンどころではなかった時代を生き抜いてきたOBであり、私にしても日本に引き揚げてきて以来、社会人になるまで一度もジンギスカンにありついてことがなかったんですからね。ましてや、もっと年長の方々に在学中のジンギスカンとの関係を聞こうとしたことは、所謂「木に縁って魚を求める」ようなことだったのです。赤い目立つネームカードを首から下げた人たちが次々と会館にやってくるので、きょうの参加者だろうと思い、昭和50年代はいませんかと声を掛けたのですが、みな素通りです。だいぶたってから、それらは物理関係の学会出席者とわかりました。変な顔をされるわけです。
何人かと話しましたが、ジンギスカン関係で最古は昭和38年に北大生協から肉を買って十五島に行き、ジンギスカンを食べたはずという思い出を聞きました。その生協のそうした販売部門はクラーク会館の地下にあったそうです。そうなると、札幌などで羊肉を買った客に肉店が鍋を貸すサービスをしたように、生協のジンパセットは貸し鍋から始まったことが考えられます。
また、その方と同年代と思われる方は、ジンギスカンはよく食べたが、寮の近くの肉屋から買っていたので、生協の方はよくわからないということでした。確かに北18条あたりからでは無理もないと思いました。
それから帯広出身で横浜からこられたS氏です。北大工学部を含め7大学を出た方で、自宅にロストル型の鍋があるはずだというのです。すぐ拝見に横浜へ行けばよかったのですが、ついついその儘になってしまいました。
この写真は岡山からこられた文学部OGに撮ってもらったものですが、やはり少しオカシイ人として敬遠されたのでしょうね。また別の手を考えることにします。
資料その5
今思うと、後で書いて送るといったくれた元寮生が5人はいたはずたから、ミクシィにもう少し書き込みがあってもよさそうなものだが、この後、新しい人の書き込みはありませんでした。
ジンパという呼び方の発生時期はいつごろかと聞かれると、私はわからないと答えることにしています。わからないからジンパ学の講義録でも後回しにしてきた。知っていることがあったら教えてといいつつ15年たってしまったのです。
私が平成19年に道新データベースで「ジンパ」を検索した記録によると、65件出ましたが、ほとんどがバージンパルプかエンジンパワーでジンパは、たったの2件でした。1件は平成16年5月24日付夕刊の「ゆうたうん」です。北大構内を見る市民ツアーで學生ガイドがジンパをやっているサークルを見て「『ジンパ』と呼ばれています。道外出身の北大生は羊の肉が苦手」と話したとありました。
もう1件は同年6月21日付朝刊1面の「卓上四季」で「『ジンパ』と最近の若い人は言うそうだ。何のことかと思ったら、羊肉を鉄鍋で焼くあのジンギスカンを楽しむパーティーの略称だという。それならこっちは何十年も前からやっている<略>」でした。
道新データベースが昭和63年7月から記事の蓄積を始めたというせいもありますが、昭和の記事の蓄積はないんですなあ。
そこで札幌農学校時代から見直すことにした。私はオリエンテーションでもいいましたが、わが北海道大学は創基1年のときは札幌農学校であり、時の教頭がクラークさんだったのです。クラークさんは北海道に於いて綿羊を飼うべきだとして開拓使に「細毛ノ『メリノー』中毛ノ『サウスダウン』長毛ノ『コツツウールド』若シクハ『リーセストル』等ニテ可ナルヘケレハ此等ヲ以テ暫ク之ヲ実際ニ試ミ其北海道ニ適スル者ハ果シテ何種ニ在ル乎ヲ知リ又タ之ヲ全道ノ各地方ニ送リ従前ノ種ヲ改良スルノ種羊トナスヘキナリ」(4)と意見書を提出した。古川講堂のあたりの牧舎があり、中央ローンあたりで羊群がのんびり噛み戻しをしていた時代があったりして以来幾星霜、資料その6の写真を見なさい。これは平成27年の北大文書館の年賀状です。大学のリンゴ園でジュージュー、ぱくぱくなんて、よそではまずできないコンパ、いや70年前のジンパの元祖クラスの写真です。黄色のところに説明があるけど私はね、ここに書かれていない、極めて私的な説明を加えましょう。
資料その6
満洲育ちで標準語といわれる日本語で育った私にすれば第1外国語は南部弁だった。引き揚げてきて高校を出るまでの6年で、南部育ちと間違えられるくらい習得したが、小南部という名詞はそのとき初めて聞いた。いまではウィキペディアにも書いてあるがね。八戸ではこっちが本家で、盛岡は分家だと聞かされていたのに、岩手側は本家みたいに大南部といってるなと、言われた瞬間ぱっと察したね。そのご老体が花巻出身の学長、島さんだったのです。
また、なにかの陳情で先輩にくっついて学長室に入ったことがあります。そのとき部屋の真正面に人形を入れるような硝子ケースがあり、赤い林檎が1個、入っていた。さすが「リンゴの神様」といわれる学者らしいと感心したことを覚えています。
この写真説明では余市果樹園としか書いていないが、農学部の附属果樹園(4ヘクタール)ですね。昭和29年8月、道内で第9回国民体育大会が開かれ、昭和天皇、皇后両陛下が来道され「両名は二十一日には余市町にある農学部附属余市果樹園と北海道立水産試験場を訪れ、いずれにおいても北海道大学教官からの説明をうけた。」と「北大125年史」(第5章 戦後の北海道大学、通説123頁)にあります。また昭和34年農学部卒て芥川賞を受けた作家加藤幸子もここでリンゴの袋掛けをやらされた由緒あるリンゴ園なのです。
彼女は名作「苺畑よ永遠に」でこう書いた。読みますよ。「しかし最終回の実習日に期待は報われた。急にがらんとしたりんごの樹下で棍炉に炭火がおこされ、学生と教官は円になってジンギスカンを食べた。収穫したばかりのりんごは、脂っこい料理の口直しのデザートと消化剤として好きなだけ提供された。」。(5)さりとて3つも食べられないと思うが、まあ加藤さんは書いていませんが、大きく口を開けて遠慮無く囓ったことでありましょう。
どうして余市でジンパをやったのか、星野家資料に書いてあるのかも知れないが、両先生のお年は計算すると、このとき星野さんはちょうど80歳、島さんは66歳となる。お2人が元気なうちに謝恩会を開く話が持ち上がり、どうせなら思い出の実習場、余市の林檎園でとなったと私は想像するのです。
星野さんは昭和13年に退官して月寒の八紘学院長に就任、30年院長を務めたからジンギスカンを知らないわけはないし、島さんは昭和27年のつきさっふジンギスカンくらぶが結成された時の代表会員に入っている。さらにリンゴの花見にもなるかと5月にしたとみられます。
ですからお2人は端にいるのではなく、星野さんの横に空いた椅子が2脚もあることからもわかるように、こっち側にも同じぐらいの園芸学OBがいて両先生の位置は真ん中でしょう。脱線だが、星野、島両先生の功績を称え、道内のリンゴ農家がリンゴ1箱運動といって1箱相当の寄付をして建てた頌徳碑をが園内にあることも知っておいてほしいね。
北大の先生方とジンギスカンの深い関係を察することが出来る資料がもう1件あります。昭和32年農卒で市立小樽美術館長も務めた美術評論家、吉田豪介氏が若いときに書いた随筆に出てくるタレ作りの名人深沢助手です。「『じんぎすかん鍋』に寄せるオムニバス」に出てくる。資料その5がその前後です。
資料その7
「じんぎすかん鍋」に寄せるオムニバス
吉田豪介〈HBCテレビデイレクター〉
学部時代は北大に隣接する明治天皇ゆかり
の地「偕楽園」近くのFさんというお宅に下
宿していた。剣道部キヤプテンで同じ畜産学
科の倉方という男と、竹野という(東京学大
をすべつて)今田敬一画伯の森林美学を専攻
していた男と、三人が下宿人のメムバーだつ
た。
秋もふけてストーブがとりつけられると待
ちかまえていたように「じんぎすかん」をは
じめた。たれつくりの名人だつた深沢さんと
いう肉製品教室の助手から「本格モルト」級
のたれをもらつて、百匁百円也の羊肉、三本
の長葱と一本の一升瓶を献立に、あらかじめ
学生服もズボンも脱いでのパーテイだつた。
赤々としたストーブの上に直接あぶらをの
せ、じゆうじゆうという音に完全殺菌を確か
め、食欲にさそわれるまま、かねて残してお
いたべんとう箱の御飯で舌鼓をうつた。三人
の顔と四方の壁がギトギトと裸電球に映える
ころ、指先から五体へ精力がみなぎるような
快感にさそわれ、ひとしきり「都ぞ弥生」を
高唱し、やがて「木刀の素振」がはじまるの
が常だつた。
階下のおぱさんがどなりこむのもしばしば
だつたが「おれの動きなら軽いから、お前た
ちのせいだ。」
倉方はいばつた。
「畳がしつとりとすべつて道場みたいだ。」
と専門的な意見もぬかした。あぶらがしみこ
んでいたから……。木刀の素振りとギラギラ
した顔は妙なコントラストで「成吉思汗」を
しのばせ、開けはたれた窓からは、あぶらぎ
つた煙が青春のエネルギーをのせて長い夜の
しじまに流れていつた。
「札幌百点」2巻9号25ページ、吉田豪介「『じんぎすかん鍋』
に寄せるオムニバス」より、昭和35年10月、百彩社=原本
ジンパ学の研究を始めて間もない頃、私は吉田さんに「あなたの随想をホームページに引用させてほしい」と電話したことがあります。彼はどう書いたか忘れたようだったので、全文をメールで送った。すると吉田さんから「自分でも驚くほどの駄文で赤面しながら読んだ。下宿の部屋に何日も匂いがこもって往生したことなどを鮮明に思い出した」とメールがきた。通った店の名前も尋ねたのだが、その答えはなかったと私のミクシィ日記にあります。吉田豪介〈HBCテレビデイレクター〉
学部時代は北大に隣接する明治天皇ゆかり
の地「偕楽園」近くのFさんというお宅に下
宿していた。剣道部キヤプテンで同じ畜産学
科の倉方という男と、竹野という(東京学大
をすべつて)今田敬一画伯の森林美学を専攻
していた男と、三人が下宿人のメムバーだつ
た。
秋もふけてストーブがとりつけられると待
ちかまえていたように「じんぎすかん」をは
じめた。たれつくりの名人だつた深沢さんと
いう肉製品教室の助手から「本格モルト」級
のたれをもらつて、百匁百円也の羊肉、三本
の長葱と一本の一升瓶を献立に、あらかじめ
学生服もズボンも脱いでのパーテイだつた。
赤々としたストーブの上に直接あぶらをの
せ、じゆうじゆうという音に完全殺菌を確か
め、食欲にさそわれるまま、かねて残してお
いたべんとう箱の御飯で舌鼓をうつた。三人
の顔と四方の壁がギトギトと裸電球に映える
ころ、指先から五体へ精力がみなぎるような
快感にさそわれ、ひとしきり「都ぞ弥生」を
高唱し、やがて「木刀の素振」がはじまるの
が常だつた。
階下のおぱさんがどなりこむのもしばしば
だつたが「おれの動きなら軽いから、お前た
ちのせいだ。」
倉方はいばつた。
「畳がしつとりとすべつて道場みたいだ。」
と専門的な意見もぬかした。あぶらがしみこ
んでいたから……。木刀の素振りとギラギラ
した顔は妙なコントラストで「成吉思汗」を
しのばせ、開けはたれた窓からは、あぶらぎ
つた煙が青春のエネルギーをのせて長い夜の
しじまに流れていつた。
「札幌百点」2巻9号25ページ、吉田豪介「『じんぎすかん鍋』
に寄せるオムニバス」より、昭和35年10月、百彩社=原本
タレつくりの名人という深沢さんは、そのとき文部省職員録を調べ、九州大の教授にそれらしい人がいることを確認しだけで終わった。いま検索したら深沢さんこと深沢利行氏はね、独立行政法人 農畜産業振興機構のホームページの平成13年12月号の「今月の話題」に随想「牛肉あれこれ」を書いており、略歴として「昭和27年北海道大学農学部助手、39年同助教授、47年九州大学農学部教授、平成4年九州大学名誉教授」とあるから、この先生に間違いない。
さて、学生側では私と同期、昭和27年入学の故渡辺淳一、医師から作家に転身した彼が書いた本「これを食べなきゃ――わたしの食物史」にある北大の合格祝いが一番古い。これはトップページにも引用させてもらったが「もともとヒツジの肉は、脂がはじけるわりにはあっさりとして食べやすい。とくに時間をかけるとかなりの量がいけるが、それにしても、四人で十五キロ、一人で四キロ弱とはずいぶん食べたものである。いまではその十分の一でも充分だが、そのころは若かった。アルコールも焼酎に燗をして飲んでいた。」(6)とあります。
この前に「札幌の丸井デパートで、ヒツジの肉と一緒にいろいろな形の鉄鍋を売っているというので、友達と見にいった覚えがある。そのころはまだ鍋が高かったので、肉を買うとタレと一緒に、鍋を貸してくれた。」(7)とあるから、借りたジン鍋で焼いたんでしょう。
私は満洲で食べていたジンギスカンが豚肉だったので、声なく牧舎に帰る羊群がジンギスカンで食べられる動物だなんて思いもよらず、いつか奨学資金が出たとき中央食堂の鯨カツ定食を―と思いつつ、スルメの佃煮なんかで悪友と飲む方に専念、ついに賞味せずに卒業しちゃった。
恵迪寮の諸君なんかはどうしていたのかと「恵迪寮史」を見たら、資料その8にした4件が見付かりました。昭和36年が最も古いが、なんせ厖大な記録だから見落としがあるかも知れません。またその中の(3)はジンギスカンとは書いていないが、実質ジンギスカンだから、学生生活への浸透していた証拠として取り上げました。
ジンギスカンとはいわなかったような気がするが、昭和36年の映画「大学の若大将」で水泳部主将の加山雄三が浄化槽のジン鍋に似た鉄蓋を使って部員に焼き肉を振る舞うと、なんだか見たことのある鍋だなあと部員が怪しみながら食べるシーンがありましたね。東京の学生間でもジンギスカンがはやりだしていたんでしょう。
それから寮史ではないが、恵迪寮同窓会の会誌「恵迪」8号に昭和39年入寮の佐竹正治氏が書いた「わが青春の恵迫寮永遠なれ!」に「<略>観桜会や歓迎ジンギスカンパーティ、部屋対抗早朝野球(ソフトボール?)も実に楽しいものであった。」(8)とあるから、このころは定番の入寮歓迎行事になっていたんじゃないかな。こうしたことは、そのときの寮生でないとわかりませんよね。とにかくジンパに関しての記憶をメールで教えてもらいたいのです。
資料その8
コンパ
(1)昭和36年の第171期執行委員会のとき「三月三十日、昼頃、スキー部の部屋でボヤ発生。原因はジンギスカンのコンロであった。」(624ページ)
(2)九月五日、原始林で従業員慰安ジンギスカンコンパ。」(632ページ)
(3)昭和45年 第199期委員会のときの「六月五日、委員会結成コンパ 費用三八〇円×十二人、マトン六kg、野菜適当、酒二升、ビール三本、つまみ少々、たれ二本、酒が若干少なかったようだ。(寮務日誌より)」(831ページ)
(4)昭和49年 第2**期委員会のとき「四月九日、北海道セツルメント連合、恵廸セツラー会によるジンギスカンコンパが行われる。」(904ページ)
前バージョンのオリエンテーションでも言ったことだが、私は2年目のときヨット部に入り、ときどき練習に顔出しした程度でも卒業まで部員だった。それでヨット部卒業生の組織、北大帆楡会員となり、会員名簿を持っているので、昭和50年代のOB数人に「ジンパという単語を使っていたか」とメールで尋ねてみたのです。資料その9は私の質問に対するOB各氏の返事です。(1)昭和36年の第171期執行委員会のとき「三月三十日、昼頃、スキー部の部屋でボヤ発生。原因はジンギスカンのコンロであった。」(624ページ)
(2)九月五日、原始林で従業員慰安ジンギスカンコンパ。」(632ページ)
(3)昭和45年 第199期委員会のときの「六月五日、委員会結成コンパ 費用三八〇円×十二人、マトン六kg、野菜適当、酒二升、ビール三本、つまみ少々、たれ二本、酒が若干少なかったようだ。(寮務日誌より)」(831ページ)
(4)昭和49年 第2**期委員会のとき「四月九日、北海道セツルメント連合、恵廸セツラー会によるジンギスカンコンパが行われる。」(904ページ)
資料その9
昭和56年工学部卒 渡辺泉氏
「ジンパ」ですが、M2で昭和58年1983年まで在学していた間に、このように略したことはありません。工学部では研究室の新歓を始めとして秋までに何かにつけてジンギスカンをやっていました。自分は応物だったので場所は応物棟と原子棟の間の駐車場、工学部と理学部の間の池の周りなど、中央ローンは文系やサークル系の縄張りとの認識でしたね。
七輪や鍋、タレは実験室に完備のもの。肉は生協でなく学外のスーパーか肉屋でなるべく安いのを求めてた気がします。
また、1995~2000年に札幌勤務していた頃には、既にジンパという呼称は聞いた気もします。思うにこの頃、パリピとかチョベリバなどの略語が流行したので流行ってたので同様のノリで発生したのではないかと思います。
昭和55年理学部卒 大野幸正氏
お問い合わせのの件、「ジンパ」という単語、使った覚えがありません。
昭和56年経済学部卒 藤沢桂一氏
私は自宅生でありましたので、ジンギスカンはもっぱら私の家の外でヨット部同期の連中とやっていました。
そのときはジンギスカンパーティーとかジンパという言葉は使っていなかったな。
その頃見かけたのは工学部前のところで大勢が白衣着たままでジンギスカンをやっているところでした。
ですので工学部出身の渡辺泉、井上、木村、柳館、武政あたりがヒントを持っているもしれません。
もっとも彼らは大学にはあまり顔出ししていなかったからもジンパは仲間はずれにされていたかもしれませんが。笑。
中央ローンでやっているところは見かけませんでしたね。
平成元年理学部卒 高田明氏
『ジンパ』
私は理学部所属ですが、理学部ではジンパとは言っていなかったです。
単にジンギスカンと言っていました。
ちなみに卒業はH1ですが、修士課程終了のH3春まで在札でした。
『羊肉購入』
クラーク会館横にあった大学生協(クラーク会館店?)で購入していました。
研究室に七輪やジン鍋がありましたが、たしか生協で学生証を見せて羊肉を買うと七輪とジン鍋の無料貸し出しサービスがあったと記憶しています。
『ジンギスカンの場所』
理学部では中央ローンでなく理学部北の中央生協(?)周辺のローンや、理学部南のテニスコート脇でした。
先頭の渡辺氏の「パリバ」「チョベリバ」という単語が流行ったのは25年も昔のこと出、皆さんは知らないかもしれないから説明しよう。パリパは平成24年のパリ・オリンピックの「パリ」とパーティーや行事を意味する「パーティー」の「パ」を組み合わせた造語でね、いろいろな盛り上がりを伝える単語として使われた。「ジンパ」ですが、M2で昭和58年1983年まで在学していた間に、このように略したことはありません。工学部では研究室の新歓を始めとして秋までに何かにつけてジンギスカンをやっていました。自分は応物だったので場所は応物棟と原子棟の間の駐車場、工学部と理学部の間の池の周りなど、中央ローンは文系やサークル系の縄張りとの認識でしたね。
七輪や鍋、タレは実験室に完備のもの。肉は生協でなく学外のスーパーか肉屋でなるべく安いのを求めてた気がします。
また、1995~2000年に札幌勤務していた頃には、既にジンパという呼称は聞いた気もします。思うにこの頃、パリピとかチョベリバなどの略語が流行したので流行ってたので同様のノリで発生したのではないかと思います。
昭和55年理学部卒 大野幸正氏
お問い合わせのの件、「ジンパ」という単語、使った覚えがありません。
昭和56年経済学部卒 藤沢桂一氏
私は自宅生でありましたので、ジンギスカンはもっぱら私の家の外でヨット部同期の連中とやっていました。
そのときはジンギスカンパーティーとかジンパという言葉は使っていなかったな。
その頃見かけたのは工学部前のところで大勢が白衣着たままでジンギスカンをやっているところでした。
ですので工学部出身の渡辺泉、井上、木村、柳館、武政あたりがヒントを持っているもしれません。
もっとも彼らは大学にはあまり顔出ししていなかったからもジンパは仲間はずれにされていたかもしれませんが。笑。
中央ローンでやっているところは見かけませんでしたね。
平成元年理学部卒 高田明氏
『ジンパ』
私は理学部所属ですが、理学部ではジンパとは言っていなかったです。
単にジンギスカンと言っていました。
ちなみに卒業はH1ですが、修士課程終了のH3春まで在札でした。
『羊肉購入』
クラーク会館横にあった大学生協(クラーク会館店?)で購入していました。
研究室に七輪やジン鍋がありましたが、たしか生協で学生証を見せて羊肉を買うと七輪とジン鍋の無料貸し出しサービスがあったと記憶しています。
『ジンギスカンの場所』
理学部では中央ローンでなく理学部北の中央生協(?)周辺のローンや、理学部南のテニスコート脇でした。
また「チョベリバ」は、超の「チョウ」に「ベリーバッド」を加えて超・最悪というか、極めて悪いという意味の造語で、平成8年の流行語大賞に選ばれました。どちらも所謂ギャルたちが言い出したとされているが、渡辺氏はそうした短縮語の流行が、北大内にも波及し、ジンパと縮めた言い方も始まったのではないかというんだね。ヨット部OBらしからぬ卓見というべきですなあ。はっはっは。
私は日夜、いろいろな角度から「ジンギスカン」を検索しているが、令和2年10月に北大法学部同窓会報「楡苑」35号を見つけた。読んでみたら座談会「白取祐司先生を囲んで」でジンパの話になり、1997(尽波注=平成9)年入学の菅原直美さんが「ジンパというと、 場所はどこでやったのでしょう。 中央ローンとかですか。」という質問に対して、昭和61年入学の丸山朋子さんは「中央ローンはすでにジンパ禁止になっていたので、法学部の前でやったのでは。W棟がまだできる前だったと思います。今も同じかどうか分からないけど、生協でジンパセットを買ってきて、よくやりましたね。」(9)
と答えていました。
それで丸山さんと同席していた山本剛氏に「ジンパの思い出を教えて」と私はメールでお願いしました。資料その10が両氏からのお答えメールの内容です。丸山氏からは2回に分けてお答えを頂いたので、重複を避け並べ替えています。
資料その10
丸山朋子氏(東京都)
私は山本剛氏と同期入学で、在籍期間は1986(尽波注=昭和61)年4月~1990(尽波注=平成3)年3月です。
私がジンパをよくやっていたのは1988年の夏まででした。
ジンパセット、という世紀品商品名でどこまでがセットの内容だったのかは、既に記憶が定かではありません。
当時、大学生協の肉屋さんのコーナーで1000円程度のラム肉とカット野菜のセット、炭などを購入すると
七輪を貸してもらえました。
学生証と引き換えか、学生証を見せると七輪を貸してもらえました。
中央ローンの芝生の保護?の観点からか中央ローンではジンパができなくなり、文系長屋(法学部)の対面の芝生のあたりでいつもやっていました。
学食は早い時間に終わってしまうし、どれだけ安くても居酒屋に行く金銭的な余裕はない仲間が多く、何より大学生協で食材と飲み物が安く購入できたので、1人1000円もあれば十分に長い時間楽しむことができたし、北海道の短い夏を楽しんでいました。
鍋は、使い捨てのアルミのような軽いものが販売されていました。
ビールはサッポロクラシックの24缶入りを箱買いしていました。
その他には、実家からビール券を送ってもらっている友人などのカンパや飲食店アルバイトをしている学生が棚卸しでお店からもらったキープボトルの飲み残しをもってきてくれたりしていましたね。
私は、「ジンパ」しか表現を知りませんでした。
ラム肉は札幌で初めて食べました。
丸い筒状の冷凍肉の塊だった記憶があります。
山本剛氏(御殿場市)
1 ジンパ時の鍋と酒の入手
鍋はもっぱら使い捨ての鍋で、北大生協の「ジンパセット」に入っていました。酒については、近所のスーパー等で別に買っていました。「ジンパセット」に多少の缶ビールがついていたかもしれませんけれども、貧乏学生のことですので安く売っているスーパーで酒を調達し、足りなくなったら生協やコンビニを含めた「近所で買う」というスタイルだったと思います。
2 鍋と七輪の借用方法
結果的に北大生協で借用した形です。前述の「ジンパセット」は1人あたり1,000~1,500円程度で肉・カット野菜・炭・使い捨ての鍋を購入するもので、これを購入すると七輪を借用できました。生協では会員証を確認して販売・貸出を行うのですが、代表者1名が学生証を提示すれば足りたので幹事役の学生が学生証を用意していたと思います。鍋と七輪は5人に1つ行き渡る形でした。
なお、「ジンパセット」にビールがついていたのか記憶にありません。缶ビール1~2本はついていたのかもしれませんが、北大生の中には未成年がいたことを考えると少なくとも公式には販売しなかったかもしれません。酒類がついていたとしてもほとんどのアルコールを学外で調達していたため印象が薄く、記憶が定かでありません。
3 「ジンパ」という用語は既に使われていたか
1986(尽波注=昭和61)年4月時点で在校生も使っていました。私は1986年4月に入学しましたが、新入生を対象としたオリエンテーションの際に在校生が「ジンパ」という言葉を使っていました。もちろん、私たちは「ジンギスカン」以上に「ジンパ」の方を使っていました。
当時も学内でジンパを行うことはありましたが、丸山さんも言われるとおり中央ローンは禁止エリアになっていました。芝の養生が理由だったと思いますが、一部の学生は「北大を観光地化するためのイメージ戦略として目立つところでのジンパを禁止したものだ」と憤慨していたように思います。
結果、理学部(現・総合博物館)南側のいわゆる「理学部ローン」で行うことが多かったですけれど、現在のW棟ができる前だったことから法学部前でもジンパ鍋を囲んだ記憶があります。
学生は長くて博士課程修了まで9年在学するが、教職員なら遙かに長く、最長定年まで学内の動静を見聞することになるので、当然、ジンバという単語の出現についても覚えおられるはずと、私はホームページかブログを開いている北大関係者を探し、ジンパについてお尋ねしたところ、以下の3先生からお答えを頂いたので、ありがたく資料その11として紹介させてもらいます。私は山本剛氏と同期入学で、在籍期間は1986(尽波注=昭和61)年4月~1990(尽波注=平成3)年3月です。
私がジンパをよくやっていたのは1988年の夏まででした。
ジンパセット、という世紀品商品名でどこまでがセットの内容だったのかは、既に記憶が定かではありません。
当時、大学生協の肉屋さんのコーナーで1000円程度のラム肉とカット野菜のセット、炭などを購入すると
七輪を貸してもらえました。
学生証と引き換えか、学生証を見せると七輪を貸してもらえました。
中央ローンの芝生の保護?の観点からか中央ローンではジンパができなくなり、文系長屋(法学部)の対面の芝生のあたりでいつもやっていました。
学食は早い時間に終わってしまうし、どれだけ安くても居酒屋に行く金銭的な余裕はない仲間が多く、何より大学生協で食材と飲み物が安く購入できたので、1人1000円もあれば十分に長い時間楽しむことができたし、北海道の短い夏を楽しんでいました。
鍋は、使い捨てのアルミのような軽いものが販売されていました。
ビールはサッポロクラシックの24缶入りを箱買いしていました。
その他には、実家からビール券を送ってもらっている友人などのカンパや飲食店アルバイトをしている学生が棚卸しでお店からもらったキープボトルの飲み残しをもってきてくれたりしていましたね。
私は、「ジンパ」しか表現を知りませんでした。
ラム肉は札幌で初めて食べました。
丸い筒状の冷凍肉の塊だった記憶があります。
山本剛氏(御殿場市)
1 ジンパ時の鍋と酒の入手
鍋はもっぱら使い捨ての鍋で、北大生協の「ジンパセット」に入っていました。酒については、近所のスーパー等で別に買っていました。「ジンパセット」に多少の缶ビールがついていたかもしれませんけれども、貧乏学生のことですので安く売っているスーパーで酒を調達し、足りなくなったら生協やコンビニを含めた「近所で買う」というスタイルだったと思います。
2 鍋と七輪の借用方法
結果的に北大生協で借用した形です。前述の「ジンパセット」は1人あたり1,000~1,500円程度で肉・カット野菜・炭・使い捨ての鍋を購入するもので、これを購入すると七輪を借用できました。生協では会員証を確認して販売・貸出を行うのですが、代表者1名が学生証を提示すれば足りたので幹事役の学生が学生証を用意していたと思います。鍋と七輪は5人に1つ行き渡る形でした。
なお、「ジンパセット」にビールがついていたのか記憶にありません。缶ビール1~2本はついていたのかもしれませんが、北大生の中には未成年がいたことを考えると少なくとも公式には販売しなかったかもしれません。酒類がついていたとしてもほとんどのアルコールを学外で調達していたため印象が薄く、記憶が定かでありません。
3 「ジンパ」という用語は既に使われていたか
1986(尽波注=昭和61)年4月時点で在校生も使っていました。私は1986年4月に入学しましたが、新入生を対象としたオリエンテーションの際に在校生が「ジンパ」という言葉を使っていました。もちろん、私たちは「ジンギスカン」以上に「ジンパ」の方を使っていました。
当時も学内でジンパを行うことはありましたが、丸山さんも言われるとおり中央ローンは禁止エリアになっていました。芝の養生が理由だったと思いますが、一部の学生は「北大を観光地化するためのイメージ戦略として目立つところでのジンパを禁止したものだ」と憤慨していたように思います。
結果、理学部(現・総合博物館)南側のいわゆる「理学部ローン」で行うことが多かったですけれど、現在のW棟ができる前だったことから法学部前でもジンパ鍋を囲んだ記憶があります。
資料その11
工学部電気学科 元技官石川栄一氏
私が知る限りでは、あくまで工学部電気工学科の場合ですが、「コンパ」が「ジンパ」に変わったのは、平成に入ってからではないかと思います。
昭和の時代では「コンパ」が主流だったように思います。歓迎コンパとか追い出しコンパ(追いコン)などですね。
平成に入ってからは、主に学生主催による講座単位のコンパを「ジンパ」と呼んでいました。移行生歓迎コンパも「ジンパ」と呼びました。
北大生協から「ジンパセット」なるものを販売していたので、安く手軽にコンパを実行できるので人気があったと思います。
但し、七輪を使うので屋外での実施になりますので。雨天は「ジンパ」は中止せざるを得ません。重要な宴会はどうしても会議室かススキノになります。
もう40年前になりましょうか、講座でクルマ5台くらい連ねて層雲峡まで行ってジンギスカンパーティー(ジンパ)をしたことがあります。まだ高速道路が無い時代でしたので、往復約8時間、ジンパは1時間半程度。それほどまでにジンギスカン鍋は人気があったんですね。
しかし、ひつじの肉も価格が上がり、現在は100g200円位しています。
手軽にジンパを楽しむ時代は過去の物になったようです。
とりとめのない文章になりました。
乱筆乱文お許しください。
理学部名誉教授 栃内新氏
夏のコンパといえば、屋外でのジンギスカンが普通だったのは1970年代からだったと思います。北大ではど
この研究室でも鍋と七輪は持っていたと思います。
それほど普及したのはマトンと呼ばれる臭いの強い大人から羊肉からラムと呼ばれる子羊の羊肉が販売されるようになってきたからだと思います。精肉店でしか羊肉が手に入らなかった1960年代には札幌全市でもそれほど普及していなかったと思います。ラムが出てきたからはスーパーや生協でも簡単に手に入るようになり、北大のコンパでも使われるようになったのではないかと記憶しています。
私が大学院生になった1973年からは毎年な夏になる屋外でジンギスカンのコンパをやってきました。
生協が鍋を貸し出し始めたのは更に後の1990年ころではなかろうかと思います。
農学部名誉教授 川端潤氏
私が学生時代(1980年以前)は少なくともほとんど聞いたことがないと思います。
教員になって研究室で学生主催でやるようになってから、ジンパという言葉を聞いて、今はそう呼ぶんだなと思った記憶があります。
その頃は材料の羊肉は生協会館店だと思います。
このほか、ジンパ学の研究仲間であるジン鍋アートミュージアムの溝口雅明館長(法学部OB)の「私が入学した1975年、下宿の仲間と中央ローンで、ジンギスカンをやりました。正門前の酒屋でジン鍋とプロパンガスコンロと5kgのガスボンベを貸して貰ったと思います。炭火ではありません。ジン鍋博物館には、2kgプロパンガスボンベを展示してあります。昭和40~50年代、一般家庭で使われていたものです。その後、カセットコンロ、カセットボンベに置き換わりました。」(10)という情報をもらっております。私が知る限りでは、あくまで工学部電気工学科の場合ですが、「コンパ」が「ジンパ」に変わったのは、平成に入ってからではないかと思います。
昭和の時代では「コンパ」が主流だったように思います。歓迎コンパとか追い出しコンパ(追いコン)などですね。
平成に入ってからは、主に学生主催による講座単位のコンパを「ジンパ」と呼んでいました。移行生歓迎コンパも「ジンパ」と呼びました。
北大生協から「ジンパセット」なるものを販売していたので、安く手軽にコンパを実行できるので人気があったと思います。
但し、七輪を使うので屋外での実施になりますので。雨天は「ジンパ」は中止せざるを得ません。重要な宴会はどうしても会議室かススキノになります。
もう40年前になりましょうか、講座でクルマ5台くらい連ねて層雲峡まで行ってジンギスカンパーティー(ジンパ)をしたことがあります。まだ高速道路が無い時代でしたので、往復約8時間、ジンパは1時間半程度。それほどまでにジンギスカン鍋は人気があったんですね。
しかし、ひつじの肉も価格が上がり、現在は100g200円位しています。
手軽にジンパを楽しむ時代は過去の物になったようです。
とりとめのない文章になりました。
乱筆乱文お許しください。
理学部名誉教授 栃内新氏
夏のコンパといえば、屋外でのジンギスカンが普通だったのは1970年代からだったと思います。北大ではど
この研究室でも鍋と七輪は持っていたと思います。
それほど普及したのはマトンと呼ばれる臭いの強い大人から羊肉からラムと呼ばれる子羊の羊肉が販売されるようになってきたからだと思います。精肉店でしか羊肉が手に入らなかった1960年代には札幌全市でもそれほど普及していなかったと思います。ラムが出てきたからはスーパーや生協でも簡単に手に入るようになり、北大のコンパでも使われるようになったのではないかと記憶しています。
私が大学院生になった1973年からは毎年な夏になる屋外でジンギスカンのコンパをやってきました。
生協が鍋を貸し出し始めたのは更に後の1990年ころではなかろうかと思います。
農学部名誉教授 川端潤氏
私が学生時代(1980年以前)は少なくともほとんど聞いたことがないと思います。
教員になって研究室で学生主催でやるようになってから、ジンパという言葉を聞いて、今はそう呼ぶんだなと思った記憶があります。
その頃は材料の羊肉は生協会館店だと思います。
昔はそういうサービスもする酒屋もあったのか、なるほど―では済まないのです。これは普通の家庭でもジンギスカンを食べるようになり、奥さんが羊肉を買うと、精肉店が鍋を貸すサービスもあったが、この正門前の酒屋、沢田商店という店だが、コンロと燃料貸しという別種のサービスをしていた点で、精肉店と差を付けていた。
この2つのサービスの存在が後年、北大生協が始めたジンパセット発案に至る遠い遠い祖先、お手本とみるベきなのです。4200円期のチラシで見たように、肉と野菜と缶ビール、やけど防止の軍手、後始末用のビニール袋まで含めたあたり、類似のサービスがあったので、我が生協はこれぐらいサービスしているぞと、いわゆる差をつけたかったからだと私はみておるのです。
この正門前の酒屋は沢田商店、私も先輩の命令であそこへ酒買いに行ったことがある。前バージョンの講義でも話したが、門前の小僧ならぬ中年おじさんが変な言葉で釣り銭を数えたので、何語かと聞いたらロシヤ語だといった。さすが大学の正門前と感心したが、私の新品の角帽を見て、1年目ならとからかわれたのかも知れないがね。
私はね、ジンパ情報が集まり次第、北大文書館・150年史編集室にそっくり送信します。それを読んでいる文書館研究員の逸見勝亮博士と山本美穂子氏から感想付きの受け取り確認メールを頂いておるので、この際、御免被ってそれを資料その12にさせもらいましたのでご了承願います、
資料その12
逸見勝亮氏
初めて食べた羊肉は美味でした。2度目は1963年秋か冬でした。正門近くの「食道園」で上級生から御馳走になりました。彼(彼だけですが)は「ジンギリ」と呼んでいました。まもなく件の店は主人が朝鮮へ帰国することになり閉店しました。それまでたびたび一緒にお邪魔しました。イカの塩辛入りキムチは絶品でした。
現在僕はめったに羊肉が食べませんが、ラムロース塊を塩・ハーブを加えて茹でて薄切り、マスタードをつけて食べることもあります。
その昔、ファカルティハウス・エンレイソウ(グランドホテルが出店、最近撤退)の会食のおりに用意された子羊の丸焼きは絶品でした。料理中最も手の込んだものでしたが、レストランのマネージャーは不評ですと嘆いておりました。新旧取りまぜました。御参考までに。
山本美穂子氏
丸山朋子、山本剛氏からのジンパ情報、150年史編集室とも共有しました。ありがとうございます。
1997年卒業の当方とほぼ同じ年に在学されているので経験も近いです。当方は教育学部卒業なので教育学部の裏側の芝生上でジンパをしました。生協の「ジンパセット」です。集中講義に招聘した東大の先生を囲んで行ったこともあります。
現在の総合博物館の南側の芝生上での「ジンパ」が集まっているグループ数も多く、キャンパス南側で「ジンパ」を見かけることも最も多かったと思います。
「緑地管理地域」(中央ローン等)では現在は火気厳禁の掲示も出ていますが、ジンパを特定の場所で行う(中央食堂横、応電跡地)にしたことは「北大時報」や新聞にも出ていたような気がします。準備室のにいずれ調べてまとめてもらいましょう。
腱鞘炎と緑内障を恐れつつ私はね、日夜、キーワード「ジンギスカン」で検索しているが、令和7年1月末、遂にジンパセットの発売年について5年以内に絞りうる情報を見つけたのです。それは、先ほど話した丸山、山本両氏を見つけたのと同じ法学部同窓会誌「楡苑」からで、資料その13に引用させてもった井上匡子氏の「五月の空に・・・・」がそれです。炭の焚きつけから鍋の始末までを含む女性ならではの細かい思い出は、ジンバ学にとって実に貴重な情報です。就中重要な情報は井上氏が「大学院生のころには、生協がジンギスカンのセットを貸し出すようになり」という箇所です。七輪は貸しだが、それに使い捨て鍋、羊肉、野菜などを組み合わせたセットの提供を始めたということですね。それまでのジンパは七輪と鍋は食べる側が用意してのジンパだったんですな。初めて食べた羊肉は美味でした。2度目は1963年秋か冬でした。正門近くの「食道園」で上級生から御馳走になりました。彼(彼だけですが)は「ジンギリ」と呼んでいました。まもなく件の店は主人が朝鮮へ帰国することになり閉店しました。それまでたびたび一緒にお邪魔しました。イカの塩辛入りキムチは絶品でした。
現在僕はめったに羊肉が食べませんが、ラムロース塊を塩・ハーブを加えて茹でて薄切り、マスタードをつけて食べることもあります。
その昔、ファカルティハウス・エンレイソウ(グランドホテルが出店、最近撤退)の会食のおりに用意された子羊の丸焼きは絶品でした。料理中最も手の込んだものでしたが、レストランのマネージャーは不評ですと嘆いておりました。新旧取りまぜました。御参考までに。
山本美穂子氏
丸山朋子、山本剛氏からのジンパ情報、150年史編集室とも共有しました。ありがとうございます。
1997年卒業の当方とほぼ同じ年に在学されているので経験も近いです。当方は教育学部卒業なので教育学部の裏側の芝生上でジンパをしました。生協の「ジンパセット」です。集中講義に招聘した東大の先生を囲んで行ったこともあります。
現在の総合博物館の南側の芝生上での「ジンパ」が集まっているグループ数も多く、キャンパス南側で「ジンパ」を見かけることも最も多かったと思います。
「緑地管理地域」(中央ローン等)では現在は火気厳禁の掲示も出ていますが、ジンパを特定の場所で行う(中央食堂横、応電跡地)にしたことは「北大時報」や新聞にも出ていたような気がします。準備室のにいずれ調べてまとめてもらいましょう。
資料その13
五月の空に・・・・
井上匡子
1983年卒業(第34期)
> <略> 「ジンパ」の日は、私は一式と炭、そして
塩むすびのおにぎりを車か自転車に積
み、北大に向かいます。ついたら、すぐに
火起こし。使い古しの割り箸や新聞紙を
使って、年季の入ったうちわで扇ぎ、数個
の七輪に次々と火を起こしていきます。
お肉、野菜・飲み物が到着したところで、
ジュウと音がたち始めます。流れるよう
な手際(笑)だったと記憶しています。実
は私はこの火起こしが大好きでした。
野菜の準備は、大学の近くに下宿して
いる同級生たちの担当でした。もやしは
袋からザザザぁ~と鍋に投入され、洗っ
た記憶は全くないのですが、流石に玉ね
ぎやピーマンは切っていました。大学院
生のころには、生協がジンギスカンの
セットを貸し出すようになり、「ジンパ」
もとても手軽になりました。夕方手ぶら
で生協に行くと、七輪とお鍋とお肉、すぐ
に焼ける状態になっている野菜、そして
着火剤まで入ったセットを受け取り、10
分後には焼き始めることができました。
でも、自慢の火起こしの腕を披露できな
くなったのは、少しばかり寂しかった記
憶があります。<略>
検索すると、井上氏はresearchmapから神奈川大法学部の教授で本も沢山書いておられることがわかる。昭和58年に学部を出て、すぐ修士課程に進み、さらに博士課程とストレートに進み、満期修了まで北大におられたとすると、昭和63年(1988)年まで通ったことになります。井上匡子
1983年卒業(第34期)
> <略> 「ジンパ」の日は、私は一式と炭、そして
塩むすびのおにぎりを車か自転車に積
み、北大に向かいます。ついたら、すぐに
火起こし。使い古しの割り箸や新聞紙を
使って、年季の入ったうちわで扇ぎ、数個
の七輪に次々と火を起こしていきます。
お肉、野菜・飲み物が到着したところで、
ジュウと音がたち始めます。流れるよう
な手際(笑)だったと記憶しています。実
は私はこの火起こしが大好きでした。
野菜の準備は、大学の近くに下宿して
いる同級生たちの担当でした。もやしは
袋からザザザぁ~と鍋に投入され、洗っ
た記憶は全くないのですが、流石に玉ね
ぎやピーマンは切っていました。大学院
生のころには、生協がジンギスカンの
セットを貸し出すようになり、「ジンパ」
もとても手軽になりました。夕方手ぶら
で生協に行くと、七輪とお鍋とお肉、すぐ
に焼ける状態になっている野菜、そして
着火剤まで入ったセットを受け取り、10
分後には焼き始めることができました。
でも、自慢の火起こしの腕を披露できな
くなったのは、少しばかり寂しかった記
憶があります。<略>
井上さんはジンパという呼び方には触れていないが「大学院生のころには、生協がジンギスカンのセットを貸し出すようになり」と書いている。修士、博士のどっちの課程のころかわからないけれど、昭和58年~同63年の5年間に「貸し出し」が始まったことは間違いないでしょう。
そこで私が募った「Mixiで思い出尋ねる」の内容を分類すると、昭和61年に1人、昭和62年に3人がジンパという単語が使われていたと認めてます。またこの4人のうち2人はそのころ使い捨てのアルミ鍋が市販されていたと言っている。ただ、それはアルミ製ではなくて、正しくはテンフリーという薄い鋼板でできた鍋だったらしいのです。
もう一つ農学部林学科OBで宇宙恐竜ゼットン氏からのヒントがあります。私のミクシィ日記によれば「ジンパセットの発売時期」を募っていたとき、ゼットン氏がミクシィの「北大コミュ」に「中央ローンで、白衣を着用して、ジンギスカン同窓会を決行しよう!」と呼びかけていたのです。それでね、私は在学当時、ジンパと呼んでいたか、ジンパセットは売っていたか調べており、教えてほしいとゼットン氏のコミュに書き込んだら、すぐ「ジンパといっていた。20年も使わなかったので忘れてしまい、ただジンギスカンと書いてしまった。ジンパセットは定かでないが、大学生協から七輪を借りた覚えはある。」と答えてくれたんです。
さらにね、ゼットン氏が入学した昭和57年当時の教養食堂ではアルマイトの盆が使われており、それを鍋に転用した」とあった。重宝したというから、使い捨てにせず温存して何度か使ったと思われます。なぜなら、ゼットン氏の日記に、特定の1人が遅刻常習犯で、毎回遅れてすまんすまんと鍋(アルミ盆?)をもって現れるとあり、東京でも最近ジンパをやったら、やっぱり遅刻した(8)とあったからです。はっはっは。
ゼットン氏の記憶によると、プラスチック盆への切り替え直前にアルマイト盆を確保しておこうと皆焦ったという。後で北大生協の年表を見てもらうが、昭和59年5月に「食堂価格改定、教養食堂1階と2階グリル改装」とあるから、このとき盆の切り替えがあったのではなかろうか。公務員になったゼットン氏は都内に住んでいたので、お会いしてより詳しく思い出を聞こうとしたのだが、コロナ流行で私が動けず、うやむやになってしまった。もしこの講義録を読まれたら、かつてのジンパ仲間が記憶している思い出もお願いします。
いいですか、ジンパをやるぞと呼びかけ、七輪を生協から借り、羊肉と缶ビールを買い、生協食堂から借りっぱなしのアルミ盆を使えば、ジンバができる。生協のジンパセットの発想は、こんな実態を見てのものではなかったのか。
ところでアルミ板の盆ではなく鍋はだね、アルミ箔に皺を付けて強度を増して鍋の形にしたもの、平たい皿形もあるが、断面が∪型になっていて、多くはそのまま火に掛ければ食べられる麺類などの容器がいわゆるアルミ鍋であり、あれをジン鍋風に変形させて使ったらペチャンコにはならないにしても、肉からの脂とたれの熱いカクテルが皺々内に入ってしまい、肉、野菜にしみこませにくいんじゃないかな。
試しもしていないお前がそんなことをいっていいのかと、すぐ思った人がいるだろうが、皺々アルミ板を生かす新製品なんだし、製造元の方々が試し焼きをせずに売り出すはずないと信じるからです。いや、それでも安いからと買う人がいるかも知れないとテスト的に売ってみたかも知れないが、テンフリーのつるつる鍋に敵うはずがない。
鋳物鍋は末代物だからその地位は変わらなかったが、より安いジン鍋として鉄板をプレスしたジン鍋か作られたこともあり、ベル食品はそのプレス鍋とタレのセットを売ったことがあります。その後、使い捨て用として安価なテンフリー鍋が出回ったらしい。北海道ではジンキスカンが盛んだからと、本州より先に売り出されたらしいのですが、このテンフリー鍋の出現年代が全くわからないんだなあ。
使い捨てで検索すると、ライター、カイロから剃刀まであれこれ出てくるけどジン鍋はなし。テンフリーで検索すれば、グルテンフリーの食品、食事とずれてしまう。昭和62年に出た「使い捨て考現学」という本には「使い捨てコーン付きフライパン」がしか載っていないぐらい、使い捨て鍋は特殊すぎるんですなあ。
テンフリー鍋も売っている有力精肉店、その店の仕入れ先の商社に尋ねたら、20年前迄が限度、それ以前の記録がない、当時の担当者がもういないとのことだった。ある商社からは部秘で教えられないというメールを頂戴したよ。はっはっは。
こうなると、昭和60年前後の新聞の記事か広告で確かめるしかない。それで今、ボチボチやっているのだが、年を取ると、これがユルくなんいんだなあ。かつては半日マイクロフィルムを見てたもなんともなかったのだが、いまは3時間が限度だが、とにかくジンパ学推進のため〝倒れて後已む〟と頑張っておるのです。
いずれ「羊50万頭をあっさり食べちゃった道民」というようなテーマの講義をやろうと、新聞を調べてわかったことがあるんだ。ベル食品はあのタレを昭和31年に発売したといっているが、お膝元、札幌の精肉店やスーパーでは並べていたかも知れないが、道新より広告料が安かった北海タイムスでも、31年はタレの広告と記事は載っていなかった。
ラジオとテレビで宣伝していたとしても、ラジオテレビ欄では物証にならないし、全く新聞広告を使わなかった説明としては弱いよね。それで、いつから現れたかと昭和34年まで追跡したことがある。それでわかった事実は、その講義で話すが、当時のベルの主力商品は「華味」という家庭用ラーメンスープだったのです。
さて、浪曲師広沢虎造の名タンカを借りれば「肝心なのを一品忘れてやしませんかってんだ。」となるが、酒ですよ、酒。私も酒は大好きでね、鼻柱の怪我にも懲りず飲み続けていたら、ガンマGTP、最近はChatGPTと混同して恥かくことがあるか、あれの数値が180、体重83キロになり、長生きできないぞと医師に脅かされてね、酒と煙草をスパッと同時にやめた。14年やめて変人扱いされたが、そのラグタイムと30キロの体重減らしができたから、卒寿超えの今日があると腰を伸ばして言えるのです。
そこで資料その14の「北大生協創立五十年史」の年表の昭和58年から平成元年までの北大生協欄(社会の動きと生協運動の2欄は略)を見なさい。この通りジンパセットはないが、酒類の発売は記録されてます。
資料その14
一九八三年(昭和五十八)
四月 寮売店と北西会館食堂オ-プン
九月 北大生協会館三階店舗化完成
一九八四年(昭和五十九)
三月 大学生協連「専門書復刊事業」スタート
五月 食堂価格改定
教養食堂一階と二階グリルが改装
アスパルテームでコカコーラライトなど販売自粛
六月 工学部食堂ピーク時全席禁煙実施
八月 五十八年度米の米不足
一九八五年(昭和六十)
二月 共済制度改善
六月 きぼうの虹、被爆4四〇周年「私の戦争体験」連載始まる
九月 コピー利用のカード化始まる
十二月 組織供給部による共同購入事業開始
生協規制問題「生協規制反対の署名」取り組み
水産支部組織委員会発足(教職員院生)
一九八六年(昭和六十一)
一月 きぼうの虹、「核廃絶をめざして(大友詔雄)連載開始
水産支部「教職員・院生生協委員会」発足
五月 専務理事交代(小口正持氏から須賀保男氏へ)
一九八七年(昭和六十二)
第五次長期計画スタート(一九八七年~一九九二年)
四月 郵便局の自動預払機、会館店前に設置
十月 教養厚生センターの早期建替えと北大全体の厚生施設政策の改善の
確立を求める要請署名
十一月 北大生協創立四十周年記念講演会(安井理事長)
一九八八年(昭和六十三)
五月 理事長交代(安井勉氏から神山桂一氏へ)
消費税反対一万名署名を提出、消費税反対国民集会
十月 中央食堂改装
十一月 留学生と語る会(北大院協長と共催)
一九八九(平成一)
二月 北大生協の消費税への具体的対応を「きぼうの虹」で公表
七月 千趣会との提携で年四回のカタログ事業
八月 教養店改装
十月 会館店改装
旅行事業部が中央食堂から会館店三階へ
会館店一階に酒コーナー新設
十二月 中央旅行店跡にコピーセンター新設
営業時間と労働時間に関する考え方発表
・土曜二時閉店、クラーク食堂は五時まで
可能な店舗は一時閉店
会館店、クラーク書籍は三時まで
・下期に三日間の土曜指定休導入
この酒類コーナー新設はじめ北大生の飲酒にについて調べた北大メディア・コミュニケーション研究院の真崎睦子准教授の論文「日本の大学におけるアルコール飲料の取り扱いと適正飲酒教育 : 酒販売及び提供に関する生協の役割を探る」(12)があります。それによると「北大生協では、北大の伝統あるレクレーション、ジンパを支えるため、古くから教職員学生に対して七輪の貸し出しなどを行ってきた。」(13)とあります。四月 寮売店と北西会館食堂オ-プン
九月 北大生協会館三階店舗化完成
一九八四年(昭和五十九)
三月 大学生協連「専門書復刊事業」スタート
五月 食堂価格改定
教養食堂一階と二階グリルが改装
アスパルテームでコカコーラライトなど販売自粛
六月 工学部食堂ピーク時全席禁煙実施
八月 五十八年度米の米不足
一九八五年(昭和六十)
二月 共済制度改善
六月 きぼうの虹、被爆4四〇周年「私の戦争体験」連載始まる
九月 コピー利用のカード化始まる
十二月 組織供給部による共同購入事業開始
生協規制問題「生協規制反対の署名」取り組み
水産支部組織委員会発足(教職員院生)
一九八六年(昭和六十一)
一月 きぼうの虹、「核廃絶をめざして(大友詔雄)連載開始
水産支部「教職員・院生生協委員会」発足
五月 専務理事交代(小口正持氏から須賀保男氏へ)
一九八七年(昭和六十二)
第五次長期計画スタート(一九八七年~一九九二年)
四月 郵便局の自動預払機、会館店前に設置
十月 教養厚生センターの早期建替えと北大全体の厚生施設政策の改善の
確立を求める要請署名
十一月 北大生協創立四十周年記念講演会(安井理事長)
一九八八年(昭和六十三)
五月 理事長交代(安井勉氏から神山桂一氏へ)
消費税反対一万名署名を提出、消費税反対国民集会
十月 中央食堂改装
十一月 留学生と語る会(北大院協長と共催)
一九八九(平成一)
二月 北大生協の消費税への具体的対応を「きぼうの虹」で公表
七月 千趣会との提携で年四回のカタログ事業
八月 教養店改装
十月 会館店改装
旅行事業部が中央食堂から会館店三階へ
会館店一階に酒コーナー新設
十二月 中央旅行店跡にコピーセンター新設
営業時間と労働時間に関する考え方発表
・土曜二時閉店、クラーク食堂は五時まで
可能な店舗は一時閉店
会館店、クラーク書籍は三時まで
・下期に三日間の土曜指定休導入
鍋は研究室単位などで持っていても、七輪と炭は用意していないことが多いことから、学生証による責任者確認による七輪の貸し出しが先行したということですね。大学生協が七輪を借りる学生は、大抵生協にある酒類と羊肉と野菜も買うということに気付いた。
そこで七輪だけでなく「ジンギスカン用のラム肉とアルコール飲料の需要があることを見出し、北大内の食堂等各店において、ジンパセットのちらしを置くようになった。」(14)と述べ、その証拠として、食堂に置くようになったちらしの裏面、ビールなしなら5人分4200円、1人1缶のビール付きなら5500円のジンパセットの申込用紙の写真を示しています。これが初代のちらしかどうか疑問がありますが、リンクを張って見てもらったちらしと同じです。
真崎論文は続けて「しかし、1989年に酒類の販売を開始したのは正確には北大生協ではなかった。北大生協の専務補佐、今川則生氏によると『1989年の売り場拡張計画に伴い、北大生協の資産である土地・建物内に、ある酒店がテナントとして入居した』とのことである。」(15)と述べています。それ以前は、ジンパ用の酒類は皆学外で買い、持ち込んでいたわけだ。
北大生協はそれわよくわかっていたから、酒コーナーができたら、待ってましたとばかり缶ビールを組み込んだジンパセットを売り出したとしても、昭和64年か平成元年発売となり、井上さんの思い出による昭和58年~同63年説と合致しないことになる。そこで考えられる経過だが、北大生協では昭和60年ごろからアルコールなしの「ジンギスカンセット」を売っていた。
井上さんは「ジンギスカンのセットを貸し出すようになり、『ジンパ』もとても手軽になり」と書いており、ジンパセットではない。酒を飲まない女性グルーブはそれでよしとしたと思われます。その後、生協内に酒コーナーが入り、缶でも樽でもビールを付けられるようになったので「ジンパセット」と命名して予約申し込み用紙にもなるチラシを食堂などに置き、宣伝に力を入れた―という見方です。
北大柔道部に4年目までいて中退した作家増田俊也が書いた「七帝戦」という小説にね、柔道部の新入生歓迎ジンパで酒割りの焼酎をどんどん飲まされた。それは新人分の羊肉を買わずに済ますためと気付いた時すでに遅し、ぶっ倒れて10時間寝たと書いてあるが、真崎論文によれば、北大では昭和59年から10年間に7人が飲酒事故で死亡(14)とあります。
我々の頃は皆貧乏で倒れるほど飲めるコンパは稀だったが、だんだん世の中豊かになり歓迎ジンパなどでたっぷり飲めるようになり、体育系の部によっては、弱い奴が潰れたらシュラーフに入れて並べ、強い上級生が見張るようになったそうだが、事故死を防ぐために続けてほしい伝統です。
ちゃんとした記録が残っていないことがわかったからには、150年史編集室の情報集めの片棒を勝手に担いで、卒業生各位のジンパの記憶を教えてもらうしかないよね。とにかく思い出せというより、永田町あたりでは〝たたき台〟などと呼ぶようだが、仮の案を示して、こうじゃなかったのかいと尋ねたら、そうだった、いやそういうことはなかったように思うとかね、答えやすくなると思う。
それで下記のような尽波仮説を提示して、思い出してもらうことにします。
資料その15
1.昭和50年代後半から一部の北大生が自宅などから七輪と酒を持参し、アタックして保存しているアルミ盆を使い、北大生協で羊肉、野菜を買い、学内で飲み食いするジンギスカンパーティーを開くようになった。
2.学内でのジンギスカンパーティーが盛んになるにつれて、屋外でやるのはジンパ、室内で開くときはジンギスカンパーティーと呼び分けるようになった。
2.だんだん研究室、講座単位で鋳物のジン鍋を備えつけるようになり、北大生協は七輪を貸すサービスを始めた。北大生協は七輪貸しに羊肉と野菜を加えたジンギスカンセットを売り始めた。
3.某酒店が北大生協内に間借りして酒類を売りだし、生協だけで七輪、羊肉、野菜、酒がそろうようになった。
4.安いテンフリー製ジンギスカン鍋がホームセンターなどで売り出されたので、北大生協は貸し七輪と木炭と着火剤、その鍋、羊肉、野菜、缶ビール、軍手、紙皿、箸など一式まとめてジンパセットと称して売り出した。
5.それでジンバという呼び方が北大全体に広まり、昭60年代までに北大語として定着した。
学生時代のジンパを思い出してもらう一助として、エルムの森とも呼んだ総合博物館になっていた旧理学部南側のジンパ風景を見てもらいましょう。これは私のミクシィ日記によれば平成22年5月4日の撮影で「いい天気に誘われてというより、連休前から開催日を決めていたのだろうが、理学部横のエルムの森はジンパ組がたくさんいたので、自転車を止め、ケータイの練習旁々撮影してみた。早撃ちよろしく速写できるようにしたいのだが、あれ、どうだったかなとやや暫くかかるようではいかん、遺憾に存じます。」と書いてありました。私に言わせれば「どこでもジンパ」時代の写真です。2.学内でのジンギスカンパーティーが盛んになるにつれて、屋外でやるのはジンパ、室内で開くときはジンギスカンパーティーと呼び分けるようになった。
2.だんだん研究室、講座単位で鋳物のジン鍋を備えつけるようになり、北大生協は七輪を貸すサービスを始めた。北大生協は七輪貸しに羊肉と野菜を加えたジンギスカンセットを売り始めた。
3.某酒店が北大生協内に間借りして酒類を売りだし、生協だけで七輪、羊肉、野菜、酒がそろうようになった。
4.安いテンフリー製ジンギスカン鍋がホームセンターなどで売り出されたので、北大生協は貸し七輪と木炭と着火剤、その鍋、羊肉、野菜、缶ビール、軍手、紙皿、箸など一式まとめてジンパセットと称して売り出した。
5.それでジンバという呼び方が北大全体に広まり、昭60年代までに北大語として定着した。
資料その16
学外におられる大勢のOBOGの皆さん、いま述べた尽波仮説は自分の記憶と全く違うとか、その通りとか様々思ったり、思い出したりしたことかあるはずです。それです、150年史編集室が切望している情報はそれなんです。そうした君やあなたの時代では共有していたが、私がこうした講義録の形で、ジンバに関する記録はないも同然というまで気付かなかったはすだ。いまになってみると文書として記録されていない、いや見つかっていないかという方が正しいかも試知れないが、いま私宛に送るか150年史編集室に伝えておかないと、消失確実な思い出があるはずです。それを語り伝えよう、書き残して置こうじゃないですか。林修風に言うなら「いつやるか、今でしょ」ですよ。
尽波宛の「ジンパの思い出情報」の宛先は下記です。
shinjinpagaku(@)gmail.com 尽波満洲男
必ず書いてほしいのは、150年史編集室と同じく氏名、所属(出身学部、所属部・サークルなど)、卒業年、メールアドレス、もしかすると入り用になる北大グッズの受け取り場所を書くこと。この講義録の一部として、このページに追加する形で受け取ったジンパ情報、学部、卒業年、名前を公開するので、ハンドルネーム、仮名にしたい人は、それも忘れずに書いてください。情報提供者が50人以上に達した場合、私としては望外の喜びあり、諸兄姉の協力を感謝して全員に北大グッズ1品を進呈します。
附属図書館隣の百年記念館の建設資金を寄付した文学部OBでは2番目の高額寄付者だった私だが、いまは恩給暮らしなんだから、郵送費の方が高いという場合もありうることを承知で頼むよ。きょうの分は講義録としては変形だが、ここで終わります。