成吉思汗料理を強力宣伝した春秋園

 オホン、オホン、聞こえてますか。こんにちは。皆んなそろったようだね。コロナが収まりそうもないから「逸早く羊肉料理を取り入れた宮中の宴」に続いて、またもやオンライン。私としてはオンラインだと、皆さんに配る資料は画面で示せば済むから楽チン。だから春秋園だけでなく、日本橋濱町濱の家に続き国内2番目にジンギスカンをメニューに入れた京橋の盛京亭のことも合わせ、たっぷり話すつもりです。
 実はね、これらのことは平成のうちから調べていてね、もう少し念入りに調べてからと思っていたら、コロナウイルスが流行し始めた。私は後期高齢者で加えて持病、基礎疾患もあるので君子危うきに近寄らず―と真面目に蟄居を続けてざっと2年。その間かなり出来上がっていた講義案は温存せざるを得なかった。
 ようやく3回目のワクチン接種日が決まり、この4月中頃から調査に出歩けるかなーと思ったら、またまたオミクロンで先延ばしせざるを得ないらしい。
 でも、漫然と過ごしてきたわけじゃないんです。役に立ちそうな古本を探してね、籠もってまるまる浮いた交通費で買ったり、犬棒をやったり、おっと、これはキーワードに複数の単語を並べて検索する私のやり方のことですよ、全くの偶然といういい方があるかな、春秋園の写真を見せているホームページに出会った。
 その4枚の写真入手によってだ、俄然強烈なドライブがかかってね、東京などへ行かないとわからない事柄はコロナ禍明けに廻し「力士が春秋園事件で食べたジンギスカン鍋」の続きのあれこれをね、忘れないうちにこうした形で伝えることにしたのです。
 まず大井の春秋園があった場所のことから始めます。かなり前、ジンパ学の講義録を読んだ東京の方、例によってAさんと呼ばせてもらいますが、そのAさんが春秋園の場所がわかる地図を品川区立図書館で見付けたと、その地図のコピーを送ってくださったのです。はっきりしないが、そのほか東芝病院がどうとか書いてあったように思うのです。
 パソコンは大体3年で壊れるから更新しちゃう。だからメールはコピーした分以外はメーラーと共に失ってしまうが、私には日々書き続けているミクシィ日記があるのです。主な中身はその日の調査結果で、特に講義のネタに使えそうな事柄はデータベースにしてきた。だからデータベースになくても、日記に記録が残っているわけ。
 そこでだ、まずは東芝病院でミクシィ日記を検索したらAさんからのメールのことで2件出てきた。月額330円で平成17年からの全文検索ができるプレミアム会員ならではの成果でした。ふっふっふ。
 最初のメールは平成20年9月、地図以外の内容は(1)大井町関係の掲示板にあった春秋園に関する私の質問から講義録を知った(2)春秋園事件は北大生の坪田氏の相撲のページが詳しい(3)春秋園の場所は旧町名が鎧町で、戦後阪急百貨店になる前は後藤毛織製造所と東芝があった(1)―でした。
 それで私がお礼メールとして(1)北大坪田氏に尋ねたら資料は実家にあり帰省したときに調べてみるとのことで終わった(2)ジンギスカン料理の発祥は春秋園だと主張している人がいるそうだ(3)「東京日日新聞の記事」として、春秋園の住所は「大井町三五四五支那料理店春秋園(旧後藤毛織社長邸)」とした講義録を近く公開する―など800字ほど送ったとありました。
 これが先行した「力士が春秋園事件で食べたジンギスカン鍋」の講義です。いま読み返すと「大井町某所」で間に合わせた東京日日が、翌8日朝刊の記事で「大井町三五四五」と番地まで書いた説明が物足りないね。いずれ少し書き足しましょう。
 日記には足跡を残さず読みにくる忍者対策として、品川区に住むAさんを品川T氏と書いていたが、鳥羽さんというお名前は記憶していたので、更に鳥羽で検索したら8件あり、その中に鳥羽さんからの2度目と3度目のメールがあった。私からのメールを見てすぐ「思いつくまま」と断っての翌日発信の2度目には(1)大井町に三越縫製部があり跡地は三越開発のマンションになっている(2)東芝病院の前身は「智恵子抄」のゼームス坂病院だったと聞いている。「檸檬の碑」の場所は病院の隣接地(3)北杜夫の「楡家の人々」にパオの中で羊肉を食べさせる店に行くエピソードがあったと思う。兄の茂太のエッセイにも書かれていたと思う。言い出しながら食べられなかったような話だったと思う。斉藤茂吉関係にも記載があるかも知れない(4)大井には折口信夫も住んだし、隣の大森馬込は文士村だったので、そのころ在住文士の随筆にでも春秋園が出ているかも知れない(2)―でした。
 また平成22年1月の3度目は、品川区立図書館にある大井町役場編「東京府大井町全図」で春秋園の位置は今はホテルアミスタのある場所(3)とありました。
 札幌から私が出掛けて探すことを考えたら大助かりで、鳥羽さんのご好意に報いるためにも、春秋園事件の2回目の講義で、ぜひその地図を生かそうと教案を考えているうちに、公主嶺の鍋写真が見付かったりして満洲の方に集中してね、申し訳ないことに地図のことをすっかり忘れちゃった。
 年のせいにはしたくないんだが、どうもパラレルに進められるプロジェクト数が減ってしまうんですなあ。年を取るとは人体がスルメ化することだというのが私の定義。消費カロリーを測定できる運動マシンで長年継続して一定の運動量をこなしていると、発汗量がだんだん減ってきた。若いときより負荷を軽くしていることもあるが、Tシャツは毎回洗濯しなくてもいいと思うぐらい汗が出なくなる。
 どうも脳の含有水分も減ってスルメ化し、情報の消失量が増えることが考えられます。いや、ホント。弁解のように聞こえたかも知れないが、笑っちゃいかん、30年を越えたジム通いで流した汗の結晶みたいな新知見なんだよ、本当に。はっはっは。
 鳥羽さんとは別に平成22年8月、佐藤さんという別の方が、春秋園事件を調べて「大井町全図」を知り、また別のことからこの講義録を知ったとメールを頂いた。ある雑誌関係者という佐藤さんによると、当時の府下荏原郡鎧ヶ淵の春秋園は今のアワーズインより奥まったところの現在大井町1−35−1で、ホテルアミスタとなっている。春秋園事件後の春秋園のことはわからないけれど、昭和20年5月24日に荏原地区が大被害を受けた空襲で灰燼に帰したと思われる(4)と書いてありました。
 佐藤さんは父親が満鉄調査部員だったことから何度かメールのやりとりがありました。当時71歳だった佐藤さんは無理としても、誠に遅くはなりましたが、鳥羽さんにはご厚意の地図情報をちゃんと生かした、この講義録を読んで下さることを願う次第です。
 濱の家のケースもそうだったが、こうした奇特なご協力には感謝感謝。いやあ、見当違いを指摘され恥をかくことがあるとしても、ジンパ学の講義録をホームページで公開しておいてよかったと思いましたよ。
 光陰矢の如し、平成25年の春に初めて品川区立図書館を訪ね、鳥羽さんの地図は佐藤さんのいう「米粒大の『春秋園』を見つけた」地図と同じものであり、司書さんの手も借りて、古い地図が載っている本といまの住宅地図とのつながりまで確認できた。資料を配りますといいたいところだが、オンラインだから見せますだ。
 まず1枚目、資料その1(1)としますが、これがAさんから添付で送られてきた地図と同じ筈です。春秋園、新世界、プール、遊園地、3545という地番がはっきり読めるようにクローズアップしたものです。出典は「東京府大井町全図」という大井町役場が昭和7年9月に作成した6000分の1の地図です。右の方が東でJR大井町駅があるのですが、二股の分かれ道と交差しているのはそのころ流れていた川で線路じゃないよ。後でもう一度話しますが、春秋園はこの本より1年前に開店していたから、ちゃんと載っているわけです。

資料その1
  

 この地図には小字ごとに割り当てた地番の表が付いていて、大井町内は1筆毎に1から6615までの番号を振り、春秋園はその3545番から3552番までの8筆を合せた場所を占めていたのです。以前の講義で東京日日新聞だけ力士の集合場所は突き止められず(特に秘す)で取り繕った特オチ挽回で翌日書いた春秋園の所在地「大井町三五四五(5)」という住所は、この代表番地だったのです。
 また鎧ケ淵という地名は「品川区史料(十三) 品川の地名」によると「大井村と下蛇窪村との村境、立会川に架かる一本橋の下に深い淵があり、そこで上杉・北条の戦いの時に多くの鎧武者が討ち死にしたという伝承があり、そこからこの淵の近辺の畑を『鎧ヵ淵』と称したという。明治九年(一八七六)の地租改正の際、付近一帯が字鎧ヵ淵となり、昭和七年(一九三二)からは大井鎧町に、昭和三十九年(一九六四)の住居表示の実施により、大井一丁目となった。(6)」ということです。この地図は鎧町に変わる直前に作られたのでしょう。
 春秋園の隣の3508番地に新世界、プール、遊園地と縦に3行並びが読めますよね。新世界という名前は「籠城の第一夜を大井の春秋園わき新世界ホテルに明かした西方力士連は(5)」と朝日新聞に出ており、さらに「十日は朝八時同園裏の宿舎新世界ホテルの床を蹴つて起床(6)」と読売新聞に出てくるし、武蔵山が脱走した日「風邪の気味で腹痛を起し春秋園脇新世界ホテルで静養中(7)」と時事新報にもあります。力士たちは春秋園で会議を開いたり食べたりしたけど、夜は隣のこのホテルで寝ていたのです。
  

参考文献
上記(1)の出典は平成20年9月12日付尽波ミクシィ日記より、 (3)は同年1月24日付同、 (4)は平成22年8月5日付同、 (5)は昭和7年1月7日付東京日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (6)は品川区教育委員会編「品川区史料(十三) 品川の地名」91ページ、平成12年3月、品川区教育委員会=原本、 (5)は昭和7年1月8日付朝日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (6)は同年1月11日付読売新聞夕刊7面、同、 (7)は同年1月13日付時事新報夕刊2面、同、

 はい、資料その2が「生田誠氏提供」というクレジット付きで見せられるようになった写真4枚のうちの新世界ホテルの写真です。これは観光絵葉書のようで「支那料理 春秋園 正面玄関(東京大井)」とありますが、手前はそうでしょうが、後ろのディズニーランドにありそうな建物とのミスマッチはどう解釈すべきか。
 25センチ角ぐらいに拡大して見るとタイル張りが奥まで続いているし、後ろにもう1つ建物があり、斜めになった屋根も認められることから、私は春秋園になる前、元後藤邸とホテルとの渡り廊下の出入り口と見ます。変だと思うでしょうが、後藤さんは毛織会社の社長であり、取引先や大井の毛織工場を見に来る人々のために賓客招待室誠忠館という建物もあり、そっちで関係者を歓待した後、地方からの客はゆっくりして下さいと特約の新世界ホテルに泊めるぐらいのことをしていたでしょう。その誠忠館の写真を見れば、さもありなんと思う筈です。ふっふっふ。

資料その2
   

 これは「支那料理春秋園庭園より見たる各館(東京大井)」と右下に説明が入っているが、この右奥の2階建てが誠忠館です。写真説明にないのに、どうしてそんな名前がわかったのか。次の写真を見せましょう。

資料その3

 はい、次は「大井町名鑑」の後藤毛織の広告です。後藤毛織は岐阜市にも工場があり、そちらの建物かも知れないと断って使うつもりでしたが、今回生田氏のこの写真で大井の邸内にあった建物と確認できました。新聞記事に勤王の間という名前が出て来るが、多分誠忠館内の一室でしょう。後で見せますが、この庭に面して少なくとも4棟の建物もあり、そのガラス窓は皆高そうな大判のガラスを使っており、金を掛けた建物と一目でわかったんじゃないかな。

資料その4
      

 庭の広さもすごいよね。東京日日新聞に1月の「七日から春秋園に土俵を築いて稽古をすることなどを定め、(8)」て、力士たちが土俵作りで引き抜いた松の木は手前の木かも知れません。いまいった読売新聞の「床を蹴って起床」の記事の続きは「朝食後直に浴衣一枚となつて庭園の土俵に集合して猛烈な稽古を始めたが全力士団は溢れるやうな元気に漲つてゐる(9)」と書いており、何新聞か思い出せないが、松の木を倒そうとしている写真も見た覚えがあります。コロナが収まれば、その写真をコピーしてきて講義録の方に追加したいね。
 この広い庭を使って料理人吉田誠一が満州国建国記念と銘打って100人もジンギスカンに招待し、その「試食会の光景」という写真が「料理の友」昭和8年5月号にあるが、晩餐だったので暗いうえに集まった人々の背中ばっかりみたいなので、省きました。吉田が「料理の友」に「當庭園のテント張りで成吉思汗に舌鼓を打つ客、鼻を衝いて來る羊脂の香煙、書いてゐてそへ喉がグウ/\鳴ります況や成吉思汗の味に於ておやですお試し下さい。(10)」と書いたように、普通のお客も春秋園独特とうたってテント内でジンギスカンを食べさせたのです。
 ここで地図について話を戻しますが、資料その5(1)の地図は、いささか古くてホテルアミスタだが、いまはホテルルートイン品川大井町と改称してます。また右隣のステーキ店やカネボウ関係会社がいたビルは、いまグーグルのマップによると、ホテルルートイン本社に変わっている。世の中、変化が激しいよねえ。
 後で沢山見せますが、春秋園の初期の新聞広告には大井町駅から「自動車御自由ニ御利用下サイ」と書いているが、ルートインのアクセス案内では駅から徒歩5分。私の足ではもうちょっとかかったが、今のタクシーなら乗車拒否されると思うね。
 戦時中ガソリンがなくて国内では木炭の煙、ウィキによると不完全燃焼により発生するる一酸化炭素ガスで走る自動車だったが、私が住んでいた満洲の炭坑町では木炭が手に入りにくかったのか薪の煙で走るトラックを使っていた。それで走る前に拳骨ぐらいに細かく割った薪を沢山ね、太い煙突みたな炉に詰め込み、手廻しの送風機を使って燃やし、それから運転手がおもむろにボンネット前の穴にクランク棒を差し込んで、エイヤッと手で回してエンジンを始動させていたことを思い出すなあ。
 春秋園が開店したのは昭和6年だからガソリン車だっだろうが、セルモーターなんて付いていないから、大井駅前に止まっているタクシーに春秋園までと頼むと、運転手はアイヨッなんていいながら運転席から降りてさ、クランク棒で始動させていた筈ですよ。ふっふっふ。
 不完全燃焼ガスで思い出したから脱線するけど、文学部の我が研究室は木造の方で冬は石炭ストーブを使っていた。八戸の高校は薪ストーブで、授業中だけ焚いていたようなものだから煙突の詰まりなんか覚えてないが、大学では夜遅くまで誰か彼かいて石炭を焚くから1冬に1回は煙突掃除をしなきゃならん。
 これが面倒くさい。天気のいい日、まずブリキの煙筒を固定する針金をはずす。そっとやらないと煤がこぼれるんだ。窓から外に投げ出し、それから外に出て煙筒を廻しながら棒か何かでガンガン叩いて煤を落とし、また組み立てるわけです。
 それでね、先輩が面倒臭いから煙でぶっ飛ばそうというので、やり方を教わった。まずストーブの中の火に粉炭を被せるように入れて燻らせる。煙が行き亘ったと思ったら火を着けた新聞紙を中に投げ込んで着火させたように思うね。
 ホワッと煙が爆発するよう燃え、その圧力で一気に煤を排出してくれます。普通の家では近所迷惑でやれないが、我がキャンパスは広いし、深い雪を漕いで研究室のそばにくるやつはいないから出来る掃除法ですよ。ただし煙を貯めすぎるとえらい目に遭う。室内の煙突が外れてね、わかるかな、後悔先に立たずとなるのさ。はっはっは。
 はい、地図の話に戻します。オンライン組には地図の番地が読めるサイズで見せるから問題ないが、講義録を読んでいる学外の方々のために、講義録では同(1)の地図を少し左に廻した拡大地図を用意しました。最初画面をクリックしたらフワッと拡大する画像を入れたんだけど、手を出さなくても確実に3545が読める地図にしました。
 でも同(3)のコロナ前に撮影した写真は拡大するよ。駐車場の右横の薄茶色の建物がルートイン、右側の黒いところはマンションとその影。同(1)の地図を作った後、破線から右側の大井町パーキングにマンションが建ったことがわかる。

資料その5
(1)


(2)
    

(3)
     

 ここにお屋敷を建てて住んでいたのが後藤毛織株式會社の社長、資料その6の後藤恕作夫妻でした。後藤は兵庫県出身で、明治8年、15歳のとき森有禮に仕え、森が清国全権公使になったので北京に付いて行った。北京ではアメリカ人に毛織染色学を習って帰国し、明治13年から毛織物製造を始めた。明治14年海軍に製品を納めるようになり「府下大井町に毛織製造所を起した。これが我が国で初めての民間毛織工場(11)」で、後に日本毛織會社東京工場となりました。
 その荏原郡大井町が東京市に編入され品川区大井町になるので、それまでの歴史を残すため発行された「大井町史」にも「明治二十五年の夏、後藤恕作氏が後藤毛織工場を、大崎村より本村に移転し、以て熾んに工業を興すに至り、本町をして今日の隆盛を來さしむる根底を築いたのである。其の後當地に工場を設立するもの続出し、或部分は工場地滞を形勢するに至つた。(12)」とあり、それより先に出た「荏原名勝附地図」には「□大井町 工場を始めて設けたるは後藤毛織会社にして、我国毛織業の嚆矢たる社長後藤恕作氏邸も工場に隣接す。(13)」てすから、庭のどこかと工場がくっついていたらしい。とにかく後藤毛織が呼び水になり工場地帯になったことを認めています。
 いま呼び水といったが、毛織業では羊毛を洗うため工場で使う水質が良いことも工場誘致の重要な呼び水になるそうです。

資料その6

     

 大井に後藤が織物工場を建てたころについては「道は茅草の跳梁に任し人影稀にして狐狸常に往來し茅屋孤々に點在し、立會川は清流滾々として鯉鮒の游泳するあり村人の蜆を漁るなど宛然異郷の観があつた。巍然と聳へた煙筒を見た里人は驚異の眼を持つて見て居たが工場の完成するや人家忽ち軒を連らねて當時は生活費用一日拾銭位で工賃の半額で済んだので有るから遠近より工場へ通ふ人々は皆嬉々として門扉を出入した。(14)」もので、それから30年たった「現今人口七萬を有する府下に於ける一等の発展地と成つたが、後藤氏は斯く迄大井町を発展させた偉大なる功労者であり一面又國産毛織物を奨励して輸入毛織物を駆逐なしつゝある愛国者である。(15)」と「大井町名鑑」は称えています。
 後藤毛織は第一次大戦後、東京毛織物、東京製絨と合併して東京毛織會社となっちゃったので、後藤は大正7年にもう一度、後藤毛織株式会社を設立した。昭和2年の読売新聞に「資金難の後藤毛織 経営者とり換へ」という観測記事があります。「後藤氏は生来学究的で、経営上の駆け引よりも、毛織物の品質改善に熱中し、わざ/\ドイツ、フランス英国あたりの毛織物を輸入して種々の実験をなし、為に後藤毛織の工場は試験室に附属した作業場の如く従つて営利的に経営をする事が出来なかつた為、遂に経営困難に陥つたものである(16)」と書いています。資料その7の逸話なんか、日本の毛織物工業を引っ張り、欧米の織物産業に追いつこうと仕事に研究に打ち込み、子供の名前なんか二の次だった後藤ならではでしょう。

資料その7

   後藤恕作子供の命名

後藤恕作毛織物に熱中して心私に工業界に覇たらんと欲す、こゝに
於て渠生む所の子供を命名るに己の業務に因みて以て自ら倦隋を警む、
曰くお糸、曰く績、曰くお錐、曰く待三と、而して待三は渠が欧米視察
終へて帰るを待て生れたるが故なり、既にして又一女を生む、藤枝と
云ふ既に蔓ならんと想ひたればなり、斯の如くにして最早終りならんと
思ひしに其後又一男を設く、恕作卒然として『オヤ又た出たかへ』と乃
ち又男と名づく。

 ともあれ、大井町三五四五番地の土地と建物は、会社の経営不振から手放されたと思われますが、北京で勉強してきた羊毛の織物会社の社長のお屋敷から中国料理店になり、ジンギスカンで名を上げて、北京と羊との縁が続いたのは面白い因縁でしょう。
 ちょっとそれますが、西武鉄道の創立者である堤康次郎が早稲田大学の弁論部員になった21歳のとき、政府が関税改正を行うという見通しから後藤毛織の株を買い、株主総会で経営陣を弁護して専務の後藤と知り合った。堤は後藤毛織の株で6万円の利益を得て、3等郵便局長の権利と鉄工所を買っています。(17)このあたりのことは息子の辻井喬が書いた「父の肖像(上)」にちょっと出てきます。堤はその後次々と事業を広げていったわけですが、後藤毛織と西武グループとはこんなつながりがあったのです。
  

参考文献
上記資料その2は生田誠氏提供写真、 資料その3は生田誠氏提供写真、 資料その6は藤井正宗編「大井町名鑑」ページ番号なし、大正15年10月、大井町名鑑編纂所=原本、資料その4も品川区立図書館所蔵の同書からのコピーの筈だが、国会図書館デジタルコレクションで見ると広告ページは除去したのか皆無なので再調査する。 (8)は昭和7年1月8日付東京日日新聞朝刊*面=マイクロフィルム、 (9)は昭和7年1月11日付読売新聞夕刊7面、同 (10)は料理の友社編「料理の友」21巻5号120ページ、吉田誠一「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」、昭和8年5月、料理の友社=マイクロフィッシュ、 ゛資料その5(1)と同(2)はゼンリン東京支社編「ゼンリン住宅地図東京都品川区」61図、平成22年11月、株式会社ゼンリン=原本、 同(3)は平成31年12月4日尽波撮影、拡大プログラムは https://toretama.jp/
click-big-image-
floaty.html
(11)は下中邦彦編「日本人名大事典」第2巻608ページ、昭和54年7月、平凡社=原本、) (12)は大井町役場編「大井町史」299ページ、昭和7年9月、大井町役場、国会図書館インターネット本、 (13)は黒田寿太郎編「荏原名勝附地図」38ページ、大正13年5月、黒田寿太郎=原本、 資料その6は藤井正宗編「大井町名鑑」写真ページ、大正15年10月、大井町名鑑編纂所=原本、 (14)同208ページ、同、 (15)同209ぺージ、同、 資料その7は嬌溢生著「名士奇聞録」151ページ、明治44年11月、実業之日本社=国会図書館インターネット本、 (16)は昭和2年8月6日付読売新聞朝刊8面=マイクロフィルム、 (17)は大西健夫、齋藤憲、川口浩編「堤康次郎と西武グループの形成」63ページ、平成18年3月、知泉書館=原本、

 春秋園は門があり、それにつながる広大な敷地を囲む塀があったと思われます。昭和7年1月8日の都新聞は「奉天の南大門といつた春秋園の支那風の門構への奥に籠城一夜をあかした西方力士団(18)」と書いてますし、資料その8にした広告に中国の城門風というか、入り口が丸い絵が入っています。
 これは中外商業新報の昭和7年1月19日夕刊に載ったキジナカ、名刺ぐらいの大きさで記事の中に入っているので記事中と書く広告です。同1月26日付東京日日ラジオ欄の題字下にこれを縦長にした広告があります。多分ですよ、その門なる構造物は煉瓦を積み瓦屋根を乗せたアーチで、大井町ではかなり目立つ門だったのでしょう。広告の「支那料理 春秋園」の上は「独特の成吉思汗料理開始」、下には「大井町(旧後藤邸)」、「省線駅前自動車送迎無料」、「電話大森二一三八番」と読めます。
 それからね、これらの字句と絵を囲むのは、追いつ追われつらしい2頭というか2匹というか抽象化した竜の絵で、いくつかバリエーションがあります。

資料その8


 辛うじて塀が見える写真が資料その9(1)であり、その塀の高さについて、昭和30年代に銀座に大きなキャバレーを開き、キャバレー太郎の異名をとった福富太郎は大井町育ちで「頭を下げれば金が來る」という本に思い出を書いていたので、同(2)にしました。写真の左端に塀が見えるでしょ。屋根だけ見える家は塀の塀の外の道の向こう側だと思いますが、3メートルはオーバーにしても、子供にすれば結構な高さだったようです。

資料その9

(1)


(2)

 ぼくが知っている政治家でもっとも腰が低かったと思うのは、森田福市さんという広島の代議士だった。ぼくが子ども時代を過ごした東京の大井町に春秋園という庭園があった。敷地は千坪ほどあって、三メートルぐらいの塀を乗り越えてドングリを拾いに行った覚えがある。番人はいるのだが、そういうイタズラ小僧の侵入にも気づかないほど広かった。その春秋園の中にあるお屋敷に昭和十七年ごろ森田さんが引っ越してきた。近所は長屋というか、職人や行商人といった仕事の人が多かったが、散歩に出た森田氏は、ぼくら子どもにまでていねいに挨拶していた。それまで住んでいた人が、みな殿様のように大威張りで歩いていたのとは大違いだったのである。
 だから、井戸端会議では春秋園の中のお屋敷の人の悪口しか出なかったものだが、森田さんだけは「あの人は偉い人だ」という話ばかりだった。昭和二十年に森田さんは広島で原爆で亡くなられたが、いまでも大井町では森田さんの話が出るほど、みなに好かれ尊敬されていた。

 福富さんは塀が板塀ともブロック塀とも書いていない。それでね、奉天、いまの瀋陽南大門の写真を探したのですが、ソウル、昔の京城の南大門ばっかり出てくる。そうなると、意地でも見付けるぞと、ジンパ学としてはどうでもいいことに時間を費やしてね、やっと関口俊吾という画家が描いた絵を1枚見付けた。資料その10(1)がそれですが、こんなトンネル付き城壁みたいな重苦しい門では入る気がしなくなるよね。
 写真はないかと、さらに探したら明治神宮外苑の記念絵画館に、日露戦争の奉天占領後、元帥大山巌らが馬に乗って奉天城の城門から入る情景の絵があると知りました。ただ、それが南大門かどうかはわからん。というのはウィキペディアの「奉天会戦」に「奉天に入城する大山巌」という絵葉書の写真があり、こちらは道路を行く騎兵のの行列にしか見えないからです。
 その後、ヤクオフにその焦げ茶色だけで描いたみたいな展示画の絵葉書が180円で出ていた。それならと入札したら競る人がなくて180円のまま落ちた。資料その同(2)がそれで、絵の上に「明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画」下に「鹿子木孟郎筆 日露役奉天戦 南満州鉄道株式会社奉納」、「明治卅八年三月十五日 満洲奉天城南大門」と説明がある。老いぼれスキャナーのせいで暗いけれど現物の絵はもう少し明るく煉瓦の積み方がよくわかります。当時は「日露戦争実記」、「征露戦報」といった月刊誌のために出版社が何人も画家を戦地に送り込んでいたから、写生に近い想像画かも知れません。
 私は、この講義の準備として大井をキーワードにした犬棒で、ブログ「墳丘からの眺め」などで品川区内には煉瓦造りの古い建物や塀が残っていることを知りました。それでルートインの撮影に行ったとき、近くに煉瓦塀があるんじゃないかと観察したら駐車場の入り口近くに塀の下部が少し残っていたんですなあ。同(3)がそれです。資料その1(3)の白い車の後ろ当たりから向こうへ段々低くなるけれど、30メートルぐらい続いていました。そうなれば春秋園の門も当然煉瓦造りだよね。小さくても矢倉みたいな屋根付きだったかも知れません。

資料その10

(1)
   
(2)
    

(3)
 

 講義案によれば、私はここまでに春秋園の開店は昭和6年、その10月だと2回いってますが、正確には10月の19日。それがわかるまでの苦労話を聞いて下さい。
 いいですか、力士団が立て籠もる前から営業していたのだから、当然のことながら昭和7年の正月以前、新聞に開店広告を出していないか探すしかありません。まず昭和6年1月と2月の朝日の紙面を見ました。晩翠軒はじめ延べ13軒が30回広告を出していたけど春秋園の広告はなし。
 それで昭和6年12月からさかのぼって6月の間に開店広告があるだろうとヤマをかけて東京日日、いまの毎日ですね、それと朝日新聞に現れる支那料理店の広告を調べました。読売も見たことは見たが、読売はまだ朝刊だけの新聞でね。平日の朝刊が12ページ、日曜は朝刊を休む代わりの夕刊が8ページで広告面が狭く、東京日日、朝日と同じように比較できない。
 それに読売では飲食店は駄目と断っていたのではないかと思うほど、飲食店の広告が少ない。6月から見ていって、2乃至3行の雑件広告ではない飲食店の広告が初めて現れるのは10月18日付7面、赤坂山王下にできた朝鮮料理店の明月館の本日開店でした。
 マイクロフィルムには11月23日付夕刊、つまり22日夕方配達の夕刊が入っているから、読売新聞社は昭和6年11月23日分から朝刊と夕刊発行で東京日日、朝日と同じとして比べられるようになるのだけどね、11月はゼロ、12月は開業間もない目黒雅叙園が25日夕刊2面に1段18行ほどの新築落成広告と27日夕刊1面と2回出しただけで春秋園はない。
 それで東京日日と朝日だけにしましたが、この手の調査は根気が要ります。マイクロフィルムを見ているうちに眠くなり、見落とすかも知れない。だからもう一度見直すんだけど、そのときは1回目の結果を見ないでね、初めて見るつもりで調べる。2回目もまた同じあたりで一瞬寝てしまい、同じ広告を見逃したかも知れない。だから以下の広告データは正確無比という自信はないけれど、一つの仮説を検討するためには、こうした一定量のデータ集めが必要なことはわかりますね。
 資料その5が調べた結果です。この見方ですが、aは朝刊、yは夕刊、それを挟む2つの数字は前が日付、後ろが何面かを示します。1a3は1日付朝刊3面ということです。*と数字で広告の種類を示していますが、何もないのは記事の中に置かれた1段で横長の広告ね、後で見せますが、記事中ともいいます。さっきスライドで見せた東京日日の紙面の広告は1月7日朝刊7面の左下突き出しだから、例えば「7a7*なんとか」と記録した。わかりますね。
 果たせるかな、朝日は10月31日、東京日日は11月4日から広告が載り始めていました。しかし、朝日のそれは朝刊3面の記事中広告でした。もう一度言うけど記事中はキジナカと読み、縦が記事と同じ1段で幅は名刺ぐらい、資料その11がそれです。その後、突き出しと呼ばれる記事面の右下隅か左下隅に出す細長い広告などがありましたが、東京日日と朝日両紙では春秋園の開店広告は見付からなかった。
 大井では超有名だった後藤邸を買い取って開く料理店が開店広告を出さないわけがない。それで開業は10月以降とみて、4ページ以上の朝夕刊を出していた時事新報、報知新聞、中外商業新報と範囲を拡げて調べたら、春秋園の開店日がわかったのです。

資料その11

東京朝日の昭和6年6月分
山水楼 2a3 5y1 14y2 28a3*15    4回
翠松園 3a11 10a7 17a2*3 24a2*3  4回
芝浦雅叙園 12a11*2 26a11*2     2回
南浦園 29a9             1回
*2は「御家庭へ出張料理致します」とうたう
*3は枠が瑞雲模様の右下隅広告
*15は電話番号変更通知

東京朝日の昭和6年7月分
翠松園 1a11 8a11 22a2*3 29a2*3  4回
芝浦雅叙園 3a11*2 17a7*2      2回
南浦園 5a15             1回
山水楼 5a3*15 13a3 21a3      3回
*2は「御家庭へ出張料理致します」とうたう
*3は枠が瑞雲模様の右下隅広告
*15は電話番号変更通知

東京朝日の昭和6年8月分
翠松園 5a7 12a7 18a2*3 26a2*3  4回
芝浦雅叙園 14a7*2 28a7*2     2回
*3は枠が瑞雲模様の右下隅広告
*2は「御家庭へ出張料理致します」とうたう

東京朝日の昭和6年9月分
翠松園 2a7 9a7 16a2*3 23a2*3  4回
芝浦雅叙園 4a7*2 18a11*16     2回
山水楼 11a3 26a9         2回
盛京亭 12a3*14           1回
*3は*枠が瑞雲模様の右下隅広告
*14は「新装成る」とうたう
*16は「御家庭へ出張料理致します」を削除した広告

東京朝日の昭和6年10月分
山水楼 7a3 17a3           2回
翠松園 7a7 15a11 21a2*3 28a2*3  4回
春秋園 31a3             1回
*3は枠が瑞雲模様の右下隅広告

東京朝日の昭和6年11月分
山水楼 2a5 9a3 23a3          3回
翠松園 4a7 11a7 18a2*3 25a2*3    4回
芝浦雅叙園 13a11*2 20a11*2 27a11*2  3回
盛京亭 19a3*4              1回
春秋園 21a3               1回
銀座泰山 9a7              1回
*3は枠が瑞雲模様の右下隅広告
*2は「御家庭へ出張料理致します」とうたう
*4はジンギスカン始めたとある広告

東京朝日の昭和6年12月分
翠松園 2a7 9a11 23a2*3 30a2*3     4回
芝浦雅叙園 4a11 11a11 25a11      3回
山水楼 7a3 16a3 20a3          3回
晩翠軒 14a3               1回
目黒雅叙園 22a7*1 27y1*1 28a7 30a6  4回
*1は21日開店をうたう紙面と同幅の2段広告
*3は枠が瑞雲模様の右下隅広告

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

東京日日の昭和6年6月分
翠松園 4a2 11a2 18a2 25a2  4回
山水楼 4a3 17a2 23a3     3回
芝浦雅叙園 5a2*2 19a2*2    2回
*2は「御家庭へ出張料理致します」とうたう

東京日日の昭和6年7月分
翠松園 2a2 9a2 16a2 23a2 29a2 4回
南浦園 3y1*1            1回
山水楼 7a2*15 25a2*15       2回
芝浦雅叙園 10a2*2 24a2*2     2回
*1は鎌倉に別館ができたというお知らせ入り
*2は「御家庭へ出張料理致します」とうたう
*15は電話番号変更通知

東京日日の昭和6年8月分
翠松園 6a2 20a2 27a2    3回
芝浦雅叙園 7a2 21a2     2回

東京日日の昭和6年9月分
翠松園 3a2 10a2 17a2 24a2    4回
芝浦雅叙園 11a2 12a10*12 25a2   4回
山水楼 7a2             1回
*12は広告欄内にあった記事中4つ分ぐらいの広告

東京日日の昭和6年10月分
翠松園 1a2 8a2 14a2 22a2 29a2 5回
山水楼 3a2 19a3          2回
盛京亭 23a3*1           1回
*1は「新装成る」とうたう

東京日日の昭和6年11月分
春秋園 4a2*1 16a2*2 28a5*3  3回
翠松園 5a2 12a2 19a2 26a2  4回
芝浦雅叙園 6a2*4 20a2*4    2回
晩翠軒 22a2           1回
山水楼 5a3 16a11        2回
*1は大小御宴会ニ適スと字が不揃い
*2は前記の修正済み
*3はラヂオ欄題字下2段縦長
*4は「各御家庭への出張御料理に/御結婚の御披露に」とうたう

東京日日の昭和6年12月分
山水楼 1a2 13a2               2回
翠松園 3a2 10a2 17a2 24a2         4回
芝浦雅叙園 4a2*1 11a2*1 18a2*1 22y2 27y2 5回
春秋園 6a2 12a6*4 23y1*5          3回
丸之内会館 9a2                1回
晩翠軒 23a2                  1回
目黒雅叙園 27a1*11              1回
*1は「各御家庭への出張御料理に/御結婚の御披露に」とうたう
*4はラヂオ欄題字下2段縦長
*5はジンギスカン開始をうたう
*11は21日開店をうたう紙面と同幅の2段広告

 実はね、初め報知の20日付夕刊で見付けたが、濱の家に取って代わろうと始めたように思える春秋園がだ、開店広告を1社にしか出さないなんてケチなことはすまいと見ていったら、都新聞の10月19日の朝刊にもちゃんと開店広告がありました。都新聞は朝刊だけの新聞でしたから、その本日は19日、月曜日となる。そのころの夕刊は翌日の日付で配っていたので、報知は19日中に配達するんだからいいだろうと半日遅い夕刊に載せたらしい。
 資料その12(1)が都新聞に載った開店広告です。左上に武蔵山負傷の記事も入れようとしたら、こんな暗い画像になってしまった。撮り直そうにもコロナで出掛けられないので我慢して下さい。同(2)が報知の広告、文面や配置が同じでも、頭の「本日開店」が明朝体なので同(1)との違い、わかるね。
 報知の左上の囲みの中は字画がつぶれてるが両紙とも「娯楽場完備」で、記事にもあって「別館階下娯楽室で打ち興じてゐた力士達は(19)」と出て来ます。その娯楽場とみられるのが生田氏提供の同(3)にした「支那料理 春秋園洋館娯楽室(東京大井)」の写真。拡大して見ると、奥にピンポン台、右手前に碁盤と碁笥、左は4人が囲む麻雀卓があり、さらに手前で端だけ写っているテーブルも幅からみてジャン卓ですね。
 それから同(4)が都新聞の「武蔵山/腕を折る」の記事です。面白いことに都新聞は大阪本場所の勝負を載せているけど東京日日は全く無視。朝日は載せているけど、日曜休刊なので10月19日朝刊には18日日曜の勝負を載せ、17日土曜の9日目の結果はボツになっています。
 武蔵山はこの後1月ほど温泉で治療し、その2カ月後に待遇改善などを要求して天竜、大ノ里らと春秋園に立て籠もった。だが脱走してね、渡米してボクサーになるとかならぬとか話題を振りまいた大関でした。袖振り合うも多生の縁、武蔵山の相撲人生についていささか調べたのですが、コロナのせいで確かめに行けない部分があり、今回は触れずにおきます。

資料その12

(1)
    
(2)
      

(3)
 
(4)
   武蔵山
     腕を折る
  【大阪電話】関西本場所に初日來
  八日間勝放しの東方小結武蔵山
  は九日目(十七日)西方沖ツ海と
  四つに組み強引の下手投に惜く
  も敗れたが、其際武蔵山は右腕
  を下に倒れ激痛を訴へたので阪
  大病院にて手當を加へ十八日松
  永博士が第二回レントゲン診察
  の結果、右腕の二頭搏筋の激し
  い収縮から肱関節に亀裂を生じ
  た事判明治療一ケ月餘りを要す
  ると

 この朝日と東京日日の広告調べでね、春秋園の開店日のほか東京日日12月分の広告で新聞にジンギスカン料理の広告が載り始めた年代がわかっただけでなくね、オホン、さらにね、我が日本国内におけるジンギスカンを提供する料理店の正しい開始順がわかったのです。
 私はね、濱の家がトップ、2番目が春秋園だろうと昭和6年後半を見ていたのですが、意外にも京橋の盛京亭が春秋園より1カ月早く広告しており、春秋園は3番目だったのです。資料その13(1)は昭和6年11月19日付朝日新聞朝刊3面の「盛京亭」の記事中です。この店が春秋園より先にジンギスカンを始めていたのです。
 このとき私は店名を「セイキョウテイ」と読んでいたのですが、後で示す建築関係の本を読んで正しくは「セイキンテイ」と知りました。北京と書いてペキンと読むキンですね。講義録を見ている人は今後はセイキンテイと読むようにね。
 縁取りが図案化した竜2頭が向き合う形になっていますね。ミミズのような抽象化した竜が2頭向かい合っている。私は朝日と東京日日に週1回は広告を出す律儀な上野の翠松園の記事中を多分に意識した図案と見ます。同(3)が翠松園の記事中、羽織のひもみたいな竜が左回りで追い掛け合っている、つまり動に対して盛京亭ここにありと向かい合う静で対抗したと考えます。
 盛京亭という太字から左に向かって「小規模に成吉斯■料理」だが、■の1字がつぶれてはっきり見えない。サンズイに旱のようだが、これはサンズイに罕、ユニコードの6D6Bの浫で、ヂンギスカンというルビはなんとか読めるよね。
 ジンギスカンの広告はたったこの1回だけですが、盛京亭が11月中にジンギスカンを始めたことは確かでしょう。これより前の広告を見ていくと同(2)にした同じ縁取りで「新装成る」という広告があります。何席かでジンギスカンを食べられるように店内を改装したらしい。「店舗は貧弱」と謙遜しつつも「味覚は極めて確実」本当の「北京料理」というあたり、たいていの人は店主は相当の自信家らしいと思いますよね。
 ついでに翠松園の「枠が瑞雲模様の右下隅広告」を同(4)としました。東京日日が使っていた輪転機は新聞紙の右端にインキのしぶきが付く歯車に接触するようで、翠松園は右下隅を指定して白の多いこの広告を出していたため、どれもこんな風に薄黒くてね、これは綺麗な方です。

資料その13

(1)
 

(2)
 

(3)
  

(4)
        

 以前の講義で、料理人吉田誠一の小説「支那食味放浪」の架空座談会に桶町盛京亭の名が出てきて、経営者はと書いてあったと話しました。思い出せといっても無理かだろうね。「昭和人名辞典」によると、篠原は群馬県出身で昭和7年当時41歳。中央商業という学校を出て帝国ホテルで修業し、大正13年に京橋で開業、後に京橋区会議員(20)になっています。吉田は大胆にも実在の店主を自分の小説に登場させていたのです。
 朝日新聞のデータベースで「盛京亭」を検索したら資料その14(1)にした大正13年の開店広告が出てきました。私は陸軍糧秣本廠の丸本彰造が李鶴亭に料理を習ったと本に書いていたことをすぐ思い出した。完ボケでないからね。はっはっは。
 国会図書館を検索したら「支那料理の研究 その料理法の研究と随園食単」という本らしい。それで「支那料理の研究」でマイデータべースを検索したら「支那料理」と「研究」がキーになった記録が出てきた。
 ここでまたまた脱線ね。私のマイデータベースはね、とっくに同じようなことをやってる人がいると思うけれど、ジンパ学の資料集めをした日々の記録集というべきものでね、毎日ミクシィ日記を書き、気が向いたときに、いずれは講義に生かすことになるなと思う材料をgmailの自分宛に送る。よそのメーラーでもやれるが、そこはもともと検索エンジンで売り出したグーグル、こういう単語ならと思う1語でズラズラ出してくれる。それに太っ腹で15GBも貯めさせてくれる。
 あっ、いまさっき、日記とマイデータペースの関係は云ったんだっけ。話の脱線もこんなダブリも脳の水分減少から生じることにしておこう。話のついでだか手の内をいえばね、データベースはコロナ蟄居でおととしの6月でストップしているが、グーグルから1103件で0.26GBお借りしておるのさ。漸く単位をもらった独逸語でいえばダンケシェーン、相撲語ならゴッツアンスだ、あっはっは。
 それでね、昭和6年2月3日付北海タイムス1面に雑誌「家禽と家畜」3月号の広告があり、吉田誠一の「兎の支那料理」が載っていると知り、研究仲間にお願いしてそのコピーをもらったことは前にもいいましたよね。
 マイデータベースには吉田が「この兎料理では翠松園という上野にあった支那料理店所属になっている。」など思いがけない情報も書いていたんですなあ。つまり吉田は昭和6年春は翠松園で働いており、兎料理では「さて、我国の一般家庭では兎の肉を料理すると云ふ事を余り知つて居ない。台所がまだそれだけ兎肉に理解がないのである。今後は一般家庭の主婦が是非共、此の安い兎肉を、台所で自由自在に料理して、食膳に共する様にしなければ駄目である。支那などは此の点から云つて、我国の家庭よりも遙かに進むで居る。(21)」と書いたが、10月の春秋園開店でスカウトされたか飛び出したか、新しい店へ移って羊肉料理も遅れておるぞとジンギスカンを売り出したことが考えられます。
 さらに「李鶴亭」も検索したら「丸本は昭和30年に出した個人雑誌の『糧友』の『2.緬羊政策今昔記』で「遠く顧みれば、大正十年私は軍食の改良の根本的研究のため、軍命令で支那料理研究のため支那に行き、当然羊肉料理を研究した。その際北京城外の正陽楼で『烤羊肉』を食するに及んで『この粗朴な料理を日本に普及したら』と痛感し、日本への土産として、成吉思汗鍋を持ち帰つたものだ。又、支那料理の先生李鶴亭氏を帝国ホテルの支配人林愛作氏の依頼によつて、ホテル司厨長として招聘同伴して帰つた。』と書いている。(22)」と出てきました。
 そこで国会図書館に行き「支那料理の研究」を読み、コピーしてきました。丸本の「糧友」が北支出張が1年違うので資料その14(2)としました。

資料その14

(1)



(2)
   ◎山東還附と支那料理

<略> その当時、大正十一年新春、私は北支の支那駐屯軍並に山東駐剳軍の諸部隊兵食改善指導の為出張したのであるが、我国朝野の支那研究熱の高度化「次に來るものは支那料理」を予察して天津に着くや、駐屯軍附平田主計正、枡田主計両氏の特別尽力によつて、嘗て唐紹儀の厨司たりし堪能なる料理師李鶴亭氏を得て、吾等一行は昼夜兼行同氏を師として天津偕行社に於て猛研究を行つたが、到底短時日に満足すべきでない、遂に内地に伴ひ帰り研究を続行し、これを或は家庭簡易支那料理講習の開催に、或は研究の成果を軍隊、団体炊事に普及する等に努めたのである。<略>

   ◎李鶴亭氏と支那料理

 因に記す、李鶴亭氏の優秀なる技能は当時帝国ホテル支配人林愛作氏に見込まれて同ホテルに入ることに決したが、偶々ホテルの火災に依つて京橋盛京亭の開業となりこれが司厨長に転じ、大に腕を振ひ、斯界に盛名を馳せ、次で東京割烹女学校の講師其他幾多講習会の講師として斯界の為努力貢献せられたること尠からぬものがあつた。<略>
(丸本彰造著「支那料理の研究 その料理法の研究と随園食単」4ページ、「自序」より、昭和13年4月、糧友会=館内限定デジ本、)

 こうなると盛京亭の情報がもっとほしくなり、犬棒をやっていたら盛京亭の写真が出てきて、さらに調べたら室内1枚、外観2枚が昭和3年に発行された「建築写真類聚」シリーズにあるとわかった。マイデータベースによれば令和元年の暮れでした。
 ところが同書は国会図書館、都立中央図書館にもなく、日本の古本屋を検索すると、沢山出てくるが盛京亭の載っているらしい「バラック建築」という本がない。また最初に戻ってやり直したら、狙った本は東京中央区立の京橋図書館にあるとわかった。
 資料その15がそこでコピーさせてもらった写真、その下は同書の説明です。開店広告に「ライト式感じのよい家」と書いているから、開店当時の撮影でしょう。次の開店10周年の記念写真とかなり違うので、この建物は昭和6年以前に焼失したか「新装」せざるを得なかったらしいが、その辺は調べておりません。

資料その15

(1)
   

  盛京亭 側面外観 「セイキンテイ」と読む。建物は近代的で一
  見西洋料理店のような印象。2階屋根庇に下げられた提灯のよう
  な飾りが、かろうじて中華料理店らしさを出している。

(2)
        

  盛京亭 内部 照明器具も設計書の遠藤新の設計によるものだろ
  う。

(3)
        

  盛京亭 正面 切妻屋根の両端を平らにしている。この手法は、
  設計者の師であるフランク・ロイド・ライトが設計した大正11
  年建設の自由学園校舎にも見られるデザイン。

  盛京亭 東京・京橋。大正12年頃建設。遠藤新設計。
  中華料理店。関東大震災後のバラック建築。

 いつ帝国ホテルの火事があったのかと「帝国ホテル 火災 大正」で検索したら「情報センター・ブログ」がまず出て「公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。」とありました。そこに書いてある記事だけでも十分に用が足りたが、せっかくだから「公益財団法人渋沢栄一記念財団」の本文も見ました。
 それによると大正11年4月16日、地下室にいた大工の不始末で大食堂など1600坪が焼失したとあり、渋沢は当時同ホテルの社長だったので現場に駆けつけ支配人林愛作を「慰諭ス。」(23)とありました。丸本の「因みに記す」だと火事になって仕事がなくなったから盛京亭に移ったみたいに受け取れるが、盛京亭の開店は大正13年、確実に1年以上後のことだ。來日して間もなくの火事ですから、先生困ったんでしょう。盛京亭に移るまで帝国ホテルの仮設食堂の料理をつくる傍ら、篠原たち日本人のコックに北京料理を教えたと思う。そして2年後、篠原が独立して盛京亭を開き、大看板として李先生を迎えたということでしょう。
 それからね、篠原は昭和14年の暮れに「弊亭十五周年を迎へ自粛記念し、本書を出版して顧客各位に捧ぐ。(24)」と「北京料理の話」という50ページの本をお得意さんに配りました。国会図書館にあるので読んでみたら烤羊肉は入っていませんでした。
 篠原は長年、女子高等学園で支那料理を教えたことから同学園校長の高島平三郎が「序」を寄せ「教職員の宴会を、一度盛京亭で催したら、爾後偶々他の料亭に変へると、どうも全員の満足を欠くと見えて、堀の内と銀座と随分遠くて、不便なるにも拘はらず、何時も殆んど全員一致で、盛京亭に行き、燕巣や鯉の料理に、他所にて得られぬ旨味に、舌鼓を打つて帰るのである。(25)」と賞めていました。
 資料その9はその前の開店10周年記念日に撮った写真だそうだ。玄関上の屋根に角のような突起があり「京橋千代田ビル裏角の青瓦黄色な壁で異国情緒豊かな建築で目に付く(26)」と「大東京うまいもの食べある記」に書かれた店の前に花輪が並んでいるのがわかりますね。
 盛京亭の自粛記念とは何だ、変だと思う人がいるかな。このころはね、日中戦争の真っ最中で、贅沢は敵だとか、何かにつけて国民は物資の節約を強いられていたのです。だから、国策に合わせて豪華な祝宴は自粛し、この本を贈るという意味です。

資料その16

    

  

参考文献
上記(18)の出典は昭和7年1月8日付都新聞夕刊*面=マイクロフィルム、 資料その8は昭和7年1月19日付中外商業新報夕刊*面、同、 資料その9(1)は生田誠氏提供写真、 同2は福富太郎著「頭を下げれば金が来る」51ページ、平成3年1月、ゴマブックス=原本、 資料その10(1)は関口俊吾著「関口俊吾満洲北支画」8ページ、昭和17年9月、美術工芸会=館内限定近デジ本、 同(2)は絵葉書「日露役奉天戦」発売元など不明、 同(3)は平成31年12月4日尽波撮影、 (18)は昭和7年1月8日付都新聞朝刊*面=マイクロフィルム、 (19)は昭和7年1月7日付都新聞朝刊13面、同、 (20)は谷元二編「昭和人名辞典」第1巻483ページ、平成元年10月、日本図書センター=原本、 (21)は誠文堂家禽と家畜社編「家禽と家畜」2巻2号85ページ、吉田誠一「兎の支那料理」、昭和5年5月、誠文堂家禽と家畜社=原本、 (22)は糧友會編「糧友」12号3ページ、丸本彰造「緬羊政策今昔記」、昭和30年10月、糧友会=原本、 資料その14(1)は大正13年3月9日付朝刊6面=聞蔵U、 同(2)は丸本彰造著「支那料理の研究 その料理法の研究と随園食単」4ページ、「自序」より、昭和13年4月、糧友会=館内限定デジ本、 資料その15(1)と同(2)と同(3)は藤森照信、初田亨、藤岡洋保著「失われた帝都東京 大正・昭和の街と住い」124ぺージ、平成3年2月、柏書房=原本、 (23)はデジタル版『渋沢栄一伝記資料』
https://eiichi.shibusawa.
or.jp/denkishiryo/digital/
main/index.php?DK530104k
(24)は篠原呂市著「北京料理の話」2ページ、「序」より、昭和14年12月、盛京亭=原本、 (25)は同4ページ、同、 (26)は和田博文監修「コレクション・モダン都市文化」13巻633ページ、白木正光編「大東京うまいもの食べある記」より、平成17年1月、ゆにま書房=原本、底本は白木正光編「大東京うまいもの食べある記」453ページ、昭和8年5月、丸ノ内出版社、

 はい、ここから夲命の春秋園に代わります。今回はオンラインだから、もう1度、資料その11の末尾を資料その17として出しますが、講義録を読んでいる人は資料その11に戻り、その東京日日の昭和6年12月分の最後を見なさい―だね。春秋園の3つ目、23y1*5。12月23日付東京日日新聞夕刊1面にジンギスカンを始めるという広告を出したのです。春秋園としてジンギスカン開始を入れた最初の新聞広告は、その6日前の報知の広告なのですが、それにしても盛京亭より1月遅いから、始めた順序は1番は濱の家、2番が盛京亭、春秋園は3番目となる。わかりますね。

資料その17

東京日日の昭和6年12月分
山水楼 1a2 13a2               2回
翠松園 3a2 10a2 17a2 24a2         4回
芝浦雅叙園 4a2*1 11a2*1 18a2*1 22y2 27y2 5回
春秋園 6a2 12a6*4 23y1*5          3回
丸之内会館 9a2                1回
晩翠軒 23a2                  1回
目黒雅叙園 27a1*11              1回
*1は「各御家庭への出張御料理に/御結婚の御披露に」とうたう
*4はラヂオ欄題字下2段縦長
*5はジンギスカン開始をうたう
*11は21日開店をうたう紙面と同幅の2段広告

 昭和6年の「文芸春秋」9月号に濱町濱の家がジンギスカンを始めたとあるから、吉田はMの家へ行ったか中国人のコックに教えてもらったか、自分もジンギスカンを手がけたくなった。でも翠松園はそういう煙濛々の料理を出すような店ではなかった―といっても店内写真からの想像ですがね。そんなとき新しい店が料理人を探していると知ったか、ジンギスカンもやるべきだと手を挙げたか、とにかく向上心あふれる吉田はチャンスとみて動いた。
 彼は大正15年に晩翠軒料理主任の肩書きで雑誌「婦女界」に執筆し、昭和4年に400ページの「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」を書いた男です。翠松園は昭和3年4月1日の開店だから、吉田はこのとき鞍替えしたのかも知れません。この開店日は新聞広告からでね、東京朝日と東京日日の3月31日にあす開店、翌1日に営業を始めましたと、結構な大きさの広告が載ってます。
 吉田は料理を作りつつ、資料その11にその名のある大正11年開店の山水楼、同13年開店の晩翠軒(27)に追いつこうと、翠松園がほぼ週1回、同じ新聞のほぼ同じ場所と形で広告を続ける出稿方針とその効果を観察していた筈です。
 だから私はね、吉田は翠松園入りの条件として宣伝・広告の一任、それからレシピを書くとき園主と名乗ってよいという条件付きで移籍したとみたい。園主として書いたレシピのことは「吉田誠一が書いた命名者伝説の出所」の講義でも話したが、初回とみられるのは昭和6年11月3日の中外商業新報、いまの日本経済新聞に書いた松茸料理2品のレシピだ。堂々と「大井町春秋園主 吉田誠一」と名乗ってます。
 資料その18(1)は春秋園事件の3年前に開いたとみられる料理講習会の写真で、ちょび髭に蝶ネクタイが吉田です。黒っぽい服のせいにしても、この貫禄で園主の名刺を渡されたら、まず怪しまないよね。同(2)は松茸レシピの署名箇所のコピーです。

資料その18
(1)
    

(2)
  

 吉田の計画通りと思いますが、春秋園は開店から年末年始に目掛けて新聞広告と吉田のレシピによる猛烈な宣伝攻勢を掛けました。次の資料その19を見なさい。10月19日の開店から大晦日までの72日間に広告とレシピで24回、東京の新聞6紙を使って3日に1回、春秋園の名前を売り込んだ。
 昭和6年下半期に1カ月に5回広告を出したケースは東京日日10月の翠松園と同じく12月の芝浦雅叙園だけ、前に示した資料その11をもう1度見なさい。翠松園の5回は説明できんが、芝浦雅叙園は開店した目黒雅叙園と合併するわけじゃない、芝浦は芝浦、今迄通りだと知らせる狙いの回数増だったはずです。春秋園の広告連発は、いわぱ支那料理業界への殴り込みみたいな動きといえます。
 春秋園は10月開店だけど、吉田は6月から中外商業に支那料理のレシピを書いていたのです。それと吉田が報知にも書いたレシビは別ページにしたので、ここをクリックして読んで下さい。12月3日の記事は「大井町春秋園主吉田誠一氏は支那料理普及のため今回相談部を設け無料で家庭向支那料理の作り方につき一般の相談に応じ懇切に教授するさうです(28)」という広告みたいな記事や支那料理の食べ方、犬のお食事まで書いたことがわかるよ。はっはっは。

資料その19

昭和6年
掲載日 新聞名 朝夕面  種類
10/19  都   朝7    縦長 本日開店
10/20  報知  夕2   縦長 本日開店
10/29  報知  夕2   右突出し 支那料理のみ
10/31  朝日  朝3   記事中 娯楽場完備 ニの字見えない
11/3   中外  朝5   吉田の料理記事
11/4   東日  朝2   記事中 娯楽場完備 ニの字見えない
11/8   中外  夕1   記事中 娯楽場完備
11/12  報知  夕2   右突出し 支那料理のみ
11/14  時事  朝4   記事中 雷紋の枠使用
11/16  東日  朝2   記事中 11/4の修正版
11/16  報知  朝5   吉田の料理記事
11/21  朝日  朝3   記事中 10/31の修正版
11/25  報知  夕2   右突出し 支那料理
11/27  中外  朝5   吉田の料理記事
11/28  東日  朝5   ラジオ題字下 縦長
12/3   中外  朝5   吉田が相談部開設の記事
12/6   東日  朝2   記事中 虹型で園の字異なる
12/10  報知  夕2   右突出し 11/25と同じ
12/12  東日  朝6   ラジオ題字下 11/28と同じ
12/14  時事  朝4   記事中 忘年會新年会に変わる
12/17  報知  夕2   右突出し 独特の成吉思汗料理開始
12/22  時事  夕2   記事中 忘年會新年会に変わる
12/23  東日  夕1   記事中 忘年會新年会に成吉思汗開始を加える
12/26  報知  夕2   右突出し 独特の成吉思汗料理開始

 次の資料その20は春秋園の初期の広告の図柄です。初めての記事中は、反時計回りに2頭、いや2匹というべきか、形は違うが、双竜が追いかけっこしている翠松園のそれに似ている。そうかと思うと盛京亭の2匹が左右から立ち上がって相対するデザインも試しています。
 左上の(1)は翠松園が当時多用していた広告です。右側が昇り竜で、左がその尻尾を追う形の竜です。隣の(2)が春秋園が初めて東京日日に出した広告で、昭和6年10月4日付朝刊2面に載っていました。右から4行目の「大小御宴会ニ適ス」とあるが、このカタカナのニとスが小さすぎてほとんど見えない点に注意して下さい。それから2頭の竜で四角い枠を形成していますね。春秋園という字の上の右に竜の頭があり、その髭が左側に八の字型に突き出して、左側の竜の尻尾の輪郭にもなっているのです。
 右竜のたてがみと尻尾に傷らしい白線が入っていますが、うろこがよくわかる10月31日の朝日朝刊3面に載った広告を示しました。左竜の頭は春秋園と後藤本邸という字の間の下にあるのがわかりますよね。東京日日と同じものです。翠松園とそっくりではまずいから、せめて竜の形ぐらいはと目先を変えたと思いませんか。
 「大小御宴会ニ適ス」の字の不釣り合いを直したのが、朝日11月21日朝刊3面にあります。それが(3)です。これを「ラヂオ欄」の題字下に入れるように縦長にしたものもありまして、それは後で示します。東京日日12月12日朝刊6面の広告がそれです。
 次はがらりと変わった(5)です。東京日日12月6日朝刊2面に載ったものです。これは不動貯金銀行がずーっと使っていたパターン(4)のそっくりさんです。1回しか使いませんでしたが、それまでの春秋園の園の字が、このとき翠松園が使っている園、(1)と同じになっている。うっかりお手本通り書いてしまったのでしょうね。
 春秋園が初めて「独特の成吉思汗料理開始」と入れた記事中広告(6)は東京日日12月23日付夕刊1面に現れますが、昭和6年のうちに出たジンギスカン開始広告はこれ1回だけでした。これで春秋園がジンギスカンを始めたのは昭和6年12月下旬だと推定する証拠です。ここで昭和6年の記事中広告は終わりで、昭和7年分は資料その19にしました。

資料その20

 年が明けて春秋園の記事中広告の縁取りの竜が変身します。(参照)に示す盛京亭の竜を思わせるものになったのが、東京日日1月4日朝刊6面からの(7)です。散り蓮華みたいな頭、紐のような胴が似ているでしょう。縦長のラヂオ欄題字下用は竜が反時計回りに追いかけっこしていますが、横長の記事中広告は盛京亭と同じく向き合っています。は1月24日朝刊2面に載っていたものです。
 資料その21に並ぶ3つの広告は「ラヂオ」と書いた題字の下に出していたもので、東京日日は高さが記事の2段分あります。(8)の枠のデザインはは資料その18の(2)と(3)の系列に属し、ぐにゃぐにゃ竜とでもいいますか(9)と(10)は(7)から始まった盛京亭の竜の系列。だれが見てもわかりますね。「ラヂオ」欄の題字の下は季節に応じた絵を入れていましたので、正月らしく東京日日1月4日朝刊6面の(9)と同1月26日朝刊6面の(10)は七福神のうちの大黒様の顔があります。
 それから(9)は見えにくいけれど春秋園という字の右側に「独特の成吉思汗料理開始」とあり(10)は「独特の成吉思汗料理」と、開始の2字がなくなっています。
 春秋園は最初から「独特の成吉思汗料理」というキャッチフレーズを使いました。新聞では盛京亭が1回だけだったし、他の店の広告は一様に支那料理と店の名前だけですから、もう春秋園の独壇場だ。加えて天竜ら力士が立て籠もった料理店として一躍有名になったのです。

資料その21

 昭和7年1月6日の昼下がり、出羽ノ海部屋などの力士が続々と春秋園に集まり、相撲協会に対して待遇改善など10カ条の要求書を発表し、48時間以内の回答を要求して立て籠もった。そりゃ事件だと新聞記者、カメラマンがどっと押し寄せた。
 いまならスマホでしょうが、そのころは原稿は電話で送るか、タクシーを使って原稿を本社に運ばせるしかなかったと思いますね。春秋園の1本の電話は相撲協会との連絡で使えないから近くの公衆電話、いや電話のある家を捜し、拝み倒して使わせてもらった社もあったかも知れんよ。
 力士の籠城計画は後援者グルーブから吉田にもこっそり伝えられ、目立たぬよう飲食物の手配をさせたとみますね。だってジンギスカンを売り物にして羊肉や食材のストックはあったとしても、いきなり大食漢32人分の羊肉をはじめ、立て籠もり初日の夕食を用意できるわけがない。
 それに春秋園を売り出す絶好の機会になるのだから、吉田は抜かりなく籠城開始の翌日7日からの「独特の成吉思汗料理」の突き出し広告枠も確保したに違いない。資料その22は昭和7年1月に春秋園が在京新聞社に出した広告の出稿状況だが、一目で「独特の成吉思汗料理開始」ばっかり。でも、この後暖かくなると「塵外の別天地/御宴会清遊の好季」というフレーズも使っていました。

資料その22

昭和7年
1/4   東日  朝9   ラジオ題字下 独特の成吉思汗料理開始
1/4   報知  朝8   かき廣並び
1/5   朝日  朝5   左突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/6   朝日  朝8   かき廣並び
1/7   国民  朝8   かき廣並び
1/7   東日  朝7   左突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/9   都   朝13  記事中 独特の成吉思汗料理開始
1/9   中外  朝7   記事中 独特の成吉思汗料理開始
1/10   読売  夕2   記事中 独特の成吉思汗料理開始
1/10   国民  朝7   広告欄名刺大 独特の成吉思汗料理開始
1/10   報知  夕2   右突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/10   時事  夕2   記事中 独特の成吉思汗料理開始
1/11   時事  朝7   左突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/11   中外  朝6   かき廣並び
1/11   朝日  朝7   左突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/12   朝日  朝7   左突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/13   報知  夕2   右突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/15   報知  夕2   右突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/16   東日  朝7   左突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/16   報知  夕2   右突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/19   中外  夕1   記事中 門の絵入り
1/19   朝日  朝7   左突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/22   報知  夕2   右突き出し 独特の成吉思汗料理開始
1/23   朝日  朝9   ラジオ題字下 支那料理
1/24   東日  朝2   記事中 独特の成吉思汗料理だけに変わり開始なし
1/26   東日  朝9   ラジオ題字下 
1/27   朝日  朝9   ラジオ題字下 1/23と同じ
1/29   報知  夕2   右突き出し 龍が春秋園を囲む図に変更

 どうです、12月の6紙に読売と国民の2紙を加えた8つの新聞にだ、1月中に28回、1月10日なんか一挙に4社に広告を出した、相撲でいえば怒濤の寄り身ですな。コマーシャルの「独特の成吉思汗料理」で見れば13回も右か左の突き出しなので、どんな形か、次の資料その23で見せましょう。
 この(11)と(13)はどっちも左突き出しだが、いくつか違いがある。たっぷりコロナ休講をしたせいで記録が行方不明でね、資料その22の1月24日と29日のメモから(11)が先で(13)は2月掲載分でしょう。

資料その23
  

 それから昭和時代の新聞記者だった友人は、同(12)の「かき廣並び」を見て、定期的に突き出しを使ってきた古いスポンサーに押し出され、不承不承、渋々出した広告だろう。掲載希望日がぶつかった場合、常連優先で新顔の春秋園がどうしてもその日と頑張るなら3行広告欄の中だけど幅広で入れることで勘弁してと、広告業者が泣きを入れたに違いないとのことです。
 それから力士の籠城を伝える新聞記事は5Wの1つ、場所は欠かせず、どうしても春秋園と書くから、結果として春秋園の宣伝に大きく貢献したことになります。資料その24(1)は事件の第1報から9日間の在京8紙に現れた固有名詞春秋園の回数表です。平均47回、夕刊紙の都と国民両紙を除く6紙の平均51回となる。中外と報知が多い説明はできませんが、読売が少ないのは早い段階から力士団本部というよう呼び方に統一したことによると記憶してます。
 同(2)の朝日、東京日日、読売3紙の件数表ですが、この評価はむずかしい。記事の長短のほか、たとえば力士団の声明を記事と分けて載せるかどうかとか、親方など関係者のインタビュー記事の有無にもよる。まあこれぐらい各社の紙面を埋めた大事件だったことがわかればよろしい。

資料その24
(1)名詞「春秋園」の出現回数表
     朝日 東日 読売 中外 時事 報知  都 国民
 7日夕  2  0  3  4  0  0  5 10
 7日朝  5 10 12 12  9  6  
 8日夕  4  6  5  3  6  7  8  5
 8日朝  7  6  1 10  4 10  
 9日夕  2  2  0  6  3  1  3  3
 9日朝  3  5  0  6  3  4  
10日夕  4  1  0  6  2  1  5  3
10日朝  7  8  0  5  4  5  
11日夕  休  休  2  休  休  休  3  6
11日朝  2  1  1  6  3  2  1  1
12日夕  2  1  1  1  1  1  
12日朝  5  1  0  4  2  5  2  1
13日夕  0  1  0  1  1  1  
13日朝  4  6  1  4  5  8  4  3
14日夕  3  1  0  2  2  2  
14日朝  1  2  0  2  2  2  6  2
15日夕  0  0  0  0  0  1  
15日朝  0  0  0  1  0  2  0  0
合計   51 51 26 73 47 58 36 34

(2)籠城関係記事件数表
     朝日 東日 読売
 7日夕  3  3  4
 7日朝  8  9 10
 8日夕  5  5  6
 8日朝  6  8  6
 9日夕  6  4  4
 9日朝  3  5  7
10日夕  3  3  4
10日朝  8  8  5
11日夕  休  休  4
11日朝  3  3  5
12日夕  3  3  4
12日朝  3  3  4
13日夕  3  2  4
13日朝  6  8  9
14日夕  5  4  3
14日朝  4  5  4
15日夕  2  3  3
15日朝  2  7  4
     71 53 40

 さて、吉田誠一が春秋園主と名乗ってはいましたが、それは料理関係のときだけで、立て籠もり記事では出てこない。春秋園の所有者というか経営者は誰だったのか。事件報道に出てきた名前をまとめたのが資料その24です。これらからすると、角田清彦らしいけれど、前回の講義で紹介した「小説春秋園事件始末」の殿岡駒吉は力士団から籠城費約360円を旗挙げ興行が終わるまで待って欲しいと「春秋園主吉田與作に頼み込んで(29)」と全く別人を挙げています。これだと経営者のようですが、新聞記事ではまったく現れない名前で、もしかすると吉田誠一の聞き間違いかも知れません。

資料その24
(1) 1月7日
「天龍の後援者影山由巳氏の経営する市外大井町三五四五支那料理店春秋園(旧後藤毛織社長邸)に集まり」
(東京日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、)
「市外大井町春秋園支那料理角田清彦氏方の奥に籠城した」
(都新聞夕刊2面=マイクロフィルム、)

(2) 1月10日
「春秋園持主角田清彦氏は九日午後靖国神社に赴き」
(万朝報朝刊3面=マイクロフィルム、)
「宿代も影山春秋園が天龍会の役人をつとめてゐるので要らず」
(中外商業新報夕刊2面=マイクロフィルム、)

(3)1月13日
「春秋園を訪問した岩田氏は語る『私は春秋園主の角田君と親しい仲なので』」(報知新聞朝刊7面=マイクロフィルム、)

 角田が春秋園の地主で経営者だったとして調べでみたらですよ、角田は大正12年2月創立の国士同盟会、同14年創立の更始会、昭和7年9月創立の更始一新会という3団体の幹部として「労働年鑑」と「日本労働年鑑」に載っており、昭和14年まで所在地を大井町春秋園内、品川区大井舘町三五四五としている。
 しかしアジア歴史資料センターの資料によれば、昭和11年2月1日付で総理大臣宛に出した角田の「祭政維一復古顕現」という請願書の住所は「東京市世田谷区玉川町六百六拾番地/宮崎県平民任意労務/請願者 角田清彦/明治弐拾参年一月八日生 四拾七歳(30)」と書いてありました。
 昭和15年版の「労働年鑑」の更始一新会の所在地もね、東京市世田ケ谷区玉川町二〇四九(31)と変わっているから、昭和11年1月にはもう大井に住んでいなかったのに「労働年鑑」は古い所在地のままにしていたらしい。
 そこで資料その9のキャバレー太郎氏の話に出てくる代議士森田福市のお屋敷です。千葉清士著「森田福市の生涯 近代日本政治と真のステーツマン」によれば、昭和9年春に大井の土地2000坪を買って建築工事に取りかかり、2年後に完成した。茶室まで備えた純和風の立派な屋敷で、回廊式の庭園があった(32)ことはわかるが、残念ながら大井町何町何番地と書いてないんですなあ。
 森田邸は昭和19年の空襲で焼失、森田氏は広島で原爆死した。千葉本によれば、森田夫人は敗戦後、東京港区浜松町と大井町と軽井沢駅前各2000坪と軽井沢別宅1000坪を売って財産税と相続税を完納した(33)そうです。それでね、東京法務局の品川出張所に行けば大井町3545番地の登記書類がある筈だから、春秋園の経営者はわからなくても、代々の地主はわかるだろうなんて考えているうちに、この厄介なコロナウイルスの大流行が始まった。
 年が年だから用心してもう2年待ち。満洲の小学唱歌「待ちぼうけ」じゃないが、講義案を忘れそうだし、木の根に衝突してコロリいった兎どころか、私がコロナでころりいっちゃうかも知れん。資料の確認不足はあるけれども、ここまで調べた春秋園の足取りを埋もれさせるのは癪だ。それで尻切れトンボやむなしとして、斯く仮講義録とてして公開することにしました。
 令和4年中に安心して地主調べなどに出掛けられるかどうか怪しいが、脱走横綱・武蔵山調べの別ページ追加を予定しているから、気が向いたらこの講義録は見に来なさい。終わります。
  

参考文献
上記(27)の出典は阿古真理著「日本外食全史」527ページ、令和2年3月、亞紀書房=原本、 (28)は昭和6年12月3日付中外商業新報朝刊5面=マイクロフィルム、 (29)は殿岡駒吉著「小説 春秋園事件始末」93ページ、平成6年12月、秀文社=原本、 (30)はJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A14080058200、昭和維新に関する件(国立公文書館) (31)は協調会編「昭和15年版 労働年鑑 」付録15ページ、昭和15年12月、協調会=国会図書館インターネット本、 (31)は千葉清士著「森田福市の生涯 近代日本政治と真のステーツマン」*ページ、平成23年11月、文芸出版=原本、 (32)は同*ページ、同、


 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)