新版・現場主義のジンパ学

本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた

 きょうはジンパ学の研究資料として片仮名や漢字の「ジンギスカン」と「鍋」または「料理」たまに「焼」を組み合わせてキーワードとして集めた資料から少しずつ引用、紹介します。新バージョンだから新たに見付けた記事だけにしようとは思ったが、それではちょっと足りない感じにだったので、ジンギスカンは1回だけ、いやゼロでも充分価値ありという資料、さらにほかの講義で示した文献は重複になるけれども、その時点での見方を示すものとして加えたため、これまで同様、プリントして配るとしたら小冊子クラスにになるとわかった。
 それでね、今回に限りこのパソコン完備の教室を使い、途中15分の休憩を入れて一気に講義することにしたわけです。資料はモニターで読んでもらうが、読み直したい場合は、私のホームページ「現場主義のジンパ学」で講義録として公開するから、それを読んで下さい。
 前バージョンで引用のメドを570字として甘めに引用した基準はそのまま踏襲し、その本または雑誌が国会図書館にあるかどうか調べて、書誌情報のほかに、パソコンに取り込んで読める本は「国会図書館デジタルコレクション」、国会図書館に行けば館内の端末で読める本は「館内限定デジタル本」、それ以外は原本と付けたから、自宅で省略箇所を読みたい場合など活用しなさい。
 ではキーワード「ジンギスカン」が1回も入っていない明治45年の本から始めます。それは「羊と山羊」で著者の小谷おだに武治は明治30年札幌農学校卒の大先輩。いまなら「羊肉は其味佳良なれども稍淡泊にして赤肉液汁の量共に牛肉よりも少く」というような説明から始めると思うのですが、いきなり羊肉の臭気から話が始まるのはなぜか。
 これは当時は「羊の肉は臭い」が常識だったからです。いいですか、明治41年の畜産統計ではね、全国で緬羊はたったの4085頭、これに対して山羊はその20倍の8万3352頭もいた(1)のです。明治以前からですが、人々は山羊を羊と呼んでおり、小谷さんも「羊は山羊と区別するため近時特に緬羊(綿羊)と名けらる、」(2)と書いているが、痩せて尻尾の短い山羊さえ見たことがない人々にすれば、我が国でも飼い始めた緬羊は、山羊とは違うといわれても、ピンとこない。その後も新聞や雑誌などは未年の新年号には、山羊の絵を干支に因む羊の絵として掲載していました。
 ですから緬羊を見たこともないのに、多くの人々は羊肉イコール山羊肉、かなり臭う肉というのが常識だったようです。だからといって、ここで山羊の肉と緬羊の肉は、香りのほか大きな違いはないので、解体する際、肉に臭いが付かないように扱えば、実に美味しく食べられるよと説いたのです。新渡戸さんはこのころ松井商店に羊肉を買いに来る数少ない日本人の一人であり、小谷さんは新渡戸さんの愛弟子だったから、ハイカラ先生とは新渡戸さんに違いないのです。はい、モニターに出た明治45年分を読みながら、私の説明を聞きなさい。
明治45年
   二 羊肉
           小谷武治

 羊肉には時として一種の臭気ありと雖其の肉に慣るゝ時は却つて之れを嗜む
に至るは猶ほ牛肉の味を知らざるものは其の臭気を厭へども其の味を知るもの
は却つて其の臭を好むに至るがごとし。況や其の臭気は羊肉固有の臭にあらざ
れば調理によつては全然之れを除去するを得るに於てをや。即ち羊肉を調理す
るに当りて羊毛を混ぜざる様に注意すべし、然らざれば所謂毛臭を帯び其の美味
を損ず、又羊肉調理の際腹部の皮を剥ぎ直ちに臓腑を除くべし、若し速かに除去せ
ざれば臓腑中より発する瓦斯其の肉中に浸み込み容易に其臭気を脱し難し。
 而して羊肉は其味佳良なれども稍淡泊にして赤肉液汁の量共に牛肉よりも少
く、組織は牛肉よりも粗く脂肪亦稍多しと雖も彼の脂肪過多にして赤肉少き豚肉、
若くは彼の不廉にして其質粗剛、味不良なる牛肉に比すれば実に勝れること数等
なり、且つ其の肉質脆美にして消化し易く体質贏弱なる人に最も適し特に仔羊肉
の如きは其柔軟にして其の香味佳絶なるを以て外国に於ては非常に珍重せらる
のみならず洋行帰へりのハイカラ先生の如きは一度マトン(羊肉)或はラム
(羔の肉)と聞けば垂涎三尺鼓舌して止まざるべし
 次も1回も入っていない中国北京の邦字紙の記事です。これは大正元年、北京で発行されていた「新支那」の「編集後記」にあたる「燕京日誌」からです。これら3本の筆者は鷲沢与四二という明治42年から北京にいた「時事新報」の北京特派員です。それなのに「新支那」という毎日曜発行の他社の記事も書いていたのは、鷲沢にすれば1週間分の日記を書くようなものだったかもね。とにかく、二千歳という名前を初めて入れたこれら3本は無署名だが、ペンネーム入りの日誌もあるので、鷲沢が書いたことは間違いない。
 10月13日の記事に「容齋一葉」とあるが、後ろの一葉の本名は井上孝之助。明治34年から中国にいた井上は食通で、正陽楼の烤羊肉を見付けたので、早速うまいものがあると相棒の鷲沢に教えたんでしょう。9月22日の書きっぷりは、誰かから正陽楼の場所、烤羊肉(カオヤンロー)の食べ方を教わっていて、一人でひょいと店に入ってもまごつかず、なるほど2000年前はこうして食べたかも知れないと納得した感じですよね。
 当時、北京にいた邦人有志は明治41年から同人誌「燕塵」を発行しており、同45年の49号で休刊したけど、同人たちはその後もペンネーム、雅号で呼びあっていた。鷲沢は南萍、珍坊、ふざけて珍チャンと書いたこともあります。
 10月13日の日誌では烤羊肉を「二千歳」と呼んでいるから、後に中国評論家の中野江漢が雑誌「食道楽」に書いたように、鷲沢と井上の2人は烤羊肉はわかりやすく今後は二千歳と呼ぼうと決め、北京の邦人社会に広めようとしたらしい。10月23日の記事では、正陽楼をわざと二千歳と書いているのは、その一つの現れでしょう。
 烤羊肉こと二千歳はある程度広まったが、とにかく古くからと覚えた人もいて翌年つまり大正2年秋、北京を訪れた中村是公満鉄総裁の歓迎会について「新支那」は「吾社が曾て広く紹介せし例の三千年以上連綿として今日に伝はれるの料理即ち羊肉の烤焼を倶楽部の庭上にて神代式の振ひたる珍味を試みたり」と古さを強調してます。
 しかし、出席者の中には、中村総裁にこの羊肉は蒙古羊だとか、始めたのは韃靼族か蒙古族だろうなどと講釈した人もいたらしい―というところで大正2年に移ります。
大正元年
《1》
十五日 順天に新支那校正に出掛く。山田横山奉天両氏囲碁に夢中也。帰りに前門外正陽楼に二千年前の料理を喰ふ。薪火の上で羊肉を焼き乍ら喰ふのなり。野蛮なれ共美味絶す。美食に飽いた罰当りは一度試むべし。<略>

《2》
六日 日曜好天気正に骨を延す可し、容齋一葉の諸君と正陽楼二千歳の蛮食を試む。烟の中より羊肉を引上げて喰ふの也。容齋翁ケシ炭と肉をゴツタに喰つて口を焼く、是眼の咎也。帰途ルリチヤンに骨董と出掛く。エビで鯛は釣れず。

《3》
二十日 菊地齋藤二少佐の送別会二千歳に催し、喰い余りを長春亭に持込み、室丈け借りて二時迄遊んで、おかみにビール三本寄附させたりと云ふ。喰物が悪ければ人間も
ダン/\性根が悪くなる様なり。
 次は110年前、大正2年と3年の満洲日日新聞からです。まず、これら3件の記事が掲載されるまでの経過を説明しましょう。大正2年10月、政党政治のとばっちりで更迭必至とになった満鉄総裁中村是公は中国視察に出かけ、北京で「三千年以上連綿として今日に伝はれるの料理即ち羊肉の烤焼」(3)を食べ、その珍味を知ったのです。
 是公さん、この「太古蛮風の料理」が気に入ったんですね、是非とも満洲在留の日本人に知らせておこうと、11月7日夜と8日夜の2回「韃靼式鋤焼鍋」パーティーを開き、まずは大連の名士30人及び満鉄重役諸氏を招いた。(4)その後、中村総裁は11月15日の満鐵臨時総会に出るため、使った鍋2枚を持って上京(5)しました。
 そこで大正2年の両項について説明すると(1)は福島県にあった宮内省の御猟場で獲れた獲物を、総裁が持参の焼鍋で焼いたら珍しがられるだらうなという想像です。鍋の呼び方は、ここまでに「成吉斯汗使用の鋤焼鍋」(6)「韃靼式の鋤焼鍋」(7)「成吉斯汗鋤焼鍋」(8)と毎回変わってきたが、ここで「成吉斯汗の焼鍋」(9)と鋤の字抜きになっています。
 (2)は総裁退任に際しての別れのコラムからです。遂に「焼」の字も抜けて鍋だけになったものの、まだ読みは「なべ」にはならず音読みの「じんぎすかんか」に止まったことがわかりますね。
大正2年
(1) ●大観小観
<略>▲中村総裁の岩瀬御料地陪猟は時々仰せ
付かるので敢て珍しくもないが▲人一倍
狙ひの利く為めか御手際の鋭い点に於て
御料局連中の評判となつて居る▲これで
思ひ付いたが成吉斯汗の焼鍋を持出して
御料地の獲物を味ふなんかは▲都におは
す大宮人に珍しがられることであらう▲
併し総裁が果して此處まで御気が付かれた
か何うかは小観子の推測の限りではない

(2) ●大観小観  五年間満洲館の主
人公否や満洲の事実的経営者であつた中
村是公氏は今日限り満洲を見捨てて東上
する▲功成り名遂げて去るのではあるが
父母にでも別れる様な心地がして今更ら
惜別の苦痛に堪へない▲古馴染と云ふ情
力から別れが辛いのではない中村氏り高
潔な人格が坐ろに人心を動かすのである
▲台湾淡水の生蕃会、満洲館の成吉思汗じんぎすかん
くわ、君の為す事は豪壮壮快で君の性格を
発揮して遺憾ない▲<略>
 しかし、翌年、鍋の読みが変わったのです。翌年1月、解任された理事沼田政二郎から満鉄担当記者が鍋1枚をもらった(10)ときの記事が重要なんです。ここで始めて振り仮名が訓読み「じんぎすかんなべ」となり、成吉思汗鋤焼鍋のもう一つの名前として、満洲日日の読者を通じて広まっていたというのが私の見方なのです。
 また、満鉄公主嶺農事試験場に多くの北大OBがいたこと、蒙古羊の羊毛改良のため月寒育ちの緬羊を送り込んだりして北海道と満洲は関係浅からぬものがあり、支那通の集まる東京と烤羊肉の伝わり方が違っていた。それで道内では早くから満洲と同じくジンギスカン鍋と呼び、東京や大坂方面は北京直伝と思われるジンギスカン料理という呼び方が主流で、濱町濱の家、春秋園などの広告はジンギスカン料理でした。
大正3年
   編輯日誌
◎沼田理事より成吉思汗鍋じんぎすかんなべ一箇を贈り來る同
人が牛飲馬食するの時気焔萬丈當る可からざ
るものあらむ◎守屋営業部長編輯局同人を
十七日夜自邸に招き新年宴会を開き一芸一
能に達するものは夜を徹して騒ぐべしとキツ
イ命令なり◎英文の柳沢君爾来小濱村と改名
し大にステツキ振り本家家元の塁を摩さむと
す不知蒼洋君のステツキ振如何ツルカメ/\
 大正4、5年の記事は見つからないので、キーワード「ジンギスカン」がないが、畜産関係者で最も羊肉を食べようと自著や雑誌に書いた長崎発生が大正6年に出した「鶏と羊と山羊」からです。羊肉家庭料理として1番から16番まで洋風料理で、羊肉そのものがほとんど知られておらず、和風としては4品がせいぜいでした。前バージョンの蒙古料理で「水を肉煮して」と間違って書いた訂正でもあります。
大正6年
   羊肉料理
           長崎発生

<略>要するに先年来、有史以来の世界の攪乱は<略>常に国産奨励の意気は涵養されると同時に、緬羊趣味の普及は目下の急務とするに至つたのである。羊肉需要の増大は、一に育羊奨励の一要件たるを失ないのである。そして農家副業として緬羊市域を奨励しようと云ふ当局の御意見は、官民共に大歓迎する処であるが、過ぐる中央畜産会第一回総会の招待会に於て、劈頭第一に風俗的方面に発足して羊肉家庭料理二十余種を来賓に供したが、其の名前と大体の処を記録すれば、ざつと斯んなものである。<略>
17、すき焼 是は牛肉のすき焼と同じことである。唯前にも述べたが、種用の牡羊は一寸羊臭があるが決して悪臭ではないので吾々が不断牛肉を食ひ慣れてるから牛臭くないのである。羊肉も慣れたら却て食慾を催進するものである。
18、寄せ物 是は羊の腱なぞからゼリー(膠)をとりて其の中に羊肉や野菜を入れて硬めるので、或る場合には寒天を交へても差支ない。
19、蒙古料理 主として蒙古辺で調理するもので、向地では大抵此の料理許りらしい、料理も極めて簡単で肉を水煮にしてから、食塩をサラツと振りかけて食べるのだと云ふ事である。
20、南京料理 之は麺類で南京料理の饂飩に羊肉を細かくしたのを振りかけるのである。日本で云ふたら「かしわなんばん」とでも云ふのだらう。
 中村満鉄総裁が「成吉斯汗時代の鋤焼鍋」は燕京つまり中国の北京で発見したというから、北京では当然そう呼んでおり「これが成吉斯汗時代から伝わる羊肉の鋤焼きですよ」なんて中村総裁に教えたに違いないが、その記録が見付からないし、成吉思汗時代の鍋料理から、成吉思汗料理という略称も使われ始めていたと思われるが、それもない。
 それで満洲日日の成吉思汗鍋の記事より4年後の記事(1)の大正7年11月3日夜、北京駐在日本人記者団に正陽楼に招かれ「成吉斯汗料理」を食べた(11)という実業家、後に電力王と呼ばれた松永安左衛門の「支那小游」で示すしかありません。
 (2)は京都にあった第三高の教授那波利貞の「燕呉載筆録」です。大正8年、中国を旅行して同年11月3日に松永と同じ北京正陽楼で蒙古料理として食べ、それを研究誌「歴史と地理」に連載中だった「燕呉載筆録」の24回として書きました。
 薪を燃やす固定焜炉を囲む踏み台に片足を掛け、酒を飲みつつ肉を焼いて食べてみて、帝王ジンギスカンの祝宴を想像した(12)のは、蒙古料理と聞かされたからだけでなく、那波が京大東洋史OBだったから当然でしょう。それはまた、北京在住の邦人社会に成吉思汗料理という呼び方が広まっていなかったことも示しています。
 「燕呉載筆録」は大正13年7月号まで33回連載され、同14年2月「燕呉載筆」として出版された。同書には「蒙古料理」はないが、33回目の「蘇州探古行」までを収め未連載分を併せると63回分が入っている。
 (3)は作家大町桂月の「満鮮遊記」にある「鄭家屯の二夜」です。同書に収められている「満鮮日記」によれば12月のことで前日の16日鄭家屯に着き、満鉄鄭家屯公所で講演を済ませて鄭家屯ホテル泊り。「十七日(晴)。午前九時、支那馬車にて蒙古の野に行き、二爺府を訪ひ、炒糜の饗を受く。夜に入りて鄭家屯に帰る。」(13)で2夜、同ホテルに泊ったことがわかります。
 大町は牛の骨と書いてますが、とっくに肉は食べ終わっていたんじゃないかな。振り仮名がないので「ジンギカン鍋」の鍋はの読みは「カ」、「ナベ」のどっちかわかりませんが、それにしても満洲日日新聞の記事か満鉄の口コミによってか、ジンギスカン鍋という単語は4年後に奉天まで広まっていたと私はみるね。
 大町は鄭家屯に行く2日前、公主嶺の満鉄農事試験場を訪れ、北大OBの松島鑑場長に会い、鄭家屯から35里離れた土地6000町歩を借りて緬羊の品種改良を始める(14)と聞かされたので、ちょっと沙漠を覗くだけでなく、馬車で通ってみる気になったのかも知れません。
大正7年
(1) 成吉斯汗料理
           松永安左衛門

 帰宿後、渡辺順天社主の案内に依り、正陽門外の肉市正陽楼
に於て有名なる「二千年料理」(實名烤羊肉と称す)を供せらる。
「二千年料理」とは、渡辺氏の同人連の命名したる所のものにし
て、庭外にて盛に榾を燃し、其上に羊肉を灸りて一種の液中に
漬け、之れを食するものにして、支那人の如く煮沸するにあら
すんば一切口にせざる人種の食物としては、最も稀なるもの
に属す。從つて二千年前、曠世の英傑成吉斯汗が千里の行軍
に、天寒く地凍るの時、降雪霏々たる曠野に於て、快喫を擅にし
たる夜営の光景を想像せしめ、豪快云ふベからざるものあり。
故に渡辺氏の同人連は之れを発見すると同時に、「二千年料理」
と称し、密かに他に誇りしもの、いつしか「成吉斯汗料理」として
北京食通の間に重んぜらるに至れり。喫し了りて更に北京
名物の蟹を供せらる。鷲澤時事氏、蟹通を振廻すこと頻なり。
滋味亦言ふべからず。<略>

(2) 蒙古料理
           那波利貞

 十月初二日、北京滞留期も愈々終末となり、明
三日朝には愈々六朝の史趾豊なる南京へ向つて出
発する予定<略>今日亦幸に好晴にして午前中は
懇切なる款接に預りし北京在留の二三氏方を訪ひ
感謝の意を表したりしが、正午は何夙縁に依るか、
珍しくも蒙古料理の会食に招かるゝ機会を得た。
 蒙古料理は我が邦に於ける支那人居留地の料亭
などには経験するを許されざるものにして、北京
在住の邦人にして之を試食せし者は甚だ希有だと
謂はれて居る。<略>此の正陽門外の正陽楼の蒙
古料理だけは全然別種のものにして是非とも味ふ
べきもの、其の形式の蛮気横逸する所は慥
かに漠北に逍遙する遊牧生活者勃興的気分を示せ
るものである。<略>中庭に据えたるものは高
さも幅も三尺程の四角の大竈、紅連の焔立ち昇る
上には逞しき鉄網が覆はれて、網の条々赤熱近寄
るべからず、宛として軍営中の焚火の感がある。
数人の客が大竈の周囲に片足を掛けて、漿液に湿しては羊
肉を焼き、焼けては食ひ以て大白を引く光景は豪
壮と評すべきか、悽壮と評すべきか、即ちこれ蒙
古民が狩猟に得たる獲物をば天幕の外にて会食す
る風俗、元の大祖成吉思汗鉄木真などが四方を切
り従へて戦捷の祝杯を挙げたる光景も斯くやとば
かりに推想せられる。<略>

(3) 鄭家屯の二夜
           大町桂月

<略> 往きには、それと気付かざりしが、帰りに、注意せらて見れば、路に近く、蒙古人の死体を見る。菊竹氏曰く、『昨夜あたり凍死せるものならむ』。鄭家屯より二三里ばかり手前の處に、蒙古人の天幕張れるを見る。常に住めるにはあらず。七人一組になりて、毛皮を鄭家屯に売りにゆくものなるが、こゝにて一夜を明かすなりと也。ジンギスカン鍋を囲んで、牛の骨を煑る。燃料はと見れば、牛の糞也。豆を煎るに豆箕を燃すと云ひけむ、豆よりも牛の運命のあはれなるを覺えぬ。馬隊は馬より下り、馬車組は馬車より下りて、一同ジンギスカン鍋を擁して撮影す。<略>
 大正8年はジンギスカンではなく羊、我が国に於ける緬羊100万頭増殖計画がスタートしたときの種羊場長事務打合会で道家斉農務局長が行った訓示です。
 「緬羊彙報」1号に掲載されたこの訓示に「未タ種羊トシテハ完成セサルモ動物ハ計画通リ輸入セラレテオルカラ初ヨリ本省ト種羊場トノ連絡及種羊場間ノ連絡ヲ取トリテ置クコトヲ必要ト認メ此処ニ打合会ヲ開クコトトシタ次第デアル」とあることから、初めての会議とみられます。
 これを加えたのは「戦時ニ際シ羊毛ノ輸入困難トナッテ羊毛工業ハ非常ナル悲境ニ陥ッタ」が、でなければ年々需要が増えても、まだなんとか輸入で間に合った。今回の輸入困難は凌げたが、また起こるかも知れないので「平時状態ノ軍隊警察官及鉄道従業員ニ給スル」制服などを作るために、20年ぐらい掛けて国内で100頭ぐらいの緬羊からの羊毛を確保しようという緩い計画だったことを示すためです。
 新聞などは、すぐ戦争に備えて羊毛の自給体制を急ぎ100万頭計画を建てたと書いたり語ったりするが、この訓示にそんな気配がありますか。皮肉にも100万頭に届いたのは、太平洋戦争で連合国に負けてからでした。それも束の間、羊肉の輸入自由化と化学繊維の発達で激減、農水省の調べでは令和3年で約2万頭(15)、つまり昭和3年末(1万9495頭)(16)に戻ったようなもの。もう10万頭まで増えることもなさそうです。
大正8年
   農務局長訓示
           農務局緬羊課

<略>而シテ我国ニ於テモ羊毛ノ輸入高ハ年々増加スル此ノ大ナル増加ハ羊毛ノ需要カ大ニ増シタ為テアル今日テハ羊毛ハ男子ノミナラス婦人モ用ユルニ至ッタカラカク増加シタノテアル加フルニ羊毛ヲ原料トスル工場モ増テ居ル然ルニ戦時ニ際シ羊毛ノ輸入困難トナッテ羊毛工業ハ非常ナル悲境ニ陥ッタ此処ニ於テ何トカシテ羊毛ヲ自給スル方法ヲ講セネハナラヌコトトナリ臨時産業調査局ニ於テ内外羊毛ノ生産取引需要等ノ状況ヲ調査シ又一方ニハ以前ヨリ月寒ニ於テ緬羊ノ試養ヲ初メ大正五年ヨリ五年計画ニテ毎年二百頭位宛緬羊ヲ輸入スル筈テ実行ニ就イタカ時局ノ為更ニ大規模ニ実施スルノ急要ナルヲ認メ内地及朝鮮台湾等ノ殖民地又ハ満蒙等を調査シ二十五年百万頭ノ計画ヲ立ツルニ至ッタ此ノ百万頭ト云フ数ハ平時状態ノ軍隊警察官及鉄道従業員ニ給スルニハ先ツ此ノ頭数位アレハ間ニ合フト謂フコトニ基テオル二十五年ト云フコトハ世間ニハ発シテイナイカ大体ノ見当テアッテ可成之ヨリモ早ク予定ノ計画ニ達シタイト思フ、種羊場ハ全国ニ五ケ所設置ノ目的テアル而しシテ百万頭ヲ得ルニハ英米濠満支那等ヨリ七年間ニ牝七千五百頭及之ニ配スル牡ヲ輸入シテ主ニ種羊場ニ於テ蕃殖スルト共ニ其ノ一部ハ民間ニ委託飼育セシメル筈テアル<略>
 大正9年(1)は医師にして詩人の木下杢太郎の「支那南北記」からです。その書き出しは「大正九年七月末、わたくしは長い間住み慣れた奉天と、その地の同僚とに別を述べ、その頃 偶然に知り合ひになつた木村莊八君と共に数個月の旅行をした。」(17)となっている。朝鮮から中国へ進み、山西省の大同石仏を鑑賞しているうちに発熱したので北京で静養した。そのとき正陽楼で烤羊肉を食べたことがわかります。  また「小森氏」は、日本における釉薬研究の第一人者といわれた小森忍ですね。小森は「大正6年6月、満鉄中央試験所窯業科主任として入社し、4年後に退職して大連に小森陶磁器研究所を開設するまでの間、中国各地の古い窯跡を廻って破片を集め、その成分を科学的に分析し、その窯で作られた古い陶磁器を再現する研究にも従事」(18)し、陶器の産地として有名な景徳鎮へ行くときだったと、のちに小森が書いています。前講義録の「北京を訪れた人々の記憶に残る正陽楼」にも入っていますが、次の「北京羊肉」がそれです。
 なお小森は「昭和24年から同37年没するまで江別市に住み、北斗窯を通じて道内の窯業と陶芸の発展に寄与」(19)しました。
大正9年
(1) 大同府及び雲崗
           木下杢太郎

<略> 九月末燕京に帰り加茂院長、小菅前院長の好意に由り同仁病院に止宿し、熱の爲めに一週間病臥した。その間に病ををして前記の講演をしたのである。熱去つて後――時は秋冷に入り北京も漸く演戯の季節となり――梅蘭芳等の「六月雪」「金山寺」等の演戯を見ることが出来た。又北京大学に教授周作人氏を訪ね、兼ねて望んでゐた支那古民謡を蒐むることの困難なるを知つた。又現時の口語を以てする支那の新詩運動の状況を聴くことが出来た。既に文華殿、武営殿が開かれており、久ぶりに、宋元又明清の銘器を看た。
 肉市の正陽楼に、満鉄窯業部主任の小森氏と烤肉(羊の炙肉)を味はつたが、季節はまだこれを味ふに適しなかつた。

(2) 北京羊肉
           小森忍

 烤肉〈ジンギス汗鍋料理〉は、なんといつても中国北京正陽街正陽楼の料理が本物だとおもう。
 大正九年秋、江西の景徳鎮への旅の途次、奉天医大の太田正雄博士〈ペンネーム木下杢太郎〉と木村荘八画伯と北京で会し、太田さんの案内で、はじめて正陽楼の烤羊肉を満喫した。正陽楼はジンギス汗が蒙古から北京入りしてまもなく、蒙古人によって営まれた料亭で、七百年あまりつづく生粋の蒙古料理の古舖である。<略>
 正陽楼では四方白壁の中庭の中央に烤炉を据えて、寒夜烤炉の五色の焔火が四囲の白壁に映じる様は素晴らしく、また共食としては白酒または老酒の火酒に「生葱と味噌」、主食は「マントウ」〈メリケン粉の饅頭〉という簡単なものである。烤羊肉の共食としてはしかしもつとも適した取りあわせであるとおもう。
 烤羊肉てもつとも大切なことは、羊肉の浸汁である。この味付けにつき楼主に聞いても、ほんとうのことは教えてくれないが、「ニンニク」のはいつた茶色の濃い複雑な味の浸汁で、羊肉片を四、五時間浸して烤くのがもつとも適する。<略>
 大正12年の(1)は好事家として知られた芦田止水の「北京名物 成吉斯汗料理」です。雑誌に掲載されたのは2月ですが、冬らしい記述がないので正陽楼で食べたのは前年初冬までのことと見做して、ここに加えました。
  芦田は鴻池家の別家の生まれで早大を出て鴻池銀行に勤めた。大正3年創設間もない宝塚少女歌劇の様子を日記に書いたりしたし(20)「和多久志」という雑誌を出したり、船場言葉を解説したり、描き更紗を教えるなど多趣味で知られた。「大阪の通人で、芦田止水と云ふ重厚な紳士がある。大阪に生れ、大阪で育つた人だけあつて、大阪のことならピンからキリまで、何でも知つて居られる」と紹介。芦田に大阪の料理店のことを尋ねたら、すぐ品位で喰う料理、舌で喰う料理、一家の風のある店、本格洋食ならと短評を交えながら50軒ばかり挙げたこと(21)を雑誌「食道楽」編集者松崎天民は「京阪食べある記」に書きました。
 (2)は川崎甫が集めた資料による明治元年から昭和42年までの100年間の農業関係の年表からです。この本はジンギスカンが知りたければ260ページの畜産業を見ればわかるように索引があるが、そのジンギスカン鍋の情報源は何だったかはわからん。私は大正年間に月寒の種羊場でロストル鍋を作ったということを何かで読み、当時の北海タイムスを半年分ぐらい読んだけど裏付ける記事はなかった。
 私はこのロストル鍋考案は昭和33年1月に出た会誌「北農」の「北海道に於ける農業試験機関年表」(22)に基づくと見ますね。その22ペーシの大正12年の項に「羊肉利用のためロストル型ジンギスカン鍋を考案」とある。簡単、それだけです。
 売れないから捨てていたマトンを鋤焼きでなく、焼いて食べてみるかと石炭ストーブのロストルを外して焼くことを思いつき、試してみたという程度のことかも知れないが、私は大正10年からの北海道庁長官、やり手の宮尾舜治だったことがロストル鍋と関係しているのではないかと考えた。
 宮尾は大正2年、中村満鉄総裁が大連で初のジンパを開いたとき参加しただけでなく、郷里新潟の中学校へこの鍋を寄付してジンギスカンを流行らせようと、すぐ満鉄工場に5枚作ってくれと注文したし、北海道の農業は北欧に学ぶべぎだとデンマークから農民数家族を道内に移住させた。「百年史」の⑥がそれだ。
 仮説だが、こうした人物が月寒視察に行き、黙って帰るとは思えん。俺は満洲でジンギスカンを食べたことがあるが、それにはストーブのロストルそっくりの鉄網を使って焼いていたぞと聞かせた。それで種羊場の職員が何回かロストルで焼いてみたという程度のことが、ロストル鍋考案という伝説になったのではないか。
 私が北大のヨット部員だったとき、酒のつまみだとふざけてね、飛んきた小さな蛾をパッとつかんでパッと飲み込んだら、それがね、尽波は手のひらぐらいの蛾を捕まえて羽をちぎってムシャムシャと食べたとか、蛾の食べ方を大きな紙に書いて貼り出したとか、かなり後の後輩に聞かされたことがある。伝説なんてそういうもんなんだな。私以外にこんな記事探しをする御仁がいると思えないから、いずれ北海タイムスを再読してみます。
大正12年
(1) 北京名物 成吉斯汗料理
           蘆田止水

<略>一寸見ると京都あたりの古風な料理屋によくあるやうに表構えから板場の見えるやうな構えの家で降ろされてだ、表には硝子張りの行燈が出て筆太に『正陽楼』としてあつた。
 支那の家屋は大抵中庭を持つて居てその周囲に室がある。この形式は殆んど千遍一律であるそしてその中庭に行くには必す二棟位の家屋を通るのが普通である。この家も中庭までに三四十歩の距離を持つて居た。一度座敷へ落付くとI氏はボーイに『成吉斯汗料理』を命じた。飛び上るほど塩辛い漬物と小菜が二つ三つ搬ばれて酒を飲んで用意を待つた。<略> 軅てボーイが『どうぞこちらへ』と云つて案内をした。何處へ行くのかと思ふと中庭へ出る、そこには中央に卓子テーブルを設けもう焔々として火が焚かれて居た。
 凡そ三尺もあろうと思ふ卓子の上に直径二尺位の鐵の火皿があつて、その上で樹枝が焚かれるこの樹枝の名を失したのは非常に残念であるが、何んでも特種の樹であつてその煙の作用によつて肉の臭氣を消すのだそうである。火の燃えて居る上には又一尺余りの直径の焜炉の鐵簀の大きなやうなもので形は炮烙に似たものか凸面を上にして置かれてある。勿論それは五徳の如く三本の鐵柱で支えられてある。焚火の焔はその鐵簀の間をくゞりぬけて燃え上つて居る。
 ボーイは銘々の前に饂飩の鉢位の丼を持つて來た中には非常に美味い煮汁に浸した羊肉が一ぱい這入つて居る、それに大蒜や唐辛子が少々這入つて居たやうである。断つて置くが成吉斯汗は回々教徒であつた爲に豚肉や牛肉は一切口にせないので羊肉に限られて居るのであつた。
 長い箸で私達は羊肉を鐵簀の上へ置いた、ヂウ/\と熱した鐵簀によつて肉は焼かれ焔の煙によつて燻ぶらされる、その有様は却々壮快な男性的なものである。そして直ちにそれを口ヘ搬ぶと羊の肉の柔かさとは■汁加減のよいことは又格別であつた。<略>

(2) 明治百年農業史 年表
           川崎甫

<略>
⑤北海道月寒種羊場が滝川種羊場月寒分場となる(羊肉利用のためのロストル型ジンギスカン鍋を考案)
⑥北海道庁が模範農場5カ年経営でデンマーク人エミール・フェンガーを招く
<略>
 大正13、14年では該当資料が見つからない。15年は家庭でもジンギスカンをつくれますよと書いた料理研究家の山田政平の本があります。その本で山田は「著者は料理に関しては、もと/\素人であります。只だ支那ら在ること二十年、比較的支那各地の料理に親しむ機会の多かつたのと、或る動機から支那料理に多大の興味を感じて、生来の食道楽料理道楽から、折にふれて研究したのに過ぎません」(23)という前書きの料理書「素人に出来る支那料理」と謙遜していますが、確かに公式記録に残る彼の経歴は「私が始めて満洲へ行ったのは、日露戦争が終わつてまだ軍政時代、光緒の末年」(24)つまり明治41年で、安東縣郵便局通信書記補を振り出しに、奉天と長春の両郵便局を経て大連にあった関東都督局通信管理局業務課郵便係の通信書記(25)まで10年間勤めました。
 その後、中国に留まり料理と関係書籍を研究とみられ、大正12年から「婦人の友」に中国料理の作り方を連載し、同15年には「素人で出来る支那料理」を出しました。日本中国料理調理師会相談役だった田中健一さんは「ラーメンという言葉を広めたのは漢文学研究者だった故山田政平氏ではなかったかと思う」と語った(26)が、昭和28年の「飲食雑記」、同30年の「随園食単」を書けたのは、そうした素養あってのことでした。
 「素人に出来る支那料理」にはジンギスカンのレシピは載っていません。豚の烤肉のレシピの末尾に烤肉カオローと云ふ名前は同じでも、全然方法を異にしたものがあります。回々教徒の羊肉料理で、在支日本人の一部によつて命名せられた、所謂『成吉思汗鍋』は即ちそれです。」(27)とし「支那料理に関する常識」の1項目が下記の説明です。これは当時の精肉店では羊肉を売っていなかったので、レシピを書いても仕方がないという山田の判断によるものでしょう。
 (2)の「羊肉の消費力」を書いた松井平五郎は東京赤坂で精肉店を開き、明治39年に後の首相松方正義が那須野に開いた松方農場で生産する羊肉の販売を頼まれ、以来羊肉の販売普及に尽力しました。それで大正14年、農林省から初の指定羊肉商となり、全国から出荷される生きた緬羊と羊肉を買い付け、直売するほか東京などの精肉店に卸す羊肉問屋も兼ねた(28)ので、続けて肉羊の買入れ価格、送り方、生産者に対する希望などを書いてます。
 松井報告の後ろに、当時農林省畜産局にいた山田喜平が「肉羊閑話」と題して茨城県の松井緬羊牧場産と大正14年に羊肉問屋宛に出荷してきた肉羊合計340頭を考察、毛と肉で1頭30円前後の収入になる(29)と書いています。
 (3)はゼネコン鹿島建設の前身、鹿島組の重役だった鹿島龍蔵が書いた「ジンギス汗料理」てす。これは昭和7年に出した「第一、第三涸泉集」に載っている孤峯莊主人としての旅行記「北京」からだが「奉天で博士葛西勝弥氏と会し、之から同行して文字の国の首府北京に向かふのである、其れは大正十五年十月十三日の事である。」(30)とあり、同年内のことに違いないので、ここに入れました。
 文化人としての鹿島龍蔵のことはキーワード「鹿島龍蔵 鹿島組」で検索すると出てくるサイトにある、いや、あるらしいよ。ふっふっふ。
大正15年
(1) 原始的な成吉斯汗料理
           山田政平

 成吉斯汗鍋と云つても鍋を用ふる訳ではなく、本当の名前は羊烤肉<ヤンカオロー>と云ふ回々料理であります。原始的な美味しい料理として、在支日本人の一部が斯く命名し、これを歓迎しておるのであります。
 すべて料理は屋内で食べるのが普通ですが、この料理ばかりは必ず屋外でいたします。れは箱火鉢か鍋のやうなものに火をおこし、それに金網若しくは鉄の棒を渡し、羊肉を焙りながら、支那の醤油をつけて賞味します。火を起すにも薪を燃やして作り、寒い冬の夜、庭上には炎々と燃へしきる焔を眺め、まだブス/\と燻る大きな火を囲みながら食べる羊肉の味はまた格別で、成吉斯汗鍋の名の由つて来る所も偲ばれます。勿論強ち情景の原始的なのに、好事者の感興を唆るばかりではなく、実にこの料理特有の美味は、他にその類を見ないほどのものがあります。
 羊肉には一種のいやな臭気がありますが、羊烤肉になるとこれも殆んど苦になりません。この料理法を以て、羊肉に代ふるに牛肉を用ひるのも甚だ結構です。

(2) 二、羊肉の消費力
           松井平五郎

 顧みるに昨年指定を受け専ら日本人の家庭に向つて羊肉の
普及宣伝に努めたる当時に在りては少からず誤解を受けたも
のであつた。其誤解の一は羊肉は非常に高級の食料であつて
上流階級者でなくては食しないものと速断するものゝ多きこ
とゝ他の一は所謂食はず嫌ひで理由なく羊肉の食用を嫌忌す
る者の多きこととであつた。乍併初志を屈せず新聞、雑誌其
他印刷物に依り宣伝に力めしは勿論女子大学割烹研究会、世
界料理展覧会或は畜産博覧会等苟も羊肉宣伝に効果あるもの
と思惟する場合には力めて之に出品して販路の開拓に専心し
た為に実績頓に揚り次第に需要量増加し一ケ月百頭位までは
消化し得るに至り三月下旬に至りては疾くも供給不足を告ぐ
るに至つた次第にて開業劈頭に當り我緬羊事業の将来を卜す
る吉兆として喜びに堪へなかつた處である。此の趨勢より推
考するときは将来緬羊の生産が激増することあるも消費力に
於ては些の懸念を要しないことを断言して憚らないのである
「羊肉料理を知らずしては真の食通とは謂ひ難し」と謂ふが
今日東京に於ては一流の西洋料理店が何れも競ふて羊肉料理
を其献立表に現はす様になつたのである、羊肉消費力の前途
は以て推知すべきである。<略>

(3) ジンギス汗料理
           鹿島竜蔵

<略>鼠の如く駆け廻つて居る給仕によつて我等に二三の小菜が運ばれ其の上所謂ジンギス
汗料理の準備が整へられた。此のジンギス汗料理は日本人が付けた名で、同時に日本
人の間にのみ通用する語であるのだ。先づ内庭の屋根なき所に白木の下等極る卓を置
き其の中央に摺鉢の様な物を載せて、其の中に炭火を起す。其の炭が又特別の物で、
之は楊柳の半焼でなけれぱならないそうだ。其んなこんなの理由で往時北京に於て、
此の料理をする家は一二軒に過ぎなかつたそうだが、近年之が流行り出して、今では
何處でも出來る。但し此の正陽楼が元祖だけあつて、他店では真似難い妙味があるの
だ、と村氏は先以て効能を述べる。次に炭の上へ径一分位の鉄を輪にして下から上に大
より小にして組み合せた網、一見鉄の棒で造つた笊を伏せた様な者をのせる。次に羊
の肋肉のあぶら身の勝つたものが運ばれ、飯食ひ茶椀に色の薄いわりしたを入れ、葱
の刻んだのが浮いて居る物が持ち來される。其所で各自が羊肉にわり下をしめして金
網の上にのせて焼き、各々の好む焼加減を見はからつて恐ろしく長き箸で取つて喰ふ
のである。あぶら身が多いから時に火が之に移りて燃え上る事がある。屋外だから其
れ程煙は籠らないが、其の換り風が色々の方角に吹いて來る。半焼炭の事だから絶え
ず其れから煙を吐くので頗るけむい。其の上屋外で燈火が能く届かないから、肉は焼
けたのか焼けないのかよくはわからぬ。いゝ加減に口へ入れて生ぐさくて堪らず吐き
出して捨る事もある。卓の四方に置いてあるロハ臺へ腰をかけては網が高過ぎて勝手
が悪い。それだから皆立つて食ふ。前にかゞむから腰が痛くなるので右と左と交互に片
足をロハ臺に載せて体を支へる。風の吹き廻しで風下になつたら堪らない、其んな時
には立つて居るのだから、遠慮なく居場所を風上に移す。何の事はない、片足臺にか
けて卓を廻りながら食ふのである。其の野趣横溢の状から思ひ付いて多分ジンギス汗
あたりから傳へられただろうと、或る頭脳の良い日本人が之をジンギス汗料理と云ひ
始めて、やがて其の名で呼ぱれる様になつたらしいのだ。<略>
 昭和2年の(1)は大正2年のところで満鉄総裁として出た中村是公さんの追悼記です。これを書いたのは中村さんが東京市長だったとき、助役になった元内務官僚の田沢義鋪です。田沢は大正13年1月、政治教育雑誌「新政」を創刊したが、内務省高官に推されて同年10月、東京市助役になり、関東大震災からの帝都復興に当たりました。
 しかし、中村市長は大正15年の東京市会議員選挙で多数派になった市議たちと私の見解は全く違うので、新市会が望む市長ともに復興事業を早く進めるべきだと突如辞職、助役田沢も一緒に辞職したのです。その素早さが「成吉思汗の疾風枯葉をまく戦法」と田沢は後々まで感じていたのですね。
 昭和2年3月、中村さんが死去したため田沢は「新政」4月号に「中村是公氏を憶う」を載せ、さらに40年後に出た「田沢義鋪選集」にも収められました。でも昭和2年執筆・掲載が明らかなので、ここに入れました。
 (2)は「化学工芸」という雑誌からです。ジンギスカンはまだ国内に広まっておらず、羊肉の消費は微々たるもので、羊腸の方が使い道があると期待されたようです。閹は去勢羊を指しています。
 (3)は児玉花外の「成吉思汗焼の歌」です。ジンパ学を研究する私としてはだね、ジンギスカンは勿論、料理用語を調べ、既知より古い用例を見付けたら小学館の「日国友の会」(31)に投稿してきました。この際、いっておくが、ジンギスカン料理、ジンギスカン鍋、ジンギスカン焼きという3つの単語を私は「三種の神器」ならぬ「3種のジンギスカン」と呼んでます。ジンパ学らしいでしょう。はっはっは。
 児玉は札幌農学校を中退した(32)と武井時紀著「北海道 人と風土の素描」にあったので調べたら、確かにそれらしい生徒がいました。「札幌農学校一覧 従明治二十五年至明治二十六年」を見ると、後の納豆博士半沢洵と同じ予科第1級に本籍京都の児玉信雄(33)がいますが、その次の「従明治二十六年至明治二十七年」の予科第2級は32人に減り、児玉は退学していません。(34)児玉が「白雲なびく駿河台…」で知られる明治大学の校歌を作った経緯などを書いた谷林博著「児玉花外その詩と人生」でも本名は伝八とあるが、そのころは信雄と名乗っていたのでしょう。
 日国友の会への投稿は思いつきで始めたことなんだが、平成18年に出た「精撰版 日本国語大辞典(さ~の)」の「ジンギスカン料理」に私が投稿した用例が採用された。協力者のリストに名前が載っているから間違いない。以来、本気でより古い用例を探しているわけだが、3種のうち「焼き」は最も少なく、この16年後に出た「児玉花外詩集」の「成吉思汗節」の1節に「英雄は死んでも鍋に名がのこる、成吉思汗焼大蒙古(35)」が2例目といってもいいくらい少ない。
 (4)は、陸軍糧秣本廠の外郭団体途と私は説明しているが、その糧友会が「お国のためにも、農家のためにも羊肉を食べよう」と提唱した。今風にいえばお堅いコマーシャルメッセージだが、日本羊肉食普及活動史上、重要な動きなので字数制限は無視しました。
 これだけではわからないが、超意訳すれば、軍服用などの羊毛はできれば、国内産だけで間に合うようにしたい。それには百万頭の緬羊が要るので、早く達成するには羊を沢山飼うほど利益が得られる仕組みに変えるだけでなく、日本国民たるもの食べたことがなくても、今後は是非羊肉を買って食べよう。羊肉が売れれば農家の新収入になり飼う頭数を増やすから早く百万頭に近づく―ということだね。
 糧友会は今後、日本人に羊肉食という新しい習慣をつけるよう働きかけるよ―と、最初は鍋羊肉カオヤンロとーと苦しい読み方のジンギスカンを含む羊肉料理の普及に乗り出したのです。
昭和2年
(1) 中村是公氏の死
           田沢義鋪

<略> 中村さんは宴会の席上などで、興がのってくると、よくジン
ギスカン鍋の話をされた。ジンギスカン鍋というのは、満洲の
氷点下何十度という寒い雪の降る野外で、外套を着ながら、鍋
をかこんで、獣肉を焼いて食うのであって、満鉄総裁時代の痛
快な思い出の一つであったらしい。成吉思汗が蒙古から欧州ま
で雪原を踏破して征途に上ったおりから、到るところで士卒を
ねぎらった饗応の方法であるらしい。中村さんという方は、こ
ういうことが最も好きな人、そして復興建築会社の創立は、そ
の成吉思汗の疾風枯葉をまく戦法をほうふつせしむるものがあ
った。台湾の土匪横行中の土地調査の断行、満鉄時代のぺスト
撲滅、そうした中村さんの痛快な思い出の種はいつも成吉思汗
の戦法をしのばしめる。うちわばかりの晩餐会か何かのあと
で、ほろ酔いきげんで、こうした思い出話が出るときに、酒を
飲まない私は「謹んで成吉思汗のニックネームを市長に献じ
ます」と茶目ったことがあったが、それも今は悲しい思い出の
一つとなった。<略>私の市役所生活の一年
九カ月は、この貴重な人格にふれ得た一事で、私の一生涯のう
ちの貴い一年九カ月であったことを、今さらのように思わざる
を得ない。
 ――み霊よ、安らかにわが胸にあれ!   (昭和二・四)

(2) 羊及び羊毛の用途
           山賀益三

 古来牧羊の目的は採毛本位として飼養するは勿論であるが
たゞに羊は吾等に羊毛を提供するのみならず、その他に幾多
の生産物即ち肉、皮、脂肪、内臓等を供給しさては糞尿に至
るまで、肥料として決して軽視することが出来ないものであ
る。
 羊肉は外国に於て賞味され、英国に於てその価額は他の肉
類に比し決して廉くはないのである。そして味よく軟くて滋
養に富む肉用型品種を特に飼養してゐる。
 我国に於ける羊肉商は東京の松井商店及び札幌の小谷商店
位のものである。東京にて十三年秋より十四年春までの屠殺
数、肉量及び小売価格はまだ微々たるものである。
 牡・  生体 三八頭  一頭平均一〇貫七六四匁
 牡・  屠体  七頭  同    五貫〇五〇匁
 閹・  生体 三七頭  同    九貫八九六匁
 閹・  屠体 三四頭  同    四貫五六二匁
 等級又は品名 定価<略>
 また肝臓腎臓の食用に供せられることは、今更謂ふまでも
ないが、それよりも更に有用なるは腸である。羊腸は腸詰に
して食料になるばかりでなく、カツトガツト(Cut Gut)作
りて、テニスのラケツトの糸や、提琴の絲や、小機械の調帯
を製するのです。これらは羊腸で製したものが、最も優良だ
と云はれてゐる。我国も逐年運動や音楽が盛んになり、その
用具の需要も次第に増加しガツトの製造も益々盛んになるで
せう。<略>

(3) 成吉思汗焼の歌
           児玉花外

おゝ『成吉思汗焼』いかに佳き名ぞ
一たび呼びてさへ吾等心臓の焼かるゝこゝち
俗物才子と紛々濁りたる空氣の裡に
薄つペラなビフテキに馴らされたる都會人は
成吉思汗焼に舌鼓を打ちながら
大英傑の歌を高唱せんかな大蒙古に

月を掠めて蒼茫、人煙のあがる蒙古の曠野に
羊を屠れば『成吉思汗焼』となり
牛馬を屠れば何と名づくべきか
一片の肉のお馳走にも祖国英雄名はおもしろし
近代文化人の知らぬ野趣と痛快味あり
欧米諸文明國にこれら趣味性意氣と勇氣ありや

日露役の憂國志士、沖禎介と横川省三が
満蒙の野へ携へゆきし古びた鋤焼鍋
今後日本人の間には牛肉の煮た一片を
『禎介焼』『横川焼』と呼びて記念せんかな
おゝハルピン郊外の血煙の悲壮劇を
赤い夕陽の満洲、すき焼鍋で一杯傾け熱涙に歌はんかな

   <略>
大亜細亜の理想、躍進を君と語り合つたは櫻の江戸川の上
今次ふたゝび熱き手を握るの日
お國名物羊の『成吉思汗焼』はあらずとも
肉の興安嶺、スープの黒龍江
一夕満洲に縁ある楼上に酌まん

(4) 羊肉食宣傳の趣旨
           糧友会

<略> 然るに我國に於ては、未だ羊肉の美昧にして且つ榮養價値の大なるを知るもの少く、中にはその臭味を云為する等、所謂食はず嫌ひの弊に陥る者多きは甚だ遺憾とする處にして只に緬羊飼育の經濟價値を低下せしむるのみならず、延ては緬羊増殖上の支障ともなるべきを以て、この點大に一般人士の覚醒を切望する所以である。
 それ故、此の羊肉が我國民全般に嗜好せらるゝに至り、その利用價値が十分に発揮せらるに至らば、現在の如き周到なる政府の指導奨勵や、多額の補助金が無くとも、自ら其の飼養頭敷の増加を見る事が出來るのであつて、當局の樹てたる緬羊増殖計畫第一期の百萬頭に達することも亦難しとせざる所であらう。
 この見地からして、羊肉の美味なること、榮養價値の大なることを一般に知らしめ、口から、頭から、此の羊肉に關する知識を普及し、國民的嗜好を開拓し、廣く一般に羊肉を食用するに至るやう、羊肉の利用を宣傳することは、實に、我國の必需品たる羊毛資源を涵養し増産方策を徹底せしめる所以であり、又一面質から觀た我國の食糧問題解決の一端ともなり、且つは農村振興の一助ともなることであつて、これ亦正に我國をば、經濟上に於て、軍事上に於て、将た榮養上に於て、安固なる基礎の上に置く所以のものである。  以上は本會の羊肉食普及宣傳をするに至りし趣旨にして偶々農林省當局からの委託もあつて、茲に本會は羊肉講演、羊肉試食會、羊肉料理講習會、羊肉廉賣會等を開催して羊肉知識の普及と榮養經濟美味羊肉料理の一般化を圖り、以て劃時代的に羊肉利用價値の増進を圖り、依つて食糧問題解決の一端に資し、且つ經濟上、國防上重要なる被服原料の増産政策の徹底を期する次第である。
 昭和3年の(1)は前バージョンでも取り上げた糧友会初の羊肉料理講習会の記事です。この記事によると、鍋を使わないのに鍋羊肉と呼ぶことについて明確な説明がない。
 私はね、糧友会としては北京では成吉思汗鍋とも呼ばれている中国の烤羊肉(カオヤンロー)と同じだと認めたくない。そこで火鍋子(ホーコーツ)という寄せ鍋でわかるように鍋は日本人の発音ではコ-となるし、烤はめったに使わない字だから、苦しいが、鍋羊肉と書いてカウヤンローと読ませることにしたとみます。
 以前の講義でも話したのに、ここでまた繰り返すのは、山田喜平が昭和6年に出した飼育指導書「緬羊と其飼ひ方」の鍋羊肉ことジン鍋のレシピをね、本邦初、山田氏考案のレシピのようにみるのは間違いだと言いたいからです。
 初の講習会の来会者にある山田技手は喜平さんであり、昭和3年1月に本郷の渡辺裁縫女学校で開いた第2回講習会にも参加しており、同年2月に糧秣本廠で開かれた3回目の講習会で喜平さんは「緬羊飼育の利益に就て」講演したのです。
 「糧友」によれば「たヾ肉を有利に処分して行くことが現在甚だ必要でこれが為には日本人一般の羊肉に対する嗜好の開拓に俟たねばならぬ」と講演したそうだ。つまり、喜平さんは日本人が羊肉を好むようになることを望み、まず鍋羊肉ではリンゴとミカンの絞り汁を加えた山田オリジナルのタレを使うように変えた「緬羊と其飼ひ方」第3版を昭和10年11月に出した。それまでの昭和6年11月発行の初版と9年6月発行の第2版はね、ほぼ糧友会レシピだったのです。わかったかな、ふっふっふ。
 (2)は内閣拓務局長の浜田恒之助と同局托嘱大山長資が満洲、朝鮮、台湾を回り「我々の旅行を紀行文として殖民地の事情を叙し、時には種々の当面の問題にも触れて見て、差支の無い範囲に於て是りを解説もし、批評しやうではないかといふので出来た」(36)と両人が退職後、出した本です。
 奉天の料理店へ案内したのは、文中にもある鎌田さんで「鎌田氏も張作霖と義兄弟の親交を訂せられいる」(37)と与謝野晶子が「金州以北の記」に書いた満鉄切っての中国通、奉天公所長鎌田弥助とみられます。
 (3)は文部大臣にもなった教育者安倍能成による戦前の中国旅行記です。安倍は京城帝大文学部長として韓国にいたので、満洲を通って中国に入り「二十日ばかりの旅を満州、直隷、山東の間に試みた」(38)うえで、こう書いたのです。
 「支那人の個人としての生活力の強さ、その弾力の豊富は、支那人をして圧えればひっこみ弛めれば膨れしめる。けれどもこれは同時に強い力の前にはちぢみ上り、相手が弱いと見ればむやみのさばるという厭うべき性質ともなって現れるであろう。何といっても国土が広く、資源が豊かで、人間の生活力が強い支那の前途は実に我々の前に置かれた興味のある謎でなければならない。」(39)と。思い当たることが多々あるよね。
 (4)は旧陸軍糧秣本廠の丸本彰造二等主計正の講演からです。これはいま説明したばかりの昭和2年の「羊肉食普及宣傳」の一環として、ラジオで放送した講演の原稿らしい。このひろの新聞のラジオ番組紹介のページで、この一声かけてほしいという講演要旨を読んだ記憶があります。
昭和3年
(1) 第一回羊肉料理講習会
           糧友会

 本會は国産資源の涵養と、食料産業の助長の為めに、農林省畜産局の
後援を得て、羊肉に關する知識の普及を圖り、國民的嗜好を開拓して以
つて羊肉の需要を喚起し、従つて自然に羊毛資源を涵養して國家經濟の
増進、食糧間題解決の一端にもと、羊肉宣傳を開始した事は既報の通り
である。先づ其の實行の第一歩として十一月廿四日第一回羊肉料理講習
會を糧秣本廠に於て開催した。
 当日は午前十時前より来会者多く。
農林省畜産局より局長代理岸技師、山田
技手、本會評議員佐藤慶太郎氏、同土岐
子爵夫人令嬢、栂野理学士、陸軍経理学
校、陸軍砲兵工廠等の陸軍関係部隊団体
炊事研究會員、本會會員の令室令嬢及糧
秣本廠員糧友會役員を加へて百五十名に
達した。
先づ十一時に至つて丸本委員開会を
宣し
  一、開会之辞   佐藤金治氏
    <略>
  二、講演     岸良一氏
    <略>
           丸本彰造氏
    <略>
  三、試食
 斯くて十二時を過ぎたので、来賓及
講習員来会者一同に羊肉にトマト入り
のアイリシユ・スチウを供して試食し
て戴いた、一同はこれが臭いといはれ
る羊肉ですかと驚いて居られた、中
には食通を以つて任ずる方は、どうも
これでは折角の羊肉もその香がしませ
んのでといふ方すらあつた、満田講師
は『実はもう少し羊肉の香をさせるの
が羊肉料理としての立て前ですが、初
めての方が多いと思つて香のない様に
料理しました』と説明される。
  四、料理實演
          満田百二氏
          一戸伊勢子氏
 先づ満田氏立つて羊肉料理の料理上
の注意、即ちコツを細々と述べられ、
(別項にあり略す)次で一戸先生が實演
にとりかゝられる。
 1、羊肉すき燒   一戸講師
 2、鍋羊肉     満田講師
 3、羊肉おろし和  一戸講師
 4、炒羊肉     満田講師
 仔細な説明を加へ乍ら實演された、
殊に鍋羊肉(カウヤンロー)は松葉に燻べながら焼くの
鍋羊肉(カウヤンロー)と鍋の字があるは如何といふ質
問が出たに對して、丸本委員は立つて
これは鍋羊肉(じんぎすかん)(ジンギスカン)鍋とも
いひ今でも北京の郊外でこの方法をし
てゐることなど歴史と實地踏査の両方
面から述べられたりした、出來上つた
料理は一々來會者に供したので一同は
試食して羊肉の臭ひとかいふ事などの
批難のいはれない事を泌々感じられた
事であつた、炒羊肉が終つた時は既に
午後四時であつた。

  五、活動写真
    <略>

(2) 気分を味ふ成吉思汗鍋
           濱田恒之助、大山長資

<略> 三間に五間ばかりの土間、そこに大きな腰高の鉄鍋が据ゑられて、その鍋を爐の代りにしてどんどん焚火をする、その焚火の上に渡し鐵をかけて、その焚火でヂカに羊の肉をヂリ/\焼く、脂が垂るポツト黒烟を立てゝ燃え上る、肉は煤けながら炸ける、焚火の煙りと脂の煙とが家の中をいっぱいに立ち昇る、その中で目をこすり乍ら、長い箸を採つて、その煤けた燻り臭い肉に、味噌のたれとか醤油のたれをつけて食べるのである。
 その昔、成吉思汗が蒙古に起つて、北支那一帯を征服するに当り、四顧茫漠たる砂原に陣を張り、斯ういふ風な鍋を露天に並べて、羊の肉を焼いて食べた、といふのが抑々濫觴で、此古事に倣つて奉天に此の鍋が残てるのだといふ、いかにも原始的な處、それが蒙古砂漠の夕暮れ、煙りの高く立ち昇る光景なども想像されて、成吉思汗の当時の俤も偲ばれるやうな感じがする。
 鎌田さんは、肉の味よりも、気分を味はつて下さいといふ、無論気分は充分呑み込めたが、肉の味そのものも中々棄てられない、何れも舌鼓を打ち乍ら、思はず二椀三椀と御飯の量も進んで、満腹になるのも知らずに食べてしまつた。<略>

(3) 瞥見の支那
           安倍能成

<略> 北京の有名な料
理屋でも四五度御馳走になったが、料理は非常
に旨く、栄養は十分のような気がした(私は二
十日ばかりの旅行に疲の少なかったことを支那
料理のせいではないかと思う位である)。珍味
は沢山あった。唯併し部屋はやっぱり汚い、食
器も立派ではない、給仕人も殺風景なものであ
る。三百年の老舗だという料理屋のメニュはこ
れも三百年立ったかと思う程油にしみていた。
<略>
 料理の序に、北京へ行く誰もが試みる正陽楼
の成吉思汗料理と称する(多分は蒙古系の)料
理は面白い。これは大きな火鉢の上に頑丈な金
網をかけ、その上で大切れの羊の肉を炙って、
好い加減に焼けると、それをこの店の秘伝とか
いうきざんだ生菜を配した一種の三杯酢のよう
なものにつけて食うのである。羊の脂肪がエホ
バの祭壇の如くもうもうと上るので、それは室
外の庭で炙られる。火鉢を置いた台に六七人が
片足をかけて、この原始味豊かな料理を食い合
うのは愉快なことである。雪片がちらちらと降
る夕などには、その味は一層深いであろう。私
が「善」だとか「美」だとかいう字が「羊」と
いう字から来たということを味解し得たのは、
実にこの料理の賜物であった。<略>
            (昭和三年九月末)

(4) 主婦の一声
           丸本彰造

<略> それから、この事柄は家庭の皆様方
の一声によつて、実は達せられる事と
思ふのであります、政府の百万頭計画
は家庭の皆様方の一声によつて達せら
れるのであります。一声とは何ぞや、
それは「羊肉はありませんか」と肉屋
に問ふて下さる事であります。多分こ
の皆様方のお問に対して九十九パーセ
ントまで肉屋は「羊肉はありません」
と答ふるでございませう。しかしなが
ら、この問を根気よく繰返へされる事
によりまして、国民一般が羊肉に対す
る要求の声が大になります、従つて、
この羊の肉の価値が高められそうして
この羊は段々殖えて来るのであります
これによつて百万頭計画は可能であり
ます。
 それから、あのやさしい羊を屠つて
食べてしまふといふのは誠に惨酷のや
うであります、誠に無慈悲のやうであ
ります、しかしながら、食べる事によ
つて彼等の種族は繁殖するのでありま
す。彼等の使命は、肉を捧げ、毛を奉
る事によつて完全に達せられるのであ
ります。<略>
 昭和4年の(1)は、私が「ジンギスカンの遠い遠い祖先」とみる羊肉の網焼を大正11年に発表した料理研究家の一戸伊勢が7年後、道内にきてだよ、鍋羊肉と書いてカウヤンローと読みますが…と、ジンギスカンを含む羊肉料理を道民に教えたという記録からです。
 鍋羊肉は、この2年前の昭和2年、陸軍糧秣本廠の外郭団体である糧友会が羊肉料理の講習会を開き、一戸さんと満田百二嘱託が実演しましたが、火中に生松の枝も加えて燻し気味に肉を焼く(40)という技法は一戸女史の発案なのです。この2年後、月寒種羊場技師の山田喜平が「緬羊と其飼ひ方」を出し、その中で糧友会のレシピそっくりの鍋羊肉など32種のレシピを書きました。
 (2)は北京に住んでいた笙千鳥という女性が雑誌「女人芸術」に書いた随筆です。笙千鳥は当然ペンネームでしょうが、名古屋外語大の楊佳嘉講師の論文「女人芸術における中国表象――越境する女性たちの記録を手掛かりにして」(41)によると、笙は夫に付いて北京に住んだ女性のようで「女人芸術」には昭和3年から同7年までに17回、政治や社会情勢、在住邦人のことなどを寄稿した。この「駱駝のむれと屠所の羊」はその5回目になります。
 それからね、楊論文を掲載している「跨橋 Border Crossing」は韓国の高麗大学校国際日本学研究院が編集・発行している年2回発行の研究雑誌で各国の日本語文学研究者の論文を発表しています。
 (3)は紀行文で知られた元新聞記者、遅塚麗水の「成吉士汗料理」です。遅塚は成吉士汗と書いてますが、士はおかしいといわれか、この1月後に出た雑誌「糧友」と翌年出した「満鮮趣味の旅」の同じ情景では成吉思汗と書いています。
 570字枠で削った個所に、沙漠に日が沈む光景を「その水平線の一角に春づく夕日は」と書いている。水平線は書き間違いだが、続く「春づく」は、よく見ると春の下は日ではなく臼なのです。現代漢語例解辞典によると「太陽が没する」という意味で読みは「つく・うすづく」とあるので、これは「一角にうすづく」と読むのですね。遅塚は幸田露伴と同じ塾で学び、荘子の全文筆写を競ったことがあるそうですから、こんな字で間違うことはなかったんですなあ。ああ、それから「満鮮趣味の旅」では「果てしも知らぬ平沙の天に連らぬあたり、舂きつゝある落日の荘厳さは」(42)で、同じ状況ではあるが、それぞれ表現を変えています。
 遅塚はハルビンでコーカサス料理店に入り「この店自慢の羊肉の串焼即ちシヤリークである、羊肉の大塊を、団子のやうに幾個も真鍮の串に貫いて炙つたものである。山 と盛られた羊肉は、陽炎のやうな、淡い白気を揚げながら、香しい匂を振り撒いてゐる。私は食指の動くを覚えた。その肉味の香膩にしてしかも脆美なる、私は旨しとして貪り食つた。」(43)と書いています。
 (4)は「世界地理風俗大系 中国Ⅰ」ですが、この羊肉の燻焼が名前だけなのは、当時の日本人は羊は羊毛を採るための動物であり、その肉は食べられると思っていないから「網焼きした薄切りの羊肉にタレを付けると酒肴として最適」といった説明を書いても仕方がないと考えたからではないかな。
 11人の編集委員はいずれも名だたる地理学者ですよ。新渡戸さんは留学したアメリカとドイツ両編の一部を執筆したと思います。
 それからね、昭和38年にも同名の「世界地理風俗大系」が出ており、その第6巻が「中国Ⅰ」なので違いを調べたら、元読売北京特派員高木健夫氏が「首都北京」について18ページ書いていた。
 でも食べ物は256ページにある果物店内の写真に「北京郊外のマーケット 果物は南北相流通して,解放前はめずらしかった南国の果物が,北京で買えるようになった。」、料理店内の写真に「回々料理の烤羊肉」という説明だけ。どっちも<ANS特約>とあるので高木解説とは無関係らしいが、烤羊肉は間違いで明らかに涮羊肉、いわゆる「しゃぶしゃぶ」を食べている写真です。
 (5)は陸軍糧秣本廠の2等主計正、丸本彰造が語ったジンギスカン談話です。昭和3年春、東京上野公園で陸軍糧秣本廠の外郭団体・糧友会主催の食糧展覧会が開かれ、39日間に観客は7万3000人に達した。その記録をまとめたのが「現代食糧大観」で、羊肉料理に関連してこの丸本談話が載ってます。
 文中の「雲」は「雪」の誤植、蟹肉の後ろが空白になっているが、記者が多分「蟹肉油」と書いたところ油は不要と印刷直前に1字削除した跡だと思う。
 脱線だが、ヤクオフにね、東京・成吉思莊が開店記念か宣伝かちょっと凝ったパンフレット2種が出たことがあり、私は両方を狙ったが片方は逃した。そのとき競り負けそうになったので、ライバルには申し訳ないが、絶好の研究資料として、どうしてもほしくてね、丸本の文章の読めるところを急ぎメモした。
 そこには「現代食糧大観」の談話と同じことに加えて「拙者は帰京後即ち大正十一年の陽春、偕行社で軍部内のある総会が催された時、緬羊奨励に拙者は羊肉食普及必須を提唱しこの成吉思汗料理を宴会食の中に仕組みベランダに急造鉄架鍋を構らへ試食に供し、一般に其の美味を賞せられたことがある。其後、昭和四年の春季上野に開催された食糧展覧会で、これが実演食に供せられ、又昭和八年冬京城に於て、東拓会社が緬羊政策実行開始の披露宴に同じくこれを実演供食したことは顕著なる事実であって、思ふにこの成吉思汗料理は緬羊普及の行進曲として最もふさはしく欠いてはならぬものである。」(44)とありました。
 私が手に入れたパンフの全内容は、前バージョンの講義録「日本初のジン鍋専門店は成吉思荘とする見方は誤り」で紹介したから読んで見なさい。
昭和4年
(1) 羊肉料理(一)
           一戸伊勢子

 昭和三年札幌、小樽、旭川三市に於て、道庁及各市役所主催の下 に実施せる羊肉消費宣伝の料理講習会に於て東京市一戸料理研究所長一戸伊勢子先生のなせる講義の一部である(スゝム)
 第一、羊肉料理に就て  羊肉に対する嗜好がまだ充分に徹底しない時代には、他の肉などに類似せしめた料理法がよいのでありますが、嗜 好が進んだ場合には、羊肉は羊肉としての特徴を発揮した 料理法をしなければなりません。
 又農家などで羊を一頭屠つた場合、どの部分をどんな料理に用ひたらよろしいか、部分/\に対する適当な料理法を知らなければなりません。
 羊肉は臭いと申す人がありますがそれはまだ羊肉と云ふものを御存じにならぬからでありまして、羊肉はむしろ臭気が他の肉などに比べては少いのであります。而して軟かく、繊維が細くて又肉の組織が疎であります。
 それでありますから、羊肉は他の肉に比し料理する場合には早く料理が出来、凡そ豚肉の半分の時間でよいのでありますし、老人、座食者、子供の様な人々が戴きましてもよく消化されるのであります。<略>

(2)   駱駝のむれと屠所の羊
           笙千鳥

<略> 僅か道幅一間か一間半位の、細い胡同、日本で言へば横町とか、
新道とかいふようなところの、門の前や、繁華な大街の店先に、こ
げ茶色の小山が重つたように、十頭ぐらゐの駱駝が、坐つて居るの
にビツクリさせられる。
 自動車、自転車、物売りなどの、ざわめきの中を、首をのばして、
平気にすました顔をして居る。
 大てい、田舎から物を積んで来て、一夜を都会の軒下に明し、ま
た荷物を背負つて田舎へ帰るのだ。お上りさんにしては落付いて居
る。
 街でよく羊の群れに会ふ、一すじの鞭に追ひ立てられ、駈け出し
ては、またとぼとぼと行く、所謂、屠所の羊だ、自動車などにおび
えて、塀ぎわに、かたまつて、一緒に寄り添ふいぢらしげな様子、
ヂンギスカン料理などといふ、羊の料理に、舌鼓を打つ人は、この
屠所の羊を見たことのない人だらうと思ふ。<略>

(3) 成吉士汗料理
           遅塚麗水

<略> 蒙古包の主人は、羊を宰して私達の為めに晩餐
の用意をした。先づ若者にいひつけて、持ち出したのは
大きな鉄盤。それを沙の上にかき据えて、牛糞
塊を積み載せた。牛の糞を丸めて墻に
打ちつけ、大きな厚焼煎餅のやうに乾し固
めた燃料である。高粱殻に火を点してさし
入れると、黄菊の花のやうな威勢の好い炎
を迸ばしらせて烈々と燃え上る。平らな鉄の棒
を組み合せて作られた半円形の大
きな鉄器は、その鉄盤の上を掩ふて更に火の上に
載せられた。
 私達は、主人と一緒に、五郎八茶碗と箸
と茶呑茶碗とを携へて、火を囲んで繞
り坐した。主人の傍には、韮と醤油とに浸
された羊肉塊を山と盛られた鉢がある。鉄器
はやがて灼熱した。主人は箸でその肉
を鉄器の上に投げつける、私達もこれに傚
ふて投げつけた。高粱酒は濺がれ、同じく高
粱の粥は盛られた、その酒を飲み、その粥を啜
り、香ばしく炙られたその肉を食ふ。火を囲
んで団欒する人の顔は、酔ひに蒸されて、さ
ながら夕日の色のやうに赤く燦いた。
 『成吉士汗の御馳走』といふ。
英雄成吉士汗が、陣中にあつて、常に好んで
将士と共に夜宴を張つたのは是れ
である。私がこの夏の鮮満蒙の旅
のうちで、終に忘れることの出来ないのは、
東蒙古通遼に近い白草原頭のこの一
夜のまとゐである。<略>

(4) 東城市場
           編集委員 新渡戸稲造ほか10人

 しかし北平見物者の見逃
してならぬものは、ロック
フエラーの寄進にかゝる、
協和病院と東城市場とであ
る。東城市場は、日本の大
都市にも開設したい一大バ
ザーである。三越、白木、
その他の百貨店と浅草、千
日前の公衆娯楽所などを平
面的に広い面積の所に集団
せしめたものである。飲食
物の市場は勿論のこと、本
屋町は本屋ばかり、小間物
屋町は小間物店ばかり、植
木屋の集団、靴屋町、呉服
屋町、家具屋町、料理屋横
丁、婦人向のもの、男子専門のもの、子供本位のもの、家庭向の物品等
森羅万象のものが一ところに集中されて、公定市価で販売されてゐる。
 北平ペピンで試むべきものは、支那料理である。実は北平でなければ、真の
支那料理の妙味は判らない。中でも縄のれん式の一品料理に美味のもの
がある。冬期のジンギスカン鍋と俗称する羊肉の燻焼、涍鴨子コウヤーツと呼ぶ鵞
の丸焼の如き、或は夏期の鯉料理など賞味すべきものが沢山ある。<略>

(5) 成吉斯汗料理(丸本彰造氏談)
           丸本彰造

 食味は環境の影響を受くる事が甚大である。気分
と味との良き調和に由つて、忘れ難き美味を感じた
事がある。其の事を発表したい。それは満洲の荒野に
於いてゞあるが成吉斯汗料理と呼ばるゝものである。
 北京前門外正陽楼が調理して日支人を喜ばせて居
る料理で、之を食するには庭前で、時期は冬、寒天
に高く星がまたゝき、雲がチラ/\と降つて来る。其
の暁朝、机上に構らへたる鍋に半焼木炭を燻らし、煙
と火の粉が盛に立ち昇る。其の煙に薄截した羊肉に
特別のたれ(蟹肉 と香味品で拵らへたる醤)をつ
け乍ら煙に当て箸で突きさし、六尺の腰掛に片方の
足をかけて立食する。空を仰ぎ談論しながら、馬上
杯を盛に傾けつゝ、支那特有の焼酎をあふるのであ
る。これは陣営に於ける酒の飲み方である。
 東洋的英雄気質をそゝるいかにも成吉斯汗が蒙古
を蓆捲して、其の地の羊を屠り、焼いて陣営で食し
たものと察せられる。それで誰言ふとなく成吉斯汗
料理と云ふに至つたのだ。美味で羊の臭気を半焼の
木炭の煙で消すのである。之に要した器具は、北京駐
屯貴志主計正に依頼し羊肉宣伝として本邦では創始
的の試であつた。会期朝野の人に試食せしめ羊肉の
原始的食法普及の効果を納めた。
 昭和5年の(1)は中国通で知られた言語学者、日大教授の後藤朝太郎の「支那料理通」からです。キーワード「後藤朝太郎」で国会図書館を検索すると1983件も出る。でも名前と「支那料理」と組み合わせと43件に減り、重複分を除き昭和4年までで絞ると10件になりますが、いすれも支那料理の解説や宴席心得であり、ジンギスカンを書いた本は、昭和5年に出た「支那料理通」と「支那民情を語る」と「大支那大系」までありません。
 「支那料理通」は正陽楼での食べ方から始まる料理談議、「民情」の方は友人と食べにいった話なので、前者にしました。末尾に付録「日本に見る支那料理店」があり、東京16店、大阪10店など仙台、横浜、名古屋、京都合わせて53店の簡単なリストがあります。
 それから後藤は「大支那大系 第8巻 風俗趣味篇」を受け持ち「北京は古い都だつた為めに三百年も家業をついでる老舗の料理があつて開業以来もちつゞけたと云ふのがある。そこの献立目録などはほとんど手垢で茶色によごれてまことに古色蒼然たるものがある。これがこの老舗の自慢の家宝としてゐる。」(45)と書き、さらに厚徳福は通人中に通人が行く店で私も北京で遊ぶときは必ず行く(46)と通人ぶりを誇示しています。
 (2)は里見弴の「満支一見」です。里見は志賀直哉と共に満鉄に招かれ、昭和4年12月22日神戸発で満洲と中国視察に出かけました。翌5年1月14日北京に着き。あちこち見物。19日夜、銀行家の招待で正陽楼へ行き、初めて成吉思汗料理こと烤羊肉を食べた。里見はこの旅行記を同年3月から時事新報夕刊に「満支一見」として75回連載、その66、67回に食べ方、材料、道具、雰囲気を詳しく書いたのです。
 連載は昭和5年6月に終わり、その半年後、同名の単行本として春陽堂から出版されました。両者を比べると、燃やすのは新聞では「楊柳ともう一つはなんだつたかの木を生焼にしたものゝ由」(47)が、本では「楊と楡を生焼にしたものゝ由」(48)に変わっている。これは旅行後、志賀に問い合わせて修正したのですね。もう1カ所あるけど、細かいので略します。
 「満支一見」を読んだ久保田万太郎はじめ「毎月十六日に、日本橋濱町の京蘇料理濱の家にあつまる十二三人」は、画家の和田三造が鍋を持っているなら「是非、それア、やつてみなくつちやアいけないと」「たちまち衆議一決した」ら、濱の家主人富山榮太郎が夏の間、店を出す鎌倉でと提案、由比ヶ浜で生松葉で燻して試食した(49)んですなあ。
 その経緯を久保田は「じんぎすかん料理」と題して昭和6年8月、報知新聞夕刊に7回連鎖し、料理を引き受けた濱の家(正しくは濱のや)は、成吉思汗料理をメニューに取り入れ、ジンギスカンを出す内地初の料理店になり、続いて東京京橋の盛京亭、大井の春秋園がジンギスカンを始め、濱の家は「文芸春秋」、春秋園は新聞でそれぞれ成吉思汗料理を宣伝し、奇妙な名前の羊肉料理として都人士に知られるようになっていったのです。
 (3)は満鉄の農事試験場があった満洲公主嶺に駐屯していた独立守備隊が秩父宮殿下をお迎えしたときの裏話です。試験場では多数の緬羊を飼い、品種改良の研究をしていたから、山田副官の望む特別飼育のラム提供は難題ではなかったと思います。この秩父宮御招待宴会については前バージョンの講義録「公主嶺で開かれた秩父宮歓迎大ジンパ」で、より詳しく話しましたから、読んでください。
昭和5年
(1) 成吉斯汗料理
           後藤朝太郎

 北京の料理通の人々は北京料理と云へば、先づ得意顔になつてその話題に上す料理の中に成吉斯汗料理云々といふものがある。こは羊の肉の附焼きで最も原始的な方法で之を頂くことを云ふのであつて、客自らが野天に出てその料理をしながら食するのである。日本人でもこの成吉斯汗料理と云へば、大抵の通人は心得てゐる。但しこの料理は秋の末から冬にかけての料理なので、夏の間はない。北京では前門外方面に正陽楼といふがある。元来この料理は蒙古式といつた蛮的な荒ごなしの料理の行き方で、普通の宴席に列してゐる華客が特に室から出て野天でその仕度をするのである。その炉を囲み、鍋を裏返しにせる如き中央の盛り上つた鉄串を鍋として之に焚き火で以てたき付け、客は銘々その二尺に余る長い箸を用ひ、各自手前に置かれた羊肉を醤油をつけつゝ附焼にして食すると云ふやり方である。而かもその炉に対しては 左足を炉辺に上げ右足を後方に踏張つた格好で、謂はヾ腕まくりをした形で焼きながらたべるのである。その火力の強いときは羊の脂肪が散るので、善い洋服や支那服を着て行けば一度で膏が染みて台なしとなる。然し余り粗末な物を着て行く訳にも行かぬ。そこで日本から行つた通人は大抵零下二十度の寒天にワイシヤツ、チヨツキ一枚となつて炉辺に暖を採りながら食するのである。北京では此の料理を烤羊肉と云つてゐる。<略>

(2) 成吉思汗料理
           里見弴

<略>――仕度が出來たとの知らせに吾々が一旦ぬいだ外套を着、帽子も被りたければ被つて、もう一度石甃の中庭に出て行つて見ると、四尺角ほどの卓の上で、鐵火鉢のやうなものから、焔の舌がめら/\とあがつてゐるのではないか。鐵火鉢と云つても、品の粗末さではそれに近いが、形は、一方に口が刳つてある具合など、寧ろ茶の湯で使ふ風爐に似て、もつとずつと大きく、かれこれひと擁へもあつたらうか。燃すものが、またこの料理になくてならない特別の品で、楊柳ともう一つはなんだつたかの木を生焼にしたものゝ由。だから、ちよつと見たところでは、普通の炭と変りはないのだが、これを、いま云う鐵火鉢様のものに積み重ねて火を移すと、ぼう/\と焔をあげ、相応煙もたてる具合、今度はまた薪と呼びたくなるやうな、つまりその二つのものゝ合の子なのだ。上からは、お供ほどの丸味に盛りあがつた金網が被せてある。この金網といふ言葉にも多少註釈を要するが、針金のやうな細いもので編んだのではなく、幅六七分の鐵板を、碁盤目に組み合せてあるのだ。――これが道具立で、さてそこへ持つて出されるものはと云ふに、皿へ山盛りに盛つた羊の生肉と、一種の醤油を入れた鉢だ。この醤油には葱、人蒜なども無論煮込んであらうし、ちよつと舌にピリツとしたところを以つてみれば、胡椒の類も加味されてゐようか。この可なり大きな皿と鉢とが、各自に一つづつわたつたところで、太くて長い竹の箸で、肉を適宜に把つて醤油につけ金網の上に載せるのだ。ジユウ/\云つて焼ける。滴つた脂が、ボロ/\ツと焔の舌をはいて燃えあがる。ほどよく焼けたところで、金網の上からいきなり口へ持つて行く。――と、かういふ順序なのだ。<略>

(3) 寺内将軍を偲ぶ
           山田鉄二郎

<略> 昭和五年の六月頃陸大二年学生の参謀旅行演習が満州
で行われ、校長荒木貞夫中将以下五十余名の教官学生を
公主嶺に迎えた。この学生内に秩父宮殿下がおられ<略>
殿下の御宿泊所には公主嶺に適当な旅館もなくそこで守
備司令官の官舎を提供することとなった。
 寺内閣下はこれがため夫人と女中を一ケ月前より奉天
に一戸借用せられて移され、官舎全部を宮様の為に開放
せられた。<略>また当時は臣
下として殿下を御招待申し上げることは親補職以上でな
ければ出来ぬという内規であったが、閣下は殿下を一学
生として学生一同と共に一夕御紹待することとなりこの
準備を私に命ぜられたのである。私は時期が悪いが他に
趣向もないので守備隊の将校集会所の庭で「ジンギスカ
ン」鍋を準備することとし、農事試験場に頼み肉用種の
羊を予め特別飼料で育てて貰いちょうど春になり青草を
喰うと羊は香りがわるくなるので之れを避ける様に頼ん
だ。また日本酒は満州でも酒屋があったが地酒ではまず
いので閣下の命で灘の生一本の黒松白鷹という上等酒を
一樽内地から送って貰うことにした。<略>
 主客の宮様始め学生は勿論のこと、参加者一同は地平
線に沈まんとする赤い夕日をながめながら集会所の庭で
「ジンギスカン」鍋をつつき歓を尽し、宴は暗くなるまで
続き、御蔭で酒は一樽を空にして仕舞い地酒を追加する
仕末であった。
(元独立守備隊副官、故人、「歩いた道六十年」より)
 昭和6年は8件ありました。(1)は旭川に駐屯していた陸軍第7師団経理部長の鹿野澄2等主計正が、大正年間、毛皮買い付けに蒙古に出張し張家口で蒙古隊商に招かれ、一夜ジンギスカンを食べた思い出です。鹿野は後に糧秣本廠長になりました。
 (2)は俳句雑誌「曲水」に載っていた高山峻峰の「成吉思汗鍋」です。高山とは誰か、大和尚山はどこにあるのか調べたら、高山は「曲水」だけでなく、満洲で発行されていた雑誌「満蒙」、「新天地」の常連でした。また「大連名所俳句」の選者もしたことから、大連などに住んでいた高山の大和尚山は、遼東半島にある山で「成吉思汗鍋」は、その大和尚山に登り、羊肉の代わりに牛肉を焼くジンパを催した情景とその連想ですね。
 突然現れるハンスとは何者か。竹越與三郎の「倦鳥求林集」は「匈奴と云ふのは即ち日本へも攻めて來た所の蒙古人のことであつて、蒙古が日本を攻めると同時に歐洲を侵略した。今日の所謂匈牙利なるものは此蒙古人が歐羅巴を侵略した遣物であつてジンギスカンの子孫をハンスと名けて居る。」(50)と書いています。
 (3)は「大谷光瑞全集」からです。浄土真宗本願寺派の総帥だった大谷光瑞は食通で布教で訪れた国々の「食」と日本の「食」を合わせて論じ、それに「花」と「陶器」について書いたものを加え、昭和10年に「大谷光瑞全集」第8巻として出した。
 その扉には「食」は昭和6年に単行本として発行したものとあり「大谷光瑞師著作総覧」の昭和6年の項に416ページの本「食」(51)が記載されているので、ここに入れました。
 そこで羊肉についてだが、大谷師は当時の国産羊肉は犬も食わない、犬またぎだとこき下ろし「東洋に於ては、内蒙古を第一とす。満洲、長春、奉天に行かば美味あり。然らずば濠洲羊肉なり」(52)と評価した。
 「焼羊肉も極めて佳なり」の焼羊肉は「支那料理」のところで「羊肉はその味牛に非らず、豚に非らず、その中間に在り。恐くはすき焼となさば、豚肉より美なるべし。焼羊肉は頗る美味なり。北京正陽門外にこの肉舗あり。邦人にして之に遊ぶもの少なからず。」(53)と書いているので、北京の正陽楼の烤羊肉を指していることは明らかです。
 (4)の著者玉井莊雲は画家なのに7年も内外蒙古の奥地で生活し、あらゆる風物、階級の人々に接してきた。それで「所謂『怪奇なる蒙古』の真の姿が、ハツキリ解りかけたやうな気がする。そこで僕は始めて僕の会得した、内外蒙古のあらゆる文化を、画筆とペンの使い分けによつて一つ書き綴つて見やうと云ふ気になつた。」(54)と自序にある通り、牛糞の物見台は勿論、鳥葬まで挿絵は勿論、話題も豊富な本です。
 (5)は作家久保田万太郎の「じんぎすかん料理」です。昭和22年に出た「久保田万太郎全集」からですが、この年8月25日から報知新聞に連載した短編小説なので、ここに入れました。前年、里見弴が時事新報に連載した「満支一見」に刺激された久保田ら文士たちの、いわば遊びだった。でもジンパ開催に全面協力した濱の家が、このとき使った画家和田三造所有のジン鍋を譲り受け、ジンギスカンを食べさせる国内初の料理店となる重要なきっかけになったのです。
 (6)は京都帝大文学部地理学研究室の小牧実繁による「北京より多倫まで」です。小牧は日記をもとに書いたらしく、先頭に「昭和五年四月十日、木曜日、曇。」とあり、北京の宿舎を出て研究者3人と張家口行きの列車に乗った(55)ところから始まるのですが、2回の連載の最後に(昭和六年七月二十六日稿)(56)とあり、昭和6年9月発行の月刊誌「地球」に掲載されたので昭和6年に分けました。
 張家口の郊外で遺跡発掘中に支那の巡査隊がきて、墓荒しの疑いで警察署に連行された。筆談など懸命の弁解で学術調査と認められ、午後8時過ぎに小牧ら4人が無事宿に戻り、ジンギスカンを食べたところ(57)を引用しました。
 (7)は北京駐在の邦字紙記者の鷲沢・井上コンビが二千歳または三千歳と呼んでいた烤羊肉は今後、成吉思汗料理と呼ぶと、ある会合で決まったことを伝えた中野江漢の「成吉思汗料理」です。中野も新聞記者に傍ら中国文化の研究者として北京に住でおり、鷲沢とも親しかったので、こうした命名説を知っていたのですね。ただ三千歳、成吉思汗料理のことを「燕塵」で発表したとあるが、そんな記事はなく、これは完全な間違いです。
 また前出の濱の家がまだジンギスカンを売り出す前、同6年の春、中野は濱の家主人富山栄太郎に招かれたとき、ジンギスカンを売り出すよう勧めたが、富山は場所がないといったそうだが「支那に於ける原始的料理として著名な。所謂『成吉思汗料理』を最初に日本に伝へた、濱のや主人富山栄太郎君は、この点に於て日本に於ける支那料理界に一つの功績を遺したわけである。」と実現を褒めています。
 (8)の石渡繁胤は蚕の専門家で、何度も蚕の飼育指導で朝鮮と満洲に出張し、昭和10年にその見聞をまとめた「満洲漫談」を出しました。その冒頭が公主嶺の満鉄農事試験場が持っているジンギスカン鍋を測定データを含む「成吉斯汗鍋」です。末尾に「昭和六年十一月一日記」とあるので、ここに入れました。
 さらに「成吉斯汗料理」という1章があり「此の漫談の初めに成吉斯汗鍋に就て記した。スキヤキとは別種の趣のあること、又内地では鎌倉では有志によつて催された。大森春秋園、京橋の盛京亭では小規模に此料理を始めた、この鍋料理が開かれたのを喜ぶと共に普及されんことを望むものである。」(58)と記しています。
昭和6年
(1) 羊肉ロマンス 成吉思汗料理
           鹿野澄

<略> 包の中には大きな鉄盤が、何処
からともなく運び込まれる。
 直径が三尺はあろう?、之を砂
の上に置く、燃料が其上に盛られ
る。蒙古の奧地に行くと森もなけ
れば畑もなく所謂、羊牛のみであ
るから燃料は牛羊の糞を天日で乾
し固めて厚焼煎餅のやうにしたも
のであるが、こゝら辺になると草
の株や、根や、疎林から得た枯木
を燃料として使ふのである。その
燃え上つた上に、今度は平たい鉄
条を縦にならべた半円形の蓋を載
せる、するとその蓋を造つてゐる
處の鉄条は灼熱されて真赤になる
立上る煙の裡からそれを囲む蒙古
人と私共の一団の顔と、毛皮につ
ゝまれた私どもの身体が赤鬼の様
に闇の裡から浮き出て見ゐる。土
人は先箸を執つて、傍にある大き
な鉢に盛られた小切の羊肉の一切
を鉄条の蓋の上に投つける。私も
ニヤニヤ笑ひつゝ土神がする様に
肉をとつて蓋の上になげつける。
肉は真に得もいはれぬ美味しい香
を上て炙り焼かれる。真暗の闇の
中で食べることとて時々生炙のも
のを頬張ることもある。急ひで口
からはき出すと土人は笑つてゐ
る。丁度好い加減に炙り焼かれた
ものをたべると、その肉の軟かサ
うまサ、一寸此の世ではたとへ得
るものがない。高粱酒をすゝりつ
ゝ腹の皮が張つて前にこヾめない
様になる迄飲食するのである。
<略>
其翌月北京に於て麗しくにぎやか
な酒莊で此の料理の更に近代化さ
れたものゝ御馳走になつたことが
あるが張家口外の感じは出なかつ
た。今は東京の神田にも此の料理
を食べさせる家が出来たといふ。
<略>

(2) 成吉思汗鍋
           高山峻峰

 岩洞から湧き出る流水は山間のしゞまを破つて寺苑の外に音を響
かせて落ちて居る。
 松と楓との林間には、日ざしを避けて此處彼處蓙を延べてある。
 「サア!よく炭がいこつた。銅羅を叩け!」
と誰やらが言ふと、瀑水の音も聲こえぬまでに銅羅が鳴り響く。寺
から、峰から、渓から、人は集まる。
 三つ脚の附いた釜に、炭火はかん/\紅い焔を立てゝ居る。其上
へ撃剣の稽古に用ゐる面のやうな形の鐵器を置いて、火氣に熱した
ところへ胡麻油を刷毛で撫でゝジユ!シユ!と音がしだすと、七八
寸もある牛肉を其上へ並べる。
 肉は「ジユー!ジユー!」と大きな音を立てながら焼かれる。葱
は長いまゝ其傍で火を通される。脂が落ちてパツと燃える。裏表共
うすく焼けると其まゝ皿へ移して塩又は醤油で食べる。
 碧落に喰入る大和尚山の岩峰は眼前に禿然として居る。

 恰度實朝が害されて鎌倉幕府が終焉を告げやうとするの年――
  ハンス來る!
と言へば、泣く児はおろか、欧洲の諸帝王さへ震慄した。其ハンス
を率ゆるものは彼の成吉思汗であつた。戦中に此鍋を前にして高粱
酒の觴を揚げた。

(3) 羊
           大谷光瑞

 豚に次ぐは羊なり。羊は本邦人是を嫌ふを以て、詳説を要せずと雖も、不肖の如く是を好む人も亦なきに非らざるべしと信ず。故に是れが説を述ぶべし。<略>
 物は二種の利なし。羊毛に富めるメリノの如きは、肉味極めて不可なり。我邦にて羊を飼ふは全く毛の爲なり。故にメリノ若くはメリノの混種を用ひざるべからず。而して毛を採るべからざるに至り屠殺す。その肉たるや餓狗すら猶食はざるべし。是を以て人に食はしめんとす。人の食はざるは当然なり。故に本邦に於ては、永く羊肉の美を食ふるの期なかるべし。不肖羊肉を好むと雖も、決して本邦肉を食はず。満洲か若くは濠洲肉を食す。
 羊肉はチヨツプ最も可なりと雖も、排骨の肉にして、コテレツドムトンと称するものは至味なり。焼羊肉も極めて佳なり。<略>

(4) 蒙古人と牛糞の山
           玉井莊雲

<略> 燃料としての獣糞が、悪臭を放つとは今日迄一般に信じられて来た。然し同一食料で生活し来つた野獣の糞は、何らの悪臭もなければ汚穢も感ぜぬ。これは蒙古旅行を経験せぬ人の考へられぬ所だ。
 蒙古旅行の気易さは燃料問題にある。至る處の水畔で牛糞の煙を上げ、支那素麺、成吉斯汗焼きに舌鼓を鳴らす。千里の旅にも燃料の用意は全く不必要だ。
 蒙古人の固定包があれば、其の附近には必ず牛糞の山がある、無料で掻き集め拾ひ集められた燃料が、寒気の襲来をも恐れぬことを知らせ顔に……幾十ともなく積み上げられてゐる。それが、彼等の住家よりも糞の山の方が遙かに高いから珍妙だ。この珍妙な牛糞山は又蒙古人に取つて、唯一無二の物見台を役目をなすと云ふから、全く我等の想像以外であつた。
 蒙古奥地には何等文明的な通信機関と言ふものがない。彼等はこの物見台、即ち牛糞山上に立つて、隣村との間に信号で連絡又は通信をなすのであるから、牛糞山、即ち蒙古の無線電信局とでも称ふべきであらう。
 牛糞の山。それは蒙古以外では見られない奇景で、彼等のみに与へられた天恵である。

(5) じんぎすかん料理
      七
           久保田万太郎
 
 で、その、わき上つた煙の中に肉の皿は配られた。長いはしは入りみだれた。たちまち鉄弓の上は肉のきれで一ぱいになつた。……ジユウ/\いつて焼けるほどに、たれた脂のボロ/\燃えるほどに、「こいつはいゝや」の、「食へるよ、うん」の、「いゝえ、大したもんだよ」の、さうした声々がけむりとゝもに うづまいた。
「これで月さへあれば……」
 ほツとした……重荷を下した濱の家の主人は、はじめてこのとき、自分をとり返したかたちにいつた。
「いいえ、入らない、そんなもの入らない。」
 といったのは和田さんである。
「ずッといゝ、このほうが。……曇つてゐるほうが……
 とも/\゛いつたのはわたしである。……これよりさき、わたしは、もとの位置を捨て、半座を分けてくれた久米君のそばに割込んだのである。
「さうですかしら?」
 だが、肯へないやうに濱の家の主人はいつた。……ほツとした以上の、重荷を下した以上の疲労を、けど、そのピリ/\した感じの蒼い顔が語つてゐた。……かれのために月出よ。……それをみたら、わたしは、前言を取消す必要を感じた。
 里見さんの書いてゐるやうに、われ/\もまた、且語り、且食ひ、且飲んだ。そして、その興、その趣の、まことに尽きないものがあつた。 しかしあとの「いふまでもなく、勇壮な、野蛮な感じで、さればこそ、常勝を誇る成吉思汗が、陣中、部下の猛将連を呼び集めて催した夜宴はかくもあつたか」とあるそのけしきにはやゝ遠かつた……といふのも、それは当りまへで、もと/\冬にあつてのものである。厳寒にあっての道楽である、外套を着、帽子をかぶつての、さうした堅固な身ごしらへをした上ではじめて取ッつくべき食ひものである。……さうでなくも浴衣を着たり、シヤツの胸をはだけたりする料簡ではほんたうの情のうつりつこはないのである……
 酒の尽き、肉のヤマになつたところでわれ/\はその脱衣場を出た。思ひ/\にばら/\に濱の家へ引上げた。<略>

(6) 北京より多倫まで(一)
           小牧實繁

<略> 八時過宿に帰る。山崎領事、盛島翁、島村氏
等が心配相に待たれて居た。事件を傳へ聞いて
心配して居られるのかと思つたら、どうもそう
でないらしい。皆んな未だ今日の事件は御存知
なく、只帰りが遅いので、もつと重大な事件が
起つたのでは無いかと心配して居られるらしか
つた。心配かけても悪いと思ひ、何氣なき風で
済ます。
 八時半宿を出で車で「萬豊源和記便飯店」と云
ふ料理屋へ行く。山崎領事、盛島翁等の案内で
ある。此所は有名な成吉思汗料理で聞え、之れ
は北京などにもあるが張家口がその本場である
と云ふのである。庭の露天で爐を囲み、周囲の
長腰掛に片足を掛け立つて食ふので、鯨尺の一
尺より長い物指の様な箸で、じい/\と脂で熾
える、薪の上の金網からも未だ血の滴る様な羊
の肉をとつて酢醤油に香料を交へたもので味を
つけ英雄らしく頬張るのだから本當に成吉思汗
料理の名に恥ぢない。冬でもこんな露天で雪を
被りながらつゝつくと云ふのであるから豪氣で
ある。
 盛島翁から蒙古では正月元日日出に山頂に上
り牛乳を四方に措き四方拝を終りそれから家に
帰つて火で羊を焼き之れを神に捧げ、その後食
事をとると云ふ事など聞く。
 十時、成吉思汗料理に満腹し、市内を散歩し
て蒙古の土産として煙草、菓子等を購入し、十
時半帰宿。盛島翁推薦の顧介眉氏が來られ明日
の打合せをなし、準備を調へて十二時前就寝。
<略>

(7) 成吉思汗料理の話
           中野江漢

<略> この料理は、今から二十年前、当時北京に居住していた井上一葉という料理通によつて発見された。井上氏は『正陽楼』といふ料理屋に於て、偶然にもこれを知つて、在留邦人間に吹聴し先づ鷲澤氏を誘ひ出して賞味した。鷲澤氏は当時、時事新報の北京特派員で、現に同社の顧問であり、雑誌『ベースボール』の社長である。その席上
 『支那に残された唯一の原始料理だ、これを食べると、なんだか三千年の太古に還つたやうな気がする』
 だが『烤羊肉では陳腐だ、何んとか奇抜な名をつけやうぢやないか』
『三千歳とはどうだ』
と両人の間に話が纏まり、『三千歳』といふ新しい名称がつけられた。このことは、当時北京の邦人間で発行されて居た『燕塵』といふ雑誌で発表され、忽ち評判となった。爾来これを食はざれば支那通にあらずといふ風に流行しだした。
 それから間もなく、鷲沢氏は、折柄来遊せする人々を、此楼に招待して『三千歳』に舌鼓を打つて居ると、或人が
 『僕が蒙古を横断した時に、蒙古人は、牛糞の乾燥した燃料を用ゐて、羊肉をあぶつて 食つて居たのを見た。よく聞くとジンギスカンが陣中で、好んで食つたといふことだ』と話したので、鷲澤氏は、早速、
『それで「成吉思汗料理」と名づけやうではないか』
と提議。満場一致で命名された。このことも当時の『燕塵』誌上で発表されたので、遂々成吉思汗の遺物の如くに誤り伝へられるのに至つたのである。<略>

(8) 成吉斯汗鍋
           石渡繁胤

 成吉斯汗鍋は蒙古に於ける陣営宴食である。成吉斯汗が初め
たと云ふのでその名が付けられたのであつて、冬日軍陣に疲れ
た将士を犒ふ爲めに大将が催すものである。羊肉を各自適宜に
切り取つて火に載せて食するのである、焚火の上に鉄棒の連ね
たものが横へてあるからその熱した鉄棒に羊肉を載せる一方焼
けたら裏返して焼き、塩、醤油その他の味をつけて食する。小
切の焼肉であり又は我等のスキヤキに類似したものである。
 羊肉を切り取るには各人が所持する腰に帯た蒙古刀なる小刀
を用ゆるのである。<略>
 火は赫々と燃えて鐵棒は熱したそれに載せて焙られた肉は炭
火の火力に脂肪の燃える煙は濛々と立上る、それでも戸外の催
しであるから、爲に何等の悪感を与へない。焼ければ取つて食
ひ焼ければ取つて食ふ、丁度スキヤキ鍋に向つた時の如く食慾
が意外に進むのである。興味深きこと限りない。昨年秩父宮殿
下満洲御旅行の際に公主嶺満鉄農事試験場に於てこの催しがあ
つたが、殊の外御興味深く思召され御喜びであつたと拝聞する。
 又今年は鎌倉に於て有志の面々が集つてじ成吉斯汗料理の催
があつたとの事である。
 スキヤキと又別種の趣があるから野外の催しとして推奨した
い。(昭和六年十一月一日記)
 昭和7年の(1)はいま示した中野江漢の「成吉思汗料理の話」とそっくりの記事が「中外商業新報」(日経新聞の前身)に3回に分けて連載された事実です。さも自分が調べたように書いたのは、東京大井の中国料理店春秋園の料理人、吉田誠一でした。春秋園は翌8年1月、横綱武蔵山、関脇天竜ら力士32人が待遇改善を要求して立てこもった事件で、一躍有名になりました。
 吉田は昭和3年に出した「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」の「山羊、鹿、羊、料理」の章では「綿羊肉は近頃、千葉県、茨城 、北海道方面のものが東京市場に少しづつ見うけますが、まだ一般家庭には使用されて居ないやうです。」(59)と書いており、それから4年たっても街の精肉店で羊肉を売っている店はさして増えておらず、普通の家庭ではジンギスカンは作りにくいとみてか、羊肉は「薄く刺身のやうに切り、それを酒と醤油を同量に混合せた汁にしばらく浸して置」くようにと素っ気なく書いており、鍋や使う木炭の種類、東京、横浜で買えない■(虫の右にト)油という調味料の代用品の作り方などの知識をひけらかすように書いています。
 吉田は報知新聞にも「成吉思汗料理などゝ妙な名がついてゐますが、実は烤羊肉といふのが支那の呼び方であちらの料理書にも『日本人は不思議にこの料理を好み来遊者は必ずこれを賞味して行く。彼等は成吉思汗が陣中で初めて行つた料理である等伝へて成吉思汗料理と呼んでゐるが……』とある位、これは日本人が勝手に付けた名ですが今ではかへつて日本人のお蔭で支那でも成吉思汗料理といふ名の方が通るやうになつてゐます。」(60)と書いたほか「料理の友」に昭和8年に2回、同12年に1回ジンギスカンのレシピを書き、ジンギスカンの普及を図りました。
 (2)は雑誌「食道楽」の常連寄稿者による座談会からです。久保田万太郎ら文士たちのリクエストで鎌倉海岸でのジンバ開催に協力した濱町濱の家の主人富山栄太郎は、その後、タレを改良して何度か鎌倉支店と本店で試食会を開いたようで、ニンニク量の違いから本山荻舟、松崎天民が2回、樫田十次郎、三宅弧軒がそれぞれ1回呼ばれたことがわかる。
 三宅弧軒は8月15日に招かれて食べ、日本料理研究会報に「羊の肉は満洲のゴマ油と、エビの油とで漬け込み、その上にミヂンに打つた『にんにく』がまぶしてあつた。焼くと妙な匂ひがする、喰ふと一寸ひりと舌をさすものがあつた。」(61)と日本料理研究会副会長らしく書いたが、いずれにても富山は北京で本場のタレを知り、ニンニク量をはっきりわかるほど減らしたことが推察されます。
昭和7年
(1) 烤羊肉(上)
        吉田誠一

<略> この料理は成吉思汗が、陣中で
羊を屠り、軍刀をもつて火に炙り
ながら食したのが始まりで、これ
を成吉思汗といふなどゝ見たこと
の有るやうなことをいつてゐる人
もあり、又現在ではさう思つて居
る人が少くないやうでありますが
之は大きな間違ひです、成吉思汗
とは日本人がつけた名称で、支那
では「烤羊肉」といひ、「烤」
とは焙ることをいひます
   ◇
 呉恵堂の燕都食譜に
 「前門外肉市正陽楼の烤羊肉は
 日本人によつて著名となる、日
 本人の来遊者必ずこれを賞味せ
 ざるなく、彼等はこれを成吉思
 汗と名づく、元の太祖、陣中に
 用ひたる遺風なりと誤伝せるに
 因る、料理とは菜といふに等し」
とありますから、これらを想像し
ても日本人の付けた名称といふこ
とが断定がつきませう、今より約
二十年前北京に居住して居た井上
某が正陽楼において、偶然にこの
料理を喫し、在留邦人に自慢して
吹聴し、鷲沢某を誘出して賞味し
その席上において、この原始的料
理を食べるとなんとなく三千年の
昔に還つたやうな気持がするか、
何とか奇抜な名称をつけようぢや
ないか?よからう三千歳はどうだ
O・Kといつたかいはないか知ら
ないが、両人間に話が纏まり三千
歳といふ新しい名称が附せられた
のであります、それから後北京在
留邦人間に忽ち評判となりました
最近では私共の店でもこの成吉思
汗料理を食はざれば支那料理の通
人にあらずといふ位までに歓迎さ
れております<略>

(2) 第四十六回食道楽漫談会
    「豚・羊・栄養・芸妓」
       出席者 樫田十次郎
           平山蘆江
           三宅弧軒
           本山荻舟
           馬場黙蔵
           結城桂陵
           松崎天民

<略>樫田 去年鎌倉で濱のやの成吉思汗料理を食
べたが、今、日本橋で、濱のやが特別な室を
作つて盛んにやつてるさうですね。
松崎 此の間その試食会に招かれた。
樫田 鎌倉で御馳走になつた時は、ニンニク
が強すぎてね、家に帰つたら、何んです、ア
セチリンみたいな香ひをさせてつて、苦情が
出たつけ。
松崎 僕等も、ね、本山君、鎌倉の帰りに、
タイガーに寄つたら、女給が寄りつかないん
だ、てんで、自分ぢや分らないが、ニンニク
臭いと見へるんだね。
樫田 今度は濱のやでも、充分研究して、本
格的成吉思汗料理だつて云ふ話だから、あの
時より一段と旨いでせう。
本山 所がね、僕は此の間、薬味にニンニク
の出てゐるのを知らないで、ニンニクを附け
ないで始めの中食べてゐたんだが、何んだか
物足りなくてね、鎌倉の時は、肉に始めから
強烈なニンニクが入ってゐた為か、第一印象
だった故か、鎌倉の時の方が、魅力があつた
やうな気がする。ニンニクを別に出して、随
意に附けて食べるのは方法としてはいいのだ
らうがね。僕は、濱のやの目下やつてる、北
京正陽楼の本格的よりも、本格を覚へて来る
までの、濱のや主人の我流の成吉思汗の方に
愛着を持つね。
松崎 併しいくら旨い物でも、あゝ臭がられ
ちや叶はんね。
本山 それで面白い話があるんだが、あの時
会つたカフエーの女給にね、先日偶然、ある
場所で出会つたんだ。所がこちちはすつかり
忘れてるんだが、向ふはこつちを覚へてるん
だね。僕はどうしても思ひ出せないから、そ
こで、いつ逢つた方だつて訊いてやつたらね
去年、ニンニクを召し上つた時お目に掛りま
したつて…(皆哄笑)余程強い印象を残したと
見へるね。<略>
 昭和8年の(1)は雑誌「婦女界」1月号に載った「濱町濱の家主人/東京料理学校講師」富山栄太郎の談話です。「婦女界」はこの年、12月号にも富山の「支那料理漫話」を掲載したので、ここをクリックすれば読めるようにしてあります。
 (2)は東大医学部の教授を経て宮内省侍医頭も務めた入澤達吉の「雲荘随筆」からです。同書の「北京」で入澤は①支那を一度通り抜けだけ②あちこちへ往復する③風俗習慣から言語思想まで心得た―という3種類の支那通があり「余の如きは、実際三年に三度、支那へ行つたけれども、北支那、南支那とも、唯大都市を、舟車のたすけにより、所謂南船北馬で、クル/\廻はつただけで、無論第一類に属するものである。」(62)と謙遜しています。
 (3)は当時の国民的人気女優、夏川静江が巡業で大連を訪れた際、熱烈なファンだった満鉄社員岡部平太はわざわざ奉天ま迎えに行き、夏川を自宅に招いてジンギスカンを食べたもらったのです。大連では名月を眺めながらのジンパが流行っており、詳しいことは前バージョンの「大連を訪れた女優夏川静江はジンギスカンで歓迎された」に書いてあります。
 (4)は英語学者の市河三喜と奥さんの晴子が書いた「欧米の隅々」です。北京で食べたカオヤンローのことは晴子が書いたと思います。晴子に先立たれた三喜が「機智縦横辯舌ニ巧ニ文筆ニ長ズ博覧強記読書ヲ好ミ自然ヲ愛シ山野ヲ跋渉シテ足跡宇内ニ遍シ昭和六年良人ト共ニ欧州ニ遊ビ審ニ各国ノ民情ヲ視察シ十二年支那事変ノ勃発スルヤ単身米国ニ使シテ遊説コレ努ム著書ニ『欧米ノ隅々』『米国ノ旅日本ノ旅』アリ共ニ英訳セラレ国際親善ニ寄与セシ所大ナリ」(63)と墓碑に刻んだ才女で、こんなに細かく、いきいきした描写はほかにありません。
 (5)の「料理」を書いた賀来敏夫は大村華子編纂「追思」(64)ホームページ「白象の気まぐれコラムⅡ」(65)などから察するに、東亜同文書院のOBで三井合名社員。日本で初めて麻雀愛好会を組織立した人だったそうです。ああ、忘れるところだったが、賀来はこの後、昭和12年に三笠書房から「赤裸の支那」という本を出しているが「料理」に関しては全く同文。
 (6)は満洲旅行から戻った夫君の土産話です。
昭和8年
(1) 成吉思汗料理の由来
            富山栄太郎

 成吉思汗料理といふ名は、実際は昔からか
ういはれてゐるものではなく、原名は羊の肉を
焙りながら食べるといふので、烤羊肉(カオヤンロウ) といふ
のです。中野江漢氏が雑誌食道楽に書かれ
たものによりますと「これは今から二十餘年
前北平滞在中の、料理通の日本人に、正陽樓(チヨンヤンロウ)
で発見されて、三千歳といふ名がつけられて
ゐたのを、程なく蒙古を横断した或人
が、蒙古人は牛糞の乾燥した燃料を使
つて、羊の肉を焙つてたべるので、よ
く聞いて見たところ、成吉思汗が陣中
で好んで食べたものだといふことが、
分つたと話されたところから、早速成
吉思汗料理と改められたので。」とあり
ます。これによつてみても、非常に古
くから傳てゐるものだといふことが分
るわけで、現在では北平(ペイピン)北平には正陽楼の
外一二軒しかなく、正陽楼では特に材
料の羊の肉を、わざ/\蒙古の入口の
張家口にまでも買ひに行つて、特に吟
味してゐることを、店の自慢の一つに
してゐます。

(2) 支那の旅から
           入澤達吉

<略> 支那料理は今や全く世界的となつて、米国許りで無く、欧州にも盛んに流行して、「チヤプスイ」は天下に氾濫して居る。東京でも大震災後には支那料理屋の数が激増して来た。扨支那の本場での料理の味は、また特別である。北京料理、広東料理、四川料理等、短い期間に彼方此方で度々招待を受け、、いろ/\味の違つたものを試みた。甘味の多いもの、塩気の多いもの、辛いもの、酸いもの等等、各々其特色を発揮して居る。支那通の人から聞いた所では、支那料理は東西南北で、大体、味の区別がついて居るさうである。即ち南甜、北鹹、東辣、西酸と云はれて、南方の料理は甘味が多く、北方は塩気が強い。東方は辛辣で、西方は酸味を多く使ふ。果して此通りであるか、否かは、私は「グールマン」で無いから左程能く判らない。
 北京の或る處で出たが、小ひさな生きた蝦が皿に盛られて、食卓に上り、それをつまんで、其儘呑み込むのは、聊か不氣味であつた。又北京の正陽門外に正陽樓と云ふ羊肉料理店がある。此家では炎々と燃え上がつてゐる炭火を盛つた火箱を圍んで、客が座を占め、羊肉を鐵灸の上に載せ、焙りながら、したぢをつけて食するので、味は頗る美である。多くの人は此處では焼酎を飲んで居る。此羊料理を北京の日本人は、成吉思汗料理と名づけて居る。蒙古風であるからであらう。神煎爐で煮て食ふ羊肉鍋も試みた。<略>

(3) 成吉思汗料理
            夏川静江

 宴会の中で特に私の注意を惹いたのは、星ケ浦の岡部氏宅へ招かれた時、饗宴にあづかつた成吉思汗料理でした。これは其昔、成吉思汗が遠征の陣営中で始めたのが、原だと云ふ事であります。それは、厳寒の夜、上部一面に鉄弓が引渡された長方形の大きな竈を庭上に築き、其の中で盛んに薪を燃やし、客は竈の周囲に防寒外套に身を堅めて座し、薄く切つた羊の肉を、各自勝手に鉄弓の上で炙りつゝ食するのであります。炎々と燃え上る焚火、それを囲む防寒外套のいでたち、成吉思汗が白雪降り積む荒野の暗をてらして、陣営中に戦勝の祝宴を張つた昔が偲ばれて、豪快此上もない情景です。薄く切られた羊の肉を火に翳して、じり/\と反返るところを醤油したじに浸し食する時は、又此上もない珍味です。豪快な情趣と、美味は、食通の必ず一度は味はゝなくてはならないものゝ一つではないでせうか?

(4) 食べ物
           市河晴子

<略> 私の一番気に入ったのは瀬川氏に連れられて行ったジンギスカン鍋だ。料理屋の中庭に、カッカと炭火を起して上に鉄格子をかける。食べ手は其廻りに立って片足を炉べりに高く上げてムズと踏みかけ、長い箸で生羊肉のソースに浸したものを焼けた鉄格子の上へ乗せる。ジリ/\と香ばしい匂ひと共に紫色の煙が立つ。鉄からひっぺがして片面を又ジリ/\、そして口へ運ぶ。それだけだが、あのプンと臭い羊肉が不思議に軽くおいしく、幾らでも食べられる。焦げて煤けたのも又それでうまい。これで火の様な焼酎がキューッと飲めなくては本当の味は出ないかも知れぬが、それは最も純粋な放牧民の剛健素朴の味だ。
 欧亜に跨る大帝国の建設の為に砂漠を渡り草原を越えて旋風の如く押廻したテムジンの豪勇の味だ。タベ五十里七十里を疾駆した馬を、今はと乗り捨てゝのキャンプファイヤに、牛糞の燃料は強い火力を以てジンギスカンと幕僚の赭顔をいよ/\赤くカッと照し、若人は酒の酔に額の向ひ傷を浮出させ、老将軍は銀髯にしたゝるソースを横なでにしながら焼き肉を貧り食ふ。槍をとれば敵兵の三人四人芋刺しにする老兵が器用に御刺身形におろした生肉は後から/\お代りされて、焚火はいよいよ盛んに燃える。<略>

(5) 料理
           賀来敏夫

<略> 蒙古料理と云つて北平で賞美するのは羊肉の薄く切つたのを屋外の焚火の上にある鉄条の上で、自分で長い箸を持つて汁を付けて焼いて食ふので、肉が黒焦げになつて余り気味のよいものではないが、其中に一種の味があり、立食であるのと、酒は高粱酒しか飲ませぬのが特色であります。
 北平には又羊のみの料理、家鴨のみの料理を食はせる處もあり、又昔西安門外の王府の傍で其王府で食ふ豚の臓腑丈を買つて、土鍋で露店を出して居つた、沙鍋といふのが有名でありましたが今はもうない様であります。<略>

(6) 成吉思汗鍋
           松岡久子

 先達主人が満洲視察から帰り、お
いしいと思った成吉思汗鍋の話をし
ました。
 月明の夜戸外で食べたのださう
です。三脚のついた鉄鍋に炭火をも
り、亀甲型の鉄灸をかけ、羊肉を焼
いて食します。■(印刷不鮮明)肉は予め、老酒と蟹の
油を調合した汁に、わけぎの細切を混ぜた
ものへ浸けて置き、焼きながら頂きます。時
といひ処といひ、ぢわ/\と焼ける香りとい
ひ、原始的なうちに何ともいへない味があつ
たと申します。以上
 昭和9年の(1)は満州視察から戻った三菱銀行常務取締役、瀬下清氏の講演記録からです。綿羊については満洲の在来種に「メリノを一遍掛けて更に一遍かけると、今度は立派なものが出来る。満洲に適するものが出来て、毛の量も四分の三或は三分の二位になるらしい。併し此羊と云ふものは中々繁殖量が少ない。他の羊から向ふの羊へ五十頭掛けられるさうですが、子羊を生むに一遍生んでから更に又生むには一年以上掛かる、迚も手間取る。之を全然改良することは容易な事ではない。是も十年十五年経つて果して四百五十万頭がメリノを混ぜた豪洲式の羊になるかどうかと云ふことは非常な疑問で、さうなつた所で日本の羊毛の需要に対し是亦綿と同様に五分か一割ぐらゐのことだらうと思ひます。」(66)と語り、それより穀類増産に力を入れるべきだとしました。
 (2)は羊毛の重要性を説いた「緬羊と其の飼ひ方」からです。羊毛は「毛糸に製して自家用のシヤツ、セーター其他に利用し、又は之を加工して所謂「ホームスパン」を織り価高く販売して大きな利益を収めてゐる向きもある。又緬羊からは羊毛皮、皮革も得られるし、肉及び乳は農家の栄養を高める点にも役立ち、又之を売つて利益を得ることも出来るなど、緬羊飼育から受ける農家の利益は決して僅少では無い。」(67)と、おいしいことを言っている。
 羊肉の項では「我が国に於ては美味なれど臭気悪しなど言つて、所謂食はず嫌の人が多く、又料理法も一般にはよく知られていないので需要は少いが、やがてはだん/\に普及されてその真価を現して来るに違ひない。」(68)という程度で、ジンギスカンのジの字もない。
 飼い方の教科書だけに昭和18年までに6版を重ねました。
 (3)は新聞記者の田原豊が書いた「満蒙綺談」からです。田原は前年9月に「聖旗熱河に翻る」と「満蒙の謎を解く」の2冊を出しており、それぞれ自序は「奉天満洲日報編輯局にて」だったが、この本の自序は「奉天日日新聞編輯局長(元奉天満洲日報)」に変わっている。レインボー通商の宮川淳氏の論文「戦前・戦中期『満洲』で刊行された日本語新聞の一覧リスト」(69)によると、奉天満洲日報は昭和9年6月で廃刊になっているので、田原はすぐ奉天日日にスカウトされたのでしょう。
 (4)は陸軍工兵大尉高城安による独自の成吉思汗焼の話です。牛糞で牛肉を焼く、三国志にある「豆を煮るに豆殻を燃く」 と似てます、いや煮るには牛糞しかないはちょっとオーバーで、羊糞も馬糞もあるはずですよね。
 (5)は支那通の一人、沢村幸夫の「支那草木虫魚記」からです。「日本新聞年鑑 大正十年」によれば沢村は大阪毎日新聞社論説課員兼外国通信部支那課員で、この年鑑を続けて見ていくと、外国通信部支那課長になり昭和4年から3年間、上海支局長を務め、その後、昭和8年版で東亜部顧問になった(70)ことがわかります。毎日入社前のことは関西大学の萩野脩二教授の研究論文「『支那通』について」によれば、明治40年代に中国へ渡り、揚子江流域を調べたりしたそうです。萩野教授の分類によると、沢村は中野江漢、後藤朝太郎らと同じく第二世代の支那通(71)だそうだから、北京の烤羊肉は常識だったでしょう。
 (6)は小生夢坊コイケムボウによる「成吉思汗鍋」です。鮮満協会専務理事の大北筆一は小生を評して「極めて冷製明晰である場合と、極めて多血多感である場合とを夢坊から感受した。」「画才あり、文才あり、しかも舌才あり、此の一書を読まんか、君の性格の躍如たるものがある。」(72)と、この本の序に書いていますが、満洲は公主嶺でジンギスカンを食べただけで、青白きインテリに活を入れようとか、ラインダンスを見たがるヤツは駄目だとか、どうみても飲み過ぎですな。
昭和9年
(1) 満洲国を視察して
           瀬下清

<略> 奉天の方はそんな風で、それから今度は公主嶺を経て新京に参つたのでありますが、公主嶺には満鉄の農事試験場がありまして、其処では有ゆる満洲の産物を改善する為に、大豆の改良、棉の改良、それから牧畜の改良と云ふことをやつておるので、吾々はそれを一々其処で説明を受けたのであります。それで満洲の棉は迚もいかぬから亜米利加の棉を持つて来て斯う云ふ風にすれば斯う云ふ風に数量が殖える、それから羊は斯う、豚は斯うと云ふやうに――是は後にお話しゝますが――大体のアイデイアを得た。唯々其処で成吉思汗料理と云ふのを御馳走になつた。又喰べたことでをかしな話ですが、それは羊の肉を焼いて食ふ、それでルーフガーデンに参りますと大きな火鉢があつて、其上に丁度撃剱のお面のやうな平べつたいものを並べてある、其上で汁を付けた羊の肉を焼いて御馳走になつた。之が迚も旨くて、私共は満洲に行つて奉天の支那料理も旨かつたが、此成吉思汗料理、羊の肉も大変旨くて、少し後で腹を痛めたくらゐ食べた。<略>

(2) 二、国家経済の上から見た緬羊
           北海道農業教育研究会

 羊毛製品の需要は近年著るしく増してゐることは、諸君も知つてゐることである。即ち洋服着用は官吏・学生のみならず、農家・商店員・工業者・労働者からルンペンに至る各階層を悉く網羅してゐる。和服にしてもセル・モスリン・フランネルは皆原料は羊毛である。それに帽子・外套・トンビ角巻・毛布にも之が用ひられ、毛糸で作つたシヤツ・ズボン下・猿又・手袋・靴下・セーター悉く之羊毛である。編者の如きは外出時若し羊毛品を悉く取去りを命ぜられたら、ネクタイと靴だけしかあとに残らぬといふ程羊の厄介になつてゐる。
 果せる哉、我が国に於ける羊毛の需要量は逐年著るしい増加を示してゐる。即ち大正元年に於て我が国内地に於ける羊毛(汚毛)消費量は六千八百封度であつたものが、昭和二年に於ては一億六千四百万封度の多量に飛上つてゐるのである。しかも昭和二年に於ける国内生産量総額は十二万五千封度といふ貧弱さである。諸君はよく此の数字を見較べて見給へ。親と子の相違どころの比ではなく、日本には羊毛は産しないといつた方が早い位のものではないか。<略>
 若し我が国五百六十万戸の農家が、発奮茲に毎戸四頭宛の緬羊を飼ひ、一頭から平均七封度の羊毛を出すとしたら、その合計は約二億封度となるから、この問題は大方解決ついてしまふ。一戸で四頭宛の緬羊飼育といふことは、殆ど老幼の手でたやすくなし得る仕事である。農家の緬羊飼育といふことは単に一家の利得に関するばかりでなく、国家経済から見ても誠に急務であると言わなければならない。

(3) 成吉斯汗鍋の由来
           田原豊

 蒙古の持つ誇りである英傑成吉斯汗の雄図を偲ぶ、成吉斯汗鍋なるものがある、筆者は両三度箸を採つた事があるが、これが羊の肉料理である、元々羊の肉はうまいものではない、牛馬に較べて脂肪分が少く、然かも一種異様の臭気がある、十人のうち九人までは此の臭気で箸を投出す、この成吉斯汗鍋は、羊の肉を薄く切つて、これを焚火の上に直接置いてジリ/\焼きそれにニラを交へた支那醤油をつけて食ふので、勿論うまかろう筈はない、然し成吉斯汗鍋の生命は味覚でなく、気分である、欧亜を席捲した一代の英雄成吉斯汗が、征途の時折柄雪を交へた興安嶺の嵐の原野に炎々天を焦す焚火の中に、拳大の羊肉を投じ、これを喰つて豪嘯したといふ古事によつて、今も酷寒吹雪の屋外に木片を燃しつゝ黒焦げの肉を頬張つて彼れをを偲ぶのである。

(4) 蒙古見聞記
           高城安

 蒙古人の食事は既述の通だが、どうも日
本人には一寸苦手。包も一種の臭があり、
(皆羊乳羊皮の臭)総てが不潔である。垢だ
らけの着物を着て、濁水で調理するのを見
ては、余程の度胸がなければ、御馳走には
なれぬ宿営も出来ぬ。然し此余程の度胸さ
へあれば蒙古旅行は楽なもの。作戦上も余
程物資の追送と云ふ事が手軽くなる。日本
人でも永く奥地に居る人は蒙古生活をして
ゐるのだから、穿ちやれぬ事はない。
 木のない国の燃料は牛糞だ。牛糞も古い
のは不可。羊肉の「スキ焼」を牛糞でやる。
成吉思汗焼と称す。之が平気でやれるやう
になれば、先一通の蒙古通。牛糞にどうし
ても堪へられぬ旅行者は石油「コンロ」か
固形「アルコール」の如きものを携行する
のが便利だ。
 要するに蒙古旅行は天幕生活で終始せね
ばならぬ。「キヤンプ」生活などと金をかけ
てわざ/\歩き廻り得る階級の人には、国
策上蒙古旅行をお勧めする。

(5) 烤羊肉・鴨子
           沢村幸夫

<略> おい/\毛皮の外套が着たくなるころ、北平の大街小巷、おほよそ羊肉舘のあるところ、おの/\門前に一隻の炉竈を設け、炉中には柴火を燃し―これに用ふる薪は柳の木を普通とするが、上等の薪としては松の木に限るさうである。柳の木も単なる薪では不可。炭を作ると同じ方法で赤い焔をあげるを限度の半燻でなければならぬといふ―その上に一隻の鉄篦子をおく。一般顧客等は、腹の虫をじつと抑へて、その炉をめぐりて、薄片に切りなされた羊肉の一盤々々をとつて鉄篦上に置き、一面に烤り、一面に調合された加薬に和して大嚼するのである。これが北平名物のいはゆる『烤羊肉』なるもので、ソヴイエトのスタアリンが好んで食ふといふカウカサスのシヤシエリツクと一般だ。たゞ、しかし、羊脂が火に烤られて鉄篦仔の間隙から薪上に注がれると、薪火はこれによりて一段の火勢を強め、肉脂一時に焦げて、燻煙と奇臭とをそこら中に漲らす麤野な趣は、西のヨウロツパに適はず、まさに東の胡砂吹く漠地に見るべきものである。もつとも、同じ羊肉舘でも、大舘子と称していツぱし料理店として聞える家、たとへば前門外肉市の正陽舘の如きは、竈を院内に設けて羊肉の顧客も回教徒とも限らず、中流以下の人ばかりでもない。烤羊肉に用ふる加薬は、肉の羶臭を消すといふ香菜の外に、料酒、胡椒、塩、醤油、醤豆腐など十余種に達するさうだが、それは第一流羊肉料理店でのことである。<略>

(6) 成吉思汗鍋
           小生夢坊

<略> 満洲国の若い兵士達は起ち上つて居る。満洲國の若い學生達は起ち上つて居る。カアキイ色の兵隊が、黒い色の学生が、堅牢で快適な、爽姿を見せてゐるのだ。
 彼等は、希望を持つてゐるのだ。希望を。大空を仰ぐ、素晴らしい希望を。

 僕は、インテリ・ルンペン共に、成吉思汗鍋を啖はしてやりたいと思ふ。そしたら、元氣が出るだらう?
 蒙古軍を率ゐた成吉思汗が、東欧を征服して、その一砦、一城を陥れる度毎、諸兵を集めて大勝利の宴を開いた。いまに残る公主嶺の名物料理成吉思汗鍋が、そのときの趣向だつた。鋳鐡の鍋状の炉の上に、鋳鐵製の網をかける。炉中の炭火が赤々したところで、羊肉を炙る。(よだれがたれるよ)別に準備した調味料に浸して・ふ・ふ唇を鳴らして啖ふのだが、野外で行はれる白夜の宴だし、一炉を囲むのだし、沃野の夜と云へば、自然と豪快なる氣分ともならうではないか? (此の情景は食道樂新編輯長正岡蓉君ならうまく描く)
 恋人をその胸にしのび、トレアデオル進め、甘茶でかつぽれ踊れ! も近代感覚絵物の一分野ではないとは云はぬが、大学の角帽をあみだに、その様なる調子はイケマセン。
 峻嚴苛酷なる検事を眞似るわけではないが。貧弱なる肢体を裸列させて、抑々レヴユウ藝術たるや、と鼻の下を長くする愚劣なる熱病的現象を輕蔑したくなるではないか。<略>
 昭和10年の(1)は「岐阜県大地理」からです。県民の58%が農業者という岐阜県ですが、畜産全体としては「豚・山羊・羊等も年々増加の一方であるが、近年著しい進歩を見せたのは養鶏である。然し之も隣県愛知に及ばない事遙かである。」(73)とあります。  (2)は珍説。正陽楼での片足上げは成吉思汗こと源義経が戦で足を負傷し、片足を台上に載せた変な姿勢で羊肉の付け焼きを食べたことから始まったという小谷部全一郎の本からです。
 小谷部によると、義経は負傷治療のため「熱河の近くにて、八溝といふ処に設けてあつた本営に矢疵を療養して居り、此の地の山水は自分の第二の故郷である奥州平泉の地に似て居るので、平泉と命名し、今も平泉として支那の地図に載せ、其の地方一帯を平泉県と称し、」(74)たとあるので、グーグルのマップで検索したら、河北省承徳市平泉市八沟大街として地名は残っています。地名に当てはまるように義経伝説を作ったとしても、しつこく探したんでしょうね。
 (3)と(4)は大阪で発行されていた趣味雑誌「食通」復刻版からです。(3)は昭和6年、大阪でもジン鍋店があったという話を入れようと、魚味を省略したため意味不明になったが、要は大阪市立衛生試験所・第四師団経理部・大阪陸軍糧秣廠嘱託(75)だった太田独特の定義で、魚は焼くと魚臭さが香味に変わり、栄養面でも良い。それを太田は魚味と定め、ジンギスカンの羊肉も魚味だ―と讃えたのです。
 (4)で與太呂が大阪で初めてのジンギスカンを売り出したとしていますが、太田の昭和6年の大阪のTで食べたという「魚味」があるため、胸を張って大阪初と威張れないことがわかるね。また、昭和16年にある池田小菊の小説「来年の春」によると、羊肉が手に入りにくかったせいらしいが、与太呂のジンギスカンは牛肉だった。
 私の調べでは、東京いや日本内地に於けるジンギスカン店の元祖は日本橋の濱の家で、始めたのは昭和6年8月末からです。でも太田はその半年前「銀座尾張町附近」の店で「戟剣防具の面に似た肋骨形になつた鐵器」で焼く何かの肉の「成吉斯汗鍋」を食べたという。それが確かならばだが、ジンパ学の開店順を書き換えねばならんから大変だ。
 銀座尾張町は、昭和5年に銀座5丁目と6丁目に変わり、和光ビル前の銀座4丁目交差点から新橋寄りの一帯で、日本一高い地価の鳩居堂前は5丁目です。そのどこかにあった料理店で2回食べたことは確からしいが、せめて丁目ぐらい書いてもらいたかったね。
 昭和7年の「文芸春秋」3月号に、銀座5丁目の有名カフェー「サイセリア」の隣の支那料理店楽亭の「おかみさんといふのが、お愛想はないが料理の方にはくはしく、夙に銀座の野天で、成吉思汗鍋をやらうと出願したが、許可されなかつたといつて残念がつてゐる。」(76)とあるので、太田が入った店は、こっちでしょう。「都市欄」の記事は、続けて「成吉思汗鍋といへば、銀座ではないが濱町の濱の家主人が、北京から薪まで取寄せてやつてゐるのは、さすがに本格だ。」(77)と気配りしているのは、濱の家のツケがたまってたんじゃないかな。
 その濱の家ですが、前バージョンの講義録「正陽楼の本物の鍋で焼かせた濱町濱の家」の真ん中あたりに客が縁台に片足を載せて鍋を囲んでいる構図の色紙があります。
 私は「糧友」のこの記事を読んで以来、糧友会鍋の現物をぜひ手に入れたいと、札幌の古物商や骨董店を廻ったけど見つからなかった。しかし平成29年秋、所有者が東京に居られることを知り、上京してサイズなどを測定させてもらった。この経緯は前バージョンの「『糧友』愛読者にジンギスカン鍋プレゼント」で話したので、詳しくはそっちを読んでもらいたい。
 その後、ジン鍋アートミュージアムの溝口雅明館長はロストル型鍋買いますと「お宝鑑定団」に出たりして探し続け、令和4年5月、遂にヤクオフで1枚を入手、コレクションを充実させたのです。資料その3の写真のロストル鍋がそれです。
 はい、大特例としてレシピも入れ970字も許した理由は2つ。1つは羊肉が1人30匁、112gという少なさ。北大生協ジンパセットは746g×3袋で5人前だから1人447g当たるはずだから、ちょっと味見したら終わりみたいな少なさです。
 もう1つの理由は野菜皆無。葱の青いところは使うけど、薬味であって焼いて食べるわけではないし、焼こうにも縁なし鍋だから転げ落ちます。要するに男達の酒の肴であり、今のジンギスカンとは全く違う食べ方だったのです。
 (6)は、いわゆる百科辞典では初掲載のジンギスカン料理です。ここまでに出た三省堂、富山房の百科辞典は、人間のジンギスカンかチンキスハンしか載っていなかったけれど、平凡社編「百科辞典の歴史」を読むまで初と断言できなかった。
 同書によると、百科辞典という名詞を最初に入れたのは、明治41年から発行した三省堂の「日本百科大辞典」でした。次が昭和9年からの冨山房の「国民百科辞典」、昭和11年からの平凡社の「大百科辞典」(78)と続いた。
 「日本百科大辞典」と「国民百科辞典」は、国会図書館のデジタルコレクションで読めるのですが、なぜか平凡社の「大百科辞典」は国会図書館になく、鳥取県立図書館が揃えているので、その書誌を調べたら第1巻は昭和11年だが、2~12巻は12年、13~25巻は13年、26~28巻は14年発行でした。それで料理があっても「シラミ~シンワ」の13巻で発行は13年だから「国民百科辞典」が先といえるようになったのです。執筆者の山田(政)は大正15年に登場した山田政平ですね。
 (7)は満鉄広報の今枝折夫こと加藤郁哉が書いた「満洲異聞」からです。「月刊満洲」の城島舟礼社長が書いた「序」によると「本書は嘗て『月刊満洲』誌上に連載されて、全読者層の喝采を博した『満州特殊風致区案内』をもとゝし、これに著者が、殆んど全面的補筆訂正をなし、新稿を加へて、まつたく旧態をとヾめざる書きおろし同様のものとした。これまでに、如何に多数の在満・来満のヂヤーナリストがこの案内を種本としたか。ぐづ/\してゐると主屋をとられる結果を招来しそうな有様だ。これは、とりもなほさず、本書が如何に面白いかを裏書きしたことにもなる。」(79)と自慢するだけあって、ナニ筋の詳しいガイドブックでね、ジンギスカン鍋の説明もあるよという程度です。
 (8)は浅草に集まる底辺の人々の生態を観察、記録した石角春之助が介のすれの介察記録した研究家とみいわれる誌やこの年10月の創刊号に続く江戸と東京社を出した
昭和10年
(1) 緬羊
           岐阜県教育会

 緬羊の飼育は元来全国的に盛で
ない。従つて本県も気候風土に適
しないものとして殆ど顧られなか
つた。昭和五年までは僅か郡上郡
其他に数頭飼育してゐたに過ぎぬ。其技師の研究により飼育法よろしきを得れば恰好の家畜であることが認められ次第に其数を増加する傾向となつた。昭和七年度にては三十余頭となつた。昭和八年になつて飛騨種畜分場に農林省から五十余頭の種羊を配布されて飼育してゐる。同年中に三百余頭となる見込であるといふ。農家の副業として適当になることを宣伝される一方、羊肉料理の流行と相まつて次第に飼育数を増加する勢となつたのは本県の為結構である。

(2) 万里長城の突貫
           小谷部全一郎

 <略>こゝに面白い話といふは、
成吉思汗の義経が北京城攻撃の時に。脚に矢を受け、その応急手当中
に、自若として椅子に腰を掛け、片足を台の上にのせて、薄く切つた羊の肉
を串にさし、醤油の付け焼きにしたものを食べたといふことで、成吉思汗が
平常これを好んだものであらうと思ふ。爾来これが北京名物の一つとなつて
これを成吉思汗焼と呼び毎年十二月末に屋台店を出してこれを売出し、お客
は孰れも椅子に腰を掛け昔し成吉思汗がやつた様に片足を台の上にあげて食
べるが法式となつてゐる。支那人が営んで居る東京の支那料理店でも、毎年
十二月末に之を食べさせる所もあれば試みられたい。此の薄く切つた羊の肉
を串にさして醤油の付け焼きにするといふ事に就て思ひ起されることは、義
経が第二の故郷である奥州平泉地方は素より、東北地方一般に六七分角位に
切つた鮭の切身を串にさし、醤油の付け焼にしたものを、俗に付け焼きと呼
んで賞味する習慣がある。義経これを好み、鮭のない蒙古では、その味に似
た柔かい羊の肉を以て■(1字不鮮明)たことゝ思はれる。

(3) 羊肉
           大谷光瑞

 支那は豚肉の外、羊肉を用ゆ。
 回教徒は、決して豚肉を食はず。伝へ云ふ。教祖豚は不潔なるを以て、その肉の食用を禁ぜりと。真偽は之を知らざるも、回教徒の豚を嫌ひ、その肉を食せざるは、全世界を通じて皆同一なり。而して之に代ゆるに羊を以てせり。
 羊は北支那西支那最も美なり。揚子江及南支那は、その味遠く及ばず。而も膻し。故に我邦人の是を好まざるもの多し。之を欧州の羊肉に比するに、英国ウエルス羊肉に一籌を輸せり。
 不肖は最も羊肉を好む。本邦に於ては是れが優良を得る事、極めて困難にして、美味豚肉より更に少れなり。故に東洋に於ては、濠洲羊肉を得るか、或は支那羊肉を用ゆ。
 満洲羊肉は美味なりと雖も、大連に我邦人多きを以て、羊肉多からず、良羊肉は奉天以北ならざるべからず。
 支那人の羊肉を用うるや、その料理法概ね豚肉に同じ。
 新彊は全部回教徒なるを以て、豚肉なく、全く羊肉のみなり。特に雅爾羗の羊肉は、その味恐くは支那第一なるべし。
 我邦に於て、政府数ば畜羊の奨励をなすも、決して発達せざるは、その肉を食ふ人の少なきを以てなり。
 支那人は肉、毛、皮皆是を用ゆ。決して一物だも棄てざるなり。恐くは我邦人の羊肉を好むに至る期までは、畜羊は発達せざるべし。
 羊肉はその味牛に非らず、豚に非らず、その中間に在り。恐くはすき焼となさば、豚肉より美なるべし。焼羊肉は頗る美味なり。北京正陽門外にこの肉舗あり。邦人にして之に遊ぶもの少なからず。

(3) 成吉斯汗鍋の魚味を讃ふ
           太田要次

<略> 昭和六年の二月春は名のみ愛宕颪に東京の春は雪さえ降て稀な寒さであつた、その頃ある研究の爲め約一ケ月ばかり深川の糧秣本廠に通つた。放課後や日曜日の閑暇を見てよく淺草から銀座、扨ては新橋附近から大森界隈へ食物行脚に出掛けて行つた。或る日不計も銀座尾張町附近のとある所で見附けたのが此の成吉斯汗鍋で初めて試食して、すつかりその味に魅らされた、その後滞在中二度も食べに通つた。その仕方はこうである、可なり重い鐡製の炉用のものに炭火をたいてその上に戟剣防具の面に似た肋骨形になつた鐵器をかけて肉でも魚貝でも或は葱の如き野菜等を適宜に切つて其の上でジージーと焼きながら四方から取つて割下に浸して食べる趣向である、すると手も足も身軆全部が俄に暖り酒をあふつて炉辺の閑談に味樂出來ると云ふ誠に野趣に富んだ流石に北満蒙古に於ける特殊料理たる大陸的風丯愛すべきものがある。然も滋味津々として口腹の快味は又格別である、その後大阪に帰つて八方探した所堂ビル裏堂島川に添つた所にTと云ふ此の鍋を営む店があつて、それ以來屡々食べに出掛けたものであるが最近その附近に行つた序に立寄つて見た、が何時どこへ転居したか見當らない、全く口説きかけた女に逃げられた様な感じがする、逢へるものならもう一度………、誠に残念である。<略>

(4) 噂・噂・噂
           をかまち

 與太呂(ジンギスカン料理)
 冬は○○鍋料理で連日連夜の超満員、○○鍋と云へば與太
呂を思ひ出させるほど有名を売つて食通間に知られた與太呂
が、自慢の天婦羅にこんどはヂンギスカン料理の看板をあげ
た。この料理の魚味に就いては先月号大田要次氏が本誌で賞
揚されてゐる。大阪では初めての試みであるだけに、さてこ
そ、満員満員で若き主人公の得意や思うべく「わてのやるの
はなんでこんなに受けまんねやろ」とは少々背負つてゐる。
近くまたホルモン料理を売り出すさうな、何が飛び出すやら
何んでも構やせん、うんと美味いものを喰はせて呉れ。

(5) 糧友会第十周年記念
    糧友百号御継続のお方に贈呈する
    成吉思汗鍋の使用法
           糧友会

成吉思汗鍋ジンギスカンなべは、彼の蒙古の英雄
成吉思汗(成吉斯汗とも書く)が大軍
を率ひて満洲の野を馳駆した時、暮夜沙
漠の露営舎の前で、部下の将士と共に高
粱酒の杯を挙げながら羊肉を賞味したと
いうのが、その名の出所で、現今でも蒙
古でこの料理に舌鼓を打ち、また北京城
北門前の名物料理です。
 この鍋は野外で十数人よつて食べられ
る大きなものですから、それを家庭の食
卓に用ひられるやう型を小さくして特製
したのが、今回本会十周年記念として
贈呈する鍋です。
資料その1
 材料(五人前分)
羊肉(肩又股肉)約百五十匁
醤油五勺、食塩少量、日本酒少量、
洒葱盃一杯、七味唐辛子少量、
胡麻油一勺
 準備 丼の中に醤油、日本酒、七味
唐辛子及葉葱を木口切りにして、布巾に
包んでよく揉み、其のまゝ水に洒らし、
更に其の水を絞つたものを入れて薬味を
作り、其の中に鋤き焼肉のやうに薄く切
つた、羊肉を約十分間浸して置きます。
 方法 羊肉を浸している間に、一方で
は七輪に炭火をおこして食卓に載せ、火
が落ちついて来た時成吉思鍋をかけて、
すつかり熱くなつてから肉が焦げ付かぬ
やうに、其の上に胡麻油を塗つて、箸で
肉を広げつゝ、鍋に載せ肉の周囲の縁が
色褪せて来たら、裏返して焼きあげ、す
ぐ其のまゝ熱いところを召し上ります。
 注意 焼き肉を度々裏返して、焼くと
切角美味しい汁が、火の中に落ちて、味
が低下します。附け焼きのやうに度々浸
け汁をかける事も禁物です。浸け汁が、甘
いやうでしたら、食塩で加減いたします。
 又浸け汁の中に、味淋や砂糖を入れま
すと反つて味が濃くなりますから、羊肉
のお料理には砂糖を用ひない方が、悧巧
なやり方です。これは一名烤羊肉かうやんろうともい
ひ少し凝て参りますと炭火の中に川楊又
は青松菜などを時々さし入れて、その煙
で肉を燻しますと一段の風味を添、又胡
麻油の代りに小蝦仁油チャーシンユを塗りますと、本
来の支那料理となる訳です。
 羊肉の代りに、蝦、烏賊、蛤などが
最も適し、貝類、鶏肉、兎肉、白身の魚、
葱などは之に次ぎ、其他の肉、魚でもこ
の方法で美味しく召し上がれます。

(6) ジンギスカン-なべ[成吉思汗鍋]
           山田政平

 ジンギスカン-なべ[成吉思汗鍋]/支那料理。本名羊烤肉ヤンカオロー(yang-kao-jio)=烤羊肉カオヤンロー(kao-yang-jiu)。鍋トイツテモ鍋ヲ使用スルワケデハナク,火又子フオユーツ (huo-yu-tzu)トテ鐵串又ハ金網ヲ爐ノ上ニ渡シ,焚火或ハ炭火ノ上デ直接ニ羊肉ノ片ヲ付焼ニシテ食ベル極メテ原始的美味ナ料理。秋冬ノ候ガ最モヨク,必ズ屋外デ行ヒ,コノ料理ハ回々回フイフイ教徒ガ最モ巧デアル。抑モ此名ハ上記ノ羊烤肉ヤンカオローニ対シテ,邦人ガ好事的ニツケタモノデ,其人ト時トハ詳デナイガ,恐ラク大正ノ始頃ニハ未ダナカツタ名デアル。北平ペイピン正陽樓チヨンヤンロウ龍海居ルンハイチユイ華芳園フアフアンユアン 等ハ此料理デ廣ク邦人間ニ知ラレテヰル。又飯店フアンテン等ガ営業的ニ使用スル火又子フオユーツハ陣笠様ノ形ヲシタ鐵板ニ徑6分位ノ穴ヲ無數ニ穿チ,或ハ外縁ヲ少シ残シテ中ニ幅二三分ノ竝行セル十數條ノ切込(穴)ヲ作ツタモノヲ,縁ヲ下ニシテ爐ニ被セ,其上デ肉ヲ焼キナガラ食ベル。近年此火又子ガ市販セラレル樣ニナリ,今デハガスニ使用シ得ルモノサヘ現レ,火又子其物ヲジンギスカン鍋トイフ樣ナ傾向モアル。〔山田(政)〕

(7) 成吉斯汗料理
           今枝折夫

<略>――まづ鉄鍋があつて、その中に火を拵へその上に、何といふか、鍋の底がロストルのやうになつた別の鍋を、うつぶせに覆せる。つまり表面は、剣術のお面のやうになる。その鉄格子の上に乗せて肉を焙るのだ。
 ――火は、何だ。
 ――薪炭共に、特に樹脂の多いものを用ひる。北平に於ては、松材を使用してゐるが、松の根炭が、最適だといはれてゐる。一般には、牛馬糞の乾燥したものが佳いとも謂ふ。これは、肉に移る薫味に、他の燃料の追随を許さぬものがあるといふのだが、どうだい。
 ――成吉斯汗は調味料が相当むつかしいといふネ。
 ――ウン、材料としては、紹興酒、蝦油或は蟹油、醤油、分葱、芹菜(支那セロリー)或は葱が必要で、蒜、大蒜を加味することもある。初め紹興酒と蝦油又は蟹油を、予め適宜に混合して十五分乃至二十分間軽煮した上、これを冷却させて置く。つまり特殊のソースが出來るわけだ。
 ――何だか美味さうだな。
 ――そこで、前に話した鉄格子鍋の熱するのを待つて、まづ脂肪をその面に塗つて置き、今のソースに醤油を加へ、嗜好によつて芹菜又は葱などのきざんだものを入れ、主客自ら之に羊肉を浸し、その鉄格子の上で表裏を返しながら焙いて喰べる。肉類は何でもさうだが、半焼程度が、味の大乗といふことである。<略>

(8) 大東京色とりどり評判記(一)
           山本栄三

<略> 大衆的と云へは品料理の五
十番。こゝは名物だけに安価に
うまく食はせる。こゝの経営に
かゝる雷門松屋前のレストラン
五十番はヂンギスカン料理を勿
驚たつた五十銭で食はせてゐる
が大衆達は其の存在を知らない
のだが知つておれば一度は試み
るであらう。<略>
 昭和11年の(1)は食通社の名古屋支社が1月25日に開いた初の試食会でジンギスカンを食べたという報告です。場所は名古屋市小市場町の後引屋別館、参加会員は12人だったので、帰りには市内有名商店より寄贈の清酒、ビール、食品、伊志井寬の色紙などお土産が風呂敷一杯になったとあります。
 (2)は「復刻『江戸と東京』」で載っていた浅草の支那料理店五十番の記事です。「支那料理の生の元祖」というのは、大正13年開店以来、干物を水で戻して作るのが常識だったのに、経営者宮沢浜次郎が毎朝、魚河岸に出かけて材料を仕入れ、それを使って料理を作るよう命じた。最初料理人たちは「そんなことは料理法にないから」と拒んだが、生の材料を使った支那料理のうまさが客を集めて連日満員。乾物戻しはどこへやら1日300円から500円の売り上げる有名店になった(80)のです。
 (3)は「明治屋食品辞典」の羊肉の項からです。「編者のことば」によると明治屋東京支店が昭和5年ごろに出した価格表を元に作ったそうだが、396品の解説が載っています。略語を多用しているが、マトンの項関係の引用書略語解は「木下=木下謙次朗:美味求真(大正十四年50版)〔大正十四年〕。」と「後藤=後藤朝太郎:支那料理通(昭和五年)。」と「大谷=大谷光瑞:食(昭和六年3版)。」の2件が入っています。
 (4)は夏目一拳著「子供にきかせる蒙古の話」からです。夏目は蒙古人の羊肉の食べ方は生肉を使う「成吉斯汗焼肉」のほか、石焼きにして塩を付け天日で干した「成吉斯汗乾肉」(81)塩と唐辛子と一緒に漬け込み保存が利くようにした「成吉思汗漬肉」(82)の3通りがあると書いている。漬肉はそのままか、水洗いするす、焼いて食べるそうで、夏目は焼いた漬肉を御馳走になったことがあるが、辛いのには閉口したそうです。
 (5)は社会学者の圓谷弘の「支那の測量」です。この測量は土木用語ではなくて、昭和10年に会議出席のため中国に渡り、1カ月掛けて北京から洛陽、漢口、上海を観察して得た社会学的レポートという意味です。この本の第3編は「満洲・台湾」と題して昭和8年に3週間、満洲各地の視察した報告になっています。それで「満洲民族構成の原基的民族は蒙古族であると云ふことを、人種的に、或は文化型態の上に、その具体的な姿を各處に見ることが出来た。<略>奥地に行くに従って蒙古民族の顔の形になり支那漢民族の顔と異なっていく。奉天いまの瀋陽にある「北陵の墓碑の文字も満洲文字と漢文字と蒙古文字の三つに書かれてゐて、蒙古、満洲、漢の各文化が存在したことを示してゐる。(83)」と書いています。
 また圓谷の漢民族の北方進出により「漢民族の生活型態たる農村型態が満洲地域に侵入し、その結果遊牧型態を主とする満蒙民族は奥地に去り、或は漢民族と混血して満蒙の各所に存在するに至つたのである。この事は満洲文化の残存形態によつて明らかに認識し得るのである。(84)」という論旨はだね、我がジンパ学の見出した満蒙型の鍋と焜炉の形態が、北京のそれらと違うという事実からも支持し得るものであります。オホン、オホン。
 地理学者の飯塚浩二は昭和20年5月の蒙古旅行中、乾し肉料理を食べたそうだ。「大鍋で作られた食事は、羊の乾肉を塩味に煮たポタージュで、はるさめみたいなものや馬鈴薯がいっしょに煮込んである。馬鈴薯をつかうのは本来モンゴルの風習ではなく、彼らが満系から学んだものだという。このポタージュは脂肪分が多く、肉は乾肉のせいか、われわれ日系にはあまり向かないが、羊肉特有の臭味はほとんどない。単純なお料理だが、うまい。勧められるままに私は腹一杯喰べた。」(85)」というのですが、これは夏目の乾し肉と圓谷の漢民族の北方進出にまたがる証拠でもあるよね。
 (6)の杉村楚人冠がジンギスカンを食べたのは昭和9年ですが、本の発行年でここに入れました。御料牧場に詳しい成田市の山本佳典さんによると、公式記録では御料牧場でジンギスカンを食べたのは昭和15年だが、杉村のように非公式に振る舞われたこともあったのでしょう」と語る。三里塚御料牧場記念館には座敷で使う麻雀卓みたいに、鉄板に4本の鉄製の足を付けたジンギスカン用鉄板があります。私はその写真を撮りたいのですが、千葉県教委の許可を得なければ駄目といわれ、写真は持っていません。
 (7)は昭和11年のジンギスカンなので、60年余り後に出た「八紘学園七十年史」から抜き出して、ここに入れました。
 なにしろ道内初の大演習でね、天皇陛下が札幌にお出でになり、陸軍2万5000人余の将兵が苫小牧側からの南軍と道央からの北軍に分かれ、島松付近で遭遇する攻防でした。それに伴う式典などの行事参加や費用支出で札幌市民には負担となったけれど、八紘学園には陸海9大将にジンギスカンを振る舞ったという栄光をもたらしたのです。
 (8)の鷲田稲作は何をしていた人物かわかりませんが、掲載誌「新天地」の本社は大連だったことと、ジンギスカンの話の後に満鉄経営の大連ヤマトホテルのジンギスカンのレシピを書いていることから満鉄社員だったかも知れません。
 記事につけたレシピはホテル直伝風、さらに「用具 鍋を裏返しにした様な鉄串鍋、箸―竹製(長さ二尺以上)儀礼的の際は腰に細身の小刀を垂らし烤肉を切るに使用する。」(86)など燃料、食べ方、酒まで解説しています。
  (9)は善隣協会調査部長村田孜郎の「風雲蒙古」からです。私は芥川龍之介の「支那游記」を読み、烤羊肉が出てこないことを確めただけでしたが、同書の冒頭「埠頭の外へ出たと思ふと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我我を包囲した。我我とは社の村田君、友住君、国際通信社のジョオンズ君並に私の四人である。」(87)の村田君が大阪毎日新聞学芸部員の芥川と同じ大阪毎日上海支局の村田孜郎(88)だったのです。
 また村田は「風雲蒙古」15編のうち6編は「善隣協会調査部後藤冨男君の筆になるもの」(89)とあるので調べたら、同協会はモンゴルの調査研究組織で、村田は設立当時の部次長、後藤は部員(90)でした。引用した「馬奶酒」は後藤論文の「蒙古人気質」の一部です。
 村田は2代目部長を務めた後、東京日日、読売新聞などに勤め、北京外国語大学の秦剛氏の論文によると、昭和20年、朝日上海特派員須田禎一(後に道新論説委員)に看取られて上海で亡くなりました。(91)
 (10)は東京の成吉思莊が昭和11年4月に開店して間もなく作ったと見られる宣伝パンフレットからです。福岡大所蔵の「松井家文書」でも「昭和十一年四月」であり開店日は書いてない。成吉思莊はお客に肉は焼かせず女中が焼いて差し上げる店でした。北京式に肉を切りタレを作るだけなら、わざわざ「中華国より聘したる一流の料理師」でなくてもよさそうなものだよね。このパンフレットにはCMだけでなく、ご飯と新香付きマトン料理だけでなく、点心数品とか鯉入り6品の献立の案内も書いてあります。
昭和11年
(1)第一回試食会成吉思汗鍋
           食通社名古屋支社

<略>それに名酒大黒正宗が出
される頃支社長加藤文酔氏が開会の挨拶を述
べる。文酔の紹介で後引屋主人不破氏か立た
れ「成吉思汗鍋」に就いて説明がある。伊藤
治郎左衛門氏が蒙古に旅行された時この料理
を試食され以来同氏の借智恵で設備も非常に
面白く開業されたのが現在の「成吉思汗鍋」
だとのこと、この鍋の特色は羊の肉がどれ程
美味しいかといふ事を試食させるに有る、普
通は羊、シヤモ、アイガモ、の肉を混定する
のであるが特にトンの肉を交ぜて頂く。鍋の
準備が出来ると六人づゝ交換に初めてもらふ
名酒忠勇が今度はコツプに酌がれる。羊の肉
がかくも美味しいかを初めて知つて頂くお方
や、設備の面白いのに感心して居られる方々
も見受けられる。<略>

(2) 大東京色とり/\゛評判記【三】
           山本栄三

<略> 支那料理の生の元祖で知られ
てゐる五十番の出店、松屋前の
レストラント五十番では、二三
年前からヂンギスカン料理をた
つた五十銭と云ふ安価で奉仕し
てゐるが、それは聞きつけたの
が、講談社の野間清治氏。態々
社員を使はして、食味を試みさ
せた処、成る程これなら宣伝価
値ありとして、お手盛りの雑誌
に紹介記事を書くことになつた
とか云ふ話だが、大衆的な社会
奉仕の徳とでも云ふのであらう
<略>

(3) マツトン
           山本千代喜

マツトン (英)Mutton
ムートン (仏)Mouton
 羊肉。ヒツジニク。羊(sheep)の肉。
<略> 周代の八珍の中に炮豚、炮羊があり、又膏羶
(羊の脂肪)を料理に用ひ、又六畜六牲の中に
数へられてゐる〔周官〕〔木下〕。
 支那に於ても回教徒によつて羊肉料理が発達
し、回々料理がある。
 現時、北京料理中の烤羊肉(カオヤンロー)
(羊の附焼き)は最も美味で、北京正陽門外の
肉舗のは成吉斯汗料理とも云ひ邦人に持て囃
されてゐる〔後藤〕〔大谷〕〔食道楽昭和六年四
月号吉井藤兵衛氏・支那料理夜話〕。<略>
 羊肉の供給は、明治四十年、始めて松方(正
義)公が自分の牧場の羊肉を東京市赤坂溜池の
松井平五郎氏に依頼して一般に販売したのが国
産羊肉の嚆矢。大十三年頃から農林省も松井
氏を指定して売拡めさせ斡旋してゐる〔同書〕。
 従来、我が西洋料理屋(茲では東洋軒)では
羊は上海から取寄せてゐたので、羊肉の献立は
半月前に注文を受けないと間に合わなかつたと
〔糧友会編―羊肉の話〕。<略>

(4) 成吉斯汗焼肉(成吉斯汗鍋)
               夏目一拳

<略>粟や高粱や麦や麺粉は煮焚きをするのに大きな鍋や釜を持つて歩かねばならないが、羊の肉は鍋や釜などは要らないのであります。それなら如何して食べるかと云ふに、先づ露天でも何處でゞも火を焚いて石を熱く焼いて置いて、羊の肉を切つて其焼けた石へ肉をピタ/\と五六回叩きつけ、丁度、程好く焼けた頃に塩を附けて食べるのであります。
 今でも、蒙古へ行くと羊の肉を初め水に入れて平板の焼石に叩きつけ、又、水に入れては焼石に叩きつけ五六回してから塩をつけて食べます、それを水烤羊肉(スイカオヤンロオ)と云ふてなか/\美味しいものであります。それが稍々文化の進んが蒙古人や支那人は、石を用ひずに鐵鍋を用ひて料理する様に成つて、成吉斯汗鍋と云ふ様になつたのであります。これが成吉斯汗鍋の始めであります。北平や天津や日本や満洲などに有る成吉斯汗料理や成吉斯汗鍋などとはすつかり違つたものであります。

(5) 駱駝と成吉思汗料理
            圓谷弘

<略>電通の北平支局長の案内でジンギスカン料理を食べに行つた。ジンギスカン鍋とかいふのは、近頃東京でも喰べさせる處があるやうだが、この北平のジンギスカン料理は特有な趣をもつてゐる。普通の支那料理屋の構造だが、家の中に中庭のやうなところがあつて、青天井の下に粗末なテーブルが長いべンチに囲まれ、中央には直経三尺位の鐵の炉があつて、その中で二尺位の松丸太が盛に黒い煙りを上げて燃えてゐる。この炉の上には荒い鐵の網が焼けてゐる。用意のどんぶりの中には晝間見た羊の群かどうか知らないが、眞赤な羊肉が純白な脂肉を付け、青い葱の刻み込まれたのと一緒になつて醤油に漬けてある。これを一尺以上もある長い箸ではさんで赤く焼けた鐵網の上に揚げて焙るのである。右手でこの箸を巧にあやつりながら肉を焼いて喰べる。立つて椅子の上に左足を乗せ、膝の上に左手の肘をついて、手先には強烈な焼酎が盃から口へ運ばれる。これがこのヂンギスカン料理の作法だそうであるが、極めて原始的で中々うまい。露天のこととて、冬になると雪のチラ/\する下で、じゆう! じゆう! と、松火に羊肉の脂をさらし、熱い奴を口に運ぶ。焼酎は胃袋の隅々まで焼き盡す……これは北平生活者でなければ味はへないといふのであるが、特徴のある料理だ。料理と云ふより、むしろ食べ方の方が適當であるかも知れない。<略>

(6) 羊の肉
            杉村楚人冠

 小春の空のうらゝかな日の光を浴びて、こゝ下総は三里塚御料牧場の草原の中で、同行十余人と羊の肉を焼いて食ふ。いはふやうなき心ののどかさである。
 草原の中に炭火を山のやうに起して、その上に方二尺五寸ばかりの鉄板を載せる。鉄板の熱くなつた頃を見計らつて、その上へ脂肪を一面に敷く。これを取り囲む面々は、手ン手に一皿づつの生肉を持つて来て、この鉄板の上に載せては焼き、焼いては食ふ。何某式ジンギスカン焼とかいふ。甚だ旨い。
 羊の肉は旨いものであるが、どうも一種の臭みがある。イギリスの羊だけはその臭みが少いと、かねてより聞いてゐた。ところが此の牧場の羊はちツとも臭くない。どうしてこんなに臭くないのかと、さながら臭いものをわざ/\食ひに来たやうな顔をして尋ねる人がある。『元来羊の臭いのはホルモンの分泌の爲なので、初から食用に供する筈の羊は、生れて間もなく去勢しておくから、臭くも何ともない。かういう去勢した羊をウェザーといひます』と教へられた。<略>
 一同羊を食つて皆一かどの学者になり果せて、こゝを引き上げた。帰りしなに一体この牧場は何年頃に出来たのかと尋ねたら、左様、何でも創設は文武天皇様の頃ださうですと聞かされて、一同又一つ学がふえた。(昭和九年十月)

(7) 陸軍大演習と学院
           八紘学園七十年史

 昭和一一年九月末、昭和天皇の来道をお迎えして陸軍特別大演習が石狩平野を舞台にして繰り広げられた。演習には陸軍の将官多数が視察のために来道したが、そのなかに学院評議員の菱刈隆陸軍大将も含まれていた。また海軍出身の財部理事長も陪席のため来道、学院に宿所を定めていた。菱刈隆大将はこれまで学院を訪問する機会がなかったため、財部理事長を通じて、来道を機に、自分の目で学院の実情を視察したいと申し出た。これを知った学院では菱刈大将のみでなく、来道した多くの将官にも学院の現状を紹介し、大規模農業と青年教育への理解を深めてもらおうと、財部理事長を通じて来道中の陸海軍の将官の学院への招待を申し出た。これに対して各将官が招待に応じ、大演習の合間の一〇月二日、前、元陸海軍大臣を含む、陸海軍の九大将が学院に会するという前代未聞の招待視察が実現した。<略>
 視察後は正午からテニスコートの中にしつらえた会場で九将官を歓迎する野宴が開かれた。会場では学院の独特の野天に火を焚いてのジンギスカン焼き、豚のさつま汁、赤飯や燕麦飯、農場特産の果実類が机いっぱいに並べられ、さらにビール会社から差し入れのビール樽も積み上げられ、余興には生徒らによる〝八紘相撲〟も登場して参会者一同、歓を尽くした。<略>

(8) 成吉思汗料理
            鷲田稻作

<略> ヂンギス汗鍋は英雄ヂンギス汗とは何の関
係もないやうである。最も代表的な蒙古料理
であるから、当時の風雲児ヂンギス汗も或は
好んで口にしたかも知れぬ、先年ハルピンで
ロシアに三十年もゐたさる露国通の案内で、
親切な説明つきのロシア料理を味つた時とき、
ある一碟の珍味はウラルの山地に狩猟に出て
露営の夢を結ぶ前、青空天井の下に団欒して
味ふ羊の料理だときかされたことがある。こ
れなどもヂンギス汗鍋と親類筋で野趣津々た
るもので、かつその味も捨て難かつた。
 この料理がヂンギス汗と関係ないにしても
これを吾等の英雄と結びつけて味覚以外の魅
力をつけることには賛成である。
 ヂンギスカン鍋(チヨンギスカン料理)と
いつては固より漢人や満蒙人には通じない、
本名は「烤羊肉(カオヤンロー)」。かうなつたら全く支那臭
くて平凡化して了まう。この料理は蒙古が本
場で満漢人間に擴まつたものだから、其間に
人様々の嗜好や材料の関係上幾多の変遷を経
て今日に至つたものであろう。これにヂンギ
スカン鍋と命名した英雄崇拝の本音を吹いた
日本人は須らくの脳味噌を絞つてこれを大成
し、代表的東洋料理として天下に売出すべし
である。<略>

(9) 馬奶酒
           後藤冨男

<略> やがて謁見が終わって一行が割り当てられた宿舎に帰ってしばらくすると大王から下されたのだと言って役人が長慶山脈探検1尺5寸のあろうかと思われる大きな楕円形の銀盆に羊のうで肉を山とつんで持つて来た。見ると、骨つきのまゝ、一尺ばかりにぶつた切つてうでてある。うづ高く盛つた上に中央に羊の頭を真黒にこがしてのせてある。頭の黒焼は勿論食べるのではなく、あなた方のために特に一頭屠りましたというしるしで、最高の賓客に対する礼ださうだ。
 その食べ方は、骨つきの奴を鷲づかみにしてかぶりついてもよい。大概は蒙古刀といつて刃渡り五寸位の短刀を持つてゐるから、左手に肉を持つて、右手で器用にそれで食べるのである。肉をきれいに取つてしまふと、骨を蒙古刀の峯でポンと二つに折つて、中の髄を吸ふ。これが頗る滋養のあるものださうだ。肉塊を二つも片づけると満腹する。勿論これが主食物で、米の飯のお菜といふわけではない。
 羊の肉は初めてのものには一種独特の臭があつて、食べにくいが、慣れゝば非常に美味い。料理の仕方は幾通りとなくあり、北平の正陽門外に専門の店もあり、東安市場の潤明楼あたりの烤羊肉――所謂成吉思汗鍋――も有名ではあるが、何といつても蒙古で食べるうで肉の味にはかなはない。所謂米の飯で、十日食べても二十日続けてもあきが来ない。<略>

(10) 日本で初めての純北京式
      マトン料理御案内
 
弊莊開設の成吉思汗焼料理は
幸ひ多大の御好評をいたゞきまして日毎に厚き御引
立を蒙り居ります段只管御礼を申上げます。就きま
しては此度御客様よりの御励めもありまして従来の
お座敷マトンビフテキ
成吉思汗焼き料理の外
 純北京式
  マトン料理を併せて
  御賞味頂く事になりました
 マトン料理は何れも純北京式
 料理法に依り
 季節向き献立を以て………
 日本人の嗜好に適するやう且
 つ栄養本位に調理いたして御
 座いますゆへ御婦人方御子供
 様にも極めて心持よく召上れ
 ます。
緬羊肉マトンは最も高尚な料理としてその高雅な風味は昔か
ら人々に膾炙されてゐます。料理史を繙いてみまして
緬羊肉マトンは常に高貴なる饗宴の王座を占めて居ります
緬羊肉マトンは滋養の点から申しましても、まづ肉質は柔軟
でしかも繊維が細くて粗でありますから消化に良く蛋
白質を多量に含み鉱物質も比較的多く、肝腎のビタミ
ンA、B、C、も豊富にもつて居ります。単なる食堂の
三昧今境ばかりでなく老幼並びに病者の食には無くてな
らなぬものであります。
緬羊肉独特の高雅な風味と今回新に中華国より聘した
る一流の料理師に依り献立の粋を是非/\御批評願ひ
ます。
 昭和12年の(1)は昭和10年から3年続けての浅草の大衆料理店五十番の記事です。「支那料理『五十番』猛烈な繁昌振りはどうだ。こゝは何でも分量が多い。二階の座敷が好きだつたが、どうも此頃は扱ひが悪くなつた。ちとお値段は張るが、その点では筋向ひの『上海亭』の方がよろしい。」(92)と添田唖蝉坊が「浅草底流記」に書いている。そしてね、この2軒にすっかり客を奪われた老舗「『来々軒』は昔の繁盛をしのぶよすがもない。流行の犠牲、気の毒である。」(93)と同情してました。
 (2)はは糧秣本廠の川島四郎3等主計正が書いた「羊肉食と蒙古人」からです。5章に分かれていて「成吉思汗鍋」の章もあるが「主食としての羊肉」の味付け問答が秀逸なので、こっちにしました。
 作家なのに料理店も開いた本山荻舟が、昭和33年に出した「食物事典」の「ジンギスカン料理」にこの羊肉の水煮問答を入れている。川島の名は伏せて軍の食糧研究家とし、モンゴル人が羊肉は水煮で食べる理由を尋ねたら、インテリ青年に「私たちは羊が常食だから味をつけない。日本だって米は平素は水で煮るだけではないか」といわれ、二の句が出なかった―と、頂きしているよ。
 引用しなかった「成吉思汗鍋」には、彼等が決して生の肉を焼いて食べないのは、食べると「咽喉が渇く、水はないから――あつても僅かであるから、咽喉が渇くといふことは恐ろしいのである。であるからみな水炊である。猶蒙古人はこの様に羊肉食の他に乳と茶を盛んに飲む。」(94)と説明してます。
昭和12年
(1) 大東京色とりどり評判記(十)
           山本栄三
 
<略> 珍らしい料理と云へば、浅草
ピカ一のヂンギスカン料理、雷
門松屋前のレストラント五十番
で、この珍らしい料理をたつた
テブ(五十銭)で食しせてゐる。
雪の降る今日此の頃、雪を見な
がらこいつを食ふことが流行し
てゐる。満洲へ行つた気持ちで
猟奇を欲する人は、五十銭を投
じて見ることだ。<略>

(2) 主食としての羊肉
           川島四郎

 羊をどしどし食ふものであるから丁
度日本で飯を食ふと同じやうに女も羊
を殺せば男も殺す。
 我々が動物を殺す様な悪びれた気持
で居つたら年がら年中悪びれて居なけ
ればならぬが、向ふの方では慣れ切つ
てしまつて大根の尻尾を切る様な積り
で羊の頭を切つて、巧な面白い方法で
皮を剥いで料理をします。
 その大事な一つしかない食物である
羊の肉をどんな風にして食つて居るか
といふ必らず判で捺した様に水炊きで
ある。決して味を付けない。明けても
くれても水炊きして食つてゐる。日本
だと肉を見ると、すぐすき焼きにした
り、コロッケにしたり、ビフテキにした
りして色々な味を附けてやるが、向ふ
は羊を水炊きにして食つてゐる。
 最初行つた時何故さういう風にする
のか。私にはわからなかつた。私はい
ろいろの粉末調味料を持つてゐたか
ら、蒙古人にこれと一緒に煑て食へと
いつた。悦んで食ふが、続けて使はぬ
何故お前達はそんな水臭い水炊きにす
るのかといふと、普通の蒙古人は自分
でやつてゐることが説明出来ない。所
が二回目に行つた時に話のわかる蒙古
人に逢つた所、私の疑問に一言のもと
に答へてくれた。
『あなたの国だつて味があるかないか
分らぬあの米を水炊きにして毎日食つ
てゐるぢやないか』といつた。
 これには私はギヤフンと参つた次第
である。
 主食といふものは毎日食ふものであ
るから、味をつけてはならぬといふこ
とが蒙古人の食物をみて本当に分つた
次第である。とにかく日本人は肉を見
ると、それを副食の様に思つて惣菜と
して味を附けようとする。飽くまでも
肉を副食と見てゐるからであつて、蒙
古人の羊は我々の米と同じである。
 昭和13年を見ると、まず「文芸春秋」1月号の「風物支那に遊ぶ座談会」ですね。出席者はいわゆる支那通揃いだが、ジンギスカンにかけては中野江漢の独壇場。皆、中野が「食道楽」に「成吉思汗料理の話」を書いたことを知っているから拝聴してますね。中野の「この家の宣伝をするやうだけれども」の「この家」は私の講義では〝濱町濱の家〟としているこの会場の〝濱のや〟です。
 このころの出版統計が見つからないので正確ではないが、松崎天民の「食道楽」より「文芸春秋」の発行部数は、遙かに多かったはずだから、この座談会の記事によって鷲沢・井上命名説は、さらに広がったでしょう。
 (2)は「緬羊と其飼ひ方」を書いた山田喜平の「肉羊の話」です。山田は本省から月寒の農林省種羊場に転勤してからも東京赤坂の緬羊肉問屋松井商店との接触を保ち、羊肉販売情報を得ていたのですね。だから昭和7年に滝川の種羊場分場が道庁種羊場に移管され、山田はその場長になっても東京の羊肉販売とジンギスカン料理店の近況を、堂々と古巣の「緬羊彙報」に書けたらしい。
 また山田は「緬羊技術の指導誌」として昭和10年から道庁種羊場独自の「緬羊彙報」を発行し、いち早く松井式ジンギスカン鍋と焜炉一式を導入、緬羊実習生の料理実習だけでなく、狸小路の焼き鳥店「横綱」でジンギスカン試食会でも、その鍋を使って調理法の指導をしたといわれるが、まだ確実な証拠は見つかっていません。
 (3)は石敢當の「支那雑談」からです。石敢當こと石原秋朗は大正9年拓大卒、外務省在天津総領事館外務書記生などを経て昭和3年、満鉄に入社(95)。昭和7年に菊池寛、直木三十五、横光利一、佐佐木茂策、池谷信三郎の社員5人が満鉄招待で満洲視察に出かけた際、世話役を務めた。満鉄系列で中国北部の鉄道とバスを運営する華北交通が設立され、石原は副参事として移籍、北京に住んおり、昭和16年、中国へ旅行した俳人高浜年尾は北京で京劇の案内役を務めた石原を「川柳で有名な石原沙人」(96)と「思ひ出づるまゝに」に書いています。
 石原は「この料理にジンギスカンの名を持つて来たのは、数十年前の順天時報社長亀井陸良氏であると云ひ或は民国初期頃の北京日本人記者団仲間で誰いふとなく流行り出したと云ひ、諸説紛々として定め難いが。要するに、蒙古から起つたというところから、蒙古稀代の英雄成吉思汗の壮快なりし当時を聯想し、日本男児式豪快趣味に依つてかくは名づけられたものであらう。それは兎に角として、これをジンギスカン鍋というのは感心しない。鍋と云ふ言葉に全然あてはまらないからである。鍋にあらざる一種の金網で焼くのであるから、をかしいのである。むしろこれはジンギスカン焼と云つた方が適切だと小生は思ふ。」(97)と付け加えています。
 だが石原は昭和35年に出した「くすぐり人生」では、亀井命名説を書いているのはどういうわけかね。同じ書き手を2度登場させたくないが、本当だからそれも取り上げましょう。
 (4)は我農生という筆名で雑誌などに評論を書いたりした農業指導者、山崎延吉の日記からです。文中の「後引おでん屋」とは昭和11年に食通名古屋支社が成吉思汗鍋試食会を開いた後引屋でしょう。
 水土里ネット明治用水というホームページ(98)によれば、山崎は東京帝大農科大学出身で福島県の養蚕学校はじめ農業学校の教師を勤め、明治34年愛知県立農林学校長に就任した。退職後も農民教育に努め、引用した昭和年6月の日記によると、朝鮮南部の学校視察や陸軍病院での講演をしており、9日に帰国、名古屋のすぐそばの安城の自宅に戻ったとろこでした。
 (5)は「北支・蒙疆現勢 昭和十三年度版」の七夕の項からです。北京の本場にある通信社が「烤羊肉はその昔蒙古の勇将ジンギスカンが陣中にて食べた料理として有名である。」なんて書くから皆、蒙古民族は羊肉を焼いて食べると信じちゃうよね。
昭和13年
(1) 成吉思汗料理
           井上謙吉
           井上紅梅
           小口五郎
           島津四十郎
           竹内夏積
           中野江漢
           波多野乾一
           村松梢風
           山縣初男
 
<略>中野 この家の宣伝をするやうだけれども、
 こゝの成吉思汗料理は支那には普通にある
 料理です。唯あれを一番初めに名前を付け
 たのが鷲沢與四二と井上君です。如何にも
 成吉思汗が砂漠で食ひさうな料理だといふ
 ので成吉思汗料理と名付けた。それから支
 那人の間にも成吉思汗料理といふことにな
 ってしまつたんですね。北京の食物の本を
 持つてゐるが、それの中に「日人の命する
 所」とちやんと書いてありますよ。それを
 日本に一番最初持つて来たのが僕なんです
 よ。それから僕がこゝの主人に勧めたら、
 わざ/\北京へ行つて正陽楼の道具を買つ
 て来た。テーブルから腰掛、あのたれは錦
 州から出る蝦の油に大蒜や何か入れるので
 すが、そういふのも向ふから買つて来た。
 楊枝も向ふの長い楊枝、焼酒も向ふの焼酒
 を持つて来て、この家は物干を応用してや
 つてゐる。最初試食をしたのが喜多村緑郎
 松崎天民、久保田万太郎、それに僕でした。
 まふ成吉思汗料理はこゝが元祖なんです。
島津 それは楊ですか。あの油煙で臭味が取
 れるのでせう。
中野 油煙を滲み込ませるんですね。
島津 成吉思汗料理は実にうまいですよ。
井上(謙)あれは雪が降る頃こんな小さな椅
 子に腰掛けて……。
中野 あれに腰掛けてはいけない。片足をか
 うやつて、さうして肉を食べながら焼酒を
 飲むんですよ。
山縣 羊もいゝですね。
中野 羊も時期があつて、その時期の外はい
 けない。
井上(謙) さうして終ひに葱に味噌を付けて
 やらんと気分が出ない。
中野 どうもあれを食べ過ぎてはいかんです
 ね。あれを食べ過ぎて流産した人がある。
島津 向ての店は汚いけれども、あそこはい
 ゝ所がある。<略>

 (2)肉羊の話
           山田生

<略>△販路は依然として外国大公使館、外人ホテル、外人家庭、
一流西洋料理店等を主とし上肉殊に仔羊肉が喜ばれるが、
最近大小カフエー、食堂等に於ても流行的に羊肉を用ふる
やうになり、之は寧ろ品質如何よりも廉価物の注文が多く
又輓近羊肉専門料理成吉思汗鍋の開店せらるゝものがあつ
て、之が売行日を逐つて盛んとなり松井店主の談に依れば
現に松井肉店直営のもの二ケ所あるが其の繁盛の状況より
すれば未だ数軒を東京市内に開店するとも有望なりと曰へ
り。
△日本人家庭にても成吉思汗鍋を試みるもの増加しつゝあ
つて、往年羊肉料理宣伝は各種の料理につき行へるものな
れども、今は羊肉と云へば成吉思汗鍋を聯想し、成吉思汗
料理がインテリ階級に牛鍋以上の好評を博しつつあること
は面白い現象である。昭和三年自分が欧米を一巡して本邦
人の趣味嗜好よりすれば羊肉宣伝も御座敷料理ならざれば
普及すべからざることを痛感し乍ら、成吉思汗鍋が煙立つ
為に御座敷料理に不適なりと思ひ、何か適当なるものをと
サラダオイル煮、味醂煮等を考へたることあれども、成吉
思汗鍋の味と其の名称の魅力に到底及ぶべくもなく、今や
専門店は座敷の構造を改善してまで漸く世に行はれんとし
つつあり。<略>

(3) 「料理」
           石敢當

<略> 先年東京築地の濱の家で売出してから、ジンギスカン料理(或は鍋)といふのが俄かに日本人に知られて來たが、これは全く日本人だけのもので、支那にも蒙古にもジンギスカン料理なんて、壮快な名を持つたものはありはしない。勿論そんな名前が無いだけで、料理は前述の烤羊肉であるから正真正銘の北京料理の一大名物、大にあり就中正陽楼のものが有名である。
 この料理は蒙古から伝はつたもので、蒙古の或地方では珍客があると、包(蒙古人の天幕式住宅)の外に火を起して鉄器をかけ、羊や牛の肉を焼いてもてなしをする。これは甚だ原始的なもので味つけも塩を用ふる程度に過ぎない。北京の烤羊肉は、これから変化したもので、肉を焼くにも、立派な形をした鉄製の金網を用ひ、味つけには醤油の中に、葱、香菜、胡麻油、醤豆腐、生薑等の複雑且つ贅沢なものを用ひる。これの正式の食べ方は、野天に火を起し、金網をかけて、その廻りに木馬様の腰掛け(トンヅと称す)を置き、片足を腰掛けの上にかけて、自分の箸で、肉片を掴んで焼きながら、前述の味をつけたをつけて食べる。若し左手に酒杯を持つなら中味は焼酒に限る。さうして、此の際雪でもチラ/\降つて來て雪片が金網にかゝりシユツ/\と音を立てると云ふ趣向にでもなれば、まさに超々特作、満点以上である。<略>

(4) 農村旅行漫録
           我農生 山崎延吉
 
 六月十日 帰宅、大羽君全快祝
<略>今夕、名古屋の後引おでん別館にて小峯大羽氏の負傷全
快祝をするから出席して呉れと山田君より手紙が来て居
る。大羽氏の全快祝後引独自成吉思汗鍋で羊肉料理で
あるとの事で、それに引かれて行く気になり四時汽車で出
名、後引おでん屋に入るや山田君が来会、次いで堀尾君、三
木種畜場長、梁瀬下山村長、大羽氏、観光課長の歌人浅野
氏、相生君、寺田君が次で来り、互に奇遇を喜むだ。名古
屋には羊肉料理は後引おでん屋に限り、此処には成吉思汗
鍋も用意してあるとの事で、僕は始めて羊肉の成吉思汗鍋
料理を味つたのであるが、肉は下山より提供さん、腕は後
引主人の熟練である為めか想像以上に美味であるに、一同
は好評を等しくした。養羊は国策であるが、毛丈けでは面
白くない、羊肉の需要を拡めねばならぬとの説が出て、諸
君の間に一つ会を作らうとの意見も述べられたのは、山田
君の期待するところであるので、同君の喜は大したものであつ
た。<略>

(5) 七夕
           「北支・蒙疆現勢 昭和十三年度版」

 七夕(旧七月七日)
 この日を俗に「七月七」又は「巧節」とも言ひ天河の東に住む天帝の女「織女」が孜々として、 機を織つてゐるのを憐み、河西に牛の養つてゐる「牽牛」の許に嫁がせたところが、「織女」は急に仕事をしなくなつたので、天帝の怒に触れ仲を割かれて河東に移され、七夕の日だけ一年に一回夫に会ふことを許されたという伝説がある。<略>
 この頃になると名物の烤羊肉(ジンギスカン鍋)涮羊肉(火鍋子)を料理店で売り出す。烤羊肉はその昔蒙古の勇将ジンギスカンが陣中にて食べた料理として有名である。羊の肉をダシ汁に浸し薪を燃やした大きな鉄火鉢にのせた鉄網で焼くのであるが、野趣満々とした気分に浸り乍ら何とも云へない風味を喫するのは筆紙に尽し難く二、三斤は忽ち食べて了まう。涮羊肉はよせ鍋の真中に炭火を入れる筒があり、この廻りに水を入れ沸騰した時に羊肉と一緒に乾蝦や白菜、海鼠等を煮て胡麻油、味噌、韮のすりつぶしたもの、唐辛、醋などを混ぜた汁でまぶして食べるのであるが烤羊肉とは又変つた味があり前者と共に邦人間にも盛んに賞美せられてゐる。
 昭和14年の(1)は永く第三及び大阪両高校(旧制)で永く地理を教えた藤田元春教授の本からです。藤田教授は大正3年に60日余の中国調査旅行をしており、このいささか怪しいジンギスカンのくだりは、この時に知った現地情報に基づくものかも知れません。
 藤田教授の当時の授業は実に楽しかったようで「反撥心の旺盛な旧制高校生の琴線に触れていることができた講義とは、一体どんな内容のものであったのだろうか。生徒たちは氏の名前の『モトハル』をもじって『ヨタハル』という愛称を奉っていた。自由奔放 、嘘かまことか、ひとを煙に巻く名人だったからである。」(99)と地理学者の海野一隆氏は書いています。このジンギスカンもその類いかもね。
 (2)は舞踊家石井漠の「皇軍慰問北支から中支へ」からです。石井率いる一行10人は昭和13年10月末からほぼ2カ月、先ず満洲で20回ほど舞踊会を開き、それから北京に着いた。そこで偽の石井漠が先に来ていて、舞踊研究所を開くと建物を借りようとしており、北支那に石井漠一行が2組きていることを知った(100)というのです。
 結局、本物の石井は偽石井に会わなかったそうだが、本物の一行は北京公演のあと、靑島、上海、南京などを廻り計57回、日本兵士を慰問する舞踊会を開いたと書いてあります。
 (3)は劇作家長谷川時雨の妹で画家の長谷川春子によるスケッチ付きのルポといえる「北支蒙疆戦線」からです。駆逐艦に便乗中に書いているという「後記」によると、大阪毎日と雑誌改造の特別通信員として昭和12年10月から年末にかけ中国北部などの戦線を歩き廻り「各新聞紙雑誌へ書いたのを今度大体まとめて一冊の本にすることにした」(101)とあります。
 (4)は戦後、運輸省から東海大教授に転じた須田皖次が「昭和十三年九月から昭和十四年四月まで」「気象屋又は地理学徒として北支蒙彊の各地を旅行、支那の自然と人とを見聞」し「両者の間に驚く可き密接不離な関係があるのを示す面白い事実」を雑誌「地理学」に連載した(102)。それをまとめた「洋車」からです。
 (5)は画家池田さぶろが蒙古と支那事変で日本軍が占領し地域で見た風物や現地人の生活を描いた説明付き漫画です。絵の中の壁に書いたような形の説明は烤羊肉カオヤンロウといふ。高粱酒と蒜の甘漬(タンソアス=糖蒜)を添へて片足は椅子に一寸勇壮な喰べ方だ。原田新吉氏十五皿を平ぐ。」(103)と書いてあります。
 脱線ですが、昭和15年、蒙古連合政府の牧業試験場長として赴任した元月寒収種羊場長岡本正行は「蒙疆の畜産」に「張家口では華賓楼と云ふ家は、最も有名な成吉思汗料理店で他にも二・三軒あるが、何れも毎日大入満員で予め部室を予約して置かなければ、門前払を喰はされる事がある。 昔は一皿(約三十匁)問十二・三銭であつたそうだが、今日では既に二倍以上になつて居る。併しもともと安いのであるから一人で三円以上食べる事は一寸無理な状況である。」(104)と書いた。資料その2の池田の絵が個室で、しかも凝ったテーブルなので、もしかすると、その華賓楼なのかも知れないね。
資料その2
 (6)は北京で2年間、中国文学を研究してきた奥野信太郎による「燕京食譜」からです。奥野は「跋」に「わたくしは事変一年前から事変一年後にかけて、全く坩堝のなかに暮したといつてよい。その当時から見れば、今日の北京は、更に似ても似つかない程改変されてしまつた。その著しい変貌は現在もなほ活発に続けられつつある。町も人も駆足で変りつつある。」(105)と書いたが、いまの中国は駆け足どころか新幹線みたいな早さで変わり、奥野が書き残した「あの当時」の北京の面影なんか完全に消失したでしょう。この「燕京食譜」は昭和15年に第一書房から出した「随筆北京」に収められており、同書は国会図書館デジタルコレクションで読めます。
 (7)は画家梅原竜三郎が戦前、6回北京を訪れて絵を描きました。これは初めて行った昭和14年の日記なので、ここに加えました。気の向くままか、1行開けを多用して書かれており、7日と10日、10日と11日の間を1行開けで区別するとしても34行900字になるので、ジンギスカンを書いた行の直前の行だけにしました。日記に出てくる料理店の名前は30店あり、絵を描く傍ら、日々中国料理を満喫したのですね。日記は「北京四十二日夢の如し。天壇は雲と飛ぶ。紅楼可憐なり、毛世来叉然り。」(106)と結んでいます。
 (8)は旧満洲国の首都新京で発行されていた満洲新聞の記事です。新京で初めてジンギスカンを始めた精養軒はじめジンギスカンを出す料理店は、なぜか急送相手の新京日日新聞にばっかり広告を出している。それで満洲新聞は飲食店の広告が少ない分を記事で一気に補うことしにしたのか、昭和14年12月27日と28日の2回、ジンギスカンの由来から焼き方までの解説を掲載したので、その1回目の後半を取り入れました。
 (9)は「中央公論」の昭和14年1月号から連載していた「北京だより」からです。常連執筆者の島一郎は、ジンギスカンについて「私自身の好みから言へば、烤羊肉の烤羊肉たる本来の味はひは、むしろ、秋か冬へかけての埃立つ寒き街頭にあるのではないかと思つてゐる。たとへば哈達門の外とか天橋とか、東四牌の大街とか、さうした人通り多き露天で、朔風胡塵を吹くといつたやうな光景のなかに立ちながら、燃立つ焔に頬を赤らめ、『白干児』と呼ばれてゐる鋭い焼酎を含みつゝ、ぢつと、脂をしたゝらす肉の山と睨みつくらしてゐるところに何とも言へない情緒があるのではあるまいか!」(107)というあたり、北京在住歴の永い人物であることは確かでしょう。
 (10)は藤田近二著「戦場絵日記 藤田軍医少佐遺稿」からです。藤田軍医大尉は昭和12年8月に出征、中国戦線で従軍しながら絵日記を書き続けたそうです。同13年11月27日の日記に「ブリキ板を火の上に置いて豚肉を焼く。ジー/\脂が出てすぐやける。実にうまい。西部戦線のカチンスキー君を想ひ出す。彼氏は鵞鳥だつたが、当方は豚だ。何れの戦闘も同じ事。東西変らざるものと見ゆる。 色々とよく似て居る出来事が多い。」とある。
 Geminiによると、カチンスキーは映画「西部戦線異状なし」に出でくるベテラン兵士で、塹壕でで鵞鳥を捕まえて食べるそうだ。もしかすると藤田軍医はこの後、焼肉はジンギスカンと呼ぶことにしたのかも知れません。
昭和14年
(1) 二 畜牧
           藤田元春

 漢代の記録を見ると 黄河の中原は五穀六畜に富むとある。六畜とは牛・馬・羊・豚・狗・鶏の家畜・家禽を総称した語である。古へは祭事に家畜を供して犠牲とした。所謂太牢といへば牛一匹の大きなのを殺したまゝ供へることであり、少牢といへば羊又は豚を丸のまゝで机に載せて出すのである。だから北支では、民家到る所にかうした六畜を飼つてゐるのを見受けるが、家の軒などに黒豚を見かけたり、北京の町の中で山羊などの餌をあさるのを見受けても、牧場といふやうなものはない。<略>
 羊も蒙古・青海・山西・甘粛・西蔵に多い。羊毛の品質は佳良といへないが、包頭と張家口に集中する。蒙古では毛よりも主として羊乳と羊肉とを需要する。羊頭を掲げて狗肉を売るものも多い。羊肉を炙つて生焼の血の滴るのに塩をつけて食ふのを、成吉思汗ジンギスカン料理などといふ位である。豚は河北・河南到る所で見るが、支那料理は何といつても豚であり、江南のそれはその味最も美はしい。淅江の金華、雲南の宣威産の醃豚はその名最も高い。豚の毛は之を集めてブラッシュにする。四川・湖南・山東等から出る額は、民国二十一年、豚毛だけでも七百万圓にのぼつた。<略>

(2) 成吉思汗鍋と東安市場
           石井漠

<略> 再会を約して大使館を出た私は、東安市場に入らうとすると、偶然にも家の連中に出会つたので、名物の成吉思汗鍋の約束を果たす為めに、例の東来軒のうす汚い階段を登つた。
 三階に行くと顔馴染のボーイは、真っ黒に煤ぼけた、窓の抜けた屋上の室に案内された。其処には腰の高さの薪竈のやうなものが並べられて、その上に真つ黒な鉄の棒が中高に並べられてあつた。薪火がメラ/\と赤い焔を吐いて燃えさかつてゐる。その上に韮汁をぬりつけた羊の肉を焼きながら食べるのであるが、その前には古ぼけた椅子の様な台が周囲に置かれてあるが、この上に片足をのせて立食をする豪壮なさまは、たしかに成吉思汗鍋をはづかしめないものである。
 一行七人が満腹になつても、代金は僅か五円足らずの支払ひに過ぎないと云ふことも、東京では到底想像の出来ないことである。
 この料理屋は、相当大きな構へであるが、これも東安市場の一部分であることは、支那でなければ到底見ることも、考へることも出来ないことゝ思はれる。<略>

(3) 北支戦時の味覚
           長谷川春子

<略> 北京では前門外の有名な正陽楼の羊肉を度々御馳走になつたが、此所は例の成吉思汗で羊肉を鉄網でじうじう焼いて食べさせる。客たちは別房で先づ一杯やつてから順番に中庭へ出て烈火の上の鉄網で肉を焼いて散々食べて又自分の座敷へ引き上げて飲み食ひを続ける。その炭が特別なもので何だか藤の根こを燻ぶらしたようなものだ。寒い零下何度でも肉を食べる時だけ中庭へ引つぱり出されるのだつた。大へん流行る店で格もよささうだが、座敷のあちこちを覗くと日本人連れが多く、西洋人も来てゐる。すこしインタアナショナルになりすぎてしまつている。<略>

(4) 羊の味噌汁
           須田晥次

<略>昨年十一月二十日内蒙の阿巴嘎アパツカで御馳走になつた羊の味噌汁の味だけは今でも忘れられない。それは防寒帽と防寒服に身を固めて張家口から多倫ドロン経由阿巴嘎に飛行した時である。<略>善隣協会(蒙古人の教化団体)の屋舎で珍らしくも石炭ストーブに当りながら、私達の爲めにわざわざ作つて下さつた羊の味噌汁を頂いた。余りおいしいので奨められるまゝに人前も憚らず三杯も平げた。気候が寒い事と味噌がおいしい事と羊肉の美味な事の三拍子が揃つたのでそんなにおいしかつたのかと思はれる。英国の下宿で、よく羊肉を食べさせられて不味いものだと思つて居つた筆者には、蒙古の羊肉の美味なのは一種の驚異であつた。聞くところによると蒙古では牛、馬、山羊、羊等の肉類の中で羊肉が一番美味だとの事である。羊は蒙古人の米に相当し、従つて長年月の間にうまい羊のみが残されるように人為的に淘汰された爲めか、土質や草質が羊の肉質に関係して居るのかも知れない。何れにしても羊肉のうまい事だけは事実だ。成吉思汗鍋と云ふ、羊肉を鉄板の上で焼いて食べる料理がある。此の料理は決して蒙古では流行つて居ないが、しかもそれに用ひる羊肉は蒙古産のものでないと本当の味はないとの事だ。<略>

(5) 北支蒙疆従軍画報
           池田さぶろ

 ぶざまな恰
好だが、これ
が本格的ぢん
ぎすかん鍋の
食ひ方ださう
だ。羊肉三皿
を平げると足
がくたびれる。
これはいくら食つても腹にもたれぬというから好だ。
蒙古人は野天でこいつをやるといふ。一ぺんやつてみ
たい。柳の炭を使ふと煙がたゝず、天井がすゝけない
から不思議だ。腹がへるとこいつを思ひ出す。

(6) 燕京食譜
           奥野信太郎

<略> 北京は古い都である。したがつてうまいも
のやの数もまた甚だ多い。なかでも冬の楽し
みの一つとしては、何はさておき羊の肉を挙
げなくてはなるまいが、羊の肉と云へば前門
外の正陽楼は余りにも有名である。暗い店に
這入ると、まづ多勢の男が慣れた手つきで刻
んでゐる羊肉の美しい鮮紅色が眼に沁みる。
寒い星空のもと、中庭の炉を囲んで片足を几
に載せておのがじし羊を焼いて食べる烤羊肉カオヤンロオ
は豪快な趣そのものといへよう。どうかする
とちらちら雪がふりはじめた晩など、外套の
襟を立てて渦まき上る烟と真紅な炎に対する
とき、長い箸をとつて肉片を焼く我身が、古
い世の咒術師の如くさへ思はれてくる。烤羊
肉に対して野菜鍋のなかに羊肉を入れて煑る
のを涮羊肉シヨアヤンロオと称する。これは煑すぎてはよく
ない。ほとんど洗ふ程度で引き上げ、数種類
の薬味を自分で好みに調合したものをつけて
食べる。羊の肉には不思議に紹興酒よりもパイ
乾児カルの方がよく合ふ。<略>

(7) 最初の北京
           梅原竜三郎

九月七日
<略>
今日は茶を携へた。天壇の空理想的に雲飛んで面白く、勇んでかく。やがて少し曇り、四時過ぎ帰館。それから手を入れて、やゝ悪しくしたか。

太田正雄君大原大同から帰つて来る。先きに四日と聞きしが、八日の間違ひであつた。
太田来る。羽室氏來る。太田去り二人にて歩いて東安市場に行き煙草かふ。西単宣武門近き牛肉烤の家に行けば満員品切れで退却。西来順にてヂンギスカン鍋を食ふ。下手ものなり。
<略>
九月十日
<略>
晝、羽室氏来る。今朝より風頗る強し。順明樓にて春餅食ふ。帰館、ひるね一時間する。天壇三十號に少しかゝる。

夕、羽黒氏、太田木のもく君その伴四人にてチエンメン正陽樓のヂンギスカン鍋食ふ。少し歩いて十時半頃帰館。
<略>
九月十一日
<略>
午前紙の門にかゝる。牛嶋氏を訪ふ。ジヤ/\゛めん食ひ、テレピン四つ(以上なし)買ひ帰り、ひるね一時間。天すばらしく晴れる。

天壇行の處、空模様と昨夜のヂンギスカンに腹悪くせし爲止む。惜しき気がする。
<略>

(8) 烤羊肉の味覚
           満洲新聞

  北   京では大抵の大きな
      北方支那料理屋に参
りますと烤羊肉はありますが、正
陽門外の正陽楼が一番美味しいと
されて居ります、最近新京では駅
前のヤマトホテルでもヂンギスカ
ン鍋として好評を博してゐる通り
美味しいは美味しいが真の烤羊肉
の味を味ふことが出来ないやうな
感じが致します、何故かと申しま
すならば、上品過ぎると申します
か、余りに日本人化し過ぎてゐる
からであります、それかといふて
粗野であればその気分が味へる
等といふて、テキやカツにするや
うな大きな厚い肉で、太い丸太の
長いまゝの葱を出されても、これ
又その味を味ふことが出来ません
新京でその味を味ふことず出来る
のは南広場附近にある厚徳福とい
ふ満人の支那料理屋があります、
厚徳福は北京が本店で、奉天にも
その支店がありますが、此処では
稍北京に似て真の肉の味合を味ふ
ことが出来ますが、味に尤も関係
ある薪木に注意せず、ビール箱を
壊して薪にしたやうなものを焚い
てゐるため、折角の烤羊肉の味覚
を臺なしにしてゐることゝ、今一
つにはその気分を味ふ連中ばかり
で、味の人がないためか、肉につ
ける醤油、所謂タレが辛過ぎる傾
向はあるが、あれならまあ/\と
いふ所でありませう、場所も悪い
からではあるが、あれを公園か野
ツ原にでも出して一献参つたら、
それこそ申分はなからう

(9) 北京だより
           島一郎

<略> もつともヂンギスカン料理といふのは、日
本人同志にのみ通用する言葉で、正しくは
烤羊肉カオヤンロウ』といふ。直径数尺の偉大な鉄製の
炉に、それに相当した偉大な鉄灸をかける。
日本で鉄灸と言へば大抵針がねで出来てゐて
おさんどんの手でしてさへ、容易にクニャク
ニャになるけれど、こちらのは、日本銀行の
金庫室に張つておいても気づかひないやうな
頑丈な鉄の棒で組立てられてゐる。燃料とし
ては『白木パイムー』と呼ばれてゐる柳の割木を用ふ
るが、それを炉にくべて火を点ずると、始め
のほどは樹脂ッ気のない白濁の煙があがり、
間もなく鉄灸の鉄の隙棒の間から、真ッ紅な
小蛇のやうに、メラ/\と焔が閃めく。その
時を待ちかねて、肉を山盛り、上にのせ、優
に一尺五六寸はあろうといふ長く太い箸で一
二分間ひつ掻きまはす……すると、もうそれ
で立派な焼肉となり、口に抛り込めるのだ。
世の中にこれほど簡単な料理もないものだろ
う。ヂンギスカン料理とは誰の命名か知らな
いけれど確かに思いつきである。
 今しがた言つたやうに、この料理では正陽
楼や東来順が有名であり、また之等の店はそ
れ/\蒙古に専属の牧場を有し、毎日夥しい
羊を屠つてゐるといふやうに、仕掛けもなか
なか大きい。自然有名でなり、従つて有名が
好きな日本人は勿論さういふ所へ押掛けて行
く。<略>

(10) 陣中日記
           藤田近二

 この地は福井部隊の激戦地隘口街敵陣地なり。
 前面の山又山は皆敵の壕にして、中央の山には敵の屍
多し。右手温泉先はトーチカ陣地なり。
 田圃の中に小川が流れて居る。温泉より来るものなり。
 朝より太陽がさし出したが、寒い事、冬が来た。金輪
峯には初雪だが、戦場の事とて誰も簾をかゝげる風流人
も居ない。
 午前中より明日の軍医団会のため将士各組に分れて
大わらはだ豕をとりに行くもの机をさがすもの竹を切つ
て盃酒つぎを造るもの、何分此の地で此の生活で大宴会
つくしをやらうと言ふのだから仲々大変な事だ。
 本日自宅より送つてくれた新聞二色のうち一色だけ目
を通す。
 豕のヂンギスカン焼きに舌づゝみを打つ。戦地は何ん
でも簡単だ。男所帯だ。此の生活で丸々と肥るとは全く
おかしな話だ。
        一三、一二、二一 於 温塘伝

 晴天、実に寒くなつて来た。
 年末で自宅の方も気せはしい事と思はれる。朝夕故郷
が思ひ出されるし、もう半年になつた亡妻のことが思ひ
出される。
 午後入浴に行く。当地には温泉があるので、実に其
点具合が良い。
 明日斉藤部隊長は来られるとの電話あり。雑務が多いの
で手紙を出す事も出来ない。
 夜隊長とヂンギスカン豕料理をやる。十時半頃休む。
 初氷り一夜々々の寒さかな
        一三、一二、二四

 晴天、暖かい日が続くが、廬山、黄龍山も毎日々々相
不変だ。小白大尉と午前一寸魚釣りに温泉下の小沼に行
き、十二三匹釣る。なまづを一匹小白氏が釣る。御腹の
工合も夜中三回で全く良くなつた様だ。非常に気持良し
小白氏に貰つた牛の肉でジンギスカン焼きをやる。しば
らく振りで甚だうまかつた。缶づめばかりではかなはぬ。
同氏午後帰る。布施部隊長殿の處より淵明物語りにて写
真をとりに下士以下兵三名来り、隣りの民家に宿泊す。
世話をしてやる。<略>
        一四、一、二一 於温塘伝
 昭和15年の(1)は「新制時文読本教授資料」、中学生向けの中国語の教科書「新制時文読本」を教える先生用の虎の巻だ。これはよかったが、3ヶ月早く出た生徒用の教科書「新制時文読本」に誤植があったらしい。本文の間違いはわからないが、少なくともジンギスカンの写真説明の「羊烤肉」と「烤羊肉」の違いはわかる。
 なぜこの本を取り上げたかというとね、東京にあった大東文化協会が昭和14年9月25日、いまいった「新制時文読本」と「新制時文読本教授資料」を揃えて発行した。ところが資料その3の如くジン鍋の写真説明が「羊烤肉」で、これは誤植とされたらしい。大正15年に出た山田政平著「素人に出来る支那料理」では「本當の名前は羊烤肉ヤンカオローと云ふ回々料理でありまして」とあり、完全な間違いではないと思うが、そのほか本文でも問題が生じたらしい。
資料その3
 それで大東文化協会では新学期に間に合うように3カ月後の昭和15年1月1日付で訂正再版の「新制時文読本」を発行した。訂正前の本、つまりこの写真説明の教科書は文部科学省内にある国立教育政策研究所の教育図書館にあり、コピーさせてもらえたので、資料その3にしました。北京の正陽楼の中庭に違いないが、炉を置く台が頑丈に作られていることがわかるね。
 また訂正再版本は東京王子の東京書籍株式会社の東書文庫にあるとわかったので、参上して重要文化財の同書を机上に置いて慎重に開き、写真説明の違いと「昭和十四年十二月二十八日訂正再版印刷」「昭和十五年一月一日訂正再版発行」という奥付を確認してきました。
 「烤羊肉」と訂正した方も見たいだろうが、頁をめくるのでさえ恐れ多い本だからね、コピーになんてとんでもない。だがね、私はね、ちょっと表に出しかねる別筋から得た訂正後のコピーも持っているよ、ふっふっふ。
 (2)は昭和3年から同14年まで月寒の農林省種羊場長(108)を務め、蒙古聯合自治政府牧業試験場長に転じた岡本正行による「蒙彊の畜産」からです。真ん中の省略した箇所は橋がないためトラックが浅瀬を渡ろうとして途中で立ち往生した。しかし、徳護衛のため対岸側からトラック2台の蒙古兵がきて人力で引き揚げた(109)という状況説明です。その次の「庭の十時頃…」は「夜の十時頃」の誤植でしょう。
 (3)は出征して旧満洲国を守る関東軍の一兵士が友人に送った近況です。一回の食事に羊を数頭使うような「本格的な蒙古料理」と聞かされたのは、皇帝ジンギスカンの食事伝説のような気がしますが、どうかな。手紙の後半はハイラルの料飲店の観察報告みたいな内容なので、この豊福さんとは、上方の趣味雑誌「食通」の印刷編輯兼発行人の豊福寬ですが、小川は同誌に時々寄稿していた小川野猿坊という通人かも知れません。
 (4)は成吉思汗料理の名付け親はお西さんの大谷光瑞だという養稼山人の「支那談片」です。言い直すと大谷は浄土真宗本願寺派第22世法主、養稼山人は元中国済南総領事で当時中国山東省政府顧問だった西田畊一です。
 食通でもあった大谷が命名したことが本当なら、ジンギスカンのことを本に書くとき成吉斯汗料理と書きそうなものだが、昭和10年の「支那料理」を読み返せばわかるように、彼は別に烤羊肉について成吉斯汗料理と名付けたとも書かず、ただ焼羊肉と書いているから、大谷命名説は怪しいといわざる得ません。
 西田山人の説明は面白いが冗漫で長い。それで大谷関係だけを引用したが、烤羊肉も含めて知りたい人は別置きの資料で読めるようにした。次の4字をクリックすれば「支那談片」へジャンプします。また向こうからのジャンプでこのページに戻る。
昭和15年
. (1) 中華民国風俗
           大東文化協会
<略>
中華民国風俗
葬送。 支那人は一回の葬式に財産の大半を費消して
 少しも惜しまず、三年の喪に服して無為徒食し、
 それを孝道だと考へてゐる。(本資料七十六頁参照)
戯筱ギセウ(漁家楽)。 支那の舞踊は餘り発達せず、動もす
 れば曲芸に類するものに堕する傾がある。手ぶり
 足取りの所作は、たゞ楽につれて歌に合はせるヂ
 ェスチュアに過ぎず、曲線の美もなく、歌意を表
 現する含蓄もない。
蒙古人。 蒙古人は、草原を追ふより外の事は知らな
 いが、今や漢民族の影響を受けて、或は定住して
 漢民族化し、或は包のまゝ聚落して漢民族化しよ
 うとしてゐる。医薬を知らなかつた彼等も、漢民
 族を通じて、草根木皮のみでない新薬を知つた。
 併し、やはり蒙古人だ、一抹精悍の気は町に出た
 彼等にも残存してゐる。
カウ羊肉(成吉思汗鍋ジンギスカンナベ)。 縞目形の鉄網を熱し、その上
 でアブつた羊肉に七種の薬味を入れて作つた汁をつ
 けて食ふおほまかな味には、蒙古人らしい原始的
 生活の臭がある、本式は、露天で生松の枝を焚い
 て羊肉を>烤るのであるが、近来は木炭を用ひるも
 のが多い。

(2) 蒙古人の衣食住
           岡本正行

<略> 筆者が渡蒙以来羊肉料理を最も賞味し、今なお思ひ出の種となつて居るのは「シラムレン」河畔に於ける野臭紛々たる羊肉料理である。夫れは昨年十一月徳王首席、郭王牧業総局長、泉名牧業副総局長、簡牛察哈爾盟参与官等の一行に加はつて百靈廟に於ける故雲王の忠霊塔落成式に列席した途中の出来事である。一行が自動車を連ねて早朝西蘇尼特の徳王府を出発し、蒙古の涯無き草原を疾駆して「シラムレン」廟(綏遠事件の際我が小浜大佐等約三十名蒙軍の寝返りに依り殉難せし処)の側近の「シラムレン」河にさしかゝつた、<略>匪賊の出没する四子部落附近を、夕刻「フルスピード」で通過して、庭の十時頃一行無事百靈廟 に着いた。此の自動車の引揚げ作業の終つた時、河畔の草原中で朔風をもの ともせず徳王府より持参の牛糞を燃やし、徳王の思ひ付きで彼自ら作つた渦巻き形の針金の網上で笹身の血の滴るが如き羊肉を焼き、遙か前方「シラムレン」丘上に聳え立つ小浜大佐等の殉難碑を眺めて同氏等の霊を追悼しながら焼肉と白酒(高粱酒)を食ひ且つ飲んで、暖をとり、腹をふくらかし、行先の無事を祈つたのであるが、之こそ真の成吉思汗料理で徳王首席等に対し大に敬意を表した。<略>

(3) ハイラル食信
           北満○○部隊  小川正之助

 豊福さん。
 呼倫草原の蒙都海拉爾での名物は何かと云ふに、そ
れは有名な羊肉料理ジンギスカン鍋と云ふことである
が、僕はとう/\お目にかゝらずにしまひました。そ
して普通に云はれてゐるジンギスカン料理と俗称され
てゐる羊肉料理にだゞ一度、海拉爾の街に映畫館のマ
ネージヤをしてゐる池田剛氏に案内されて蒙古人の家
(包でなく、普通の満人家屋に、しかも洋服を着てゐ
る近代的な蒙古人の家)へ行つて御馳走に預つた。な
べと云ふが、別に煮る訳でなく、羊の肉を丸い鍋を引
繰返したやうなものゝ上にのせて、焼いて食ふのであ
る。いろ/\の香味や調味を付けて食ふのであるが、
めづらしいと云ふだけで、旨いとは思はなかつた。人
によつては變つたものを珍重し、馬鹿にもてはやして
旨い、旨いと云ふものであるが、僕の様な常人の舌を
もつては、やはり牛肉のすきやきかビフテーキにま
さる肉料理はないと思つてゐる。
 しかし、本格的な蒙古料理と云ふものはとても豪華
なもので、食器は総て銀食器を用ひ、一度に羊を三頭
も四頭も擲るとの話であつた。もう/\と立上る獣肉
の焼ける臭ひと、烟りの中で、肉を喰ふ様を相像して
みるに、何となく殺伐なものを感じて食欲を減じてし
まふ様な氣がする。
 <略>メイ/\とやさしい聲でないてゐる羊をほう
る、断末の此の世にあらぬなき聲が耳について、どう
も日本人には戴きにくいものである。<略>

(4) 成吉斯汗料理の名称
           養稼山人

 正陽楼式の羊の鋤焼は、日本人間では二千年料理
とか、単に蒙古料理とか言ふが、此言葉は段々すたれ
て来て、近頃は成吉斯汗料理と言ふ名前が、専ら流行
つてゐる。此名前は、三十余年前ワシが北平にゐた当
時、たしか大谷光瑞さんが付けられた様に記憶してゐ
るが、今は、日本人間では総べて此名前で通つてゐる
ようだ。つまり大谷さんが成吉斯汗料理の名付親と言
ふことになる訳だな。然しこれは日本人が勝手につけ
た名前で支那語では『烤羊肉』と言つてゐる。日本で
も、今は東京あたりでやつてゐるが、日本人が此料理
を成吉斯汗料理と呼ぶのは北京から行つたのであらう
が、一面は往時を追懐してそう呼んでゐるのだ。成吉
斯汗料理はその名で分る通り元来蒙古の料理だ。蒙古
料理と言へば羊を湯釜の中でグヅグヅ焚いて食ふん
だ、そして食ふ時は小刀みたいなものを使ふが食べる
のは箸やフオークを持たずに手掴みで食べる。こゝら
が蒙古人が西洋人ばかりでなく、支那人、日本人とち
がつてゐるところだね。支那人や日本人には面の皮が
厚いと言ふ言葉があるが、蒙古人は面の皮よりも先づ
手の皮が厚くなくては、飯は、イヤ羊は食へないと言
ふことになつてゐる。
 昭和16年の(1)は邦字紙日布時事からです。書いたのはハワイにいた黑田慶整という坊さんです。前年の早春、北京で初めてジンギスカンを食べて、その野趣と美味に感心した話です。
 検索情報では日布時事元日号4面(110)にあるはずなのに見つからず、仕方なく1面ずつ丁寧に見ていったら、なかなか終わらない。それもその筈、元日号は3部構成でもなんと64面建てだったのです。黒田随筆はその第2部の4面、通して数えると50面にありましたが、羊肉を豚肉と間違えてますね。
 (2)は米田裕太郎の「支那百話」から、ジンギスカン、烤羊肉という単語のない箇所を抜き出しました。米田は東京外語大を出て満鉄に入り中国語を教え、大正11年の「支那語文法研究」を始め、多くの中国研究書を書きました。
 (3)は柯政和著「中国人の生活風景」からです。雑誌「北支那」昭和13年6月号の「柯政和氏を語る」によれば、氏は北京大、北京師範大教授で中華民国音楽教育界のナンバーワン。明治44年、上野音楽学校にに入り、大正7年、独文学研究のため上智大に学んだ。「氏の趣味は書籍の蒐集及び読書、並びに美味求真であるといふ」(111)から、料理解説はその蘊蓄の一端ですね。
 柯氏は親日家で「はしがき」に「日本の人々が中国と中国人に関して持つ知識は旅人の旅行記のやうに、あまりに奇異なものだけに止まつてゐる」「私は燃えあがる興亜の情熱に、あへて不自由な日本語をもつてこの著書にあたつたのです。」(112)とあります。
 脱線ですが、昭和14年に台湾新新民報の陳逢源経済部長が出した「新支那素描」に柯氏が登場します。それによると「杉山平助が曽て『主婦の友』に於て『支那人と結婚するな』という意見を発表したので、柯君は頗る憤慨し、直ちに同雑誌に反駁文を書いた程、それ程柯君の家庭は円満極まるものだ。私も東安市場の楼上にある支那料理に招ばれた時は、夫婦づれであつた。その前に私は柯君から天壇及び神農壇の見物に案内され、中食は正陽門外の正陽楼に於て烤羊肉と稱する緬羊焼と蟹料理の御馳走になつた事を今でも思ひ出す。二百年以上の老舗たる正陽樓の煤黑んだ中庭に於て、ジンギスカン鍋で緬羊肉の素焼を食べた時は流石にうまいものだと思つた。北京の烤羊肉は焼鴨と共に、旅行者の是非とも試みなければ話の種子にならない名物なのである。」(113)と、陳記者も途中から脱線してました。はっはっは。
 (4)は作家尾崎士郎が昭和16年に出した随筆集「関ヶ原」の「北京雑記」5篇の中にある「成吉思汗鍋」です。「現代国民文学全集(尾崎士郎集)」の年譜によると、尾崎は昭和14年「新潮社より歴史小説「成吉思汗」の執筆を依嘱され、その材料蒐集のため、十月、岡栄一郎と同道、満洲より北京に入り、包頭地区を踏査、黄河の流域を歩き、北京に帰る。」(114)の前後どちらかで食べたらしい。
 人間の成吉思汗については翌15年「<略>書きおろし歴史小説「成吉思汗」を新潮社より、短篇集『後雁』を河出書房より、『洋車の大将』、『関ケ原』を高山書院より、風刺短篇集『猫』を三笠書房より上梓す。」(115)となっているが、国会図書館デジタルコレクションの「関ヶの原」の奥付は「昭和十五年十二月二十八日印刷」だが、隣の発行日は「昭和十六年一月十六日」に訂正されています。
 (5)は「高浜年尾全集 第4巻」の「思ひ出づるまゝに」からです。俳人高尾年尾は太平洋戦争が始まる直前の昭和16年10月、中国青島を訪れたついでに北京見物もしたのです。
 文中の「火かけ」は里見弴が「満支一見」で「幅六分の鉄板を碁盤目に組み合わせてある」(116)と書いた焼き面ですね。その位置が「私には少し高すぎる感じ」とあるが、高浜は小樽高商在学中の大正10年、壮丁検査を受け身長は「五尺二寸三分」158センチだった(117)と書いている。私の調べでは同年の壮丁43万人の身長5尺2寸以上同3寸以下は27.1%、5尺1寸以上2寸以下は23.4%(118)だったから、特に小さいわけでもないのに、高浜は「私は中学生時代も小柄であった。」(119)と書いたほか、中学の同級だった劇作家の村山知義も小柄で「今でも小柄やうである」(120)と書いたあたり身長を気にする人だったらしい。
 衣城社長は正しくは徳光衣城で東亜日報の社長、高木健夫主筆はこの後の昭和18年の「北京横丁」を書いた高健子の本名です。この「思ひ出づるまゝに」は昭和31年から同46年まで俳誌「ホトトギス」に断続的に144回掲載されました。
 (6)は安藤更生編「北京案内記」のコラム「烤羊肉」です。これは無署名ですが、料理店及び調理を受け持った岩村成正によるとみます。この本は中国人も交えた専門家が分担して書いている。例えば京劇はいまいった高浜年尾を案内した石原巌徹、北京城及び観光地は石橋丑雄、年中行事は中島荒登、買い物の駆け引きは佐藤澄子というぐあいで、当時の北京について実に詳しく書いてあります。
 (7)は志賀直哉が奈良に住んでいたころの弟子、池田小菊の作品からです。池田は戦後、奈良の自宅で志賀はじめ6人のジンパを開き、志賀はそれを元に短編「怪談」を書き、昭和21年11月の函館新聞創刊号などに掲載されました。與太呂のジンギスカンの広告は「食道楽」などで見たことがあるが、牛肉ジンギスカンだったとは知らなかったね。
昭和16年
(1) 成吉思汗料理
           黑田慶整

約十ケ月前の事である。大急ぎの鮮滿北支一人旅の折
北京のみには妙に腰を落着けて五日間留まつたが、そ
の一日同窓の友T氏の案内で汚い小盗兒市場 シヨートルシーチヤンと云は
れ人間と豚とごつちやの埃だらけのテント街、然も恐
ろしく民衆的歓楽境の天橋テンチヤウを見ての歸途『一つ昼
食に珍料理を御馳走しやう』と連れて行かれたのが
前門チエンメンの繁華街の裏胡同を二三町入つた古びた薄汚い
老飯店である。石畳の中庭に三四基の異様な鉄爐が
並べられ先客がその廻りに寄つてゐる。些かしり込み
してゐる小生に、丁氏はいかにも手際よく支那人ボー
イの持つに來た豚肉の切れを韮の入つた出し汁に浸し
ては爐上に並べられた鉄棒の上にのせては轉がしてパ
ンに挟んでは喰べ乍ら『君此れが例の沙漠蒙古の生ん
だ不世出の英雄成吉思汗の世界征服の雄図に燃えて征
野万野の果に喫した野戦料理だと云はれてゐる。君支
那では汚いと思つたら一つも食べる物はないよ勇気を
出してやつてみよ』と勧められ恐ろしく長い木箸を不
器用に使つて頬ばつてみたが、実に野趣満々たるその
立食料理に然もその美味に恐れ入つて仕舞つたが、御
上品な畳の上の日本のスキ焼料理に比して、野天で大
きな鉄爐を前に立食の成吉思汗料理こそは実にこれ位
野趣に富んだ、豪傑的と云はうか、大陸型と云はうか
英雄的料理は他にあるまい【筆者は東本願寺別院開教
使】

(2)   支那の雪
           米田祐太郎

<略> 元旦に大雪が降ると、支那では嘉瑞として大悦びだが、それに就いて唐の長寿二年、元旦に大雪で、時の帝は文昌左丞姚壔に、昔からさう云ふことを言ひ伝へるが、どうして悦しいのかと下問された。
 所で姚は、雪は五穀の精で、その汁が種と和し、年穀大豊作であるのは疑こございませんと奏上した。と云はれて居るが、兎に角そんな事からわが国でも、自然と元旦の大雪を悦ぶ風習が伝つてきたのであらう。
 支那の雪の昔の事でも、今のことでも考へ出すと、火鍋子フオクオツ(寄せ鍋)と紹興酒シヤオシンチウのうまさを思ひ出し、粉雪の降る下に屋外で、炉ばたへ片足をかけた立姿で、焼き立ての羊肉を喰ふ、あの原始的な味など忍ばれる。

(3) 料理の種類
           柯政和

<略> 次に、材料と料理法によつて分類すれば、左の五種を挙げることが出来る。
 烤羊肉 羊肉を材料とする料理には烤羊肉と涮羊肉の二種がある。烤羊肉は羊肉を薄く切つて、葱・三ツ葉の入つてゐる醤油に漬けてから、鍋の上でてり焼するのである。鍋は上に幅一寸ほどの鉄板を少しづゝ中間を空けて渡してある。このやうな鍋を中庭に置いて、客は片足を腰掛の上にのせ、長い竹箸で羊肉を焼きながら食べるのである。この料理は野趣横溢で、秋から春にかけて喜ばれるものである。夏に向かないから停止する。一番よいのは極寒の時で、白干酒パイカンチユウの盃を傾けながら烤羊肉をつゝくと、実に何といはれない豪快な気持ちがする。これが日本でいふ「成吉斯汗料理」である。<略>
 烤羊肉と涮羊肉は、北京以外の地にもあるが、一番美味しいのは北京ださうだ。北京では「千猪万羊」といつて、豚を一千匹殺せば、羊は一万匹殺さねばならぬほど羊の需要が多いのである。従つて北京の羊肉料理は有名である。北京にある羊肉の料理屋は頗る多いが、大きい有名な店は正陽楼(前門外肉市)、東来順(東安市場)、西来順(西長安街)の三軒である。殊に正陽楼は歴史古く、成吉斯汗料理といへば正陽楼を連想し、正陽楼といへば成吉斯汗料理を思ひ出すほどである。<略>

(4) 成吉思汗鍋
           尾崎士郎

 私が満州から北京に入ったのは九月三十日で、次の日の
午後は早くも包頭に向かって出発していたが、その晩(九
月三十日)成吉思汗鍋が店をひらいたばかりだというの
で、私は久しぶりで会った八木沼丈夫、荒木章の両友に誘
われて前門外の、名前は忘れたが古色蒼然たる店へ入って
いった。鈍い電灯の灯かげの下で、幾つかに仕切られた部
屋の中は日本人の客が顔をならべている。鉄格子の鍋には
羊のあぶらが焦げついてつよく鼻を撲つにおいが一種異様
な野性を唆りたてる。どのテーブルも客で一杯なので、私
たちは入口の通路からすぐ右にそれたうす暗い部屋でお茶
を飲みながら待っていた。<略>
 席が出来たというボーイの知らせで私たちはすぐ立って
いったが、高粱酒を呷りながら喰う(というよりもむさぼ
る)羊の肉は私の食慾に快い調和をあたえた。私は五皿を
代え汗びっしょりになって元の部屋へもどってくると、
さっきの老人達はまだ同じ席にいて同じ速度で酒を飲み、
箸を動かしている。<略>

(5) 思ひ出づるまゝに 七十
           高浜年尾

<略> 夕方になってゐたので正陽門の近くの正陽楼飯店(?)
に行つてジンギスカンを食べた。それも東亜日報社長の
好意であつた。その店は特にジンギスカンの羊肉焼きの
設備を店の中庭に設けてあり、別室で酒盃を先づ挙げて
からその中庭に座を移した。胸の高さ位に大きな火釜を
置き、その上の円みのあるジンギスカン特有の鉄の火か
けを置いてあつた。私には少し高すぎる感じだったが、
用意された小皿の羊肉を幾皿も傍に置いて、長い箸で各
自が勝手に好きなだけ食べる仕組であつた。ここでは衣
城社長、高木健夫主筆も同席であつた。<略>

(6) 烤羊肉カオヤンロウ
           北京案内記

 世界一の北京の秋が來ると烤羊肉が始まる。空
が澄み切つて圧へつけても/\しつこく食欲が湧
き上つて來る。
「腹がへつたたあ、おい何か喰はうか」
友人と二人連れで、極く簡素に秋の味覚を味はう
ために王府井あたりでは東安市場に東來順、前
門外肉市に正陽楼、西単には、西來順の烤羊肉が、
待つてゐる。お茶を飲んで瓜子児を噛んで待つこ
としばし、やつと案内される。
 テーブルに置いた大鍋の様な炉の上の鐵の板
(この板は長い鐵棒を並べたものだ)の上に羊肉
と香菜を醤油に浸してのせる、ヂユツ、ヂユツ!
立つたまゝ片脚を椅子の上にのつつけ、一尺五寸
位の箸を持ち、つゝき廻したがら口に入れる。白
干児(焼酒)を飲む、焼餅をほほばる、羊肉の味、
酒の辛さ、これは口で言ふより引張つて行つて食
はせるに限る。
 日本人には豪華版に見へるこの肉の饗宴も食ひ
方の素朴さと同様案外安直なのである。一皿三十
七、八銭位、一人で五皿も喰へば充分たんのう出
來る。北京の秋の味覚は烤羊肉に止めをさす。日
本人はこれをヂンギス汗鍋と言ふが内地のそれと
は全然趣を異にしてゐる。

(7) 来年の春            池田小菊

<略> 泰子もいつもの場所にいつものやうに立つてゐた。
「〝或る夜の出来事〟よ」
 泰子は笑つて言ふ。これは古い写真で二人はもう前に見た。が、今は新しいのといへば半年も前から待たれた「舞踏会の手帖」がやつと見られただけで、そんな風に古いのがまた出るのを見るより仕方がない。
 それでも二人は若い者らしい浮き浮きした足取りで、いつものやうに地下鉄の乗り場へ人込みの雑踏をぬつてゆく。
 淀屋橋で降りる。少し歩いて與太呂といふてんぷら屋へはいる。この家は数年前蒙古料理がはやりだした当時、ジンギスカン鍋をたべさせるといふので裕子の家で叔母もいつしよに出かけたことがあつた。上等の牛肉をれんじになつた半円形の鉄鍋で焼いて、垂れをつけてたべるその料理はおいしかつた。こゝではてんぷらを塩でたべさせた。裕子はそれもはじめてだつたが、大根おろしよりか塩の方が甘味が出ておいしかつた。その後裕子のうちで真似をしててんぷらは塩になつた。さういうわけのある家で、若い女が二人ではいるのは少し気がひけたが、今日は裕子は何かとはめをはずしておごりたかつた。
 電話をかりて二人とも家へかける。
 食事をすませて、燈火管制明けの心斎橋を南街劇場の方へ歩く。電灯は節約でもこの時刻ここを散歩する群衆は事変以前にもましておびたゞしい。<略>
 昭和17年は満鉄が出した本「満洲風物帖」からです。これにも羊は「錦州省に最も多い」とありますが、このころ錦州省にいた私としては、炭坑町にいたせいもあるが、鮒釣りで通る幾つかの農家の部落でも羊は見た覚えがなく、豚肉のジンギスカンを食べていた。大正10年発行の「改新世界詳図」(121)を見て思うのだが、錦州省の西北側は満洲国が出来るまで東部内蒙古になっていて、敗戦後、私たちが避難した阜新という炭鉱の多い市は、東部内蒙古の熱河特別区内にあることなっているから、それより西側の人々が飼っていたのでしょう。
昭和17年
   支那料理の材料
           満鉄鉄道総局旅客課
 
 次に支那料理の主要な材料に就いて略述する。
 <略>
羊 肉ヤンロウ羊 肉ひつじにく、一種の臭味があるが柔くて美味である。満州では西南部錦洲省に最も多い。蒙古人や回教徒は盛んにこれを食ふ。
日本人間にヂンギスカン料理と云はれているのは烤羊肉カオヤンロウのことで、野外で松の木を焚いて鉄搘子で羊肉を焼いて食ふのである。
<略>
 支那料理の調理法は左の様に分けることが出来る。
<略>
烤―強火でぢかに焼くこと。
 烤蝦段えびのまるやき烤羊肉ひつじのやきにく烤鴨子かものまるやき
<略> 
 昭和18年の(1)はNHKテレビの大河ドラマの時代考証で知られた稲垣史生の本です。著者略歴によると稲垣は昭和15年に都新聞の記者として「満洲、北支、蒙彊を旅行す。」(122)とあり、このときの見聞を子供向けに書いたら「文部省・日本出版文化協会推薦」の「少国民文芸選」に選ばれました。
 昭和18年は太平洋戦争の真っ最中で、配給制で何肉でもたまにしか食べられなくなっており、無用の長物と化したジンギスカン鍋は兵器や弾丸を作るための金属供出で姿を消し、ほとんどの子供は知らないので、その構造を丁寧に説明したとみられます。このころ我がクラーク像も供出され、いまのクラークさんは戦後、作られた2代目ですよ。
 わがジンパ学では、こうした「縦に幾すぢも細長い穴のあいた鉄製」(123)の鍋を川型と分類し、ジン鍋博物館では懸命に探しているけど、川型はいまだに2枚しか見つからないのは、戦時中の金属供出のせいでしょう。
 (2)はね、いまいった「北京横丁」です。前バージョンの講義録「北京を訪れた人々の記憶に残る正陽楼」に高木健夫の「北京繁盛記」があるので、こっちはその10年後に書いた「中国よもやま話」にすれば、別の烤羊肉が使えるだろうと、古本を買ってみたら見事にハズレ。そこで彼が高健子のペンネームで書いた「北京横丁」を意地でも入れるぞと探したら、昭和18年に出た初版本2000部の1部が、相当くたびれているらしいが、1650円+送料300円で出ていたので買ってみました。
 さすが「烤羊肉」は2章あったが、片方は「北京繁盛記」とほぼ同文。違うところの1つは「旧都文物略」からの漢詩に「繁盛記」では「よきにおいのなかに たべるにもさほうがある かたあしをちにつけ かたあしをちいさなだいにのせ はしをもつてかまえる」(124)などと和訳を振り仮名みたいにつけていることと、大皿を意味する柈の字を拌(125)と誤植していることでした。
 もう1つは、ここでは略した「燕都小食品雑詠」の「濃煙薫得涕潜潜、柴火光中照酔顔。盤満生羶憑一炙、如斯嗜尚近夷蛮。」(126)について、この「横丁」では「お閑な方は、名訳をお考へ下さい。」だったが、戦後書いた「北京繁盛記」では「けむりにむせて涙をながす たき木の光りに浮ぶ酔顔 羊をあぶり平らげる さても酔興な夷真似。」(127)と、高健子の暇つぶしか和訳が付いています。
 私が本当に古い「北京横丁」を買った証拠としてね、120ページから121ページの間にある番号なし6ページにある千地琇弘画伯による挿絵12枚のうちの烤羊肉の絵を資料その4として見せましょう。東亜新報夕刊に連載されたのは、昭和15年7月から翌年秋にかけてですから、そのころは皆こういう中国服を着ていたのですね。
資料その4
 (3)は文芸誌「文学界」昭和18年4月号で発表された永井龍男の「手袋のかたつぽ」からです。「昭和十X年十一月一杯を、私は満洲国見学に費して、それから北京へ」(128)入って義兄に紹介されたXさんから東安市場にある料理店東来順に招かれ、成吉思汗鍋を御馳走になったくだりが、日本国語大辞典にで2度引用されてます。
 まず昭和47年に出た同辞典第2版の『ジンギスカン』で「*手袋のかたっぽ(1943)(永井龍男)「成吉思汗(ジンギスカン)鍋は東安市場(トンアンシーチャン)の屋上にあるのださうで」(129)と使われ、さらに平成18年に出た「精選版 日本国語大辞典」では「*手袋のかたっぽ(1943)(永井龍男)初「雪の中で烤羊肉(ジンギスカン)を御馳走しよう」((130)と使われました。
 でも「ジンギスカン料理」の説明は「満支一見(1931)(里見弴)成吉思汗料理「成吉思汗料理――そんな支那語があろう筈はなく、無論これは、その料理法なり、その場の情景から割出して、在留邦人の勝手につけた和名で」(131)に変わってる。この「満支一見」はね、さっきいった日国友の会に私が投稿した用例でね、同辞典第3巻709ページの「用例提供等」のリストに私の名前がある。本当だよ。ふっふっふ。
 (4)は羅信耀著、式場隆三郎訳「北京の市民」からです。原著は北京クロニクル(英字紙)の連載小説「THE ADVENTURES OF WU(The Life Cycle of a Peking Man)」で、昭和15年に北京を訪れた文化活動に熱心だった医師式場が興味を持ち、その英字紙の記者でもあった羅の協力を得て翻訳しました。
 今の北京の東四牌楼という住宅街に住む上流家庭の呉一家は秋のある日、夕食にジンギスカンを食べることになり、その準備と食べるところを引用したが、その前段として蒙古から何日も掛けて羊飼いが羊群を連れてくること、屠畜場がなかったころは料理店の店内に羊を引き入れ、回教の僧侶が祈ったあと羊をあの世送りをしていた時代もあった(132)と説明しています。
昭和18年
(1) 蒙古軍の強かったわけ
           稲垣史生

<略> また食物は時には野菜や果物、金持はうどんも食べるのですが、一般では主として肉を食べてゐます。普通に羊の肉は大人の掌の三倍ぐらゐの大きさに切り、骨も一緒に煮るか焼くかして食べます。日本のすき焼のやうに野菜を混ぜて食べるのではなく、腰につるしてゐるナイフを使つてほんたうに肉だけむしやむしやと食べるのです。これは大へんにおいしいものです。日本でもヂンギスカン鍋といふのが紹介されてゐますが、大体あれに近いものです。今のヂンギスカン鍋は、縦に幾すぢも細長い穴のあいた鉄製の鍋を火の上にうつ伏せにしてかけ、その上に肉の片をおいて焼きます。肉がぢゆくぢゆく焼けて来るところをナイフを使つて食べると実においしい。食事に使用するそのナイフのことを大げさですが蒙古刀といひます。
 成吉思汗がヨーロツパへ遠征した時、その軍隊は野戦料理として行く先々の獣をかうして食べたといひ、ヂンギスカン鍋の名前も出来たのださうです。このやうに簡単に食事が出来ることも遠征の場合に非常な助けになるわけで、本国から兵糧を運ぶ必要がありません。それに、蒙古人は大食に慣れ、一度食ひ溜めをすると数十時間平気でゐます。どうです。すべてが戦争におあつらへ向きに出来てゐる民族ではありませんか。<略>

(2) 烤羊肉(二)
           高健子

<略>ところで、どの本にも多かれ少なかれヨタといふものはあるもので、『舊都文物略』なども、北京人が羊を主食すると断定したあとに、そのたべ方はもつぱら烤羊肉カオヤンロウ一本槍であるかのごとき印象を抱かせるような記述を敢へてしてゐる。曰く、だ。
 八、九月の間、正陽楼の烤羊肉を都人士は最も重視する。盆に炭を熾し、鉄糸の罩をもつてこれを覆ひ、これに使ふ切肉には専門の技術家が当ることになつてゐる。この技術はもつぱら山西人の間に伝はつてゐて、刀を執るや目にもとまらぬ早業で羊肉を薄く切つて片つぱしから揃へてゆく。これをたべる時は(…と以下のたべ方はみなさまよく御存じであるから略すが…)馨香四溢、食者亦有姿勢、一足立地、一足踏小木几、持箸燎罩上、傍らに酒樽を列べ、且つ炙り且つ啖ふ。往々にして一人三十余柈を啖ふに至る。柈各肉四両を盛る、その量亦驚く可き也。<略>

(3) 手袋のかたつぽ
           永井龍男

<略> いまは、日本では殆んど見られなくなつた角刈りにした給仕達が、彼等の服の延びやかさもあつて、何処かひらりひらりとした感じで、卓から卓へ忙しく料理を運んで廻る。皿小鉢を、梅鉢の紋のやうに客の前へ竝べて行くのや、ながくて眞直ぐではない箸の、ざらざらと卓に置かれるのまでを、私はたのしく眺めた。
「私も、烤羊肉はこの冬初めてなので、御礼をいはれるどころではない。雪を見たらすぐ君を引張り出すことにしましたよ」
 Xさんが、ぽつりぽつりとした口調でさう云つた。
 給仕が迎へに来て三人立つた。廊下の突当りの扉を開くと、ちらちらと降る雪空の下の屋上に出た。鍋の下の仕掛は忘れて了つたが、成吉思汗鍋といふ鍋らしくない鍋は、直径一尺余の七輪のおとし、、、を炮焙を伏せたやうに中高にしたもので、赤々と火を透かせてゐた。帯の高さほどのこの鍋を囲んで、粗末な縁台が二三脚置いてある、これへ片足かけて出汁に浸した羊を焼くのが法だと聞いた。錫の小徳利に入れて、焼酒を添へてくる。ままごとに使ふやうな小さな杯で、合間合間に含むと、口中の脂が奇麗に消えた。<略>

(4) 秋來る
           羅信耀著
           式場隆三郎訳

<略> この料理に必要な本式の薬味を買ふのが老呉夫人の楽しみだつた。葱とかその他の野菜がすぐに支度された。薬味になくてはならぬものは醤油と、特種な砂糖に漬け蒜と滷蝦油(ルーシヤユ)である。この滷蝦油は肉に磯の風味をそへるので、大抵の家庭では好んで用そる。肉をつける汁は、各人の舌に合ふやう調味する。そして肉を焼く前にこれにひたしておく。軟らかな脚の肉は前日に註文して、その朝配達されたのだつた。若呉夫人は午前の半ばをかけて見事な手なみで肉を薄片に切つた。呉家の人人は、羊肉店では無料で切つてくれるのだが、商売人に切らせるのを好まなかつた。彼らは自分の手なみを見せるために、時にはあまり薄く切るので、素人が訳と真黒焦げになつてしまふからだつた。
  小呉が狼のやうに腹をすかして学校から帰つてきたときには、すつかり準備ができてゐた。すぐさま御馳走は非常な熱心さで始まつた。家族の者はひくい食卓のまはりに腰かけた。下の火には(ホー)家の田舎の屋敷から特別に選んで持つてきた上等の松葉がくべられた。松の木は肉に風味をつけるといふので、この料理に用ひられるのだつた。真赤に焼けた鉄炙に羊脂をぬつてから羊を焼くのだが、まるで小火山のやうな勢ひで煙が濛蒙と立つのだつた。一時間ほどは、だた夢中でみんなはたべてゐた。
 銘銘には肉は十分にあつたので、焼餅(胡麻かけのパン)と「牛舌頭餅」との他 は別に何も用意してなかつた。これらは角のさうした物の店から買つてきたものだつた。老呉には勿論、一本ついてゐた。
 昭和19年の(1)は哲学者木村素衛モトモリの「成吉思汗鍋」からです。教え子の東薫の「わが師 木村素衛」の年譜によると昭和17年10月20日から11月16日まで満洲と中国に出張(133)しているので、このときの体験でしょう。
 終戦から4カ月半、137日後に出版された木村の「日本文化発展のかたちについて」にある著者略歴に「明治二八年石川縣に生る。京大哲学科卒業。文学博士。現職京大教授。主なる著書、「独逸観念論の研究」弘文堂、「表現愛」岩波書店。」(134)とあり、翌年亡くなりました。(135)この「成吉思汗鍋」は木村素衛先生随筆集刊行会が昭和41年に出した「随筆集 草刈籠」(136)にも収められているが、僅かに加筆されていて、その違いを括弧内で示しました。
 (2)は小児科病院長の小林彰医師の本からです。自序によると昭和15年夏から秋にかけて満洲と中国を旅行した際の記録だそうです。中国の史書に精通した方だったようで、たとえば北京の文天祥祠を訪れて「文天祥は南宋の忠臣で元に捕へられ節を屈せず殺された事は誰れで知つて居やう。その正気のの歌は自分等の中学生の時分愛誦したものであるけれど、本場の支那では我々が昔感激した程偉らいとは思つてゐられないらしい。」(137)といった調子の旅行記です。
 駁頭をグーグルの中国語の繁字体で訳させると、ピアスと出るし、中国のホームページでは背広の襟、電線や管の接続部品の画像が出てきます。私は饅頭の誤植、蒸しパンのようなものとみております。
昭和19年
   成吉思汗鍋
           木村素衛

<略> その夜蒙彊政府の人達の晩餐
会に招かれた。そこで私は初め
て成吉思汗鍋と云ふものを見
た。暗い部屋に天井から小さな
灯が一つ下つてゐて、その下で
鍋を囲んで人達(人々)は立つたまゝそ
の周囲に円陣を作つた。鍋と云
つても、仰向けに水平にした軍
艦の探照燈を聯想させるやうな
形で、鉄の円筒の上部(上面)に僅かの
隙を持たせて一寸幅ほどの細長
い鉄板が張り並べてあり、その
下からめらめらと火が燃え上つ
てゐるのである。人々は突つ立
つたまゝ、火気から身を避ける
長い箸でもつて羊の肉をその鉄
板の上に投ずる。激しい音がし
て肉は見る間に焼ける。備へら
れた汁液にその肉をしたし、そ
の長大なる箸をもつて濛々(蒙々)たる
煙のなかでそれを喰ふのであ
る。強い酒がひききりなしに左
右から廻つて來る。暗い部屋に
巻きこもる煙のために薄暗い灯
は赤黒く曇つて、円陣の誰彼れ
が時々はつきり見えなくなる。
下から燃え上る紅蓮の焔の影に
肉を喰つて酒と火気とで上気し
た赤ら顔に眼ばかりが爛々と鋭
く輝く(――)。
 まるで山賊の宴会である。私
の腹もふくれ、私の血も熱く廻
つで來た。壁も隅も見え分かな
い深い暗黒のなかから、大蛇の
舌のやうな赤い焔にあふられて
人の顔がゆらゆらと動き出し
た。目の白玉に紅の火影がうつ
ゝて、大きな口がまた白い歯に
肉を食ひ千切る。<略>

(2) その十一
           小林彰

 東安市場といふのは日本でも有名 らしい。北京へ来た日本人は誰でも、此処で擬ひの支那翡翠を買つて、龍のついた紫檀の偽せ物の細工物を掴ませられて、岳飛の「忠孝」か、楓橋夜泊の詩の石刷を購入して支那土産と称するものらしい。<略>
 有名な烤羊肉はこの中にあつた。支那式灯籠に紙切れをぶら下げた様な料理屋の看板の下を潜つて狭い入口を入る。内は階段や廊下が、あつちこつちにあり何処にも机と腰掛が置いてあり、机があれば必ず支那人が腰掛けてゐて何か食べてゐる。給仕役の男の大坊主右往左往してゐる。
 通る路もない様な所をどうやら通り抜けて階段を昇り、屋上に出ると此処に御待兼ねの烤羊肉がある。
 大きな鉄の火鉢に薪を燃やし、喰ひ手は立つた儘火鉢台の周りに置いてある、足掛けに足をかけて喰ふ。焼板は直径三尺もあらうかと思ふ大きなものである。鉄線の太いのびつしり並べて止めたものである。この上に淡紅色の羊の肉を載せる。垂れは薄醤油みたいなものに何か青物を刻み込んだものである。
肉を焼く。そうして喰ふ。皮だけの駁頭を沢山もつてくる。肉を挟んで食ふためである。但し調度の清潔さを気にしては食へない。「もとは一皿七、八銭でしたよ」
 と連れて行つてくれた芳賀さんが云はれた。
 その日は天気であつたが二度目に先生や藤田君達と行つた時は生憎雨天であつた。勿論こんな料理だから、室内では煙くつて食へないので、屋上の露天に葭簀を張つて食はせるのだが、雨天のために火鉢の紫色の煙が低く這つて却々風情があつた。
 昭和20年は満洲で発行されていた文芸雑誌「芸文」3月号に掲載された満洲人の作家田瑯が書き、石田武夫が訳した「中国の印象」です。その「芸文」は東京の文芸春秋社が永井龍男、池島信平といった編集者を送って設立した雑誌社で、設立前後の事情は北村謙次郎が随筆集「北辺慕情記」(138)にあります。
 田の「中国の印象」は約3分の1が前年の昭和19年11月、南京で開かれた大東亜文学者大会(139)の満洲代表としての自分の発言はじめ、日本と中国代表の意見で、残る3分の2は北京などの視察、列車での見聞です。
 田は成吉思汗鍋にも触れているが、いくら本場の烤羊肉のタレにしても種類が多すぎるように思う。それでね、涮羊肉も成吉思汗料理とする例もあることから、同氏が食べたのは、そっちだったと見ます。
昭和20年
   中国の印象
           田瑯
        和訳 石田武夫

<略> 北京人といふ此の名詞は確かに或る類型へ
の説明だ。北京の骨董屋や古道具を商なふ露
店で造りの細かな青銅の阿片ランプを瞥見す
る事はさしたる難事ではないのだ。食道楽に
至つてはまさに極点に達してゐる。此処では
広東式の料理でも、福建式でも、四川式で
も、蘇州式でも、揚州式でも、或は北方むき
のものでもお好み次第だ。成吉思汗鍋一つに
してからが、胡麻の実をどろ/\に磨つたも
の、芥子の実を磨りつぶしたもの、蝦の油、
韮の花の塩漬、にんにくをつぶしたもの、醤
油、小麦粉をどろ/\にとかしたもの、胡麻
油、唐辛子を油に浸したもの、長年貯蔵した
上等の酢等十数種の調味料がある。人は云
ふ、北京は一個の深淵であると。何人たるを
問はず、一旦足を踏み込むと動きもとれず飛
び出す事もならない。思ふに人々は此処では
やす/\と欲望の虜となり官能の愉悦に惑溺
するに至るからであらう。<略>
 昭和20年8月15日、我々日本人は大東亜戦争と呼んでいましたが、力尽きた大日本帝国はポツダム宣言を受け入れて、アメリカなど4カ国に無条件降伏しました。日本内地は連合軍による占領、食糧難、戦争犯罪者裁判や追放、失業など大混乱しました。
 小学6年の私は南満洲の錦州省の炭鉱町にいました。敗戦直後、その町にいた我々日本人200人は中国人に追い出され、裸同然で2日歩き、阜新市の全邦人が避難していた収容所にたどりついた。阜新には占領軍としてソ連軍、中国の八路軍と国民軍の順で現れ、特にソ連兵は暴行や掠奪を繰り返し危なかった。
 日本人はほとんど失業、日雇いや露天商などで食いつなぎ、昭和21年6月、青森県の親父の生家に着くまで、なにか稼いで食うのがやっと、学校はなし勉強どころじゃない。だから私もそうだが、私より5歳年下の満洲引揚者の小学校卒は皆学歴詐称だよ。
 阜新の空き家に住み、やはり空き家の床板などを薪にして暖を取り、一冬越してから米軍の上陸用舟艇に乗せられ内地に戻りました。当時は食料難で何でも配給制、米の代わりに砂糖とかピーナツバターなんて、腹の足しにならないブツだったりしたこともあり、トウモロコシの粉ならパンになると喜んだものです。
 そんな世の中だった昭和21年、作家の志賀直哉は奈良の池田小菊宅で牛肉のジンギスカンとビールを御馳走になった。闇市で買ったらしい牛肉でも「私には何年振りかのジンギス汗焼である。」と、志賀は随筆「怪談」を書いたのです。
 昭和47年に出た「志賀直哉全集」7巻の「怪談」についての解説には「昭和二十一年(一九四六)十一月二十九日の北海道で出ている新聞に発表か。志賀家に残されている切抜きの末尾には『此話面白からず単行本には入れぬ方よし』『二十一年十月中旬大仁ホテルにて書く』とある。パラルビ。単行本には収められていない。新書判全集第十一巻にはじめて収録。その際、多くの修訂がなされた。」(140)とあったので、私が調べたら「北海道で出ている新聞」は3代目の函館新聞であり「昭和二十一年十一月二十九日」は創刊号を出した日だったのです。そのほか掲載は少し遅いが神奈川新聞など3紙にも掲載された。詳しくは前バージョンの講義録「里見弴の『満支一見』から志賀直哉の『怪談』まで」を読みなさい。
 それでね、今回は平成8年に出た「日本の名随筆 別巻64『怪談』」では、どう書いたか調べたら「収録作は一九四六年に発表されたもので当時六三歳。」(141)など7行の簡単な紹介でガッカリ。ともあれ志賀は北京・正陽楼で会得した「タレを付けてから焼く」食べ方にこだわっていたことがわかる作品です。
昭和21年
   怪談
           志賀直哉

<略>私には何年振りかのジンギス汗焼である。一座は六人、その一人の茶谷君が焼き方の順序を兎角、逆にするのを私は気にしてみてゐた。薬味を入れた醤油に肉を浸し、それを鉄網へのせるのが順なのを、茶谷君は肉を先に焼き、それから醤油をつけて食つてゐた。その方が好きで、さうするのか、うつかり、それをするのか、分らなかつたが私は「それは君、あべこべだよ。先にタレをつけて焼かなくちやあ」かう云つて注意すると、茶谷君は「あ、さうですか」と、一度鉄網にのせた肉をはがし、醤油をつけるが、少時すると、又しても、前と同じことをしてゐる。私は二度注意したが、それからはだまつてゐた。<略>
 その晩、――と、いつても、翌日明け方ではあるが、――私は妙な夢を見た。
 誰れだか分からないが、その人が死んで、お通夜のところだ。死骸の寝かしてある部屋の次の間で、五六人がジンギス汗焼をしている。故人がかね/\゛それが大変好きだつたので、故人を忍ぶといふやうなジンギス汗焼であつた。茶谷君ではなかつたが、中の一人に、茶谷君がやるやうに、醤油にひたさず焼く癖の人がゐた。暫らくすると「君々、それはあべこべだよ。先に醤油をつけなくちやあ」かういふ声が隣の部屋からした。
 愕然として、皆がその方を見ると、顔にかけてあつた白い布が一方へずれ、仰向いてゐる耳のそばには口中の綿の球が転がつてゐたといふ、かういふ怪談の夢だつた。――最後の綿の条は半分覚めかけて、作つてゐたやうだ。
 東京へ帰つて、私は食卓で、皆に此の話をして聴かした。そして「どうだ、一寸可恐いだらう」と言つたが、誰も可恐いと言つた者はなかつた。直吉だけが「うん、一寸よく出来てゐる」とほめてくれた。<略>
 まだ米の飯が満足に食べられたなかった昭和22年、作家の大田洋子はジンギスカンを語らせたり、しゃぶしゃぶという呼び方はなかったので水炊きといってますが、ケータリングを呼び、小径のある庭園で羊肉を食べるブルジョワ階級の情景を書いた。(1)はそれです。
 「文壇えんま帖」という本には「随分、派手な存在であつた大田洋子さん。この人も、づつと同じ調子の続かない人で、起伏の多い作家である。一時は、田舎に帰つていたが、再び上京して、また新しい方面に活動を始め、往年の洋子さんの存在を示している。大田さんは、中本さんなどと共に、もう十五年近くも、作家としての生命を保つている点は、どこか底力をもつた実力もあろうと思われる。(142)」と気楽なことを書いていますが、山本健吉によれば「広島で原詩爆弾投下にあい、九死に一生を得、その後は原爆の悲惨を主題として『屍の街』『人間襤褸』『残醜点々』『半人間』『夕凪の街と人と』など、数々の作品(143)」があり、PHP文庫の「原爆の落ちた日」は「屍の街」、「人間襤褸」、「半人間」の3冊を参考文献(144)に挙げています。
 (2)は昭和18年のところで紹介した羅信耀著、式場隆三郎訳「北京の市民」を少年少女向きにダイジェストした「大空の鳩笛」です。その式場隆三郎と英文学者飯島淳秀の2人によって出来たのがこの本です。  ここでは羊料理としている烤羊肉は、大して費用のかかるものではないが、手数がかかるから、北京でも家庭ではそうちょいちょい作る料理ではなかったそうです。
 (3)は画家野口義恵の「北京の味」からです。女子栄養大学が公開している雑誌「栄養と料理」のデジタルアーカイブスの掲載誌には、浴衣、下駄履きの男2人が露店の烤羊肉を食べている豪快な絵が付いているので男の画家らしくもあり、核桃肉という飲み物を注文するのに「この日本のレデイの望み」とあり、どっちかよくわからなかった。それで検索したら「図書館と県民の集い埼玉 2012」というページに野口義恵は女子美術学校(現・女子美術大)に学び挿絵画家として活躍した(145)とあり、露店のジンギスカンの味見もした勇敢なる女性とわかりました。ふっふっふ。
昭和22年
(1) 真昼の情熱
           大田洋子

 <略>テルが庭へ戻つたときには、けふ出張して來た料理人たちが、二三人、芝生の小径を行つたり來たりしてゐた。緋の絨毯の大きな圓テーブルにけふの料理がもう支度してあつた。
 お茶の會とは云つても、それだけでは軽すぎると云つて、秋實がジンギスカン料理の水たきを料理店からよんでゐた。
 鍋をかこんでみんながまるく坐につくと、菊生とテルの間に坐つた緒方が、
「羊の水たきは僕はじめてです。今夜のご馳走はジンギスカン料理だつて、さつき七穂さんに内緒で聞きましたから、例の鐵板みたいな鍋で、羊の厚い切味をじりじり焼いて食べる、あの怖るべきご馳走かと思つてゐました」
 正直な眼を秋實の方へあげて云つた。秋實と七穂は、長い箸を手にして、だし汁の煮えてゐる鍋のなかへ、うすく切つた羊の肉と野菜をいれた。
「肉食しない回教徒もこれなら食べるといふ話ですけど、調味料でいろんな味にできますから、割にたのしく頂けるのですよ」
 秋實は客をするのに馴れてゐた。外から來てゐる料理人が、幾つかの調味料のはいつた瓶や壺や小皿などを客たちの間においた。<略>
「<略>緒方さん、これはね、めいめいご自分のお箸で肉も野菜もおいれになつてね、火がとほつたらすぐにひきあげて、お口ヘもつていらしつた方がおいしいのよ。炊きすぎるといけません。お箸から離さないくらひにさつと煮てね」<略>

(2) なつめと羊
           式場隆三郎
           飯島淳秀

<略> 秋の一日、呉さんとこでは、北平名物の羊料理をした。
 おばあさんやお母さんは女中をあひてに、そのしたくに、台所と中庭のあひだ
をなんども往復してゐた。
 中庭の真中あたりの舗装の煉瓦をとりはづして、三十センチほどのあなをほつ
た。まはりにあるおぢいさんのたいせつな植木鉢もとりのけられた。
 この羊の焼肉はものすごい煙がでるので、家のなかではとてもできない。そと
でも、弱い植木は煙にあてられて、いたむくらゐである。
 いよいよ、夕食がはじまると、もう 呉少年はつばをのんで、肉の焼けるのをま
つてゐる。さつきほつたあなの中で、松かさを燃やし、その上に大きな鐵あみを
のせる。
 うすく切つて、醤油にひたした羊肉を、めいめい自分で焼きながらたべるのだ
つた。
 日本のやき鳥にも似てゐるし、また名高い点ではすき焼に匹敵する。
 秋になると、この「焼羊肉」(カオヤンロ)の屋台店が大道で景気よく煙をあ
げて道行く人の胃袋を刺戟する。
 これも北平の秋になくはならぬ景物の一つだ。

(3) 北京の味
           野口義恵

 北京街に棗がつや/\と色づき、
みぢから袖から起きだしの姑娘の腕
に夜風が冷たくあたり
出すとそろそろ成吉思
汗鍋がはじまる。申し
わけのうすぐらい燈を
つるした露天で、天の
川を近々と仰ぎながら
風颯々の蒙古平
原の秋をしのび
白酒の杯をふく
み、羊肉をつゝ
くのは又よきか
なである、元々
野戦料理のこと
だから焼肉に塩
でもつけてたべ
るのかもしれな
いが大ヘカを仲
よく呉越同舟で
囲み、各々肉を
やき、韮、にんにくをきざみ辛味を
加へたたれでたべた味も忘れられ
ない。前門外の正陽楼が一番と聞く
が。私には名もない店の閑寂な味も
又別な味ひとなつて、色あざやかな
思い出となつてゐる
【絵の説明】成吉思汗鍋 西単牌楼ニテ
 戦後3年目の昭和23年に出た本に、詩集を出したり評論を書いたりした元外交官柳沢健の「世界の花束」があります。柳沢が昭和9年に出した「異国趣味」の中の「支那料理」という章の先頭約300字が、この「北京の料理」の<略>記号より前の約300字とそっくりなのです。でも、それは「正陽楼の所謂成吉斯汗料理」と名前だけなので見送り、(1)は美女も登場する思い出たっぷりの「世界の花束」にしました。ふっふっふ。
 (2)は食通4人が奇食、悪食を語る座談会からです。洋食と中国料理は別として、今と違って羊肉を食べることは悪食とされていたので、料理人でもあった作家の本山荻舟は、得意げに羊肉を話題にしたのです。しかし、このころから外国産の羊毛が輸入できるようになり、羊毛自給用だった緬羊をジンギスカンにして食べ始め、羊肉は悪食から美食に変身したのです。
昭和23年
(1) 北京の料理 ――中国――
           柳澤健

 おいしい本場の中国料理が食べられる、――自分の北京行の楽しみの一つはこれでないことはなかつた。
 だから、一週間の北京滞在中宿のホテル・ド・ペカン(「北京飯店ペキンハンテン」)の朝餐の洋式をのぞいては、一度だつて中国の料理以外のものを飲食しようとはしなかつた。到着当夜の広和居の山東料理を皮切りとして、十数回もの食事はこと/\゛く中国料理だつた。厚徳福居の河南料理、大倉組の秀れた料理人の手に成つた山東料理、中信堂飯店の福建料理、東興楼の山東料理、正門チエンメンの正陽楼の所謂成吉斯汗料理、道教の寺として名高い白雲観の精進料理、東華楼の広東料理、大陸春記の泗川料理、等々々。この多脂多■(忄の右に貳)の飽食のなかで、一度だつて刺身やお茶漬やに郷愁を感ずることがなかつたのだから、自分の徹底的なグールマンぶりも流石ながら、この国の料理のすばらしさには頭が下がらぬ訳には行かなかつた。<略>
 それはそれとし、北京の料亭の客となつて、環境ミリユの情趣を覚えたことが絶無ではない。それは前記の前門の正陽楼の一夜だ。東京でも成吉斯汗鍋を作る家は何軒かあったが、この正陽楼では青天井の下でその鍋をかこむ。煙と匂ひが籠らぬためである。自分は案内して呉れた友人と二人してこの鍋をつついていると白いものが空から降ちて来た。まだ仲秋だとゆうのに、北京はもうこれだ。が、熱い鍋と強い高粱酒カオリヤンチユとをまえに、この飛雪の頬に触れる快よさは! それよりも、ふと、、はいつて来た二人連れの年若な北京芸妓が、青と真紅の衣裳のうえの雪を軽く振いながら、電灯を浴びてこつちを眺めている姿と顔とは、映画の場面にソツクリだつた……。

(2) ジンギスカン料理
           佐藤垢石
           本山荻舟
           渋沢秀雄
           石黒敬七
           松木本誌編集部長他

<略> 本山 ジンギスカン料理というのがあるね
あれの名づけの親は日本人なんだ。イロリを
囲んだりして原始的な雰囲気を出して食うと
ころから、ジンギスカンもこんな具合で食つ
たんだろうと想像してつけた名前ですよ。あ
れは昭和七、八年ごろ日本へ紹介されたもの
だが、面白い話がある。満州事変の最中でね
ある男が蒙古の方から流行つてきたものだか
ら、蒙古へ行けば本場のジンギスカン料理を
食わせれ貰えるだろうてんで出かけて行つた
が、一向に食わせてくれない。見ると成程、
羊の肉は食つているがそれらしいものじやな
い。聞いてみたが要領を得ない。チンプンカ
ンプンのまゝこの先生内地へ帰つてしまつた
そしてまた出かけた。こんどは蒙古のインテ
リ青年が案内してくれたので色々話してみた
が、矢張り羊の水炊きを食わせる。これでは
前回と同じだから突ツ込んで訊いた。青年は
「蒙古人は羊を常食にしている。主食だから
味はつけません」と平然と答えた。日本のス
キ焼みたいに野菜を入れて味をつければ栄養
価があると教えるつもりでいたが、青年に笑
われた。「お国の主食は米でしよう、 米に
味をつけますか」とな。日本でいうジンギス
カン料理は北京が元祖なんだよ。あの焼肉は
北京でね、下地をつくりニンニクなんかを入
れて、燃料のない土地だから青松葉なんかで
いぶしてつくつたるのだ。それが一種の燻製
みたいなるのに
なつた。もとも
と北京料理なん
だが日本人がジ
ンギスカン料理
と名づけた。
 渋沢 アメリ
カか何処かにと
ても原始的な料
理の方法がある
そうです。座布団二枚ぐらいの大きさに牛の
肉を切つて、大きな鉄板の上にのせ、熊手ぐ
らいのホークで廻しながら炭火でアブる。ア
ブラがどん/\流れるが、手ごろに切つてソ
ースをつけて食べると非常にうまいという。
大量に料理するとうまいのでしようね。<略>
 前バージョンは「栄養と料理」昭和23年10月号に載っていた勝又温子の「重陽節と北平料理」の北京型の鍋の絵とその説明も入れたが、新バージョンでは割愛しました。
 さて、昭和24年ですが(1)は中国古典文学大家、青木正児が書いた「華国風味」の「花彫」です。大の左党だった青木は研究も兼ねて何度か正陽楼に通ったようだが、烤羊肉の説明は通り一遍で「是を食べるには焼酒を飲まなければ本当の味が出ないと謂はれてゐる。」と、すぐ酒談議に移っている。
 その続きによると、富豪の家では女児が生まれると、幾甕かの酒を醸造しておいて、その子の嫁入りの時、その酒を持たせてやる。その甕に色模様が施されているので花彫と呼ばれる。「現今でも紹興酒の上等と云ふと誰しも『花彫』を推すのが常識となつてゐる。」(146)と説明し、紹興酒の産地紹興へ出かけて極上の花彫を探し、念願が叶った話なります。
 この本の付録として「陶然亭」という青木大人お気に入りの小料理屋紹介があります。その店がどこにあるのか知りたければ、プログのHatena Blog(147)を読みなさい。烤羊肉の説明かなぜ素っ気ないのかわかると思うね。
 (2)は栗原武の「素人にもできる山羊と緬羊の飼い方」の羊肉からです。表紙に農林技官と肩書きつきで著者の名前があるので「職員録 昭和24年版」を調べたら、農林省東北農業試験場の*でした。また日本養豚研究会が昭和46年に日本養豚研究会賞を制定したとき、故人ながら第1回受賞者に選ばれた養豚の専門家だった。
 だから料理はさほど詳しくなかったらしく、ジンギスカンは知っていたと思うが、触れていない。山羊肉は「老牡山羊は、肉が硬くて悪臭があるので食用には適しません。山羊肉はすき焼きその他いろいろの方法で食べられますが、焼肉にして食べるのが最も美味です。」(148)とあるだけです。
昭和24年

(1) 花彫
           青木正児

 酒は天の美禄、百薬の長。原始時代から人間に恵まれた最上の飲物である。独り人間のみならず、猿でさえこの滋味を享楽している。<略>
今是と同様の評言を烤羊肉に就いて往々通人から聞かされる。烤羊肉とは邦人間には誰が付けたか成吉思汗料理の名で通つてゐる蒙古料理の一種で、北京では前門外、肉市の正陽楼の名物となつてゐる。其れは柳の薪で焚火して鉄架を掛け、羊の肉に醤油・蝦の油・韮などを混ぜて作つた汁を着けて焼きながら食べるのであるが、是を食べるには焼酒を飲まなければ本当の味が出ないと謂はれてゐる。さて私も北京滞在中、山西の太原に旅した友人から汾酒一瓶を土産に貰つて味はつたことは有るが、焼酒を飲み慣れない口には非常に強烈に感じたばかりで、其の優良さは分らなかつた。<略>

(2) 羊肉
           栗原武

 羊肉は一種高雅な風味があり、牛肉に較べると繊維が細かで、組織が粗ですから、肉質柔軟で消化がよく、小児、病人、老人の食物として好適です。諸外国では、食肉の王と称してあまねく食膳に供し、祝儀には我国の鯛のように珍重されています。
 我が国では今まではあまり食卓にのせられませんでしたが、今後は羊肉の味噌焼など、特別の料理法でおいしくいたゞきたいものです。
 羊肉の脂肪は一種の臭気をもつていて、一般日本人には嫌われていますが、新鮮なものは臭気は殆んどありませんし、羊毛の臭気がうつる場合が多いのですから、屠殺の際注意すれば殆んどその心配がありません。料理の際少量の酢かレモン汁を入れると臭気が大いに緩和されますので、いわゆる食わず嫌いをすることなく、料理法を研究するのが望ましいことです。
 昭和25年は同年秋に開かれた畜産学会の懇親会を開こうとしたが、鍋が足りず主催者側が針金で鍋形の網を手作りしてジンギスカンを食べてもらったという、日大農獣医学部教授だった海老直成博士の思い出です。これは昭和43年に成田の遠山緬羊協会が出した緬羊関係記録集「三里塚とジンギスカン鍋」に掲載されたものです。
 「このように」という書き出しの直前は、日本緬羊協会が販売したジン鍋が昭和25年から同35年に掛けて3段階で改良され、屋内でもジンギスカンが食べられるようになったという説明です。
昭和25年
   ジンギスカン鍋の思い出
           海老成直

<略>このようにジンギスカン鍋は羊肉の普及とともに変わ
つていつたが昭和二十五年秋のジンギスカン料理は筆者
が食べた数多いジンギスカン料理のなかで忘れることの
できないものである。昭和二十五年秋に畜産学会秋季大
会が当時、藤沢六会にあつた日大農学部で開催されたが、
その懇親会にジンギスカン料理を会員の方に食べて頂く
ことに決り、著者達はその準備に忙殺された。というの
はジンギスカン料理の本来の姿を味わつてもらいたいと
いうことと、鉄製鍋が十分なかつたため、針金で著者ら
は鍋をつくつたのである。すなわち、一番線の太い針金
で半球形をつくり、経三〇cm、高さ20cmのものから、
経1.5m、高さ80cmのものまでつくつた。七輪で食
べる人あり、また石で炉をつくり炭火をおこし、その上
に手製の針金でつくつたザルのようなものをおき、これ
にタレに浸しておいた肉をのせ、長い箸をつかいながら
羊肉を食べたものである。また、松葉をくぐらせ、羊肉
臭を消し独特の味をつけるという岡本博士の指示により
会員にジンギスカン料理をサービスしたことがあつた。
このときの盛会は当時の話題にもなつたが、夕暮れの相
模野の一角で炭火を囲んだジンギスカン料理は、将軍ジ
ンギスカンの姿をほうふつさせるものがあり、ジンギス
カン料理をかこむとき必ず出る話題の一つでもある。
 昭和26年は俳人の川上明女の思い出です。日中戦争で日本軍が進駐している城郭のある都市で美美と書いてメイメイと読む中国人の友人に誘われ、私は大同軒という料理店へ行く。中庭に据えられた炉で焼いて食べた。突如、美美が忍び笑いをしたのは、燃料が馬糞だと教えたら私がさぞ驚くだろうと思って笑ってしまったということなんですね。馬糞でなければ本当の味が出ないと美美がいった通り忘れられなくなったそうです。
 北大にも在職した蜂の分類学者、常木勝次の「戦線の博物学」によると「牛糞は火力、火持共に羊糞に次ぐ。駱駝は大きな圖体をしながら、ボロ/\零す排泄物はまことに可愛らしい程小さいもので、人の母指頭大である。性質は羊のに似てゐるが、之は産出が少ないので重要ではない。馬のはボウ/\してゐて輕く、焚付には好適であるが、火持悪く火力も弱くて悪質である。その上アンモニアを含むこと割合に多いと見えて、刺すやうな悪臭さへ放つ。(149)」とあり、ベールのように薄い肉なんか匂いが突き抜けてしまいそうですが、マトンの匂いと相殺して丁度よくなるのかも知れません。だがね、馬糞はバサバサしているのでたき付け使い、牛糞は燻らせて蚊いぶしにしているという報告もあり、モノ使いようね。
 川上の随筆が載っている「玉藻」は高浜虚子の娘の星野立子が主宰して昭和5年に創刊した俳句誌で、虚子の曾孫に当たる星野高士の主宰で発行されていました。
昭和26年
   ジンギスカン料理
           川上明女

<略> 小さい部屋を曲つたり、汚れた廊下を横切つたりしながら奥に行
くと、急に中庭が開けていて、中央に土の窯が食べるのに丁度よい
高さに丸く築き上げられ、某の上を直径一寸位のまんまるい鉄棒が
中央が高くなる様にぎつしり張りつめてあり、窯の下には薪とは違
う何かがメラメラと燃え上り、棒と棒の間から時々蛇の舌の様な焔
を上げている。窯の周囲には窯に沿うて丸いテーブルが作られ、其
の上に皿が十四五枚程高く重ねられ、其の中に薄桃色の羊の肉がう
すくうすくべールのように切られて五枚程ならべられ、その横に
(ツン)
が細くきざまれて、醤油の中にひたひたにつけられてある。「美美、
この料理はどのようにして頂くの」美美(メイメイ)は返事の代りに、うず高い
羊肉の一皿を取上げ、その肉を醤油の中にぐるりと混ぜて、丁度よ
く焼けている棒の上にころがすと、何しろ薄い肉なのてすぐに焼け
て、美味しそうな臭をぶんぶん漂わせはじめた。私も早速真似をし
ながら、おいしくておいしくて夢中で肉の皿を一段つつ喰いくずし
ているうち、不意に美美がくつくつとしのび笑いを出し始めたので
「どうしたのよ」と云うと「後で、後で、」といつて変にすましは
じめた。<略>
支那饅頭を片手でちぎってはたべして、ようやく満腹してほつとお
茶を飲んでいると驚いた事には美美の父親は十四五枚の皿を全部か
たづけて、娘の分まで手を出している。<略>
 昭和27年は私が北大に入学した年で、形だけでしたが、米の配給通帳を持って札幌に来ました。当時の駅は今開拓の村にあるあの本造駅舎でしたね。
 恵迪寮に入りたかったんだが、小樽に桶屋の叔父がいる、親から仕送り月4000円なんて、超正直な入寮願いを出したからイチコロ。先輩がおれば、片親重病か殺して送金なしの貧乏人だぐらい書かないと認められないぞ、駄目といわれても布団袋を持って玄関に居座れ―なんて悪知恵を授けてくれたかも知れないが、元女子高からの初の北大生の悲しさ。それにしても、そういう嘘とかコネで入った寮生連中がビー・ジェントルマンもないもんだ。いまとなっては、どうでもいいけどね。はっはっは。
 肝腎のジンギスカンだが(1)は彫刻家、高村光太郎の日記からです。下のことだが、高村はブツが出にくいたちだったようで、出た日は記録してます。十和田湖畔に建てる女性像の記念碑を高村が制作することになり、そのために10月12日に岩手の田舎から東京に移り、中野区内にあったアトリエを借りて住み(150)ながら、11月10日からモデルを使って制作を始めた。(151)12月15日分にある火の車とは詩人草野心平が小石川で開いた居酒屋、中野のジンギスカン料理とは、多分高円寺の成吉思莊ですね。
 (2)は「サッポロビール120年史」からです。いまとなっては当時の経緯を説明できる人は皆無なので推察するしかないのですが、月寒の成吉思汗クラブは昭和28年春の設立ではなく、その半年前にサッポロビール会の会員を中心に結成されていたという証言なので、平成8年に出た本ですが、ここに入れました。
 この記事に札幌工場長花田緑朗の名がありますが、私は北大東京同窓会に深く関係していたので、常連役員の花田さんはよく存じ上げおり、同窓会が毎土曜午後1時から談話室として称して銀座7丁目のライオンの1隅で飲み会を開けたのも、面倒見のいい彼のお陰だと明治生まれの諸先輩から聞かされましたよ。
 (3)はジンギスカンを食べる話ではなく鍋の記事です。これを取り上げた理由を説明します。前バージョンの講義録の主題「顧みられなかったジン鍋の変遷を顧みる」では、旧満洲を含む満蒙と呼ばれた一帯で使われていた鍋は、鉄棒を並べたような焼き面で、持ち運びできる鍋でした。それをジンパ学では満蒙川型鍋といい、日本では鍋の形はそのままだが、燃料とコンロは牛や羊の乾燥糞ではなく、七輪サイズに縮め、七輪の炭火で焼くように変えたと話しました。
 さらに鉄棒の平行並びを星形に付け替えることで脂落としの隙間をうんと狭め、火中に落ちる脂を減らし、脂の大部分を周環に流すように改良した。ジンパ学では、これを星形鍋と呼ぶが、のちに細い隙間もなくして、今のような凹凸の溝に変えた。
 私が星形鍋の特許を調べたところ、東京の谷口ンメカ、多分女性だろうが、昭和27年9月に意匠権者になっているとわかった。それでね、この星型鍋の流通は登録後とみていたのですが、意匠公報発表から3ヶ月後に札幌で星形鍋を売っているという新聞記事は意外、ちょっくら驚いたね。
 どうやら谷口さんは1、2年前に星形鍋を売り出しており、それを真似た鍋が出廻りだしたので、始めて意匠登録など法的権利を確保したのではないか。この鍋の記事は前バージョンの講義録、副題「満蒙川型鍋が日本独特の星型鍋に変身」の補強でもあります。
昭和27年
(1) 日記
           高村光太郎

 十二月十五日 月
午前テカミ書き、 ひる藤島氏くる、エントツ屋に立よりし由、一緒に玉すし、 郵便局太田村役揚に速達書留、村長の捺印をもらふ事、 夕方火の車にゆく、坂本七郎氏にあふ、中野のジンギスカン料理につれてゆかれる、十時帰る、
〈便〉<162ページ>
   <略>
 十二月二十二日 月
晴、朝霜、ひるま温、 午前モデル、手の習作、 午后藤島さんくる、ストーヴ明日くる由、 青森読売の人くる、彫刻経過を語る、 東奥日報の人くる、同様の話、撮影、 婦人之友の松井さんくる、礼をもらふ、鶴田愛子さんくる、夜藤島氏とヂンギスカン料理へゆく、 〈便〉<164ページ>
   <略>
 十二月三十日 火
晴、 午前モデル、手、 午后便 奥平さんくる、三日十一時半ゆく約束す、 小坂さんくる、歳暮もらふ、 藤島さんくる、ジンキスカンナベ持参、 夜藤島さんと新宿伊吹といふ店で肉鍋、八時半かへる、<166ページ>
   <略>
昭和28年
 三月二十二日 日
晴、温、風やむ 午前吉川富三氏くる、先日、撮影の写眞二葉もらふ、揮毫の箱書をわたす、 十一時半頃出かけ奥平氏宅行、ガス風呂に入り、ジンギスカン焼の牛肉にて酒、茶漬、タ方頃送られてかへる、 夜タン煮込み、等、 便<186ページ>

(2) 成吉思汗鍋の由来
           サッポロビール株式会社

 サッポロビール園の名物料理は,何といってもジ
ンギスカン鍋である。同園は昭和41年7月の開業時
からバイキング方式でこの料理を取り入れ,その後,
各地で展開されたビール園事業の多くも,ジンギス
カン鍋を主要メニューの一つとしている。実はこの
ジンギスカン鍋,サッポロピールやサッポロ会とは
深い因縁で結ばれていた。
 大正10年ごろ,北海道で多く飼育されるようにな
った羊の肉の料理方法が,札幌の月寒種羊場(現・
国立北海道農業試験場)の技師たちによって種々考
案された。そして,ラムステーキやアイリッシュシ
チューなどが札幌市内のレストランで賞味できるよ
うになった。昭和11年ごろには札幌にジンギスカン
鍋を食べさせる店もあったが,まだ一般的ではなか
ったという。
 戦後の食糧事情の悪いなか,月寒学院(現・北海
道農業専門学校)の院長栗林元二郎はこのジンギス
カン鍋の普及について新たな構想を抱いていた。
 サッポロビール会の会員でもあった同氏は,27年
ごろに同郷の花田緑朗が工場長をしていた札幌工場
に,試食会の話を持ち込んだ。旧札幌支店2階広間
で開かれた試食会には,花田工場長,穴釜支店長ら
工場・支店の幹部が集まったが,試食用の羊肉はた
ちまち品切れとなり,大好評であった。
 同年秋,サッポロビール会の会員が推進役となっ
て,法人や著名人が1ロ5万円を出資して月寒に「成
吉思汗倶楽部」が開設された。幹事6人はいずれも
サッポロビール会のメンバーであった。広大な原野
で楽しむ野趣豊かなジンギスカン鍋は,道内外でし
だいに喧伝され,地元はもとより観光客,修学旅行
団,各種大会参加者に広く利用された。サッポロ会
はもちろん,当社も特約店や酒販店の各種会合や,
社員・家族慰安会などでさかんに利用した。

(3) お鍋のニューフェイス
       ジンギスカン鍋やおでん鍋など
           北海タイムス

寒くなるといきおい鍋料理を中心
に夕餉の膳を囲む家庭がふえてき
ますが、最近いろいろ工夫された
鍋類が続々登場して主婦たちの好
評を博しています、そのニューフ
ェイスを札幌市内のI金物専門店
にのぞいてみましよう…
 〔写真〕 ①<略>
 〔写真〕 ②向つて左は最近家
      庭で人気を呼んでい
る例のジンギスカン鍋です、盛
り上つた底には縦横に溝がありま
すが、これは焼けた肉の脂が走る
道、これを火にかけ表面に油を塗
つて肉をのせジュージュー焼いて
食べるわけ、鉄製だけに目方も張
るが値段も張つて小は五百七十円、
大は九百円というところ、お隣り
は一応鍋族?に含まれる、六角む
し器、上下二段になつており中に
写真のようなお燗オトシ(二百四
十円)を入れると酒の燗から牛乳
の燗?まで御意のまま、型が大き
いだけにお正月の茶碗蒸しなら十
人分以上はらくに出来上る、アル
マイト製で千七百五十円
資料その5 北海タイムスの紙面より
 昭和28年の(1)は神戸市立図書館長だった志智嘉の随筆「ぢんぎすかん」からです。志智さんの「三叉路の赤いポスト」は北京暮らしの様々なことを書いてあるけれど、ジンギスカンは書いていません。脱線だが、同書には日本大使館員だった志智さんが敗戦後、業務連絡のため中国人に化けて天津まで行く途中、見破られた話が書いてありました。見破った中国人になぜわかったかと尋ねたら足幅だと答えた、日本人は下駄を履くので足の幅か広い。加えて志智さんボート部OBで頑丈な足に合わせた幅広の布製中国靴でバレたそうです。
 (2)は戦後創刊して平成10年まで札幌で発行していた「北海タイムス」のコラム「一日一言」です。無署名だが、書いたのは筆者は昭和28年の第1回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した主筆の市川謙一郎(152)ですね。
 道内観光にきた人々に本州のホテルや旅館と同じような料理を出すのはやめて、北海道ならではのジンギスカンを食べさせよう、そうすれば彼らは必ず満足するはすだという提言は次の(3)の21日後の成吉思汗クラブの発会式を知っての執筆とみますね。北海タイムスの記事の世話係菊地吉治郎は北海タイムス社長ですから、菊地から聞いたか、もしかすると市川がサッポロビール会員だったか、いずれにせよ、いいタイミングでした。
 (3)は成吉思汗クラブの発会式を伝える北海道新聞と北海タイムス両社の記事ですが、性格がよく表れた記事です。タイムスは写真付きで役員名を入れているのに対し、道新は町内会のお知らせみたいな書き方ですよね。
 (4)はそれら5月の発会式の様子など伝える「成吉思汗クラブ報」第1号に掲載した栗林会長の挨拶です。単にジンギスカンを食べる会ではなく、創立会員に名を連ねた名士を中心とする社交クラブに発展することを望んでいたことがわかる。実現したかどうか調べてないが、昭和29年の正月の新聞に東京に支部を作る相談をしたという記事があったと思うが、いずれ「ツキサップじんぎすかんクラブ」に保存されているこの「クラブ報」全号をじっくり拝見させてもらうつもりです。
 (5)は上海で日支闘争同盟のメンバーになり、昭和5年から投獄されるまで11年間、中国、旧満洲、日本内地で反戦活動に従事し、ゾルゲ、尾崎秀実とも知り合い、終戦まで4年間投獄された河合の諸活動の思い出です。
 東来順で飲んだ3人は排日運動から在留邦人を守る義勇隊員の副島と大串、それに筆者河合でした。この後、河合は奉天に行き、関東軍の対ソ行動の情報集めを始め、尾崎に報告を続けていたら、副島も奉天に来て一緒に活動したというのです。
昭和28年
(1) ぢんぎすかん
           志智嘉
 
<略> 私は幸か不幸かまだ日
本でぢんぎすかんなるものを食う機
会に恵まれないが、この羊料理は中
国でも,北京以外のところでは,北
京ほど美味くなかつたことを考えて
みると,日本のぢんぎすかんも大し
たものではあるまいと想像する。
 私はよく友人と共に正陽楼まで出
かけた。石畳を敷いたせまい中庭に
しつらえた,どちらかといえば原始
的な火床に,これまた大まかな割木
を勢よく焚いて,その上に紙のよう
に薄く切つた羊の肉を自分の手で焼
いて食うのである。その昔成吉思汁
が朔北の地を縦横に馳せめぐつてい
た頃,あの広漠たるゴビの沙漠で,
かくの如き食事をしたであろうとい
う想像から,北京に僑居した日本人
がこの名を付けたのであつて,中国
語ではぢんぎすかんなどとは言わぬ
正式の名はカオ・ヤン・ローという
のだが,しかし,ぢんぎすかんとは
いみじくも良い名をつけたもので,
料理の仕方にピッタリとあてはまつ
ている。
 ときに雪でも降つて来るならば,
ぢんぎすかんにつきものの白乾(パ
イカル)と称する焼酎の,五臓六腑
にしみわたるせいも手伝つて,私の
脳裏にはさらに黄河の上流オルドス
の大平原が蜃気楼のごとく浮び上つ
て来る。<略>

(2) 豪快なる味覚 名物ジンギス鍋
           北海タイムス

<略>観光客はワンサと来るが、だだグルグル
と”雄大なる景色”ばかり見せて回るのも
能がない気がする。さて宿屋へ泊って出さ
れる料埋はと見れば、いずこも同じ全国共
通料埋で北海道の匂いなぞは毛すじほども
ない。そればかりか近ごろは名物のおかぶ
をとられて、鮭やビールなら本州の方がよ
っぼどウマいからガッカリさせられ
る。そこで提案するのだが、本道には
緬羊も多いし、殊にいくら本州がジ
タバタしても、こればかりは真似よ
うあるまいという意味で、ジンギス
カン鍋を名物にとりあげたいと思うが如何
 ジンギスカン鍋は、あくまで豪快な味覚
を楽しむ料理である。従って青空の下の野
宴がよい。野っ原にゴザを敷いて、炭火の
おきたコンロをおく。コンロには特製の鉄
のアミをかぶせてあるが、形は野球の捕手
のマスクに似ている。他にはタネシカケは
ない。肉をあぶり、ジウジウ脂をはじき出
した生焼けを、用意のタレ正油にチュウと
ひたして、そのまま口へ放りこめば、それ
ぞすなわら、古代蒙古の夢の味だ。<略>
 風光以外には旅情をみたすに乏しい北海
道で、こういう舌頭の喜びを売り物にしな
いとは、申しわけない気がするのである。
一席の野宴を設け、本もののジンギス鍋さ
え御馳走しておけは、どんなツムジまがり
の観光客でも、必ずたんのうして引あげる
こと請合いである。まァ、だまされたと思
って一度ためしてごらんなさい。

(3) 気分も味も満点
    ジンギスカン・クラブ発会式

 ○…雨あがり三十日午午後月寒草原に在札の名士三十余名が集つて〝ジンギスカン鋼〟に舌つづみを打つた
 ○…この催しは、まだあまり知られていない北海道の珍味ジンギスカン鍋を広く世に紹介しようと月寒学院長の栗林氏が田中知事をはじめ各方面に呼びかけてまとあげたジンギスカン・クラブの発会式
○…風の吹きまくる丘の上芝生に鍋をならべての野宴に参加者気分と味を満喫しながら役員を決めタ刻散会した
 会長月寒学院栗林元二郎▽ 世話係菊地吉治郎、富樫長吉、伊藤豊次、大塩糺、花田緑朗 (写真は発会式)
資料その6 北海タイムスの紙面より

  ジシギスカン   食肉の王
  鍋会発起人会   者といわ
ける緬羊料理を本道の名物にしよ
うと今月上旬から札幌官、財界の
名士が集まりジンギスカン鍋会の
設立準備中だが、その発起人会が
三十日午後二時から月寒学園で大
野札幌医大学長、富樫道銀頭取、
高木札幌高裁長官ら二十数名が参
集して開かれ、設立趣意、クラブ
内規について検討ののち、ジンギ
スカン料理に舌つづみをうつた。

(4) 一筆啓上
           栗林元二郎

 また妙なものを始めたと
思はれるか知れないが、こ
れは成吉思汗クラブ結成当
時から、自分の考えていた
ことであり、また一部の話
題にものぼっていたことで
あって、実は早くから実現
せしめたいと思っていたも
のである。けれども何分に
も四六時中、雑務紛堰裡に
在る自分のことであるか
ら、なか/\思うように運
ばず、漸くこの第一報をお
手許へ届ける次第である。
 成吉思汗クラブは、いう
迄もなく、万人嗜好の野外
料理ジンギス汗焼を中心に
結ばれた社交機関である。
お互いに忙しい身ではある
が、たまには一同野外に相
会して、清浄なる大気のも
とに、豪快なジンギスカン
鍋をつツつき合いながら談
笑の間に親交を深めること
は、決して無意味ではない。
また時には、内地からの遠
来の珍客を、この野外に招
待して、雄大なる北海道の
風光と共にジンギスカン鍋
を満喫せしめることも、い
い土産話になろうではない
か。大いにやろうという訳
で、とにかく結成されたの
である。故に出来た以上は、
竜頭蛇尾に終はらせてはな
らない。いいものは、何処ま
でも発展させべきである。
そして本当に理想的なもの
に育てゝ行かなければなら
ない。これが自分の性分な
ので、おせつかいながら、
この成吉思汗クラブも、札
都に誇る立派な社交機関に
仕上げて行きたいというの
が、自分の念願である。
 それには機関紙「クラブ
報」の如きものが、どうし
ても必要である。第一、ク
ラブの消長も時々報告しな
ければならないし、会員相
互の消息も伝えたい。或い
はまた各位の■■気焔なり
趣味談なりも聞かせて貰い
たい。そうした考えから、
取敢えずヒナ型にこの第一
報を作つてみた次第であ
る。勿論月刊とも、定期刊と
も未だきめてはいないが、
今後も時の挨拶がわりに、
一筆啓上仕る積りである。
(写真はいつも会場になる
向ケ丘―開宴前の新東宝の
おれき/\)

(5) 北京の秋風
           河合貞吉

<略> 二人はたそがれに沈む中央公園の風色を楽しんだ。
「どうだ、久し振りだから大串も交えて一杯やろうか」
 日が暮れると街に点々と灯がつく。副島の提案で義勇
隊にいる大串に電話して、三人は盛り場東安市場の「東来順トンライシユン
足を運んだ。場内には美しい刺繍の靴を穿いて
耳飾りをした姑娘クーニヤンが三々伍々、楚々として歩いている。
三人は北京名物の蒙古料理「東来順」の四階の屋上に上
って秋天の星空のもとで「烤羊肉」を食べ酒を呑んだ。
烤羊肉とは日本でいう成吉思汗料理である。鉄の大きな
炉に松丸太を燻ぶして、太い鉄の金網の上に長い箸で羊
肉を炙りながら食うのである。片足を火鉢にかけ、立っ
たまま飲みかつ食うのである。戦場指呼の間に敵を望み
ながら食う野戦料理の趣を伝えたものである。
 秋空高く銀河を仰ぎ、朔北の夜風颯々として燻烟を巻
き上げ、焔に顔を染めて三人は大いに論じかつ鯨飲し
た。酔いが回ってくると、大串は「一つ唄いまっしょ」と
熊本訛りで「おてもやん」を唄い「黒田節」を唄う。<略>
 昭和29年は日本交通公社が出した「たべもの東西南北」です。後書きにあたる「資料収集について」によれば、全国市町村観光窓口、観光連盟、私鉄、旅館や料理関係団体など広く資料を求め、照会件数が7000件に達した(153)とあります。
 それで札幌だけでなく、埼玉県飯能市、鳥取県大山山麓も取材しており「肉は絶体に緬羊に限ります。肉がないといって牛や豚を使う所がよくありますが、邪道でもあり味が違うからすぐ分かります。幸いこの辺一帯は県の緬羊飼育指定地にになっています。洋服にするための毛は僅か三回しか使用できません。あとは料理用に使用できるわけです。この肉の特長は柔かで老人子供にも喜こばれ、身体が暖まり、第一緬羊には寄生虫が全然居りません。タレの造り方が一寸難しいので素人にはできないかも知れません。」(154)という飯能市の雨だれ莊主人談が載っているし、鳥取県は「大山ウドの奈良漬とジンギスカン料理」として「大山寺部落にある旅舎白雲莊でたべさせるジンギスカン鍋は、大山山麓に放牧されている緬羊の肉を使用する点において、珍味な大仙料理の一つに数えられ、近来登山客の賞味する。」(155)と紹介しています。
 なお日本交通公社が昭和27年に出した「旅程と費用」は同28年に改訂しているが、札幌の名産としてビールなど17品を挙げているが、ジンギスカンは入っていないません。
昭和29年
   じんぎすかん鍋  〔由来〕ここのじんぎすかん
       札幌市   鍋は昭和十年頃に始められ一
             時中絶、昭和二十七年頃から
再びはじめられた。月寒学院では昭和十年頃から特殊の会
合の際、申出によって石狩平原を一望におさめることの出
来る丘陵地ではじめたもので、最近はいつでも出来る事に
なっている。元来が広大な砂丘地蒙古より来た料理である
から、北海道の原野でこれを味わえば何かそこに共通のも
のが流れていよう。最近埼玉でもまた他の一部でも始めら
れ、東京にも部屋の中で試食出来るようになったが、何と
いっても、これは屋外料理である事を忘れてはならない。
〔造り方と特徴〕七輪の上に独特な成吉思汗じんぎすかん鍋をかけその
上で緬羊の肉をやいて特殊のしたじをつけて食べる。味は
半焼け程度が一番うまい。野菜は鍋のツバの所に肉をやい
た油がたまるから、その油でいためて食べる。一人で普通
二百匁から三百匁食べても腹にもたれる事なく、消化が非
常によいのと栄養価値の多いのが特長である。したしの作
り方は極秘になっているが、醤油、砂糖、味の素、ニンニ
ク(下ろし金でおろす)胡しょう等を布の袋に入れてにつ
めたものを使用する。
 ただ肉を焼くときに油の焼ける煙りと臭いのため、一般
家庭ではこの臭気を抜く特殊な設備がないので出来ない。
〔自慢の店〕精養軒(電話札幌②一二五一番)札幌市南一
条西三丁目。山本売店、札幌市藻南公園。月寒学院(倶楽
部組織となっている。電話札幌三五一六番)、札幌市外豊平
町。その他有り。
〔最寄り駅〕、〔値段〕、〔駅売りの有無〕、〔付近の旅館〕は省略。
 昭和30年の(1)は、まだ道内に緬羊がそれなりにいて、その肉を東京へ送って北海道のジンギスカンを売り込もうという、羊肉イコール輸入肉となっている今では、信じられないアイデアです。
 (2)の筆者は騎馬民族征服王朝説を唱えた東大東洋文化研究所の江上波夫教授です。「カオヤンローを日本人がジンギスカンなべと名づけたのも、それほど的がはずれているわけではない(156)」とおっしゃるのだから、ホームページにジンギスカン鍋は英雄ジンギスカンが遠征の陣中で将兵と食べた故事に因むなんて書いている方々は、少し安心するかな。はっはっは。まあ、いいでしょう、お好きなように。
 ともあれ江上さんのこの随想の後半のレシピみたいなところだけ抜き出しましたが、前半には、いまいったように800年ぐらい前には遊牧民は羊肉を焼いて食べていたと述べています。
 (3)は売春対策審議会長として知られた実業家菅原通済の「をとこ冥利」からです。同書の「阿呆青春記」によると、本人は中学校を5度も変え18歳のとき日本を飛び出し、マレーでゴム園で働いたり、タングステンの密輸もやったらい。英国に渡り柔道師範になったり、アメリカで靴磨きをしたりして22歳のとは帰国したそうだ。政財界に顔が広く260ページの同書に登場する人名と料亭名270件のリストも付いています。
 (4)は美術史家の三宅正太郎の「作家の裏窓」からです。三宅は戦前、読売新聞の記者でした。この大衆小説の作家と付き合いは学芸部員だったころの思い出ですが「あとがき」によれば、年月日はメモしていたので間違いないそうだ。村松梢風に濱の家のジンギカンを御馳走なったことも確かなのでしょう。
 ダンスホール通いで作家北村小松が出てくるが、彼は八戸出身でね、戦時中に彼の「燃ゆる大空」を読み、内容は忘れだが、題名だけは覚えてますよ。
 (5)は元主計少将丸本彰造が自家版「糧友」を発行、その12号に書いた「成吉思汗料理の思い出」です。糧友会は陸軍糧秣本廠の外郭団体で月刊誌「糧友」を発行して食生活改善と取り組み、特に昭和2年からは日本人も喰わず嫌いを改め、飼育農家のためにも羊肉を食べようと料理講習会を開くなど啓発に務めた。そのための新しい料理の一つがジンギスカンだったことはわかるね。
 丸本は寒地で作戦に従事する部隊の給食には、ぜひ中国料理を取り入れようと提唱し、羊肉食普及では烤羊肉の普及に努め「奥さんがお肉を買いにいったら『羊肉はありませんか』と一声掛けて下さい。そうした声によって店主は羊肉を仕入れるようになり、皆が羊肉が食べられるようになる」とラジオで呼びかけたりしました。
 敗戦で糧友会も解散「糧友」も廃刊したのに、ここに丸本の自称糧友会発行の「糧友」12号の記事を引用できたのは、同号に成吉思莊の広告が載っており、それで松井統治社長が保存していたからです。内容は昭和4年の「現代食糧大観」の談話と同じです。
 (6)も元軍人の衆院議員、辻政信の本からです。辻は太平洋戦争中は大本営参謀だったことなどから日本が無条件降伏後、戦争犯罪者として追及されるのを恐れて地下に潜伏。昭和25年、その間の行動を書いた本「潜行三千里」で作家としてデビュー、のちに衆議院議員になり、昭和36年、東南アジアで行方不明になった人物です。
 辻は関東軍の将校として満洲暮らしの経験者なのに「大鍋を倒して置き」つまり逆さに置くと見たのは、初めて烤羊肉にお目に掛かったからでしょう。中国側3人は日本語が達者だったそうだから、もしかすると日本ではジンギスカンと呼ぶなんて教えられたかも知れない。そうでなければ、満洲と同じとか少し違うとか一言あったでしょう。まあ珍しい見方です。
 (7)は雑誌「農業世界」からです。はっきり書いてはいないが、高い牛肉、豚肉を買って食べるより、貿易の自由化で飼う価値を失いつつある自分の綿羊を食べたらどうかという提案だね。後半のジンギスカン焼きなど4品のレシピは省略しました。
昭和30年
(1) コラム〔熊の目〕
           北海タイムス

 ▽…欧米で”キン
グ・オブ・ミート”
(食肉の王)と呼ばれ
る羊肉は札幌郊外月
寒学院の丘でひんぱんに催され
る「ジンギスカンなべを食う会」
で、この一、二年ずい分人口に
かいしやした、いちど雄大な北
の野外風物に融けこんで羊肉の
味をしめた東京人士からは〝と
ても忘れられない〟の声しきり
 ▽…東京にもジンギスカンな
べを売る店は数あるが「羊頭ク
肉」の類いも少くないし、肉の
鮮度もグツと落ちる、そこでこ
としの六月に東京都千代田区紀
尾井町に完成する「北海道会
館」(設立準備委員西川副知事
ら二十三名、株式会社)の料理
部で〝北海道の味覚を東京人に
も〟と、鮭、鰊、タラバガニ、
ホタテ料理に加えて、ジンギス
カンなべを売り物にすることに
なつた
 ▽…幸い庭が八百坪もあるの
で野天のパオ(包)式本格的方
法で大いに「北海道気分」を満
喫させようというコンタン、同
会館の設立準備委員でありジン
ギスカンクラブの世話人でもあ
る月寒学院長の栗林元二郎さん
は〝羊肉はもつとも鮮度を貴ぶ
ので日航機で空輸しますヨ〟と
大張切り、正月中にはジンギス
カンクラブの東京支部も出来る
そうだ

(2) ジンギスカンなべ
           江上波夫

 寒い北風が吹きすさぶころになると、温い部屋で、なべ料理か、湯豆腐か、それともおでんで一杯というのが、われわれ日本人一般の好みであろう。ところが中国では万里の長城に近い北の地方で、そのころカオヤンロー(烤羊肉)――われわれのいわゆるジンギスカンなベ――が賞美される。このジンギスカンなべは、なべとはいっても、日本のなべ料理とは全くおもむきのちがったもので凍てつく星空を仰ぐ中庭に大きなイロリをかこんで、人々は松のたきぎをどんどんもやし、その上にかけられたしゃく熱の鉄のすのこで、羊の肉の小切れをちょっとあぶっては、酢じょうゆにトウ辛子やニンニクなどをまぜた薬味をつけて食う焼肉料理である。
 この羊の焼肉料理を一度でもこころみたものは、その素朴で豪壮な味が容易に忘れられないであろう。燃えさかるタキ火のほのおと松やにの強い香の煙を全身にあびながら、人々は片足をイロリのふちにかけた勇ましい立姿で、長い鉄バシをふるい、羊の肉をあぶっては、パイカル(高粱酒)をくみ焼肉を食う。その時人々の姿は火影にゆれ、顔はみなまっかにほてり、零下二十度の屋外も、ここばかりは別天地で、人々は陽気な気分にひたりながら、不思議にいくらでも飲み、いくらでも食う。このような素朴豪壮な羊料理に、日本人が草原の英傑ジンギスカンの名をつけたのも肯けないことではない。<略>

(3) 羊肉
           菅原通済

 家内が「羊肉はもちますかね」と、半分寝言をいつてるので眼をさましたら、朝の四時半で、クモの糸かと思へるやうな細い雨が降つてゐた。
 外燈を消した門前から畑のはうに廻つてみた。
 ラデッシュが土をハネのけて、赤いみをあらはしてるのを見て、ナンといふ気なしに家内の寝言の意味がわかつた。
 里見弴サンの新宅開きが今日の夕方あり、ガーデン・パァーティをやるが、雨なら次の日曜と御案内をいただいてゐた。
 ところが家内のヤツ、どこで情報を得たのか、〝里見先生が丸ビルに羊の肉を買出しに行かれたらしいから、きつとジンギスカン焼をお庭でやるんでせう。雨でなければいいけど〟と、昨日いつてたやうな気がしたが、女のことだから、雨で中止になつたら沢山の羊肉をどう始末するのかと、取越し苦労でもしてたのが、寝言にまでなつたんだらう。
 羊の肉もさることながら、なんとかお天気のはうを、もたしたいもんだと念願しながら、あちこち庭の小みちを歩いたせゐか、寝まきがシットリぬれてゐた。<略>
      追記
 そのガーデン・パーティは、やはり雨で延びたが、次の日曜日には青桐の下で羊肉をフンダンにいただいた。羊肉とパオチュウがよくマッチしたためか、だいぶノビた連中が多かつたやうだ。
 小津安二郎サンと話がはずんで飲みすぎ、おまけに映画にだしてもらふ約束をした。尤も車力ださうである。
 その小津サンは私を車引きにしてしまったおかげで、たうとう里見家にチンボツしたらしい。

(4) 梢風の芸談
           三宅正太郎

 村松梢風が朝、毎、読の三紙に次々と連載長篇を書いていたころ、私は小説の担当者ではなかったが学芸部員だったので、度々梢風大人に招かれ御馳走になった。日本橋の浜の家で成吉思汗料理というものをはじめて味わったのもそのころだが、十一年夏、学芸部一同で梢風と一しょに大洗海岸へ行った。麻の着物に薄鼠の夏羽織を羽織り、大きな傷痕のある坊主頭の安中が、豪宕な太鼓の音を伴奏にして磯節をうたった。芸妓が安中の坊主を扇子でポンポン叩いた。
 そのころ梢風はしきりと溜池のフロリダに姿を現わした。御木本隆三、北村小松、新井格などという連中と一しょに彼はそこの常連だった。小松ちゃんはここのナンバーワンだったチェリーとステップが合って結婚へゴールインした。<略>

(5) 成吉思汗料理の思い出
           丸本彰造

 およそ味覚というものは、その時の環境の影響を受ける事が甚大である。気分と食味の快さ調和によつて、忘れがたい美味を感じさせるものである。 私は嘗て支那に食料旅行をした際北京城外の正陽楼で日支人を喜ばしているという支那料理「烤羊肉」を食べたことがある。(このことは前にも一寸書いたが)この烤羊肉というのは、料理の一部で前後は定室で御馳走が出るのである。料理のコースが進んで烤羊肉の番になれば、これを食するため私達は野天の前庭に出る。そこには六尺机を中に六尺腰掛け―実は腰を掛けるのでなく足を掛けるのである―が対置してあり、机上には火鉢と鉄架鍋を戴せ、半焼けの木炭を燻らしてあり、煙と火の粉が盛んに立ち昇つている。 乃ち薄截りした羊肉を長箸ではさみ、特別のたれ―蟹肉と香味品でこしらえたる醤―をつけながら、鉄架に戴せて、立ち昇る燻煙火で炙り焼きながら、六尺腰掛けに片方の足をかけて立食するのである。 時まさに冬、寒天高く仰げば、幾十万の星はまたたく、折しも朔風に雪はちら/\と降つてきた。焼肉はぢゆう/\、半焼き木炭の火煙は、勢い良く立ち昇る。期せずして私達は談論風発、盛んに馬上杯―徳利と杯を兼ねたる、胴が徳利、口が杯―を傾けつつ支那特有の強い焼酎をあふるのである。 この光景―この雰囲気。実に何とも言えぬ豪快至極のもので、東洋的英雄気質をそそつたものだ。いかにも成吉思汗が蒙古より起り遠く欧州を席捲した際、羊を屠り焼いて陣営で食した。それはまさにかくもあつたであろうと連想せられるに十分で、遂に誰言うとなく、この「烤羊肉」を「成吉思汗料理」と呼ぶに至つたのである。 これは気分と食味の快調を得た実に忘れがたい美食で、羊の臭気を半焼き木炭の燻煙で消すというところに、また羊肉料理のコツを得ているようにも思う。

(6) 七二 回家了フイチヤーラ(家に帰った)
           辻政信

<略> 長途の旅の疲れを忘れる半日の清遊であった。小川君、稲葉君、河本君も趣味を共にする。北京に帰って、故郷に帰った気分に浸り得るのは、まだそれが豊かに残っているからだ。
 夜は趙安博さんと、呉学文さんと、孫平化さんの三人から、北村団長以下招待を受ける。それは市井の古い中国式そのままの庶民的な成吉思汗料理店であった。大きな釜に薪をくべながら、その上に大鍋を倒して置き、炊けた鉄の上で羊肉をやきながら食う店であった。
 三君とも日本語は達者であり、日本の事情に精通している。店の調度は素朴なものであり、小さい木の腰掛に、ガタガタの机の上で、香り豊かな紹興酒をふんだんにご馳走になった。
 中国料理の真の味はこのような大衆食堂の中に見出されるであろう。儀礼は一切抜きにして放談している状態は、誰が見ても異民族の集りとは思われないものがあり、互に裸になってアジアの問題を語り合った。この旅行を通じてこれほどうれしい和やかな招待は一度もなかった。
 永い友好を、この人たちと結びたいものだ。

(7) 羊の肉をおいしく食べる法
      ▽やわらかくあっさりした味……
      ▽ニオイ消しには香辛料を……
           農業世界

 夜は、こってりとした肉料理が
恋しくなるこのごろ、といっても
ウシもブタも値段はいっこうに下
がる気配もみえません。こんなと
きは、自家生産のおいしい羊の肉
をゼヒ……〝ニオイもあまり気に
ならず、やわらかくてあっさりし
ている〟と評判はよいようです。
 羊肉はみたところは牛肉に近い
感じですが、やわらかくてアブラ
気が少なく、あっさりしていま
す。ニオイについても〝なれてし
まえば気にならない……〟し、〝ア
ブラのところだとニオイが強いの
で。なれないうちはアブラをとっ
て使えばいいでしょう。また、焼
いて食べるとき、香辛料を使えば
よいのですから、前もってニオイ
を消さなければならないクジラ肉
などより簡単です。
 肉へかけるソースは、ハッカを
一、二滴たらしてもおいしいです
し…。香辛料は、ニンニク、ショ
ウガなど。タマネギのすりおろし
や、果物のしぼり汁もあいます〟
ということです。
 ニュージーランドは羊肉の大き
な輸出国、規格生産で、飼育の管
理もゆきとどき、寄生虫や虫卵の
心配もないそうです・
 都会の主婦にとって魅力なの
は、その値段でしょう。ロースの
最高で百㌘三十五円です。<略>
 エッセィストでも知られる中谷宇吉郎先生が昭和31年に出した本に「ジンギスカン鍋」があったので(1)にしました。「あとがき」によれば昭和30年7月から9月にかけて西日本新聞に連載した100回の随筆の中からで「ジンギスカン鍋がもっと普及して、羊肉が今少し高く売れるようになれば、放っておいても、農家の人たちは、競って緬羊を飼うだろう。(157)」という中谷予想は外れ、安い羊毛と羊肉が輸入されたために農家は緬羊を飼うのをやめちゃいましたね。
 でも九州の人々にもわかるように中谷さんが「宣傳の片棒をかついで」くれたお陰で、札幌名物どころか北海道名物になってしまったのです。
 この後で岩波書店会長だった小林勇の随筆を紹介しますが、中谷と呼び捨てにするくらい親しかったらしい。
 (2)の「味の事典」の著者、植原路郎は実に様々な本を書いた人です。「最新手紙文範」「最新トランプ術」「新社交と座談の秘訣」など新しいことだけでなく「応用自在手紙新辞典」「そば辞典」「実用本の辞典」といった辞典も手がけました。この本も国会図書館デジタルコレクションになっているので、添えられた大きな植木鉢みたいなジン鍋と焜炉の挿絵を見たい人は検索してみなさい。
 (3)は東京・高円寺の「成吉思莊」を開いた松井初太郎さんを紹介した「日本食肉史」の記事です。父平五郎さんが赤坂田町で開店してから9年目、14歳のときから松井精肉店の店員となって働いた。明治44年に店を引き継ぎ、大正14年からは農林省から羊肉卸商の指定を受け、全国から出荷される羊肉を買い受ける大商店に成長させ、羊肉消費の拡大を目指して松井式ジンギスカン鍋一式を作り出し「成吉思莊」を開いたのです。
 (4)はデブのせいではないと思うが、ジンギスカンで食中毒に罹ったという話です。体重を正確に測れる秤捜しの悩みは略しましたが、最大83キロから60キロ台に減量した私に言わせれば、太るときと痩せるときとのサイクルで、体型に合った服がいるので、意外に金がかかる。今後、藤田教授が減量に成功したら、ぜひそれも書いてもらいたいねlor="#000099" face="MS 明朝">「成吉思汗料理物語り」(158)を書いた。それを真に受けた人がいて、また北海道新聞はじめマスコミがその人をジンギスカン研究の権威扱いし、結果としてその人の語る駒井命名説を広めたために今日、満鉄調査部長駒井命名説が滝川市のホー。
昭和31年
(1) ジンギスカン鍋
           中谷宇吉郎

<略> この料理は、ジンギスカン鍋と呼ばれるもので、東京などにも、二三食べさせる店がある。しかし日本でジンギスカン鍋を食おうと思ったら、札幌へ行くに限る。前からもあったのであるが、この近年急に流行して來て、札幌名物の一つになりつつある。
 この頃東京などからやって來る友人には、まずジンギスカン鍋を御馳走する。まあ珍しいせいもあるが、たいていは皆美味いと褒めてくれる。それで私もせいぜい宣傳の片棒をかついでいるわけである。それには、ジンギスカン鍋が美味いというだけでなく、今一つの理由があるからである。<略>
 現在でも、北海道の農家の中には、一頭か二頭の緬羊を飼っている家が相當ある。年に一回毛をかると、一貫目くらいはとれるので、家族全軆の靴下や手袋、家によっては、チョッキくらいは作れる。それで皆重宝しているのであるが、それ以上はなかなか殖えない。
 理由はきわめて簡単で、毛だけでは、經濟的に引き合わないからである。手間まで入れて考えてみると、どうしても肉も金にしないことには、けっきょく手間損になる。それでジンギスカン鍋がもっと普及して、羊肉が今少し高く売れるようになれば、放っておいても、農家の人たちは、競って緬羊を飼うだろう。
 百萬頭も飼うようになったら、羊毛は輸入しなくてもよいことになり、毛に關しては、自給自足が出來るようになる。外貨は今一弗でも節約したいところであるから、大いにジンギスカン鍋を食って、北海道に緬羊を殖やすべきである。

(2) 成吉思汗料理(じんぎすかんりょうり)
           植原路郎

 蒙古料理で羊肉の野天焼。鉄脚を組立て、鉄板ま
たは鉄鍋をかけ、肉をあぶって食べる。とび散る脂
を防ぐためにエプロンをかける。近ごろ羊肉代用と
して、豚肉を網焼にして、酒、醤油、酢を等分にま
ぜたものをつけ汁とし、これにショウガのみじん切
り、ネギ、ニンニクを刻んで入れ簡易成吉思汗焼を
味う向もある。
 成吉思汗料理としての焼肉は、料亭の中庭に設備
して食べさせる所と、天井の高い家屋内の土間で供
する所とある。また、時にはそれらしい気分を漂わ
した室内で供するものもある。結局、現在の料亭で
はお狩場焼・猟場焼などと称するものと同巧異曲の
ものに移りつつある。

(3) 同業組合の認可と歴代組長
           福原康雄

 【十代組長松井初太郎】直井戸氏の残任期を受けて組長となつた氏は明治二十年
二月の東京生れ、父業を継いで赤坂の店を経営、宮内省始め十七宮家の御用商とし
て知られていた。
 明治四十年ごろから農林省の指定を受け緬羊肉の普及に従事、昭和十一年には高
円寺に「成吉思莊」を開き成吉思汗料理として緬羊肉の宣伝に貢献している。今日
成吉思汗鍋と称する特殊焼鍋は実に氏の考案によるものである。
 氏が組長となつて先ず考えたことは、業者の人格向上と積極的な肉食の普及宣伝であつた。業者として肉に対する知識も必要であり、また官庁の諮問に対し、業者としての意見を具申し得るだけの知識の涵養を目的として、農林省技師を組合嘱託として常に指導講習を行う計画を建てたがこれを実施に移る時日がなかつた。
 肉食宣伝のためには肉料理に関する四季のパンフレットを作成配布した。その目的は新聞雑誌に見えるようなビフテキやスキ焼の調理法でなく、一般家庭の主婦によつて出来得る下等肉の安易な、しかも経済的な調理法であつた。執筆者は当時農林省技師であつた現山口大学教授農学博士木塚静雄氏と聞く。<略>

(4) 肥満の記
           藤田五郎

「お肥りですね、何貫おありです
か?」とたずねられるくらい、悲
しくなることはない。はじめはネ
ット・ウェイトの七掛からせいぜ
い八掛を答えてお茶をにごしてい
たが、近来は「公称百キロです」
ととぼけることにしている。「お
金肥りでしよう」と買いかぶつて
下さる君子もある。冗談じやな
い。天下には結構貧乏肥りという
ものもあるのだ。疑うものは豚を
見るがよい。
 腹をこわしてもなおかつ目方が
ふえるのだから不思議である。先
日も学生といつしよに浅草の奥の
怪しげなジンギスカン料理という
のに出かけたまではよいが、若い
諸君は何事もないのに、ひとり筆
者だけは中毒して半死半生の體た
らくであつた。そのくせ回復して
からカンカン秤に乗つてみたら、
実に一キロ近い体重の増加であ
る。むろん正確な秤を利用した上
でのことだ。<略>
 半年で底の抜ける特別誂えのド
タ靴。三日踏み割る下駄。気違
いじみた大汗と股ずれ。
 神よ、この苦患から救い出した
まえ! (東京外国語大学教授)
 昭和32年の(1)は旅行雑誌「旅」の編集長として知られた戸塚文子の「惚れ焼」です。私は昭和37年に筑摩書房が出した「生活の随筆」(1585)で見付けたのですが、初出誌は32年の「あまカラ」だったので、ここに入れました。戸塚は「あまカラ」8号に「めばりずし」を初めて書いて以来、執筆者の常連となり「惚れ焼」が20回目でした。
 「惚れ焼とは、どうもおだやかでない名まえである。それを売物にしている店の名も、『惚太郎』という。名付親が道知事田中敏文だというから、北海道というところには、愉快な人物のいることを、想像させる。(159)」という書き出しですが、田中敏文知事は月寒学院のジンギスカンの売り出しにも一役買ったことは知られていますよね。
 この後に「だいたいが肉好きで、肉類なら牛、馬、豚何でもござれの方である。」「羊肉もかなり早くから、味を知った。(160)」という戸塚が、惚れ焼のタレの材料を細かく書いたのは、余程気に入ったからでしょう。
 (2)はハワイ在住の邦人が日本観光に行くならとお勧めする料理の紹介です。2日連載で最後に「東京の代表的食べ物と評判の店」としてウナギ竹葉亭など9種類19店を挙げています。
 (3)の「古川ロッパ昭和日記」の戦後分は、昭和20年から26年までと27年から35年までの2冊になっていますが、それぞれ1000ページ近い。借りだして計ったら2冊で約4キロでしたね。
 ロッパは店は西銀座と書いてるけど、数人で鍋を囲めるくらいのテントを張れる広さの庭付きの店は銀座じゃ無理で、新橋じゃないのかなあ。でも次の昭和33年分にある邱永漢は「銀座の裏通り」で「屡々」ジン鍋の看板に「ぶつかる」と書いているから、何軒かあったことは確かでしょう。それにしても東京オリンピックで都内は川を埋め立てて高速道路を作ったりしたので、街の様相が変わってしまい、もう成吉思汗部落とかいう店があった場所を知る人はいないでしょう。
 私はラジオの「日曜娯楽版」で「僕は特急の機関士で」という歌などと一緒に丹下左膳じゃない丹下キヨ子という名前を覚えたように思います。そのころラシオはNHKしかなかったんだよ。
昭和32年
(1) 惚れ焼
           戸塚文子

<略> まっ赤におこった炭火の上で、肉片がじゅうじゅう
音を立て、煙をあげて、焼けている。肉といっても、
これは北海道名物の緬羊の肉である。牛よりも軽くて、
どこかに女性的なやさしい感触がある、かよわい羊だ
と思うせいかもしれない。牛とも豚とも違った特有の
匂いは、ちょっとなれると気にならないばかりか、そ
れが好もしくなってくる。
 ただ、生肉を焼くのではなくて、タレがつけてある
ので、その匂いも濃く入リ混って、いっそう食欲をそ
そる。狭い店から往来まで流れそうに、立ちこめる煙
は、勾いの煙である。何気なく、炭火に顔をほてらせ
た主人公に、タレのことを、問いただして驚いた。ず
いぶん凝ったタレなのだ。砂糖、醤油、味醂、そこま
では見当もつく。その外に、玉ネギとニンニクのすり
おろし、それからリンゴのすりおろし、これまた北国
らしい。その上に、サンショとコショウとトウガラシ
を、ほどよく混ぜる――といった複雑なタレである。
このシルに二時間か四時間くらい、たっぷりと漬けて
おく。
 焼き上った熱い肉は、スキ焼肉ほどの薄い大切れ。
それを大根おろしとワサビ醤油と、レモンを皮ごとす
りおろしたものとを混ぜたのに、ちょいとつけて食べ
る。みんなこの店の主人のくふうなのだそうだ。食通
はあるいは顔をしかめるかもしれない。<略>
 こんなわけで、私は「惚太郎」の惚れ焼にすっかり
惚れこんでしまった。<略>

(2) 日本食べある記
           観光団 御旗登

〝命の洗濯〟と云ふ言葉がありますが、旅行こそまさ
に命の洗濯だといつてよいでせう、その旅行の中の樂
しみの一つは〝食べる〟事でしよう
靜かな温泉の宿で、美しい渓谷を賞でつゝ、運ばれて
來た山海の珍味を賞味出來る素晴しさ !
海辺には海辺の料理、山には又山の珍味がありその訪
ねる土地/\の自慢料理を景色と共に味はいつゝ旅す
る事も旅行のみに依つて味はへる喜びと云へましよう
今春も又多数の方達が桜の日本へ旅行される事と思い
ますので、北海道より九州迄のハワイよりの観光者に
関係の多い地方の代表的名物料理を簡単に書いて見ま
しよう
「北海道」
 成吉思汗料理
羊の肉をニンニクで調味して適当に臭を消し、てり焼
き式にして、下し大根で食べるのですが、元来が広大
な砂丘地蒙古よりの傳來料理だけに札幌近くにある牧
場の中の月寒学院 (倶楽部組織) 等で食べると興趣を
一層添へると思います、札幌市内の精養軒が自慢の店
です
 蟹の甲羅蒸し<略>
 姫鱒料理<略>

(3) 三月三日(日曜)晴れ
           古川ロッパ

<略>十時、「なつかしの流行歌」第二夜。まず/\、今夜も面白かっだらうといふ自信つく。本番の寸前、根岸来る。丹下キヨ子の一行来り、終ると根岸の案内で、西銀座の成吉思汗部落といふ珍な所へ連れて行かれる。これは中々よかった。奥庭に小天幕あり、成吉思汗鍋をやる。羊肉と野菜、タレに大蒜うんと入れてつけて食ふのだが、これはいける。丹下の友、ブラジルから来た二世の伊藤さんてのが、ブラジルの宝石アグアマリンといふのを二粒呉れた。それを持って、タクシー帰宅。成吉思汗の勘定は丹下が払ったのだが、二千二百円、その安さもいいぞ。帰宅。アド三。
 昭和33年の(1)は福永武彦の随筆です。「信濃追分にある山小舎で、初めて正月をすごす」と暮れから奥さんといたら、緬羊をたくさん飼っているというから農家でしょうか、つた屋という家に招かれ、初めてジンギスカンを食べたという話です。
 (2)は翁久允おきなきゅういんが故郷富山だ創刊した文化雑誌「高志人」からです。彼は19歳のとき渡米して邦字紙の記者になり、大正13年に帰国して週刊朝日の編集に携わったり、小説を書いたり多彩な活動をした。昭和11年、故郷の富山で郷土文化誌「高志人こしびと」を創刊、県内の文化活動の振興を図りました。翁本人はこの放話会の常連で、このときも出席して「会食などにもつてこいの」「翁さん創案の『おきなこぜん』の講釈と宣伝」をしたとあります。
 (3)の邱永漢の「成吉思汗鍋」は昭和30年代に入ると銀座にもジンギスカン店があり、ニラ、葱、椎茸などを焼いて食べるようにしていたという証言です。直木賞作家だが「実業の才能を生かし株の投資、マネービル関係の入門書を書くと同じにビル経営など多角経営」(161)をしていたが平成24年に亡くなりました。
 (4)は「世界大百科事典」の「ヒツジ」の項にあった羊肉の説明です。筆者は陸軍主計少将だった農学博士の川島四郎。「明治40年に松方正義が自分の牧場の羊肉を東京赤坂の松井に依頼して販売したのが始まりである。」と川島は書いているが、そうじゃないのです。
 下総御料牧場技師の辻正章は、上海から輸入羊肉を売っていた横浜丹波屋の調査状況から雑誌「農業世界」明治40年4月号の「羊肉短話」の中で「而して現今羊肉を食するものは概して西洋人にあらざれば上流人士である故、上肉でなければ販路も狭いものと思はなければならない、」(162)と書いている。
 つまり松方農場産の羊肉を市販したのは明治40年であって、羊肉の市販の始まりではない。市販の始まりといえるのは東京の勧奨社による明治11年12月からの内務省勧農局牧羊場払下げ羊肉の売り出し(163)です。
 (5)は法制史を専門とする法学者滝川政次郎の本からです。ところが滝川先生は、お色気話がお好きでね、この書名「池塘春草」はgoo辞書によれば「池の堤の春草の上で見た夢。夢の多い少年時代・青春時代の楽しさ、またそのはかなさのたとえ。」で意味深長だ。引用した500字ばかりの続きはね、その方の話で、善と美という2字について独自の字義を語っています。
 (6)ペンネームの脇に「一所不住の禅僧」と注がありますが、筆者はわかりません。蒙古では鍋ではなく焼け石に乗せて焼き、鍋は使わないから、ジンギスカン鍋なんて名前はインチキだと真っ向否定し、かつ、タレといわず塩辛を付けて食べるという言い方が面白い。折角だから、その塩辛の材料は羊肉と岩塩だとか部族によって違いがあるとか、もう一言欲しかったなあ。
 (7)は児童文学者の山本和夫の詩と作家の福永武彦の随想です。子供にわかる言葉を選んで河原で開いたジンパを描いています。検索すると山本は福井県に住んでいた人ですから「ないちから/きなすったふたりのおじさんの、/かんげいかい。」は、山本ともう1人だれかと來道したときに開かれた歓迎会であり「がや、がや、/おしゃべりの中にふけていきました」というから、児童文学関係者が集まって、食べ方やら自慢のタレの話などを山本たちにたっぷり聞かせたのでしょう。
 (8)は本山荻舟の「飲食事典」からです。本山は報知新聞記者でしたが「名人畸人伝」「近世剣客伝」などで作家として認められた。料理に詳しく「つたや」という料理店を経営したことがありました。
 また本山は昭和23年の「月刊読売」11月号にも「ジンギスカン料理」として「青年は『蒙古人は羊を常食にしている。主食だから味はつけません』と平然と答えた。日本のスキ焼みたいに野菜を入れて味をつければ栄養価があると教えるつもりでいたが、青年に笑われた。『お国の主食は米でしよう、米に味をつけますか』とな。」(164)と書いています。
 (9)は石森延男の「コタンの口笛」からです。アイヌ人の畑中アサとユタカの姉弟が主人公で、ユタカが和人の少年ゴンの闇討ちに遭って大怪我をする。ようやく起き上がるようになったところで、ユタカの友達ユリ子が見舞いに羊肉を持ってきた。父子家庭のアサは食べたことがないので、料理法を尋ねています。後にユタカとゴンは仲良くなり、アサは就職してバスの車掌になります。
 札幌生まれの石森はアイヌ民族に対する偏見を捨て、仲良くすることを強く望んで書いたとみられる作品です。取り込んだ本は第20刷だが、初版の出た昭和33年のここに加えました。脱線だが、石森さんは私の母校八戸東高の校歌の作詞者でね、一番の出だしが「光あり階上の峰」、ここで引用したのは「コタンの口笛」の第2部「光の歌」、石森さんは希望という意味で光という言葉が好きだったんじゃないかなあ。ふっふっふ。
昭和33年
(1) ジンギスカン鍋
           福永武彦

<略> そこで小雪の降る正月二日
の晩に、よばれて行って、い
よいよジンギスカン鍋という
ことになった。つた屋では、
緬羊をたくさん飼っているか
  
ら、毎冬一頭つぶして料理す
るのだという。土間に新聞紙
をはりつめ。鍋をかこんで、
さて現やれ出た肉の分量の多
さ。それが、しょうゆにリン
ゴやミカンの汁をしぼり、ニ
ンニクを加えたたれの中に、
びっしりとつけこんである。
つた屋の若主人の話では、若
い者が三人よると、一貫目は
食べるそうだが、僕はもとも
と小食だから、味をみる程度
でけっこうだと、弱気なこと
をいっておいた・ところがい
ざ始まると、油はとぶ、煙は
あがる、肉はまたたくまに焼
けてゆくから、酒を飲むひま
もない。野菜は抜きで、純粋
に肉ばかりをつめこむのだか
ら、どうもハシを置いた時に
は、妻とふたりで五百匁は片
づけたらしい。(どっちがた
くさん平げたかは僕は知ら
ない)つた屋でこれをやると
「分去(わかさ)れ」と呼ば
れる村はずれまで、うまそう
なにおいがただようそうだ。
英雄ジンギスカンのエネルギ
ー源も、ここから出たかと感
心した。<略>  (作家)

(2) 放話会ジンギスカン鍋
           四ツ橋銀太郎

<略> 毎回、ゴ馳走は変つたものと、きめたわ
けではないが、趣向が変えられてきている
ので常務当番たるトウサンは、まつたくた
いへんだろうとおもう。といつて代行しよ
うという勇士?もいないようだ。
 けうは「ジンギスカン料理」ということ。
 遅刻したので、小走りに護国神社角まで
きたら、アノ羊肉独特の臭いが流れただよ
つていた。いらいところまで臭いがするも
のだ、とおどろいた。とたんに、腹の虫が
グツとうなつた。
 北京の飲食店街に流れただよう、アノ臭
いをなつかしく思い出した。けうこのごろ
も、きつと、たそがれの中空に紫のけむり
が条々と立ちのぼつているのに違いない。
 店の名は、わすれたが。北京の前門外に
ジンギスカン鍋で有名な飯店があつた。こ
の店はいちばん早く紫煙をあげるので有名
だつたが、われわれ初物食い連は、さきを
あらそつて十月末の前門外におしかけたも
のである。
 ジンギスカン鍋というが、鍋ものは水だ
き羊肉で、ほんとうのジンギスカンは、屋
外に大きなカマドを伏せて、薪をもやし、
その上に鉄の網をのせて、薄くきつた羊肉
をサツと焼いてたべるのである。足台に片
足をのせ、ながい箸で羊肉を焼きながら七
味の醤油で立ちはだかつての野食は、まこ
とに気宇壮大なものがある。まつたくの野
戦料理というところであるる。
 閑話休題。わが放話会のジンギスカン料
理は、会場の中庭にコンロを出して焼鍋で
羊肉を焼いたのだから、北京のそれとは大
いにちがう。だいいち、肉のきりかたが厚
くて、すき焼流だからいけない、といつた
ら、けうのゲストの一人、津田さんが、ま
ことにはや、恐縮してくれた。<略>

(3) 成吉思汗鍋
           邱永漢

 銀座の裏通りを歩いていて、屡々「成吉思汗鍋」とか「ジンギスカン鍋」とか書いた看板にぶっつかる。その名称から察するに、いずれは大陸から渡って来た料理法であろうけれども、私は北の方のことはよく知らいないから、まるでスキヤキ屋の暖簾をくぐるように、時々、ふらりと入ることがある。
 成吉思汗鍋というけれど、この鍋は鉄の鋳物で出来ており、それに溝がついていて、直接火の通る穴があいているから、鍋と呼ぶよりは焼肉用の金網と鉄板のアイノコのようなものである。正式には羊肉や韮や葱や或は椎茸を、五香と酒と醤油をまぜ合わせたタレにつけてから鍋の上に載せて焼くわけであるが、東京では羊肉よりも、牛肉や豚肉を使っているところが多いようである。濛々と立ちこめる煙と肉の焼ける香ばしい匂いが何と云っても身上であろう。
 成吉思汗は日本に於いて一種神秘的な人気を博している人物で、源義経が化けたのだと真顔で云い張る者さえあるが、これは恐らくキリストが磔を逃れて日本へ渡来した説と同じぐらい、日本人の空想好きを示すものであろう。
 しかし、あの交通不便な時代に大軍を率いて、ヨーロッパの涯まで攻め込んで行ったバンカラ将軍の行動は、我々の空想力を刺戟するに充分なものを持っていることは確かである。
 今日でも多くの話題が残きれていて、その中でも私の興味をひくのは、蒙古人は食いだめが出来たという説である。一つの町、一つの村に攻め込むと、彼等はその土地の人々を皆殺しにしたと伝えられているけれども、これは誇張された表現であろう。但し、どの程度の信憑性があるかはわからないが、彼等が一つの町を占領すると、暫く休憩して、一週間分ぐらいの腹拵えをして、次の戦闘中は始んど物を食わなかったそうである。こんな芸当が出来たらどんなにいいだろうな、とあの食糧不足に悩んだ戦時中は何度思ったことか。<略>

(4) 羊肉
           川島四郎

【羊肉】西洋ではメンヨウの肉はウシ,ブタ
よりも貴重とされる高級料理であって,高貴
の人々の食卓に供し,あるいは慶祝の献立に
用いられる。中国でも周代の八珍のなかに炮
羊があり,六畜六牲のなかに数えられており,
膏羶(こうせん―メンヨウの脂肪)が料理に用
いられている。イスラム教徒はブタの食用を
忌み、もっぱら羊肉を食べる。中国でもイス
ラム教徒によって羊肉料理が普及し,イスラ
ム教料理がいろいろある。北京料理の力オヤ
ンロー(烤羊肉―烤は直火で焼くの義)は最
も珍味で,北京の朝陽門外の料理屋ではチン
ギズカン(成吉斯汗)料理と称して羊肉を薄
切りにし,鉄格子状のなべ(網)でじか焼に
して食べるが,煙が立
つので露天で食事する
ので趣がある。近來日
本でもジンギスカン料
理と称して流行してい
る。日本で羊肉が市場
へ初めて供給されたの
は,1907年(明治40)松
方正義が自分の牧場の
羊肉を東京赤坂の松井
に依頼して販売したの
が始まりである。欧米
では羊肉は高級料理に
用いられるが日本では
市場出回りの量も少
なく,そのうえ特殊な
においがあるので日本
人にはあまり好まれな
い。羊肉の成分は牛肉,馬肉などと大差はな
い。           (川島四郎)

(5) 羊
           滝川政次郎

<略> 蒙古人が羊ばかり食つていて壊血病にならないのは、
これを全食しているからである。私は、北京の労働者
が、大きな釜でくらくら煮ている羊の臓物を、大きな椀
に盛つて旨そうに食べているのを、街頭でしばしば見か
けた。これほど安くてうまい物はないから、食つてみな
いかとたびたびすすめられたが、さすがに手がでなかつ
た。
 羊の肉がどんなにうまいかは、「羊頭を掲げて狗肉を
売る」という諺によつても知られようが、日華事変以
来、東京でも流行したジンギスカン料理も、羊肉の料理
である。北京の前門外にはそれのうまい朝陽楼という料
亭があつて、私は何回となくそこで人をご馳走し、また
ご馳走になつた。
 ジンギスカン料理というのは、日本人のつけた名前であ
つて、北京ではこれを烤羊肉カオヤンロウという。北京人にいわすと
これは中国の料理であつて、蒙古の料理ではないとい
う。いかにもそれはタレの加減や、それを焼く炭の製法
がむずかしいから、舌の発達した中国人の料理であるら
しい。
 私はソニトやオーギユートへ旅行して、蒙古人と食を
共にしたことがあるが、彼らの常食としているものは、
羊の塩蒸しであつて、こういう手の込んだ料理ではな
い。<略>

(6) 羊の水たき
           大山黙笑

<略> 考えて見ると、近頃都鄙いたるところに
成吉思汗鍋の看板が出ている。まさに一流
行の観がある。成吉思汗鍋ブームとでもい
うべきか。
 いうまでもなく、成吉思汗鍋は、羊肉を
熱火にかざし、ちよいと焼いて食べるだけ
のことで、鍋といつても、それはすき焼鍋
などのようなものではない。金網のワタシ
でも結構焼ける。そのワタシを少しばかり
細工し、改良したものに過ぎない。本場の
蒙古へ行つてごろうじろ。牛糞の火で熱し
たヤケ石の上で、ジュッ、ジュッと羊肉を
焼いて、シオカラ(醢)に浸して召し上つ
ている。鍋なんてものは全然ないのだ。し
たがつて「成吉思汗鍋」などという名が、
どこからも出て来ようがないのだが、それ
を日本では、ジンギス汗鍋、ジンギス汗鍋
といつている。なぜだろうか。
 説をなすものは、まことしやかにいう。
今から七百五十余年前の昔、蒙古草原に起
つた風雲児テムーチン(鉄木真)が、草原
に蟠居する各部族を征定して大蒙古帝国を
建設し、自ら汗位(皇帝の位)に即いてジ
ンギス汗と号したその際、ジンギス汗鍋を
もつて即位の大礼ぶるまいをしたというの
である。いかにも立派な故事来歴のように
聞えるが、しかしこの説は、決して文献に
よつたものではなく、日本人流の語呂合せ
のソウゾウ説に過ぎないと、私は見ている。<略>

(7) ジンギスカンなべ
           山本和夫

とうべつ川の
かわらで、
――砂の上に あぐらをかいて、
おいしかったな。
ジンギスカンなべ。
ひとりの
おじさんは月をあおぎ、
きょうは 私のたんじょう日。
うれしいぞと
――となりのおじさんの肩をたたく。
てつのなべの上では
ヒツジの肉が、じりじり音たて、
もうもう、もう、
トンネルの中のように
あたりは煙で、もうもう。
月も
けむります。
インドのにおいだな
と、私はおもったら、
となりの
もうひとりが
ちょうせんのにおい
と、はなをひくひく。
ちがう。
ジンギスカンはモウコじゃ
と、もうひとりが ごうけつわらい。
やけた肉はタレ(・・)につけていただきます。
タレ(・・)は、シオ、ニンニク、ダイコンおろしなど
いろいろでつくる。
「はっきりはいえぬ、わが家のひほう」
と、タレ(・・)つくりのおじさん。
――フランスのれんきん術のぼくしさまそっくり。
ここは北海道。
ないちから
きなすったふたりのおじさんの、
かんげいかい。
ジンギスカンなべの
けむりの中は、
世界のさまざまのにおいで、いっぱい。
けれど、
ヒツジの肉は、ニッポン人の舌の根にとけていきました。
(おおい。
 日本人だってたのしいよ)
川の音に
月の白い夜はふけていきました。
がや、がや、
おしゃべりの中にふけていきました

(8) ジンギスカンりょうり
           本山荻舟

<略>火炉を露天に持出
して松材を燃料とし、炉辺に片足をか
けながら焼くのが方式だとて、羊肉を
常食する蒙古の英雄は、陣中にあって
かくもしたろうとの連想から、日本人
の命名した原始料理風景で、燃料の不
足な蒙古では乾燥馬糞を利用するのが
本格だなどと称し、猟奇的興味と本質の美味とから、昭
和七~八年頃東京の各所に流行したが、これには示唆の
深い挿話があって、同年代の満州事変後公用を帯びて、
満州奥地から蒙古ゑ出張した軍の食糧研究家が、羊肉は
蒙古人の主食だから、本場のいわゆるジンギスカン料理
が飽食できるだろうと思いのほか、彼地ではなるほど羊
肉は豊富だが、ただ石鍋の水煮で何らの副材料も調味料
も加えず、無表情に貪食しているだけなので奇異を感じ、
理由を尋ねても言語が不通のため要領を得ず、不本意の
まま帰来して数年後、更に拡大した事変の勃発で再び蒙
古入りをした際、案内者に地元の知識青年を得たのを幸
い、実は指導の下心もあって以前の疑問を繰返したとこ
ろ、相手はほがらかに快笑したという。「大人、何がそん
なに不思議なのでしょうか、わたくしどもは羊が常食だ
から味をつけません、お国で主食される米だって、平素
は水で煮るだけではありませんか」に、二の句が出なか
ったというのである。烤羊肉は北京で発達した嗜好料理
であり、今日本に行われる狩場焼だの山料理だのと看板
の主材料はちがっても、みなジンギスカン料理と同じく、
原始への郷愁から生れた夢であることに変りはない。

(9) 光の歌
           石森延男
 
<略> 何日も日にあたらないユタカの顔は、青黒くなり、小
鼻に汗をかいていました。マサかそっとハンカチでふい
てやると、ユタカは目をさまして、
「なんだ、もう帰っていたの? 芝田先生のおばさん
が、なにか持ってきてくれたよ。あがりかまちのところ
においてある。」
 と指さしました。
「あら、どら焼きだわ」
 そこへ、岡野が、ユリ子をつれて見舞いに来てくれまし
た。 ユタカは、 起きあがって玄関のわきに腰かけまし
た。
「もう、そんなことして、だいしょうぶか。」
「すこしずつ、けいこしないとな。」
「ユリ子ちゃんも? いらっしゃい。」
 マサがあいさつすると、ユリ子は、
「これ、持ってきたの。」
「なんでしょう? いつもいつも。」
「ヒツジの肉よ。」
「まあ、めずらしい、どうもありがとう。」
「うちでは、ジンギスカンなべをして食べるの。」
「どんなことをするの? ジンギスカンなべって。」
「あみわたしみたいなもので、肉を焼いてね、たれにつ
けて食べるの。」
 ユリ子の話を岡野がとって、
「どうしてたべてもおいしいよ、ヒツジの肉は。野菜と
いっしょに煮てもいいし、すき焼みたいにしてもいい
し――。」
「ごちそうさま、とうさんも喜ぶわ。」
「おとなりに、芝田先生が、いらしたんだってね。」
「うん、ぼく、まだ、あっていないけれど……。」
「このあいた、ぼくたちのクラス、はじめて図画の時間
があったよ。」
「どうだった?」<略>
 昭和34年のトップは炊事遠足です。もっと早くジンギスカンを含む炊事遠足をした学校があったかも知れませんが、私が調べた新聞記事としては、この年の炊事遠足に初めてジンギスカンが現れました。
 (2)は脂落としの隙間を工夫した焼き面を2枚重ねて脂が炭火の中に落ちないようにした埼玉産のジン鍋を売っているという写真付きの記事です。で新聞掲載の写真ではなく、ジン鍋アートミュージアム(岩見沢)の所蔵鍋の写真にしたのは、金のシャチホコ型の取っ手をはっきり見せたかったからです。シャチが鍋の縁にかみついた形で使いますが、新品当時は金色も、65年たつと色があせるのですなあ。
 (3)は先頭に「一九五九年八月三十日のこと」とある深田久弥の「後方羊蹄山」です。その1年前まで在学した私の記憶では、中央ローンの木々は小さく日当たりがよかった。古河講堂近くには獣医学部や畜産などの研究棟があったから、研究用の綿羊を暫時ローンにつないでおくことはあったかも知れん。中央食堂の鯨カツ定食が憧れのメシで、勉強のため家畜を解剖した学生以外はジンギスカンなんて無縁で卒業したはずです。
 (4)は北大漕艇部が英国オックスフォード大クルーと名門4大クルーと茨戸で競漕した記録からです。私は昭和29年の全国優勝のとき、応援団員として凱旋してくるクルーの出迎えで札幌駅前広場で、彼らが持ってきたくたびれた優勝旗を見ながら、歓迎ストームかなんかやったように思うね。
 世の中広くて、ヨット部とボート部の違いがわからん人が結構いてね、よくヨットは大変でしょうというから、ヨットは風の力で走るので、漕がなきゃならんボートとは違うよと教えるね。はっはっは。
 (5)は10年近くの北京暮らしで「最早北京は第二の故郷のように懐かしい。再び北京が見られぬなら。せめて味覚の上で純粋な北京を偲ばせてくれるものを」という元赤坂ポントン主人という人が見付けた「渋谷の恋文横丁附近の『珉々』」礼賛です。
 この中川氏によると「珉々の二階から眺めると、これ等の市場の屋根が見え、何か東安市場の東来順の二階にでもいるような錯覚に捉われる。」そうですが、その渋谷の珉々は閉店して、いまはありません。
 (6)の「灰色時代」を書いたのは前年10月は道労働部長だった吉田博です。同氏の随筆集「四季の北国」によると、北大に入ってから北海道帝国大学新聞会の会員(165)になり、文筆家たらんと修業したらしい。編集者小松宋輔氏が「鈴木吉蔵さんと話したとき、『道庁で文章を書けるのは吉田博さんと俺ぐらいだ。あとはいないよ』といわれたことがある。このとき吉田さんは労働部長、鈴木さんは石狩支庁長でなかったろうか。」(166)と吉田氏のコラム集「五風十雨」に書いているくらい〝書ける人〟になったのです。
 若いとき推理小説家を目指し、庁内で知られた書き手だ。この後でそれぞれ示しますが、料理研究家の日吉良一が書いた「成吉思汗料理事始」の駒井徳三命名説と駒井徳三の娘の随筆(167)を根拠みたいに取り込み、昭和11年に札幌でジンギスカン試食会を開いたという昔の関係者の話を加えて「北海道農家の友」に「成吉思汗料理物語り」を書いた。それをまた信じて広めた人々がいて、取り消された駒井徳三名付け親という作り話が蘇り、それゆえ生成AIが駒井命名説が有力と仰せられるのである。知らんかっただろう。ハッハッハ。
 (7)は元陸軍主計少将の川島四郎が農学博士として書いたものです。詩の形を崩さないようしましたが、蒙古語は川島の訳がどうかわかりません。川島は糧友会の機関誌「糧友」の昭和9年4月号から翌10年5月号まで「満蒙FOOD記」を書いていますから、そのころ行った満蒙調査で見た蒙古兵士の夕食の様子でしょう。
 また「日本の成吉思汗焼」は「戦前はもっと繁盛していました。」といってますが、いまほどジンギスカン料理店があったはずはないので、糧秣本廠の食糧研究担当将校として出入りした東京・高円寺にあった成吉思荘の繁盛ぶりを指してのことでしょう。
 (8)は「はしがき」によれば、この本の大半のことは、日本経済新聞記者として同紙日曜夕刊の「味どころ」に掲載したことだそうです。紹介した店は都内高円寺の成吉思莊、八重洲の成吉思館、渋谷の珉々の3店だけです。
昭和34年
(1) 清流に涼を求め
           藻南公園で炊事遠足

 ○…濃いみどり。澄んだ豊平川の流れ。プーンと鼻をつく〝ご馳走〟の香りが食欲をそそる。豊平川の上流、札幌市南公園はこのところ炊事遠足のグループや家族づれで大にぎわいとくに十九日は好天日曜日とあつてざつと三十組が即製のカマドを囲んだ。
 ○…ブタ汁にカレーライス。〝ジンギスカン鍋〟もとび出すにぎやかなご馳走くらべ。「わあい、コゲちやたヨ」「しよつぱいや、このカレー」なれぬ手つきで料理をつくる子どもグループも多く、明るい、元気な笑いをひだまさせながら野趣を満喫していた。(夏空のもとで炊事遠足をたのしむ子ども達=藻南公園で)


(2) 成吉思汗なべ 埼玉<横書き>

埼玉物産あつ旋所(札幌市南一西一)は煙のでない成吉思汗なべをあつ旋している。これは、昨秋に同県のカマドメーカーがパテントをとつた品で、鍋が二重になつているため油が直接火の上に落ちることがなく、従つて油ははねないし、煙はでないというもの。
資料その7
八―十月は野外パーテーのシーズンであるから成吉思汗なべの好きな道民にはウケているという、同県では、家の中に持ちこんでも従来の鍋のように煙が立たないから清潔感は高いと自慢、薬味はネギ、パセリ、シヨウガ、コシヨウ、ニンニク、七味唐がらしなどを使い一時間位肉をタレに漬けてから焼きます…といつた食味調理法つきで宣伝、中型(一般家庭用、径二十六㌢㍍)九百八十円、大型(営業会食用径二十九㌢㍍)一千二百八十円=小売価格=であつ旋している。(埼玉県の二重成吉思汗なべ)

(3) 後方羊蹄山
           深田久弥

 網走から準急「はまなす」で札幌に着いたのは夜の十時であった。一九五九年八月三十日のことである。
 ネオンと自動車の氾濫とている駅前へ吐き出されて、ずっと北海道の寂しい田舎を廻ってきた私は戸惑った。そこへ一人の男が寄ってきて、
「お宿ですか」と訊いた。<略>
 朝飯をすますと怱々に宿を引き払って賑やかな町へ出、ともかく、店をあけたばかりのビヤ・ホールへ入った 今日一日は妻子のために札幌見物に宛ててある。生ビールをあおりながら行を考えた。<略>
 植物園へ行って長い時間をつぶし、それから北大の構内をブラブラした。クラークの銅像のあるあたり、大きなドロの木が幾本も豊かな影を落とし、緬羊が遊んでいて、北海道らしい風景である。
「どうだお前、北大へ入るか」
「うん」
 小学六年生の次男坊は大きく肯いた。<略>
 夕めしを食うために狸小路という繁華街へ出た。古本屋があったので、入って書棚を見ていると、松浦武四郎の『後方羊蹄日誌』があった。千八百円だという。それは高い。わずか二十数枚の、しかも綴じ糸の切れた古びた和本である。値切ったが負けない。
 汚れた大衆食堂へ入って、三人でジンギスカン鍋というものを食ったが、その間も私の頭から『後方羊蹄日誌』が離れない。とうとう食事をすますとまた古本屋へ引返した。言い値通り買うと、主人は恐縮して手拭い二本景品にくれた。<略>

(4) 茨戸朝日招待レガッタ(昭和34年)
           北海道大学漕艇部

 朝日招待レガッタは,この年第7回を迎えたが,朝日新聞社北海道支社長中川栄造氏(一橋OB)の尽力と北大漕艇部はじめ道内ボートメンの熱意が実って,その会場に初めて茨戸1,000mコースが選ばれた。しかも名門オックスフォード大クルーと日本の一流クルーが対戦する国際エイトレースである。日本を代表するエイトクルーとして,いわゆるビッグフォア,東大,一橋大,早大,慶大とそれに地元北大が招待されていた。茨戸での朝日招待レガッタ実現の意義について新聞は次のように報じた。
 わざわざ札幌の茨戸コースで今回の朝日レガッタが行なわれるに至った事情の一つは,この第2回(昭和29年)朝日レガッタで来日したケンブリッジ大と北大との因縁からでもある。この年の全日本選手権準決勝で,北大はケンブリッジ大と相まみえ,見事にこれを破り,全国優勝したのだった。ケンブリッジを破った北大の名はこの日とともに全世界のボート界に伝えられた。いまその北大のホームコース茨戸はケンブリッジとならぶ名門オックスフォードクルートを迎える。何か深い因縁が……。ボートの歴史を知る人は感慨をもって明日の試合をみつめている。<略>(朝日新聞,昭和34年8月29日)
 レースの前々日,北大学長主催の歓迎パーティーも開かれた。バスで札郊外羊ヶ丘におみむき,青草の上でビールを乾し、ジンギスカン鍋をつついてレース前のひとときを楽しく過ごしたものである。練習の合間やひ,円山の合宿所では北大クルーの面々も『もう少し身を入れて英語をしておくのだった……』と後悔しながら,片言と身振手振りで〝ダークブルー〟と談笑する楽しい時間を持った。同じ釜の飯を食って接した〝ダークブルー〟は〝オアズマン〟の模範という呼び名から想像していた固苦しい英国紳士でなく,自分たちと同じように若いエネルギーにあふれた茶目っ気も負けん気も強い愛すべき〝ボート漕ぎ〟たちであることを知ったが,大いにうちとけたときには,早レース当日を迎えていた。<略>

(5) 北京の烤肉
           中川三吉郎

<略> そこで烤羊肉と云うことになるのだが、日本の羊肉は臭気が強くて、中国のものとは比較にならぬと云われるが、近頃は飼料の研究が発達したためか臭気は無く淡々たる良い味である。烤羊肉の肉は薄く切る技術が大切で、北京でも日本の「河豚さし」のように極めて薄く切って皿に並べる。この家のもかなり薄く切って歯ざわりは軟かい。前に書いた淡口醤油に浸して灸くことも万事北京のやり方通りである。更に嬉しいのは中国から種子を持って来て土浦辺で栽培していると云う香菜があることと、これだけは東京では見られなかった白胡麻の一面についた焼餅しやおぴん(一種のパン)があることである。更に酒棚には中国渡来の天津白乾児ぱいかる、山西汾酒しやしいふえんじう、貴州の茅台酒まおたいちゆう、あの懐しい壜に入った山東白蘭地酒ブランデーかめに入った紹興酒しやおしんじうもある。皆本物であって、日本製中国酒とは全く味が違うのである。錫の銚子は無いけれども、白乾児をチビチビ舐めながら、或は焼餅を噛じりながら、香菜のあの中国的香りの滲みた烤肉を食べる――これで私には満点だった。(元赤坂ポントン主人)

(6) 灰色時代
           吉田博(51)

 格別想い出すことがないのは凡々たる一学生に過ぎなかつたからか。ほどほどに勉強ほどほどに運動ほどほどに悪友と連れ出つてオヤキ屋通いといつたところ。水泳部に入つていたからよく昼から抜け出して千人風呂の温泉プールに通つた仲間には全国の記録保持者になつた時任、神などという強者もいたが自分は万年補欠。泳ぎ疲れた頃にはプールの向うに秋の月が懸かり、遠くから三味線の音が流れてきた。
そろそろ大人の世界に心惹かれるものがあつた、卒業近くで実家倒産。父は樺太へ落ちのび、母と二人で借金整理に悩んだ。進学か就職かどちらにも自信の無いまま一番旅費のかからないH高校を受けたが見事落第、これで進路は決つたものと区裁判所の雇員になつた。父の残した袴を着用して通い二十二円の月給取りになつた。
上役や同僚ともたまさか一杯屋にも寄つたが、親譲りか初手から酒には強かつたが美味とは思わなかつた。一年足らずで努めの空気が厭になり終生を託す途に非ずと決意辞表を出したその頃「新青年」を愛読、今でいう推理小説家たらんと独り妄想したりした。
のんびりしていたが昭和恐慌、三・一五事件と世の中は重苦しく変つてゆくなりかけで、私にとつてもいうなれば灰色のロウーハイテイーンへかけての時代であつた。(道庁総務部付)

(7) 成吉思汗料理考
           川島四郎

 砂漠の夜の詩情

 蒙古砂漠の夜、陽はトップリと暮れ果てて、紺碧の空には満
天の星、ときどきスーッと尾を引いて飛ぶ流星。
 蒙古騎兵は砂漠の中に露営の包(天幕)を張り、包外に格子
鍋を持ち出して羊肉を焼くのです。火のまわりに集る兵は馬乳
で作った酒に微醺をおび、格子鍋のすきからもれる乾牛糞
の焔の火照りに、顔が赤く映えています。一人の兵が
興にのって詩を口ずさむと、全部がこれに和して唄いました。

 葡萄の美酒夜光の杯
 飲んで琵琶を馬上に催さんと欲す
 酔て沙場に臥す君笑こと莫れ
 古来征戦幾人回る

 成吉思汗焼というと、かつての昔、私は蒙古の騎兵隊と共に砂漠
の旅などしたときの、男性的な感激に浸り切つていたあの頃がなつ
かしく思い出されます。

 日本の成吉思汗焼

 東京にも大阪にも、成吉思汗焼と銘打って羊肉を焼いて食べさす
店があります。昭和二~三年ころからやり出したことで、支那の北
京の朝陽門外の有名な成吉思汗料理をまねてやり出したものです。
 いまでもそうとう流行っていますが、戦前はもっと繁盛していま
した。なにしろ羊の肉というものが珍しく、一度食べてみようかと
いう珍しもの食いの好みに投じたし、また、たいていのものに食べ
あきている客への接待に、こうした変ったところを狙う心理も手伝
っていました。
 またその調理の方法が、剣道の面の金具のような太い格子の上反
りのある焼器で焼いて食べるので当時としてはどこかに新味があっ
て、大向にうけたものです。<略>

(8) 野性のたのしみ・ジンギスカン
           佐久間正

 ジンギスカンなべは北海道の名物ということになっているが、長野あたりでも農家でやっている。その名前から蒙古人の料理と思われがちだが、蒙古人は羊を主食としているけれど、料理法はジンギスカンなべとは違うようだ。北京の烤羊肉(かおやんろう)が日本にきて名前を変えたというところだろうが、東京でこの専門店があちこちにできたのは、満洲事変のはじまったあと、昭和七、八年ごろだったから、当時の気分に合ったこの名前を考えだした頭のいい名付け親がいたと想像できる。
 いまはまた、バーベキューの流行と歩調を合わせて上り坂だ。戦陣料理とうたっている店があるが、人間の食欲は野性たのしみを忘れない。生の肉を火にあぶって口に運ぶ原始と変らぬ動作が近代人の喜びをさそう。ジンギスカンなべの魅力はそれに尽きる。調味料などは戦前より大陸的になったとでもいおうか。一般の好みにあわせて香気も強くなったようだ。<略>
 昭和35年の(1)は道新にしては珍しい食の話題です。昭和33年に入社した元道新記者によると「食い物のことを書くようじゃ道新も終わりだ。嘆かわしい」なんていう硬派の長老記者が結構いたそうですからね。7階建てのホテルと言えば、このころなら札幌グランドホテル以外にない。
 でも同ホテルは昭和33年5月15日付北海タイムス夕刊3面に「明15日より6階新設食堂で始めます/お一人前350円」という横長広告を出していたのだから、その新食堂ではやはり排煙が難しくてジン鍋だけ7階屋上に移したのではないか。
 しかし、その広告には「例年ご好評を頂いて居ります……」という短文が入っているので、それ以前にも予約制で屋上でやっていて、33年5月に初の新聞広告を使って集客に本腰を入れたとも考えられます。この後の昭和48年のところで作家檀一雄が「私は、札幌では、グランド・ホテルの屋上の精養軒で喰った。」と書いた本を取り上げるので、そこで改めて当時のジンギスカン事情を検討してみましょう。
 (2)は「週刊現代」のビアホール紹介の記事ですが、以前、この店のサービスマッチのラベルの写真を中国料理研究家から頂いたことを思い出し、資料その8として加えました。コンロが七輪とは思えない鍋型だし、鍋は取っ手らしいものが見えないから古いタイプだが、焼き面の脂落としの隙間が星形に見えるから初期の星形鍋と見たね。後ろのT型物体は全体を持ち運びするためのハンドルじゃないかな。
資料その8
 (3)は詩人更科源蔵が郷土史研究家という肩書きでタウン誌「さっぽろ百点」に連載した「さっぽろの街と道」からです。彼は昭和35年には薄野界隈でジンギスカン店が目立ち始めたので「ラーメンの町」の次は「札幌は成吉思汗の町」と茶化されるんじゃないかと気にしていたのですね。
 ところがどうです、それから41年後の平成13年、北海道遺産協議会が設立され、第1回の北海道遺産としてラーメンを含む25件を決め、さらに3年後の平成16年「ジンギスカン料理の発祥については諸説があるが、北海道でもっとも広く、かつ特徴的に発達した。」(168)からと、ジンギスカンも北海道遺産にしてくれた。
 お陰で全道民は遺産の相続人として、遺産のジンギスカンがなくならない程度に輸入肉でも食べ続けなきゃならん―と思ったことは多分ないだろうね。はっはっは。
 (4)は親中派で日中国交回復を図った衆議院議員松村謙三の秘書、田川誠一の「訪中一万五千キロ」からです。田川は慶大を出て朝日新聞の記者になり、戦時中は陸軍に召集されたが、戦後、朝日に戻り政治部の記者などの後、松村謙三の秘書となり、昭和34年10月、松村訪中団の一員として中国に入り40日余りの間に蘭州、昆明といった奥地まで行き、周恩来ら中国の要人から庶民まで接触、交流を図りました。
 この本の付表に中華人民共和国の中央・地方機関政党役員名簿があり、その中の国務院副総理の一員で秘書長として習仲勛の名前がある。これが今の習近平国家主席の父親。それから田川誠一が昭和48年に出した「日中交渉秘録 田川日記~14年の証言」の19ページに「『支那の夜』で抗議される」として、ほぼ同文が載っています。
 (5)は石原巌徹の「くすぐり人生」からです。これは昭和13年に石原が石敢当というペンネームで書いた本「雑談支那」では、ジンギスカンの命名者は諸説紛々として定めにくいと書いたのに、この本では北京の中国語新聞、順天時報の亀井陸良記者が記者クラブの忘年会で烤羊肉をジンギスカン鍋と呼ぶことを提案し、皆が賛成したとはっきり書いたほか、「雑談支那」では「ジンギスカン鍋」ではなく「ジンギスカン焼」の方が適切だと書いたのに、ここではあっさり題名を「ジンギスカン鍋」にしている。
 前言を忘れたのかといわれたたら、石敢当と石原巌徹は別人だと言い張る気だったか。私はね、亀井より昭和6年のところで取り入れた中野江漢が「食道楽」に書いた時事新報記者の鷲沢與四二発言説が本当だろうと見ております。中野は天津の京津日日新聞の社会部長を務めたこともありますからね。はい。
 (6)は下宿でジンギスカンを食べられた畜産専攻組の思い出です。私も同じ下宿にいた畜産のO君から、げんこつ大の馬肉をもらったことがあります。ストーブをたく季節じゃなかったので、食べ方を考えようと一晩置いたら匂うようになったので、腐ったと思い捨てちゃった。後でそれが最高の食べ時だったのさとO君に惜しまれました。いまでいう熟成肉のなりかけだったんですなあ。
 (7)は、ちょっと場違いの感じがしないでもないが、家畜育種学の正田陽一東大教授ず雑誌「遺伝」に書いた「「日本人の食生活と家畜」」からです。
 (8)は雑誌「農業世界」の座談会からです。磯辺さんは「観光地帯で、そこのところの草資源をうまく利用して、それをジンギスカン料理にして食わせるということが、一つ成り立つのじゃないか。そんなことを考えて、数年前長野県の信州新町というところに講演に行ったら、それがちゃんとすでにあった。あそこはダムを作って、人造湖ができて遊覧客がきている。」(169)とも発言している。信州は北海道に負けまいと早くから観光客誘致に羊肉を組み込んでいたんだね。
 それから磯辺さんの話にあるサルダンは、ケプロンが肉がうまいから羊はこれを飼おうと推奨した品種サウスダウンの略称でしょう。
昭和35年
(1) 札幌のジンギスカンなべ
           北海道新聞「珍味往来]

▽…『ホテルの出張サービス』といってもちょっと見当がつかないが、ジンギスカンなべのことだ。七階建のホテルの屋上、ヨシズ張りのジンギスカン専用室をつくったほか、希望によってなべ、コンロ、材料持参の出張までするわけ。ここ二、三年、札幌でのジンギスカンなべの普及はすさまじい。月寒学院が一人六百円ナリ、食い放題で店開きしたのが、雄大な風景と相まって大当たりしたのがはじまり。市交通局がロープウエー頂上にその施設をつくれば、料亭があずまや風の部屋を特設するなどちょっとしたジンギスカンなべブーム。札幌と畜場であわれ命を断ったメン羊は、四、五年前までは年に三、四百頭くらいのものが、一昨年は千七百頭、昨年は三千頭を突破してしまった。
▽…肉はなんといってもロース、後脚のモモ、前脚の肩ロースが一番。つぶして一週間ぐらいが食べごろで、それも半冷凍ぐらいが味もよいし見た目もきれいだ。問題はタレ。
〇・一八㍑五十円から七十円くらいで市販されているが、上等のしょうゆをベースに、化学調味料、砂糖、野菜スープ(玉ネギ、ニンジンなど)それにニンニクやリンゴのすりおろし、ショウガ、コショウ、トウガラシなどを適当に加える。肉をタレにつけてから焼いても、焼いてからタレをつけて食べてもよい。
▽…剣道のお面のようなあのなべ。モンゴルの英雄成吉思汗が西方遠征のさい、カブトをなべに、剣をハシにしたのだという説もあるが、あのなべとタレは日本考案によるものらしい。

(2) ミュンヘン
           週刊現代

 南の繁華街、難波新地の真
中にある一はわ高い山小屋式
の三階建。入口に立った巨漢
のおじさんは金モールの将官
大礼服、八の字ひげの名物白
系ロシア人。
 いろり、スタンドなど、山
小屋式にふさわしい木製のテ
ーブルと椅子。生ビールとジ
ンギスカン焼でスタートした
店らしい雰囲気。二階
がジンギスカン焼。
 備長の炭火にかぶせ
た、かぶとを伏せたよ
うな独特の鉄の鍋で、
たれつけした羊肉(豚
肉)と玉ねぎを焼く。
一人前二百円。立ちこ
める煙の中で、冷たい
生ビールを飲みながら
この熱い肉を食べる。
まさに野趣満点。
 専属バンドの音楽も流れて
温かい雰囲気が漂よう。しか
し大陸を知っているものには
荒涼たる蒙古の雪原や酷寒の
大陸の街角を、立ち昇る焼肉
のにおいと煙の中に思い出さ
せてくれる郷愁の一時でもあ
る。<略>
 このほか一階ではてっちり
魚すき、肉すきなどを食べさ
せる居酒屋式のパートもある
が、ジンギスカンを食べる雰
囲気を邪魔してはいない。
 三階、別館には和室もあり
宴会や会合にも利用される。
 昼十二時半から夜十時半ま
で。夕方六時から九時頃まで
はサラリーマン、アベック、
家族連れで、四十余りのテー
ブルも満員だ。

(3) ススキノ東街 ”さつぽろの街と道”第五回
           更科源蔵

<略> いつか花森安治という口の悪いお婆さんのような爺さんが来て、
文化都市札幌という鼻ツぱしに、「ラーメンの町」という一発をく
らわしたことがある。そのためでもあるまいが、最近はラーメンと
いう看板があまり目立たなくなつた。しかし東宝公楽の横ツ腹のと
ころだけは、「花森爺クソクラえ」というようにズラリとラーメン
屋が並んでいる。世人名付けて「ラーメン小路」という。堂々本通
に面を向けているので、小路というのも横丁というのも少しおかし
いが、感じはたしかにラーメン小路といつた感じである。庶民の感
覚というものはいつも生きた実感をつかんでいるし、こんなところ
にこんなのがあるのも、停車場通りでも、南一条通りでもない、吾
等がススキノのものである。
 ラーメンという字が見えなくなつたかわりに、新に成吉思汗とい
う、大正時代の人には何と読むのか判断し兼ねるような看板が多く
なつた。またしても口の悪いのが来て、札幌の文化は成吉思汗文化
だとか、「成吉思汗の街」だとかいわれそうな気がした。これはス
スキノの東西の街並に共通した感じだつた。もとススキノの停留所
名は「薄野交番前」といつた。昔の交番は大門通りの西の方にあつ
たというが、今は東の方に移つてしかも昔のお妓さん達が赤い信心
をかけたお稲荷さんが、何処かへ追いはらわれて、そのあとにデン
と坐つてしまつた。札幌にはめずらしい赤い鳥居が沢山あつた。如
何にも下町風な感じがなくなつたのは淋しい。〈次回は都通り〉

(4) 〝支那の夜〟で座が白ける
           田川誠一
 夜、接待員一同が、私たち一行をジンギスカン料理に招待してくれた。私たちも彼らの労をねぎらうため、計画していたが、先を越されたわけだ。
 王府井の一角にある「東来順」という有名な料理屋である。三階建ての木造のあまりきれいとはいえない店だが、店内はお客でゴッタがえしていた。家族づれや友人同士などジンギスカン鍋をかこんで、酒を飲みながら羊の肉を突ついている光景は、日本の大衆食堂といった感じだ。
 一行は広い部屋をとって、強い酒をのみながら、和気あいあいのうちに冬の夜を過した。ただちょっとしたトラブルがあった。お酒が回って、余興が始まり、中国側から日本のソーラン節などがとび出し、歌合戦となった。中国側の諸君はなかなか芸達者で、美声と美事な歌いぶりにつられたせいかわれわれ日本側の方も新聞記者のC君が映画説明などをやって応酬、拍手をあびた。ところが調子にのったC君、感激のあまり? 〝支那の夜〟をうたい出した。続いてB君が立って、中国語で、〝満州娘〟というやつを、歌った。いずれも占領中生れた歌で、日本で流行したもの。歌をきいて私は、思わず、ハッとした。新中国の人たちには、こうした歌が、いい感じを与えないということをきいていたからである。
 案の定、中国側からはいままでのにぎやかな拍手もやみ、座は白けてしまった。<略>

(5) ジンギスカン鍋
           石原巌徹

<略> 大正の初年、北京に集まった日本の新聞記者にはゴウケツが多かった。ある年、記者クラブの忘年会が前門外の正陽楼で開かれた。料理はこの店の名物「カオヤンロウ」すなわち、青天井の下でモウモウたる焚火の煙にむせびながら、野球の捕手のマスクの鉄の部分を平たくして直径を三、四倍にしたような器(チイヅと呼ぶ)で、東京の牛肉屋の皿盛肉のように薄く切った羊の肉を焼きながら、テンプラを揚げる時に使うような長い箸でつまんで食べる……左手には燃料にできるほどの強烈な拍手白酒(パイカル)の盃を持つ……あれである。
 誰の発案だったかよく判らないが、記者連中いずれも初めての経験で「コイツはイケル」と大好評。メンバーの一人、順天時報の亀井陸良先生、盃を口に含みながら考えていたが、フト彼の文芸感覚は、この野趣満々たる食法に「蒙古の英雄ジンギスカン野宴の図」をイメージに描かしめた。
 「ヨウシ! こいつをジンギスカン鍋ということにしよう」
 ゜なに! ジンギスカン鍋? そりゃいい」
というようなワケで、この名称が創作? された。
 それから、北京居留民の間にこの料理とジンギスカンの名がひろまり、さらに日本からの旅行者に伝わり、やがて東京に渡って、築地の「浜の家」が日本での元祖になった。もちろん、東京のは日本式にお上品にすぎたり、燃料や薬味がちがうので、本場の味も野趣もみることはできない。<略>

(6) 「じんぎすかん鍋」に寄せるオムニバス
           吉田豪介 〈HBCテレビデイレクター〉

 学部時代は北大に隣接する明治天皇ゆかりの地「偕楽園」近くのFさんというお宅に下宿していた。剣道部キヤプテンで同じ畜産学科の倉方という男と、竹野という(東京学大をすべつて)今田敬一画伯の森林美学を専攻していた男と、三人が下宿人のメムバーだつた。秋もふけてストーブがとりつけられると待ちかまえていたように「じんぎすかん」をはじめた。たれ・・つくりの名人だつた深沢さんという肉製品教室の助手から「本格モルト」級のたれ・・をもらつて、百匁百円也の羊肉、三本の長葱と一本の一升瓶を献立に、あらかじめ学生服もズボンも脱いでのパーテイだつた。赤々としたストーブの上に直接あぶらをのせ、じゆうじゆうという音に完全殺菌を確かめ、食欲にさそわれるまま、かねて残しておいたべんとう箱の御飯で舌鼓をうつた。三人の顔と四方の壁がギトギトと裸電球に映えるころ、指先から五体へ精力がみなぎるような快感にさそわれ、ひとしきり「都ぞ弥生」を高唱し、やがて「木刀の素振」がはじまるのが常だつた。階下のおぱさんがどなりこむのもしぱしばだつたが「おれの動きなら軽いから、お前たちのせいだ。」
 倉方はいばつた。
 「畳がしつとりとすべつて道場みたいだ。」
と専門的な意見もぬかした。あぶらがしみこんでいたから……。木刀の素振りとギラギラした顔は妙なコントラストで「成吉思汗」をしのぱせ、開けはたれた窓からは、あぶらぎつた煙が青春のエネルギーをのせて長い夜のしじまに流れていつた。

(7) 日本人の食生活と家畜
           正田陽一

 緬羊 緬羊は毛を取ることを目的に飼われている
家畜だけれど,諸外国ではその肉の利用も極めて盛
んである.ニュージーランドは,かつてその牧羊業
が隣国オーストラリアとの競争に敗れて衰微しかけ
た時,冷凍船の出現によって羊毛生産を羊肉生産に
きりかえて見事にたち直り,現在世界最大の羊肉輸
出国になっている.わが国では最近ようやく羊肉が
デパートの食品売場に顔を出してきた.一寸特有の
香気があるので嫌う人もあるが,料理の仕方で除く
ことができる.ジンギスカン料理などには向いてい
る.肉色は赤色で繊維が細く柔らかく、水分が少な
くて引きしまった肉質である.緬羊はわが国では北
海道,東北の両地方に多く飼育され,両者をあわせ
ると全国頭数の59%をしめている.府県別に見る
と,北海道を別格として,福島,長野,岩手,山形,
秋田,新潟,群馬の各県に多い.これらの県はいず
れも養蚕の盛んな土地であり,蚕の喰べ残した桑の
葉や蚕糞などを飼料として利用しているのである.
日本の緬羊飼育の特徴は,農家が1~2頭ずつ屑物
を飼料として副業的に飼っていることで,前述の牧
羊国で1群1000~1200頭を放牧して飼っているの
と対照的である.品種はほとんどコリデール種ばか
りである.

(8) 自然の環境で味わう野生の肉
     ジンギスカン料理やウサギ狩りの魅力は大きい
         東京大学農学部教授 磯辺秀俊
         農林省振興局調査官 加藤俊次郎
         本誌編集長     村田義清

<略> 村田 イノシシ、羊の肉も地方
で食べるといやなにおいが感じな
いものですね。
 磯部 羊の料理はタレが一番大
事。タレでだいぶにおいは消され
る。それと調味料。
 加藤 今、畜肉が不足している
状態だから、畜産局はこれから羊
の肉を大いに奨励しようとしてい
るようです。僕は羊の肉は非常に
いいと思う。日本では羊の毛とい
うものは将来性がない。最近はア
クリル系繊維というものがあっ
て、世界的に見ても羊の毛はだん
だん発達しませんね。まして、日
本のような環境の中で、羊の毛は
それほど期待できない。
 もう羊は、毛よりも肉という方
針で大いに利用する。これを生活
の中にだんだん植付けていくこと
が大事ですね。
 磯辺 そうなると、肉用の品種
にだんだん切りかえていかなくて
はならない。
 ちょいと話がそれるけれども、
この間あるところでコリデールと
サルダンの一代雑種を食べた。お
いしいですよ。そういうことを考
えれば、まだ羊の肉の伸びる道は
ある。羊の肉については、私は強
気です。畜産局は前はだめだとい
っていたが……。
 乳牛じゃ利用できないような草
地でも羊は利用する。外国でもそ
うです。放牧するときに乳牛の利
用して残したところで、メン羊、
ヤギをやるというのが、一つの経
営の方式になっている。
 村田 ヤギ肉にしろウサギ肉に
しろ、サービス農業のやり方で、
地元で料理を提供するということ
になると、都会人が都会で食べる
よりは違った興味を持ってくるわ
けですから、大いに伸びる余地が
あると思うのです。
<略>
 昭和36年は駒井徳三命名説が現れ、すぐ取り消されたというジンパ学上、まことに重要な年です。でも資料の並べ方は本や雑誌の出版年月順なので(1)は元日発行とする「スパイスの本」です。著者桐島龍太郎は「僕の本業は明治屋のPR雑誌『嗜好』の編集」で「編集屋」らしく「この本は多くの専門家がいろいろな角度から研究した結果を、僕がダイジェストしてまとめたものと考えて下さい。」(170)という通り、香辛料とその料理の本です。
 (2)はジンギスカンよりも、馬糞風はじめ当時の札幌の様子が懐かしくて加えました。「冬中の馬橇のフン」はね、どんどん雪が積もっても、いまのように丁寧に道路の除雪はしなかった。だから物を運ぶのは馬橇が主役で、降る度に馬橇が糞を混ぜて滑り固めるので路面が高くなり、オーバーにいえば、道路際の低い家では、外を見ると雪道の下層しか見えなくなる。でも皆それが当たり前だと思っていたね。ハッハッハ。
 「スキー場のすぐそばまで市電」は円山公園前の市電の電停から荒井山までですね。スキー靴を履き、長いスキーと竹のストックを担いで往復しましたね。
 (3)の著者名「生々培」は「しょうじょうばい」つまり猩々蠅というペンネームからわかるように筆者は生物学者にして歌人です。全ページの3分の2を占める「流氷のくる町」は、北海道博覧会が開かれた昭和57年前後の札幌の様子と更科源蔵、本庄陸男、中野重治の作品を引用しながら道内のあちこちでの見聞と内地人らしい感想を書いています。
 (4)は谷崎潤一郎に関係ある手紙の末尾です。ここに出てくる「たをり」は、坂本葵著「食魔谷崎潤一郎」によると、「谷崎松子夫人の子の渡辺清治・千万子夫妻の娘で「たをり氏は血のつながった孫ではないが、食の趣味は谷崎から多大な影響を受け、祖父顔負けので、『食べる名人』ぶりを発揮している(小学生のころいつも給食を食べす、先生に好きな食べ物は何かと聞かれて『鯛のあら炊きとぐじの酒蒸し』と答えた<略>)」(171)ぐらいだからジンギスカンと聞き、張り切るわけです。
 (5)は朝日新聞の「きたぐにの動物たち」にある「ヒツジ」です。これでは精養軒で試食会がいつ開かれたか書いていないが(6)で出てくる日吉良一は「北海道で『成吉斯汗料理』を最初に初めたのは精養軒で戦後民選知事第一号の田中敏文氏等が是非にと勧めたのが実現したので、精養軒の女将の話によると昭和二十二年の事だつた。」(172)と「北海道の文化」に書いています。
 33年後の平成6年に出た「本多勝一集 第7巻」の中に「きたぐにの動物たち」があるので連載は本多記者が書いたことがわかります。読み比べると、先頭の「終戦直後ホクレン(北海道農業共同組合連合会連絡協議会)」は「敗戦直後ホクレン(北海道の農協の連合組織)」(173)また後ろの「回教国」は「イスラム諸国」(174)と手直しされています。
 いまとなっては、なぜアメリカ兵が喜んだかわからない人もいると思うので説明しよう。昭和20年、無条件降伏をした日本は連合国軍に占領され、札幌にもアメリカ兵が昭和34年まで駐留しており、精養軒で羊肉が食べられると喜んだということです。我が北大ヨット部ができて間もなくのことだが、米兵が支笏湖に放置していた中古ヨット1艇を怪しい米会話で交渉して無料でもらい受け、練習用にしていた歴史があります。
 (6)は芸者を月寒までで連れて行き、そのお酌でビールを飲み、ジンギスカンを食べた話です。書いたのは東京の永峰商事の永峰孝雄社長で「私どもの札幌の芸者」という言い方からすると、永峰商事によるお得意さん接待の大ジンパでしょう。永峰孝雄というこの人を検索すると、発明協会が毎年行っている全国発明表彰の昭和35年発明賞受賞者に名前があり「ビニール製すだれほか」で実用新案番号430704号を得た(175)ことがわかります。ただ、これでは企業名が永峰化成工業となっているので、永峰商事の社長と兼務していたのでしょう。
 (7)が全日本司厨士協会北海道本部相談役兼研究部顧問という肩書きを持つ料理史研究家日吉良一による駒井徳三命名説マッチポンプ事件の経過を示す3記事がメインです。
 題名は「成吉思汗料理事始」としたが、内容は記事をそのまま引用せず、私が要約した説明と日吉の3誌に書いた記事ごとの命名説に限りました。
 (8)は俳人須知白塔が戦前北京を訪れて食べた烤羊肉の思い出です。
昭和36年
(1) 焼きもの
           桐島竜太郎

<略> 羊肉(マトン)は、好きな人はたまらなく好きらしいが、ぼくにはどうもあの匂いがなじめません。ただ一度美味しいと思ったのは、北京で食べた烤羊肉(カオヤンロー)。これは少しも臭味を感じませんでした。張家口から羊を引いて来る途中、何とかいう川の水を飲ませると臭味がなくなるのだとか、特別な炭で焼くからだとかいいますが、これはどうもマユツバです。
 ぼくは、あのタレの中に入っている香菜(シヤンツアイ)と称する香草(ハーブ)に羊の臭みを中和するカギがあるのではないかと思われるのですが、どんなものですか。

(2) 冬の札幌
           実業之日本

 北海道は夏になると「内地」から観光
客がワンサと押しかけるし、都会ギ員、
県会ギ員、市会、町会、村会などのギ員
どもが、いろいろの名目をつけて、われ
われの「税金」をラン費するので有名で
あるが、稚内あたりならイザ知らず、札
幌はちっとも涼しくない。
 去年の夏も八月はじめに行ったら三十
度を越していたのにはおどろいた。
 五月頃行くと、冬中の馬橇のフンが雪
中から姿をあらわし
それが乾いて「風と共に去りぬ」で、馬
フン風というのが吹きすさんでいてヒド
イ。
 それよりも、冬行くことをおすすめす
る。
 アチラの人は雪が降っても傘をさす人
はほとんどいない。サラサラした粉雪だ
からである。
 ビアホールなどにはいると、入口で給
仕の少女が羽箒をもっていて、さっと掃
いてくれる。
 ストーブの真赤に燃えているのを眺め
ながらのむビールのうまさは、なんとか
ビールのキャッチ・フレーズにあった。
「ビールは夏のものとせず」とやらの文
句をなるほどと思う。
 札幌の西部は広い丘につづき、宮ノ森
や円山の一帯は雪質もいいし、設備もと
とのっている第一級のスキー場でもある
 とにかくスキー場のすぐそばまで市電
で行けるんだから、東京の人造雪スキー
場でガマンしている連中から見たら天国
だろう。
 そのスキー場から雪の斜面は標高千メ
ートルの手稲連峯にまでつづいている
のである。
 ジンギスカンもいいだろうが、タラバ
蟹や毛蟹を赤々と燃えているルンペン・
ストーブのまわりで飽食する楽しさも、
今がシーズンである。<略>

(3) 流氷のくる町 Ⅶ
           生々培

<略> 夕風のたつ木立の下のジンギスカンなべは、ビールのピッチにほどよく呼応して、やわらかい羊の肉、特有の脂煙をあげ、にぎやかな談笑は思い思いの酔度につれてようやくたけなわになってゆく。かつての大戦で、かくかく(赫々)たる武勲をたてたのだといわれている、関東軍陸軍中将の三男坊たるCさんは、早くも立ちあがって「大正オー二年、恵迪寮記念祭イ寮歌アー、木原均クン作詞イー、幾世幾年エー、アイン・ツバイ・ドラーイ」と特徴のある酔声をばはりあげて、かつての予科時代の寮歌を一発やりはじめる。
<略>桜島の噴煙の見える南国から、はるばると北の学舎を慕ってきて早く七年、この人たちにとってはL夫人は母にも似た存在なのであろう。夜は次第にふけてゆく。酔声ひときわ高く、通称「中将」ことCさんの号令一下、一同は席を立った。「エルムの老樹にむかって、カシラーナカッ」――数年の大学生活の日々に、雪明りの道をウオッカに酔いしれた悪友どもを引きつれ、荒い息を吐きながら歩調をとって帰宅、深夜の食卓のオヒツの底の底までカラッポに平らげることも、しばしばであったというこの「凱旋将軍の末裔」は、楡の老樹の梢を仰いで終業ラッパの口まねもまた抜群であった。<略>

(4) 昭和36年5月7日発の手紙
           渡辺千万子
<略>今夜は原田夫妻・松本夫妻〔共に親戚〕をまねいてジンギスカン鍋をする予定です。たをりは早くもお肉を五十匁以上は喰べるのだとはりきつてゐます。さやうなら 千万子

(5) ヒツジ
           朝日新聞北海道支社報道部

<略> 終戦直後ホクレン(北海道農業共同組合連合会連絡協議会)や道庁畜産課の人たちが、「ヒツジの肉をなんとかうまく食おうじゃないか」と話し合い、いろいろ研究した結果、中国でやつているジンギスカン料理ってのはどうだろと、札幌市の中華料理店「精養軒」で試食してみた。専門のナベがなかったから、それに似たようなものを薄いのや厚いのや持ちよって焼いたが、なかなかイケる。精養軒ではとにかく献立に加え、その後も、とくにタレの研究を重ねた。これが大当たりだった。

 「ジンギスカンなべ人口」はジャンジャンふえ、今では家庭にもはいって、スキヤキを圧倒している。専門店もふえ、本州からの客も「北海道へいったらジンギスカンなべ」ってことになってしまった。
 タレは店によってちがうが、精養軒では五十種くらい材料を使っている。ショウユと酒を台(もと)にして、果物や野菜などの配分に「秘術」をつくし、ナンバンやニンニンクなどの薬味だけでも三十種になるそうだ。モウモウたる煙がでるのにヨワイが、最近は穴がなくて煙のたたないナベもできた。しかし「ツウ」にいわせると、やはり煙のでるナベでなければうまくないという。。輸入ものは冷凍で肉汁が凍ってくるため、味が落ちる。くさみの気になる人は、タレをつけてから焼くのもいいが、やはり生肉を焼いてからタレにつけるのが本当だ。好きな人はサシミでも食べる。イスラム諸国はもちろん、欧米では羊肉の方がウシやブタより高級とされていて、精養軒がジンギスカンなべを始めた当時、最も喜んだのはアメリカ兵だったという。<略>

(6) じんぎすかんの味
           永峰孝雄

 北海道大学で誇りとしている低温科学
研究所を見学した後、校庭の大樹の蔭で
見まもっている、ここの前身である礼幌
農学校の基礎を造ったあの有名なクラー
ク博士の「青年よ、大志を抱け」なる英
文が刻まれている銅像のもとに私はしば
しば佇み回想した。志は出来るだけ身に
つりあった大望がほしいものと感を深く
する。<略>
 車はほど近い月寒学園の丘のじんぎす
かんクラブに到着した。草原の中央の丘
陵に四阿があり、草原の青畳に真新らし
い莚が敷かれて、丸い穴があいているテ
ーブルが、私たちを待っているごとくそ
ちこちに列べられてあった。
 夏の北海道の清々しい気温に包まれた
青空の宴席である。
 ぢんぎすかんの鍋がコンロに乗せられ
てテーブルに運ばれる。それをとり巻く
私どもの札幌の芸者がお酌をする。
 生ビールの味と、鍋の羊肉と玉ねぎの
舌にさわる味はここの独特のタレにある
らしい。澄みきった青空に焼けけむる煙
に草原は色を増し、まきにジンギスカン
のムードである。
 この若い柔らかな羊肉の味が、いまや
心配のタネとなっている。日毎に需要は
増すばかりで、やがては北海道に羊がい
なくなるのではないか、と人びとは旺盛
な食欲を示しながら先を案じているらし
い。私はいまでもあの味を忘れかねてい
る。   (永峰商事株式会社社長)

(7) 成吉思汗料理事始
           日吉良一

 昭和36年春ごろ日吉氏は道庁かどこかで道開拓経営課塩谷正作技師と会った。塩谷氏は北大農学部を出た元満鉄社員でジンギスカン料理と命名したのは満鉄調査部長駒井徳三だと語った。
 日吉氏は「大正7年夏のシベリア出兵に召集されて奉天に滞在した頃二、三度「烤羊肉」を食べに飯店に行つたがその頃はまだ『成吉斯汗料理』という名は無かつたと記憶している。勿論当時日本国内にもそういう名の料理はなかった。」(176)と「北海道の文化」の「成吉斯汗料理という名の成立裏話」に書いているが、それだけにジンギスカン料理という名前調べには力を入れていたらしい。さっそく6月4日のNHKラジオ番組「村の広場」で駒井命名説を話し、全日本司厨士協会の月刊会報誌「L’art Culinaire Moderne」の「蝦夷だより」用と「北海道農家の友」用と命名説を書き送った。下記が会報誌10月号に掲載された命名説だ。

   名付け親・駒井徳三

<略> 旧満洲国総務長官駒井徳三と言っても,若い方に
は,ピンと来ないかれ知れたが,軍閥花やかなりし
頃,陸軍による大東亜共栄圏樹立の土台となった満
州帝国建設が、当時の南満洲鉄道株式会社という国
策会社の中で,着々と進められていた時,調査部の
人々は,情報網を支那大陸全土に張りめぐらせて,
時を待っていた。その首脳の一人が駒井徳三であっ
た。彼は,北海道帝国大学農学部の出身で,本誌現
編集部の太田兵三氏の先輩である。
 その駒井徳三が,部下の調査部員や,いわゆる,
満州浪人たちの諜報活動をねぎらうために愛用した
のが,羊肉料理であり,白乾児酒パイカルチユウであった。農学部
出身の彼は,つとに,満蒙における緬羊が日本にお
いても,衣,食ともに必須(ひっす)のものと考え
ていたので,その普及のために,また,日本人が大
陸において活動する場合の重要な食糧となすべしと
して,呼びやすい日本名をつけることを発案して,
「成吉思汗は義経なり」と言う伝説も考慮に入れ,
且つ,花々しい成吉思汗の覇業(はぎょう)をあこ
がれて,羊肉料理を成吉斯汗料理と名づけ,その名
の普及宣伝を部下の松島鑑,香村岱二(共に北大農
学部出身で,満蒙の緬羊の改良に尽力した功労者)
等に行わせた,大正末期から昭和初頭の事である。
<略>

 下記が「北海道農家の友」12月号に掲載された命名説です。

   成吉思汗料理の名附親
     (駒井徳三のこと)
 前に述べたように支那大陸制覇に野望を燃やした軍閥者流が日露戦争で獲得した満鉄とその他の租借地を拠点にして活動した中に、満鉄会杜の調査部が大きな諜報活動をしたが、その指導者に、駒井徳三という人がいた。読者の中にはまだその記憶に残つている方もあるかとおもうが、この人は日本軍閥によつてそのカイライ政権として生みだされた。満州国政府の総務長官として華々しくデビユーした人であつた。この駒井徳三氏は惜しくも二三年前に死去したが、出身校は北大農学部で本道とは縁の深い人であつた。
 大正年間から満鉄(南満州鉄道株式会杜)の調査部長として活躍していたが、この調査部員には多くの国家的諜報活動をした人物もいて、烤羊肉カオヤンローを食べ、白乾児パイカル(支那焼酎)をあおつて大いにメートルを上げていた。そのあくる日、駒井徳三は談往むかしの成吉思汗の覇業におよんだとき部下の松島侃などに向つて「成吉思汗は源義経なりともいう。諸子よこれからはわれわれ日本人は羊肉料理を「成吉思汗料理」と呼ぼうじやないかと提案し、松島この人は後の(松島大使の弟)などの部下に大いに宣伝させたのが、その名の始まりとなつた、と伝えられている。(北海道開拓経営課塩谷正作技師談による)

 日吉氏が「北海道農家の友」だけに書いていたら、駒井命名説はまかり通ったかも知れないが、どっこい東京から意外なクレームがきた。塩谷談は作り話だったと知った日吉氏は新年号になる「北海道の文化」創刊号に5ページ半の「成吉斯汗料理という名の成立裏話」を書き、やんわりと塩谷談話に基づく駒井命名説を取り消したのです。
 下記が「北海道の文化」に掲載された命名否定説です。

<略> 所がこの成吉斯汗料理の命名がある一人によつて発案さ
れたものと、いとも自信を以て私に語つた人が現れたのに
は驚いた。それは現に道の開拓経営課技師として勤務する
塩谷君である。その語る処によると、それは初代満洲国総
務長官駒井徳三氏でこの人が満鉄の調査部長をしていた
時、部下の松島鑑、香村岱二の両氏と例の通り「烤羊肉」
白乾児酒ぱいかるちうをあふりながら大いに時事を断じた折り、羊肉
から成吉斯汗を連想し、更には義経は成吉斯汗なりとの説
を想い、その覇業を慕うため、爾後「烤羊肉」を成吉斯汗
料理と呼ぶことにし、一般社会にも大いに宣伝すべしと松
島、香村二氏に命じたのがこの名の起源であるというので
ある。この三氏は共に北大農学部の出身というので、私は
大いに気を好くして早速この事を全日本司厨協会東京総本
部の雑誌に発表したものである。所がこの雑誌の編集長太
田兵三君は函館生れの北大出身で前三氏の後輩で、共に面
識の間柄だつたので、現在猶元気な松島、香村両氏に電話
で話した所、それは少々言い過ぎで、自分達はそうした宣
伝をせよと駒井氏から受けた事はなく、大正末年頃向うの
日本人間で誰となく言い出したのが真実であると語られた
と太田君から通知があつた。塩谷君はどこからそうしたニ
ユースソースを手に入れたか知らぬが、時々突飛もないジ
ヨークを飛ばす人なので今後は少々気をつけなければなら
ないと先日ある会合で塩谷君の元の上司であり、畜産界の
先達である赤城氏と笑つた事であつた。<略>

(8) 羊肉
           須知白塔

 私は,戦時中に二度北京に旅したことがあるが,二度とも夏から秋にかけてで,雪のちらつく中で,傍列酒尊して食べる烤羊肉(コウヤンロウ)の豪快な味は体験しなかった。烤羊肉というのは,日本でいう成吉思汗料理の羊肉直火焼きのことで,炭火の上に鉄火箸ほどの太きの網を置き,薄く切った羊肉(この切り方にもコツがあって,主として,山西人の特技とされていた)を焼きながら食べるのである。肉につけるタレは,醤油に酢,料酒(リアオチュウ,料理専用の一種の混合酒で,さしづめ日本のミリン的存在)滷蝦油(ルーシャエ,エビのはいった油)などを加え,香菜(シァンツァイ),葱,ショウガのような香の強い野菜がきざみ混んである。酒は白乾児(パイカル)が最も適し,中国人は生のニンニクを噛り噛り,かつ食べ,かつ飲んでいた。
 当時の北京では,正陽楼,東來順,西來順が代表的な店として日本人客にも親しまれていたが,北京にくわしい食通はこうした大店には眼をくれず,烤肉季,烤肉王(もう一つ烤肉宛があり,烤肉三傑と呼ばれていたが,この店は牛肉専門)の二店に通っていたようである。いずれも小きな胡同の露店であるところが,愉快である。中華人民共和国の首都となってからの北京の変貌ぶりはまことにすきまじいものがあるが,一店ぐらいはあるいは現存しているかも知れない。<略>
 昭和37年の(1)は昭和45年に出た「山川方夫全集」にあった小説ですが、昭和37年2月のこととわかったので、ここに入れました。というのは山川の略歴を短く紹介しようと彼の年譜を見たらですよ、昭和29年に山川の次姉美奈子が文学部の某先生と同姓同名の男性と結婚とあり、ちょっと気になったんだが、37年2月の項に北大教授の義兄のいる札幌に来て「昭和新山を見物する。北海道新聞に『山を見る』をかく。」(177)などとあり、やっぱり義兄は私の知る某先生その人だったのです。
 (2)は月寒の桜まつりの様子を書いた新聞記事です。花見で市民が鍋とコンロを持ち込でジンギスカンを食べる人々とは別に、ジンギスカンを売る屋台店があったらしいということです。後で出てきますが、松尾ジンギスカンの松尾政治さんは昭和31年から滝川公園で売店の物置を借りて花見客にジンギスカンを売ったそうだが、札樽では少し遅れてジンギスカンの屋台が現れたらしいね。
 (3)は札幌の意欲ある飲食店主による座談会からです。菊鮨氏が「ここまで北海道の郷土料理として力を入れて、うまいものを出すように心がけて、北海道のものになつた」と発言しているが、北海道遺産なんて想像できなかったと思う。
 (4)は「道内の若い社会学者、政治学者等々をたくさん動員して、北海道という生き物のすみずみまでメスを入れ、えぐり出してみせたのは、これがはじめて、ど自負しているが、」(178)と「まえがき」にある通り、研究者35人が分担執筆した本「北海道」からです。  引用したところは観光案内みたいだが、この後に「全国平均以下の学校給食率」「五パーセント経済」「かなしい現実」「サービスの悪さのもう一つの面」という見出しが示す通り食関係の現状分析が続きます。
 (5)は駒井徳三の次女満洲野が生まれ故郷札幌を訪れての感想です。掲載したタウン誌「さっぽろ百点」側は駒井命名説の根拠になる記述を期待したと思うのですが、満洲野氏は全く知らずに東京へ帰って思い出を書いた。それで、札幌百点が命名説を教えて、もう1回書いてほしいと頼んだのでしょう。
 次号の「さっぽろ百点」巻32号の「読者の手紙から」に「「ジンギスカン鍋と父のこと、そのうちによく調べて書かして載きます。父は大変食いしんぼうでしたので、お料理が上手でした。でもいま父がしたら(「でも父がいましたら」の組み違いらしい)、どんなに喜んだろうと涙の種でございます。」(179)という藤蔭さんの手紙が載っています。
 彼女は父からジンギスカンなんて聞いたこともなければ、一緒に食べたこともなかったので、調べないと何も書けなかったに違いないのです。
 (6)は、いまいったばっかりの日吉良一による「満鉄調査部長駒井徳三命名説」を素直かつ最速で取り入れた空知の長沼町史からです。
 「北海道農家の友」について北海道農業改良協会は「昭和24年8月の創刊以来74年にわたり一度も休むことなく皆様のもとに毎月農業・農政や普及事業に関する情報をお届けしてまいりました。しかしながら農家戸数の減少やインターネットをはじめとする情報手段の多様化等により発行部数の減少に歯止めがかからない」(180)ことから令和6年3月号で休刊しました。
 道農政部の調べによると、道内の農家は平成12年は6万2000戸だったが、平成31年には3万5000戸(181)と半減したのだから、休刊はやむを得なかったようです。
 (7)の坂部説の通り、かつて未年の松の内の新聞は、緬羊と山羊を混同した絵を掲載していました。羊の足がヒモとか燕と言われる男につながるとは、知りませんでした。
 (8)は30年前のおぼろげな記憶と比べながらの道内旅行記です。文中の「その一角」は羊ヶ丘のことで「果てしなくつぐ大原野の頂上からの大景観はやはり北海道に来たという思いをさせた。」と菅原は書きました。
 (9)は平成30年のところに兜鍋という新型ジンギスカン鍋のことがありますが、ほかに例がないかと検索したら出てきた囲み記事です。はまなす社は札幌の俳句結団体。通巻200号になるこの号には円山公園に座り込んで作句している同人たちの写真も載っています。
 (10)は我らが文学部長も務められた英文の柏倉俊三先生の「北海道味覚の旅」からです。柏倉さんは写真嫌いだったらしく、総合博物館ができて間もないころ、著名教授のパネルの顔写真がずらり並んでいる中で、柏倉さんだけ本か新聞からとわかるモアレくっきり写真なので、同窓会役員として英文出のご老体数人に先生の写真の有無をお尋ねしたが、だれも持っておらず、それで諦めましたね。
 (11)は大阪府立大名誉教授の中尾佐助の「料理の起源」です。引用したのは食べ方ですが、その前に中尾は人間の肉類の給源は狩りの獲物だったが、農耕社会の形成につれて狩猟はスポーツになり、かつての獲物は飼育するようになった。
 家畜を肉の給源とするようになると、血、内臓まで利用する食べ方が発達した―という説明からモンゴル族のヒツジの屠殺、臓器の回収・料理法があり、それらの食べ方という順で書かれています。
昭和37年
(1) 熊公とカルパス
           山川方夫

<略>望遠鏡に十円玉を入れ、十五分ながめられるつもりでいたら、一
・五分のまちがいであった。……とにかく、よほどどうかしていたのら
しい。てっぺんには「熊の牧場」というのがあり、当歳の五、六頭の小
熊に、ちょうどブリキのバットみたいなやつで黄濁した液体の餌をやっ
ているところだったが、ひどく食欲をそそる匂いがするので、これはき
っと肉の粉末か何かが入っているのだと思いこんでしまった。でも、そ
れは牛乳とソバ粉だけだという。餌をやる係の男が笑いながら教えてく
れたが、僕は、ちかくの小屋でのジンギスカン焼きの匂いを嗅いでいた
のである。
 僕は、落着きをとりもどすためにも、つめたい飲物でものんでやろう
と思った。見ると「ひぐまカルパス」と書いた紙が貼られてある。どう
せこちらできのカルピスまがいの飲物なんだろうと思い、売店のオバサ
ンに注文して、またまた僕は仰天した。差し出されているのは、一本の
棒みたいなものである。
「ひぐまカルパス。……ソーセージですよ」
 オバサンはにこにこしてつけくわえた。
「おいしいですよ、これは。本物のクマの肉なんですから」
「ほんとです。ほんとにクマの肉でつくってあるんですよ」
 僕の表情をどうとりちがえたのか、横からその店の若い女の子もいう
のである。僕はほとんど無意識のうちに金をはらっていた。<略>

(2) 祭り気分でいっぱい 月寒公園
        どっと繰り出す人人
        かずかずの催しにわく

○…十二、十三日の月寒地区はにぎやかな祭り気分でいっぱい。第四回
『月寒公園さくらまつり』が札幌市、月寒公園振興会、月寒商工会など
の主催でことしも幕をあけた。公園名物の五百本の桜はもう、らんまん
と乱れ咲き。白カバの緑を背景に特設舞台もすえられ、ラーメン屋、ジ
ンギスカンなべ、酒屋さんなど出店もずらり軒を並べお祭り気分の盛り
上がりは満点。(以下略)

(3) 札幌たべもの今昔 座談会
            出席者は鮨・割烹の菊鮨中央亭、鮨のいなりや、天ぷらの天
            平、うなぎのかど屋、和洋食・麺類中華料理すしの吉田屋、
            とりの多一、香港スタイル中華料理の彩華、郷土料理のえぞ
            御殿の各店主

<略> 菊鮨 やはり、その土地のものを生かしていかなけれぱなりません。けれども、必ずそこへ行かなければ食べられないというものがなくたつてきたわけで、従つてその土地に対する魅力が少くなつてきておるわけですね。
 吉田屋 たとえばラーメンなんかは、長崎へ行つて食べたらどんなにうまいかと思つて、せんだつて長崎へ行つたときに食べてみたんですが、札幌のラーメンの方がずつとおいしいですね。
 菊鮨 二、三年前から北海道の本場といわれているジンギスカン鍋なんかも、月寒の栗林さんがPRしてああいう状態になつたんですが、いまでは北海道だけでなく、どこへ行つてもやつていますね。あれだつて、ここまで北海道の郷土料理として力を入れて、うまいものを出すように心がけて、北海道のものになつたわけで、やつぱりラーメンだつて北海道が元祖ではないけれども、その面でいろいろ力を入れれば北海道が元祖になつてしまうんですね。
 吉田屋 北海道は発展途上にある関係か、業者の研究心が強いんですよ。
 菊鮨 我田引水じやないんですが、札幌では、私は同業者のお店に食べに行かないんです。旅へ出ると必ず鮨を食べるんですが、それほど研究していませんね。札幌の業者は米なんかも悪いせいもあるんでしようが、いかによくしようか、ということでみんな研究してますね。<略>

(4) 味覚のシンズイは雪のなかで
           永井陽之助
           岡路市郎

 寒地向きの食事の質を左右するのは副食の内容と量であろう。主食中心は日本全体の欠点だが、北海道は食糧が比較的豊富だし、古い因襲にもあまりとらわれないから、副食重点にきりかえられる素質を十分もっている。
 旅行者なら、まず 知りたがるのは、北海道の郷土食はなんだということだろうが、これも北海道らしい大ざっぱさがとりえのようだ。お国料理程度のものはかなり古くから一般化している。そして、かつて世界の三大漁場の一つに数えられていただけに、いろんな種類の魚を材料にした料理が主である。<略>
 夏の観光旅行では、もっぱら、近頃さかんとな
った羊肉のジンギスカン鍋あたりで北海道の味を
味わされるのがおちだろう。
 ところで「ラーメンの街・札幌」などといわれるくらい名物となっているのが、いわゆる中華そばとはちょっと趣を異にするラーメンだが、これも季節的には冬だ。要するに、北海道的な味覚のシンズイに触れたいなら、雪の北海道へどうぞというわけだ。家庭でも同じことで、夏は「高いウナギよりジンギスカンにかぎる」とか、年越しそばにしても「同じそばならラーメンで」といったぐあいである。<略>

(5) 札幌と亡き父母
           藤蔭満洲野
 
 新緑の驚くほど美しい六月一日に、私は札幌を訪ねた。
 羽田から日航機に乗つて、陸を見おろせば晴天に海や湖水が鮮や
かに見える、この飛行機の中で一つの感慨が私の胸の中をしめた。
それは亡母のことである。亡母は生粋の江戸つ子であつたが、明治
の末年、北大をでたばかりの亡父と結婚した。上野から汽車に乗つ
てはるばる一人で青函船に乗り、北海道に嫁ぎ姉と私を生んだ。つ
まり札幌は私達姉妹の出生地なのである。でも私は札幌の町の記憶
は何も持たないのは、私の名前が満洲野と名づけられたように、亡
父の卒業論文が「満洲大豆論」だつたので、若い父は札幌で生れた
次女にこんな突拍子もない名前をつけ、そして私が満二才の時に一
家が、満洲の大連に引移つてしまつたからである。因みに私の父は
駒井徳三といつて、満洲建国の時に初代の長官をつとめた。
 少女時代から私は亡母に札幌の思い出を聞かされた。亡母は札幌
は東京よりもつとハイカラであつたこと。それに北大の佐藤総長の
奥様がお優しい貴婦人であつたこと。亡母から聞いた札幌の話は遠
い美しいおお伽話の町のようであつた。<略>
 札幌の滞在期間は、わずか四日間であつたが、毎日好天に恵まれ
た。どこを見ても亡き父母が思われ、古いこわされつつある建物が、
たまらなく措しかつた。<略>
 だが、北大を訪れ、広大な亡父の母校を始めて見て私はすつかり
嬉しくなつた。特に、杉野目学長が御多忙な中を逢つて下さつて、
北海道の開拓精神、そして時代の先覚者を数多く輩出した北大卒業
生の方々のお話を熱を帯びて語つて下さつた時、私は受け給わりつ
つ、やはり札幌に来て本当によかつたと思はず涙ぐんでしまつた。
この開拓精神こそ、昨年逝つた亡父の一生のシンボルであつたから。
<短歌3首略>

(6) 成吉思汗鍋
           長沼町史編さん委員会

 成吉思汗鍋(烤羊肉カオヤンロー) 北大農学部出身の駒井徳三が、大正年間に満鉄の調査部長として諜報活動に携わっていたころ、この烤羊肉に白乾児酒を飲み歓談中成吉思汗の話におよびこの英雄になぞらえ、今後羊肉料理を成吉思汗とよぼうということになり大いに宣伝したのがはじまりであるとされている。日本では昭和四年三月二十二日から四月二十一日までの一カ月間、当時の陸軍糧秣廠の外郭団体であった糧友会の主催で、東京上野公園および付属博物館内で食糧展覧会が開催され、この会期中に三日間「羊肉デー」があり実演されたのが最初である。北海道では昭和二十一年にレストラン精養軒がはじめたのが最初である。
 長沼町では戦後、外国羊毛の輸入により、従来の羊毛は下火となり肉羊として飼養されるようになった。

(7) 羊と歴史
           坂部甲次郎

日本人は迷える羊 日本に『ヒツジ』という言葉もあるし外国から羊が渡来した記録も
残っているが、その『ヒツジ』は『羊』でなくて『山羊』だったことが当時の絵などによって明瞭になっている。
 諸外国では有史前から羊を飼っているのに、日本では明治八年に大久保内務卿が率先して下総に牧羊場を設けて、各国から羊を輸入して緬羊飼育の基を開くまで、日本人は山羊を羊と思っていたのだ。
 聖書には『羊と山羊とを区別する』(馬・十五章・三二)という句があり、善人と悪人とを区別する意味になっているが、善人と悪人とをごっちゃにして、そのことも気づかなかった迷える羊が日本人だったのである。
 今でも齢とった緬羊の肉を食わされて、羊肉はまずいといっている日本人が多いのには驚かされる。
 せっかく、牧羊場を設けて数千頭の羊を購入して英国人に管理させたが、ほとんどの羊は斃死してしまった。
 世間では羊は乾燥地を好む動物で日本のような湿気の多い国で飼うことは始めっから失敗であったと思っているが、実際は飼料が悪かったり寄生虫にやられたりして死んだのである。<略>
 マットン 英語で『羊』を『シープ』sheep『牡羊』を『ラム』ram『牝羊』を『ユ』ewe『仔羊』を『ラム』lamb といい『羊肉』を『マットン』mutton というが、この語は『去勢された羊』mutilated ram という語の後半が省略されてできた語であって、肉を柔らかくするための非常手段が肉の名称となったのである。
 フランス語では『羊』を『ムートン』mouton とよんでいる。
 羊肉のうちで一番、珍重される部分を『ジゴ』gigot(羊の腿の肉)というが、この語から『ジゴロ』gigolo とか『ジゴレット』gigolette とか『ジゴロパンス』gigolopinceなどという語が生まれた。元来、脚に関係のある語で、脚の格好が美しくダンスの上手な男が女にモテて女が養ってくれる。それが『ジゴロ』である。『ジゴレット』は男の脚線美に夢中になる若い女の総称であり『ジゴロバンス』は女に養われる青年である。<略>

(8) 北海道の旅
     ――ところどころ記――
           菅原寛

<略> その第三夜の宿は定山渓であつた。グ
ランドホテルで旅装を解いて旅寝の秋の
夢を結んだ翌朝、ホテルを後にして最後
のコースである札幌へ、ここは道庁のあ
る道内の総元締めの地、文化の中心であ
る。<略>
 その一角に設けたジンギスカン料理が
最後の晩餐会となつて、千歳飛行場へ同
八日十七時三十分に塔乗した。雄大さと
原始林、荒削、いろいろの湖、アイヌの
ローマンス、さい果てのイメージとを限
りない天地に名残を惜しんで、内地へと
飛び立つたのであつた。そして道内は九
月を迎へて、早くも秋のたたずまいが迫
つていた。五月から始まつた観光シーズ
ンは約五十万という人々が道内に集中し
た。私達と同じように色々の思い出を胸
に描いたことであろう。私の旅も短時間
であつたにしても思い出は同じである。
 私は三十年ぶりで道内を訪ね、更にそ
の二十年前の若い時代に旭川市は東旭川
のペーパンという部落の小学校で、代用
教員として三カ年ほど勤めていた時代が
今走馬燈の如くに浮び上つてきた。夜雲
の中を飛ぶ機上の中で、過去五十年前を
滲々と。わが教え子は如何に人生を送つ
ているやら、歳月茫々去来して山びこ学
校ならぬ、平凡な幼稚な田舎教師であつ
た私は、有為転変の姿を改めて顧みたこ
とであつた。(九・二八日記)

(9) 成吉思汗鍋
           はまなす社

 新季題
  成吉思汗鍋(秋季)

 今までは「北海道才時記」とか又は「蝦夷才時記」などと銘
打って新季題を広く募集したり、発表したりしていたが、こう
した狭い考えから抜けて「新季題」として広く募集することに
した。現在の才時記に掲載されている「季題」で俳句を作った
のでは自然、陳腐や類想の俳句より生まれないのが当然である。
そこで大いに「新季題」を発見して新鮮な俳句を作りたいもの
である。
   ◇
「成吉思汗鍋」別名を「野肉鍋」「兜鍋」「羊肉鍋」「羊鍋」
野外又は吹抜小屋、あづま屋のようなと所で催されている。季節
は概して秋季である。
 風上にアンペラ張りて野肉鍋  関口灯誠
 羊鍋を囲み蒙古の懐古談    同

(10) 北海道味覚の旅
           柏倉俊三

<略> このビール同様、両刃の剣さながらに、夏冬の双方に利くのが、近ごろ内地でもぼつぼつ見られるようになった成吉思汗料理である。蒙古軍が戦陣にあって、その使用する冑の鉢を焼鍋として火の上に載せ、これで羊肉を焼いて食をとったのが、この料理の起源ともいわれる。しかし真偽のほどはさだかでない。とにかく夏の札幌郊外月寒の原野あたり、青空を天井にして七輪を草原に据え、羊肉を焼いて、飲みかつ食う。まことに野趣横溢。しかもこの際の飲みものは、ビールもさることながら、もっと強力なアルコールならば、いよいよますますマッチする。ときにはみどりの曠野に、夏の鎌倉海浜もどきのビーチ・パラソル風のテントなどが見られることもある。しかし野趣のいろ褪せれば、味覚への魅力もまた随って薄れていく。この料理は、もともと原始的なものであるだけに、「春風陣々寒し」といった早春の野辺でも、また寒々とした秋空の下でも、またそれなりの風情があり、ほのぼのとしたぬくもりを与えてくれるだけではなく、天空開濶、ひろびろとした大平原の気持を吹きこんでくれる。しかしさすがにこの料理も冬季になれば屋内に入り、火中に落ちて燃え上がる羊脂の煙を戸外に送り出す特別な装置のある都屋で、楽しまれることになる。濛々たる煙と羊肉の焼ける一種独特な匂いの中では、また別の趣がでてくる。<略>

(11) 食肉の変遷と発達
           中尾佐助

<略> ついでながら、モンゴル人のヒツジの肉の食べ方は〝ジンギス汗〟ではない。ほとんど肉は塩を入れないでゆでたものを、コールドマトンの形で骨つきのまま食用にする。各自に蒙古刀をもって、肉を切りわけて食べる。上等の料理はシュースというが、大形のトレーにゆでた股肉一頭分の四つを敷き、その上に大きな脊肉をのせ、その上に生のままの頭がおいてある。頭の上には乳製品のホロートの一塊がおいてある。客人も主人もそのホロートの小片をとり、指先で四方に散らす儀式をすると、頭は持ちさられる。それから蒙古刀で勝手に切って食べはじめる。<略>
 昭和38年の(1)はハワイから日本観光にきた女性の旅行記で、月寒で食べたのは前年9月だが、38年元日発行の布哇タイムス新年号(70面建て)の60面に載っていたので、ここに収めました。
 またハワイ関係では、昭和36年2月1日付布哇タイムス8面に「エヴアーグリーンの新名物/成吉思汗鍋/ビーフ・ラム・チキンお好みの料理」という飲食店の広告が載っていました。着物姿の女性が擂り鉢形の七輪に鍋を掛けて焼いている写真付きの2段広告で、このころハワイでもジンギスカンが流行りだしたのかも知れません。
 (2)は大島徳弥元代々木クッキングスクール常務理事の「中国料理のコツ秘伝」です。羊肉については「烤肉」の項に20行ほど触れているだけ、実際編では牛、豚、鶏肉だけで羊肉料理はなし。また「料理の秘訣」では刺身の醤油、日本酒、かつお節のだしなど中国料理らしからぬ材料の使い方のコツがほとんどです。
 (3)は藤蔭満洲野が前年、札幌百点社に頼まれ「よく調べて書かして戴きます」と約束した父駒井徳三の思い出です。札幌訪問により「私は亡父についての原稿を依頼され、また逆に、ジンギスカン鍋は父が日本に紹介した始めての人だということなども知った。」(182)と追悼集「麦秋駒井徳三」に書いてあり、子供のころから知っていたとか、寝物語に聞かされた―ではない。
 「その羊の肉は食べられるか」にギャフンとしたというくだりは、夫の麻田宏の「岳父の雑談」から得た話題と思われる。「<略>輸入された新種の羊を前にして、若い技師が蒙古人に近代牧羊の理論をのべている希望に溢れた姿が目に浮かぶ。総ては説明された。だが、つぎの一つの質問がその希望をまったく消滅せしめる結果になるとは、夢にも思わなかったであろう。その質問は、いわく、「その羊の美味いか?」である。ここで父は顔をほころばすのである。素朴な、そして彼ら蒙古人にとっては最大関心事の質問に唖然とした少壮技師の心情が、おしはかられ、思わず私は、ほほえんでしまうのである。このようなことは、現在でも多くの研究者がしばしば体験する姿だからである。」(183)と書いている。とにかく満洲野は父と鍋を囲み、焼き方を教わったなんて思い出は全く書いてないよ。
 (4)は講談社から出た菊村到の「夜を待つ人」です。この小説は昭和36年11月15日から道新に390回連載されたほか、西日本新聞と中日新聞にも連載されました。この3紙は三社連合を組んで地方記事の交流、小説や漫画の共同発注などをやっており「夜を待つ人」もそれですね。
 「夜を待つ人」でジンギスカンが出てくるのは月寒だけ。主人公の帽子デザイナーが千歳から入り道内を廻ることによって道新の読者に親近感をもたせるためのご当地ソングならぬご当地巡りの一部だからです。さらに名古屋や博多にも行く理由は、言わなくてもわかりますね。
 それからね、ジンギスカンという名詞が外来語だと私は断定し兼ねるが、荒川惣兵衛著「角川外来語辞典」にちらと出てます。同書昭和42年版の「ジンギスカン」は①と②からなり①は人間のジンギスカンで②が料理で「ジンギスカン料理,またはジンギスカン鍋の略.羊肉の焼肉料理の1つ.モーコから中国を経て日本に渡来した.▽ヤンカオロー(羊烤肉).¶田中啓爾『人文地理』1953/「烤菜(カオツァイ)(あぶりやき)一名成吉斯汗鍋」『料理全集』1954/菊村到『夜を待つ人』1962(184)」となっています。
 この「料理全集」は1954年、昭和29年に出た辻徳光著「料理全集」3版を指しており、同34年に出た改訂6版でいうなら1237ページの「烤羊肉(焼いた羊肉)ですね。
 (5)は札幌成吉思汗クラブが会員及び家族を無料招待する食べ始め会を伝える新聞記事です。恒例とあるが、同クラブが発足したのは昭和28年秋だから、翌年春からとすれば10回目になるとかなんとか、もう一言ほしかった。
 (6)は松本清張の「屈折回路」です。昭和35年初冬、熊本県の山林で従兄の香取喜曽一が自殺した。彼は熊本県衛生試験場の技師でウィルスを研究しており、死ぬ直前北海道へ旅行していたので、そのころ大琉行したポリオと関係があるのではないかと私は彼の足跡を調べに北海道にきた―というのが、ここまでの粗筋です。私は何者なのか3回目まで読んで、やっと東京の大学の英語教師とわかりました。
 ケチをつければ、札幌に入る前に私は夕張市大夕張に行くため「岩見沢から支線に乗り、さらに炭砿専用軌道に乗りかえる(185)」は間違い、支線乗り換えは岩見沢でなくて野幌でした。
 ジンパ学としては、札幌で6階に食堂がある大きなホテルで、前掛けをしてジンギスカン鍋を食べられたという記述を重視します。昭和33年の札幌グランドホテルの広告は「6階の新設食堂」だったし「事始」の日吉良一は「札幌グランドホテルの六階で『烤羊肉』と共に供している。ここの羊肉は濠州から輸入した食肉専用のサウスダウン種を使つているのが看板である。本道の緬羊はほとんど九割までコリデール種で、毛肉両用であるが、サウスダウンの味は数等上である。」(186)と書いてますから、「屈折回路」のホテルの食堂はグランドのそれを想定したのでしょう。
 (7)は杉本つとむの「現代語 あなたがつかう言葉の秘密」です。いま言ったように道内ナンバーワンのホテルとして君臨していた札幌グランドホテルでさえ、肉が違うと講釈しながらジンギスカンを出していたぐらい流行っており、当時の市民感覚では、もう料理の由来はどうでもよかったように思います。
 (8)は「定本佐藤春夫全集」27巻の「北海道吟行」からですが、北海タイムスの紙面で掲載位置などを確かめたので出典は同紙からにしました。佐藤夫妻はこの年5月、井上靖に誘われて来道、十勝の弟の農園などを訪れたりしました。さらに翌39年1月から同紙夕刊に「わが北海道」を72回書いており、初回は札幌農学校との関係なので、特例として一部をここで紹介します。

 北海道大学の前身たる札幌農学校こそはわたくしの学ぶこと
のなかつた母校とも言うべきであらうか。わたくしの父は父祖
九代の家業たる医者の十代目にわたくしを仕立てやうとしてわ
たくしが頑強にこれに応じないのを見て、それでは、とわたく
しを札幌農学校に学ばせて、老後わたくしともに百姓をしよう
という夢を抱いて、父自身の老後とわたくしの成人後のために
といふので、早くから北海道の十勝に若干の土地を用意して置
いてくれてあつたものであつた。<略>
 わたくしは少年時代に父につれられて来てはじめて見た札幌
の市街や、北海道大学の構内を、その時、五十年後にまのあた
りにして、そぞろ思ひに耽つたのは、がむしやらなわが少年時
代をかへり見つつ、父には申しわけもないが、勝利の悲哀とも
呼ぶべきものであつた。
(187)

 (9)はこの2年前に「成吉思汗料理事始」で駒井徳三命名説を打ち出し、真っ赤な嘘とわかり、すぐ取り消した日吉良一が書いた「たべものの語源」のジンギスカンです。
 「あとがき」によれば「私は調理師でもなく、栄養士でもない。また専門の食品科学者でもない。全くの素人」だが「楽しいから学び、楽しいから書いたにすぎない。」ので「この書中にとり上げたものがすべて間違いない真実であるというような不遜な考えは毛頭持っていない。」(188)と予防線を張っている。早速ですが、昭和4年の丸本は糧秣本廠員の2等主計正であり、陸軍省衣糧課長は横田章1等主計正でした。
 (10)はもっぱらマトン料理を発表した荒井久子の「マトン料理350種」からです。著者略歴によると、神田高等家政女学校を出た昭和9年から5年間、ドイツ人の家庭で西洋料理と日本料理の交換授業をした。昭和30年から5年間、愛新覚羅浩さんについて中国料理を学ぶ傍ら、伊東で割烹旅館を経営した(189)とあります。
 荒井さんは昭和38年春、ニュージーランドの食肉生産者団体に招かれてほぼ1カ月、同国で日本の羊肉料の理講習会を開いたり、家庭訪問、関係施設の視察などをしており、その思い出を書いた「あとがき」から引用しました。
 (11)は戦後、札幌で最初にジンギスカンを売り出した精養軒の経営者青木チイさんの談話です。私は見付けたのは遠山緬羊協会が昭和43年に出した記念誌「三里塚とジンギスカン鍋」にあった「サンデー毎日」の掲載号不明の切り抜きコピーとしてでした。すでに戦後の札幌で初めてジンギスカンを売り出した精養軒の名前は新聞や本などで知っていたが、経営者の談話としてはこれが初めてかも知れず看過できない。
 それで「サンデー毎日」を捜したが、週刊誌類を永く保存している図書館は極めて少ないのですね。検索の結果、広島県立図書館が最多、昭和25年1月の1号からあるとわかったので即拝見に行きました。
 ただ同誌は年52冊として「三里塚と…」が出る前年42年まででも17年分800冊超、とても一気に見られない。それで連載「味の味」の回数をヒントに検索、閲覧範囲を絞ってあっさり見付けた。まさに「求めよ、さらば与えられん」でした。
 (12)は食味評論家の多田鉄之助の本です。慶応OBで元時事新報記者。母校愛からでしょうが、卒業して4年後に8年分の入試問題と回答付きの「慶応義塾入学案内」を出しています。昭和12年の「実業の日本」に「帝都大料理店興亡記」を書いているので、この辺から食関係の研究に乗り出したようで、昭和16年の「食味漫談」には人間を食べる話も入っています。月寒学院直営のころ食べたらしく「千歳飛行場」とかジン鍋の説明「剣道のお面のようなところどころ隙間のある鉄板」なんて古さ満点です。
 しんがり(13)は、本場のしゃぶしゃぶの話ですが、マイクロフィルムで1年分見て、やっと見つけた記事なので捨てられませんでした。
昭和38年
(1) 成吉思汗燒
           田村すなお

<略>ここには名高い月寒牧場があ
ります。羊の牧場で広々と
した石狩平野を見渡した如
何にも北海道といつた姿の
所です。ここで昼食に成吉
思汗焼をいただしたのであ
ります。其の日珍しく小雨
が降りうすら寒い風が吹い
ておりました。
この成吉思汗は戦場で鉄兜
に穴を明けて小羊の肉を焼
いて食したというのが始ま
りだそうですから牧場の草
原にゴザが敷かれ、一寸雨
しのぎの屋根、四方開放の
所でビクニツク式にいただ
く味いは何ともいえぬ興趣
をそそるものがあります。
そして其の味の良さ、肉は
食ベほうたいとの事、一同
夢中になつていただきまし
た<略>
 其の味はどんな味といわ
れてもそれはいただいたも
ののみの知る味覚、一寸書
くわけには參りません。北
海道に旅行の折は是非味つ
ていただきたいと思うので
あります。この成吉思汗焼
は今ではあちこちにありま
す。勿論家庭ででもいたし
ます。味は所々で違います
が、おいしいことには変り
はないといえませう。これ
は肉も野菜も焼きながら食
べるので、つける『タレ』
でおいしくいただかれるも
のであります。
 あの強い脂の肉を焼くの
ですから煙は相当なもので
ありますから、開放された
パテイオ等は理想的だろう
と思います。ともかくも原
始的な食物である事には間
違いはないでしよう。

(2)●烤肉かおろう(ヂンギスカン料理)
           大島徳弥

 北京の烤肉は明の末、清の初めに始まったといわれています。現在北京で有名な店は〝烤肉苑〟〝烤肉季〟という二つの店がありますが、「烤肉苑」は祖伝すでに六世、二百有余年といい、「烤肉季」は三世で百余年も経ている店です。「烤肉苑」は城南、「烤肉季」は城北にあるので〝南苑北季〟の称で親しまれています。
 烤肉の特色は、肉を選ぶことと、肉の切り方に高度の技術を要すること、ということができます。
 肉は主として牛、羊を使って豚は使いません。牛肉は四・五歳で百五十キロ以上、秋草を食べた牛が最もよくて、山東牛のようにあまり肥大になったのは適さないとされています。羊は体重二十キロ位が最もよくて、十五キロ位はよくなく、二十五キロ、三十キロになるとこれも適さないとされています。このような規格の牛や羊が全部肉になるかといえば、そうではないのです。百五十キロの一頭の牛から烤肉に使用され、これに適している肉の部分は二十キロ内外で全体の十五%に過ぎないのです。羊でも、二十キロのものから八キロ乃至九キロで五〇%に満たない肉の使いかたをするのです。
 また、これを焼く方法が難かしくて、燃料にしても柏、柳、松の木とされ、中でも松の小枝、松かさを最上としているのです。<略>


(3) 父とジンギスカン鍋

           藤蔭満洲野

<略> 満鉄に入社した父は、大正の始めに満州から、内蒙古、外蒙古と随分と歩いたらしい、満州には緬羊はあまりいないが蒙古には、大きな羊の放牧地帯があることを始めて知つた。
 父はこの羊の毛が割にお粗末で一頭から僅かな羊毛しか取れないので、その牧蓄主の蒙古人に「この羊では羊毛が僅かしか取れないから濠州やカナダから優秀な羊を買入れて、羊毛の改良をはかつたらどうか」と申入れた。するとその蒙古人は、即座に「その外国の羊の肉は、食べられるか」と質問した。
 若い父は緬羊を見れば、羊毛を取ることだけを念頭においていたので、この蒙古人の答えにはギヤフンとしたそうで、そこで始めて、羊が蒙古人の生活にどんなに重要なものであるかが気がついたそうである。こんなことがあつて羊肉は大正の頃から日本人も食べ始めたといわれる。
 それをジンギスカン鍋と名づけたのが、私の父自身であつたらしい。父は物に名前をつけることが好きで、今、静岡県の伊東にある一碧湖も昭和の初期に父が名前をつけた湖水で、その頃は寂しい沼であつたが、今は風光明美な名勝地となつた。また、これは私の一族に及ぶのでおこがましいけど、ミノフアーゲンという注射薬も父が名付親で、昭和十三、四年頃、私の妹の遼子の夫、宇都宮徳馬が製薬を始めた時に父が名前をつけ、これも呼名のリズムが良いせいか人の印象に残るらしい、ジンギスカン鍋も、蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない。<略>

(4) 北の旅
           菊村到

<略>「月寒でジンギスカンの用意がしてあるんです」
 と言った。和子はジンギスカンと聞いただけで、食欲をそそら
れた。そういうことは、最近ではめずらしかった。
 それはおそらく周囲にひろがる壮大な大陸的な風景のせいであ
るに違いなかった。
 それに分譲地の看板がひどく目につく。羊ケ丘分譲地は、東京
の人間もずいぶん買っているということだ。その羊ケ丘にある月
寒学院経営の野天のジンギスカン料理場に着いた。
 なだらかな緑の丘の斜面に、あずま屋があり、いくつかのビー
チ・パラソルが立てかけてある下で、まひるの陽光をあびながら
何組かの客が肉を焼いていた。丘のすその駐車場には、バスや乗
用車がとまっている。
 給仕人は、牧童か何かのように見える若者で、つばの広い麦わ
ら帽子をかぶり、オーバア・オールを着ている。中には赤いシ
ツをつけている青年もいる。その青年が丘の斜面をゆっくり横切
ってビールや料理をはこぶ図は、ひどく牧歌的で異国情緒すら感
じられるほどだ。
 和子は、すばらしいわ、すてきだわを連発した。彼女は結構、
旅なれていて、日本の国内だったら、たいていのところは見てい
るのだが、この野天料理場には、人間が健康であることの大切さ
を、再認識させるものがあり、それが旅先にある彼女の心をふる
わせるのだった。<略>

(5) 賑わう家族連れ
    ジンギスカンクラブ
         晴天の下、食べ始め
              北海タイムス

 よく晴れた4日、午後1時から
みはるかす緑一色の月寒の野で札
幌成吉思汗クラブ(栗林元二郎代
表世話人)恒例のジンギスカン食
べ始め会が開かれた。
 月寒学院が、シーズンに先がけ
て毎年行なう会員やその家族たち
のご招待とあって、この日ばかり
は無料サービス、食べほうだい。
 この日会員、家族150人が参
加して、いまが出ざかりの若肉に
舌つづみを打った。
 からりと晴れた同学院向ケ丘の
丘陵に煙が吸い込まれ、ビール
が回ればうたげのむしろもいまが
たけなわ。いずれおとらぬジンギ
スカン党の長談義がにぎやかにく
りひろげられていた。

(6) 屈折回路(連載第五回)
             松本清張

<略> 私は、六階の食堂に上つた。三方のガラス窓には札幌の
屋根が輪切りにされてならんでいた。南の空の上に鉛色の
雲がよどんでいた。ジンギスカン鍋の場所は、そっちの空
がよく見えるところに張り出ていた。
 昼食の時間には少し早いせいか、客に私ともう一人の男
だった。その男は三十二、三くらいだが、顔も胴体もまる
かった。髪がうすく、ひろい額から血色がよかった、てか
てかと皮膚が光っているのは、山羊肉の脂の煙に煎られた
だけではないようであった。
 彼は遠くからでも英国生地と思われる洋服を暖かそうに
着ていて、その上に白い前掛を首から垂れ下げていた。肥
えている男だから、この姿はなかなか可愛げであった。<略>
 私が出てゆくとき、彼はまだ箸でジンギスカン鍋から剥
ぎとっていたが、歩いている私に視線を送っていたことが
よく分った。彼と、私は、そのあとでもう一度会った。
 しかし、彼は私に話しかけないでも、その厚くて狭い唇
は、食堂の女の子をとらえてよく動いていた。聞くともな
く聞いていると、彼のその標準語には関西訛があり、しか
も、各地の料理の批評のようであった。私は彼を外交員と
推定したが、どのようを商売に従事しているのか分らなか
った。私が出てゆくとき、彼はまだ箸で肉片をジンギスカ
ン鍋から剥ぎとっていたが、歩いている私に視線を送って
いることがよく分った。<略>

(7) ジンギスカン料理
             杉本つとむ

 寒い冬の料理として、わが家の自
慢料理の一つにジンギスカン鍋が
あります。最近、これを専門にする料理屋もあ
らわれて、大変な人気です。羊の肉がこの料理
の立役者ですが、ここにも日本人のいかものぐ
い ぶりが発揮されているといえましょうか。
 ジンギスカン(成吉思汗・一六六七―一二二七)は、チン
ギスカカンの略称で、カカンは大酋長の意です。
アジア大陸に元の国をつくった蒙古皇帝の名称
で、出生は現代の外蒙古の北といわれ、賢母と
仲のよい兄弟の中で育てられた英傑です。そし
て、二代・三代にわたって、ついにヨーロッパ
にまで侵入し、亜欧にまたがる一大王国をつく
りあげました。そして第五代のクビライにいた
って、日本を征服しようとして、失敗した例の
<元寇の役>をおこしました。
 しかもこのクビライに信任厚かったのがイタ
リー人・マルコポーロで、彼によって、日本は
黄金の国Zipangu(日本)として、ヨーロッパ
にはじめて紹介され、世界史を静かに動かす、
探検と冒険の時代への鐘をならしました。
 ジンギスカン料理もこうした 蒙古人の風俗・
習慣と関係したもので、彼等は遊牧の民として、 
焚火の上などで、鉄串に羊肉をさして焼きなが
ら食べました。この原始的料理が、蒙古人最大
の偉人ジンギスカンの名を得て、ひろまってい
るわけです<烤羊肉>ともいいます。
 ジンギスカンに似ているものにバーベキュー
があります。これはスペイン語の barbacoa
(木製の肉焼き架)から出ています。アメリカ
土人の料理だったようです。<略>

(8) 再遊を期して帰る
           佐藤春夫

 台風四号は夜中に名残なく一過して空は刻刻々に晴れてる。
 アカシヤの花薫る町坂の道
 と小樽は讃美して再び札幌に入つて大通の花壇を見物しその
芝生に寝ころんでいる労働者を王侯の如しと羨やむ。小樽は郷
土色ゆたかな好もしい斜陽の市であり、札幌は世界的近代都市
と言ふべきであらう。
 摩周は十分に見たからと支笏は割愛し、その時間を月寒でジ
ンギスカン料理に飽き、また附近で生きたジンギスカン群を見
などして夕刻の飛行機を待つ。支笏を割愛し、またふるなじみ
の函館や大沼などを見ないのは多少遺憾でもあるが、また来る
機縁をつくるには見残したところが多いのもよかろうと考へ直
して心残なく千歳に向ふ。<略>

(9) ジンギスカン鍋(成吉思汗)
          日吉良一

<略>♣ジンギスカンなべは中国から学んだ料理だが、中国では『焼羊肉』(カンヤンロー)という。これは炭火の上に渡した鉄桟の上で薄切り羊肉を焼いて好みのタレと薬味をつけて食べるもの。なべに沸とう(騰)騰させ熱湯にちょっと浸して肉の表面が白くなったていどで引き揚げてタレをつけて食べるのが『涮羊肉』(シャワンヤンロー)である。同じような方法であるが日本人のあまり食べない羊料理に『水爆羊肚』(シーボーヤント)がある。『肚』は胃袋のことである。中国人は動物の内臓を好食するが、この点日本人はもっと見習う必
要がある。♣ジンギスカン料理が日本内地に紹介されたのは昭和四年三
月東京上野竹の台で陸軍糧秣廠の主催の『食糧展覧会』で陸軍省衣糧課
長丸本彰造という大佐が実演したのが最初である。♣ジンギスカンなべ
とか焼きとかの名をつけた最初の人は満州国初代総務長官になった駒井
徳三氏という説も伝わったがこれは当時の満州にいた日本人が蒙古人ジ
ンギスカンとその主食である綿羊を結びつけ、さらに義経はジンギスカ
ンなりとの伝説を加えて綿羊料理をだれいうとなくジンギスカン料理と
いいだしたものとのこと。♣北京で戦前有名だったのは東来順、正陽
楼、西来順、同衆館等があった。

(10) 二ュージーランドへの旅――あとがきに代えて
             荒井久子

<略> 彼の地で、実際に講習したのは、マトンハットオン、つまり帽子をかぶった羊、という意味で、小さく切ったマトンと、野菜をカレー味で炒め、トマト入りのスクランブルエッグを、帽子にみたて、私は和服で帽子をかぶれないが、このマトンが、私の代りに帽子をかぶって(つまり外国婦人の正装の意)、皆さまへご挨拶しますという意味の料理です、といいますと、まず大喝采を得、次がピーナツ・フライ、ジンギスカン焼、チャボチャボの四品でした。チャボチャボは、この本では涮羊肉(シュアンヤンロウ)で、日本では牛肉を応用したそれに近いものが、ジャブジャブという名で、お目見えしておりますが、私のニックネームが茶坊である関係と、特にマトンに合う調味料を用いるので、この名を用い、ニュージーランド全土に教えましたが、これもまた、すこぶる好評でした。ジンギスカンが野戦に用いたヘルメットで羊を焼いたという、ジンギスカン鍋の由来に、また薬味に使う生姜、葱のみじん切りの日本人の器用さに、観衆は驚きの目を見張りました。かの国の人たちは、お酒好きで、昼食の時にもワインをのんでいますが、あまりおつまみを食べないようでした。おつまみなしで、酒だけのむと、ビタミンの破壊になりますので、マトンのピーナツ・フライなど、オードブルとしても、好適であることを、興味深く喜ばれました。<略>

(11) ジンギス汗鍋
             青木チイ

 終戦後、北海道では道庁の指導で、畜産が盛んになり、多く
の農家でめん羊が飼育されましたが、毛をとったあとのめん羊
の処置に困り、食用にならないものかと考えたあげく、生まれ
たのが〝ジンギス汗鍋〟です。<略>道庁の人が、日本人向き
にタレかなにか作ればと、わたしの店へ〝ジンギス汗鍋〟の開
発にみえたりしたこともありました。当時はまだ、めん羊を食
べる習慣がなく、普通の料理では独特のにおいが残りますので、
いまあるような調理法を考え出すまでには大変な苦労もありま
した。
 畜産北海道の大草原と蒙古の大平原を連想するものとして
〝ジンギス汗鍋〟と名付けて売り出したのが昭和二十二年、い
までは北海道の代表的郷土料理として、また大衆料理として、
多くの人に喜んで召し上がっていただけるようになりました。
<略>
 私どもでは、冷凍用でなくオーストラリア産サウスダウン種
を輸入して近在の農家で飼育させたものの生肉を使っていま
す。これがお客様に喜ばれているようです。タレは、特別な秘
けつもなく、ご家庭でありあわせのものを使うのですが、しい
ていえば、調味料と香辛料を三十種ほど混ぜ合わせたところで
しょうか。しょう油とミリンを好みに応じて混ぜ合わせ、レモ
ン、リンゴなどの果汁、香辛料はシナモン、ナツメグ、こしょう、
なんばん、ニンニクなどのほかパセリ、ニンジンのみじん切り
などを混ぜ合わせます。その他好みにより甘口、カラ口にしま
す。<略>

(12) 野天の羊肉料理
             多田鉄之助

 北海道千歳飛行場からしばらくドライブして、札幌幌の市内に入る少し手前に月寒の牧場がある。ここは自然のゆるやかな丘陵で美しい青草が生えていて、これを食料として肥って行く緬羊の群が遊んでいる。この羊は羊毛を採るために飼育しているのであるが、その肉を用いるジンギスカン料理は同好の人達によって楽しまれている。
 先日ここを訪れた。小高い見晴らしのよい丘の上にはここかしこにゴザを敷いて、卓を並べ中央にコンロを置き、上に剣道のお面のようなところどころ隙間のある鉄板を掛けてある。この上に羊肉を載せて焼き一種のタレを付けて食べるのである。
 農業指導者養成の目的で設立されている学校の学生が羊肉を切って出すのだから、無細工であるが、東京などで食べる羊と違って独特の臭気が著しく少ない。野趣満々としているのが何よりだ。付け合わせには玉ネギだけを用いているが、もう少し他の野菜があったらなおいいだろう。
 しかし、月寒のジンギスカン料理は現在人気が高まって、北海道味の名所になっている。私が行った日は土曜日であったが、貸切バス六台、自動車十二台が待っている盛況であった。けれど野天だから満員で席がないという心配はあるまい。

(13) 涮羊肉
           東亜時報

 羊肉の水炊き――といったので
はいかにも風情がない。やはり中
国流に「しょわんやんろう」とい
いたい。紙のように薄く切つた羊肉を一片一片、箸でつまんで火鍋
子(ほうこうつ)にたぎるスープに入れ、サッと煮て食べる料理で
ある。烤羊肉(かおやんろう)、つまりヂンギスカン料理も悪くは
ないが、これからの鍋料理としてはやはり涮羊肉が一番だ。日本で
はフグちりが珍重されるが、とてもそれどころの比ではない。まさ
に天下一品の味である。
 といってその天下一品の味を味うには、やはり東京あたりの中華
料理店では駄目、まず第一に羊肉の味がぐんとおちる。例えば北京
でも最も有名な涮羊肉の店は、例の東安市場の中にある東来順だが、
ここでは肥えた、やわらかい内蒙古の羊しか使わない。羊肉特有の
あの臭みが、この店では出す肉にはとんと感じられないから不思議
だ。
 次にサッとゆでた肉をつけて食べるあのタレと薬味が問題だ。醤
油、酢、酒はともかくとして、その他胡麻味噌、とうがらし油、醤
豆腐(豆腐の味噌漬け)ニラのおろしたもの等々、幾通りかの調味
料や薬味を好みに応じて碗に取り合わせ、これにサッと煮た羊肉を
つけて食べるわけだが、これらの薬味が日本では揃わない。だから
と言って日本流に酢醤油で食べたのでは、涮羊肉の味覚と全く縁遠
いものになってしまう。<略>
 昭和39年の(1)は千歳市の青年たちが政治問題の理解を深めていく様子を書いた小説ですが、ジンギスカンを食べながらの花見開催がグルーブづくりに使えることを示しています。
 (2)は北杜夫の「楡家の人々」の楡家一族が、昭和1桁時代に中華料理店で食べたところからです。私はジンギスカンを食べに入ったこの店はどこか特定してみました。大河小説の定石なのか、この小説は要所ごとに新聞の大見出しのような時事情報を入れているので、それを手かがりにしました。
 直前の時事情報は「やがては日本と盟友となるべき運命にあるイタリアがエチオピアに侵入したとき(190)」で、この戦闘開始は昭和10年10月3日(191)なので、それ以前でかつ青山と神田の吉田家からそう遠くなくて、ジンギスカン料理を出せる中華料理屋となれば、昭和8年には帝都唯一を誇った日本橋濱町の濱の家ということになります。高円寺の成吉思荘の開店は昭和11年春ですからね。
 ある人がパオの中でも食べたことも書いてあるというので、2度読んだが見つからなかった。お陰でテレビの「楡家の人々」で病院の創設者、楡基一郎に扮した東野英治郎がね、赤い色つきサイダーをボルドーだといって飲み、眼を細めてケッケッケッと笑うシーンを思い出した。検索したら放映は昭和40年、なんと60年も前だったのにはたまげたねえ。
 (3)は傑作ナンバーワン、蛮カラで知られる北大応援団員ならではの思い出です。私はスキャナーは持っているが、メールや日記書きはグーグルの音声入力。理由は1日中黙々とパソコン相手の諸作業をしているから、声帯を含む咽喉諸機関の機能維持を図り、誤飲性肺炎になるのを防ぐためなんだが、この一文に限って、ハハッハ。元団員の私はさもありなんと笑いが止まらず、読めないため直接キーボードで打ち込んだよ、ハッハッハ。
 (4)は古い映画にありそうな短編小説からです。松岡氏は昭和電業の課長、30年勤続で3日間の慰労休暇が与えられるので、実子同様に育てた若者6人が夫妻に伊豆長岡温泉への旅行をプレゼントした。それで夫妻は彼等に見送られて東京駅から新婚旅行以来初の旅行に出た。小田原駅で駅弁を買おうとした時、一緒に買ってくれた親切な新婚組がいた。
 松岡氏は宴会などで何回か食べているが、奥さんは初めてのジンギスカンでした。その旅館には偶然、駅弁を買ってくれた新婚組もいて、その夜、結婚生活の心得をご教示願いたいと夫妻の部屋にやってきた。お互い麻雀大好きとわかり、卓を囲み最後に千代子夫人が役満をつもってめでたし/\。
 夫妻か大笑いしたのは、ハネムーンで泊まった伊香保の旅館の置物の裏に頭文字を書いたことを思い出し、ここはどうかと床の間の大黒像の底を見たらWCとあったからでした。
 (5)は京大教授だった猪木正道の「世界と日本」からです。昭和40年に出た猪木正道著「世界と日本 随想」の「はしがき」に「『日本の位置』から始まり『世界の位置』で終る百篇の随想は一九六四年七月上旬から十月中旬までも熊本日日新聞に毎日掲載されたものである。(192)」とあるので、マイクロフィルムで掲載日を探してみました。
 もしかすると熊本らしい馬肉ジンギスカンなんて記事があるんじゃないかと期待したが、残念でした。でも猪木は「小樽と札幌」「小樽商大」「クラーク会館」とこれで100回の内、少なくとも4回、「私は小樽で日本旅館にとまり、札幌ではホテルに泊まった」という書き出しの「旅館とホテル」も入れると、5回も北海道を書いたとわかった。
 「クラーク会館」では「ロビーでは、学生たちがのんびりと雑談したり、新聞を読んだりしている。北大の学生たちは、この会館のおかげでたしかに幸福になったようだ。3京都大学にこういう施設が、まだできていないことは残念である。」と書いてます。あれができた当座は泊ることもできたので、猪木は2日間利用して「なかなか快適である。(193)」と賞めています。
 (6)は「僕は食い辛ん坊ではあるが、食道楽というものではない。」という舘脇操北大名誉教授の随筆からです。この前半には北欧の友人たちが来日したので帝国ホテルのバイキングを食べたかいと尋ねたら「一度だけねえ」といい、ある「美しきお嬢さん」は「あれはデンマーク風のスモール・ゴス・ボード」であり「二度食べなくても結構」と付け足した。舘脇はその答えに同意して「そうだろう。パリで日本料理を日本人が食べなくてもよいのと同意義である。」(194)と認めています。
 (7)は1回しかジンギスカンが入っていないけど、私には飾らない屋台の造りが懐かしいので入れました。奥野氏は科学技術系の評論が多かったように思うが、子供の頃臍の右にあるほくろを見た祖母から「お前は食い運に恵まれ一生おいしいものが食べられる」と言われた。<略>最近、臍の左側にもほくろが出現「これはきっとあらゆるごちそうを食べられるという天下第一の腹相であろう。ぼくはこれからの人生に、明るい希望を抱くにいたったほどである。」(195)と、安くうまいもの捜しに熱中しているという話です。
 (8)はノモンハン事件と呼ばれた国境紛争の実情報告です。昭和14年5月から4カ月間の戦闘で日本・満洲軍はソ連軍の機械化兵団の物量攻撃により撃退させられた。小学生だった私は新京神社の境内で捕獲したソ連軍の兵器を見た覚えがあります。そんなことで皆、日本軍が楽勝したように思っていたけれど、同事件での敗戦は貴重な教訓であり「これをムザムザ暗中にほうむるに忍びないものがある。」として負傷、生還した元陸軍中尉草葉栄氏は当時の真相を書いたそうです。
昭和39年
(1) スクランブル
           窪田精
 
<略>まずたのしい会をつくろうというのが、さいしょの
目標だった。新しい会場――児童会館を借りて、毎週、例会をひら
き、うたやアコーデオンのけいこをおこなった。そのあとで、時間
のあるものはのこってくれといって、運営の相談をやる。政暴法や
原水爆など、時事問題についてのはなしあいをやる。
 五月中旬になり、ジンギスカンを食う花見の会というのをおこな
った。ぜんぶで六十人ぐらいが参加した。女性会員が五割くらいも
いた。バス一台を借りきって、みんなそろいの赤いネッカチーフを
して、サケ・マスの養殖地として知られている千歳川上流の草原に
いったのだった。
 その後、季節ごとに春の花見の会や夏のキャンプやサイク・リン
グ、秋のズスラン狩りの会などをおこなっている。
 市内の職場めぐりや、近郊の農村に出かけていって、そこの青年
たちと一しょになってうたったりもする。ロシアや中国や日本の民
謡や、しごとの歌をうたい、フォーク・ダンスをやる。語りながら
ジュースを飲む。そうしたたのしい会である。<略>

(2) 第五章(楡家の人びと)
             北杜夫

<略> それはまだ千代子の結婚前のことで、欧洲が松沢病院でボーナスが出たというので吉田家と楡家の主だった人々を招待し、ジンギスカン料理を食べに行ったことがある。当時ジンギスカン料理はまだ珍しく、中華料理屋で前菜のようにあつかわれていたが、千代子ははじめて食べる羊肉の臭みが鼻についたので箸をつけるのをやめ、いずれ出てくるであろう中華料理を愉しみに待つことにした。ところが、無口な徹吉のわきに坐っていた龍子が、極めて断定的に、完全にどこからどこまで今日は主人公といった口調で、もうみんなジンギスカンでお腹が一杯でしょうから――彼女は自分自身の理由のみですべてを判断する癖があった――中華料理はやめにして、あとは御飯だけに致しましょうと宣言した。「皆さん、お宜しいでしょう?」そして結局そういうことになった。せっかくの招待の御馳走の席で、千代子が食べたのはお香こと御飯だけであった。

(3) 恵迪で過ごして
           氏家増之(昭和38年入寮)

<略> 次に思い出すのは、少し品位が落ちてしまうが、犬を食べた件である。
 昭和三十九年の五月初旬である。その年の商大戦は第五十回であるから盛大にやろうという計画を立て、早めに商大側へ連絡したところ、明日行くという二つ返事があったその翌日、特に何も御馳走するものが無いので犬でも出そうということにしたのである。ちょうどクラーク会館周辺に多くの野良犬が居ついていたため、あれにしようという思いつきになったわけである。客人三人には足一本ずつを小羊と称して皿に盛った。「羊の足にツメがあったかなー」という質問から、それとバレてしまったが、今考えると慚愧にたえない。寮内から強い非難を浴びたのは当然である。我々は「うるさい、なにおっ」という勢いで対抗したが監査懲罰委員会にはかからなかった。
 恵迪在寮中、勉学はあまりしなかった。というのは自由な雰囲気の中でのび切れるだけのびのびと行動し、青春を謳歌したということである。のちに大学院に入学した時、勉強不足を痛感することとなった。その時我が頭は大陽のブラックスポットのようになっていたのである。このスポットからかつてない速度で知的吸収を行うことになった。最近マイコンの磁気ディスクを初期化するという用語があるが、恵迪寮在寮中まさにアタマの中のコマゴマしたものが初期化され、大人への道をたどり始めることができたのだと思っている。貴重な生活であった。
 同期生諸氏の健康を祈ってやまない。

(4) 旧婚旅行
           林二九太

<略> お腹を抱えて夫妻が思わず笑い出したところへ
「ご免下さいまし。あのお食事はジンギスカン焼にいたしましょう
か。それとも普通のお膳部にいたしょうか?」
 と女中さんがお伺いに来た。
「ホォ!そんなもん喰わせんのかい?」
「はァ。みなさまからとても御好評をいただいておりますが……」
「おい、お前はジンギスカン焼なんて初めてだろう?」
「ええ」
「初物を食べると七十五日生き延びるぜ。どうだ、それにするか?」
「そうね」
 またまた夫唱婦随で、夫妻は女中さんに導かれて、凝った建物の大
食堂に案内された。
 湯上がりに、冷えたビールに舌を火傷しそうな羊のジンギスカン焼
は、とても珍味だった。
 松岡氏のお酌で、千代子夫人もコップに一、二はいビールをすごし
た。
 その楽しそうな老夫婦の姿に、隅の方で食事をしていた若い男女
がフト目を止めると、
 「また逢いましたね」
 「本当。お睦まじそうですのね」
と囁きながら、ニッコリ頷き合っていた。汽車の中で松岡氏に弁当
を買ってやった、あの新婚さんだった。<略>

(5) ジンギスカン料理
             猪木正道

 札幌で一番目につくのは、、ジンギスカン料理の広告である。<略>なぜ札幌にジンギスカン料理店が多いのか、よくわからないが、乾燥した札幌の空気に、ジンギスカン料理がよくあうのだろう。
 昨夜私は、石狩川までドライブして、ペケレット湖園という私設公園の中にあるジンギスカン料埋店を訪れた。北大のスラヴ研究施設のメンバー十二人がそろいのエプロンを身につけて、鉄なべの前に腰かけたところは壮観だ。ここは食べほうだいだというので、昼食を抜いた人もあり、ざるそばだけですませたものもあって、皆「うんと食べよう」という決意をみなぎらせている。
 やがて羊肉と玉ネギ等の野菜が運ばれてきた。薄切りの羊肉を焼いて、タレにひたした味はすばらしい。いくらでもお代りが来るので、知らず知らずのうちに鷲くほどいただいてしまった。羊の肉をほおばって、ビールを飲んでいると、ジンギスカンになったような気分になるから不思議だ。そのうちに、一人二人と満腹組が脱落し、最後にK君と私とだけが残った.こんなに食べては、店は破産しやしないだろうかと聞いたところ、経宮者は北日本一の帽子屋さんで、ジンギスカン料理は趣味でやっているのだから、心配しないでもよいということだった。羊肉は、オーストラリアから輸入された冷凍品で、いくらたくさん食べても、店は損をしないのだという説もあった。<略>

(6) 舌の散歩
             舘脇操

<略>また王爺廟(ワンヤミヨウ)
という興安嶺南西麓の牧場で、羊の丸煮を御馳走になった
ことがある。老酒をくみながら、各自が箸と小刀とを持って、ただ
塩味だけの肉を骨からはずしつつ食べるのであるが、いかにも蒙古
らしい味で、時が過ぎるのもすっかり忘れてしまった。なんでも珍
客になると、一匹の丸煮の羊が、そのまま食卓にあがり、主人役は、
他の箸で、眼玉をくり取って、正客に捧げるという話を聞いた。何
ともグロテスクなことなので、「ひどいものだなあ」といったら、
蒙古ずれのした一人が「鯛の目玉のことを思えばあんまり変りがな
いだろう」と笑いながら盃をふくんで答えた。満州ではジンギスカ
ンもずいぶん方々で御馳走になった。新京の西、大平原のまっただ
中にあった王府(ワンフ)の鐘紡の牧場の月夜に、御馳走になったジンギスカ
ンは生涯の思い出となろう。またホロンバイルの大草原で、のぼり
来る満月の光を浴びつつ蒙古人のこしらえてくれたジンギスカンの
思い出も忘れられない。もちろん特殊な鍋もなく、ありあわせの鉄
板でやいたのである。そして同行三人で「これがほんとうのジンギ
スカンだな」と笑いあった。日本に導入されたのは戦後、大衆の料
理として登場させたのが、月寒の栗林君だ。津々浦々に、時には濠
州の羊肉も入れて、ジンギスカンが発明したものでないジンギスカ
ン鍋でもうもうと煙をあげる。大草原の風雲児ジンギスカンも地下
で苦笑していることだろう。

(7) やきとんを愛す
           奥野健男

<略> 酒を飲み出してから、急に小食になったが、それでも食いしんぼうのくせだけは抜けない。けれど抑圧された幼児期の願望と敗戦期の体験のため、ぼくはいかもの食いになってしまった。上
品で値段の高い料理より、安くてうまいものだけを食べ歩
く習慣ができてしまった。新宿や渋谷や池袋の裏通りを、
ここのぎょうざ、あそこの成吉思汗なべ、むこうのボルシ
チと捜し回る。
 やきとり、正しくは豚の臓物串焼きも好物のひとつで、
東京中二~三〇軒歩いてみた。けれど目黒駅の陸橋のほと
りにある、「とんぼ」とかいう屋台がとびぬけてうまく気
分がよい。
 昼間はくつみがきのいる場所に五時半ごろから開くこの
店には、敗戦直後の乱世期のムードが保たれている。はい
ると、脂肪のしみた板の上に、串をおく薄ぺらな経木を敷
いて、その上に風にとばないようにチョウツガイの金具を
置く。新聞紙を名刺大に切ったナプキンもぶらさがってい
る。
 ちかごろは、扇風機などで炭火を起こす不粋な店が多い
が、ここの背の低いおやじは、坊主頭に汗を光らせて、律
儀にうちわを使っている。<略>

(8) 緒戦まで
           草葉栄

 六月二十七日(火曜)
<略> 陣地偵察をおえ、楊柳の木蔭をえらんで、地面をほり
さげ露営準備にかかる。露営といってもていのよい土窟
で、ふかい穴のうえに屋根がわりに天幕をかけ、したに
毛布をしいただけの設備で、夜ふけや明け方はひどい寒
気になやまされるであろう。それでも無邪気な兵隊たち
ははじめて手足をのばす宿営地の設置にすっかりほがら
かになり、最前線にいることもわすれて泥柳を折って偽
装したり、穴をほったりすることに夢中になっている。
 満軍の連中はいかにも砂漠を家とする自然児らしく索
徳納木大佐以下じつに素朴で感じがよい。取っておきの
りんごやわれわれがジンギスカン料理とよんでいる羊肉
の煮たのに岩塩をつけて食う野趣まんまんたるご馳走を
ふるまわれ、生きかえったような思いをした。
「水がない」というとしめり気のあるくぼ地の楊柳のし
たを掘ってくれる。一メートルほど掘ったらはたしてま
っ白い異様な水がしみだしてきた。ちょっと飲めそうで
なかったが、やがてこれもなれるだろう。<略>
 昭和40年の(1)は旧満洲国公主嶺の満鉄公主嶺農業試験場で農業用大型機器を研究していた技術者のいい時代の思い出です。敗戦後、いろいろ雑役をやりながら毎晩ある人と碁を打ったとあります。その名字から公主嶺引き揚げ組と聞いた同級生の父親らしいのですが、もう彼に尋ねることはできません。
 (2)はは西岡秀雄慶応大教授の「世界の料理」からです。戦後出たほとんど本は蒙古の国名をモンゴルと書いているのに、この本はモンゴールとしているだけでなく、ジンギスカン鍋はそのモンゴール独特の料理とあっさり認めている点でも珍しい。それでいたジン鍋はモンゴール語でこういうといった説明もなければ、鍋の形やタレについても触れていない。世界の料理と名乗るからには、モンゴールも―と軽く触れた感じの料理の本です。
 それから単に乳では何の乳かわからんよね。梅沢忠夫氏によると、馬の乳を搾るときは、子馬をつないで置き、母馬を連れて行って子馬に一口飲ませる。それから母馬を子馬から離して乳を搾るそうだ。私は雌馬のおっぱいを見たことがないので想像だが、牛や山羊のように豊満な乳房ではなく、乳首も掴みにくいベチャぱいなので、子馬に引き出させるんじゃないかな。ふっふっふ。
 (3)は昭和18年から月寒種羊場に15年間勤務し、昭和40年に病床にあった釣谷さんを励まそうと弘前高校の同期生3人が中心になり、釣谷さんが雑誌などに書いた随筆をまとめた「月寒十五年」です。続々やってくる月寒視察者をジンギスカンでもてなした思い出が面白い。
 釣谷さんによると、肉が足りないとき内臓も切り出して食通の方は召し上がって下さいというと、皆肉より内臓を食べようとするそうだ。少々のことで肝をつぶさぬようにと肝臓を食べる、お前の心臓が今以上に強くなってはかなわんから、俺に食わせろと心臓をほしがる、舌がすぐなくなるのを残念がり、二枚舌の羊を育成してくれと言い出す人もいるとか。「このようにガツガツ食う人間を見ていると、クローバーを食い漁るヒツジの群像と、どれほどの差があるのだろうかとつくづく考えさせられるものがある。」(196)と書いています。
 鋤焼きは高嶺の花、カレーライスの肉片ぐらいしか食べていない人たちが、有名な月寒の種羊場の羊を見るだけでなく、ジンギスカンという珍しい料理で食べられるとなれば、話のタネにとガッツくのは当然だよね。
 (4)は「札幌の精養軒ホテルが昭和10年ごろジンギスカンを始めていた」と自信満々主張する辰木久門の本からです。この5年後辰木が出した「北の味覚 ―ふるさとの海幸・山幸―」の精養軒のジンギスカンは全く同文です。同書の略歴に「大正2年小樽市生、小樽中学卒。道庁に入り現在行政資料室勤務。戦時中道文芸協会『北方文芸』編集責任者。」(197)とあります。だから昭和10年は22歳、れっきとした道職員だったのに、精養軒で食べたことがあるとは書いていないし、辰木の精養軒開始説を怪しむ人もいたのでしょう。
 昭和54年に出た「札幌事始」のジンギスカンの項を受け持ち、本名達本外喜治で「料理屋でジンギスカンと名称をつけて売り出したのは、昭和十年以降になる。札幌では、昭和十年ごろ当時大通の西四丁目にあった精養軒ホテルが始めだといわれているが、名の高い洋風の料理屋だけに、焼肉と結びつけて噂されたのかもしれない。」(198)と精養軒開始説を「噂」にして、この後に出てくるおでんと焼き鳥の「横綱」が元祖と書いたのです。
 精養軒が昭和9年12月に北海タイムスに出した広告は3回とも、ホテルの名前の上に支那食・和食・洋食と3行並べた形です。同10年の同紙元日号36面に豊平館と同サイズで並び、ホテル名と電話2本の番号だけでした。
昭和40年
(1) 公主嶺の機械化試験
             篠原寛

 公主嶺は最後は軍都として知られていたが、農業関係では古くから
白楊並木の農業試験場として親しまれていた。私はその試験場の農業
機械科に七年間勤めた。<略>
 機械科は科員が十数名いた。私の担当した試験で、大きなものが二
つあった。一つは農業機械化試験で、もう一つは除草機試験だった。
<略>
 除草試験は、二町歩の圃場をいくつかに分け、在来の鋤頭(チウト
オ)除草と新しい除草機をいろいろに使用したものととを比較したの
だった。
 機械科だけで二十町歩からの試験圃場を持っていたが、日本の試験
場では、ちょっと考えられない大きなものだった。
 私はいまでも、時々農具舎の横の立木の下で、ジンギススカン料理
をたらふくやったことを思いだす。すんだ美しい満月が木の間にみえ
る下で、満州は極楽だ、天国だとジンギスカン鍋をかこんで、歌った
り、踊ったりしたものである。その後内地で、ジンギスカン料理らし
いものを時々やるけれど、てんでまずくて、お話にならない。<略>

(2) ジンギスカン料理の発祥地
           西岡秀雄

 水草を追って年に幾度も住居を移すというような素朴な遊牧の姿は、現在はしだいに見られなくなりつつあるが、冬営地と夏営地との間を往復する遊牧形式や、四季ごとに移動する形は現在でも行なわれている。したがって、このような遊牧生活につごうのよい生活様式が古来よりそのままうけつがれている。<略>
 食糧として重要なものは、肉・乳製品・茶・酒・穀類である。日本で「ジンギスカン鍋」として知られているものは、たしかにヨーロッパ、アジアにまたがる大帝国を建設したジンギス・ハーンの名を冠していて、この国独特の料理であることには間違いはないとしても、一般のモンゴール人は羊肉を常食としてるわけではない。羊に限らず、生きている家畜は彼らにとって重要な財産であるため、これを殺して食べるということはめったにない。家畜という大事な資本は、その利子である乳や乳製品を利用することが、利口なやりかたであることを、彼らはよく承知している。インド人が牛肉を食べないことも、宗教的というより生活の知恵かもしれない。これらの乳や乳製品と、少量の粟・麺などによって、一年中のほとんどの食生活をみたしている。また乳はそのまま飲まないで、茶の中に入れて飲む。飲みきれない乳は、バター・チーズ・酒・菓子そのほかいろいろの乳製品として、乳のあまり出ない冬季の食料として保存している。

(3) 成吉思汗鍋余話
             釣谷猛

<略> 米国の占領下にあったころ、GHQの輸入飼料担当官アップリトン女史が月寒へやって来たことがあった。占領後数年も経つと、GHQ役人の荒稼ぎが目立ち、碌な人間が来ていないとの専らの噂さが拡まっていた。あちらさんは洋服なので、よもや袖の下など知るまいと考えて居ったのは凡夫の浅はかさで、上着の下、ズボンの下、スカートの下の方が袖の下より広く、袖の下の本家であることを知らされ、アメリカ人の隠された一面に触れ、驚いたものであった。このアップリトン女史も、本国の飼料業省と結託し、割高な飼料をしかもスカートの下をとって日本の業者に売リつけていた欲張り婆さんだったので、ジンギスカン鍋など供したくなかったが、私情のために日本の恥になっては大変と、このメンコクない婆さんのため特別のヒツジを供し、日本のヒツジはこんなに肥っているのだぞと無言の誇示のつもりで肉片をデラックス版に切って食わしてやった。ところがワンダフルを連発して誉めてくれたまではよかったが、この肉は大きすぎて食えないから、ホークとナイフを頼むときたのにはガッカリ。その挙句鍋の上に羊肉をたくさん載せてやると「ノウーノウー」「オーバープロダクション」(生産過剰)と叫び、ジンギスカン鍋はセルフサービスに限るなど勝手な怪気焔をあげ、ガメツク食われ、とんだ骨折り損のくたびれ儲けをしたことがあった。<略>

(4) ジンギスカン(成吉思汗)
           辰木久門

 ジンギスカンのはじまりは、中国風をまねたもので《焼羊肉》からヒントを得たものにちがいない。流行しだしたのは昭和初年頃で、羊のフンでよごれた、蒙古帰りの陸軍省の某大佐が、東京で実演したのが始まりになっている。これをジンギスカンと名付けたのは、満州国の初代総務長官、駒井徳三で、この大陸的で乾燥した本道の風土に適したものか、たちまち名物野戦料理におさまった。北海道がメン羊やつけ合せのタマネギ、ジャガイモの主産地であることもさいわいした。▼札幌では昭和十年ごろ、当時大通りの五丁目にあった精養軒ホテルで始めていた。夏バテには最適で、価格が低廉で、ウナギにまさるともおとらず、冬はまた寒中といえども、酔っぱらって路上で寝ても、めったなことでカゼもひかない。脂肪があっさりしているから、食いだめのできるほどたくさん食べられる。▼《成吉思汗》とは、チンギス・ハンが正しい発音で、七百年前にアジアを平定した大王テムジンのことで、これが悲劇の英雄、義経と結びついた。蒙古語で《強精な王様》だから、これをナベに転語すると《強精な食物の王》と解してもよい。▼北海道は義経の伝説の本場であるから、蒙吉人の主食の緬羊と、テムジンならぬ義経さまと結びあって、原野に立ちのぼる羊肉の油煙まで、砂塵をけちらすたたかいの絵巻物になっで目にうかぷ。壮大なふんいきでナベを突っつくという段取りになる。鉄のナべはつまりカブトだ。▼しかし近来、材料の不足から、羊肉ならぬ《洋肉》が、和製づらでたくさん出回っている。冷凍技術がかなり発達したといわれても、味は格段とおちるから、営業用はよほど選ばなければ、との陰口もある。煙をあげない鉄なべが売り出されているがああいうものもジンギスカンナベとしての邪道だ。▼作家の檀さんは北海道のジンギスカンば見事だが、香菜《コエンドロ》のないのが残念だという。これはシルクロードにつきものの、高原のセリ科の植物だ。深い説明はぬきとして、筆者は調べるだけ調べて、本道人の食生活にはむかないことを表明する。(辰木久門)
 昭和41年の(1)は、ジンパという北大語が生まれるずっと前の「古き良き時代」の話です。焼いたり食べたりの描写は少ないけれど、我等が校歌みたいな寮歌「都ぞ弥生」の歌詞を入れてのジンパは「最高の贅沢」といわれたところを評価して紹介しました。
 (2)は、この年北大で開かれた土木学会第52回通常総会の記録からです。令和6年、北大東京同窓会が約800人が同時に食べたジンパのギネス記録をつくったが、その半世紀余り前、札幌で約500人の大ジンパがあったのです。
(3)は尾崎士郎が昭和14年に北京の羊肉料理店に入り成吉思汗鍋を食べた随筆です。尾崎は大正11年、昭和12年と2回中国旅行をして3度目なので、正陽楼らしい料理店の烤羊肉を食べる光景は特筆すべきことではなかったようです。
 引用した「尾崎士郎全集 第11巻」の「収録作品年譜」では「成吉思汗鍋」を含む「関ヵ原(昭和15・12 高山書院)」とあるが「関ヵ原」では国会図書館にはない本になり「関ヶ原」に変えると「尾崎士郎全集 第11巻」の底本が出ます。
 国会図書館デジタルコレクションになっている高山書院発行の底本を見ると「成吉思汗鍋」は207ページから載っており、奥付を見ると「昭和十五年十二月廿八日印刷」の隣の発行日は「昭和十六年一月十六日発行」と訂正されております。
 (4)は文芸春秋の社長も務めた池島信平が13回、東洋史の専門家32人との対談をまとめた「歴史よもやま話 東洋篇」からです。この対談の小林は「元朝秘史の研究」「ジンギスカン」「東西文化の交流」などを書いた小林高四郎横浜国大教授、岩村は「西城とイスラム」「アジアの見方」などを書いた岩村は岩村京大教授です。
 あとがきに、昭和14年に北京に1カ月いて中国の黄土地帯を見たし、同18年から1年間、満洲文芸春秋社員として満洲にいたとき「旅する先々で史跡を訪れ」「素晴らしい漢民族の文化そのエネルギーの堆積」を学んだ。それだけに「この『東洋篇』を編集しながら、いつも胸中を去来していたのは、大国民としての漢民族のさまざまな姿であった。」(199)と池島は書いていますが、中国の現況を知ったら何というか知りたいね。
 (5)は烤という字が熇という字に代わって使われるようになったのは割合新しいことだという話です。「思うに〝熇〟の字が長い年月がたつうちに、人々の記憶に便利なように、それを火に従い考に従うように変えてしまったのであろう。火に従うのは火を以て熱することを表わし、カオ)に従うのはその読音を表わしたものである。」(200)と説明しています。
昭和41年
(1) 戸外レクリエーションと観光
           金沢良雄

 北大の恵迪寮の裏の原ッパで、
大学院の学生諸君と野外コンパを
するのが、私の一つの楽しみとな
っている。昨夏は、来講された京
大の田畑教授にも加わっていただ
いたが、大変よろこんで下さった。
「こんなことができるのは、北大
ぐらいじゃないですか」とのこと
であった。羊群声なく牧舎に帰る
姿はみられなくても、手稲の嶺を
ながめ、原始林の名残りをとどめ
る楡の森にカッコーをききながら
ジンギスカン鍋をつつくのは、あ
るいは最高の贅沢かもしれない。
<略> ところで、戸外レクリエーショ
ンの真の需要に応ずる受入体制が
ととのっているかとなると、心細
い。ことに、自然愛好型のレクリ
エーション需要についてそうであ
る。<略>
 しかし、また一方では、戸外レ
クリエーションの需用者側にも問
題がある。はっきりいえばレクリ
エーションの資格のない者が多い
のではないかということである。
いいかえれば、よりたのしいレク
リエーションの仕方を知らない者
が多いということである。<略>
 「とるのは写真のみ、残すは足
跡のみ」(「国立公園」一九二号
21頁合)でありたいものである。
(かなざわよしお=北海道大学教授)

(2) 懇親会
           土木学会

 5月28日(土)13時より,札幌市の北海道神宮裏,宮の森ガ
ーデンにおいて,懇親会が行なわれた。当日の午前中は,クラ
ーク会館にて総合講演会,午後1時から5時までは北大におい
て,年次学術講演会の第1日目がすでに行なわれ,本大会のム
ードが盛りあがってきたところで,懇親会という段取りであっ
たので,北大の学術講演会に参加していた会員の多くは,北大
から宮の森ガーデンへの7台の専用バスによって,順次入場,
また各界の名士や学識経験者の参加もの招待参加で,総数約500
名という盛会になった。
 まず遊佐志治磨大会実行委員長の歓迎の挨拶,つづいて,岡
部三郎前会長,篠原武司新会長の挨拶があり,畑谷正美新副会
長の発声で乾杯開宴となった。5月末といえば,札幌にとって
は,絶好の季節であり,宮の森ガーデンといえば,自然の森の
一角をきりひらいて作られた屋外宴会場として札幌でも著名な
ところ,ここで,北海道の原始の昔を偲びながら,サッポロビ
ールの飲み放題,ジンギスカン料理の食べ放題という趣向,ま
ずまず,土木学会会員のムードそのままの懇親会となった。札
幌でいうジンギスカン料理というのは,コンロの炭火の上に鉄
板をのせ,その上で,羊の肉をジュージュー焼きながら,タレ
汁をつけながら食べるというやり方。油がはねるので,うすい
ビニールの前掛けを各人首からぶらさげる。北海道では,この
ジンギスカン料理が非常に好まれているので,この数年で北海
道内の羊の肉が不足し,現在は,はるばる オーストラリアから
羊を輸入しているのだそうである。 人間の食欲の偉大なること
あに, 土木学会会員のみならんや,というところか。<略>

(3) 成吉思汗鍋
           尾崎士郎

 私が満州から北京に入ったのは九月三十日で、次の日の
午後は早くも包頭に向かって出発していたが、その晩(九
月三十日)成吉思汗鍋が店をひらいたばかりだというの
で、私は久しぶりで会った八木沼丈夫、荒木章の両友に誘
われて前門外の、名前は忘れたが古色蒼然たる店へ入って
いった。鈍い電灯の灯かげの下で、幾つかに仕切られた部
屋の中は日本人の客が顔をならべている。鉄格子の鍋には
羊のあぶらが焦げついてつよく鼻を撲つにおいが一種異様
な野性を唆りたてる。どのテーブルも客で一杯なので、私
たちは入口の通路からすぐ右にそれたうす暗い部屋でお茶
を飲みながら待っていた。<略>
 席が出来たというボーイの知らせで私たちはすぐ立って
いったが、高粱酒を呷りながら喰う(というよりもむさぼ
る)羊の肉は私の食慾に快い調和をあたえた。私は五皿を
代え汗びっしょりになって元の部屋へもどってくると、
さっきの老人達はまだ同じ席にいて同じ速度で酒を飲み、
箸を動かしている。<略>

(4) ジンギスカン鍋と小児の蒙古斑点(座談会)
           池谷信平
           岩村忍
           小林高四郎

 池島 このごろジンギスカン鍋が流行ってますが、あ
れは陣中料理として、ああいう食べ方をしたのでしょうか。
 小林 それはどうでしょうか。肉を鉄板で料理するとい
う野戦的な風習があるものですから、そういう名前はだれ
がつけたか調べてみたらおもしろいと思うのですが、北京
でいう烤羊肉でしょうね。
 岩村 蒙古では普通水炊きのようなもので、簡単なんで
すよ。ところが野戦料理として遠征やなんかにいったとき
には、いまの焼いたジンギスカン鍋ですか、ああいうふう
な、トルコ語でシアシリックあるいはカバーブともいいま
すけれども、そういう肉を食べたのではないかと思います。
というのは大きな鍋を持っていくことは、野戦では困難で
すから。だからやはり焼いて食べたので、そういう意味で
は、ジンギスカン鍋といってもいいかもしれませんね……。
 小林 ただ調味料は岩塩ですね。
 岩村 いまでも中央アジアに行くと、肉は塩だけで食べ
る。私は大好きですが。
 池島 岩村さんは少し蒙古化しているのではないかな。
中央アジアあたりによくいらっしゃるから。(笑)そうする
と、ジンギスカン鍋の由来は、もちろん正しいものではな
いということになりますね。<略>

(5) 料亭の看板を書いた斉白石
     原題《〝烤〟字考》
           燕山夜話第集

 北京に暮らした人は、皆北京西城宣武門内大街に有
名な〝烤羊宛(カオロウユアン)〟(やきにく屋)という店があることを知って
いる。しかし、この店の看板に研究するに値する何かがあ
ることを注意する者はめったにいない。実は、この看板の
最初の一字〝烤〟からして研究の価値があるのである。
  数日前、ある友人から手紙がきた。それには、「烤
 肉宛には近代の著名な画家斉白石の書いた看板があっ
 て、宣紙(宣県の特産紙)に書いて額ぶちにはまってい
 る。文字は「清真烤肉宛」と書かれており、正文と落款
 (印)の間に一行の小さな文字が書いてある(その場所か
 ら見て、看板を書き終わった後に付け加えられたものに違い
 ない)。その文字は「諸書に烤の字は無きも、人の請い
 に応じて、われより作古す」と書かれています(作古
 とは自分が初めて烤の字を正式に使い始めるの意)。それを
 読んで、この老人は本当に面白い人だと思いました。こ
 の手紙を書く時に朱徳熙にも手紙を書いて、諸書には
 ほんとうに烤の字は無いのかとたずね、またこのこと
 を馬南村(鄧拓)に話せば燕山夜話の材料になるだろ
 うと言ってやった。朱徳熙の返事によれば、烤の字は
 『説文』にも無いそうです。『広韻』、『集韻』にはと
 もに の字があり、『集韻』にはあるいは省いて〝熇〟
 となすとあり、つまり烤の字に当たるでしょう。熇の
 字はまた『龍龕手鑒』にもありますが、烤の字は『康
 熙字典』にもありません。たしかに斉白石の言うとお
 り「諸書になきところなり」である。<略>
 未年の昭和42年の(1)は北海道新聞元旦号に載った特集「ジンギスカンなべ物語り」です。31年前、北海道庁がジンギスカンを広めようと札幌で初のジンギスカン料理試食会を3日続けて開いたことは、いろいろな本や雑誌に載っているが、皆昭和42年のこの記事より後です。会場になったおでんと焼き鳥の店「横綱」の店主かせ聞いたジンギスカン売り出汁の苦労話も書いてあります。
 前バージョンの横綱試食会の講義録では「昭和十一年十一月十三日から三日間」の北海タイムスと小樽新聞の紙面を調べたが、それらしい記事はなかったと書きました。それで、のちに店借用の交渉をしたと語った当時の中西道彦小家畜係長が昭和11年は十勝支庁勤務だったことから、帯広にいる人が札幌の飲食店と店借りの話ができるわけがないと、私は前バージョンでは仮説として昭和12年開催を唱えました。
 今回は滝川にあった道立種羊場の山田喜平場長も参加したことに注目し、溝口雅明ジン鍋博アートミュージアム館長と一緒に月寒の農研機構北海道農業センターに行き、同種羊場が発行していた「緬羊彙報」の昭和10年4月の創刊号から同14年12月発行の15号までの場長動静を捜したのですが、札幌試食会については何も見つからなかった。それでね「横綱」試食会の抜粋は長めにして置き、開催時期についてはペンディングとし、今後の紙面調べてわかり次第、別の講義で話すことにします。
 (2)は平凡社の「世界大百科辞典」の羊肉の項です。書いたのは元陸軍主計少将、農学博士で本や雑誌を通じて栄養学関係の知識を広めた川島四郎。公爵松方正義が羊肉販売を依頼した「東京赤坂の松井」は松井平五郎商店であり、それが縁で初の羊肉卸問屋に指定され、同店の2代目店主松井初太郎が成吉思莊を開いたのです。
 (3)は末尾4行はどうかと思うが「週刊朝日」掲載のれっきとした記事です。
 (4)は長く慶応義塾の塾長を務めた経済学者、小泉信三の随筆です。新宿御苑の園遊会だけでなく、三里塚の花見を兼ねた外交団招待の野宴でも、宗教フリーといっていいのかな、ジンギスカンを出すのですね。
昭和42年
(1) 悩みの種はニオイ
           北海道新聞

 菓子類や観光みやげ品のレッテルにある〝元祖〟〝始祖〟
〝本舗〟などは、どちらが卵か鶏か、優劣をつけがたい。とこ
ろが、北海道の〝ジンギスカンなべ〟に限っては太鼓判を押し
てもよい〝官製ジンギスカン料理〟の元祖が、はっきりしてい
るようだ。
 いまは、もうないが、戦前、札幌の狸小路六丁目に『横綱』
という焼き鳥、おでんの店があった。ここで、昭和十一年十一
月十三日、第一回の〝ジンギスカン料理〟試食会が開かれた。
『農林省で費用を持つ』との話で、三日間、店を貸し切りにし
た。滝川種羊場の山田場長夫妻が、料理の指導に当たり、なべ
も持ち込まれた。試食券が配られ、道庁の職員、種羊場の技師
たちが、おっかなびっくりハシをつけた。
<略>
 道農試畜産化学研究室長の西部慎三さんは、羊肉のニオイを
消す三つの条件は『ニンニク、ショウガなどの香辛料、酒のア
ルコール分、それに果実の酸味』を数えている。リンゴ、ブド
ウ、ミカンなどの絞り汁に酒を加え、ニンニク、ショウガをす
りおろし、しょうゆで調味するのが、タレの基本。アルコール
と酸は脱臭効果に欠かせない。このタレを月寒種羊場が開発。
東京精養軒考案というあのカブト型のなべと合わせて、ジンギ
スカンの定型ができた。
 試食会は、盛大に行われたが、こんどは、ニンラクくさがき
らわれ、なかなか一般大衆には食べてもらえなかった。

   元祖は私の店です
     昭和十一年に初めて試食会
           合田正一さん(70)

 私の店がジンギスカンの元祖だったことははっきりしていますよ。昭和13年に刊行された『狸小路開拓史』という本にも、ちゃんと出ています。何しろ道庁のお声がかりで始めたんですから。
 ジンギスカンなべはぜんぜんモウケになりませんでしたね。試食会のころは、映画館でただの招待券を配ったりしたものです。一度は食べてくれても、ニンニンクくさいので女房にいやがられたとかいって、二度はきません。なべにしても、鋳物屋に行って、自分で木型をこしらえ、くふうしました。タレも、あれこれ作り、羊肉の切り方、調理法も、自分で納得できるまで、三年かかりました。
 ジンギスカンのコツは、まず、なべにあります。この、なべを見てください。六度目に作ったものが残っているのですが、小さいシチリンよりも、なべのほうが小さいでしょう。炭火のほのおが、ぜんぶ、なべに当たり、なべがすっかり熱せられないとダメです。
 付け汁(タレ)を焼く前の肉にさっとかけて、すぐ焼きます。肉は薄切りで一定の厚さ、大きさにそろえます。タレは酒、果汁、ショウガ汁、しょうゆなどで調合。水は一滴も使いません。味加減は自分の舌しだい。教えてもおぼえてくれませんね。

(2) 羊
           平凡社

【ひつじ】<略>
【羊肉】西洋ではメンヨウの肉はウシ,
プタの肉よりも貴重とされる高級料理で
あって,高貴の人々の食卓に供し,ある
いは慶祝のこんだてに用いられる。中国
でも周代の八珍のなかに炮(ほう)羊があ
り,六畜六牲のなかに数えられており,
羶膏(こうせん―メンヨウの脂肪)が料理
に用いられている。イスラム教徒はブタ
の食用を忌み、もっぱら羊肉を食べる。
中国でもイスラム教徒によって羊肉料理
が普及し,イスラム教料理がいろいろあ
る。北京料理の力オヤンロー(烤羊肉――
烤は直火で焼くの義)は最も珍味で,北
京の朝陽門外の料理屋ではジンギスカン
(成吉思汗)料理と称して羊肉を薄切りに
し,鉄格子状のなべ(網)でじか焼にして
食べるが,煙が立つため露天で食事する
ので趣がある。近來日本でもジンギスカ
ン料理と称して流行している。日本で羊
肉が市場へ初めて供給されたのは,1907
年(明治40)松方正義が自分の牧場の羊肉
を東京赤坂の松井に依頼して販売したの
がはじまりである。欧米では羊肉は高級
料理に用いられるが日本では市場出回り
の量も少なく,そのうえ特殊なにおいが
あるので日本人にはあまり好まれない。
羊肉の成分は牛肉,馬肉などと大差はな
い。<略>       (川島四郎)

(3) ノド元過ぎれば〝痛さ〟忘れる!?
   「歩くダストボックス」の消化力
           現代出来事デキゴトロジー

 都内在住の会社員・Y氏(三二)
は、日ごろから「歩くダストボ
ックス」といわれる大食漢であ
る。先日、そのY氏、ランチに
赤坂のステーキハウスに入っ
た。が、出てきた肉は予想は
るかに下回る大きさ。
(これでは腹も膨れない)
 仕方なく食べ放題のサラダバ
ーで欲求を満たすことにした。
特に、茎ワカメとアルファルフ
ァに熱中、山盛りの皿で何度も
通ううちに、ようやく満腹感に
浸り、仕事場に戻った。
 が、一時間後、突然、猛烈な
胃の痛み、医務室に駆け込んだ
が、薬を飲んでも、横になって
も痛みは和らがず、脂汗が滲み
出る。でも、食当たりではなさ
そうだ。Y氏は訴えた。
「も、もうパンクしそうです」
「こんな症状見たことがない」
 医者は困惑、大事を取って専
門病院へ回された。Y氏から昼
食の報告を受けた専門医は、
「ワカメが膨張して胃が風船の
ように膨れ上がり、おまけにア
ルファルファが毛玉のようにな
って出口を塞いでいるんです」
 万一のために切開手術の準備
までしたが、一時間後、痛みは
潮が引くように消えた。
「今日はよく運動するように。
それから暴飲暴食は控えめに」
 退社後、Y氏は、医師の忠告
どおりバッティングセンターで
汗を流したが、後で寄ったビア
ガーデンで、つい、ジンギスカ
ン二人前を平らげてしまった。
「このくらい、暴飲暴食の範疇
には入らない」
 平然としていたY氏だが、翌
朝、山盛り五日分のウンコが無
事トイレに流れるかは、さすが
に心配になったのであった。

(4) 下総の半日
             小泉信三

 下総の三里塚といえば、不動の成田市から東南六、七キロの地であるが、ここに皇室御料の牧場があり、また桜の名所ともなっている。何時からのことか、宮内庁式部官長は、毎年花の頃、ここに東京駐在の外交団を招待して桜を見せ、牧場で飼う牛馬羊豚を見せ、終って、庭上の食卓で、ジンギスカン鍋で炙(や)いた羊肉を主にした午食を饗するのが例になっている。今年は四月の七、八、九の三日にそれが催され、私も接待の手伝いかたがたその第三日に参加した。
<略>牧場には、母馬が申し合せたように仔馬を一頭ずつ連れて草を食んでいた。また真黒な豚の子の群れが、人に驚いてか、それこそ蜘蛛の子を散らすように、意外にも敏捷に駆け廻る。大きな緬羊も小屋に寝ていた。飼牛場では、白い作業衣を着け、白いマスクをかけた場員が、大きなグラスで搾りたての牛乳を客に出した(同車のフランス人に、君もやらないか、とすすめると、私の国では牛乳は小児か老人の飲み物だ、という)。
 一廻りして帰って来ると、食事の用意がなされていた。芝生一面に大テントを張って、多数の食卓を設け、テントの外れの幾つかの鍋で、係りの女子職員が羊肉を炙く、その匂いと煙りが雨に混って空気中にただよう。自分は知り合いの日本婦人とともに小卓に着き、炙肉を食べ、更に自分でブッフェから皿に取って来た冷肉類を食べ、注がれた日本酒を飲んだ。
 昭和43年の(1)は正月から朝日新聞北海道版に連載された「北のパイオニアたち」の「羊肉」です。前年の道新の「ジンギスカンなべ物語り」の後追いじゃないぞといわんばかりで、道新が触れなかった商売としてのジンギスカンの説明をふやし、合田氏も道新の取材でニンニク臭を強調し過ぎたと反省したか単に香料としかいわなかったようだね。
 それから省略しましたが、朝日の記者は元道職員の中西道彦氏から店借用の交渉をした話を書いていながら「十一年秋」と開催時期をぼかしたことは、同氏が明言できなかったからとみます。改めて言うが、昭和11、12年の北海タイムスのマイクロフィルム読みの結果を待ってもらうしかない。
 (2)は松田寿男早大教授の「ロシヤ料理のメニューから」です。同教授は人間の食糧になる動植物が風土に密着しているため、その風土ならではの料理を食べることになると説く。例えば酒なら欧州など麦作地帯ではウィスキーやビール、米作の日本では清酒、牧畜で生きる蒙古では馬乳酒が造られる。引用していませんが、松田教授は肉の生産では旧満洲は北部の鹿肉、蒙古寄りの羊肉、南部の豚肉と地帯に合わせた料理を考察しています。
 (3)と(4)は成田市遠山緬羊協会が創立10周年記念事業の1つとして4年かがりでまとめた「三里塚とジンギスカン鍋」に寄稿した日本食肉研究会の中原重樹会長と元日本緬羊協会の渡会隆蔵副会長の随想です。
 渡会さんと中原さんは農商務省友部種羊場で一緒に働き(201)、その後中原さんは農林省畜産局でホームスパン普及に務め茨城大教授、日本食肉研究会長など歴任。渡会さんは戦後、日本緬羊協会役員を務め、昭和37年に中原さんと共著で「めん羊の飼養と経営」を出したという仲でした。
 (5)は映画監督の牛島虚彦が書いた「虚彦映画譜50年」からです。牛島は羊の丸煮をする大鍋をジンギスカン鍋と呼び。焼く鍋ではないが、OKとしました。
 (6)は荒木和夫著「盧溝橋の一発」からです。同氏は近衛師団の歩兵から憲兵となり、終戦時憲兵大尉で戦争犯罪人として死刑判決を受けるが、助けられて無期懲役となり昭和27年釈放された。
 はしがきによると、以来「私は『発砲者は不明』の解消に余生を賭けようと決意し、当時の資料を長年にわたって収集し、これを分析して一つの結論を得た。支那事変の挑発者は最初に記述したように国民政府第二十九軍第三十七師第百十旅第二一九団第三営の中国兵であると確信を得たのである。読者よく私の念願を洞察させられ、これを諒とせられんことを切望する次第である。」とあります。
 (7)はダダイスト詩人高橋新吉の短編「古墳」からです。
高橋の半生記みたいな「ダガバジジンギヂ物語」によれば、高橋は「大正十三年の夏、玄界灘を渡って、釜山から京城へ行き」文通相手の金君宅に2週間泊めてもらった(202)とあるので、平壌で馬君から焼き肉をおごられたのはこの時なら、どうして食べたこともないはずの北京のジンギスカンと比較できたのか、おかしいと思ったのですが、大正13年のことではなかったんですなあ。
 同物語によれば、昭和14年5月ごろ雑誌「大法輪」の特派員として中国へ渡った。途中韓国に寄り「平壌では、馬君を訪ねて、焼肉を食べ」(203)その後、取材で「北京で、前後一ヵ月あまり私はいた。」(204)とある。帰国してから「古墳」を書いたから、北京との焼き方の違いを指摘できたと説明できます。
昭和43年
(1) 無料試食も不人気
      元祖、普及に工夫こらす
           朝日新聞北海道版

 北海道名物のジンギスカンなべには元祖が多い。郷土料理として、いまのように普及したのは戦後だが、「料理屋を開いたのは私が初めて<略>」というのは、札幌市南大通り西一三、北農菌取締役、合田正一さん(七一)。同市狸小路六丁目で昭和十一年秋に営業を始めている。<略>
 昭和十年代に、めん羊の増産対策として、道庁が肉の消費をふやす運動をしたことがある。各地の羊食店に宣伝マッチや店の看板までつくってやるなどして、くどいて回った。狸小路でおでんと焼鳥の「横綱」という店を出していた合田さんがジンギスカンなべを始めたのも、この時の道のさそいによるものだった。
 講師として滝川種羊場夫妻が行き、例の大型にべが三つ持込まれた。道で無料の試食券二千枚をつくり映画館のサービス券にして配ったりしたが、客はさっぱり。
 「一人前五十銭。おでんはダイコンが三銭、タマゴが五銭だったが、試食券を持っててはいった客がこれでおでんを食わせろっていうのには閉口した。三年間は商売にならなかった。しかも農林省かどこかでもってくれるという話だった費用は出ないことになり、それが積もり積もってで二千八百円。仕方なく無尽で借りてやりくりした。二百五十円あれば店が出せた時代ですよ」
 これはあとで、道緬羊連合会が負担することに話がついたが、<略>借金の支払いに二年かかったという。
 「身を引けなくなり、乗りかけた船だからと、家内と二人で店を続けた。鍋は一人でも食べられるように、いろいろ工夫して小型にした。七輪との釣合いが大事で、全体に火が回るようにしなくちゃだめ。木型をこしらえて、豊平の鋳物屋に注文し、七、八通りつくってみた。タレもにおいを消すために香料をたっぷり使い、食べられるようにするまで一年半かかった」<略>

(2) シャシリックとボールシチ
           松田寿男

 ソ連を訪れたことがない人でも、シ
ャシリックと称される羊肉の串焼き
とボールシチすなわち羊肉と馬鈴薯に野菜を加えてトマトで色付け
したスープとは、誰でも知っている。
 羊肉を大きく切って、四〇センチを越すほどの長い金串にさして焼
く、このシャシリックは、まさしく遊牧世界の羊肉万能の風を伝えた
正統な料理である。ちかごろ日本大きやりのジンギスカン鍋は、こ
れと好一対のもので、鍋とはいってもドーム型の鉄板に羊肉をのせて
焼く。戦前に私が北京で食べたものは、日本のお座敷風のものではな
くて、もっと野趣に富んでいたが、それですら中国人の工夫がだいぶ
加えられていると見受けた。それにしても、遊牧民に起原をもつ料理
は、西のシャシリックと東のジンギスカン鍋にとどめをさす、といっ
てよかろう。
 シャシリックの起原はコーカサスであるという。そしていまではウ
クライナに本場を奪われた形になっている。こうした本家争いは、風
土からすればなんでもないことで、羊肉の世界なら誰しも考えつく料
理法だからである。たしかに、遊牧民を歴史の主役としていた砂漠・
ステップ地帯は、蒙古から西の、アルタイ山脈を越えて、カザフの大
草原をつくり、カスピ海や黒海の北側にまで延びていた。コーカサス
やウクライナは、いまでこそ畑地のひろがりであるが、むかしはステ
ップに遊牧民の群れを散らしていたにすぎない。

(3) 北京の烤羊肉
             中原重樹

<略> 満州での烤羊肉は蒙古人の常用する鉄鍋、やり方は現
在日本でジンギスカン鍋と称して行なわれているのとほ
とんど同じであったようだ。
 満鉄が、緬羊の改良増殖のために設置した公主嶺の緬
羊の牧場で来賓を饗応するため、屡々このジンギスカン
料理をもって野宴を催してくれた。古くからこの料理は
名物となり、次第に有名になった。満州事変を一期とし
てワンサと邦人が渡満し、田舎の隅々まで進出するに及
んで、一層有名になった。
 大陸の広野に雄図を抱いた一旗組や、皇道楽土の建設
に挺身した人々が、赤い夕陽の満州で、六百里の彼方で
郷愁を抱きながらも、この烤羊肉料理で同志、盃を傾け
で、その昔、英雄ジンギスカンの征途、夜宴を偲んで気
焔を挙げた雰囲気からすると、ジンギスカン鍋と日本人
が命名した気持ちはわかるようだ。
 以来、当時の夢、大陸への回顧が、内地に於いて戦後
各地に於いて、ジンギスカン料理と称して出現するに至
っておる。
 三里塚に於いてのこの料理の、その由来は、ずっと古
いものゝようである。即ち御料牧場は明治初年から牛馬
を主体に緬羊も古くから飼育された。日本の緬羊の最初
の飼育地、実に緬羊のメッカと称すべく、従って羊肉料
理は種々試みられ、当然宮内庁の司厨人の手法が加えら
れ、ジンギスカン料理のタレの調味も独特の配合が加え
られた独特の風味をうかがわれるようである。ご試食に
あって可然。

(4) 成吉思汗料理考
             渡会隆蔵

 成吉思汗料理のわが国における起源について書いた記
事を、たしか昭和の初め頃の「文芸春秋」で見た記憶が
ある。然しそれは随分以前のことであり甚だ漠然として
いて、それを書いた人の名も題名も覚えていない。只記
憶に残っていることは、蒙古でその味を知ったと思われ
る数名の同好者が、遙々鍋や薪まで現地から取り寄せて
当時の東京浜町の浜の家という料亭でこれを試みたのが
そもそもの始まりであり、成吉思汗鍋という名称をつけ
たのもこの人達であるということである。
 それはそれとして自分が羊肉料理に始めて接したのは
大正九年、当時の農商務省緬羊課に入った時、お茶の水
女子高等師範学校(今のお茶の水女子大)の料理の先生
一ノ戸伊勢子さんが、同省の委嘱を受けて、日本の家庭
向きの羊肉料理を研究して発表したその試食会の時で、
脳味噌の天ぷら、素焼、おろしあい等を記憶しており、
油で軽くいためて大根おろし醤油をつけて食べる素焼は
今でも時々賞味しているが、本物の成吉思汗料理にお目
にかかったのは、大正十三年友部種羊場に転任したとき
で、当時の種羊場式成吉思汗は、「たれ」を作って一定時
間肉を浸漬してから焼く方法で、現在のように素焼にし
てから「たれ」を付けて食べる方法をやりだしたのは、
昭和十五年駿河支場が出来た頃からと記憶している。
<略>

(5) 食卓の習慣
           牛島虚彦

 私が徳王府の大包で、成吉思汗料理の饗応を受けたと
きも、包中心部の炉の燃料は、この天然固形燃料であっ
た。日本で、成吉思汗料理といっているお狩場焼に似た
ものは、中国の烤羊肉である。蒙古でいう成吉思汗鍋
は、鉄大鍋で、羊一匹を塩丸茹でしたもの、羊はその四
本の足を鍋の外にグッと突っ張り出しているといった、
まことに大陸風、豪快な感じの料理で、烤羊肉とは全く
趣を異にしたものである。<略>
 食事には、無論種々の礼儀と順序があるが、ここで、
それをこまかに記す必要はあるまい。食事が始まると、
まず最初に、その大鉄鍋から突っ張りだした最も美味に
違いない後足の一本が切りとられ、それがそのまま主賓
の卓子にはこばれる。ホスト側の人々の色鮮やかな服装
や、その立居振舞い、それに包の内部の蒙古風の装飾が、
しらずしらずウォルト・ディズニィの東洋風の色彩動画
を思い起させたのを四十年後の今日、私はハッキリと思
い起す。しかし、そうしたサービスは全部男性で、宴席
に女性が出ないのは普通であり、戦時だから特にそうだ
ったのではないようである。<略>

(6) 物情騒然たる山海関
           荒木和夫

<略> やがて長城線にも春が訪れた。長城は煉瓦を積んで、城壁の連鎖のような姿をしているが、中央部は普通の土が埋めてあるし、全部が全部煉瓦でもなく、単に土塁になったところもあった。
その土塁の上に春ともなれば野生の「りんどう」が可憐な花を咲かせるのである。また、時ありては天下第一関の城壁上「天下茶屋」に於て羊肉を焼きジンギスカンの昔を懐古し始皇帝の築城の跡をしのんだり、友を誘って角山寺に遊んだこともある。
 角山寺は山海関より十二キロのところにあって、石山の羊腸たる小道を驢馬の背にゆられて山頂にいく。眼下に山海関城を俯瞰し南に遠く渤海湾を望めば、長城外は一望千里の満州国の高原が広がり、かつて始皇帝練武の堡塁重畳たるを見る。長城は石塁を為して蜿々と角山の頂きを越えて背後の山の背を北へ北へと伸びてその果てを知らず古北口に向う。<略>

(7) 古墳
           高橋新吉

<略> 馬君は、戯曲を研究している青年で、家は箕子陵の
方にある。牡丹台へ来るまでに、僕を箕子陵へも案内
してくれた。
 自動車が向うから走ってくる。一台の人力車に、妓
生が体を斜めにして乗っていて、すれちがう時、馬君
に挨拶した。
「彼女は唄がうまいので有名な妓生で、今夜ラジオで
放送することになっています」と馬君は言った。
 平壌は妓生の本場で、妓生学校もあるのだ。
 馬君は焼肉屋へ僕を連れて行った。焼肉もまた、平
壌の名物であるという。金網の上へ、生の牛肉を置い
て炭火でアブルのである。
 北京のジンギスカン料理ともまたちがったやり方だ
が、その原始的な、何の技巧もないところは似てい
る。味は、スキヤキの味とはまた別な、少しく蛮性を
帯びたものだが、強い焼酎を飲み乍ら、金網の上から
箸でジカに食べるのである。
 満腹すると同時に、少し酔ってきた。馬君と僕とは、
蹣跚としてそこを出た。妓生学校の前を通ってみた。
内地の検番のようなところでもあるようだ。建物は二
階か三階の洋風を加味したものだった。中へ入っては
見なかった。<略>
 昭和44年の(1)は大島徳弥の「百味繚乱」です。この本は少し前、昭和38年に入れた大島の「中国料理のコツ秘伝」をルポ風に書き直した内容で、水滴で焼網の焼け具合をみる、香草じゃなくて葱や針生姜も焼くと書いている。
 引用分に続けて「日本では烤肉のことを一般にジンギスカン料理と呼んでいるが、烤肉は野天で行ない、澄みきった大陸の、しかも秋から冬の、星座きらめく北京の夜空の下で、原始的なロマンチックな食べ方をする。片足を台にかけて鉄網で焼くとき、思いは蒙古の草原まではせるかも知れぬ。そして果てはジンギスカンの壮図にまで展開する。飲む白乾児(ぱいかある)――焼酒は興のおもむくままに杯を重ね、島国で生まれ育った日本人は大陸を制した気になるかもしれぬ。」(205)だから、そういうジンギスカンもある、またはあったんでしょう。
 (2)は獅子文六の「バナナ」です。大学生呉竜馬は台湾バナナの輸入に関係して稼ぎ、シャンソン歌手を目指す女子大生サキベーと仲間3人をつれて、一度商売仲間に招かれたことのある渋谷の料亭に行き、ジンギスカンをおごるところを抜き出しました。これがきっかけで竜馬は「自分たちのグループを、ジンギスカン料亭へ連れてって、芸妓なぞをあげた晩の面白さは、忘れることのできないものだった。あれ以来も、機会あるごとに、金を使う喜びを見いだしていた。」(206)と展開していきます。
 「バナナ」は昭和34年に読売新聞に連載した小説ですが、その13年前に出した随筆「飲み食ひの話」に札幌グランドホテルで「重役みたいなことをやつて」いた弟岩田彦二郎に「毎日勤務中の晝飯」を尋ねたら「『まア、鮨か洋食だね、シナ料理が一番飽きるよ』と、答へた」そうで、フランスの総菜料理を好んでいた獅子は「洋食の方はと、異論が出るかも知れないが、僕は愚弟の答へを、割合に公平なものと認めてゐる。」(207)と書いていました。
 (3)は「佐賀潜の文明開化帳」からです。検事から転職して弁護士は珍しくないが、さらに推理作家となった人です。内容は4章ら分かれており「スキ焼の名称」は第1章に当たる「西欧化にとまどう明治人」からですが、第3章にあたる「明治時代の文豪と巨匠」が実に面白い。明治の作家と新聞社が持ちつ持たれつの関係だったことを書いており、私はこれを書きたくて、佐賀はこの本を出したんじゃないかと思いましたね。
 (4)は、うまい店案内です。山本直文の「まえがき」によれば、柴田書店は昭和38年に「東京うまい店二〇〇店」を出した。6年たち品切れになったので新版を計画したが、山本独りでは「広汎な料理についてエキスパートとして書くことが出来難い。それで今度は食いしん坊の十人で分担して執筆することにした。」(208 )と250店、うち獣肉関係では鯨肉のくじらや、猪鍋の栃木屋、野獣猪肉料理のもゝじや、桜鍋の中江の5店を紹介しています。
 執筆者は山本直文、薄井恭一、桐島龍太郎、高島博、団伊玖磨、陳東達、夏目通利、福島慶子、三井高孟、山梨幹子の10氏で山本直文、薄井恭一、桐島龍太郎、高島博、団伊玖磨、陳東達、夏目通利、福島慶子、三井高孟、山梨幹子の10氏。高円寺の成吉思莊は盛業中だったはずですが、この方々の好みではなかったのでしょう。
 (5)は昭和43年7月、モンゴル人民共和国の建国48周年記念式典に出席した国会議員団の団長を務めた桂木鉄夫衆院議員のモンゴル訪問記です。ツェデンバル首相はじめ多くの政府要人と国交回復会談などの新聞記事も同書に収められています。桂木氏は子供用など3つのパオ(包)を持つ一家なども訪ね「牛の糞が『蚊とり線香』になるとはモンゴルを訪ねて初めて知った。」(209)と書いてます。
昭和44年
(1) 烤肉(かおろお)(ジンギスカン料理)
           大島徳弥

<略> 烤肉の特色は肉を選ぶことと、肉の切り方に高度の技術を要することである。<略>羊でも、二〇キロのものから八―九キロで五〇パーセントに満たない肉の使い方をする。どの部分が適しているか、これはその店の秘伝である。
 またこれを焼く方法がむずかしく、燃料にしても柏、柳、松の木とされ、中でも松の小枝、松かさを最上とする。割箸くらいの大きい鉄棒の網をかぶせた大きな炉で焼くのであるが、だいたい露天か家屋の屋上に食卓を出し、食卓の回りにベンチを置き、その上に片足だけをのせて立つ。食卓には肉と薬昧が並べてある。薬味はねぎ、生姜のせん切り、調味料は生姜汁、醤油、酒、蝦油(しやおゆう)(えびからとった塩汁)などである。これらの薬味と調味料を適度に混ぜ合わせ、つけ汁を作りこれに肉を漬けておく。肉を焼く前に羊の尾からとった油で鉄網を塗る。ほかの油では味が落ちる。鉄網が熱くなったところで、水を一滴落としてみて、すぐ乾けば、ねぎ、生姜のせん切りをまずのせ、つぎに肉をとり出して焼く。
 肉を焼く箸は六〇―七〇センチくらいの長いもので、これは、日本のすき焼と同様、食べるのにいちいち皿に盛らず、焼いて熱い肉を武接口に運ぶのがおもしろいし、美味なのである。
 この焼き肉といっしょに食べるのに、砂糖漬けのにんにくがある。これを食べると羊の臭みもなく、またにんにくの臭みも消えるのである。また、焼餅(しやおぴん)(ごまかけのパン)が米飯や饅頭などより適している。<略>

(2) バナナ
           獅子文六

<略> 富豪の邸宅でも買ったのか、ガッシリと、いかめしい玄
関だった。五、六人の女中が、紅い敷物の上に、手をつい
た。<略>
 広い廊下を歩いて、金ブスマに土佐絵のかいてある座敷
へ通されると、中央にコンロのついた丸テーブルがあり、
その周囲に、一同が坐った。
「ジンギスカン鍋を、持ってきてくれ給え。それから、ウ
イスキーは、スコッチがあるか」
 龍馬が、女中に話しかけた。
「さア」
「無ければ、すぐ、取り寄せて貰いたいな」
 大きな湯タンポのような鍋に、女中が羊の肉を乗せる
と、モウモウと、脂の煙が立つが、卓を取り巻く一同は、
床屋さんへ行ったように、白い上っ張りを着せられてるか
ら、服が汚れる心配はなかった。その代り、誰も仮装をし
たように、風体が変って、中でも、サキ子は、カッポー着
をつけた奥さんのような姿になった。
「サキベーは、案外、似合うぜ。いかにも、料理の上手な
奥さんみたいだ」
「バカにしないでよ。ハンバーグ・ステーキなら、お手の
ものなんだから……」<略>
「怪しいもんだな」」
「ほんとよ。最近、台所ってもんに、興味が出てきたのよ」
 と、ムキになっても、誰も信用しなかった。少くとも、
今夜の彼女は、食う方が専門らしく、後から焼けてくる肉
を、小丼のソースに浸して、片端から平らげるので、唇が
脂で光っていた。尤も、肉嫌いの龍馬を除いて、誰も彼
も、よく食べた。そして、脂ッこくなった口の中を、洗う
ように、ハイ・ボールを、何杯も重ねた。<略>

(3) スキ焼の名称
           佐賀潜

<略> スキ焼のスキは農具の「鋤」にあたる。鋤の刃をよく洗って、火の上にかざし、その刃の上に鹿だの兎だの、あるいは鳥などの獲物の肉をのせ、焼いて食べたからスキ焼というのだ、という。この料理法の発案者は、時代はどれといってわからないが、戦乱からのがれて帰農した武士たちのようである。鋤の刃で肉を焼くというのは、いかにもあらあらしいやり方で、戦乱の匂いがする。
 似たものにジンギスカン鍋がある。ジンギスカン鍋は隙間をあけた丸型の鉄器に、羊の肉とネギをのせ、炭火で焼いて醤油をつけて食べる。丸型の鉄器が正統だというが、これはモンゴル兵士の兜から取ったものではあるまいか。十三世紀に欧亜を席巻したチンギス・ハンの陣中で、兵士たちが鍋のかわりに兜を利用し、羊の肉を焼いて食べたということからきているのだろう。
 農具の鋤や兵士の兜で料理するとは、いかにも素朴で、その生活にむすびついたリアルな感じである。あるいはそうかもしれないと肯定してみたい。

(4) 栃木屋
             山梨幹子

 栃木屋<猪鍋>
 幾つかある東京の盛り場の中でも新宿西口の変容ぶりは衆目を引く。日々に高層ビル化が進行する中で、南多摩郡淀橋村の頃から猪鍋の看板をかかげている栃木屋。酒問屋から転業したのが明治三十五年。古き新宿を偲ぶ数少ない店の一つであろう。猪肉の旬は酷寒である。その頃、猛烈に脂肪分を増し、その色は雪の如く白くなってゆく。ピークは二、三日を争うという。割り下を入れ、グツグツ煮るとその脂肪分はトロッとした甘味を舌に残し、赤身は歯ごたえがあって野生のもののみのもつ風味がある。
 猪肉はジンギスカンより鍋の方を私は好む。逆に鹿肉はジンギスカン焼きの方が美味で、しかも刺身にしてもうまい。ガン暦半世紀という古強者の当主、昭和三十三年の亥の年の正月から南極昭和基地に猪肉を毎年プレゼントしている。以来、南極の猪鍋がうまかったと外国の越冬隊員たちが訪日の折り、栃木屋まで足を運んでくれるそうだ。猪鍋が取り持つ、微笑ましい話である。(山梨)

(5) ジンギスカン料理は日本だけ
           桂木鉄夫

<略> ホテルの食事は朝から肉攻めである。一般の家庭の食生活と比較するのは当を得ないかも知れないが、朝は大きなソーセージが出る。主食はパンだが、ソーセージのツマミとしてバターでいためた米飯がそえられてある。それに肉ダンゴのスープと紅茶がつく。スープは私にはちょっと動物くさくて、あまり頂けなかった。昼は前菜の次に骨つきの牛肉と羊の腸づめ。これはただ煮ただけで味はついておらず、自分で食塩を振りかけて塩味をつける仕組みだ。肉の量の大きさには参ったが、通訳のアルマース君などはみるみる平らげていたから、モンゴル人は日本人より大食漢だとからかったものである。
 晩は一層豪華な肉料理である。馬乳酒が出て、時には魚もつくが、モンゴル人は普通魚は食べる習慣がないので、よほどの時か要求しない限り魚料理は出てこない。
 正直にいって料理の味は、それほど美味だとはいいがたい。これはおそらく日本人とモンゴル人の食生活の相違からくるものだろうが、私には調味料を使えばもっともっとうまくなるような気がした。私はある時、日本で人気のあるジンギスカン料理がなかなか食卓にのらないので、アルマース君にそっと聞いてみると「そんな料理はありませんよ」と、一蹴されてしまった。その時知ったことだが、あの鉄板で焼く羊肉の料理は、器用な日本人が考え出した日本製のモンゴル料理だった。
 昭和45年の(1)は檀一雄の「檀流クッキング」です。檀は「ジンギスカン鍋」の章の前の「羊の肉のシャブシャブ」で「成吉思汗鍋の直接の本家の方は中国だろう。中国の「涮羊肉(サオヤンロウ)が日本流になまって、シャブシャブになり、「烤羊肉」が日本流になまって成吉思汗鍋になったと考えてもさしつかえない。」が「蒙古のあたり」では大鍋で「羊が巨大な塊りのまま、グツグツと煮られているのを見るだろう。煮えあがった羊を、皿に取り、塩とニンニクと『ターナ』と呼ぶ薬草をまぶしながら食べるのが正真正銘の『成吉思汗鍋』だろう。(210) 」と断定してます。またペトルーシカはウイグル族の香草の呼び方だそうです。
 国会図書館で私の入力ミスで娘の檀ふみが父親が得意としてカラシレンコンとタイ茶漬を作る記事が載っている「嗜み」という雑誌が出てきた。それによると彼女は「小さいころ私には、どうしても食べられものがあった。ピーマン、ゴボウ、椎茸、人参…。『この子は異常体質だ』と決めつけられた。<略>私の大嫌いなものは、父の大好物だった。キンピラゴボウは常備菜だったし、椎茸やピーマンも、手を替え品を替え、連日、登場した。」(211)というから地獄ですよね。それのせいか、上記の2品もプロの指導の下で初めて作ったとのことでした。
 蛇足ですが、昭和50年に中央公論新社が出した文庫本「檀流クッキング」に映画評論家の荻昌弘が解説を書いている。いわく「檀流クッキング」は「タダの家庭調理実作の指南書である」。よって「何年かかっても仕方ない、本書の一品一品を、一つ残らず、わが腕に叩きこんでいくことが、食生活へのひそかな宿願の、大筋になっていることを自白しなければならない。」(212)荻さん、北海道弁でいえば、ゆるくないねえ。
 (2)はその荻さんが書いた「鍋もの大全」からです。荻さんはジンギスカン鍋を大全に入れてくれたけれど、鍋料理の本などでは省かれていることが多いし、中国料理の本でも室内で出しにくい料理のせいか、回教徒の料理で別種とみるのか、書いてないことが多い。いうなればコウモリみたいな存在ですよ。かつてテレビで映画を語っていた彼を思い出させる文体です。
昭和45年
(1) ジンギスカン鍋
           檀一雄

<略> さて、今回は焼いて食べる羊肉の方を研究してみよう。
 中ソ国境の近くにウイグル族という少数民族がいて、このウイグルは、羊の肉を焼いて食べる。太いロストルのような鉄弓の上で羊肉片を焼き、ニンニクと、塩と、ペトルーシカという香草をきざんで、まぶしつけて食べる。
 この流儀も、シルクロード全般にひろがっていて、例の劒に刺して炙り焼くシャシュリークがそうである。アルメニアの界隈では、大きな劒で炙り焼いた肉塊を、ニンニクと、塩と、ペトルーシカやウクローブや、ラーハンと呼ぶ香草と一緒に食べる。
 中国の「烤羊肉」は太いロストルの上で、薪を燃やしながら羊肉を炙り焼き、芫茜(ユアンシー)(ぺトルーシカと同一)という香草をまぶしながら、例の千変万化の薬味の類をタレの中に調合しながら、焼き上った羊肉を食べる。
 日本の家庭でなら、やっぱり成吉思汗鍋とか、義経鍋とか、朝鮮鍋とかいってデパートで市販しているものを、どれか一つ用意しておくがよいだろう。<略>
 鍋など金網だって、スキヤキ鍋だってよろしい。
 羊の肉を焼き、先回公開しておいたタレと一緒に、モミジオロシ、ネギの薬味など日本チリの薬味の類も加味しながら、酢、醤油、ゴマ油などをふりかけふりかけ、食べるのがおいしい。
 そのつけ合わせには、タマネギだの、ピーマンだの、モヤシだのを一緒に焼くのがよろしかろう。

(2) 鍋もの大全
           荻昌弘

<略> しかし、それはそれとして、鍋料理はな
ぜ、所もあろうに、世界で日本、中華だけ
を中心に、ああ独特の発達を遂げたのであ
ろう。おかげで、日本の家庭たるや、狭い台
所の袋戸棚に、土鍋、スキヤキ鍋、湯豆腐
鍋、おでん鍋、味噌仕立用鉄鍋、ジンギス
カン鍋、焼肉鍋、ブイヤベース鍋、フォン
デュ鍋、火鍋子用煙突鍋、シナ鍋‥‥はてこ
れで幾つになったね。はあ十一か。つまり一
ダースに近い鍋物容器を常時準備せねばな
らぬていたらくである。考えてもみなさ
い。一言で鍋といって、煮出汁で煮る寄鍋
あり、割下で煮立てるスキヤキあり、湯で
煮てつけ汁にひたすチリあり。味噌で煮る
土手鍋あり、油でいためるジンギスカンあ
り。いかに君、整理学の権威といえども、
五種の、本質的に異質な調理を、ひとつ鍋
で済ますわけにはゆかぬ。もっともこれを
逆にいえば、日本じゃァ鍋ひとつあればな
にかの鍋料理はできることに、他ならない
が、それにしても日本人のこの好き、これ
はいったいなにに由来するのであるか。
<略>
 つらつらおもんみるに、鍋料理を、かよ
うに、西洋でなく、日本・シナで発達させ
た真の張本人は、たぶん、ハシである。箸
じゃよ。君は、いやちがう、原因は魚貝
だ、とか、概念的なことを言いたがるだろ
うが、真因は箸なのである。だって君は、
ナイフとフォークで寄鍋のきんなんがツマ
めるか? 駄目だろう。それみなさい。第
一が箸、第二が炭。第三が土鍋。どうだ、
こればっかりは西洋にあるまい、といった
物質がドシドシ日本に集中していたおかげ
で、わが亭主らの大先輩は、世界に冠たる
調理を開発しおえたのであった。<略>
 昭和46年の(1)は「砂川市史」からです。戦後のホームスパン生産に至る過程を述べた「戦争と緬羊」と「ジンギスカン」の間にある「緬羊飼育の衰退」では、戦後は緬羊飼育が盛んになり、種羊の価格が高騰して昭和24、5年ごろは牡でも7~8万円、牝では1頭最高24万円の値がついたが、海外からの安い羊毛の影響で同27、8年ごろから値下がりし「毛を取る羊から肉を食べる羊」と変わったのです。
 (2)は元岩波書店会長、小林勇の「山中独膳」にある日記からです。昭和45年7月22日から9月8日まで北軽井沢の山荘でつけた日記「山中独膳」と「飲啄の記」で成り立っているが、日記も献立だけでなく、前年の日記と比べては同じ料理だとか同じ物を食べているとかね、人並み外れた食事への関心がよくわかります。「飲啄の記」12編も雑誌「あまカラ」に載せた食べる話です。その中で「私は鍋料理が好きだ。同時に鍋そのものが好きなのだ。(210)」と鉄鍋、土鍋、石鍋、御狩場焼きの道具まで集めたと書いているが、ジン鍋は眼中になかったようです。
 取り上げたのは、小林がワインを味見して銘柄を当てるソムリエみたいに、札幌にあった精養軒のジンギスカンのタレの材料の84%を言い当てたと驚くべき鋭敏な味覚をさりげなく記している8月23日分です。でも山荘ではジンギスカンはやらず、百楽園で日本酒を飲みながら食べており8月29日(211)風邪気味で気分が悪いといいながら9月2日(212)にも行ってます。
 ちょっと脱線だが、我が低温研に「中谷宇吉郎のいるころ」と小林が気安く呼ぶことが解せないので、中谷さんと岩波の本を調べてみたら、昭和6年に出た「岩波講座物理学及び化学 59」に中谷さんが「気体内電気現象」を執筆したあたりからの付き合いらしい。戦後は中谷さんが「科学映画を作る会社を始めようと提案され、小林さんが即座にそれに賛成された」ことで一段と親しくなり、昭和24年4月「鎌倉の小林家で、やがて岩波映画の創設に参加する人達の顔合せ」があり、準備期間中は「中谷先生や小林さんの配慮で『中谷研究室』という名称の法人格をもたないブロダクションとした(213)」というツーカーの仲だったのですね。
 (3)は我が文学部国文の風巻さんの全集からです。「北京語でいう白乾児」とか「囲炉裏の網の上でじゅうじゅう焼き」なんて中国臭いから調べたら風巻さんは昭和19年秋、北京輔仁大学教授として北京に行き、21年4月に引き揚げ帰国(214)したとあるから、敗戦前に北京の烤羊肉を賞味されたと思います。
 (4)は「北海道相互銀行二十年史」からです。ページ番号のない「営業種目編」の扉に印刷された羊ヶ丘の100頭ぐらいの羊群のカラー写真説明で、扉ペーシの裏にあります。このころは羊ヶ丘近くにリンゴ園があったんですね。
 (5)は作家の瓜生卓造の「札幌という街」からです。彼の「雪・氷・スポーツ」を読むと、札幌にいた中学時代のスキー部員の思い出がもとで、幌見峠から砥石山へ向かい、吹雪に遭い遭難しかけた話が書いてあります。それやこれやアルペンスキー派の瓜生さんは東京に住んではいたものの、札幌との縁を大事にしていたのです。
 (5)は
昭和46年
(1) 第四編 農業と林業
           砂川市史編纂委員会

 戦争と緬羊 戦争がはげしくなるにつけて衣料不足はますます深刻となり、農家ばかりでなく、労働者や商人、サラリーマンも緬羊を飼うようになった。このため緬羊の数は急増し、砂川における緬羊頭数は、二千頭位と推定され、生産仔羊の買い手がなくなってきた。
 「仔羊が生まれても置くところがない。何とかして緬羊組合で処分してくれ」こんな声が聞かれるようになり、緬羊組合では組合をはじめ、空知生産連の斡旋のもとに、道外移出することで販路を求めて購買業務をの委託を受け、販売をはじめた。戸別購買なので貨車一台分三、四十頭集めるのに一週間から十日もかかった。<略>
 また、廃羊の処分については、これも皆種羊場で講習を受け、ジンギスカンやソーセージなどに加工貯蔵法などによる調理法も教わった。
 ジンギスカン 衣料品が自由にそして安価で購入されるようになる
ともう緬羊の必要はなくなり、毛を取る羊から肉を食べる羊と変わっ
てきた。さきにジンギスカン料理について指導を受けた、焼山第一生
活改善部落においては、これなら実践に当たった。ジンギスカン料理
についても、樋口定治の工夫により、現在用いられているたれをつけ
てから焼いて食べる甘口ジンギスカン料理を考案したのである。この
料理法は忽ち普及し、ジンギスカン料理に緬羊はどんどんと潰されて
いき、緬羊の数は激減していった。昭和二十年頃軒並みに見られた緬
羊も今ではまったくその姿が見えなくなったのである。

(2) 日記
           小林勇

八月二十三日
<略>  池島たちが来てしばらく駄弁り、十二時になったので百楽荘にジンギスカンを食いにゆく。他に一組も客がなかった。羊肉はあまり脂のないところなので、やいて煙が出なかった。羊肉は軽くてうまい。ぼくは中谷宇吉郎のいるころ、札幌の精養軒というのへ一人でいって、ジンギスカンを食ったときのことを思い出して話した。そこの肉もよかったが、タレがうまかった。東京へ持ってかえろうと思って談判したら断られた。そこでおかみを呼んで話した。そのときぼくがタレの中に入れてある材料を十一まで数えたのでオカミが感心して、タレを分けてくれることになった。そのときのタレに入っていた材料は十三種であるということだった。
 百楽荘の肉の量は割に多かったが、ぼくたちは四人で六人前食った。真昼の楢の林の中の山小屋は静かで呑気でよかった。家でぼくが料理を作って供するよりも、結局うまくて世話がない。このごろ勤めの若い夫婦が外で安直に食事をするのは、無理のないことだと思う。人のたくさん集まるところで、少し勉強すれば、客はいくらでも来る。食い物やの勉強が一般に足りないようだ。
 夕飯は、生臭抜きでやった。さつまいもを薄く切ってフライパンで焼いた。<略>

(3) 日本の酒
           風巻景次郎

<略> 洋酒のバアではないが、北方の透明な強い酒に北京語でいう白乾児(。。。)がある。真空の中にアルコールを蒸発させるような感じのぱいかる(、、、、)は、わたくしの好む酒の一つであるが、それは真冬らんらんと星光る夜、成吉思汗の羊肉を囲炉裏の網の上でじゅうじゅう焼きながら飲むのである。濛々たる煙を抜くために開けはなした窓の中、酷寒の空気の中で、外套に深く包まれたまま、羊肉をしきりに食いつつ、胃にしみこむ強烈無比なぱいかる(、、、、)を注ぎこむ気持は別である。しんと酔ってくる心地には、非人間的な苛烈さがある。わたくしはこの砂漠を連想させる酒が好きである。ぱいかる(、、、、)の真空の世界に近い酷薄さ清潔さにくらべれば、ジンでもウイスキーでもじつに人間的である。ぱいかる(、、、、)は酒の極北である。
 そうした酒のことを思うと、日本の酒はまたなんと人間的であたたかくなつかしいものであろう。よく思えばそれは春雨のけぶる宵のやわらかさを思わせる。しょせん、やはり日本の酒は春のものである。(『酒』昭和三十一年五月号)

(4) 羊が丘(札幌市羊が丘)
           北海道相互銀行

 市街の東南方で札幌市近郊によこたわる
広大な平原一帯を占める大牧場である。
 元は農林省月寒種羊場であったが、昭和
24年北海道農業試験場畜産部に移管され、
有畜農業の研究がおこわれている。
 研究の内容は緬羊をはじめ牛,馬,山羊,
豚のほか護羊犬や兎、蜜蜂の飼育研究,牧
草,トウモロコシなどの試験研究圃場など
多方面にわたっているが,その一部を羊が
丘展望台として開放し,いかにも北海道ら
しい大陸的な景観に接することができる。
羊が丘入口にはリンゴの畑に囲まれた茶店
アイヌコタンがありジンギスカン鍋がおい
しい。こんなに食べられるだろうかと思う
ほどのボリュームだが,結構たいらげてし
まうほどで,この素朴な料理は北海道の風
土にあっているのであろう。

(5) 円山公園の桜
           瓜生卓造

<略> 最後に月寒種畜牧場である。小高く広大な丘陵に緬羊が放牧され、「羊ガ丘」の名で呼ばれている。私の子供のころは一望の放牧場であった。羊の背に夕陽が映えてただ広漠としていた。黄昏が迫るとただうら淋しくなった。しかし、現在は視界にたくさんの家影がとびこんでくる。立派な牧柵がめぐらされ、レストハウスが建ち、すっかり観光地に化して羊の影を薄くした。ツキサップと小学校の教科書にもあった地名は、誰の悪戯か無知か、いつの間にかツキサムとおきかえられた。バカにつける薬はない。しかし大らかに展けた丘陵と牧草を食む緬羊が百万都市に続いている。やっぱり札幌のエキゾチシズムの代表でもあろう。入口に近い月寒ジンギスカンは有名である。しかし、羊の遊ぶのを見た目ですぐに肉をつつかなければならない。古人もいった。その生を見れば死を見るにしのびず、と。

(6) 日常の食生活
           陣内宣男

<略> このところ、日本ではジンギスカン料理(烤羊肉)が流行のようである。あんなふうに材料をむき出しにして焼いて食べる料理法を「武吃」と北京語ではいう。
「武吃」に属する料理はお座敷などでたべるべきものではない。北京では烤羊肉の有名な店は前門外の正陽楼であるが、そこでは、院子(中庭)に台を置き、松のまきをくゆらして、煙にむせびながら星空をながめてつつく。
 烤羊肉はだいたい秋から冬にかけての食べもので、雪でも降りかかってくるとふぜいがあるというものであろう。「文吃」というのは対称語があるかは知らないが、ジンギスカン料理は、もと野戦料理でいわゆる風流をたしなむ文人墨客の賞味するものではないようだ。
 中国人がテーブルを囲んで、おなじ皿や椀から料理をたべあう習慣は、親しみをまし、経済的であり、互譲とか謙遜の美徳を養うものといわれる。見方によっては、洋食や和食のたべ方よりは社会性があるのかもしれない。これも中国人の生活の知恵というべきであろうか。<略>
 昭和47年の(1)は奥山益朗編「味覚辞典 日本料理」からです。半分は檀一雄の引用だから、ここには入れにくいが、まあ、このころは「季節の野菜なら何でもいい。」となっていたことと、檀がジンギスカンという名前を賞めていた証言として取り上げました。
 私は多くの本や雑誌、ホームページやブログを検索しては、ジンギスカンの起源を読んでいるけど、この本のように「剣道の面みたいな」でなくて「面」そのもので焼いたという説明はお目にかかった覚えがない。しかも、羊肉ではなくて牛肉から始まったという話も初めてだよ。はっはっは。
 (2)は曽野綾子の小説「幸福という名の不幸」からです。社長秘書榎並黎子が姉の家に遊びに行ったところ、義兄の友人古谷夫妻が来訪するから、歓迎宴の手伝えと足止めされる。次の紹介は煙突の煙から始まるが、ジンギスカンの煙の流れる方向を書いた小説は滅多にないよ。
 (3)は「ジンギスカンは、かつて内蒙古と呼ばれた地域発祥の料理だろう」という写真家三宅修説です。私は旧満洲の西側からゴビ砂漠に掛けて、かつて満蒙と呼ばれた地域で使っていた烤羊肉用の携帯型コンロと鉄網が我が国のジン鍋の原型だと主張してきたが、水が乏しい同地域では羊肉を茹でるほかに焼く料理もあり、それが日本のジンギスカンにつながるとみる三宅説は尽波説の仲間ですね。
 (4)は漢文学を研究している東大の前野直彬教授の本からです。よく使われる「羊頭を懸けて狗肉を売る」は「無門関」という仏教書からだと説明する本があるようですが、前野さんはそれを承知で調べたに違いないから、それは後追いなんでしょう。私は見たことはないが、一見犬肉の方が馬肉より羊肉に似ていることが広く知られるようになってから変わったと愚考するのですが、どんなもんでしょうか。
 (5)の俳人楠本憲吉の「旅に美味あり」は「サッポロのビール会社の煙突は/太くて黒くてたくましく/ふき出す煙は/真黒けのけ(215)」という「歌」を先頭に書いていますが、聞いたことがあるかな。私は歌えるけど、添田唖蝉坊という演歌師の「まつくろけ節」の替え歌とは検索してみるまで知らなかったね。
 大正8年に出た「歌曲独稽古」という本の「まつくろけ節(216)」は9つ歌詞が載っているが、うち2つが汽車の煙だから、この辺から思いついた歌詞かも知れません。
 この随想は見出し通りビールの話で「八月になると、札幌郊外や富良野方面ではホップ摘みがはじまる。(217)」と書いている。私が昭和27年に入学して北7条東4丁目に下宿して、そこんちの犬の運動に北8の通りを東に行くと、ビール工場の近くに広いホップ畑がありました。それから20年、この本は出るまでに全く畑はなくなってましたね。
 「日本人名大辞典」によると楠本は大阪北浜の料亭「灘万」の長男で「野の会」を創刊、主宰するなど前衛作家催だった(218)そうですが、食べ物に関する本も沢山残しました。
 (6)は5冊も歌集を出した歌人小国孝徳氏による随筆「北海道の味覚」です。トウモロコシ、馬鈴薯、林檎、鮭、蟹、柳葉魚の短歌とその味の話が並び、ジンギスカンとなっていますが、ジンギスカンはこれはという歌がなかったかビールと絡め、〆は学生時代のラーメンの思い出となっています。
 (7)の筆者の肩書きは朝日放送勤務となっていますが、国会図書館サーチで検索すると、昭和41年に「関西ドライブうまい店めぐり」という本を出している。また「あまカラ」終刊号にも執筆しているから常連のライターでもあったらしい。六甲山ホテルのジン鍋は清水東宝社長が戦時中に北京から持ち帰った鍋を手本にして作られたもので「満州から」は間違いです。戦後、清水社長は大阪の繁華街でジンギスカン店を計画して複製鍋をたくさん作ったということなどは、以前、北京の東来順で食べた人たちの思い出の講義で話しました。前バージョンの講義録「もう1軒、東來順を忘れちゃいませんかってんだ」のおしまいの方にあります。
 (8)は旧満洲にいた第5次信濃村開拓団開拓団の女子団員が羊の毛刈り、毛糸紡ぎをした明るい思い出です。だが、ソ連との国境に近い地域に入植した同開拓団は昭和20年夏、ソ連軍に攻撃され、シベリア抑留死も加えると在籍者1600人のうち400人しか生還できなかった。清水さんは戦火を潜り、辛うじて生き延びた1人なのです。
 それで帰国できた団員が第5次信濃村開拓団同志会をつくり、慰霊碑を建立し、さらにその碑文や写真、生還者による思い出をまとめた「惨!ムーリンの大湿原 ―第五次黒台信濃村開拓団の記録―」を作ったのです。終戦直前、私がもし満洲でも北の方に住んでいたら生き残れたかどうかわかりません。脱線ですが、永遠の団結を誓う碑文をここに転載します。

 第五次黒台信濃村は当時の国策に則り長野県が全国に
 魁けて企図した最初の単県編成開拓団にして昭和十一
 年祖国の与望を担って勇躍元満洲国東安省密山県に入
 植し民族協和と楽土建設に精魂を傾注すること十年漸
 くその基盤を確立した然るに昭和二十年八月突如とし
 てソ聯軍の急襲に遭いこの楽土は一瞬にして地獄絵図
 さながらの中に壊滅し死の避難行となった又当時男子
 は殆んどは応召し終戦と共にソ聯に囚われ累年の苦役
 にその大半は異境の土と化した当時団の在籍者千六百
 余名中帰還者は四百名に過ぎず是を吾等深く悲しみ歳
 々法要を営んで来たが今回同志相議り追憶の記録を刊
 行し併せて茲に慰霊の碑を建て非業に逝きし諸霊の冥
 福を祈ると共に是を有縁の集魂の場としやがて吾等も
 此処に集い先霊と相語り倶に人類永遠の平和を護持せ
 むことを期す
  昭和四十七年十月
    第五次黒台信濃村開拓団同志会
               会長 丑山仁智露
(219)
昭和47年
(1) ジンギスカン鍋
           奥山益朗

 ジンギスカンなべ 【成吉思汗鍋】 起こりは蒙古のよ
うに思われるが、日本で発明された日本料理である。起源
はいろいろあるが、古いのは明治末年に北京在住の日本人
が古道具屋から剣道の面を買って来て、牛肉を焼いて食べ
たが、この方法に名前をつけようというのでジンギスカン
鍋になったという説がある。流行しはじめたのは昭和初年
で、北海道との結びつきは、昭和十一年に札幌の「横綱」
という店で試食会をはじめたのが発端とされている。材料
は羊肉の薄切りと、シイタケ、ナス、ニンジン、タマネギ、
カボチャ、ピーマン、ジャガイモ、モヤシなど季節の野菜
なら何でもいい。
◇「戦後の日本を代表する二つの大きな食物異変は、ギョ
ウザと、ジンギスカン鍋の普及かもわからない。両者とも、
おそらく、大陸からの引揚者によって伝承され、くふうさ
れ、郷愁されながら、今日の普及のきっかけをつくったに
相違ないが、ニュージーランドやオーストラリアのマトン
がまた、たまたま恰好の市場を得て、ジンギスカン鍋の盛
大な流行を見たわけだろう。それにしても、ジンギスカン
鍋とはよい名まえをつけた。為朝鍋だの、平家鍋だの、僧
兵鍋だの、勝手ほうだいの鍋の名が生み出される中にあっ
て、ジンギスカン鍋は、安い羊肉をもって日本中を席巻す
るにふさわしい名実を備えていたといえるだろう」(檀一
雄・わが百味真髄・ジンギスカンの末裔になってみよう)
<以下道内5、堂外4の有名店の住所、電話番号は略す>

(2) お汁粉と首飾り
           曽野綾子

<略>「まあ、こんな可愛い、妹さんいらっしゃったの」
 などと言いながら、中年の古谷夫人の目は《可愛い》筈
の若い娘の中から洗いざらい素顔を見抜いてやろうとする
ような抜目ない目付になるのだった。
「どうぞ、又、どこかいい御縁の口がございましたら、御
世話下さいまして……」
 姉は言った。これも或る年齢以上の女の、反射的な科白
ではないかと思う。姉にはまだ慎之介のことを報告してな
いのだから、当り前の配慮なのだろうが、会って数分も経
たないうちに「すかさず」やられたようであまりいい気持
ではない。
 古谷氏は、副島藤太とは違う資本の系列の銀行員で、そ
の銀行の性格上、今迄にも結婚以来、半分くらいは外国勤
務だった、という話だった。
 黎子は姉を手伝って、食前酒を出し、その間に、庭に姉
御自慢のジンギスカン鍋の用意をするのを手伝った。副島
藤太の家は、父親の家の一部に核分裂のように建てられた
ものなのだけれど、お互いがうまく背を向け合うようにし
て建っているので、ジンギスカンの煙は、隣家の方にその
強烈な匂いを流すことはあっても、母屋は殆んど影響なく
いられるのだった。<略>

(3) モンゴルの思い出
           三宅修

 札幌の冬季オリンピックも終り
に近づいたある日、青山の小さな
料亭でモンゴル選手団の役員を囲
むパーティーがあった。
 これは、四年前に学術合同登山
隊として、モンゴル西北部のアル
タイ山系、ハルヒラー山群に遠征
した東京外語の山男たちの、心ば
かりのお礼と慰労の会であった。
<略>
 牛肉のオイル焼も日本酒もビー
ルも、まことに結婚と喜んで食べ
てくれたのは嬉しかった。
 私は次の機会にはぜひともに彼
らの先祖の名を拝借しているジン
ギスカン料理を食べさせてやろう
と思った。本家本元のジンギスカ
ンの国になくて、日本中に元祖・
名物となっているジンギスカン料
理を、である。奇妙なことに、私
たちはモンゴル滞在中、ついにそ
うした焼肉にお目にかかれなかっ
た。何としたことか、羊肉はすべ
てボイルされていたのである。
 モンゴルにジンギスカン鍋はな
いと信じて帰国したのだが、後日
出会ったモンゴル人によると、焼
肉もあるという。
 ひょっとしたら、これは地域に
よる差かもしれないと思う。私の
踏みこんだモンゴル西北部はアル
タイ山脈からの雪解水が豊かに流
れ、草原には泉が湧いているほど
水に恵まれていたからではなかろ
うか。ゴビ地方や昔の内蒙古に当
る内モンゴル自治区などでは、乏
しい水を大切に扱うために焼肉料
理となるのではあるまいか。
<略>ジンギスカン料理の歴史を
たどると、どうもかつて内蒙
を訪ねた人のアイデアが浮び上っ
てきそうな気配がする。「ジンギ
スカンは源義経なり」と言うほど
の威勢はないが、ジンギスカン鍋
は内蒙の料理ではないでしょう
か、と小声で私見を述べる次第だ。<略>

(4) 羊
           前野直彬

<略> ただ漢代以降になると、文献の数がふえたわりには、マトンの料理に関する記録は乏しい。『水滸伝』などを読むと豪傑たちの酒もりに「殺羊置酒」といった表現が何度も見られるので、羊を食べたことは実証できるのだが、折目正しい上等の料理では、あまり羊の肉にお目にかからないようである。現代の日本にも栄えるジンギスカン料理は蒙古族のもので、漢民族本来の食べ方ではないし、いまの北京料理に羊を使ったものがあるのも、蒙古族や清朝満洲属から伝えられた可能性が大きい。
 もっとも一方では。「羊頭を懸けて狗肉を売る」ということわざがあって、羊の方が犬の肉より上等に見られた証拠を提供している。犬の肉というと、日本では江戸時代の折助か明治の貧乏書生が食べるもののように思われそうだが、中国ではレッキとした食肉であった。やはり『水滸伝』などの小説で、街道筋の茶店で酒でも飲もうというとき、肴にするのは牛肉か犬の肉なのであって、両者はほぼ対等、ときには犬の方が上等に見えるときもある。だから「狗肉」を売るといっても、とんでもなイカモノを食わせるわけではなく、ちょっと質を落としたりすぎない。
 そうなると、狗肉より上等の羊肉はよほど質のよいものと見てよいことになるが、実はここに問題がある。「羊頭を懸けて狗肉を売る」ということわざが存在したことはたしかなのだが。いつごろ誰が言い出したかと調べてみると、いっこうにはっきりしない。そこで物ずきな学者がいろいろに考証しているが、判明したかぎりでは『晏子春秋』などの古い書物に「牛頭を懸けて馬肉を売る」「羊頭を懸けて馬脯(馬肉)を売る」などとあるのが本来の形であり、いつのまにか馬が犬に変わってしまったらしい。これは食肉としての犬の価値が明朝以後に下落していったあとを示すもののようであるが、馬肉は中国では、犬の肉以下の低級な肉なのであった。<略>

(5) サッポロビールとジンギスカン鍋
           楠本憲吉

<略> 二杯目のジョッキと共に、ジンギスカン鍋が運ばれてきた。
 ジンギスカンのカブトに模したナベで、マトン、ほうれん草、もやし、玉じゃがいも、ねぎ、かぼちゃなど焼きながら食べるのである。
 マトン特有のにおいを消すコツはたれにある。たれには、にんにく、りんご、なし、みりん、しょう油、酒、酢、塩、砂糖、根生姜、七色唐辛子、白ごま、化学調昧料と実に多彩な材料が使われる。
 ジンギスカン鍋は蒙古の野戦料理から生まれたといわれ、北海道は酪農の発達とともに緬羊の飼育も盛んになり、札幌の「横綱」という店で、昭和十一年にはじめてこの試食が行なわれたという。
 マトンは月寒種羊場からのものらしい。脂肪がよく回り、柔らかくてビールによく合った。
 まわりのテーブルはほとんど満席で、私の隣りの席では、ビール大ジョッキを三杯ずつ、ジンギスカンはお代わり、しかも驚いたことには、小さな樽を注文、サイドテーブルに樽を据え、各自そこから生ビールをジョッキに受けて、ガブガブ飲んでいる。しかも酔った気配は全くないのには度胆を抜かれた。
 なお、サッポロの語源は、アイヌ語のサトロポロベツ(乾いた平らな土地)から来ているのだそうだ。同行のK君から
「今晩は、しばらくこのマトンの臭いがつきまといますよ」といわれた。

(6) 北海道の味覚
           小国孝徳
 
<略> 尚又、これも特に秋だけの味覚ではないが
広々とした草原に、ビニールの前掛けをかけ
て、独特の鉄鍋の上に薄切りにした羊肉を、
玉葱、馬鈴薯、人参、ピーマン、マメモヤシ
等の野菜と共に炭火で焼いて特別の汁に浸し
て食ふ所謂ジンギスカン鍋は冷風の吹き初め
る秋に最も相応しい北海道的味覚といへるか
も知れない。但し最近の羊肉は多く豪洲から
の輸入に俟つらしい。
 ジンギスカン鍋に欠かすことの出来ないの
はサッポロビールであらう。既に創立以来百
年になんなんとする歴史を持つこのビールに
就ては今更記すまでもあるまいが、ジンギス
カン鍋に限らず、右に述べてきた秋の味覚も
このビールあって愈々生きるといふものであ
らう。実際、本場の、特にホップの利いた生
ビールの味はサッポロビールファンの樋口賢
治氏ならずとも、生きて吾ありの感を深くせ
しむるものだ。
干鱈ありあかあか燃えし暖炉あり常なる
こととしてビール飲む   賢治<略>

(7) 六甲山ホテルのジンギスカン料理
           交野繁野

<略> 山のホテルでは申し合わせたように
野外料理をやっている。ジンギスカン、
バーベキュー、ナントカ鍋……。すべ
てムードでたべる料理だから、味を云
云する必要はないかもしれないが、そ
れらの中では六甲山ホテルのジンギス
カン料理がおいしい。
 眺めのよい山肌に沿って、テラスが
階段状にのび、円形のテーブルが並ん
でいる。テーブルの真中に火床があっ
て、分厚い鉄板、といっても一枚板では
なく、三センチばかりのプレートをび
っしり並べてビョウを打った、まるで昔
の楯のようにがっしりした鍋である。
 前菜をつまみながら、鍋の焼けるの
を待って焼きはじめる。牛肉、豚肉、
若鶏、ソーセージ、魚、玉ねぎ、たけ
のこ、洋茸、ピーマン、トマト、ほう
れん草など。牛肉は本場の神戸をひか
えているのでさすがによい。<略>
 鉄板が厚く、プレートのすき間から
熱が平均に伝わるせいか、焦げずにお
いしく焼ける。この鍋は、東宝の清水
社長が、以前に満州から持って帰られ
たのを見本にして作ったとかで、他所
よりおいしい理由の一つだと思える。
<略>
(8) ホームスパンの講習
           二区(旧姓百瀬) 清水けさ
 
 四月十日朝早く父に黒台駅まで送ってもらい、切符を買ってホー
ムまで送ってもらった。
 生れて初めて一人で汽車の旅をするので胸がどき/\でした。廻
りを見ても一人として知った人は居りません。満人や鮮人ばかりで
心細かった。<略>
 講習所はどんな所かと思ったらバラック建てでした。宿舎は満人
家屋でした。牧場は小高い丘の上にあって、東の方には朝鮮部落が
あった。信濃村はランプ生活であったが、牧場は電気があったので
ラジオもありニュースを聞くことが出来た。
 私の来たのは時期が良かった春だったので、緬羊の子の産れる時
で尾の切り方も教えてもらった。又雄の緬羊の去勢の方法も教わり
ました。
 牧場生活十日ほどで八千頭からの緬羊の毛刈りが始まり、全員で
朝から夕方まで、毎日/\なれない毛刈りです。緬羊を横に頭を右
ひざで、お尻を左ひざでしっかり圧えて刈るのですが、緬羊は逃げ
るので一生懸命です。逃がしてはならじと緬羊と角力とりです。汗
と油でベト/\する手で毛刈りです。
 休日はよく/\疲れる。それでも私達は「春でいろ/\覚えて良
かったね」と話し合う。その毛刈りも十日程で終る。そのお祝いに
緬羊の肉でジンギスカン料理を楽しくお祝いした。お天気は良し、
空気は良し、草は青々として気持ちが良かった。<略>
 新潟の人で南雲キクエさんと云う方と私が十九才で、糸を繰り乍
ら「十九の春」の歌を歌って仲良く暮した六ケ月間の講習会も、あ
と少しと云う所までになった。
 昭和48年の(1)は新詩人社が出していた「新詩人」で見付けた坂井三郎の詩です。坂井は自著「詩集 冬の旅」の「あとがき」に「私は電話局の平凡なエンジニアとして過ごしているが、社会の表面、裏面を何げなく歩いているとき、詩人であるという立場だけで、何か異種の人間扱いを受けた時もあった。そんな時、滅法残念で仕方なかった。」(220)と嘆いてます。詩人もごく普通の人間だといいたいらしいが、ぷーんとマトンの匂いがしてくるような、こんな詩を書ける才能の持ち主は、やはりタダモノじゃないでしょう。
 (2)は檀一雄の「美味放浪記」です。昭和45年の「檀流クッキング」で紹介したばっかりなのに、またもや檀の本を取り上げるのは「札幌では、グランド・ホテルの屋上の精養軒で喰った。」と書いてあるからです。
 資料その9の広告は昭和33年5月15日の北海タイムスに載った鍋開始の広告です。以来室内で何年か室内で続け、ある年からジンギスカンだけ精養軒に委託して7階の屋上に移したことが考えられます。そうでなければ檀は「屋上の精養軒」とは書かなかったでしょう。
資料その9
資料その10
 グランドは昭和33年から経営方針を変えたか、ジンギスカンに力を入れ始めたとみられるのです。資料その9の上の方に「例年ご好評を頂いて居ります…」とあることから、それまで屋上あたりて営業していたのでしょう。そうでなければ、こうは書けない。
 さらに「札幌グランドホテルの円山じんぎすかん茶屋」という広告を北海タイムスには2回出しており、資料その10は昭和33年6月14付朝刊11面に出た広告です。新聞記事には明記されていないが、当時の市営観光バスの定期コースBでジンギスカンを食べる食堂はこの店らしい。
 新設食堂だけでなく、円山の、そのころはまだ札幌神社といっていた北海道神宮の境内に茶屋を新設して営業を始めた。真ん中に「80名様位迄」とあるが、観光バスの客が大広間みたいなところで食べている写真があるから、この茶屋ではないかと思うのです。  それれでね、急拡大のため、この茶屋の運営は精養軒に委託し、何年後かに閉店した後、6階食堂でのジンギスカンはやめて、6階か7階の屋上に移して茶屋要員を使っていたことが考えられます。でなければ「屋上の精養軒」と檀は書かなかったと思うが、今となってはホテルの経営会社が変わり、精養軒もなくなっているので、その辺のことは新聞とタウン誌の精査しかないのです。
(3)の筆者グロータースはベルギー人のカトリック淳心会神父でした。ウィキペテイアに経歴が書いてあり、中国での言語・民俗研究、日本での言語研究をしてきたこと(221)などが紹介されています。それだもの烤の誤りなんかすぐわかったでしょう。彼が東京の「秘境」と呼び、来日するベルギー人たちを連れて行った小さな店の名前は書いていません。もしかすると、今はない珉々か、さもなくば、この後出てくる遠藤周作のいう「ミンミンの向い」の小屋でしょう。
 (4)はジンギスカンは秋の食べ物だという俳人佐々木丁冬の本からです。真夏のジンギスカンは「考えただけでもぞっとしない」と更科源蔵が述懐したときは、まだ北大ジンパが生まれていなかった。更科氏の娘さんは小生より北大1期上ですから間違いない。
 時代は熟して平成20年、俳人櫂未知子は「季語の引力」で、道民はびっくりするだろうが、ジンギスカンは冬の季語だと教えていますよ。
昭和48年
(1) ジンギスカン鍋
           坂井三郎

パチパチと油がはねる
もうもうと油煙が舞い上る二十センチ方円の器の中
成吉思汗料理
ひげづら男でいっぱいの
裏町の狭くるしい小さな店
 悪たれたぶ恰好で
 思い思いに箸を入れ
ネギとキャベツともやしの中に
羊肉はどぶどぶに煮上り
鉄鍋が陽気に勝ち誇って
この夜はきみもおまえも僕も大陸の王者のようで
至極満足
ほろ酔いの身にそろそろ
夢のことも準備しなければなるまいて

(2) 夜店の毛蟹に太宰の面影を偲ぶ
           檀一雄

<略> さて、北海道は羊の産地だから、ここいらで成吉思汗鍋のことを書いて置かねば叱られるだろう。
 私は、札幌では、グランド・ホテルの屋上の精養軒で喰った。
 成吉思汗鍋と云うのは、先ずまあ、ロシアのシャシュリークか、中国の「烤羊肉」を、日本流のあの特殊な鍋を製造し、て日本調に変えたバーベキューだろう。
 私は蒙古や、新疆省のあたりもうろついたし、ソビエトもエレバンのあたりまで出かけていったから、羊肉の喰べ方に関してなら、先ずまあ、権威と云うことが出来る。
 思うに、シルクロードの起点から終点まで、羊肉をほとんど同じ焼き方で、またほとんど同じ香草をつけ合わせて喰べている。
 烤羊肉は、中国人がそれを料亭の座敷料理に持ち込んだから、先ず細長い炉を造り、そこにロストルをさし渡して、羊の肉を焼く。
 しかし、原始の趣を残して、炉の火は薪をボンボンと、煙を上げて燃やすのである。
 さて、肉を焙って、酢醤油につけ、薬味はクルミだの、胡麻だの、トンガラシだの、さまざま油にといて皿に並べたてているが、この時に絶対欠かさないのは、「芫茜」だ。「香菜」と云っている。その香菜を刻んでまぶすのである。<略>
 私が長々と書いたのは、この香菜を用いて、羊を喰えと云いたいばっかりだ。折角、北海道が日本の羊肉の本場なら、せめい、成吉思汗鍋を売り物にしてる店くらいは、中国から香菜の種子を取るか、ソビエトから「ペトルーシカ」の種子を取り寄せて、発芽させ、成長させ、羊の焼肉に添えるがいい。
 羊のうまさが、格段ひき立つのである。ニンニクと葱だけでは、羊肉の薬味にはもの足りない。

(3) 東京の憂鬱
           W・A・グロータース

<略>長年親しんできた漢
字のおかげで、偶然発見したお店の話をしよ
う。
 北京にいたころよく食べた冬の料理に「烤
羊肉」というのがあった。庭で木を燃やし、
鉄板の上にヒツジの肉の薄切りをのせ、ソー
スとニンニクとタマネギを自分でまぜながら
食べる。フイフイ教徒が独占的に経営してい
る店だが、寒い庭に出て、みんなで火を囲み
ながらフウフウ言って食べる味には、忘れら
れないものがあった。
 その「烤羊肉」という字を、渋谷の井の頭
線のホームの片隅で発見したのだ。どうもそ
の看板を書いた人は「烤」という字を知らな
かったものとみえて、はじめ「考」のかわり
に「孝」という字を書いてしまったのだろ
う。看板を見ると、「烤」の考の部分だけに
一度ペンキを塗りなおしたあとが残ってい
た。
 あのなつかしい料理が、東京でも食べられ
るのか! それから約一時間、お店探しが始
まった。渋谷の繁華街の、奥の奥の奥の、細
い道の奥の細い道の……。そして、とうとう
あこがれの「烤羊肉」を発見したのだ。それ
は小さい小さい横町の左手の二階と三階にあ
る、テーブルがわずか四つしかないお店だっ
た。お客さんたちは、みんなヒツジを食べて
いた。
 以来、その店の常連になった。入っていく
と、おやじさんは「え、らっしゃい。毎度あ
りがとう」と言うようになった。<略>

(4) 羊鍋(雑題0820)
           佐々木丁冬

<略> 私は多年、満蒙の地に住み、また北満で牛と羊の純放牧経営の研
究に従事したものであるが、そこでは、羊肉は決して夏の季物では
ない。もし、その季節を問われるとしたら、ちゅうちょなく私は、
秋季であると答えることであろう。それは生産経済の面からも、ま
た、食味のシュンに関しても矛盾しない。なお、日本人の生理ない
しは情緒の伝統からしても、獣肉は決して夏のものではないという
ことを、かえりみておく必要がある。『モウモウと油の煙をあげる
真夏のジンギスカンなんて、考えただけでもゾッとしないものなの
だが、ひんやりした大陸的な星空の下で、煙をあげて肉を焼くとい
うことに原始的な興奮をすら感ずるからおもしろい』とは、更科源
蔵先生の述懐であるが、結局、風物詩としてのジンギスカンも秋季
において結晶するものと私は信じている。俳句には、羊鍋という言
葉でおりおり登場するのを散見するが、まだ俳句になり切っていな
いうらみがある。これは、まだ時代が熟していないということかも
知れぬ。(昭42記)
   ヂンギスカン鍋に青嵐限りなし    札幌 村上由利子
   風上みにアンペラ張りて羊鍋     札幌 関口灯誠
   ギスそこに飛び来て鳴きぬ羊鍋    札幌 中川水精
   成吉斯汗鍋つつく海水着のままに   津別 江草紅葉
   ヂンギスカン鍋の濃煙り扇風機    小樽 棚本花明
 昭和49年の(1)は、ジンギスカンという名詞はたった1回の狐狸庵こと遠藤周作の随筆からです。ジンギスカン鍋とか料理ではなく、風というのだからジン鍋を使って自分で焼く食べ方でないようで、もしかすると狐狸庵先生を含む「ぐうたら派」向けに店員が焼いて食べさせる店だったかも知れません。
 (2)の「おにぎりの話」は、独文学者だった故柏原兵三による随筆で、遠藤と同じく1回です。烤羊肉の後、粥が出た例として昭和4年の遅塚麗水の高粱粥、同51年の草川俊の粟粥があるが、どちらも外地でのことだ。それだけに、柏原がジンギスカンの後で粥を食べたという場所なり店なり是非知りたいが、ウィキによると昭和47年に38歳で亡くなっておるから、もはや尋ねようがありません。シメと称してラーメン、うどんなどを食べるのは、この粥の変形でしょうね。
 (3)は河野友美の「しょうゆ風土記」に取り上げられたジンギスカンです。食品研究家らしく醤油に関する様々な角度からの話題を盛り込み、さらにジンギスカンはじめ醤油を使う料理の随筆風のレシピが51種も書いてあります。醤油をつけたり、入れたりする食べ物として、トウキビ、ニシン、ツブが入っていますが、トウキビはともかく、今ならニシンよりサンマ、ツブよりホタテだね。
 (4)の本田靖春の「私のなかの朝鮮人」も同様1回です。本田はジンギスカン鍋は知っていたが、日本ではプルコギ鍋と呼ばれる下向きに穴のある突起が焼き面に沢山並ぶ鍋は初めてだったらしい。彼はタレの甘さ、周環にたまる汁を飯に掛けて食べる案内者K氏の食べ方から「どうやらプルコキは、焼肉というよりは、われわれのスキ焼の概念に近いもののようである。」(222)と書いています。
 (5)は大勢で食べるために鍋代わりにトタン板を使ったことがあったという証言です。私がジンパ学の研究を始めたころ、ウィキペディアのジンギスカン料理の項に波形トタン板も使うと書いていたので、もうそんなことはしていないと私が削ると、必ず復活させる人がいて、何度目かでやめたことを思い出します。
 この本は昭和49年6月に出た本であり、必ず8月10日に開く盆踊り大会は今年で10回目とあるから、昭和40年から10回は波形トタン板で焼いてきたのですね。
 作者の穂積肇は日本美術会々員の版画家で、このページには着物を着て鉢巻き、たすきを掛けの若者2人で太鼓を持ち、1人が叩いている版画が載っています。
 (6)は当時、阪急百貨店会長だった清水雅が北京で大型鍋を25円で買い神戸に運び、戦時中は代わりの鍋を供出して秘蔵して本物は温存したという続きです。文中の「支那のおやじ」はわからないが「おじいさん」は小林一三翁ですね。
 私は関西に行って清水の言う掲載紙を探したが、見つからなかったことは前バージョンにある講義録「もう1軒、東來順を忘れちゃいませんかってんだ」で話しました。もしかすると朝日ではなく毎日かも知れず、新バージョンの公開が一段落したらまた探してみます。
 (7)は文芸評論家の浅見淵が昭和30年2月11日、東京二子玉川の二子園で開かれた滝井戸孝作の芸術院会員就任祝いで、志賀直哉に会い、北京正陽楼のジンギスカンを食べた思い出を聞いたという話です。これは随筆「早春記」として同年3月、東京新聞に掲載されました。
 (8)はアンチ村長派にせっつかれて警察がジンギスカン大会で食べた村長以下40余人を屠場法違反の疑いで調べたという村の大事件からです。何かにつけては足を引っ張り合う狭い田舎らしい話ですなあ。
 (9)は松尾ジンギスカンの立ちあげに、道立農試滝川種羊場の吉田稔場長と北長沼農協が関係していたという話です。筆者は当時、北長沼小学校長だった木村司。長沼町開基75周年に当たる昭和37年に完成した「長沼の歴史」上下2巻に収め切れなかった多くの事柄をまとめた「北長沼 昔噺」の存在を知ってね、長沼町図書館でコピーしてきました。
 「町議池川氏、教育長木田氏、二区の篠原清作氏、中野勇氏、仏現寺住職の各氏により助言、指導を得てやっと発刊する事が出来ました。<略>只、明治、大正、昭和の三時代にかけての部落の人たちの素朴な気持ちと 部落を愛し 人を愛して生活をしているその姿を表そうとした」と木村は「発刊にあたって」に書いています。木村自身がガリ版を切ったらしく、不明瞭な句読点、1字空けは私が判定して付けました。
 余計なことだが、私は溝口ジン鍋博物館長の車に乗せてもらって図書館へ行ったのですが、背の高いアーチ形の玄関なので教会かと思いましたよ。
昭和49年
(1) ギョウザの味
           遠藤周作

 渋谷の大和田町――つまり渋谷東宝の裏を少し奥にはいったあたりには飲み屋や食い物屋の小屋が雑然と並んでいる。
 私は一時、好んでここを芳彷徨したことがある。
 この一角に、おそらく読者の中でも御存知のかたがいられるかもしれないが「珉々」とよぶ中華料理屋がある。
 中華料理屋とかいたが、さて、私はこれをどう説明してよいのかわからない。「珉々」は急造の二階だて木造家屋だが、率直にいえば、真黒で汚い。細い路に面して灰色のノレンがぶらさがり、それを 両手であけると、もう客が七、八人、湯気のたった鍋のこちらで、それぞれ何かを食べている。料理人がいためものをする煙、豚の足、大蒜の束が天井からぶらさがって 、さながら香港裏町の立食屋を私に思わせる。
 大蒜といえば、このミンミンの向いに羊の肉をジンギスカン風に食わせる小屋があった。私はここで羊の肉を大蒜のおろしと醤油との中にひたして食べ、また大蒜の漬け物と中国の酒とのうまさを味わった。<略>

(2) おにぎりの話
           柏原兵三

<略> せんだって久しぶりに父の田舎へ遊びに行った。その時
戦争中食べさせられた「ぞろ」という、雑穀を石臼で荒く
ひいたもので作ったおかゆを食べたいと思ったが、とうと
ういい出しかねた。その少し前に成吉思汗鍋を食べたとき
最後に出されたおかゆがこの「ぞろ」に似ていたので、急
になつかしくなったのである。戦争の末期、食料が不足し
てきて、週に一回そんなものを食べるようになったのだが、
今から考えるとあれは実に健康食だったと思う、私はまた、
よくおやつ代りに作ってもらったおにぎりを食べてみたい
と思ったが、今以上肥えるのを恐れて結局いい出せなかっ
た。それは炊きたてのご飯を今は故人となった祖母が握っ
て、とろろ昆布をまぶしてくれたおにぎりなのだが、もし
頼んだとしても、心に描いたとおりのおにぎりにありつけ
たかどうか心もとない。<略>

(3) ジンギスカン焼き
           河野友美

 羊肉または豚肉をしょうゆを主にしたたれにつけたものを、ジンギス
カン鍋という特殊な焼き器で焼きながら食べる料理である。昔、蒙古の
ジンギスカンの兵士たちが愛用していたので、この名があるという。た
れは、しょうゆ一カップ、酒二分の一カップに、にんにくのみじん切
り、ねぎのみじん切り、赤とうがらし、しょうが汁を少量ずつ加えてつ
くる。これに約一、二時間つけておくと、肉はやわらかくなり、臭みも
消える。ジンギスカン鍋を火にかけ、この肉をその上で焼きながら食べ
る。札幌を初め、各地にジンギスカン焼きを食べさせる名所がある。ビ
ールがよく合う料理である。

(4) 私のなかの朝鮮人
           本田靖春

<略> 「最新着美国製冷房装置」を看板にしている喫茶店の前を通りかかって、十數年前の東京を思い出した。氷山を背景にしたペンギンの絵を描いて「寒然冷房」をうたっていたあのころの東京に、いまのソウルは近づきつつあるというところなのであろう。
「本場の味」というのは、味わってみないことにはわからないものである。プルコキが焼肉の総称だと思っていたのだが、ここではどうやら、ロース焼をいうらしい。しかもその肉片は、東京ので見るように平たくはな、糸状というのか棒状というのか、細長く刻んだものである。
 それをアミの上にのせて、一片一片焼き上げるのは、どうやら日本式であるらしい。炭火の上に、ジンギスカン焼に用いるカブト状の、ところどころ隙間をあけたナベをかぶせる。そして、ありったけの肉片を、ぶちまけるという形容がふさわしい仕草で、その上にのせるのである。
 ナベ(といっても、見た目にはそれでを逆さに伏せた格好なのだが)のスソにあたる部分は、折り返しがついていて、溝のようになっている。ここにタレを注ぎこみ、焼き上った肉片をこれにひたしながら口へ運ぶ寸法であるらしい。
 本場の焼肉に、私は香辛料のきいたからさを期待していた。ところがここのプルコキは、たいへん甘いのである。<略>

(5) 平和盆踊り大会
           穂積肇

 矢臼別平和盆踊り大会がはじまって、今年
は十年目を迎える。第一回大会の参加者は、
三〇〇人、今では二千人もの大きな大会に成
長している。地域の酪農民、労働者は家族ぐ
るみで参加し、釧路、根室、北見、網走など
からの参加者は、貸切りバスを仕立てて、「二
万町歩を農民に返せ」、「違憲の自衛隊は矢臼
から出て行け」などの横断幕、ゼッケンをた
ずさえて、にぎやかにやって来る。<略>
 大会前日の夕方には、矢臼別の農民の手に
よる「やぐら」もできあがり、会場近くの道路
ぞいには、色とりどりののぼりも立てられ、
会場へ続く道路には、三百メートル間隔で、
歓迎の立看板がずらりと立てられる。
 そして、はるか彼方の阿寒連山の空がまっ
赤に染まる頃、日農主催の前夜祭が、演習場
のどまんなかで開かれる。
 何個所かに仮設されたナメコトタンの鉄板
の上で、ジンギスカンがジュンジュンと音を
立てはじめると、人ぴとはジンギスカンをつ
つきながら、酒や焼酎をくみかわす。暮れか
かった空にアコーデオンが奏でられはじめる
と、唄がとびだし、踊りがはじまる。
 人びとは、たたかうもののみに与えられた
幸福感にひたりながら、明日の本祭典の成功
を語り会うのである。<略>

(6) 〝ジンギスカン鍋〟ものがたり
           清水雅
           聞く人 加藤龍一

<略>おかげで本物の方
はそのまま残ったんや。そうこうし
ていると、さっきの支那のおやじが
やってきて、〝あの鍋どうした〟と
聞くので、もう戦争も終っていた時
やから、〝鋳物を代わりに出した〟
と言ったら、一ぺん見せてくれとい
うことになり、序でに本式の料理を
教えてもろた。それが朝日新聞に聞
こえ、もう何処にもそんな鍋はない
から、写真にとらせてくれと言うて
来て、女房と二人でエプロンつけて
やらされた。そしたら、ジンギスカ
ン、ジンギスカンとあちこちでやか
ましく言い出した。それで、わしは
これじゃだんだんジンギスカン料理
が出てくるなと思って、同じ鍋を百
か百五十つくった。
 その時分、ちょうど南街のビルが
出来たから、(屋上でジンギスカン
鍋の料理をやったろう)と願書出し
たら、警察署長が来て、〝ノーとい
う法律はないが、あの上で火たかれ
たら、あの辺はヤクザが多い所やか
ら何か起るかわからへんから、何と
かしてもらへませんか〟という。そ
れで迷惑かけてまで商売したいと思
えへんからやめた。そこで、それを
六甲山に持っていったんや。六甲山
なら文句言う奴ないからというんで
おじいさんに言うて、六甲山ホテル
にジンギスカン料理いうもんも作っ
たんや。そしたらこれがべた当りで
ね。今じゃ六甲というと〝ジンギス
カン鍋〟ですが、これが一番のはし
やね。<略>

(7) 早春記
           浅見淵

<略> 二子園は近ごろバアベキュウ料理を売り出しているらし
かった。大いろりには太い鉄ぐしが何本か渡されていて、
やがて紺の印絆纏の若いイナセな料理人が現われると、生
シイタケ、鳥のツクネとネギ、鳥もも肉、牛のロース肉、
姫マス、という順に間を置いて次々と焼いて行き、熱いや
つを食わせた。広間には煙抜きが出来ていたが、間に合わ
ず、もうもうと煙が立ちこめた。志賀さんは、昔、北京の
正陽楼で、冬のさ中、その吹きさらしの中庭でジンギスカ
ン料理を食べた時のことを、楽しげに話された。その時も、
もうもうとひどい煙だったという。
 志賀さんは、ビールはひと口、酒も三、四杯しか飲まれ
なかったが、健啖でよく食べられた。血圧が少し高く、と
いって時たま一八〇になられるぐらいらしいが、しかし血
圧を計ってから外出されるそうである。だが、顔の色つや
はよく、耳も少しも遠くなかった。数え年七十八歳だが、
若々しくて明るかった。傍にいるだけで何か豊かな気持ち
にさせられた。<略>

(8) 選管を奪え
       文 青木利夫
       え 工藤甲人

<略> そういえば、こんなこともあった。新村長が当選して一カ月後に、沖縄が返還された。「これは盛大にお祝いしねばなるぬえ」となって、五月十五日の復帰の日、村の牧場に村長はじめ四十人あまりがくり出し、ジンギスカンなべで祝杯をあげた。やがて警察のしらべが始まった。食べた三頭の綿羊が密殺で、屠場法違反の疑いがあるというのだった。村長さんはいった。
「あんだも食べだですか、と警察がきくから、うまかったで、ウンーッと食べだと答えだ。なんで羊なんか問題にするのがと思ったら、野党派の農家がその前に豚の密殺であげられだらしい。村町<原文のまま>だら羊ころしでもいいのが、といわれて警察も仕方なく調べだらしいんだよ」
 深い雪のなかで、こんな話をきいていると、春になって雪が消え、やっと野山が緑になったとき、牧場に出てジンギスカンなべをやりたくなる気持ちがよくわかった。<略>

(9) ジンギスカン物語
           木村司

 昭和二十三年の事でありました。終戦後第一年目を迎えた 日本は食糧の不足、物の不足ということで、北海道はおろか、日本中で 皆苦労をしていました、丁度この時滝川種羊場に吉田稔という場長が赴任して來ました。
 この人は非常な勉強家で この荒はいした世情の中で何んとか食生活の工夫をと考えていました、
 丁度この頃 用事をたずさえて 北長沼農協を訪ずれました。 仕事のことで談じているうちに<略>やがて夕方になりましたので<略> 宴会の仕度が始まりました、この頃は食すると言っても満足に御馳走というものもないので、農協組合員の家に飼っている羊を殺し、その肉を食することにしました。
 やがて宴会が始まると、場長は箸を肉につけ食べました、
「これはうまい、肉はやわらかいし、味もよい、」と大そうよろこびました、やがて時間もたったので宴を終って滝川に帰って行きました、それから半月ほど過ぎてから吉田場長から北長沼農協組合長木田重雄氏に緬羊の肉を食することについての話しがありました、北長沼の緬羊組合長の戸川氏と相談した木田組合長は組合員と相談しましたが、引き受けることが出来ませんでした
 場長はその計画をやめることを惜しみ 近くに住んでいた 松尾氏にやらせることにし、肉は軌道に乗るまで続けるということで始まりました、それが今松尾ジンギスカンと称しているものだそうです。
 昭和50年の(1)は瀬戸内晴美の「妻たち」からです。「瀬戸内晴美長編選集」に収められている500ページの本だからね、大いに期待したのだが、ジンギスカンはたった1回。月寒へ食べに行こうというから、食べに行ってジュージューと焼いて…を期待したが、それっきり現れない。老眼による見落としはなしとしないが、1箇所にはがっくりきたね。
 引用箇所までの粗筋の粗筋はだ、夫の不倫を知った妻昌子が、即離婚ではなく独り旅を思い立ち、札幌の親戚、初代の家庭を訪ねてみたところです。
 (2)の「昭和特高弾圧史」は戦前、渋谷百軒店鳥居脇にも成吉思荘があったことを示すために取り上げました。高円寺の本家と同名ですが、こっちは親類の松井幸太郎さん経営。前バージョンの講義録「日本初のジン鍋専門店は成吉思荘とする見方は誤り」で、フランス料理も出すし、洋食弁当仕出しするという渋谷店の広告を見せたよね。親類ですから、当然、羊肉は赤坂の松井精肉店から仕入れ、松井式鍋とコンロを使っていたでしよう。
 (3)は作家吉屋信子の「女の教室」からです。旧満洲国熱河省の烏丹城という町にある診療所の若い女医与志が出勤の途中、若い男に往診を頼まれる。その男は妻と教会に住んでおり、彼はアメリカ人の牧師が帰国している間を預かる副牧師鮎川だった。
 それか縁で与志はある日、鮎川夫妻の昼食に招かれる。食後のコーヒーを飲みながら、鮎川はラマ教を信ずる蒙古人への布教の難しさを語り、あるとき感冒に罹った数人をアスピリンで治してから奇跡と信じて教会に来るようになったなどと語った―と語り、さらにそこらまで与志を送ると同行、歩きながら救済行為として結婚したことを語った―と続きます。
 (4)は川柳の本からです。内容は川柳人生誌、川柳風物誌、川柳博物誌、川柳人体誌の4誌を集めた本で「あとがき」によれば「ライフケア」という雑誌に連載した風物、人生誌に博物、人体両誌を加えたそうです。博物誌では牛、馬、鼠はあるが、残念ながら羊を歌った句はありません。
 (5)と(6)と(7)は、この年で出た内蒙古からの引揚げ者たちによる「思出の内蒙古 内蒙古回顧録」からです。
 その(5)は宣撫工作として数県の顧問を務めた玖村さんの思い出ですが、万里の長城の城壁の上でのジンバ、豪快な気分でやれたでしょう。私も八達嶺の長城に上がり、1キロぐらい歩きましたが、トイレはなかった。玖村さんは何回かデカンショ節の「万里の長城から……」を実行したんじゃないかな、ハッハッハ。
 (6)は中央学院の学生として中川さんたちが王府を視察したとき、徳王お抱えのバリルタ(蒙古相撲)力士が練習をしていた。それで中央大相撲部の選手だった中川さんと試合をすることになり、競技用の胴鎧、靴を付け取り組んだ。2人倒して3人目が強く同体で倒れた。中川さんが一瞬早く落ちたが、主将らしい相手は同体だと主張、勝負なしと決まった。引用したのはその後のことで、バクシーは先生という意味だそうです。
 (7)の石谷さんは、内容からみて、いまでいう電波管理局関係の仕事をしていたようです。570字枠で中間を略しましたが、張家口に1軒だけ頑固に味を守るワンタン屋台があり、その「だし鍋の蓋をとると羊頭があり、白い歯をむき出していたり、足の爪や臓物もあったりするのですが、これから滲み出るだしは和らかく何ともいえない甘味(223)」があり、美味しかったことが書いてありました。
 張家口は内蒙古では大都会でしたから、ジンギスカンは羊糞や牛糞は使わず、薪の火で焼いていたのですね。
昭和50年
(1) 妻たち
           瀬戸内晴美

<略> 月寒の町に入ってまもなく、車は左へ曲がり、静かな住
宅街に入っていった。
「ほんとにあばら家よ。びっくりしないで下さい」
 車が止まった時、初代は昌子を見返って楽しそうに笑っ
た。<略>
 二階に上がると、広い草原が眼下に拡がっていた。その
はてに高い ポプラの並木が見える。
「何ていいところでしょう」
「あのポプラの向こうが子供達の学校なの。ここからバス
で五分も行くと、月寒の牧場なんですよ。本場のジンギス
カンを一度食べて頂きましょう」
 まるで牧場の持ち主のように初代は胸を張っている。窓
の下の庭には、葡萄や梨や栗の木が植えてあった。青い実
をびっしりとつけた葡萄の横に、袋を被った梨が鈴なりに
なっている。
「あの袋をあたしが一人でかぶせたのよ」
 初代は目を細めうっとりと自分の庭を見下ろした。<略>

(2) 「企画院事件と昭和研究会への監視」
           警視庁

<略> 1 各種親睦的会合 而して彼等は一層その同志的結合を強化すべく随時懇談会、親睦会を計画開催し之等の機会に旧懐談等を以て旧交を温め同志的意識の高揚結束に努め来れり、就中、
(1)井口東輔応召送別会に現はれたる状況 昭和十三年二月中旬井口東輔応召するに当   り之が送別会を前掲高等官、判任官、グループメンバー中心となりて渋谷区道玄坂   「ジンギスカン料亭」に於て開催し、席上彼等は「近来企画院に於ては所謂官僚上   りの上官が専横を極めつつあり我々は結束して之に当らざるべからず」等の事を以   て論議し結束を固むるに努めたるが遂に宴会中途に於て井口東輔始め彼等一派は革   命歌「赤旗の歌」を合唱して革命的気勢を挙げ送別せり。此の事実は勿論計画的に   斯る挙に出たるものに非ずと雖も彼等のグループの思想的性格の一端を最も明確に   露呈せるものとして本事件の重要なる要素を為す事実なり。<略>

(3) 大陸の星
           吉屋信子
 
<略> 壇上で、それを語る青年副牧師の姿は、同じ日本人同士
の同胞意識からも、与志は、彼から、すぐれた男のたのも
しい精神力を犇々と感じるのだった。
 そして、周囲の外人や満人たちにも、日本人として、肩
身のひろい誇らしさを覚えて、心強かった。
 その集りも終って、会衆が立ち去る時、与志も帰ろうと
すると、
「お差支えなかったら――いかがでしょう。僕と妻と一緒
に。昼食をして下さいませんか」
 と鮎川は遠慮がちに言い出した。
 このままホテルへ戻って、殺風景な食堂で話相手もなく
孤独のさびしい食事をするよりも、それは有難かったか
ら。与志は喜んで受けた。<略>
 桂玉は、ほとんど無表情の扁平な白いお面のような、静
的の顔つきで、のっそりのっそりと厨からお料理の皿を運
ぶのだった。
「奥様のお手料理ですの――なおさら有難うございます」
 与志は感謝した。
「妻の国の純粋な朝鮮料理ではありませんが、つまりこの
辺の満洲風の簡単なものです」
 と、鮎川は大皿の上にならんだ、柏餅の形に似たものを
指し、
「これは、餃子と言いまして、満人がお正月に日本のお雑
煮のように、必ず食べるものです――それに羊肉をグリル
したものを、僕たちは、まあ料理によく食べるのです――
冬には、いわゆる成吉思汗焼をやりますよ」
 その羊肉の焼いた皿もあった。朝鮮風の白菜の漬けもの
も、ならんだ。
 素朴な食事ではあったが、こうした語り合う家庭の食卓
の客となるのは、与志は嬉しく、どんなものでもみなおい
しかった。<略>

(4) 無造作な乗せてピッタリ肉秤(香風)
           北原晴夫

<略>肉は新英和笑辞典によれば、野菜に味をつける食べ物で、肉の味少しもらった焼豆腐(一市)では化学的でなく動物的調味料。あつかましいこんにゃく肉の色で煮え(蘇雨子)では着色料も兼ねそなえるか。
 牛なべ、さくら鍋、底冷えの能勢に雪降るぼたん鍋(はるを)など色々。まな板で別れて鍋の中で会い(嵐舟)とは縁が濃く、羊肉の味をジンギスカンで知り(はく)ならよいが、カニの肉せせり続けて酒がさめ(素玄亭)ではまずいね。
 盛り場にホルモン焼の匂う路地(一匊)があり、換気扇ホルモン焼をまき散らす(寿)。
 主婦連に羊頭狗肉見破られ(孝夫)では処置なし。豚肉を猪で食わせる自在鉤(千種)は猪頭豚肉か。支那そばの肉芸術のように切れ(霧静)。<略>

(5)らくだの鈴、大境門
           玖村勲

<略> 私は察南政庁に転任して大境門外西溝北街に終戦まで五ヵ年間居住した。在蒙の中葉をここで過ごしたことになる。忘れ得ない土地である。大境門は張家口の東方にあたり内長城の関門の要衝で、ここから延々と山坂を縫って長城が連なっている。大境門を出ると、清河の本流と支流に分れ、本流は崇礼県を貫き流れ、一方支流は河原である。この河原の北岸の崖の上に柳の老樹があり、そのそばにあった中国家屋を改造したのが私の住まいであった。窓から河原を隔てて一〇〇メートル前方に万里の長城があり、窓から眺めるとこの長城が我が家の塀壁となり、我が家の庭先きの展望は正に絶佳、山麓に放牧された山羊の群が、静かに草を食んでいる。まさに一幅の絵画であった。深沢画伯その他の画家の絶好の画題となった。<略>
 いろいろの思い出がある。祖国日本からの来客を案内して長城に登り、長城に陣取ってジンギスカン鍋を囲み、羊の焼肉に舌鼓をうちながら、語り聞いた祖国の話、いつしか飲むほどに酔うほどに、高原千里の歌も出る。来客の誰からも〝万里の長城上でのこの雄大な酒もりは、忘れることの出来ない最大の歓待〟と喜んで貰った。<略>

(6) バルリタ追想
           中川鉄雄

<略> そしてその夜、王府の人たちが開いてくれた歓迎の宴、広漠たる草原
を照らす月光の下でのジンギスカン料理、酔いとともに歌われる「ジン
ギスカン出陣の歌」 僕の生涯でこれほど雄大かつ男性的な〝うたげ〟
は再び経験したことはない。空前はもちろん絶後であることも間違いあ
るまい。
 宴たけなわ、酔いにほてった頬を心地よい草原の風がさましてくれる
ころ、先ほどのキャプテン力士が近寄ってきて、僕にこの地にとどまっ
て力士になれとすすめる。酔いのうえでの冗談か外交辞令と思って相手
になっていたが、次第に真剣味を帯びてきて蒙古力士の生活やオボ祭り
などの勝者が、いかに広原の勇者としてもてはやされるか、女性からの
モテぶりまでまじえて話しだす。自分一人で納得できぬと知ると仲間た
ちまで呼び集めて言葉の十分通じ合わぬのをもどかしげに身ぶり、手ぶ
りですすめる。
 これには参った。教官や通訳にお願いしてどうにか断わってもらった
ら、いかにも残念そうに引き揚げていったが、今度は二匹の羊をひいて
きて、きょうの記念に受け取ってくれたの申し入れ。彼らの善意に断わ
りきれなくなった僕は、ありがたくいただくことにし、なおこの先旅を
つづけねばならぬこと伝えて、機会をみて受けとりに来ることを約
束、それまでの養育を頼んで持ち合わせの万年筆とナイフを渡したら、
バクシーが来るまでに子供を生しておくからと引き受けてくれた。<略>

(7) 蒙疆を憶う
           石谷定男

『張家口の珍味』  私が赴任した昭和十三年三月頃は日本人も極く僅
かであって、小学校の生徒も七名とかで、日系夫婦が先生ということで
あった。街の食味もこれが本当の支那の味と思っていたのでしたが、日
本人が二万以上に脹れ上り、小学校も二校となり、高等女学校もできる
ようになると、日本人好みの食味となって旧来からの風味が、すっかり
失われて了いました。<略>
 次は清河橋近くのジンギスカン料理で、古い家屋で軒は傾き、すすで
真っ黒によごれた木の階段は凹みがあるほどで、到底料理店などといえ
たものではない。この階上でジンギスカン大王が遠征のとき、鉄兜で羊
肉を焼き食べた故事に倣った所謂烤羊肉です。炉に鉄片を並べて、その
下で薪を焚き、炉回りを四、五人で立って取囲み薄く切った羊肉を鉄片
でじゅうと焼き、これを香油(ごま油)蝦油(えび油)辣油(とうがら
し油)花椒(山椒の実)や支那芹等の七、八種類の調味料を、各自好み
のものを取皿にとり、烤羊肉をつけて食べる味は珍味でおいしく、蒙古
草原の野趣たっぷりで、真に壮大な結構なものであります。この烤羊肉
は草原の草が枯れて春芽生えるまでの間で、草が延びると肉が臭く不味
くなります。<略>
 昭和51年は、俗説駒井徳三命名説の根拠となった「成吉思汗料理物語り」の出現が重要なので、出版月順でなく(1)として吉田博の「成吉思汗料理物語り」を取り上げます。
 吉田は「成吉思汗料理の名付親は当時満鉄の調査部長をしていた駒井徳三氏」とし、駒井の娘満洲野のエッセイ「父とジンギスカン鍋」が、その有力な裏付けのように書いたのです。
 そもそも満洲を満州と書いたところから間違っている。当然満州野は間違いだし、長女は喜多子で満洲野は次女。駒井が満鉄にいたとき調査部はなく調査課だったし、大正9年7月「依願職員ヲ免ス 地方部勧業課勤務 職員 駒井徳三」という辞令をもらって退社した人物が、調査部長だったなんてあり得ますか。吉田本人がですよ、満鉄社員録を調べたら、小説ならいざ知らず調査部長だったとは書けない。17年前、日吉良一が「成吉思汗料理事始」で駒井説を書き、すぐ取り消したことを知らずにコピーしたとみられるのです。
 昭和38年に入れた満洲野エッセイにしても「放牧地帯」と書いているが「蒙古草原」とは書いていない。「羊肉」「狼の群」はあるが「羊群」はない。「リズムが良い」はあるが「リズム感」はない。「蒙古の武将の名」はあるが「義経のイメージ」という言葉はない。最大の違いは「ジンギスカン鍋も、武将の名をなんとなくつけたのかも知れない。」であって「ジンギスカン鍋とつけたのでしよう」ではないことです。若き日に推理小説家たらんとし、道庁では書き手と知られた吉田の筆の滑りでは済まされないでしょう。
 吉田が突然こういう命名説を発表した動機は何か。彼は昭和44年「四季の北国」、同49年「五風十雨」と2冊も随筆集を出したが、多分道庁関係者以外の反響がなかったのでしょう。そこで日吉良一の駒井命名説マッチポンプ事件から15年、満洲野エッセイから14年もたち、当時道庁の小家畜係長中西道彦による横綱との交渉話、故合田正一氏の娘亀田多鶴子から横綱閉店後の話を加えた「成吉思汗料理物語り」で郷土史家としてのデビューを図った―と、私はみますね。吉田の狙い通りではなかったが、翌年、毎日新聞が「ジンギスカンに詳しい随筆家」として取材に来た。吉田は満足したかも知れないが、これが駒井命名説の有力な根拠となり、私が命名者捜しを始めるきっかけになったのです。
 (2)は道内の綿羊は一時は50万頭も飼われていたが、激減して今は観光ポスターの上にしかいないようになった経過を、さらっと書いた随想です。
 (3)は宝井馬琴師による連載「講釈師 歴史の旅」で「講釈師、歴史の旅、ポンと叩けば場面が変わる」と44回目は釧路からの道内巡りです。北見からノサップ岬「それにつけても歯痒し北方領土返還交渉。日本中の人々よ、心して下されと願いを籠めて叩きまするぞ。ポポン、ポンポン」(224)といった語り口で富良野から滝川へとポンポン。
 松尾とは書いていませんが、ジンギスカンを食べ、次いで開拓記念館、外へ出たら「目の届くところ全て樹木でござる。先きの放牧場の一千町歩に呆れていたが、ここはその倍の二千町歩という。その広さに肝を潰した拙者、横井さんではではないが、恥しながら…ポーッとなり申してござる。」(225)と「何もかも大きい北海道」に呆れて江戸へ帰ったようです。
 (4)は作家の小松左京と食文化専門の学者石毛直道の気楽な食べもの対談です。
 (5)は雑誌「改造」の記者だった水島治男の北京で食べた烤羊肉の思い出です。昭和2年、改造社の記者になった水島は昭和11年までの作家たちとの交渉の思い出などをまとめた「改造社の時代 戦前編」と、同12年のに北支事変取材のための中国出張から戦後の日本ペンクラブの再建まで「改造社の時代 戦中編」と2冊書いており、烤羊肉のことは「戦中編」からです。
 (6)は当時道新が発行していた月刊誌「ダン」の編集部次長(226)だった相神達夫が書いた元種羊場飼育員の回顧談です。
 昔は種羊場内の見晴らしのいいところに偉い人の視察用のお立ち台があり、この飼育員が牧童頭みたいに羊の群れをそこへ連れていき、お辞儀をして連れ戻す役をよくやらされたそうです。多分、今上陛下だと思うのですが、皇太子殿下がある年の夏、月寒へお出でになった。ところがお立ち台に上がられる時刻が、暑い盛りで羊が休息する時間帯だったため、いくら追い立てても群れは動かず、牧羊犬まで匙を投げて寝そべってしまい、完全にお手上げした。殿下が諦めてお帰りになってから、やっと羊どもが腰を上げた(227)といった失敗談なども書いてあるのですが、570字枠で入りませんでした。
 (7)は牧場がどう自慢したのか書いていないので、私としては、ちと物足りない椎名麟三の随筆です。明るくない話だろうとは思いつつ探したら、やっぱりでした。
昭和51年
(1) 羊肉利用の萌芽
           吉田博

 日本人が羊肉を食べ出したのは、
大正時代で入ってからであろう。
そのころ満州に進出していた日本
人が、蒙古人が羊の丸焼きや水煮
にして大いに利用しているのに啓
蒙されてのことである。
 日本人の嗜好に合うよう考え出
した調理の方法は、満鉄の公主嶺
農事試験場畜産部(緬羊が主体)
であろう。現在に伝わる成吉思汗
料理もそうである。この名付親は
当時満鉄の調査部長をしていた駒
井徳三氏。明治四四年の北大農経
出身、卒□(1字不鮮明)業論文が「満州大豆論」
で、札幌で生れた長女に「満州野」
と命名している。よほど満州に志
を燃やしていたのであろう。後で
満州国総務長官となって満州建国
に活躍した。
 ジンギスカンはテムジンという
蒙古の武将、後に元の太祖成吉思
汗になった。後世、義経が北海道
から大陸に渡って成吉思汗に生れ
変ったと幻の伝説がつくられた。
 「蒙古草原、羊群、義経のイメ
ージ、それにリズム感、とくに父
は物に名前をつけることが大好き
で、ジンギスカン鍋とつけたので
しよう」と、満洲野さんは「父と
ジンギスカン鍋」という一文を草
している。
 農林省では月寒、滝川の試験場
に、羊肉普及の目的でジンギスカ
ン料理を取り入れた。月寒では大
正六年ころから始めているが普及
の効果はほとんどなかった。<略>

(2) ヒツジの群れ
           聖教新聞

 そもそもヒツジは一万年もの大昔から人類に飼われていた動物で
ある。所謂「可愛い小羊」なのだ。これが北海道へ計画的に輸入さ
れたのは、明治の初めころといわれている。
<略> 最初は、肉を食糧にするのが第一義の目的で、残った毛は輸入す
る方法をとったというが、思わしい産業とはならなかったようだ。
 その後、第二次世界大戦で毛糸の輸入が止まってから急速に種羊
場の名が知れ渡ってきた。終戦後も変わらず生産の増加が続いたが、
今度は化学繊維の発達から羊毛の需要が減少傾向を著しく示し、皮
肉にも最初の目的であった羊肉の需要が増えるようになった。
 ここに戦後いっぺんに広がった「ジンギスカンなべ」という名物
が「スキヤキ」を圧倒して、不動のものになったというのだから、
世の中というものは実に不思議
なものである。
 旅行者が体験的に作った〝看
板に偽り有り〟という諺がある。
ジンギスカンの味に舌つづみを
打っているうちに、やがてその
ジンギスカンも冷凍のそれにな
っているかも……と思うと心寒
い限りである。    (柿)

(3) 阿寒の白煙悲し開拓史
           宝井馬琴

<略> 見渡す限りの放牧場
 北泉岳寺に別れを告げ、馬に跨りハイドウ
…、山坂を登り、草原を走る。羊がいる、豚
がいる、牛がいる、放牧じゃ、実にのびのび
と草を食んで遊んでいる。「北海道立滝川畜
産試験場」に着いたのじゃ、驚くなかれ、そ
の広さ千町歩とある。
 見晴台に登って眺めても、見渡す限り草原
じゃ、その中に前述の動物のほか山羊、鶏も
まじって、のどかに草を喰べている。まこと
に平和そのものの眺めでござる。だが所詮こ
こも人間さまの営みである。羊は毛ほむしら
れて、肉はジンギスカン鍋用におくられる。
豚も百キロになるとトンカツになる。それさ
えなければこんな幸福な処はあるまいに…と
動物たちに同情して試験場を出る。
 次に案内された処が食堂、そこで昼食に出
されたのが何と先程のジンギスカン鍋。同情
する処は頭で、喰べる処は腹、味は滅法よい。
空気のよい処で青草をもりもり喰べているの
で肉も上等なのであろう。念仏を唱えて十二
分に頂戴し、ナムトン(豚)ショウボダイ、
ゴメン(緬)ナサレ、ボクボク/\/\。<略>

(4) 新編にっぽん料理大全
           小松左京
           石毛直道

<略> 石毛 うーん、やりますか。このごろ、世
界各地でジンギスカン料理のことをモンゴリ
アンバーベキューといって、朝鮮料理のなか
のメニューのひとつとして出回っている。
 小松 そうそう。マイアミに行ったとき、
モンゴリアンレストランという大きな店があ
る。そのレストランの店先に大きな鳥居があ
るんで、日本料理店かと思えぽ、さにあらずし
て(笑)。なかで食わせるのはバーベキュー。
元来、ジンギスカンというのは野外料理なの
かもしれない。
 石毛 そうなんですね。戦前北京に行った
連中の紀行文によく出てくるが、ジンギスカ
ンの有名な店がある。そこへ行くとまず屋上
の吹きさらしのところで食わせる。有名な店
というのできてみたが、これだけかというん
で、寒いし、ワッと食べる。そこで腹いっぱ
いになったところで「じゃあ下へ」というの
で、行ってみるとそこに宴席が設けられてい
る(笑)。ジンギスカンのオードブルで、みん
なそれで討ち取られる。
 小松 戦後のカルチュアのなかで、たいへ
んおもしろいのは、日本にバーベキューが入
ってきたということ。ジンギスカンもそうだ
し。しゃぶしゃぶの方はずいぶん遅れてやっ
てくる。<略>

(5) 上海から北京へ
           水島治男

<略>もう一つの逸品は烤羊肉カオヤンローという。日本でいうジンギスカン焼である。羊の肉はさることながら、シナどんぶりに入っている薄茶色の独特なたれ、大きな鉄火鉢の中に燃えて白い灰になる粗朶の焚木、天井を吹き抜けの青空、星のきらめき、木製の長い腰掛けに片足をのせて、立ったまま三十センチもある長い箸で、うすい羊肉数片を皿からつまみあげ、たっぷりたれをつけて、分厚い鉄網にのせてジューと焼く。もう一ぺんたれにつけてひっくり返してほどよく焼く。そいつを食べながら、甘酢につけた丸ごとのにんにくと焼餅シヤオピン(ごまをつけた平べったい固焼きまんじゅう)をかじる、煙がもうもうと上って行く。こうした豪快な野戦料理の雰囲気があってこそうまいのである。座敷で品よくたべたのではこの味はでてこない。北京について思い出すのは奇妙に食いもののことで、食いものでノスタルジアを感じ、それからおもむろに回想にうつるのである。

(6) 羊ケ丘一代
           相神達夫

 若く見えるって。もう六十八になりますがね。まだ息子に小遣い銭を貰うほど老いぼれちゃいないから、こうして働かせてもらってます。ハイ。
 仕事ですか。羊ケ丘の展望台といえば、札幌でも観光の目玉ですからね。時計台の鐘の音を聞いた観光客は、次は緬羊の見物にここに足を運ぶってくらいのものです。ところが折角、観光客がお見えになっても種羊場、おっと今は農林省北海道農業試験場ですか。こちらの方は仕事の邪魔になるってんで、場内は立ち入り禁止です。
 なにしろ一面に牧草地が広がったこんな素晴しいところでしょう。ほおって置くと観光バスやらマイカーがどんどん入って来てホコリを立てる。試験場の農作物にホコリがあたったんじゃ試験にもなにもなりゃしません。<略>
 それで昭和四十三年からでしたか、観光客の方はご遠慮願うってことになったんです。それでははるばる北海道まで夢を求めて訪ねてきた観光客に気の毒じゃないか、今流行りの言葉で言うと、観光サッポロのイメージダウンになる、と観光協会の方でこうして展望台を設けて緬羊を放牧している訳です。その管理、つまり世話を頼まれましてネ。ナニ、たった三十頭ばかりですからね。年寄りにキツイって仕事じゃありません。昔に較べたらあなた、そりゃ楽なものです。<略>
 おや、話し込んでいるうちにもうこんな時間、そろそろ展望台にいる羊を迎えに行ってやらなくちゃ。展望台には羊舎がないんでネ。それで夕方になると農場の羊舎まで連れ帰らなくちゃならない。ま、こうして種羊場を退職してからも羊のおかげで飯を食べさせてもらっているもんですから「もったいなくてジンギスカンは食べられないだろう」なんてからかう人もいますが、私はジンギスカンが大好きでね。しょっちゅう食べてます。おかげでこんなに元気で、ハハハ。では、お疲れさん。

(7) 期待以上だった蓼科夢ノ平の展望
           椎名麟三

<略> さて東白樺湖から、矢島氏の好意の車で、蓼科牧場へ向かった。このカラ松やモミの林をくぐり抜けて行く道は、まだスカイラインといえるものではない。いきなりスカイラインらしい展望の利くコースへ行くのは興がないというわけなのだろう。だが、二十分ほどで蓼科牧場へつく。この蓼科牧場が、どうやらこのスカイラインの中心地点のようだ。夢ノ平へ行くにも蓼科温泉へ行くにもここを通らなければならないからである。
 七十名ぐらい泊まれる山荘とサービス・センターがあり、ここで飲んだ牛乳は濃くてうまかった。むろんもっとうまそうなものを、二、三人の青年男女諸君がつっついていた。ここの御自慢のジンギスカン料理である。ここの牧場の緬羊の肉なので、牛乳と同じようにつまり自家製というわけなのだ。<略>
 昭和52年の(1)は朝日新聞大阪本社の寺尾宗冬記者による六甲山ホテルのジンギスカンの紹介です。このホテルがジンギスカンを始めた経緯は、昭和49年のところで清水雅阪急百貨店会長が語りましたよね。平成25年に西宮でその記事探しをしたほか、同ホテルにお尋ねメールを送ったら、当時の関係者がいないのでわからないが、参考にと朝日と毎日の記事の写真を送ってくださった。この際、その記事と写真をお目に掛けよう。資料その11が昭和37年の朝日新聞、同12が同45年の毎日新聞です。皆、紙エプロンをかけてるね。
資料その11
   ジンギスカン料理

光の海。色とりどりのともしびが、さざ波のようにきらめく六甲山上からの夜景は、実にすぱらしい。あだるような暑さをのがれて涼を求める人たちは年ごとにふえ、夏場は、一日五万人を越えることもあるという。これじゃ、避暑地というより繁華街。まさに夏の夜の山上は〝六甲市〟といったほう方がぴったりのにぎわいだ。団体客や家族連れ、アベックや若い人たちがいろどる六甲夜色あちこちをたずねてみよう。
⛋…たそがれ、六甲山に灯がともる。ケーブル山上駅にほど近い六甲山ホテルの真下、名物ジンギスカン料理は早くも五十台のテーブルがぎっしり満員ときた。ジューッとやわらかく肉のはぜる音、夕風がプンと鼻をくすぐる。
⛋…サラリーマンもいれば家族づれもいる。夏の夜、涼しい山上のいっぱい気分がお気に召してか、テーブルは十日も前にオール予約ずみとか、こちらは仲間の結婚祝いという会社勤めのお嬢さんが六人。ビールを四、五本軽くあけて、キャッキャッとはなゆいだ笑いがいっぱい。一つまた一つ音もなくきらめく光の帯はまずはカケ値なしに千万㌦の夜景。飲んで食って千万㌦の夜景を楽しんで、こいつはまったくこたえられませんな。
「フフ…、ビールの味もまた格別ですわ」ぐっとコップをあけ、中の一人がちょっぴり気取ってみせた。=写真は千万㌦の夜景をバックにつつく肉料理(六甲山ホテル近くで)
(228)
資料その12
   「六甲山ホテル」のジンギスカン料理
      灘区篠原六甲山頂

 牛、豚、羊、鶏。肉と名のつくものならなんでもある。野菜は玉ネギ、ピーマン、トマト、シャンピニオン(洋マツタケ)など。大きな皿にならんだ材料は見るだけで壮観だ。これらを炭火で焼いた厚い鉄板の上に乗せ、焼きあがったのをそれぞれ自分勝手にタレにつけて食べる。
 ジンギスカン(成吉思汗)の軍隊が鉄カブトで炭火をおこしその上に盾を乗せこの盾で肉を焼いて食べたのがジンギスカン料理の起源ということになっているが、六甲山ホテルで使っている器具も全部鉄製。炭火の上に直径六十㌢もある円状の鉄板を置く。鉄板とはいっても細長い鉄のさんを並べたもので、さんとさんの間に細いすき間があって余分な脂はここを伝って流れ落ちる。だから肉にはフライパンで焼いたようなしつこさがない。タレはしょう油二対酢一にミリンや砂糖を少々加えたあっさりしたもの。食べても食べても食べられるのはこのためらしい。タレには玉ネギやニンニクをおろしたものを混ぜてもよい。とくにニンニクを多く入れるとうまいのだが、口臭が出るのをきらう人は後で牛乳を飲むといいそうだ。
 夏だと屋外でビールでも飲みながら真赤な炭火を囲んで肉を焼く。ビールがまたジンギスカン料理と実によくマッチする。夜ともなれば眼下には神戸港千万㌦の夜景が広がりほてったほおにひんやりした風がここちよく文句なしだ。大声で歌を歌っても暗い山の中だからだれも迷惑しない。<略>
【写真説明】ジンギスカン料理のテーブル
(229)

 (2)の美幌町の情景は、俳優小沢昭一からの電話により「ふッと押しだされる衝動にかきたてられ」「昭和47年4月、北海道への旅を開始」翌年4月から「日本と世界の旅」(山と渓谷社刊)に1年間連載した<ドキュメント・日本列島>からと同書の「回想 日本列島への旅のあいだに」にあります。
 (3)は毎日新聞が出した「北の食物誌」からです。果たせるかな、毎日新聞が郷土史家ではなく随筆家としての吉田博にジンギスカンの話を聞きにきた。前年1月から北海道版の連載していた「北の食物誌」に道内の緬羊概論に駒井命名説を加えた「羊肉」編が紙面に載り、この年の7月、全33編を纏めた「北の食物誌」が出版された。
 同書は「羊肉」だけでも10ページを占めているから、掲載期間を示したいところだが、毎日の記事データベースは頗る検索しにくいので見合わせました。
 平成20年の私の日記にね、某公立図書館のレファレンスサービスの回答例が毎日新聞からとして駒井徳三命名説を示していたとあります。新聞社が出した本だから正しいとは限らないのてす。でも、こうした事例が駒井命名説の本当らしさを印象付けたことはありうるでしょう。
 (4)は神戸女学院大の渡辺久雄教授と学生一行26人が鳥取県三朝町で行った社会調査報告からです。着いた日の夕方は交歓会、終わったら先生の歓迎会と呼び出され、2日目の昼食会は引用したような展開になった。女子大生は飲めないだろうからと気配りして鶏のジンギスカンで歓迎したのですね。
 「従来の地方史はどちらかいえば政治史、経済史であり、文化史的ならびに社会史的な考察に欠けていた気がする。なるほど庶民の生活史を通史の中に織り込むことは、史料の欠如もあって困難なことに違いない。しかしこれをやらないと、風土と一体化した地方史は生まれてこないのではなかろうか。」(230)と渡辺教授は「あとがき」に書いておる。
 でも今はプライバシーが大事と、こうした調査地区の家庭に泊めてもらっての生活調査は、だんだんやりにくなっているのではないでしょうか。
 (5)は雑誌「オレンジページ」などの料理編集者から料理研究家になった川津幸子のジンギスカンのレシピの前書きです。これにはジン鍋の取っ手の近くで焼いている野菜や肉の写真が添えてあり、わざわざ「函館で買った鍋」というからは、私の知っている鋳物関係者が作った鍋かも知れないと、念のためジン鍋博物館の溝口館長に写真を見てもらったら「量産品です。同型のジン鍋は既に3、4枚、同類の深型だと10枚くらいある」とのことでした。
 川津が編集者だったとき、読者に「この料理を作ってみたい」と思わせる前文をどう書くか苦心したそうですが、函館で買ってきた鍋を「北海道からお嫁にきた」という表現したあたり、そうした経験から生まれた表現ですよね。写真は略すが、川津レシピは別の戦後のレシピを集めた講義録の方で紹介します。
昭和52年
(1) 上方ホテル味の腕比べ
           寺尾宗冬

<略> 六甲山にジンギスカンブームをつくり上げたのが、「六
甲山ホテル」だ。昭和三十二年まずこのホテルが手がけ、
同三十四年に「六甲オリエンタル」がつづき、それから
は山上に専門店が続出して、六甲山といえばジンギスカ
ン料理が、頭にうかぶ。札幌に似た湿度、気温が、ジン
ギスカンへの食欲をかりたてるようで、開業のころは、
夏の間、屋外でやっていたのが、今では冬に室内でもや
れるようになった。材料も、マトンから神戸肉のロース、
瀬戸内海のクルマエビ、伊勢のアワビなどが出る。「六
甲山ホテル」で約八百席、「六甲オリエンタル」が六百
席。それが、バカンスの季節や週末、クリスマス、正月
には一杯になるのだから、驚くばかり。ホテルが、一種
の〝郷土料理〟をつくり上げた珍しい例だ。<略>

(2) こぶしの花咲く町 美幌
           麻生

美幌。
  びほろ。
美しい名――。
アイヌ語で、pe(水)、poro(大きい、多い)。
網走川と美幌川が合流し……網走湖に入り、それはオホーツク海に注いでいる。
この町の人々の春を待つ気持は強い。
<略>
五月になって、はじめて本格的な春を訪れる。
それは、性急で、快い。
自然が一斉に喚声を上げるように、燃えるような緑に包まれ、梅も桜もツツジも花々は一度に花をひらく。
農夫はあわただしく野良へ出て、耕き起こし、種子を蒔く。
トラクターのエンジンが大地にこだまする。
美幌神社の境内ではプロパンガスのボンベを運び込んだ人々がジンギスカンで花見の宴を開く。
美幌はオホーツク海に面しているが、千島火山脈の南よりも温暖で、また太平洋沿岸のような濃霧もなく、気候的にも恵まれている。
美幌は、ヴァン・ゴッホが強烈な太陽とまばゆい色彩に魅了された南フランスのア
ルルとほぼ同じ、北緯43度に位置している。<略>

(3) 羊肉
           毎日新聞北海道報道部

<略> 古い話になるが義経が陸奥から北海道経て大陸に落ちのび、成吉思汗に変身したという伝説がある。現在、札幌に『義経』というジンギスカンなべ専門店があるのも、この伝説にあやかったものだろうが、ジンギスカンなべ(あるいはジンギスカン焼き)の名称はどうしてついたのだろう。
 この名の由来については札幌市在住の随筆家・吉田博さんが詳しい。以前、道庁の農政課長などを務め、昭和二十九年ごろ、北海道新生活建設協議会の事務局長として、たんぱく源の不足しがちな農村に身近な羊肉を普及させようといろいろ心をくだいた人だ。その吉田さんによると、ジンギスカンなべの名称は、戦前に満鉄の公主嶺農事試験場で生まれたそうだ。名付け親は当時、満鉄の調査部長で、のちに満州国総務長官を歴任した故駒井徳三氏。駒井氏の娘さんである藤蔭満州野さんが昭和三十八年、道内の雑誌『月刊さっぽろ』に寄せた「父とジンギスカン」という一文から――。
「満鉄に入社した父は、大正の初めに満州から蒙古地方を随分歩いたらしい。蒙古には大きな羊の放牧地帯があることを初めて知った。羊が蒙古人の生活にどんな重要なものであるか気がついたそうである。羊肉は大正のころから日本人も食べ始めたといわれる。それをジンギスカン鍋と名付けたのが私の父自身であったらしい。父は名前をつけることが好きで……ジンギスカン鍋も蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない」。
 この大陸の英雄と北海道を結び付けるものといったら、北海道の風土が単に大陸的ということと、冒頭で記した義経伝説くらい。この名がつかず、ただの〝羊の焼肉〟だったら、今日のような普及も隆盛もなかっただろう。名称とは恐ろしいものである。<略>

(4) 村の社会調査
           渡辺久雄

<略> 約束の正午になって分校に行ってみたが、集っている村人の方は、どうも昨日の顔ぶれと大差がない。そうこうするうちにまた屋内体操場でジンギスカン焼きが始まった。例によってビールと酒がならぶ。しかし来客側の方も、本日の主客ともいうべき本校の校長さん以外は全く昨日と同じである。村人全員が集るような話だったのは私の聞き違いだったのだろうか。
 まあそれはそうとして、都会育ちの学生たちにとっては野趣のある鶏のジンギスカン料理は珍しかったが、村人たちがすすめてまわるお酒類には弱っていた。宴がはずむと席は踊り場に一変して、皆輪になり名物の三朝音頭を踊った。一時間、一時間半と貴重な時間が流れて行く。村人たちには私たちが調査に来ていることを覚えていてくれるのであろうか。学生が心配して「先生、いつまでこうやって時間をつぶすのでしょうか」と心配してくれる。「まあまあ、これが村の生活の一駒なのだから」となだめはしたものの、引揚げの潮時をみるのに一苦労する。<略>

(5) ジンギスカン
     北海道からお嫁にきた(?)ジンギスカン鍋。
     働きもので、おいしい楽しみが増えました。
           川津幸子

 九州生まれのわたしが、なにゆえ、
北海道の方々が愛してやまないジン
ギスカンの紹介に、しゃしゃり出る
のか。それは、函館に遊びに行った
とき、ジンギスカン用の鍋を買って
きたからです。そんなもの珍しくも
ないとお思いでしょうが、その鍋は
ちょっと違いました。
 ジンギスカンの鍋はご承知のよう
に、ドームのような、帽子のような、
半球形の鉄板です。て、縁なわりに
溝がある。実はこの溝が、上から流
れてきたラムの焼き汁を受け止める
貴重なゾーン。ここに野菜を放り込
んでおくと、うまみのある焼き汁が
野菜にしみ込んで、すこぶるおいし
くなるのです。その鍋は、この溝が
通常のものよりどーんと深く大きく
なっておりました。きっとわたしと
同じように、思う存分野菜を焼きた
い、こぼれ落ちる心配なしに、と願
った人が考えたに違いない。「重いか
ら、送ろうか」というおじさんの声
も聞かず、ひしと抱いて帰りました。
<略>
 昭和53年の(1)は道民で知らぬ者はいない「松尾ジンギスカン」、その総帥松尾政治の紹介です。「まさに〝空知の成吉思汗〟といったところだ。」と結んだこの記事は、3年後に出た「滝川市史 下巻」の産業・経済編に「われジンギスカン」として、ほぼ全文転載(231)されています。
 (2)は「エンルムの春」からです。「エンルムとはアイヌ語で突き出している頭、つまの岬のことで、えりも、、、の語源である」そうで「えりも、、、へ行くには、いつが一番良いだろうかとよく聞かれるが、襟裳の本当の姿を見るには冬、美しさを見るには春をお勧めする。」(232)と「NHK新日本紀行」は書いています。
 読売新聞社文化部著「この歌この歌手(上)」によると、森進一が「襟裳岬」を歌ったことについて「『襟裳の春は何もない春です』とは、どういうつもりだ。ここには役場もあるし、喫茶店だってあるのに」怒声を含んだ電話が、渡辺プロに入った。すべて。「侮辱された」と早合点した地元北海道えりも町民からのものだ。<略>
 岬で長年売店を営む渋田公郎蝋の耳にも、抗議電話の話は入っていた。「ここはこの通りの場所だから、春といっても確かに何もないわね」
 だが、大方の予想を覆し、「襟裳岬」は約百万枚のレコード売り上げを記録する。「石油ショックの直後だったにもかかわらず大勢の観光客が来てくれたのは、森さんの歌のおかげです」と、渋田。森はその功績で、えりも町から感謝状を贈られた。」
(233)せいか、岬には島倉千代子の別の「襟裳岬」の歌碑と森の「何もない…」の歌碑と並んでいるそうだ。
 (3)は日本革命の命を賭けた元日本共産党員の淡々とした回想記からです。
昭和53年
(1) われ〝ジンギスカン〟
           松尾政治

 ウマ年生まれの〝馬車追い〟
がヒツジに乗り換え、一代を
築き上げた―。
「朝の六時から夜の十二時
まで、自分のしりをたたきつ
め。他人様のなん倍も働いた
よ」―道内はもちろん全国に
名を知られている「松尾ジン
ギスカン」の総帥は、ぐっと
表情を引き締めた。
 戦後、庶民の新しい食べ物
として爆発的人気を呼んだの
は、ラーメンとジンギスカン
だそうだが、札幌がラーメン
の本場なら、ジンギスカンは、
滝川が〝総本山〟といえる。
その名声を呼び込んだのがこ
の人。
     ◇
 農業―馬車追い―バクロウ
―すきっ腹にショウチュウ、
けんか、ばくちと〝なんでも
こい〟の松尾青年が、知人に
「うまいものを食わせてやる」
と、得体の知れない味付け肉
を食べさせてもらったのが戦
後間もないころ。「これ、な
んの肉?」「メン羊だよ」―
味はともかく、当時、肉をこ
んなに腹いっぱい食べたこと
はなかった。
 「よし、これは商売になる。
問題は、特有のにおいを消す
ことだ」―。それからは、タ
レ作りに没頭。ついにニンニ
クを使わず、リンゴ汁を主に、
十数種の調味料、香料を配合
した秘伝のタレを考案した。
 そして三十一年、資金五万
円で自宅の馬小屋を改造、夫
婦と母親と三人で六畳板の間
のちっぽけなジンギスカン屋
を開いた。評判が評判を呼び、
数年のうちに急成長、〝ジン
ギスカンの松尾〟は、全道を
席けんしていった。<略>
       (古川令司記者)

(2) エンルムの春風
           NHK報道番組班

<略> 三月下旬、毛蟹漁が終わるころ、残雪を蹴破っていち早く姿を見せる
のは黄色い福寿草である。まさに春のきざしといったところ。アイヌ民
族は、福寿草を「イトウの花」と呼び、やはり春の訪れを知ったという。
福寿草が咲きだすと、川の氷が溶け、イトウという魚が川をのぼってく
るからである。
 春告魚に鰊があったが、今は昔。魚屋の店先に並ぶ輸入の冷凍鰊では
何の詩情も浮かばない。
 福寿草の次は、もう百花撩乱。あらゆる春の草花がいっぺんに咲く。辛夷、梅、桜、桃もなどが同居しているのが、岬の東にある所の庶野という村。一応、桜の名所ということになっているが、こうなると、なんの名所かよくわからない。
 五月の初旬、晴れた日には毎日でも花見客がジンギスカン鍋を囲んで、にぎやかに歌い、踊りまくる。これをやらぬと、どうも春らしくない。地元の人々にとって、花見は大切な春の行事のひとつである。
 羊の肉と野菜を鉄板で焼いて、タレをつけて食べるジンギス汗鍋だが、少々特有のにおいがする。もっとも、これも春の香りの仲間でもある。
 春駒が生まれ、子牛が誕生する。遅い春がようやく終わり、六月になると、牧場では牧草の刈り取りが一斉に始まる。しかし、これはもう次の冬への準備なのである。<略>

(3) 満州里、ハルピン、大連、神戸
           高瀬清

<略> 列車は滑るように満州里に着いた。私にとっての思い出の国境駅のマツウエスカヤ駅はノン・ストップでアッという間に通過してしまった。吉原氏の案内で私と野中氏は陳氏と別れて満州里に下車した。吉原氏はすでにこの地で顔利きのボス的存在のようで、ナワ張りよろしく簡単な応対で万事がオー・ケーであった。その夜は中国人宿で成吉斯汗ジンギスカン料理と日本酒で晩餐のご馳走になった。
 翌日は吉原氏と別れ、野中氏と二人きりでハルピンに向かって東支鉄道を南下した。一度来た道、通った道の気安さは私を大胆にし、平静な気持ちにして、日本人のスバイ以外に怖るるものはなく、ハルピンに着いた私は、なんのためらいもなく野中氏をロシア人ホテルに案内し、その日は馬車で野中氏と市内見物をするという図太さであった。<略>
 昭和54年の(1)は「札幌事始」からです。達本外喜治が昭和40年に辰木久門として書いた「昭和10年精養軒ホテルがジンギスカンを始めた」から「といわれているが、~噂されたのかもしれない」に変えたことがわかります。
 (2)は檀一雄と親しかった作家真鍋呉夫の「天馬漂泊」の檀が烤羊肉に使うコエンドロという香り付けの葉っぱについての蘊蓄を傾けるところです。
 真鍋は壇の「強健な体力と旺盛な活力」を天馬にたとえ、追悼記も題を「天馬 空をゆく――檀一雄追悼」として「南極のはてに至るまで世界を駈けめぐり、あるいは山ほどもある梅ぼし・らっきょう・沢庵のたぐいを漬けこみ、あるいは深夜にひとり起きだして家じゅうの庖丁を研ぎ<略>空罐に五寸釘で穴をあけ、ガスマスク状の奇怪な豚モツをザラメ・松葉・お茶の葉などで丹念にいぶしあげ、おかげで林富士馬氏が病みつきになったほど深遠な味のする燻製<略>」(234)をつくったこともあったそうだ。
 (3)は開高健の「最後の晩餐」です。「編集部から届けられたメモ」の引用だとして「札幌の友の会 お料理グループ」のタレは分量付き9種、「義経チェーン店」は分量秘で20種、「じんぎすかんクラブ」は同13種、「松尾じんぎすかん」も同16種、「ベル食品」も同13種のレシピ(235)を明記している。
 問題発言はその後です。「諸家それぞれに局部をひたかくしにおさえてお洩らし下さった秘法である。こんなチャンスはあまりないから、各家庭におかれてはトウチャンが焼酎掻ッ食うまえにこの雑誌をとりあげて頁を切抜いておかれるとよろしい。しかしだネ、小生は料理研究家ではないけれど、もともとジンギスカンというのは、蒙古料理の烤羊肉なんだから、数千年の羊学に長じた彼らの英知に学ぶのがもっとも正統と思われる。その正統派のタレをだね、蒙古へいって、誰か聞いて、書きとって、帰国して、アケスケに公開したらどうだ。それから二度繰りかえすようだけれど、みんな甘みをつけるのに砂糖を使ってるようだが、このもののもたらす甘みはクドくて浅くていけないから、ハチミツか何かにかえたほうがいいのではないですか。」(236)と書いちゃった。
 多分、正統派のタレ調べに君が蒙古に行ってくれば?―なんてね、飲み仲間にでも冷やかされたのでしょう。3年後に出た「自然探訪1」で開高は「<略>しかし、北海道の人びとが発見した最大の料理は、ジンギスカンと呼んでいるマトンではないでしょうか。魚貝類なら、誰でもうまいと感じるし、内地の人だって好んで食べるのは同じことです。が、マトンとなると、これは一大発見だというべきです。」と称賛。さらに「もちろん、羊の肉は羊の肉で、昔もいまも味が変っているはずがありません。内地人がくさいと思うなら、やはり北海道人にとっても羊の肉はくさいでしょう。したがって、問題は肉そのものにではなく、焼いた羊の肉を味つけするタレにありました。そして、北海道人は偉大にも、きわめて多彩かつ美味なるタレを開発したのです。」(237)と一転して絶賛、さらにですよ。
 「基本的には醤油、ゴマ油をまぜた中へ、リンゴなどの果実をすりこみ、さらにニンニクその他のスパイスを入れてできていますが、醤油とゴマ油の混合比によって味は変り、さらにスパイスの種類と量によって、無限のヴァリエーションが生まれてきます。いや、ヴァリエーションと呼べば、いかにもどこかにスタンダードがありそうですが、この場合にはスタンダードなしの無数の味で、ですから無数の味そのものがすべてスタンダードだといってもいいでしょう。一軒一軒、みなタレは違っている。いわば、フランスでいう”ソース・ド・メゾン”(各家秘法のソース)というわけです。<略>」と持ち上げ「北大の寮歌にあるような羊の肉を一家秘法の絶妙のタレでやってみる楽しみが失われつつあることは、惜しんでも惜しみ足りないことです。」(238)」と書いたが、もはや神の御意志は市販のタレと定められそう。違いますか。ふっふっふ。
 (4)は「中国人の生活風景 内山完造漫語」からです。「内山完造漫語」と付いているのは昭和16年に出た柯政和著「中国人の生活風景」と区別するためでしょう。この本でも羊肉料理として烤羊肉は6行、涮は11行(239)の説明があります。
 大正2年、大学目薬の出張員とし中国に渡り同6年、キリスト教関係の本を置いたことが有名に内山書店の始まりとは知りませんでしたね。「1947年に帰国するまでの30年間,魯迅ら多くの中国の文化人や庶民と親交を結ぶ。」(240)と著者略歴にあります。
 (5)の「田舎料理」の著者皆川は、略歴によると「〈食べ物〉を主とするエディトリアルプロダクション(株)クォーターハウス取締役副社長」(241)「要するに私たちは、私たち共通の財産である〝いなか〟の味を大切に守っていきたいし、そのためにも〝いなか料理〟という本来のことばをもう一度噛みたい願いから、本のタイトルも〝田舎料理〟とした次第」(242)とあとがきに書いています。
 取り上げているサンマの刺身、ハッカクの軍艦焼き、ホッケのすり身汁ぐらいは道内の田舎料理としても、トウキビ、ジャガイモ、アスバラガス、蕎麦などにも北海道らしい田舎料理があるとは思えません。要するに講演旅行などで出会った料理紹介です。
 (6)は写真家の篠山紀信がモノクロのジン鍋の写真に白抜きで付けた随想です。句読点がなく、文中は代わりに1字分を空白にした珍しい書き方です。
 (7)は「現代文章宝鑑」なんて古めかしい書名なので、ジンギスカンを初めて食べた名調子の感想文を期待して読んだら、放送作家の永六輔が訪れたことのある札幌など11市の名所案内詩というような文章でした。全部「例えば、その朝が、何々であれば……」という書き出しで始まりますが、行数はさまざまです。
 (8)の「ひつじ」を書いた那須氏は16歳で上京、刻苦精励して電力通信用の資材を製造する那須電機鉄工株式会社を創立した社長でした。
 (9)は詩人、哲学者、作家、科学者4人による座談会からです。作家のなだいなだが鍋ものがその土地を売り出すレッテルになっているのではないかと言っているが、ジンギスカンの場合、薄っぺらいレッテルどころか、北海道遺産という立派な広告塔もあるよ。ハッハッハ。
 (10)は昭和23年の天皇家に関する諸食糧事情の記事です。これは明治以来の諸雑誌の記事を集めた本「復録日本大雑誌」5冊組の中の「昭和戦後篇」にある「天皇一家の配給生活探訪記」からで、当時はまだ三里塚にあった御料牧場にも触れている。
 文中のベース階級はヒロヒト一家の上辺に対する底辺のベース、庶民ということじゃないかな。
 また同じ号からとして、コラム「寄生虫の寄生虫」があり「天皇一家がいくら胃拡張にかっているといっても、毎日二十貫の野菜や十日に羊豚各一頭づつも食えるはずがなく、さりとてそれだけの代金がヒロヒト氏のふところ(内廷費)が支払われているのはたしかな事実。つまり何処かで誰かが、ヒロヒト一家の胃の腑にかわつて莫大な食物をパクついているのではないかという疑いが出てくるが、クサイのは宮内府の庁員食堂菊葉会。ここを牛耳るのは元大膳課長…」と、うわさ話が書いてあります。
 これは元々コラムだったのか、別記事を編集したものか、国会図書館を検索したら両記事の底本「真相」昭和23年8月号はデジタルコレクションになっており、すぐ読めたのだけど、残念ながら牧場の写真2ページの次から12ページまで欠落して「真相」はわかりませんでした。
昭和54年
(1) ジンギスカン
           達本外喜治

 北海道に種羊場(月寒羊ケ丘・いまの農林省北
海道農業試験場)ができたのは大正七年だから、
そのころから日本人もめん羊を食べていたのであ
ろう。大正八年に学生が月寒に見学に行き、羊肉
を食べさせられたという話も残っている。しかし
これらはあくまでも試食であって、料理屋でジン
ギスカンと名称をつけて売り出したのは、昭和十
年以降になる。
 ともかく、北海道名物のジンギスカンなべには
元祖、開祖が多い。札幌では、昭和十年ごろ当時
大通の西四丁目にあった精養軒ホテルが始めだと
いわれているが、名の高い洋風の料理屋だけに、
焼肉と結びつけて噂されたのかもしれない。「ジ
ンギスカンなべ」の元祖として通っているのは、
合田正一さん(札幌市南大通西十三・後の北農菌
取締役)の狸小路で開いた店である。
 昭和十年代にめん羊の増産対策として、北海道
庁が肉の消費を増やす運動を起こしたことがある。
各地の洋食店に宣伝マッチや店の看板までつくる
などして、くどいて回ったということか、ともか
く役所としてはイキな宣伝をしたものだ。この道
の誘いに乗り、合田さんが昭和十一年の秋、狸小
路六丁目でおでんと焼鳥の「横綱」をはじめ、同
時にジンギスカンなべも始めた。
 店始めは、羊の肉はあまり売れなかった。種羊
場の方からも懇切な依頼があり、無料の試食券や
映画館のサービス券なども配ったりしたが、やは
り三年間ほどは商売にはならなかった。

(2) 天馬漂泊
           真鍋呉夫

<略>「そうなんです。たとえば、今度の戦争がはじまるまで
は、東京や大阪にも、ジンギスカン鍋を売物にした店がち
ょいちょいあったでしょう」
「ええ」
「あれはもともと、満洲や北支の烤羊肉という料理を移入
したものなんです。ですから、タレに漬けた羊の肉を炙る
ところまでは同じなんですけどね。満洲や北支では、その
炙り肉に必ず芫茜という香草を刻んだ薬味をまぶして食べ
る。そこが一番大きな違いなんですけど、漢口ではどうで
した」<略>
「ええ、こう書くんです」
と檀さんは、小麦粉で真ッ白になった餅板に指でその二
宇を書いてみせてから、
「まあ、一番よく似てるのは内地の野芹でしょう。ですけ
ど、匂いも味も桁ちがいに芳烈で、羊の肉のあの乳くささ
を完全に消してしまうだけじゃなく、肉の味そのものの無
上の引立て役でもあるんですね。おそらく、世界広しとい
えども、こんなによく羊の肉にあう薬味はほかにはないん
じゃないかな。そこですこし気をつけて調べてみると、ポ
ルトガル原産の香草にコエンドロというのがあって、これ
が芫茜とまったく同じなんですね。日本でも徳川中期には
幕府の薬草園で栽培していたらしいんですけど、それがい
つのまにか絶えてしまった。羊の肉を食う習慣がなかった
からなんですね。 <略>

(3) 神の御意志(インシ・アルラー)のまま
           開高健

<略> 北海道風のジンギスカンには二通りある。一つは羊の肉を
あらかじめトップリとタレに浸してから焼くヤツ。もう一つ
は羊の肉を焼いてからタレにチャプッとつけて食べるヤツ。
つまりジンギスカンの〝表〟流と〝裏〟流というわけだが、
これの分岐点が岩見沢だというまことしやかな説を聞かされ
たことがある。しかし、また一説には、某メーカーがあらか
じめタレにつけたズボラ肉を包装パックして売出してからそ
の習慣は生じたのであってここ五年ぐらいの現象だと聞かさ
れたこともある。しかし、私の見聞と経験からすると、それ
よりずっと以前から〝表〟流と〝裏〟流はそれぞれシープ・
イーターのあいだで自然に選ばれ、おこなわれていたという
印象がある。動物分布線のような岩見沢説を旭川あたりで教
えられたのは今から五年よりずっとずっと以前のことなので
ある。ただし、おかみさんたちの時間を浮かしてひたすら教
養の時聞をふやすことに腐心しているインスタント屋たちの
影響はなみなみならぬものがあるから、これはこれで私とし
ては頷いておくのである。つぎに肉を焼く方法だが、もっと
もざっくばらんでそしてうまいのは七輪に炭火を熾してただ
の金網をのせて焼く法。つぎにガス火。つぎにカブト型の
鍋だが、これにも二通りあって、隙間からどんどん脂が炭火
に落ちていく方式のと、隙間がなくて周囲のタメの溝に脂を
ためる方式。私としてはさきの方式のが好きである。<略>

(4) 菜・点心・酒
           内山完造

<略> 北京で有名なのは羊肉の味である。「涮羊肉シヨワヤンロウ」は、羊の肉の水炊である。「烤羊肉」は同じく焼き肉である。赤身の肉ばかりをスキ焼のように切って持ってくる。なべを囲んでつつくのであるが涮羊肉でも烤羊肉でも肉の軟らかさが第一であり、もう一つは薬味である。醤油、、酒、胡椒、芝麻醤ツモチヤン(これは、ゴマをすりつぶしてつくったものである)等々とたくさんの薬味を持ってくる。自分が好きなものを各自小皿に合わせて、煮えころ焼きころの肉につけて食べるのであるが、肉の臭みなんかまるでない。私は涮羊肉よりも烤羊肉の方が好きで、一斤くらいはヘイチャラで平らげる。もっとも牛肉でも、焼肉にしてから醤油をつけて食べると、百匁くらいは食べる。だから腰をすえて食べたら、二斤くらいは大丈夫らしいが、不幸にしてまだそんなに食べたことがない。おそらく私だけでなく、だれでも味を知っている人なら、きっと口の中に唾をためているに違いないと思う。<略>

(5) 風土に生きる味ジンギスカン
           皆川洋

 東京・高円寺に、成吉思汗荘というジンギスカン料理専門店がある。ここの庭先に今でもあると思うが、蒙古徳王が使ったというパオがあった。パオとは簡単にいうなら、テント張りの建物だが、この中で食べるジンギスカンの味は、ひと味もふた味も違っていた。昔の話だが、力道山の元気なころ、誰かとの対談でごいっしょしたことがあるが、あの巨体の力道山と、パオと、そして豪快なジンギスカン鍋が実に調和して、独特の雰囲気と味を作りだしていた記憶がある。その力道山が亡くなって、もうひさしくなる。
 ジンギスカンは、羊肉をタレに浸しておいて焼く方法と、生肉を焼いてタレをつける方法がある。いずれにしろ、羊肉は独特なにおいがあるので、なんといってもタレがポイントになる。<略>今一つの特長としてはやはり鍋だ。蒙古軍の兵糧が羊肉で、それを鉄かぶとで焼いたところから、あの鍋の形が生まれたといわれているが、その真偽のほどは別として、この鍋にある切り込みのみぞは、羊肉を焼くのにうまく出来ている。そのみぞから伝わる焼いたときの余分の油は受けの部分に落ちて、いぶらず肉に臭気がつかない、その上、余分の油が流れるということは、羊肉独特の臭みを減らす効果を持っている。実に合理的に考えられた鍋といえる。<略>

(6) 成吉思汗
           篠山紀信

食――――――――――
 成吉思汗(ジンギスカ
ン)料理は、蒙古人が羊
肉を主食にしているとの
連想から 北京料理の烤
羊肉(カオヤンロー)を
日本人が名づけたもので
現在では日本独特の料理
として全国で嗜好されて
いる
 羊肉は脂が多く しか
も牛肉や豚肉より臭みが
あるなどから嫌う人もい
るが 他の肉と比べ 安
価なことと料理法によっ
ては大差なく食べられる
ことから次第に普及して
きた とくに北海道では
ジンギスカン料理が盛ん
で名物料理になっている
 烤羊肉は北京で発達し
た嗜好料理だが 今日本
各地で行われる焼肉・バ
ーベキューなどを材料は
違ってもみなジンギスカ
ン料理と同じく 原始へ
の郷愁から生まれた料理
であることに変わりない

(7) あの町この町
           永六輔

 東京 大阪 博多 名古屋 京都 松本
 倉敷 札幌 神戸 横浜 軽井沢ETC
 朝、目が覚めて「今日一日どうやって過そうか
な」と考える時があります。
 常日頃、食べたいもの、逢いたい人、 行きたい
場所がいろいろ浮かんでくるわけです。
 それを組みあわせて楽しみます・
      ☆
 たとえば、その朝が、東京であれば……
 渋谷の家を出て 地下鉄で神田へゆく。
 古本屋を歩く。
 買うのは地方に行った時にする。
 その方が安いからだ。<略>
      ☆
 たとえば、その朝が、札幌なら……
 まず動物園に行こう。
 どこよりも、ひろびろとしている。
 「サッポロビール」の工場で、
 ジンギスカン料理。
 月寒はこの次にしよう。
 北大へ行って学生たちと話をする。
 気軽に声をかけ、かけられる。
 オリンピックの工事でゴタゴタする、
 市内を早く脱けだそう。
 北海道放送の仲間を、
 積丹半島の釣に連れだす。
 知床ブームというけれど、
 シャコタンもまた良し。
 小さな海の宿が、今夜の寝床だ、
 そうか「三平」に寄って、
 自家製の漬物を少しわけて貰って……
 トラピストバターも頼まなきゃ……
 明日は日高の北野牧場へ。
      ☆
 たとえば、その朝が、金沢なら……
 たとえば、その朝が、鹿児島なら……
 たとえば、あなたの村なら……
   (あなたも行ってみたかったら、店の名前
   をおぼえて自分で探してください)
(’71/「あなたとどこかへ」『婦人公論』11月特別号、中央公論社)

(8) ひつじ
           那須仁九朗

 今年はひつじ年である。
 羊といえばわれわれにとって最も有用密接
な親しみのわく動物といえる。食肉や羊毛せ
ん維として,また皮革の用途も広く,人間と
は有史前からのおつき合いで,その効用は計
り知れないものといえよう。
 逃げるに足る脚もなければ,かくれる智恵
も持たない程従順で弱く,全く同情のわくこ
の小動物を人類の利用だけで考えるのは一寸
残酷なような気もするが,先ず食べ物では成
吉思汗料理であろうか。
 羊肉を薄く大きく切り,薬味の漬け汁につ
け,軽く焼きながら食べる。冬によく夏にも
よく,四季を通じて最近では材料も羊に限ら
ず,他の肉類や野菜を取り入れた一般家庭料
理となっている。
 昔ジンギスカンが雪原の戦に野外で真赤な
焚火をかこみ,軍勢に兜を鍋として長い箸で
羊肉を焙り焼きにして食べさせたといわれる
が,成吉思汗料理はまざまざとその光景を彷
彿させてくれる。
 お隣りの中国では,羊は古くから神聖なも
のとされているが,私も戦前戦後と,かの地
を訪れた折に,中国通の知人に連れ回されて
数千年来の美味探求の歴史の所産であるいろ
いろの食べ物にめぐりあったが,なかでも戦
前北京郊外の大きな店で,大勢で囲みながら
長い箸でつまんだ本場地元の味ともいうべき
成吉思汗料理を,興味深く味わったことはま
ことに忘れがたい。<略>

(9) 鍋もの
           長田弘、鶴見俊輔
           なだいなだ、山田慶児

<略> なだ 鍋ものというと、一般に日本古来のように考え
られてしまうというのはおかしいんだね。今日の鍋もの
は、石狩鍋にしても何にしても、商業的にレッテル化し
てその土地その土地を売り出すためのものになっちゃっ
てるんじゃないかな。鍋ものはむしろ日本の食事の形式
からは遠ざけられていたんで、ぼくが子供の頃も、農村
では味噌汁を除いて、実際に鍋ものを食べることはなか
った。
 山田 戦時中でしょう。鍋ものが普及したのは。戦後
のからでしょう。薄い薄い雑炊でね……。
 長田 思いきった粗食の工夫が、佐渡ヶ嶽親方にいわ
せると鍋ものなんで、包丁さばきにたよる料理とはまっ
たくちがう。余りものをぶちこめるものですね。
 山田 昔の農家では、魚の頭だけ買ってくる家が沢山
あった。それを鍋にぶちこむ。
 なだ そうそう農村では塩鮭を買ってくると、切り身
は少しずつ食べていき、最後は頭と骨を鍋のなかに入れ
て、長い間煮る。そうすると骨まで軟かくなるから、そ
れを野菜と一緒にして味をつけ、塩が抜けたものを食べ
ていた。
 長田 くらやみ鍋というのがあったでしょう。鍋に火
をつけて電灯を消して、めいめいが持ちよったものを勝
手に鍋にぶちこむ。何が入ってるかわかったもんじゃな
い。そんなユーモラスな鍋も、今はすっかりなくなった
ですね。生活に工夫がなくなってきて、消費しかなくな
ってきているのかもしれない。それでも湯豆腐にしろジ
ンギスカンにしろ、やっぱり鍋もののまわりにはまだ場
の楽しみがあるし、それは暮らしのなかになくしたくな
い楽しみですね。

(10) 天皇家専用三里塚牧場
          秋田菊平
 
<略> 京成電車の終点成田駅で電車を降り、省営
バスにゆられることを約四十分で海抜四十米
の三里塚下総御料牧場にたどりつく。<略>
 この牧場は現在次の動物を飼育し、それぞ
れから食料品を造つている。
   馬 約五〇頭
   牛 約七〇頭
   豚約一〇〇頭
   羊約一二〇頭
   鶏約五〇〇羽
 このほか秩父宮から寄贈を受けた孔雀が四
羽に、どこからか迷いこんだアヒルは約十三
羽。
 馬は食料には全然関係なく乗馬、馬車馬用
である。
  牛は全部乳牛( ホルスタイン、ジエルシ
ー)で、牛乳は毎日一石三斗ぐらいしぼられ
て、牧場内の製乳場へ運ばれ、設備された諸
機械で製乳し、クリームとバターをつくる。
(一石の牛乳からとれるバターは約二貫匁)
なお、ヒロヒト一家の飲料用牛乳は、十日あ
るいは二十日目ごとに約五頭の牛が貨車に積
みこまれ、皇居内に運ばれてそこでしぼられ
るのである。
 豚は牧場備えつけの肉加工場付属の立派な
屠殺場で屠殺、ハム、ベーコン、ソーセー
ジ、缶詰、クンセイなどそれぞれの製造工程
にのせられる。(これにあてられる豚の数は
年百頭)また、スキ焼などに用いるナマ肉は
二十日に一頭屠殺。
 羊は羊毛として年三十六着分をとるほか、
まるまると肥つたやつを二十日目ごとに一頭
屠殺、ペース階級にはちょっと手の出ないジ
ンギスカン料理の材料にする。
 鶏は十日目に十七羽食肉用としてつぶさ
れ、卵は一日に最低百個ぐらいは生むそう
だ。
 昭和55年は松村慎三の「ジンギスカンなべ」からです。北海道の夏で夏バテするようでは困りますが、この場合は夏、汗を掻きながら食べるジンギスカン鍋の枕詞なので、ビール抜きなのも許しましょう。松村は青森縣在住の作家で「青森縣温泉風土記」「青森縣放送演劇史」のほか、同県の民放ラジオ局RABの台本など(243)を多数書いています。
 (2)の「沙漠の真只中での強盗殺人事件」の書き手が旧陸軍軍法中尉というところか変わっています。この羊肉料理の話は死刑執行の話の続きなのです。剥がした羊の生皮を鍋代わりにして肉を煮る方法はジンギスカンの伝記の中にもあり、野生の馬を煮て食べた話でした。それからこの本の後半はシベリア抑留の体験記で、人間の本性について考えさせられることが書いてあります。
 (3)は朝日新聞OBで日本エッセイスト賞を受けたこともある秋吉茂によるコミカルなタッチの小岩井農場訪問記です。
 (4)は32年も衆院議員を務めた安井吉典の「真『地方の時代』の条件」の「農家の食肉利用促進への努力―東神楽村〝畜産加工場〟の歩み―」からです。安井が東神楽村長だった当時、農家が育てた豚を正月に食べるためブッチャーを頼み、お礼として頭を進呈し、豚の慰霊を兼ねた慰労宴に招き、豚肉を食べるのが恒例だった。しかし豚の頭はどこまでかは超難問だし、正月に集中しての肉食は栄養が偏るだけ。
 そこで村内に簡易屠畜場と畜肉加工場を設けて運営を始めた。屠畜は利用されたが、ハムやソーセージは農家にはなじんでおらず加工委託の注文が少ない。そこで羊肉も加工保存する案が出てきたところから抜粋箇所へ続きます。
 (5)は「加藤楸邨全集」からですが、元は加藤が改造社の依嘱を受けて昭和19年の夏、蒙古から中国上海まで廻った俳句紀行の「沙漠の鶴」です。「後記」によると、短歌の土屋文明、石川信雄も行を共にしており、それぞれ作品を発表しているので「併せて読んでいただければ比較対照して短歌的形成と俳句的形成の差について一興趣を覚えられることと思ふ。」とあります。
 (6)は詩人牧羊子のトーク&エッセイ集「あなたはどのメビウスの輪」にある作家大庭みな子氏と羊肉料理を食べながらの対談です。Copilotによると、出てきた料理の「仔羊のペルシャードは、フランス料理の定番で、ソテーまたはローストした仔羊にパセリなどのハーブ入りパン粉をつけてカリッと焼き上げた料理」だそうだ。
昭和55年
(1) ジンギスカンなべ
           松村慎三

 夏バテには、ウナギもいいが、なんといっても北海道らしい味覚
では、ジンギスカンなべであろう。
 脂肪があっさりしているので、食べやすく、羊肉や、つけ合せの
タマネギ、アスパラガス、モヤシなどが、よくとれるからか、安あ
がりでとにかくうまい。
 ジンギスカンの始まりは、中国風の焼羊肉かららしいが、流行し
だしだのは昭和初期。
 札幌では、精養軒が最初というが、気候風土にあって、いつか各
地へとひろまった。
 広洋としたポプラの点在する草原で、また、原生林の木かげに陣
どって、ジンギスカン鍋を突っつくなど、北海道ならではである。
 ポプラは、風除けのため、開拓使が他の苗木と共に輸入し、北海
道の風景となったが、根は、意外に広くおどろかされる。<略>
 もっとも近頃では、本道も羊肉不足のあおりで、輸入品が出廻
り、それに煙をあげない鉄なべまでみられるが、ジンギスカン料理
ときけば、やはり油煙ただよう、野の雰囲気がぴったりな気がす
る……。

(2) 沙漠の真只中での強盗殺人事件(康徳三年九月初め頃)
           田上実

<略> 家畜は、羊、馬、牛、駱駝の四種類、羊が主食ということになっている。一頭の羊は、大人三十人分である。小刀(蒙古刀と言うが、日本製)で羊の心臓を突いて殺し、仰向けにして腹を開き、その上で料理する。まな板というようなものはないが、小刀一本で手際よく処理していく。肉は、すべて骨つきのまま大きな鉄鍋で煮て食う。その小刀で、骨から肉をはずして、岩塩(砂漠の中にある)をつけて、かじる。羊肉の素朴な味がしてうまい。<略>
 日本では、この羊肉の食い方をジンギスカン料理とか言って、鉄板の上で焼いて、タ
レをつけて食っているが、それは日本人が勝手につけた名前で、蒙古にはそんな料理方
法はない。今は鉄の鍋をもっているが、昔はそんなものはなかった。それでは生肉を食
ったのかというと、そうではない。前記のように、肉と臓物をはずすと皮だけが残る。
その皮を四本の足をよせて結めば、一つの袋になる。そこへ水を入れる。しかし下から
焚けないので、石を牛糞で焼いて、それを投げ込む。水は沸騰して、肉は煮えるという
もの。
 彼等は、日本人のように、三度三度食わない。肉を腹一杯つめ込めば三日くらいはも
つ。これは、蒙古兵が二、三日演習に出るので、日本人の経理官が携帯口糧として、羊
肉の煮たものを何日分か与えたところ、彼等は、その肉を出発前に全部食ってしまった。驚いてなぜかと聞いたところ、腹につめておけば、二、三日何も食わなくとも大丈夫と
言ったということで、日本人の食生活からはわからないところがある。<略>

(3) 小岩井「ヂンギスカン料理」
           秋吉茂

<略>「いえ、当牧場産だけではとても賄えません、羊肉はオーストラリア産を輸入しています。年間に七万頭分以上は消費します。ヂンギスカン本家?などいわれますね。タレは小岩井農場特製の…はい、極秘ですから、どうか舌の上でご評価を」
 観光部主任の説明は、さすがに〝本家〟らしくデッかいが慎重だ。
 小岩井のヂンギスカンはラム(若い牡羊の肉)だけを使う。生後一年半までがラムの上肉で、それを過ぎると肉が硬くなる・タレはニンニクやリンゴ、ユズなど十三種の香辛料をぜいたくにまぜ合わせて、それに醤しょうゆと酒、みりんで味付け、二週間以上は貯蔵してじっくり熟成させる。野菜は白菜、ピーマン、椎茸、季節の山菜などみな自家生産で、量はたっぷり、もちろん格安とある。
 料理法は?もともと陣中料理だもの、『かまくら』まで運ばれたネタを、自分たちでじゃぁじゃぁ焼きながら、焼けるか片っ端から平らげる。
 ヂンギスカン料理なんて、きょう日どこの町でもあるがも、この清浄さはどこでもは求められない。飛び汁がしみた町なかの料理店で食べるのと違って、強烈なにおいも大気の中に雲散霧消して、コクのある味覚だけが舌に残る。
 羊肉ははらいとおっしゃるご婦人でも、ここでは二人前様くらい様ぐらい平チャラと豹変するのだから、ご同伴の会計方はあらかじめ覚悟しておくがよろしい。なにら、町のなかで食べるのに比ぶれば安いものさ。<略>

(4) 羊肉缶詰加工へのいきさつ
           安井吉典

<略> 羊肉を臭味なくおいしく食べる方法としては、例のジンギスカンなべがあります。味付けは醤油や砂糖などの調味料で行ないますが、とうがらしやコショウなどの香辛料、玉ねぎ、果汁等を添加したたれで臭を殺し、それにひたした肉片を独特のなべを使って火であぶるということで臭も気にならず大変おいしく食べられるわけです。私どもは以前からこの方法で羊肉を食べることを農家の人たちにすすめておりました。例えば、村の宴会を伴う行事に折箱をやめてジンギスカンをつつくやり方をしたり、畜産に関する講演会のあと出席者全員に一片づつ試食をしてもらったりしたために、部落の忘年会や小学校のPTAの集りにまでこの料理が使われ、〝東神楽名物ジンギスカン〟となっておりました。しかしジンギスカン料理はむしろ野外料理といったもので、決して家庭向きだということではできません。それで生活改善普及員は、羊肉をそのまま水煮し、それをジンギスカンのたれにつけて食べるという方法をすすめたりもしました。だからこのとき私どもの知ることのできた羊肉缶詰の話は、まことにすべての問題を一挙に解決するものでした。「そうだ。これで行こう」と、加工場運営協議会の意見も一決しました。早速、工場主任の技師が北大の研究室に勉強に行き、その足で小樽の製缶会社へ立寄り、最も簡便な巻締機であるホーム・シーマーにレトルトを注文して帰りました。<略>
                 一九五三年十一月稿

(5) 天津日記
           加藤楸邨

 天津に着くとすぐ岡勇君と鎌原幹君に連絡をとった。両君はすぐやって来てくれた。無事だったことを自分のことのように喜んでくれるのであった。篠原君気付で知世子から便りが着いていた。それによると、穂高と冬樹は集団疎開で長野県浅間温泉に行ったそうである。二人の子供からも手紙が着いていた。心身頓に活気づいた感がある。

 子等のこゑめざめて聞かず秋の風
 身に沁みて槐の下の月青し

 夜、幹君に案内されて天津の旭通に出てみた。目立って日本人が多いので、日本に近い感じが深かった。そしていきいきした果物に目を奪われたのであった。

   灯の下の棗を見つつつまずきぬ
   大いなる柘榴の灯色いぶかしむ
   爽やかに流るる雲へ歩くなり

 十月六日。晴。岡君に誘われ旧城内へ出かけ、烤羊肉を食う。柳の薪を焚きながら大鉄板の上で香菜と共に烤くのであった。

   焚きたつるね烤羊肉の火色よし<略>

(6) 大庭みな子さん
     食べることは活きること
           牧羊子

<略>牧 最近の日本人は、食物に対して敬虔な気持が欠けてきているんじゃないかしら。
大庭 それは、戦後からね。高度成長以後はとくにひどくなってきたけれど。
(仔羊背肉蒸焼ペルシュー野菜添が運ばれてくる)
大庭 おいしいわ、これ。
牧 このソースは、仔羊の料理のあとのだし汁ね。以前焼いたものに、ただ塩をしたのを食べたけれど、それもとてもおいしかったです。大庭さんはいろいろ旅をされて、羊の料理などを食べませんでしたか?
大庭 回教の国を旅した時に、羊をふんだんに食べましたよ。こんなに洗練された味じゃなかったけれど。
牧 回教国の料理は、羊を使ったものが多いですね。中国では北京で食べられます。烤羊肉とか涮羊肉など。ジンギスカンとしゃぶしゃぶですね。
大庭 牧さんは、羊のお料理をする時、何をお使いになりますか?
牧 やっぱり、タイムとかローズマリーとかを使いますが、わたしたちが手にする羊の肉は、くず肉じゃないかしらと思いたくなるくらい、おいしくないのね。ああいう肉ばかりを食べるから日本人はますます羊を嫌いになるんじゃないかしら。大庭さんは、こんなにおいしい肉にあたったこと、ありますか?
大庭 たまにしかありませんね。わたくしは外国で覚えた味に近づいた味を出すために、クミンというのを使っています。意外にあうんですよ。
牧 わたしもトライしてみるわ。料理に邪道なんてないものね。おいしければ、それでいいんじゃない?<略>
 昭和56年の(1)は雑穀の「粟」。作家草川俊が北京の有名店で烤羊肉を食べたとき、必ず粟粥がついていたという思い出です。これは草川が「農林水産省広報」に連載した「雑穀物語」で西来順の描写は簡単ですが、3年後に出した単行本の「雑穀物語」では「直径一メートル半もあろうという丸い鉄板が、煉瓦積みの炉の上に、でんと乗っかっている。炉の周りに、幅五寸、長さ三尺ばかりの厚板を打ちつけた腰掛け様のものが、いくつか配してあった。これは椅子ではなくて、足をのせる台なのである。烤羊肉は立つたまま食べるので、この腰掛けみたいな台に片足をのせ、長い竹箸を手に少しばかり前かがみになると、鉄板上のほどよく焼けた羊肉が、うまい具合いにはさめるのである。」(244)などと詳しくなっています。
 (2)は北大構内にあった楡影寮のOBたちによる同寮OB会誌「「オバンケルの息子たち」にあるジンギスカンのタレの思い出です。ドイツ語で叔父、伯父はオンケルというが、学生用語では年長者ぐらいの感じでね、それで同寮の寮生たちは、まかないのおばさんこと井林ミネさんと安保きよさんの2人の尊称としてオバンケルと呼んだ。
 昭和44年卒の福井隆之さんの当時の食費は「恵迪寮=九十円(一日)、楡影寮=百六十五円?(一日)」で、その乏しい食費をやりくりして「月に一、二度ジンギスカン料理をひねり出してくれて、寮生の栄養状態を保ってくれたオバンケルには感謝の言葉もない。(245)」と書いています。
 また、昭和42年卒の尾見仁一さんは「麻雀の最長不倒記録を作ろう」と30数時間も卓を囲み「その後で食べたジンギス汗のうまかったこと。ビールの酔いも手伝い、タレの味もまた格別のものでした。今もってあのジンギスカンのうまさは忘れられません。ぜひあのタレの作り方をお教え願いたいものです。子供たちにも味わわせてやりたいと思っています。『これが、親父が学生の頃お世話になったオバンケルの味だよ』と伝えたいのです。(246)」とレシピ伝授を懇願しています。
 卒業してから10余年、今一度懐かしいオバンケルのタレでジンギスカンを食べたみたら……ソクラテスじゃないが「空腹は最高のタレ」だったんだなあ。
 (3)は安達巌がまとめた「日本食物文化の起源」にあるジンギスカン関係3項目です。
 (4)は作家の中里恒子の随筆です。「不意に、私が北海道のひと里はなれた有珠まで来て、バチェラー八重子さんに会った」(247)あと、札幌に行き、グランドホテルで阿寒と釧路で約100羽のタンチョウがいるという道新の記事を読み、すぐ釧路に向かい阿寒の原野ほ30分ほど歩き回って20羽ほどのツルを見て「阿寒まで来た冬の旅に、私はようやく満足した。そして雪国のよさは、やはり冬季の風物のなかにこそ、本当の姿があると思う。」(248)と書いているが、どっさり積もった玄関の雪除けをしたときとか、原野の雪道で車が立ち往生したとき、初めて雪国の本当の姿がわかると申し上げたいね。
 (5)は北海道編「新北海道史」第1巻に出てくる唯一のジンギスカン料理です。これは農学部の高倉新一郎教授の著作を集めた「高倉新一郎著作集」第1巻454ページからの「統制と農牧業」と同文だから「新北海道史」の編集長だった高倉さんが書いた箇所とですね。高倉さんは後に北海学園大の学長にもなられました。
 脱線だが、私が入学したとき、高倉さんは学生部長だった。学生部には学生課と厚生課があり、下宿斡旋とかアルバイト紹介は厚生課、その他もろもろの窓口が学生課。私はもっぱら厚生課にのお世話になったが、学生課には元気が良すぎて1回始末書を書かされたなあ。ハッハッハ。
 (6)は昭和52年4月から3年間、北京で日本大使館員の夫と男の子2人と暮らした柏崎雅世さんが書いた「遙かなる北京の日々」からです。烤肉季という店の烤羊肉がお気に入りだったようで、同店での合理的な食べ方指南になっています。
 中学生のとき北京に住んでいたという元毎日新聞北京支局長、石川昌氏は「北京特派員の眼」に烤肉季について次のように書いています。
「涮羊肉の話が出れば烤羊肉のことも触れなければならない。有名な店は以前は潞泉居と呼んだ烤肉季カオロージ。北海公園の裏側什刹海にそったところにあるが、付近は古い北海の面影を残したところだ。私はむかしこの近くに住んだことがあるので、味を楽しむと同時に、郷愁を満足させたものである。」(249)
 (7)は昭和25年末、道立種羊場に入り道南農試へ転勤するまで21年余滝川勤務だった近藤知彦の「羊肉加工をはじめた頃」です。旧病畜舎を使い、乳加工室、肉加工室、燻煙室などを設けて畜肉加工ができる体制を整えて加工研究が始まりました。
 昭和33年に道立種畜場と改称したが、そのころ近藤さんたちが作っていたコーンドマトンの缶詰のラベルの写真が同書52ページにあります。
 (8)は、ずしりと重い大判の「日本大歳時記」です。カラー図説という副題の通りジン鍋のほか、寄せ鍋、ちり鍋、鮟鱇鍋、石狩鍋のカラー写真5枚が隣の121ページにあります。北海道のカスベ形をした鍋を使い、大きな肉片を7、8枚を丁寧に拡げて焼き面全体に張り付け、周環に輪切り玉ねぎとアスパラが少し置いた写真です。
 (9)は臼井武夫の本「北京追憶」から、本場の烤羊肉とわれわれのジンギスカンの違いを取り上げました。「後記」によれば、臼井氏は住友銀行北京駐在員として昭和15年から21年まで北京にいて「古書古地図の渉猟に努める外、業務の間寸暇を割いて北京と、その周辺を歩いて回った。華人同様の服装をして、遠郊を除きほとんど徒歩で見て回ったのであった。」(250)と「後記」にあります。中国の烤羊肉と違ってこその北海道遺産ですよね。
 (10)は昭和53年にモンゴル国を訪れた作家伴野朗の見聞記です。首都ウランバートルの駅に降りたら、迎えに来ているはずの日本大使館員Mさんがいない。実はモンゴル外務省のAさんと来ていたのだ。Mさんが伴野さんを見て、あの人でないかといったのだが、Aさんが断乎として「いや、違います。あの人は、わが国の人民です」というので声がけをためらっていたのだという。
 さらに帰国後、作家の陳舜臣さんにこの話を聞かせたら、陳さんは即座に「君はモンゴル系の顔ですよ」と太鼓判を押したので「なんとも、複雑な気持ちであった。」(251)そうだが、本当にジンギスカンの末裔かも知れませんね。
昭和56年
(1) 雑穀物語 粟
           草川俊

<略> はじめて粟粥がゆをすすったのは北京だった。晩秋から冬にかけて烤羊肉(かおやんろう=ジンギスカン鍋)がうまくなる。王府井は戦前から北京の繁華街で、近くの東安市場のなかの東来順とんらいしゆんと、西単牌楼しいたんぱいろうに近い西来順しいらいしゆんが、烤羊肉の双璧だった。東来順の方はいつも混んでいるので、日本人の少ない西来順が静かで私は好きだった。
 烤羊肉は野外料理が本式である。西来順でも烤羊肉の部屋は二階にあって、天窓が大きく開いており、煙が外へ出る什掛けになっていた。大きな天窓には、星をちりばめた晩秋や冬の夜空が、いっぱいに広がっていた。
 烤羊肉は野外料理が本式である。西来順でも烤羊肉の部屋は二階にあって、天窓が大きく開いており、煙が外へ出る什掛けになっていた。大きな天窓には、星をちりばめた晩秋や冬の夜空が、いっぱいに広がっていた。
 スライスした羊肉や肝の空き皿を重ねながら、ひっきりなしに高粱洒の杯を口に運ぶ。満腹し、酔いも適当に回ったところに運ばれてくるのが粟粥である。小ぶりな茶碗に、あたたかい黄色い粟粥が盛られていた。脂の多い羊肉をたらふく食い、高粱洒でただれた胃の腑が、粟粥をすすると、すっきりと落ちついてくる。ほのかに甘く、とろりとした粟粥は恰好のデザートで、私は何杯もお代わりしたものである。
 これが中国の栗と初めての出合いである。後で、烤羊肉のときは、きまって粟粥が出されるものと知ったが、いつもお代ぎわりするほど好きにだった。<略>

(2) 「逃口上」
           編集請負人

<略>   *   *   *
 椿君の十二月の撮影旅行の折に、オバンケ
ルから編集請負人にサラダオイルの容器に入
った「おみやげ」が託されて来た。醤油に大
根おろし・唐辛子・ゴマなどらしき浮遊物が
漂ったシロモノ。かのジンギス汗鍋のタレで
ある。「おお、これぞ!」と欣喜雀躍、さっそ
く賞味させていただいた。ところが甘い。甘
すぎるのである。どうしたわけか? オバン
ケルの調味に狂いのあるはずがない。とする
と、ひとの味覚はその年齢によって変わるも
のなのだ、と考えずにおられないのであった。
青春の生理は甘みを渇望していたが、中年の
生理はもはやかの甘みを受け付けないものにな
ってしまっているのではないか?
 そこで、編集請負人は、OB諸氏にこの真
偽を問うべく、オバンケルに、タレの作り方
の秘伝を本書で公開させてくれるよう手紙で
要請したのだが、残念ながらいまだにその返
事は届いていないのである。 (中村公省)

(3) 細説
           安達巌

 鍋(なべ) 英 ポット pot
 上代のナベは土ナベであったが、金属製のナベは崇峻
天皇元年(五八八)に百済の鉄盤博士将徳白が来朝して
その製法を伝えたものである。このナベの義は「魚瓮」
(なへ)だというが。『倭名抄』(九五〇ごろ)は、金属
製のナベを禾反奈閉しかなべと称し、瓦製のナベをるつぼと称して、
区別している。
 また『和漢三才図会』(一七一三)は「鍋には三つの
小さな足と臍があり、耳のあるのとないのがある」とし
ている。しかし今は両者ともないものが多い。
 これによって金属製の鍋は中国で生まれ、それが朝鮮
経由で六世紀に伝来したことがわかる。
(古墳時代)(252)

 羊肉(マトン) 英 マ(ッ)トン matton
 羊肉はマトンのこと。これが伝来したのは明治初頭で
あった。羊肉は羊の成長にしたがって三階級に区分され
る。生後一年未満がラム、一年半未満がフオゲット、そ
れ以上がマトンであるが、仮名書魯文の『西洋料理通』
(一八七二―明治五年)は羊肉を「モットン(綿羊)、
マットン(綿羊肉)」に二分して紹介している。この羊肉
の厚切り焼きがマトン・チョップであり、このパイがマ
トン・パイであるが、ビーフやポークが日常語化したの
に対してマトンはいまなお一般になじまれていない。
 クラッセの『日本西教史』をみると「日本人は牛肉、
豚肉、羊肉を忌むこと、我が国人の馬肉におけるに同
じ」としているが、これは事実ではなく宗教戒律のため
であった。ところがその戒律が空文化してもマトンが日
本人社会に浸透していないのは一つの謎という外ない。
しかし食肉加工品には多くのマトンが使われている。
(徳川時代後期及び明治初期)(253)

成吉斯汗料理(じんぎすかんりょうり)
 成吉斯汗料理は北京料理の羊肉の付け焼料理をさす。
蒙古風の野宴料理であるが、これは日本人が北方民族の
野宴を想定して付けた呼び名であって、これが東京を中
心に流行したのは満州事変(昭和六年-一九三一)か
ら、支那事変(昭和一二年-一九三七)に至る短期間で
あった。
(現代)(254)

(4) 北の空への冬の旅
           中里恒子

<略> だいたい北海道は、海産物の土地柄だけに、地の魚は仲なかうまいものがある。釧路でうまかったのは、毛がにと、シシャモで、どちらも素朴な、手をかけない食べかたが一番だ。カジカの味噌汁。鮭すじ、にしん漬け、いずれもローカルカラーがある。
 牡丹エビは、身がやわらかく、伊勢エビ、車エビに適わないが、ホタテ、ホッキ、などの貝は、荒海に洗われるせいか、やわらかく緊って味がよい。羊も本場だが、近年は、東京でも仲なかうまいジンギスカン料理があるので、毛がにのように、そのものずばりで感心するわけにはいかない。――
 北海道と言えば、すぐ炭坑、酪農という代表的なものがある。短時間、その方面も見物したが、一介の旅びととして、私の心に残ったのは、なんと言っても、有珠コタンのバチェラー八重子さんであり、阿寒の鶴であった。――
 年の瀬のひとの忙しがっているときに、悠悠閑閑と、阿寒まで、何日かかかって鶴を見に行ったということも、私の生涯に忘れられないことである。……そして、こういう日常ばなれのした時間のなかに、一緒の情熱を感ずるのも、非現実のような旅の人生のおもしろさであろうか。

(5) 統制と農牧業
           高倉新一郎

<略> 畜産物は軍用資材として、以上の外に兎毛皮、鶏卵等の増産確保が望まれたが、注目すべきは軍用の羊毛・羊皮だった。
 緬羊は幕末すでに函館官園で飼育され、開拓使時代には札幌や函館付近で大規模に飼育されたが、いずれも不成績で、民間飼育は後を断っていた。しかし、わが国の生活が洋風化するにつれ、ことに軍隊などでは多量の羊毛が必要であり、ほとんどそれを海外にあおいでいた。しかし種畜場等では研究を断たず、ことに農林省月寒種羊場・滝川種羊場等において試験を続け、飼育および加工の指導をおこなっていた。昭和九年輸入が窮屈になりはじめると。増産計画をたて、農家に副業として小数の緬羊を飼育せしめ、その毛皮を集め、一時は約四万頭の飼育をみるにいたった。
 最初は毛・皮の集荷のみちがなく、農家の子弟にホームスパンを教えて自家用にあてたが、日華事変後一般衣料が窮屈になるとそれを補うために飼育するものが多くなった。なお、肉利用のために、大陸の羊肉利用からヒントを得た羊肉を焼きながら食う成吉斯汗鍋は、食料に乏しい時代に歓迎され、いご北海道名物の一つとなった。<略>

(6) Ⅰ 中国料理
           柏崎雅世

<略> バービーキューブのお店「烤肉季」はこれまたおおらかで、野趣にあふれたレストランです。解放前、別荘が建ち並んでいた什刹海シサハイという湖に面しており、夏には湖面をなでる柳、冬は人々のスケート姿などを眺めながら食べることができます。ここでは途中をとばして烤肉だけとしない方がむしろいいようです。というのは、バーベキューで食べる羊肉は非常にあっさりしていて、それだけだけではなかなか満ち足りるわけにいきません。また鉄アミが乗った大きな炭火の炉は、湖の見えるバルコニーに設置されていて、屋根と風よけ窓がついています。バーベキューは暖かい季節には長くいるには暑すぎますし、寒い季節には体は炭火で温まってくるものの、足元は相変わらず冷えたままでやはり長くは立っていられません。まずは室内で冷菜から始のり、適当な回教料理の何品かエンジョイして、最後の仕上げにバルコニーに出てバーベキューを味わう、これが一番です。
 鉄炉の横にはしょう油につけた薄切りマトン、生玉子、香菜、にんにくの蜂蜜づけなどが並んでいます。玉子をといて羊肉をつけ、網に乗せる人もいれば、焼いた羊肉を生玉子につけて食する人もいます。油を全然使いませんので、あっさりしていていくらでもお腹に入ります。この羊肉にはにんにくの蜂蜜づけがまたピッタリです。ラッキョウのような感じで食欲を一層増進させてくれます。<略>

(7) 羊肉加工をはじめた頃
           近藤知彦

<略> 羊肉加工のねらいは、吉田場長らが、当時余
り適切に利用されていなかった老廃羊を活用し
ようということと、これからのめん羊は羊肉の
生産に向うという先見によるものあった。
 私は、北大の橋本先生のところに通い、缶詰
製造の手ほどきを受け、場内の廃羊を材料にし
て各種缶詰の試作を行なった。
 その結果、大和煮、味噌煮、コーンドマトン
の3種類を主に製造した。その中で、コーンド
マトンが好評であった。
>  缶詰のほか、寄せハム、ソーセージ、もも肉
の燻製などいろいろ試作も行なった。
 一方、羊肉の調理の指導も盛に行なわれた。
当時、羊肉は臭くて食えないものと思いこんで
いる人が多かったので、正しいと殺解体法の指
導にはじまり、ジンギスカン料理、羊脂を用い
たカレールーの作り方など、全道各地の講習会
にも出席した。こういう状況が昭和30年代まで
続き、ジンギスカン料理が全道に広く普及した
のはよいが、めん羊を減らす一因になってしま
った。

(8) 成吉思汗鍋
        三冬    ジンギスカン鍋
              成吉思汗料理
【解説】モンゴルから伝来したように思われていて、
そのため蒙古帝国の創設者成吉思汗の名を取って呼ば
れる。羊肉を独特の鍋に野菜といっしょにのせて焼
き、たれに浸けて食べる。鍋は中央が兜状に高く、
脂が流れ落ちるように縦に幾筋も溝があるというのが
多い。肉を焼くと脂が飛散するので紙エプロンをかけ
て食べることもある。煙がひどく、屋外で食べる方が
よいので、観光地などでは野外の夏向きの料理になり
つつある。             (森田 峠)
 成吉思汗鍋に身火照り冬夜宴     野見山朱鳥

(9) 烤鴨子と烤羊肉
           臼井武夫

<略> ここで、日本のジンギスカン料理との相違を述べたいと思う。
 第一に、羊肉は、厚い切り身や、塊りではない。日本のふぐの刺身の様に、ごく薄く切られなければならぬ。正陽楼や東来順には、薄刃の包丁で、紙のごとく薄く切る達人が名人芸を見せている。日本にはこの様な名人は一人もいない。普通の肉片と厚さが違うのである。まして、チョップの様なものは問題にならない。
 第二に、マリネ(仏語、羊肉等の臭いを消す為に、油に玉葱や蒜等の微塵切りを混ぜたものの中に肉片を漬けておく料理法)の方法が特殊である。これには<香菜>という中国特産の野菜を使う。これは日本ならば「みつば」の様な特殊な香気を持つもので、その微塵切りは羊肉独特の臭気を消すと共に、よき香りと味を加えるものである。香菜はこの頃では、横浜の南京街等で入手出来る様になったが、日本人には好悪があって普及はしない。然しこの香菜なくしては烤羊肉は成り立たない。
 第三に、本格的燃料としての白松がある。これは、その煙によって、羊肉に独特の香気をつけること前記の通りである。そして、この燃料は日本にはない。(白松は少ないから中国でも他の薪が使われるらしい)
 第四に、白乾児がある。日本の焼酎では白乾児の代用はできない。
 烤羊肉は俳句の季題で言えば「冬」のものである。北京の冬は酷寒である。食べるのは室内ではない。中庭とはいえ戸外である。食べ始めるまでは、外套の襟を立てていても寒いくらいである。<略>

(10) モンゴルの羊たち
           伴野朗

<略> モンゴル人は、驚くほど 顔つきが日本人と似ている。だが、
ものの考え方、習慣は、雪と墨ほどの違いがある。
 われわれの文化は、中国伝来の農耕文明であり、彼らのそれは、
中国文明を拒否した騎馬遊牧文明であることの違いである。
 われわれの財産としての所有感覚は、土地である。だが彼らに
その感覚はない。彼らの財産は、家畜である。従って土地――モン
ゴルの場合は草原――は、自分たちの財産である家畜が草を食べ、
排泄作用をし、成長する場に過ぎない。
 モンゴル人の主食は、羊である。都市では最近は多少食生活に
変化が現われているというが、地方では原則として、野菜や穀物は
食べない。秋口から冬にかけては、羊の肉を食べる。冬の野外は
天然の冷蔵庫だ。必要だけ殺して食べる。
 春先になると、人々は体調の変化に気づく。よくしたもので雪
の消えたあとにも草が芽をふく。家畜は、若草を食って良質の乳
を出す。このころから秋にかけて、チーズ、ヨーグルトなどの乳
製品が主食となる。食事の時は、それこそ山のような乳製品をもの
すごい勢いで平らげていく。
 一年がかりで体調を整えるのだという。
 羊の肉の料理法は、水炊きにすることが多い。彼らは羊肉を焼
いて食べる習慣はない。理由は、胸が焼けるからだという。「ジン
ギスカン料理」の本場と思われたモンゴルに、実はこの有名な焼肉
料理 は存在しないのだ。中国・内モンゴル自治区や華北地方の「烤
羊肉 カオヤンロウ」が、日本のジンギスカン料理の故郷であろう。<略>
 昭和57年の(1)はプロレタリア文学の作家、山田清三郎の「私の生きた明治・大正・昭和史」の「四の章 昭和(中)の巻」。いつからの連載か遡って数えたら29回目でした。山田ら満洲に住んでいた作家たちが新京で開いた川端康成と作家高田保の歓迎会の様子です。これは前バージョンの講義録「新京のジンギスカン料理店の元祖はカフェーだった」でも取り上げました。
 「満洲国各民族創作選集」は2回発行されたが、作品の後ろに作者の略歴、役職などが書いてあり、山田の作品「老宋」のそれによると、京都生まれで昭和14年に満洲に渡り、このとき満洲新聞論説委員で満洲文芸家協会委員長(255)などを務めていました。歓迎会の司会をした吉野治夫は大連生まれで早稻田仏文卒で満洲日日新聞の記者(256)でした。
 川端は「満洲国各民族創作選集 2」の「第二巻序」で「満洲国の日系作家の作品には、これを満洲国の文学とすべきか、少し迷う場合も生じるが、大体常識の便宜で判断してゆくことにしたい。」(257)として、牛島春子、竹内正一、檀一雄の作品の区分けした例を説明しています。
 (2)は宮本輝が昭和53年から57年まで「別冊文芸春秋」に連載した「青が散る」7回目からです。主人公の椎名燎平は新設されたばかりの大学に入り、金子慎一と2人でテニス部をつくり、コート造りもやり遂げる。戦力増強を図り高校テニスで活躍した安斎克己と貝谷朝海を入部させ、知り合いの別の大学の野球部員ガリバーの両親が経営する中国料理店善良亭で食べまくるシーンです。
 「肉の炒め物を大皿に盛って」というから、客に焼かせずガリバーの親父が中華鍋で炒めて出すやり方ですね。作者宮本は大学ではテニスに打ち込んでいたそうだから、その部活体験を生かした作品でしょう。
 (3)は詩人草野心平の講釈。草野は昭和31年に訪中文化使節団員として戦後初めて中国を訪れ、本場の羊肉料理を食べてきて「普通ジンギスカン焼きというのは烤羊肉カオヤンロウの真似で、ジンギスカン鍋というのは涮羊肉ソワンヤンロウの真似である。どっちも羊の料理としてはポピュラアなものだが、東京のは真似ものの域を出てないので、烤羊肉とはいえない。もっともカオヤンロウといわずにジンギスカン焼きというのだから、カオヤンロウとは別個な、日本料理の一つと考えているのかもしれない。」(258)と書いたが、その通り、ジンパと呼んでも同様と認めますよ。
 「鉄板は平面、火力は必ずマキ、材料は肉とネギとしょうゆだけ、そして立ち食い。(259)」でなけれはカオヤンロウではない「ニッポン料理」だと草野はいうが、私はいいじゃない、いい傾向だといいたい。
 いいですか、甘い羊羹は中国で羊料理を食べた坊さんが、羊のいない日本に戻って再現しようとして作った菓子というのが定説だが、いまだれも中国の羊料理の真似だとは思ってもいない。「ニッポンの菓子」になっているからだよね。
 気の早い北海道遺産協議会は、20年前にジンギスカンは北海道遺産だと認めた。もう10年もしたら、鮨同様、グローバルな料理になるかも知れん。そのときこそ我がジンパ学の成果がお役に立つのだ。はっはっは。
 (4)は道産子の元陸軍中将、有末精三著「政治と軍事と人事 政治と軍事と人事」からです。北支那方面軍参謀として有末大佐が北京にいたとき、日本軍占領下で作られた臨時の行政機関、新民会の斉燮元治安部長に招待された。
 ジンギスカンを食べながら白乾兒を飲み、酔った斉部長は寝そべって王翰という詩人が作った「涼州詞」を吟じた。中国語の詩を聞かされた有末さん、どうして王翰の七言絶句だとわかったのか。字なら読めるし意味もわかるから、後で手帳にでも書いてもらったんでしょう。
 (5)は「日本人の生活と文化」にある相模女子大の高松圭吉教授と学生が十勝の大樹町でジンギスカンで歓迎された話です。
 民俗学の宮本常一の跡を継いで日本観光文化研究所長でもある高橋教授は、研究として殺したての牛タンを食べてみたら「その硬さとまずさに呆れたことがある」(260)し、魚も同様かたくて「瀬戸内海沿岸を一週間も旅してくると歯ぐきが痛くなることを感じる」(261)のに、大樹の羊肉は殺したてでも硬くなかったのは「羊肉は組織粗なる為め之が調理上他の獣肉に比し時間を要せず」(262)と山田喜平が書いたように羊肉の特質だと思うが、どうかな。
 (6)は酒の「あて」の1つにジンギスカンがあったというだけですが、珍しい集団実験の話です。飲んだ後の醒め方に個人差は意外に大きく、ビール1本なら1時間はダメといった「酒量に応じた時間の基準を示すことはできない」から「各人ごとに飲酒後の時間経過に応ずる呼気中のアルコール分含有量を測定し、その基準を自身で把握させ」「飲酒運転防止の意識付け」を狙って免許所有者200人の測定実験を企画したら「自衛隊創設以来始めて」(263)で風船などの測定機材の予算は認められたが……。
 筆者桑江氏は沖縄出身、終戦時は南洋メレオン島駐在の陸軍中尉、昭和27年警察予備隊に入り昭和51年まで第1混成団長、陸将補で退官。本を出したとき沖縄県議でした。
 (7)は昭和25年、北大法文卒の重森直樹の本からです。元国鉄マンで札幌ターミナルビル専務になり、北海道の食べ物だけてなく、いろいろ健筆を振るった先輩です。羊肉については「昭和十八、九年頃だったか学生時代」に友人が持参した羊の肉をジンギスカンではなく「すき焼みたいにして食べた」(264)ことがあるが「すき焼風にしたせいか、羊か発情期にあったせいか、肉の匂いがあをくさくそれほどおいしいとは思わなかった。」(265)と述懐してます。
 重森は松尾ジンギスカンは「朝鮮料理の焼肉料理の調理法を羊の肉に応用したもので、なるほどという理にかなったものである。」といい「羊の肉の特殊な匂いが気になる人は『松尾ジンギスカン』の方がいいだろうし、羊の肉そのものの味を味わう人は『ビール園』型の方がいい。」(266)と書いています。
 (8)の筆者は当時の信州新町美術館長で、信州新町がまだジンギスカン街道として売り出す前の話です。私は平成30年春、ロストル鍋を使っているこの町の元祖ジンギスカン荘、同年秋には同県上田市の千曲市のジンギスカン万蔵にも行き、それぞれ鍋の測定をさせてもらいました。
 それで翌31年、溝口ジン鍋博物館長と両店を訪ねて再調査するはずでしたが、私がアキレス腱を切って出来ず、1年延期したらコロナ流行となり、それっきりになっています。おっと、新町美術館のことですが、長野から行くと元祖ジンギスカン荘は同館より500メートルぐらい手前にあり、ちょうど戻りのバスがきたので絵画拝見はせずに戻ったという次第。ふっふっふ。
 (9)は苫前町内の戦後の緬羊の歴史です。開基100年に当たる昭和55年完成を目指して町史編集に着手、資料集を4冊を先に出し、同57年に最後に町史を出したと「あとがき」にあります。町内の緬羊頭数は道内の緬羊頭数と同じ増減をたどったことがわかります。
 (10)は札幌の天使女子短大の杉山佳子助教授による「ふるさとの家庭料理」からです。このほかイカ料理、カニの甲羅焼、サッポロラーメン、三平汁、シシャモ料理、ニシン漬けなどの作り方も書いてあります。イカ料理には「イキのいいイカは、そのまま刺し身にして食べるのが最高であるが、細長く切って丼に入れ、酢じょうゆで食べるイカそうめんも格別である。」(267)とあります。
 友人の元新聞記者は昭和40年まで函館に5年勤務したが、イカそそうめんはなかったというので、私が調べたところ、昭和54年版の「北海道年鑑1979」の「味覚」の項に、スルメイカの「秋イカと呼ばれるのはこの南下群で、体も大きく、肉も厚い。刺し身やイカそうめんは最高の味。」(268)が最も古い記載例でしたから、昭和40年ごろまでは、2枚に下ろた身を極く細切りした刺し身はあっても、そうめんとはいわなかったんでしょう、脱線でした。
昭和57年
(1) 私の生きた明治・大正・昭和史
           山田清三郎

<略> 話はかわって、それは一九四一年(昭和一六年)四月のことであった。作家の川端康成と劇作家の高田保が、たずさえて新京にやってきた。二人は満州から中国の華北への旅を志し、まず新京を訪うたのであった。
 二人のために、満州の文芸団体文話会と政府弘報処が共催、城内の康徳福飯店で歓迎宴をひらいた。屋上に出て、平たい大鍋の下に薪を燃やして焼く蒙古料理の成吉思汗鍋は、分厚な羊の肉を、いかにも原始的に味わせて、客たちをよろこばせた。
 二人を主賓に集ったのは、新京在住の文芸団体文話会員、政府弘報処の役人、協和会中央本部文化関係者など四十人ほどで、文話会員ではつぎの名がかぞえられた。
<略>
 それが特異の味覚とされていた煙の匂いをしませて、薪の燃え火に肉をあぶり、立食いする成吉思汗焼きのあと、席は卓をかこんでの成吉思汗鍋にうつった。このとき、吉野治夫の司会で、型のような宴席のコースがはじまって、しょっぱなからわたしは何かしゃべるように指名された。<略>一応わたしは儀礼的な二人の遠来の労をねぎらったあと、わたしは二人が、満州の各民族の文学に温かい理解を寄せてくれること、そしてその育成を刺戟し奨励するためにも日本ヘ紹介する労をとってもらいたいことを真剣な表情で望んだ。<略>

(2) 檸檬とフィアンセ
           宮本輝

<略>四人は黙々とビールを飲み、餃子を頬張った。ガリバーは出前から帰って来ると、すぐに休む間もなく、次の出前に出て行き、また戻って来てカウンターの中に入り、それから今度は岡持を両手に下げて駈け足で路地に出た。
「おい、燎平、戸を閉めてくれ」
 ガリバーはそう言い残して、どこかに消えて行った。
「安いけど、ここの餃子はうまいがな」
 安斎はいつもよりビールをたくさん飲んで、目元を赤くしたまま言った。
「そら、善良亭やがな。ひたすら薄利多売で味自慢の善良亭や」
 註文もしていないのに、ガリバーの母親が肉の炒め物を大皿に盛って運んで来た。
「こんなもん、頼んでないでェ」
「うちの自慢のジンギス汗や。ちゃんと予算の中に入れてあるから心配せんと食べなはれ」
 ひと口食べて、貝谷が首を傾け、感に堪えぬといった口ぶりでつぶやいた。
「うまい。これは何の肉やろ。俺、こんなうまいもん、食べたことないなァ」
 するとガリバーの父親が、カウンターの中で鍋をかき廻しながら言った。
「羊の肉や。うちのジンギス汗焼きは最高でっせェ」
「餃子をもう二人前」
 と金子が鼻の頭にいっぱい汗を噴き出して叫んだ。
「くそォ、きょうは食うて食うて食いまくったる」
 そう言って、貝谷がせせら笑いをしながら、羊の肉を頬張った。目を細め、いつものふてくされた表晴で、コップの中のビールをひと息にあおった。<略>

(3) ジンギスカン料理
           草野心平

<略>  「蒼き狼」の主人公、ほんもののジンギスカンもこの料理をたべただろうが、それをだれもがジンギスカン料理とはいわなかった。ところがこの「ニッポン料理」もギョウザに次いで、今やニッポン全国にひろまりつつあるようだ。
 現に私たちバア「学校」の従業員と常連とがジンギスカンを食う修学旅行をやった。そして私自身はいま、そのジンギスカン料理のA荘がよく見える飯能のT荘に一人とぐろをまいている。<略>
 羊料理にもずいぶん色々あるだろうが、よく知られているのは烤羊肉(カオヤンロウ)涮羊肉(シユワンヤンロウ)、前者は熱火焼き、後者は水炊きである。近来ブームになりかけているのは、どうやら前者らしい。
 A荘でたべた烤羊肉の場合はこうだった。炭火(ガスのところもある)の上にマンジュウ型の鉄板をのせ、それに肉や白菜やサツマイモやホウレン草、ネギなどをのっけ、しょうゆに何かまぜたタレをつけてたべる、というぐあい。
 本場で何度も私が経験した記憶では、鉄板は平面、火力は必ずマキ、材料は肉とネギとしょうゆだけ、そして立ち食い。もうもうと煙にむせながら肉を食い、白乾児(パイカル)をのむ。ただそれだけである。それは料理をつっつくというよりは原始をなぶり食いするといった按配である。さんざん凝りに凝った料理の林立のなかでこんな単純な方法が、いまだに守られているのは興味がある。<略>

(4) 二 北支時代思い出の人々
           有末精三

<略> 北京の春もよいが秋はまた格別、澄み渡った秋空の名月こそ、むかし安倍仲麻呂が郷愁を詠ったのも、さこそと偲ばれる。中秋の一夕、斉燮元将軍に招かれてお庭でバイカル(ウォッカ)を飲みながら成吉思汗焼羊肉を御馳走になった。遠征の後凱旋した昔の将軍が煙を避けるため、野外での野宴だと説明されながら痛飲、斉将軍は酔う程に六尺の巨体を横えて大吟して、
 葡萄美酒夜光杯 欲飲琶琵馬上催
 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回(王翰)
 斉上将は歴戦の将軍、東洋の武将の感覚を地で行ったこの光景、北京の秋の夜とともに私の脳裏に去来する思い出の一つである。<略>

(5) 開拓地の食事
           高松圭吉

<略> われわれは昼すぎに着いて、その緬羊が大きな体で遊
んでいるのをみてから周辺のむらをみて歩いたが、夕方
食卓というより囲炉裏のふちに座ると、それがジンギス
カンの用の肉になっていた。
 そこで食いも食った。二二、三の若者二人と当時四〇
歳の私とそこの人とが大きな緬羊一匹をほとんど食って
しまった。ご婦人たちへの分け前は、それぞれに一人前
程度で、飲んで食って、そのまま就寝したが、翌朝肉を
入れてあったバットという羊かん流しというか、ホーロ
ーの大きな器の底に五センチ程の脂が固まっていた。
 草原を駆け廻り、自然に育ったものはうまいものであ
る。
 ところで、当時今のように焼肉のタレというものはな
い。醤油に酒と砂糖をぶちこんでひっかき廻し、それを
ざっぷりと肉にかけた程度である。
 さて私は、後に、「海辺のむらの食生活」の項で土佐の
タタキにふれなければならないが、家畜でも魚でも殺し
てすぐはまずいものである。
 ところが、この殺して二、三時間の緬羊の肉がこんな
にうまく食べられたのはなぜだろうか。
 食品化学者の研究にまたねばならないが、緬羊の死後
硬直性は他の動物と違うのだろうか。全く素人の推測だ
が、ぶっかけた醤油の中に合わさった酒の効用と、ジン
ギスカン鍋でじんわりと焼くことが、殺してすぐの肉を
うまく食べさせる結果になるのだろうか。
 表面あぶりと酢で、獲れたてのカツオをうまく食うこ
とを考えたカツオのタタキに一脈相通ずるものを、私は
この大平原の人の料理に感じた。

(6) 飲酒運転
           桑江良逢

<略> 最後に残された問題は、酒であり、測定の場の設
定である。材料費は上から出してもらったが、飲む
酒代までは、いくら集団実験だからといっても、到
底出ない。各人に測定資材を交付して、自宅等で測
定させたのでは、正確性を欠くと同時に、意識づけ
の効果も薄い。
 どうすれば良かろうかと、思案にくれていた矢
先、好機が到来した。混成群あげて、大矢野原演習
場において、約十日間の野営訓練をすることになっ
たのである。<略>今回の野営訓練は、全混成群の
団結強化という狙いも含まれており、その意味にお
いても、演習最終日の晩、大矢野原頭において、混
成群全員参加の野宴をやろうと決心した。
 「好機、逸すべからず」
 この野宴の機会をとらえて、飲酒後の呼気酒量測
定を計画し、警務隊員等の増援を得て準備を進めた。
 夜宴は盛会であった。草原の上で、各隊毎に火を
おこして、ジンギスカンやバーベキュー、大矢野名
物の「馬刺」(馬肉の刺身)。十日間の野営訓練を、
無事終了したという安堵感、満足感から、球磨焼酎
の味もまた格別である。
 大きな一本松の根方にしつらえられた舞台(とい
っても、後方に天幕が張られ、マイクが1本あるだ
け)に、各隊毎の余興がとび出す。半弦の月が、阿
蘇外輪山の上にのぼり、すすきの穗波が、快い秋風
をおくる。
 呼気測定調査は計画どおり、翌日の午前中まで続
けられた。酔っぱらった隊員をつかまえて、呼気測
定をやるのだから、珍談奇談、今でも残っているエ
ピソードが沢山あるが、ここでは紙面の都合で割愛
しよう。<略>

(7) 新北海道たべもの歳時記
           重森直樹

 「ジンギスカンなべ」が本格的に一般に普及するようになったのは戦後である。
 昭和二十八年には当時の田中知事ら財界人などが集まって、「月寒学院」で「ジンギスカンなべ」パーティーを開いている。この学院は農業技術者の養成の專門学院であった。ここで開かれたパーティーが端緒となって、今でも「ツキサップじんきすかんクラブ」が一般に開放されて、十月いっぱい営業している。当時からみれば料金もぐーんと安くなっている。
 専門店が町のなかに誕生するのは同じ頃で、札幌では南一条の富貴堂という本屋の隣にあった中華料理店「精養軒」で、この「ジンギスカンなべ」を出して評判になっていた。しかし、その後、西武パルコの建設に伴って姿を富貴堂と共に消してしまった。ここのジンギスカンは生肉を使い、ロストル型の鍋を使っていた。煙がもうもうと立つ鍋で、店の中はたえず煙っていた。中華料理よりジンギスカンの方が有名だった。ちなみに現在使われている殆どの鍋はカブト型の油煙の出の少ない鍋である。
 その後小さな店が各所にぽつほつ増えていったが、いつの間にか道内の若い人に人気を得るようになった。やはり食糧事情の悪かった当時としては羊の肉が他の肉と比べ値段も安かったことが、大きな要因となっているのであろう。<略>

(8) 羊が連れてきた美術館
           関﨑房太郎

<略> この町の人口は八千ちょっと、
それがなぜ立派な美術館を二棟も
持つことができたのかと疑問に思
われるだろうが、話は終戦のごろ
に遡る。当時、この町は水内村と
いったが、私たちは村の人口とほ
ぼ同数の羊を飼っていた。終戦で
国策から解放されると、ジンギス
カン料理を一斉に始め、羊毛のホ
ーム・スパン工場も経営するよう
になった。あの村へ行けば羊の肉
が食える、毛織物が手に入る――
食料も衣料も欠乏した当時のこと
であるから大変な評判になり、西
に北アルプスの連峰をのぞみ山と
川が変化の多い風景を織りなす風
光明媚なこの地へスケッチにやっ
て来る画家が多くなった。二十六
年だったか、日本水彩画会の秋季
写生旅行のときは特に壮観だっ
た。東京から石井柏亭会長をはじ
め主だったメンバーが村を訪れ、
県内からの参加者を合わせて六十
数人が秋晴れの紅葉燃える琅鶴湖
畔にカンバスを並べた。当日、村
では羊三頭の肉と村に二軒ある造
り酒屋から酒を運んで、夜が更け
るまで歓迎の宴を繰り広げた。ま
た、有島画伯がここを訪れて、私
の求めに応じて琅鶴湖と名付けた
のは、この前年だった。相前後し
て、栗原信、向井潤吉、三上知治、赤
城泰舒、横井弘三など多勢の画家
がここでジンギスカン料理に舌つ
づみをうちながら筆を振るった。<略>

(9) 緬羊
           苫前町史編さん委員会

緬羊の飼育は、戦後しばらく七~八〇〇頭を保って
当町の主要な畜産として位置づけされてきたが、三
十年代半ばから飼育戸数、頭数共に急激に減少し、衰退の一途を辿っ
た。
 羊毛としての販売価値を失い、食肉用としても経済性を保てなかっ
たためである。
 それでも昭和三十六年にはまだ三三八戸、五三二頭が飼われ、当時
町内にも普及しはじめていたジンギスカン料理には、地元産の肉が賞
味されていた。しかしこのジンギスカン料理が大衆化しはじめた四十
年代に入ってからは、地元羊肉が容易に手に入らないまでに減少し、
代わって登場したのがマトン(正式には生後1年以上の羊肉)と称する豪
州産羊肉であった。これが大量に廉価で輸入されはじめたことによっ
て地元緬羊はさらに飼育を減らし、四十四年僅かに八戸、九二頭に激
減、五十年代には二~三戸、数頭になって、消滅同然の状態になった。

(10) ジンギスカン
           杉山佳子
 材料<略>
 羊肉を食べる習慣は、以前、北海道では農家の一部に見られる程度だった。一般には出回る肉も少なかったということもあるが、羊肉独特のにおいを嫌う人も多く、特殊なものといった扱いを受けていたようである。羊肉が多く出回るようになったのは戦中・戦後のことで、これは羊毛の輸入がとまり、かわりに緬羊を飼ってその毛を採集することが奨励された時代の名残かもしれない。
 当時、緬羊の毛は、寒地衣料の必需品として多くの人々に愛用されたが、飼育する緬羊が増えれば、当然、その肉も多く出回るようになる。羊肉のおいしい食べ方として、すき焼きや煮込みなど、いろいろと研究されてきたが、その中でもっとも受け入れられたのは、金網で直火焼きをする方法であった。これは、羊肉の強い脂肪が弱められるという効果があるからで、そのうちに必ずにかわるものとして、今多く用いられているような焼き鍋が考案されたのである。鉄鍋をよく熱して、その上で肉を焼くと、適当に脂肪を流し落とし、さらに燻製の効果によって、いくらかはにおいを消すはたらきがあるようだ。<略>
 昭和58年の(1)は岩手県にある信仰の山、早池峯山はやちねさんに登る前夜、精進すべきなのに、ジンギスカンをたっぷり食べたので、山の女神に嫌われたか濃霧になりお花畑を見損なったという話です。
 柳田国男に関する本を4冊も書いている著者の岩本由輝山形大教授は、この登山行を通じて今や観光優先で敬虔な信仰は存在せず「これでは女神も恐れをなして、鎮座ましまさなくなっているわけで、美人が登ろうが誰が行こうが、嫉妬される心配など、もはやないということができよう。」と書いています。
 (2)は立原正秋の「鎌倉夫人」です。趣味でライオンを飼っているのでライオン医院とも呼ばれた鎌倉の生駒医院を舞台とする不倫小説。ジンパ学とは縁遠い内容なので最後まで読まなかったが、ジンギスカンは1回使っていることだけは確かです。
 (3)は道東住民の実感そのもの、本州の人々は本当か、大げさなのではと疑うかも知れないか、これは本当ですね。日の当たらない沢などには、まだ少し雪が溶け残っているかも知れません。札幌二条市場の、いまはもうない片岡肉店の店主故片岡進さんは、石油缶改造のコンロをいろいろ作り、大学生などに見せて自作を勧めることがありました。
 (4)は石狩市内らしいジンギスカン店が出てくる井上光晴の「曳船の男」からです。これは昭和54年4月から翌55年2月まで「気温一〇度」という題名で連載された小説です。飜訳物の推理小説を読むと、私はよく人名がこんがらかってくるが「曳船の男」もそれでね。網場水樹がモルヒネ買いに韓国に密入国してきた男か、それを奪おうとする側なのか、わからなくなってしまうのです。菅野昭正によると「ここにも死んでいなかった戦死者が登場する。いうまでもなく、この人物は戦争という過去のなかに冷凍されて変りようがなくなっているのではなく、彼は戦後の時間のなかでしだいに変化を重ねてゆく。(269)」人物だそうだが、ジンギスカンを食べているはずなのに、いきなり質疑応答のようになったりするんだなあ。すぐ後に出てくる作家小檜山博によると、この井上と野間宏が「小生の『出刃』を受賞させてくれた選考委員(270)」だそうです。
 (5)は朝日新聞社の1000万円懸賞小説で選ばれた三浦綾子の「氷点」からです。私は読んだことかなかったので、生成AIに内容を尋ねたら「北海道の病院を舞台に、病院長夫人・夏枝とその家族を中心に複雑に絡み合っていく人間模様を描いた愛憎劇です。センセーショナルな内容とスピーディーなストーリー展開で大ヒットを記録しました。」と答えましたよ。脂が燃える小さい焔が見えるということは、レストハウスのジン鍋は脂落としの隙間のある鍋ですね。
 (6)は元軍医が書いた「崩壊す・ビルマ戦線」からです。大失敗で有名なジンギスカン作戦は、ほかにも書いた本が沢山ありますが、作戦開始に先立ち緬羊の屠殺から鍋で焼くまでの実習をしたと書いた本はほかにないように思います。名古屋大出身の木左森軍医は当然試食したはずだが、それはない。代わりでもあるまいが兵士が捕らえた長さ5メートルのニシキヘビを食べた話を入れてます。直径17センチぐらいの胴の輪切りの蒲焼きで「脊椎骨は太く万年筆くらいで、肋骨も太い爪楊枝くらいの太さで、肉は白く、油ものっていて、こうばしい香りもし、なかなかうまかった。」が、ニシキヘビと比べると、戦場で食べたトカゲ、犬、猫はまずい、鶏、アヒル、熱帯魚はうまい(271)と判定しています。
 ジンギスカン作戦ですが「ビルマ牛は山道にすこぶる弱かった。怠け者で、疲れてくると坐りこんでしまって、御者の兵隊がたたいても蹴っても、鼻の先に火をつけても、ガンとして動こうとしなかった。羊にいたっては、一日の歩行距離がやっと三キロ程度にしか過ぎず、この方は、ごうを煮やした兵隊たちによって早々に〝食糧〟と化し去った。(272)」とあります。そうなるとジンギスカン軍団が連れて行った蒙古羊は、遊牧で鍛えられていてもっと早く移動できたのか、それとも羊を連れた補給部隊は攻撃部隊とは別行動で、後ろの方から毎日肉を届けたことが考えられます。いずれにしても牛と羊のそうした性質を知らずに立てた作戦計画が最悪だったということです。
 (7)は元参議院議員野呂田芳成氏の著書からです。ただ同氏は綿羊はさておき、肉類自給の見地から山羊の増殖利用を図るべきで「山羊からは、ざっと考えてみてもカシミア、モヘアのような高級織物業、高級靴、ハンドバッグのような皮革工業、チーズなど乳製品工業、それにジンギスカン料理などが生まれるわけであるから、これはまさに一石三鳥以上の無駄のない資源ということになる。」(273)と訴えました。
昭和58年
(1) 早池峯山に登る
           岩本由輝

<略> 登山道のところどころには、エーデルワイスに似ているといわれるハヤチネウスユキソウが神秘的な感じのする花を咲かせていた。途中、鎖にすがって登らなければならない難所もあったが、一時間半ほどで頂上に着いた。登る時には晴れていたが、頂上にいたった頃にはにわかに霧が出てきた。昼食をとりながら霧の晴れるのを待って早池峯山名物のお花畑の散策をしようとしたが、ますます状態が悪くなりそ
うなので、あきらめてもと来た道を引き返して下山した。
一時間一〇分ほどで小田越まで降りてきて、山頂をふりか
えったら、さっきまでの霧は嘘のように晴れあがってい
た。どうもこちらの心掛けが悪くて、早池峯山の女神の心
証を、いささか害したのかもしれない。
 心掛けが悪いといえば、心あたりはある。なにしろ前日
の八月一四日の晩に、ジンギスカン料理をしこたま宿で喰
べたのである。明日、早池峯山に登るといったら、宿の主
人が元気がつくようにと、わざわざ小岩井農場から取り寄
せた羊の肉で、とくに厚切りにしたジンギスカン料理を、
ふんだんにふるまってくれたのである。しかし、考えてみ
れば、盆のさなか、しかも精進潔斎し、斎戒沐浴して登ら
なければならない早池峯山に、生臭さのジンギスカンをた
くふく喰べて登って、あの程度の霧ですんだのは幸運なの
かもしれない。<略>

(2) 鎌倉夫人
           立原正秋

<略> このとき、内側の廊下でにぎやかな足音がした。来客が帰るのだろう。しかし千鶴子はたちあがらなかった。
 やがてききおぼえのある乱れた足音が近づいてきたと思ったら、襖があかり、広行が入ってきた。
 「おや、逢引中か。これは失礼。しかし俺は庭から上ったんでな、そこから出なければならない」
 広行は千鶴子と相良を等分に見て言った。
 「広行さん、変なことを言わないで。お客さんはお帰りなの?」
 「北鎌倉に、蒙古料理を食わせる店があるそうだな」
 「それはジンギスカン料理だ」
と相良が答えた。
 「なんでもいい。そこに、小股の切れあがったまれいな女中がいるんで、面をながめながら蒙古人の食うものを賞味しに行こう、という話になった。では失敬」
 広行は庭の方の廊下にでると、ガラス戸をあけて降りて行った。千鶴子が話すひまもなにもない通りかただった<略>

(3) 根釧の四季
           北川玲三

<略> お花見は釧路が五月半ば、根室が五月下旬です。日本最後の花の宴です。
 重箱料理や折詰料理は傍流です。主流はジンギスカン鍋。プロパンガスのボンベや、石油缶の横っ腹を切り取って焜炉代わりにしたものと木炭を持参します。ジンギスカン鍋は、羊肉と野菜をジュッと焼けば足りる簡便さと味の良さのほかに、暖をとることができるために料理の主流をなしているのです。
 根釧のお花見は、春うらら、春爛漫という趣きはありません。大地が、まだ底冷えしています。お酒をガブガブ飲んで、歌うというより怒鳴って、踊って、それでも、なんとはなし、ひんやりいたしますから、ジンギスカン鍋に手を伸べながら暖まるのです。
 夜桜を楽しむという風習はありません。酔って寝こめば、凍死するからです。<略>

(4) 朝鮮烏
           井上光晴

<略> 石狩川の河口に近いジンギスカン料理の店先でタクシーを降り
ると、釣銭をチップにして貰った運転手は上機嫌な顔で片手を上
げた。昼食にはかなり遅れた時間で、二人とも空腹を抱えてい
た。
「さっき、車の中だったから話せなかったけど、あなたの留守に
こんなものがでたのよ」<略>
「僕のことはとにかく、前畑君反対の急先鋒だよ、谷本さんは。
……」
 下地に浸した生の羊肉と野菜が運ばれ、網場水樹はテープルの
紙片を手許に引いた。
「僕に対しては中立。前畑君は絶対に認めない。谷本さんは元々
そういう立場だよ」<略>
「食べなさいよ。焼けてるよ、もう。そこいら……」
 首をかしげるようにして長井杉乃は薄く笑い、焼肉ともやしを
彼は口に運んだ。これまで撒かれた二回のものとは書体の違う活
字が彼の目を射る。<略>
問 網場水樹氏の後継者への立候補を何としても食止めなけれ
ば、教団の存在さえも危い。今ひしひしとそれを感じますよ。
 兜鍋の縁に黒焦げになった羊肉を別の皿に移しながら、長井杉
乃の沈んだ視線がちらと動く。<略>

(5) 氷点
           三浦綾子

<略> レストハウスに入って、ジンギスカン鍋をつつくころ、
旭川の街の灯がまたたきはじめた。夏枝は今夜はビール
を飲んだ。
「ジンギスカンはおいしいですね」
 北原は陽子をみていった。陽子はだまって微笑した。
夏枝は北原のためにこまめに肉を焼いてやったり、ビー
ルをついでやった。
「おかあさん、ぼくだって息子だよ。北原におかあさん
をとられたみたいで少しやけるな」
 徹は少し酔ってきた。そういう徹も先ほどから、陽子
にジュースをついでやったり、野菜や肉を焼いてやって
いた。
「ぼくは辻口のような妹思いの人間を見たことがないな。
ぼくもかなり妹にやさしいつもりだったけど、辻口には
かなわない。兄妹というより恋人同士みたいですよね」
 北原は最後の言葉を夏枝にいった。夏枝はふっと表情
をこわばらせたが、すぐにさりげなく、
「小さい時から仲がいいんですよ」
と微笑した。
 陽子はじっと、肉からしみでて流れる脂をながめてい
た。脂がしたたり落ちて、時々ぼっと火が小さく上がる。
脂の焼けた煙がゆったりとたなびいて、部屋の中にただ
よっていた。
「陽子って、特別いい妹なんだ」
 徹は酔うとほがらかになった。
「はい北原さん、焼けましたわ」
 夏枝が北原の皿に肉をのせた。つづいてピーマンや玉
ねぎを皿に分けた。陽子は夏枝が北原に優しくしている
のを黙ってみていた。<略>

(6) ビルマ上陸、キャウセにて
           木佐森恒雄

<略> 次の日、司令部の小さな部屋で、羊の屠殺の方法が、その道の専門家によってみんなの前で行なわれた。要するに、首をちょん切ってから、皮をはぐのである。腹部の方にメスの切り込みを入れて、背中の方へ剥いで行くのであるが、ただそのとき注意すべきことは、羊の陰部の皮は非常に悪臭があるので、陰部に直接触れた手で他の肉に触れないことであって、陰部に手をふれたときは必ず手をよく洗滌しないと、他の食用になる肉が非常に臭くなるからである。
 次には肉を切断して焼くのであるが、その焼く鍋がいわゆる『ジンギスカン鍋』であった。その鍋への肉の置き方がなかなかむずかしいのである。私は『ジンギスカン鍋』という言葉は前にも聞いたことがあるが、その鍋で肉を焼くのは初めてで、実際にやってみるとなかなか面白いものであった。
 このように、兵隊に牛、山羊などを携行させることによって、荷物を負わせ、また必要ならばいつでも殺して食糧にすることが出来るという『ジンギスカン』の遠征の故事にならった作戦をするらしいことがわかった。
 事実、インパール作戦は、後方よりの補給が困難なことは初めから分かっていながら、なお突進と奇襲とによって、敵陣地の糧秣を分捕りながら前進するという考えから、兵隊にはわずか二十日間分の食糧を携行させただけという、いわば「はだか」に近い軽装備で出発したのである。そのかわり、何千頭というビルマ牛と羊を集めて、それに牛車をひかせ、羊をひっぱって、牛車隊を編成して行軍を始めたのだった。<略>

(7) 広域的協調で豊かな郷土を
           野呂田芳成

 ただ、この実現のためには、いくつかの克服しなければならない問題がある。
 第一に紡織も、皮革、乳製品、食肉加工といった一連の関連工業が立地できるためには、適量の原料供給ができるだけの単位の山羊の数を安定的に飼育する必要がある。<略>
 第二は、紡織や皮革、あるいは乳製品などの関連工業の立地を企業の合意を得て計画的に進めなければならないし、そのために関係者の話し合いが十分進められなければならないことである。<略>
 第三は、山羊をおいしく食べさせる料理技術者の養成が必要である。山羊 を食べる中国料理や沖縄料理の普及や、あるいは羊肉で繁盛している北海道の松尾ジンギスカン料理などの応用ができないものだろうかと思っている。
 第四は、多数の山羊の飼育と観光産業とのジョイントが必要である。乳と観光だけでもかなりお客の誘致ができると思う。
 以上のことを国や地方公共団体レベルでよく調査していただきたいと思っている。
 実は、かつて国土庁の事務次官であった下河部惇氏と話し合って、国から予算を計上して北海道の炭鉱地帯に山羊を中心とする畜産の導入を図るための基礎調査をしたことがある。<略>
 炭鉱には山があり、草がある。捨てられた社宅がおびただしくある。 これに着目して一単位の山羊を飼育し、関連工業を興そうというのが私の発想であったが、せっかく下河辺氏の骨折りでついた予算も北海道庁で調査する段階になると山羊のことを知る職員は皆無で、結局、牛を主体とする導入の方に力点がおかれてしまい、〝山羊の夢〟はいまだ実現していない。<略>
 昭和59年の(1)は道南豊浦町で羊牧場を営んでいた田村正敏に対する評論家大野明男のインタビューからです。「田村正敏といえば、元『日大全共闘の書記長』で、八二年には『北海道・勝手連の代表』ということになるんだが」(274)という大野の最初の発言を読めば、そういう団体、横路という知事がいたなあと思い出す人がいるでしょう。
 ウィキペディアによると、このインタビューの14年後、田村は51歳の若さで亡くなったことがていました。
 (2)は玉村豊男の「日本ふーど記」です。「北海道は緯度からいえば『地中海に浮かぶ巨島』だが、海流の関係で北海道のほうがアチラより寒いから『実質的にはパリやロンドンやベルリンを含む北部ヨーロッパ(つまり欧州文化の中心地)』と同じような位置になり『だから必然的に食べものもアチラ風なのである。』」(275)という玉村説は賛成しかねるが、羊肉の脚注「昭和三二年以降化学繊維に押されて道内の羊毛生産が落ち込むと同時に羊肉を食うことがさかんになった。昭和四〇年頃までには道産の羊をほぼ食い尽し、以後は輸入に頼っている。」(276)は異議なしです。
 (3)は中沢善司の「万里の山河に」です。氏は盛岡出身、中央大を出て明治精糖に入社、小樽駐在になったが「国家総力戦突入を期に志を一転、国家に呼応、大陸政策の礎たらんと渡支を決意」中国占領地域の「県政補佐官」に応募、昭和13年秋、中国に渡り北京の新民塾で2ヶ月間、県政連絡員の任務などを学んだ。(277)その間会話練習を兼ねて北京探訪を繰り返し、名物料理はその1例だという。
 たまにジンギスカンには2種類あるとして涮羊肉を書いた本は、こうした少数の仲間の呼び方に拠ったのですね。
 (4)は通産企画調査会編「全国の物産と産業」のジンギスカンの説明です。640ページの本です。
 (5)は厄介な鍋洗いをどんどんやる鍋洗浄機を6年掛けて完成させ、売り出し中というニュースです。ジン鍋博物館では、参加者が羊肉などを持ち寄って楽しむ「持ち寄りジンパ」をときどき開くが、鍋洗いは館長業務になるので腰痛が起きない洗浄法を研究しているとか。
 (6)は358字と短いが「老梅」と合わせて昭和60年上半期の直木賞を得た作家であり作詞も手がけ、銀座で高級クラブ「姫」も経営した山口洋子の「演歌の虫」からです。「しもたや」とは商売をやめた家のことです。だから文中の「しもたや風」だと何かの店だったみたいな―ということですね。食い且つ飲み、満足して外に出たとき、道がつるつるだったことを忘れて転んでしまう。
 山口さんは素直に転び腰を打っただけだったらしいが、私なんか道庁近くで飲んだ後、転んで足をひねったが、なんともないので2次会に行った。ところが翌朝、痛くてたまらず整形外科に行ったら、暫く松葉杖を使えと片方の靴を持って帰ったことがあります。
 (7)はさっぽろ文庫31の「札幌食物誌」です。内容が「四季の味覚」など5章に分かれているので、ジンギスカン料理に関係ある「北の食文化」は佐々木酉二北大名誉教授、「郷土の料理」は山本正夫札幌国際ホテル顧問それぞれの説明から引用しました。
 (8)は茜会が調べた「札幌の食いまむかし」に載っている「ツキサップジンギスカンクラプ」の会報の記事です。茜会は食文化に関心ある女性たちの組織でしたが、リーダーが明確でなかったようで、日本著作権教育研究会の「著作(権)者不明不詳リスト」に入っています。
昭和59年
(1) 都会っ子が羊飼いになって……
           田村正敏
           聞き手 大野明男

―― 本命の羊の話を聞かせてほしい。
田村 <略>
 羊は、冬場の一~二月に出産しますが、そ
れが大変な勝負で、メスなら育てて一頭十万
円で売れるが、オスだと肉用ということで一
頭三万五千円か、それ以下にしかなりません。<略>
―― メスの子羊の需要は。
田村 いつかは、頭打ちになるかもしれない
けれど、いまのところは飼いたい農家が多い
から、無限に近い感じです。
 だいたい、北海道名物のジンギスカン料理
とか、ハム・ソーセージ原料とかいっても、
ほとんど輸入の冷凍マトン・ラム肉ですよ。
冷凍ではない国産品を使えば、もっとうまい
はずだし、同じ畜産でも、乳牛よりはずっと
手がかからないんだから、羊を飼う農家が増
えていいと思う。
―― でも、オスがばかり生まれると。
田村 そこが悩みで、せめて一頭四万円にな
らないかと……将来的には、国産肉のジンギ
スカン料理店でもつくりたい、と仲間うちで
相談しています。
―― オス・メスのコントロールは。
田村 できないんですね。北海道の開拓農家
で、牛一頭から酪農に取り組んだ人の例を見
ても、メスが続けて生まれた場合は生き残っ
ているが、反対にオスばかり生まれた場合
は、離農していることが多い。牛は人工受精
だけど、オス・メスまではコントロールでき
ない。
 羊なら、最初から多頭飼育できるけれど、
やはりどっちが生まれるかは、運というほか
はない。<略>

(2) たとえばジャガイモたとえば……
           玉村豊男

<略> タマねぎも、明治時代にクラーク博士の後任として赴任してきたブル
ックス先生が持ってきた品種が北海道で栽培を始められてから日本人に
親しまれるようになっていったのだし、あるいはアスパラガスも、最初
は江戸時代、鑑賞用として長崎に渡来したものが、結局は〝内地〟には
根づかず、明治になって開拓使が北海道でつくるようになってはじめて
我が国の食卓にのぼることになったのである。
 たしかに、日本の西洋文明の受け入れ口は九州地方が中心であったか
もしれない。しかしその産物を根づかせるためには、やはり北海道の風
土が必要であったということなのだろうか。
 札幌郊外のビール園で、よく腫れた日に、ジンギスカンをつつきなが
らそんな感慨にふけった。
 青い、ボカン、とした、突き抜けるような空は、たしかに〝日本的〟
ではない。北海道のエキゾチスム。若い旅行者が北海道に憧れる所以で
もあるのだろう。全国のデパートで催す物産展でも北海道からの空輸品
を並べたときがいちばんよく売れる、というのも、洋風化した食卓を持
つ現代ニッポン人の生活習慣を反映しているに違いない。ジンギスカン
の羊肉にしたって、ニュージーランドからの輸入品であるとはいえ(昔
はめん羊をつぶして食べたのが北海道の羊鍋の発祥だといわれるよう
に)、この北の風土にぴったりと合ってアッケラカンとした美味になっ
てしまうのが、不思議といえば不思議である。<略>

(3) 名物料理二つ
           中沢善司

 食べものでは北京烤鴨と涮羊肉が代表的。<略>
 「北京烤鴨店」=<略>
 「涮羊肉シユアンヤンロー」=有名な羊肉の鍋料理だ。丸い食卓の中央に鍋を置き、鍋の中央の煙突の回りにはスープをたっぷり入れる。炭火をたいて煮えたぎってきたら、薄切りの羊肉や野菜を火鍋の中へ浸して食べる。いく種類ものタレが用意されてあり、煮加減もタレも好みに合わせて食べる。羊肉のシャブシャブみたいなもの。西単牌路(北支軍総司令部と電車通りへだてた向い角)の店も有名店の一つだった。店名は覚えていないが、仲間と一緒によく通ったものだ。「ジンギスカン鍋」と呼んだ。

(4) ジンギスカン
           通産企画調査会

ジンギスカン
  札幌市、千歳市ほか
 
 札幌、月寒は綿羊飼育の中心地で
あり、綿羊肉を使ったジンギスカン
料理もここから始まった。
 綿羊肉のもつ独特な嗅いを消す研
究が実り、酒によるアルコール分、
リンゴ、ミカン、ブドウのしぼり汁
による酸分、これにニンニク、ショ
ウガによる香辛料、しょう油を加え
たタレが開発されたのである。
 現在、羊肉の生産は需要に追いつ
けず、輸入に頼っているが、本来の
味は生肉にあるといわれ、食肉綿羊
の増殖に力を入れている。
 問い合せ先「北海道庁食品衛生
課」電〇一一-231局四一一一。

(5) 画期的な焼肉鉄板/ジンギスカン鍋洗浄機
      見事なアイデア、好商売に
           週刊読売

<略> 夏のスタミナ源として繁盛し
ている焼き肉店、はやればはや
るほど深刻になるのが、使用後
の焼き肉用鉄板やジンギスカン
なべの洗浄である。
 大変な労力と時間を必要とす
る鉄板やなべの洗浄には、通常、
一人が約八時間、懸命に働いて
も、完全に洗い上げることがで
きるのは、せいぜい六十枚。し 
かも非常に疲れる。
 この悩みを一挙に解決したの
が、焼肉鉄板用・ジンギスカン
鍋用洗浄機で、約六年間の長い
研究の末、ようやく完成させた。
 客の立場からも、油やカスで
汚れている鉄板では、食欲も半
減する。焼き肉店の悩みと、客
の不快感を同時に解消できるわ
けで、研究成果は実用新案特許
(59-6749)として、実
った。
 実際にこのほど行われた試験
販売でも、地区の焼き肉店二百
二十店のうち、二百店に納入と
いう好成績。いかにこの洗浄機
が待望されていたか分かる。
 洗浄機を購入した店では「簡
単な原理だが、製品は非常に便
利。画期的な作品といえる」と
評判は上々である。<略>
 使い方は、まず、清掃用洗浄
剤クリーン液を、汚れがこびり
ついている鉄板やなべに、霧吹
きでスプレーする▽五~十分後
に、洗浄機にセットし、あとは
水洗いするだけでOK。
 クリーン液は人畜無害、長期
間保存しても変質せず、一缶
(十八㍑入り)で、一万枚洗う
ことができる。<略>

(6) 演歌の虫
           山口洋子

<略> 札幌へ行くと必ず行く、ガタピシのしもたや風の成吉思
汗焼。電話もなければストーヴもない。濛々たる煙りのカ
ウンターに椅子が十ばかり。坐れない客は外の吹きっさら
しに足踏みしながら順番を待つしかないが、中に入った客
もひゅうひゅう隙間風に背中を煽られている。音をたてて
脂が焼ける香ばしさに小鼻をひくつかせながら、炭火に直
接のせた貝の形をした燗徳利で熱燗をいっぱい。
「情緒ですねぇ」
 室さん感に耐えた口ぶりでいう。
 満腹で外に出ると、ちらちらと粉雪が襟の中に舞いこん
で、いちばん重装備の私が、まずはすてんと凍りついたア
イスバーンに叩きつけられる。まだゴム長を買わない室さ
んが、革靴でひょいひょいと上手に歩く。<略>

(7) 札幌食物誌
           佐々木知酉二
           山本正夫

   昭和時代の食
           佐々木酉二

<略> 他方、二十二年ごろからジンギスカン鍋が流行し出した。元々は中国の焼羊肉カオヤンロウでありジンギスカン鍋の名付親は満州国総務長官駒井徳三との説がある。月寒の種羊場で羊肉食を一般に勧めようとしたのが起こりで、昭和十一年合田正一が開いた狸小路六丁目の横綱がはじめだとも言われている。十一年の北海道大演習の時、八紘学院で財部、寺内、荒木ら陸海軍大将一〇人を集め栗林元二郎院長がジンギスカン宴を開いたのは間違いないので、この方が最初かと思われる。戦後はラーメンと並んでジンギスカン時代と言ってもよいほどである。<略>

   和風羊肉料理 ジンギスカン鍋
           山本正夫

 鍋物といえば、ジンギスカン鍋を落とすわけにはいかない。これは
鍋と名がついているが、どちらかといえば、焼肉料理に属する。鍋も
鉄製の逆さ鍋型の網焼き器であることはご存知のとおり。その昔、蒙
古の英雄、成吉思汗が野戦料理に羊肉を鉄かぶとで焼いて食べたとい
う伝説にその名が由来するが、中国では「焼羊肉カオヤンロウ」として料理のメニ
ューにのっているのが本家である。従って和食でなく中華料理の部に
入れるべきかもしれない。ジンギスカン鍋は今では完全に北海道名物
になってしまったが、広く一般に食されるようになったのは戦後のこ
とで、意外と歴史は浅い。その爆発的普及の理由は、食生活の変化志
向と廉価な輸入羊肉が第一にあげられる。もともと綿羊の飼育が盛ん
だった北海道では、本来的な意味での郷土料理としては後れをとった
わけである。羊肉独特のくさみを消すため、タレ(ソース)はどの店
でもいろいろ苦心し、味もそれぞれ自慢を競うのだが、ほかの料理の
つけタレと同じく、人の好き好きである。私には、酒、味醂、酢、
醤油、ウースターソース、アップルワイン、玉葱、長葱、セロリ、リ
ンゴ、ニンニク、ショウガ、一味(唐辛子)を合わせて作ったものが
一番口にあう、肉は食べるだけを鍋にのせ、色が変わったところで食
べるのが一番である。                (山本)

(8) ジンギスカン鍋
           茜会

<略> 大金畜産会社社長の大金武は『ツキサップジンギスカンクラブ』昭和三十四年八月号にジンギスカン鍋の大衆化について次のように述べています。
<略>道庁では盛んにめん羊の飼育奨励をやっていたのであるがなにせ、一般的にはめん羊といえば毛を採るものとばかり思っており、その肉はニオイがひどく食べられたものではないとされていた。したがって、何処の肉屋でも羊肉の引き受け手がなかった。と云って捨てるのも勿体なく、道庁でも処理に困ったわけだが、その結果一頭に幾らと助成金を出すことにして、札幌の肉屋の老舗小谷義雄さんと契約し、小谷さんが羊肉を一手に引き受けたものである。そして小谷さんは、大いに羊肉宣伝に努めたのであるが何分にもそのニオイが鼻について誰も手を出そうとしない。これには小谷さんも閉口したという話である。
 それが戦後、物資も豊かになった二十七、八年の頃月寒学院農場の牧草地で、札幌の『成吉思汗クラブ』という名の下に、成吉思汗鍋の野宴会を始めてみると、これがどうして大当たりで、大評判となり、果ては観光の成吉思汗鍋は、山際日銀総裁もお気に召して、名流の間にまで宣伝され、ついに今日の如き〝成吉思汗鍋ブーム〟を現出するに至ったのである。
 そのために今日では羊肉資源も不足を告げる始末で、私どものような肉の卸売問屋では春秋の採毛期にはもちろん、常時羊肉を買いため、冷凍して置かなければ間に合わない。今では成吉思汗もただ商売用はかりでなく、一般家庭にも普及されて来ており、市内の肉店などでは、羊肉を焼く鍋を特に用意して希望者に貸すことにしている」<略>
 昭和60年の(1)は道北は滝上町生まれの作家、小檜山博の「家津波」です。小檜山が中学生時代通った滝上町オシラネップ原野に作品「風少年」の1節を刻んだ文学碑(278)母校苫小牧工業高校の跡地の市民文化公園に「地の音よ 樽前山よ わが青春」と刻んだ文学碑(279)があります。
  小檜山が「人生という夢」に書いた「美食ということ」では「人の味感はそれぞれ異なるのだから誰が自分を食通で美食家だと思っても構わないわけである。」といい、ご本人が1番うまいと思うのは米の飯、2番目が落葉茸の味噌汁、3番目が紅ジャケ(280)だそうです。
 「美食ということ」はJRの車内誌「THE JR Hokkaido」で読み、前バージョンでは、そう書いたのですが、その後「人生という夢」という単行本に収められたと知り、確認のため送料の方が高い古本を買ったら、それが小檜山博のサイン入りの献本。贈れた人を検索したら東証プライム某社の現役員、栞みたいに挟まっていた名刺は元副知事で某福祉法人理事長でした。文豪はお付き合いも広いんですなあ。ふっふっふ。
 彼の美食にジンギスカンは入らないようだが、札幌の道新本社に務めていたころ夜な夜な薄野辺りに出没したからこそ、こうした肉とネギだけの初期のジンギスカン鍋を小説に書けたと思います。
 (2)は女優と作家と財務省の財務館という異色のメンバーによる座談会からです。島田陽子が戦後の一時期「アーニー・パイル劇場」と名前を変えていた東京宝塚劇場で上演する「アーニー・パイル」というミュージカルに通訳の役で出ると言う話から始まり、それぞれの海外での見聞や経験を語る。深田が「今までの話は国際人とか何とか日本航空の機内雑誌の座談会みたいですね。税金の話も」といったくらい、13ページの大半がアメリカとヨーロッパの食べ物談義です。
(3)は昭和初期に活躍した作家龍胆寺雄のモダニズム文学を見直す資料として注目された「龍胆寺雄全集」に入っている随想です。この話は以前にも取り上げたような気がするので前バージョンを検索したら「北京の鷲沢・井上命名説を検討する」の講義で簡単に紹介していました。
 同全集12巻に年譜があるが、海外外旅行の記録がないので、この「御馳走」は知人の元時事新報北京特派員、鷲沢与四二から聞いたヨタ話が元かも知れません。
昭和60年
(1) 家津波
           小檜山博

<略> 作業服と地下タビのまま車で街へ出た。暗い夜空で星も
なかった。ジンギスカン屋へ入ると五人ほどの客がいた。
二人いる女のうちの中年のほうが克夫の前の七輪へ鉄鍋を
載せ、飲み物は、と聞いた。ぶっきらぼうな言い方だっ
た。三つ揃いにネクタイをしてきたときは、丁寧に話しか
けてくる女だった。
 ――冷やでくれや。
 克夫もぞんざいな口調でこたえ、作業服の襟を立てた。
女は返事もせず鍋の上へ長ネギの切ったのを載せ、コップ
と受け皿を出してきた。足もとから酒の一升瓶を持ち上
げ、勢いよく傾けてくる。コップがいっぱいになってもつ
ぎつづけ、敷いてある受け皿があふれかけたところでとめ
た。一滴もこぼれなかった。
 二人前の肉を食べ終えてから、克夫は若いほうの女に電
話をかけてくれと頼んだ。硬貨を三枚渡して電話番号を言
う。わざと機嫌の悪い声にした。<略>

(2) アーニー・パイルから付加価値税まで
           島田陽子(女優)
           深田祐介(作家)
           大場智満(財務官)

<略> 大場 僕はアメリカで向こうの
銀行の連中と食事することがあり
ます。銀行の中の役員食堂みたい
なところで食べるときには、ま
ず、こしょうと塩ですね。自分で
味をつけないとだめですね。
 深田 それはありますね。
 大場 それで、牛ならいいんで
すが、会議の場合にはいろんな人
たちがいますから、一番問題が少
ないのは、どうしても羊に
なるんです。羊だと、どこ
の国の人もまず問題はな
い。アラブの人たちも問題
がない。
 深田 羊はうまいですよ
ね。
大場 はうまいものはうま
い。
 深田 僕は牛の次には羊
を好きですよ(笑)
 大場 羊というのは臭み
があるなと思ってました。あれ
は、日本に来ていた羊が余りよく
なかったのかな。あるいは料理方
法が……。
 深田 といいながら北海道へ行
くと、ジンギスカンでみんな羊ば
かり食べていて、あの羊はニュー
ジーランドから輸入しているんで
しょう。
 大場 最近いい肉がニュージー
ランドから来るようになったこと
も事実でしょう。昔は、ロンドン
に行っちゃっていたのが、日本に
もいい羊が入るようになったこと
も事実だろうと思うんですよ。<略>

   三、最上の御馳走

 ウランバートル、内蒙古から外蒙古へかけてのあた
り、見はるかす広野に放牧しつつ暮らす蒙古族は、
羊の毛皮を張って造った包、つまり天幕に居住し、牧草
を追って転々と移動する。自分の包と隣の包との距離は
数キロにも開く時がある。
 この蒙古族の人たちは恐ろしく遠見がきいて、一キロ
離れたところでも人の顔の見分けがつくという。一キロ
先に立っている人影は、マッチの棒を立てたのよりも小
さく短い。
 隣り近所が非常に離れている孤独からだろうか、お客
さまが訪ねてくるとたいへんな歓待をする。隣近り所の
つきあいばかりでなく、見知らぬ旅人であっても下にも
置かぬもてなしをするのだ。
 ご馳走は、いわゆるジンギスカン料理。天幕の中央に
掘った炉に、羊の糞を乾燥させた燃料の火を燻ぶらせて
羊の肉を焼く。調味料は岩塩である。大きく輪形に干し
固めたタン茶という中国茶が添えられる。
 だが一番のご馳走はこれである。客人が宿泊する時、
そのベッドの主は自分の妻を提供し、客人に抱かせて寝
かせることで、彼等はこれを不思議な習慣と思っていな
い。ごくあたりまえのことのように行なわれていた。こ
のことは恐らく、同族間に血族結婚が続き、血の濁るの
を防ぐための天の摂理の一つで、この習慣から血の新鮮
さを保ったのかも知れない。
 但し、これはソ連邦に包含されない以前の話だから、
現在はどうなっているかわからない。<略>
 昭和61年の(1)は昭和53年に芥川賞を受賞した高橋揆一郎の随筆からです。歌志内市のホームページは「道内在住の作家では初の快挙であり、本市でも『生粋の歌志内っ子』である芥川賞作家の誕生を大いに喜び、斉藤市長(当時)が札幌の自宅を表敬訪問。同年8月16日、歌志内で盛大に祝賀会が催されました。その席上、『生まれ育ったふるさとからは抜け出せない。わたしの本質は歌志内の風土そのものだ』と語り、その後も一貫してそれらを土台に庶民の生きざまから人間の根源的な姿を追求し続けました。」(281)と伝えています。
 (2)は「日本の郷土料理」からです。筆者はフリージャーナリストの西尾芳博。「以前、釧路動物園に行った時、園内の一部に野外料理コーナーというのがあって。石を積みあげた場所があった。不思議に思っていたら、動物園の人から、こうでもしないと、入園者がジンギスカンの材料と道具をもちこみ、好きな場所で料理をするものだから、その部分だけ芝生がはげてしまい、困ったことがありまして……と聞かされ、あらためて北海道の人のジンギスカン好きにおどろいたことがある。」(282)そうだが、今は自由に使えるバーベキューコーナーとなっており、予約して好みの場所を確保することもできるそうだ。
 (3)は偶然だが、その釧路動物園からそう遠くない釧路新聞社の高橋一美編集局長の「グルメ雑感」です。あれこれ食べてみようというのはいいが「物の本や知ったかぶりに踊らされるのではなく、あくまでも自分の舌で味わうことが肝要だ。本当に味を知る人、あるいは味を知らぬと覚った人は、食うものについて、滅多なことにああ、こういわぬのではなかろうか。ただ、あっという間に、一億を〝総グルメ〟に仕立てた『情報』の怖さのほうはよくよく吟味すべきだろう」(283)と、局長らしく締めています。
昭和61年
(1) 極寒の地に育った味
           高橋揆一郎

 北海道観光を「額縁ショウ」だと評した人がいる。美しいが芸がない、というのである。これにくらべて本州の古くからの観光地は厚化粧の芸者のそれであって、本来それほどでもないものを仕立てで見せているという。
「北海道が新鮮な美人のうちはよいけれど、いずれ見飽きられて小じわが寄るようになったとき、芸がなければ舞台からおりるよりしようがなくなる」
 演出のなさが北海道観光の特色なら、北海道の味もまた同断である。北海道の味をひと口でいうなら、それは「生地きじのうまさ」であり手を加えないうまさなのだから。<略>
 ひとむかしまえまで、北海道の人たちは、春にはニシンを一度に何十箱も買って、家ごとに簾のように干して食用に供した。秋には漬けもの用のダイコンを馬車一台分も一軒で買い込んだりした。そんなおおまかな食べっぷりをいま味わうとすれば、ジンギスカン鍋だろう。ビール園をはじめ多くの店では、ビール飲み放題、ジンギスカン食べ放題というところが多い。値段も安直だ。家族でするジンギスカン鍋だって、野菜ばかり多く肉はちょっぴりなんてみみっちいことはしていない。壮大に食べる。青空のように壮大に。
 トウキビ(トウモロコシとよんではいけない)は札幌大通公園の名物だが、ここでは老若男女を問わず、戸外でトウキビにかぶりついている。それでいて品がわるくもなんともない。都市のド真ん中で、食いものにかぶりついてそれが自然に見えるなんてところが、ほかにどこがあろう。
 そのおおらかさこそ、北海道の味の魅力であり、北海道そのものの魅力だろう。

(2) ジンギスカン
           西尾芳博

<略>兜のを形をした鉄鍋のうえで羊肉を焼いて食べる
料理が、どうしてジンギスカンと呼ばれるように
なったかは、旧満州国(中国東北部)の初代総務
長官だった駒井徳三が名づけたとか、「時事新報」
の北京特派員だった鷲澤与四二が名付けたとか、
諸説あって明らかではないが、いずれにしても日
本人がつけた料理名ということになっている。
このジンギスカンは、中国北方の季節料理・烤羊炉カオヤンロウ
が日本化したもので、羊肉を大きな鉄の網や
鉄板の上で焼いて食べる豪快な料理法が、蒙古
英雄・ジンギスカンの名前と結びついたものと
思われる。
 モンゴル草原のイメージと北海道の大陸的な乾
燥した風土が結びついて、今では北海道の代表的
な郷土料理となった。
 羊肉を食べる習慣は戦前にも北海道の一部の農
家でみられたが、一般家庭にまでひろがったのは
戦後のこと。食料と衣料の不足を解決するために、
緬羊飼育を奨励したのがきっかけである。緬羊が
ふえれば、羊肉も多く出まわるようになり、食べ
方も研究され、今日のようにジンギスカンがさか
んに食べられるようになった。<略>

(3) グルメ雑感
           高橋一美

<略> 私には〝孤舌〟というものが信用出
来ない。独りテーブルについては何を
食べたっておいしいものではないし、
たとい、それをうまいと感じても、そ
れはあくまでも独りの感覚であって、
人におすすめなど出来るものでない。
食通だの、食味研究家などの味談義
も、結局は色の取り合わせがどうの、
盛り付けがどうの、しまいには食器か
ら部屋や庭の造りのあんばいまで、何
てことはない、味外の味、料るもの心
ばえについての講釈を述べているだけ
だ。
 この辺の花見は遅い、五月を過ぎて
からエゾヤマザクラが咲く、花より先
に葉をつけ、その蔭に花房がごしゃご
しゃと咲く。それでもその樹々の下、
花見の宴は開かれるのだが、いつ頃か
らこうなったのか、どの固まりも皆ジ
ンギスカン鍋を囲んでいる。花の下い
っぱい、どこもかしこもマトンのしつ
こい脂のにおいを漂わせ、何の風情も
バリエーションもない肉だけをたらふ
くに食う。彩り豊かなお重を開くのと
違って、誠に素っ気ない風景だが、そ
れでもみんな〝うまい〟といっている
のだから文句はいえない。<略>
 昭和62年の(1)は国立民族学博物館の梅棹忠夫館長が中国の少数民族の現地経験者10人との対談集からです。その中の満州族の名門出の金連紘氏が羊肉を焼くジンギスカンは満州族の料理と認めたところを抜き出しました。
 (2)は当時、京大助教授だった宮崎昭が書いた「食卓を変えた肉食」です。私がジンパ学の研究を始めて間もなく北大そばの南陽堂で買い、小谷武治著「羊と山羊」には様々な羊肉料理の作り方が書いてあり「子羊肉についても『とくに仔羊肉の如きは其柔軟にして、其の香味佳絶なるを以て外国に於ては非常に珍重せられるのみならず洋行帰りのハイカラ先生の如きは、一度マトン(羊肉)或はラム(羔の肉)と聞けば垂涎三尺鼓舌して止まざるべし』」(284)という名台詞が書いてあると知った本です。その後、研究が進むにつれて積ん読の底辺に成り、すっかり忘れていました。
 宮崎さん「若い世代に好まれる野外料理となった。」と書いたが、我が北大ではもうこのころジンパと呼び、キャンバスのあちこちでやっていたことまではご存じなかった。はっはっは。
 (3)は御料牧場のおいしいジンギスカンのお陰で、行政改革による土地縮小と宮内庁の人員削減を免れたという秘話です。書いたのは共同通信の高橋紘記者。「宮中晩餐に出すものと同じ羊の腿肉」をふんだんに焼き、秋山主厨長開発の秘伝のタレを使うジンギスカンですから、うまいのなんの。こうした宮中宴会の美味を守り続ける上で、御料牧場の合理化は無理となったのでした。
 (4)は平成年に出た本だが、松尾ジンギスカンの松尾政治社長に話を聞いたのは昭和62年なので、ここに入れました。聞き手の白井重有氏は滝川郷土研究会長です。
 字数の都合で略しましたが、昭和36、7年ご道内では羊が手に入らなくなり「俺のジンギスカンも終わったな」と思ったとき、畜産卸商からニュージーランドのマトンについて教わった。そんな肉でも仕方ないかと使ってみたら、これがよかった。地元産は品質の差が大きいのに対し、ニュージーランド産の羊肉はサイズ、脂肪の程度などで分類して味が安定しており、それで商売を続けられた(285)そうです。
(5)は竹田恒徳時著「雲の上、下 思い出話」からです。敗戦前は竹田宮恒徳王と呼ばれた宮様で陸軍の軍人生活を送り、関東軍の参謀としてモンゴル民族から歓待されたときの思い出ですね。馬術が得意だったことから戦後は日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、日本オリンピック委員会の委員長などを務めました。
昭和62年
(1) 日中友好にかける満州族
           ゲスト●金連紘(中部大学助教授)
           ホスト●梅棹忠夫

<略>梅棹 満州旗人というのは、さっきいっていた八旗のことですね。旗人というのは、軍人であり、貴族である。
金 それから中国料理も世界的に有名ですが、とくに満州族 の宮廷料理が好評を博しています
梅棹 とくに北京料理がそうですね。
金 それからお菓子類も満州族のものがはいっている。たとえば「サーチマ(薩其馬)」は満州族のお菓子で、よく売れています。
梅棹 だいたい日本では「ジンギスカン」という名前ではやっている焼き肉料理、あれはジンギスカンとはなんの関係もない。あれは蒙古族ではやらない。満州族の料理ですな。
金 あれはマトンの焼き肉で 満州族の食べ方です。
梅棹 私は内蒙古に行ったとき、あんな料理を蒙古族に食べさせてもらったことはありません。わたしがあの食べ方で羊肉をいただいたのは、粛親王家の牧場で満州料理としてでした。いま日本でいうところのジンギスカン料理でしたが、蒙古族はあれはやらない。だからジンギスカン料理というよりむしろヌルハチ料理かな。(笑)<略>

(2) 戦後利用されたその他の食肉
           宮崎昭

<略> この料理はもとは、戦前中国、とくに満州で生活した日本人の間で食べ始められ、戦後、日本国内で一般化したものである。中国料理の烤羊肉(バーベキュー)に、中国東北部(旧満州)に居住していた日本人がつけた名がジンギスカン鍋である。野外でメンヨウを解体して、直火焼きして食べる豪快さから、この名がついたものである。
 中央部が高くなったカブトの形の鍋を使ったが、その傾斜によって、羊肉の脂肪が周囲に落ちたので、いぶらず、また独特の臭気の脂肪を持つ羊肉のくせが消えた。羊肉を焼いてからタレをつける方法と、タレに浸してから焼く方法とがあり、後者は、朝鮮風焼肉料理と似ている。<略>
 わが国では香辛料の利用が盛んでなかったので、従来の肉料理ではそれをあまり用いなかったが、戦後、ジンギスカン鍋が本格的に流行するにつれて、さまざまな香辛料が利用され、それをうまく混ぜたタレの生産が盛んになった。一般に、焼く料理で一回に食べる肉の量は、煮る場合より多い。そこで日本人の肉の消費量が戦後増大したのは、ジンギスカン料理の影響も大きいといわれる。とくに従来、肉の消費量の少なかった北海道で、ジンギスカン料理が盛んになったのも、戦後の食生活の変化を暗示する出来事である。ジンギスカン鍋は、やがて、アメリカで人気の高いあぶり焼き料理のバーベキューをとり込み、若い世代に好まれる野外料理となった。<略>

(3) 御料牧場
           高橋紘

 第二次臨時行政調査会は、一九八三年三月、中曽根首相に答申を提出して二年間に
 及ぶ役目を終えたが、その過程で全省庁に対し組織や人員の見直しを訴えた。宮内
庁では栃木県・高根沢町の「御料牧場」が、行革の対象として浮上した。<略>
 広大な敷地に、厩舎、搾乳所、食肉加工場、倉庫などのほか、3DKの職員宿舎四四棟がある。牧場の最も高い所に皇族などの泊まる「貴賓館」。広さは四〇〇平方メートル。これまで天皇夫妻が二回休憩し、皇太子一家が一泊しただけだ。
 牧場では、米、海産物、調味料を除き、天皇家の食卓にのぼる材料のほとんどが作られている。堆肥を使う昔ながらの有機農業で「牧場要覧」によると、馬四二頭、乳牛三〇頭、めん羊三二五頭、豚八七頭、鶏一二三〇羽、キジ七六羽を飼育し、ダイコン、ニンジン、レタスなどの蔬菜類が栽培されている。
 臨調委員は、牛乳、バターなどの乳製品、羊肉、豚肉、ハム、ソーセージなどの豚肉製品、鶏卵などは外部から購入すれば足りる。そうすれば育牛、育羊係二八人と牛馬羊などの放牧地一三三ヘクタールは不要になると計算した。
 これに対して宮内庁は、肉や野菜は宮中晩餐にも使っており、牧場で在日外交団の接待もする。外国王室は接待用のヨットや別荘を持っているが、皇室にはそうした施設がない、と反論した。そして実態を見て欲しいと、臨調委員を牧場に招待し、ジンギスカン・パーティーを開いた。
 「これは宮中晩餐に出すものと同じ羊のモモ肉です」。式部官の説明に委員はマトンを何度もお代わりし、天皇も食べているバターなどの乳製品を土産に、引き揚げた。行革の対象からはずされたのは、いうまでもない。

(4) 滝川のタレ漬けジンギスカン
         日時 昭和62年12月18日
         場所 松尾政治宅
         語り手 松尾政治
         聞き手 白井重有
<略>――松尾さんは滝川公園で売っていたこともあ
りましたね。
 僕が営業許可を貰って始めたのは、三十一年の
三月一日。そして、五月の花見に滝川公園の売店
の物置を借りて食べさせた。当時だから炭とコン
ロさ。バットの中に何ぼと目方入れて行って、あ
そこで売ろうと思っていたら、二人や三人の手で
間に合わないわけさ。火は起こさなければならな
いし、売れて売れてそれはもうどうにもならない。
僕等がジンギスカンを囲ってやってると、風下に
居れないんだわ。今はかなりマンネリになってい
るけれど、当時のあの匂いはどうにもならないん
だわ。そしたら虚無僧がいて、この匂いを嗅いで
尺八を吹いていられないんだわ。本当にどうしょ
うもならないくらい旨かったなぁ。匂いも良かっ
た。それが僕の商売の一番始まりさ。商売ってこ
んなに面白いものか、こんなに売れるものかとい
うことをしたね。
――その当時、会長と奥さんとお婆ちゃんとでや
ったでしょう。
 うんうん、家内と婆さんと、それに人を頼んで
やっておったんだ。祭りには今でいうアルバイト
でも、忙しくてどうにもならないわけさ。
――その頃は、何頭分くらいの肉を持っていたの
ですか。
 あの当時でね、十頭分位の肉を用意したと思う。
そして、忙しいというのが分かって、近くの馬車
追いにも頼んで、家で一生懸命肉をはずしてもら
って、自転車で運んだものさ。今の公園は車通る
けど、あの当時は人通りが多かったので、交通止
めになるので、自転車じゃなければどうにもなら
なかったわけさ。<略>

(5) 大草原の狩猟
           竹田恒徳

<略> モンゴル人は宗教上の理由から耕作をしないから、食べるのはもっぱら羊の肉で、野菜はとんと口にしない。
「野菜を食べないで、羊ばかりでは体にわるくないか」と聞いたところ、「いやオレたちの食っている羊は野菜を食っている。だからいいのだ」という返事が戻ってきた。けだし、分かったような、分からないような〝迷答〟である。
 羊の肉は、いわゆる丸煮にして食べる。日本のジンギスカン料理とは、全く違うが、塩味でけっこういける。いただけないのは、その食べかたである。
 丸煮した羊は蒙古刀で切りそぎ、皿に盛って食べるのだが、水不足とあって、彼らは蒙古刀や皿につばをかけて拭く。そして後は、垢でテカテカに光った衣服の袖でぬぐってから、「どうぞ、お使い下さい」と差し出のだ。
「つぼをかけるのは消毒のためです」と言うものの、これはたまらない。以後、私は自分専用の蒙古刀と皿を持ち歩いた。<略>
 昭和63年の(1)は「北京風俗大全」という書名だが、原本は昭和18年のところで引用した「北京の市民」と同じ原書です。訳者の藤井省三の「解説」によると「今回『北京風俗大全』を新たに飜訳するに際し、私ども訳者一同も式場訳と原書を改めて対照してみた。その結果は残念ながら誤訳と遺漏が多く、原書の価値を充分に生かしていないという結論を下さざるを得なかった。(286)」とある。それで「北京の市民」と同じといえる箇所を引用したら、300字も長くなってしまいました。
 (2)は「文芸春秋」の対談「燃えるイベント『世界・食の祭典』への御招待」からです。語るのは横路孝弘北海道知事と祭典委員会の下河辺淳会長ですが、引用したのは構成者の岡崎満義氏に対する横路知事の自信満々の説明です。
 その「世界・食の祭典」は期間中に400万人の入場を見込んだのに、入場料が高い、食事がまずい、面白くないなど不評で入場者数が伸びず、その他の収入も見込額通りにならず総額約90億円もの大赤字を出した。それで翌年、平成元年7月、道議会は横路知事の減俸条例案(50%、1年間)と債務処理の補正予算案を可決したのです。
 (2)は「アサヒグラフ」からです。記者とカメラマンが西鹿児島から稚内まで行く途中の各地のうまいものを紹介する「鈍行列車グルメの旅」の32回目、美唄―旭川間となれば、当然、滝川のアレを食べに下車するに決まっていますよね。
 (3)はエッセストの北川玲三による「江差の話」からです。江差ではジンギスカンを食べようにも、風が強くてうまく焼けないなんて、ちょっとオーバーだが「江差たば風の祭典」という冬のイベントがあるくらい風の強い土地であることは確かです。
 道路に積もる雪をカルマン渦で吹き飛ばす翼型防雪柵の翼は、大抵少し迎え角を付けて取り付けているが、稚内北星学園大に行ったとき見たんだが、稚内じゃ水平なのには驚いたね。そのときは夏だったが、窓の隙間から風が入ってビュービューと音がするくらい風が強い。江差町内の浜に面した家々では越冬対策として屋根まで届く風除け柵を取り付けるそうです。
 (4)は同年3月に開かれた第3回食の文化フォーラムの全内容の記録「外来の食の文化」の討論からです。山口昌伴GK道具学研究所所長が滝川の元祖ジン鍋を見せられたと語っているが、これはジンギスカンを知らない奴ならと、からかわれたんだよ。
 それから田中静一さんが「日本化した中国の食と料理」と題する基調講演で、日本化したと思われる食品や食習慣として屠蘇、七草粥、茶、酒、豆腐、餃子を挙げ、(287)烤羊肉とラーメンは入れなかった。「烤羊肉とラーメンは、まだ日本化していない食品、食習慣なのか」とか「田中さんはどの程度から日本化と認めるのか」という類いの質問がなかったのは、参加した32人の食文化研究者は皆、敬老の精神の持ち主だったせいらしい。
 「中国でいえば北京の烤羊肉の鍋は、いま日本で使われている鍋状のものを大きくしたもの」という言い方からすれば、モンゴルとか何とかスタンといった国々にも似た鍋があるということらしいが、田中さんが書いた「一衣帯水 中国料理伝来史」はラーメンは入れているが、ジンギスカンはジの字もない。涮羊肉もないから、羊肉料理は中国伝来ではないと無視したのでしょう。
 (5)は、かつて日本の労働運動を指導し総評(日本労働組合総評議会)の機関誌「月刊総評」にあった泊原発反対運動ルポを兼ねた女性記者の旅日記です。
昭和63年
(1) 呉家、饗宴を開く
           羅信耀
         訳 藤井章三、宮尾正樹、坂井洋史、佐藤豊

 <略> 呉老太太(ウーラオタイタイ)は、烤羊肉に必要な材料をいろいろと買い揃えるのが楽しみだった。葱などの野菜の用意もまもなくできた。これらの材料の中には、醤油、砂糖に漬けられたにんにくの特製ソース、それに肉に微妙な海鮮風味を加えるというので家族がみな好む鹵蝦油(ルーシアヨウ)などが欠かせない。たれは各人の好みに合わせて自分で調合し、肉は焼く前にそのたれに漬けておく。羊の後脚の部分からとられた肉は、張りがあるけれども柔らかく汁気が多くて良質のものだ。これは前日注文され、当日の朝届けられたのである。肉を薄く切る仕事は呉少奶奶の熟練した手並みによって、午前中の半ばを費やして行なわれた。羊肉店でも無料で肉を切ってくれるが、店に任せるのがいつでも望ましいとは限らないことを、呉家の人びとは知っていた。羊肉店の店員は自分の腕前を誇示するために、薄く切りすぎてしまうことがままあるからだ。そのような羊肉は素人料理人の手にかかると炉辺で「冒険」しているあいだに黒焦げになってしまうのである。
 小呉が狼のように腹を空かせて学校から帰ってくるころには、準備は万端整っていた。そして烤羊肉の宴はたいそうな熱心さとともに始められた。一家は地面の上の背の低い食卓を囲んで座った。その周りには快適に座れて、しかも容易に「焼き串」まで手が届くように、小さく平らな腰掛けを置いた。下で燃える火には(ホー)夫人の田舎から持ってきた、特別選りすぐりの松かさがくべられた。松の木は香りを生むといわれる性質から、よくこの用途に使われるのである。赤く熱した鉄の「焼き串」に羊の油が塗られ、炎が上がるといよいよ烤羊肉の始まりだ。空に向かって煙がモクモクと立ち昇る様子は、まるで小さな火山が噴火しているようである。それから一時間くらいは、座に見られるのはよだれのついた口と火にあぶられた指だけである。
 肉は各人に充分行き渡るだけあったから角の「パン屋」から「芝麻餅(チーマーピン)」(胡麻つきパン)と「牛の舌」(卵型の中国パン「牛舌頭餅(ニウシヨトウピン)」)をいくつか買ってきただけで、ほかの料理は何も用意されなかった。呉老人にはもちろんお銚子がついていた。

(2) 焼き肉とホルモン料理
       発言者 田中静一
           森枝卓士
           山口昌伴

<略> 吉川 朝鮮の焼き肉用具、ジンギスカン鍋は日、韓いずれが先でしょうか。
 森枝 朝鮮戦争後、鉄カブトが不要になって焼肉用に流用されたという話を奥村さんにうかがったことがあります。
 山口 その話は少々無理だと思いますが、台所道具を探訪しているときに北海道の滝川町でジンギスカン鍋の元祖というのを見せられました。いま使われているような鋳物の山型の鍋でした。発祥の地は札幌のあたりだと、当地では主張していました。元祖を自称する地域はいろいろあるのですが、もう一度確かめてみたいと思っていることのひとつです。
 田中 中国でいえば北京の烤羊肉の鍋は、いま日本で使われている鍋状のものを大きくしたものです。しかしもっと前には鉄の桟がタテ、ヨコに入ったロストルのような網で焼いていたようです。われわれが満州にいたときは、零下二〇~三〇度の原野で炭をおこしてやったものです。ただ朝鮮焼き肉はタレをつけてから焼きますが、中国では焼いてからタレをつける。味つけの違いはあると思います。<略>

(3) 牛乳も米も〝でっかいどう〟
           北海道知事     横路孝弘
           食の祭典委員会会長 下河辺淳

<略> ――グローバルな感覚から見ると、北海道
は中心である、と。その中心で開かれる今回
の「食の祭典」の狙いはどの辺にあるのでし
ょうか。
 横路 北海道のイメージというと、観光の
イメージは抜群にいいわけです。その抜群に
いい観光の中で、特に食べ物がいい。美味し
いものが食べられる、というイメージが非常
に強いわけです。このイメージは大切にして
いきたい。だから、この観光と食のいいイメ
ージを生かして、少し観光の裾野も広げなが
ら、同時に、北海道の持っている農産物や海
産物のいいイメージというものをさらに高め
ていこう、と……。味覚に対しては、期待は
あるんですけれども、本当に北海道の料理が
確立しているかと言うと、まァ、石狩鍋に札
幌ラーメンにジンギスカンというのを超える
ものが、まだ出てきてないわけですね。むし
ろ牛乳と馬鈴薯がいい。毛ガニのままがい
い。ちょっと手を加えた結果、かえって悪く
しちゃっている、という意見がある。
 しかし、何とか、北海道にしかない、いい
素材を生かしたものを、この機会に掘り起こ
して、みんなにも考えてもらおう、それは意
外と、漁師の人たちが浜で自分たちで作って
食べているもので、野性味があって、かつ大
変美味しいものがあるんです。あちこち行き
ますと、そういうものをご馳走になる機会が
あって、「これ、料理として出したらいいの
に」というのにぶつかるんですよ。<略>

(4) 美唄―[函館本線]―旭川
           本誌・佐藤栄邦
     撮影・出版写真部=大塚清

 札幌から旭川へ抜ける石狩平野地
域を空知と呼ぶ。岩見沢あたりの南
空知から滝川周辺の北空知へ入ると
いよいよ本当の北海道という感が深
まる。<略>
 喉のかわきをぜいたくにいやすと
忘れていた空腹感が襲ってくる。滝
川といえば、全道に店を広げている
松尾ジンギスカンの本店があるとこ
ろだ。立ち寄らねばなるまい。
 大体が、道産子のジンギスカン好
きには旅行者は驚くばかりだ。野外
パーティーにも、ハイキングにも、
ジンギスカンが出てくる。例の、鉄
兜みたいな独特の鍋を背負って野に
出るのである。そんな風土の中で、
羊肉のタレ漬け込み方式を考えだし
ヒットさせたのが松尾ジンギスカン
というわけだ。
 ●ジンギスカンに素敵なデザート
 リンゴなどの果物やタマネギなど
の野菜を混ぜ込んだタレは水を一滴
も使っていないという。これに二昼
夜ぐらい漬け込むのが松尾方式。店
ごとに秘伝の工夫を凝らした高級料
理仕立てではない。むしろ、大衆路
線に沿ったものだろう。といっても
さすが独特のタレは甘く、酸っぱく、
香ばしく、モヤシの上で羊肉の一片
一片が薄いキツネ色に変わっていく
のを待ち兼ねてほおばれば、口と頭
の中は大らかな北の大地への思い入
れでいっぱいになる。<略>

(5) 江差の話
           北川玲三

<略>「八方にらみの龍」の天井画がある
ことで知られる法華寺、ニシン漁と北前船交
易の舞台だったかもめ島――。そんな歴史を
訪ね歩く喜びもありましたけど、やはり、一
番の楽しみは初めて見る孫の顔。
 お祭りは八月九日から十一日までの三日間
ということでしたから、九日に出かけました。
 孫は伜に似て可愛く、利発そうでした。そ
う思ったのは、着いたその日だけ。翌日から
この子の守りをさせられましたが、泣いてば
かりいて、泣くと嫁に似たチンチクリン顔に
なって息み返りますから、さっぱり、めんこ
くありません。
 よく来たと、庭でジンギスカン鍋をご馳走
してくれましたけど、風が強くて火が散り、
なかなか焼けません。やっと焼け上がります
と二人で片っ端から食べ、生焼けのお肉を鍋
にジュージュー押しつけながら、食べなさい、
さあ、取ってくださいとすすめます。半焼け
の肉を食べさせて、おなかをくださせようと
したのかもしれません。
 あたりを見回して気づいたことは、ご近所
の家の屋根の傾斜が、ほとんどないことです。
雪は結構、降るのだそうですけど、冬は毎日
が海からの強風で、屋根雪は吹っ飛ばされる
ので、無落雪構造とか、そんな面倒な仕組み
の屋根は必要ないのだそうです。
 ジンギスカン鍋の火を吹き消すような強い
風の中に坐って見た、屋根雪の心配がいらな
い、ゆるい勾配の屋根のお宅が続く町――こ
れが江差の印象のすべてです。<略>

(6) ビール園で迎えた至福の日
           木津川園子

「夏が来ると、どうも漂泊の血が騒ぐ。去年に引き続き佐渡へ行こうと思っていたのを急きょ変更し、今年は北海道への寝袋紀行をおこなった。北海道は生まれ故郷である。その地で初めての原子力発電所は動かされようとしている。札幌市内の北海道電力本社前でひらかれる『泊止めればみな止まる』を合言葉の集会に行ってみることに決めたのだった。」<略>
 バスに乗って「サッポロビール園」へ。ビール工場の敷地
内にビヤホールの建物がいくつかあり、ビール党の楽園のよ
うなところだ。お目当ての三千円のジンギスカン食べ放題生
ビール飲み放題コースにチャレンジ。本当に次から次へとお
かわりを運んでくれるので信じられないほど飲み食いした。
さすがにできたての生ビールの味は最高だった。
 すっかりいい気分で表の芝生にねっころがっていると、古
いビール工場の上に、生まれて初めて見るほど大きな丸い虹
がかかっていた。なんだか幸先がいい。<略>
 昭和は64年1月7日で終わり、翌8日から平成1年になりました。昭和64年の本は見つからなかったが、多分ないでしょう。そこで、ここで15分休憩しましょう。私は部屋に戻ってエネルギーを補給してくるが、皆さんも15分後には戻っていなさいよ。

     《15分間休憩》

 はい、始めます。昭和64年に続く平成元年の(1)は、確かに元年発行ではあるが、中身は20年前の本です。出版社は目次の前にある「『講座日本風俗史』の新装について」で「内容はまったく同じである。ちなみに旧版の発行日は昭和三十四年八月二十五日である。また執筆者は次のとおりであり、当時も一流の執筆者である。肩書きも当時のままであることを付け加えておきたい。」と説明している。こんな噴飯物を書いても11人のどなたかは、ジンギスカン料理の権威で通った時代があったんですなあ。
 (2)もちょっと問題ありだが、田辺聖子の「姥うかれ」です。というのはだね、本当は昭和62年に出た本ですが、私が買ったのは平成1年7月発行の第3刷だったので、平成元年本としてここに並べました。
平成元年
(1) ジンギスカン料理のいわれ
       講座執筆者  俳人       長谷川浪々子
              教育大学助教授  西山松之助
              豆相史談会    鳥羽山瀚
              文学博士     大島延太郎
              教育大学     渡辺一郎
              法学博士     滝川政次郎
              近世社会風俗研究 田村栄太郎
              近世庶民風俗研究 中野栄三
              日本交通公社   餌取秀樹
              文部省史料館   遠藤武
              郵政審議会    三井高陽

 ジンギスカン料理のいわれ 最近は新劇や、映画でじ
んぎす汗物語というのがはやっている。もとよりこれは
蒙古の大偉人成吉思汗のことだ。本篇には、成吉思汗と
は関係がないが、動く道中食糧を歴史から説くには、成
吉思汗に登場してもらわないと、日本にはかかる豪壮な
道中食糧が見当らない。成吉思汗は各国を征服する為、
遠征軍と一緒に緬洋<原文通り>の大群を引きつれて、アジアを一蹴
した。将兵は 羊の肉を常食とし、野天で大平原を見な
がら、血祭りにあげた 羊を食べる。豪快な道中食糧の
雄である。
 彼等が、かぶっているカブトの上で、やいたものが、
今、日本でも流行している成吉思汗料理である。勿論日
本で売られている料理は、あらゆる調味料をまぜ合せ、
くさみの完全に消える香辛もいれ、たべ易くしているが
屋根の下では感じが出ない。蒙古では犠牲にすべき緬羊
を車にしばり、道中しながら、のどに長刀をつきつけ血
をまず抜いてしまう。駐屯する頃には、血が全部なくな
った緬羊になっている。これの皮を直ちにはがし肉をと
る。厳寒の頃には、羊皮はすぐ凍ってしまう。腐る心配
もない。<略>

(2) 姥けなげ
           田辺聖子

<略> ほどなく山頂に着く。いっぺんに気温が下り、山頂は早い秋であった。木々に囲まれたホテルの庭園にジンギスカンの台が幾つもある。休日のせいか、客はかなり多いようである。
 フェンスの彼方、緑の梢越しに、アルミ片のきらきらした市街が見え、海が見える。
 それを楽しみつつ、神戸牛や野菜をジンギスカン鍋で焼こうという趣向である。
 あちこちで煙が盛大に流れ、早秋の空へたちのぼる。
「伯父さん、ぼく、沢山ようけ食べるけど、かまいませんか」
 ノボルが顔を輝かせていう。
「おお、なんぼでもお上り」
 と長男はいい、
「何人前でも追加できるねんから」
 嫁も言葉を添える。長男はビールをノボルについでやるが、
「ビールより、めしがいいです」
 そんなことをいって肉の焼けるのを待ちかねているノボルの顔を見れば、とても親爺さんに「死ね!」なんていうように見えない。笑うとみそっ歯が出て、一層、幼い。焼けた肉を頬張りながら、
「ケンちゃんも来たらよかったのに」
 と長男の息子のことをいう。
「大学生になったら、もう親について来よらへん」
 長男がいうのへ、嫁が要らざる言葉を添える。
「ノボルちゃんも来年はがんばらないと」
 食事をしているときに、叱咤激励しなくてもいいのに。私はノボルが今にも「死ね!」といわないかと心配したが、美味なご馳走に満足したのか、「うん」と素直にいって食べつづけている。相手と環境によっては、若者は、ころっとかわるものであるらしい。<略>
 平成2年は7冊あります。その(1)は漱石の孫のエッセイスト夏目房之介が「現代」編集部から鍋論の注文を受け、同編集部のタケナカ君と共に「家族的ダンラン、郷土的ヌクモリと鍋の関係とは……。秋田で〝しょっつる〟を前にして考えた」報告です。570字枠のために「新宿とか池袋とか、田舎者のあつまる繁華街のネオンに氾濫するナントカ鍋! そういう街を小型にしたような赤ちょうちん横丁をいろどるカントカ鍋! あれらの鍋群はみんな〝都会の中のフルサト〟を標榜しておるわけね。会社とラッシュと不倫で疲れたおじさんが、つい『無礼講、無礼講!』などと叫んでしまい、その実きっちり中間管理職による部下懐柔の場だったりする郷土料理屋。地方出身の学生達が合コンなどと称して人恋しさやウサや下心を煮こんだりするのが、そういった場所の鍋なのである。」(288)といった独自の視点を大幅カットせざるを得ませんでした。
 (2)は芥川賞作家高橋揆一郎の「じねんじょ」です。国後島を正面に望む漁業と農業のまち庶別町の山中にある川上温泉という元町営の露天温泉の管理人として、横浜に住む75歳の梅岡礼吉がワゴン車できて、5月から9月末まで滞在する。
 4年目となる今回も礼吉は、まず同温泉愛好会の大山会長宅の納屋から前年預けた発電機、冷蔵庫はじめ様々な生活道具を取り出し管理人小屋へ運ぶ。男女別の浴槽を掃除など今夜は飯を炊く余裕がなかろうと大山夫人差し入れの弁当を礼吉はカラーテレビを見ながら食べた。
 引用した箇所は、その翌日の夕方、大山夫妻、義弟夫婦2組の6人が開いた礼吉の歓迎宴の様子からです。
 (3)は「こどもと暮らすインテリア術」、「ひきこもり支援ガイド」などを書いた奈浦なほさんが、結婚して東京から札幌に移住して、その違いをたくさん並べた中の一部です。「結婚祝いに親からファックスを買ってもらった。札幌ですぐ生活費を稼げるはずもなかったので、東京の仕事をそのまま持ってきたのだ。それにファックスを使って『地方』で仕事をするなんて、ちょっとカッコイイかもしんないとも思った。」(289)ともあるから、時代を先取りしていたことになります。
 (4)は第22代日本銀行総裁だった佐々木直の追悼録からです。忘年会のジンパ会場として湯島の緬羊会館の名前がありますが、同会館のジンギスカン料理店は昭和39年に開店、同56年に会館改築のため1年休み翌57年に新会館で再開しているので、直さんがずっと通して顔出ししていたのでしょう。
 (5)は水産庁などで多年鯨研究に携わった須賀敬三農学博士が書いた「捕鯨盛衰記」にある羊肉ならぬ鯨肉を焼く鯨ジンギスカンの話です。鯨のジンギスカンは未経験だが、焼けば脂が飛び散るというのだから羊肉同様にいけるでしょう。
 (6)は作家藤本義一の「家出旅」です。中学生時代、彼は結構なワルで、仲間2人と米軍宿舎でピストルを盗んだ。先輩がそれを使って強盗を働き、捕まった。盗んだ藤本たちは逮捕されると沖縄で重労働という噂を聞き、各自隠れることになり、藤本は北海道に来て函館で泊まった。雑誌「現代」の企画でその時の旅館探しをしたという半ば思い出の記です。
 44年前となると、昭和21年か22年前、青函連絡船に乗るときDDTを浴びせられ、浮遊機雷にヒヤヒヤしながら運航していたころじゃないかな。先輩がピストルは俺が盗んだとかぶってくれたか、とにかく藤本たちは少年院行きにならずに済んだようです。
 (7)はワンマン宰相といわれた吉田茂を巡る5つの挿話の3つ目、旧満洲を支配していた軍閥張作霖の豪華晩餐に招かれ、しきたりを無視して、張を憤激させようとしたことがあるというのです。ただ、この「スピーチのねた」の筆者の名前がないので、羊肉料理だけでも60種以上はともかく、烤羊肉は怪しいね。ふっふっふ。
平成2年
(1) 鍋と愛を煮つめて
           夏目房之介

 鍋は愛である。厳しい現代社会の風圧をかわして身を寄
せる家庭のダンランを求めて、また砂漠化の進む都会でお
互いのフルサトへの想いを慰めんとして、あるいは管理社
会に傷ついた心にヌクモリを欲して、われわれは無意識に
鍋の愛を求めている。<略>
 あなたは郷土料理というとやたらとナントカ鍋であるこ
とに疑問を持ったことはないだろうか?
「そういえば多いですね。有名なところで石狩鍋、ジンギ
スカン鍋、あんこう鍋、ふぐ鍋。さくら鍋、スッポン鍋に
鯛ちりもいいなー……」
 それ、ああたが食べたいものを並べてないか? 何しろ
フグ鍋もスッポン鍋も食べたことがないヒトだからなー。
「だって去年まで学生ですからねー、はふはふ、ンー、た
らもおいひいでふねー、はひ」
「いずれにせよ日本国民の食思想を支配する鍋のダンラン、
フルサト、ヌクモリという象徴作用の強力さには注目すべ
きものがあるね」
「僕の調べたところでは、煮ている鍋から食べる料理は十
八世紀頃からあるようですけど、各地に名物鍋がどっとふ
えるのは明治以降みたいです。あの寄せ鍋だってルーツは
中国で大正の初めに渡来したらしいし、ジンギスカン鍋も
同じ頃の日本人の創作鍋だし」
「だからこの貝焼きも、ひょっとしたら〝郷土料理なら鍋
だべ〟思想に汚染されて鍋化されたのかもしれない」

(4) じねんじょ
           高橋揆一郎

<略> 礼吉が湯元の高みまで見回り、あらためてホースの加減
を調整し、入浴の注意事項を誌した看板をきれいに拭きあ
げ、沢水にころげ落ちた石をとり除いたりする間に、二人
はもの静かに湯から出たり入ったりして夕方近く、ありが
とうさんでした、よろしく頼みますといって帰っていっ
た。
 入れかわりにトラックの重々しいエンジン音がして、大
山農場の若者二人が休憩所用の折り畳み式のテーブルや椅
子を運んできた。
 続く乗用車で大山会長夫婦とその義弟夫婦の四人連れ
が、礼吉の歓迎宴だといってジンギスカン料理一式を持ち
込み、静まり返っていた山峡の湯治場は急ににぎやかにな
った。
 一行六人が思い思いに湯に入り、日が傾くころにはテン
トの横にビニールの敷物が敷かれてジンギスカン鍋に火が
入った。暮れなずむ空に羊を焼く煙が立ちのぼり、いい
匂いが漂う。
 ――毎年同じことをいうようだが、梅岡のじいちゃんは
救世主といっしょだとおれは思ってるんだ。どこからとも
なく現れてこの温泉の守り神になったんだからね。並みの
人じゃないね。
 会長の細君が、毎年雪どけ時期になるとことしはきても
らえないのではないかと、みんなでびくびくしてもう四年
め、やっぱりこうしてきてくださるんだから手を合わせて
拝みたくもなるよと、義妹という人とうなずきあってい
る。
 会長の音頭でビールのグラスをあげて乾杯したあとも話
題はしばらくそこに集中する。酒の飲めぬ礼吉は恐縮して
聞くばかりである。<略>

(2) 北海道≠東京の反対語
           奈浦なほ

<略> ビールといえばサッポロビール。ジンギスカンといえば、ラム肉を
買うと肉屋でジンギスカン用の七厘を貸してくれる。花見といったら
ジンギスカンなんである。ラム肉はどこの肉屋、どこのスーパーでも
売っている。
 季節になるとキノコ類が豊富で値段も安いが、毎年キノコ狩りで年
寄りが何人か必ず行方不明で死ぬ。
 ごはんを盛るしゃもじをヘラといい、お味噌汁をよそうおたまを
しゃもじという。
 中華まんじゅうといえば、肉まんやあんまんは関係なく、大きなど
ら焼きを三日月形にしたお菓子をさす。端午の節句には柏餅でなく「べ
こ餅」という米の粉でつくられたお菓子を食べる。
 いもの煮っころがしといえば、サトイモでなくジャガイモの煮っこ
ろがし。
 鳥の唐揚げを「ザンギ」と呼ぶ。
 ヤクルトやヨークより「カツゲン」。漢字で書くと活源となるのだ
ろうか。「ナポリン」という名のジュースもある。奈浦なほとしては
親しみを感じる。<略>

(3) 月曜クラブと直さん
           小林庄一

 月曜クラブという、一二〇人くらいの会員が毎月集まって懇談を重ねている会合がある。始まってからもう約三〇年になる。佐々木直参は、亡くなられるまでの約五年間、この会の事実上の会長であった。<略>
 やはり月曜クラブの会員で、群馬県の沼田の奥の大地主で、千明康という人がいた。奥日光で丸沼温泉ホテルを経営しており、かつては毎年秋に、会員が大挙して慰安旅行に訪れた。直さんも一度や二度は参加されたはずであるが、なにしろ大勢で深夜まで大騒ぎだったから、はっきりとした記憶がない。それよりも同じ千明さん主催の忘年会が毎年、湯島の緬羊会館でジンギス汗鍋を囲んで催されたが、これにはたいてい直さんの姿があった。これらの会合には、橋爪や千明が日頃ひいきにしていた飲み屋の女の子たちも大勢加わって、今思えば随分と華やかなものであった。<略>

(4) 鯨食文化
           奈須敬二

<略> ちょっと変わった食べ方では、成吉思汗鍋もどきの鯨吉思汗焼があげられよう。油が飛び散るため、子供のようにあてがわれたヨダレ掛けに、皆大はしゃぎであった。成吉思汗鍋と全く同じ鍋にのせたラードが溶けるのを待ち、タレを付けてジュージューと軽く焼いた鯨肉の味は絶品で、友人たちの人気を集めた。彼らもまた佐香さんと同じように、「こんなにおいしい鯨の肉が食べられなくなる日が本当に来るのか」という問いに重ねて、「そのような日のこないようにすることはできないのか」というのが、友人たちから異句同音に発せられた筆者への質問であった。<略>
 さて、鯨の肉は安価で栄養が豊富であるということから、広く一般家庭の食卓を賑わした時代があった。そのような食生活も、商業捕鯨が全面禁止という事態になってからは遠い過去の存在となったことは寂しい。しかし、鯨肉の家庭料理も記録に残しておくとことは、あながち無意味ではなかろう。

(5) 十四歳・家出旅
           藤本義一

<略> 四十四年前の家出コースをたどってみよう
というのが、今回の旅である。
 思い出たどれば、まずは北陸路を走る鈍行
の窓から見た日本海の黒っぽい海。青森は浅
虫に一泊して、翌日は青函連絡船で函館に上
陸し、ジンギスカンなるものをはじめて口に
した感動。そして函館のはじめての宿がアサ
ヒヤかアサヒカンであったこと。二階の小さ
な部屋で寝た記憶。宿帳には逃亡者だから偽
名を書いたという思い出といったところで、
さて、このアサヒヤかアサヒカンを捜し出そ
うということになった。通路に面していたが、
少し奥まっていた宿だった。入口の右手に階
段があった。が、そのアサヒが〝朝日〟か〝旭〟
か。それとも〝 あさひ〟なのか判然としな
い。
 が、あったのだ。〝旭屋〟があった。で、飛
び込んでみると、美人の女将さんがお出まし
になり、二十五年前に嫁いできましたので、
四十四年前はなかったのではないかという答
え。がっかりして、次にストリップ劇場を捜
しに行くと、そこには雑草が生えているばか
り。函館山に登って見渡してみたが、なんの
記憶も蘇ってこない。四十四年前には、たし
か函館山の山腹には穴ポコが開いていたと地
元の運転手氏にいうと、
「ああ、当時はまだ軍の火薬庫の名残りがあ
ったアーね」という。
 そこでジンギスカンを食い、もう一度〝旭
屋〟に立寄ると、さくらももこさんのような
女性が出てきて、
「あれから、奥さんとなにかと話し合ってわ
かったんですが、四十四年前はオバアチャン
が〝旭屋〟という旅館をやってなさったよう
です」<略>

(6) 吉田茂が湯豆腐が好きで、
   荒畑寒村がヒジキを食べなかった理由
           文芸春秋

<略> ただ、吉田は百戦錬磨の外交官でもあっ
    たから、すさまじいこともやった。
 奉天総領事として中国にいたとき、のちに
関東軍によって爆殺された軍閥の張作霖から
晩餐に招待された。羊肉の料理だけでも六十
種類が出されるという豪華な食事だったが、
吉田はとうとう一口を食べなかった。招待に
応じておきながら、こんな失礼な話はない。
張作霖の面目は丸つぶれである。
 こうした振る舞いに及んだ理由を訊ねられ
た吉田はたった一言、「汚いからだ」と答え
た。中国の宴会では、まず主人が料理に箸を
つけ、それから同じ箸で客に料理を取り分け
るのが習慣である。吉田はそれがいやだった
というのだ。
 しかし、これはどう考えても詭弁だ。外交
官として中国勤務が長かった吉田が、中国の
宴会のしきたりを知らないわけがない。それ
を熟知したうえで招待に応じたのだから、吉
田はあきらかに意図的に無礼をはたらき、張
作霖を挑発したのである。
 平成3年の(1)は、題名のサフォークはどこへ行ったと言われても仕方がないくらい短縮させてもらった北海学園企画調査室の佐藤正之氏の「北国の経済学 サフォークの挑戦」からです。
 「1999年の干支がヒツジだったこともあって、年末から正月にかけて、新聞紙上やテレビにヒツジがしばしば登場した。」としてサフォーク種を紹介。東京の通勤圏にある神奈川県秦野市農協のサフォーク導入を取り上げ、こうした首都圏のサフォークに比して「物流コストが割高になる」道産サフォークのハンディ克復には品質改良とともに「ジンギスカン以降の『風土にとけこんだ食文化』を北海道でいかに定着させて、これまで以上に育てるかの視点がぜひ必要だと思う。」と結んでいます。
 同(2)は、このところ坊さんみたいなことを書いている作家五木寛之が書いた「海外に飛びだした三人組が、マカオ・グランプリとインドの南十字星団に挑む痛快小説。(290)」だそうです。なにしろ20冊以上のシリーズなので付き合いきれません。愛読者のブログなどからすると、竜さんはプロのドライバー、おれといっているジローは車マニアの青年、ミハルは美容師だそうで、ジンギスカンが出るのは札幌のサッポロビール園で食べるところだけのようです。
 (3)は嵯峨島昭の本「ラーメン殺人事件」の中の「第六話 ジンギスカン料理殺人事件」です。読むと犯人逮捕より北海道流の焼き方を教えるために書いたという感じがします。テレビ撮影班が入った店は石狩市のペケレット湖園となっているが、焼き方はどこの店でもタマネギを敷いて肉を乗せると給仕の女性にいわせ、肉の上に野菜でなく野菜の上に肉が北海道流なんだと吉田プロデューサーに認めさせ、強調してます。
 私はどこの店でも「野菜の湯気で蒸され」た肉を食べさせるとは思いませんね。ウィキぺディアの写真も野菜の上に乗せているが、長年あのまま掲載されてきたのは、焼き方の一例としてであり、皆がそうするわけではない。
 ジンギスカン焼きともいうように、脂身で焼き面に脂を塗り、羊肉は直に焼き面に乗せ、同時に野菜も並べるのが普通で、野菜の湯気で蒸し焼きにするようにと書いたレシピはないはずです。
 それから嵯峨島は札幌出身の芥川賞作家の宇野鴻一郎の別名です。「ジンギスカン殺人事件」という中津文彦が書いた本もあるので、読みたいと思った人は間違えないように。
 (4)は永く札幌鉄道病院の皮膚科医長を務め、のち札幌皮膚科クリニック院長に転じた高島巖氏の随筆集「これでも医者だどさ」からです。北大医学部OBの同氏は学生時代からジンギスカンを食べに薄野へ出掛け「昭和二十三年のころだと思うが、マトンだのラムだのという英語が定着していなかった時代、札幌で羊肉を買えるのは雪印の肉売り場だけであった。そして二歳のオスがうまいとわれていたが、当時もう今のようなスタイルの焼き鍋があったかどうか定かでない。」と豪語するくらいの古強者です。
 函館生まれの同氏は「食いしんぼう人生」の部の「朝の朝イカ」で「イカ刺しは、ご飯にぶっかけてかっこむものだから、昔から素麺のように細く切るものであって、イカソーメンという特別なものがあったわけではない。」と書いているが、私もそう思う。
 (5)は国鉄の技術研究誌「RRR」からです。書いたのは国鉄技術研究所車両研究部長だった三品勝暉氏。同氏はJRの車両解説の本を書いており、それらの著者紹介によれば、昭和35年国鉄入社、中央鉄道学園で1年間研修の後、札幌鉄道管理局苗穂工場に配属されてからの苦労話です。
 部品の磨耗修正の要不要を巡り古手工員組と対立、夕方工場寮に来いと言われる。殴られる覚悟で部屋に入ると「こわいオジサン達が居る居る。トグロを巻いて生ビールの樽をまん中におき、もう酒盛りをはじめていた。」。ウィスキーをたっぷり入れたビールの大ジョッキを飲めといわれ、一気飲みしたら親玉級のオジサンが「今まで悪かったな、今日から仲良くしようや」といわれ、それからは失敗も皆に助けてもらえるようになった。「このときの体験が、その後の私にとってどれほど役立ったか判からない。」と感謝している。

平成3年
(1) 北海道のヒツジ
           佐藤正之

■北海道のヒツジ
<略> そもそも、ジンギスカン料理が、
札幌で話題になりだしたのは
1935(昭和10)年ごろ、羊毛生産の
役目を終えたヒツジの肉の有効利用
策だったという。それがいつ、北海
道の名物料理になったのか。少なく
とも、1966年にオープンしたサッポ
ロビール園が、食べるという意味で、
消費拡大に寄与したことは疑いない
ところであろう。<略>
 ところが、ヒツジの飼養頭数は、
羊毛の輸入自由化や化学繊維の普及
によって、1976年にはなんと1万頭
にまで減ってしまった。その一方で、
北海道におけるジンギスカンの名声
はますます高まる。需給の帳尻が合
っていたのは、毛用種の食いつぶし
とオーストラリア、ニュージーラン
ドからの羊肉の輸入の増大があった
からである。<略>
 北海道という風土がジンギスカン
を育てたといってよい。大衆に支持
されて消費が拡大した。それととも
に、各種の香辛料を混ぜ合わせたタ
レの考案が背景にあったことは記憶
されてよい。
■サフォーク種のセールスポイント
<略> いまではラムのステーキやシャブ
シャブ、略してラムシャブも、なか
なかの人気である。観光客も名物と
いうことで、胃袋を羊肉に開放する。
 士別市では、いま「サフォークラ
ンド」の創出を、まちづくり運動のキ
ャッチフレーズにしている。<略>

(2) 速度無制限の国へ行きたい
               五木寛之

<略> うまそうな匂いがただよっている。
 じゅうじゅうと肉の焦げる匂いもする。
 おれたちはサッポロ・ビール園のジンギスカン鍋をかこんで、肉が焼けるのを待っていた。
 支笏湖でジンギスカンの隠された宝の発見に失敗したおれたちは、これから身のふりかたを考えるために、ここへ集まったのである。
「もう焼けたんじゃないか」
と、竜さん。
「もうすこしよ。ジンギスカン鍋はよく焼いたほうがおいしいのよ」
 ミハルが竜さんの箸をおさえて言った。
 そのうちようやく、鍋の上で肉や野菜が焼けてきた。
 ジンギスカン鍋はおれの大好物だ。
 羊の肉は牛肉とちがって、いくら食べても飽きることがない。
 それにリンゴの香りのするたれはさっぱりしていて、内地ではあじわえない味覚である。
「なあ、ジロー」
と、竜さんがビールの泡を口につけながら、おれに言った。
「なんですか」
「おれは考えたんだが、九州から北海道まで歩き回ったんだ。今度はどっか国外へ出るというのはどうだろう」
「国外へ?」<略>

(3) ジンギスカン料理殺人事件
           嵯峨島昭

<略> お運びの少女が、アルミ盆にうす切りの羊肉、玉ネギ、ジャガイモを盛って運ぶ。なくなると、どんどん追加を配る。茹でたトウモロコシや握り飯も配る。全員のノドがゴクリと鳴った。
「カメラ、もう用意しといてよ」
 と菊川ディレクターが言った。
「配られたら、まず肉を焼く。ジュウとうす青い煙が出るところをカメラにおさめたい。肉にまず焦げ目をつけて、肉汁を封じこめるんだ。それから、上に野菜をのせて、肉をむし焼きにするんだ」と吉田プロデューサー。
 お運びさんがテーブルに来た。まず熱したジンギスカン鍋に玉ネギをのせ、その上に肉をのせる。
「あっ、まず肉の焦げる煙を撮ろうと思ったのに……これが北海道風なの?」と吉田プロデューサー。
「はい、どこでも、そうしてますよ」とお運びの娘。
「そうか……北海道はボク、はじめてなので知らなかったよ。じゃ、ここは北海道流で撮影しよう。ウソの画面を作るのは、いけないからな」
 うす切りの丸い、柔らかそうな仔羊肉は、野菜の湯気で蒸されて、みるみる灰色に変わってゆく。まだ半生なのに、みな争って箸をのばした。
 西郷は、ジンギスカン鍋のフチの、脂がたまってジュワジュウいっている部分の鉄板に肉を押しつけて、ちょっと焦げ目をつけた。その端をタレにつけて、口にほうりこむ。
「ハフッ……うま、うまい。ああ、肉汁が口の中にあふれる……いい味だ。<略>

(4) 成吉思汗
           高島巌

<略> すすきのに生肉の炭焼きを売り物にした古い成吉思汗屋・だるまがある。昭和二十九年開店ということだが、学生時代から何人か連れ立って行っても、いつも満員で入れたタメシがない。それがこの頃、毎週通う韓国語学校の帰り、八時半頃その前を通るとしばしば空いているときにぶつかる。そうすると腹が空いていようがいなかろうが、肉の食いたい日であろうがなかろうが、入らなきゃ損とばかりついつい反射的に入ってしまう。
 右も左もみな生肉・炭焼きの成吉思汗屋なのに、客の混んでいるのはこの店だけである。しかし、さすがに生肉はうまい。ここの味を覚えたら市販の冷凍肉など見向きもしたくなくなる。聞くともなしに耳に入ってくるところによると、人手を増やして早番、遅番の二交代制にして仕入れ量を増し、コスト高の長葱一本やりを玉葱と半々にして今に至っているという。おかげで十二時近くでも売り切れということがなくなくなった。
 この店が開店したての頃、札幌でも成吉思汗を食べられる人は少なかったという。先の朝日百科によると、北海道で初めて羊肉を食ったのは昭和の初めで、どうも滝川の種羊場の職員が初めであったようである。成吉思汗という名も、ガクのある獣医さんあたりが命名したものではなかろうか。
 先年定年退職された北大癌研の小林教授のお話を聞く機会があった。話題は癌予防医学のことだが、発癌性突然変異惹起物質の最たるものが、脂身の混じった獣肉のコゲであるという。先生、「よく成吉思汗なんか食べるものだ」とおっしゃった。サーテお立ち合い、どうなさる。私のような年になってイソイソとだるまの門をくぐるとは、これでも医者だどさといわれても仕方あるまい。

(5) 想い遙かに
           三品勝暉

<略> さて,いよいよ苗穂工場機関車職場へ赴任した。主棟のなかには
C51,D50,D51等々私の好きな蒸気機関車がごろごろしている。気
の遠くなる程の興奮をおぼえ,しみじみと苗場が配属されたことを
幸福だと思った。早速,入検実習に入ることになったが,これが地
獄のはじまりであった。煙室,火室内でまっ黒になるのは当然とし
て我慢できるのだが主台枠のボルトゆるみを検査していると直径50
mmはあろうかと思われるようなボルトが次々に私めかけて投げられ
る。同じ下まわりに何人もの人がむらがっているのだけれど何故かボルト
類は私の所へしか飛んでこない。何の前ぶれもなく私のそばでクロスヘッドが滑
り棒からたたき落とされる。こちらもぼんやりしていたかもしれないが,どうも
私に対するいやがらせ,いじめじゃないかと思いたくなる。そういえば誰もろく
に口もきいてもくれない。折角蒸気機関車に接していながら,すっかり気持ちは
暗くなってしまった。おまけに独身寮が言語に絶するひどさで,私の入る前に自
殺者が出、入っている間に精神状態のおかしくなった奴が出、私が出た後には放
火する奴が出る程すさみきっていた。更に,悪のたまり場が3ヶ所あり、泥棒,
恐喝,夜中に女を連れ込む等,無茶苦茶な状態だ。とてもこんな寮からはろくな
労働力は生まれないと考え,思いきって事務次長に話したら「それなら君が自治
会長をやって少しでもよくしてみろ」と云われてしまった。何人かの良識を持っ
た年長者の協力を得,まず寮の草抜きをしてみることにしたが,女とジンギスカ
ンの煙を上げている奴もいたりして,とても草抜きなどをする雰囲気にない。後
に事務次長が私の身辺をひそかに調査するくらいに,思想家との徹底的につき合
い,議論もしたが,寮の改善などちっともすすまない。半分麦の入ったメシでは
すぐ腹もへるので,毎晩駅前でジンギスカンを喰い焼酎を飲みながら夜行列車の
ドラフトをきくのが唯一の楽しみとなってしまった。<略>
 平成4年の(1)は「月刊しにか」3月号からです。引用した「森の都――北京」の筆者安保久武という人物はどこかに登場させた覚えがあり、検索したら前バージョンの「北京を訪れた人々の記憶に残る正陽楼」で見せた7枚の組み写真を撮った毎日新聞の記者でした。
 正陽楼は昭和17年に閉店したため、同店で働いていた烤羊肉を刻む職人、コンロに薪をくべる給仕、さらに細長い鉄板を並べた鍋を囲んで食べる人々など貴重な写真ですから、初めてこの講義録を読む学外の人はぜひ前バージョンの写真を見なさい。
 (2)は「大学4生のために臨時増刊号をつくりました」と表紙にうたった就職特集の「週刊朝日」からです。これは1ページごとに各大学の4年目の学生一人の就職経験談と「うちの大学自慢」という短い談話を載せています。それで北大の見出しは「交通費で金持ちになる」で、鉄鋼メーカーに就職する経済学部の男子学生の就職経験談とうわさ話、「うちの大学自慢」は北大教養部事務長岩沢健蔵さんの談話です。
 学生は15社ぐらいの就職担当者と会い、ごちそうになり少し太ったくらい。それより5、6社の面接を東京で受けると、各社から交通費がもらえる。面接日は殆ど同じだから、1往復で済み交通費の残りは「懐」で50万円もらうけたやつのもいるという話を聞いた
(291)とあります。
 (3)は私の知る限りではジンギスカン鍋ではなくジンギスカン釜と呼んだ唯一の随筆です。作家稲垣は初めてジンギスカンを食べる訳ではないと思うが、焼くのは豚肉なので鍋でなく釜と呼んだのかも知れないし、近く店を始めるという太田なる主人が、話題づくりにジンギスカン釜と呼んでいるとも考えられる。また「人間タンク」とはロボットが出てくる映画だが、そのブリキ缶に目鼻みたいな顔、稲垣の言う「お面のようなもの」の上に肉を載せたはずなのに、撃剣のお面の上で焼いた肉はうまいという。別々に焼いたと受け取れなくもないが、どうもよくわかりませんなあ。
 (4)は札幌学院大の公開講座における十勝・池田町助役、大石和也氏の講演記録からです。講師紹介によれば「ワイン町長で知られる丸谷金保町長のもとで真っ先にドイツに渡り、ワインづくりの研修に専念、栽培から醸造までを学んで帰り、今日の「十勝ワイン」を築き上げた。」(292)とあります。
 かつて十勝では牛肉はほとんど食べなかった。牛肉は「うまいというと、自分の家で飼っている牛をみんな食べて仕舞うから、牛肉が乳臭いなどというのは、それを予防するための陰謀ではなかったのか、とさえ思うくらいです。これはまんざらでもない推測と思えるふしがあります。」(293)と、2年で町内の全綿羊消滅の実例を挙げたのです。
平成4年
(1) 森の都――北京
           安保久武

<略> だが何といっても大きな魅力は食べ物。それも有名料理店とい
うのではなく庶民的な食べ物の何と豊富だったことか、夜業に疲れ冷え
た私たちの体を癒してくれた、大きな豚の骨をだしにしたホントンの熱
い汁の味、少々懐が暖かければ烤羊肉(ジンギスカン)の豪快な雰囲
気、羊の肉を焼く煙が夜空に高く昇るのを眺めながらパイカルを傾けて
は肉の皿を積み重ねていくあの騒々しい雰囲気の中での味は格別。羊肉
は苦手という人には烤牛肉という店も在り、その店の粟の粥のとろける
ような甘さも、こう書いていると思い出しながらよだれがでそうになっ
てしまう。僅か五年余の私の生活でも次から次へと尽きぬ思い出に、北
京は奥深かったという思いでいっぱいです。
              (あぼひさたけ・元毎日新聞北京支局員)

(2) うちの大学自慢
           朝日新聞北海道報道部・秋野禎木

 やっぱり自然に恵まれた広いキャンパスですね。冬木構内でスキーの練習ができるし、夏は緑の木陰でジンギスカン鍋のコンパなんかやってます。しかも、170万都市・札幌のど真ん中ですから、とても便利です。(北大教養部事務長 岩沢さん)

(3) 早春抄
           稲垣足穂

<略> 夕方、城左門、岩佐東一郎を伴い来る。誘われて衣巻と合して四人、近所の太田さんという家へ出掛ける。其処でジンギスカン釜を食わせようというのである。雨が降っている。木立の梢が煙っている。もう春雨だ。材木屋の横を曲る。笹の葉に白紙が刺してあったと思ったら、座敷で笹沢未美明に初対面面した。蓆敷の上に炉が置いてあって、その上に人間タンクのお面のようなものをおっかぶせる。その上に豚肉を載っける。葱が転り落ちる。薬味は唐芥子の油、ニラの花の味噌、ゴマ味噌、豆腐味噌、エビの油等。太田さんの奥さんか妹さんかどっちか判らない婦人から、小生だけ大蒜を貰う。撃剣のお面の上で焼いた肉はうまい。が、ジンギスカン釜と云うからには、もっと線の荒いのが本当ではなかろうか。スキ焼流の切り方は温和しいし、又日本酒の盃では興がない。牛でも豚でも、羊でも狸でもいいが、もっと部厚いのを焼いて、丼鉢のようなものでもって玖瑰露かウォッカァを飲みたかった。主人は終りまで顔を出されなかったが、近くこの料理を何処かで始めてみたい計画があるのだそうである。笹沢氏が昵懇なので今夜吾々をして試食せしめたという事であるが、商売にするなら今少し胡沙吹く界域の気分を出して貰いたい。衣巻も同感した。「あれなら普通のチャップと余り変らんではないか」と。<略>

(4) 牛肉の消費を進める運動
           大石和也

 ワイン・アンド・ビーフというんですが、だいたいワイン片手に牛肉を食べるというのがヨーロッパスタイルで、このスタイルでないとハイカラではない、といって我々が考えていたのが、昭和四二、三年頃です。それでまず、池田町の人に牛肉を食べさせる運動をやろうということになったわけです。これが昭和四四年頃です。肉牛はたまたま安く買って育てたら、ある時高くなりまして、それらはみんな町民に還元したらいいだろうということで、わざわざ牛肉の日をつくったわけです。一カ月に一回と、それから三カ月続けてやりますとか、そもそも昭和四〇年代以前までは十勝で肉を食べるということは、豚肉が主体であって、誰がいったかわかりませんけれども、「牛肉は乳臭くてうまくない」ということになっていました。<略>
 昭和三五、六年頃にジンギスカンがうまいということが広まった時、町に三〇〇〇頭いた綿羊が、二年間で一頭もいなくなりました。ジンギスカン用の綿羊をどこに行って探すかというと、内地にいかなければ綿羊が手に入らなくなってしまったのです。ジンギスカンがうまいというと、二年間で三〇〇〇頭ですよ。あっという間に食べちゃったんですね。だから、あんまり牛肉はうまいなんていったら、密殺してみんな食べてしまうから、牛肉は乳臭くてうまくないよ、せいぜい豚で我慢しなさいといったのではないかと思うのも、あながち的外れではないように思えます。当時、十勝あたりでは、すき焼きといっても豚肉を使っていたものです。<略>
 平成5年の(1)はジンギスカン関係の文献ではないけど、北大ならではの原始的ジンギスカンパーティーの写真を見付けたので紹介します。筆者の宮崎忠夫氏は昭和47年卒ですが、OB名簿で確認すること忘れたので、今何学部出かはわかりりません。「2年生の時はほとんど講義がなかったり」「大学本部が数カ月間にわたり占拠されたり、大学正門前で機動隊とデモ隊が夕方から翌朝またぶつかりあったというような」ことが北大でもあったと書いています。
 またこのころ硬式野球部の監督を務めた故竹村八郎氏は理学部で化学、学士入学で文学部で社会学を専攻した勉強家でした。学生時代、札幌松竹座の夜警のアルバイト以来の友人で、私のゴルフのコーチでもありました。
 (2)は俳誌「ホトトギス」からの随筆です。キツネは登山者が野営する場所をよく心得ていて、パトロールするでしょう。飯山さんたち3人はコーヒーを飲んだ後、起き出して「ジョギングをして少し体を温めたが、暗闇の中で熊がうろついているような気がしてすぐに石室に戻った。」(294)そうだが、初心者でなくても用心するに越したことはないよね。
 (3)は道産子の元レスリング選手で、現役のジンギスカン店主が筑波大の修士課程を修了した実話です。
 道内高校レスリングの名門士別高から中央大レスリング部選手になった新出隆さんは、メキシコ五輪の夢破れたことから卒業後、コンクリート・パネル製造業に就職。若い親方として奮闘、資金を貯め2年後に東京・赤羽に最初のジンギスカン料理店を開いた。
 さらに3年後、都内東十条にも1店を開き、レストランや居酒屋もと手を広げていたとき、旭川南のライバル選手で中央大レスリング部では主将・副将の間柄となった親友、中田茂男さんから「人生は仕事や金だけではないぞ」と言われて第2の人生を模索し、筑波大大学院へ進むことにしたそうです。
 (4)は北大山岳部OBで登山家の新妻徹氏が日本山岳会北海道支部の会報「ヌプリ」に書いた「支部創立の経過と想い出」からです。私より2年先輩の新妻さんは農学部畜産学科卒、進駐軍の高官が視察に来て屠畜場が不潔という理由で畜産学科が廃止されそうになった秘話を伺ったことがあります。
平成5年

(1) 70年安保と大学紛争
           宮崎忠夫

<略>なお、野球の思い出では、多分他の日とは誰も書かないと思うので、敢えて言わせて頂きますと、私は全日本選手権でヒットを1本打ちました。

資料その13
練習の後のジンギスカン・パーティー。土を掘って鉄板を乗せて。モリモリ。左から宮崎、荊木(旧姓小島)、菊池、馬場。提供 馬場哲也氏(47)

(2) 石室
           飯山広美
 
 九月五日と六日、大雪、お鉢平めぐり男女十一人の登山パーティー
に参加した。水や食料、着替えなどの入った重いリュックを背負い、
初心者の私は皆に助けられながら夕刻黒岳の石室に着いた。
 テントを張り終え、夕食のジンギスカンを囲んでいると、いつ来た
のか痩せたキツネが一匹じっとこちらを見ている。焼けた肉片が弧を
描いてキツネの足元に落ちる。「野生動物に親切にしては却って動物
の為によくない」と注意の声があがる。しかし、空腹のキツネにとっ
てこの匂いは残酷だと思った。
 食事の後、テントに入ったが夜中に寒くなると予測した私たち女性
三人は石室へ移ることにした。薄暗い石室の中はほぼ満員である。あ
るだけの衣服をまといシュラフにくるまっても体は冷える一方であっ
た。余り寒がるので、東京からの登山者の一人がコッフェルにお湯を
沸かしコーヒーを入れてくれた。両の手の中で一口ごとにコーヒーは
冷めていった。<略>          (平成四年九月二十日)

(3) 居酒屋のオヤジが哲学的に
    体育方法学を研究し大学院修了
           週刊東洋経済

 「よく頑張ったね」という一言に、
 思わず熱いものがこみ上げて
きた。手渡されたばかりの卒業証書
を固く握りしめながら「しんどい三
年間だったが、よくしのいだぜ」と、
自らの労をねぎらってやりたい気持
ちだった。円形脱毛症に悩まされな
がら、毎日毎日、辞書片手になれぬ
原書と格闘し、やっとつかんだ修了
書である。メキシコ五輪を目指して、
レスリングで汗を流した二三年前に
比べて、何倍もしんどい三年間だっ
た――。
 3月25日に行われた筑波大
学の平成4年度大学院修了
式。最年長の新出隆さん(四
七歳)は、江崎玲於奈学長か
ら特別に言葉をかけられて、
「生涯学習の本格的な指導は今
日からだ」との思いを強くした。
 東京の赤羽と東十条で、二
〇年以上ももジンギスカン料
理の店を経営する自称〝居酒
屋のオヤジ〟が書いた修士論
文は『ゆとりの基礎研究』。元
エール大学の教授で、国際ス
ポーツ哲学会の創設者ポール
・ワイス博士が説く『自然と人
間』をベースに、スポーツ・体育にお
ける「ゆとり」を取り上げたもので、
大学院での専攻は体育方法学という
も、きわめて哲学的なテーマである。
<略>
 三年前、四四歳になったところで
突如、学習意欲にかられた感じの新
出さんだが、そこに至るまでには当
然ながら長い伏線がある。
 「生涯学習に一日も早く取り組も
うと、いつも自分に言い聞かせてい
たが、実行に移すまでに一五年も
かかったのです。そう、あの一言か
ら……」
 高校、大学を通じての親友、中田茂
男さん(自衛隊体育学校体力管理室
長)が、こう言ったのだ。「オマエな、
人生は仕事やカネだけではないぞ」。
<略>

(4) 支部創立の経過と想い出
        新妻徹

<略> 私は昭和四十年八月十三日に高沢
光雄、浅利欣吉氏らとニペソツ登山
で杉沢にキャンプされていた深田久
弥氏のジンギスカン夕食にアタック
をかけたことがあります。深田久弥
著『山頂の憩い』には〝皆で豪勢な
焚火を囲んだ時は、もう暗くなりか
けていた。ビールに御馳走はジンギ
スカン。昨日から十分に果汁など吸
収させておいたというマトンである。
その珍味に舌鼓を打ちながら楽しく
歓談している最中、突然の夜襲を受
けた。背後から歌声を放ちながらバ
ラバラと人が現われた。何ごとぞと
思ったのは束の間、すぐそれが私の
友人たちであることがわかった。か
つて北海道の山を一緒に歩いたこと
のある札幌在住の日本山岳会員であ
る。(中略)彼等は私のニペソツ登
山を聞きつけ私たちの饗宴の潮時を
見計らって夜討ちをかけてきたので
あった。おまけに彼等は奇襲のため
の即興の歌まで用意していた。新妻
君が登山道で作詞したという「エー
デルワイスの皆さん今晩は」を皆で
合唱し、その歌声は夜空にひびいた。
(後略)と書かれています。<略>
 平成6年の(1)は笠原淳の「茶色い戦争」です。ある日、学園農場の緬羊群が脱走して〈ボク〉の家に押しかけ、六畳間から庭を通り抜ける事件があり、それで塾長と森山さんが詫びにきたところからです。ジンギスカンと明記していないので、前バージョンでは入れなかったけれど、今回は基準を緩めたので取り上げました。
 森山という青年は農学科研究室の看板を下げている牛舎の専任者で、そこに住んでおり〈ボク〉にお茶を御馳走しては詩の読み聞かせをする。あるとき「幾時代かがありまして/茶色い戦争がありました」から始まる詩を読んでくれたので〈ボク〉は「ゆあーんゆよーん」を覚えた―と話が展開していきます。
 (2)は「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」で一躍有名になった俵万智の第2歌集「かぜのてのひら」にあったジンギスカンを入れた一首です。万智が大雪山系を歩いたときの作歌のようで「夏の目覚め」17首のなかに「岩そして岩そして岩『なぜ』という言葉の数だけ続いておりぬ」、「黴やすき肺の清さを思いおりチチチ、チチチと鳴くナキウサギ」という歌も入っています。
 同書は平成3年に単行本で出ましたが、私が見付けたのは3年後に出た文庫本でした。
 (3)は農学博士阿部禎の「干支の動物誌」の中の羊の項からです。昭和からここまでこの講義録を読んできたら、何度かあちこちで読んだ話ばかりと思うはずです。「札幌の精養軒が元祖だと主張」する方々は、辰木久門・達本外喜治説の戦前の精養軒ホテルと戦後に食堂として再開した精養軒のどちらと主張しているのか是非伺いたいね。
平成6年
(1) 茶色い戦争
           笠原淳

<略> 後刻、塾長と連れ立って管理不行届を詫びに来た森山さ
んは、どうして緬羊が暴走したか原因が分らないと首をひ
ねり、多分何かにおどろいたのだろうが、と言ったが、何
におどろいたのかは見当もつかないらしかった。
 或いは、緬羊たちは不吉な予兆に脅え、気が立っていた
のだったかもしれない。というのは、その日の午後、教職
員の家々に羊の肉が配られたのだ。いつ屠られたものかは
分らないが、俸給の遅配の埋め合わせとして時折こういう
思いがけない配給が行われた。羊でなく豚肉であったり老
鶏の肉であったり学園の農場で採れた作物であったりもし
た。
 日が落ちる頃になると、父の同僚の先生たちがうちに集
まってくる。手に手に配給の酒瓶だの、中には来る途中の
学園の菜園で引き抜いた葱や大根などを泥つきのまま下げ
てくる先生もいる。その頃には緬羊に踏み荒らされた玄関
脇の六畳間に炭火をおこしたコンロが運び込まれ、人数分
の座布団が並べられ、そして昼間配給された羊肉を焼く準
備がととのえられている。
 五、六人の客で六畳間はいっぱいになる。やがて、羊肉
の網焼が宴が始まる。肉に漬けた醤油や油の焦げる匂いが
みるみる家の中に充満し、先生たちの燥いだ笑いや話し声
が茶の間にいる〈ボク〉の気分を浮き立たせる。<略>

(2) 夏の目覚め
           俵万智

   一日を歩いて暮れて星空の下のジンギスカンを忘れず

(3) 羊(ヒツジ)
           阿部禎

<略>しかし、遊牧民の生活に詳しい中尾佐助博士(旧大阪府立大教授)のお話によれば、もともとの蒙古では皮を剥いだヒツジを丸茹でにして、塩もつけずに食べるのが普通で、焼き肉はやらなかったとのことですから、ジンギスカン料理の蒙古起源説には、いささか疑義を覚えます。
 むしろ、それよりは戦中・戦後の月寒で、ヒツジの研究一途に取り組まれた釣谷猛さんが、東北農業試験場へ畜産部長として赴任された際に、昨今流行のジンギスカン料理のアイデアは、北京料理の一種である烤羊肉カオヤンロウに由来するのではないかと指摘されていましたが、この説などまさに傾聴に値するようです。すなわち、烤羊肉とは、蒙古の奥地から集めたヒツジを、北京郊外で黒大豆を餌に三か月間肥育したのち、松葉と枝を燃やしながら鉄板の上で焼き、海老の油に大蒜のたっぷり入ったタレをつけて食べるという、すこぶる野趣に富んだ料理なそうです。煙がもうもうと立ち昇り、野外でなければとうてい出来なかったこの料理を、なんとか我が国の家庭へ持ち込もうとして苦労を重ねたさる御仁が、大正一二年ごろ、焜炉の上にロストル型の鉄板を載せて焼くことを思いつき、さらにタレも我が国古来の味を活かすべく改良を加え、かくして産まれたのが月寒流ジンギスカン料理だったとか。しかし、これには異論もあって、故事来歴を重んずる一部の識者は、古来、お江戸に伝わるお狩場焼きこそがその原型で、札幌の精養軒が元祖だと主張しています。
 平成7年の(1)は道内のジンギスカン普及活動に携わった市立名寄短大の河合知子、滝川市保健センターの久保田のぞみ両氏の実情報告からです。別の講義でも話しますが、道内農村部に配置された生活改良普及員による食生活改善の指導は、大きな効果を挙げた。おいぼれ羊でも生かして毛を採った戦時中の飼育経験の慣性で「屠殺などもったいなくてとてもできなかったが,たまたま犬に噛まれて死んだ羊を食べてみた。最初は味噌漬けにして食べたが,後に味つけのしかたを種羊場で習った」(295)という滝川市の農家の談話が、下記の報告の直前に入っているが、道内のジンギスカンは羊が沢山いた農村から羊肉と共に都市部へ伝わったいったのです。
 (2)は「本の雑誌」のコラムの書き出しというか冒頭です。道産子の筆者が何年ぶりかで松尾の味付き肉を食べた―それは置いといて、と食べられない本の話に移る。見出しの鈴木輝一郎ですが、坂東はあるパ-ティーで鈴木に会い「第47回日本推理作家協会賞受賞作『新宿職安前託老所』出版芸術社より二月末日発売」と赤字で印刷した名刺を渡された。自著を売ろうとする鈴木の努力を「ぶっ飛びパワー」と評価し、書評に取り上げています。
(3)は渡辺淳一の「これを食べなきゃ――私の食物史」の「平原で食べてこそ成吉思汗」からです。彼は私と同じく昭和27年入学で教養課程の後、札幌医大に移りました。 抜き出した箇所の少し後ろに「入学祝いをかねて仲間四人と酒を飲み、一晩に十五キロの羊肉を平らげた。」「だが、さすがに四キロも食べると、満腹で動けない。そのまま3人の友達はわたしの家に泊まったが、翌朝、起こしにきた母の話では、四人が寝ている部屋には、ヒツジの匂いが充満していたという。」(296)とあります。私も彼もそういう無茶なことができた時代があったのですよ。ふっふっふ。
 (4)は賀曽利隆が書いた本「バイクで越えた1000峠」で北海道のジンギスカンを褒めた箇所です。賀曽利は50ccのバイクで昭和42年、日本人として初めてサハラ沙漠横断に成功したのをはじめ、日本一周、世界一周、インドシナ一周に成功したバイク乗りです。その後バイク雑誌ま企画で「秘湯めぐりの峠越え」を目指してスタート、19年掛けて1000峠越え、1年遅れて1000秘湯巡りを達成しました。
 (5)はね、パラバラとページをめくっていたら、大釜らしい写真が見えた。それで読んだら頼りないが、ジンギスカン率いた蒙古軍は鉄板焼きをしていたという住民の話が書かれていたのです。釜と見たのは「草原の道観にあった鋳鉄製の天水槽(直径180cm,高さ85cm,口縁部肉厚8cm)」(297)でした。
 田口勇専修大教授(元国立民俗博物館教授)が雑誌「鉄鋼界」に同書を紹介して「氏から調査の詳細について話をお聞きすることができた。リュックサックに強力な磁石をぶらさげた単独調査に、氏の鉄に対する愛着と歴史探求への執念を感じた。目的地で鉄を見出すにはどうされるのかとの問いに、『テツ、テツと現地語で繰り返していればよいのですよ』との答えは大変印象深かった。」(298)と書いています。
平成7年
(1) 北海道における羊肉消費の展開
           河合知子、久保田のぞみ

<略>生活改良普及員が配置された当初から1960年ごろにか
けて,めん羊を飼育している地域においては,食
生活改善指導の一環として肉類の加工貯蔵があげ
られている。なかでも,ジンギスカン鍋の普及
は著しく,ある改良普及員は,次のように回想し
ている。「農協の畜産担当者と共に農家に出掛
け,ジンギスカンのたれの作り方の指導に歩いた。
たれの作り方は農協の畜産担当者からもらった資
料にもとづいて,りんご,にんにく,しょうがな
どをすりおろし,醤油,砂糖,酒で調味する。当
時は便利な調理器具もなかったので,大根おろし
器で固い人参をすりおろして,はかどらなくて大
変な仕事だと思った記憶がある。肉を漬け込んで
から30分くらいが一番おいしいという話を共済の
獣医や農協の技術員が言っていたが,1~2時間
漬けておいて,ジンギスカン鍋で焼いていた。ま
た,保存食作りも勧めていたが,羊肉加工もその
中のひとつで,味付けした肉を保存瓶に詰め,殺
菌,脱気,密封などの技術講習も行った。対象は
農家の主婦や4Hクラブの男女青年で,反応は良
く,また生活改良普及員も珍しい頃だったので楽
しく仕事ができた。相手が喜んでくれた時,いい
仕事だなあとうれしい思いで現地の会館から我家
へと自転車で帰った頃のことが思い出される。」<略>

(2) 〝託老所〟が舞台の異色作!?
     ぶっ飛びパワーの鈴木輝一郎に注目
           坂東齢人

 先日、五年振りぐらいにジンギ
スカンを食った。北海道出身の飲
み友達が、帰省した際に「松尾の
ジンギスカン」という北海道人な
ら誰でも知っているパックされた
味つきラム肉を1キロ買ってき
て、それを小耳に挟んだぼくが、
おれも実家から送ってもらうから
ジンギスカン・パーティをやろう
と叫んだのがことのはじまりだ。
 ジンギスカンなんて、ここ数年
食べていない。さっそく、2キロ
の松尾のジンギスカンを送ってく
れるよう母に頼んだのだが、届い
たのは3キロ。やはり、母の愛は
強い。いやあ、食った食った。死ぬ
かと思うほど食いました。人生、
やっぱりジンギスカンです。母親
様、そのうちまた送ってください。
<略>

(3) 平原で食べてこそ成吉思汗
               渡辺淳一

 この料理の日本での歴史はあまり古くはない。
 わたしが成吉思汗料理という言葉をはじめてきいたのは、たしか戦後四、五年経った高校生のころである。
 札幌の丸井デパートで、ヒツジの肉と一緒にいろいろな形の鉄鍋を売っているというので、友達と見にいった覚えがある。そのころはまだ鍋が高かったのか、肉を買うとタレと一緒に鍋を貸してくれた。
 食生活の貧しかった当時としては、栄養があるうえに旨いということで、このころから急速に家庭でも流行りだした。
 このころの肉は今のように上質なラム(仔羊)でなく、大人のヒツジのマトンであった。
 それでも、初めて食べた時は実に新鮮であった。
 大体、当時のドサンコには(多分、日本人すべてがそうだったと思うが)ヒツジの肉を食べるという発想がなかった。
 そのころ、北海道に住んでいた人々が食べていたのは、まず第一に馬肉で、次いで牛、豚、鶏といったたぐいであった。

(4) ★美幌峠のジンギスカン
           賀曽利隆

<略> 美幌峠からの眺望をしっかりと目の底に焼きつけたところで、峠のレストランで、ジンギスカンを食べる。ジンギスカンといえば、今では北海道を代表するような郷土料理になっている。このジンギスカンを食べると、
 「あー、北海道にやって来た!」
 と、実感するほどである。
 さっそく、美幌峠のジンギスカンをむさぼり食う。
 独特の兜のような形をした鉄鍋で、羊肉と付け合わせの野菜類を焼いて食べるジンギスカンは、ボリューム満点の料理。ずっしりと腹にたまる。このジンギスカンにかぎらず、北海道の料理というのは、どれをとってもボリューム満点だ。量が多いということが、北海道料理の大きな特徴になっている。
 食べ方にしても、チマチマ焼くのではなく、ドサッと羊肉や野菜類を入れ、豪快に焼くのだ。すべてが大陸的なのである。
 羊肉はくさみが強いとよくいわれるが、北海道のジンギスカンに関しては、そのようなことはない。羊肉を食べる習慣が、日本の他地方よりも根強いことが影響し、ジンギスカン用の羊肉専門の会社もあるほどで、それだけ羊肉の食べ方の研究もなされているのだろう。牛肉は焼きすぎると固くなってしまうので、まだすこし赤身が残っているくらいのをタレにつけて食べるのだが、いくらでも食べられるほどのうまさだ。<略>

(5) 鉄使用の少ない蒼き狼達
           窪田蔵郎

 蒙古といえば遊牧民族発祥の地、風のごとく押し寄せる精悍な匈奴の軍団、そしてチンギスカーンの時代、さらに果てしなき草原に生活する蒼き狼の子孫達。そうした風景を誰しも想像する。一時期、世界の五分の一を席捲した彼らのことであり、鉄器の使用については、刀剣などの武器類はもちろん。各種の生活用具にも相当な量が用いられたはずであるが、今日実際に現地へ出掛けてみると、蒙古らしい雰囲気のところでは、鉄製品を使用している姿を見掛けることは誠に少なく、期待にイメージばかりが膨らんでしまっていた感じである。
 著者が回ったのは、僅かに呼和浩特市と包頭市付近だけなので、蒙古の鉄文化を知るにはあまりにも資料不足だが、農村部で聞いても関心は少ないようであった。質問に対する答えは、せいぜい包頭の鉄鋼コンビナートの盛んなことと、身近なものでは鉄板焼は、チンギスカーンが遠征した時の陣中料理に始まるなどといった話で、古代製鉄のことなどには全くふれて貰えなかった。<略>
 平成8年の(1)は、羊肉を焼く正しいジンギスカンでははなく、満洲で野生のノロという鹿の肉をジンギスカンみたいにして食べたという元陸軍航空隊員の思い出です。昭和11年10月、筆者の新藤常右衛門隊長率いる戦闘機1中隊が、外蒙古寄りの地平線が見えないぐらいの大平原の真ん中のハイラルにね、常駐したときのことだそうです。引用したのは文庫本からだが、同書名で単行本として同じ光人社から単行本として出ています。
 (2)は「日本の味探求事典」からです。機械可読目録によると「多彩な食材に恵まれた、日本の食べ物の中から、約1400種を採録し、『日本の味を探究する』という視点で解説。」しているそうだが、本場モンゴルの味と日本の醤油ベースの味の違いはどうなんでしょうかね。羊肉の呼び方に不審な点があるという程度にとどめます。
 (3)は100人の食べ物随想の中にあったジンギスカンの思い出です。率直な書き方なので特に説明を要すところはないでしょう。焼酎も私が2年目のころ20度が売り出されたので試飲したら、25度より飲みやすいとは思いましたが、効き目は同じようなものだったような気がします。ジンギスカンで飲むと急に効き、花見で飲んだら何故かズブ濡れになった。後で先輩に聞いたら「お前は小川の中に座ったからだ」といわれたことがあります。多年の経験でいえば、そのときはわかっているが、一眠りすると何をしたか全く思い出せないんですなあ
 (4)は札幌の観光名所、サッポロビール園と月寒のツキサップじんぎすかんクラブは、その昔、深く結ばれていたという「サッポロビール12年史」で見付けた意外な話です。
 脱線だか、ここに出てくる花田緑朗さんは北大OBの息子さんとともに、東京同窓会でも熱心に活動された。それで東京同窓会は毎土曜午後、銀座ライオンで談話室と称するプチ飲み会を開いていた。私もちょいちよい加わって「都ぞや弥生」が出来たころの思い出などを拝聴したもんです。
 (5)は道立滝川畜産試験場の研究者高石啓一さんの論文「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」からです。高石さんはこの年3月、研究雑誌「畜産の研究」3月号に「日本の羊肉物語」を発表したばかりでした。その内容は日本に於ける羊肉食の普及、日本人の好みに合う羊肉料理の研究などの考察で、特にジンギスカン料理に関して論じた論文ではありません。
 その3カ月後、高石さんは畜産研究者としての立場から、昭和51年の農家向け雑誌「農家の友」に載った郷土史家吉田博による「成吉思汗料理物語り」にある①ジンギスカン料理は満鉄公主嶺農事試験場②命名者は満鉄調査部長駒井徳三―という吉田説のほか、月寒種羊場技師だった山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」の刊行年から「少なくとも執筆の構想は前年の昭和5年頃であろう。昭和5年になってやっと『成吉思汗(ジンギスカン)』料理なるものが東京ににて喧伝されるに到ったものと推定される。」ことや、東京・成吉思莊の鍋開発などの研究結果を追加したのです。
 これにより駒井徳三命名説がね、昭和36年の日吉良一による「成吉思汗料事始」で登場、日吉の打ち消しを知ってか知らずか15年後に吉田博が「成吉思汗料理物語り」で復活させ、さらに20年後、高石氏の「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」でリバイバルされ、いまも人工AIが駒井命名説が有力と出力しているのです。
 (6)は酒場専門のルポライター太田和雄による高知市の「とんちゃん」訪問記です。55年続いた「とんちゃん」は平成21年、経営者夫妻が体力的にきつくなったと閉店しました。同15年1月、北海道新聞が連載した「探偵団がたどるジンギスカン物語」の探偵が訪れ「厨房の鉄板で焼き、皿に盛られた『ジンギスカン』は、北海道流の鍋で焼くイメージとはほど遠い。だが、口に入れると確かに羊肉の味。秘伝のたれは、しょうゆとショウガが効いており、かなり濃くて辛口。酒のさかなにはぴったりだ。」(299)と報告しました。
 (7)は赤井川村にある有名なアリス・ファームの経営者、藤門弘の「牧場物語」からです。藤門氏は中尾佐助著「料理の起源」を読み、どの民族も食べる植物にはうるさいことはいわないのに、こと動物となると回教徒やユダヤ教徒はは豚、ヒンズー教徒は牛を食べないといった厳格なタブー、偏見を持っている。
 さらに民族によって尊重するランクが異なり、中国では豚・羊・鶏・牛。インドのヒンズー教では山羊・羊・鶏・豚・馬であり日本では、牛・豚・鶏・鯨・羊・山羊・馬という順になっているという説
(300)を知り、それで羊はなぜ5番目なのか―と考えたところからです。
 なお、今アリス・ファームのホームページを見ると、もう羊はおらず、山羊がいますね。「アリス・ファームの書籍一覧」というリストもあるので数えてみたら、平成19年までで藤岡関係はこの「牧場物語」を含めて19冊、共同経営者宇土巻子関係16冊、共著・共訳5冊、合計40冊でした。
 (8)は尼僧瀬戸内寂聴が作家瀬戸内晴美として売り出すもっと前、昭和18年の秋、結婚して夫ともに北京で暮らし、有名店東来順でカオヤンロウことジンギスカンを食べることになった経緯です。
 夕食の買い物帰りに書店で宇野千代の本「人形師天狗屋久吉」を買い、彼女は一読して「私は子供の頃から小説家になりたかったのだった。」「天狗久吉の小説は、一遍に私の小説への憧れと夢を眠りの中からゆさぶりおこしてきた。」(301)ところから、切り出した情景になったのです。国会図書館図書館の同書は「色ざんげ」と合わせた戦後出た本ですが、さすが徳島県立図書館、実在の人形師からの徳島弁の聞き書きの価値を認めてか、東京の文体社が昭和18年2月に出した同書を4冊も所蔵しています。
平成8年
(1) 匪賊討伐に大空の出陣
           新藤常右衛門

<略> この地方も、九月にはいればもう冬である。冬にならぬうちに、蒙古の月を賞しようではないかと、八月の満月の日に、中隊全員で、草原で観月会を催すことにした。
 その日の午前の航空訓練のとき、私は飛行場南方の草原でノロ(鹿の一種)の大群を見つけた。私はその群れの上空を旋回飛行しながら、小銃をもった乗用車が現場にやってくるのを待っていた。
 地上には、多少の起伏はあったが、自動車の運行は自在である。
 ノロの進路を、地上すれすれの低空飛行で牽制しながら、なるべく自動車の進路方向に群れを向けさせようとしていた。やがて自動車は追いついてきた。三、四発、白煙が散ってノロが二、三頭倒れたようだ。私は着陸する。まもなく自動車が、撃ちとめたノロを積んで帰還してくる。
 さっそく料理して夕方から野宴を張る。
 ガソリン缶の側面の下部に、たくさんの穴をあけて、これに炭火をカンカンにおこし、缶の上部にノロの肉をくっつけてジュウッと焼き、醤油をつけて食べるのである。即席のジンギスカン料理ともいうべきもので、一人一合ずつの酒もある。
 草原から満月が昇る。
 兵も楽興に乗じて軍歌の大合唱から、故郷をしのんでの民謡などを大いに歌いまくっている。月光いよいよさえわたる蒙古の大草原である。この夜の思い出は、いまもあざやかに眼底に浮かぶ。

(2) じんぎすかん 成吉斯汗 (北海道)
           岡田哲
                    中国北方の料
                    理・烤羊肉カオヤンロー
加熱調理方式が似ている。モンゴル軍の兜のような鉄製の
ジンギスカン鍋で、羊肉の付け焼きをする。英雄のジンギ
スカンは、一三世紀のモンゴル共和国の始祖である。この
地方では主食に羊肉を焼くので、このような勇者の名が付
けられたのだろう。昭和の初め頃に見られるが、第二次大
戦後に、滝川市の道立種羊場が緬羊飼育を奨励し、北海道
の名物料理となる。脂肪の多い羊肉を、ジンギスカン鍋で
焼くと、余分の油が落ちておいしくなる。タマネギ・ピー
マン・モヤシ・ニンジン・ナス・ジャガイモを共に焼いて、
好みのタレを付ける。タレはかなり凝ったものがあり、醤
油・砂糖・ニンニク・唐辛子・リンゴ・ニンジン・タマネ
ギを組み合わせ、羊肉の臭いを消して食べやすくしている。
焼いてからタレを付けるものと、タレに漬け込んだ羊肉を
焼くものと二種類ある。羊を表す英語は、随分沢山ある。
羊はsheep 牡羊はram 牝羊はewe 羊はlambという。
食材としては、羊肉はmutton 羊の肉はlambである。レス
トランに、羊肉(ラム ram)とあれば間違いである。〈エ
ゾ鹿のジンギスカン〉もよい。

(3) 我が青春のジンギスカン
           沖田重敏

<略> 昭和三十年以降急激に普及したジンギスカンは、当時、ラム肉などはなく、繁殖不適応の羊肉(マトン)だけでした。もちろん、食品の冷蔵技術もまだ進んでいなかったので、食べたい時は、精肉店で道内産羊肉(現在市販されている肉の三、四倍の厚切りでした)を切ってもらうのです。量の多い時などは「切っておくから他の用事を済ませておいで」等と言われたりして、実に悠長な時代でした。肉は四人分であれは「四百下さい」と言えば良かったのです(一人分百匁見当だったので)。タレは、精肉店で作ったものを計り売りで買っていました。
 仕事が終わり、職場の若い者同志で夕暮れ時に空き地の芝生の上にコンロを持ち出し、大正時代に考案されたといわれるロストル性の鍋に、今と同じ方法で野菜と肉をのせて焼くのです。油の強い羊肉には、絶対焼酎が合うと先輩諸氏に教えられていましたから、ストレートで飲んで酔い、青春談義を交わしたものでした。当時は、今のように焼酎の番茶割りや、水割り、お湯割り等は考えもしなかったし、誰でも焼酎はストレートで飲むものだと思っていたものです。そして、いかに経済的に早く酔うかが先決でもありました。飲んだ後は、おにぎりとなるわけですが、肉とタレの味とおにぎりのお米の甘さとが絶妙にブレンドされ、口の中と胃の満足感にしたったものでした。<略>

(4) 成吉思汗鍋の由来
           サッポロビール社史編纂室

 サッポロビール園の名物料理は,何と言ってもジ
ンギスカン鍋である。同園は昭和41年7月の開業時
からバイキング方式でこの料理を取り入れ,その後,
各地で展開されたビール園事業の多くも,ジンギス
カン鍋を主要メニューの一つとしている。実はこの
ジンギスカン鍋,サッポロビールやサッポロ会とは
深い因縁で結ばれていた。
 大正10年ごろ,北海道で多く飼育されるようにな
った羊の肉の料理方法が,札幌の月寒種羊場(現・
国立北海道農業試験場)の技師たちによって種々考
案された。そして,ラムステーキやアイリッシュシ
チューなどが札幌市内のレストランで賞味されるよ
うになった。昭和11年ごろには札幌にジンギスカン
鍋を食べさせる店もあったが,まだ一般的ではなか
ったという。
 戦後の食糧事情の悪いなか,月寒学院(現・北海
道農業専門学校)の院長栗林元二郎はこのジンギス
カン鍋の普及について新たな構想を抱いていた。
サッポロビール会の会員でもあった同氏は,27年
ごろに同郷の花田緑朗が工場長をしていた札幌工場
に,試食会の話を持ち込んだ。旧札幌支店2階広間
で開かれた試食会には,花田工場長,穴釜支店長ら
工場・支店の幹部が集まったが,試食会の羊肉はた
ちまち品切れになり,大好評であった。
 同年秋、サッポロビール会の会員が推進役となっ
て,法人や著名人が1口5万円を出資して月寒に「成
吉思汗倶楽部」が開設された。幹事5人はいずれも
サッポロビール会のメンバーであった。広大な原野
で楽しむ野趣豊かなジンギスカン鍋は,道内外でし
だいに喧伝され,地元はもとより観光客,修学旅行
団,各種大会参加者に広く利用された。サッポロ会
はもちろん,当社も特約店や酒販店の各種会合や,
社員・家族慰安会などでさかんに利用した。

(5) 2「ジンギスカン」の誕生を探る
           高石啓一

 小生が,初めて仕事についての歓迎会で,これ
が「ジンギスカン」といってご馳走になった。以
降,よく味付けジンギスカンの調理方にさせられ
たことなどを思い出すが,そんなときは先輩達に
「いつからですか? どうしてジンギスカンという
ですか?」と尋ねても明快な回答を得ることがで
きなかった。
 ところが,やっと「ジンギスカン」というもの
の誕生に迫るルーツへのきっかけが提供されたの
である。時は昭和51年のことで,「農家の友」昭
和51年8月号に札幌の郷土史家吉田博氏が著書
とした「ジンギスカン料理物語り」である。それによ
ると羊肉料理の萌芽は大正時代に入ってからであ
ろうと述べている。丁度その頃に満洲に進出して
いった日本人が「羊に対して丸焼きや羊肉の水煮
などと利用されていることに大いに啓発されての
ことだ」とも述べている。また,日本人の嗜好に
合うよう考え出されたとある。
 調理の方法は「当時,満州鉄道の公主嶺農事試
験場畜産部(主に緬羊を飼育)が作り出したもの
だ。今,あるものは当時のものと同じ」とも書か
れている。
 また,名付け親についても触れており,昭和初
期の頃「当時の満鉄調査部長駒井徳三氏であろう」
とある。同氏は後に満州国の総務長官となり建国
に活躍したといわれている。また,長女には満洲
野と名付けており,その彼女による「父とジンギ
スカン鍋」という一草があると書かれており,名
づけの好きな父と記されているとある。「ジンギス
カン」の説としては詳細に述べられており,以降
この説の引用が多い。しかし,年次等は明らかで
ない。今少し考察してみたい。<略>

(6) 酒場放浪記(高知)
           太田和雄

<略> 高知の酒のみで細工町の「成吉思汗とんちゃん」を知らぬ者はない。戦後、公園で羊肉屋台を始めインテリも含め圧倒的な支持をうけ、その後通りの角に二階家を建てた。十周年記念(昭和四十年頃か)の小冊子『屋台の歌』に高知の作家前田とみ子(宮尾登美子)が「男が男を上げる場所」と題し小文を寄せている。「……店に一歩入るや一瞬にして時間は逆流し目の前に北満は場末の飯店の再来、黄塵万丈の風が……にんにく、にらの匂いが充ち豚肉の油煙が目に沁みる。並みいる男たちは荒野に駿馬を駆るひょうかんな大陸武士の面魂だ、お、ここには満州がある。この店ではなんと男たちが魅力的に見えることか……」
 明治四十一年高知に生まれた御主人吉本さんは昭和十四年、三十一歳で骨を埋める覚悟で満州へ渡り大陸を駈けめぐった後、現地で召集。シベリア収容所抑留ののち昭和二十四年帰国し、ほどなくして屋台をはじめた。「私は屋台の方が好きです。一生屋台のつもりでしたが道路事情でできなくなり、こうなりましたが私はここを屋台と思っています」
 八十八歳になる吉本さんが笑った。焦茶のべレー帽を粋にかぶった顔は色つやがいい。その言葉どおりこの店はすべて手造りの素朴な木造でカウンターも柱も無秩序成行まかせで作っていったアナーキーな追力がある。<略>

(7) 「林さん丸焼き」が始まりそうだ
           藤門弘

<略> それにしても日本の羊はずいぶん低い位置にいる。捕鯨が禁止となって鯨が抜けたにしても羊は第四位なわけで、これはかなり不当なことのように思う。おそらく、戦後のある時期にオーストラリアあたりから安いマトンの肉が輸入され、その結果羊肉は「くさくてまずいが安い」というイメージが定着してしまったのだろう。前にいった廃羊の肉をこのマトン肉と考えていい。
 それを無理矢理利用したのがジンギスカン料理で、薄くスライスして焼き、味の濃いソースにどっぷり漬けて食べる、というどうしようもない料理が発明されたに違いない。椎名さんもいっているように、モンゴルにはジンギスカンなんていう料理はないのだ。<略>
 北海道ではいま、肉用のサフォーク種が主力になっているが、これに連続して穀類を与えればどんどん太って肉が大量にできる。ただしこういう肉は決して上等ではない。
 我々が飼っているのは主としてチェビオットという種類の羊で、これはどちらかというと毛を取ることが目的の羊だ。いい毛が取れるのだが欠点は成長が遅いことで、生後丸一年たっても親のサイズにはならない。だから肉にするには一年半が必要で、我々はこれをラムと呼んでいる。
 半年で成羊になる肉用種に較べると大変効率が悪いが、その分チェビオットの肉質は上等で、ある羊の権威にいわせれば、日本にいる羊のうちで一番おいしいのではないか、とのことだ。自画自賛だけどぼくもそう思っている。

(8) 宇野千代さんとの半世紀
           瀬戸内寂聴

<略> 夕暮れの部屋の中で灯もつけないでぼんやりと涙を流している私を見つけた夫は、びっくりして、どこか悪いのかと訊いた。私は頭を垂れ、
「すみません、私、小説家になりたかったんです。それなのに結婚してしまって……」
 と、呻くようにつぶやいていた。
 その時の自分の言葉を思い出すと、宇野さんの晩年の小説や随筆を読んでいて、思わずふき出してしまう時のような、おかしさを感じずにはいられない。しかし、私はその時、真実真剣であったし、夫に対しては、その後の他の時よりも誠実であったと、今にしてわかったのである。
 夫は私のうわ言を、馴れない異国の暮しに起った少し早すぎる単なるホームシックのせいだと解釈したようだった。私の膝の上の本を取りあげてぱらぱらとめくりながらいつもより更に優しい口調で、
「いいよ、いいよ、そんなに好きなら小説家になればいいじゃないか、それじゃ、未来の宇野千代のために、今夜はカオヤンロウを食べに行こう」
 といって、東安市場の有名な店につれ出してくれたのだった。その日、私も夫も、自分の言ったり、したことが、どんな怖しい未来を招くかということに全く気づいていなかった。
 平成9年の(1)は「北海道/アウトドアライフまるかじり」からです。「キャンプから野外料理まで」という副題の通り花見やハイキングでも役立つノウハウが書いてあります。
 (2)は「モンゴルの天使の歌声」と言われるモンゴル出身の歌手オユンナに尋ねた日本での日々の感想です。
 (3)は北海道女子短大(北翔大の前身)の山塙圭子教授の論文からです。 山塙さんは昭和三年の羊肉料理講習会のために東京から教えにきた講師の名前は書いていませんが、このとき来道したのは、お茶の水女子高等師範学校で羊肉の臭いを感じさせない料理を研究し、大正11年にジンギスカンの先祖といえる「羊肉の網焼」を発表した同校講師一戸伊勢です。
 いまはジンギスカン用はラムが当たり前になっているが、かつては羊肉といえば老廃羊の堅くて臭いマトンだったので、一戸さんは臭味消しの一助として、羊肉を厚さ3ミリぐらいに切り「これを焼く際には松葉か、又松笠など火の間に置き、多少此の煙の出る処にて焼けば一層風味を増す。」(302)と書いた。この松葉いぶしが昭和22年のところに入れた久保田万太郎の「じんぎすかん料理」の由比ヶ浜での松葉燻しまで、いやその後もレシピには書き継がれました。
 (4)は元農林水産省北海道農業試験場長の西部慎三さんを招いて月寒史料発掘会員が月寒関係の歴史を伺った記録からです。西部さんは昭和27年に北大農学部獣医学科を出て月寒の農林省北海道農業試験場に入り24年研究生活を送り、その後九州や四国の試験場長などを経て昭和61年、月寒に戻って3年場長を務めた研究者です。それだけに牧畜だけでなく、戦後米軍の演習地に使われたり札幌ドーム建設での土地分譲などにも話が及んでいます。
 それから、この史料には、西部さんが「高畑氏の調べによると大正8年頃から羊肉を食べ始めていたというが、それは味噌漬けとか粕漬けとかで食べられていたもので、ジンギスカンを主体に連動的に広く食べられるようになったのは、戦後の20年代後半以降のことだ。」(303)と語ったことも記録されています。
 ちょっと戻るが、昭和11年秋に狸小路の「横綱」で道庁主催のジンギスカン試食会を開いたと書いたのは、道新の昭和42年元旦号の「ジンギスカンなべ物語り」が初めて―寡聞にして先例を知りません。
 あの記事の飼育関係者はエドウィン・ダンと山田喜平夫妻とこの西部さんだけです。記事を書いた道新のA記者と私は北大同期で、学部は違うが後に知り合い、戦後薄野に移った横綱のことは聞いたけれど、試食会の年月日確認は全く思い浮かばなかった。
 先年、彼の訃報を聞き、手遅れを悔やんだが、どうしようもない。あの記事には「だれそれによると」とか「と某氏は語った」と書いておかしくないのに、それがない。それでね、試食会の様子に続いて羊肉料理の臭い消しの話で西部さんが登場しているので、私は試食会の開催年月なども西部さんから聞いたと考えます。
 西部さんは昭和27年に琴似にあった農林省北海道農事試験場に務めた。そこで先輩から試食会の話を聞いたとすると、それから15年、西部さんの記憶は少し怪しくなっていたし、まして合田さんにすると40年前のことですからね。昭和11年より前だった可能性があります。
 東京精養軒考案の鍋は間違いだ。札幌の精養軒の女将青木チイさんはテレビの取材で鍋のことを聞かれで、川口の方に頼んだと答えたそうだし、西洋料理専門の名門、東京の精養軒がジンギスカンを出したら、店に資料はなくても必ずや新聞に載っているはずですからね。
 (5)の小説「天池」はは連載の12回目で、ここまでの経過はわかりませんが、山の中の宿に泊まっている中年のフリージャーナリストと校閲記者、経営する夫妻と長女と次女らしい高校生、老人がいる。妻が町でラム肉とオリーブ油を買ってきたが、薄荷がないとラムのローストはできないならとジンギスカンに変えたらしい。食べている最中に都会育ちの校閲記者は、庭を照らす月の明るさに驚くと、娘は幽霊が出ると脅かす―という情景です。
平成9年
(1) 料理のミニ知識
           横山博之、岩城道子

●ジンギスカンの焼き方、食べ方
 北海道では、人が集まると必ずジ
ンギスカンが始まる、といわれるほ
ど人気の焼き肉料理で、本州の人た
ちにうらやまれています。
 生肉、冷凍肉、味付け肉―いずれ
も大ぶりに切ったラム肉と野菜を網
にのせ、秘中の自家製や市販のタレ
を付け、ビールを友に食べる食感は
なんともいえない解放感にひたれま
す。
 おいしく食べるコツは、タレの善
しあしにありますが、焼き肉は短時
間にしてあまり火を通しすぎないこ
とです。レアかミディアム程度に焼
くことです。一度に多くの肉をのせ
ますと、話し込んでいるうちに肉が
焼けすぎて硬くなり、おいしくあり
ません。少し赤み部分を残し食べま
しょう。鍋を熱したら、ラム肉の脂
をのせます。
 羊肉はジンギスカンのほか、ステ
ーキとして食べることをお勧めしま
す。あまり焼きすぎないことがコツ
で、肉汁を逃がさないために手早く
焼くことです。コショウを振り掛け
て焼くことが多いのですが、におい
を消すにはむしろニンニクをすりお
ろした汁を、しょうゆに混ぜて食べ
たほうがうまみを増しておいしいで
す。<略>

(2) 日本の料理でジンギスカン
    鍋だけは絶対許せない!
           歌手オユンナ

<略> その彼女が日本で絶対に許
せないことがひとつあるとい
う。何かと思ったら――
「ジンギスカン鍋。あるとき
日本人の方が私に気をつかっ
てくれて、ジンギスカン鍋を
食べに連れて行ってくれたん
です。出てきた料理を見て、
私、ビックリして怒っちゃっ
たんですよ。どうしてこれが
ジンギスカンなの!? って。
モメちゃいました(笑)。ジ
ンギスカンといったら、モン
ゴルの英雄ですよ! それを
料理の名前にするなんてとん
でもないことですよ、だいた
いモンゴルにジンギスカン鍋
みたいな料理はないんですか
ら。肉に羊を使っているだけ
じゃないですか。
 それに日本には、源義経が
モンゴルに渡ってジンギスカ
ンになったという説があるけ
ど、あれだって許せない。ど
うして義経がジンギスカンに
なるんですか」
 考えてみれば、彼女の指摘
はもっともなことばかり。記
者は返答に窮しシドロモドロ
である。<略>
 彼女はしみじみ言う――
「いまでもモンゴルの食べ物
が食べたくなります。モンゴ
ルではお祝いのときに、羊と
かヤギの丸焼きを食べるんで
すよ。あれが食べたいです。
日本では食べられないですか
らね。おいしいんですよ」
 インタビュー中にはじめて
彼女が見せた望郷のまなざし
であった。

(3) 獣肉類
           山塙圭子

<略> ジンギスカン料理は今や北海道の代表的郷土料理であるが、羊肉の食用が目につくようになるのは、大正末期である。羊肉は羊毛生産の副産物としての利用だったが、大正九年十二月に北海道庁では、羊肉の消費宣伝に羊肉の大廉売会を行っている。ついで昭和三年には、同じく道庁主催による羊肉料理講習会を、東京から講師を招いて札幌、小樽、函館の各都市で開催している。この中には羊肉スキヤキ、鍋羊肉(カンヤンロー)と現在のジンギスカン料理と似たものが含まれている。羊肉特有の臭いを消すためにゴマ油や味噌、酢、葱などを用いることが推奨されている。しかし、当時の羊肉は老廃羊のため臭気が強く、庶民には普及しなかった。羊肉がジンギスカン料理としての地位を得るのは戦後になってからである。
 北海道における大正四年の年間一人平均の獣肉消費量が算出されている。それによれば道内生産物から三〇四匁(一・一四キログラム)、他府県からの移入分を加えると、日本の平均二八八匁(一・〇八キログラム)よりかなり多くなる。北海道は日本の中で第一番の肉食地方とされており、肉食普及の速さを示している。<略>

(4) 西部慎三氏からの聞き書き
           紹介者 高畑滋
           聞き手 斉藤忠一
           聞き手 池田信昭

<略> 私は大学を出て羊の骨付肉を截断できる技術があったから、ある面では貴重な存在として昭和27年頃からジンギスカンとしての食べ方や、羊の肉そのものをどう食べるか、また、どう保存するかなどについて指導して歩いた。
 その当時私は肉の保存方法は塩漬けのほかに今でいうレトルト食品の方法を考えた。<略>道の生活改良専門技術員達と一緒に、農林省から保存食品普及の予算をもらって、地方へ行って指導したことがある。その時はジンギスカンも勿論指導した。
 私は学生時代からジンギスカンを食べていた。羊ケ丘に入ると試験場でもジンギスカンは食べていた。それぞれ好みの方法でタレを作っていたが、私はそのタレに工夫をし羊の肉になぜこれを使うか屁理屈を付けて、標準化したものをつくるようにした。九州農試でも作ってやったし、つくば市の農研センターでも作った。農研センターとは農水省がつくばに試験場を集めたとき、その中心となる機関として作られたものだが、私はそのセンターの初代の企画連絡室の責任者であった。各機関から集まった人達の一体化を図るため懇親会を企画し、春の蒔きつけをの終わった「さなぶり」でジンギスカンをやった。
 昭和30年代に入ると全国あちこちで羊の肉が手に入るようになり、ジンギスカンなどで食べてみると美味いということで知られるようになった。羊の肉は宗教にも関係なく全世界の人たちが食べていたし、食べると美味しかった。(日本人だけがそれまで食べていなかった)その当時、輸入自由化で羊の肉が容易に手に入るようになり、加工用の原料としてハム、ソーセージなどにも使われた。ところが羊の独特のにおいがするため、この臭いをいかに消すかが大変なことだった。私は羊ケ丘の伝統的な調理法を標準化して、日本人の好む食べ方を普及させようとした。<略>

(5) 天池
           日野啓三
 
<略> ミントがなくてローストできなかった仔羊の薄切り肉の
残りをジンギスカン鍋に置きながら、若主人が言った。炭
火に滴り落ちる脂が濃厚な音と匂いをたてる。
「ああ、恥かしいよ。思いもをかけなかった、ずっと向こう
の庭の草の一本一本、その影まで見分けられるとは」
「幽霊の影だって見えるわよ」
 上機嫌に女主人が言う。
「幽霊が出るんですか
 と応じた校閲記者の声は半ばふざけていたが、ひとり
残った若い娘がいきなりこう言った口調はそうではなかっ
た。
「いるようよ。この屋敷には」
「どんな幽霊? 美人の?」
 校閲記者は体ごと振り向いて尋ねた。
「そうらしいわ。声と気配しか知らないけど」
 娘は顔を上げて低く擦れた声で言った。
 ふっと皆が黙った。滴った脂が焼け焦げる音だけ、今夜
は風は静かだ。
 老人はゆっくりと黙って義歯で肉を噛み続けている。女
子高校生は俯いて鍋の上の肉をひっくり返している。若主人
は食卓に落ちたタレを布巾で拭いている。中年男の客と長
女は平然と食後のお茶を飲んでいる。<略>
 平成10年の本では(1)の吉田稔の「牧柵の夢」があります。吉田は昭和9年に農学部畜産を出たOBで道庁に入り道立種羊場長も務めました。真駒内にエドウイン・ダン記念公園と記念館がありますが、吉田はこれらの設立運動を進めたエドウイン・ダン顕彰会は「私と北大同期で十勝の道立拓殖実習場長をしていた塩谷正作さんという男の発案である。<略>設立のきっかけをつくった塩谷の生臭さ坊主は、退職後は本州に行き亡くなったのであるが、晩年になってから札幌にきて『よくダンを世に出してくれたな』といわれたことも頭にあった。(304)」と書いています。
 この塩谷は元満鉄職員でジンギスカンという料理名は満鉄調査部長駒井徳三が命名したという作り話を料理研究家の日吉良一に聞かせた人物です。それを真に受けて日吉は「北海道農家の友」に駒井命名説を紹介した。しかし、事実ではないと知り別の雑誌で命名説を否定し、ほとんど広がらなかった。
 でも25年後、元道職員の随筆家吉田博が塩谷・日吉説に駒井の娘の随筆を証拠のように使って「農家の友」を通じて駒井命名説を生き返らせ、今もって有力とされているのです。
 この本には「昭和十一年ころだったか」と狸小路のおでん屋「横綱」でのジンギスカン試食会のことも書いているが、当時吉田は滝川種羊場勤務であり昭和11年開催を証明する内容ではありません。
 (2)は和田由美の「日曜日のカレー」からです。和田が社長を務める出版社、亜璃西社のホームページに「北海道新聞夕刊『おふたいむ』に連載の好評エッセイが、1冊にまとまって登場。」と紹介した本です。和田は「続・和田由美の札幌この味が好きッ!」ではニュージーランドからマトンをまるごと1頭輸入、切り分けて4つの部位のマトンの味が楽しめる(305)狸小路7丁目のジンギスカン店を取り上げています。
 (3)は「最後の晩餐」なんだから、元WBC世界フライ級チャンビオンらしい豪華料理を選ぶだろうと期待して会いに行ったと思いませんか。
 ところか案に反して、ごく平凡なジンギスカン鍋ときた。略しましたが、戦う勇利のポスター3枚を壁に張った部屋で、大判の薄切り肉をてんこ盛りにした皿を鍋と並べて食べている写真と「どうやら、食べ物にそれほど関心がないらしい」という説明から、私は人選を誤ったという戸塚記者の弁解を感じましたね。ふっふっふ。
 (4)は、いまはもうない東京の成吉思荘で食べた経験の持ち主、千石涼太郎の本からです。千石は「やっぱり北海道だべさ!!」、「なんもかんも北海道だべさ!」、「なしても北海道だべや!!」、「なまら北海道だべさ!!」、「いんでないかい!!北海道」、「へんでないかい!?北海道」といった調子で北海道のあれこれを書いています。どれかに「おじさんも北大でジンパがしたいのだ」とあったから、彼を見かけたらジンパにカテテやったら(北海道弁で仲間に入れてやったら)きっと「やっぱ、ジンパは北大だべさ!!」と本に書くかも知れんよ。うっふっふ。
 (5)の「道草のグズベリー」は「旅は道草をしながら北海道北上しよう」という至極ゆるい旅日記です。精選版日本国語大辞典の「道草を食う」は「馬が道ばたの草を食って進行が遅くなる。転じて、目的地に行く途中で、他のことに時間を費やす。道草をとる。」ですが、坂崎・北川コンビの「道草」の定義は「行き当たりばったりですぐ横道にそれる」でした。
 だから「滝川辺りでジンギスカン鍋の看板があると、そうだ、この辺りはジンギスカン鍋の発祥地なんだよなと装丁家がつぶやく。じゃあ、今夜はジンギスカンだね。今夜は滝川どまりだ、と日も沈まないうちから評判の店を探し始める」となるのでした。
 (6)は札幌のジンギスカンの老舗「だるま」の鍋にピントを合わせた珍しい記事です。
 (7)は久間十義の「心臓が二つある河」からです。ウィキペディアによると、久間は新冠町出身だそうで、そのせいか隣町の新ひだか町の長い桜並木の花見を小説に取り込んでます。久間の「限界病院」では、日高の架空都市、富産別市の病院に着任した医師にナースが、北海道の花見は5月になるが「それでも御料牧場は何キロも続く桜並木があって、そこに千歳の自衛隊からどっと隊員が乗り込んできてジンギスカン鍋でお花見をするんです」といい、医師が「ジンギスカン鍋か。一度、東京で食べたことがあるよ。羊の肉を鉄鍋で焼いて食べるヤツだろう」(306)と応じるくだりがあります。この「心臓が二つ…」の冒頭で、桜並木の花見ではジンギスカン鍋が定番だというだけですが、取り込みました。はっはっは。
 (8)は大蔵省広報誌「ファイナンス」平成10年12月号からです。同号は「関税局・税関特集」で函館税関小樽税関支所の川合義房支所長が、主題「北の海の関守 小樽港のパワフルな税関マン」として、ロシア貨物船検査の苦労話などを書いています。観光客用が主だとしても20年も昔、こんなにラム肉を輸入・消化していたとは、マトン派の私としては意外だったね。
平成10年
(1) 牧柵の夢
           吉田稔

 昭和三十年ころから北海道のめん羊事情が変わってきた。終戦直後は農家は衣料用として毛がほしいのでどんどん飼い始めた。戦時中に毛を軍隊に収めるためにめん羊飼育を奨励したときは、さほど増えなかったのに、本当に自分のために飼った戦後は見事に増えて全道で五〇万頭近くまでになった。ところが、世の中が落ち着いてきて化学繊維が出てきた。羊毛に似た化学繊維も出てくるようになった。こうなると、農家の人は苦労してめん羊を飼い、毛を紡ぐことを止めてしまった。
 そこに戦前の講習会で指導したジンギスカン鍋が登場する。農協や役場などで何か事があると、毛が必要でなくなっためん羊をつぶして食べる。北海道のめん羊はこうして食べられてしまい、一万頭近くまで減ってしまった。都会のほうでは、田舎で流行っているジンギスカン鍋を町でもやろうという人が現れて、札幌では西洋軒とか月寒学院などで復活した。滝川には松尾さんという目先のきく方がいて、滝川種羊場の職員から羊の捌きかた、タレの作り方を習って、松尾ジンギスカンとして名をあげた。今ではまるで北海道の郷土料理のように有名になっている。戦後は肉を食べることが主流になったので、めん羊の種類も毛取り用のコリデールから、今はほとんどが肉用の顔の黒いサフォークになっている。

(2) 北の味覚
           和田由美

◆…………〝野蛮人〟といわれて
 ある日、友人でもある東京の雑誌編集者から電話があった。彼女がいうには、花見にジンギスカン鍋を食べるのは北海道だけの風習という。本州で花見弁当を食べることはあっても、公園で火を使って肉を食べ、さらにカラオケの機械を持ちこんで歌うことなど信じられない話とか。
 モンゴルの英雄・成吉思汗(チンギス・ハン)の末裔のようで、〝野蛮人〟と言われた気もするが、考えてみると大胆な話だ。幼い頃から炊事遠足や自宅の庭で当たり前に食べていたが、花見に合う食べ物かといえば確かに不釣り合い。
 ともあれ、彼女が花見の食べ物特集のためにジンギスカンを撮影したいというので、会社創立以来、初の花見を開いた。つまり、撮影のための、まさにサクラというわけ。ゴールデン・ウイーク後だったので、肝心の桜は大半が散っていたが、野外で食べるジンギスカンはやっぱりおいしかった。
 そもそも、ジンギスカンが流行し始めたのは昭和初期で、中国の羊肉料理にヒントを得て生まれたといわれる。北海道の気候風土に適していたのか、今や郷土料理を代表するまでに成長。陽光を浴びて野外で豪快に食べるジンギスカンは、まさしく北の気候風土にふさわしい。本州からきた食通に、屋内で中途半端な板前料理をご馳走するよりも、ずっと喜ばれる。<略>

(3) 最後の晩餐(18) 勇利アルバチャコフ
     ジンギスカン鍋
           戸塚省三

 ハングリースポーツの代表ともいえる
のが、ボクシングである。ただし、この
場合のハングリーとは精神的な貪欲さの
意味なのだが、試合前のボクサーは減量
に次ぐ減量で、文字通り空腹との戦いを
強いられる。<略>
 だから、勇利の最後の晩餐が「ジンギ
スカン鍋」というのは、もっともな気が
した。何しろ世界チャンピオンを九回防
衛し、その度に減量を繰り返してきたの
である。最後くらいは肉を腹一杯食べた
いではないか。それに、勇利は蒙古との
国境に近い西シベリア、タシュタゴール
の出身だ。やっぱり羊肉を使ったジンギ
スカン鍋のようなものがいいに違いない。
と、はじめそう思っていた。<略>
 故郷のタシュタゴールでいつも食べて
いたのは、母親が作る川魚のスープや、
豚や馬の肉を煮込んだもので、中でもペ
リメリというロシア風水餃子とピロシキ
は今でも時々食べたくなるそうだ。けれ
ども、羊はその地方ではあまり食べなか
ったし、ジンギスカン鍋なんてものも、
もちろん日本に来てから初めて知った。
函館にある奧さんの実家から送られてき
た肉に、「ジンギスカン」という妙な名前
が書かれていたので、すぐに覚えた。
 そこで改めて、ジンギスカン鍋を選ん
だ理由を聞くと、たまたま最初に思いつ
いただけで、別に他のものでも良かった
のだそうだ。どうやら食べ物にはそれほ
ど関心がないらしい。<略>

(4) ジンギスカンを食べずして北海道を語るなかれ
           千石涼太郎

<略> ジンギスカンを発明したのは、内地の人。北海道で食べられるようになるよりずっと前、たしか大正時代に、鍋の形状を含めて、特許だか実用新案だかを取っていたらしい。
 彼の後継者が、数年前まで東京の杉並区内で「成吉思荘」(成吉思汗荘だったかもしれない)というジンギスカン料理の店を開いていて、歩いていける距離に住んでいた私は、そんなこととはつゆ知らず何度も食べに行ったものである。
 私はその店で「ジンギスカン発祥の店」という貼り紙を見ていたのだが、「そんなバカな、発祥は北海道が最初に決まってるべさ」と、ろくに目を通さなかった。ある日、なにげなく東京ローカルのTV番組を見ていると、成吉思荘の御主人だった人物が映し出され、事実を知ることになったのだ。
 その人物は「店を閉めた」と語りつつ、レポーターにある書類を見せた。当時のパテントの証書である。これにはさすがの私も、北海道発祥説を取り下げるしかなかった。<略>

(5) 道草のグズベリー
           坂川栄治、北崎二郎

<略> ジンギスカン鍋の発祥は日本で
ある。大正から昭和初期の頃にな
ると北海道でも羊を多く飼うよう
になり、羊毛の取れなくなった年
老いた羊の肉もなんとか食用に活
用しようと考えた。そこで官民一
体となって羊料理のレシピを考え
たが、なかなかいいアイディアが
浮かばない。当時は中国大陸の農
業開発も盛んで、札幌農学校出身
の人たちが深く関わっていた。そ
こで現地の烤羊肉という料理にヒ
ントを得て北海道で生まれたのが
ジンギスカンだという。ジンギス
カンという名は蒙古の英雄・成吉
思汗が松樹の火にあたりながら、
羊肉を焼いて食べたという話がも
とになっている。
 ジンギスカン鍋には焼いてタレ
をつけるものと、タレにつけ込ん
で下味をつけた肉を焼くという2
種類がある。元祖は下味をつけた
もののようだったようで、発祥の
地を自負する滝川市にはこの下味
つきのジンギスカン鍋が多い。
 ぼくらはタレ自慢の老舗に行く
ことにした。味は、……。北海道
は甘い味つけがお好きなようだ。
そういえば装丁家が言っていたの
を思い出した。北海道では納豆に
は砂糖醤油、赤飯にはささげでは
なく甘納豆をまぶすのがポピュラ
ーであったと。

(6) 鍋の穴が羊の脂を燃やして
    味をつくる
         サライ

<略> 話を戻そう。客が席に座ると即七
輪に真っ赤におきた炭が入り、ジン
ギスカン鍋がのせられる。鍋は鋳物
で4~5mmの厚さがあり結構重い。
鍋はご存じ、ジンギス・カンの兵た
ちが被っていた鉄兜の形だ。ただし、
割箸ほどの太さの山形状の穴が、四
方から何本も開いている。この穴か
ら見る炭の色がまた美しい。が、こ
の穴、美的感覚で開けられたのでは
もちろんない。羊を美味しく食べる
ための、道産子の知恵なのである。
 羊の脂肪分は強い。脂を火の上に
落とし、煙をどんどん出す。脂肪分
が低下した肉は煙にいぶされ。俄然
旨くなる。
「溝がついている鍋を使うところが
多いですね。溝の場合そこに油が溜
まり、肉は焼けるのではなく脂で煮
える状態になります。こんなジンギ
スカンはジンギスカンではないんで
すよ」と金官さんは言う。「先代が
鍋をあと50個残してくれていますの
で、ひとまず安心しています」と、
つけ加える。
 ジンギスカンを旨く食べるには、
鍋は穴あきが鉄則。しかし、七輪で
はなくガスコンロを使用していると
ころは、食べた後の掃除が面倒なの
で、穴のない鍋を使うことが多い。
<略>

(7) 心臓が二つある河(その1)
           久間十義

<略> 初め御料牧場はこの姉去コタンを含む、広さ七万ヘクタ
ールの大規模なものだった。ものの本には御料牧場は一八
七二年(明治五年)、のちの北海道開拓長官・黒田清隆が開
いたと書かれている。その後、天皇の牧場として宮内省の
管轄になって軍馬の生産にかかわった。この地方は競走馬
の産地として有名だが、それはこの御料牧場があったこと
が大きな原因だ。
 戦後の解放運動で一部が民有地になり、現在は農水省が
管理するこの牧場は、しかし、今では富産別の近隣の人々
にはむしろその一角にある桜並木で知られている。
 旧・姉去コタンを横切って、そのエゾヤマザクラの並木
は延々八キロ・一万本の長さで続く。北海道の遅い春、あ
らゆる木々や草々がいっせいに芽吹き、花咲く五月の中旬
に、御料牧場のその道の両側にどこまでも続く桜のアーチ
ができると、人々はただただ桜の花一色に染まったアーチ
の下に集まってくる。そしてこの地方独特の短い抑揚で会
話を交わし、酒を飲み、歌をうたって、ジンギスカン鍋の
お花見を楽しむのだ。<略>

(8) 道産子は羊肉が好き
           川合義房
 
 小樽港から輸入される冷凍羊肉(マト
ン・ラム)は、ニュージーランド、オー
ストラリアから、平成九年に約九千トン
(全国輸入量の約二六パーセント)、大
部分はハム・ソーセージ 等の加工用原料
品であるが、そのうちの一部は、北海道
に観光に来ると、一度は食べる北海道な
らではの味「ジンギスカン鍋」用に欠か
せないものとして消費されている。特に、
くせのない子羊の肉は、「ラム」といっ
て好まれるが、これは数量的にはあまり
多くないものの、小樽港揚げが約一千一
百トン、全国輸入量の約九四パーセント
を占めている。     ―閑話休題―
<略>
 平成11年の(1)は、は作家中沢けいによる御料牧場訪問記からです。羊群の大きな写真の説明「エリート羊が牧草地でのびのびと育つ」は編集者が書いたのかも知れないが「宮中晩餐会でたびたび登場し、世界中からの賓客に『世界一美味しい』と絶賛されるのが、御料牧場の羊。秋山主厨長の時代も、羊の腿肉の蒸し焼き、ジンギスカンなどの料理が多く出されていた。」(307)と書いています。
 中沢は「夕方から夜中にかけて放牧するというのは意外だ。」と書いている。つまり、ここの羊群は朝〝牧舎に帰り〟夜は護羊犬なしで牧草地で過ごすらしい。これが「世界一美味しい羊肉」にするノウハウの一部かも知れないね。
 (2)は札幌市民でも信じられない光景を見たという「週刊朝日」からの記事です。略したところはY子さんの家族全員「真ん中を丸くくり抜いた新聞紙を頭からかぶり、シンギスカンをつついて」いたというのです。新聞紙かぶりは当時の常識で、例えば昭和40年に私がやっている写真をお目に掛けよう。資料その14は逆光でいい男に見えないけどね、32歳の私ですよ。
資料その14
 いまならきっとだれかがスマホで写真を撮り、こんなジンパ見たよとSNSに投稿するかも知れんが、24年前ですから全く無理。もし、このK子さんが見た大通何丁目かの集団ジンパの写真を持っていたら、ここに追加するから私宛にメール添付で送ってほしい。お礼にジン鍋の絵も入った「おいしいにっぽん」切手10枚シートを1枚進呈しますよ。本当に。
 (3)の作家の司馬遼太郎は、かつて戦車兵として満洲にいた経歴からみて、満蒙型の烤羊肉を書いているだろうと検索したけど見付からなかった。ようやく「街道をゆく」で1例見付けましたが、それも20年も昔、小樽の峠で食べたときの肉が見事な薄切りだったというだけで、よそではもっと厚いとも書いていません。ということは、小樽以来ジンギスカンを食べていない、食べたいとも思わない人だったと思わざるを得ません。
 あるとき羊肉で検索して出てきた創価大教授の加藤九祚の「虚空にたいする畏れ」に「司馬さんの"偏食"を知る 」という一章がありましてね。加藤が司馬に贈った自著「続・ユーラシア文明の旅」の礼状に「銀色のヨモギを家畜がたべる、牛がこのヨモギをたべるといいミルクが出る、「ヨーロッパ・ロシア方面の羊はこのヨモギを食べない」というあたり、ユーモアを感じました。羊にも偏食があったのか(小生はやや偏食です。魚がたべられないのです)と、救われる思いでした。」とあり、それで加藤は「司馬さんがそれほどの偏食とは、私は知らなかった。高峰秀子さんによると、司馬さんは鳥肉を食べないとのことだが(前掲「司馬遼太郎の世界」一九五ぺージ)、魚まで食べられなかったとは……。」(308) と書いていたんですなあ。
 そうとわかれば司馬と親しかった高峰秀子の本です。高峰は「しかし、司馬先生といえども天は二物を与えなかった。頭の中は健康優良児でも、肉体的にはいささかのハンディがある。それはこの世の美味といわれているカニ、エビ、の類を食すと、ただちにジンマシンが起き、鳥料理を見ただけでも気分が悪くなるという哀れな体質を持っていられることだ。だから司馬先生を囲む食卓にはこの三種の美味は断固として出現しない。あのとてつもない銀髪は、先生の体質となんらかのカンケイがあるのだろうか?と、私はいつもふしぎに思っている。」(309)と書いていました。
 つまりだ、ジンギスカンは「鍋の上の煙」で十分と彼は思っていたのではないかなあ。ふっふっふ。
平成11年
(1) 世界一美味しい羊たち
           中沢けい
 
「牧場は牧場だから、変わった事があるわけ
ではないかもしれない」という不安は、門を
入ったとたんに消えたと書いたけれども、恐
れ入りましたという気持ちになったのは、世
界一美味しいと賛辞を送られている羊を見せ
てもらった時だ。新聞に掲載される宮中晩餐
会のメニューを見ていると、しばしば羊が使
われる。この前、金大中韓国大統領が訪日し
た時の晩餐会でも、メインディシュは羊肉の
料理だった。古くはイギリスのエリザベス女
王が訪日の時も、羊肉がメインディシュだっ
たと記憶している。エリザベス女王の来日時
の宮中晩餐会が、そもそも、晩餐会のメニュ
ーに興味を持った最初だった。以来、さまざ
まな国の大きな晩餐会があるたびにメニュー
を読むのを楽しみにしているのだが、日本の
皇室の場合、羊肉の料理と富士山型アイスク
リーム(グラス・フジヤマ)は、必ずと言っ
ていいほど登場する。特にデザートの富士山
型アイスクリームはなかったことがない。そ
れに備えて牛乳は年間六万リットルも搾られ
ている。それは後から書くとして、ともかく
まずは世界一美味しいという羊の話。
 羊舎では繁殖用の雌と、食肉用の当歳、つ
まり今年生まれた羊と、二歳の羊は別々に飼
育されている。<略>朝、集牧と言って
羊舎に集めた羊に餌を食べさせ、再び放牧に
出すのは、午後の三時頃だ。翌朝にかけて羊
たちは広々とした牧草地で過ごす。夕方から
夜中にかけて放牧するというのは意外だった
が、これは馬も同じで夜を自由にしますのだ
そうだ。<略>

(2) 北海道の名物
    ジンギスカン
    新聞紙活用術
           デキゴトロジー

 広告代理店に勤務するK子さ
ん(三一)は、昨年五月、出張で札
幌へ行った際、北海道ならでは
の光景に遭遇した。
 以前から北海道の人はジンギ
スカンが大好物だと聞いてはい
たが、大通公園で目にしたの
は、一分の隙もないほど敷き詰
められたビニールシートの上に
「マイ七輪」「マイ鉄板」を持
ち込み、盛大にジンギスカン・
パーティーを開いている光景。
 一年で最もさわやかな新緑の
季節にもかかわらず、あたりは
煙でモウモウ、まるでスモッグ
に包まれているようだ。だが、
がそんなことにはお構いなく、
「ちょっと~、ジンギスカン食
べていけないよッ!」
 などと観光客に声をかける地
元の人々を見るにつけ、
(この人たちは本当にジンギス
カンが好きなんだな……)
 と妙な感慨を覚えたものだ。
 それから半年後の昨年十二月
初め、K子さんは再び札幌を訪
れた。今回は雪が降り積もり、
さすがに野外でのジンギスカン
を見かけることはなかった。
 しかし、仕事が終わった夜、
地元の食品メーカーに勤める友
人のY子さん(三〇)から、
「家でジンギスカンやるんだけ
ど、来ない?」
 と誘われた。
「でも、家の中だと煙が出る
し、大変でしょう」
 ところがY子さんは、
「大丈夫。秘策があるのよ」
 誘われるままY子さんの家を
訪ねると、既にジンギスカンは
始まっていて部屋の中は煙がモ
ウモウ。<略>

(3) オホーツク街道
           司馬遼太郎

<略>昨夜は、稚内で一泊した。夜、街に出て、宗谷湾の
水蛸を薄くスライスしたものを、シャブシャブにして
食べた。
 スライスは、北海道のお得意芸らしい。二十数年前、
苫小牧の製紙工場が試製したという燻鮭(スモークド・サーモン)をもらっ
て、うまさにおどろいた。当初は手切りだったそうだ
が、ハムスライサーを改良した機械で薄く薄く削ぐよ
うになったのだそうである。
 もう一つ記憶がある。昭和三十二年ごろ、小樽に
ちかい峠のレストランで、熱した半球の焼き道具の上
に、透けそうに薄い羊肉をのせて食べた。店では成吉
思汗鍋とよんでいた。おそらく当のチンギス・ハーン
も、これほどの薄切り肉を食ったことがなかったろう。
 ミズダコは亜寒帯の海底に棲むタコだそうである。
大きいのは三メートルほどもあり、その足の一片の薄
さはハスの花びらのようだった。
「稚内名物です」
 と、講釈をきかされた。大阪あたりでこの食べ方が
おこなわれていたのを、ミズダコの産地の稚内にもち
帰ったのだという。<略>
 平成12年の(1)は雑誌「日本語学」1月号の特集「食べ物とことば」からです。「各地方言の食生活語彙を散歩する」の北海道方言について北海学園大の菅泰雄教授が書いています。菅さんによれば「北海道では、『生ずし』『生ちらし』と、『生』を付けて言うのが普通である。この言い方は、いわゆる『気づかない方言』と言えるもので、方言であることを意識している人は少ない。」(310)と言われて、私もそう言われれば「ソダネー」と認めます。
 私が特に注目するのは「筆者の頃にはなかった『ジンコン』とか『ジンパ』ということば」です。北大文学部同窓会員名簿によれば、菅さんは国文専攻で昭和56年博士課程満期だから、それまでにジンパ、ジンコンという言い方はせず、単にジンギスカンだったということであり、それも国語専門だったOBの証言だから信用したいよね。
 北大150年史編集室では「ジンギスカンを大学構内のどこで行っていましたか? また、それを『ジンパ』と呼んでいましたか?」と北大の公式ホームページで同窓生に尋ねているんだよ。知らなかっただろう。講義録の方にそのURLを入れて置くから検索してみなさい。
https://www.hokudai.ac.jp/bunsyo/hu150_wanted.html
 それで私も数人の有志にお尋ねして得られた答えを同編集室に伝え、さらに新バージョンでは仮題「最難問は北大生がジンパと呼び始めたころ」というページを開き、OBOGの記憶を尋ねることにしておるのです。匿名、ニックネームでも結構、メールで知らせてくれたら、ジン鍋の絵の切手を進呈するつもりです。
 (2)は函館短大の村元直人教授が書いた「北海道の食」からです。「北海道の食」という本だから、羊毛、羊肉を利用しようとしたのは、当然道民となるのでしょうが、初めから焼き肉として食べることしか考えていなかったような表現ですよね。まあ、焼き鳥風にして食べようと工夫したといえなくもないがね。
 巻末の「蝦夷・北海道食物史関係年表」に「一九三七(昭和一二)広尾村内で初めてジンギスカン鍋の料理法が紹介された。」(311)とあります。昭和3年に札幌、小樽、旭川3市で鍋羊肉としてジンギスカンの料理講習会を開かれたことを思えば、郡部では随分遅かったことがわかります。
平成12年
(1) ●北海道
           菅泰雄

 <略>今から三〇年程前、筆者が大学生の頃、仲間でスキヤ
キを作ろうということになったが、東京出身の学生が牛
肉を買ってきたため、皆驚いたという話があった。スキ
ヤキと言えば、庶民レベルでは豚肉が普通だったのであ
る。また、ネギもタマネギを使うのが普通であった。今
では、牛肉、長ネギと「共通語化」している。
 肉と言えば、羊肉もジンギスカンとして道民や観光客
に人気がある。北大のキャンパスでは、学生達がジンギ
スカンを囲んでいる光景を見かけることがある。筆者の
学生時代でもあった伝統が今でも受け継がれているので
あるが、ただ一つ変わったことがある。筆者の頃にはな
かった「ジンコン」とか「ジンパ」ということばである。
ジンギスカンコンパ、ジンギスカンパーティーの略で、
北大キャンパスことばと言えるものである。

(2) ジンギスカンのルーツ
           村元直人

 羊毛は衣類に利用されたが、羊肉の利用は思うように進まなかった。羊毛を刈る品種の肉には独特の「臭さ」があり、それが人々の嗜好に合わなかったものと思われる。満州事変から日中戦争へと戦争が拡大して食料事情が悪化すると、ようやく羊肉が食材として注目されるようになった。羊肉の匂いを消すため、ニンニクやタマネギを醤油に加えた「たれ」を工夫し、これに羊肉を浸して焼いたり、あるいは焼いた羊肉に「たれ」をつけて食べた。「たれ」にはニンニクなどのほか、リンゴをすったり各家庭独自のものであった。 当時の羊肉は脂が多く、家のなかで焼くと匂いがしみつくので、屋外で焼いて食べることが多かった。これが近年北海道にさかんに食べられている、「ジンギスカン」という羊の焼き肉料理である。近ごろ北海道で食べている羊肉は、日本人の嗜好にあう肉用の羊で臭みはない。羊肉の「ジンギスカン」料理はつとに有名であるが、北海道で生産しているわけではなくほとんど輸入品である。「たれ」もまた家庭でつくることがなくなって、市販されているものを使用している。北海道を代表する「ジンギスカン」料理ではあるが、北海道で生産してるものがなにひとつないといってよいほどの料理である。
 平成13年の(1)は昭和63年からの第30次と平成9年からの第38次の2回、調理担当隊員として南極で越冬した海上保安官、西村淳の「面白南極料理人」からです。
 初めて越冬隊員になったとき「イメージとして、『日本中から選抜された観測隊員に対しては毎日ごちそう責めにしてやらなければいけない』と崇高な使命感に燃え」(312)高級食材はごっそり持ち込んだものの、サンマなどの大衆魚を見事に忘れた。さらにオーストラリアで「牛肉の安さに歓喜して」またもや鶏肉や豚肉を買い忘れた。
 その結果、30次越冬隊員は「Tボーンの焼豚風・牛ひれのハンバーグ・伊勢エビ団子のみそ汁・サーロインの角煮など、日本の調理人が聞けば、あまりの採算度外視、八方破れに脳溢血を起こして倒れてしまうメニュー」(313)が楽しめたそうだ。それはともかく、南極ジンパは羊肉を凍らせないよう鍋奉行は忙しかったことは確かなようです。
 (2)は「北大野球部100年史」からです。「動物のお医者さん」ですっかり有名になった獣医学部のある北大ならでは、でね。鶏を絞めるのもなかなか面倒なのに、綿羊をですよ「皮をはぎ、骨を外し、食べやすいように肉を刻む。」とあっさり書いているあたり、察するに獣医学部の部員もいたんでしょう。綿羊1頭当り食べられる肉量は20キロとみて2頭で40キロ、40人で食べたらしいから1人当り1キロ、飲みながらですから充分だったでしょう。そのときのスコアは16対6、北大の大勝とは出来すぎじゃないかなあ。
平成13年
(1) ジンギスカン大会
           西村淳

<略> マイナス四〇℃でジンギスカンパーティーを行うと、どんな風になるのか説明しよう。まず焼けた肉や野菜は皿に盛って、その後おもむろに口に持っていく通常の過程は不可能。焼けたら速攻で口に投入しなければ、たちまち、ほんとにガチガチの冷凍状態に逆戻りしてしまう。もちろん解凍してボールに盛ってある肉も、焼く分だけ鍋の上に置き、後は屋内と会場を忙しく行ったり来たりを繰り返さないと、氷の塊に変身してしまう。
 飲みもの類は、缶ビールは空けてから一分以内に空にしなければただの苦い氷になってしまうし、日本酒は紙コップに入れてものの数分でシャーベット状に返信。かろうじてウオッカやウィスキーは持ちこたえるが、これも二〇分ぐらいで瓶の中に氷の柱が立ってくる。
 最後まで頑張るのが、まさにこの目的のために存在していると言っても過言ではない「コンクウィスキー」だった。通常のウィスキーは四五度くらいだが、これは六五~七〇度のアルコール度数。「しらせ」艦内でも記念品として配布されるが、グラスに注ぐとアルコールのもやもやが立ち上がり、通常はとても飲めた代物ではない。それがこういう環境で飲むと、飲んだ瞬間はキリッと冷たく、胃に収まるとカーッと腹の底から熱気が上がってくる。ダイナマイト! 酔いが回ってくるのもダイナマイトで、こればかりで酒盛りを進めていくと瞼にシャッターが降りるごとく、ある瞬間に意識がとぎれて闇の世界に落ちていく。<略>

(2) ジンギスカン料理でもてなし
           北海道大学野球部

<略> 北大の打線が爆発して圧勝したが、試合後の合同コンパが語り種になった。北大側は球場から恵迪寮に取って返すと、2グループに分かれた。獣医学部から2頭の羊を購入し、絞めてもらっていたが、1グループはその解体に取り掛かった。皮をはぎ、骨を外し、食べやすいように肉を刻む。手を血だらけにしての作業だ。野菜類も次々刻んだ。別のグループはタレ作り。大量の大根とニンニクをおろし、しょう油にぶち込み、それに肉を漬け込んで準備を完了。
 夕方から寮の裏の原始林でジンギスカン料理での接待が始まった。両チーム合わせて40人ほどがジャンボボトルのビールを飲みながらの歓談で、肉はいくらでも食べられた。双方から歌も飛び出し、宴は遅くまで続いた。東北大との定期戦は1951年に復活後、仙台と札幌で交互に催されてきたが、1956年に他の競技も参加しての総合対抗戦になったことから野球は55年・56年と続けて仙台開催になった。その返礼もあって、北大側がジンギスカンなべの宴を企画したものだ。
 1947年、インターハイ東北予選に出場した当時の北大予科ナインが二高明善寮で混ざり物のない白米の握り飯を供され、随喜の涙をこぼしてから、ちょうど10年目のことだった。タレ作りをした恵迪寮の野球部員の居室は1週間以上ニンニクのにおいが消えなかったが…。
 平成14年は奇しくも2冊とも札幌市月寒にある八紘学園の創立者栗林元二郎を中心とする本です。それで(1)の「八紘学園七十年史」では昭和11年9月に石狩平野で行われた陸軍特別大演習で来道した八紘学院理事長でもある海軍大将財部彪はじめ陸海軍大将9人が学院視察に訪れ、生徒の様々な農作業を見た後、昼食としてジンギスカンなどを食べたあたりを引用しました。
 (2)の「続・ほっかいどう百年物語」からは戦後、校名を月寒学院と変えさせられ、有志からの援助もなく、苦しい学院経営を支えるため「ジンギスカンクラブ」を開業し、ジンギスカンが北海道名物となるきっかけとなったことなどを示します。ただ「百年物語」には長くなるので引用していないが、220ページから221ページにかけてジン満洲からのジン鍋持ち込みに関して重要なことが書いてあるので、そこを読みます。

 しばらくすると経営も安定し、学生数も増えたため、昭和14年、43歳の時には、国策で中国東北部開発にも乗り出しました、アーチョン市郊外に4千ヘクタールの土地を確保して「八紘村」を建設、元二郎はここで酪農を主体とした大農式の農業を展開しようとし、全道から募集した総勢5百名の移民団を組織して、馬や牛、農業機械も持って行きました。
 ところが日本の敗戦で、この事業は水の泡となってしまい、元二郎や八紘学園の卒業生は、運営や指導を続けられなくなり、引き揚げることになってしまいました。<略>
(314)
 これを受けて「ところで、元二郎が中国から帰国とした時、一緒に持ち帰ったものかありました。それは、シンギスカン鍋でした。もともと羊の肉は、モンゴルの主食のようなものでしたが、中国では伝わっておらず、羊肉を鍋て焼いて食べるようになったのは、日本人が行ってからてした。」(315)と書いてあります。
 これだと栗林さんは終戦当時、旧満洲にいたことになりますが、彼は札幌にいたのです。だからジン鍋を持っての引き揚げはあり得ない。私は満洲引揚者だから知っているが、写真すら取り上げられたし、現金も1人何円と制限され、尽波家は極貧の夫婦子供合せて7人分の金なんかない。なにがしかの謝礼をもらう約束で、金満夫妻から7人分満タンになるだけ預かって乗船したことを覚えています。
 八紘村を開いた一帯の中国人は緬羊と牛馬は飼っていなかったとしても、豚とロバは飼っていたでしょう。羊肉はなくても困らない暮らしだったと思いますね。
 この後の平成15年の本として「北海道聞き書き隊選集」があるが、それに八紘学院助手だった千田恵吉さんの話があり、千田さんは栗林さんがジン鍋を満洲から持ち帰ったのは昭和12年。「なにしろジンギスカンの兜のように頭がとんがっている。ひっくり返して深い方を底にして使うのかと思ったらどうもそうでもないらしい。<略>農場の片隅で七輪に火を起こして、私ら助手を集めて「満洲じゃみんなこうやって喰っている」と云って喰わせてくれました(316)と語っています。
  満洲に行ったのは「追想記 栗林元二郎」の年譜「この一生」によると、昭和12年4月、満洲国新京市の嘱託となり、同年末には新京酪農株式会社創設代表者になっている(317)ことから、これらの出張の土産に鍋を買ったのでしょう。
 この年譜で初めて知ったのですが、昭和41年8月、いまは国土交通省ですが、当時の運輸省からと思うのですが、栗林さんは「ジンギスカン開拓の功績に対して観光産業功労章を授与さる」(318)とあります。道内某町観光協会が受章した例があるので、もしかすると北海道遺産委員会も受章ずみかも知れませんよ。うっふっふ。
平成14年
(1) 陸軍大演習と学院
           八紘学園七十年史

 昭和一一年九月末、昭和天皇の来道をお迎えして陸軍特別大演習が石狩平野を舞台にして繰り広げられた。演習には陸軍の将官多数が視察のために来道したが、そのなかに学院評議員の菱刈隆陸軍大将も含まれていた。また海軍出身の財部理事長も陪席のため来道、学院に宿所を定めていた。菱刈隆大将はこれまで学院を訪問する機会がなかったため、財部理事長を通じて、来道を機に、自分の目で学院の実情を視察したいと申し出た。これを知った学院では菱刈大将のみでなく、来道した多くの将官にも学院の現状を紹介し、大規模農業と青年教育への理解を深めてもらおうと、財部理事長を通じて来道中の陸海軍の将官の学院への招待を申し出た。これに対して各将官が招待に応じ、大演習の合間の一〇月二日、前、元陸海軍大臣を含む、陸海軍の九大将が学院に会するという前代未聞の招待視察が実現した。<略>
 視察後は正午からテニスコートの中にしつらえた会場で九将官を歓迎する野宴が開かれた。会場では学院の独特の野天に火を焚いてのジンギスカン焼き、豚のさつま汁、赤飯や燕麦飯、農場特産の果実類が机いっぱいに並べられ、さらにビール会社から差し入れのビール樽も積み上げられ、余興には生徒らによる"八紘相撲"も登場して参会者一同、歓を尽くした。<略>

(2) 栗林元二郎(1896~1977)
           続・ほっかいどう百年物語

<略> ところで、元二郎が中国から帰国した時、一緒に持ち帰ったものかありました。それは、シンギスカン鍋でした。もともと羊の肉は、モンゴルの主食のようなものてしたか、中国では伝わっておらず、羊肉を鍋て焼いて食べるようになったのは、日本人が行ってからてした。
 戦後、八紘学園の農地解放問題が起こり、以前から築いていた中央財界の人たちからの資金援助も一切なくなったため、学園の経営はかなり厳しい状態に陥りました。そこで元二郎は苦肉の策として、昭和28年、学園のキャンパス内で「ジンギスカンクラブ」を発足させました。クラブ方式にしたのは、学園の設備を整えるための資金集めか狙いでした。
 このクラブでは、室内では部屋中に匂いかついてしまうという欠点を補うため、野外で食べるようにしました。また、昔からあった石炭ストーブのロストル式の鍋を用いて、余分な脂肪を下の炭火に落としながら焼き匂いを消すという工夫もしました。
 元二郎は、各界の名士を招いては宴会を開き、このジンギスカンクラブを大々的に宣伝しました。特に、北海道は政財界の要人の来訪か多いため、昼食に北海道らしい食べ物で接するには、ジンギスカンのような、野性的な趣きの料理が向いていたのです。
この元二郎のおもわく通り、人々は皆珍しいジンギスカンに興味津々で、社交の場としてもおおいいに効果をあげました。
 昭和40年代になると、道内のめん羊飼育数は20万頭になり、ジンギスカン料理の専門店が次々とオープンするようになりました。当時、羊の肉は比較的安く、また野菜も道内で豊富に取れるモヤシやたまねぎと良く合うため、家庭でもジンギスカン料理を楽しむようになり、様々な行事に欠かせない北海道名物になりました。
 平成15年の干支は未年。それで北海道新聞は記者2名を探偵団として羊肉料理のジンギスカン料理のルーツなどを調べさせた。その3回目の報告が「ジンギスカン料理」という名前調べで「ジンギスカン料理の権威」である道立中央農業試験場の高石啓一研究主査に尋ねたら「命名者は札幌農学校出身で、満州国建国に深くかかわった駒井徳三氏でしょう。」と答えたというのです。
 高石さんは7年前に知った吉田博の「ジンギスカン料理物語り」をじっくり吟味した筈ですが、駒井徳三命名説イコール元満鉄社員塩谷正作の作り話を真実と認定したのですなあ。
 何度も言うが、藤蔭満洲野エッセイは「命名した」ではない。「私は亡父についての原稿を依頼され、また逆に、ジンギスカン鍋は父が日本に紹介した始めての人だということなども知った。」ぐらいの関係だったので、正直に「なんとなくつけたのかも知れない。」と書いた。探偵共は「札幌百点」で確かめずに書いたとしか思えないね。
 それでね、道内では最大発行部数を誇っていた道新がですよ、駒井命名説を広めたことになり、今やジンギスカン料理・鍋の命名者は駒井とするホームページが大多数になり、最新の生成AIも駒井命名説が有力ですと答えるようになったのです。
 (2)は昭和19年、八紘学院が校舎復旧協力のお礼と千島出動の送別宴を兼ねて、月寒の第25聯隊の兵士にジンギスカンを食べてもらったという実話です。
 千田さんの思い出話で引用できなかった箇所によると、昭和18年1月、火事で学院の校舎と棟続きの寄宿舎が全焼した。復旧用の資材が手に入ったとき、隣の北部軍の樋口季一郎司令官が兵士を派遣して校舎と寄宿舎を再建してくれたそうです。もっとも、栗林院長は将官待遇で千島や樺太にいる北部軍のため野菜栽培を指導しており、樋口司令官と親しかったということもあったようです。
 (3)は長男の肇が終戦までプロペラを造っていた大阪のS金属に電話して、工員200人を統率していた亡父が俳名「はなを」で投稿していたことを知り、大阪の図書館で句誌を捜し「椿赤しかたへの梅はまだ咲かず」を見付る。さらに「春眠の覚めがたきかな歌時計」「幟見る産褥の窓開けやりぬ」などから過ぎし日々を追憶する―というストーリーです。
 (4)は林真理子の「トーキョー偏差値」からです。日本大学の公式サイトを見ると、同大OB「撮影:篠山紀信」と説明付きの林真理子理事長の写真付きの理事長メッセージかあります。理事長のプロフィールを見ると、昭和51年芸術学部文芸学科卒、6年後にエッセイ集「ルンルンを買ってお家に帰ろう」を出版。以後多くの著書を出したことは知っておるが、フランス政府からレジオンドヌール勲章、日本政府から紫綬褒章を授けられたお方とは知らなかったね。
 サッカーのベッカムは平成2年、アルゼンチンとの対戦のために札幌に来たから、林さんはそのとき札幌まで出かけたわけだ。「仕方なく、何年かぶりかに夫と旅行することにする。」という倦怠感がいいなあ。
 (5)は、ここの(1)にも出た高石啓一さんが「畜産の研究」10月号で発表した「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」からです。未年だからね、道新に「ジンギスカン料理の権威」と書かれた道立中央農試の研究主査は、やはり黙っていなかった。平成8年に発表したようにジンギスカンという名前は日本人の命名であり、昭和5年頃から使われたと思うと書いたのです。高石論文はもう少し後で、もう一度取り上げます。
平成15年
(1) 調査報告その3 ルーツを探る
           北海道新聞探偵団

<略> ジンギスカン料理がこの名前なのはなぜ? これが探偵団をとらえた最初の疑問だった。「モンゴルがルーツだからだろう」と、聞き込みを始めた。しかし…。
 「モンゴルではもちろん羊肉を食べる。でも、ジンギスカン料理はありませんね」
 中国・内モンゴルで羊料理を学び、滝川市でラム料理の店「ラ・ペコラ」を開く河内忠一さん(48)が軽やかに答えた。いきなり見込み違いだ。
 内モンゴルの羊肉の料理は塩味で煮た「シュウパウロウ」がメーン。羊肉を焼いた中華料理「コウヤンロウ」もあるが、ジンギスカンとはほど遠いという。
 道立中央農試(空知管内長沼町)にジンギスカン料理の権威がいる。高石啓一研究主査(59)だ。わらにもすがる思いで高石さんを訪ねた。
 「羊の肉をどう利用するか。そのためにジンギスカン料理ができたんです」
 明治時代、羊毛は厳寒地用の軍服の素材に欠かせなかった。だが、第一次大戦時に輸入が絶え、政府は一九一八年(大正七年)、羊毛自給をめざす「綿羊百万頭計画」を開始した。軍備を支える国策としての綿羊飼育で、滝川や札幌・月寒など全国五カ所に種羊場が開設された。肉の活用も種羊場を核に進められたというわけだ。
 では、ジンギスカンはだれがいつ考えたのか。「命名者は札幌農学校出身で、満州国建国に深くかかわった駒井徳三氏でしょう。ジンギスカンの文献での初出は昭和六年(一九三一年)にさかのぼれる」と高石さん。
 日本軍の旧満州(現中国東北部)進出にからみ、身近だったコウヤンロウをヒントに日本人の口に合う羊肉料理が考えられる。そして義経伝説に連なるジンギスカンの名前が付けられた-。
 駒井氏が満州にちなんで名付けた娘の満洲野(ますの)さん=故人=も「父がジンギスカン鍋と命名した」と一九六三年発表のエッセーに書いている。
 孫で登山家の今井通子さん(60)=東京都世田谷区=は、祖父の豪快な姿をよく覚えている。「撃ったカモを腰にぶら下げて帰り、ごちそうしてくれた。温和さと野性味を併せ持つ人でした」。大陸的なロマン漂う命名をしたのもうなずける。<略>

(2) 兵士の送別ジンギスカン
           千田恵吉

<略> いよいよ壮行会当日です。兵士たちは何も知らされず、雪上
訓練という名目で、福住の農業試験場のあった雪原まで雪中
行進です。兵士達の行軍で踏み固められてできた道の最後か
ら大きなソリを何台もついていきます。ソリの上には何十個
の七輪、それに炭俵が積んであります。別のソリには解体し
た緬羊の肉が山積みされてます。
 そうです。栗林先生の発案で兵士達のために雪上ジンギス
カンが農業試験場の雪原で開かれたのです。そのときたれ作
りを担当したのが私です。たれといってもケチャップにソー
スと醤油を混ぜて、適当に香辛料を入れて味付けしただけで
すが、農産加工をまかされていたのでいつのまにか舌がうま
みをおぼえていたのですね。自分でいうのも何ですが、でき
あがったものはなかなかのものでした。
 いまから思うと素朴な味でしたが、なにも知らされずに
ゴザの上に並べられた七輪を囲んだ兵士たちは焼き肉のごち
そうにびっくりです。まだいまのようなジンギスカン鍋はあ
りませんでしたから、鍋は平な鉄板焼きみたいなものでした。
それでも始めて口にするジンギスカンに兵士達は大喜びです。
なかには涙ぐんでいた兵士もいました。樋口司令官も栗林先
生とおいしそうに七輪を囲んでいました。これが私のジンギ
スカンとの二度目の出会いでした。<略>
 実際にあのとき、樺太に渡った兵隊の皆さんはソ連軍の攻
撃、その後のシベリア抑留で二度と祖国の土を踏むことなく
亡くなった人も大勢います。<略>

(3) 子の隠し
           神林槻子
 
<略> 「じいちゃんはな、いまは旭川でちっちゃい食堂を
やってるけど、若いころは大阪のS金属プロペラ製
造所で製品検査の工長をやってたんだ」
 旭川から土産に持ってきたジンギスカンをジュー
ジュー焼くのは、こつをのみこんだ父の仕事になっ
ていた。慣れない者が焼くとすぐに焦げ付かせてし
まう。
「それっ、若い衆、たっぷり食えよ」
 マトンやモヤシ、タマネギ、サツマイモなどを孫
たちの皿にとり分けてやりながら、いかにもいま、
秘密を明かすといわんばかりの口調で、今年もまた
父の自慢話が始まった。毎年、十二月はじめに肇の
家にやってきて、一月半ばまで滞在するのが慣例の
ようになっている。中二の敏、小二のゆかりはお年
玉をたっぷりはずんでくれるじいちゃんが大好き
だ。
「じいちゃん、いつ頃の話?」
 声変わりした敏が、笑いを我慢しながらさそう。
「昭和十四年の一月からだな、お前の父さんが二歳
くらいになってたかなあ」
「それまでは?」
「普通の工員よ。戦闘機のプロペラの製品検査は、
ちょっとした狂いも許されない、神経を使う仕事で
ね。軍人が監視してたな。これがいやだった。工員
がずいぶん殴られたもんだ。軍部は増産とスピード
アップをやかましくいうけれど、こっちはね、一ミ
リの精密度が要求されるんだ。結構大変だったんだ
よ」<略>

(4) いとしのベッカム
           林真理子

<略> それで小樽まで足を延ばすことになったのであるが、ギリギリになって、もう一枚チケットが手に入ることになった。もうホテルはとれないということで、同室できる人、ということになり、私の夫に声がかかった。仕方なく、何年かぶりかに夫と旅行することにする。
 そして一行は札幌到着、心配されていたフーリガンの姿はなく、目に入ってくるのは警備の人ばかりである。
「試合前に、前菜っていうことでジンギスカンを食べに行こうよ」
 ということで、すごく流行っているお店へ行った。正直いってかなり汚いお店で、コンロでお肉を焼いてくれる。けれども、そのおいしさといったらない。私たちはガツガツとお肉を食べ、生ビールを飲んだ。
 やがてカウンターの横に、二人の男のコが来て座った。顔をイングランドの国旗に塗っているではないか。
「これってどうするの」
 友人が話しかけたら、
「文房具屋さんで売っている、顔用のマジックですよ。よかったら貸してあげますよ」
 赤と白の二本のサインペンを差し出した。
 私はベッカムのファンではあるが、それほどイングランドチームが好きというわけではなかった。けれども、そのサインペンを使って、夫が頬っぺたにイングランドの国旗を描いてくれた。不思議なもんで、ワールドカップを観に行くとなると、こういうことをしても恥ずかしくない。そして次第にイングランドファンになっていくのである。<略>

(5) まとめ
           高石啓一

 「成吉思汗料理」の原点は,大正時代に作られた
羊肉料理法の中にある「羊肉の網焼」であった。
陸軍糧秣本廠の満田百二が昭和6年4月20日増補
再版発行の「緬羊と羊肉料理」糧友会編纂のもの
に記載している「成吉斯汗(ジンギスカン)」で
は,「羊肉の網焼」という言葉を用いており,この
「羊肉の網焼」を「成吉斯汗料理」と充てている。
 したがって,「成吉斯汗」なるものは日本人が命
名した料理であることがハッキリしてきた。<略>
 糧友会の「緬羊座談会」が昭和5年11月8日東
京赤坂三会堂にて行われた。この座談会は農林省
の講演,糧友会主催で催され,<略>
その中で,満田百二「羊肉料理は焼肉がよ
い」と発言しており,今日の試食には,「成吉斯汗
(ジンギスカン)を用意している。と述べた座談
会記録があった。
 ジンギスカンという言葉が出現したのは、先の
「畜産の研究」第50巻第6号で考察したように,昭
和5年に,「ジンギスカン」という名が世に出現し
たといってよいと思う。
 幾人かの人達が中国の北京市街にあった正陽楼
で「烤羊肉」を食べたことをもって成吉思汗が中
国にあったという。なぜに中国の烤羊肉を成吉思
汗料理と強いていうのだろうか。中国で「成吉思
汗」をと注文してもテーブルには出てこない。
和製のものであることは疑う余地もない。時を経
過したことで曖昧としているのか,いや時代の作
為があったといえよう。陸軍糧秣本廠の羊肉食普
及宣伝の秘策という姿が隠れているらしい。<略>
 平成16年の(1)は三角関係を書いた白石一文の「見えないドアと鶴の空」からです。ここに出てくる由香里は昴一の妻絹子の親友、場所は由香里の家のキッチン、そこでラムのジンギスカンとパスタでワインを飲んだ―という状況です。
 (2)は道新朝刊1面のコラム「卓上四季」です。前年の道新ジンギスカン探偵団が、お膝元の北大生たちがジンパと呼び、構内のあちこちでジュージューやっていたのに気付かず、高知や岩手のジンギスカン調べをしたように、論説記者がジンパという別名を知るのも遅かったようで「それならこっちは何十年も前からやっている」と負け惜しみを書いてます。ふっふっふ。
 (3)は佐々木道雄の「焼肉の文化史」からです。この本はね、文学部同窓会のホームページの読み物だった「現場主義のジンパ学」で、ちょっと間だけ見せた正宗得三郎画伯が描いた北京・正陽楼の中庭で客が烤羊肉を食べている絵、資料その15をコピーし、同書330ページに《図9-7》として「北京正陽楼のジンギスカン料理(『時事新報』連載・里見惇「満支一見」の挿絵<昭和5(1935)年6月発表>……北海道大学文学部同窓会ホームページ・e楡文(いーゆぶん)の「現場主義のジンパ学」(尽波満洲男)より再掲載)(319)と丁寧すぎる説明付きで使ってくれたので、私は慌てたね。著作権終了まで少し間があったので、すぐ府中市におられた息子さんに弁解とお詫びの手紙を送りましたよ。
 その返信で画伯は昭和2年に満支旅行をしており、そのときの絵と知り、本を検索したら村山鎮雄著「史料 画家正宗得三郎の生涯」に「昭和二年秋満州鉄道本社の招きで有島生馬と大連、遼陽、長春、吉林、ハルピンなど満州各地と北京、天津を写生旅行をし、良い画題を得てその成果は昭和三年第一十五回二科展出品の『北京風景』などに現れている。」(320)とありました。
資料その15
 佐々木本で私が名言だと思うのは「俗説は繁栄する」という一言。真実を証明しても面白い説明になるとは限らない。面白くてもっともらしく作られた俗説がどんどん広がる中で「事実を掘り起こし、それまでの俗説を否定することは、とても大変な努力を要する。私は〝焼肉〟について調べ見て、そのことを肝に銘じた。」(321)と述懐してます。ジンパ学の場合「誰云うとなく」説を消去してしまった駒井徳三命名説がそれだ。駒井説のホームページが後から後からと現れるもんね。
 (4)は日経新聞の野瀬泰申記者による「全日本『食の方言』地図」です。野瀬記者は食べ物・グルメ関係を調べて日経の紙面より雑誌などに書いた方が多いんじゃないかと思いますが、それはともかく、同書は食関係のチャットをまとめたような本です。
 (5)はNHKテレビのプロデューサー、演出家として知られた和田勉の少年時代の思い出です。和田によると、父親がカネボウ所有の綿羊の管理者だったため、羊群を連れてカネボウ系列の牧場を移動するたびに転校し、昭和20年には特攻隊の基地があった鹿児島県鹿屋にいた。それで綿羊を乳牛に代え牛乳を供出するよう軍命が下り、やむなく450頭の羊を一挙に感電屠殺したというのです。
 見出しの「玉手箱」は、和田の父親が搾った牛乳を届けて行くと、基地の司令官からたまに渡される小箱のことで、それは特攻隊員へ与える菓子箱だったのです。
 (6)は農学部OGの作家谷村志保さんの小説「蒼い水」からです。検索で得た情報によれば、谷村さんは函館の雰囲気が好きで、それで函館を舞台にした作品が多く、何度も函館で自著を朗読する会を開いたそうです。沢山ある彼女の作品の中には、ほかにジンギスカンがらみの情景をより詳しく書いた本があるかも知れません。
 (7)は兄の夢路いとし、弟喜味こいしのコンビの十八番だった「ジンギスカン料理」です。「食べもんにもやっぱり好き嫌いはあるわね?」「そら、好き嫌いはある」から始まり、鍋物をあれこれ取り上げ、いとしはジンギスカンを知っているのに、知らぬ振りをしてからかい、抜き出したような応答で終わるのです。
 同書には毎日放送プロデューサー高垣伸博氏による「いと・こいを科学する」という面白い報告が付いている。2人に7分半のネタを実演してもらい、それを解析したら言葉のやりとりが284回、間は15分の1秒だった。別の実演を音声分析したら2.5キロヘルツ帯にという聞きやすい周波数帯だったそうです。
平成16年
(1) 7
           白石一文
 
 昴一がパスタをこしらえている間に由香里はラムをソテーし、絹子がこの前持ってきてくれたというオレンジを使ってソースを作った。
 パジリコとベーコンにニンニクと鷹の爪、オリーブオイルであっさり仕上げたパスタを大きなボウルに盛り、きれいな焼き色のついたラムチョップと買ってきたカボチャサラダとを一枚の皿に盛り合わせて由香里は食卓に並べた。
 冷凍庫で急いで冷やしたグラスにワインを注ぎ、昴一と由香里はテーブルを挟んで差し向かいで座ると乾杯をした。真悟は隣の寝室で静かに眠っている。
 それからしばらくは二人とも黙々と食べた。由香里はパスタもサラダもいかに美味しそうに食べている。が、ラムには一口つけたきりで手を出さない。
「ラムは駄目だった?」
と昴一は訊いた。
「北海道だし、好きなのかと思ったんだけど」
 絹子の場合はジンギスカンが大好物だった。
「そんなことないよ」
 由香里はパスタを頬ばりながら言う。
「最近、ちょっとお肉は遠慮してるの」
「どうして、おっぱいだって出さなきゃいけないんじゃないの」
「お乳のためには動物性タンパクはあんまり良くないんだよ。味もすっぱくなるし、アトピーの原因になるって説もあるんだから」
「そうなんだ」
 ここで由香里はわけあり気な笑みを浮かべた。
「でもね、ほんとはダイエット。真悟を産んでからなかなか体重が元にもどらなくて困ってるの」
「なーんだ」」
 昴一も笑った。<略>

(2) 卓上四季
           道新論説委員室

「ジンパ」と最
近の若い人は言
うそうだ。何の
ことかと思った
ら、羊肉を鉄鍋
で焼くあのジン
キスカンを楽しむパーテ
ィーの略称だという。そ
れならこっちは何十年も
前からやっている▼「と
にもかくにも、羊を焼い
て、大いにけぶし、大い
に喰らう、また楽しから
ずやだ」。食通で鳴らし
た作家、檀一雄が「わが
百味真髄」でジンギスカ
ン鍋を手放しで礼賛した
のは、三十年ほど前のこ
とだ▼ジンギスカン鍋と
いう名は昭和初期にはつ
けられていたようだ。普
及したのは戦後だ。それ
がこのところ、あらため
て脚光を浴びている。牛
海綿状脳症(BSE)騒
ぎなどのせいか、消費者
が羊肉にも目を向けるよ
うになったらしい▼札幌
では若者向けにおしゃれ
な内装の店もできた。煙
を減らす工夫をした店も
ある。食肉業者らでつく
るジンギスカン食普及拡
大促進協議会の棟方悦子
事務局長は「栄養価が高
くて健康にも良いこの料
理を見直そう」と力を入
れる▼協議会の申請に基
づき日本記念日協会は今
年、四月二十九日を「羊
肉の日」と決めた。「ヨ
ウニク」のごろ合わせだ
が、大型連休の初日で時
期としてはいい。協議会
は来年、羊肉の日に向け
人気を盛り上げる催しを
考えているそうだ<略>

(3) ジンギスカン料理の由来
           佐々木道雄

 昭和12(1937)年2月発行の料理月刊誌『料理の友』の「成吉思汗鍋料理」(吉田誠一)という記事(以降、「成吉思汗鍋料理」という)に、ジンギスカン料理のいわれが記されている。それによると、北京在住のある日本人(井上某)が1910年代頃に、北京前門外にある正陽楼の烤羊肉カオヤンロウという料理に接して感激し、在留邦人に吹聴してまわった。そこで、その料理の原始性にふさわしい名を付けようということになり、ある人が成吉思汗が陣中でこれを好んで食べたという話をしたことから、鷲沢某が成吉思汗と名を付け、皆がそれに賛同したと伝えられる。
 このようにジンギスカン料理は烤羊肉という料理に北京在住の日本人が勝手につけた名
 であった。食べ方は『現代食糧大観』(糧友会編、1929年)に、次のように紹介さ
 れている。

  「これを食するには庭前で、時期は冬、寒天に高く星がまたたき、雪がチラチラと降
  ってくる。その暁に、机上に備えた鍋に半焼きの木炭を燻らすと、煙と火の粉が盛ん
  に立ちのぼる。6尺(約182cm)の腰掛けに片方の足をかけ、薄く切った羊肉を
  箸に突き刺し、特別のたれをつけながら煙にあてて立食する。空を仰ぎ、談論しなが
  ら馬上杯を盛んに傾けつつ、中国特有の焼酎をあおる」(現代語訳は引用者)

 モンゴルの平原を思わせるような情景で、ジンギスカンの名がぴったり合うようにも思われる。だが、それはとんだ誤解である。

(4) 冷やし中華は「冷麺」なのか「冷やしラーメン」なのか
           野瀬泰申
ご意見
 「炊事遠足」って北海道独特の行事だったのですか? 知りませんでした。ちなみに私の学校では「ジンギスカンは料理じゃない」ということで禁止されており、最低でもカレーライスあるいは豚汁を作るよう言われました。中学のときはスパゲティミートソースを作った記憶があります。ちなみに大学の新入生歓迎コンパも定番はジンギスカンでした。鍋は大学生協で肉を買うと貸してくれました。(三月ウサギさん)
野瀬びっくり
 一番驚いたのは大学生協で肉を売っているということです。北海道の学生は生協に肉や鍋を置かなければいけないほど頻繁にジンギスカンをやっているんですか。(182ページ)
<略>
ご意見
 基本的にこの「炊事遠足」は北海道のほとんどの小(高学年)、中、高が取り入れている学校行事なのですが、本来の意は「飯ごう炊さん」です。災害などに遭っても飯ごうでご飯が炊け食事ができるようにとの一種の訓練のようなものがベースにあるのです……そのうちに花見のシーズンぐらいから秋口かけて天気の良い休日に家族で河原でジンギスカンを行う習慣が定着し、さらに使い捨ての軽い鍋の登場から、炊事遠足も河原でジンギスカンが定番になっていったようです。(悪巧み! さん)
野瀬註
 前回は北海道の大学生協でジンギスカン用の肉を売っている話にたまげましたが、今回は「使い捨てジンギスカン用鍋」にびっくりしました。使い捨ての鍋というのは紙かなんかでできているのかなあ。アルミ製なら家に持って帰ればまた何回かは使えそうだし、ペットの餌入れとかにもなりそうですが……。どんな使い捨て鍋なんでしょうか。想像できません。(196ページ)

(5) 戦時中も玉手箱は天国の思い出
           和田勉

<略> そのうちに、牧場の四五〇頭の羊をすべて殺して、ここを乳牛牧場に変えろという軍命が来きた。僕はどうするのかと思っていたが、父は迷わず、一夜にして決断実行してしまったのだ。羊の殺し方は、現在の豚の処理のしかたと原理的にはほとんど同じで、まず牧場に幅五十センチメートルほどの溝を百人ばかりの小作の人たちを動員して掘削する。そこに裸電線を通し、シープドッグたちが羊を溝の中に追い込む。そして長大な羊のタテ列が溝の中に並んだところで、一気に電流を流すのであった。四五〇頭の羊たちは、この方法で感電瞬死していったのだ。
 こうして昭和十九年の暮れから、わが家を含め周辺の小作の人たちもみんな、明けても暮れても羊料理を食った。そのおかげで、あれから六十年ほど経った今になっても、僕は「ジンギスカン料理」という看板を見ると吐き気がするのだ。
 そして、乳牛が十頭ほど運ばれてきた。軍や市は、親父にそれで牛乳を搾り、ゆくゆくはバターを作れと言った。そしてそれを航空隊に納入しろと言ってきた。当時は基地内に二千人ほどの兵士や徴用の人が居住していたと思う。そして親父はそれを呑み、毎朝親父が指揮して搾った牛乳をトラックで基地に届けていたのだった。

(6) 蒼い水
           谷村志穂

 <略>帯広市内を通過するウツベツ川の川べりに、その木造のジンギスカン店はあった。
 車が近付いた時点で、既に肉の焼ける香ばしい匂いがしている。
 古い店らしかった。それぞれのテーブルにあの鉄兜のような鍋が置かれ、すでにあちらこちらの席で、肉や野菜がこんもりと盛られ焼かれている。
 深雪たちは、皆でビールを飲み、肉を焼き、口に運んだ。
 涙を出すと体が楽になる。その分、食欲が出るのかもしれない。人間は単純なのだと、深雪は今は信じたいような気がしている。だめなときがあっても、淀みは膨張し切れると流れていくのだ、と。
「お母さんを、無理矢理、帯広へ誘ったの。何度も何度も誘ったの。電話でも手紙でも誘ったのよ。今度ははじめから美雪ちゃんに、玲子さんを引っぱり出してき来てくれるように頼むわね」と、和子おばさんは、深雪の携帯電話の番号とメールアドレスを、自分の携帯電話の中に控えた。「さすが、女子大生ですね」と、深雪が言い、皆が笑った。<略>

(7) ジンギスカン料理
           西村博

<略>こい 焼けた鉄板の上へジュウジュウジュウと塗る。
いと あッ、ジンギスカンはジュウジュウジュウと塗りますか?
こい え~?
いと ジュジュジュ~ウはイカンか?
こい 好きなだれ濡れ!
いと ほな、ジュジュジュ~ウと塗るわ。
こい 塗ったな。
いと 塗った!
こい しばらくしたら、この油が踊るから。
いと 何なんですか?
こい しばらくしたら、油が踊るから。
いと 誰が歌うねん?
こい 違うちゅうねん! 油はねるやろ? はねるのを踊るちゅうねん。
いと ピチピチすんの?
こい 油が踊り出したら、
いと 踊り出したら。
こい ジンギスカン、つまりヒツジの戒名。
いと はい。
こい マトンの肉をのせて、表が焼けたら裏を焼いて、裏が焼けたら表を焼いて。
いと あのォ、ヒツジの肉の裏表はどこで見分けるねん?
こい 知らん! エエ加減焼いてタレをつけて食え!
いと  エエ加減焼いてタレをつけて食うの?
こい ジンギスカン!
いと タベたべたわ。
こい もうエエ!
 平成17年の(1)は創業50年となった松尾ジンギスカンが発行した「Matsuo Jingiskan Magazine」創刊号のトップ記事です。発行年月日が見当たらないので、年表「松尾ジンギスカン50年の歩み」の最新記事が「平成17年3月1日 千歳市新千歳空港内に直営店『まつじん』出店」であり、裏表紙全面が同店の広告なので、3月発行と見なしました。記事の1行の長さが変なのは、襟に「松尾盆踊大会」と染めた浴衣姿の故松尾氏の写真の形に合わせて組んであるためです。
 (2)は首都圏で急増したジンギスカン店とは―と出掛けた東海林さだおの「いま大ブームのジンギスカン」です。彼にいわせると「旅先で大変おいしかったものは、ふつうもう一度食べたいと思うものなのに」ジンギスカンは「そういう気が起きない不思議なな鍋物だった」(322)が、いま大ブームというから中目黒の店に行き「忘我の陶酔境」で「ガンガン」食べて確かめたというのです。
 (3)はルポライターの見た平成17年当時の「ジン鍋進化論」からです。首都圏のジン鍋屋急増を認めつつ、筆者内田は平成4年の社会現象みたいに急増したモツ鍋屋が、あっさり消えたのは「急激な店舗数の増加に、高品質の原材料の供給が間に合わなかったことと、まずいモツ鍋屋が増えたこと」という飲食業関係者の分析を示しています。
 確かにブームみたいにジン鍋屋は増えたけれど、その後はラムを加えてモツ鍋ほど急な衰退はなく、一定の店数に落ち着いたんじゃないか。
 (4)は専門誌「月刊レジャー産業資料」の慎重な見方です。
 (5)もジンギスカン店関係。「小説宝石」平成17年6月号の井上尚登の「ストックオプションの罠」です。「金融探偵七森恵子の事件簿」という副題が示すように、七森恵子は外資系投資会社で働いた経験を持つ経済情報専門の探偵で、アルバイトと称してバイオ生物研究所に務め、株式公開の情報を探っている。そして企業調査の専門家でフリーで仕事をしている如月浩二郎と一緒に中目黒の「ひつじごや」へ調査に行く。
 「なぜ中目黒にジンギスカン料理店が多いのか、理由はわからない。隣の益の恵比寿にもジンギスカン料理店が多いのも不思議だ。浩二郎の話では中目黒・恵比寿ゾーンに八店もあるという。」というのは事実らしい。それも「女性誌に紹介される店だけあって、打ちっ放しのコンクリートの壁に汚れはなく、白い床も別にべとついた感じはなかった。(323)」というから、いわゆる「小じゃれた」店なんだろうね。それでいて肉は女性好みのラムかと思えば、意外にもマトンで、脂が縁にたまるというから、鍋は脂落としの隙間のないタイプですね。
 (6)は道内で羊肉卸しと羊肉料理店サイドの重鎮御三家による座談会です。匂いあっての羊肉ということで意見は一致してますね。羊肉の匂いをはっきり感じさせる料理法としてジンギスカンは最適だと思うね。
 (7)はこの年の「小説宝石」6月号に載った井上尚登の「ストックオプションの罠」です。「金融探偵七森恵子の事件簿」という副題が示すように、外資系投資会社で働いた経験を持つ経済情報専門の探偵七森恵子が主人公です。この回は企業調査の専門家でフリーで仕事をしている如月浩二郎と共に中目黒の「ひつじごや」へ調査に赴く。
 (8)は料理研究家飛田和緒による「飛田和緒の台所の味」です。レシピでなく冷蔵庫の中身や調味料が知りたいという読者のリクエストにこたえ「手間ひまいらずの保存食と常備菜」と「待つのも楽しみなお取り寄せ」と「味つけに決めての調味料」の3部構成です。飛田家では「肉のやまもと」(千歳市)からの生ラムを使い「ざく切りにしたたまねぎともやしを合わせて、肉を焼き、肉とセットで届けられる特製のタレをじゅわっとかけて、からめて食べます。」と書いてあります。
 (9)は放送作家の高橋洋二のコラム「昼下がりの洋二」からです。彼がジン鍋を知ったのは20年前だが、3年前、札幌の「だるま」で本場の味を知った。それで都内にジンギスカンの店がどんどん増えたので最近食べに行ったら「だるまで食べたもの」に似ていたので安心、これから一軒ずつ食べ歩いて流派の違いを確かめるそうだ。
 (10)は、この年916日から3日間、羊ヶ丘で開くジンギスカンサミットに魁けてジンギスカン食普及拡大促進協議会が出した「北海道遺産記念 ジンギスカンミニガイド」に掲載された北海道遺産構想推進協議会の辻井達一会長の挨拶です。同ガイドには、八木橋厚仁札幌医大講師の「美味しいだけじゃない!ジンギスカンのチカラ」、料理研究家東海林明子さんの「ジンギスカンのタレを使ってひと工夫 アイデア料理」なども掲載されています。
 (11)も同じくジンギスカンサミットに合わせてジンギスカン食普及拡大促進協議会が発行した「ジンギスカン新聞」4面に掲載された同協議会の会長、札幌大の飯田隆雄教授の挨拶です。同じ4面にある同協議会の「活動概要」から平成17年2月のさっぽろ雪まつり期間に「ジンギスカン新聞を発行」とあるので、札幌サミットに合わせたこのA3サイズ8ページ、カラー印刷のこれは多分第2号でしょう。
 (12)は旭川生まれの作家清水博子の小説です。関西のすき焼きに対比させて「半冷凍のマトンの塊をつつきまわしてばらす野蛮なジンギスカン鍋を両親に教えられた」というから、道産子かなとウィキペデイアを見たら、やっぱり旭川市出身だった。また、この「Vanity」は芥川賞候補になったことも書いてありました。
 ここまでの粗筋をいえば、アパートの火事で大学生画子は住むところを失い、アメリカ留学中の婚約者の関西の上流家庭に暫く滞在することになり、すき焼きで歓迎されたところです。
平成17年
(1) タレの開発に10年。ジンギスカンを
     北海道名物に変えた一人の男のあくなき探究心。
           Matsuo Jingiskan Magazine

 「うまい!こんなうまいもの食べたの初めてだ」。
戦後まもない昭和21年の滝川市。知人の家で食
べたその肉のあまりのおいしさに一人の青年が感
動の声を上げました。その声の主は、松尾ジンギ
スカンの創業者松尾政治。当時、寒さの厳しい北
海道では衣料用の羊毛のために多くの羊が飼わ
れていましたが、戦後になって外国から化学繊維
が入ってくると、羊毛の需要は一気にダウン。羊は
羊毛ではなく食肉としての需要が検討されはじめ
ていました。しかし、この頃はそもそも肉を食べる
習慣があまりなくその上、羊肉が臭みがきつく、焼
くと硬くなることから、なかなか
普及は進みません。そんな中、
滝川市郊外にある種羊場(現・
道立滝川畜産試験場)では肉
をやわらかくするために醤油
ベースのタレに漬け込むと
いう方法を考えました。政
治が食べた肉は、実はそ
の種羊場でつくったも
のだったのです。<略>

■PROFILE
松尾政治まつお・まさじ[故人]
大正7年生まれ。松
尾ジンギスカン創業
社としてジンギスカ
ンの普及・拡大に努
め、北海道慣行にも
大きく貢献する。

(2) いま大ブームのジンギスカン
           東海林さだお

<略> それが突然の大ブーム。
 都内でも北海道でも、ジンギスカ
ンの新規開店が急増しているという。
 東京新聞の記事によると、昨年の
全国の羊肉輸入量は前年比三割増、
道内に限ると五割増。札幌市内のジ
ンギスカン専門店は、この三年間で
倍増の五十店舗になったという。
 しかもそのブームを支えているの
がおやじではなく若い女性たちとい
うその理由は何か。
 キーワードは「モデル御用達のお
肉」と「カルニチンでダイエット」。
 カルニチンというのはアミノ酸の
一種で、体内の脂肪を燃焼させ、コ
レステロールを下げる」ので、ダイ
エット業界が目をつけ、それに若い
女性達がのったという図式が見えて
くる。<略>
 まわりがガンガン食べているので、
それにつられておじさんもガンガン食
べる。
 いわゆる焼肉と違って、羊の肉はと
てもさっぱりしている。
 それにこの店は、タレにつけ漬け
てから焼く方式ではなく、生肉を焼
いてからタレにつけて食べる方式な
ので、鍋にのせたとたんすぐ焼けて
すぐ食べられる。
 鍋にのせる、すぐ焼ける、すぐタ
レにつける、すぐ口に入れる、また
すぐ鍋にのせる……という手順にリ
ズムができあがるとそのリズムにだ
んだん酔ってくる。
 盆踊りの輪の中に入っていつのま
にか自然に手足が動くような、そこ
のところに合いの手が入るような、
ア、コーリャ、ア、ドーシタ、と、
どんどんやいてどんどん食べる、モ
ー、ナニガナンダカワカラナイ……。
 これが店内に充満する〝ガンガン〟
の正体である。<略>

(3) 激増するジンギスカン鍋店
           内田麻紀

<略> いまジン鍋(ジンギスカン鍋)
が熱い。2、3年前まで都内に数
件だったジン鍋屋は、昨年夏から
急増し、現在では30軒を超えたと
いう。また、専門店は、関東近郊
にまで進出。昨年11月には宇都
宮市内に初のジン鍋専門店が開店
した。
 今後、ジン鍋屋の勢力は、飛躍
的に拡大する見通しだ。そば屋
『高田屋』などの飲食事業を展開
するタスコシステムは3年以内
に200店舗のジン鍋屋をFC経
営する計画。JR北海道も社内ベ
ンチャー制度で首都圏にジン鍋
専門店を出す。
  食べて痩せる効果
 ブームの理由は、ひとつには、
流通経路の発達により、新鮮で良
質な生の羊肉が手に入りやすくな
ったこと。とかく「クサイ」「硬い」
「マズイ」といった羊肉のイメー
ジは格段に向上した。
 もうひとつにねBSE問題。
牛肉の安全性が危ぶまれ、焼き肉
が安心して食べられなくなった。
焼肉店は苦肉の策で、豚トロな
どのメニューを考案したが、白身
肉なのでうまみが牛とはまったく
異なる。そこで、同じ赤身肉の羊
に注目が集まった。しかも、ジン
ギスカンは、飲んで食べて一人
3千~4千円で済む。
 さらに、カロリーが控えめな羊
肉には、なんと「食べてやせる効
果がある」といわれている。とい
うのも、羊には脂肪の燃焼を促し、
コレステロールの増加を抑制する
「カルニチン」という成分が、牛
肉の2倍、豚肉の5倍も含まれる。
それを聞いて2人前も3人前も羊
肉を平らげていくツワモノOLも
増えているそうだ。<略>

(4) ビール会社も便乗する「ジンギスカン」人気
   冷蔵ラム肉、引く手あまた
           堀隆孝
 
<略> ジンギスカン好きの仲間が集まる東
京ジンギス倶楽部の野村昌彦会長は、
店舗情報を発信している同会のホーム
ページに「1カ月に10万件のアクセス
がある」という。

 におい少なく、ヘルシー

 そんなジンギスカン人気の裏で、実
は羊肉の輸入に変化が起きていた。
 国内消費の99%は外国産だが、輸
入会社アンズコフーズの金城誠社長
は、「1990年頃は冷凍マトンが主流だ
った」と話す。マトンは生後1年以上
経った羊の肉のこと。過去10年で輸
入量が4倍に膨らんだのは生後1年未
満の冷蔵ラム肉。マトンや冷凍ラムよ
り羊肉特有のにおいが少なく、敬遠し
ていた人も箸をつけるようになった。
 金城氏らの「ラムはダイエットに効
果的」とのPR効果も手伝って、手頃
な値段で食べられるヘルシーな料理と
して女性にも注目され出した。
 ジンギスカン専門店が続々とオープ
ン。「都内ではこの5年で8軒から51
軒に増えた」(野村会長)。参入が比較
的容易で、開業熱は高まる一方だ。<略>

(5) BSE問題の余波か?
    羊肉=ジンギスカン料理店が続々都内にお目見え
           安田理
 
 ジンギスカンは羊肉を使った日本独自
の焼肉料理で、外国にはこの呼称
の料理はない。日本独自とはいっても、全
国的に食される料理ではなく。北海道のい
わば郷土料理といってもよい。北海道を訪
れたことのある人なら名物料理として食べ
た経験があるかもしれないが、少なくとも
首都圏に居住している人たちにとってはほ
とんどなじみのない料理であった。
 しかし2000年に入ってから、都内に
徐々にジンギスカン専門店が出店されるよ
うになり、03年に入ってからはその数を急
速にふやし始めた。05年3月末現在では、
都内および近郊を含めすでに40店舗を超
え、ちょっとしたジンギスカンルームとも
いえる現象がみられるまでになった。
<略>
 とはいえ、ジンギスカン料理の将来
性というと、判断がむずかしいところ
だ。何よりも日本人にとって羊肉はま
だまだ親しみのない食肉である。現在
のジンギスカン料理店に甘んじてしま
うと、それこそもつ鍋と同じ一過性の
ブームに終わってしまう危険性もある。
いまや日本人に完全に制作した焼き肉
という業態を考えてみると、居酒屋的
な焼き肉店もあれば、郊外におけるフ
ァミレス的な焼き肉チェーン、さらに
芸能人がお忍びでやってくる客単価1
万5000円を超える高級店まで実に
多彩な業態開発がなされてきた結果、。
今日の定着をみたのである。こうした
業態開発のプロセスをみれば、ジンギ
スカン料理は、まだスタートラインに
立ったばかりといえよう。<略>

(6) 匂い、これもらしさ(・・・)ですよ
      大金畜産(株)常務取締役   大金頌明氏
      アサヒビール園「羊々亭」店長 佐藤仁泰氏
      (株)マツオ常務取締役    松尾吉洋氏

 ―ジンギスカンは独特の匂い
がありますが。
 佐藤 当店も匂い対策とし
て、無煙ロースターを入れてい
ますが、上手に焼く人ですと野
菜をしいて、その上で肉を焼き
ますが、火を強めて肉だけを焼
いてしまうと、実際のところ煙
が勝って全部は吸い込まないで
すね。でも、羊肉に限らず匂い
は焼肉店全般に付きものです
よ。
 大金 匂いの問題は難しい
ね。匂いを消してしまうと、ど
の肉なのか分からなくなってし
まう。
 ずっと以前に、調味料の加減
で匂いを消して実際テストした
ら「ラムの味がしないから駄目
だ」という結論になったのです
よ。
 松尾 当社も新千歳空港店の
オープンに際し、一番気になっ
たのが実は匂いだったんです
よ。「味が美味しければ匂いは
大丈夫」というお客さんの反応
でした。だから思ったほど障害
にはならなかったんですね。
 大金 匂いを消してみて分か
った。お客さんも匂いがなけれ
ば羊肉と認めてくれない。食べ
ていて「何の肉?」となるんで
すよ。食べていて分からなけれ
ば困るんですよ。匂いを消すと
お客さんを欺すことにもなるわ
けで、この匂いもまた羊肉らし
さですよ。

(7) ストックオプションの罠
           井上尚登

 メニューはシンプルだ。
 マトンと野菜、箸休めにキムチ。あとは
デザートがあるだけで、カフェといった外
観とは裏腹にジンギスカンだけで勝負する
という意気込みが感じられた。ただし店内
に流れるBGMがなぜかジャズである。<略>
 すぐに炭が真っ赤に燃えている七輪が運
ばれてきた。つづいて中央が盛り上がった
ジンギスカン鍋とアルミのトレイに入った
肉と野菜がやってきた。店員はマトンの白
い脂身をジンギスカン鍋のてっぺんに置く
と「脂身から油が出てくるまでお待ちくだ
さい。そのあとで野菜をまわりに置き、
マトンを中央で焼いてください」と指示し
て去っていった。
 言われたとおりにしばらく待ってから野
菜を置き、肉を焼く。
 ジンギスカンを食べるのは何年ぶりだろ
うか? もしかしたら学生時代に仲間と北
海道旅行をしたとき以来かもしれない。焼
き上がったマトンをたれにつけて口に運
ぶ。羊の肉といえば臭いという印象がある
が、ここのマトンは気になる臭みもなく食
べやすい。浩二郎が例によつてサンフレッ
チェ広島がどうだこうだと話すのを軽く聞
き流しながらマトンを食べていると、マト
ンから落ちた油がジンギスカン鍋の縁にた
まり、そこでもやしがいい具合に焼けてい
たので、それも食べる。かりかりとしてい
い食感だ。<略>

(8) ジンギスカン用生ラム
         飛田和緒

<略> ジンギスカンで思い出すのは会社勤めをしていたころ、よく
北海道でのスキーツアーに参加し、夜は決まってビール園での
ジンギスカン宴会。そのときの肉は凍ったままのラムやマトン
を薄切りにしたものが大皿にのってきました。若さもあり、ス
ポーツあとの食事ともあって、そのときにはモリモリと食べて
いましたけれど、味の印象はまったくといってありません。お
いしい記憶がないのです。それからずいぶんとたち。何年か前
に札幌の「だるま」というジンギスカンのお店で食べて以来、
生ラムにはまりました。この年になってやっとおいしいジンギ
スカンにありつけたというわけです。
 友人から聞いた話では、札幌では、家庭でも焼肉同様ジンギ
スカンは好まれる味なのだそうです。当然おうちにはジンギス
カン鍋があり、スーパーやお肉屋さんでは豚や牛の肉とおなじ
ように、ラムやマトンの肉が並んでいるとのこと。珍しい食材
ではないのですって。友人宅ではジンギスカンの日にはテーブ
ルの下に新聞紙を敷き詰めて、油や煙対策をして食べるのだそ
うです。そういえばジンギスカンを食べに出かけると全身にい
ぶされたような匂いがつきますものね。
 うちでは朝から煙をモクモクというわけにはいかないので、
ホットプレートで手軽でチャチャっと作ります。<略>

(9) 流行が去るまでの間に
    東京のナンパーワンを見つけたい。
           高橋洋二

<略> そして前述したとおり、今年
の6月になると、我が家の近所
にもチェーン展開しているジン
ギスカン専門店がオープンする
くらい、ジンギスカンは東京を
席巻する。その間私はどうして
いたかというと指をくわえて見
ていただけであった。もし、ヤ
なかんじの店で、あの素晴らし
いだるまの思い出を台無しにし
てしまわないだろうか? いつ
のまにかジンギスカンに関して
臆病になってしまっていたのだ。
 でも歩いて行けるとこにも出
来たのだから、と3年ぶりのジ
ンギスカンを、そのチェーン店
の専門店で食べてみたところ、
実に全く予想通りの味だった。
肉質もタレも今イチ。しかし、
「だるまで食べたもの」に似て
いるものを久々に食った! そ
れも近所で! という妙な満足
感も得たのだった。
 これで恐れることをやめた私
は東京のジンギスカンブームを
冷静に見つめなおす。札幌では
マトンが中心だが、東京はラム
を推す店が多い。しかも本当に
うまいものは上質のマトン、も
しくはその中間のホゲットであ
ろう。そして輸入肉は、オース
トラリアやニュージーランドも
いいが、アイスランドのものが
一番うまいのではないか? ま
た、今やオールドスタイルの冷
凍ロール肉にこだわりを持つ店
もあるというから、これから一
軒一軒流派の違いを確かめに行
ってまいります。

(10) ジンギスカンサミット開催に寄せて
     北海道遺産構想推進協議会・辻井達一会長

 ジンギスカン食普及拡大促進協議会からの応募を受
けて昨年11月にジンギスカンが北海道遺産に登録され
ました。食に関連していた他の候補と比べて、道民への
親しみや、培ってきた歴史の長さが選定の決め手とな
りました。また、ジンギスカンツで名前にモンゴルの草
原や義経伝説と重なる壮大なイメージがあることも、北
海道遺産として非常に優れていると感じています。それ
から、ジンギスカンは地域や生産者によって、味わいのバ
ラエティーが実に豊かです。今年7月に滝川市でジンギ
スカンサミットが行われましたが、その会場で私自身8種
類ものタレを味わい、どれも美味しかった。ラーメンとは
違う意味で、奥が深い料理だと実感しました。これからは
私たち道民だけでなく、全国の人たちの舌をもっともっ
と楽しませて欲しい。私見ですが、ジンギスカンは野外で
味わうのが相応しいと考えています。だから冬の寒い野
外でアツアツのジンギスカンを味わうイベントがあって
もいいのでは。観光客もきっと喜んでくれるでしょう。ま
ずは初秋の札幌を舞台に行われるジンギスカンサミット、
大いに期待しています。

(11)ジンギスカンサミット開催に寄せて
     ジンギスカン食普及拡大促進協議会会長
           飯田隆雄・札幌大学教授

 北海道の食文化におい
て、ジンギスカンは代名
詞とも言える大切な郷土
料理です。その弁当を、
後世に伝えていきたい。
そして、観光客をはじめ
全国各地の人たちにもっ
ともっと気軽に味わって
もらいたい。それがひい
ては、北海道全体の活性
化につながるはず――。
そんな思いを共有する各
界の有志が集い、平成15
年11月にジンギスカン食
普及拡大促進協議会が
発足しました。同時に
「北海道食文化フォーラ
ム ジンギスカン」を開
催しました。平成16年に
は4月29日を羊肉(ヨウ
ニク)の日とし、日本記
念日協会から認定を受け
ました。同年11月にジン
ギスカンは北海道遺産に
選定され、当協議会が授
与されました。その後、
様ざまな活動を通じて、
ジンギスカンを世に広め
ることに努めています。
今年は、2月の「ジンギ
スカン新聞」発行を皮切
りに、4月29日の羊肉の
日からスタートした全道
羊肉・ジンギスカンキャ
ンペーン、7月は滝川市
でジンギスカン サミット
を共催しました。さらに
9月16日から札幌で始ま
るジンギスカンサミット
では、ジンギスカン料理
店、ジンギスカン製造業、
タレメーカー、羊肉卸、
酒造メーカーな が一丸
となり、羊肉の普及と新
しい時代のニーズにあっ
た食べ方を追求し、イベ
ントは最高潮を迎えます。
これが、大きなムーブメ
ントに発展することを願
って止みません。

(12) Vanity
           清水博子

<略> あらおそかったのね、お夕食待ってたのよと、画子はむかえいれられ、マダムとすき焼きの鍋をはさんだ。ヘッドをなじませた鉄鍋に肉をしきつめ砂糖をふりかけ醤油をそそいで焼き、白瀧と春菊と焼き豆腐と焼き麩を肉の周囲に置き、さらに醤油をたらし味をなじませる。焦げそうな場合は水を少量足すが、関東風の割りしたはつかわない。
 ふたりだけだから最初のお肉は二枚でいいのだけど慎一郎の分もいれておいてあげてね、あしらいはまだよ。
<略>あしらいとは白葱の斜ななめ切りと青葱のぶつ切りと玉葱の半月切りであると知ったのは、山ン中の家に到達した夜だ。はじめておめにかかったおしるしですからお鍋にしようとおもうのだけどチーズフォンデュとすき焼きとどちらがよくって、とマダムに問われ、画子はしきたりが簡単そうなすき焼きを選んだのだった。フォンデュにすれば鉄串で刺されるのではないかとちらりとあやぶんだ憶えもある。うちの息子をたぶらかして、と。
 牛肉は一枚ずつ箸でめくって鍋に入れ、煮えたのを食べ終えてからつぎの一枚をめくる。半冷凍のマトンの塊をつつきまわしてばらす野蛮なジンギスカン鍋を両親に教えられた画子にとって、関西風のすき焼きはじれったい。じれったいのと上品なのは似て非なるものである気がする。<略>
 平成18年の(1)は「現代用語の基礎知識」からです。1697ページもある厚い本だけに、ジンギスカンは3部門の用語と欄外1カ所に出てくる。共通しているのは狂牛病(BSE)、鶏インフルエンザ、O-157といった家畜の流行病とは無縁ということで羊肉が見直され人気が出たという説明です。それでね、その説明以外のところを紹介します。
 私が私的著作権問題顧問として頼りにしている某先生に依れば、引用する字数は著作権法では縛っていないそうたが、それにしても合計 1300字だからね。恐る恐るの引用です。
 (2)は味付け羊肉で知られる道内長沼町のかねひろが売っているジン鍋の話です。焼き面の頂天が大きな円形で丸々と太った羊で、真ん中にかねひろと入っています。売り物の肉に合うよう鍋の良を続けるのは滝川の松尾だけではないのです。
 (3)は元国立民族学博物館館長の石毛直道著「ニッポンの食卓」からです。石毛さんが「石毛直道自選著作集」8冊を示して語るYOUTUBEの動画によれば「これまでに書いてきた約3000の作品」から選んで12冊にまとめた。新たに写真も加えており「この自選集は私の自画像のようなものです。お近くの図書館などに紹介して頂ければ幸いです。」(324)と語っている。北大図書館の目次情報ではわからないので、東京都立中央図書館を検索したところ、この「日本の食卓」は第6巻に入っているとわかりました。
 (4)は芥川賞作家、辻仁成の「春のイメージ」のサーカス団が帯広公演をするところを引用しました。辻氏は函館で10代を過ごしたそうだが、いまはパリに住み、日本にいないため何人か偽辻仁成が出没しているそうで、彼のホームページの日記に気をつけてと書いていますよ。
 (5)は北海道らしくジンパができる列車の紹介です。本当にそういう列車があるのかと検索したら、ウィキペディアにバーベキュー車2両の前後に気動車か付いた4両編成の写真があり、バーベキュー車は高速有蓋車を改造した車と説明していました。
 (6)は室蘭生まれの芥川賞作家三浦清宏の「海洞――アフンルパロの物語」からです。引用したのはアメリカ留学から日本帰ってきた大浦清隆は室蘭を訪れ、いとこの武林克夫が専務になっているレストラン「蓬莱城」でジンギスカンとビールをごちそうになりながら「これからは室蘭でなければできないこと、その1つが観光だ」と意気込みを聞かされます。
 港の文学館前に三浦の文学碑があります。私は室蘭に行ったことはないが、写真から碑には「室蘭、子供の頃の清隆にとってはこんなに懐かしい響きを持つ言葉はなかった。室蘭は銀座や浅草とはまったく違った別天地で、そこに行くのは最高の『お出かけ』であり冒険ですらあった。」(325)と「海洞」からの一文が刻まれていることがわかります。
 (7)はは映画・演劇評論家の山口猛が書いた「幻のキネマ満映 甘粕正彦と活動屋群像」からです。アナキストの大杉栄と伊藤野枝らを殺害した甘粕事件で知られる元憲兵中尉甘粕正彦は服役後、満洲で特務機関を作って満洲国建国に協力した。。その功績で満洲映画協会の理事長に推され国策映画を作った。それでね、甘粕は仕事や軍関係で客を接待するとき、ジンギスカンなら「萩の茶屋」という料理店に決まっていたというのです。
 前バージョンの「新京のジンギスカン料理店の元祖はカフェーだった」に、この名前はないので新聞広告は出さなかったか、店名が和風なので私が気付かなかったのでしょう。多分、その店のケータリングを頼んだと思うのですが「ジンギスカン」の1語による引用なので、これ以上の説明はできないのが残念なところです。
 (8)はね、銀座は流行の変化が早くて、もうジンギスカンが桜鍋に代わっているよという44歳の林家正蔵の寸感です。平成17年分に都内のジン鍋店が急増して30軒を超えたが、平成4年のモツ鍋ブームが2年で終わり、都内400店が姿を消したのと同じ運命をたどるのではないかというルポがありますが、それはどうやら杞憂に終わりましたね。
平成18年
(1) 現代用語の基礎知識
           自由国民社
 
「今年の料理ブームとその作り方」解説 嶋岡尚子(包編集室)
◆ジンギスカン
<略>日本で羊肉といえば、ジンギスカン。東京では昨日ま
で焼肉屋だった店が今日はジンギスカン店に、といっ
た具合にかつてないほど急増しているが、本場は北海
道。大正時代に満洲に渡った日本人が、中国の焼羊
肉にヒントを得て北海道で始めたものらしい。北海道
では、炊事遠足といえばジンギスカンと相場が決まっ
ていて、肉を買えば、店によっては鍋を貸してくれた
ものだ。
かぶと型の鉄鍋で焼くのが特徴的。このジンギスカン
鍋は、大阪で一家に一台のたこやき器に匹敵して、北
海道では大概の家にある。火力はぜひ七輪に炭といき
たい。前もってタレに漬け込んだ肉を焼く方法と、肉
を焼いてからタレをつけて食べる方法がある。肉はマ
トンでもラム(⇒別項)でも。野菜はタマネギ、ピー
マン、大量のモヤシ。鍋を火にかけ、油をまわす。充
分熱くなったところで肉を鍋の頂上から中腹部分に置
き、野菜を裾野、およびツバの部分に置く。タレは自
家製でなければという人もおり、関西人に各人の「お
好み焼き道」があるように、北海道人には各人の「ジ
ンギスカン道」がある。

「北海道」解説 永江朗(フリーライター)
漢字で書くと成吉思汗。ジンギスカンは北海道の代表
的な郷土料理である。ルーツは中国料理のカオヤン
ローであるといわれる。「ジンギスカン」の名は、モン
ゴルで羊肉料理が盛んなことと、源頼朝に追われた源
義経が、奥州平泉から北海道に渡り、やがてチンギス
ハーンになったという伝説にちなんでいる。北海道で
はごく日常的な料理だが、北海道以外では新鮮な羊肉
の入手がむずかしく、ほとんど普及していなかった。
ところが数年前から全国に広がり、チェーン店も登場。
<略>

「食文化」解説 小倉朋子(フードプロデューサー)
◆ジンギスカン
(Genghis Khan)
羊肉と野菜を専門の鍋で調理する
北海道で親しまれてきた料理。
<略>羊肉は独特な匂いが特徴
でもあるんが、匂いの少ないラム(仔
羊)を使用したジンギスカン専門
店などの登場とともに、新たな需
要が拡大された。羊肉は比較的手
頃な値段で、栄養面においても、
豚や牛に比べカロリーも低く、コ
レステロールを減少させるといわ
れる不飽和脂肪酸を含み、脂肪を
燃焼するカルニチンも豚肉の2倍
以上、ビタミンB群や鉄分も豊富
とされるため、ヘルシー志向の客
にも訴求した。羊肉は成長により
呼び名が異なり、生後1年以上を
マトン、生後1年未満をラムと称
する。

「美容」解説のページ下の欄外
◆ジンギスカン 2004年、北海道庁から北海道遺産に指定された郷土料理の一つ。モンゴルの英雄、ジンギスカン軍の兜に見立てた半ドーム型の鉄板に牛肉やかぼちゃ、タマネギなどの野菜を乗せ、焼いて食べる。羊肉のにおいが苦手という人が多かったが、さらにラム肉のダイエット効果などが人気を呼び、東京にも多数の専門店が進出するなど本格的なブームに。「まずいのに売れる」ジンギスカンキャラメルも人気。〔流行食〕

(2) 石炭ストーブのおかげで生まれた
    本場、北海道のジンギスカン鍋
           中島羊一

<略> かねひろ特製の鍋は直径をより大き
くし、山の傾斜を緩やかにしてある。
こうすることで中央部分の「肉焼きス
ペース」が、より広く取れるのだ。ぱ
っと見ただけでは分からないが、実は
〝計算されたフォルム〟なのである。
 一方、野菜は鍋の周辺部分で焼く。
流れ落ちる脂でいい塩梅に焼けるのだ。
鍋の縁には脂を受けるための溝が付い
ている。あらかじめタレに漬け込んだ
「味付けラム」を焼いた場合、この溝に
どんどん肉汁が溜まり、野菜に染み込
んで一層旨くなる。
 特製鍋では、この溝をかなり深く取
ってある。普通のジンギスカン鍋だと
溝が浅く、肉汁ですぐ満タンになって
しまう。焼いている途中で頻繁に汁を
捨てなければならず面倒なのだ。本場
の人間でなければ思いもよらない工夫
である。表面の凹凸は焦げを洗い落と
しやすいよう、浅く作られている。こ
れも特製鍋ならではの改良。
 製造を請け負うのは、栗沢町にある
岩見沢鋳物という会社。<略>昔は
石炭ストーブも手がけていたそうだ。
 意外なことに、その石炭ストーブが
ジンギスカン鍋の誕生と深くかかわっ
ているらしい。
 厚みの少ないものを鋳物で作る場合、
職人たちはそれを「薄もの」と呼ぶ。
<略>つまり、薄もの作りにはそのための手
間と技術が必要なのだ。かつて大量に
作られた石炭ストーブがまさにそう。
北海道の鋳物工場はそこで技術を培っ
た。だからこそ容易に、ジンギスカン
鍋のように薄い鋳物製品が生まれたと
いうわけだ。<略>

(3) ジンギスカン料理 ◆北京発祥、和風に変化
           石毛直道

<略> ジンギスカン料理のルーツは、清朝時代の北京にある。十七世紀前半の北京で、ヒツジの焼き肉を食べさせる行商や店舗ができた。
 漢族は肉や魚を焼いて食べることはせず、炒めたり、煮て食べるのが普通だ。北京の焼肉店の、いちばんの顧客は、清朝をつくった満州族の官吏たちで、満州族は焼肉を好む習慣があったからだという。その後、涮羊肉とよばれるヒツジのしゃぶしゃぶとならんで、烤羊肉という羊の焼き肉が、北京の名物料理になった。
 ジンギスカン料理という名前につけたのは、大正時代末から昭和初期にかけて中国に在住した日本人たちである。北京烤羊肉の名店では、屋外にしつらえた炉をかこんで焼き肉を食べたあとで、屋内に移動して他の料理を食べさせる。北京の屋外バーベキューが、草原の英雄ジンギスカンの軍隊の野営地での食事を連想させ、ジンギスカン料理といわれるようになったのだろう。
 ジンギスカン料理が流行するのは、昭和三十年代からで、いまでは北海道の名物料理になった。焼き鍋も、タレに使用する調味料も、日本で独自に考案されたものに変形している。ルーツはさておき、新種の日本料理としてよいであろう。

(4) 「春のイメージ」
           辻仁成
 
<略> 公演初日が近づいたある夜、九は団員を引き連れてジン
ギスカン料理を食べに出掛けた。西二条の大通りを上った
途中に、料理店はあった。奧の大座敷を借り切り、一同で
ジンギスカンプレートを囲んだ。
 象使いの青年はジョー、ブランコ乗りの女性はサクラ
コ、そして、ピエロを演じる青年はユンタといった。この
三人が、赤沼強太不在のサーカス団の中にあって、九の右
腕的な役割を担っていた。分銅についで九が信頼を寄せる
若者たちである。
 ジョーが声を潜め、店の者に聞かれないか警戒しながら
一本のスプーンを差し出した。
 「あの、これ、持参してきました」
 ユンタがスプーンが詰まった小箱をテーブルの中程にど
んと置いた。団員たちが手を伸ばす。襖の側に座していた
団員らが襖を締め切る。笑顔が一同に広がった。
「誰でもスプーンを曲げることができるって、九さんは前
におっしゃいました。今日は是非、教えていただきたいん
です」
 分銅が九さんじゃない、副団長だろ、と忠告した。
「副団長、わたし一生に一度でいいから、スプーンを曲げ
てみたいんです」
 サクラコが前かがみに訴える。九は肩を竦めてみせ、隣
に座るユンタからスプーンを受け取った。
「確かに、誰でも簡単に曲げることができる。おそらくこ
ん中で一人か二人は今夜のうちにその方法ば会得するやろ
う」
 九が真面目な顔で話すと、青年らの顔からすっと笑みが
消えた。<略>

(5) 全国トロッコ列車ベスト10
           桜井寛
 
 北海道にはもう一つ。ぜひ紹介したいユ
ニークなオープンエア列車がある。その名
は「バーベキュー号」。厳密にはトロッコ
列車ではないが、社内でバーベキューを焼
けるとあって、もちろん窓はフルオープン
可。もっとも、煙くて窓を開けずにはいら
れない。
 運行区間は函館本線の函館~森間や、根
室温泉の新得~落合間など、北海道の中で
も屈指の雄大な車窓風景が堪能できる路線
である。列車は3両編成で1、3号車が自
由席、そして真ん中の2号車が指定席のバ
ーベキューカー。私が乗車したのは函館発
森行きの「大沼・流山温泉バーベキュー
号」だったが、函館駅発車と同時に早くも
ホットプレートでジンギスカンを焼き始め
たグループもあって、車内にはいい香りが
漂い、自由席の乗客からは羨望の眼差しが
集中。これ見よがしに私もジュージュー焼
き始めた。
 このバーベキューカーの指定席料金は、
わずか300円というのもリーズナブルだ
が、4人グループなら1テーブル1000
円の割引料金が適用される。
 食材も飲み物も持ち込み自由だが、函館
駅でバーベキューセット(3千円)が販売
されている。内容は、和牛焼肉、牛タン、
イカ、ホタテ、エビ、野菜、オニギリ、サ
ッポロビール。北海道ならではの味覚がう
れしい。おっと、焼くことと、食べること
に夢中で、せっかくの雄大な車窓風景を見
逃してしまいそうだ。

(6) なして日本に帰ったのさ
           三浦清宏

<略>「こんなにたくさんいい場所があるとは知らなかった
よ。室蘭も捨てたもんじゃない」
「んだ」
 克夫は大きく頷いて、
「あんまり長い間『鉄の町』なんて言われてきたんで
鉄以外には何もないように世間は思ってるが こんな
自然に恵まれた町はほかにはないさ。小樽や函館だっ
てかなわない。測量山からの眺めは北海道一だべさ。
近くには温泉まである。それもでっかいのが二つもあ
るからな」
 と自分の言ったことがおかしいことであるかのよう
に笑った。大皿の上の羊肉をコンロの鉄網の上にどん
どん放り出すように載せ、箸でひっくり返しながら、
「これからはもう鉄や石炭の時代じゃない。室蘭は昔
から戦争があるたびに景気がよくなった。軍需産業都
市だったんだ。<略>戦争に負けるといったんダメにな
ったが朝鮮戦争で息を吹き返した。だが、それももう終
わった。もう戦争で儲ける時代じゃない。 日本は平和
国家を宣言したしな」
「さっきの人の話じゃ、今でも室蘭は景気がいいそう
じゃない」
「アメリカが買ってくれてるからさ。そのおかげで向
こうは製鋼業が斜陽になりかかっている。輸入制限で
もされたら日本はおしまいだ」
 克夫は焼けた肉をどんどん自分の皿に載せ、たれに
付けながら大きな肩を前に傾けてしゃぶるように食べ
ている。二、三枚を清隆の皿にも載せ、
「食べれや。うめえぞ」
と顔を見せた。<略>

(7) 湖西会館
           山口猛
 
<略> 湖西会館は、満映裏の南湖に面した瀟洒な建物であり、ここに甘粕理事長は、賓客を招待し、食事をとりながら映画を見ていた。
 そこで上映されるのは日本、ドイツの最新映画はもちろん、アメリカ映画も含まれていた。<略>
 皇帝溥儀は湖西会館を利用しなかったが、宮内府宮廷係の吉岡安直中将は、よく出入りし、溥儀の弟溥傑や夫人の浩は、ここで時々映画を見ていた。あるいは、張景恵総理など、たまに甘粕抜きで利用したこともあった。
 湖西会館詰めの斎藤亮男の仕事は、将校をはじめとする甘粕の客に案内状を出し、彼が決めたその日のメニューを、出入り業者に頼み、宴会の最中には甘粕の命令を聞くことだった。
 出入りの業者は、中華料理は「菜羹香」、和食は「香蘭」、ジンギスカン料理は「萩の茶屋」と決まっていた。もっとも三笠宮殿下が満映を訪れた時などは、ヤマトホテルから洋食担当のコックを呼んだ。なかでも「香蘭」の主人野田市太郎は、甘粕が贔屓にして、彼を北京まで連れて行ったこともあった。
 湖西会館で、宴会が始まるのは、満映が終わる 午後六時すぎから、文化映画をつけて、劇映画を上映し、そして食事、酒宴という段取りだった。ここでの甘粕はホスト役に徹し、いわゆる「甘粕が乱れる」と言われることになるのは、この後の料亭からだった。

(8) 馬肉ブーム
           林家正蔵

 どうやら巷では、馬肉ブームらしい。
ついこの間まで、雨の降った後にタケ
ノコがニョキニョキと生えるように、
「ジンギスカン、ジンギスカン」と羊
肉がもて囃されていたが、この羊ブー
ムも一段落したようだ。何軒かは生き
残り、後から便乗した店は、暖簾を仕
舞った。一時、やたら流行していたモ
ツ鍋が復活の兆しを見せているが、静
かなブームは馬肉だ。
 そういわれてみれば、銀座の居酒屋
でも若い女性のグループが、焼酎のオ
ン・ザ・ロックをぐびぐびやり、馬刺
をパクパク。生肉にも抵抗も何もない
のであろう。「やっぱり疲れた時はレ
バ刺より馬肉がいいよネェー」「私は、
やっぱタテガミ好き―」なんて会話を
している。若い女性が飛びつきのだか
ら、このブームはどうやら本物らしい。
<略>
 平成19年の(1)はジンギスカンは1回しかいわない座談会からです。出席したのは作詞家で京都造形芸術大教授の秋元康、日経トレンディグルメ探偵団のライター永浜敬子、レストラン・ジャーナリスト犬養裕美子。「挽き肉の逆襲が始まる!」と銘打ってはいるものの、ほとんど飲み歩きの話。最後の子供の頃食べ物の話では、秋元が生トウモロコシが好きで「僕は夏に北海道から取り寄せて食べてます。」と語っています。
 (2)は脱線だ。椎名誠率いる「麺の甲子園」審議団5人が南北海道ブロックとする函館、札幌、小樽を廻り、札幌では特にジンギスカンの〆ラーメンを注文「札幌で今、大人気という〆のラーメン。気持ちはわかるけど、ううむ……という感想(十鉄)」(326)と現場写真2枚を付けてます。函館塩、函館イカ、札幌味噌、札幌〆の各ラーメンと小樽豪雪うどんの対戦の結果、ブロック優勝は札幌味噌ラーメン。ラーメンはジンパ学の研究対象ではないのだが、オマケして入れました。
 (3)は、北海道のことを知らない若者に、ふるさとの魅力を覚えてもらうために考案された「北加伊道カルタ」制作委員会(伏見信治代表)が結成され、100人を超える会員が考えたカルタの句から44枚を厳選、道新日曜版で毎週1枚ずつ紹介された。ジンギスカンの札は肉片を並べたジン鍋、羊、リンゴ、ミカン、玉葱などが描いてありました。
 (4)新渡戸さんが亡くなって3年後、太平洋の彼方からジンギスカンを食べに成吉思莊に現れたという怪談です。いいですか、新渡戸さんは昭和8年にカナダで亡くなられた。若いとき太平洋の架け橋になりたいと言われた方ではあるが、そんなことあるわけないよね。はっはっは。
 これは成吉思荘の生みの親である東京赤坂の松井精肉店が明治39年、羊肉を売り出したころの話と、その松井精肉店が後に羊肉卸し問屋も兼ねるようになり、昭和11年に羊肉食普及で開いた成吉思荘を混同したことから生じた大間違いですね。
 前バージョンの講義で話したと思うが、松井初太郎さんの思い出によれば、松方農場産の羊肉を買いにくる客はほとんどが外国人、日本人では新渡戸さんぐらいだったそうです。
 それからこの章の前の章は「北海道遺産に認定されている!?」で、道民は花見でジンギスカンを食べる「うらやましい土地柄」と書いています。それはよろしいが、続けて「北海道大学では、サークルなどの新人歓迎会で、ジンギスカンパーティー(略してジンパ)をするのだとか。大学構内のあちこちで煙が立ちのぼる光景は北大名物とのウワサも…!?」(327)」とある。「とか」「うわさも」とは、なんじゃ。平成以前からやっている伝統ある行事だぞ。世の中には、こんな本も売っているということです。
 (5)は作家開高健のある日のエピソードです。彼が通った茅ヶ崎のジンギスカン店は、黄色い看板が目印で店名は「ジンギスカン」といい「現在は酒の持ち込みはできないが、かつて開高は高級ワイン「ロマネ・コンティ」を持ち込んで空けたという〝伝説〟も残っていた。」(328)と産経新聞が伝えていました。
 (6)は美術鑑定家、料理評論家として知られる勝見洋一氏の本からです。北京の有名老舗「東来順」の羊肉料理は皆、牝の肉だとはね、私もこの本で初めて知りました。字数枠の都合で本文で省略したフランスの続きは「ノルマンディーの海岸近くの牧草地で育った仔羊は、潮の香りが焼いた肉から薫る。これを海岸端で食べては面白くない。人工都市ともいえる石造りのパリの街のレストランで『ああ、モンパルナスに海が見えるようだ』などと洒落るのが文化なのだろう。」(329)です。
 もう1つ、ハヤシライスの章から「不意に記憶の底から旧ソ連時代のモスクワが湧き立つように思い出されて慄然とした。なぜか。モスクワにハヤシライスが存在したからなのだ。あの暗い社会主義統治時代、料理店や酒場はみんな国営資。チキン・ア・ラ・キエフもピロシキもすべて国営工場から配給された半完成品。つまりどこに行っても国家が管理した同じ味だった。」(330)食べ歩きが楽しめない国だったのですね。
 (7)は「3人家族(父、母、小学生の僕)で一度に丸肉(別名ロール肉、わかりますよね?)2キロは食べていた」(331)釧路の宇佐美家で育った宇佐美伸の「ジンギスカン」からです。
 宇佐美家では漁船員と同じくベル食品の缶入りタレを愛用し、焼いてからタレを付けたが、筆者はその缶の穴開けが楽しみで、そのタレには胡椒を「わんさか振りかけるのが僕流だ。」(332)と書いてます。
 換気扇のない部屋で焼くから「家中のあらゆるものがジンギスカン臭にまみれ」つるつるになり、畳に敷いていたビニールレザーが「ジンギスカン後は滑る滑る! 実に釧路っ子の多くはこれで途端にスケーティングの真似をするのがお約束。だからこそ、多くの名選手をを輩出しているのだ(と、個人的には確信している。)」(333)というあたり、年配者は思い当たる懐かしい情景ではないでしょうか。
平成19年
(1) 戦国時代! 肉の下剋上が……
           秋元康
           犬養裕美子
           永浜敬子

秋元 いきなりですが肉部門。僕はジンギ
スカンも馬肉も、もうピークに達したと思
っています。
犬養 えっ! もうそんな核心をついてし
まうのですか?
永浜 羊でも馬でもなかったら、次は……

秋元 まぁ、あまり結論を急いでも面白く
ないですから、まずは肉ブームの変遷を振
り返ってみましょう。
犬養 狂牛病や鶏インフルエンザで食べら
れない肉が出たのが一番大きな問題でした
ね。
秋元 気にします? 僕は全然気にしない
ですね。
永長 私も気にしません。
犬養 牛丼や鶏肉が食べられなくなったの
は驚きでした。
秋元 僕がおいしい牛の脳みそを食べた翌
日に、日本で狂牛病が発覚したんですよ。
あの時はさすがに吃驚しましたね。いつか
僕も、よだれ垂らしておかしくなってしま
う日が来るのかな……。
一同 ……。
永浜 症状が出るのはずっと先だから、ひ
とまずは大丈夫ですよ! 最近、牛は霜ふ
り=おいしいではなくなっていると思いま
す。受け売りですが、霜ふりって簡単に作
れるらしいですよ。ビタミンAを欠乏させ
たり、作為的に何か手を加えるらしいで
す。<略>
永浜 では冒頭に戻って、馬の次は何がく
ると思いますか?
秋元 ずばり断言すると挽き肉ですね。こ
れからは挽き肉のの時代が来る!
女子一同 ……え、ええ!
秋元 つまりは、牛と豚と鶏を自分でブレ
ンドする挽き肉料理がくるのではないかと
いうわけです。<略>

(2) 味噌もカレーも一緒
           椎名誠

<略> 麺の巡礼団は次にジンギスカン専門店に
行った。ジンギスカン鍋がモンゴル料理と
聞いて、モンゴルに初めていったとき、本
場のジンギスカンが食えるのかと思った
が、そんなものはどこにもなかった。
 以来何度もモンゴルに行くうちにわかっ
たがモンゴルにはジンギスカンなどという
食い物は存在しない。なぜならモンゴル人
は肉を焼いて食うということは絶対しない
からだ。いまでこそ韓国資本がヤキニク店
をつくって牛肉など焼いているが、遊牧民
は今でも肉は焼かない。何故なら牧畜業の
かれらは動物を大事にする。それを食べる
ときは血も脂も大切な栄養源として食べ
る。肉を火で焼くと脂が垂れて燃えてしま
う。そんなもったいない料理はしない、と
いう考えだ。
 したがってジンギスカンは「日本人だけ
が食っているモンゴル料理」というわけの
はわからないものなのである。
「十鉄」という店に入った。サッポロクラ
シックの生ビールがうまい。生ラム肉、塩
ホルモンなどをばしばし食って、目的のジ
ンギスカンのつけだれで食うラーメンを注
文した。期待が大きかったが小さな鍋でイ
ンスタントラーメンっぽいのを煮て食うと
いうどうしようもないシロモノでこれには
まいった。見るからにまずそうで食ったら
やっぱり圧倒的にまずい。
「基本的に無理がある。甘いジンギスカン
のタレにラーメンが合うわけがないではな
いか」
 楠瀬が怒ったようにいう。
「札幌冬季オリンピックふうにいうと、ジ
ャンプは成功したけれど着信に失敗という
ところですかな」

(3) 遊ぶたびに北海道がわかる「北加伊道カルタ」誕生
           ONTONA

 長く北海道に住んでいても、北海道
の歴史や地理、文化や産業など知らな
いことはたくさんありますね。さらに
これから時代が進むにつれ、古いこと
は少しずつ忘れられてしまうかもしれ
ません。それを危惧(きぐ)した有志が
集まり〝遊ぶために北海道が分かる〟を
テーマに「北加伊道(ほっかいどう)カル
タ」を生み出しました。誕生日きっか
けや、完成までの道のりを紹介します。
<略>
 44の句は、古くは北海道の氷河時代から、つい昨年
のことまで約2万年もの長い期間にわたっています。
<略>
思い入れのある句を尋ねると「どれも思い入れがあり
ますね。例えば『り』の『リンゴに玉ネギ ジンギス
カン』などは、単語を並べただけですが、シンプル
で面白いでしょう。ジンギスカンのタレにどうしてリ
ンゴと玉ネギを使うか知っていますか?北海道で羊
はもともと、羊毛を取るための軍事
目的で育てられていました。余った
肉は、においがきつくて食べられな
かったんです。それを食べる工夫と
してにおい消しのために、タレにリンゴと玉ネギを入
れたのが始まりなんですよ」(蛭川さん)
 調べれば調べるほど奥が深い北海道の文化。制作委
員自身もさまざまなことを学び、年代によって着目点
が違うことを知ったといいます。「一番若い人は当時
大学生で年長が74歳の私。私の若いころは道路の除雪
がなく、降った雪はそのまま積もって2階の窓から家
に出入りしたり、居間に置いた鉄瓶の湯が凍っていた
もの。世代によって、生活も視点も違いますね。昨今
話題のカーリングを入れたのは、若い人からの提案な
んです。世代間やさまざまな職業間の交流があって、
刺激になりました。楽しかったですよ」(蛭川さん)

(4) ジンギスカンの元祖って…じつは!
           桑沢篤夫
           (有)フロッシュ

 近年、ジンギスカンは羊肉に含まれるカルニチンとい4物質によって食べても脂肪がつさにくいとされ、美容やダイエットに効果があるということでブームとなり、東京にも多くのジンギスカン店が開店しているが、じつはその元祖の店は、何を隠そう東京だった!?
 昭和11(1936)年、日本初の羊肉専門店「成吉思(じんぎす)荘」は、東京都杉並区に開店した。開店当初、羊肉になじみがないせいか、利用客は外国人ばかりで、唯一の日本人客といえば、あの旧5000円札のモデルにもなった新渡戸稲造だけだった、という逸話も残っている。それほど当時はもの珍しかった料理だったのだろう。

(5) 開高健の杯
           菊谷匡祐

<略> あるとき、茅ヶ崎の家に遊びに行く
と、開高さんが悪戯っぽい目つきで言
いだした。
「おい、旦那、今日はちいっとばかり
いい酒、飲ませよか」
「いいですね、何です?」
「まあ、急くな……」
 開高さんは戸棚に寝ているボトルの
中から三本引き出した。
「こんなんで如何かな?」
 それを見て、わたしは目を剥いた。
ロマネ・コンティが二本とシャトー・
ディケムである。が、何年物だったか
は覚えていない。
「こんなの飲ませてもらえるんですか?
ここでやります?」
「いや、駅前のジンギスカン屋へ行こ
か。ディケムは、君、家に持って帰っ
てかあちゃんとでも飲め、オレは、ど
うも貴腐ワイン好かんねん……」
 R・Cとディケムを紙袋にそっと入
れ、タクシーを呼んで駅前に出かけて
行った。夕方に一歩手前というぐらい
の時刻で、ジンギスカン屋には客の姿
もない。まず持参した針金の栓抜きで
R・C二本のコルクを抜き、一皿三〇
〇円だかのロースやらモツやらを注文
しておいて、R・Cが空気になじむの
を待った。<略>
「それにしても、ロマネ・コンティを
こんなふうに飲んでいいんだろうか。
何となく気が咎めるなぁ」
「だったら結構、君は飲まんでもええ
んやで」
「バカ言っちゃいけません。飲みます
よ、ありがたく飲ませていただきますっ
て……」
 ジンギスカンをつまみながら、ふた
りは、ビールの景品についてくるよう
なコップで、R・Cを飲んだ。そのと
きの香りと味についてはともかく、ジ
ンギスカン屋でロマネ・コンティを飲
むという破天荒な行為が、じつにうれ
しく愉しかったものである。<略>

(6) 羊肉
           勝見洋一

<略> 羊は臭いと言う人がいる。
 羊は臭くないと言う人がいる。
 これで全地球の人類と文化は区別できる。なんて単純なのだろう。
 臭くない国の代表はフランスと中国。
 フランスは、肉の中に臭い細胞が溶け込む前の仔羊の段階でさっさと食べてしまうから、臭いがあるわけはない。むしろあまりに個性がなくて歯がゆいほど。<略>
 一方、中国は海ではなしに、大地が見えるという。羊が旅をしてきた道のりに思いをはせるのだ。
 北京の悪友、羊のしゃぶしゃぶで名高い老舗「東来順」の柳壮図氏が「はじめて回教徒以外の人間に教えてやる」と秘密を開陳した。
「冬のうちにモンゴルを出た羊、それも初めての子を産んだ雌に、豊富に栄養をやりつつ、長い旅をさせる。それが厳冬の張家口にある市場に集まるわけだ。そこで買いつけられた美人ばかりが、また北京までの旅に出る。雪解けの水を飲みながら早春には北京にやってくる。その旅の途中で臭いが消えるんだ。だから羊の旬は春なんだよ。春が一番旨い。普通の店は雄の羊を使うけれど、ウチでは買わないんだ」
 たしかに書物にも載っていない話だ。
 一方、臭いというのには二つある。
「臭いから嫌だ」と「臭いがあるのはあたりまえじゃないか」の二派である。
 前者の代表は日本。それはそうだろう。輸入されるラムの多くは、臭細胞を包む膜が裂けて肉にたっぷりと臭みが回っているのだから、悶絶して当然。
 さて、臭いのがあたりまえと思うのは、モンゴルの一部から中近東にかけての地域だ。アジア大陸のど真ん中、シルクロードの天山北路と南部地帯である。<略>

(7) 聞違いなく鍋に渦巻く
    道産子のフロンティアスピリット
           宇佐美伸

 そう言えば2004年頃、首都圏で降って湧いたようにジンギスカ
ンブームが起こった。それまでせいぜい4、5軒だった専門店が20
0軒に膨れ上がったのだ。そのブームは最近になってやや落ち着いた
が、うねりはまだ続いている。
 わがふるさと北海道が誇る郷土食もついに全国区になったかと感慨
を抱きつつ、新橋にあった人気店に飛び込んだら、ちょっと違うんだ
よなあ。狭いカウンターに七厘、プラスチックのお椀に丸椅子、むき
出しの大型ダクトに新聞紙エプロンと、レトロな殺風景さを醸して雰
囲気は確かにひと昔前って感じなんだけど、なんかおしゃれ過ぎるの
だ。肉はニュージーランド産で生後何カ月未満だかのメスを手切りし
たラム生肉、タレはリンゴとタマネギのすり下ろしをたっぷり加えた
自家製、塩はモンゴルの岩塩とこだわりは色々、でもって紙エプロン
が英字新聞風の印刷だ。明らかに狙っている。案の定、中は若い女性
客が多い。<略>
 しかし僕は叫びたい。《道産子が愛するジンギスカンは絶対におし
ゃれであっちゃいけないのだ!》と。そりゃあ北海道は広いからジン
ギスカンにも様々な流儀がある。<略>細かい違いを挙げればきりが
ないけどただ一点、道産子のジンギスカンはとことんB級であるべき
なのだ。というかオジサンはそうあって欲しいのだ。<略>
 平成20年の(1)は東洋大の松原聡教授が「料理店のコストパフォーマンスを通じ、投資額に見合った価値の見極め方を示す集中講義」とうたう「週刊エコノミスト」からです。
 松原教授は「社内ベンチャーから誕生したひつじくもだが、そろそろパイロット期間が終わり、子会社化するかどうかの判断が近い。」と書いていますが、令和5年の春、検索したときはJR北海道のホームページに「『成吉思汗(ジンギスカン) ひつじくも』は、平成16年度JR北海道社内ベンチャー制度事業化案件として平成17年12月に、東京都吉祥寺にオープンいたしました。以来多くのお客様にご利用頂きましたが、平成21年3月30日をもちまして閉店することとなりましたので、お知らせいたします。」というページがあったが、いはそれもない。残念ながらJR北海道の「ひつじくも」は実現しなかったのです。
 (2)は「日本からウランバートルまでの直行便はなかった」ころ「開高健がやってきたドキュメンタリーがらみ」の映画ロケで、椎名誠はじめ9人のスタッフが、1月近くモンゴルに滞在した体験談です。北京から軍用大型ヘリで運ばれ、無事ウランバートルに到着。ホテルのレストランで出されたロシアビールは「濾過も熱処理もしていないので瓶の中の微生物や細菌が生きているのもあり、何本かに一本でそういうのにあたると確実に激しい下痢をする。つまりはロシアビールはロシアンルーレット状態で飲むようなものだった。」(334)が、乾杯したところからです。
 (3)は「『からすき』とは牛馬に引かせて田畑を耕す道具。さしずめ鋤焼きのはしり」と書いてもおかしくないのに、わざわざジンギスカン鍋を引き合いに出しているので採用しました。もしかすると鋤の刃の曲面からジン鍋の曲面を連想したからかな。
 この後に明治6年に中国人のコックが大阪の西区で豚屋十五番という店を開き、串に刺した豚肉の天ぷらを売ったのが串カツの始まりとあります。
 (4)は余市出身の俳人櫂未知子の季語解説です。解説あり、昭和48年の佐々木丁冬の解説では季語となっていないとあり、櫂の平成20年までの35年の間に冬の季語ということに落ち着いたらしい。
平成20年
(1) 野趣と繊細さを併せ持つ羊肉の旨さを堪能
           松原聡

 「塩で食べてください!」
 ジンギスカンは、タレにつけた肉を食べるものだと思い込んでいた私には、驚きの一言であった。言われるままに塩でいただくと、しっかりとした歯ごたえのある羊肉から、ジューシーな肉汁が口の中にあふれ、肉そのものの味が楽しめた。<略>
 今回紹介するのは、JR吉祥寺駅(東京都武蔵野市)近くのジンギスカン店「成吉思汗 ひつじくも」。ウリは数量限定ながら美深産など、北海道産の生羊肉3種を揃えていることだ。
 この店との出会いは、私の研究テーマである「民営化・規制緩和」がきっかけだ。10年ほど前、JR北海道に民営化のヒアリングに行き、その時対応してくださったのが小池明夫会長(当時は常務取締役)だった。小池氏は民営化の苦労や成果を丁寧に熱っぽく語り、それ以来北海道を訪ねるたびにお会いするようになった。
 ある時、小池氏からJR北海道で社内ベンチャーを募集している話を聞いた。2004年4月に募集を始め、集まった96件の中から「首都圏におけるジンギスカン店」などが最終審査を通過、その提案者が、ひつじくもの店長となった高橋忍氏(31歳)だった。 最終審査を通過した企画には、JR北海道が事業化調査から開業準備、事業運営まで全面支援する。「ジンギスカン店」の企画は、応募から1年半後の2005年12月に、吉祥寺での開業にこぎつけた。<略>

(2) 第十回 丸い穴から星など見える
           椎名誠

<略> とにかくまずは乾杯。
 食い物は冷たいソーセージとチーズのようなものしかな
い。モンゴルといったら「ジンギスカン」ではないか。しか
しジンギスカン鍋を下さい、と言っても全然通じない。どん
なものだ? と聞くので記憶をまさぐり北海道のビール園な
どで食ったジンギスカンの鍋の絵を描いた。帽子のような格
好をして縦に筋のある鍋の上に羊の肉を置いて焼いて食うも
のだ、と言ったら「そんなものはこの国の料理にはない。あ
りえないのだ!」と激しい口調で言った。
「存在不可能である」と。
 あとでそれが本当であることがよくわかった。モンゴル人
は断じて肉を焼いて食わないのである(今現在のモンゴルに
は韓国資本の飲食店が沢山進出していて韓国焼き肉などが大
はやりだから、肉を焼いて食うようになったが、当時はきわ
めて頑だった)。<略>
 したがってモンゴルにはジンギスカン鍋などというものは
存在しないのである。あれは北海道の人が「モンゴル料理」
と言って好んで食べているけれど、日本人だけが食べている
モンゴル料理、というわけのわからないシロモノなのであっ
た。<略>

(3) すきやきのはじまり

           三善貞司

<略>緒方洪庵の学問所「適塾」(北浜三丁
目)で学んだ福沢諭吉は「(安政二年(一八五
五)ごろ)大阪市中には牛なべを食わす店が二
軒あった」と書いている。一軒は難波橋南詰、
もう一軒は新町にあり、常連客は遊び人か塾生
ばかりだったそうだ。牛なべファンになった諭
吉は江戸へ出てからも味が忘れられず、慶応三
年(一八六七)芝の料理屋の主人中川嘉兵衛に
調理法を教える。嘉兵衛はさっそく今の新橋駅
あたりに新しく店を出し、「牛鍋」と張り紙し
たところ珍しがりやの江戸っ子に大好評で繁盛
これが東京風すき焼き第一号だといわれる。
<略>本場の大阪ではもちろんヒットするが、同二年、
西区川口の川口居留地で獣医係をしていた下田
徳兵衛は、同区本田二番町で副業として牛鍋屋
を開き、メニューをふやして「ぼたん(猪鍋)
や「やまどり鍋(鳥・鶏)」も出し、これらを
数寄焼すきやき」と称した。これがすきやきの起こり
というが、江戸期に刊行された『料理談合集』
に、「鴨鹿の類をたまり(しょう油の原型)に
漬けおき、からすき火の上に置きて焼く」とあ
る。「からすき」とは牛馬に引かせて田畑を耕
す道具。さしずめジンギスカン鍋のはしりであ
ろう。また薄く切って焼くから、透き焼きと呼
んだともいう。<略>
初期のすきやきは牛肉と野菜だけ、豆腐やこん
にゃくを加えたのはもう少しあと、各店が味を
競いだしての工夫。<略>

(4) アウトドア季語
           櫂未知子

 ところで、わが郷里の北海道にはジン
ギスカン鍋がある。かつてはマトンの臭
みが敬遠され、他の都府県の人々にはな
かなか理解されなかった。最近は癖のな
いラム肉が主になったため、都内でも結
構食べることができる。カロリーが低い
ので女性にも人気がある。
 このジンギスカンは、アウトドア料理
の代表格である。北海道民は、何かとい
えばジンギスカン、ジンギスカン――桜
が咲いた、はい、ジンギスカン。紅葉狩
に行こう、はい、ジンギスカン。私が中
学・高校の頃は、「炊事遠足」なるもの
があったが、もちろん、生徒のほとんど
はジンギスカン鍋を選択した。
 青空のもとで何かを食べる。これほど
幸福なことはない。芋煮は匂い等では派
手ではないが、青い空のよく似合う楽し
い鍋物である。ジンギスカン鍋ももちろ
ん同じ。ところが、大きな歳時記では、
ジンギスカン鍋は冬に分類されている。
 真冬に、自宅でこの鍋を楽しむ人に出
会ったことはない。北海道の住宅では、
冬に窓を開けることはしないため(とい
うより、凍っていて窓が開かないため)、
「ジンギスカン鍋は冬の季語なんですっ
て」と伝えたら、びっくりする人が多い
のではないだろうか。
 平成21年の(1)は「思えば小学校の炊事遠足の定番がまさにジンギスカンだった」という札幌生まれの道庁「食のサポーター」出村明弘の「ことばのご馳走」にある羊肉料理というより、羊料理に深い愛情と感謝の気持ちを持ち続けるシェフの物語です。
 (2)は立石敏雄が雑誌「ペン」に8年間連載したコラムを集めた本「笑う食卓」からです。立石はスペインで暮らしたこともあるからといって「あらかじめ羊肉に味をつけて焼くのは、世界広しといえど、日本のジンギスカンくらい。」は、ないよね。大いなる誤解でした―だ。つまり焼いてからタレを付ける食べ方を全くご存じないお方らしいから書名の通り笑っちゃうね。
 私はジンギスカンを食べて体がほてったと感じたことがないね。ほてるほどたんまり食べたことがないせいか、年のせいかわからん。若い皆さんはどうかな。
 (3)は小説からですが、何か昔の同級生と久し振りに飲んだとき、これといった共通の話題がなくて、一方的に聞かされた話を元にして書いたような感じがします。これを読んで七輪に火を起こすとき、新聞紙からどうやっていたか、パッと思い出せなかった。昭和は遠くなりけり―ですな。
 (4)の題名の「ビールがうまい」は聞いたような―と考えたら「きょうも元気だ 煙草がうまい」という専売公社のCMでした。私が北大に入った頃、上級生はもちろんほぼ全員、煙草のみでした。それで北大生協では煙草のバラ売り、つまり10本か20本入りの煙草を買う金がないけど吸いたいという貧乏人のために1本、2本と売っていた。むき出しの煙草をポケットに入れると、折れるので大抵、安いアルミ製のシガレットケースを持っていましたね。
 あ、間違った、そうそう、ビールは瓶を酒屋に戻せば何10円か戻るジャアンツという大瓶ぐらい、コンパはもっぱら安い合成酒か焼酎だった。
平成21年
(1) 羊を愛した調理人
           出村明弘

<略> さらに、この羊を調理したシェフの話を聞いて感動が本物になってしまったのだ。
『よく、あんな可愛い羊を調理できますよねと言われます。でも、私はいつも羊に対する愛情、そして感謝でいっぱいです。ご存知でしょうが……羊は従順な生き物です。屠殺する時、自分の番をおとなしく待ち、その時が来たらメェーと一声鳴き、死んでいくのです。周りの羊は、それを見ても鳴き騒ぐことなく順番を待っている。その光景を初めて見た時、胸がジーカと熱くなりました。私が幼い頃、その毛を使って母がセーターを編んでくれました。〝お前が世話をした羊さんからの贈り物だよ〟……私は滝川の隣町、赤平の農家の長男として生まれ、小学生の頃から家畜の羊を二頭世話していました。当時、羊の内臓は使われることなく、全て捨てられておりました。子供ごころにショックで、そこであらためて日本では羊料理はジンギスカンしかないことに気づいたのです。本当に羊に対して申し訳なく思っていました。
 やがて私は調理人の道に入り、そして羊一頭、血の一滴も無駄にすることなく食べ尽くす遊牧民の住むモンゴルで修業しました。私は一生、羊を愛し続けたい。だからこそ全てを美味しく食べていただきたいのです』
 滝川市内にあるレストラン「ラ・ペコラ」のオーナーシェフ河内忠一氏の話で、少なくとも私の羊観は変わった。(06年3月)

(2) 熱帯夜にジンギスカン鍋は、大いなる誤算でした。
           立石敏雄

<略> ジンギスカンに使われたのは、おいぼれマトンで、それも食用肉ではないから、匂いがきつく、硬かっただろう。なので、匂いを消し、肉質を軟らかくするために、濃く味をつけて焼いたのがジンギスカンの始まり。
 あらかじめ羊肉に味をつけて焼くのは、世界広しといえど、日本のジンギスカンくらい。ふつうはどこでも、焼いて塩を振って食べる。中央アジアの一帯では、これにコリアンダーの葉を添えて食べるらしい。うまそうだ。<略>
 当コラムの担当編集W君は、旭川の出身。実家ではよくジンギスカンやりましたと言うW君の先導で、やっと先日ジンギスカンを食べに行ってきた。
 北海道でジンギスカンが始まったのは、羊肉が手近にあったという他に、羊肉には身体を温める作用があるからとも言われる。なんでも、羊肉にはカルチニンという脂肪を燃やすタンパク質が牛豚肉などより多量に含まれているのだとか。だから、ジンギスカンを食べると、身体がぬくぬく温まる。
 これが、大いなる誤算だった。食べた日は熱帯夜で、それでなくても裸で窓開けて寝ている暑がりの私だから、往生した。内側から身体がボッポと火照って、気が違いそうなほど。ほとんど、泣きそうでしたね。

(3) 遊ばせている駐車場
           安戸悠太

<略> 祖父の家にも、我々のため空き駐車場が用意されていた。
 車を持たない夫婦二人暮らしの家の建て替えにあたって、
庭半分を削り駐車場を設ける案は意外と自然に挙がったらし
い。日々ひとり庭の世話を焼いた祖父が喜んだのは、もちろ
ん手間の軽減が理由ではない。<略>
 駐車場設置により、庭先で行われていたイベントはやむな
く廃止か、規模縮小せざるを得なくなった。夏のビニールプ
ール、西瓜割りなど、建て替え後には一度もやっていない。
それでも根強く毎年開催されたのはジンギスカンパーティー
だ。いま振り返ると住宅地の一泊に炭火を焚き、羊肉の煙を
もうもう上げるなんて、目も当てられない迷惑行為だったと
想像が付く。父が車を背に「これで往来の人目は避けられる
な」、そう苦笑した気持も分かる。だが本当に美味しく、楽
しみな春先の恒例行事だった。
 祖父母も父も北海道の人間で、年季の入った本格的ジンギ
スカン鍋を持っていた。浅い帽子の形をし、重く、押し入れ
から出してくるだけで手が真っ黒になる。七輪も古く薄くヒ
ビが入り、平らな所だと安定が悪いため土の地面に据えなけ
れば危険だった。火を起こすとき、まず火種にする新聞紙を
子供たちが千切り丸める。「そんなにカチカチにしちゃ駄目
だよ」祖父がわたしたちには穏やかな声しか出さないので、
注意されたガキ三人は調子に乗り紙玉を量産するばかり。<略>

(4) それゆけ! きょうもビールがうまい
           平松洋子

<略>おお! 一面に白いガーデン
チェアと丸テーブル、夜七時を回ったば
かりだというのに老若男女がジョッキ片
手に盛り上がっている。夜風に揺れる黄
色い提灯、スピーカーから響き渡る「G
LAY」ビート、ジンギスカンの香ば
しい香り。
「生ビール四つ、ください! それから
ジンギスカン」
 小走りでテーブルを縫って戻ってきた
お兄さんが「ハイどうぞっ!」。そのジ
ョッキを間髪入れず握って、お約束の
「カンパーイ!」
(……くーっ、うまいっ)
 この一瞬の空白こそ、感動と満足の雄
叫び。ふうう、四人がいっしょに宙を仰
ぐ。<略>
 若者とおじさん、そこに女性がちらほ
ら混じる五、六人組というのが、どうや
らビアガーデンの基本のようです。上着
を脱いで、ネクタイはずして、なかよく
ジンギスカン用の紙エプロンを首に掛け
て、星空をひとり占め。
「いきなりのアウトドア感覚ですねー」
 銀座のどまんなか、屋上までたった数
十秒ですてきな逃避行。
 ジンギスカン鍋が日ごろの憂さを晴ら
すかのように煙を上げる。羊肉が焼ける
香ばしい香りに誘われて割り箸を伸ばす
と、口の中にじんわり肉汁があふれる。
「ジンギスカンって、すごい」
「もやしもすごい。うまみをぜんぶ吸い
こむ感動的な存在感!」
 もやし人気、急上昇。二杯目の生ビー
ルを注文すると、スピーカーの大音響は
今となっては涙なくしては聴けない小室
ファミリーのメドレーに変わった。
 平成22年の(1)はしっぽの長い燕尾服に扇子という出で立ちで「ご主人は妻や子供のためにと汗水流して働いて、酒と薬を交互に飲みながら、会社のために手となり足となり」と引きつけておいて「首になる」と落として笑わせる―といった「きみまろ節」で知られる漫談家綾小路きみまろがね、ギャル曽根がいくら大食いでもジンギスカンで羊肉4キロは無理だろう。負けたらカツラを脱ぐという賭けをして負けた。
 それで「ツルツル」でも「ピカピカ」でもない秘部を見せたら「テカテカしてて、かわいいィー!」と「お褒めめ言葉をいただいて」番組の収録は終わったそうです。
 (2)は雑誌「畜産の研究」2月、3月、4月と3号連続で掲載された元滝川畜産試験場職員高石啓一氏の「農家の友にみた成吉思汗の顛末」からです。高石氏は平成8年の「日本の羊肉物語」を皮切りに雑誌「畜産の研究」に下記の11論文を発表しており、うち平成8年のそれと15年の2件は紹介済みです。

平成8年3月号   日本の羊肉物語
平成8年6月号   羊肉料理「ジンギスカン」の一考察
平成15年10月号 羊肉料理「成吉思汗(ジンギスカン)」の正体を探る
平成18年2月号  料理の友による成吉思汗鍋料理考
平成21年7月号  北海道の羊毛加工とホームスパン(1)
平成21年8月号  北海道の羊毛加工とホームスパン(2)
平成21年11月号 北村史にみた成吉思汗鍋考
平成22年2月号  農家の友に見た成吉思汗の顛末(1)
平成22年3月号  農家の友にみた成吉思汗の顛末(2)
平成22年4月号  農家の友に見た成吉思汗の顛末(3)
平成22年5月号  緬羊と山田喜平と成吉思汗と

 この「農家の友に見た成吉思汗の顛末」はね、尽波満洲男なる自称北大名誉教授が、後発のくせに私が唱える「北大OB駒井徳三氏がジンギスカン料理と命名したという証言」はあり得ない、間違いだと「現場主義のジンパ学」と名乗るホームページで繰り返して書いておるから、奴が唱える「日吉良一は駒井徳三命名説を塩谷正作技師談として『農家の友』に書いたが、ホラ話とわかり『北海道の文化』という別の雑誌で取り消した」という尽波説を吟味して始末してやるかね―とは書いていないが、同じ資料を使って考察してみた―というのです。3カ月連載ですからね、力の入れようがわかるよね。
 科学実験の結果は、ぴったり再現できなければ誤りと判定するのと同じ、同じ資料を読んで考えれば、極度にひねくれた見方をしない限り同じ結論に達するはずです。高石氏は日吉良一が「北海道の文化」に書いた塩谷談取り消しは尽波説通りだったと認めるだけに止め、尽波の北京在住邦人の命名説と中村是公ジンパに端を発する「ジンギスカンなべ」という呼び方の発生説は「農家の友」の顛末とは無関係と判断なさったらしく触れていません。
 ホームページに書いてあることは雑誌「畜産の研究」掲載と違って、紙の印刷物と違って簡単に書き換えられる。だから尽波が書いたことを取り込むと、書き換えられていて、本当かなと画面を見たとき、もう加筆訂正されていて、見当たらないことがあるかも知れないから、使わなかったというのは結構。まあ、この3番目の論文を「畜産の研究」が発売されたとき、講義録の参考文献には不実記載なる現象は認められなかったようで、さぞや安心されたことでありましょう。
 私は「『誰となく言い出した』と曖昧にして」おりません。鷲沢・井上コンビの二千歳命名が蒙古の成吉思汗を想起させ、中村満鉄総裁が大連で広めようとし、ジンギスカン料理はさておき、その新聞記事から「ジンギスカンなべ」という呼び方が広まったのだと唱えておる。駒井命名説は真実ではないとわかればいいのです。クラークさんの教え「ビー・ジェントルマン」だよねえ。ハッハッハ。
 (3)はミステリー短編。千街晶之の解説を借りれば、フリーター探偵の風水火那子が往年の名探偵新道正子とともに旅する途中で事件に遭遇したという設定(335)の札幌編です。
 これは570字枠に収まるよう切り出したので、千街のいう「タイトル通りジンギスカン尽くしの趣向で全体を統一した遊び心(336)」は、ほとんど感じられないが、焼くを得ません、ふっふっふ。北大図書館にはないが、札幌市立図書館にはあるから、ジンパの話題にしたい人は読んでみなさい。
平成22年
(1) ギャル曽根さんの食べっぷりはホンモノです
           綾小路きみまろ

<略> そんな折、フジテレビ系の『独占! 金曜日の告白』という番組でギャル曽根さんと共演する機会に恵まれました。
 しかし、父が痛風、母が糖尿のハーフであるわたしがギャル曽根さんと大食い競争をしたら、すぐに死んでしまいます。そこで彼女がジンギスカンを三十人前食べたら、一月二十日発売のわたしのCD第3集を視聴者の皆さまに抽選で三百五十枚プレゼント、三十五人前食べたら、わたしは一人でブラジルを旅して、アマゾンで謎の巨大魚を捕獲するという条件となりました。
 さらに彼女がジンギスカンを四十人前食べたら、私がカツラを脱ぐことになったのですから、わたしにとっては一大事でした。
 でも、四十人前ですよ、四十人前。ふつうの人が食べたら病院行きです。
 さて、撮影は、きみまろがプロデュースしたジンギスカン・ダイニング『あ・うん亭』で行なうことになりました(山梨県河口湖のそばです)。
『あ・うん亭』のジンギスカン一人前は、厚いお肉がだいたい六枚です。細身の奥さまなら一人前で十分、大食漢のご主人でも三人前でお腹がパンパンになります。
 四十人前といえば、六枚×四十皿で、お肉が二百四十枚です。重さを計算したら、なんと四キロ! 奥さまの体重の二十分の一。
 四キロ減ったら、奥さま、何キロになりますか? その逆に、四キロ太ったら大変なことになるでしょう?
『あ・うん亭』の料理長も、お肉を切りながら思ったそうです。「いくら何でも、これだけ食べたら化け物だ}と。
 しかも、制限時間は四十五分。ご主人、四十五日じゃありません。ギャル曽根さんは、二百四十枚、四キロの肉を四十五分以内に食べるというのです。

(2) 農家の友にみた成吉思汗の顛末(1)
           高石啓一

 北海道では「農家の友」という雑誌が北海道農業
改良普及協会から発行されている。創刊は昭和24
年9月で,その当時は北海道農務部農業改良課に設
けられた外郭団体の北海道農業改良普及員協会か
ら刊行されていた。発刊から第9巻までは「北海道
農家の友」というタイトルが使われていた。だがそ
の第9巻の途中で何時の間にか北海道の冠が取れ
「農家の友」と誌名変更がされている。
 元職場を訪れた時,資料室に旧書庫の古い雑誌や
書籍が搬入されていた。その中に創刊当時の「農家
の友」があり 閲覧する機会を得た。「農家の友」の
目次をめくるうちに,拙稿「羊肉料理「ジンギスカ
ン」の一考察」で参考とした「成吉思汗物語り」を
執筆している郷土史家吉田博氏は30年代に農政課
長を務め,「日本の農業のうごき」を始め,多くの原
稿執筆をしている。また郷土史家更科源蔵氏も「北
海道を築いた人 エドウィン・ダン」を書いて寄稿
していたことがわかった。
 本稿を記述するに当たって,インターネットで
「現場主義のジンパ学」を講義する尽波満洲男なる
人物が,既に「北海道農家の友」という雑誌名を上
げて記載しているサイトがある。同じ雑誌資料では
あるが緬羊に係る課題と羊肉料理「成吉思汗」を小
生なりの論考で成吉思汗の顛末として論述する。<略>

農家の友にみた成吉思汗の顛末(3)より
<略>
 おわりに
<略> 太田編集長は,「日吉氏の発表した」とする原稿
は本部の発行誌に掲載しただろう。そして,当時
健在であった両氏に電話で話を伝えたのだろう。と
ころが,「それは少々言い過ぎで,自分達はそうし
た宣伝をせよと駒井氏から受けたことはなく,大正
末年頃向うの日本人間で誰となく言い出したものが
真実」と語られた。そのことを札幌の日吉に知らせ
た結果,日吉は,「駒井説は言い過ぎだ」と知り,
塩谷技師談はまずかったと思った。だが,時既に遅
く農家の友に「成吉思汗料理事始」を送った後で間
に合わなかった。もしかすると,「事始」の括弧書
きにした「北海道開拓経営課塩谷正作技師談によ
る」は後で無理やり挿入して貰ったのかも知れない。
とにかく早く訂正しようと「北海道の文化」に打ち
消し説を書いたと推測される。
 中国での日本人の間で「誰となく言い出した」と
曖昧にして真実を閉じ込められていった。塩谷情報
の再確認や裏話でもないのだろうかと思いつつ,
「農家の友」の顛末を一先ず終える。

 主な参考文献(27点は略)

「注記: 尽波満洲男なる人物のインターネットサイト「現場主義のジンパ学」は詳細な文献調査によるものであるが,サイト上では更新が常に行われるため,引用は不実記載となる場合も派生する。そのため,文献収集などは大いに参考とし,利用資料は原典にあたったことを付記する。」

(3) 札幌ジンギスカンの謎
           山田正紀

<略> 「ジンギス館」に入る。
 広い。が、陰気で、暗い。
 人の姿が見えない。要するに、流行っていないの
だろう。
 右手にレジがあり、それと向かいあわせ――左側
に厨房の入り口がある。床に三段ほどの段差があ
り、その先は吹き抜けのホールになっている。西部
劇の酒場のような印象といえばいいかもしれな
い。
 テーブルは何脚か並んでいるが、そのうちの一つ
しか客がすわっていない。男が一人に、女が一人。
――正子と火那子が店に入っていくと、同時に顔を
あげて見つめる。
 テーブルの中央には兜のような丸いジンギスカン
の鍋がある。タマネギとモヤシが山盛りになった皿
に、ビールの大ジョッキが二つ――まだ肉は用意さ
れていない。
 店内は薄暗い。まだ昼前だからということもある
だろうが、最低限の照明しか点されていない。それ
なのに妙にぼんやりと明るい。
(雪は小降りになったみたいだけど、それでも光が
射してるのはおかしいな……)
 火那子はふとそれを疑問に思った。
 何かの錯覚かもしれない。
 中央に幅の広い階段があり、中二階のように回廊
がホールをめぐっている。その回廊の窓から吹雪が
舞っているのが見える。
 窓枠の下に動物の頭蓋骨が飾られている。真っ白
だ。その目が虚ろに暗い。頭蓋骨のうえで窓がガタ
ガタと小刻みに鳴っていた。<略>
 平成23年の(1)は、とにかく羊肉大好きという角田光代の「未年女、羊を食らう」という、ちょっと勇ましい題の随筆です。
 これによると角田さんがギリシャで食べた羊肉は「臭みの少ない羊」というからにはラムだったらしい。羽田に戻ってからは、ご飯よりラムと食べまくっているぐらい気に入ったんだね。ジンパ学はジンギスカンについて研究しているが、糧友会みたいに羊肉食を奨励しているわけではないから、角田さん、どうぞたっぷりお召し上がりくださいませ―だね。
 全文を読みたいと思ったらだね、「角田光代」と「羊肉」の2語をきキーワードにして検索すると「今日もごちそうさま」という角田さんのホームページが出るから、そのNo.008の「未年女、羊を喰らう」を読みなさい。
 (2)は横浜湊高校のバドミントン部員水嶋亮を主人公とする青春スポーツ小説「ラブオールプレー」からです。私も研究室で遊んだことはがあるが、正式の試合では、野球物やテニスの「プレー、ボール」に相当する審判のかけ声が双方ゼロという「ラブオール、プレー」とは、この本を読むまで知らかったね。
平成23年
   未年女、羊を食らう
           角田光代

<略> 我が人生に、いつ羊肉が介入してきたかといえば、三十歳過ぎ、異国を旅したときである。
 それまでにも、札幌を旅行してジンギスカンを食べたことはある。でも、おいしいな、とは思ったけれども、愛までは到達しなかった。羊への思いを愛に高めたのは、忘れもしない、ギリシャである。<略>
 以来、肉派の私に、愛する肉がもう一種類増えた。そしてなんという幸運であろう、私が羊への愛に目覚めるのとときを同じくして、東京にジンギスカンブームが巻き起こったのである。それまで、ジンギスカンといえば、タレに浸かった、独特のくせのある肉だった。ところがこのブームでポピュラーになったのは、タレに浸かっていない新鮮な羊肉。ギリシャで羊に目覚めた私が愛するのも、やっぱり、タレに浸かっていない臭みの少ない羊である。
 うれしいのは、このブームのおかげか、スーパーやデパートでもごくふつうにタレに浸かっていない羊肉を買えるようになったこと。ラムチョップばかりでなく、ショルダー、肩ロース、モモ、などと部位別に売っているのがありがたい。以前はスーパーでは丸くて薄い臭みのある肉か、タレに浸かったものしか買えなかったのだ。
 私がもっとも好きな羊の食べ方は、ただ塩、胡椒してグリルしただけのもの。あるいは、ニンニクとローズマリーとオリーブオイルをかけて焼いてもおいしい。羊カレーも煮込み料理もおいしいが、でも、シンプルなグリルにはかなわない。<略>

(2) 夏合宿、そして夏の終わり
           小瀬木麻美

<略> 俺たちは、こちらもわざとらしくもう一度深々と頭を下げ、「お疲れ様でした」と二人に声をかけてから、六人揃って歩き出す。しばらくしてこっそり振り返ったら、ずっと向こうに、裏門から出たせいで、駅への遠回りの道を並んで歩く二人の後ろ姿が見えた。
「輝、今日、ジンギスカンなの?」
「いえ、普通のバーベキューですよ、でも、遊佐さんは羊の肉がダメなんですよ」
 輝はにっこり笑ってそう言った。
「え? どういうこと?」
「苦手な食材で、嫌みをシャットアウトしたってことだろう」
 陽次の言葉に松田が答える。
 なるほど、しかし意外だ。合宿中の食事でも、遊佐さんは何でもうまそうにパクパク食べていた。好き嫌いがあるようには見
えなかった。
「羊の肉だけがダメらしいですよ」
「なんで?」
「遊佐さんが幼稚園の頃、家族で牧場テーマパークに行ったそうです」
 俺たちは、ふんふんと頷き、話の続きをうながす。
「羊や山羊と無邪気に戯れた後、おきまりの、名物料理のジンギスカンを食べたわけです」
 俺も同じような経験がある。意外にうまかった思い出しかないけれど。
「おいしいねとお母さんに言ったら、さっきの羊さんのお肉だよと言われたそうです」
「ああ、それはちょっとまずいな。さっきのっていうのがね」
松田が顔をしかめる。そういえば、松田もそういうところ気にしそうだ。
「で、つまり、それがトラウマになったらしいです」
「なるほど、あの人、そういう変に繊細なところあるかもな。でも輝って、どこからそういう情報仕入れるているんだ?」
「主に海老原先生ですが、機会があればみんなのご両親からも伺います。食べ物の好き嫌いや、怖いこと、嫌なこと、苦手なことなんかは試合の前のメンタルに影響しますから、なるべく避けられるよう特に細かくデータを取ります」
 はあ~っと、一斉にため息がもれる。
 つまり、輝の頭の中には、俺たちの欠点や弱みがたんまり詰め込まれているということだ。恐るべし、内田輝。<略>
 平成24年の(1)は今は昔、北大構内ではこういう札幌市民による大規模なジンパも開かれていたという実例、通信文化協会北海道地方本部のホームページからです。
 同ホームページによると、前年9月10日にも総合博物館横で親子167人、(337) 平成22年10月2日に152人によるジンパ(338) を開いたことがわかります。
 (2)はジンパをすることを「ギスる」ともう1段縮めた動詞を発明し、学校で堂々とギスる末恐ろしい高校生の話です。思うに彼等は中学生のときから、学区内の高校にの入学定員を調べ、俺たちを落としたら定員割れが目立ち、高校統合問題が起こるから落とす訳がないと遊びまくっており、警察のご厄介になるような事件を起こされないうちに送り出してしまおうと先生方も気配りしておるとか。ふっふっふ。
 こりゃ私の作り話だが、本の内容はオーバーではないそうだ。
 (3)は「イラストでよくわかる きれいな食べ方」という本に載っているジンギスカンの食べ方です。鍋の使い方がわからんという方々が食べ方指南を書けば、食べ方がよくわからん人々が買って読むということらしい。
 それで、鍋の縁に近いあたりを溝と呼ぶのは許すとして、肉を敷き詰めてから「タレを注ぐ」が理解できない。どうも筆者たちは味付きの存在を知らないらしい。まあ普通の羊肉を使うとして溝に入れた野菜から水分が出るまでとは、溝の底から湯気が出るくらい待てば、頂点の肉はもう焦げているような気がするが、どうかな。「タレを注ぐ」の溝の野菜かな。隙間なく置いた肉にタラタラと振りかけろというのか不明。「最初から鉄板を焦がさないことを心がけ」るとしたら、煮るしかないと思うね。こういう本もあるということです。
 (4)はですね、この年、北海道新聞創刊70周年を迎えたと、20ページの記念広告特集「ジンギス刊」を付けた。それに「ジンギスカン大好き!」と題して「北海道に縁のある著名な方々からジンギスカンにまつわるエピソードを語っていただきました。」とあり、小説家円城塔、TEAM NACS戸次重幸、元プロボクサー・タレント内藤大助、南極料理人西村淳、絵本作家・イラストレーターそら、フリーキャスター・気象予報士菅井貴子の6氏がそれぞれ執筆しています。
 皆紹介したいところだが、文学部同窓会のホームページ時代に記事転載で、道新にお詫びした前科もあるから自重して、マトン好みの戸次さんのコラムの一部を引用させてもらい(3)にしました。
平成24年
(1) 絶好の空模様の下で北大ジンパ
    札幌市内の局長ら230人参加
           通信文化協会北海道地方本部

 通信文化協会北海道地方本部主催の北大ジンパ(ジンギスカンパーティー)が8月18日に開かれ、参加者たちは緑したたるエルムの森で舌鼓を打ち、鋭気を養いました。今年で3年目のジンパには、今秋から始まる統合に向けて力を合わせて欲しいとの願いを込め、日本郵政グループ各社に参加を呼びかけたところ約230人が応じました。<略>  その後、農学部前の芝生にセットされたシートを敷いた45個の七輪席に、交流のため郵便局と支店、両支社などの参加者を5人1組に割り振り、鍋を囲んでもらいました。「心をひとつに」と書かれた横断幕を背に佐渡本部長が「地域のためになる郵政事業の新たな組織、歴史づくりに、お集まりのみなさんがこの横断幕と同じ想いで再び挑戦して欲しい」と呼びかけ、全員で高らかに乾杯の声をあげました。
 肉や野菜類が焼け、ビールが進むにつれて各席はにぎやかになり、時折日が差す絶好の空模様に一層拍車がかかった様子でした。お昼には同大経済学部教授から札幌国際大学に転じ、北大関係者に限られた会場使用を仲介した濱田康行学長も顔を出しました。通信文化協会のシニア会員でもある濱田学長は「北海道郵政局時代にはセミナー講師などでお世話なり、この秋からの統合にも関心を持っています。道民に欠かせないインフラとしての郵便局づくりに力を合わせて欲しい」とエールをおくっていました。<略>

(2) 夏は屋上でBBQを楽しみ
   冬は教室で鍋パーティを開催
           日本底辺教育調査会

<略> 実は、この校内バーベキューを行っているド底辺高校はほかにもある。しかも、地域色が出るのが特徴だ。
「ウチはジンギスカン。1kg1000円以下の安いラム肉は簡単に手に入るし、野菜は最低モヤシさえあればOKだから。アルミに製の使い捨て鍋だって300円で売っているし、友達とシェアすれば1人300~400円で食える。月に2~3回は屋上で〝ギスる(=ジンギスカンを食べる)〟かな」(北海道の公立2年男子)
 なお、雪が積もる冬場はさすがに屋上に
は出られないため、教室で鍋を囲むとか。
「卓上式のガスコンロを持ち込んで、石狩
鍋やキムチ鍋なんかはよく食ってますね。
みんなで食材を家から持ち寄れば、これも
お金はほとんどかからない」(同)
 しかし、火災の危険を恐れた学校側は、
教室の壁に「コンロ持ち込み禁止」と貼り
出したという。
「仕方ないから、卓上の電気コンロに代え
ましたよ。学校は鍋がダメと言ったわけ
じゃないし、ただ、ガスコンロに比べると
雰囲気が物足りないですね」(同)
 学校側は「鍋禁止」と貼り出さなかった
ことを後悔しているに違いない。

(3) ジンギスカン
           ミニマル+BLOCKBUSTER

 ジンギスカン 北海道を代表する郷土料理「ジンギスカン」。極上の肉汁に包まれた羊肉と野菜の組み合わせは絶品! だけど、あのドーム型の鉄板の使い方、実はよくわからない……。
スマートな食べ方
1 野菜を敷き詰め、肉を焼く
 野菜をすべて溝に入れ、その後、鉄板に隙間
 なく肉を置く。野菜の種類はさまざまだけど、
 最も一般的なのはモヤシだよ。
2 上からタレを注ぐ
 溝にたまった野菜から水分が出てきたら、
 タレを注ぐ。肉は色が変わってくるまで
 放っておき、焦げ目がついたら裏返す。
3 お肉の色が変わったら…
 3分くらいして肉の色が変わったら食べ
 頃。ずっと放置してするとカタくなるので、
 注意しよう。
4 お肉の追加は食べてきってから
 肉を食べきったら、すぐに肉の追加をせ
 ず、溝にある野菜を鉄板にのせて食べる
 など、 鉄板を空にすること。その後は①
 と同じ手順で追加の肉を焼こう!
5 シメまでおいしく
 うどんは溝に入れて煮込みつつ、たまに
 鉄板の上にのせて焦げ目をつけたりする
とおいしくなるよ。溶いたたまごをつけ
て食べるとまろやかなお味に!

鉄板を焦がすと、うどんの味が焦げ臭くなるなどイマイチのものに……。おいしく
食べるためにも、最初から鉄板を焦がさないことを心がけよう!

(4) 臭くないジンギスカンの
      何がジンギスカンだ
    TEAM NACS 戸次重幸

<略> 30歳を過ぎ東京
に出てから<略>
「ジンギスカンは臭い
がキツ過ぎてダメ」という
意見を聞いたときの「?」
という想いが忘れられな
い。冷凍のしかもいろんな
部位を混ぜ合わせ、円柱型
になったマトンのジンギス
カン。それを子供の頃から
食べ続け、正直その臭いが
臭いとも感じられなくなっ
ていた生粋の道民たる僕に
とって「ジンギスカンはダ
メ」という意見そのものが、
本当に何を言っているのか
分からなく、腹立たしいと
さえ思っていた。
 しかし、これも30歳を過
ぎ、沖縄に行った際初めて
ヤギの肉を食べた時、なる
ほど本州の人にとってのジ
ンギスカンは、道民にとっ
utてのヤギみたいなものかも
しれないと納得した。沖縄
の人は、ジンギスカンの何
倍も強烈な臭いのするその
ヤギの肉を「ヤギはこれぐ
らいの臭いじゃないと旨く
ない」と言う。まさに我々
のジンギスカンに対しての
想いと同じじゃないだろう
か。それからジンギスカン
がダメという人に対しても
優しくなれた気がする(笑)
 今では臭いの少ないラ
ム、しかも生ラムが主流に
なりつつあるジンギスカ
ン。そんな風潮もジンギス
カンの普及のためには仕方
がないと思っているが、沖
縄の人にとってのヤギのよ
うに、僕もある程度はジン
ギスカンに臭いを求めてし
まう。生ラムの美味しさを
認めた上で、それでも「臭
くないジンギスカンの何が
ジンギスカンだ」という想
いがあるということ。だか
ら僕にとってベストなジン
ギスカンのお店は、生ラム
も生マトンも、なんなら臭
いのキツくなる冷凍マトン
も全て置いてあるお店とい
うことになる。<略>
 平成25年の(1)は、ジンギスカンが北海道名物になったのは、敗戦で満洲から引き揚げてきた人々が開拓民として道内に入植したことが関係しているという変わった見方の「日式中華の起源」からです。
 「ちくまweb」によると、新井氏は明治大教授で中国語でも本を書き、中国料理の本を2冊も書いている方(339)だが、日本の羊肉食普及の見方は違うね。農林省、畜産団体、糧友会などが戦前、くさいなどと敬遠されていた羊肉を食べる新たな習慣づけを図り、普及活動を展開した時期があったことと、戦後の一時期、道内には50万頭も緬羊がいたことを無視した見方だと私はいいたい。
 私は満洲育ちで、新京(いまの長春)東光在満国民学校時代の同期生たちとの旅行会で月寒羊ヶ丘に案内してジンギスカンを食べましたが、皆新京では食べことがない、初めてだと喜んでくれました。満洲に住んでいた日本人全員がジンギスカンを知っており、食べていたとは限らないのです。餃子を焼いて食べるものにしてしまったのも同じ、あれは蒸すのが本式だと私は信じとるんだがね。
 (2)は札幌の光塩学園女子短大食物栄養科の前田和恭教授の「北海道遺産になったジンギスカン料理」からです。なにしろ22ページもの大論文でね。羊の種類、羊肉、羊毛、羊乳、羊の生産国と輸出国、肉の部位、栄養価、食肉の歴史、処理法、食肉の組成、料理法、世界の羊肉料理ときて、やっと「ジンギスカン料理の誕生、発展、定着」となる、いわば羊大事典です。
 命名者については、引用したように日吉良一の「誰言うとなく成吉思汗料理と云うに至った。」が妥当かとしながらも「ジンギスカン料理が何時、何処で、どのような経過で誕生したのか、命名者は誰か、その何れについても明らかではない。わが国の歴史や北海道の風土と絡んで推測はされるものの、正式な調理法とともに確定した説はない。」(340)要するにわからん―ですな。
 また「ジンギスカン料理の歴史は浅く、本格的に食べ始められてからまだ60年であり、ワイルドな野外料理といった性格が強く、わが国の料理を記した専門書には全く記載されていない。」(341)とあるが、例えば光塩学園の創始者南部あき子がジンギスカンを書いている平成2年の「北の食卓 四季のおかず」は、専門書の範囲に入らないのかね。
 南部さんは翌3年「光塩学園女子短大紀要」に「これからの日本人の食生活についての一考察」を書き「北海道を旅行する若者たちに人気の高いジンギスカンなべは、羊肉と野菜をカブトの形をした鉄器で手早く焼いて、独特のたれをつけて食べる野外料理である。このたれは、羊肉の臭みを消し、また、家々の主婦の秘伝のものがある。野菜は北海道特産のジャガイモ、カボチャ、トウモロコシなどが入る。」(342)と書き、レシピがあるんだなあ。ふっふっふ。
 (3)は65歳でもアンビシャスをもって頑張ろうと励ます本です。私はこの本を読んで、北大同期入学の三浦が書いた本なら、マトンなら1キロ、ラムなら2キロはいけたね―なんて、勇ましいことを書いてることを期待して彼の「75歳のエベレスト」を読んだらね、簡単すぎて当て外れ。私の見落としがなければ「当時は札幌に住んでいたが、外で食事をする機会が多かった。ジョッキでビールを五杯飲んで、ああ、元気です、という調子で、飲み放題、焼肉、ジンギスカン食べ放題の世界。」(343)だけでした。
 (4)はノンフィクション作家、北野麦酒の「蒐める! レトロスペーズ・坂会館」です。私がジンパ学の研究を始めたころ、坂会館にはジン鍋が沢山あるので、大いに勉強させてもらった。それで全鍋の重さ、直径、頂点と縁の高さ、周環の雷紋の有無、取っ手の形など10種ぐらいを測定、ジン鍋の平均値を求めようとしたことがあります。脂落としのすき間、皆さんが溝とか隙間と呼ぶあれの形も大事と撮影した。ところが真上からでは皆同じよう写り、諸データも写真との対応をよく考えずに記録したため、結びつけられず失敗、そのまま温存しております。
 それらのお礼じゃないが、私の古いニコン、もらった古いラジオも寄付した。直熱型真空管のラジオでね、進呈する前に家でテストしたら音が出なかった。それでスイッチを入れ、この通り故障品だが、見せるだけだからいいでしょうと説明していたら、突然鳴り出した。私としたことが、直熱型のラジオは音が出まで暫くかかることを忘れていた。自然体な人、坂さんは岩見沢のジン鍋博物館の名誉館長でもあります。
 (5)は8冊はある岡田哲著の何々事典の中の「たべもの起源事典」からです。まず「モンゴル軍の兜」は永久不変というわけはないでしょう。時代によって戦闘形式が変わり、兜の形も変化したでしょう。烤羊肉の鉄製の肉載せ器の形は、皆同じではなかったので、初めて見た日本人は鉄弓とか鉄条とか鉄棒を並べたものとか様々に表現してます。
 「ジンギスカンなべ」という呼び方が現れたのは大正3年というのが尽波説で、始めにジンギスカン鍋ありき―ではないんですなあ。さらに調べれば「モンゴル兵の鉄兜のような鍋」と初めて書いた人も見つかるかも知れないから、岡田さん、お待ち下さい。ハッハッハ。
 昭和6年の久保田万太郎たちの由比ヶ浜ジンパから濱町濱の家とつながったように、東京の方が先に「見られた」のに、それに触れず「北海道のジンギスカン料理は,昭和初期に見られる」としたのは、岡田氏はジンギスカンの起源は北海道と見ているからではないかな。
 岡田氏が翌年出した「たべもの起源事典 世界編」では、食べ物の種類が激増するせいか、ぐっと圧縮して「日本では,第二次世界大戦後に,北海道の滝川道立種羊場が始め」とある。つまり第二次大戦以前に、何国かで始まってた「たべもの」ということなんだね。
 (6)は、北海道博物館学芸部長の池田貴夫氏が北海道開拓記念館の学芸員だったとき出した本「なにこれ!? 北海道学」からです。道産子や道内に長くいる人々の常識であり普通のことでも、本州育ちの人々から見れば、まったく変だと感じることが多々あるんだね。
 私もそういう分類でいけは中学高校だけの本州育ちで、八戸では冬にブルジョアは石炭ストーブ、学校や貧乏宅は薪ストーブを使うのが常識なのに、札幌に来たら逆でブルジョアが薪、プロレタリアは石炭だったのにはちょっと驚いたね。
 (7)は乾ルカの「メグル」からです。北大構内の描写が詳しいと思ったら乾氏は藤女子短大出身でした。この小説に出てくる学生部は、百年記念館の向かいの木造2階建てというから、私の学生時代の大学本部だね。学長室は2階にあった。1階にあった厚生課がバイトや住居の斡旋をしており、私もご指名でお世話になったりした。
 その学生部にたまたま入ってみた橋爪は、ただ食事をするだけで時給5000円、6日間のバイトを勧められた。金に困っていたわけではないが、橋爪は引き受けた。この不思議なバイトの依頼者は資産家の独身男性、趣味でレストラン顔負けの御馳走を作る。
 橋爪は小食でトラウマもあり余分に食べると吐き気がする体質で、初日は食べきれず持て余した。それで橋爪は2浪同士で親しくする大食漢の小泉に御馳走を食べるバイトを譲り、2人で依頼者宅へ行き、小泉が食べている間、橋爪は別室でテレビなどを見て過ごすことにした。
平成25年
(1) 日式中華の起源
           新井一二三

<略> 北海道名物ジンギスカン鍋が、北京料理烤羊肉の変
種であることにも疑問の余地はなさそうだ。中心部が
丘状に盛り上がり、周辺に転落防止の塀がついたよう
に見える鍋の原型も彼の地にはあるので、訪中の際に
はぜひ、北京什刹海銀錠橋のたもとにある「烤肉季」
に行き、二階の窓から湖面に映る柳の風情などを楽し
みつつ、本場の上品で繊細な烤羊肉をお楽しみいただ
きたい。あのあたりは清朝時代、旗人とよばれた満州
貴族が住んだ閑静な住宅街で、看板にある「烤肉季」
の文字は、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟、溥傑
が書いたものなのだ。<略>
 北京の羊料理が日本に伝わったのは、二十世紀の日
中戦争で、日本軍による北京の占領が八年におよび、
多くの日本人が終戦まで現地で暮らしていたことが関
係している。そして、特に北海道に伝わったのは、国
策で入植した「満州国」から引き揚げた人たちの中に
は、帰国しても内地に落ち着くべき故郷を持たず、再
度国内植民地たる北海道に開拓民として向かったケー
スも少なくなかったことが背景にある。引揚者が伝え
た料理といえば餃子だが、標準中国語のジャオズでは
なく、山東なまりのギョウザとして日本で広まったの
は、「満州国」の漢族住民に山東省出身者が多かった
ためで、ジンギスカン鍋の来歴にもつながる話なので
ある。<略>

(2) (2)命名
           前田和恭

 昭和51年(1976年)、吉田博は「農家の友」の「成吉
思汗料理物語」において、羊肉利用の萌芽は大正時代で
あり、調理法は、当時満州鉄道の公主嶺農事試験場畜
産部が創り出したもので、命名者は満州鉄道調査部の駒
井徳三、その時期は昭和初期と記している。
 駒井徳三の娘である藤蔭満洲野は昭和38年(1963年)、
「月刊さっぽろ」に「父は名前をつけることが好きで…
(中略)…ジンギスカン鍋も蒙古の武将の名をなんとな
く付けたのかも知れない。」という文を寄せている。葵
会の「札幌の食いまむかし」においても同様である。北
海道新聞の北海道立中央農業試験場研究員高石啓一への
取材記事「ルーツを探る」においても、日本軍の満州進
出にからみ、「烤羊肉」をヒントに工夫された料理であ
るとし、幻の義経伝説に連なるChinggis Khanの名前
が付けられ、命名者は札幌農学校出身の駒井徳三ではな
いかとしている。
 一方、日吉良一は、前述の陸軍糧秣廠の外郭団体であ
る糧友会理事丸本章造がかつて満州で食した「烤羊肉」
について記した文章「…誰言うとなく成吉思汗料理と云
うに至った」から、その文章通り、当時、現地で誰とい
うことなく言い出したものではなかろうかと推察してい
る。昭和38年(1963年)の「たべもの語源」の中の
「ジンギスカン鍋」においても、駒井徳三説を示しつつ
も同様の説を述べている。
 両者の中国における活躍地域と時期から考えて、日吉
良一説が妥当のように思える。

(3) 年齢にとらわれない生き方
           岩崎日出俊

<略> もっと身近な例では、75歳でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんがあげられるでしょう。
「いや、三浦さんは若い頃からスキーと登山で鍛えていた。冒険家と我々一般人とは比較できないだろう」
 そう反論する方もおられるかもしれませんが、三浦さんも簡単にエベレストに登れたわけではありません。彼の著書『75歳のエベレスト』(日本経済新聞社刊)を読むと、50代の三浦さんはビールを飲み放題、ジンギスカン料理を食べ放題の生活を送り、気がついたらメタボ体型。60歳を過ぎる頃には身長165センチ、体重82キロ、体脂肪率40パーセント、血圧は200近くになっていたとか……。検査数値から見れば立派な成人病患者で、「このままでは長生きはできない」と医師から宣告されるまでに至りました。
 ここで最初に三浦さんの頭に浮かんだのは、体を治して冒険生活からは引退することだったそうです。しかし彼は、65歳になってその考えを覆します。普通の65歳の体に戻るだけではなく、20歳の頃に夢見たエベレスト制覇を70歳で果たそう、と決意したのです。<略>

(4) 誤解を招く場所
           北野麦酒

<略> そうなると、ここにはないものがない、といった方がいいのかもしれない集められるものは
すべて集めましたといえそうだ。それほどさまざまなものがここにはある。しかも、ここにあるものは幅広く、まったくジャンルは問わない。一見、主張はなさそうなくらい幅広い。ひとりの人のコレクションとは思えない。
こんなものもと驚いたのが、ジンギスカン鍋だった。

【ジンギスカン】 北海道といえばジンギスカンだ。ラムやマトンをタマネギやもやしなどと一緒に焼く羊肉料理。肉をタレに漬け込むやり方や後付けタイプがある。当初は綿羊を食用として活用するために、ジンギスカンが普及したといわれる。

 北海道といえばジンギスカンだ。北海道のソウ
ルフードとよくいわれる。かつてはどこの家庭に
もジンギスカン鍋はあったという。いまでは、家
庭にはなくなってしまって、今、家庭でこういう
ものを使う人はいない。コレクターがいた。
「ここには、何十枚もあるよ」という。
「大通公園のところの教会のものだというんだが、
十字架になっていて、教会が特別に作らせたもの
だとか」と、珍しいジンギスカン鍋を示しながら、
坂館長は話した。
「苦労して手に入れたものなどない。私、無理し
てやったりとかはない。若いと、せっせと血が上
ってやるけど、もう若くないから、実際に自分で
使ったものだから。いま簡単に手に入るものも十
年後にはなくなる。そのときにはあったんだよ」という。
<略>

(5) じんぎすかん(成吉斯汗)
           岡田哲

じんぎすかん(成吉斯汗)
北海道の名物郷土料理.中国
北方の涮羊肉カオヤンローと調理法式が似
ている.モンゴル軍の兜のよ
うな鉄製のジンギスカン鍋で,
羊肉の付け焼きをする.英雄
のジンギスカンは,13世紀
のモンゴル共和国の始祖であ
る.北海道のジンギスカン料
理は,昭和初期に見られる.
1935年(昭和10)に,農林
大臣官邸で,ジンギスカン鍋
ま試食会が行われる.1937
年(昭和12)に札幌市内の
レストラン・横綱に,初めて
ジンギスカン鍋が現れる.第
二次世界大戦後に,滝川市の
道立種羊場が,緬羊飼育を奨
励すると,北海道の名物料理
となる.札幌市月寒の料理も,
よく知られる.脂の多い羊肉
を,ジンギスカン鍋で焼くと,
余分の油が落ちて美味しくな
る.タマモギ・ピーマン・モ
ヤシ・ニンジン・ナス・ジャ
ガイモを焼いて,好みのタレ
を付ける.タレは,かなり凝
っていて,醤油・砂糖・ニン
ニク・唐辛子・リンゴ・ニン
ジン・タマネギを組み合わせ,
羊肉の臭いを消し食べやすい.
焼いてからタレをつけてもの,
タレに漬けこんだ羊肉を焼く
ものの2種類がある.

(6) バケツでジンギスカン?
           池田貴夫

 私はジンギスカンがあまり得意では
ない。それは、肉の味がうんぬんとい
う理由からではなく、焼き方の違いが
大きいと思っている。
 埼玉出身の私がこれまで培ってきた
焼き肉の食べ方と、どうも合わないの
である。自分の陣地を確保し、肉一
枚を丁寧に焼き、食べてから次
の一枚をまた丁寧に焼く。こ
れが、私にとって肉を焼く
ペースだったからだ。
 数年前、私の父が埼玉から友人を連
れ、北海道にゴルフに来た。夜は、私
も交えてのジンギスカン。皆、肉を一
枚一枚丁寧に焼いていた。思わず笑っ
てしまった。
 とはいえ、鍋の形も食べ方も、北海
道の人々が長年をかけて試行錯誤を重
ね、築きあげてきたことだろう。そ
の営みの歴史に、敬意を表さずに
はいられない。
昭和初期、羊毛の必要
に迫られ、北海道
で羊の飼育が奨励
されていた。その
際、羊毛だけでは
もったいなかった
ため、さまざまな羊
肉の料理法が紹介さ
れる。その一つがジ
ンギスカンであったと
される。そして、ジン
ギスカンは北海道を代
表する食文化として、
内外からも認知されるに
至ったのだ。<略>

(7) タベル
           乾ルカ

<略> 授業中に嘔吐したせいで、中学三年間『ゲロリーマン』と呼ばれ、虐げられ続けてきた事実を打ち明けると、小泉は「だっせーあだ名だな」と笑った。橋爪は腰を下ろした中央ローンの芝を毟ってそこらへ投げた。ローンの西側では、十名ほどの集団がジンギスカンをしている。その匂いが橋爪たちの近辺まで漂ってくる。
「で?」
 抹殺したいとまで思いつめていた屈辱の出来事を話し終え、大きく息をついた橋爪に小泉は続きをせがんでくる。橋爪は眉をひそめた。
「で、ってなによ?」
「だから、その後」
「おまえ、ちゃんと聞いてたのか?」橋爪は呆れた。「あのたった一日で、俺はゲロリーマンになってずっと中三までからかわれた。その後なんかねーよ、あったら自殺してるよ」
 すると、小泉は随分と拍子抜けしたような、どこか呆けたような顔になったのだった。「まさかそれだけのことで、食わないとか言ってんの?」
「それだけ?」小泉の反応を橋爪は極めて無神経だと思った。「俺にとっては最悪のトラウマなんだよ。どんどん具合が悪くなっていくあの感覚も、教室でゲロを吐くっていう屈辱も、クラスの皆の反応も、全部忘れられないことなんだよ」
 バン、と大きな音がして、ジンギスカンのグループがざわめいた。花火を始めたらしい。YOSAKOIソーランの練習は終わったのか、音楽はいつしか止んでいる。
 夜風がローンの中央部に立つ楡の枝葉を揺らす。見えないがきっとポプラの綿毛もゆらり舞っているのだろう。
 平成26年の(1)は前年に続く岡田哲著「たべもの起源事典 世界編」からです。こう切り詰められると、ジンギスカン鍋は先頭の「北京料理の羊肉の付け焼き」のことだとわかる。それで「日本では,第二次世界大戦後に,北海道の滝川道立種羊場が始め」た「たべもの」であり、かなり変ってはいるけれど「北京の羊肉の付け焼」が起源なのだよと教えて下さるわけだ。
 ジンギスカン大好き人間は「羊肉を焼いて主食にする」地域はどこか岡田さんに聞いてご覧とか、事典と名付ければ図書館向けに確実にある部数が裁けるから、出版社も安心して出せるだろうなんて、私は余計なことはいいませんよ。
 (2)は北大柔道部OBの作家増田俊也が入部したときの主将和泉唯信と対談「思いを、繋げ」からです。講道館柔道とは全く違う七帝柔道の稽古に励んだ思い出話だが、竜沢という部員がジンギスカンがトラウマになった原因は両人とも熟知しているからワガママだったなで終わっている。それで私は増田がこの本の前に出した「七帝柔道記」に書いてあるんじゃないかと読んでみた。
 ところが「新入生歓迎ジンギスカンパーティ」1回と「ジンギスカンパーティ」2回、「ジンギスカン」「滝川ジンギスカン」各1回と計4回、ジンギスカンという単語が現れるだけで竜沢のトラウマはわからん。
 それで今は20歳未満の1年目には飲ませないが、増田が入学した昭和59年ころは飲ませており、柔道部の新入生歓迎ジンギスカンパーティでは1年目に上級生が焼酎を飲め飲めと勧めた。
 増田は「朦朧とした頭で、そうか、最初から酒で潰すつもりで一年目のぶんの肉は買っていないのだと気づいた。許せない――。十六杯目を飲み干したところで立ち上がり、走って逃げた。」(344)ため10時間で目覚めたそうだが、1年目全員が部室に寝かされていた。ですから竜沢は翌日起きれないくらい参って羊肉嫌いになったと想像しました。
 (3)は時期ははっきりしませんが、池辺はテレビドラマで、女優の木暮実千代より年上なのに息子の役をやったことで、お母さんのいうことを聞きなさいと木暮に「あたしの伯母が荻窪でジンギス汗鍋のお店を始めたのよ。」と成吉思荘へ行くよう命じられ仲間の俳優2人を連れて食べに行った思い出です。
 木暮は成吉思荘を経営した松井家の親類だったので、その宣伝もしていたようで、三船敏郎や大木実といった俳優たちも食べに行った。私は松井統治さんから彼等がふざけ合っている写真などを張ったアルバムを見せてもらったことがあります。
 木暮は新聞記者の和田日出吉と結婚し、和田が大新京日報の社長になったため満洲に渡り、戦後引き揚げてカムバックしましたが、蒙古ではこうだったと語った成吉思荘の女性が木暮のいう伯母さんかどうかわかりません。ただ570字枠で割愛した所に、この女性が女将だと名乗ったとあるので、黒川鐘信著「神楽坂ホン書き旅館」に「成吉思荘が戦前よりも繁盛したので、女将として先頭に立ち、二長町時代より何倍も忙しい日々を送っていた」とある和田津る(345)だったかも知れません。
 それから日出吉さんですが、雑誌「政界往来」の昭和32年11月号に随筆「ノーマン大使との邂逅――ヴァンクーバーと東京で――」を書いている。それによると、和田さんは昭和30年にバンクーバーで軽井沢生まれのカナダの外交官ノーマン氏に会い「私達の家には私達が満洲にいたころから、自慢の成吉思汗鍋と云うのがある。それを東京でお目にかかつたとき御馳走しましよと約束した。日本通のノーマンさんも成吉思汗料理のことは知らなかつた。」(346)と書いています。その後、ノーマン氏は駐エジプト大使になったけどカイロで自殺、和田家を訪れることはなかったのです。
 資料その16は雑誌「近代映画」が掲載した和田夫妻が力士を招いたジンパの写真をです。もちろん自宅の庭ですが、大判のジン鍋なのでコンロ上からはみ出してるね。
資料その16
 最近すつかり相撲ファン(マニアかな?)になつてしまつた木暮実千代さん
 真夏のある夜、西荻窪の自邸へ。一群の関取りを招いてなごやかな宴を催しました
 双葉山関、若葉山、鏡里、不動岩と云つた諸氏が集い、中庭は時ならぬ賑いを呈しました
 ご主人の和田さん、篝ちやんも大喜び
当夜の模様は本文に
 キャメラ・長島勝人
(以上は写真7枚が並ぶページ全体の説明)
(347)
 (4)はマット・グールデングが書いた長い名前の本「米、麺、魚の国から アメリカ人が食べ歩いて見つけた偉大な和食文化と職人たち」です。英文のウィキペディアによると、著者のマット・グールディングは「スペインのバルセロナを拠点とするアメリカのフードジャーナリスト、作家、プロデューサーである。 彼はメンズヘルス誌のフードエディターで、書籍シリーズとなったコラム「Eat This, Not That」を執筆していた。」(348)そうです。またYouTubeに函館のイカから始まるこの本を宣伝するための動画があります。2回写される左手で箸持つ男が、もしかすると著者かもね。
平成26年
(1) ジンギスカンなべ(成吉思汗鍋)
           岡田哲

北京料理の羊肉の付け焼き.モンゴル軍の兜を象り,表面
に溝のある鉄鍋で,羊肉・野菜を焼き,独特のタレを付け
る.モンゴル帝国の始祖ジンギス・カン(在位1206~27)
に因む呼称とする説がある.この地域では,羊肉を焼いて
主食にする.鉄鍋の表面の溝は,余分の油が火のなかに落
ちないように取り除く工夫で,肉の臭みが抜けてほどよく焼
き上がる.代表的な料理に,烤羊肉がある.日本では,第
二次世界大戦後に,北海道の滝川道立種羊場が始め,各地
に普及する.→ひつじにく

(2) VTJ前夜の中井裕樹
           増田敏也

<略>増田 ただ、和泉主将の時代の滅茶苦茶な練習量で本当に一年間で体もできたんですね。休養が全くなくて、ここまでやったらオーバーワークだと思ったんですけど、順応するんですね、人間って。すごく体が変わりました。僕が一年目のとき、ずーっと思っていたのは、ここである日突然、和泉さんのプレゼントで、「今日は技の研究だけじゃ、段取りなしじゃ」って言ってくれたら、この疲労が取れるのにって、一日だけでいいからって。でも妥協が全くなかった。朝から晩まですべて柔道。 練習の合間に、寝て、食べるだけ。
和泉 そういえば、山内さんのところは居酒屋(「北の屯田の館」)じゃけ、みんなずいぶん可愛がってもらって、ジンギスカンとか食わせてもらって...まあ、竜沢はジンギスカンにトラウマがあるからワガママを言って「豚肉!」とか言うとったけど(笑)。
増田 そう、コンビニで豚肉を買ってきて一人で焼いて食ってました。一年目から四年目までそれを通したていう(笑)。すごいですよ。傑物です。
和泉 はっははは。妥協しないワガママじゃねぇ(笑)。<略>
 
(3) ジンギス汗鍋
           池辺良

 <略>何度も涙を流すのは伯母さんの自由だが、そんなに美味しいと言う目の前の羊の肉は、いつ食べさせてもらえるのかと焦って、
「肉は兜に乗せて、自分勝手に焼いてもいいんですか」と小声で聞いたら、
「池部さん、いいことおっしゃいますね。
 ジンギス汗鍋と言っても、煮ものをするお鍋を使っておりません。蒙古では鉄串を使っておりますが、このお店を始めるとき焼き易いように、滴る脂を無駄なく使えるように私共で、おっしゃるように兜の鉢のようなお道具を発明致しましたの。切れている溝の脇に刻ってある溝に焼けたお肉の脂が流れ落ちまして兜の周りにある溝に溜って、そこに置いた野菜を炒めます。
 ジンギス汗鍋は、お客さま銘々で肉や野菜をお焼きになると、焼き頃、炒め頃が御自分の御自由ですから楽しゅうございます。
 では、ごゆっくり」と言った伯母さんは「包」を出て行った。
 ジンギス汗鍋を日本の秋の食べものの仲間に入れては些か無理と言うものだが、僕なんか東京に生れて育った人間は、人付き合いにしても考え方にしてもせこいところがあって、みみっちいやる瀬ない暮しに追われ勝ちだ。木暮さんの伯母さんが店の宣伝のためとは言いながら蒙古の蒼い高い空、草原、媚のない羊の肉の味には太古の悠久とおおらかさが偲ばれますと説明して下さったのが脳裏に焼きつけられた。<略>

(4) 北海道
           マット・グールデング

<略> しかし、私が探しているのは、ラーメンでも刺身でもカベルネワインでもカマンベールでもない。北海道で過ごす最後の日の真夜中、札幌では有名なジンギスカンを探し求めていた。その名前はマトンを焼く金属製のドームが、モンゴルの軍隊のヘルメットに似ているところからつけられたという。おそらく日本軍の衣類に使われた羊が北海道にはたくさんいたので、モンゴル軍はラムを楯やヘルメットで焼いたと想像して、こういう料理法と名前を考えついたのだろう。現在、何十軒ものジンギスカンの店が札幌にある。<略>
 マトンがジュウジュウ焼けているあいた、私は冷たいサッポロビールを飲む。明治時代になってすぐに、ドイツで勉強した北海道人が作った日本で一番古いビールだ。ザ・ビーチ・ボーイズの曲がスピーカーから流れているが、肉の焼ける音のコーラスで、ろくに聞こえない。肉が焼き上がると、私はヘルメットからとり、花びらのようなたまねぎといっしょに箸でつまみ、にんにくと唐辛子で味つけした醤油のたれに浸す。
 それは深夜のすばらしい食事だったが、肉を噛みながらさらに重要な質問をしたくなった。これまで日本で羊を見たことがないが、どんなふうにジンギスカン料理は札幌を征服したのか? 非常に男っぽい料理にもかかわらず、どうして店には女性しかいないのか?マトンの臭いをコットンシャツやジーンズからとるにはどうしたらいいのか? しかし夜が更けていくにつれ、臭いは服に浸みこんでいき、ビールは血液中をめぐり、納屋みたいな臭いのするマトンで目がチクチクしてきて、質問はきれいに消えてしまった。日本人食事客、アメリカ音楽、モンゴルの神話。筋が通る答えはひとつだけだった。これが北海道だからだ。
 平成27年の(1)は「47都道府県・肉食文化百科」からです。書名の通り食肉の消費量や牛豚鶏羊猪鹿などを食べる郷土料理を都道府県別にまとめた図書館向きの本です。北海道の羊肉はだいだい知られていることを書いています。
 ただ豚肉の項で根室の郷土料理として知られるエスカロップは「もともとは、子羊の薄切りソテーをトマト味のスパゲッテイの上にのせて、ドミグラスソースをかけた料理」(349)44ページだったとは知りませんでしたね。
 それで道内のことなら〝なんもかんも〟書く千石涼太郎の本を読んだら、最初は「牛の薄切り肉のカツレツをパスタ(スパゲッテナポリタン)の上にのせ、ドミグラスソースをかけたもの」(350)とあった。薄切り牛肉がどうしてラム肉だったことになったのか。
 とうやらナポリタンが微塵切りの竹の子ライスに変わったように、カツレツでなくハムソテーで試した店があり、その話が伝わるうちにハムがラム、子羊の薄切りに化けてしまったという尽波仮説はどうかね。千石君、もう一遍、本に書けるよ。ハッハッハ。
 (2)は東京農大教授の小泉武夫の「くさい食べもの大全」です。彼は「地球上で最も強烈なにおいをもった食べものは何か? そう聞かれたら、私は迷いなく『シュール・ストレミング』と即答する。そのにおいはもはや強烈を超え、悶絶するほどのとてつもない超強烈な臭気だ。(351)」と書いており、くさい度数は5つ星以上を付けている。5つ星は「失神するほどくさい。ときには命の危険も。」と評価している。
 ジンギスカンは「くさい。濃厚で芳醇なにおい。」と2つ星を付け「ヒツジ」としてモンゴルで塩を振りかけて食べた茹で羊肉は「あまりくさくない。むしろかぐわしさが食欲をそそる。」ので1つ星だ。
 小泉はアラバスターという臭い測定器を使いauという単位で強さを示すと、納豆368、焼いたクサヤ1267だが、シュール・ストレミングは10870で断トツ。(352)スウェーデンのホテルで缶を開けたら汁が噴出「私は呼吸困難と吐き気で、命の危険を感じたほどである。(353)」と述懐しています。
 実はね、私はこの缶の味見をしたことがあるんだなあ。元高校校長の大先輩が爆発物だと持ってきたので、外で後輩に開けてもらった。かなりの時間放置して、もう匂わないぞと同窓会室に持ち込み3人で賞味していたら、ガス漏れしてないかと隣室の学部長先生が飛び込んで来られてね、参りました。ハッハッハ。
 (3)はNHKの井上恭介プロデューサーが、食糧輸入の取材で知った世界の牛肉市場の変化を伝える「牛肉資本主義」からです。ジンギスカン好きにすれば、牛肉は関係ない、羊肉があればいいと思うかも知れないが、それは大間違い。中国では何千年も前から肉と言えば豚か鶏で、牛はほとんど食べず、ランクを付ければ豚、鶏、牛だったのに、近年、人々の価値観が変わり、牛、豚、鶏に変わったという。
 それで牛肉の需要が激増、中国商社が値上がりしても牛肉を大量に買うので、オーストラリアなどの牧場では羊より5倍もうかる牛に切り替えるため羊は減る一方、牛肉につれて羊肉も値上がりして、牛丼もジンギスカンも食べられなくなるというのです。
平成27年
(1) 知っておきたいその他の肉と郷土料理・ジビエ料理
            成瀬宇平、横山次郎

<略> 北海道の農家で、ヒツジを飼育していたピークは1945~19
55(昭和20~30)年で50万頭以上飼育されていた。現在の飼育頭
数は約4000頭にまで減少している。現在、ジンギスカン鍋の材料とな
る羊肉はほとんど海外からの輸入もので、北海道産の羊肉を食べれるのは
少数の高級フレンチレストランに限られている。羊肉のジンギスカン料理
は北海道のソールフードともいえるので、羊飼育農家は少しずつ飼育頭数
を増やしていくように努めている。
①ジンギスカン料理
 北海道の魚介類で握ったすしと同様に北海道の人が客をもてなす料理
の一つである。羊肉を中心とし、野菜などをジンギスカン用の特別な鉄製
の鍋で焼く料理である。北海道の各家庭では、ジンギスカン鍋か用意し
ていない家庭ではホットプレートを利用している。<略>
 現在のジンギスカンの調理には、溝のある独特のジンギスカン鍋が使わ
れる。ジンギスカン鍋の中央部には羊肉を、鍋の縁の低い部分は野菜を焼
くことによって、羊肉から染み出した肉汁が鍋に作られている溝に沿って
下へと滴り落ちて、野菜が味付くようになっている。つけだれにはすりお
ろしたりんごやにんにく、しょうがを入れる。羊肉を2~3時間たれに漬
け込んでから焼く方法と、味付けをしないで焼いて、タレをつけて食べる
方法がある。道北(旭川市、滝川市)では味付け肉を使用し、道央(札幌
市)、道南海岸部(函館市、室蘭市)、道東海岸部(釧路市)では「生肉」
を使うのが主流である。<略>

(2) 【ジンギスカン】 くさい度数 ★★
           小泉武夫

<略> 戦後は、主に北海道でジンギスカンがよく食べられてきた。旧満州から戻った人たちが広めたと思われるが、今でも北海道では、川原でのバーベキューといえばたいていジンギスカンだし、夏の海の砂浜でもテントを張ってジンギスカンを食べている光景がよくみられる。だから、北海道の人にとって、「ヒツジの肉がくさい」なんて話は不本意に違いない。しかし、ジンギスカンのように味の濃いタレをつけた食べ方でも、ヒツジの肉はくさいという人がいる。そういう人は、先にお話ししたようにラム(仔羊)肉を選べば、何の問題もない。
 個人的には、北海道の旭川市で食べたジンギスカンがうまかった。男山酒造の山崎志良さんが、酒蔵の前にある池のほとりで、私のためにジンギスカン・パーティーを開いてくれたのだ。やわらかいラム肉を秘伝のタレにつけて、ジンギスカン鍋で肉を焼き、心ゆくまで口に放り込んでもりもり食べたのだが、とにかくタレが絶品だった。その秘伝の中身を聞いたら酒粕を使っているとのこと。さすが酒蔵育ちの食いしん坊だ。それ以来、私も焼肉のタレをつくるときは、いつも隠し味に酒粕を使う。<略>
 このことを横浜の行きつけの屋台のおっちゃんに話したら、マトンの料理をメニューに加えてくれた。以来、ヒマを見つけてはそこへ通い、マトンとカストリで「うめーえ、うめーえ」と嬉しく酔っている。<略>

(3) 「すすきの」で気づいた異変
           井上恭介

<略> 雪の降りつもった路地裏を歩くと、 あちこちに専門店が見えてくる。「生ラム」と大きく書かれた赤い暖簾をくぐると、羊独特のにおい、ジュージューという小気味いい音が、あちこちから聞こえてくる。<略>牛と比べて割安でしかも旨いとの評判から、出張などで札幌を訪れる人も、羊肉に求めて、ジンギスカンの店に繰り出すことが多くなっていると聞くし、私自身もそんな感覚を共有している。<略>
「メーカーは違っても、みんな(羊肉を)値上げしてきていましてね。なかなか値段が下がらないと言っている。オーストラリアやニュージーランドで、困ったものです」
 ずっと割安だった「庶民の味」に突然起きた異変。「なぜだ、なぜだ」と追いかけ、世界各地に足を延ばしてその原因をたどっていくと、グローバル市場独特の奇怪な現象が突如姿を現した。壮大な「玉突き」が起きていたのだ。<略>
 私たちはニュージーランドの広大な放牧地を訪ねた。行けど行けども緑の大地が続く
見渡す限りの牧草地。<略>
「(羊と牛では)儲けの違いは歴然としている」
と、大転換に打って出た農家の男性は、語気を強めた。
「90年前の祖父の代から羊を飼ってきた。父も同様に羊を飼ってきた。しかし同じ面積であれば羊よりも牛を飼ったほうが、5倍以上利益が違ってくる。牛の方がコストはかかるが、それらを差し引いても、牛の方が羊よりもはるかに儲かるのです」
 平成28年の(1)は、これぐらい北大とジンパの関係を書いてくれれば、学問的には問題なしとしないが、日本一と褒めてくれたのだから黙過しよう。それから、この章には漫画が1ページあり、その1コマに羊ヶ丘のクラーク像の影絵があり「ちなみに有名なクラーク像(全身)は北大にはありませんのでお間違いのないように」とある。あっちのクラークさんが、なんで右手を挙げ西の方を向いておるか知っとるかね。あれはね、本物はあっちという謙虚なお姿なのだよ。ハッハッハ。
 (2)は国会図書館でキーワード成田で検索して見付けた本「成田歴史玉手箱」からです。前バージョンで話したかも知れないが、三里塚御料牧場記念館にね、鉄板に鉄棒の足4本を付けたこたつ櫓みたいな物体がある。外交団招待の際のジンギスカンを焼く専用とみて、写真を撮ろうとしたら、千葉県教育委員会だったか、文化財保護委員会だったかの許可がいると止められた。それは10年ぐらい前のことだったが、令和4年に道新日曜版にその焼き面だけの写真が載って資料その17として見せましょう。
 真ん中が幅広の溝になっている。ここで焼いて両サイドに揚げて皿に盛って出すのか、片側に積んで自由に取ってもらうのか、立ち会ったことがないのでわかりません。
資料その17

 足も入れた全体の写真は、三里塚御料牧場記念館を写した許多の写真の中の1枚に写っている。URLで教えたいが、そのサイトではリンクを断られたことがあるから、キーワード「なんとお召し機となる航空機の特別機は天皇利用の度に座席を取り替え、西陣織の特別席やベッドも運びこまれる」で出てくる写真の中にあるから、見たければ探しなさい。羊の形の白板の前にある簡素なテーブルがそれです。
 (3)の荒井宏明著「北海道民あるある」の著者略歴によると、同氏は札幌市内の大学で「情報資料論」などを教えておられるそうだから、北海道沿岸部の道民は匂いに関しておおらかでマトン臭なんか気にしない、だから後付けが好きなのだという調査報告類を知っておられるのでしょう。「『味付け肉』が滝川市で生まれ」普及するまで「内陸の地域」の人々も後付け派だったはずだがねえ。
 (4)小樽生まれ、大学生ながらテレビ番組制作に関わり、プロの放送作家になった瑞木裕の「どーでもミシュラン」からです。瑞木によると、日本のお茶の間にテレビが入ったのは東京オリンピックの前年というから昭和38年で「もう一つ、その頃まで北海道なのに家庭にはなかった物があります。それは、なんとジンギスカン鍋です。」(354)と自信ありげに書いている。
 私はね、日本緬羊協会から派生した日本緬羊株式会社が昭和25年から川型の鍋を売り出し、つきさっぷジンギスカンクラフが、いまもその改良型の鍋を使っているし、翌26年の北海タイムスに札幌の荒物店が鍋の広告を出しているので、精肉店の貸し鍋もその頃から始まり、それでジン鍋を知った家庭が増え、20年後半代から鍋持ち家庭が増え始めたとみていたのですが、こうはっきり書いた御仁は記憶にない。
 彼は「個人的な見解ですが」と断りながら中華料理の烤羊肉は日本兵が満洲から持ち帰ったという説は怪しい。成吉思汗鍋というが、中国の「鍋」は火鉢であり、おかしい。道内初の成吉思汗鍋の営業をした札幌の精養軒となっているが、それは今様のスタイルのジン鍋とは絶対に違うはず。そこで―引用した瑞木説を読みなさい。
 (5)は、いまや600枚近いジンギスカン鍋を所蔵する博物館、正式にはジン鍋アートミュージアム(略称鍋博)の溝口雅明館長、いや開館直前だったので、北星学園大学短期大学部教授の肩書きで日本経済新聞に書いたジン鍋随筆です。
 彼は「56年は私の生まれた年」と書いている。その年は我が輩が文学部を出た年であり、それぐらい年は違うが、彼が某シンクタンク所員だったときに知り合い、彼が立ち上げたパソコン通信の略称ヨコネットの仲間、さらにジンバ学の研究仲間としても永く、それで私は鍋博の顧問なのだ。
 字数の関係で引用できなかった末尾は「今月中旬に収集した鍋を展示する『ジン鍋博物館』を正式オープン(冬季休業)するが、『家ではもう使わないから』と鍋が集まるのは、さびしいことでもある。うまいジンギスカンをみんなでわいわい食べて、食文化を盛り上げていければいい。」(355)です。
平成28年
(1) 敷地面積&ジンパ実施率
    日本一(!?)の北大
           大沢玲子

 ジンパ(ジンギスカン・パーティー)はジンギスカンを食べるイベントのみならず、この地の文化なり!? そう思わせられる事件が2013年、ジンパの聖地・北大で起こった。
 さて、念のために解説しておくと、北大とはこの地で最もカシコい大学、北海道大学。「オレ、北大出身」と言う人にあったら、「スゴ~い!」と返しておくのが正解だ。
 前身は開拓のための人材育成を目的に作られた札幌農学校。東京ドーム約38個分(!)という日本一広いキャンパスには、歴史を感じさせるアカデミックな雰囲気の建造物やポプラ並木などがあり、人気の観光スポットでもある。
 この構内で春から秋にかけて、目につくのが、モウモウと煙をあげ、この地のソウルフード・ジンギスカンに興じる学生たちの姿。通称〝ジンパ〟と言われ、生協でも肉と野菜、鍋などがセットになったジンパセットが売られている。
 だが、その伝統風物詩に対し、2013年、大学から「マナー違反が相次いでいる」としてジンギスカン禁止令が出されたのが事の発端となる。学生側は一方的な禁止令に疑問を呈し、対策委員会を設立、SNSを使ったキャンペーン、署名活動をスタートしたところ、大反響。道新(北海道新聞)、北海道文化放送などのメディアでも報じられた。
 こうして話し合いの結果、新ジンパエリアの設置という妥結案に着地。2014年5月、1年2ヵ月ぶりに、ジンパが復活した。
 たかがジンパ? いや、されどジンパ。ジンパのない北大なんてありえないのだ!?<略>

(2) 下総御料牧場貴賓館
           成田歴史玉手箱
 
<略> 貴賓館は、牧場の経営責任者として明治政府に雇用されたア
メリカ人アップ・ジョーンズの官舎として両国(現在の富里
市)に建てられました。彼の退職後は牧場事務所として使わ
れ、明治21年に現在の三里塚へ移築されました。
 大正8年、新しい牧場事務所(現在の三里塚御料牧場記
念館)が完成すると、同館は、ギリシャ様式のホールを設ける
など内部を大改装し、各国大公使を招待する施設として生まれ
変わりました。昭和24年4月にイギリス代表者などを招待し園
遊会が開催されました。以後恒例となり、28年に第1回在京各
国外交団招待が開かれ、毎年開催(昭和34年は実施されてい
ない)されるようになりました。この行事は3日間にわたり、
多くの外交官やその家族が来場し、馬や馬車で場内を散策し、
昼食には牧場の新鮮な牛乳やジンギスカン料理を楽しみ、国際
親善の発展に大きく寄与しました。当時を知る三里塚の人々は
その時の印象を「各国の人々に大変好評だったのは、新緑の牧
場の風景とジンギスカン料理でした」と語っています。
 昭和41年7月、この地に新東京国際空港を設置することが閣
議決定され、翌年新牧場を栃木県高根沢とし、同44年8月に牧
場閉場式が行われ、約1世紀にわたる幕を閉じました。

(3) ジンギスカンは「漬け派」? 「あと付け派」?
           荒井宏明

相容れない関係。それはジンギスカンの「あらかじめタレに漬け込んでお
く派」と「焼きあがってからタレを付ける派」です。この2派は物理的に
一緒に食事ができません。そもそも肉をタレに漬け込んだ「味付け肉」は
滝川市で生まれました。滝川のように内陸の地域では「漬け派」が多いよ
うです。かつてジンギスカンといえば「マトン」(成羊肉)が主流で、内陸
の人たちはこの独特の匂いを避けようとタレを漬け込んだようです。一方、
沿岸部は魚文化によって匂いにおおらかなことから、あと付けを好んだと
いわれています。札幌では会員制のジンギスカンクラブが臭みのないマト
ンを出し、あと付けで食べていたのがジンギスカンのはじまりでした。で
すから、札幌および周辺ではあと付け派が優勢になっています。いまはラ
ム(子羊肉)が主流で匂いを気にする人は少なくなりました。

(4) 成女思匂汗鍋(ジンギスカン鍋)
           端木裕

<略>筆者は勝手にこう思うことにしています。たぶん、現在のスタイルのジンギスカン鍋の成り立ちは、港町・小樽市とニュージーランドの南島にあるダニーデンという港町を結ぶ航路ができ、友好都市として頻繁に行き来することになって物資を安易に運ぶことが出来るようになり、超安い冷凍マトンが北海道に入って来るようになったからだと思います。その頃の輸入関税についてはあまり詳しくは知りまぜんが、当時のお肉屋さんの値段の記憶を紐解くならば、豚肉のロース薄切り肉の値段が百グラム八十円だったのに対して、マトンの肉は百グラムニ十円を切っていて十六円という安いお店も多くありました。鶏の小間切れと同じくらいの値段だったと思います。<略>
 しかし、ジンギスカン鍋という料理が北海道民の心を鷲づかみした要因は、もう一つあったと思います。<略>それはベル食品が発売した成吉思汗のタレ、道産子が呼ぶ「ベルのタレ」でした。何が凄いかと言うと、実は「ベルのタレ」はマトンの臭みを抑えるというよりは、臭みの個性を生かして旨さに変えていることです。だから、韓国焼肉のタレやバーベキューのソースみたいに甘さや辛さ、スパイスやニンニクなどが自己主張して食材の臭いを抑えるのとは真逆に、あっさりしているんです。それはまさに、相手の力や癖を利用して己のカに変える「食の合気道」という感じでしょうか。

(5) ジンギスカン 鍋も味わい
           溝口雅明

 羊肉を焼いて食べるジ
ンギスカン。真ん中が盛
り上がった特徴的な形の
専用鍋をご存じの方も多
いだろう。北海道ではな
じみ深い料理で、鍋を持
っている家庭は多い。私
は古い鍋に興味を持ち、
およそ10年で約150枚
が集まった。収集を通じ
て食文化や道具の移り変
わりが見えてきた。
 私は夕張の北にある万
字炭鉱の商店街で育っ
た。肉といえばジンギス
カン。羊肉は割安でもあ
り、長年日常的に親しん
できた。50歳の頃、この
料理のルーツを研究して
いる旧来の知人に協力し
ようと、実家で古い鍋を
探したのが始まりだ。4
枚が見つかり、2枚は古
新聞に包まれていた。

  ◎ ◎ ◎
 精肉店にレンタル鍋

 1枚のさびを落として
油を塗ると「ベル食品」
の文字が浮き出てきた。
ジンギスカンのタレの有
力メーカーだ。調べると
同社は約60
年前にレン
タル鍋を作
って精肉店
に置き、羊
肉を買った
お客さんに
貸し出して
いた。
 当時は家
庭でしょう
ゆや薬味を
混ぜてタレを作ってい
た。鍋はベル食品が発売
したタレを普及させる宣
伝の役目があったのだ。
そして食料品店だった私
の実家に、鍋が捨てられ
ずに残っていた。
 ベル食品によると19
56年にタレを発売。当
時は経営難で、社運をか
けた新商品だった。レン
タル鍋を作ったが、製造
枚数など詳細を記録する
余裕はなかったという。
56年は私の生まれ年でも
あり因縁を感じ、収集熱
に火が付いた。
 ジンギスカンは中国東
北部から大正~昭和初期
に伝わったとされる。当
初は鉄製の大きな格子状
の道具(ロストル)を使
っていたが、日本に伝わ
ると七輪用に直径30㌢前
後に小型化したようだ。
<略>

 平成29年の(1)は、雑誌「将棋世界」の編集長から転じて作家となり、棋士にまつわる作品が多い大崎善生の「最高の贅沢だった味付けジンギスカン」です。「今から五十年前の札幌の街」は「ビルは四丁目にデパートがあるだけ」は、ちょっとおかしい。平成29年の50年前は2017-50=1967即ち昭和42年、大崎さん10歳のときとなる。
 「写真が語る 札幌市の100年」(356)というホームページの「さっぽろ雪まつり<中央区・昭和40年>」という写真を見ると、大仏の雪像の向こうに、拓銀と道新と秋田銀行のビルが並んで見える。それとは関係ないが、札幌グランドホテルは昭和9年開業で5階建て、駅前通のあそこに建っていました。昭和33年まで在学した私の記憶では、繁華街を離れるとガクッと変わり、、大崎さんのいう田舎町でありましたね。ふっふっふ。
 (2)は食文化研究家畑中三応子著「カリスマフード――肉・乳・米と日本人」からです。平成17年頃ジンギスカンのブームが起きて、僅か2年で終わったとあるが、東京限定の見方じゃないかな。道民の多くは子供のころから食べつけており、この後、出てくる平松洋子の「かきバターを神田で」にね、ジンギスカン大好きの道民魂という言葉が出てくるが、確かにそういうタイプがいるから、モツ鍋店みたいな極端な増減はなかったように思っています。
 日本食糧新聞社北海道支社が出した本「みんなのジンギスカン 札幌エリア完全版2017」の掲載店は103店、掲載遠慮店は8店でした。その2年前の2015年、平成27年の国勢調査によると、札幌市の人口は約195万人だったから、1店当たり約1万8000人という比率であり、その後ブームは起きなかったと畑中女史はいうのだから、いまもこの比率はそう変わってないんじゃないかな。
 (3)は「北海道 ジンギスカン四方山話」の中のね、わがジンパ学の講義録を激賞はオーバーか、とにかく最近全くなかったヨイショしてくれた一節です。講義録を開いたころは、ジンギスカン店のページなんか皆無で、納豆研究者の方が下手な推理小説よりスリルがあると褒めてくれたり、時事新報北京特派員鷲沢与四二の親戚の方が鷲沢家の菩提寺についてメールを下さったりしたが、ちょっと手直しの筈の閉鎖が2年に延び、ジンパという北大語が天下に広まり、ホームページのタイトルに入れるもんだから、そうした支持者の方々のページは埋没して見えなくなって久しい。
 ここで私が「四方山話」は、ジンギスカンについて広く、かつわかりやすく書いた良書だとお返しでなく真面目に褒めれば、この本を出版した彩流社が増刷するかも知れないので、その際訂正すべき箇所を挙げれば「濱の家」は正しくは「濱のや」。
 これは講義録では何回か断ったはずだが、久保田万太郎の「じんぎすかん料理」で「濱の家」と書いたので、その後で「濱のや」と書くと別の店と誤解されるかも知れないので、講義録は全部「家」に統一したからです。それと「大井秋園」は単に「春秋園」だからね。ふっふっふ。
 (4)は「新 いわみざらの民話」からです。国会図書館で成田市の「成田歴史玉手箱」を見付けたので、鍋博物館のある岩見沢も何か作ってないかなと、岩見沢市のホームページを見たら「新 いわみざわの民話」があったのです。内容は岩見沢、志文、栗沢、北村の民話に分かれていて「北村の民話」に「ジンギスカン料理発祥の地北村」が入っていました。非売品とあるから本も作ったのかと国会図書館を検索したら「新いわみざらの民話」が納本されていました。
 鍋博物館のある万字関係は「栗沢の民話」に入っており「万字炭山~百年の基礎を築いた人々~」に商店街の明治44、5年開店組にある溝口鮮魚店が、今のジン鍋博物館につながるのです。
 (5)は石毛眞著「コスパ飯」です。日本マイクロソフト社長だったので、交際費や接待、自腹でうまいものを食べたと認め「はじめに」に「高度成長期も今も、日本はオリジナリティに弱いと言われる。他国のどこかの企業がつくったものを、より高性能に、完成されたものにする力はあるものの、ゼロからイチをつくるのは苦手とされてきた。<略>この本は食べ物の本である。だから開き直りたい。我々はオリジナル料理を作るより、どこかで出会ったうまい料理を、家でよりうまくつくることが得意だし、好きだし、それを楽しめばそれでいいのだと思う。<略>そんなわけで、私は模倣すべき味探しと、家でのよりよい再現というプロセスを愛している。」(357)とね。でもジンギスカンでは、うまい味探しが難航しているらしい。
 (6)は怪談作家丸山政也の「頑固オヤジの店」というジンギスカン店で遭った恐い話です。なぜ頑固オヤジなのかというと「四十代半ばの偏屈を絵に描いたような男」が店主で、「野菜のうえに肉を乗せて間接焼きにしろ」など「客を客と思わない横柄な振る舞い」を繰り返す(358)からで、グルメサイトに口うるさい店主がいると書かれていたそうだ。
 (7)は馳星周著「神(カムイ)の涙」からですが、並のジンギスカンではなく、シカ肉とジンギスカンのタレが登場します。屈斜路湖の湖畔に住む木彫り名人の平野敬蔵は弟子入り志願の尾崎雅比古をはねつけるが、阿寒湖畔のホテル社長が仲を取り持ち、雅比古はホテルに雇われ、休日は車で敬蔵宅へ通い手伝いをすることになったのです。
 (8)は札幌生まれの作家、喜多みどりによるグルメ本「弁当屋さんのおもてなし 海薫るホッケフライと思い出ソース。」からです。ウィキペディアを見ると「光炎のウィザード」というシリーズ10冊の名前があるので、角川ビーンズ文庫のサイトにある第1作の「はじまりは威風堂々」の試し読みを読んだら、私とは全く異次元のストーリーと挿絵だった。その点、料理とりわけジンギスカンとなると見逃せない。  引用箇所がよかったかどうか見直そうと図書館へ行き、うっかり借りたのが最初に出た「ほかほかごはんと北海鮭かま」。内容が大違いとわかり、すぐ借り直すのも気が引けてね、別の本を読んでいるうちに忘れて帰ってきちゃった。もしかするとページ番号が違っているかも知れんよ。
平成29年
(1) 最高の贅沢だった
    味村けジンギスカン。
           大崎善生

 私は昭和三十二年に北海道の札幌市で生まれ、
その街で育った。今から五十年前の札幌の街は今か
らでは想像もできない世界から見放されたような田
舎町だった。ビルらしいビルは四丁目にデパートが
あるだけで、あとはほとんどが木造の平屋かせいぜ
い二階建て。<略>豪雪の年には家が屋根からすっ
ぽりと埋め尽くされてしまった。石油ストーブも珍
しい時代で、ほとんどが薪か石炭ストーブで寒さを
しのいでいた。
 しかし子どもたちはあきれるほど元気だった。雪
に埋もれた屋根はまるで自然が作ってくれたジャン
プ台のようなもので、暗くなるまで尻にビニールを
一枚敷いて飛び続けていた。そんな北国の子どもた
ちにとっての強い味方、最高のご馳走がジンギスカ
ンだった。冷凍技術も発達していない時代で、生肉
などない。私にとってのジンギスカンとは肉屋の片隅
で、がっちりと味付けをされて袋詰めされたもの
だった。羊肉の特有のにおいを消すために、業者が
それぞれに工夫をした味付けをした。義経のジンギ
スカン。松尾のジンギスカン。それが私にとっての
二大ブランドである。札幌の狭い台所で凍えるよう
な冬の日、煙を充満させながら、兄と母と三人でジ
ンギスカン鍋を囲みながら食べた。夢のような遠い
日、今も残る煙と甘い肉の記憶。自分の体の半分は
札幌ラーメンで、そして残りの半分はジンギスカン
でできているようなものだ。<略>

(2) 軍人に愛されたジンギスカン
           畑中三応子

<略>五五年のピーク時を境に国産緬羊の価値は急降下してしまったのである。
 そこで、不要になったヒツジの肉をおいしく食べられるジンギスカンが奨励され、昭和三〇年代から四〇年代前半は、安い国産マトン肉が都市部の精肉店でも普通に売られるようになった。食用にまわされるのは老廃羊だったので固くて臭みも強かったが、値段の安さと物珍しさもあってちょっとしたブームになり、ジンギスカンは急速に家庭料理にも浸透した。すりおろしたショウガやりんご入りの醤油ダレに漬け込めば臭みがかなり抑えられ、なによりご飯とよく合う味だった。
 ところが緬羊飼育の衰退は止まらず、七六年(昭和五一)にはわずか一万頭に減少してしまった。ジンギスカンはとくに緬羊飼育が盛んだった北海道を中心に、信州と東北でも郷土料理として定着したが、それ以降はもっぱらオーストラリアとニュージーランドから輸入のラム肉が使われるようになった。
 二〇〇一年九月の国内初BSE(海綿状脳症)発生、〇三年のアメリカBSE発生と牛肉輸入禁止、続く〇四年一月の鳥インフルエンザ発生の影響で、にわかに羊肉が注目を浴びて東京では空前のジンギスカンブームが起こったが、たった二年でブームは終焉した。二〇一五年の未年ですら、ブーム再燃の兆しもなかった。富国強兵を重く背負い、国策に翻弄されたジンギスカンは、いまも彷徨っている。

(3) 成吉思汗
           北野麦酒

<略> 「ジンパ」という言葉がある。ジンギスカンパーティーの略だ。
 いつの時代でも、言葉を略してしまう。それをあるタイトルにして、長文の論文を書き続けている大学の先生がいる。作品はネットでも発表しているので、だれでも読むことができる。
 しかも、そのひとつひとつがとても興味深く、面白い。最初から、順番に読むと、ジンギスカンの歴史もよくわかる。大学の先生が書いているので、ただ面白いだけでなく、学術的でもある。調べるところは徹底的に調べ尽くしている。まさに、これでもかこれでもかと調べていることが分かる。この論文がすぐれているのは、ジンギスカンについての講義録であるが、自身が調べていくその過程を忠実に説明していること、うまくいったときのことだけでなく、失敗したそのときのことも、詳しく説明されている。結果よりも、その思考、行動、活動の詳細な過程を知ることで、まるで先生の頭のなかを覗いているかのようだ。
<略>

(4) ジンギスカン料理発祥の地 北村
           新いわみざわ民話
 
<略>緬羊飼育で名を発した北村は、紡毛・染毛を経てホームスパンの織製まで、一貫して行っている村として、日本全国に知られるようになり、その中核である北村農場には、全国から数多くの視察者や見学者が訪れるなど、技術提供や実演、そして講習会などを開いていた。
 このホームスパンが、皇室御買い上げの栄に浴したことから、北村農
場は益々有名となり、多忙な日々となってきた。従って純国産ホーム
スパン発祥の地(ルーツ)は北村であったことが、北村農場産業組合日
誌に記述されている。緬羊飼育が盛んになるにつれて、牡羊座や老羊を
どう活用したらよいか頭を悩ませていた。
 我が国では、ずっと以前より牛肉を『黒牡丹肉』と称し、薬として
用いていた記録があり、『牛肉丸』という売薬もあったことから、一般
には獣肉を食べる習慣はなかった
ようである。ところがある時、当時
の空知農学校(現在の岩見沢農業
高校)に解剖用として羊を寄贈
し、その時羊肉が食されたことから、
北村飼羊組合が総会後初めて試食
されたことが、当組合日誌に記され
ている。その後農場内では大正から
昭和時代にかけて、羊肉料理法が
いろいろと試されており、中でも
醤油味の網焼きが一番癖のない
ことから、農場に来られるお客様
のおもてなし料理として、普及した
といわれている。
 このころほかの地域では、羊肉を
食べる習慣がなかったことから、北村が羊肉料理発祥の地といっても
過言ではない。さらにはジンギスカン料理発祥の地は、北村であると
いえるだろう。

(5) 北海道人の飽くなきジンギスカン愛
           成毛眞

<略> 北海道民にとって、肉と言えば羊であり、鉄板でその肉を焼いて食べる料理といえばもちろんジンギスカンである。大阪にたこ焼き器のない家庭はないと言われるが、北海道にもジンギスカン鍋のない家庭はないだろう。しかも、携帯に便利なアルミ製、熱伝導率に優れた鋳物製など、複数を揃えていることが珍しくない。
 そのジンギスカン鍋で焼くのは冷凍ロール肉である。最近都内のスーパーなどでも見かけるようになった。普通にスライスされた生ラム肉ではなく、冷凍ロール肉である。
 ロール肉とは、ばっと見たところ、ハムのような円柱状をしている。しかし、ハムがスライスすると1枚の薄い円盤になり、焼いてもそのまま丸いのに対し、ロール肉はばらぱらとほぐれる。なぜなら、様々な部位の肉を集めて丸めたのがロール肉だからだ。羊はウシや豚に比べて体が小さく、同じようにスライスすると小さくなってしまうため、丸めてまとめて、それをスライスするという手法をとったのだ。
 ジンギスカンには、このロール肉がうってつけである。
 今時のジンギスカンは、鍋の縁に溜まった油で野菜をアヒージョのごとく煮ることもあるが、それはしない。ジンギスカンは、肉も野菜も焼いて食べる料理なのだ。
 北海道では、ことあるごとにジンギスカンである。花見と言ってはジンギスカン、バーベキューと言ってもやはりジンギスカンである。東北では秋に河原で芋を煮るようだが、北海道では当然、秋もジンギスカンだ。<略>

(6)   頑固オヤジの店
           丸山政也
 
<略> また一見客のRさんはこんなことを語った。
 半年ほど前のこと。
 Rさんは友人とふたり、初めて店に入ってみたという。
<略>そう思いながら肉を焼いていく。友人とは久しぶりだったので会話も弾み、すっかり話し込んでしまった。
 慌ててジンギスカン鍋に眼をやると、――肉が一枚ものっていない。野菜がじゅうじゅうと音をたてながら焼けているだけである。
 見ると、友人はキョトンとした顔で、手元の取り皿を指さしている。Rさんも自分の取り皿を見て、ぎょっとした。ほどよく焼けた肉が何枚かのっている。自分だけでなく、友人のほうにも同じ量が取り分けられていた。無意識に鍋から箸で取っていたのだろうか。いや、そんなことはしていない。
「肉の焼け方を見ると、たったいま鍋から取り上げたばかりの感じだったそうです。口に入れたら熱かったみたいですから。もうこれ以上ないくらい、ちょうどいいか焼き加減だったそうですよ」
 それ以降も、同じようなことをいう客が何組かいたそうである。

 後日、オーナーの弟さんはAさんにこんなことを語った。
「兄は口うるさかったのは常連の方からよく聞かされますが、単にお節介なだけなんですよ。美味しく食べてもらいたい気持ちからそうなってしまうんでしょう。健康にとても自信があるひとでしたから、おそらく自分が死んだことを理解していないのかもしれませんね」
 成仏できていないのではないか、とも考えたが、別にそれ以上の怪しい現象は起こらないので、店に関しては特に供養やお祓いはしていないそうだ。<略>

(7) 神の涙
           馳星周

<略> 味噌汁の味見をしていると肉の解凍が終了したことを告げる音が鳴った。肉をスライスし、大根と人参も薄いイチョウ切りにする。
 顔見知りになった地元の人間たちからよくエゾジカの肉をもらう。おかげでエゾジカ料理もお手の物だ。
 中華鍋で油を熱し、煙が立ったところで肉と野菜を炒めはじめる。塩胡椒と冷蔵庫にあったジンギスカンのタレで味付けした。
 ご飯が炊きあがるのを待っていたというように、敬蔵が風呂からあがってきた。スエットの上下に着替え、バスタオルで頭を拭きながら台所にやって来る。冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、旨そうに飲みはじめた。
「いい匂いだな」
「冷蔵庫の中がほとんど空っぽなんで、おかずは一品だけですけれど文句はなしですよ」「ここしばらくずっとカップ麺しか食ってなかったんだ。文句なんかあるか」
 ご飯と味噌汁、エゾジカ肉の炒め物を食卓に並べていると、ビールを飲み干した敬蔵が冷蔵庫から新しい缶を取りだした。
「お前も飲むか」
「車ですから」
「この時期はな、警察も取締りを控えるんだ。夏しか来ない観光客を取締りて引っ張ったらますます足が遠のくと怯えてな。はんかくさい」
「それでも飲酒運転はだめですよ」
 雅比古は答えた。飲酒運転に限らず、警察の目を引くようなことはやってはならないのだ。
「いただきます」
 敬蔵が席に着くと、雅比古は両手を合わせた。敬蔵はなにも言わずに箸を手に取った。
「旨いじゃないか」
 エゾジカ肉の炒め物を頬張り、敬蔵が目を細めた。
「ジンギスカンのタレは万能調味料ですから」
 雅比古も炒め物に箸を伸ばしした。<略>

(8) 第三話 ジンギスカン騒動
           喜多みどり

<略> とにかく、荷物は運び終わり、千春たちは七輪とジンギスカン鍋を中心に、持ち込んだ折りたたみ椅子や備え付けの丸太椅子に腰を下ろした。
 ジンギスカン鍋は中心部がまるく盛り上がり、表面に溝が入った構造だ。中心部で肉を焼くと、溝を伝い落ちた肉汁が周囲の野菜に絡まる構造になっている。
 羊肉は多少臭みがあるので好みは分かれるだろうが、千春はあまり気にならなかった。何より肉と野菜をこうして青空の下で焼いては食べ、焼いては食べて、時折ピールを呷ると、ものすごく気持ちよくて美味しい。あらかじめたれに浸されたちょっとお高めの羊肉を味わって食べるのも、味がついていない薄っぺらい羊肉ともやしにユウ特製のたれをつけてもりもり食べるのも、どちらもそれぞれに良さがある。
 車の持ち主である橘はノンアルコールビール、佐倉と、仕事の一環として来ているユウはウーロン茶だから、ビールを飲んでいるのは千春だけだ。最初は遠慮したのだが、せっかく冷えたものを持ってきて、誰も飲まないのはもったいないというユウの言葉に甘えさえてもらった。
 ジンギスカンにビールはすごく合う。羊肉の脂と独特の臭みと甘辛だれでべたべたした感じの喉を、ビールの強めの刺激が通り抜けていくのが心地よい。普段そんなに得意ではないビールの苦味が呼び水になって、次の肉、次の肉へと自然と箸が伸びる。<略>
 平成30年の(1)は、アマゾンの宣伝文によると「累計1万部突破のロングセラー歴史読本『北海道の歴史がわかる本』が、2008年の発刊から10年目にして初改訂」だそうだが、ジンギスカンについては改訂されたと思えないね。
 山田喜平の初レシピは糧友会のそれのコピーであり、駒井徳三命名説は元満鉄社員のホラ話が出所だと、我がジンパ学の講義録を公開して20有余年、蟷螂の斧、いや諸君は読めんかも知れんから言い換えよう。
 「二階から目薬」だね、2階にいるだれかから目薬を差してもらうようなもの、とても滴がストライクで目に入りそうもない。ジンパ学が正しいと信じてもらえそうないということだ。私としては、ここで昭和6年以前の再読を切望してやみません。
 (2)は文学博士の学位論文をもとにした本からです。この講義の先頭にした小谷武治著「羊と山羊」の序として、新渡戸さんは「宜なる哉毛織物の需用は上下を通じて漸く普及し嘗て贅沢視されたる羅紗、毛斯綸、フランネル等は今や殆ど日用欠く可らざるものとなれることや。其の製品及び原料の輸入年額少き時も千万円を下らず、多き時は三千余万円に達す、而して将来愈増加すべきは疑を容れざるなり。是に於て国内に牧羊を起して以て輸入の幾分を防遏せんことは国家経済上忽にすべからざる問題に属する」(359)と書いた。生糸と茶の輸出でしか外貨を稼げなかったような当時の日本としては、羊毛の輸入増加は抑えたかった。著者は「北方の戦争に向けて」羊の飼育を始めたというが、スタートはそうではない。
 でも国内の羊はさっぱり増えず、第1次世界大戦で羊毛輸入が一時途切れたことから、政府は100万頭計画を立て、羊毛自給に力を入れ始めた。毛だけでなく肉も金になれば飼育農家は収入増になると頭数を増やすはず、一方臭いと食べなかった国民には羊肉を食べる習慣をつけさせようと、ジンギスカンなど受けそうな料理の普及を図ったのです。
 太平洋戦争では金属供出だったが、日露戦争では露営用の毛布供出を新聞が伝えている。軍服作りで精一杯、毛布は間に合わなかったようです。
 次の(3)と(4)は雑誌「dunchu」の同じ号からの引用になりました。羊肉食関係の本が少なかったせいかも知れないが、もっとあると思うので、今後も探して追加するつもりだから、たまに読んで見なさい。
 (5)は北大生として重要必須の史実です。平成25年春「学生のほか学外から訪れた人たちの飲酒やごみ捨てマナーの悪化など」(360)を理由に、北大当局は大学構内でのジンバを禁止したことがあったのです。
 それで学生グループ「北大ジンパ問題対策委員会」が立ち上がり、約1600人の署名を集め、当局と復活交渉を始めた。これは私ら教職員にも関係することなので、後押ししたはずだ。ほぼ1年後に「日時や人数を事前申請することなど」と「専用エリアは校舎から離れた2カ所、約千平方㍍」(361)で開くことで、再びジンパができるようになったのです。
 復活折衝の先頭に立った工学部OB斎藤篤志元委員長が「『マナーを守ってジンバを自由に楽しんでほしい』と話す。」(362)のは、また乱れてきたと、大学が禁止令を復活させることを懸念してのことだろう。多分「北大創基150年史」には、ジンパという北大語の発生年代と同様に載る事件だと私はみておるがね。皆さんもジンパをやるときは、届け出など規則を守ってやりなさいよ。
平成30年
(1) ◆昭和初期の綿羊事情とジンギスカンの誕生
           桑原真人
           川上淳

<略> さて、ジンギスカンが文献に初めて登場するのも、この昭和初期である。その初出は、初代北海道庁種羊場長も勤めた山田喜平による『緬羊と其飼ひ方』とされ、同書に「成吉思汗料理」の文字が見られる。その誕生にはまだ検討の余地があるものの、恐らくジンギスカンは、この本が発行された1931(昭和6)年頃生まれたと考えられる。
 1936(昭和11)には、山田喜平・マサ夫妻の指導の元、札幌の狸小路にあった横綱という店で、羊肉普及のためのジンギスカン鍋料理試食会が行われた。その3年後の1939(昭和14)には、マサによって「成吉思汗鍋」が紹介され、「支那料理」では「鍋羊肉(カオヤンロウ)」と言うものであると紹介されている。この辺りから徐々にジンギスカンが広まっていったようだ。ちなみに「ジンギスカン」の名付け親は、満州建国に大きく関わった駒井徳三という人物であるとする説が有力である。

(2) 戦後日本と満洲の緬羊飼育
           江口真規

<略> 満洲における羊毛事業は一大国策であり、羊毛の輸出を目指して改良種一五〇〇万頭増殖の目標が立てられた。一九〇〇年代初頭、満洲には約二〇〇万頭の羊がいたが、毛質が粗く衣服用としては不適であったため、羊毛生産は僅かしか行われていなかった。そこで農事試験場では、オーストラリア産のメリノ種や、内地の下総牧場で改良に成功した種羊を輸入し在来種と交配させることにより、毛質の改善がはかられた。
 以上のように、日本の緬羊飼育は中国・ロシアなど北方の戦争に向けての衣料製造を第一の目的として開始され、そして日露戦争で租借された大陸へと渡り、満鉄という国策会社によって経営されていた。羊は満洲に渡った農業移民によって飼育されることにもなり、日本の植民政策と切り離すことのできない動物だったのである。
 戦前の満洲におけ緬羊飼育事業は、戦後の日本内地における緬羊振興の発展へとつながっていった。その一端を示しているのが、羊肉の需要である。満洲では、羊の飼育頭数が増加するにつれ、羊肉消費の普及も提唱された。牛肉に代替する食糧として適切な調理法の開発が行われ、軍隊や農業移民の間で羊肉料理が消費された。戦後の食糧不足の状況下では、内地でも羊肉が宣伝され、その調理法として考案されたのが羊肉鍋料理の「ジンギスカン」である。特に一九五〇~六〇年代は、国内産豚肉の価格上昇に伴い、ニュージーランドから輸入羊肉の消費が増加した時期でもあり、羊肉料理店の開業や羊肉料理の紹介が頻繁になされた。<略>

(3) ジンギスカン
           植野広生

 初めてジンギスカンを食べたのは小学生の頃。
家で食卓にガスコンロをのせ、例の鉄兜形の鍋を
置き、玉ねぎやもやしと一緒に、パック入りの味
つけジンギスカンをどばとばと焼きました。いつ
もの食卓とは違う、イベント感にあふれてウキウ
キしていたのですが、肉の味はまったく覚えてい
ません。記憶の奥底に、甘辛いタレの味がかすか
に残っているだけです。
 ジンギスカンは甘辛い焼肉、というイメージは、
その後20年近く経ち、札幌で〝本場〟のものを食
べて変わりました。ロール状に固められた肉を焼
いてタレをつけて食べるスタイル。羊独特の匂い
が印象的でした。焼肉とは全く異なるものだと思
い知りました。
 そして、15年近く前、東京で生ラムのジンギス
カンを食べて、そのイメージは激変しました。軽
やかな香りと味わい、心地よい歯ごたえ、食べた
ことがない深い美味しさ、今まで食べてきたもの
は一体何だったんだ……。
 こうして、僕のジンギスカン人生(?)は紆余
曲折を経てきましたが、最近、改めて食べ歩いて
みて、ある考えに至りました。甘いのも辛いのも
匂いも軽やかさも、すべてジンギスカンの美味し
さであったのだ、と。
 人生とジンギスカンは、迷える仔羊です。
  dunchu編集長 植野広生

(4) 羊をめぐる妄見
           大岡玲

 羊肉を初めて口にした十歳の時の情景は、半世紀を経た今
もはっきり覚えている。川越のどこかにあった広い養魚場兼
釣堀の、管理棟の前にしつらえられた長いテーブルに、いく
つものジンギスカン用の鍋がのっている。毎日のようにつる
んで遊んでいた友だちの伯父が経営するその養魚場に、友た
ぢ一家に連れられて遊びに行き、ジンギスカン・パーティー
で歓待してもらったのである。
 あの頃のことだから、羊はたぶんマトン、タレをからめた
肉が鍋に置かれるやいなや、夕景の中に白い煙が立ちのぼり、
食欲をそそるニンニクとショウガの匂いがあたりを充たす。
大人の「まだまだ、まだまだ」の声が「いいよ」に変わった
瞬間、肉片を割り箸ですくい取って口に運ぶ。その衝撃と驚
き! タレの味のむこうから、いままで経験したことのない、
青々とした草をちぎったような香りがあらわれ、奥歯から鼻
腔に抜けていくではないか。かつて経験したことのないその
香りの、エキゾティックな蠱惑に、十歳の私はただもう夢中
になって肉を頬張るばかりだった。<略>

(5) 札幌・北大のジンパ
    野外で囲む伝統の鍋
           文・末角仁
          写真・国政崇

 「焼けたぞ」「乾杯!」
 札幌市北区の北大キャンパ
ス。ジンギスカン鍋で羊肉や野
菜を焼く香ばしい匂いと学生の
歓声が、構内に広がる。道民の
ソウルフード「ジンギスカン」
を屋外で食べる北大の伝統行
事、ジンギスカンパーティー(ジ
ンパ)だ。
 マナー違反もあり、一時は存
続の危機にあったが、学生有志
らが署名活動をなどを行い、復活。
学生や教職員が北海道の短い夏
を楽しむ風物詩となっている。
<略>
 ジンパの再開では、教職員有
志の動きも後押しとなった。大
学院法学研究科の吉田広志教授
(47)は「一方的に禁止する以外
の方法があるのでは」と、再開
を求め教職員約100人の署名
を集めた。自身のゼミでもジン
パは恒例行事だ。
 北大が掲げる理念は「自由、
自主、自立」。吉田教授は「学
生には、伝統のジンパを守った
心意気を引き継いでほしい。構
内でジンパを楽しめる大学は恐
らく北大だけ。学生時代ならで
はの経験を重ねてほしい」と期
待する。
 今年、ジンバに新しい動きが
あった。コンビニエンスストア
道内大手のセコマ(札幌)が今
月24日、北大内に「セイコーマ
ート北海道大学店」をオープン
した。1階店舗で同社オリジナ
ルのジンギスカン肉などを販売
するほか、2階には学生、教職
員がジンパに使える屋外テラス
も備える。
 北海道の食文化を堪能する伝
統の北大ジンパは、さまざまな
形で継承され、学生たちの心に
刻まれるだろう。
㊤湯気と香りが立ち上がるドーム状の丸いジンギスカン
鍋を囲む学生たち㊦敷地面積約177万平方㍍を誇る北
大キャンパス。緑のに中でのジンギスカンは食が進む
 ジンパ学のように元号で年度を分けていくと、元日から4月30日までの4カ月とはいえ、平成31年分が入り用になる。それでここにも1冊は入れたいと検索したら、あったんだなあ。それもね、尽波さんのホームページみたいな本があるよと、ある先生に教えられた本、それが平成31年2月27日第1刷発行の魚柄仁之助著「刺身とジンギスカン 捏造と熱望の日本食」でした。
 読んでみたら主に婦人雑誌からの情報で、ジンパ学の見方の後追いみたいな内容だった。ただこの本の兜鍋の広告を見てね、鍋の写真と記事を思い出し、前バージョンの講義録のどれかに追加したはずです。どの講義録か思い出せないので、手元の鍋の写真を資料その18として見せましょう。
 昭和11年11月11日付東京日日新聞朝刊5面からです。きれいな半球形でしょう。周環がとても深く見えるが、野菜も焼く考えはなかった時代だし、飾りかも知れないが、ここをどう使うのかわかりません。
資料その18
 「敗戦の一九四五年(昭和二十年)からしばらくは料理本にジンギスカン料理は出てきません。」は当然です。それこそ「戦後六年くらいたってから」生まれた人々は知らんだろうが、敗戦後は配給米が少なく、インフレで闇米が高いから、芋でもカボチャでも腹の足しになるのは何でも食べて昼飯抜きの一日2食、農家の方々以外は皆栄養不良でふらふら暮らしていた。紙だって中々手に入らないから、新聞はタブロイド版2ページがやっと、本は薄黒い紙でなんとか発行を再開するような時代で、羊肉もないのにジンギスカンのレシピなんか書くわけがないのです。、
平成31年
   ジンギスカン料理は日本食である
           魚柄仁之助

<略>敗戦の一九四五年(昭和二十年)からしばらくは料理本にジンギスカン料理は出てきません。再び登場し始めるのは戦後六年くらいたってからです。しかしそのジンギスカン料理はもう羊肉料理ではなく豚肉料理になっていて、但し書きとして(本来は羊肉だったのだが……)が付いていました。戦後十年頃になると、戦時中に満蒙の地で烤羊肉やジンギスカン料理を食べた経験がある人たち(例えば森繁久彌など)がノスタルジックにジンギスカン料理を語るようになります。そしてニュージーランドやオーストラリアから羊肉の輸入が始まったことで、羊肉を使ったジンギスカン料理ができるようになりました。そのようなジンギスカン料理復活の条件が整ってきた頃に、北海道の観光料理として注目されるようになりました。戦時中の満州と違って日本では野菜がたくさん取れるから、羊肉と野菜をおいしく食べるために肉汁で野菜を煮ることができる幅の広いつば(へり)が付いた鍋が開発され、それが今日のジンギスカン鍋になりました。これが第二期ジンギスカン料理の始まりでした。第一期ジンギスカン料理は羊毛増産を目的とした国策の一環で始まり、第二期ジンギスカン料理は北海道を代表する料理として育てようというところから始まったわけです。そもそも庶民が「食べたい!」と思ったり、何とかしておいしく食べられないだろうかといった知恵や工夫が生み出した料理だったわけではなく、国策として誕生し、戦後、郷土料理・観光料理として発展したのです。
 平成31年5月は令和元年5月に変わり、その(1)は平松洋子の「道民魂」からです。平松作品は平成21年にあり、2度もどうかと思ったが「羊肉の味をカラダで覚え」「「吸血鬼みたいに羊の肉が食べたくなる」道民は、過半数ではないけれど実在することを本州の方々に知ってもらうという観点から引用しました。
 (2)は「これでいいのか北海道札幌市」からです。花見は北海道神宮でなきゃという札幌市民は多いと思う。初詣だと寒いからさっさと退散するのに対して、春は暖かいら出掛ける人も多いし急いで帰らない。それで犬が主役の映画の宣伝をするバイトがあり、大型のグレートデンと小さいスピッツを1匹ずつ連れて、プラカードを持って薄野から円山まで歩き、にぎやかな神社一帯を一回りして戻ったことがあるよ。あのころの花見は飲んで歌ったり踊るぐらいで、ジンギスカンはやってなかったはずです。
 (3)は「旬の食材時候集」です。著者は「プロフィール及び活動」562ページによれば「昭和38年仙台の割烹に見習として入社、その後、東京・京都の料亭・ホテルで修業、大本山天竜寺で精進料理を学ぶ」とあります。平成13年に宮城の名工、同29年に現在の名工としてそれぞれ受章。それで表紙に「料理人 現代の名工(平成二十九年)」と著者の肩書きがあります。
令和元年
(1) 道民魂
           平松洋子

 厚切りの生ラムがじゅっ。
 ジンギスカン鍋が音を上げると、隣で生ツバを飲み込む音が聞こえた。札幌出身、ヨシダさんの目が心なしか潤んでいる。ソウルフードを食べるのは十か月ぶりだわ~、よく我慢できたなあ、とつぶやく。
「吸血鬼みたいに羊の肉が食べたくなるわけです。道民としては」
 飢えたヨシダさんの迫力がびんびん伝わってきた。<略>
 ヨシダさんの箸は止まらない。道民でなくても、たまらない。熱い鍋肌にへばりつかせてふわっと焼いた羊肉。アチチと噛むと、香ばしい肉汁が口いっぱいに充満する。牛肉でも豚肉でもなく、鶏でも鹿でも猪でもなく、羊肉の穏やかで優しい味にやたら癒される。<略>
 箸に羊、左手にビール。恍惚となったヨシダさんの道民魂が燃えさかる。
「北海道の小・中学校には、春から秋にかけて炊事遠足という行事があります。炊事のできる公園に行って、みんなでジンギスカン。ええもちろんジンギスカン鍋を持っていく。ここで羊肉の味をカラダで覚えるわけです」<略>
 炊事遠足という言葉もはじめて聞いた。そういえばもう小一時間、三軒茶屋の路地裏で立ったまま肉をえんえん焼いているけれど、何の違和感もない。<略>
「最後にロールが食べたいな」
 ヨシダさんが言った。羊肉のいろんな部位を円柱状に固めてスライスしたロールは、複雑な味がして大好きだという。道民魂の大花火である。

(2) 短い温暖な季節を楽しみ尽くす!
           マイクロマガジン社

 冬眠していた札幌人は、雪解けがやってきた途端、活発に動き出す。暖かい
家の中でぬくぬくと過ごしているものの、やはり春がやってくるのは待ち遠し
いのだ。冬の間、だらだらとしていたのが嘘のように、札幌人はジンギスカン
でアウトドアを楽しみだす。最近は札幌でも自転車がブームになっており、市
内のあちこちでスポーツタイプの自転車を見かける(まあ、冬が長いだけ出番
も少ないだろうけど)。遅い春を待ち構えていたように、ゴールデンウィーク
には「花見」と称してジンギスカンとビールに手を出す。花見のメッカ・円山
公園では毎年、桜並木の下にもうもうと肉が焼ける臭いと煙が立ちこめてお
り、「おいしい、最高!」とジンギスカンをつつきながら、ビールを片手に盛
り上がる札幌人の姿が。「お花見よりも大勢で集まって飲み食いして楽しけれ
ば、それでオッケー! 長い冬は終わったし、ジンギスカンがうまい!!」(中
央区在住の20代男子大学生)家の外に出られない時期が長いので、札幌人にと
って春の開放感はハンパない。桜の花は、「(ジンギスカンのついでに)咲いて
いるだけでいい」のが本音のようだ。
 つかの間の春が過ぎ去ると、札幌人は「次は海辺でキャンプとジンギスカ
ン!」に繰り出す。北海道の夏は短く、市民は夏を最大限に楽しみ尽くすため
の努力を惜しまない。カップルや家族連れが砂浜の上にテントを張り、ラム肉
と野菜を取り出してジンギスカンを始める。海で泳ぐのは余興程度。また冬が
来る前に、できるだけ外で楽しんでおかなきゃ、とはしゃぎまくるのだ。<略>

(3) 羊
           佐藤信

ひつじ
時候 通年
 羊は偶蹄目ウシ科の哺乳動物。胃は四室に
分かれ、反芻により消化する草食動物。性格
は温和で臆病者。群れ集団を作り、先導者に
従う傾向が強い。羊は用途により大別し肉用
種、毛用種、毛肉用種、乳用種、毛皮用種で
品種は一〇〇〇種を超える。日本での飼育は
一八七五年(明治八年)に入り牧羊場が新説。
北海道では羊料理(ジンギスカン)を食する
が、わが国全体としての需要は低い。
肉用種としてサウスダウン種、サフォークダ
ウン種、ロムニーアーユ種が主である。
繁殖季節は九月から一月と長く、妊娠期間は
一五二日で出産は春二月から四月が多い。離
乳は三~四ヶ月、生後二年で成熟。寿命は一
〇年程。

羊肉の名称と生後の期間
○ホットハウス 生後九週から十六週の間
○スプリング  生後十六週から八ヶ月の間
○ラム     生後八ヶ月から一年未満
○イヤリング  一年から二年未満
○マトン    二年以上
代表部位<略>

料理 ジンギスカン シャブシャブ
   ロースト ステーキ カレー
 令和2年の(1)は岩見沢出身の中村まさみ著「金縛りの恐い話です。若い女の別れ宣告で男がアパートのその女の部屋で自殺した。女はそのまま住み続けていたが、ある夜、どうも人の気配がすると同じアパーにいた柳の姉に訴える……。
 内容の恐いのは当然としても、本そのものもちょっと不気味でね。この一文を書くとき読み直そうと、手元の何冊かと一緒に置いた筈なのに見当たらない。その辺中探して使い、書棚に入れた筈なのに「怪談5分間の恐怖 金縛り」という背表紙が見えないのに気付いた。でも、もう用なしだから探さずにおります。
 志賀直哉の「怪談」はどう紹介されているか知るために、古本の「日本の名随筆 別巻」を注文したら、書店が同シリーズではあるが、別の本を寄越した。本が違うと連絡したら注文の本を送る、間違い本は差し上げますと1冊頂いちゃった。怪談本はどうも人を惑わす何かがあるんじゃないかなあ。
 (2)は関西学院大の島村恭則教授の「「みんなの民族学 ヴァナキュラーってなんだ?」にある遠野ジンギスカンで使われる独特のバケツコンロの話です。
島村さんがこの本の前に出された「民俗学を生きる ヴァナキュラー研究への道」ではなかった遠野のジンギスカンが、この本に加えられている。それなのに北海道や信州のジンギスカンに言及していないのは、同氏のいう「何気ない日常生活に隠された意外な問題を『発見』する」ことができない、締めにラーメン、うどんを食べる程度では意外性が足りないんでしょう。その点では名寄の煮込みジンギスカンは、鍋だけでも民俗学の研究対象になる可能性があると思うが、どうかな。
令和2年
(1) 水風船
           中村まさみ

「今晩ジンギスカンをごちそうするから、時間を空けといてくれ」
 車つながりの友人である、柳という男から、嬉しいおさそいの電話があった。
 約束の時間に教えられた場所へむかうと、小ぎれいな焼肉店のまえで、すでに柳が待っていた。
「おお、悪いな、急なことで、実はおれの姉ちゃんが、お前に聞いてほしい話があるらしくてさ。
 いっしょにきて、先に中で待ってるから、じっくり話を聞いてやってくれ。
 とにかく店に入ろう。ここはおれの先輩がやっている店なんだけど、ジンギスカンがめちゃくちゃうまいんだよ!」

 柳に招き入れられ店に入ると、ひとりの女性がわたしにむかってほほえんでいるのが見える。どうやら彼女が柳の姉らしい。
 かんたんなあいさつを交わし、わたしはふたりのむかいの席にすわった。
 テーブルに備え付けのコンロに火をつけ、柳は、あらかじめ用意されていた野菜を焼き始めた。
「こっちは、おれやるから、姉貴、話せよ」
 柳がとなりにすわる姉に目配せすると、彼女がぽつぽつと話し始めた。
「何年かまえのことなんだけど、わたしがいます住んでるアパートで、ひとりの男性がガス自殺をしたのね。こんな話、肉食べながらするようなもんじゃないと思うけどさ……」
(たしかに、なんで焼肉を選んだ!)
 といいたいところだったが、わたしはだまって、姉の話に耳をかたむけた。<略>

(2) 遠野市
           島村恭則

<略> ただ、めん羊を飼育する農家の一部を別にすると、羊肉を食べる習慣は一般化していなかったといわれている。
 そうした状況の中で、戦前、満洲で従軍し、そのとき現地で羊肉を食べたことのある安部氏が、めん羊の肉を用いてジンギスカンをつくることを思いついたのである。
 当初、客は羊肉をなかなか受けつけなかったようだが、羊肉は値段が安いこともあって、次第に広まっていった。また、食肉店のほうでも羊肉を小売りし、羊肉を買った客には、自分でジンギスカンができるよう七厘の貸し出しも行った並行して、ほかの食肉店でも羊肉を扱うようになった。
 こうしたことから、次第に遠野市民の間に羊肉が広まっていったのである。現在、遠野の人びとは、忘・新年会や野球大会、消防団の寄り合いなど、ことあるごとにジンギスカンを食べるようになっている。
 ところで興味深いのは、「ジンギスカンバケツ」なるものの存在である。前出、安部氏が一九六九年に発明したもので、中に固形燃料を入れ、上にジンギスカン用の鉄鍋をのせて調理するためのブリキのバケツである。バケツには、通気孔としていくつかの穴が開けられている。それまで安部商店では七厘を客に貸し出していたが、破損して返却されてくることが多かった。そこで破損しにくく安価でつくることのできる道具として、安部氏が開発したのが穴開きバケツであった。その後、市内の金物店による商品化も進み、市内の家庭には自家用のジンギスカンバケツが相当数普及しているといわれている。遠野における現代の民具の一つであるといえるだろう。
 令和3年の(1)は阿古真理の「日本外食全史」です。この本の「ジンギスカン鍋は、一九一八年頃から札幌・月寒羊ヶ丘の種羊場でつくられようになる。」というくだりは「焼肉の文化史」も引用した「北のパイオニアたち」だね。
 「大正八年、北大生のころ、月寒へ見学に行って、生れて初めてジンギスカンなべというものをごちそうになった。めん羊でも、こんなにうまいものかと思った。種羊場ができたのは大正七年だから、そのころから始まったのではないだろうか」と、道緬羊協会副会長の中西道彦さん(七六)は語る。」(363)に基づくとみられる。
 前バージョンの講義録「昭和11年ではなかった狸小路『横綱』の試食会」を読んでもらいたいが、中西さんは大正9年北大予科入学であり、同8年は浪人として札幌にいたとしても北大生ではなかった。141ページ
 また昭和10年に札幌の焼き鳥とおでんの店横綱でジンギスカン試食会が開かれという説があるが「『高級な肉というイメージを広めるため、初めは一流の料理店をねらったが、ことわられた。困っているとき、きっぷのいい合田さんが頭に浮かんだ』と、道の畜産技師だった中西さん。」(364)と「北のバイオニアたち」にあるが、当時中西さんは十勝支庁勤務であり、帯広にいる人が試食会の会場探しをしなきゃならんほど、本庁は人手不足だったとは思えない。こうした点から大正8年ジン鍋初体験証言は信用できないのです。143ページ
 (2)は秋川滝美の「マチのお気楽料理教室」です。自宅を改造して料理教室を開き、前歴のツアーの添乗員で知った観光地の名物料理を教えている万智が、高校同級の桂のリクエストで、北海道への修学旅行の思い出のコアになっているジンギスカンを一緒に食べてみる。さすれば、桂は往時のおいしさを感じるか、ただ食べるより「少しはあのときの味に近づくのではないか」という実験話です。
 顧みれば、私の高校時代の修学旅行は昭和26年秋、各自米3合を持って奈良と京都と東京を回りました。これで女生徒との間にあった見えない壁がだ、ベルリンの壁如く崩れたね。はい、時間がないから次へ移ろう。
 (3)は慶応大の岩間一弘教授が出した「中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえて」からです。昭和35年のところで見せたマッチのラベルの写真を私に送ってくださった中国料理の研究者から、岩間さんがジンバ学を褒めたと聞いてはいたけど、この本で前バージョンの3講義録を参考文献に挙げていたとはねえ、文句なしにこに取り込んだのでありますよ。
 これより先、再構成のため前バージョンは閉鎖中ではあるが、岩間先生が示した「中村総裁が大連に持ち込んだ烤羊肉」、「北京の鷲澤・井上命名説を検討する」、「正陽楼の本物での鍋で焼かせた濱町濱の家」の3講義録だけは読めるようにしておりました。
 その点、ウィキペディアの「ジンギスカン」は、私が講義録で丁寧に示した参考文献を抜き取りながら、ジンパ学の存在を無視しおって、けしからんのだ。いいですか、たとえば《日吉良一、「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」『L'art Culinaire Moderne』昭和36年10月号、1961年、p29、東京、全日本司厨士協会》の「L'art Culinaire Moderne」は、だれが見付けて読んだのか。
 ともあれ岩間先生におかれましては、我がジンパ学の成果をお認め下さり、私としては光栄に思っております。ふっふっふ。
 (4)は北大水産学部の研究員の松田純生(あやか)さんの本「クジラのおなかに入ったら」です。なにか童話みたいな題名ですが、「ストランディング」という漂着したクジラを調べる水産科学の本です。
 北大生による北海道らしい研究グループとしてクマ研が有名だが、函館の水産学部にクジラの研究グルーブがあるとは知らなかったなあ。松田さんは高校時代にそれを知ったというから立派、その鯨研を経てれっきとした研究者になったのです。鯨研は羊肉でなく鯨肉のジンギスカン、ゲイジスカンとも呼ばれる料理をやるのかどうか確かめずに司書さんに本を返しちゃったので、後日確かめます。
 (5)は森崎緩の「総務課の渋澤君のお弁当」です。道産子の若社員が最近見付けたジンギスカン料理店に入り、女子店員に肉を焼いてもらうところを引用しましたが、検索すると沢山出てくる〝ほとんどが会話〟で情景描写は少しというスタイルの小説といえますね。
令和3年
(1) しゃぶしゃぶとジンギスカン鍋
           阿古真理

 羊肉を使うジンギスカンは、戦前に誕生。『焼肉の文化史』は、これが日本人にとって肉を焼きながら食べる料理の先駆けで、焼き肉の発展に影響を及ぼしたとしている。
 一九三七年二月発行の『料理の友』にジンギスカンが好んだといわれが載っているが、これは間違っていると同書は指摘する。北アジア研究第一人者加藤九祚が、モンゴルでは煮る料理が主体だからと述べているからだ。<略>
 では本当の始まりはどうだったのか。まず『焼肉の文化史』によると、一八七五年から下総御料牧場で始まり、翌年に札幌牧羊場で本格化する養羊が背景にある。当初の目的は軍需品の羊毛を自給するためだった。
 ジンギスカン鍋は、一九一八年頃から札幌・月寒羊ヶ丘の種羊場でつくられようになる。動物性たんぱく質の資源確保に熱心だった政府は、羊も食用として活用するために普及活動を推進し、一九三六年に札幌市狸小路のおでんとやきとりの店「横綱」で試食会を開いたが、客はさっぱりこなかったという。
 東京では、一九二九(昭和四)年に陸軍省管轄の糧友会が主催した食糧展覧会で、羊肉調理法を実演した中心がジンギスカン鍋だった。昭和初期は健康促進のための博覧会が活発に開催された。一九三五年にも中央畜産会主催の全国食肉博覧会が開かれ、ジンギスカン鍋の試食会が行われている。博覧会の効果か、東京には一九三六年創業の高円寺「成吉莊」など専門店がいくつもできたようだ。ジンギスカン鍋は、戦後全国に広まっていく。

(2) ジンギスカンの宴
           秋川滝美

<略> 高校の修学旅行で食べたよね、と桂は嬉しそうに言う。
 それは万智も覚えている。高校二年生のとき、万智と桂は同じクラスだった。行動
班を決めるとき、生徒の自由に任せると仲間はずれが出かねないということで、くじ
引きになってしまった。これは一緒になれないな、とがっかりしていたら、奇跡的に
同じ班になれて、ふたりで手を取り合って喜んだ。
 そんな修学旅行はとにかく楽しくて、中でも最終日に食べたジンギスカンのことは
今でも忘れられない。桂はとりわけ気に入って、食べ放題をいいことに次々肉を追
加、明らかにキャパシティオーバーなのに、食べ放題で残すのは御法度と無理やり詰
めこんだ。結果として、満腹のあまり息をするのも苦しい状態に陥ってしまったの
だ。
 あれからずいぶん時が過ぎたけれど、桂は今でも時々、あのときのジンギスカンは
美味しかった、もう一度食べたい、と言う。それを聞くたびに万智は、そんなに気に
入ったのなら同じ店の肉を取り寄せればいいじゃないか、と言うのだが、桂は残念そ
うに首を横に振った。
 実は既に何度か取り寄せてみたらしい。それでもあのときの美味しさは再現できな
かった。きっと『修学旅行』という味が足りないのだろう。あの味は、若さ任せの馬
鹿騒ぎがあってこそのものだったに違いない、と言うのだ。
 確かにその点は否めない。だが、あの店は肉そのものもタレの味も上等だった。普
通に食べても十分美味しいはずだし、幼なじみと一緒に食べたら、少しはあのときの
味に近づくのではないか。
 そんな理由から、半ば実験的に、万智は北海道からジンギスカン用の肉を取り寄せ
たのである。
「ついでにジンギスカン用のお鍋も買っちゃった。これで私たちがどれぐらい高校時
代に近づけるか、やってみようよ」
「おー!心の友よ!」<略>

(2) 世界無形文化遺産への登録をめぐる議論
           岩間一弘

<略> 例えば、中国国内で四つの地域の端午節を国家級の無形文化遺産に登録すると、それ以外の地域の端午節は、むしろ廃れる危機に瀕した(11)。また、牛・豚肉の調理技術の典型として国家級の無形文化遺産に二〇〇八年から登録されたのは、北京の「東来順」などの老舗企業であり、豚肉を食べない回族(中国ムスリム)の多い寧夏や甘粛の料理ではなかった(12)。
 ちなみに、『中国名菜譜』によれば、咸豊四(一八五四)年に北京の前門街で開店した「正陽楼」が、羊肉しゃぶしゃぶ (「涮羊肉」)を販売した漢族の最初の店であるといい、それは肉を切る技術を改良して名を馳せた(13)。tこの正陽楼の羊肉料理が一
九一〇年代以降に満洲の日本人社会、さらに日本へと伝わったジンギスカン料理の原型であると考えられている(14)。そして東来順は、一九〇三年に回民の丁子清が開業した飯屋が始まりで、一二年に正陽楼の優秀な切肉の技師とその弟子たちを招聘して、羊肉しゃぶしゃぶを売り始めた。一九四二年に正陽楼が休業すると、東来順の羊肉しゃぶしゃぶが、北京では最も有名になったという。

(3) いざ、北大鯨研へ!!
           松田純佳

<略> 紆余曲折を経て、私は北海道大学に入学することができた。2008年4月のことだ。生まれ育った関西を離れ、初めての東日本、いやもはや飛び越えて北日本。言葉がぜんぜん違う。文化がぜんぜん違う。例えば味付けが西日本より、全体的に甘い印象を受けた。テレビのチャンネルが地域によって違うこともじつはこのときまで知らなかった。すべてが新鮮で、大地は広く、そして空がでかい。キャンパスがでかい。札幌キャンパスの大きさは東京ドーム約38個分くらいある。キャンパスの中には小川が流れているし、ジンギスカンパーティ(通称ジンバ)を行う場所まであった。自転車がないと授業に遅刻する。焦ってメンストを激チャする。遊び過ぎて寝つぼる。これは北大(札幌キャンパス)あるあるだ。
 北海道大学水産学部は函館にある。函館キャンパスからは徒歩10分で海だ。私が入学した頃は、札幌キャンパスで大学1年生から2年生の前期までを過ごし。2年生の後期から函館キャンパスへ移った。札幌にいる頃もそれはそれは楽しく過ごしたのだが(楽しみ過ぎて成績は微妙そのものだったが)、水産学部を希望した私にとっては、函館キャンパスに移ってからが本番だった。
 そもそも私が北海道大学水産学部を選択した理由は、高校生の頃にインターネットで北海道大学鯨類研究会というサークルの存在を知ったからである。サークル目当てで大学を選んだ。<略>
※1 メンストを激チャする メインストは北海道大学のメインストリート、激チャは自転車を猛スピードでこぐこと。
※2 寝つぼる 寝坊して授業に遅刻・欠席すること。

(4) 鮭のちゃんちゃん焼きと卵焼き
           森崎緩

<略>「お客様、当店は初めてですか?」
 若い女性の店員さんが愛想よく尋ねてきた。
「はい」
「ではお肉の最初の一枚は私がお焼きしますね」
 店員さんが鍋に白い牛脂を置く。熱した鍋にじゅうじゅうと擦りつけるように
牛脂を馴染ませていく、その作業すら郷愁を感じてたまらない。
「ジンギスカンはよく食べられるんですか?」
 ラム肉の最初の一枚を焼きながら聞かれた。こちらも上機嫌で答える。
「」久しぶりなんですよ。実は北海道出身で、でも東京へ来てからは全然食べる機
会がなくて」
「えっ!  北海道の方にお出しするなんて緊張しちゃいます」
 店員さんは気を引き締めるように姿勢を正した。
「ずっと食べに来たいと思ってたんです。楽しみにしてます」
 気負わせても悪いし、明るく告げて笑いかけたら途端に弾けるような笑顔が返
ってきた。
「はい、頑張って焼きますね!」
 結果、頑張って焼かれたラム肉はミディアムレアのいい焼き加減だった。少し
分厚めの肉は柔らかく、噛むと漬け込まれたタレの旨味がじわっと染み出してく
る。地元で食べる薄切りラムのジンギスカンとは趣が違うが、これはこれでとて
も美味しい。
「せっかくですから、ゆっくりなさってくださいね!」
 この店の店員さんはサービスがよく、鍋の周りに野菜まで並べていってくれた。
お言葉に甘えてじっくり味わうことにする。ジンギスカンはラム肉の美味さもも
ちろんだが、その脂が染み込んだ野菜をまた美味い。定番のモヤシやキャベツも
頬張りつつ、しばらく黙々と堪能した。<略>
 令和4年の(1) (2)は平成27年の「くさい食べもの大全」で初登場した小泉ムサボリビッチ・ヒツジンスキー先生が、その後書かれた「北海道を味わう」の閉店した名店の思い出です。先生の「親船研究室から石狩河口橋を車で渡って二キロほどのところにあった『清水ジンギスカン店』」がそれです。
 ご本人が清水ジンギスカンの魅力について熟考した結果、第一は肉を手で揉みながら丹念につけ込んだらしいということ、第二は清水の羊肉は植物油の主成分である不飽和脂肪酸か多いらしいというほかに、ジンギスカン一人前550円、小ライス110円という安さと判明した(365)そうです。
 (3)は、大正3年の満洲日日新聞が初めて成吉思汗鍋と書いたという道新の記事です。道新は作り話なのに駒井徳三命名説を信じる人々を連載記事や広告に起用してきたが、記者のだれかが「現場主義のジンパ学」を読んだらしく「味力探訪」という名物料理を尋ねるシリーズにジンギスカンを加えたいと西田記者が来訪したので、私のペンネームで書いてもらうということで取材に応じました。
 序でだからいうが、駒井徳三命名説を初めて公表した日吉良一が、塩谷某の作り話と知り、すぐ取り消したという事実も「現場主義のジンパ学」で公表したのだが、視聴率が低いうえに、あのころはインターネットにアクセスする人が少なかったこともあり、道新はじめマスコミは永く駒井命名説を続け、終活で「現場主義のジンパ学」閉鎖したら多分、道新も駒井説に戻るような気がする。それはもうケ、セラセラだ。
 (4)は「婚活食堂 7」という本からです。ウィキペディアを見たら作家山口恵以子は同じ題名で続け書く人なんだね。「食堂のおばあちゃん」と「婚活食堂」がシリーズの双璧で「婚活食堂 7」は同シリーズの7番目の作品と理解しました。
 店員が「最初に野菜を鍋に並べ、次に全体を覆うように肉をかぶせる。」と教えたとあるが、つまりここ10年不変のウィキペディアのジンギスカンの写真みたいな置き方だ。私は肉は直焼き、野菜はあまり好かんが、分けて置く方がいいね。
 糧友会が長期愛読者にジン鍋を無料贈呈したときの使い方説明の挿絵を見なさい。肉片だけで野菜なし。昭和10年にその鍋でジンパをした某家では、栄養学的見地から野菜も食べなきゃと、野菜は串刺しで別の七輪で焼いたとの証言を伺った。元々ジンギスカンは酒の肴であり、野菜はせいぜいブツ切りの葱ぐらいだったのです。焦げたマトンの匂いもいいもんだよ。
 (5)は井上荒野の「何ひとつ間違っていない」からです。ここまでの荒筋は、雑誌に連載した小説家白川沙穂の小説を単行本にする計画が取りやめになる。沙穂がツィッターに「なんかもう、心が折れた。ここから這い上がれる気がしない」と書いたので、沙穂担当の出版社編集部員橋本柚奈は心配になり、田舎から羊肉を沢山送ってきたから、うちでジンギスカンしないと誘われて一度行った沙穂のマンションを訪れてみたら、沙穂が独りで飲みながら肉を焼いていた―です。
 (6)は羊囓協会の菊池一弘代表が書いた本「食べる!知る!旅する! 世界の羊肉レシピ 全方位的ヒツジ読本。」の「繰り返す羊ブームとは何なのか?」からです。
 菊池氏は明治末から昭和10年代を第ゼロ次ブーム、昭和30年代を第一次ブーム、そして引用した平成10年代を第二次ブーム、平成末から令和を第三次ブームと分類し、特に第三次について「もうブームとは言わないかもしれないぐらい羊肉は定番化していますが、説明の便宜上敢えて『第三次ブーム』と言います。」と断り、羊肉が認知されるようになった理由として「企業主導ではなく、消費者が羊肉に慣れて羊肉を食べるようになったことから始まった(ジビエ、熟成肉、赤肉などの肉ブームで日本人の食肉の選択肢が広がったとも言える)」「ジンギスカン以外の食べ方の普及」(366)など10項目を挙げています。
 羊肉の今後は「ブームは終わり固定化の流れに入っています。<略>ブームから普通のお肉へ。繰り返すブームを経て、羊肉はやっと日本へ定着し始めていると言えるでしょう。」(367)と述べています。
 (7)は「不況に強いビジネスは北海道の『小売』に学べ」という長い名前の本からです。テレビのCMでニトリがよく知られていると思うが、ことジンギスカンでは著者白鳥氏にいわれなくても、道民なら松尾ジンギスカンとベル食品のジンギスカンのタレが双璧と挙げるだろうね。札幌にいるときは気付かないが、就職して北海道を離れて暮らすようになると、学生時代食べた何々軒のあれは最高だった、食べたいなあと思うそうだから、皆さんは懐の許す限り飲み且つ食べておきなさいよ。
 (8)は旅行作家の芦原伸氏の「世界食味紀行」からだが、まず札幌市立中央図書館の話が面白い。芦原氏が昭和36年の「農家の友」と同38年の「札幌百点」があると知って「『よくぞ、こんな古い資料が残していましたね!」と感動すると、係員は記録を見つつ、『あなたがはじめての読者です』と、逆に尊敬されてしまった。」(368)とは、これ如何に。個人ならいざ知らず、図書館なんだからね、戦後間もなく出た雑誌でも集めて保存してるさ。わかりませんね。
 それから、いまどき図書館で本を貸し出すたびに閲覧記録を調べたりしないから、古い記録というのは、もしかすると裏表紙貼り付けの袋に残る昔の記入なしの貸出票ではないかな。何度も「札幌百点」を調べた私としては、もはやどうでもいいことではあるけれど、いささか気になるやりとりです。
 芦原氏は「『札幌百点』には、実娘の藤蔭満洲野の「父とジンギスカ鍋」のエッセイが載っている。父親を懐かしみながら書いているが、その文中、父親の駒井は、「諸氏よ、これからわれわれ日本人は羊肉料理を〝成吉思汗料理〟と呼ぼうじゃないか」と提案し、部下に大いに宣伝させたようである。」(369)と書いているが、これは全くの間違い。
 これは日吉良一が「成吉思汗料理事始」に書いた塩谷正作の作り話であり、載っているのは「農家の友」だ。藤蔭エッセイは「蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない。」であり、父親の宣伝命令なんか書いていない。
 「今や北海道では花見、海水浴などの野外行事で、煙もくもくの〝ジンパ〟は風物詩となっている。聞き慣ぬ〝ジンパ〟とはジンギスカン・パーティのことで、北海道では老いも若きもジンパで酔い、歌うことが定番行事だ。」(370)とだけでジンパと北大の関係は触れていない。札幌を離れて永いOBだから無理もないか。
令和4年
(1) ジンギスカンへの憧憬
           小泉武夫

 私が最初にこの店に興味を持ったのは、周りの人たちが「ジンギスカンの王道とはあの店のことだべ」とか「完成されたジンギスカンていうのは、清水で味わうことでないかい」などと絶賛する声をしばしば耳にしたからだ。親船研究室から車で行けばたった一〇分ほどしかかからぬところに、そのような名店があるのならばと、ある日の昼飯時に涎を流しながら行ってみたのだった。<略>
 ところが、ある夏の日の昼飯時、何日ぶりかで「「清水ジンギスカン」へ行くと一大事が起こっていた。店の戸口に暖簾がかかっていないばかりか、玄関のガラス戸も完全に締め切られ、屋根の軒下に「清水ジンギスカン」と書いて貼り付けてあった看板も外されていたのである。私は誰もいないその淋しい店の前で、ただ唖然呆然として立ち尽くすしかなかった。<略>
 私は「清水ジンギスカン」に通うようになったある日のこと、店を切り盛りする女主人に聞いたことがあった。
 私「この店はいつ開店したんですか?」
 女主人「昭和三十五年です」
 私「お店はいつもお客さんが多いですが、すぐにてきばきと対応してくれますね。いったい何人で店を動かしているのですか?」
 女主人「二人です」
 私「えっ? たったの二人?」
 女主人「ええ、私と娘だけです」
 淋しくなった店の前の貼紙を見ながら、私はかつてそんな会話をしたことをぼんやり思い出した。もしかしたら娘さんが嫁いだのかなあ、いやひょっとしたら女主人の体調がすぐれないのかもしれない。しかし何であれ五三年間、よくがんばってきたなあ。そんなことを思いながら、残念だが「清水ジンギスカン」での昼飯はきっぱり諦めようと気持ちを整理し、オールドパーに向かった。

(2) ジンギスカン
      漱石の親友 命名に一役?
           西田浩雅
        写真 植村佳弘

<略> 北海道を代表するこの料理。その背
景は思いのほか広く、深い。命名には
夏目漱石の親友で南満州鉄道総裁だっ
た中村是公が一枚噛んだ節がある。
 「小生過般旅行の際、燕京(現在の
北京)に於て成吉斯汗時代の鋤焼鍋な
るものを発見致し候處、(略)今夕
六時拙者庭園に於て鋤焼会相催候」
 是公が満鉄幹部に送った招待状が13
年(大正2年)11月9日の満洲日日新
聞に転載されている。同紙はこの話題
を何度も取り上げ、翌年1月に「成吉じんぎ
思汗鍋すかんなべ」とルビを振った。20年以上に
わたりジンギスカンの歴史を調べる北
野隆志さん(88)によれば「名前が使わ
れた最初期のもの」だ。<略>
 「成吉思汗時代の鋤焼鍋」に幹部を
招いたのは漱石との旅の4年後だ。好
評ゆえか宴は翌日も開かれ、出席者の
ひとりは後日、満鉄工場に「成吉思汗
鋤焼鍋」を5個注文している。
 満洲日日新聞は一連の話題を料理法
も含めて逐一報道。その表記は「成吉
思汗鍋(くわ)」を経て「成吉思汗鍋
(なべ)」へと変わっていった。
 北野隆志さんによれば、北京の日本
人社会で先に「成吉思汗」の言葉が使
われた可能性があるが、記録として確
認できる中ではこれが初出という。
 この料理の起源を巡っては従来、中
国の羊肉料理・烤羊肉(カオヤンロウ)
を、旧満洲の日本人が「ジンギスカン」
として持ち帰ったとの説が一部で唱え
られてきた。一連の記事は、その傍証
となるかもしれない。<略>

(3) ジンギスカンは婚活の味
           山口恵以子
 
<略> レストランはカフェテリア方式で、お客さんが店内に置いてある肉や野菜を買ってテーブルに運んでゆく。
 恵も屋外のテーブルを選ぶと、子供達と食材を買いに行った。店の一角にスーパーの陳列ケースのような台があって、色々な食材が並んでいた。肉はラム、牛、豚、自家製ソー セージがあって、薄切り肉、厚切り肉に加えてラムチョップも置いてある。
プルコギセットもあり、ご飯やキムチも買える。ノンアルコール飲料は一人三百円のドリンクバーが利用できた。<略>
 食材を買ってから店員を呼ぶと、テーブルに鍋をセットし、ガスコンロに点火してくれた。
「ジンギスカンの焼き方は分かりますか?」
「実は初めてなんです」
「それでは、まず脂を鍋に満遍なく敷きまして……」
 最初に野菜を鍋に並べ、次に全体を覆うように肉をかぶせる。こうすると野菜が蒸焼きになり、肉は野菜から出る蒸気で蒸す感じだという。
「こちらはオリジナルの秘伝のタレでございます。ジンギスカンを浸けてお召し上がり下さい」
 初めてのジンギスカンは美味しかった。特にタレの味が良い。後になって、マザー牧場のジンギスカンは「タレの味が違う」と好評なのを知った。
「あ~、お腹いっぱい!」
「ご馳走さまでした!」
 子供達もよく食べた。<略>

(4) 何ひとつ間違っていない
           井上荒野

<略> 1DKの部屋の中は、以前来た時と変わっていないように見えた。あのときと同じに、奥の部屋にちゃちな座卓が置かれ、その上に卓の面積とほぼ同じくらいの大きさのホットプレートが載っていて、肉がじゅうじゅうと焼けていた。これも同じだ、と柚奈は気づいた。あのとき食べた、タレに漬け込んだ羊肉だ。不意に二の腕につめたいものが触れ、ぎょっとして振り返ると、沙穂が缶ビールを押しつけていた。
「飲むでしょ?」
「いいの?」
「いいよ。っていうか、飲まないなら何しに来たわけ?」
 それで、柚奈は座卓のそばに、沙穂と向かい合って座った。部屋が狭いのでベッドと座卓に挟まれる恰好になった。ベッドの上には午前中、沙穂が着ていた紺色のワンピースが丸めて脱ぎ捨ててあった。沙穂はホットプレートの上で焦げついている肉を自分の皿にひょいひょいと取って、新しい肉をのせた。どれぐらい前から肉を焼いていたのかはわからないが、少なくとも缶ビールは数本目だということが、散らばっている空き缶でわかった。柚奈が缶ビールのプルタブを開けると、沙穂は自分の飲みかけの缶を突き出して、
「乾杯」と言った。
 「ごめん」
 と柚奈は、缶が合わさると音と同じくらいの声で言った。
 「あやまってほしくない」
 と沙穂は言って、肉を裏返した。ホットプレートの一面にタレが焦げついていて、すごい匂いになっていた。<略>

(5) 【第二次ブーム・平成10年代】
     企業主導ジンギスカンブーム
           菊池一弘
 
<略>こちらは経験している人が多いはず。大体2004年ぐらいからスター
トしたブームでBSE(狂牛病)問題でBSE発生国からの牛肉
の輸入が止まり、全国の焼肉店が大パニックになりました。七
輪やコンロ、焼き台はあるのに提供していた牛肉が手に入らない!
そこで注目されたのが焼肉と同じオペレーションのジンギスカン
です。
全国の焼肉店がジンギスカン店に看板を変え、またその流れに
あやかろうと多くの企業がジンギスカン店をオープンさせました。
この時の羊肉は、牛肉の代替肉としての人身御供よろしく期せず
していきなり注目されました。つまり業界が意図的に世間に羊肉
を注目させた企業主導のブームです。この頃は、羊肉といっても
日本人にはあまりイメージがつきにくかったので、羊肉ではなく「ジ
ンギスカンブーム」として広がっていきました。毎日メディアでジ
ンギスカンが取り上げられ、店舗数も激増しました。まだTVな
どのメディアが強い時期で、多くの人がよく分からないままにメディ
アが紹介したお店に並びました。
しかし、牛肉の輸入が再開し営業日をPRする理由がなくなった
途端、一気に熱も冷めて激増したジンギスカンのお店も軒並み
クローズ。このブームは粗製濫造感もあり羊嫌いを量産してしまっ
た側面もありますが、ブーム前と比べてジンギスカン店が終了後
も一定数を維持し、マイナーな料理れたジンギスカンを聞いた
ことがあるのに変えた功績は大きいと思います。この時オープ
ンし、未だに営業している名店も結構あります! また、この時
期に話題となった「Lカルニチンで太らない!」といった健康思
考的な切り口も「煙もくもくのお店でおじさんがビールを飲みなが
ら食べる料理」というイメージを壊し、ジンギスカンを女性にま
で広めた機会でもありました。<略>

(6) 名物にうまいものあり
           白鳥和生

 ジンギスカンにスープカレー、ソフトクリーム、
海鮮丼、もちろんラーメンも……「名物にうまい
ものなし」とよく言われるが、食料自給率が20
0%を超える北海道にこの格言は当てはまらない。
観光を楽しむ中で食事やお茶をしたり、帰りに土
産物を買ったりするものに〝はずれ〟がないのが
北海道だ。<略>
 道内のスーパーやコンビニエンスストアは地域
性を生かして北海道のみのソウルフードを品ぞろ
えしている。代表格はお花見や行楽シーズンに家
族や仲間でジンギスカンを楽しむジンパ(ジンギ
スカンパーティー)用のラム肉やタレ。ジンギス
カンの食べ方は主に2つある。タレに漬け込んだ
肉の「味付け」は滝川や旭川など内陸部、焼いた
肉にタレを付ける「後付け」は札幌や函館などで
主流だ。味付けを道内に広めたとされる松尾ジン
ギスカン(滝川市)は、タマネギとリンゴ果汁、
ショウガなどで作ったタレに羊肉を丸一日漬け込
む。十勝地方では豚丼のタレも欠かせない。
 独自の弁当・惣菜で人気なのが「やきとり弁
当」だ。函館地区では13店舗を展開するコンビニの
ハセガワストアの名物 。白飯、海苔、しょうゆダ
レの豚バラ肉の串焼きという素朴な組み合わせ。
注文後に豚バラ串を焼き始め、提供までに約4分。
焼成時、霧吹きでかける「はこだてワイン」が豚
ばらの持ち味を引き出す。<略>

(7) 元祖、松尾ジンギスカンを訪ねる
           芦原伸
 
<略> 今や北海道では花見、海水浴などの屋外行事で、煙もくもくの〝ジンパ〟は風物詩となっている。聞きなれぬ〝ジンパ〟とはジンギスカンパーティのことで、北海道では老いも若きもジンパで酔い、歌うことが定番行事だ。
 元専務の歌原清さんに登場願った。
 「そのジンパで成功したのが初代の松尾政治です。一九歳で香川県から単身で来道して成り上がった。もともと〝馬くろう〟(馬の運送業)で身を立てていたが、その後、羊肉専門店を開いた。偉い人だった。滝川公園の花見へ、七輪、炭、鍋を持参して、現場で焼肉を売ったのが当たったのです。<略>
 折からの北海道ブームに乗じて、別館を作り、収容人数は二二〇〇人の大ジンギスカン専門店に成長した。滝川は旭川と札幌の中間にあり、観光バスの昼食所として賑わった。<略>
 「みなが貧しかった時代なんですよ。子羊を役場が各家庭に貸与したんだね。子供たちがそれを育ててね。家族五人だと五頭割り当てだった。みなが自分の羊に首輪つけて学校に通った。羊はやせた草でも育つからね。おとなしい優しい動物だよ。一年経って役場に返すと。代わりの子羊と羊毛をくれる。母親がそれで靴下や手袋を編んでくれた。羊毛は暖かかったね。お金のいらない家内産業だ」
 やがて頭数が増えて綿羊組合ができ、毛のとれなくなった成羊を処理。余った肉を利用しようとはじまったのがジンギスカン料理のルーツだった。<略>
 ようやく最後の令和5年にたどり着きました。(1)は日本記念日協会が札幌のベル食品が申請した4月22日を正式登録した日が3月20日なので、ここに入れました。22日は同社のホームページによれば「カレンダーで羊肉の日の上に位置する4月22日を『成吉思汗たれの日』に制定しました。ベル食品は記念日を通じてジンギスカンと『成吉思汗たれ』の普及を進めてまいります。」と説明している。
 引用したのはプレスリリース。ただ昭和31年発売とあるが、私の調べでは当時はラーメンスープ「華味」が主商品で、ベルタレの広告が新聞に現れるのは33年からだ。精肉店や食品店などへ卸し終えるまで広告を出さなかったからとみています。
 (2)は成田空港担当の航空記者だった山本佳典氏がノンフィクション作家に転じ、そのデビュー作品「羊と日本人」からです。外国から綿羊を導入し、日本の風土に合った飼育法を研究して増殖を図ろうと努力してきた多くの先人の墓に詣で、同時に探し出した子孫宅を訪ね、語り伝えられた秘話や代々保存されてきた写真など既存の綿羊飼育史や綿羊関係者による記録集とは全く異なる人物主体の綿羊史です。それでね、ジンギスカンはなかなか現れず、やっと宇垣一成の組閣準備と戦後の北海道の飼育状況から引用できたのです。
 脱線だが、山本氏はね、父親が満鉄公主嶺農事試験場の研究者だった土屋洸子さんから試験場関係者の話を聞き、次は尋ねるのは尽波だといったら、土屋さんが彼は北大でのクラスメイトでね、アドレスと住所は…と教えてもらったと連絡して会うことになったのです。ジンパ学も山田喜平など飼育研究者の業績調べをしているからね。少しは参考になったはずです。  彼は目下三里塚の旧御料牧場の諸調査と広報活動を続けているから、いずれ本に書くでしょう。それからね、いまジン鍋博物館にある昭和10年に糧友会が作った国内産初のジンギスカン鍋は、彼からの通報で手に入れた鍋なのです。
 (3)は溝口ジン鍋博物館長が引き受けている道新朝刊の読者コラム「朝の食卓」からです。君たち「青い山脈」という映画を知っているかな。古すぎて無理か。
 本当の話だが、昭和24年、八戸市とその近隣町村の中卒男子で普通科進学を望む者は、1年後に八戸東高に改名したけど、県立八戸女子高に入るしかなくてね、我々は男女共学の1期生になっちゃった。よその連中からうらやましがられたが、男女別学育ちだから女子に気安く声を掛けられない。あの映画の交友ぶりがうらやましかったねえ。
 だから(1)のような進取果敢なことは、ついぞなくてね、74歳さんのバレーとジンパの集いはうらやましいなあ。
 (4)の朝倉かすみの「よむよむかたる」を加えるために初めて電子版の「文芸春秋」を買ってみました。アマゾンのKindle版にしたら、本代はたまっていたポイントでOK。それはよかったが、間違って23年9月号を買っちゃった。「よむよむかたる」は載っていたが、ググって知った状況ではない。買い直すしかないかと、おまけみたいに付いてきた7月号を見たら大ラッキー、探した情景はこっちだったのです。
 引用したページ番号を書くために、前もって生成AIに電子版の本にページ番号は付いてるかと尋ねたら、即座に番号はありませんと答えたが、文春のそれはごく小さい字で(xx/xx)という形で示しており、またやられたと私はAI不信の念を強くしたのでありますよ。
 肝心の「よむよむかたる」はね、題名の通り小樽のある読書グループを軸とする連載小説で、引用したのは会員の自宅で開いたジンパの場面です。
 (5)は作家角田光代が「オレンジページ」に連載している「ちょっと角の酒屋まで」からです。この人は食べる飲むを書くだけでけなく、インタビーユーに応じてよく語る人なんだね。対談をいくつか読んだが、ジンギスカンまで話が広がらない。
 アスペクトというサイトの「今日もごちそうさまでした」で、彼女の連載エッセイを公開してるので、ジンギスカンが出ないかと読み進め、遂にNo.58の「加齢とわさび」で発見した。
 それはね、わさび飯といって、擦った西洋わさびを熱い飯に掛けて掻き混ぜ、醤油をちょっと垂らして食べる。ツーンときて涙が出るそうだ。ジンギスカンと関係なさそうだが「わさび飯、ジンギスカンのお店にときどきあって、見付けると注文するが、あそこまで強烈なのはあんまりない。」(371)とさ。ハッハッハ。
 (6)は北大の江本理恵先生による真面目なジンパ解説です。学内でジンパを教えているのは私独りではないのです。省略したのは開催要領といえる部分です。
 先生にはぜひ一度、鍋博物館の600枚を見て頂きたい。一見は百聞に如かず、先生が行くわと一言おっしゃれば、溝口館長が学術VIPとしてJR野幌駅からご案内仕るでしょう。
 (7)は新聞に掲載された漫画家にして文筆家ヤマザキマリ氏へのインタビュー記事です。彼女の母親は「演奏家になる夢を追って」娘2人を連れて東京の実家を飛び出し、札幌交響楽団のビオラ奏者になった。「夜遅くまで演奏会の仕事があるので、妹と2人でよく留守番をした。机に夕食を買うための1000円が置いてあった。おかず代はよく漫画代に消えた。」が、それに添えて「ママは2人のことをずっと考えて仕事をしているのよ。どんな時も。それだけは忘れないで」(372)と手紙が置いてあったそうだ。泣かせるねえ。
 また彼女の発言からと思うが「汗をたらしながら食べた」がいい。「汗をかきながら食べた」より「汗をたらしながら食べた」の方が、コンロのそばで熱い肉を食べる、汗が吹き出すが、それをぬぐう間も惜しんで、ハフハフと食べ続ける感じがすると思わんかね。
 (8)は東大法学部卒のミステリー作家、新川帆立の「先祖探偵」からです。同書の末尾にある同じく東大法卒のミステリー作家辻堂ゆめとの対談によると、新川は「書き始めたのはコロナ禍の真っ只中で旅行に行けない頃だったから、代わりに小説を読んで旅行気分を浸ってもらえたらなと考えていました。」とあり、米国シカゴに住み資料を読んで書いたそうだ。だから「食べたい、書きたいという気持ちがどんどん募って、むしろ、食べて書くよりおいしそうに書けたかもしれない。」と語っているが、南部弁で「ひちみ」ともいう「ひっつみ」なんか特に美味の誇張しすぎを感じるね。
 (9)はここまてに何度か聞かせたモンゴルの羊肉料理の実態です。ただモンゴルから人をジンギスカンに誘ったりすると「なんでジンギスカンが食い物の名前なんだ。不愉快だ」と機嫌を損ねた元横綱の朝青龍はじめ、英雄であり日本の天皇のような神聖な存在であるジンギスカンの名を料理につけていることを不快に思うモンゴル人は他にもおり,日本人はそのことを知っておかねばならない(373)とこの本は書いています。
令和5年
(1) 4月22日「成吉思汗たれの日」制定の由来と目的
           ベル食品

4月29日は「よう(4)・に(2)・く(9)」の語呂合わせで「羊肉の日」として広く知られています。2004年に北海道遺産に選ばれた北海道のソウルフードであるジンギスカンは、羊肉を焼いて食べるというもっともシンプルでポピュラーな羊肉料理です。ベル食品の「成吉思汗たれ」は、焼いた羊肉にかけたり、ジンギスカンの締めでうどんにかけて焼きうどんにしたりと、ジンギスカンには欠かせない調味料。さらに北海道では「羊肉の日」も含む、春の大型連休に花見をしながらジンギスカン・BBQを楽しむのが定番で、「成吉思汗たれ」需要の最盛期になります。「羊肉にかける」「成吉思汗たれの需要が高まる時期」ということから、週間カレンダーで「羊肉の日」の真上に位置する4月22日を「成吉思汗たれの日」として制定しました。

「成吉思汗たれ」について
ベル食品の「成吉思汗たれ」は1956年(昭和31年)発売開始した日本初の家庭用焼肉たれ。ジンギスカンの発祥地である北海道において、ジンギスカンのたれジャンルでシェアNo.1の実績を誇る、「北海道のソウルソース」です。羊肉を焼くジンギスカンはもちろん、牛豚鶏などの焼肉、しゃぶしゃぶのたれ、野菜炒め、チャーハン、ザンギ(北海道の唐揚げ)の下味、カレーの隠し味、焼きそば・焼きうどん、冷奴、納豆、卵かけご飯、餃子のたれなど、幅広い料理に使える万能調味料でもあります。

(2) その後の羊たち
           山本佳典

 下総の牧場は百年近い歴史に幕を下ろした。失われた姿はもう戻らない。しかし、この国の羊の歴史がそこで終わったわけではもちろんない。日本の牧羊の中心は戦後、北海道へと移って今に至っている。
 北海道も本州以南と同様、羊毛・羊肉の輸入自由化、化学繊維技術の発達、そして農業の選択的集中という逆風の中で、羊の飼育頭数が減少の一途を辿った。ただ、戦後の羊毛生産から羊肉生産への転換に伴う肉羊種「サフォーク」の導入と、十二カ月未満の仔羊の肉である「ラム」の普及や外食産業での羊肉活用の努力を長年にわたって重ねたことで、羊文化は北海道に欠かせないものになった。<略>
 そうした道独自の行政支援の一方で、一九七〇年代後半以降、登別のハピー牧場、白糠の茶路めん羊牧場、恵庭市のえこりん村といった大規模経営が登場するようになり、地域の人々の暮らしの中でも、各家庭に普及したジンギスカンの楽しみはもちろん、羊毛を紡ぐむホームスパン文化も草の根的に受け継がれてきた。大正期の国立種羊場から出発した滝川畜産試験場の閉鎖は大きな不安要素でもあったが、近年では同じ滝川に「松尾ジンギスカン」が自社牧場を拓くなど、新しい動きも続いている。北海道は、戦前の緬羊人たちによって戦後の日本社会に託された希望の樹が、今でもしっかりと根を張る唯一の場所になった。<略>

(3) 78歳おさげ女子学生
           溝口雅明

 このコラムの読者から「こんな鍋、知って
いますか」と電話を頂くことがある。年配の
方が多く、ついつい話し込んでしまう。
 札幌市南区の78歳の女性から電話を頂い
た。「小ぶりの鋳鉄製で、穴や隙間がたくさ
ん開いている鍋です。高校卒業後、初月給で
買いました」と言う。
 私から鍋の特徴を補足すると、「盛り上が
ったドームの真ん中に『喜喜』の字がある『銀
星印イースタン鍋、小(23cm)』と判明
した。1958年に三重県桑名市で製造され
た鍋だ。道内でも持っている人がいて、博物
館も大中小のサイズを所蔵している。そのジ
ン鍋にまつわる話が面白かった。
 その人は59年に札幌市内の女子高に入学
し、合唱部に入った。コンクールで全道優勝
し、そのお祝いに同じく優勝した市内男子高
合唱部と「藻南公園」でジンギスカンをやる
ことになった。初めて食べるジンギスカン。
それも野外で。「女子はセーラー服におさげ
髪、男子は詰め襟の学生服。カッコ良かった
わよ」「ドキドキしたけど、おしいかった」
と生き生きと話をされた。
 卒業後、札幌駅前のデパートに就職。ジン
ギスカンの味が忘れられず、最初の給料をジ
ン鍋の購入に使った。家族は「そんな臭い肉、
食べん」というので台所でガスコンロに掛け
て一人で食べた。やっぱりおいしかった。結
婚後も夫と時々使ったが、マンションのガス
コンロは安全装置が働いて使えなかった。
 こういうジン鍋談義があるから、館長は楽
しい。    (ジン鍋博物館長・岩見沢)

(4) 恋はいいぞ
           朝倉かすみ

<略> 室内ドアを開けると、みんな同時にこちらを見た。いや、その前に煙と熱気と肉の焼ける匂いが流れてきた。いやいやほんとの最初はドア越しに漏れるガヤガヤ音で、それがドアの開いた途端に静止画面になった、と思ったら、「やっ、くん、ダァ!」と歓声があがり動き出したのだった。
「ジンギスカン」
 シンちゃんが安田にうなずきかけた。新聞紙を敷いた背の低いセンターテーブルの真ん中に兜型の鉄鍋がでん、とある。小山には濃いピンク淡いピンクの羊肉たち、裾野はモヤシ玉ねぎピーマンの野菜勢。嘘みたいにジュージュー音を立て、煙だか湯気だかをモワッとあげている。ベランダの窓は開けているが、逃しきれない肉や脂や甘酸っぱくてやたらスパイシーなタレの匂いがリビングを完全に支配していて、安田は早くも白ごはんが欲しくなった。<略>
「健啖家!」
 マンマがシルバニアを冷やかした。どうもシルバニアはもう何度もお代わりをしているようだ。「あらやだ」とソファで隣に座っているマンマの肩を小突く。脇に置いたティッシュボックスから一枚抜き取り、口周りのギトギトを拭って、
「なんだか今日はナンボでも食べられそう」
 なぜなら調子がとてもいいので、とちょっと足を持ち上げソファの下部を踵でトントンと打った。「ジンギスカンだーい好き!」と堪えきれないように声を張ったあと、「アナタはもー少し食べないと」とマンマの小皿を覗き込んだ。その目をキョロッと上に向け、「ダイエットでしょ、こちとらお見通しですので」<略>


(5) 愛する羊
           角田光代

<略> 都内でジンギスカン店が続々オープン
し、値段も安い。しかもジンギスカンは
たれ付きの羊肉を焼くもの、と私は思い
こんでいたのだが、それらの店々では生
ラムが提供され、塩かたれか、調味料を
選んで食べることができた。このとき
だ。私の羊愛が爆発したのは。
 旅先で食べて感動しても、帰ってきて
食べられないとなれば、愛は爆発しな
かったろう。たとえば旅先でブラット
ソーセージに感動しても、帰国して、ど
こでも食べられるかといったらそうでも
ない。食べられる店をさがしてわざわざ
出向かねばならない。これでは愛は爆発
できない。
 だから私は幸運だった。当時、ジンギ
スカンの店は本当にどこにでもあった。
私の住む町にもあった。都心には行列店
もあったが、近所の店は気軽に入れて、
しかもおいしかった。
 その後、どういうわけかジンギスカン
ブームは下火になり、あれほど多かった
店がさーっと消えていった。心にぽっか
りと空洞ができたようなさみしさを味
わっていたのだが、その数年後、ジンギ
スカンではなく羊肉を扱う料理店のこと
を多く耳にするようになった。<略>
 そして今、冷静になって考えるに、私
の場合は食べ足りていないからではない
か。こんなに好きなのに、三十代半ばで
ジンギスカンブームを迎えるまで、羊肉
にきちんと出合えなかったのだ。若き日
に存分に愛せなかったぶん、今、こうし
て愛を補っているのではないか。

(6) ジンパ
           教授 江本理恵

ジンギスカン・パーティ=ジンパ。北大の夏を象徴する用語の1つ。
2021年10月に北大に着任した私にとっては、2023年の夏は、初・北海道の夏といってもよいぐらい。コロナで取りやめになっていたことが少しずつ復活してきており、その中の1つとして、この夏は「ジンパ」という言葉に出会いました。
私は、「ジンパ=ジンギスカン・パーティ」は、北海道内の一般的な用法だと思っていたのですが、もちろん、一般的でもあるものの、それ以上に北大の夏を象徴する言葉であることが判明しました。
さて、この「ジンパ」ですが、大きく3通りの実施方法があることがわかりました。ちなみに、20歳以上で泥酔しなければ、飲酒も許されています。<略>
この夏に私が学んだジンパ実施方法は上記の通りです。もし、他にもジンパ開催方法がありましたら、ぜひ教えてください。
このような「ジンパ」文化も、コロナで一度途絶えてしまって、もしかすると研究室やサークル等でも十分に引き継がれていないかもしれません。それはとても残念なこと。
学生の成長には正課外の活動も重要な役割を果たします。コロナで消えかけていたこれらの伝統ある行事が新しい形で復活して、そして、学生を育ててくれることを、私は楽しみにしています。そして、研究部の教員としても、様々な形で学生の課外活動を組織的に支援していきたいと考えています。

(7) 食は外交手段 創造力の源
         文 杉山恵子
        写真 山崎デルス

<略> そんな母は2022年の暮
れに89歳で亡くなった。戦争
を経験し、1人で北海道へ移
住して娘2人を育てた。どん
なことがあっても、楽しみを
持って生きる姿を見せてくれ
た。親は子どもにとって一番
身近な人生の手本だ。
 「いやあ、ご苦労さんでし
た」と心から思う。楽団OB
らが企画してくれた追悼コン
サートの最後の曲は「威風堂
々」。終了後に母の大好きだ
ったジンギスカンをみんなで
汗をたらしながら食べた。
 人生には苦しいことがたく
さんある。それをきれいごと
でごまかさずに、孤独や悲し
み、理不尽なことは山ほどあ
ると母は教えてくれた。同時
に「きょうは素晴らしい曲を
やるから、楽屋に遊びに来な
さい」と感動も共有してくれ
た。つらいことがあっても、
それを忘れさせてくれる楽し
さや感動があれば、乗り越え
られると信じている。<略>

(8) 焼失戸籍とご先祖様の霊
           新川帆立

<略> 囲炉裏のある旅館だった。竹串に刺した山女魚を囲炉裏の周りに置いて、化粧焼きにしてある。炭の芯がほの赤く光っては消え、光っては消えを繰り返している。古新聞が焼けるような煤けた匂いを嗅ぎながら、山女魚の串を一本引き抜いた。
 口に入れると苦さと塩気がちょうどいい。魚でもさもさした口の中にどぶろくを流し込む。地元で造っているというどぶろくは甘口で、素朴だが華やかな香りがした。ほんのりとした酸味が効いて飲みやすい。
 しばらくすると、野菜と羊肉が盛られた大皿と円形の鉄板が出てきた。ジンギスカンは北海道のイメージだが、遠野一帯でもよく食べられているらしい。タレに漬けた羊肉を焼くのではなく、肉を焼いてから甘辛いタレにつけて食べる。臭みの少ない引き締まった味だ。脂の甘みがタレの辛さと混ざり合う。白米が欲しくなったが、焼いたキャベツに挟んでもう一口食べた。
 一通りジンギスカンを食べ終わったころに、鍋料理が続いた。「ひっつみ鍋」という。小麦粉をこねて薄く伸ばしたものを手で引きちぎって鍋に入れてある。手で引きちぎることを方言で「ひっつみ」と言うため、この名称になっているらしい。鶏肉や根菜、キノコもたっぷり入っている。ひっつみにはブルブルとした弾力があり、箸でつかみにくいほどだ。一口かじると出汁がじわりと口の中に広がる。はふはふしながら、食べ終えた。<略>

(9) モンゴルには,ジンギスカン料理がないってホント?
           宇田川勝司

   モンゴル料理ではないのにジンギスカンと呼ぶのはなぜ?
   ジンギスカン料理は,いつ,どこで,どのように誕生したのだろうか?

 ジンギスカンと呼ばれる焼き肉料理は,実は日本が発祥である。モンゴル出身の第69代横綱白鵬は,日本に来るまでジンギスカンという料理を知らず,21歳で初優勝したときに祝いの席で初めてジンギスカン料理を食べたという。6人前の肉をペロリと平らげ,初体験のジンギスカン料理にすっかり満悦したそうだ。
 ジンギスカンという料理の名は,もちろんあのモンゴルの英雄ジンギスカン(チンギス・ハン)に由来し,彼が活躍していた時代,モンゴル軍の兵士たちが陣中食として羊肉を鉄兜に載せて焼いて食べていたことが,ジンギスカン料理の起源であるという説がある。筆者もこの説をすっかり信じていたのだが,実はこの説は誤りだ。
 そもそもモンゴルには日本のように鉄板や網で肉を焼いて食べる習慣がない。モンゴルでは,古くから羊の遊牧が盛んであり,モンゴル人は今も昔も羊肉をよく食べる。ただ彼らの伝統的な羊肉の調理法は骨付きのブロック肉を塩で煮込むシンプルなもので,チャンサンマハと呼ばれる料理である。他には,羊肉を缶に入れて蒸し焼きにしたり,スープにしたりする料理があるが,モンゴルにはジンギスカンのような焼き肉料理はないのだ。<略>
 やー、やっと終わりです。話す私は当然として、聞く方もこれだけ長く聞かされるのも疲れるよね。これに懲りて来年からは3回ぐらいに分け、資料配り形式で話すことにしよう。とにかくご苦労さん、講義録を読む人もこんなに長いページは読んだことはないとあきれているかな、ここまで続かないかも知れんが、いいでしょう。「意外とジンギスカンの歴史が浅い」などと、うそぶくやつはジンパ学の研究深度を知らないから言えるのです。
 きょうは正門を出たらタクシーを拾って帰ることにしよう。とにかくご苦労さん、終わります。

何もないはずなんです。
 文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気付きの点がありましたら、まずは
 shinhpjinpagaku@gmail.com 
尽波満洲男へご一報下さるようお願いします。



    参考文献

******************************
(1)は農商務省編「農務彙纂第六 第二次畜産統計」41ページ、明治43年12月、農商務省農務局=国会図書館デジタルコレクション
(2)は小谷武治著「羊と山羊」5ページ、「緬羊の性状及び名称」より、明治45年4月、丸山舎書籍部=国会図書館デジタルコレクション
小谷武治著「羊と山羊」80ページ、「羊の効用」より、同
《1》は大正元年9月22日付新支那28号11面「燕京日誌」=マイクロフィルム
《2》は同年10月13日付同31号11面、同
《3》は同年10月27日付同33号11面、同
(3)は大正2年10月22日付新支那80号8面「中村総裁の歓迎会」=マイクロフィルム
(4)は同年11月10日付満洲日日新聞朝刊5面「第二次山賊会 満洲館庭前鋤鍋会の光景 主客三十余名の牛飲馬食」、同
(5)と(6)は同年同月11日付同2面「大観小観」、同
(7)は同年同月16日付同
(8)は同年同月19日付同
(9)は同年12月2日付同
大正2年12月2日付満洲日日新聞2面「大観小観」=マイクロフィルム
大正2年12月25日付満洲日日新聞2面「大観小観」=マイクロフィルム
(10)は大正3年1月13日付満洲日日新聞5面「編輯日誌」=マイクロフィルム
大正3年1月13日付満洲日日新聞5面「編輯日誌」=マイクロフィルム
長崎発生著「鶏と羊と山羊」314ページ、大正6年2月、国民書院=原本
(11)は松永安左衛門著「支那我観」中の「支那小游」69ページ、大正8年3月、実業之世界社=国会図書館デジタルコレクション
(12)は星野書店編「歴史と地理」10巻4号52ページ、那波利貞「津浦鉄路にて北京より南京へ―燕呉載筆録(第廿四回)―」より、大正11年10月、星野書店=国会図書館ダジタルコレクション
(13)は大町桂月著「満鮮遊記」152ページ、「鄭家屯の二夜」より、大正8年11月、大阪屋号書店=国会図書館デジタルコレクション
(14)は同306ページ、「満鮮日記」より、同
松永安左衛門著「支那我観」中の「「支那小游」69ページ、大正8年3月、実業之世界社=国会図書館デジタルコレクション
星野書店編「歴史と地理」10巻4号52ページ、那波利貞「津浦鉄路にて北京より南京へ―燕呉載筆録(第24回)―」より、大正11年10月、星野書店=国会図書館デジタルコレクション
大町桂月著「満鮮遊記」152ページ、「鄭家屯の二夜」より、大正8年11月、大阪屋号書店=国会図書館デジタルコレクション
(15)は農林水産省畜産局畜産振興課編「めん羊・山羊をめぐる情勢」(令和4年6月)= https://www.maff.go.jp/
j/chikusan/kikaku/tikusan_
sogo/attach/pdf/sonota-11.pdf
(16)は農林省畜産局編「本邦ノ緬羊」26ページ、「地方別飼育者数及飼育頭数(昭和3年末現在)」より、昭和5年6月、農林省畜産局=国会図書館デジタルコレクション
農商務省農務局緬羊課編「緬羊彙報」1巻1号1丁裏、大正8年1月、農商務省農務局緬羊課=原本
(17)は木下杢太郎著「支那南北記」207ページ、「朝鮮より北京へ」より、大正15年1月、改造社=国会図書館デジタルコレクション
(18)と(19)は日本陶磁協会編「陶説」366~385号、松下亘「土を化して玉となす―小森忍の生涯―」18回連載より、昭和58年9月~同60年4月、日本陶磁協会=国会図書館デジタルコレクション
木下杢太郎著「支那南北記」210ページ、「大同府及び雲崗」より、大正15年1月、改造社=国会図書館デジタルコレクション
紫紅会編「紅」2号14ページ、小森忍「北京羊肉」より、昭和31年6月、紫紅会=原本
(20)は津金澤聰広、 田畑きよ子、名取千里編著「タカラヅカという夢 1914~2014 100th」225ページ。槇田盤「一九一四年の宝塚観劇記録―芦田止水日記から」より、平成26年5月、青弓社=原本
(21)は南博責任編集「近代庶民生活誌 6 食・住」180ページ、松崎天民「京阪220
食べある記」より、平成5年3月3刷、三一書房=原本
(22)は北農会編「北農」25巻1号(通巻274号)22ページ、資料解説「北海道に於ける農業試験機関年表」、昭和30年1月、社団法人北農会=原本
名物及特産社編「名物及特産」2巻2号6ページ、蘆田止水「北京名物 成吉斯汗料理」より、大正12年2月、名物及特産社=原本
川崎甫著「明治百年農業史 年表」108ページ、昭和43年4月、近代農業社=国会図書館デジタル本
(23)は山田政平著「素人に出来る支那料理」1ページ、「はしがき」より、大正15年1月、婦人之友社=国会図書館デジタルコレクション
(24)は山田政平著「飲食雑記」212ページ、昭和28年9月、芥子社=原本、
(25)は内閣印刷局編「職員録 明治41年(甲)」896ページ、大蔵省発行から同「職員録 大正6年(甲)」1319ページ、印刷局発行までの10年分10冊による
(26)は平成元年3月5日付読売新聞朝刊14面、「食のページ」より、ヨミダス歴史館
(27)は山田政平著「素人に出来る支那料理」23ページ、大正15年1月、婦人之友社=国会図書館デジタルコレクション
(28)は中央畜産会編「緬羊」32ページ、松井平五郎「羊肉販売の実況」より、大正15年6月、中央畜産会=国会図書館デジタルコレクション
(29)は同35ページ、山田喜平「肉羊閑話」、同
(30)は鹿島竜蔵著「第一、第三涸泉集」347ページ、「時文」より、昭和7年7月、鹿島富夫、上田美実=国会図書館デジタルコレクション
山田政平著「素人に出来る支那料理」141ページ、「原始的な成吉斯汗料理」より、大正15年1月、婦人之友社=国会図書館デジタルコレクション
中央畜産会編「緬羊」32ページ、大正15年6月、「羊肉の消費力」より、中央畜産会=国会図書館デジタルコレクション
鹿島竜蔵著「第一、第三涸泉集」362ページ、「北京(上)」より、昭和7年7月、鹿島富夫、上田美実=国会図書館デジタルコレクション
(31)は日国友の会=https://japanknowledge.com/
tomonokai/
(32)は武井時紀著「北海道 人と風土の素描」116ページ、平成15年6月、北海道出版企画センター=原本
(33)は札幌農学校編「札幌農学校一覧 従明治二十五年至明治二十六年」111ページ、明治26年3月、札幌農学校=国会図書館デジタルコレクション
(34)は同「札幌農学校一覧 同従明治二十六年至明治二十七年」105ページ、明治27年4月、同
(35)は日本文学報国会詩部会編「児玉花外詩集」234ページ、昭和18年7月、文松堂書店=国会図書館デジタルコレクション
後藤文夫編「田沢義鋪選集」745ページ、「雑草」より、昭和42年3月、田沢義鋪記念会(非売品)=国会図書館デジタルコレクション
野田健治編「化学工芸」11巻5・6合併号ページ、山賀益三「羊毛概説(三)」より、昭和2年5月、化学工芸社=国会図書館ダジタルコレクション
政教社編「日本及日本人」135号63ページ、児玉花外「成吉思汗焼の歌」より、昭和2年11月15日、政教社=原本
糧友會編「糧友」2巻11号2ページ、「羊肉食宣傳の趣旨」より、昭和2年11月、糧友會=原本
 糧友会編「糧友」3巻4号116ページ、「第三回羊肉料理講習会」より、昭和3年4月、糧友会=原本
(36)は濱田恒之助、 大山長資共著「我が殖民地」自序、ページ番号なし、昭和3年2月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
(37)は同231ページ、大山長資「第一編 満洲」より、同
(38)は「世界紀行文学全集 第11巻 中国編Ⅱ」139ページ、安倍能成「瞥見の支那」より、昭和35年2月、修道社=国会図書館デジタルコレクション
(39)は同145ページ、同
糧友会編「糧友」3巻1号122ページ、「第一回羊肉料理講習会」より、昭和3年1月、糧友会=原本
濱田恒之助、 大山長資共著「我が殖民地」231ページ、大山長資「第一編 満洲」より、昭和3年2月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
志賀直哉、佐藤春夫、川端康成監修「世界紀行文学全集 第11巻 中国編Ⅱ」143ページ、安倍能成「瞥見の支那」より、昭和35年2月、修道社=国会図書館デジタルコレクション
糧友会編「糧友」3巻12号110ページ、丸本彰造「羊肉の話」より、昭和3年12月、糧友会=原本
(40)は渡邊滋編「裁縫雑誌」21巻第12月号79ページ、一戸伊勢「羊肉に就て」、大正11年12月、東京裁縫学校出版部=国会図書館デジタルコレクション
(41)は
https://www.bcjjl.org/
upload/pdf/bcjjlls-8-1-129.pdf
(42)は遅塚麗水著「満鮮趣味の旅」300ページ、昭和5年4月、大阪屋号書店=国会図書館デジタルコレクション
(43)は同235ペーシ、同
仲摩照久編「世界地理風俗大系」2巻277ページ、「東城市場」より、昭和4年6月、新光社=国会図書館デジタルコレクション
沢本嘉郎ほか編「世界地理風俗大系」6巻256ページ、昭和38年10月、誠文堂新光社=国会図書館デジタルコレクション
(44)は成吉思荘編「うたげ」ページ番号不明、糧堂「成吉思汗料理」より、平成18年5月
北海道畜産会編「畜産雑誌」第27巻4号28ページ、一戸伊勢子「羊肉料理法」より、昭和4年4月、北海道畜産協会=原本

女人芸術社編「女人芸術」2巻5号33ページ、笙千鳥「初夏の北平郊外」より、昭和4年5月、女人芸術社=国会図書館デジタルコレクション
西村久一郎編「相聞」1巻5号8ページ、遅塚麗水「成吉士汗料理」より、昭和4年10月、太白社=原本
仲摩照久編「世界地理風俗大系」2巻277ページ、「東城市場」より、昭和4年6月、新光社=国会図書館デジタルコレクション
糧友会編「現代食糧大観」712ページ、丸本彰造「成吉斯汗料理」より、昭和4年12月、糧友会=国会図書館デジタルコレクション
(45)は後藤朝太郎著「大支那大系 風俗趣味篇」8巻224ページ、「四十七 支那料理」より、昭和5年5月、万里閣書房=国会図書館デジタルコレクション
(46)は同ページ、同
(47)は昭和5年6月13日付時事新報夕刊1面、里見弴「満支一見」66回より=マイクロフィルム
(48)は里見弴著「満支一見」108ページ、昭和6年2月、春陽堂=国会図書館デジタルコレクション
(49)は久保田万太郎著「久保田万太郎全集」14巻48ページ、昭和22年9月、好学社=国会図書館デジタルコレクション
後藤朝太郎著「支那料理通」31ページ、昭和5年1月、四六書院=国会図書館デジタルコレクション
昭和5年6月13日付時事新報夕刊1面「満支一見」66回=マイクロフィルム
上法快男編「元帥 寺内寿一」182ページ、山田鉄二郎「寺内将軍を偲ぶ」より、昭和53年6月、寺内寿一刊行会=国会図書館デジタルコレクション
(50)は竹越與三郎著「倦鳥求林集」211ページ、昭和10年6月、岡倉書房=国会図書館デジタルコレクション
(51)は岡西為人編「大谷光瑞師著作総覧」49ページ、「昭和6年(1931)」より、昭和39年4月、瑞門会=国会図書館デジタルコレクション
(52)は大谷光瑞著「大谷光瑞全集」8巻79ベージ、「羊肉」より、昭和10年4月、大乗社=国会図書館デジタルコレクション
(53)は同136ページ、「羊」より、同
(54)は玉井莊雲著「内外蒙古の横顔」1ページ、「自序」より、昭和6年7月、海外社=国会図書館デジタルコレクション
(55)は地球学会編「地球」16巻3号42ページ、小牧実繁「北京より多倫まで(一)」より、昭和6年9月、地球学会=国会図書館デジタルコレクション
(56)は同4号55ページ、小牧実繁「北京より多倫まで(二)」より、昭和6年10月、地球学会=同
(57)は同3号50ページ、小牧実繁「北京より多倫まで(一)」より、昭和6年9月、地球学会=同
(58)は石渡繁胤著「満洲漫談」61ページ、昭和10年1月、明文堂=国会図書館デジタルコレクション
昭和6年1月1日付北海タイムス朝刊17面、鹿野澄「羊肉ロマンス 成吉思汗料理」=原本

曲水社編「曲水」166号29ページ、昭和6年1月、曲水社==国会図書館デジタルコレクション
大谷光瑞著「大谷光瑞全集」8巻135ベージ、「羊」より、昭和10年4月、大乗社=国会図書館デジタルコレクション
玉井莊雲著「内外蒙古の横顔」138ページ、昭和6年7月、海外社=国会図書館デジタルコレクション
久保田万太郎著「久保田万太郎全集」14巻57ページ、「じんぎすかん料理」より、昭和22年9月、好学社=国会図書館デジタルコレクション
地球学会編「地球」16巻3号50ページ、小牧実繁「北京より多倫まで(一)」より、昭和6年9月、地球学会=国会図書館デジタルコレクション
松崎天民編「食道楽」第5年第10号2ページ、中野江漢「成吉思汗料理の話」より、昭和6年10月、食道楽社=原本
石渡繁胤著「満洲漫談」1ページ、昭和10年1月、明文堂=国会図書館デジタルコレクション
(59)は吉田誠一著「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」218ページ、「山羊、鹿、羊、料理」、昭和3年9月、博文館=国会図書館デジタルコレクション
(60)は昭和7年11月25日付報知新聞朝刊5面「おすゝめしたい成吉思汗料理 原始的で手軽な珍味」=マイクロフィルム
(61)は日本料理研究会編「日本料理研究会報」1巻8号30ページ、昭和5年8月、日本料理研究会=原本  国会図書館
昭和7年3月24日付中外商業新報朝刊5面「烤羊肉(上)/美味百パーセントの成吉思汗料理/これを取入れて食前を賑はして頂きたい」=マイクロフィルム
松崎天民編「食道楽」号108ページ、座談会「豚・羊・栄養・芸妓」
昭和7年4月、食道楽社=原本
(62)は入澤達吉著「雲荘随筆」191ページ、昭和8年4月、大畑書店=国会図書館デジタルコレクション
(63)は研究社編「英語青年」90巻11号30ページ、「片々録」より、昭和19年11月、研究社=原本
(64)は大村華子編「追慕」199ページ、昭和10年8月、大村華子=国会図書館デジタルコレクション
(65)はホームページ「白象の気まぐれコラムⅡ」=
https://shirozou3221.seesaa.
net/article/200804article_3.html
婦女界社編「婦女界」47巻1号471ページ、富山栄太郎「豪快な気分の成吉思汗料理」より、昭和8年1月、婦女界社=原本
入澤達吉著「雲荘随筆」196ページ、昭和8年4月、大畑書店=国会図書館デジタルコレクション
夏川静江著「私のスタヂオ生活」4巻13ページ、「成吉思汗料理」より、昭和8年5月、佐々木静江=国会図書館デジタルコレクション
市河三喜、市河晴子著「欧米の隅々」73ページ、昭和8年7月、研究社=国会図書館デジタルコレクション
賀来敏夫著「支那常識」86ページ、昭和8年月、大畑書店=国会図書館デジタルコレクション
婦人之友社編「婦人之友」27巻12号128ページ、「お国料里12月 満鮮地方」より、昭和8年12月、婦人之友社
(66)は神原周平編「経済倶楽部講演 44」49ページ、瀬下清「満洲国を視察して」より、昭和9年1月、東洋経済出版部=国会図書館デジタルコレクション
(67)は北海道農業教育研究会編「緬羊と其の飼ひ方」9ページ、「農家と緬羊」より、昭和9年5月、淳文書院=国会図書館デジタルコレクション
(68)は同71ページ、同
(69)は
https://spc.jst.go.jp/
cad/literatures/download/7663
(70)は「日本新聞年鑑 大正十一年」2巻57ページ、昭和60年12月、大阪毎日新聞社論説課員兼外国通信部支那課員、日本図書センター、「新聞及新聞記者」3巻5号「日本記者年鑑」の改題複製及び新聞研究所編「日本新聞年鑑」昭和8年版108ページ、大阪毎日新聞社東亜通信部顧問、昭和8年12月、新聞研究所=両書とも国会図書館デジタルコレクション
(71)は中国研究所編「中国研究月報」48巻4号32ページ、研究ノート・萩野脩二「『支那通』について」より、平成6年4月、 中国研究所=原本
(72)は小生夢坊著「僕の見た満鮮」4ページ、大北筆一「序」より、昭和9年12月、月旦社=国会図書館デジタルコレクション
神原周平編「経済倶楽部講演 44」21ページ、瀬下清「満洲国を視察して」より、昭和9年1月、東洋経済出版部=国会図書館デジタルコレクション
北海道農業教育研究会編「緬羊と其の飼ひ方」9ページ、「農家と緬羊」より、昭和9年5月、淳文書院=国会図書館デジタルコレクション
田原豊著「満蒙綺談」28ページ、昭和9年7月、日本軍用図書=国会図書館デジタルコレクション
偕行社編集部編「偕行社記事」720号256ページ、昭和9年9月、偕行社編集部=国会図書館デジタルコレクション
東亜研究会編「東亜研究講座」第59輯53ページ、沢村幸夫「支那草木虫魚記」より、昭和9年10月、東亜研究会=国会図書館デジタルコレクション
小生夢坊著「僕の見た満鮮」141ページ、昭和9年12月、月旦社=国会図書館デジタルコレクション
(73)は岐阜県教育会編「岐阜県大地理」802ページ、「牧畜業 概説」より、昭和10年1月、岐阜県教育会=国会図書館デジタルコレクション
(74)は小谷部全一郎著「義経と満洲 普及版」119ページ、昭和10年3月、厚生閣書店=国会図書館デジタルコレクション
(75)は大阪生活衛生協会編「家事と衛生」12巻8号78ページ、太田要次「暑気に應しい酢料理五種」より、昭和11年8月、大阪生活衛生協会=国会図書館デジタルコレクション
(76)と(77)は文芸春秋社編「文芸春秋」第10巻3号259ページ、「都市欄 銀座」より、昭和7年3月、文芸春秋社=館内限定デジタル本
(78)は平凡社編「百科事典の歴史」65ページ、昭和39年6月、平凡社=国会図書館デジタルコレクション
(79)は今枝折夫著「満洲異聞」序、昭和10年11月、月刊満州社=国会図書館デジタルコレクション
岐阜県教育会編「岐阜県大地理」814ページ、「産業」より、昭和10年1月、岐阜県教育会=国会図書館デジタルコレクション
小谷部全一郎著「義経と満洲 普及版」118ページ、昭和10年3月、厚生閣書店=国会図書館デジタルコレクション
大谷光瑞著「大谷光瑞全集」8巻77ページ、「支那料理」より、昭和10年4月、大乗社=国会図書館デジタルコレクション
 上方食道楽・食通」複製版3巻60ページ、平成28年10月、丸善雄松堂出版=原本、底本は豊福寛編「食通」3年2号10ページ、昭和10年3月、食通社
「上方食道楽・食通」複製版3巻122ページ、平成28年10月、丸善雄松堂出版=原本、底本は豊福寛編「食通」3年3号18ページ、昭和10年3月、食通社
糧友会編「糧友」10巻5号77ページ、糧友会「糧友百号御継続のお方に贈呈する成吉思汗鍋の使用法ろより、昭和10年5月、糧友会=国会図書館デジタルコレクション
資料その1は昭和10年糧友会が愛読者と陸軍主計関係者に無料贈呈した「糧友会十周年記念成吉思汗鍋。ジン鍋アートミュージアム(岩見沢)所蔵
冨山房百科辞典編纂部編「国民百科大辞典」7巻73ページ、昭和10年9月、冨山房=国会図(満蒙旅行)292ページ、昭和51年6月、平凡社=原本
今枝折夫著「満洲異聞」140ページ、「成吉斯汗料理」より、昭和10年11月、月刊満州社=国会図書館デジタルコレクション
復刻『江戸と東京』」88ページ、平成3年4月、明石書店、原本は石角春之助編「江戸と東京」1巻2号26ページ、「大東京色とり/\゛評判記【一】」より、昭和11年3月、江戸と東京社
(80)は「復刻『江戸と東京』第1冊」190ページ、平成3年4月、明石書店、原本は石角春之助編「江戸と東京」3巻6号20ページ、「東京の盛り場 支那料理なまの元祖」より、昭和12年6月、江戸と東京社
(81)は夏目一拳著「子供にきかせる蒙古の話」247ページ、「成吉斯汗乾肉」より、昭和11年7月、南光社=国会図書館デジタルコレクション
(82)は同249ページ、「成吉斯汗漬肉」より、同
(83)は圓谷弘著「支那社会の測量」330ページ、「満洲国を視察して」より、昭和11年9月、有斐閣=国会図書館デジタルコレクション
(84)は同331ページ、同
(85)は「飯塚浩二著作集 10 (満蒙紀行)」292ページ、「羊の乾肉のホタージュ」より、昭和51年6月、平凡社=国会図書館デジタルコレクション
(86)は新天地社編「新天地」16年10号101ページ、鷲田稲作「成吉斯汗鍋」より、昭和11年10月、新天地社=国会図書館デジタルコレクション
(87)は芥川竜之介著「支那游記」7ページ、「上海游記」より、大正14年11月、改造社=国会図書館デジタルコレクション
(88)は復刻版「日本新聞年鑑第1巻(大正10年版)」36ページに学芸部に芥川、上海特派員として村田が載っている。なお同年鑑の昭和3年版まで上海支局村田の名が載っている。同書は国会図書館デジタルコレクション
(89)は村田孜郎著「風雲蒙古」2ページ、「著者の言葉」より、昭和11年9月、昭森社=国会図書館デジタルコレクション
(90)は善隣会編「善隣協会史 内蒙古における文化活動」21ページ、音尾秀夫「回想 善隣協会」より、昭和56年7月、日本モンゴル協会=国会図書館デジタルコレクション
(91)は秦剛「芥川龍之介中国視察の案内人──村田孜郎、波多野乾一に関する資料拾遺──」=
https://www.jstage.jst.go.jp/
article/akutagawastudies/
15/0/15_49/_pdf/-char/en
「上方食道楽・食通」複製版4巻140ページ、 平成28年10月、丸善雄松堂出版、底本は豊福寛編「食通」4年2号36ページ、「食通社名古屋支社第一回試食会」、昭和11年2月、食通社=原本
「復刻『江戸と東京』」225ページ、平成3年4月、明石書店、原本は石角春之助編「江戸と東京」2巻2号45ページ、「大東京色とり/\゛評判記【三】」より、昭和11年3月、江戸と東京社
山本千代喜編「明治屋食品辞典」246ページ、「マツトン」より、昭和11年4月、明治屋東京支店=国会図書館ダジタルコレクション
夏目一拳著「子供にきかせる蒙古の話」246ページ、「成吉斯汗焼肉(成吉斯汗鍋)」より、昭和11年7月、南光社=国会図書館デジタルコレクション
圓谷弘著「支那社会の測量」294ページ、「駱駝と成吉思汗料理」より、昭和11年9月、有斐閣=国会図書館デジタルコレクション
杉村広太郎著「と見かう見」57ページ、「千葉茨城埼玉」より、昭和11年9月、日本評論社=原本
八紘学園七十年史編集委員会編「八紘学園七十年史」159ページ、平成14年7月、八紘学園=原本
新天地社編「新天地」16年10号100ページ、「秋の味覚」より、昭和11年10月、新天地社=国会図書館デジタルコレクション
村田孜郎著「風雲蒙古」80ページ、「蒙古人気質」より、昭和11年12月、昭森社=国会図書館デジタルコレクション
赤坂松井直営・成吉思莊制作「宣伝パンフレット」より、推定昭和11年、杉並区高円寺2丁目・成吉思莊=原本
(92)と(93)は添田唖蝉坊著「浅草底流記」103ページ、「三十五銭のビール・支那料理・鮓」より、昭和6年10月、近代生活社=国会図書館デジタルコレクション
(94)は糧友会編「糧友」12巻11号付録『羊新聞』11号14ページ、川島四郎「羊肉食と蒙古人」より、昭和12年11月、糧友会=国会図書館デジタルコレクション
復刻『江戸と東京』」90ページ、平成3年4月、明石書店、原本は石角春之助編「江戸と東京」3巻3号32ページ、「大東京色とり/\゛評判記【十】」より、昭和12年3月、江戸と東京社
糧友会編「糧友」12巻11号付録『羊新聞』11号14ページ、川島四郎「羊肉食と蒙古人」より、昭和12年11月、糧友会=国会図書館デジタルコレクション
(95)は「満洲人名辞典」下巻1617ページ、平成元年5月、日本図書センター=原本、底本は中西利八編「満洲紳士録 第三版」、昭和15年、満蒙資料協会
(96)は高浜年尾著「高浜年尾全集」4巻266ページ、平成8年10月、梅里書房=原本
(97)は石敢当著「雑談支那」17版43ページ、「27 料理」より、昭和13年10月、月刊満洲社=国会図書館デジタルコレクション
(98)は
http://www.midorinet-meiji.jp
/information/pdf/70th-
anniversary/p11-12.pdf
文芸春秋社編「文芸春秋」16巻1号394ページ、「風物支那に遊ぶ座談会」より、昭和13年1月、文芸春秋社=館内限定デジタル本
農林省畜産局畜産課緬羊係編「緬羊彙報」10号13ページ、山田生「肉羊の話」より、昭和13年4月、農林省畜産局
石敢當著「雑談支那」43ページ、昭和13年10月、月刊満洲社=国会図書館デジタルコレクション
農村文化協会編「農政研究」17巻9号55ページ、山崎延吉「農村旅行漫録」より、昭和13年9月、農村文化協会=原本
北支那経済通信社編「北支・蒙疆現勢 昭和十三年度版」448ページ、昭和13年11月、北支那経済通信4社=原本
(99)は藤田元春著「日本地理学史」668ページ、海野一隆「解題」より、昭和59年10月、原書房=国会図書館デジタルコレクション
(100)は石井漠著「皇軍慰問 北支から中支へ」33ページ、「二人の石井漠」より、昭和14年4月、日本教育資料刊行会=国会図書館デジタルコレクション
(101)は長谷川春子画と文「北支蒙疆戦線」184ページ、昭和14年5月、暁書房=国会図書館デジタルコレクション
(102)は須田晥次著「洋車」104ページ、昭和14年9月、古今書院=国会図書館デジタルコレクション
(103)は改造社編「改造」21巻8号37ページ、池田さぶろ画と文「北支蒙疆従軍画報」より、昭和14年6月、改造社=マイクロフィルム
(104)は岡本正行著「蒙疆の畜産」16ページ、「蒙古人の衣食住」より、昭和15年7月、農林省畜産局=国会図書館デジタルコレクション
資料その2は改造社編「改造」第21巻8号37ページ、池田さぶろ画と文「北支蒙疆従軍画報」より、昭和14年8月、改造社=マイクロフィルム
(105)は文芸春秋社編「文芸春秋」17巻6号129ページ、奥野信太郎「燕京食譜」より、昭和14年6月、文芸春秋社=館内限定デジタル本
(106)は梅原龍三郎著「画集北京」第3部191ページ、昭和48年4月、求龍堂=原本
(107)は中央公論編「中央公論」54巻12号87ページ、島一郎「北京だより」より、昭和14年11月、中央公論社=館内限定デジタル本
藤田近二著「戦場絵日記 藤田軍医少佐遺稿」同214ページ、昭和14年11月、高見沢木版社=国会図書館デジタルコレクション
藤田元春著「大陸支那の現実」153ぺージ、「第一篇 通説」より、昭和14年1月、冨山房=国会図書館デジタルコレクション
石井漠著「皇軍慰問 北支から中支へ」36ページ、「成吉思汗鍋と東安市場」より、昭和14年4月、日本教育資料刊行会=国会図書館デジタルコレクション
長谷川春子画と文「北支蒙疆戦線」、昭和14年5月、暁書房=国会図書館デジタルコレクション
須田晥次著「洋車」、昭和14年9月、古今書院=国会図書館デジタルコレクション
改造社編「改造」第21巻8号37ページ、昭和14年8月、改造社=マイクロフィルム
文芸春秋社編「文芸春秋」17巻6号129ページ、昭和14年6月、文芸春秋社=館内限定デジタル本
梅原龍三郎著「画集北京」、昭和48年4月、求龍堂=原本
昭和14年12月27日付満洲新聞5面「烤羊肉の味覚」=マイクロフィルム
中央公論編「中央公論」54巻12号87ページ、島一郎「北京だより」より、昭和14年11月、中央公論社=館内限定デジタル本
藤田近二著「戦場絵日記 藤田軍医少佐遺稿」同237ページ、昭和14年11月、高見沢木版社=国会図書館デジタルコレクション
同239ページ、同
同261ぺージ、同
資料その3は大東文化協会編「新制時文読本」ページ番号なし、「中華民国風俗」より、昭和14年9月、東京開成館=国立教政策研究所教育図書館所蔵
(108)は内閣印刷局編「職員録 昭和3年7月1日現在」298ページ、農林省腫羊場長~1同「職員録 昭和14年7月1日現在」281ページ、同
(109)は岡本正行著「蒙疆の畜産」17ページ、昭和15年7月、農林省畜産局=国会図書館デジタルコレクション
大東文化協会編「新制時文読本教授資料」118ページ、「読本挿画解説」より、昭和15年4月、東京開成館=国会図書館デジタルコレクション
岡本正行著「蒙彊の畜産」17ページ、昭和15年7月、農林省畜産局=国会図書館デジタルコレクション
「上方食道楽・食通」複製版12巻378ページ、 平成28年10月、丸善雄松堂出版、底本は豊福寛編「食通」8年11号46ページ、小川正之助「ハイラル食信」、昭和15年11月、食通社
日支問題研究会編「特輯 山東開発の現況及其将来」193ページ、養稼山人「支那談片」より、昭和15年12月、日支問題研究会=原本
(110)は昭和16年1月1日付日布時事4面=米フーバー研究所邦字新聞コレクション=
https://hojishinbun.
hoover.org/?a=cl&cl=CL1&sp=tnj
(111)は北支那経済通信社編「北支那」5巻6号70ページ。M生「柯政和氏を語る」より、昭和13年6月、北支那経済通信社=国会図書館デジタルコレクション
(112)は柯政和著「中国人の生活風景」2ページ、「はしがき」より、昭和16年6月、皇国青年教育協会=国会図書館デジタルコレクション
(113)は陳逢源著「新支那素描」100ページ、「柯政和其の他」より、昭和14年4月、臺灣新民報社=国会図書館デジタルコレクション
(114)と(115)は「現代国民文学全集 第16巻 (尾崎士郎集)」396ぺージ、「年譜」より、昭和33年1月、角川書店=国会図書館デジタルコレクション
(116)は里見弴著「満支一見」66回「成吉思汗料理」、昭和5年6月13日付時事新報夕刊1面=原本
(117)は高浜年尾著「高浜年尾全集 第4巻」123ページ、「思ひ出づるまゝに 十三」より、平成8年10月、梅郷書房=原本
(118)は内務大臣官房文書課編纂「日本帝国国勢一班 第43回」465ページ、「壮丁身長」より算出、大正14年12月、大臣官房文書課=原本
(119)は高浜年尾著「高浜年尾全集 第4巻」101ページ、「思ひ出づるまゝに 二十」より、平成8年10月、梅郷書房=原本
(120)は同96ぺージ、「同 十」より、同
昭和16年1月1日付日布時事4面=米フーバー研究所邦字新聞コレクション=
https://hojishinbun.hoover.org/?
a=cl&cl=CL1&sp=tnj
米田祐太郎著「支那百話」150ページ、昭和16年2月、教材社=国会図書館デジタルコレクション
柯政和著「中国人の生活風景」172ページ、昭和16年6月、皇国青年教育協会=国会図書館デジタルコレクション
尾崎士郎著「関ヶ原」207ページ、「成吉思汗鍋」より、昭和16年1月、高山書院=国会図書館デジタルコレクション
高浜年尾著「高浜年尾全集 第4巻」267ページ、「思ひ出づるまゝに 七十」より、平成8年10月、梅郷書房=原本
安藤更生編「北京案内記」333ページ、昭和16年11月、新民印書館=国会図書館デジタルコレクション
池田小菊著「来年の春」158ページ、昭和16年12月、全国書房=国会図書館デジタルコレクション
(121)は小川琢治編「袖珍改新世界詳図」訂正再版販第7図、「満洲及東部内蒙古」より、大正10年11月、冨山房=原本
満鉄鉄道総局旅客課著「満洲風物帖」143ページ、「支那料理の材料」より、昭和17年12月、「支那料理」より、大阪屋号書店=国会図書館デジタルコレクション
(122)は稲垣史生著「東亜の友だち」ページ番号なし、「著者略歴」、昭和18年1月、帝国教育会出版部=国会図書館デジタルコレクション
(123)は同114ページ、「蒙古軍が強かつたわけ」より、同
(124)と(125)は高木健夫著「北京繁盛記」147ページ、昭和37年9月、雪華社=国会図書館デジタルコレクション
(126)は高健子著「北京横丁」139ページ、18年6月、大阪屋号書店=原本
(127)は高木健夫著「北京繁盛記」148ページ、昭和37年9月、雪華社=国会図書館デジタルコレクション
資料その4は高健子著「北京横丁」120ページから121ペーシの間のページ番号なし6ペーシにある画家千地琇弘が描いた12枚のうちの先頭から6番目の絵。昭和18年6月、大阪屋号書店=原本
(128)は編輯代表川端康成「日本小説代表作全集 第11巻」251ぺージ、永井龍男「手袋のかたつぽ」より、昭和19年3月、小山書店=国会図書館デジタルコレクション
(129)は小学館日本国語大辞典編集部編「日本国語大辞典」第2版 第7巻561ページ、平成16年12月、小学館=原本
(130)と(131)は小学館日本国語大辞典編集部編「精選版 日本国語大辞典」第2巻(さ~の)722ページ、平成18年2月、小学館=原本
(132)は羅信耀著、式場隆三郎訳「北京の市民」下巻56ページ、「秋来る」より、昭和18年7月、文芸春秋社=国会図書館ダジタルコレクション
稲垣史生著「東亜の友だち」112ぺージ、昭和18年1月、帝国教育会出版部=国会図書館デジタルコレクション
高健子著「北京横丁」137ページ、「烤羊肉(二)」より、昭和18年6月、大阪屋号書店=原本
編輯代表川端康成「日本小説代表作全集 第11巻」255ぺージ、永井龍男「手袋のかたつぽ」、昭和19年3月、小山書店=国会図書館デジタルコレクション
羅信耀著、式場隆三郎訳「北京の市民」下巻56ページ、「秋来る」より、昭和18年7月、文芸春秋社=国会図書館ダジタルコレクション
(133)と(134)は東薫著「わが師 木村素衛」」271ページ、平成2年1月、南窓社=原本
(135)は木村素衛著「日本文化発展のかたちについて」31ページ、昭和20年12月、生活社=国会図書館デジタルコレクション
(136)は木村素衛著「随筆集 草刈籠」173ページ、昭和41年11月、木村素衛先生随筆集刊行会=国会図書館デジタルコレクション
(137)は小林彰著「満支草土」94ページ、昭和19年6月、東京社=国会図書館デジタルコレクション
政界往来社編「政界往来」15巻3号4ページ、木村素衛「成吉思汗鍋」より、昭和19年3月、政界往来社=国会図書館内限定デジタル本
小林彰著「満支草土」87ページ、「第二篇 空」より、昭和19年6月、東京社=国会図書館デジタルコレクション
(138)は著者代表武者小路実篤「日本国民文学全集」23巻371ページ、「豊島与志雄年譜」より、昭和33年2月、河出書房新社=国会図書館デジタルコレクション
(139)は北村謙次郎著「北辺慕情記」ページ、「第五十四章 満洲文芸春秋社―藤沢閑二―永井龍男―池島信平―香西昇―式場俊三―徳田雅彦―小松正衛―ふたたび甘粕正彦の横顔」より、昭和35年9月、大学書房=国会図書館デジタルコレクション
復刻「芸文」第2期7巻ページ番号は金沢覺太郎編「芸文」2巻3号86ページのまま、平成22年10月、ゆにま社、底本は金沢覺太郎編「芸文」2巻3号86ページ、田瑯著・石田武夫訳「中国の印象」より、康徳12年(昭和20年)3月、満洲文芸春秋社=原本
(140)は志賀直哉著「志賀直哉全集」7巻744ページ、紅野敏郎「解説」より、昭和49年1月、岩波書店=館内限定デジタル本
(141)は高橋克彦編「日本の名随筆 別巻64『怪談』」247ページ、志賀直哉(しが・なおや)より、平成8年6月、作品社=館内限定デジタル本
高橋克彦編「日本の名随筆 別巻64『怪談』」52ページ、平成8年6月、作品社=館内限定デジタル本
(142)は佐藤観次郎著「文壇えんま帖 一編集長の手記」190ページ、昭和27年10月、学風書院=国会図書館デジタルコレクション
(143)は由起しげ子著者代表「新選現代日本文学全集」32巻407ページ、山本健吉「解説」より、昭和35年9月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
(144)は半藤一利、湯川豊著「原爆の落ちた日」659ページ、平成27年7月、PHP研究所=原本
(145)はホームページ「図書館と県民のつどい埼玉 2012」=
https://www.sailib.net/
wysiwyg/file/download/1/82
大田洋子著「眞晝の情熱」91ページ、昭和22年1月、丹頂書房=原本
式場隆三郎、飯島淳秀著「大空の鳩笛」148ぺージ、昭和22年12月、大元社=国会図書館デジタルコレクション
香川綾編「栄養と料理」13巻4号32ページ、野口儀恵著と絵「北京の味」より、昭和22年12月、栄養と料理社=栄養と料理デジタルアーカイブス
柳澤健著「世界の花束」181ページ、昭和23年7月、コスモポリタン社=国会図書館デジタルコレクション
読売新聞社編「月刊読売」6巻11号30ページ、「悪食座談会」より、昭和23年11月、読売新聞社=国会図書館デジタルコレクション
(146)は青木正児著「華国風味」126ページ、昭和24年6月、弘文堂=国会図書館デジタルコレクション
(147)はHatena Blog=
https://higonosuke.hatenablog.
com/entry/20170901
(148)は栗原武著「素人にもできる山羊と緬羊の飼い方」108ページ、「山羊肉」より、昭和24年8月、主婦之友社=国会図書館デジタルコレクション
青木正児著「華国風味」121ページ、昭和24年6月、弘文堂=国会図書館デジタルコレクション
栗原武著「素人にもできる山羊と緬羊の飼い方」169ページ、「緬羊の生産物とその利用」より、昭和24年8月、主婦之友社=国会図書館デジタルコレクション
安達晴美編「三里塚とジンギスカン鍋」39ページ、海老成直「ジンギスカン鍋の思い出」より、昭和43年月、遠山緬羊協会=原本
(149)は常木勝次著「戦線の博物学」406ページ、昭和17年月、日本出版社=国会図書館デジタルコレクション
玉藻社編「玉藻」238号11ページ、川上明女「ジンギスカン料理」より、昭和26年1月、玉藻社=原本
(150)は高村光太郎著「高村光太郎全集」13巻148ページ、平成7年10月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
(151)は同154ページ、同
高村光太郎著「高村光太郎全集」13巻148ページ、平成7年10月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
サッポロビール株式会社広報部社史編纂室編「サッポロビール120年史」537ページ、平成8年3月、サッポロビール株式会社=原本
昭和27年12月19日付北海タイムス夕刊4面
(152)は日外アソシエーツ編「最新文学賞事典」330ページ、昭和27年創設の日本エッセイストクラブ賞の第一回受賞者 市川謙一郎の「一日一言」、吉田洋一の「数学の影絵」、内田亨の「きつつきの路」昭和59年10月、日外アソシエーツ=原本
日本図書館協会図書館雑誌編集委員会編「図書館雑誌」47巻1号10ページ、志智嘉「ぢんぎすかん」より、昭和28年1月、日本図書館協会=国会図書館デジタルコレクション
昭和28年5月8日付北海タイムス夕刊1面「一日一言」=マイクロフィルム
昭和28年5月31日付北海タイムス朝刊7面=マイクロフィルム
昭和28年5月31日付北海道新聞朝刊4面=マイクロフィルム
昭和28年10月6日付成吉思汗クラブ報第1号1面、栗林元二郎「題言」=原本
河合貞吉「或る革命家の回想」63ページ、昭和28年12月、集英社=国会図書館デジタルコレクション
(153)は日本交通公社編「たべもの東西南北」奥付、ページ番号なし、昭和29年1月、日本交通公社=国会図書館デジタルコレクション
(154)は同57ぺージ、同
(155)は同224ぺージ、同
日本交通公社編「たべもの東西南北」、昭和29年1月、日本交通公社=国会図書館デジタルコレクション
(156)は昭和30年2月6日付朝日新聞朝刊5面=マイクロフィルム
昭和30年1月1日付北海タイムス朝刊7面=マイクロフィルム
昭和30年2月6日付朝日新聞朝刊5面=マイクロフィルム
菅原通済著「をとこ冥利」190ぺージ、昭和30年3月、住吉書店=国会図書館デジタルコレクション
三宅正太郎著「作家の裏窓 明治・大正・昭和の作家たち」164ページ、「大衆作家覚書」より、昭和30年4月、北辰堂=国会図書館ダジタルコレクション
自称糧友會編「糧友」12号ページ番号不明、丸本彰造「成吉思汗料理の思い出」より、昭和30年10月、糧友会=原本
辻政信著「中ソひとり歩き」264ページ、「回家了(家に帰った)」より、昭和30年11月、河出書房=国会図書館デジタルコレクション
農業世界社編「農業世界」55巻13号288ページ、「暮しのメモ」より、昭和35年12月、農業世界社=館内限定デジタル本
(157)は中谷宇吉郎著「百日物語」58ぺージ、昭和31年5月、文芸春秋新社=国会図書館デジタルコレクション
中谷宇吉郎著「百日物語」58ぺージ、昭和31年5月、文芸春秋新社=国会図書館デジタルコレクション
植原路郎著「食卓への招待 味の事典」131ページ、昭和31年5月、実業之日本社=国会図書館デジタルコレクション
福原康雄著「日本食肉史」213ページ、「組合編」より、昭和31年9月、食肉文化社=国会図書館デジタルコレクション
文藝春秋編「文藝春秋」34巻10号38ページ、昭和31年10月、文藝春秋=館内限定デジタル本
(158)は筑摩書房編「生活の随筆 2(味)」67ページ、戸塚文子「ほれ焼」、昭和37年8月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
(159)は甘辛社編「あまカラ」66号50ページ、戸塚文子「惚れ焼」より、昭和32年2月、甘辛社=国会図書館デジタルコレクション
(160)は同51ページ、同
甘辛社編「あまカラ」66号50ページ、戸塚文子「惚れ焼」より、昭和32年2月、甘辛社=国会図書館デジタルコレクション
昭和32年2月18日付布哇タイムス朝刊7面「日本観光特輯集」=米フーバー研究所邦字新聞コレクションより
https://hojishinbun.hoover.org/
ja/newspapers/tht19570218-01.1.7
古川ロッパ著、滝大作監修「古川ロッパ昭和日記 補巻・晩年編」551ページ、平成元年4月、昌文社=館内限定デジタル本
(161)は日外アソシエーツ編「新訂現代日本人名録98②」406ページ、平成10年1月、日外アソシエーツ=原本
(162)は博文館編「農業世界」2巻4号59ページ、明治40年4月、博文館=原本
(163)は郵便報知新聞刊行会編「郵便報知新聞 復刻版」16巻338ページ、平成元年12月、ぺりかん社=原本
(164)は読売新聞社編「月刊読売」6巻11号30ページ、本山荻舟「ジンギスカン料理」より、昭和23年11月、読売新聞社=マイクロフィッシュ
昭和33年1月11日付毎日新聞夕刊1面「茶の間」=マイクロフィルム
翁久允編「高志人」23巻1号38ページ、昭和33年1月、高志人社=国会図書館デジタルコレクション
邱永漢著「耳をとらなかった話」193ページ、昭和33年4月、大日本雄弁会講談社=国会図書館デジタルコレクション
平凡社編「世界大百科事典」24巻171ページ、「ヒツジ」より、昭和33年5月、平凡社=国会図書館デジタルコレクション
滝川政次郎著「池塘春草」129ページ、「からの話」より、昭和33年5月、青蛙房=国会図書館デジタルコレクション
北海春秋社編「北海春秋」1巻11号10ページ、昭和33年11月、北海春秋社=原本
日本文芸家協会編「少年文学代表選集 1959年版」58ページ、山本和夫「ジンギスカンなべ」より、昭和33年12月、光文社=国会図書館デジタルコレクション、底本は児童文学者協会編「日本児童文学」昭和33年4月号
本山荻舟著「飲食事典」299ページ、昭和33年12月、平凡社=原本
石森延男著「コタンの口笛 2」49ページ、「光の歌」より、昭和32年12月初版、同42年12月第20刷、東都書房=館内限定デジタル本
(165)は吉田博著「四季の北国」86ページ、「親子の酒」より、昭和44年8月、北海道糖業新聞社出版部=原本と同292ページ、「頼りにする先生」より、同
(166)は吉田博著「五風十雨」6ページ、「五風十雨に寄せて」 編集家 小松宋輔より、昭和49年11月、北海道農業会議=原本
(167)はさっぽろ百点編「札幌百点」第5巻2号16ページ、藤蔭満洲野「父とジンギスカン鍋」、昭和38年2月、株式会社さっぽろ百点=原本
昭和34年7月20日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム
昭和34年7月27日付北海タイムス朝刊3面[道外特産だより]=マイクロフィルム
深田久弥著「拝啓山ガール様 深田久弥作品集」237ページ、深田久弥「後方羊蹄山」より、平成27年4月、廣済堂出版=原本
北海道大学漕艇部編「北大漕艇部二十年史」73ページ、昭和44年9月、北海道大学漕艇部=原本
甘辛社編「あまカラ」97号27ページ、昭和34年9月、甘辛社=国会図書館デジタルコレクション
昭和34年10月30日付北海タイムス夕刊2面「わがハイティン[52]」=マイクロフィルム
主婦と生活社編「主婦と生活」14巻10号265ページ、昭和34年10月、主婦と生活社=館内限定デジタル本
佐久間正著「続・東京味どころ」132ページ、昭和34年12月、みかも書房=国会図書館デジタルコレクション
(168)はNPO法人北海道遺産協議会事務局=
https://www.hokkaidoisan
.org/about.html
(169)は村田義清編「農業世界」55巻13号49ページ、座談会「農業の企業化を計る第三次経営 新しく脚光を浴びてきた農村の新事業」より、昭和35年12月、博友社=原本
昭和35年1月10日付北海道新聞朝刊14面=マイクロフィルム
講談社編「週刊現代」2巻3号77ページ、「食い道楽 ジンギスカン料理 山小屋風な雰囲気 大阪・難波新地」より、昭和35年1月24日=原本
北海道書房編「さっぽろ百点」2巻2号(通巻5号)47ページ、昭和35年2月、北海道書房=原本
田川誠一著「訪中一万五千キロ 変貌する新中国の奥地を行く」85ページ、「〝支那の夜〟で座が白ける」より、昭和35年3月、青林書院=国会図書館デジタルコレクション
石原巌徹著「くすぐり人生」23ページ、「ジンギスカン鍋」より、昭和35年3月、日本週報社=国会図書館デジタルコレクション
「札幌百点」2巻9号25ページ、吉田豪介「『じんぎすかん鍋』に寄せるオムニバス」より、昭和35年10月、百彩社
遺伝学普及会編「遺伝」14巻11号17ぺージ、正田陽一「日本人の食生活と家畜」より、昭和35年10月、裳書房=原本
村田義清編「農業世界」55巻13号51ページ、座談会「農業の企業化を計る第三次経営 新しく脚光を浴びてきた農村の新事業」より、昭和35年12月、博友社=原本
(170)は桐島竜太郎著「スパイスの本」125ページ、「あとがき」より、昭和36年1月、婦人画報社=国会図書館デジタルコレクション
(171)は坂本葵著「食魔谷崎潤一郎」220ページ、平成28年5月、新潮社=原本
(172)は北海道文化財保護協会編「北海道の文化」17ページ、日吉良一「成吉斯汗料理という名の成立裏話」より、昭和36年12月、北海道文化財保護協会=原本
(173)は本多勝一著「本多勝一集」7巻52ページ、平成6年8月、朝日新聞社=館内限定デジタル本
(174)は同53ページ、同
(175)は全国発明表彰 昭和35年受賞者一覧=
http://koueki.jiii.or.jp/
hyosho/zenkoku/pastichiran_pdf/
s35zenkoku.pdf
桐島竜太郎著「スパイスの本」125ページ、昭和36年1月、婦人画報社=国会図書館デジタルコレクション
実業之日本社編「実業之日本」61巻2号111ページ、「旅」より、昭和36年1月、実業之日本社=国会図書館デジタルコレクション
生々培著「流氷のくる町」113ページ、昭和36年1月、山広実美=国会図書館デジタルコレクション
坂本葵著「食魔谷崎潤一郎」220ページ、平成28年5月、新潮社=原本
朝日新聞北海道支社報道部編「きたぐにの動物たち」205ページ、昭和36年9月、角川書店=国会図書館デジタルコレクション
東京玩具人形問屋協同組合編「東京玩具商報」592号43ページ、昭和36年10月、東京玩具人形問屋協同組合=国会図書館デジタルコレクション
北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」13巻12号53ページ、日吉良一「成吉思汗料理物事始」、昭和36年12月、北海道農業改良普及協会=原本
(176)は北海道文化財保護協会編「北海道の文化」1巻1号15ページ、日吉良一「成吉斯汗料理という名の成立裏話」より、昭和36年12月、北海道文化財保護協会=原本
日本司厨士協会編「L’art Culinaire Moderne」*巻*号29ページ、日吉良一「蝦夷だより」より、昭和36年10月、全日本司厨士協会=原本
北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」13巻12号53ページ、日吉良一「成吉思汗料理物事始」、昭和36年12月、北海道農業改良普及協会=原本
北海道文化財保護協会編「北海道の文化」17ページ、日吉良一「成吉斯汗料理という名の成立裏話」より、昭和36年12月、北海道文化財保護協会=原本
光琳書院編「食品工業」5巻1号14ページ、昭和36年12月、光琳書院=館内限定デジ本
(177)は山川方夫著「山川方夫全集」5巻528ページ、昭和45年7月、冬樹社=館内限定デジタル本
(178)は永井陽之助、岡路市郎編「北海道」1ページ、永井陽之助、岡路市郎執筆の「まえがき」より、昭和37年7月、中央公論社=国会図書館デジタルコレクション
(179)は札幌百点社編「札幌百点」4巻10号(通巻32号)82ページ、「読者の手紙から」藤蔭満洲野より、昭和37年10月、札幌百点社=原本
(180)は 公益社団法人北海道農業改良普及協会=
https://noukanotomo.
com/information
(181)は北海道農政部=
https://www.pref.hokkaido
.lg.jp/fs/2/4/4/8/7/2/0/
_/hokkaidonogyounogaiyou
0206.pdf
山川方夫著「山川方夫全集」5巻132ページ、昭和45年7月、冬樹社=館内限定デジタル本
昭和37年5月15日付北海タイムス4面=マイクロフィルム
札幌百点編集部編「「札幌百点」4巻4号50ページ、昭和37年5月、札幌百点社=原本
永井陽之助、岡路市郎編「北海道」36ページ、「食べもの」より、昭和37年7月、中央公論社=国会図書館デジタルコレクション
札幌百点社編「札幌百点」4巻8号(通巻31号)24ページ、藤蔭<麻田>満洲野「札幌と亡き父母」より、昭和37年9月、札幌百点社=原本
長沼町史編さん委員会編「長沼町の歴史」下巻528ページ、「農業補遺」より、昭和37年9月、北海道長沼町(非売品)
坂部甲次郎著「たべもの語源抄」ページ、昭和37年9月、東京堂=国会図書館デジタルコレクション
翁久允編「高志人」27巻11号35ページ、昭和37年11月、高志人社=国会図書館デジタルコレクション
水野破陣洞編「はまなす」17巻10号(通巻200号)11ページ、「新季題」より、昭和37年10月、はまなす発行所=館内限定デジタル本
柏倉俊三著「流氷」77ページ、昭和37年12月、春秋社=館内限定近デジ本
中尾佐助著「料理の起源」132ページ、「肉と魚の料理」より、昭和47年12月、日本放送出版協会=館内限定デジタル本
(182)は蘭交会編「麦秋駒井徳三」280ページ、麻田満洲野「父と敗将」より、昭和39年5月、蘭交会「麦秋駒井徳三」編纂実行委員会=国会図書館デジタルコレクション
(183)は同274ページ、麻田宏「岳父の雑談」より、同
(184)は荒川惣兵衛著「角川外来語辞典」344ページ、昭和38年3月、講談社=国会図書館デジタルコレクション
(185)は文藝春秋新社編「文学界」17巻7号189ページ、松本清張「屈折回路」より、昭和38年7月、文藝春秋新社=マイクロフィルム
(186)は札幌百点社編「札幌百点」4巻5号25ページ、日吉良一「ジンギスカン鍋」より、 昭和37年6月、札幌百点社=原本
(187)は昭和39年1月4日付北海タイムス夕刊1面、佐藤春夫「わが北海道 (一)」=マイクロフィルム
(188)は日吉良一著「たべものの語源」あとがき、「あとがき」1ページ、昭和38年10月、柴田書店=国会図書館デジタルコレクション
(189)は荒井久子著「マトン料理350種」あとがき、ページ番号なし、昭和38年11月、婦人画報社=国会図書館デジタルコレクション
昭和38年1月1日付布哇タイムス朝刊60面=
https://hojishinbun.hoover.org/
ja/newspapers/tht19630101
-01.1.60
大島徳弥著「中国料理のコツ秘伝」41ページ、昭和38年1月、北辰堂=国会図書館デジタルコレクション
札幌百点社編「札幌百点」5巻2号16ページ、藤蔭満洲野「父とジンギスカン鍋」より、 昭和38年2月、さっぽろ百点=原本
菊村到著「夜を待つ人」344ページ、昭和38年3月、講談社=館内限定近デジ本
昭和38年5月9日北海タイムス朝刊12面市民版=マイクロイルム
文藝春秋新社編「文学界」17巻7号189ページ、昭和38年7月、文藝春秋新社=マイクロフィルム
杉本つとむ著「現代語 あなたがつかう言葉の秘密」115ぺージ、昭和38年7月、社会思想社=国会図書館デジタルコレクション
昭和38年8月5日付北海タイムス夕刊1面、佐藤春夫「たのしい北海道の一週間 12」=マイクロフィルム
日吉良一著「たべものの語源」161ページ、昭和38年10月、柴田書店=国会図書館デジタルコレクション
荒井久子著「マトン料理350種」あとがき、ページ番号なし、昭和38年11月、婦人画報社=国会図書館デジタルコレクション
毎日新聞社編「サンデー毎日」42巻45号47ページ、[味の味]札幌精養軒 青木チイさんの談話より、昭和38年11月3日発行、毎日新聞社=原本
多田鉄之助著「味覚の名所案内」9ページ、昭和38年12月、サンケイ新聞出版局=国会図書館デジタルコレクション
霞山会編「東亜時報」5巻12号15ページ、「東西南北」より、昭和38年12月、霞山会=マイクロフィルム
(190)は北杜夫著「楡家の人びと」239ページ、昭和39年4月、新潮社=館内検定デジタル本
(191)は昭和10年10月4日付読売新聞朝刊2面=ヨミダス歴史館
(192)は猪木正道著「世界と日本 随想」はしがき、1ページ、昭和40年7月、有信堂=国会図書館デジタルコレクション
(193)は同35ぺージ、同
(194)は月刊さっぽろ社編「月刊さっぽろ」6巻9号(通巻55号)22ページ、館脇操「舌の散歩」より、昭和39年9月、月刊さっぽろ社=原本
(195)は奥野健男著「二刀流文明論 戦中派の抒情と毒舌」194ページ、昭和39年9月、冬樹社=国会図書館デジタルコレクション
秋山良照編「文化評論」28号136ページ、窪田精「スクランブル」より、昭和39年2月、日本共産党中央委員会=館内限定デジタル本
北杜夫著「楡家の人びと」263ページ、昭和39年4月、新潮社=館内限定デジタル本
恵迪寮文集編集委員会編「恵迪の青春―エルムの樹蔭で―」337ページ、昭和61年10月、恵迪寮同窓会=原本
政界往来社編「政界往来」30巻6号197ページ、林二九太「旧婚旅行」より、昭和39年6月、政界往来社=館内限定デジタル本
猪木正道著「世界と日本 随想」33ページ、昭和40年7月、有信堂=国会図書館デジタルコレクション
月刊さっぽろ社編「月刊さっぽろ」6巻9号(通巻55号)21ページ、舘脇操「舌の散歩」より、昭和39年9月、月刊さっぽろ社=原本
奥野健男著「二刀流文明論 戦中派の抒情と毒舌」194ページ、「やきとんを愛す」より、昭和39年9月、冬樹社=国会図書館デジタルコレクション
昭和戦争文学全集編集委員会編「昭和戦争文学全集1 戦火満州に挙がる」851ページ、草葉栄「ノロ高地」より、昭和39年11月、集英社=国会図書館デジタルコレクション
(196)は釣谷猛著「月寒十五年」234ページ、昭和40年7月、釣谷猛文集刊行会=原本
(197)は辰木久門著「北の味覚 ―ふるさとの海幸・山幸―」82ページ、ジンギスカン鍋(成吉思汗)、昭和45年7月、みやま書房=国会図書館デジタルコレクション
(198)は札幌市教育委員会文か資料室篇「札幌事始」276ぺージ、昭和54年1月、札幌=国会図書館デジタルコレクション
満州回顧集刊行会編「あゝ満洲 国つくり産業開発者の手記」744ページ、篠原寛「公主嶺の機械化試験」より、昭和40年3月、満洲回顧集刊行会=国会図書館デジタルコレクション
西岡秀雄著「世界の料理 風土と味覚」195ページ、「モンゴール」より、昭和40年3月、日本経済新聞社=国会図書館デジタルコレクション
釣谷猛著「月寒十五年」233ページ、昭和40年7月、釣谷猛文集刊行会=原本
辰木久門著「北海道の味とうまい店」12ページ、昭和40年10月、レポート社=原本
(199)は池島信平編「歴史よもやま話 東洋篇」ページ番号なし、「あとがき」より、昭和41年10月、文芸春秋=国会図書館デジタルコレクション
(200)は鄧拓・呉[日含]・寥沫沙著、毎日新聞社訳「燕山夜話 付三家村札記」93ページ、「詩文と書画」より、昭和41年10月、毎日新聞社=原本
有斐閣編「ジュリスト」340号10ページ、金沢良雄「戸外レクリエーションと観光」より、昭和41年2月15日、有斐閣=原本
土木学会編「土木学会誌」51巻7号62ページ、「懇親会」より、昭和41年7月、土木学会=原本
尾崎士郎著「尾崎士郎全集 第11巻」103ページ、昭和41年10月、講談社=国会図書館デジタルコレクション
池島信平編「歴史よもやま話 東洋篇」136ページ、昭和41年10月、文芸春秋=国会図書館デジタルコレクション
鄧拓・呉[日含]・寥沫沙著、毎日新聞社訳「燕山夜話 付三家村札記」90ページ、「詩文と書画」より、昭和41年10月、毎日新聞社=原本
昭和42年1月1日付北海道新聞朝刊36面特集「ジンギスカンなべ物語り」=マイクロフィルム
平凡社編「世界大百科事典」1972年版25巻466ページ、「羊」の項、昭和42年4月、平凡社=原本
朝日新聞社編「週刊朝日」昭和42年7月31日号38ページ、「現代出来事デキゴトロジー」より、昭和42年7月31日、朝日新聞社=原本
小泉信三著「小泉信三全集」18巻75ページ、昭和42年9月、文藝春秋=国会図書館デジタルコレクション
(201)は印刷局編「職員録 大正13年7月1日現在」451ページ、大正13年10月、印刷局=国会図書館デジタルコレクション
(202)は高橋新吉著「ダガバヂジンギヂ物語」161ページ、「十 震災」より、昭和40年7月、思潮社=国会図書館デジタルコレクション
(203)は同257ページ、「十七 参禅」より、同
(204)は同259ページ、同
朝日新聞北海道支社編「北のバイオニアたち」140ページ、「羊肉」より、昭和43年7月、朝日新聞北海道支社=国会図書館デジタルコレクション
岩波書店編「世界」269号304ページ、松田寿男「ロシヤ料理のメニューから 風土と食物」より、昭和43年4月、岩波書店=館内限定デジタル本
安達晴美編「三里塚とジンギスカン鍋」9ページ、中原重樹「北京の烤羊肉」より、昭和43年7月、遠山緬羊協会=原本
安達晴美編「三里塚とジンギスカン鍋」13ページ、渡会隆蔵「成吉思汗料理考」より、昭和43年7月、遠山緬羊協会=原本
牛原虚彦著「虚彦映画譜50年」224ページ、昭和43年7月、鏡浦書房=国会図書館デジタルコレクション
荒木和夫著「盧溝橋の一発 従軍憲兵の手記」61ページ、「華北の政情―その歴史と背景」より、昭和43年8月、林書店=国会図書館デジタルコレクション
吉田一穂、高橋新吉、小野十三郎著「日本詩人全集 26」ページ、高橋新吉「古墳」より、昭和43年10月、新潮社=原本
(205)は大島徳弥著「百味繚乱――中国・味の歳時記」70ページ、昭和44年4月、文化服装学院出版局=原本
(206)は獅子文六著「獅子文六全集」7巻413ページ、「バナナ」より、昭和44年5月、朝日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
(207)は獅子文六著「飲み食ひの話」34ページ、「惣菜洋食瑣談」より、昭和31年10月、河出書房=国会図書館デジタルコレクション
(208)は山本直文編「新・東京うまい店」1ページ、「まえがき」より、昭和44年10月、柴田書店=原本
(209)は桂木鉄夫著「モンゴル」99ページ、「町の表情あれこれ」より、昭和44年月、北国出版社=館内限定デジタル本
大島徳弥著「百味繚乱――中国・味の歳時記」70ページ、昭和44年4月、文化服装学院出版局=原本
獅子文六著「獅子文六全集」7巻413ページ、昭和44年5月、朝日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
佐賀潜著「文明開化帳」43ページ、昭和44年5月、秋田書店=原本
山本直文編「新・東京うまい店」221ページ、昭和44年12月、柴田書店=原本
桂木鉄夫著「モンゴル」80ページ、「町の表情あれこれ」より、昭和44年4月、北国出版社=館内限定デジタル本

(210)は檀一雄著「檀流クッキング」174ページ、昭和45年7月、サンケイ新聞社出版局=原本

(211)は文芸春秋編「嗜み」2012年春号10ページ、檀ふみ「父の味と私の『檀流クッキング』より、平成24年4月、文芸春秋=原本
(212)は檀一雄著「檀流クッキング」241ページ、荻昌弘「解説」より、平成16年2月改版2刷、初版は昭和50年11月、中央公論新社=原本
檀一雄著「檀流クッキング」174ページ、昭和45年7月、サンケイ新聞社出版局=原本

文芸春秋編「別冊文芸春秋」114号232ページ、荻昌弘「鍋もの大全」より、昭和45年12月、文芸春秋=館内限定デジタル本
(210)は小林勇著「山中獨膳」91ページ、昭和46年3月、文芸春秋=館内限定デジタル本
(211)は同216ページ、同
(212)は同224ページ、同
(213)は岩波書店編「図書」389号62ページ、小口禎三「小林勇さんと岩波映画 」より 、昭和57年1月、岩波書店=館内限定デジタル本
(214)は関西大学学術リポジトリ「風巻景次郎略伝」=
https://kansai-u.repo.nii
.ac.jp/records/4473
砂川市史編纂委員会編「砂川市史」744ページ、昭和46年2月、砂川市役所(非売品)=国立国会図書館デジタルコレクション
小林勇著「山中獨膳」206ページ、昭和46年3月、文芸春秋=原本
風巻景次郎著「風巻景次郎全集」第9巻(批評と随想)518ページ、昭和46年9月、桜楓社=原本
北海道相互銀行編「北海道相互銀行二十年史」ページ番号なし、昭和46年9月、北海道相互銀行=国会図書館デジタルコレクション
瓜生卓造著「札幌という街」106ページ、「札幌ところどころ」より、昭和46年11月、山と渓谷社=国会図書館デジタルコレクション
陣ノ内宜男著「中国人の考え方――たくましい生活力の根源をさぐる」123ぺージ、「君子の交わり」より、昭和46年12月、産報=国会図書館ダジタルコレクション
(215)は楠本憲吉著「旅に美味あり」13ページ、「サッポロビールとジンギスカン鍋」より、昭和47年4月、日本交通公社出版事業局=原本
(216)は松乃家美登利編「大流行 歌曲独稽古」33ページ、大正8年3月、 盛陽堂書店=国会図書館インターネット本
(217)は楠本憲吉著「旅に美味あり」15ページ、「サッポロビールとジンギスカン鍋」より、昭和47年4月、日本交通公社出版事業局=原本
(218)は上田正昭ほか監修「日本人名大辞典」672ページ、平成13年12月、講談社=原本
(219)は第五次黒台信濃村開拓団同志会編「惨!ムーリンの大湿原 ―第五次黒台信濃村開拓団の記録―」ページ番号なし、昭和47年10月、第五次黒台信濃村開拓団同志会=国会図書館デジタルコレクション
奥山益朗編「味覚辞典 日本料理」276ページ、昭和47年1月、東京堂出版=国会図書館デジタルコレクション
曽野綾子著「幸福という名の不幸」124ページ、「第十五章 お汁粉と首飾り」より、昭和47年5月、講談社
文芸春秋編「文芸春秋」50巻7号69ページ、三宅修「モンゴルの思い出」より、昭和47年6月、文芸春秋=館内限定デジタル本
前野直彬著「風月無尽 中国の古典と自然」235ページ、昭和47年7月2版、東京大学出版会=原本
楠本憲吉著「旅に美味あり」13ページ、昭和51年8月、日本交通公社出版事業局=原本

短歌社編「短歌研究」29巻8号135ページ、「秋の歳時記」より、昭和47年8月、短歌研究社=館内限定デジタル本
甘辛社「あまカラ」192号57ページ、「上方食べあるき」より、昭和47年8月、甘辛社=国会図書館デジタルコレクション
第五次黒台信濃村開拓団同志会編「惨!ムーリンの大湿原 ―第五次黒台信濃村開拓団の記録―」160ページ、清水けさ「ホームスパンの講習」より、昭和47年10月、第五次黒台信濃村開拓団同志会=国会図書館デジタルコレクション
(220)は坂井三郎著「詩集 冬の旅」ページ番号なし、昭和38年11月、新詩人社=館内限定デジ本
(221)はウィレム・A・グロータース=
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 
W%E3%83%BBA%E3%83%BB
%E3%82%B0%E3%83%AD%E
3%83%BC%E3%82%BF%E3%
83%BC%E3%82%B9
新詩人社編「新詩人」28巻2号27ページ、昭和48年2月、新詩人社=国会図書館デジタルコレクション
檀一雄著「美味放浪記」104ページ、昭和48年4月、日本交通公社=館内限定デジタル本
文芸春秋編「諸君」5巻7号200ページ、昭和48年7月、文芸春秋社=館内限定デジ本
佐々木丁冬、佐々木悠乃著「蝦夷歳時記・第4集・動物編」228ページ、昭和48年12月、佐々木悠乃=原本
(222)は本田靖春著「私のなかの朝鮮人」38ページ、昭和49年2月、文芸春秋=国会図書館デジタルコレクション
遠藤周作著「ぐうたら好奇学」163ページ、昭和49年1月、講談社=館内限定デジタル本
柏原兵三著「柏原兵三著作集」7巻49ページ、「心のなかの栖」より、昭和49年1 月、潮出版社=国会図書館デジタルコレクション
河野友美著「しょうゆ風土記」180ページ、昭和49年5月、毎日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
本田靖春著「私のなかの朝鮮人」36ページ、昭和49年2月、文芸春秋=国会図書館デジタルコレクション
穂積肇著「矢臼別物語」38ページ、昭和49年6月、三友社=原本
産業新潮社編「産業新潮」23巻8号98ページ、「緑陰涼話」より、昭和49年7月、産業新潮社=館内限定デジタル本
浅見淵著「浅見淵著作集」3巻284ページ、「作家の印象」より、昭和49年11月、河出書房新社=館内限定デジタル本
朝日新聞社編「新 風土記 二」151ページ、青森県「津軽選挙=青森県 昭和四十九年五月六日から同月十八日まで朝日新聞に掲載」より、昭和49年12月、朝日新聞社
木村司編「北長沼 昔噺」38ページ、奥付なし、「発刊にあたって」の日付は昭和49年師走末日、木村司=原本
(223)はらくだ会編「思出の内蒙古 内蒙古回顧録」452ページ、石谷定男「蒙疆を憶う」より、昭和50年11月、らくだ会本部=国会図書館デジタルコレクション
瀬戸内晴美著「瀬戸内晴美長編選集 10巻 妻たち」218ベージ、「ななかまど」より、昭和50年2月2刷、講談社=原本
明石博隆、松浦総三編「昭和特高弾圧史 2――知識人に対する弾圧 下」50ページ、「『大東亜戦争』(前期)下の弾圧」より、昭和50年6月、太平出版社=国会図書館デジタルコレクション
吉屋信子著「吉屋信子全集」6巻150ページ、「女の教室」より、昭和50年9月、朝日新聞社=館内限定デジタル本
北原晴夫著「川柳博物誌」231ページ、「川柳博物誌」より、昭和50年9月、泉書房=原本
らくだ会本部「思出の内蒙古 内蒙古回顧録」162ページ、玖村勲「あのこと、このこと」より、昭和50年11月、らくだ会本部、講談社出版サービスセンター=国会図書館デジタルコレクション
同271ページ、中川鉄雄「パルリタ追想」より、同
同453ページ、石谷定男「蒙疆を憶う」より、同
(224)は日本及日本人社編「日本及日本人」第1534号103ページ、宝井馬琴「阿寒の白煙悲し開拓史」より、昭和51年3月、日本及日本人社=国会図書館デジタルコレクション
(225)は同109ページ、同
(226)は相神達夫著「新さっぽろ物語」奥付、昭和51年10月、北海道新聞社=館内公開デジタル本
(227)は同194ページ、同
北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」28巻8号81ページ、吉田博「成吉思汗料理物語り」より、昭和51年8月、北海道農業改良普及協会=原本
聖教新聞社北海道総支局編「北国詩情」48ページ、「ヒツジの群れ」より、昭和51年1月、聖教新聞社北海道総局=原本
日本及日本人社編「日本及日本人」第1534号103ページ、昭和56年3月、日本及日本人社=国会図書館デジタルコレクション
潮出版社編「潮」204号289ページ、小松左京、石毛直道「新編にっぽん料理大全」より、昭和51年6月、潮出版社=原本
水島治男著「改造社の時代 戦中編」195ページ、「上海から北京へ」より、昭和51年6月、図書出版社=館内限定デジタル本
相神達夫著「新さっぽろ物語」192ページ、昭和51年10月、北海道新聞社=館内公開デジタル本
椎名麟三著「椎名麟三全集19(評論6)448ページ、昭和51年10月、冬樹社=国会図書館デジタルコレクション
(228)は昭和37年8月5日付朝日新聞*面神戸版
(229)は昭和45年3月5日付毎日新聞*面「味 35」
(230)は渡辺久雄著「木地師の世界 個人と集団の谷間」200ページ、昭和52年7月、創元社=国会図書館デジタルコレクション
朝日新聞社編「日本の宿」332ページ、寺尾宗冬「上方ホテル味の腕比べ」より、昭和52年4月、朝日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
麻生芳伸著「こころやさしく一所懸命な人びとの国」42ページ、「こぷしの花咲く町 美幌」より、昭和52年4月、旺国社=原本
毎日新聞北海道報道部編「北の食物誌」116ぺージ、昭和52年7月、毎日新聞社=国会図書館デジタルコレクション
渡辺久雄著「木地師の世界 個人と集団の谷間」26ページ、昭和52年7月、創元社=国会図書館デジタルコレクション
クロワッサン編集部編「クロワッサン」32巻15号11ページ、川津幸子「ジンギスカン」より、昭和52年8月10日、マガジンハウス=原本
(231)は滝川市史編さん委員会編「滝川市史」下巻150ページ、「われジンギスカン」、昭和56年3月、滝川市長吉岡清栄=国会図書館デジタルコレクション
(232)はNHK報道番組班編「NHK新日本紀行第1集 美しき山河」72ページ、昭和53年6月、新人物往来社=国会図書館デジタルコレクション
(233)は読売新聞社文化部著「この歌この歌手(上)」312ページ、「襟裳岬」森進一より、平成9年1月、社会思想社=館内限定デジタル本
昭和53年5月13日付北海道新聞空知版15面「空知に生きる 3」=マイクロフィルム
NHK報道番組班編「NHK新日本紀行第1集 美しき山河」72ページ、昭和53年6月、新人物往来社=国会図書館デジタルコレクション
年1月、社会思想社=館内限定デジタル本
高瀬清著「日本共産党創立史話」95ページ、昭和53年5月、青木書店=国会図書館デジタルコレクション
(234)は文芸春秋編「文学界」33巻5号186ページ、昭和54年5月、文芸春秋=館内限定デジタル本
(235)は文芸春秋編「諸君!」10巻8号245ページ、開高健「最後の晩餐 神の御意志のまま<第二部・鑑賞編 第7回>」より、昭和53年8月、文芸春秋=館内限定デジタル本
(236)は同247ページ、同
(237)は開高健監修「自然探訪1(北海道・東北を歩く)すばらしき野性!3 北へ」14ページ、昭和57年8月、講談社=館内限定デジタル本
(238)は同15ページ、同
(239)は柯政和著「中国人の生活風景」172ページ、昭和16年6月、皇国青年教育協会=国会図書館デジタルコレクション
(240)は内山完造著「中国人の生活風景 内山完造漫語」奥付、ぺージ番号なし、昭和54年6月、東方書店=国会図書館デジタルコレクション
(241)は皆川洋著「田舎料理」奥付、ページ番号なし、昭和54年7月、大陸書房=国会図書館デジタルコレクション
(242)は同「あとがき」より、245ページ、同
札幌市教育委員会文化資料室編「札幌事始」276ページ、昭和54年1月、北海道新聞社=国会図書館デジタルコレクション
文芸春秋編「文学界」33巻5号186ページ、昭和54年5月、文芸春秋=館内限定デジタル本<
文芸春秋編「諸君!」10巻8号244ページ、開高健「最後の晩餐 神の御意志のまま<第二部・鑑賞編 第7回>」より、昭和53年8月、文芸春秋=館内限定デジタル本
内山完造著「中国人の生活風景 内山完造漫語」101ぺージ、昭和54年6月、東方書店=国会図書館デジタルコレクション
皆川洋著「田舎料理」12ページ、昭和54年7月、大陸書房=国会図書館デジタルコレクション
潮出版社編「潮」244号ページ番号なし、篠山紀信「成吉思汗」より、昭和54年9月、潮出版社=原本
小田切秀雄、多田道太郎、谷沢栄一編「現代文章宝鑑」312ページ、永六輔「あの町この町」より、昭和54年11月、柏書房=館内限定デジタル本
久野桂編「経団連月報」第27巻1号64ページ、「随想」より、昭和54年12月、経済団体連合会=国会図書館デジタルコレクション
潮出版社編「潮」247号198ページ、「歳時記考 十二月」より、昭和54年12月、潮出版社=館内限定デジタル本
流動出版編「復録日本大雑誌 昭和戦後篇」112ぺージ、「天皇一家の配給生活探訪記」より、昭和54年12月、流動出版=国会図書館デジタルコレクション
(243)は松村慎三著「北国くらしの風土記」奥付、昭和55年5月、北の街社=国会図書館デジタルコレクション
松村慎三著「北国くらしの風土記」174ページ、昭和55年5月、北の街社=国会図書館デジタルコレクション
田上実著「わが軍事検察の記」31ページ、昭和55年6月、田上実=国会図書館デジタルコレクション
政経社/総合エネルギー研究会編「政経人」27巻12号104ページ、秋吉茂「日本食べ歩き」より、昭和55年12月、政経社/総合エネルギー研究会=国会図書館デジタルコレクション
安井吉典著「真『地方の時代』の条件」274ページ、昭和55年4月、現代企画室=国会図書館デジタルコレクション
加藤楸邨著「加藤楸邨全集」9巻184ぺージ、昭和55年5月、講談社=国会図書館デジタルコレクション
牧羊子著「あなたはどのメビウスの輪」254ページ、「食べることは生きること」より、昭和55年10月、海竜社=原本
(244)は草川俊著「雑穀物語」6ぺージ、昭和59年6月、日本経済評論社国会図書館デジタルコレクション
(245)は安保・井林両オバンケルに感謝する会編「オバンケルの息子たち 北海道大学楡影寮OB誌」28ページ、昭和56年3月、安保・井林両オバンケルに感謝する会=原本
(246)は同27ぺージ、同
(247)中里恒子著「中里恒子全集」18巻55ページ、「北の空へ冬の旅」より、昭和56年3月、中央公論社=館内限定デジタル本
(248)は同27ぺージ、同
(249)は石川昌著「北京特派員の目」108ページ、昭和52年10月、亜紀書房=国会図書館デジタルコレクション
(250)は臼井武夫著「北京追想 城壁ありしころ」213ページ、「後記」より、昭和56年11月、東方書店=国会図書館デジタルコレクション
(251)は中央公論社編「中央公論経営問題」20巻7号48ページ、伴野朗「モンゴルの羊たち」より、昭和56年12月、中央公論社=館内限定デジタル本
農林統計協会編「農林水産省広報」12巻1号50ページ、草川俊「雑穀物語 粟(あわ)」より、昭和56年1月、農林弘済会、農林統計協会=館内限定デジタル本
安保・井林両オバンケルに感謝する会編「オバンケルの息子たち 北海道大学楡影寮OB誌」95ページ、昭和56年3月、安保・井林両オバンケルに感謝する会=原本
安達巌著「日本食物文化の起源」、昭和56年5月、自由国民社=国会図書館デジタルコレクション
(252)は同149ページ、同
(253)は同396ページ、同
(254)は同445ページ、同
中里恒子著「中里恒子全集」18巻55ページ、「北の空へ冬の旅」より、昭和56年3月、中央公論社=国会図書館デジタルコレクション
北海道編「新北海道史」1巻(概説)262ページ、「七 統制と農牧業」より、昭和56年3月、北海道=国会図書館デジタルコレクション
柏崎雅世著「遙かなる北京の日々」156ページ、昭和56年6月、朝日ソノラマ=国会図書館デジタルコレクション
滝川畜産試験場50年史編集委員会編「滝川畜産試験場五十年史」251ぺージ、近藤知彦「羊肉加工をはじめた頃」より、昭和56年7月、北海道立滝川畜産試験場=館内限定デジタル本
講談社編「日本大歳時記 カラー図説 冬」120ページ、昭和56年11月、講談社=原本
臼井武夫著「北京追想 城壁ありしころ」198ページ、「瓜子児……北京の食べもの」より、昭和56年11月、東方書店=国会図書館デジタルコレクション
中央公論社編「中央公論経営問題」20巻7号48ページ、昭和56年12月、中央公論社=館内限定デジタル本
(255)は川端康成ほか編「満洲国各民族創作選集2(康徳9年昭和17年版)」370ページ、「山田清三郎」より、昭和19年3月、創元社=国会図書館デジタルコレクション
(256)は同1(康徳8年昭和16年版)」200ページ、「吉野治夫」より、昭和17年6月、同
(257)は同2(康徳9年昭和17年版)」6 ページ、「第2巻序」より、昭和19年3月、同
(258)は草野心平著「草野心平全集」8巻236ページ、「羊料理いろいろ」より、昭和57年1月、筑摩書房=館内限定デジタル本
(259)は同10巻55ページ、「ジンギスカン料理」より、昭和57年8月、同
(260)と(261)は日本観光文化研究所編「日本人の生活と文化 9」108ぺージ、「カツオのたたき」より、昭和57年9月、ぎょうせい=国会図書館デジタルコレクション
(262)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」355ページ「羊肉の特長」より、昭和16年6月8版、子安農園出版部=原本
(263)は桑江良逢著「幾山河 沖縄自衛隊」22ページ、「飲酒運転」より、昭和57年5月、原書房=国会図書館デジタルコレクション
(264)は重森直樹著「新北海道たべもの歳時記」107ページ、「まだ歴史浅いジンギスカン」より、昭和57年11月、マービス=国会図書館デジタルコレクション
(265)は同108ページ、同
(266)は同111ページ、同
(267)は樋口清之、柳原俊雄監修「ふるさと日本の味 第1巻 北海道豊饒の味」142ページ、「ふるさとの家庭料理」より、昭和57年12月、集英社=国会図書館デジタルコレクション
(268)は北海道新聞社編「北海道年鑑1979」895ページ、昭和54年1月、北海道新聞社=国会図書館デジタルコレクション
政界往来社編「政界往来」48巻1号178ページ、山田清三郎「私の生きた明治・大正・昭和史」より、昭和57年1月、政界往来社=館内限定近デジ本
宮本輝著「宮本輝全集」3巻226ページ、「青が散る」より、昭和57年6月、新潮社=原本
草野心平著「草野心平全集」10巻55ページ、昭和57年8月、筑摩書房=館内限定デジタル本
有末精三著「政治と軍事と人事 政治と軍事と人事」245ページ、昭和57年8月、芙蓉書房=国会図書館デジタルコレクション
日本観光文化研究所編「日本人の生活と文化 9」80ぺージ、昭和57年9月、ぎょうせい=国会図書館デジタルコレクション
桑江良逢著「幾山河 沖縄自衛隊」23ページ、「飲酒運転」より、昭和57年5月、原書房=国会図書館デジタルコレクション
重森直樹著「新北海道たべもの歳時記」109ページ、昭和57年11月、マービス=国会図書館デジタルコレクション
文芸春秋編「文芸春秋」60巻13号92ページ、昭和57年11月、文芸春秋=原本
苫前町史編さん委員会編「苫前町史」351ページ、「転換期の農業」より、昭和57年11月、苫前町=国会図書館デジタルコレクション
樋口清之、柳原俊雄監修「ふるさと日本の味 第1巻 北海道豊饒の味」145ページ、「ふるさとの家庭料理」より、昭和57年12月、集英社=国会図書館デジタルコレクション
(269)は井上光晴著「井上光晴長編小説全集」3巻283ページ、菅野昭正「解説」より、昭和58年5月、福武書店=館内限定デジタル本
(270)は小檜山博著「人生という夢」127ページ、平成27年7月、河出書房新社=原本
(271)は木佐森恒雄著「崩壊す・ビルマ戦線 八月十五日の鐘がなる」65ぺージ、「七 インパール作戦の序曲」より、昭和58年8月、旺史社=国会図書館デジタルコレクション
(272)は同61ぺージ、「六 ビルマ上陸、キャウセにて」より、同
(273)は野呂田芳成著「日本の進路を考える」203ページ、「肉は食用に――沖縄の山羊料理」より、昭和58年10月、知道出版販売局=国会図書館デジタルコレクション
岩本由輝著「もう一つの遠野物語」22ページ、「遠野と民話―目前の出来事」より、
昭和58年4月、刀水書房=館内限定デジタル本
立原正秋著「立原正秋全集」3巻109ページ、「鎌倉夫人」より、昭和58年2月、角川書店=館内限定デジタル本
長谷川幸一、岩松健夫、北川玲三著「根釧原野」38ページ、北川玲三「根釧の四季」より、昭和58年3月、桐原書店=国会図書館デジタルコレクション
井上光晴著「井上光晴長編小説全集」3巻109ページ、「曳船の男」より、昭和58年5月、福武書店=館内限定デジタル本
三浦綾子著「三浦綾子作品集 第一巻」342ページ、「氷点」より、昭和58年5月、朝日新聞社=館内限定デジタル本
木佐森恒雄著「崩壊す・ビルマ戦線 八月十五日の鐘がなる」59ぺージ、「六 ビルマ上陸、キャウセにて」より、昭和58年8月、旺史社=国会図書館デジタルコレクション
野呂田芳成著「日本の進路を考える 日本海・東北地方の夜明け」204ページ、「3 山羊の夢」より、昭和58年10月、知道出版販売局=国会図書館デジタルコレクション
(274)は思想の科学社編「思想の科学」第7次44号113ページ、昭和59年2月、思想の科学社=館内限定デジタル本
(275)は玉村豊男著「日本ふーど記」74ページ、「北海道へ 国境演歌味覚変幻」より、昭和59年3月、日本交通公社出版事業局=国会図書館デジタルコレクション
(276)は同75ページ、同
(277)は中澤善司著「万里の山河に 北支県顧問回想の記」242ページ、「盛中・中央大学の頃」より、昭和59年4月、中沢善司=国会図書館デジタルコレクション
思想の科学社編「思想の科学」第7次44号113ページ、田村 正敏、大野 明男「都会っ子が羊飼いになって」、昭和59年2月、思想の科学社=館内限定デジタル本
玉村豊男著「日本ふーど記」74ページ、「北海道へ 国境演歌味覚変幻」より、昭和59年3月、日本交通公社出版事業局=国会図書館デジタルコレクション
中澤善司著「万里の山河に 北支県顧問回想の記」120ページ、「新民塾のこと」より、昭和59年4月、中沢善司=国会図書館デジタルコレクション
通産企画調査会編「全国の物産と産業」26ぺージ、昭和59年4月、通産企画調査会=国会図書館デジタルコレクション
読売新聞社編「週刊読売」43巻28号53ページ、「ポケット四季報(148)」より、昭和59年7月1日、読売新聞社=原本
文藝春秋編「別册文藝春秋」169号271ページ、山口洋子「演歌の虫」より、昭和59年10月、文藝春秋=原本
札幌市教育委員会文化資料室編「札幌食物誌」64ページ、佐々木酉二「札幌の食の系譜」より、昭和59年12月、札幌市=国会図書館デジタルコレクション
同144ページ、山本正夫「札幌で味わう北の味覚」より、同
茜会編著「札幌の食いまむかし」28ページ、「ジンギスカン鍋」より、昭和59年12月、北海道教育社=原本
(278)は紋別郡滝上町オシラネップ原野18線に平成21年10月建立
(279)は苫小牧市末広町の市民文化公園内に平成15年10月建立
(280)は小檜山博著「人生という夢」153ページ、平成27年7月、河出書房新社=原本
新潮社編「新潮」82巻3号169ページ、小檜山博「家津波」より、昭和60年3月、新潮社=館内限定デジタル本
財務省編「ファイナンス」21巻1号90ページ、座談会「アーニー・パイルから付加価値税まで ―女優の生き方・作家の考え方―」より、昭和60年4月、財務省=国会図書館デジタルコレクション
竜胆寺雄著「竜胆寺雄全集」8巻263ページ、「奇習奇俗」より、昭和60年10月、竜胆寺雄全集刊行会
(281)は
https://www.city.utashinai
.hokkaido.jp/hotnews/detail
/00001774.html
(282)は石毛直道・奥村彪生・神崎宜武・山下諭一編「日本の郷土料理1 北海道・東北Ⅰ」87ページ、西尾芳博「ジンギスカン」より、昭和61年5月、ぎょうせい=国会図書館デジタルコレクション
(283)は新聞協会編「新聞研究」421号4ページ、コラム「随想」より、昭和61年8月、新聞協会=国会図書館デジタルコレクション
作品社編「日本随筆紀行 2」100ページ、高橋揆一郎「極寒の地に育った味」より、昭和61年4月、作品社=館内限定デジタル本
石毛直道・奥村彪生・神崎宜武・山下諭一編「日本の郷土料理1 北海道・東北Ⅰ」86ページ、西尾芳博「ジンギスカン」より、昭和61年5月、ぎょうせい=国会図書館デジタルコレクション
新聞協会編「新聞研究」421号4ページ、高橋一美「グル雑感」より、昭和61年8月、新聞協会=国会図書館デジタルコレクション
(284)は宮崎昭著「食卓を変えた肉食」58ページ、「メンヨウ、ヤギの飼育」より、昭和62年3月、日本経済評論社=館内限定デジタル本
(285)は高石啓一、白井重有著「滝川ジンギスカン物語」53ぺージ、「滝川のタレ漬けジンギスカン」より、平成17年7月、ジンギスカン王国滝川うメェー実行委員=原本
梅棹忠夫著「中国の少数民族を語る 梅棹忠夫対談集」155ページ、「日中友好にかける満州族」より、昭和62年2月、筑摩書房=国会図書館デジタルコレクション
宮崎昭著「食卓を変えた肉食」140ページ、「戦後利用されたその他の食肉」より、昭和62年3月、日本経済評論社=館内限定デジタル本
高橋紘著「象徴天皇」ページ、「皇室と宮内庁」より、昭和62年4月、岩波書店=館内限定デジタル本
高石啓一、白井重有著「滝川ジンギスカン物語」47ぺージ、「滝川のタレ漬けジンギスカン」より、平成17年7月、ジンギスカン王国滝川うメェー実行委員=原本
竹田恒徳著「雲の上、下 思い出話 元皇族の歩んだ明治・大正・昭和」120ページ、昭和62年10月、東京新聞出版局=館内限定デジタル本
(286)は羅信耀著、藤井省三、宮尾正樹、坂井洋史、佐藤豊共訳「北京風俗大全 城壁と胡同の市民生活誌」470ページ、「解説」より、昭和63年4月、平凡社=原本
(287)は熊倉功夫、石毛直道編「外来の食の文化 食の文化フォーラム」166ページ、田中静一「日本化した中国の食と料理」より、昭和63年10月、ドメス出版=原本
羅信耀著、藤井省三、宮尾正樹、坂井洋史、佐藤豊共訳「北京風俗大全 城壁と胡同の市民生活誌」267ページ、「秋の訪れ」より、昭和63年4月、平凡社=原本
熊倉功夫、石毛直道編「外来の食の文化 食の文化フォーラム」210ページ、「討論」より、昭和63年10月、ドメス出版=原本
文芸春秋社編「文芸春秋」66巻9号214ページ、岡崎満義構成「世界の胃袋のことを考える 燃えるイベント『世界・食の祭典』への御招待」より、昭和63年8月、文芸春秋=館内限定デジタル本
木下秀雄編「アサヒグラフ」3445号52ページ、連載「鈍行列車グルメの旅 32」より、昭和63年8月12日、朝日新聞社=原本
凍原社編「北の話」2巻5号22ページ、北川玲三「江差の話」より、昭和63年10月、凍原社=原本
日本労働組合総評議会編「月刊総評」371号61ページ、木津川園子「北海道寝袋珍紀行」より、昭和63年11月、日本労働組合総評議会=国会図書館デジタルコレクション
雄山閣編「旅風俗〔Ⅱ〕道中篇 街道で起きる事件の泣き笑い」14ページ、「『講座日本風俗史』について」より、平成元年4月、雄山閣出版=原本
雄山閣編「旅風俗〔Ⅱ〕道中篇 街道で起きる事件の泣き笑い」176ページ、「道中の食糧」より、平成元年4月、雄山閣出版=原本
田辺聖子著「姥うかれ」174ページ、「姥けなげ」より、平成元年7月3刷、新潮社=原本
(288)は講談社編「現代」24巻1号40ページ、夏目房之介「鍋と愛を煮つめて」より、平成2年1月、講談社=原本
(289)は思想の科学社編「思想の科学」第7次129号9ページ、奈浦なほ「北海道≠東京の反対語」より、平成2年6月、思想の科学社=館内限定デジタル本
講談社編「現代」24巻1号402ページ、夏目房之介「鍋と愛を煮つめて」より、平成2年1月、講談社=原本
文芸春秋編「文学界」44巻3号166ページ、高橋揆一郎「じねんじょ」より、平成2年3月、文芸春秋=館内限定デジタル本
思想の科学社編「思想の科学」第7次129号8ページ、奈浦なほ「北海道≠東京の反対語」より、平成2年6月、思想の科学社=館内限定デジタル本
佐々木直追悼録刊行会編「佐々木 直」80ページ、小林庄一「月曜クラプと直さん」より、平成2年7月、佐々木直追悼録刊行会=原本
奈須敬二著「捕鯨盛衰記」103ページ、平成2年7月、光琳=館内限定デジタル本
原本
講談社編「現代」2   4巻12号176ページ、藤本義一「十四歳・家出旅」より、平成2年12月、講談社=館内限定デジタル本
文藝春秋編「文藝春秋」68巻14号204ページ、「スピーチのたね」より、平成2年12月、文藝春秋=原本
(290)は五木寛之著「珍道中!逆ハンぐれん隊」講談社書籍広告より、平成3年3月、講談社=原本
日本評論社編「経済セミナー」432号108ページ、佐藤正之「サフォークの挑戦」より、平成3年1月、日本評論社=館内限定デジタル本
五木寛之著「珍道中!逆ハンぐれん隊」10ページ、平成3年3月、講談社=原本
嵯峨島昭著「ラーメン殺人事件」199ページ、「ジンギスカン料理殺人事件」より、平成3年8月、光文社=原本、初出は昭和62年の「別冊小説宝石 初夏特別号」
高島巌著「これでも医者だどさ」23ページ、平成3年11月、北海道新聞社=原本
日本国有鉄道技術研究所監修「RRR」48巻11号34ページ、三品勝暉「想い遙かに―30年の鉄道生活を終えて―」より、平成3年11月、研友社=原本
(291)は朝日新聞社編「週刊朝日」34巻16号114ページ、「札幌」より、平成4年4月15日発行、朝日新聞社=原本
(292)は札幌学院大学人文学部編「北海道の村おこし町おこし」36ページ、大石和也講演記録「地域づくりにおける生活と文化の役割」より、平成4年7月、札幌学院大学人文学会=原本
(293)は同70ページ、同
大修館書店編「月刊しにか」3巻3号4ページ、平成4年3月、大修館書店=原本
朝日新聞社編「週刊朝日」34巻16号114ページ、「札幌」より、平成4年4月15日発行、朝日新聞社=原本
稲垣足穂著「星の都」182ページ、「早春抄」より、平成4年5月3刷、マガジンハウス=原本
札幌学院大学人文学部編「北海道の村おこし町おこし」70ページ、大石和也講演記録「地域づくりにおける生活と文化の役割」より、平成4年7月、札幌学院大学人文学会=原本
(294)はホトトギス社編「ホトトギス」96巻4号19ページ、飯山広美「石室」より、平成5年4月、ホトトギス社=国会図書館デジタルコレクション
北海道大学準硬式野球部OB会編「部の歩み 創立40周年記念誌 1992」40ページ、平成5年1月、北海道大学準硬式野球部OB会=原本
ホトトギス社編「ホトトギス」96巻4号19ページ、飯山広美「石室」より、平成5年4月、ホトトギス社=国会図書館デジタルコレクション
東洋経済新報社編「週刊東洋経済」5142号86ページ、「人生二毛作 (92」より、平成5年5月8日発行、東洋経済新報社=原本
日本山岳会北海道支部編「ヌプリ」23号(北海道支部創立25周年記念号)3ページ、平成5年12月、日本山岳会北海道支部=原本
新潮社編「新潮」91巻3号7ページ、笠原淳「茶色い戦争」より、平成6年3月、新潮社=館内限定デジタル本
俵万智著「かぜのてのひら」160ページ、「夏の目覚め」より、平成6年5月、河出書房新社=原本
小西正泰監修、阿部禎著「干支の動物誌」181ページ、平成6年10月、技報堂出版=原本
(295)は日本農村生活研究会編「農村生活研究」39巻1号18ページ、「北海道における羊肉消費の展開」より、平成7年2月、日本農村生活学会=原本
(296)は渡辺淳一著「これを食べなきゃ――わたしの食物史」201ページ、「平原で食べてこそ成吉思汗」より、平成7年10月、集英社=原本
(297)は窪田蔵郎著「シルクロード鉄物語」52ぺージ、「草原に花開いた鉄文化」より、平成7年7月、雄山閣出版=原本
(298)は権田恩恵編「鉄鋼界」45巻10号61ぺージ、田口勇「定年退職後10年シルクロートの鉄に挑戦『シルクロード鉄物語』窪田蔵郎著」より、平成7年10月、社団法人日本鉄鋼連盟=国会図書館デジタルコレクション
日本農村生活研究会編「農村生活研究」39巻1号18ページ、「北海道における羊肉消費の展開」より、平成7年2月、日本農村生活学会=原本
椎名誠編「本の雑誌」20巻5号28ページ、坂東齢人「新刊めったくたガイド」より、平成7年5月、本の雑誌社=原本
渡辺淳一著「これを食べなきゃ――わたしの食物史」199ページ、「平原で食べてこそ成吉思汗」より、平成7年10月、集英社=原本
賀曽利隆著「バイクで越えた1000峠」35ページ、平成7年10月、JTB日本交通公社出版事業局=原本
窪田蔵郎著「シルクロード鉄物語」50ぺージ、「草原に花開いた鉄文化」より、平成7年7月、雄山閣出版=原本
(299)は平成15年1月8日付北海道新聞23面、連載「探偵団がたどるジンギスカン物語」その2=北海道新聞縮刷版
(300)は中尾佐助著「料理の起源」128ページ、「偏見の世界」より、昭和47年12月、日本放送出版協会=館内限定デジタル本
(301)は瀬戸内寂聴著「わたしの宇野千代」251ページ、平成8年9月、中央公論社=原本
新藤常右衛門著「ああ疾風戦闘隊 大空に生きた強者の半生記録」78ページ、「匪賊討伐に大空の出陣」より、平成8年1月、光人社=原本
岡田哲著「日本の味探求事典」159ページ、平成8年1月、東京堂出版=原本
100人の共同執筆「あの時あの味あの風景 食と味、あの話しこんな話し」75ページ、平成8年3月、スカット出版=原本
サッポロビール株式会社広報部社史編纂室編「サッポロビール120年史」537ページ、「不動産活用など関連事業の本格化」」より、平成8年3月、サッポロビール株式会社=原本
養賢堂編「畜産の研究」50巻6号72ページ、高石啓一「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」より、平成8年6月、養賢堂=原本
新潮社編「小説新潮」50巻6号250ページ、太田和雄「酒場放浪記(高知)」より、平成8年6月、新潮社=館内限定デジ本
藤門弘著「牧場物語 北海道アリスファームの四季」244ページ、平成8年10月、地球丸=原本
瀬戸内寂聴著「わたしの宇野千代」252ページ、平成8年9月、中央公論社=原本
(302)は東京裁縫女学校編「裁縫雑誌」21巻12月号80ページ、一戸伊勢「羊肉に就て」より、大正11年12月、東京裁縫女学校出版部=原本
(303)は月寒史料発掘会編「聞書き史料(1)~30」2ページ、平成9年11月19日記録=原本
横山博之、岩城道子著「北海道/アウトドアライフまるかじり キャンプから野外料理まで」124ページ、平成9年6月、北海道新聞社=原本、
光文社編「週刊宝石」17巻33号206ページ、「アジアン美女6人の日本ウルルン滞在記」より、平成9年9月11日、光文社=原本
芳賀登、石川寛子監修「全集日本の食文化(8) 異文化との接触と受容」190ページ、山塙圭子「北海道の洋食文化に関する研究(2) ――各種記録から見る洋食文化の受容――」より、平成9年10月、雄山閣出版=原本
月寒史料発掘会編「聞書き史料(1)~30」2ページ、平成9年11月19日記録=原本
講談社編「群像」52巻12号219ページ、日野啓三「天池」より、平成9年12月、講談社=館内限定デジタル本
(304)は吉田稔著「牧柵の夢 北の畜産とともに生きて」87ページ、平成10年3月、デーリィマン社=原本
(305)は和田由美著「続・和田由美の札幌この味が好きッ!」68ページ、「真のマトン好きには堪らない大人の味わい」より、平成28年12月、亜璃西社=原本
(306)は久間十義著「限界病院」22ページ、令和3年11月、新潮社=原本
吉田稔著「牧柵の夢 北の畜産とともに生きて」87ページ、平成10年3月、デーリィマン社=原本
和田由美著「日曜日のカレー」63ページ、平成10年4月、亜璃西社=原本
文芸春秋編「文芸春秋」73巻5号ベージ番号なし、戸塚省三「勇利アルバチャコフ ジンギスカン鍋」より、平成10年4月、文芸春秋=館内限定デジタル本
千石涼太郎著「もっとおいしい北海道の話」162ページ、平成10年5月、ティーツー出版=原本
日本航空文化センター編「サライ」10巻11号96ページ、坂川栄治、北崎二郎「道草のグズベリー」より、平成10年6月、日本航空文化センター=原本
小学館編「サライ」巻号16ページ、「特集 旨さを生み出す玉手箱」より、平成10年6月4日、小学館=原本
講談社編「群像」53巻9号139ページ、久間十義「心臓が二つある河 その一」より、平成10年9月、講談社=原本
大蔵省大臣官房文書課編「ファイナンス」通巻397号44ページ、川合義房「北の関守 パワフルな税関マン」より、平成10年12月、大蔵財務協会=国会図書館デジタルコレクション
(307)は平凡社編「太陽 天皇の料理番特集」37巻1号ページ番号なし、「エリート羊が牧草地でのびのびと育つ」より、平成11年1月、平凡社=館内限定デジタル本
資料その8はそのころ定番のスタイル、新聞紙のエプロンをかぶってジンギスカンを味見中の尽波満洲男氏、日夜の研究のせいで80キロになっちゃった私だ。
(308)は中央公論社編「中央公論」1344号207ページ、加藤九祚「虚空にたいする畏れ―徳と功と言を立てた『不朽』の人からいただいたもの 」より、平成8年9月、中央公論社=館内限定デジタル本
(309)は文芸春秋編「司馬遼太郎の世界」79ぺージ、高峰秀子「菜の花」より、平成8年10月、文芸春秋=原本
平凡社編「太陽 天皇の料理番特集」37巻1号79ページ、中沢けい「すっと空気が変わる」より、平成11年1月、平凡社=館内限定デジタル本
朝日新聞社編「週刊朝日」104巻3号71ページ、「デキゴトロジー」より、平成11年1月22日発行、朝日新聞社=原本
司馬遼太郎著「司馬遼太郎全集」64巻138ページ、「街道をゆく」より、平成11年11月、文芸春秋=原本、底本は「週刊朝日」平成4年4月3日号、同4月10日号
(310)は明治書院編「日本語学」19巻7号62ページ、「各地方言の食生活語彙を散歩する」の「●北海道 菅泰雄」より、平成12年8月、明治書院=館内限定デジタル本
(311)は 村元直人著「北海道の食 その昔、我々の先人は何を食べていたか」305ページ、「蝦夷・北海道食物史関係年表」より、平成12年12月、幻洋社=原本
明治書院編「日本語学」19巻7号62ページ、菅泰雄「北海道」より、平成12年8月、明治書院=館内限定デジタル本
村元直人著「北海道の食 その昔、我々の先人は何を食べていたか」145ページ、「ジンギスカンのルーツ」より、平成12年12月、幻洋社=原本
(312)は西村淳著「面白南極料理人」106ページ、平成13年5月、春風社=原本
(313)は同106ページ、同
西村淳著「面白南極料理人」106ページ、平成13年5月、春風社=原本
100年史編集委員会編「北海道大学野球部100年史[1901~2000]」119ページ、平成13年10月、北海道大学図書刊行会=原本、
(314)はSTVラジオ編「続・ほっかいどう百年物語」221ページ、「栗林元二郎 1886~1977」より、平成14年9月、中西出版=原本
(315)はSTVラジオ編「続・ほっかいどう百年物語」221ページ、「栗林元二郎 1886~1977」より、平成14年9月、中西出版=原本
(316)は日本聞き書き学会編「北海道聞き書き隊選集」117ページ、聞き手斉藤秀世「ジンギスカン物語『八紘学園とともに』」より、平成15年3月、日本聞き書き学会=原本
(317)は栗林先生追想記刊行会編「追想記 栗林元二郎」166ページ、昭和58年2月、栗林先生追想記刊行会=国会図書館デジタルコレクション
(318)は同167ページ、同
八紘学園七十年史編集委員会編「八紘学園七十年史」159ページ、平成14年7月、八紘学園=原本
STVラジオ編「続・ほっかいどう百年物語」221ページ、「栗林元二郎 1886~1977」より、平成14年9月、中西出版=原本
平成15年1月9日付北海道新聞朝刊23面、「探偵団がたどるジンギスカン物語 調査報告その3 ルーツを探る」より=北海道新聞縮刷版
日本聞き書き学会編「北海道聞き書き隊選集」119ページ、聞き手斉藤秀世「ジンギスカン物語『八紘学園とともに』」より、平成15年3月、日本聞き書き学会=原本
日本民主主義文学会編「民主文学」452号71ページ、神林槻子「子の隠し」より、平成15年6月、新日本出版社=原本
林真理子著「トーキョー偏差値」194ページ、「美人の道は果てしなく」より、平成15年9月、マガジンハウス=原本
養賢堂編「畜産の研究」57巻10号97ページ、高石啓一「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」より、平成15年10月、養賢堂=原本
(319)は佐々木道雄著「焼肉の文化史」330ページ、《図8-7》より、平成16年7月、明石書店=原本
(320)は村山鎮雄著「史料 画家正宗得三郎の生涯」182ページ、平成8年12月、三好企画=原本
資料その9は佐々木道雄著「焼肉の文化史」330ページ、挿絵「北京・正陽楼のジンギスカン料理」より、平成16年7月、明石書店=原本
(321)は佐々木道雄著「焼肉の文化史」382ページ、「俗説は繁栄する」より、平成16年7月、明石書店=原本
白石一文著「見えないドアと鶴の空」48ページ、「7」より、平成16年2月、光文社=原本
平成16年6月21日付北海道新聞朝刊1面、コラム「卓上四季」より=原本
佐々木道雄著「焼肉の文化史」308ページ、「〝焼肉〟の起源再考」より、平成16年7月、明石書店=原本
野瀬泰申著「全日本『食の方言』地図」、平成16年7月、日本経済新聞社=原本
瀬戸竜哉、小島裕子編「むかし、みんな軍国少年だった」292ページ、和田勉「戦時中も玉手箱は天国の思い出」より、平成16年9月、G.B.
谷村志穂著「白の月」218ページ、「蒼い水」より、平成16年11月、集英社=原本
喜味こいし、戸田学著「いとしこいし 漫才の世界」230ページ、平成16年11月4刷、岩波書店=原本
(322)は朝日新聞社編「週刊朝日」110巻16号748ページ、東海林さだお「あれも食いたいこれも食いたい」878回より、平成17年4月8日発行、朝日新聞社=原本
(323)は光文社編「小説宝石」38巻6号158ページ、井上尚登「ストックオプションの罠」より、平成17年6月、光文社=原本
株式会社マツオ編「Matsuo Jingiskan Magazine」創刊号1ページ、「ジンギスカンに恋した男たち。」より、平成17年3月、株式会社マツオ=原本
朝日新聞社編「週刊朝日」110巻16号748ページ、東海林さだお「あれも食いたいこれも食いたい」878回より、平成17年4月8日発行、朝日新聞社=原本
朝日新聞社編「AERA」18巻25号48ページ、内田麻紀「ジン鍋進化論 激増するジンギスカン鍋店」より、平成17年5月16日発行、朝日新聞社=原本
日経BP社編「日経ビジネス」1293号23ページ、「売れ筋読み筋」より、平成17年5月30日、日経BP社=原本
坂本儀郎編「月刊レジャー産業資料」38巻5号166ぺージ、安田理「羊肉=ジンギスカン料理店が続々都内にお目見え」より、平成17年5月、綜合ユニコム=原本
情報企画編「月刊イズム」16巻6号28ページ、座談会「ジンギスカンは北海道で最高の食文化だ!!」より、平成17年6月、情報企画=原本
光文社編「小説宝石」38巻6号158ページ、井上尚登「ストックオプションの罠」より、平成17年6月、光文社=原本
飛田和緒著「飛田和緒の台所の味」48ページ、「待つのも楽しみなお取り寄せ」より、平成17年6月、東京書籍=原本
江木裕計編「小説新潮」59巻9号442ページ、高橋洋二「昼下がりの洋二」より、平成17年9月、新潮社=原本
ジンギスカン食普及拡大促進協議会編「北海道遺産記念 ジンギスカンミニガイド」1ページ、辻井達一「ジンギスカンサミット開催に寄せて」より、平成17年9月、ジンギスカン食普及拡大促進協議会
同「ジンギスカ新聞」4ページ、飯田隆雄「ジンギスカンサミット開催に寄せて」より、同
新潮社編「新潮」102巻10号7ページ、清水博子「Vanity」より、平成17年10月、新潮社
(324)はhttps://www.youtube.
com/watch?v=UnxXulgYVCM&t=37s
(325)は
https://www.tripadvisor.jp/
Attraction_Review-g1056644
-d21389754-Reviews-Monument
_for_Kiyohiro_Miura-Muroran
_Hokkaido.html
自由国民社編「現代用語の基礎知識 2006」、「食文化」1220ページ、「今年の料理ブームとそのつくり方」1582ページ、「美容」1284ページ、「北海道」1610ページ、平成18年1月、自由国民社=原本
能勢剛編「日経おとなのOFF」50号119ページ、中島羊一「石炭ストーブのおかげで生まれた本場、北海道のジンギスカン鍋」より、平成18年1月、日経ホーム出版社=原本
石毛直道著「ニッポンの食卓 東飲西食」88ページ、平成18年3月、平凡社=原本、
長谷川浩編「すばる」28巻4号248ページ、辻仁成「右岸 連載51回」より、平成18年4月、集英社=原本
新潮社編「小説新潮」743号270ページ、桜井寛「全国トロッコ列車ベスト10」より、平成18年4月、新潮社=原本
三浦清宏著「海洞――アフンルパロの物語」99ページ、第4章「なして日本に帰ったのさ」より、平成18年9月、文芸春秋=原本
山口猛著「幻のキネマ満映」ページ、「右翼、左翼、活動屋の華麗な饗宴」より、平成18年9月、平凡社=原本
中央公論社編「中央公論」121巻12号201ページ、林家正蔵「高座舌鼓」⑰より、平成18年12月、中央公論社=原本
(326)は新潮社編「小説新潮」61巻3号55ページ、椎名誠「麺の甲子園」より、平成19年3月、新潮社=館内限定デジタル本
(327)は桑沢篤夫、(有)フロッシュ著「マンガで知る 日本全国名物グルメ誕生伝 東日本編」ページ番号なし、平成19年4月、ホーム社=原本
(328)は平成26年9月26日付産経新聞東京版朝刊26面「大人の遠足 神奈川県茅ヶ崎市 開高健の足跡をたどる(古川有希)」
(329)は勝見洋一著「匂つ立つ美味」21ページ、「羊肉」より、平成19年9月、光文社=原本
(330)は同201ページ、「ハヤシライス」より、同
(331)と(332)は宇佐美伸著「どさんこソウルフード 君は甘納豆赤飯を愛せるか!」156ページ、平成19年12月、亜璃西社=原本
(333)は同157ページ、同
新潮社編「小説新潮」753号203ページ、座談会「挽き肉の逆襲が始まる!」より、平成19年2月、新潮社=原本
新潮社編「小説新潮」61巻3号55ページ、椎名誠「麺の甲子園」より、平成19年3月、新潮社=館内限定デジタル本
平成19年3月28日付ONTONA(女性せいかつ情報紙)16面「暮らしアラカルト」=原紙
桑沢篤夫画、フロッシュ著「マンガで知る 日本全国名物グルメ誕生伝 東日本編」ページ番号なし、平成19年4月、ホーム社=原本
飛鳥新社編「icsue spring issue」5号16ベ-ジ、菊谷匡祐「開高健の杯 ジンギスカン屋でロマネ・コンティ」より、平成19年5月、飛鳥新社=館内限定デジタル本
勝見洋一著「匂つ立つ美味」21ページ、「羊肉」より、平成19年9月、光文社=原本
宇佐美伸著「どさんこソウルフード 君は甘納豆赤飯を愛せるか!」154ページ、平成19年12月、亜璃西社=原本
(334)は講談社編「小説現代」46巻3号132ページ、椎名誠「新宿遊牧民 バカたちはずっと西をめざす」より、平成20年3月、講談社=原本
毎日新聞社編「週刊エコノミスト」86巻13号75ページ、松原聡「松原聡の喰えば投資が分かる!」より、平成20年3月1日号、毎日新聞社=原本
講談社編「小説現代」46巻3号133ページ、椎名誠「新宿遊牧民 バカたちはずっと西をめざす」より、平成20年3月、講談社=原本
三善貞司編「大阪伝承地誌集成」93ページ、「中央区(大阪市)」より、平成20年5月、清文堂=原本
講談社編「小説現代」46巻13号454ページ、櫂未知子「季語の引力」より、平成20年10月、講談社=原本
出村明弘著「ことばのご馳走 こころの滴をあなたに」111ページ、平成21年2月、柏艪舎=原本
立石敏雄著「笑う食卓」初版第2刷283ページ、平成21年4月、阪急コミュニケーションズ=原本
文芸春秋編「文学界」63巻4号267ページ、安戸悠太「遊ばせている駐車場」より、平成21年4月、文芸春秋=原本
文芸春秋編「オール読物」64巻7号84ページ、平松洋子「いまの味」より、平成21年7月、文芸春秋=原本
(335)は本格ミステリ作家クラブ編「本格ミステリ’10 二〇一〇本格短編ベスト・セレクション」70ページ、平成22年6月、講談社=原本
(336)は同*ぺーじ、同
綾小路きみまろ著「一つ覚えて三つ忘れる中高年」75ページ、平成20年2月、PHP研究所=原本
養賢堂編「畜産の研究」64巻2号299ぺージ、高石啓一「農家の友にみた成吉思汗の顛末(1)」より、平成22年2月、養賢堂=原本
本格ミステリ作家クラブ編「本格ミステリ´10 二〇一〇本格短編ベスト・セレクション」70ページ、平成22年6月、講談社=原本
角田光代著「今日もごちそうさまでした」8ページ、平成23年9月、アスペクト=館内限定デジタル本
小瀬木麻美著「ラブオールプレー」163ページ、平成23年5月、ポプラ社=原本
(337)=
http://tontan303.blog51.fc2.com
/blog-date-201109.html
(338)=
http://tontan303.blog51.fc2.com
/blog-date-201010-3.html
通信文化協会北海道地方本部「統合の秋に向け鋭気養う」より=
http://tontan303.blog51.
fc2.com/blog-date-201208.html
 日本底辺教育調査会編「ド底辺高校生図鑑」60ページ、平成24年9月、扶桑社=原本
ミニマル+BLOCKBUSTER著「イラストでよくわかる きれいな食べ方」54ページ、平成24年9月、彩図社=原本
平成24年11月1日付北海道新聞・北海道新聞創刊70周年紀念広告特集「ジンギス刊」5面=原本
(339)は https://www.webchikuma.jp/
articles/-/3320
(340)は光塩学園女子短期大学編「光塩学園女子短期大学紀要」第12号99ページ、前田和恭「北海道遺産になったジンギスカン料理」より、平成25年3月、光塩学園女子短期大学=原本
(341)は同109ページ、同
(342)は同3号10ページ、南部あき子、南部しず子「これからの日本人の食生活についての一考察」より、平成3年3月、光塩学園女子短大=国会図書館ダジタルコレクション
(343)は三浦雄一郎著「75歳のエベレスト 」195ページ、「成人病患者に?」より、平成20年9月、日本経済新聞出版社=原本
集英社編「すばる」27巻2号221ページ、新井一二三「日式中華の起源」より、平成25年2月、集英社=原本
光塩学園女子短期大学編「光塩学園女子短期大学紀要」第12号101ページ、前田和恭「北海道遺産になったジンギスカン料理」より、平成25年3月、光塩学園女子短期大学=原本
岩崎日出俊著「65歳定年制の罠」83ページ、「年齢にとらわれない生き方」より、平成25年3月、KKベストセラーズ=原本
北野麦酒著「蒐める! レトロスペース・坂会館」81ページ、平成25年4月、彩流社=原本
岡田哲著「たべもの起源事典 日本編」357ページ、平成25年5月、筑摩書房
池田貴夫著「なにこれ!?北海道学」42ページ、平成25年7月、北海道新聞社=原本
乾ルカ著「メグル」213ページ、「タベル」より、平成25年8月、東京創元社=原本
(344)は増田敏也著「七帝柔道記」175ページ、平成25年7月、「恐怖の伝統行事」より、角川書店=原本
(345)は黒川鐘信著「神楽坂ホン書き旅館」66ページ、平成19年11月、新潮社=原本
(346)は政界往来社編「政界往来」23巻11号103ページ、「ノーマン大使との邂逅――ヴァンクーバーと東京で――」より、昭和32年11月、政界往来社=国会図書館デジタルコレクション
(347)は近代映画社編「近代映画」7巻9号ページ番号なし、「私はお角力ファンです」より、昭和26年9月、近代映画社=館内限定デジ本
(348)は
https://en.wikipedia.org/
wiki/Matt_Goulding
岡田哲著「たべもの起源事典 世界編」301ページ、平成26年2月、筑摩書房=原本
増田敏也著「VTJ前夜の中井裕樹」141ページ、対談「思いを、繋げ」より、平成26年12月、イースト・プレス=原本
河出書房新社編「ぐつぐつ、お鍋」86ページ、池部良「ジンギス汗鍋」より、平成26年12月、河出書房新社=原本
マット・グールデング著、羽田詩津子訳「米、麺、魚の国から アメリカ人が食べ歩いて見つけた偉大な和食文化と職人たち」ページ、平成26年12月、扶桑社=原本
(349)は成瀬宇平、横山次郎著「47都道府県・肉食文化百科」44ページ、「知っておきたいその他の肉と郷土料理・ジビエ料理」より、平成27年1月、丸善出版=原本
(350)は千石涼太郎著「なんもかんも北海道だべさ!!」110ページ、「エスカロップは丼飯である」より、平成20年4月、双葉社=原本
(351)は小泉武夫著「くさい食べもの大全」16ページ、平成27年4月、東京堂出版=原本
(352)は小泉武夫著「くさい食べもの大全」14ページ、平成27年4月、東京堂出版=原本
(353)は同15ページ、同
成瀬宇平、横山次郎著「47都道府県・肉食文化百科」45ページ、「知っておきたいその他の肉と郷土料理・ジビエ料理」より、平成27年1月、丸善出版=原本
小泉武夫著「くさい食べもの大全」95ページ、平成27年4月、東京堂出版=原本
井上恭介著「牛肉資本主義 牛丼が食べられなくなる日」50ぺージ、「ヒツジへの玉突き現象」より、平成27年12月、プレジデント社=原本
資料その17は令和4年5月22日付北海道新聞日曜版2面「味力探訪 ジンギスカン」に掲載された御料牧場記念館に残るジンギスカン焼鉄板と勝田健司さん(右)。来客をもてなす貴賓館の庭などで使われた(藤井泰生撮影)=原本
 尽波註=勝田さんは同記念館の管理関係者。
(354)は瑞木裕著「どーでもミシュラン ホントに美味しい北海道に出会う食うんちく」171ページ、平成28年9月、ベストブック=原本
(355)は平成28年11月3日付日本経済新聞40面、溝口雅明「ジンギスカン 鍋も味わい ◇北の大地に博物館オープン、収集通じ食文化ひもとく◇」=原紙
都会生活研究プロジェクト・大沢玲子著「北海道ルール 最新版」36ページ、「〝でっかいどう〟が誇る! 日本一編」より、平成28年3月、KADOKAWA=原本
成田市教育委員会生涯学習課編「成田歴史玉手箱 成田市の文化財第47集」11ページ、「下総御料牧場貴賓館 ジンギスカン料理でもてなし国際親善に貢献」より、平成28年3月、成田市教育委員会生涯学習課=原本
荒井宏明著「北海道民あるある」77ページ、「北海道民グルメあるある」より、平成28年8月、TOブックス=原本
瑞木裕著「どーでもミシュラン ホントに美味しい北海道に出会う食うんちく」173ページ、平成28年9月、ベストブック=原本
平成28年11月3日付日本経済新聞40面、溝口雅明「ジンギスカン 鍋も味わい ◇北の大地に博物館オープン、収集通じ食文化ひもとく◇」=原紙
(356)は、いき出版=
https://www.ikishuppan
.co.jp/pages/680/
(357)は成毛眞著「コスパ飯」5ページ、「はじめに」より、平成29年4月、新潮社=原本
(358)は丸山政也著「恐怖実話 奇想怪談」111ページ、「頑固オヤジの店」より、平成29年9月、竹書房
東京出版編「東京人」32巻1号14ページ、大崎善生「最高の贅沢だった味付けジンギスカン」より、平成29年1月、東京出版=原本
畑中三応子著「カリスマフード――肉・乳・米と日本人」87ページ、平成29年1月、春秋社=原本
北野麦酒著「北海道 ジンギスカン四方山話」106ページ、平成29年2月、彩流社=原本
郷土資料「岩見沢民話」調査研究・活用事業実行委員会編「新 いわみざわの民話」227ぺージ、「ジンギスカン料理発祥の地 北村」より、平成29年3月、岩見沢市教育委員会(非売品)=原本
成毛眞著「コスパ飯」78ページ、平成29年4月、新潮社=原本
丸山政也著「奇想怪談 恐怖実話」115ページ、「頑固オヤジの店」より、平成29年9月、竹書房
馳星周著「神の涙」114ページ、平成29年9月、実業之日本社=原本
喜多みどり著「弁当屋さんのおもてなし 海薫るホッケフライと思い出ソース」160ページ、平成29年10月、角川書店=原本
(359)は小谷武治著「羊と山羊」1ページ、新渡戸稲造「序」より、明治45年4月、丸山舎書籍部=国会図書館デジタルコレクション
(360)は平成30年7月31日付北海道新聞朝刊13面、「夏『食』の風景 列島各地から」より=原本
(361)と(362)は平成30年7月31日付北海道新聞朝刊13面、「夏『食』の風景 列島各地から」より=原本
桑原真人、川上淳著「増補版・北海道の歴史がわかる本」314ページ、平成30年1月、亜璃西社=原本
江口真規著「日本近現代文学における羊の表象 漱石から春樹まで」173ページ、「戦後日本と満洲の緬羊飼育――ホームスパンと『ジンギスカン』」より、平成30年1月、彩流社=原本
プレジデント社編「danchu」平成30年6月号13ページ、 植野広生「ジンギスカン」より、プレジデント社=原本
同14ページ、 大岡玲「羊をめぐる妄見」より、同
平成30年7月31日付北海道新聞朝刊13面、「夏『食』の風景 列島各地から」より=原本
魚柄仁之助著「刺し身とジンギスカン 捏造と熱望の日本食」138ページ、「ジンギスカン」より、平成31年2月、青弓社=原本
平松洋子著「かきバターを神田で」35ページ、「冬の煮卵」より、令和元年9月、文藝春秋=原本
鈴木士郎、みたむらみっち編「これでいいのか北海道札幌市」53ぺージ、令和元年12月、マイクロマガジン社=館内限定デジタル本
佐藤信著「旬の食材時候集」522ページ、令和元年12月、星雲社=原本
中村まさみ著「金縛り 怪談5分間の恐怖」188ページ、「水風船」より、令和2年3月、金の星社=原本
島村恭則著「みんなの民族学 ヴァナキュラーってなんだ?」174ページ、令和2年11月、平凡社=館内限定デジタル本
(363)は朝日新聞社北海道支社編「北のパイオニアたち」141ページ、「無料試食会も不人気」より、昭和43年7月、朝日新聞社北海道支社=国会図書館デジタルコレクション
(364)は同143ページ、同
阿古真理著「日本外食全史」327ページ、令和3年3月、亜紀書房=原本
秋川滝美著「マチのお気楽料理教室」197ページ、「ジンギスカンの宴」より、令和3年5月、講談社=原本
岩間一弘著「中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえて」137ページ、「世界無形文化遺産への登録をめぐる議論」より、令和3年9月、慶応大学出版会
松田純佳著「クジラのおなかに入ったら」41ページ、「鯨類研究者への道」より、」令和3年12月、ナツメ社=館内限定デジタル本
森崎緩著「総務課の渋澤君のお弁当 ひとくち召し上がれ」14ページ、「鮭のちゃんちゃん焼きと卵焼き」より、令和3年12月、宝島社=館内限定デジタル本
(365)は小泉武夫著「北海道を味わう」228ページ、「おらが道民の味自慢」より、令和4年3月、中央公論新社=原本
(366)は菊池一弘著「食べる!知る!旅する! 世界の羊肉レシピ 全方位的ヒツジ読本。」16ページ、「【第三次ブーム】平成末から令和」より、令和5年11月、グラフィック社=原本
(367)は同17ページ、同
(368)は芦原伸著「世界食味紀行 美味、珍味から民族料理まで」196ページ、「もとは中国の回々料理の「カオヤンロウ(烤羊肉)か?」より、令和4年12月、平凡社=原本
(369)は同197ページ、同
(370)は芦原伸著「世界食味紀行 美味、珍味から民族料理まで」201ページ、「元祖、松尾ジンギスカンを訪ねる」より、令和4年12月、平凡社=原本
小泉武夫著「北海道を味わう」228ページ、「おらが道民の味自慢」より、令和4年3月、中央公論新社=原本
令和4年5月22日付北海道新聞日曜版1面「味力探訪 ジンギスカン」=原本
山口恵以子著「婚活食堂 7」ページ、「ジンギスカンは婚活の味」より令和4年5月、PHP研究所=館内限定デジタル本
井上荒野著「小説家の一日」100ページ、「何ひとつ間違っていない」より、令和4年10月、文芸春秋=原本
菊池一弘著「食べる!知る!旅する! 世界の羊肉レシピ 全方位的ヒツジ読本。」15ページ、「【第二次ブーム・平成10年末】机上主導ジンギスカンブーム」より、令和5年11月、グラフィック社=原本
白鳥和生著「不況に強いビジネスは北海道の『小売』に学べ」86ページ、「名物にうまいものあり」より、令和4年11月、プレジデント社=原本
芦原伸著「世界食味紀行 美味、珍味から民族料理まで」201ページ、「ジンギスカンをめぐる冒険 ▼日本・北海道」より、令和4年12月、平凡社=原本
(371)はホームページ「今日もごちそうさまでした」の「No.058 加齢とわさび」より、アスペクト= http://kakuta.aspect.co
.jp/essay/201102.html
(372)は令和5年11月25日付日本経済新聞「NIKKEIプラス1」13ページ、「食の履歴書」=原本
(373)は宇田川勝司著「謎解き世界地理 トピック100」18ページ、令和5年11月、ペレ出版=原本
ベル食品ホームページ、「お知らせ」より、令和5年3月20日 PR TIMESのプレスリリース=
https://prtimes.jp/
main/html/rd/p/
000000010.000104982.html
山本佳典著「羊と日本人 波乱に満ちたもう一つの近現代史」296ページ、「その後の羊たち」より、令和5年3月、流彩社=原本
令和5年3月29日付北海道新聞朝刊26面「朝の食卓」より、溝口雅明著「78歳おさげ女子学生」=原本
文芸春秋編「別冊文藝春秋」電子版50号321ページ、朝倉かすみ「よむよむかたる」より、令和5年7月、文藝春秋=原本
角田光代著「今日もごちそうさまでした」8ページ、平成23年9月、アスペクト=館内限定デジタル本
北海道大学高等教育研究部ホームページ、江本理恵「ジンパ」、令和5年11月24日、研究部ノート=
https://high.high.
hokudai.ac.jp/%E3%82%
B8%E3%83%B3%E3%83%91/
令和5年11月25日付日本経済新聞「NIKKEIプラス1」13ページ、「食の履歴書」=原本
新川帆立著「先祖探偵」2巻135ページ、「焼失戸籍とご先祖様の霊」より、令和5年11月、角川春樹事務所=原本
宇田川勝司著「謎解き世界地理 トピック100」18ページ、令和5年11月、ペレ出版=原本