新版・現場主義のジンパ学

山東の養稼山人のジンギスカン談義

 近ごろは「続く」というからクリックすると、ウイルスに感染しているから、ここに連絡せよなどとんでもないページが現れたりするから、君子危うきに近寄らず―と大抵は素通りするところだが、勇敢にも私の講義を信用して「支那断片」という補助資料を見に来たその積極性というか野次馬根性を私は高く評価します。
 街を歩いていて、なにか人だかりしている場所があったら、兎に角覗いてみる。空を見上げてなにか変なものが飛んでいたらスマホで撮っておく。何かのデータで変な事項が入っていたら特異事項として記録しておくなどするとね、後で役立つことがあるかも知れない。空振りになっても雑談のネタにはなるよ。
 そこでせっかくこのページを見に来た諸君に「そういう話か、がっかり」と戻らせないように気配りして、おまけとして20年前のグーグルの検索結果の出力記録を入れたし、どの講義でも使われずに終わりそうな話も付け足したから、最後まで見なさいよ。
   支那の羊肉
 君は羊の鋤焼を食つたことがあるかね。
 日本で鋤焼と言へば先づ牛肉と鶏肉が主だが、其他
にや家鴨や鴨や雁や鯨がある中に馬肉が牛肉に化けて
入つて来るのもある。尤も近頃は豚肉も大分はやり出
してゐるがね。所が支那へ来ると牛、豚が多いが鋤焼
は羊の鋤焼が流行る。こゝ北平では羊の鋤焼と言へ
ば、先づ前門外の正陽楼だね。名物にうまいものなし
と言ふが、正陽楼のは有名な上に大変うまい。味は他
の追随を許さぬものがある。これには色々秘伝もある
が、先づ第一に食ひ方に依るよ。腹がふくれてゐたり
宴会の続いた時に行つても、折角の御馳走がまづく
て、本当の味は分らない。先づ腹をへらして行かねば
ならぬ。人間と言ふものは勝手だが贅沢だが知らない
が、結構な御馳走を食べてうまくないと言ふ。これぢ
や天罰があたるよ。然しいくら結構な御馳走でも、う
まくないときはうまいとは言へぬものでね。それで正
陽楼あたりに行くときは、朝飯か午飯か一食抜きにし
て腹をへらして行くのだな。これは正陽楼に限らずこ
の原理を応用すればどこの料理でもうまい。君信じな
いならば一食抜きにして、東単牌楼の市場にある車夫
達が入つて食べる障子式の飯屋所謂支那の簡易食堂に
行つて見給へ。うまい事は東興楼や豊沢園や玉華台あ
たりよりずつとうまいよ。それから君は前門外五大廟
の春華楼に行つたことがあるかね。ナニ?ない。大体
攤子と大飯館子の間には色々の階級の店があるが、こ
の春華楼は先づ攤子と大飯館子の中間と言つたところ
だ。ところが、こ春華楼の料理は、有名なとこよりズ
ツト安くてうまいんだ。尤もこれは舌にもよるがね。
ちつと昔はきたなかつたが、十数年前から移転して家
も新しくなつたし、殊に掛けた画がいゝ。と言ふのは
その店の主人が画に趣味を持つてゐて、自分で画を描
く関係から張千年等の画家が援助して贈つた画をかけ
てゐるのだ。こゝの画は相当の画がかゝつてゐる。若
し腹が張つた場合は、風景画を見て居れば腹がへつて
来てうまくなるよ。日本の旅館や料理屋は、よい座敷
と言へば景色のよい家の事だが、支那の料理店は景色
は余り構はない。そこは画でごまかす訳でもなからう
が、画が景色と思えばうまさでも違つて来るよ。
 ワシやこの年になつて別段取柄もないが飯の方丈け
は相当自信があるよ。二十前後の学生時代には食堂に
は一番先きに入つて一番最後まで頑張つてゐたもの
だ。これは支那語で言へば「先進後退」だが軍隊なら
ば一番先に突撃して、最後には殿軍となる仲々大事な
役目だ。
 
 『大飯桶』の弁

 そんな具合に食堂では先鋒隊から殿軍まで勤めるか
ら食べる時は相当時間を長くかゝつてよく噛んでゐる
んだ。そして腹八分目と言ふことを忘れぬように注意
してゐるが、それでも学生時代には時々制限を忘れ
て、昼食後の講義の時にはノートがブランクになる事
がよくあつたものだ。それで同窓の学友達はワシのニ
ツクネームを「大飯桶」と呼んで殆んどワシの名を言
つたことはない。尤も在学当時は年が一番少なかつた
から「一大飯桶少爺」と呼ばれたものだが、段々年を
とつて来ると「大飯桶先生」とか「大飯桶老爺」とか
になつて来たが中には「大飯桶居土」と言ふたのもあ
るようだ。それで一期の「大飯桶」と言へば大概分る
んだが君も知つてゐる通り支那語で「飯桶」と言へば
少し足りぬ方の意味だから、大がつくと大馬鹿と言ふ
ことにもなる。これは虚名ぢやない実名でこの方にか
けては自信があるよ。こう言ふ訳だから、ワシが料理
のことを言ふのも義務とか責任とかで言ふ訳ぢやない
が、先づ資格に欠くるところはないだらうと思つて、
羊の鋤焼のついでに話してゐるんだよ。これから本当
の支那料理と言ふものを論ずるなら、まだ沢山あるん
だが、北京の料理にしてもそれを一々話してゐたら、
君がお腹が一杯になつて眠くなつたらいけないから、
これ位にして本論に戻つて……エゝト何処まで話して
ゐたかな。あゝそうだつたね。正陽楼の羊肉鋤焼の秘
伝のところだつたね。

 正陽楼の羊肉鋤焼

 先づ第一に、正陽楼の羊肉鋤焼に使う肉が違つてゐ
る。此処で使う肉は、食羊の選定が八釜しくて、又一
頭の羊の内でも頸のあたりの特別な肉を使ふんで、他
の部分はそこでは雑肉に入れるんだ。
 第二に肉の切り方に秘伝がある。肉の切り方で味が
違ふのだよ。細かいことは料理人に聞かないと分らな
いがね。料理人と言へばこゝの料理人になるには十年
二十年の修業がいる。料理人頭になるには三、四十年
やらなければいけないだらう。料理人も一廉の料理人
になるには容易なことぢやないよ。お粗末な料理人が
入ると料理が悪くなつてお客が寄付かなくなる。正陽
楼の老牌が数百年来今日までつヾいてゐるのには、こ
うゆうところに苦心が払はれてゐるのだよ。それか
ら。
 第三は羊の肉に一寸臭味があるだらう。その臭味を
消すには炭とか薪とかの種類に秘伝がある。一般に使
つてゐる炭や薪ではくすぼりで目が痛くなるようなの
を使つてゐるが、あそこではたしかドングリの木を使
つてゐるようだ。これも番頭所謂掌櫃的に聞かなけれ
ばどこからどうしてと言ふ細かい事はよく分らないが
ね。尤も聞いて見ても仲々ハツキリしたことは分らな
いだろう。他の方でまねると困るからと言ふ訳でもな
からうが、ハツキリしたことは教へないと言ふこと
で、仲々要領は得にくいものだ。君が羊肉の鋤焼の店
でもはじめる積りだつたら、そこの番頭に紹介してや
つてもいいがまあそんな顔付きもしてゐない様だから
紹介する必要もないだらう。で、その次に第四は味つ
けの醤油と酢其他の調合のし方に特殊の妙味があるよ
うで、この味つけが不味かつたら烤羊肉の本味が味は
れないとゆうことだ。とに角羊肉の鋤焼は肉の選定、
その切り方、薪、味付けと言つたようなものが具つ
て、はじめて本当の味が出るんでそれも又有名ともな
り名物ともなるんだよ。単に羊の鋤焼だけでもこう言
う具合だから、人間も一人前の人間になるには、仲々
むずかしいものだ。学問もなくてはいかず、経験もな
くてはいかぬし、それから如何に学問や経験があつて
もその人の人格とか人徳とかヾ具はらなければいけな
い。又その上強健な体力がないと永続きがしないと言
つた具合だ。国もそれと同様で智仁勇を兼ね具へなく
てはいかぬ。それもその国民各々が、夫相当にこの三
つの徳を具へてゐなければならぬ訳だ。殊にその国民
各々が、腹の力、所謂腹芸を持つ事が最も必要なの
だ。これから言ふと「大飯桶」の芸なるものも全然無
芸大食だけでも困るが、せめて腹芸の一つでもあれば
満更捨てたものでもないだらう。でつまり、此智仁勇
の三つと腹の力を兼ねてゐる人が集つてはじめて健全
な社会となり、国家となつて、発展することになるん
だ。羊肉の鋤焼もよく考へると色々人間の教訓になる
ことがあるよ。

 板橋先生と『難得糊塗』

 人間に対する教訓と言へばこんな話もある。昔山東
の濰県の県知事とながく勤めて竹等の画がうまく又学
者であつた人に有名な板橋先生と言ふ方がある。この
方は相当の人物で又酒量も相当あつたらしいがとうと
う県知事で終られた。この方は色々の警句や諧語を残
しておられるが其内に「難得糊塗」の一句がある。こ
れは馬鹿になり難しと言ふことだ。つまり馬鹿になる
のは難しいという意味だが、此言葉は解釈のしように
よつては何事も先づ大局を達観せよと言ふ意味にもな
る。然しこれはワシ式の解釈だ。故人の板橋先生が地
下から異議を持ち込んで来られることもなからうが、
現世の学者達から議論や批評を受ける場合もあるかも
知れんがこれはまあワシや甘んじて受けることにしよ
う。この板橋先生の有名な文句は石刷りも沢山出来て
ゐる。頭が鋭敏で、賢こすぎる人は、先づ此『難得糊
塗』の額を掲げて置くがいゝだらう。君の頭は余り鋭
くもなさそうだからその必要もあるまいが君の友人で
そんな人があつたらこの額をかけさせるんだな。その
石刷りの値段は安いよ。羊の鋤焼話しが転じて少々馬
鹿話染みて来たから、ここらでいよいよ羊の鋤焼の本
論に戻るとしよう。

 羊肉鋤焼の食べ方

 さて正陽楼の羊の鋤焼の秘伝はすんでゐたね。然し
食ひ方の秘伝はどうだつたかな。ナニ、もうすみまし
たつて?イヤ、あれは食ひ方のイロハのイの字だよ。
イの方は要するに腹をへらすと言ふのが原則だ。然し
腹をへらして行かなければならないと言ふのは本当の
よい料理ぢやない。普通に食べる時間に食べてうまい
のがよい料理だ。正陽楼の料理にしても別に腹をへら
して行く必要がある訳でもないがね。それでまあ腹具
合が食べ方の秘伝のイの字だ。その次のロは焼く時に
肉を味付けの下地につけてから焼くんだ。それをイキ
ナリ焼くと本当の味が出ない。次のハは肉の焼き方
だ。いくら調合のよい料理でも焼き方が悪いと台なし
になる。これは食べるお客自身の方の秘伝だね。余り
生でもいかず焦げすぎてもいけない。尤もこれは食ふ
人の方の自由裁量だがね。牛肉にしても半煮えの好き
な人と、よく焚けたのが好きな人とある。羊肉も同様
で、これはまあ言しヾ舌の自由の裁量だね。その次の
ニは食べる量だね。大概こんな風の料理には外におか
ずは出ない。後に焼餅が出るぐ位のものだ。所が羊肉
鋤焼は口あたりがいゝので動もすると食べすぎる。鋤
焼がすむと室内で時季にもよるが蟹とか外のものを主
菜として、簡単に飯を食べることになつてゐるが、肉
を食べすぎるとそれが美味しくなくなるんだ。肉を食
べすぎて帰つてから「どうもあそこの羊肉の鋤焼は、
腹が張りすぎて困る」などゝ言ふ人もあるが、これは
食ふ人の責任で、そう言はれちや正陽楼可哀相だ
よ。だからこれは人の胃袋の大きさにもよるが、まあ
一皿か二皿位にしておくのが程々だね。三皿四皿とな
ると多過ぎる方だ。次に羊肉の鋤焼には『白乾児』と
言ふ焼酎がついてゐて、それを羊肉を食べる合間合間
にチビリチビリやるんだが、これも人にもよるがまあ
二三杯が関の山だ。四五杯となると多いね。『白乾児』
を飲むと胃の中で肉と酒が調和してよく消化するん
だ。これがエゝト………秘伝のホだね。これは自分の
胃の為の秘訣だ。その他秘伝のへ、トと言ひ出せば限
りはないが、そこは各自の自由裁量にまかすとしよう
かな。

 成吉斯汗料理の名称

 正陽楼式の羊の鋤焼は、日本人間では二千年料理
とか、単に蒙古料理とか言ふが、此言葉は段々すたれ
て来て、近頃は成吉斯汗料理と言ふ名前が、専ら流行
つてゐる。此名称は、三十余年前ワシが北平にゐた当
時、たしか大谷光瑞さんが付けられた様に記憶してゐ
るが、今は、日本人間では総べて此名前で通つてゐる
ようだ。つまり大谷さんが成吉斯汗料理の名付親と言
ふことになる訳だな。然しこれは日本人が勝手につけ
た名前で支那語では『*羊肉』と言つてゐる。日本で
も、今は東京あたりでやつてゐるが、日本人が此料理
を成吉斯汗料理と呼ぶのは北京から行つたのであらう
が、一面は往時を追懐してそう呼んでゐるのだ。成吉
斯汗料理はその名で分る通り元来蒙古の料理だ。蒙古
料理と言へば羊を湯釜の中でグヅグヅ焚いて食ふん
だ、そして食ふ時は小刀みたいなものを使ふが食べる
のは箸やフオークを持たずに手掴みで食べる。こゝら
が蒙古人が西洋人ばかりでなく、支那人、日本人とち
がつてゐるところだね。支那人や日本人には面の皮が
厚いという言葉があるが、蒙古人は面の皮よりも先づ
手の皮が厚くなくては、飯は、イヤ羊は食へないと言
ふことになつてゐる。

 ※この後の章は略す


 編輯後記

 山東の権威を動員しての一大筆陣、
本号の内容を御検討下さい。自慢じや
ないが全日本の関係識者に洩れなく見
せたいものだ。それにつけても筆陣を
張つて下さつた河野、多田両閣下、省
長市長の諸官、並に在野諸権威に対し
第一に敬意を表する次第である。

 各筆陣の内容について、編輯子が蕪
辞をものして紹介するまでも無く各筆
について心眼を紙背に徹せしめあらむ
ことのみを希ひたい。必ずや、高価な
期待を打ち越す態の得るとところが齎
らされるであらうことを保証する。

 唯だ石炭、棉花、其他特殊の資源に
関して数字及論叢の一部が制限されて
居ることは淋しいが、これだけ真剣に
して、新らしく、権威の記述を今急に
他に求むることは出来ないのである。
これだけの論叢、資料を一冊に纏めた
出版物は他にはない。

 養稼山人の筆名を以つて「支那談片」
を縦横に話して居るのは人の識る西田
畊一先生であり、其蘊蓄の深く広きに
驚くであらうが、其語る問題の切実に
して興深きを見逃してはならぬ。
 X・Y・Z「山東開発に血みどろの人
々」は主幹姫野の成すところ、筆中ご
迷惑の及ぶところあらむもお許しを得
て置きたい。
 
 本年は今号を以つて終刊とし新体制
下の春を迎えて捲土重来する。重而読
者諸君、筆者諸位に敬意を贈る。
   23年前のグーグル・ブックスの出力結果
 前バージョンでも一度話したことがあるが、私が卒業以来、ずーっとご無沙汰していた母校北大に出入りするようになったのは平成12年、文学部学部同窓会の再起動のための役員として出身講座推薦から推薦されたからです。役割として私は広報要員となったので、早速同窓会のホームページをジオシティーズという無料のウェブスペースを借りて開き、年1回の同窓会報の編集もしました。
 そのころよその学部同窓会もホームページを開いていたが、散発的に短い説明つきの行事写真を見せるようなものだった。我が方は文学部ではあるが、そこはサ、文学的でなくても読み物主力で作らねばと、学部長室隣の同窓会室に通う際の見聞などを書き込んだり、メールのやりとりを書いたりした。そのうちに我々の時代のコンパに代わる飲み会を、いまの現役はジンパといい、塩豆やスルメでなく肉だ。それもマトンを焼いて飲むと知り、まずジンギスカンなんて名前を誰が付けたのか調べて読み物にしようとしたのが、ジンパ学の始まりでした。
 私は内地留学中に電通大の短期大学部に入った。毎晩飲むよりはと調布に通ったようなものだったが、鬼の何々という先生2人のお陰で毎年半分しか卒業できない厳しい学校でね、私は2年も留年させられたが、OKITAC-5090Cという紙テープ入力のコンピューターを使ってフォートランとアセンプラを習った。
 後年、道内では2番目に生まれたYOKONETというパソコン通信に加入したら、仲間の一人が若いときOKITACの保守をやっていたことを知り、私が持っていた同機で試したプログラムの穴あきの長さ5メートルぐらいの紙テープを進呈したら懐かしいと喜ばれた。世の中、結構狭いんだよ。
 留年中に蒲田の富士通電算専門学校へも通い、ミニコンと呼ばれた実社会でも使われていたミニコンでコボルで組んだプログラムを試した。道内に戻ったころブレッドボードという一枚板で液晶の数字で結果を見るTK-80というマイコンの祖先が現れ、それが進歩してキーボード付きのPC-8001以降、パソコン遊びに専念した。
 それで同窓会のホームページは気楽に組めたけれど、同窓会を離れて「現場主義のジンパ学」と独立したときは、ホームページビルダーを使って整形し、全ページ左寄せというちょっと変わったスタイルにした。
 インターネットは情報検索に使えるというので、私は最初gooという検索エンジンを使って綿羊に関する情報集めをしたが、グーグルのブックスが示す本の多さがすごいと知り、乗り換えた。そこで見せたいのが、この写真の紙です。
 これは検索結果をプリントして図書館に行き、本捜しの参考にした名残です。このころ記載箇所の前後の短文ではなく、掲載ページを細くちぎった紙片の形で示し、かつ該当の字に色を付けた。上の窓に「緬羊」が出ているので、緬羊のことを書いた本を探した結果の一部だね。最下端を見なさい、2010/03/03とあるから14年前の出力の姿というわけです。君たちが幼稚園に通っていたころから、ジンバ学の研究は始まっていたんだよ。ハッハッハ。結構古いね。
   古い北大生協のジンバセットの宣伝チラシ
 次は、そのころの北大生協のジンパセットの宣伝チラシ。いまのセットと比べると、ほぼ同じだが、肉は生意気にも生ラムも選べて、瓶入りタレで好みの味に加減できるようになっていたあたりが違う。裏面の購入予約ではジンパをやる場所を書くようになっているが、実際には構内の大抵の場所でやれたことが、今との大きな違いですな。
   綿羊を牧するの説   小幡篤次郎訳
綿羊はその種類数多ありて、其産所に従ひ英吉利綿羊、伊斯把牙綿羊、澳太利亜綿羊抔と名替り種異なれども、元来野に生立しものは、雌雄とも中空の角を具へ反嚼する毛獣の一なり。その角色は黄鳶色にして横皺あり。或は後に回り、或は横に折れ、或は拗たるあり。何れもその角先は前の方に向ひ、角の心は気孔ある骨様のものよりなれり。前額は円く、涙腺見え何く、喙に毛あり。腰部に気孔なく頤下に髯なし。乳房は二つあり、耳小く、足細くして尾短し。毛は柔きと剛きとの二種を具ふ。これを綿羊の本形とす。
人に畜はるゝものは、柔毛愈増加して、剛毛漸く減少す。且角形甚だしく変じ、或は全く角なきものあるに至る。耳と尾は漸く長大となりて、其性大に野産のものと殊異なり、山羊と綿羊とは頗る相類似するものにて、或人の説には同種のものと云へり。去ながら綿羊は角の形状山羊と違ひ、且髯なくして蹄の表に油様のものを排泄する穴あると、且雄綿羊は山羊ほどに臭気なきの相違あり。又綿羊は気候と畜法の善悪を以て、大に形を変ゆるものなり。千七百九十一年亜米利加洲の「マスサチセツト」洲にて、尋常の綿羊より長身短足にして、関節伸び前脚曲りたる羊兒産れしことあり。斯る形状のものは牆を踰えて遁るゝの患なきを以て、勉て其種類を広めんと世話せしより、遂に懶種と字する綿羊の始祖となれり。父母ともに此種のものなれば産るゝ羔羊も必ず其形を稟受す。
又綿羊は種々の病に罹るものなるが、最医し難きは足の腐れる病なり。元来此病は蹄の間より排泄する油の過度に流れ出るより始まり、遂に大焮衝を発するに至る。其原因は大概湿地に居りしより来るものなり。此を療治するには、腐れたる部分を削り去り、胆礬九十八匁を水六合こ調合し、此溶解水を漑ぎかけ、乾燥する場所へ移して繋ぎ置くを良法とす。又綿羊は大に蠅に苦むものなるが、就中虻に最も悩むものなり。若し虻の孵、耳目鼻口より入ることあれば、必死の病を生ずるものなり。高き場所に居るものは、此患少しとす。又綿羊は虱に悩まさるゝことあれども、此を殺すに法あり。毛を剪みたる後に、煙草を水に浸しその水を漑ぎかけ、或は油と煤とを「オンバル」と云ふ礦鉄と混和し、これを塗り附るを妙法とす。
「ヨング」氏の説によれば、綿羊を牧するに、土地磽确にして苜蓿稀少なる曠野を最良の牧場とする論あり。左すれば土地の肥痩と草の豊歉とは、綿羊を牧するの眼目ならず、唯乾きたる山嶺を牧羊の良地とするを思ふべし。故に綿羊を牧するの法、昼の間は草野に放ち、夜に至れば風雨をし凌ぐべき平地に連れ帰るべし。去りながら舎を建て之を入るゝにあらず。
又牧羊の大利益は、些少の人夫を費し世話行届くべきものなり。番人四名大犬六匹あれば、二千の羊を牧するに足れりとす。夜中◇の来て羊群を襲ふことあるとき、犬なければ之を防守し難し。故に犬は牧羊家に大用あるものなり。犬を養ふには、蒸餅と乳とを以て尋常の食物とす。綿羊は夏の間尋常の青草及び苜蓿を食み、冬日に至れば干草、小麦、糠、大麦、裸麦、芋、大根の類を与へ、風雨を凌ぐべき場所へ放ち置くべし。その場所は成丈け広くして、空気の通ひよく、且近傍に清水の飲むべきものあるの地を選び、殊に夜間の防守を厳にすべし。尋常一匹の綿羊より剪み取りたる毛は、四斤[斤とは彼の一「ポント」にして我百二十匁に当る]乃至五斤を以て常量ととすれども、肥大なるものは雄羊にて極上の毛十斤乃至十六斤を産するあり。雌羊は四斤乃至八斤の毛を生ずるものあり。全身の秤量は雄羊百四十斤乃至百七十五斤、雌羊は八十斤乃至百三十五斤まで肥大せしことあり。食物の善悪より綿羊の肥痩あるは、次の表を見て知るべし。
 食物の善悪により肥痩あるの表(略す)
英人の試験には、生の馬鈴薯に塩を入れたるものに育ちたるは、毛の秤量六斤半、「マンゼン・ウルゼル」五斤半、小麦十四斤、裸麦十斤、塩入り燕麦十四斤、同入らず十二斤半、豆十六斤半。蕎麦十斤なりと云ふ。
総じて綿羊は山羊より食物好き嫌ひあれども、他の獣類の食に乏しく生長し難き場所に繁殖するものにて、その好て食ふ草は「アルパイン」草とて、総て高山に生へる草と香気ある草類を食ふものなり。何等の牧場にても時を移さずその汚穢より土壌膏腴し、遂に耒耜を入るべき肥壌となるは、是亦牧羊の一大利なり。羊糞の土壌を肥培するは、鶏糞にも劣らざるものと云ふ。故に人家櫛比する村里中に綿羊を畜ふは、不経済なり。何となれば荒蕪の地に育つべきものをして、植物の大に生長すべき肥土を費やさしむればなり。
合衆国には広き荒地の、羊を牧するに最上なる場所あり。或は牛と羊を同一の野に牧するものあれども、甚だ宜を得ず。元来羊は草を食ふこと牛より密なれば、羊の食みたる跡には牛の食ふべき草を残さず。小百姓にて羊を牧せんとするも、適宜の牆壁と犬の襲撃を防禦するの具備へ難ければ、損失あるものなり。牆壁と造りがたきにあらざれども、犬を防禦するには是非番人の世話なきを得ず。牆壁とは牧場の四辺に牆を建て、以て牧羊の超逸を防ぐものなり。此牆は生牆溝、或は木囲ひ、何れもその地の便利に従ひ都合よきものを用ゆべし。必ず定りたる材料あるにあらず。唯その超逸に備ふるのみ。毛を剪むの節は、五月の頃を最も佳しとす。此頃なれば、毛を剪むも時候温暖なれば羊に害あらずして、冬日厳寒の期に至るまで日数あることなれば、前後の毛生長し、その寒冽を禦ぐに足れり。之を剪むには尋常本邦の握剪刀の類を用ゆれども、又羊の毛剪刀とて一種の器械あれば、鉄器を粥ぐ店より買得べし。前にも云へる如く綿羊を牧するには、高き山の乾きたる場所を最良とすれども、乳を搾る期に至らば駆けて平地に下し、牛乳を絞るが如く絞り取るべし。牛乳にも劣らざる良善のものにて、酪抔を製造するに用ゆべし。その肉は屠て食用に入り、其毛は織て衣となり、其皮は消して革となり、その糞は土壌を肥培するの性ありて、大に国産を増加するの獣なり。
羔羊は二ケ月より三ケ月を経て、乳を離れ草を食むものなり。雌羊は一歳の後、雄羊は一歳半の後尾期至り、一度に一匹、或は二匹の羔羊を産むものとす。妊娠の時間は五ケ月を以て定期とす。一匹の雄羊、三十匹の雌羊を娶るべし。雌雄とも、十歳乃至十二歳まで生子の力あり。八歳の時を最も肥満するの期とす。合衆国全国中にて千八百五十年の検査に拠れば、羊の頭数二千一百七十二万三千二百二十匹ありしもの、十年の後即ち千八百六十年には、二千三百三十一万七千七百五十六匹の数に至り、羊毛の斤量五十年には五千二百五十一万六千九百五十九斤なりしもの。六十年には六百五十一万一千三百四十三斤となれり。又千八百六十年には、羊毛の輸出一百十八万二千八百八斤にして、輸入の額数は三千四百五十八万六千六百五十七斤なりしと云ふ。
                     (『新塾月誌』第一号、明治二年三月)

小幡篤次郎 天保13(1842)~明治38(1905)年。教育者、慶応義塾長、慶応義塾社頭、貴族院議員。200石取りの中津藩上士の子として豊前国中津(現大分県中津市)に生まれる。漢学を学び藩校進脩館で教育に従事していたが、元治元(1864)年協力者を求めて中津を訪れた福沢諭吉に乞われ、弟仁三郎(のち甚三郎)ほか5名と共に出府し福沢の塾に入学した。慶応2(1866)年には、早くも当時は学生代表のような存在であった塾長を務め、明治元年頃まで在任。同時に2年から幕府開成所の英学教授手伝となり、4年には弟甚三郎と共著で最初の著作となる『英文熟語集』を著した。
 幕末から明治初年にかけて入塾した永田健助らの回想では、小幡は福沢の講義に学生として出席する一方で後進の指導にも当たり、図書館制度導入などにも尽力、義塾が目指した「半学半教」の中心的役割を果していた。こうした小幡の貢献は衆人の認めるところで、明治23年3月5日付『朝野新聞』には「慶応義塾あることを知るもの、必ず小幡篤次郎君あることを知り、福沢翁の名を知るもの、誰か君の名を記せざらん」と書かれている。  4年に執筆され5年に…(提供元: 出版情報登録センター(JPRO))
  四、北海渡航中の初洋食

 私が一つ年上のY君と共に残雪を踏んで、陸羽の国境中央山脈の分水界を越え、作並温泉に一夜を過ごして仙台に出でゝ、北海道行きを決行したのは、確か明治二十四年の春であつた。
 仙台駅で初めて鉄路を見た時、私はその軌道のあまりにも狭隘なのに驚いた事を記憶してゐる。私はそれまで汽車も、荷車や馬車と同じやうに車体の外側に車輪をつけて、線路の上を走るものとばかり思つて居つたためである。
 当時山形県にはまだ鉄道といふものがなく、表日本を通る日本鉄道会社の線も、漸く仙台まで達した時代であつて、私等が汽車で仙台から塩釜に出た時は、大いに見聞を広めた次第である。塩釜からは、小蒸気で、石巻に出で、そこから北海道行の八百噸の汽船に乗つた。
 その時私は、全く、たまげてしまつた。
 最上川を上下する荷船と比べてあまりにも巨大である。船体が海上高く聳へ梯子段を上つて初めて乗船し得るなどとは夢にも見たことのないものだつたからである。それがまた更らに函館で千二百噸の新潟丸といふ船に乗り換へたところ、その船の船長は英人であつた。私は生まれて初めて異人さんといふものにぶつかつたので、穴のあくほどその顔をながめたことを記憶する。その結果は、案外人の善ささうな老爺さんであるといふ印象をうけたやうに記憶してゐる。Y君は私よりは金持であつたから、食事のとき私に向つて「僕は、西洋人のゐる船では、注文すれば洋食が喰へるといふことを聞いてゐる。めつたに食はれんもんだ。一つ喰つて見やうじアないか」と動議を持ち出した。しかし貧乏な私は賛成出来る筈はないのでおれはそんな贅沢は出来ない、と答へた。するとY君はそんなら、おれ一人で注文する、と云つて大枚六十銭を支出して、三、四の別々な皿から成立つ誠に珍らしい品々を取り寄せた。
 不幸にして、その時、海浪次第に高まり、船はローリングとピツチングを、ちやんぽんにやらかしたもんだから、余り身体の丈夫でないY君は全然船に酔つてしまひ、折角の御馳走もたゞちよつと手をつけたばかりで喰ふことが出来ず、
「伊藤! どうだ、一つやつて見んか」と来た。決して待つてましたといふわけではなかつたが私は臍の緒を切つて、はじめて見た西洋料理を、残肴ではあつたが鱈腹頂いて、旅といふものは誠に面白いものであるといふ感を深くした。しかも私は食べ終つて御馳走様といふかはりにY君に向つて、これで君が折角、大金を出して取寄せた珍味を、無駄にしなかつただけでも、大した功であるといふ屁理屈こねたのであつた。
 私は後年に及び、色々な事情の下に、他人様の名誉のために宴会などに出席し、又は、返礼として人様を自家に招待し、或は、私のやうなものも、時には、他人様に招待されて、御馳走になる時などよくY君の残肴を頂いた事を思ひ起したものである。<略>
  伊藤清蔵著「南米に農牧三十年」15ページ、昭和31年2月、宮越太陽堂=国会図書館デジタルコレクション
札幌農学校編「札幌農学校一覧 自明治三十五年至明治三十六年」第十二章 学士及卒業生姓名117ページ、第十八期(明治33年7月卒業) 伊藤清蔵(山形県士族)、明治35年12月、札幌農学校=国会図書館デジタルコレクション
 「時の山形中学の校長は札幌農学校第三期卒業の、栂野四男吉といふ人であつて、頗る雄弁であつたから全校の人気を集めてゐた」と15ページにある。伊藤氏は栂野校長の北海道の談話によって北海道に興味を持ち、札幌農学校に進学した。
 札幌区
  明治四年来住の
       久慈勘吉氏談
札幌で幾多の商店はあるが明治初年から
今日に至るま
で継続して店
を張つてゐる
家は数へる丈
けよりない左
に掲けるもの
は南一条西
四丁目久慈勘吉氏(七四)の昔を偲ぶ物語
りである

 ▽南部大澗から   氏は慶
応二年郷里南部九戸郡から本道小樽
へ渡つたのである、南部大澗から押
し切りの和船に乗つて海上七里を漕
ぎ函館へ着き同地から徒歩にて陸路
を森、山越内、黒松内、岩内、余市
を経て其間六泊七日目に漸く小樽へ
着した、小樽から銭函及び手稲村を
経て札幌へ来て店を張つたのは明治
四年の春、其頃の札幌は人家は僅に
三百戸位と思ふ、南一条から南五六
条の西八丁目位までは弗々家が建つ
てゐて南一条通りは渡島通り南四条
は津軽通り五条は福島通り六条は上
磯通りといふたやうな町名であつた
開拓使では五間間口を一戸分と定め
戸主一人に付き
 ▽百円宛年賦   償還でドン
/\貸与へました、借りた人は家を
建てなければ地所や金を引上げられ
るので小屋を建てる、其頃は第一畳
や建具を売る所がない皆筵や薄縁を
敷いてゐた、此年賦償還の百円を借
れたいため女房がなければ貸さぬと
云ふので他人の女房を借りたり或は
他人の娘や下女甚だしいのは娼婦の
やうなものを□だと称して連れて役
所へ行つたものも沢山あつたのです
米噌の相場は内地と余り変らない、
米は一升六七銭で買へましたが其頃
は開拓使で受負人に米噌を貸与へる
ので
 ▽労働者は米   と酒を取換
へて呉れろと盛んに交換したもので
す、私共は荒物を商ふてゐたが売れ
るのは酒と醤油、焼酎等で酒は越後
酒で一斗二升入七八十銭、小売は一
升十二三銭位、一番よく捌けたのは
庄内の『大山』でした…内地と蝦夷と
の航海は三月から十月迄で冬期間は
殆ど船が通はなひため小樽の問屋に
ある物は不自由ないが品切れの品は
翌年の四五月頃迄は品物を見る事は
出来ない、ソレでも南五条を薄野と
名つけて貸座敷が五六軒あつた、座
敷は畳代りに茣蓙を敷いたものです
遊興費は莫迦に高値かつた明治五年
 ▽始めて正月   を迎へまし
たが今のやうにちん餅屋はなし、門
松といふても其多くは各自に山から
青葉を切伐つ来て型許り門口に建て
たものです、新暦の御規則は発布せ
られてゐたが孰れも旧暦の一月を以
てお正月としてゐました、糯米は充
分でないため餅を喰はない人も随分
あつたでせう、翌六七年頃からは人
家が殖ゆると共に餅も喰ふやうにな
つた、頭ですが何れも
 ▽チヨン髷を   結ふて済ま
したもので床屋は二三軒湯屋は六七
軒もあつた、呉服店といふは今もあ
る奥泉商店、蕎麦屋は南一条に東京
庵タツタ一軒、ソロ/\散髪になつ
たのは十二三年頃からです、明治六
年頃迄は至極不便を感じてゐました
が続々人が入込んで一時は賑かにな
つたが七八年頃は非常な不景気で折
角百円宛借りて家を建てた連中も償
還處か喰ふにも困る始末なれば尻
に帆を揚げ逃げ出したもの沢山あつ
て此所にも彼所にも空家だらけ、土
着心のないため土地を持つて却て厄
介がつたものです。
 ▽年賀状など   は御規則で
発布されてあつたが其手続を知らな
い者は多かつた、南四条西五丁目辺
に郵便局があつた其外に郵便函は街
に設けられ『此函の中に郵便物を入
れるとドコへでも行く』といふたや
うな説明書の高札が建てられてある
此仲へ入れると間違ひなからう位で
郵便物を出したものです、豊平方面
は川向へに腰掛茶屋が二軒あつて甚
だしい密林で木材の入用の時は勝手
に伐採して使用したものです、月寒
の坂の下辺は炭薪焼き場所で四貫匁
入一俵僅かに十銭内外で札幌市外へ
供給したものですが今から思ふと四
十五年の昔、夢のような心地致しま
すと、煙管の雁首を火鉢の淵へコツ
ン/\(ムク)
(大正5年1月1日付北海タイムス14面)
 ◎裏

何んでも物事は表から見るに限る、裏即ち
其内幕を見ると愛想もコソも尽き果てるの
である。第一睾丸の砂払ひと称して食する
蒟蒻は足で踏んで拵えることを知らば、鳥
渡箸を附けるに躊躇するであらう、芝居の
楽屋を見ると艶麗花の如きお染も。中将姫
も、阿古屋も、初菊も裾とグルリとまくつ
て毛脛を出してゐるに至つては興が醒める
所謂見ぬ事清しである、料理屋の座敷に高
い酒を飲んで、酔つて件の如しと、頭での
の字を書き、芸妓の膝に倚れて鼻毛を延ば
してゐる内は、勘定が幾らかゝらうが、サ
ア何んでも勘でも持つて来いと気張つては
見たものゝ、イザ酔が醒めて勘定になると
滅法高い、コンナに喰つたらうか、コンナ
に飲んだらうか、コンナに芸妓を呼んだら
うかと鳥渡勘定が出し渋くなる、然かも夫
れが月末払ひとでもなると尚も出し渋くな
る、底で記者は夫等の人の参考として裏か
ら見たことは記して見やうと思ふ。併し勘
定づくで飲みに往くのではない、銭金は幾
らかゝつても構はない、夫れでなからねば
遊んでも面白くない、
遊ぶには銭金のことは
言ひつこなしだといふ
人は、真に遊ぶ人で立
派なものだが、人情と
して誰れでも安値は喜
ぶであらう、だが、此
記事を読んで飲みに往
つて、内幕を素つ破抜
けば持てないことは夥
しい、底は何処迄も知らぬ積りで、腹を締
めて大様に遊ぶに限る、只々此記事は参考
の為めと斯ふ断つて置いて、偖書き出す
のは。
今の處、札幌の料理屋では、家に依つて高
下はあるが、概ね
 麦酒一本金参拾銭(黒麦酒と同様)▲サイダー本十
 銭▲酒一本十八銭
といふ相場で、イザ客が来て、其客がしら
ふふであるならば、酒の善悪が直ぐ解るか
ら、樽から出した新鮮のを出すが、客が愈
々酔つて、膝頭に両手を持せて、舌の先で
上唇をベロリと甜め、上は眼を使つて天
井を眺めて呂律が廻らなくなると、女中は
気転をきかして其ことを台所へ通ずると、
ヨー来た待つてましたと言わぬ計りに、最
初出したのと酒を替える、其酒は、先々か
ら客が残した燗ざましの酒を貯えたので、
総て夫れを捨てる訳にも往かぬから、別に
取つて仕舞つてある、其燗ざましの酒を時
分は好しと見計らツて、二度の御勤といふ
格で出す、處が客は既にへゞのレケと来て
ゐて、酒が悪からうが更に解らず、此処の
酒は金露だから、口当りが好いなどゝ仰せ
らるゝ、実は奴さん他人の飲み残した燗ざ
ましを飲みつゝあるのだ、若しも当人が此
時燗ざましと知ツたなら、承知することで
はあるまい、知らぬが仏なればこそ、「酔つ
た酔つたよ五勺の酒に」なんかんて御浮か
れになるのだ(つゞき)

 ◎裏(承前)

料理屋に依つて酒の好悪があり、従つて其
一樽の値段に相違があるけれど、先づ其酒
を金露と仮定すると、四斗入り一樽の代価
が金二十五円五十銭位である、宿屋ならば
此一樽の酒を燗徳利二百六十本位にするが
料理屋ならば確に二百五十本位には注ぐ、
然うすると徳利一本の酒の元価は金七銭三
厘弱となる、夫れを前記した通り十五銭に
出すのであるから、七銭7厘の純益がある
こればかりではなく燗ざましを貯へたのを
二度の勤めをさせる、夫れに客が酔つてく
れば、此燗ざましでさえ徳利に六七分しか
注がないから、濡れ手の粟の攫み取り處で
はない、濡れ手で粉の攫み取り程に儲かる
併し斯の如く只儲かるといふのは表から見
た處で、本題の如く之を裏から見ると然う
巧いこてばかりはない、是等の飲代を客が
キチン/\払つて往くならば、料理屋は総
て三井、岩崎糞を喰へといふ程に忽ち大富
豪となるのであるが、中には屑が出る即ち
飲み倒し食い倒しが出来るから、表から見
た程に莫大な利益はない、であるから客種
が好くツて流行る料理屋ならば直ちに大儲
けをして、内腹は福々で家作や地面を持つ
てゐるが、然う巧く世の中は往かぬもので
可成りに流行つてゐる料理屋でも、借金に
攻められて壊はれかゝツた竜頭の様にギク
シヤクとしてゐるのである、尚ほ料理屋は
派手商売で云はゞ浮いた稼業で、相当に見
得もしなければならず、何や彼やで金の支
出も尠からぬから、儲ける替りには身入り
かない、世の中は良くしたものだ。
先づ客が来て、助長が之を玄関に出迎へて
最も性が悪く負債でもウンとある客である
ならば、御生憎様座敷が塞がつて居ります
と、体良く程良く断つて玄関払ひを喰はせ
る、客としては是程恥辱なことはない。酷
く質が悪るくなく延引はするが何うやら斯
うやら勘定を払つて往く位の客ならば、座
敷へ通して、然うして後女中は其誰なるこ
とを帳場へ通ずると、帳場では注意して勘
定が嵩まぬ程度に於て料理でも酒でも見計
らツて出す、座敷ではコンナことを知らぬ
から客人は得意になツて、料理店で警戒し
てゐることも解らずに、芸妓と巫山戯散ら
すのである、これを裏から見たならば馬鹿
気て馬鹿気て見られたものではない(つゝく)
 正誤 昨紙本記事中サイダ一本金十銭とあるは十五銭
 酒一本十八銭とあるは十五銭の誤り
(明治41年12月17,18日付北海タイムス3面より、同月19日3面に「正誤昨紙『料理屋ならは確に二百五十本位には注ぐ』は『三百五十本位の誤り」とある)
関東大震災後に緬羊事業の予算が削減される

<略> 滝川種羊場の松岡忠一場長が「本邦緬羊事業の前途」という冊子を二月に公刊した。もちろん、省三もこの冊子に目を通していた。松岡場長は、序文の冒頭に、緬羊飼育の奨励事業に悲観の声がいたるところから上がり、畜産の専門家さえも無理解と叫んでいるといった言辞を並べていた。それは、国民の憂慮と懐疑を解消するためであったろう。本文でも最初に、世間の緬羊観を痛罵した。緬羊が本邦の気象に適合しないという論調に、二〇〇〇万頭の緬羊を飼っている英国も湿気が多いとの例を挙げて反証。緬羊が放牧的な家畜で、国土の狭隘な本邦には適しないという観点にも、放牧的な管理法は経済的な管理法に過ぎず、緬羊本来の習性に基づく飼養法でないと力説して退けた。しかしながら、序文の冒頭の叙述は、奨励事業を目紛しく変えることへの憤懣の表明と、畜産局の上層部から見られたかもしれない。
 緬羊事業では、緬羊が小規模な舎飼いに適していることを松岡場長は詳説した。仔羊の生産率が高くて成長も早い、斃死率も低い、羊毛の質が優良で産毛量も多いから資金が早く回収できる、飼料の範囲が広く維持費が少ない、羊の糞が肥料に適している、飼育の管理が平易で婦女子でも飼養できる、飼育者が自家用に羊毛を利用できるなど、緬羊の副 業的な強みも例示した。しかも、小規模な混同飼育を奨励し、放牧のような専門経営を奨励していないという米国の例まで持ち出し、六割に達する無蓄農家が有畜化すれば、農業も合理化が可能になるとも、松岡場長は断言した。<略>
(石川光伸著「緬羊盛衰の証人」92ページ、平成19年12月、東京農業大学出版会=原本)
 尽波注=文中の「省三」は著者の父親石川省三。東京農大を出て農商務省滝川種羊場、畜産試験場に勤務、のち群馬、岡山、茨城、栃木の各県で緬羊関係事業に携わった。この本はその省三の生涯を追いながら我が国の緬羊行政の変化を伝える。


   緬羊と羊肉の話
             農林省畜産局  美川重夫

<略> 之れに依つて見ましていかに日本人の畜禽肉の消費が僅かであるか御解りにならうと思ひます。何故肉の消費が少ないかと言ふ様な事に付きましては種々な事情があるであらうと思ひますが、今日は此の点には触れませんが日本人一人一ケ年平均鳥肉を加へて五百八十匁はいかに水産物が豊富であるとは言いながら少なすぎると思ふのであります。此の一ケ年の消費量の中に緬羊肉がどれ位かと申しますと次表の様に僅かに一分に過ぎないのであります。

    牛肉   二九五匁   四七・六%
    豚肉   一四六匁   二三・二
    鳥肉   一四一匁   二二・五
    馬肉   四・一匁    六・五
   山羊肉   〇・四匁    〇・一
   緬羊肉   〇・一匁    〇・〇
 斯様に僅かであるが消費されて居りますが、其れは在留外人とか、西洋料理店と特殊の方面で用ひられて居るのでありまして、正確な統計ではありませんが東京市内に於きまする緬羊 消費の状況を見ますとだいたい
   洋食店   四四・八%   邦人家庭   四・一
   売肉営業者 三一・三    学校関係   五・二
   外人家庭  一四・六
といふ有様で邦人家庭で緬羊肉を食膳に上すのは極めて少ないのであります。
 緬羊肉の肉としての価値、滋養分に冨んで居ること、柔かであること、美味で消化が早い、其の他種々なる特点がありますが、多くの日本人はまだ食料品として慣れて居ないため試食会あたりで時々聞くことでありますが、一種特有の香がある、此れが食指を殺ぐとか言ふ人もあります。乍然此の香りは緬羊に特有のものでありまして肉にはいかなるものの肉でも夫々特有の香を持つて居るもので此れがある為却つて嗜好せられるといふ点もあります。又之れに慣れると左程感じなくなるのでありますが強て此の香りを除かうとするなれば料理法に仍つていか様にもなるのでありますから此の点は左程心配する必要もないと思ひます。
 我が国に於きまする緬羊肉の消費量は甚だ僅かでありますから内地産のもので足つて居るかと申しますとそうではなく消費量の六・五〇%は濠州、加奈陀、或ひは支那方面から輸入して居るのであります。
 斯様な次第で私は緬羊飼育の発達に伴ひ将来相当多数の緬羊が我が国に飼養されるに至るであらう事を確信するものであります。従つて肉として売り出されるものも増加するものと思いますが之れは現在輸入に俟つて居た部分を内地産のものに置き換へ亦一般の消費者側の理解を得て幾分でも消費の増加を図ることによりまして容易に消化される事と思ふのであります。     (於第四十一回通俗食料品講演会――五月十日)
 日本缶詰協会編「缶詰時報」10巻6号19ページ、昭和6年6月、日本缶詰協会=国会図書館デジタルコレクション


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 小生の犬棒で、これは面白い、愉快と思った記事に遭遇したら追加します。
何もないはずなんです。
 文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気付きの点がありましたら、まずは
 shinhpjinpagaku@gmail.com 
尽波満洲男へご一報下さるようお願いします。



    参考文献

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日支問題研究会編「特輯山東開発の現況及其将来」、昭和15年12月発行、日支問題研究会=原本(山形県立図書館蔵書)
小幡篤次郎著作集編集委員会編「小幡篤次郎著作集」2巻330ページ、「綿羊を牧するの説」より、令和5年3月、慶応義塾大学出版会株式会社=原本
 私は上記の本ではなく、別の古い本、もう忘れてしまったが、小幡篤次郎の「綿羊を牧するの説」を読みました。なにしろ日本にアメリカ産の綿羊が入ったのが明治4年ですからね。その2年前にもうこのように綿羊のことを書いた英語の本が輸入されていて、それを訳した人が居たことに驚きました。まあ、小幡は福沢諭吉と一緒に「学問のすゝめ」を書き、後に慶応義塾の塾長になった学者ですから当然かも知れないが、それにしても早いと思いませんか。
 足が短いから囲う柵は低くても飛し逃げられない。その分材料代は安くすむという話を読み、うちの畑を囲って山羊みたいな動物を飼ってみたいと思った人がいたでしょう。
 以来、畜産の本や雑誌を見る度に短足羊のいい写真を捜し、たまたまPragya Khanna著「Cell and Molecular Biology」に写真があると知り、講義録で使えるのではなかろうかと、2010年再版の同書を買ったのです。栞みたいに挟んでだままの伝票によると輸入価格3846円、そのまま今日まで積ん読してきました。