温存資料とマイボイスの維持の関係について

 コロナウィルスのせいで春休みと夏休みをつながりそうな長休みになり、どうしてますか。それで思うのだが、大学も休みが長くなって、これから挽回するとしても年度内の講義回数は平年通りにならない。それなのに普通の年度と同じように単位を与えていいのか。私の講義は出席は取っていないし、このような講義録があるから、これで勉強してちゃんとたレポードを出してくれれば、評価して単位はやれるが、各種の実験とか生き物を使う研究なんかを指導しておられる先生たちは、どうすべきか悩んでおられることでしょう。
 話はころっと変わるが、私はね、研究仲間の呼びかけで、初めてZoomというネットを使っての「宅飲み会」に加わりました。みんなは孫なんかと画像付きて話すためWebカメラ持ってるが、私はスマホはないし、カメラ付きのノートパソコンはOSがXPなので声だけ。でも仲間の顔はちゃんと見えていたから楽しめました。長生きはするもんだね。
 ボケ防止で英会話学校に通っていたころ、SKYPで外国人にもジンパ学を教えようと買ったのがあるはずなんだが、行方不明でね。急いで通販で買おうとしたら安いのは3カ月待ちと初めて知りましたよ。
 ところで、これは講義ではありません。いずれ講義で話そうと思う俗に言うネタの置き場所です。なぜそんな場を作ったのか理由を説明するとね、私も年だし、コロナでやられるかも知れない。そうならなくても集めた資料の大半は、1回の講義案にまとめるまでには使われず、いずれ「こんな紙くず」と子供かだれかが処分してしまう事態もあり得る。
 逆に講義案を書いているうちに、あれは使えると、ここから抜き出す記事もあると思うが、ともあれ、こういう話も集めていたのかと知り、見当違いを笑ってもらうことが一つの狙いです。
 だから、私が面白いというだけて集めたジンパ学とは無関係に見える、いや関係がありそうで本当に無関係、でも時間と金を掛けた情報だから捨てるには惜しいと、たまってしまったオブジェクトばかりです。おっとPythonだのC#用語で誤魔化してはいかんかな、はっはっは。
 それからね、もう1つ狙いがあるのです。2次会でカラオケに行っても私は飲む専門だ。新しい歌は知らんし恵迪寮歌なら歌えるが、画像がないもんね。静粛を求められる図書館の長時間滞留で、黙って読むだけだから、目は疲れるけど声帯は疲れ知らずだ。ダイヤモンド婚直前ぐらいにもなれば、家内とは以心伝心で大抵の用は足りる。かすれ声にならなかったらおかしいよね。
 また年のせいにするわけではないが、キー入力ではミスタッチが増えてかなわん。それで日々メールや日記の下書きはグーグルの音声入力でこなしているのだが、そこで発見したことがあるんですわ。
 つまり音声入力の多用による発声機能の維持です。積ん読の資料の音読で文字起こしをするということは、声帯の活動を促し機能維持のみならずだ、ジンバ学講義録にちょっと面白い番外編を加えるプラスにもなる、誤嚥性肺炎の予防は強引すぎるか。まあ、そんなところですよ。
 私のデータベースから少しずつ材料を運び出して材料置き場らしくします。時代、種類、長短まったくランダム、積み増すだけだから、時々読みに来なさい。


私儀是迄割烹店営業罷在諸君ノ御愛顧ヲ蒙日増ニ繁栄
仕難有仕合ニ奉存候就テハ御蔭ヲ以此度東京表ヨリ沢
山仕入仕候間一層入念御望次第調進風味専一別テ相働
キ廉価ヲ旨トシ御饗応可仕候間不相替御贔屓御引立ヲ
以御来車ノ程奉願候也
    小樽土場町割烹店
   岩喜楼   安坂岩吉
(明治14年4月6日発行札幌新聞36号2丁裏=原紙、)


○新築の豊平館も落成し幸ひ安田時任の両書記官にも
着せられたることなれは去る三日同館に於て落成の祝儀
を行れ諸官員は各課一名つゝ午後六時に出席調所君の
演舌等あり中/\盛んなことて有升たと
(明治13年12月8日発行札幌新聞26号1丁裏=原紙、)


○去る三日豊平館にて宴会ありしとき土木教師クロ
―ホルト氏の靴と外二三個の長靴が紛失たと噺か有
しがクローホルト氏の靴は爾志通の五十集やへんにて
見出したとかの風説もあれと未たその盗人か分らぬと

(明治13年12月15日発行札幌新聞27号2丁表=原紙、)


○書記官安田時任折田の三君にはご用済にて帰任さる
ゝに付去る十六日午後六時より豊平館にて留別夜会を
催され来客には調所長谷部鈴木永山内海佐藤八木森
の諸君及ひ屯田兵仕官各課長或は接待掛りの諸氏にて
書記官方のご家族は何れも来館され館内には吸烟室あ
り又別に酒食の二室を設け食事は其時を限らず各自の
随意に任す楼上の一室は休憩所となし楼下の大広間ハ
演戯の舞台と見物の場所とに区画し先す俳優坂東七重
三枡福蔵坂東鶴治の三名が此席に臨んて式三番の祝舞
はじめ第二幕目は京鹿子娘め道成寺にて七重鶴治が
これを勤む次は桂川連理のしからミと云ふ笑ひ狂言
にて来館の婦人方には尤もぎよゐに叶ひたる様子なり
其後はお好みに任せ手踊りなともあり午后十一時いつ
れも退散され実に盛宴で有升たと又十七日にも清華亭
にて五馳走かあり十八日には豊平館にて又もと云は余
り葱皮<くど>いからこゝらてヲシマーイ
(明治13年12月22日発行札幌新聞28号1丁表=原紙、)


○札幌区役所の開庁〔前号の続き〕斯て午前十時本庁長官調所大書記官を始め長谷部山内の両大書記官鈴木内海の両権大書記官佐藤永山の両少書記官森家村の両権少書記官御用係准奏任馬島譲の諸君其外各局の課長より町村用係勿論其他官員士族平民の出金者等無慮五百人程は皆扣所より式場に臨み次て調所君は左の祝文を朗読されたり

札幌区役所経営功竣フ初メ此工ヲ起スニ方リ勉テ堅牢ヲ旨トシ虚飾ヲ去リ専ラ防寒ニ適スルノ実ヲ取ラシム今ヤ堂廡ノ結構檐楹ノ布置皆其要ヲ得是レ乃チ人民同心協力ノ致ス所ト雖モ抑モマタ区吏総代人等計画其宜キヲ得ルニ因ルニ非スヤ夫レ区吏タル者ハ官民ノ間ニ立チ上意ヲ通シ下情ヲ達ス而シテ人民ノ幸不幸ハ吏ノ其任ニ堪ルト否トニ係ル嗚呼任亦重シト謂フヘシ今ヨリ後諸君此堂ニ昇リ孜々矻々夙夜懈タラス其職ヲ奉シ其事ヲ執リ人民ノ幸福ヲシテ永ク此堂ノ堅牢ト同ク久遠ニ期セシメンコトヲ是レ望ム此日新タニ区庁ヲ開クノ式アリ乃チ其竣工ヲ祝シ並セテ告クルニ此言ヲ以テス
             開拓大書記官従五位    調所廣丈
明治十三年三月一日    開拓権大書記官正六位   鈴木大亮

了て区長山崎氏は左の答詞を為したり

本日区庁開設ノ盛挙ニ際シ訓諭ノ祝辞ヲ辱フス豈ニ感喜ノ至ニ堪ヘンヤ。特リ清躬等ノ栄ノミナラス実ニ庁下人民ノ光栄ナリ。清躬等叻リニ乏シキヲ本職ニ承ク願クハ夙夜黽勉以テ其事ニ従シ駑駘ノ労ヲ効シテ而シテ訓諭ノ厚ニ酬ント欲ス因テ聊カ愚表ヲ伸ヘ謹テ盛意ニ荅フ
明治十三年三月一日    札幌区長         山崎清躬

右の荅詞終ると此区役所の建築に付て尽力せし水原寅蔵は金七円中川良助亀田平三郎の両人は金五円佐藤金治武林盛一新田貞治中里慶次郎石川正蔵の五人は金三円宛を賜り同十一時三十分式終りて一同玄関前に於て写真を取り十二時より西洋料理にて祝宴を開き上下歓を尽くして午後三時頃退散したり



独特の臭味消して
 食改善へ早来村営缶詰工場
  清造に拍車「羊肉の大和煮」
羊の頭を看板にして犬の肉を売る≠ニは中国のことわざ、これはレツキとした羊肉の缶詰をこしらえている村営工場―胆振早来村では去年の十月から食肉加工所を設け、農家の老廃メン羊の肉を実費で缶詰にして還元菜食傾向の農村食生活改善の一助にもなれば≠ニ、磯部村長さんは大張切り、レツテルまではり、題して「羊肉の大和煮」―ジンギスカンナベしか知らない方に試食願いたい良い味で、羊年を迎えますます操業に拍車をかけている
これは去年、積雪寒冷地に割当て
られた農村振興総合助成施設費の
同村分二十万四千円の国庫補助を
どう使おうかと鳩首協議の結果、
五十九万六千円の村費を加えて
(食肉加工所建築費六十万、施設費
二十万円)の缶詰工をつくつた
 さて、先進の上川郡神楽村では
 メン羊の肉も完全加工している
 と聞いて飛田総務課長が出張、
 獣医の荒井さんと平野さんが北
 大農学部肉製品研究室に出かけ
 て橋本助教授から缶詰法を習つ
 た、こうして人件費節約の飛田
 即成工場長、荒井、平野両臨時
 工員の手で操業開始―
十貫程度のメン羊からは一ポンド缶三
十五―四十個がとれた、まず枝は
ずししてボイルのうえこまぎれに
し別ナベで調合した味汁を缶に詰
めハンド・シーマーで仮巻絞め、
セイロで約二十分脱気してフタを
本絞め、レトルト(カマ)で一時間
蒸すと出来上る、味汁は水と正油
一〇〇に対して砂糖一四―一六、
コシヨウ〇・二、味の素0・一、
でん粉一、カンテン〇・四、シヨ
ウガ〇・三の割合、一ポンド缶で肉六
十一匁、味汁四十六匁入つている
缶は北海製缶から安く仕入れ調味
料代などをプール計算して一ポンド缶
なら四十円、半ポンド缶なら三十五円
の加工料しかとらない
 昨年中はまだ緒についたばかり
 で約二十頭分しか扱つていない
 が早来村の隣村厚真村、追分町
 をふくめると年間推定約千頭の
 老廃ロン羊が出る勘定でこれ
 から忙しくなりますよ≠ニ飛田
 さんは顔をほころばせた
  いままでメン羊の肉はジンギスカ
ンナベとして口に入るくらいだつ
たが、これで農村の肉食奨励のホ
ープにのし上つてきたわけ、一頭
の老廃メン羊だと、四、五人の家
庭で毎日一食ずつぶつづけ一カ
月は肉食出来る勘定だ%ニ特の臭
気は油から発するもので、肉を完
全に分離水煮すると全く脱臭さ
れるというが、この村ではさらに
油の脱臭方法も研究して食用油へ
の道を切り開こうと羊年にふさわ
しい欲を出している
(写真の羊肉の大和煮カン詰と
早来村営食肉加工所)
(昭和30年1月4日付北海タイムス朝刊7面)



「えぞ十二支は語るF」
  食肉用に好評博す
   栄養の十分、ジンギスカン鍋

羊群声なく牧舎に帰り…≠ニ
いう歌はたしか北大の寮歌で
したね。けれど、もう声≠ネ
くなどとはいっておられませ
ん。ひとつ声なき声も聞いても
らわなければ…。いいえ、ヒス
テリーで申しあげているのでは
ございません。中国のコトワザ
に羊頭をかかげて狗(く)肉
を売る≠ニいうのがあると聞か
されました。羊の肉と称して犬
の肉を売った詐欺行為のことだ
そうですが、二十世紀の世の中
で、そのコトワザが生きている
ことを知って本当に驚きまし
た。
牛肉≠フレッテルを張った
カン詰めが馬肉≠ナあった
ということです。商売とはい
え、このような苦肉≠フ策
は、私たち羊族にとって、こ
の上もなく迷惑に存じていま
す。狗肉を売らんがため、羊
頭をかかげることでもおわか
りでしようが、私たち一族に
は名誉と誇りがございます。
イエス・キリストの晩さん会
のメニューをご紹介するまで
もありません。
このニセ牛カン¢專ョから、
ダニ入りトウガラシなど不良食
品問題が世上を騒がせたこと
は、私たちの耳にも聞こえてま
いりました。さいわいカン詰め
のほうは、去年の暮れに開かれ
た公正取引委員会で暮しの手
帳≠編集している花森安治さ
んら消費者の意見も取り入れて
内容を表示≠キることを法的
に強制させることにし二月中旬
を予定してJAS(日本農林規
格)といっしょに特殊指定の公
示をすることになったとか、ダ
ニ入りトウガラシは製造年月を
明示する申し合わせができた
とか、私たちもやや肩の荷がお
りた感じではございます。
 ここらで簡単に自己紹介をさ
 せてくださいませ。現在北海
 道に住む私たちの仲間は、ニ
 ュージーランドを故郷とする
 コリデール種が大部分で、約
 二十六万頭でございます。戦
 後衣料不足を反映して、昭和
 三十二年ごろは百六十万頭も
 いましたが外毛輸入と化学繊
 維に押されて減ってまいりま
 した。それでも私たちコリデ
 ール種は毛肉兼用種≠ナご
 ざいますから、毛の需要が減
 りましても肉の需要がふえて
 おりますので、農村での生産
 意欲は薄れておりません。
生活改良普及員のお話ですと、
飼育に手数がかからない、毛を
依託加工でき、肉は食用になる
ので、農村の現金支出を押える
ことができると、なかなかに好
評だと聞かされました。農村で
はかなりモテるのでございます
おのろけではありません。
 モテついでに申しますと、都
 市年でも引く手あまたでござ
 います。札幌にも数多くジ
 ンギスカン鍋≠ェ店開きし、
 保健所でも多すぎて店の数が
 わからないほどになっており
 ます。戦前からあるにはあっ
 たのですが、肉に親しみ回数
 は、戦後の食生活の改善から
 で、私たちは値段の安いこ
 と、料理法が簡単なこと、栄
 養的によろしいということな
 どでぐんぐんのしてまいりま
 した。
札幌市の大きな肉屋さんのひと
つ、大金畜産会社(北四西十一)
のお話によりますと、去年の暮
れの肉の売れ行きは、豚肉、牛
肉ともに例年並みということで
したが、ひとり私たちの肉は三
割増しの売れ行きでございまし
た。お値段も豚百cにつき最高
が七十円、最低が五十五円、牛
最高七十五円、最低四十五円に
比べまして、おしなべて三十五
円でございますから、半額でお
買い求めになれるのです。
 年間三万頭以上は肉用に処理
 されているのではないでしよ
 うか。品種改良のための奨励
 も道庁畜産課で行なっており
 ます。毛肉兼用のコリデール
 種の雌と、肉用がおもなサウ
 スダウン種の雄を交配した、
 ラム種という一代雑種が、い
 ま妹背牛や名寄市智恵文地区
 などで飼育されておりますの
 で、食用のための羊は、こん
 ごもどんどん改良されてゆく
 ことでございましょう。
話はまた前にもどりますが、狗
肉を売ることよりも、もっと腹
の立つこともございました。松
留窯(がま)というのが鎌倉時
代にあって、そこから発掘され
た永仁の壺≠ェ古瀬戸を代表
する陶磁器ということで、重要
文化財に指定されましたが、こ
れが真っ赤なニセ物であったと
いうことでございます。本物の
ないニセ物というややこしさで
ございますが、がめつい商人と
違って、日本一流の陶芸家の偽
作とは、なんとしたはしたなさ
でございましょう。外国文学の
盗作などがのさばって、文化そ
のものが化繊♂サされること
は、純粋な天然繊維を保持する
私たちにとって、いいようのな
い口悔しさがあるのでございま
す。そんな風潮の中で、道立滝
川種畜場でまじりけのない私た
ちのカン詰めを試作し、同駅の
駅弁がジンギスカンであること
など、暗夜に光明を見出したよ
うなさわやかさを感じるのでご
ざいます。日本全土をおおって
いる人間不信、商品不信という
よりも、六千万人の疑惑の
目≠追放する政治こそが、な
によりも大切なのではないでし
ようか。私たちか弱き者たちの
声もくんでくださいませ、池
田さま。
(昭和36年1月8日付北海タイムス夕刊3面=マイクロフィルム)




 緬羊の話
            宮川直衛
  一、はしがき
 国家の興亡を堵けての大東亜戦争は当に熾烈なるこの秋に
当り、我々蒼生一億は一心一体となつて各々職域に御奉公の
誠を尽し、以て起るべき幾多の試練を克服して肇国以来の国
是完遂に邁進せねばならぬ。
 農業界に於ても我が国刻下の情勢が急激なる繊維資源の拡
充を緊要とするので、緬羊国策の遂行は国防上、将又産業上
一日も忽に出来ぬ国家の重要事となつて来て居る。仍つて我
我緬羊人は茲に一致協力して、資質に於て他の如何なる繊維
も追随を許さぬ優秀性を有つ羊毛の増産に努め、何として
も一日も早く自給自足の域に達せしめるやうにせねばならぬ
責任を負ふてゐるのである。乃ちこれが為には国内の緬羊を
して最大能力を発揮せしめて増産すると共に、満支蒙疆に於
ける緬羊の急速なる改良を進めて、東亜に於ける羊毛資源の
充実を図るの他に途なきことゝ信ずるのである。
 翻つて北海道の緬羊事業を見ると既に八十余年の昔に創め
られ、特に明治初期に於ける開拓使の行つた緬羊飼育の如き
は、実に華々しくとも亦涙ぐましきものがあつたが、遂に種
種の事情に災されて発達し得なかつたのは遺憾である。そ
の後は辛じて命脈を保つに過ぎなかつたが、大正八年農林省
の積極的緬羊奨励と共に、再び増産の機運が開かれたのであ
る。然し真に産業的発達の曙光を見たのはこの十数年以来で、
昭和七年二月には元農林省滝川種羊場が北海道庁の経営に移
管されて北海道庁種羊場となり、同時に北海道に於ける緬羊
増殖計画をも樹立して、本格的にこれが増殖奨励に乗り出し
てから、道内の緬羊飼育熱は翕然として昂り、飼育希望者は
数千に上り、年々その数を増し来つたので、昭和十年には道
庁種羊場の一大拡張が緒に就き、その規模も一躍従来に倍す
ることゝなつたが、一方道内飼育熱望者は更に年と共に飛躍
的激増を示し、輓近では万を以て数ふるに至り、飼育頭数も
躍進的に増加して、現在の緬羊事業の進展は実に目覚しき景
況を呈するに至り、茲一両年の如きは資質の優良な種牡緬羊
は道内熱心家により数百金を投ずるも尚辞せざる状況を以て
迎へらるゝに至つた。<略>
(宮川直衛著「緬羊の飼ひ方」1ページ、昭和20年8月30日初版発行(2000部、2円50銭)、社団法人北農会=原本)

 緬羊の話
            宮川直衛
  一、はしがき
 国家の興亡を堵けての大東亜戦争は当に熾烈なるこの秋に
当り、我々蒼生一億は一心一体となつて各々職域に御奉公の
誠を尽し、以て起るべき幾多の試練を克服して肇国以来の国
是完遂に邁進せねばならぬ。
 農業界に於ても
我が国刻下の情勢が急激なる繊維資源の拡
充を緊要とするので、緬羊国策の遂行は国防上、将又産業上
一日も忽に出来ぬ国家の重要事となつて来て居る。仍つて我
々緬羊人は茲に一致協力して、資質に於て他の如何なる繊維
も追随を許さぬ優秀性を有つ羊毛の増産に努め、何として
も一日も早く自給自足の域に達せしめるやうにせねばならぬ
責任を負ふてゐるのである。仍ちこれが為には国内の緬羊を
して最大能力を発揮せしめて増産すると共に、満支蒙疆に於
ける緬羊の急速なる改良を進めて、東亜に於ける
羊毛資源の
充実を図るの他に途なきことゝ信ずるのである。
 翻つて北海道の緬羊事業を見ると既に八十余年の昔に創め
られ、特に明治初期に於ける開拓使の行つた緬羊飼育の如き
は、実に華々しくとも亦涙ぐましきものがあつたが、遂に種
々の事情に災されて発達し得なかつたのは遺憾である。そ
の後は辛じて命脈を保つに過ぎなかつたが、大正八年農林省
の積極的緬羊奨励と共に、再び増産の機運が開かれたのであ
る。然し真に産業的発達の曙光を見たのはこの十数年以来で、
昭和七年二月には元農林省滝川種羊場が北海道庁の経営に移
管されて北海道庁種羊場となり、同時に北海道に於ける緬羊
増殖計画をも樹立して、本格的にこれが増殖奨励に乗り出し
てから、道内の緬羊飼育熱は翕然として昂り、飼育希望者は
数千に上り、年々その数を増し来つたので、昭和十年には道
庁種羊場の一大拡張が緒に就き、その規模も一躍従来に倍す
ることゝなつたが、一方道内飼育熱望者は更に年と共に飛躍
的激増を示し、輓近では万を以て数ふるに至り、飼育頭数も
躍進的に増加して、現在の緬羊事業の進展は実に目覚しき景
況を呈するに至り、茲一両年の如きは資質の優良な種牡緬羊
は道内熱心家により数百金を投ずるも尚辞せざる状況を以て
迎へらるゝに至つた。<略>
(北農会編修、宮川直衛著「緬羊の飼ひ方」1ページ、昭和21年5月25日発行(5000部。7円50銭)、柏葉書院=原本)




 ◇農家食生活の不合理
 
 昭和二十五年からこの村が屠畜場と畜産加工場とを村営という形でもつに到つた動機は、いつてみれば、第一に農家食生活の改善をはかり、第二にこれを有畜農業奨励への裏付けとし、第三に農村工業への道の一つの試みとしようとすることにあつたということができましよう。
 一般的に、農家の食生活が、不合理で改善の余地が多いことは、しばしばいわれる通りです。中でも、身体を最も多く使う農繁期の営養源乃至カロリー源として脂肪や蛋白質を食生活にとり入ることの必要が叫ばれていますが、現実は、例へばその頃の農家の昼食を見ても、たくあんとかと朝のみそ汁の残りのあたためかえし、それに冷飯を何杯も、といつたところがその献立のすべてです。しかし農家の周囲に脂肪や蛋白質の食品が欠乏しているのでは決してありません。農家は、米をはじめ穀類や疏菜等だけでなく、いろいろな種類の畜産物の生産者でもあり、従つて立派な食料品又はその原料で常にとりまかれているわけで、環境としてい都会の人たちよりむしろ恵まれているということができましよう。だからない≠フではなく、食べない≠フです。(あるいは食べられない≠ニいつた方が適切な場合もあるでしよう。)
 もつとも、全く食べないというわけではありません。私が正月豚≠ニ名付ける例の食べ方があります。十二月の半ぱから末にかけて、都市の需要のために豚の仲買人たちが買い集めて行つた残りの豚が、大休一つか二つの部落に一頭位の割合でその農家の納屋の入ロあたりで、儀性になります。自分の家で一年聞育ててきたものを自分の手で殺すのはいやなもので、たいていの場合、人の手が借りられます。この種の豚たたき≠フ名人が農家の間によくいるものです。この非公認の屠殺人は、二、三人の助手と共にいけにえの豚をやつつけてしまうと内臓や毛は捨ててしまい、近所の家々からのあらがじめの注文に従つて一貫匁、二貫匁と皮つきのまま大切りに切り、分配の仕事までしてやります。そうして彼はその屠殺解体の報酬として、多くの場合、豚の頭をもらうことに約束ができていますので、頭≠できるだけ大きく切取つておくことを忘れません。彼にとつて幸なことに、この動物の頭と首と肩とをはつきり区別できる人がいないのです。なお、作業が終つてから、この家の主人は、豚買いに売るよりは有利な金がたんまり入つたことのよろこびと豚の靈の追悼とを兼ねて、その豚肉の鍋と一升びんとで屠殺人たちを慰労するのがならわしのようです。
 ところで、このようにして一貫匁、二賞匁と農家の台所に運びこまれた豚肉のがたまりは、暮から正月にかけての短い期間にみんなの胃袋につめられてしまうのです。自分のうちでたらふく豚肉を食べてから隣の家へ年賀に廻ると、早速、数の子や煮豆といつた正月料理と共に豚肉と野菜の煮付けのごちそうで歓迎を受けます。ちよつと離れた部落の兄弟の家へ出掛けて行つても又豚肉、村ちがいの親類のところへ行つてもやはり豚肉のごちそうてす。
 このような正月豚≠ニ私が呼ぶところの農家が豚肉を食生活にとり入れる方法は、とにもかくにもこうして豚肉がどんどん農家の食膳に乗せられるという点結構なことですが、しかしむかしから寝だめと食いだめはできない≠アとになつているのですから、あまり働きがなくてすむお正月のようなときに栄養を片寄せてしまうのでは、せつかくの豚肉という食品の効用を殺してしまつているようなものです。又この場合の豚肉の売買を見ますと、買う方は市価の六割か七割位の価格で肉を手に入れることが出来、売る方も豚の生体で仲買人に手離すよりは手取りが多くて一見どちらの側も有利なように見えます。それにしても、先づこの屠殺料≠ヘ高過ぎます。豚の頭≠ニ称せられる部分を金に見積つて見ましてあとの一升びん≠フ付録も加算してみれば明らかです。その他、内臓や血液や毛等がむだに捨てられるということも挙げられますが、何よりも重大なことは衛生的でないということです。その豚が病気を持つていたり、かい虫がわいていたりすることなく、食用に適するということが定められた槍査具により明されたわけではありませんし、又屠殺解休等の処理が行われるときの環境が十分衛生的に吟味もされていないのですから、大変危険です。だからこそ、密殺≠ヘ特別な場合の外、法令でも禁止されているのです。
 以上のような農家食生活の矛盾を解決するためには、先づ手近なところに正規の屠畜場をもち、しかもできるだけ安く屠殺してあげることが必要ではなかろうか。更に、豚肉を正月だけでなくいつでも利用できるような貯蔵に堪える形に、(例えばハムやソーセージ)に加工する施設が、つねに過労で料理に十分な時間を当てることのできない農家の主婦のためにもあつてよいのではなかろうか。
 ――こうして私どもは、屠畜場や畜肉加工場の闘題を真剣に考えはじめたのでした。
(安井吉典著「農家の食肉利用促進への努力 東神楽村屠畜場、畜肉加工場の歩み」より、昭和31年*月、北海道=原本、)




 衆院議長などを勤めた自民党の大野伴睦は森田福市と同じく鳩山一郎の門下にいた。
 大野は虎コレクターで、鳩山一郎が抵当にもらったという「明治、大正、昭和を通じて虎を描かせては、日本一という大石翠石の虎の屏風」が欲しくたまらず、うまい捕獲方法はないかと考えていた。

 森田福市君が東京・大井町に豪壮な邸宅を新築した。広島県出身の金持ち代議士だったので、能舞台や金閣寺を彷彿さすような茶室までそなえて、ゼイを極めていた。 この新築披露に、森田君は鳩山先生と私を一夕、招待した。

 鳩山は新築祝いに自分が持っている橋本関雪の鶴の屏風はどうかと大野に意見を求めたので、大野は虎の屏風を鳩山邸から外に出すチャンスとみて、森田君は私と同じ寅年たから大石翠石の虎の屏風の方が喜ばれるだろうと提案。鳩山はそれしようと森田に虎の屏風を贈った。

 その後、空襲が激しくなり、森田君は選挙区の広島県比婆郡東条町に家財を疎開、例の虎の屏風も他の品物とともに広島に戦禍を逃れた。昭和二十年、大井町の彼の邸宅は焼夷弾で焼け、上京のときには私の家に泊まっていた。終戦間近の八月四日、森田君と軽井沢の鳩山先生の別荘で会う約束をしたが、彼はのっぴきならぬ用事で広島市にもどり、四日の約束はフイになってしまった。そして六日の原爆で彼は死んだ。

 終戦後、一年ほど経って森田未亡人が大野を訪ねてきて、鳩山先生から頂いた翠石の屏風をお返ししたいから取り次いでほしいといった。それで大野は森田君がもらったものだから返す必要はない、「ただ、お宅においていても必要がないのでしたら、この私にお譲り下さい。形見分けにもなり、森田君もよろこんでくれるでしょう」こうして音羽の山の虎は、十数年を経てようやく大野邸に捕えられたのである。これは私の虎狩りなかで、時間のかかった代表的なものといえる。
(大野伴睦著「大野伴睦回想録」228ページ、昭和37年9月、弘文堂=館内限定デジ本、)



<略>余君曰く、貴方のやうな人は北京へ是非行かなければならない。それはあつちには旨味いものがありますぜ。名前は何やら福といふ俗な看板ですが、東京の橋善みたように穢い臺所口から這入つて穢い奥の間で料理を食はせる店があります。それでありながら自動車の一台や二台いつも横附けしてゐる位だからそのうまさ加減推して知るべしです。又前門内に山羊の立食ひ店がありますよ。大きな火鉢に炭火をカッカとおこして鉗子で山羊の肉を挾んで焼き、ダシをつけて食ふのです。腰掛はあるけれど誰も腰かけない。それは片脚を載せる爲めの台に使用してゐるのです。まあこんな具合に、と余君は長袍の上に帯を締め右の足を腰掛けの上に載せ、左手で山羊を挾み焼く眞似をし、右手で高粱酒を飲む眞似をする。こんな態ちですから、側から見ると丸で喧嘩腰で談判でもしてゐるやうですが、別にそんな物騒な事ではなく唯山羊を食べてゐるのです。<略>
(井上紅梅著「支那風俗」上巻86ページ、大正9年12月、日本堂書店=原本、)



   ●豊平館貸下許可
札幌区に於ては区内豊平館を区の公會堂
として貸下を受けたき旨其筋に申請中の處
今回認可ありたる由なるが同館目下の借受
人に十年間使用すべき既得権を有せしもの
にて今後數年間は区は之に対して如何とも
する能はざめべきも既に貸下の認可を得し以
上は相當に監督を加へて不体裁なき様注
意せしむ事肝要ならん
(明治43年9月2日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム、)


○熊の掌を輸出せんとす 北海道に熊の多く棲
みたるは二十余年前蝦夷と唱へし頃のことにて
近年は追々森林を伐採し土地を開き戸口の増加
するに從ふて熊や狐の住處を狭くし且つ一頭の
熊を獲れは数十圓に価するか故に猟師は殆と之
を狩り盡さんとす然れとも千嶋諸嶋にて尚ほ多
く熊め棲む所あり本嶋と雖も山深く樹木多き處
に於て年々四五百頭を獲るかゆゑ貴族院議員田
中芳男は熊の掌を取りて之を嗜好する支那人
に與へなは大に利益する所あらんと態々上海在
留荒尾精氏の許に問合されしに果して田中氏の
見込の如く熊蹯即ち熊の掌は彼の燕窩、桂花木
耳、豹胎と等しく支那人の最も珍重するものに
て北京各省の官人等は贅沢品として之を貴重し
其価一対即ち片手片足にて三四圓より五六圓に
売買するよし是に於て田中氏は地理課長村上要
信氏へ向け本道に於る其産出見込等詳細問合
され村上氏は旧開拓使以来の熊猟規則より毎年
の捕獲高に至る迄詳細に取調べ回答されたるが
之と同時に村上氏は熊掌の貯蔵法上海及ひ北京
迄の運搬費売買の手続等詳細に問合したる由な
るか其模様如何に由てては本道の獲殺熊掌は悉
く支那へ翰出するに至るへしとそ


   輕便料理並仕出の披露
私儀従来専ら西洋菓子営業販売致居り旁々コー
ヒ茶御客様の御需に応し来り候處時々西洋料理
の御請求に預り不一方不便を感し候に付今回更
に和洋料理並に仕出シを加ひ直段ハ左記ノ安直
にて御客様ノ御需に応し候間旧倍ノ御ヒーキを
願上候
○西洋料理一品代八銭○牛すき一枚代八銭○牛
鍋一枚代六銭○柏鍋一枚代十銭○福徳めし五人
一組代五十銭○小田巻むし六銭○かちんむし六
銭○和洋割子上等八銭○中等六銭○並等四銭
      札幌区南一條西四丁目九番地
十七、十八、十九三
日間開業粗景呈上     風琴堂主人

○禁酒料理に酒の注交 當区南一条西四丁目の
風琴堂では先頃より麺麭の外に一種特別の禁酒
料理を開業した處ろ遂ひ四五日前の晩東京庵か
ら操込んたは三人連の女客孰れも由ある妓な
れば三人前の上等料理を誂らひ遠慮なく遣らか
し居るうち一人が酒を呑みたいと云へば又一人
が酒を一本媛燗で大急ぎと自分等が筋の悪い客
に急かれるやうな注文に手前どもでは禁酒料理
殊に耶蘇教を信じて居ますから酒はありません
とのことに三人は澁々喰ひ終りてエヘンお客さま
だ一体全体わが輩僕などは耶蘇も禁酒もあるも
のか酒なる猩々亀の子鼈てとでも競争する方々
だ野暮なことは以來廢めたが宜からうと減らず口
を叩いで去つた其顔は仝庵での剛のもの桃太
小しめ小たきに似て居たが禁酒料理を喰ふに酒
を出せなんと間の抜けた爾な野暮な眞似は東京
庵の名に拘はるし見つとも悪るいから以来乾つ
宜したが宜からう子―君と何たか曖昧な投書


○小谷氏の屠殺牛買入  當区南一条西四丁目屠
畜免許人小谷熊造氏は農学校附属農園生牡牛一頭
青森県下北郡田名部生牡牛二十頭、札幌郡江別村
生牡牛一頭、胆振国有珠郡生牝牡牛九頭、仝国美
々村生六頭、青森県下北郡老部村生二十五頭合計
六十二頭を購入せるよし昨十七日其筋へ届け出て
たり
(明治25年11月18日付北海道毎日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)


   西洋風料理指南の広告
今より益々文明の域に進むに従ひ西洋料理の大流
行に至るや明かなり、されば家庭経済に注目し養
生を重んせらる方には是非知得せざるべからず殊
に御婦人方に於ては直接に家政を管理し庖厨を支
配するに尤も必要といふべし就ては小生此度左の
ケ所に西洋料理指南所を設け丁寧親切に多年間実
習せし料理法を伝授せんとす御望みの御方は御申
込有之度此段広告候也
 札幌南一条西四丁目十八番地北仲通(菅井裏)
  廿五年十月五日       岩間覚之助


    広告
  小樽方面の読者に告ぐ
北門新報小樽にて発行ありし時は流石土
地の新聞のことゝて小樽のみにて八百以
上は売行きし由然るに其時本社の北海道
毎日新聞は僅か三百五十に及ばず實以て
遺憾に存居候処、北門新報小樽を去りて
札幌に移りし以来は 英明なる諸君の
眼光早くも「同じ札幌出来る新
聞なれば毎日新聞の方が宜ろ
し」 と認め玉ひ爾後本社の新聞は 日々
夜々其数を増し今や四百八九十に至
り将に五百を出でんとす(北門新報
は四百四十五に成りし由)如斯公平にし
て鑒識高き諸君の厚顧を蒙るは 本社の
面目真に大なる處にして又深く
感謝する處に御座候 就ては今後も
益々奮発勉励可成 朝早く 御覧に入るゝ
様取計可申候間猶今後倍旧の御贔屓御吹
聴被成下度又右の如く紙数相殖へ 小樽
に於けるおける諸新聞雑誌中の最多数
を占むる 様相成候に就ては 広告の
利目の非常なるは申迄も無之殊
に今後は益々広告掲載上に注意
可仕候間 是又 層一層の御申込 只管
奉希上候謹言
      北海道毎日新聞社
 第一月    新聞発売掛
        広告受付掛


舶来最上等玉臺大新着
  玉突  米利堅形石盤臺
      仏蘭西形石盤臺
       尊客様方の御愛顧を蒙り日増に繁栄の段奉
       鳴謝候就ては新年御遊楽のため今般新たに
       舶来最上等メリケン形石盤臺を取寄せ玉場
       も増築仕候間御誘合御来車御引立の程奉願
       上候
             大通西二丁目
   玉場増築落成      魁養軒   寿々喜
(明治27年1月5日付北海道毎日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、)



   羊の料理
           木下謙次郎

<略> その次に申上げたいのは北支那及び蒙古地方に
行はれて居る例の有名な「ジンギスカン」料理であ
ります。これは北京にお出でになつた方は召上つ
力方がありませうが、何ういふ風な食べ方をする
かといふと、大きな鉢の中に胡麻の油を入れて、こ
れに蟹の油であるとか、海老の油であるとか極く
淡白な水産動物の油を混ぜ、其の中に例の支那人
得意な大蒜と芹、それから蕃椒、斯ういふ香料を
うんと打ち込んで、其中に羊の腰肉の可なり大き
く切ったのを浸けて置きます。一方には大きな火
鉢に火を盛んにおこす。蒙古では牛糞でやります。
<略>北京ではどうするかといふと牛の糞の代り
に半焼けの木炭で焼く。普通の木炭では煙が出な
い、其處で半焼けの木炭で焼く。半焼の木炭で煙
が足りなければ青松葉を持つて來てさうして炭の
中にくべて煙をどん/\立てゝその中に鉄の網を
かけ一方前に述べたる汁の中に浸けてある羊肉を
取つて、その網にかけて焼きながら塩をかけて食
ふ。食ひながら焼くのであります。誠に豪快な料
理であり、甘味くもある。煙で燻べるのは単に焼
いただけの味では物足りない。煙で燻べて恰度燻
製の肉を造るやうなもので、燻べるとぼんやりと
もろく甘昧のあるやうな味が出來るが、その味に
好みを有つて居るのであります。<略>
(食養研究会編「食養」3巻5号ページ、昭和6年5月、食養研究会=原本、)
関東州の民政を統括する関東庁の長官である関東長官を1927年(昭和2年)12月17日から1929年(昭和4年)8月17日まで務めている。




   ひつじなべ
都下の羊鍋の元祖は、三田の「いろは」であ
らう。今から三十年も前の事だが、一人前
僅かに四五銭位であつたので、実に素晴らし
い景気で売れたものだ、それに主人木村荘
平氏の娘に曙女史と名のる才色双絶の女流
文学者があつたが、羊鍋が頗る大繁盛で女
中許りの手では間に合わぬ時は、女史は■
敷筆硯を抛つて杯盤の間を周旋した、この
時分は無論今の様に海老茶廂髪などは流行
らない時で、器量好しの而かも羊のやうに
おとなしい女の文学者珍しく、せめてはそ
の優しい一顧を獲やうと詰めかけて、角帽
ならぬ短■高踏の薩摩隼人ね大分あつたさ
うである。
(明治4*年1月1日付中央新聞朝刊*面=マイクロフィルム、)


弊店儀昨年十二月開業農務局下総種畜場増殖の綿羊
売捌所開店以來各君の御引立を以日増に繁昌仕難有
仕合奉厚謝候附てハ十一月二日より売出仕精良なる
肉を撰び精々下直に奉差上候間御養生家之諸君御養
喰又ハ御來車御喰養あらん事を乞ふ但し定価ハ左の
通附り二日三日の両日ハ些少の麁品奉差上候也
     ○極上肉壱斤廿八銭○ロース肉壱斤三十
 羊肉  弐銭但しホ子ツキ○鍋御一人前五銭○や
     き鍋御一人前七銭○西洋料理御望次第
     ○極上肉壱斤廿八銭○ロース肉壱斤三十
 牛肉  弐銭○鍋御一人前五銭○焼鍋御一人前七
     銭○西洋料理前同断
附り羊牛とも肉ハ府内に限り一斤以上配達仕候間御
好の御方ハ端書を以て前日御報知可被下候
今般一種特別の工夫を以羊毛皮製造仕格外下直に奉
差上候其用法ハ第一西洋服及日本服羽織半纏等の裏
地に相用候ときハ暖氣を保護なし寒氣を避け健康を
保全するの第一なり又老若ともに寝間に用ゆるとき
ハ夜中の小便を減数す 三度の者ハ一度一度
           の者ハ便所に行かず 座敷々
物にハ尚ほ至極適用の良品なり夫々用方に依てハ皮
も亦種品製造仕居候間有志の諸君御通行の節御立寄
り現品御検査の上御購求あらんことを乞ふ
        東京芝区三田育種場内
 明治十五年十月      木村荘平
        木村荘平出店同所門前
             いろは
(明治15年11月1日付読売新聞朝刊4面=ヨミダス歴史館、)


 ■菜とは直火焼料理のことです。掛炉<クアルウとルビ>とい
うのも同じ意味です。中国には直火で焼く料
理は割合に少く、一般に知られておるもので
は仔豚の丸焼、家鴨の丸焼などががあります。
 ■羊肉というのは普通、成吉思汗料理とい
つておりますが、羊肉を薄切りにして、浸け
汁に浸し後直火で焼き、その焼き立てを食べ
ます。料理店などでは特殊な鍋を使用してお
ります。

 ■羊肉(羊肉の直火焼)
材料 羊肉四〇〇瓦、酒三勺、醤油三勺、
ニンニクの微塵切り小匙一杯、酢醤油
 作り方 羊肉は薄切りとし、酒と醤油、ニ
ンニクのみじん切りを混ぜた汁へ二十分間ほ
ど浸しておきます。炭火に金網をのせ、強火
で肉をサッと焼き、焼けたら直ぐ、酢と醤油
と同量に合せた汁をつけて食べます。
 煙が立ちますから、庭に面した縁先などで
する方がよく、原始的な料理です。
(カザン編「食生活」46号27ページ、昭和27年5月、カザン=館内限定デジ本、)



『兜鍋』<横見出し>
これも時代の要求
  スキ焼きに革命
   新しい煮方の獲明

寒さとともに
スキ焼きのシ
ーズンに入り
ますが、こゝ
にも時代の力が現れて、一変異が
見られます、外國人からも「シユ
キヤキ」とさわがれ国際的美味と
認められてゐるものゝ、これまで
の通り普通のスキ焼鍋で、わり下
をドブ/\に入れて煮るのはいさ
さか飽かれ、ビフテキに近い味覚
が喜ばれる傾向があります
  これは    最近のグリル
        (焼肉専門店)
の続出でも分りますが、家庭で簡
単にやるには『ジンギスカン鍋』
のやうなやり方が、一番よいが、
太い鐵の傘のやうな、あの道具は、
脂が落ちて、煙を立て家中すつか
り燻されてしまひます、そこでス
キヤキ鍋を無理に使つてチリ
チリ焦げつかせたりしてゐました
が、最近珍しいスキヤキ鍋が特許
をとり、スキヤキ料理に新生面を
開きました
  大体の    システムは、
         「ジンギスカ
ン鍋」にもとづいてゐますが、鐵
の傘状鐵棒のかはりに、クローム
メツキされた二枚の椀状鐵板を用
ひ、これに火の通る道として、圓
い穴がボツ/\あけてあり鐵兜を
伏せたやうな形をしてゐます、上
下同じやうな形の鍋を、穴をたが
ひちがひにして火の上に乗せ、二
分厚くらゐの肉を鍋の表面でヂリ
ヂリ焼くのです、鍋の周囲に溝が
ついてゐてそこにジユースがたま
り、ねざ、しゆんざくなどをそこ
へ置けばいゝぐあひに煮えます、
牛肉、豚肉はもちろんバカ貝など
もこの方法でやれば
  自然の    味と栄養価を
         失はず、とて
もおいしくたぺられます、クロー
ムメツキのおかげで、焦げついて
もたやすく洗ひ落すことができま
すが、肉の表面にサラダ油をざつ
と引いて焼くと、絶対に焦げつき
ま゛ん、おろし、醤油または食塩
と山椒粉と調味料をまぜたものな
どをつけるのが、一番あつさりし
ておいしい、焼く前に肉を生ブド
ー酒にちよつと漬ると風味を一層
増します(大石辰五郎氏談)(写真
は新案スキヤキ器兜鍋)
(昭和11年11月11日付東京日日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、)




▼軍隊料理と丸本主計正
陸軍糧秣本廠の丸本主計正は、一昨年来全
国各師団に軍隊料理を宣伝せられてゐる、
就中豚肉鶏肉の料理の如きは師団に於て、
生豚、生鶏を買入れさせるその屠殺から解
体の方法を会得せしめ、肉の分解から肉及
内臓の調理法及処理脂肪の利用法、骨のス
ープに至るまで、細大となく教ふる今や全
国師団でこの講習を受けたものが、既に千
二百名以上に達してゐる、この講習を受け
たものが地方に出て間接、直接にこれ等の
調理から利用法を地方に宣伝することにな
ると、肉の需用から見ても、廃棄物の利用
から見ても、實に国家的に有効な現象を呈
するであらうし、特に軍隊が肉ばかりを買
入れるよりは、遥に安価で滋養も多い各種
の料理を、沢山に兵士に振舞うことが出来
て、実際経済上に至大の利益を得ると共に
兵士の栄養をも良くすることが出来る、洵
に一挙両得の試みで、吾人は両手を挙げて
陸軍のこの挙を賛成すると共に、日夜此方
面の調査考究に尽力せられてゐる丸本主計
正の労を多とするものである。
(中央畜産会編「畜産と畜産工芸」8巻10号14ページ、大正11年10月、中央畜産会=原本、)






 □農商務省の羊肉奨励
   三越の羊肉弁当

 農商務省に於ける緬羊奨励の結果近来
次第に民間に於ける頭数を増加し、従つ
て牡羊廃羊等その肉の利用の必要を生じ
一般家庭に向つて羊肉の利用を増加せし
むる必要上、農商務省は今回日本全国に
於ける一般階級の人の最も多く出入する
三越食堂に於て羊肉弁当を調製せしめる
ことにしたが。その材料は赤坂松井商店
から安価に三越へ供給せしめ、松井肉店
へは補助を与へ民間飼育の肉羊をその申
出によつて買取らしめ、此所に於て肥育
を施してその需要に応じしめるのである
と云ふ。尚ほその羊肉調理に関しては農
商務省はこれを監督して一般日本人の嗜
好適するものとし一食五十錢を以て供給
する筈であると云へは、彼の三越の食堂
に於て一般階級の人か羊肉の滋味に舌鼓
を打つこともけだし遠くはあるまい。斯
くて生産にも需要にも緬羊飼育奨励の施
策は一般の進歩をなし得たものと云ふべ
きであらう。
(中央畜産会編「畜産と畜産工芸」8巻5号50ページ、大正11年5月、中央畜産会=原本、)



来月十八日から中央畜産会の主催で不忍池畔に開かれる畜産工芸博覧会は目下着々工事を急いで居るが、館外に様々の新設備を加へて余程大袈裟なものである、東照宮下に面した正門を入ると右側には▲羊牧場の模型が出来農家の副業として手軽に飼へる実況を示し生きた羊を放すやうになつて居る、其の羊は下総の御料牧場から変つた十五六種が出品される」「売店では珍らしい羊料理が味はれるが其材料は同会から供給され殆ど実費で提供される我国で▲羊の肉を食用にする例は稀であるが其肉は柔かく甘味を持つて居て非常に甘いものだとの事である」
(大正8年2月4日付都新聞朝刊5面=マイクロフィルム、)





[おらが郷土](四七)

三原の噴煙靡き
 清澄な湖に映る
  モダンな川奈ゴルフ場、絶景に一碧湖
   田方郡小室村の巻

伊東町から
小室、対島
村への交通
は東海自動
車会社の八幡野川奈ゴルフ場行き
が定期である、小室村は日蓮上人
配流に際してこゝの■岩に移され
て正に溺死せんとしたのを船守弥
三郎なるものに救はれたといはれ
る由緒がある――小室村役場のあ
る川奈字は山を背負つた漁港であ
つて、何となくガツチリした感じ
を与へる、役場は山の中腹にあつ
て民家を俯かんし遠く大島が薄霞
を隔てゝ相対し眼前には與望が島
の奇岩がそゝり立つてゐる、まこ
とに奇観である、役場を下ると船
守弥三郎の宅址がある
    ◇
日蓮上人六百餘年前幕府の怒りに
あつて対島村の冨戸に流されてこ
の地の神浦にあるまないた岩に移
され巌頭を浸す波浪に大合掌を組
んで従容としてゐるのを見た船守
弥三郎は上人を助けて吾家に連れ
來つたが上人の上に危害が及ぶの
を虞て■後の岩窟内に隠まつて置
いてその生命をまつたふせしめた
といふ、その岩窟は今祠つてゐる
由緒を聞いたヾけでも敬けんの念
にうたれる、川奈から海添ひに一
帯を■海ケ浦と呼ばれ山道十数町
にして富戸に達する、
    ◇
川奈、吉田、荻の三字が小室村であ
る、川奈区の漁業十五六万円に上
る漁獲が其大半を占てる。其他は
農業によるものだが川奈区の人口
二千三百餘に対し他の二字は千四
百人である。小室村の誇るべきは
一碧湖と川奈ゴルフ場である。坦
坦たる新下田縣道は逆川から南折
して小富士と呼ばれてゐる小室山
の裾へと走つてゐる。その小室山
の麓から海岸寄りの一帯の高原が
東洋一の称ある川奈ゴルフ場であ
つて、バンガロフな倶楽部が好対
照を示してゐる。このリンクスは
総坪四十三万坪、広大な自然を利
用したスロープは都人士達に喜ば
れて現在一年に七八千人のゴルフ
アが得意のバーを振廻してゐる。
だが、この大ゴルフ場も村のため
には僅に女子をキヤデーに男子を
芝刈に使う位のもので、村そのも
のゝうるはふ處は少い由で将来交
通が開ける日を楽しみにしてゐる
大島三原山の噴煙は南にゆるく流
れマウント富士は我が指呼の間に
その雄姿を仰ぐ景観は実に雄大で
ある。近く富士コートにも倶楽部
建ち更にホテルをも建築すべく計
画を進めてゐる。静岡県のモボ、
モガ達よ一つ出かけたらどうだ。
    ◇
ゴルフ場とは反対に右折すると行
くこと数丁、天城矢筈、大室の翠
巒まさに迫らんとするところ閑寂
幽すゐの境地は自ら開けて明鏡の
やうに樹梢の間に反照する碧たん
を見る、これが一碧湖である、湖
は噴火口の跡で山胡の特長を有す
る火口湖、周囲凡そ二十六丁面積
十六万坪、東西にひさご形に延び
漫々として清澄なる碧水をたゝえ
てゐる、一碧湖の名の起るところ
――東岸は一帯に美しい砂地で清
松白砂打ち続く遠浅のなぎさには
ゐ草泰生して大いに野趣を添へて
ゐる、東から西へとめぐるにつれ
て漸くせう■くとなり溶岩累々と
して自然美の粋を極めてゐる。
湖中第一の景観と称される十二連
山は丁度盆石を並べたやう、水彩
画そのまゝの姿で碧たんに落とす
影の何ともいへない見事さである
気候温暖で寒風吹く時代に梅がか
ほるといはれる程である
    ◇
天城、矢筈、大室の名山連峰を背
景とせる、広ぼう二百万坪にわた
る大平原を白雲クといふ渓光山色
美くしく山国の風があり、気候温
暖のために熱帯植物の生長する態
は南国の感がある、大室山の眺望
は天下の絶景と称すべく富士は北
に駿、豆、相の諸山を脚下にして
見え相模洋の長汀曲浦は一線遙に
房総半島に及んでゐる、それに続
いて三原噴煙がなびいて伊豆七島
を結んでゐる大国立公園を見るの
趣があるといへやう。
    ◇
天下の富豪乾新兵衛氏の女婿にし
てわが国漁業家の泰斗である■原
角兵衛氏は大いに共鳴して湖水五
十年の借地をなすと、ともにこゝ
を遊覧地、養魚地として東西の遊
覧客を誘致すべき設備を施してゐ
る、やがては静岡県の誇りとなり
川奈の名は一世に高くなることは
言をまたない處である
    ◇
小室村の村長塩■鉄太郎氏は「伊
東温泉場を控へてゐるのと白雲ク
一碧湖の日本的名所を有する小室
村は道路交通が完備すれば必ず東
西からの遊客を呼ぶことゝ思ふ、
気候は四季温暖といつてもよい冬
知らずですから――」と語つてゐ
る。青年団は純朴にして剛健、村
道改修奉仕或は青年訓練の励行等
に模範的な活動をしてゐる。
    ◇
小室村は中世時代鎌倉の頃この方
面を遠流の中心としたヾけに色々
な旧蹟がある、路傍の一石一木に
も何か昔語りひそんでゐる、神
秘的な感じを抱かせるだけでも日
本的に見て誇りを有してゐる、県
外には勿論だが、今少し県内的に
宣伝の必要を認めるであらう。
(写真は川奈より見た
與望島の絶景)
(昭和6年11月17日付静岡民友新聞夕刊1面=マイクロフィルム、)



■ジンパ・バーベキュー利用可能時間 月〜金:17:00〜21:00 土日祝:10:00〜21:00
  ■場所と時間を守って楽しくやりましょう!
北大名物
  芝生の上で仲間と七輪を囲んでジンギスカン、これぞ北大スタイル!
   ジンギスカン パーティー(ジンパ)
とってもジューシー♪
  生ラム               <小さな写真2枚>
  ジンパセット<大きな赤い字>    写真はイメージです
  1セット
  5人前で
税込               ご注文は3日前までに
 4,200円<大きな白い字>  はるにれ食堂または食堂各店へ
ワリカンすると          北大生協ならこんなに便利!<弓形の青帯>
 一人分 税込み840円!!   ●あちこち買い出しに行かなくても、生協に
缶ビール付きでも         予約すれば全部そろっちゃう!
税込み5,500円でOK!    ●時間に合わせてはるにれ食堂に取りに行け
                 ば、すぐにジンパができちゃう。(お支払い
                 はお渡し時に!)
                 ●取り皿や割り箸も人数分だから、無駄にな
                 らないよ。
                 ●ゴミ袋まで付いていて、後片付けもバッチ
                 リ。
                 ●当日に雨が降ったときには、ちゃんと連絡
                 してもらえば延期もキャンセルもOK。(
                 おにぎりのキャンセルはできません。)
                 ただし、必ず「はるにれ食堂」にご連絡く
                 ださい
   
  5人前セット(ビール付き5250円)の内容は
七輪(貸し出し)         1台     ジンギスカン鍋 1枚
木炭 1 Kg                  取り皿 5枚
生ラム肉(冷凍ラムは1.8Kg) 1.5Kg  割り箸  5本
カット野菜
(キャベツ・ピーマン・オニオン) 5人前    着火剤  適量
もやし      5人前            ごみ袋  適量
ジンギスカンのたれ        1本     軍手   1双
北海道限定                   マッチ  適量
クラシックビール500ml缶   5缶     うちわ  適量
紙コップ                    火バサミ(貸し出し)適量
(ビールなしの場合はつきません) 5個 
<上記の表の右側>
冷凍ラムに替えることもできるよ!
冷凍ラムなら
 5人前1.8:Kg
<お握りの絵> OPTION
オプションでおにぎり(梅・鮭)もあるよ!
  税込各100円
※おにぎりのキャンセルは
出来ませんのでご注意ください。
                         サーバーから注ぐ 
大人数のジンギスカンには  サッポロ黒ラベル   生ビールの味は最高〜
樽生が               クラシック  <薄黄色で見えにくい> 
オススメ          サーバー用
              氷付き  10リットル 樽 7,000円
ご注文は
3日前
までに  はるにれ食堂 TEL・FAX 717−0227
                         学内内線 5133
     または、食堂各店へ *はるにれ食堂以外でのご予約の場合は、後ほど
     確認のお電話を差し上げます。
■ジンパ・バーベキュー利用可能時間 月〜金:17:00〜21:00 土日祝:10:00〜21:00 ★北大の美観と芝生を守りましょう
 未成年者の飲酒は禁じられています 未成年者が参加するコンパでは
   ・周りの方は、未成年者に飲ませることにならないよう気をつけましょう。
   ・主催者の方はソフトドリンクの準備を忘れずにしましょう。
※本チラシの有効期限は2008年12月末日ですが、期中にて価格改定の場合は御注文時に必ずお伝えいたします。
<以上は表側の全文>

    ジンバセットお申し込み用紙
はるにれ食堂もしくは最寄の生協食堂各店にご来店いただくか、FAX717−0227にてご予約ください。
はるにれ食堂にご来店以外の場合は、後ほど確認のお電話を差し上げます。
詳細は『はるにれ食堂』まで、お問い合わせください。
                TEL:717−0227 内線:5133
   
お申込み日  月  日     お渡し日時  月  日  時
   
  団体名    様               〈ジンパ利用可能時間〉
代 ふりがな              月〜金:17:00〜21:00
表 お名前    様          土日祝:10:00〜21:00
者 ご住所  区 条 丁目   号室
  携帯番号  −   −      開催場所
  
    ご注文
セット名             税込価格/1セット  ご注文数  小計
生ラムジンギスカン+ビール     5,500円
生ラムジンギスカン         4,200円
ジンギスカン(冷凍のお肉)+ビール 5,500円
ジンギスカン(冷凍のお肉)     4,200円

オ   品名           税込価格/1セット  ご注文数  小計
プ  樽生ビール10L 黒ラベル   7,000円
シ           クラシック  7,000円
ョ  お握り      梅        100円
ン           鮭        100円
                 総合K金額      円
−−−−−−−−−− きりとりせん −−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   お客様控え(はるにれ食堂にて商品お受け取りの際にご提示ください)
●代表者お名前   様   ●お申し込み日  月  日
              ●お渡し日時   月  日  時
   
セット名              税込価格/1セット   ご注文数
生ラムジンギスカン+ビール      5,500円
生ラムジンギスカン          4,200円
ジンギスカン(冷凍のお肉)+ ビール 5,500円
ジンギスカン(冷凍のお肉)      4,200円
<以下は上記の表の右側に入る>
 品名               税込価格/1個     ご注文数
樽生ビール  黒ラベル        7,000円
       クラシック       7,000円
おにぎり   梅             100円
       鮭             100円  料金
                                 円
〈ジンパ利用可能時間〉月〜金:17:00〜21:00 土日祝:10:00〜21:00
 ■受け渡し時間 平日11:00〜17:00 土曜日11:00〜13:00
●雨天の場合、当日キャンセルも可能です。ただし、おにぎりのみキャンセル不可ですのでご了承ください。キャンセルは必ず「」はるにれ食堂」にご連絡ください。ご連絡いただけない場合は、実費をご請求させていただきます。●ジンパ終了後は、七輪、七輪台および火バサミをご返却ください。営業時間内であれば、当日返却も可。●七輪を破損または紛失の際は弁償金1500円を徴収させていただきますので、取扱いにご注意ください。
 連絡先 北大生協 はるにれ食堂  TEL&FAX:011−717−0227
<以上がチラシの裏側全文>




 羊肉もよいが
  臭味が嫌や
   牛肉より滋養分が多い
    臭味は消えますよ

羊肉は消化が早く滋養にも富んで
ゐますが、他の牛豚肉にくらべ親
しみがないため、とかく疎んぜら
てゐるようで惜しいことです、
牛肉百匁の肉を
  丸の  まゝ煮ますと廿五分
位かゝりますが、羊肉なら十四、
五分で煮えます、また化学的に分
析して牛肉とくらべてはるかに滋養
養に富んでゐます、たゞ肉類は羊
に限らず他の肉も一種の臭気を持
ちますが、この羊肉にも一種の弱
い臭気があります、でこれを消す
のには、羊肉の香は体表部の方が
比較的強いからなるべく皮下筋や
厚い
  脂肪  の外皮を取り除いた
ところをおもとめになること、ま
た羊肉の脂肪は冷めるとすぐかた
まつてしまひますから温い中に召
し上ることです、それで羊肉は高
熱で手早く調理するといふことの
条件になるので、直接炭火にかざ
し、またはテンピを使ふか、油で
あげるとかして臭気をけしますと
割合短時間に料理され、味や栄養
上の損耗が少くなり、いくぶんこ
げ気味のところで歯当りもよくな
ります、なほ野菜や
 香料   を使つて香を消すこ
とも出来ます、これはシヨウガと
ネギ、セリ、ウド、ミツバ、ゴボ
ウの類、つまり香の高い野菜を取
合せて汁物、和へ物にするのです
調味料としてはサンシヨ、ガラシ
七色唐ガラシ、コシヨウを使へば
よろしいのです

 羊肉料理二三
 の実例

次に大体一品五人前の分量で羊肉
料理の作り方を申しませう

   羊肉の網焼
 【材料】羊肉百匁、みりん一勺
  塩小匙一杯、醤油二勺、七色少
  少
【方法】羊肉を一分位の厚さ
に切り、味淋と醤油の中に十分位
漬けサンシヨと塩とを撒いてよく
焼けた金網の上で両面を焼きます
焼く時に松葉か、松笠を火の間に
おき多少この煙の出るような所で
焼けば一そう風味を増します、こ
の料理は肉の薄い部分を利用すれ
ばよいので決してロースを使う必
要はありません、複雑な香を好む
人にはセルリーを少し切つて肉と
一緒に浸してしおけばよいのです
<数行欠落>

   羊肉の田楽
 【材料】羊肉二百匁、こんにや
 く百匁、砂糖五十匁、味噌百匁
 味淋二勺、シヨウガ少々
 【方法】  羊肉は脂肪、腱を
のぞき二分位の厚さで一寸角位に
切つておきます、味噌はすり味噌
とし裏ごしにかけます、これで味
淋、砂糖、シヨウガをすつたもの
を加へよくまぜておきます、こん
にやくは羊肉位の大きさに切つて
一度充分に煮て灰分を去り、羊肉
と共に味をつけたお味噌の中に約
十二時間ほど漬けておいた後羊肉
とこんにやくとを交互に竹串にさ
して焼いてすゝめます

   羊肉の葱間揚げ
 【材料】 羊肉百匁、ネギ三本、
 澱粉十匁、醤油二勺、ごま油
 【方法】 羊肉を筋と直角にな
るやう幅二分、長さ五分位に切り
ます、これに醤油をかけておいた
後、同様に切つたネギと一しよに
してこれに澱粉をつけて熱したご
ま油で揚げます、ネギは外側に、
肉が内側になるやうにして下さい
(中央畜産会岡崎秀善氏談)
(昭和9年3月30日付中外商業新報朝刊9面=マイクロフィルム、)




文化時評
お好み焼きがひっくり返した文献研究
  資料を個人がデータベース化
  パソコン一台でここまでわかる

 昨年出版された近代食文化研究会著
「お好み焼きの物語」(新紀元社)を読ん
で衝撃を受けた。本文書き出しの見出
しが「大正7年のお好み焼き」で、その
年の読売新聞の写真入りの記事が転載
されている。
 記者もお好み焼きの起源を調べたこ
とがあるが、お好み焼きの戦前史の手
掛かりとなる刊行資料・文献は限られ
ていた。悪戦苦闘の末、東京の下町で生
まれたことはわかったが、昭和初期ま
でしか遡ることができなかった。
 それがこの記事ひとつで、大正7年
には東京の下町にお好み焼きの移動式
屋台が広く存在していたことが裏付け
られた。しかも記事の見出しは「鰕フラ
イ一銭のドン/\焼」だ。
 本書は国文学者、池田弥三郎の「たべ
もの歳時記」から引用する。「屋台の、子
ども相手の、二銭三銭五銭といったど
んどん焼きが、出世して、いつしか『お
好み焼き』になった。そして銀座の露地
の奥などに、ちょっとした店ができた。
それは昭和の初年ごろではなかった
か」。だが、その認識は根底から覆る。昭
和以前にお好み焼きは存在していたの
であり、それを子どもがどんどん焼き
と呼んでいたにすぎない。<略>
 野瀬泰申
山田麻那美撮影
わからなかったお好み焼きの起源は、文献や画像のデータベース化で解明された(東京港区の「ぼてぢじゅうAKASAKA」)
(令和2年3月22日付日経新聞朝刊20ページ)




   羊肉とラシャメン
安政五年にイギリスの訪日使節エルギンに随行して、下田に立ち寄ったオリファントは、ハリスは「この地で二年間も羊肉(マトン)を味うことなく過ごした。羊は日本では知られていない動物である」と記した。<『エルギン卿訪日使節記』第4章>「長崎以外でその飼育が行なわれるようになったのは開国後のことで、乳をしぼり、またチーズを造り、羊肉(マトン)を食べることも、外人居留地にはじまり、明治以降一般にひろまるようになったものであろう。なお明治初年には、羊のことを綿羊と記し、ラシャメンと呼んだらしい。後にはラシャメンという言葉は洋妾のことになってしまった。
   羊肉調理
『西洋料理通』には、羊肉の調理法もいろいろ記されている。外国人の間には羊肉料理もさかんだったらしいが、一般に羊肉が普及するようになったのは、明治も半ば過ぎてのことである。『食道楽』には、「近頃は羊の肉も流行しますが……」といい、羊に、大そうおいしい肉を買い当てる時と、大層まずくて臭い匂いのある場合があるのは、肉を混ぜるからで、中国から来る羊は一番上等で、肉の味も結構だと述べている。
(芳賀登、石川寛子編「異文化との接触と受容 全集日本の食文化8巻」60ページ、平成9年10月、雄山閣=原本、)
前坊洋による「解題」(284ページ)は、元東大史料編纂所教授、岡田章雄が書いた「文明開化と食物」について次のように述べている。
『日本風俗史』第五巻(一九六八・五・二五、雄山閣出版)一五〜五二頁、A5判縦書一段、本講座は全八巻、本篇は「食事と食品」にあててられている。
 本編は『岡田章雄著作集』Y「南蛮随想」(一九八四・六・三〇、思文閣出版)にもおさめられたが、二十一葉の「図」のほとんどが省略されてしまっている。<略>




札幌市都市計画内地番入精細図
          昭和2年11月現在
 「紳士録」    昭和2年11月現在

  納税額   氏名    住所
 95円15銭 杉山菊次郎 大通西1
491円50錢 金沢きせ  南4西4
 83円35銭 金沢彦吉  南3西2
 33円90銭 小谷義雄  南1西4




稚内大泊間聯絡船
 昨日札鉄にて下打合せ
  就航船は多分壱岐丸
   砕氷装置もする方針

稚内大泊間の聯絡航路は既報の如
く省議にて省営と決定、島村札幌
鉄道局長並に高山船舶掛長は來る
二十四日上京具体的の打合せを為
す筈なるが之に依り
  聯絡開始    の期日を始
め就航船の決定を見る訳にて昨日
同局運輸課長室にて来札せる加藤
門司鉄道局船舶課長、南函館運輸
事務所船舶掛主任は高山船舶掛長
(札鉄)等集合其下打合せを為す所
ありたるが斯は就航船を主とせる
ものゝ如くなり、伝へらるゝ所に
依れば本省の同聯絡航路は本年四
月の年度変りより開始し就航船に
は現在青函聯絡に就航中の壱岐
丸を充て七月同船の定期検査期を
利用し函館に於て砕氷装置をせん
とするものなるが其装置は設計如
何に依るも七、八万円より十二、
三万円の見当にあり此工事中は新
造船の就航に依り来月関門聯絡よ
り青函聯絡船として廻航する
  壱岐丸    の姉妹船たる
対馬丸を之に充つる方針なり、稚
内大泊間の聯絡は右の如く壱岐丸
の一船なるを以て隔日運航なるも
同船の船客定員は一等十八人二等
八十一人三等三百六十一人の四百
六十人にて臨時定員を取る時は更
に約百八十人の増加は可能なれは
乗客を残すが如き事は万々なく八
十哩の海路は青函聯絡の速度一時
間十四哩にては諾種の支障ありて
延 着勝なる可ければ十哩又はそれ
以下の速度に緩和し十時間見当に
て運行する事となる可く鉄道省の
営業哩は青函間が六十哩を百哩と
せるに鑑み稚泊間八十哩は営業哩
を難航路なれば二百哩程度に見て
大過なからんか然りとすれば
  旅客賃金    は青函同様
食費を除きて三等を二円五十0銭よ
り二円八十銭(二等は此十割増一
等は二等の十割増)見当と見得べ
し、之を北海郵船が冬季を除き同
間の船客賃金を三等五円二等十円
一等十二円五十銭に比較すれば北
海郵船のそれは食費並に利尻、礼
文等に寄港する費用を含むを控除
せば省営線と会社線との賃率は権
衡を失する事なく樺太渡航者が仮
に本州より來るとし鉄路を小樽に
て打切り日本郵船(樺太線)に依
るとせんか三等七円(食費を含む)を
を要し一直線に稚内に行くとすれば
此区間の鉄道運賃五円十八銭と聯
絡船賃を仮に二円五十銭とすれば
鉄道運賃の遠距離逓減法に依り
  食費を除    きて殆んど
同額となる可ければ従来小樽より
樺太に渡来せる向は海路短縮の稚
内航路を経由するは必然の趨勢に
て小樽樺太線乗客は激減し久しく
冬眠の状態にありたる稚内町の利
益する所は甚大なるに至る可しと
観測されつゝあり
(大正12年1月16日付北海タイムス朝刊2面=館内限定デジ本、)
公文書館スクラップ




○軍艦売物高  先頃碇泊せし英魯獨の三外國軍艦十三隻へ當 
港にて売込し高は東洋堂にて註文を受け売りし喰パン二万五千
斤餘其外軍艦へ入込む商人より直売せし食パン五千斤餘程なれ
は食パン斗り都合三萬斤余なり堀江町森亀にて売込し青物并に
小魚外玉子塩肴等金高二千円餘健全社にて売し牛肉一万五千
斤餘外ニ屠らざる牛十二頭そのほか日の出金キ等より売りし食
用品も余程多くありしよし其外市中洋物店等にて売上し金高ハ
実に多分のものなれバ軍艦碇泊の為めにハ市中の商売ハ利益多
しといふ
(明治15年8月10日付函館新聞朝刊3面=マイクロフィルム、)


西洋玉突ノ我皇国ニ伝搬セシヨリ日尚ホ浅シト
雖モ該遊戯ノ凡ソ人躰ニ有益ナルト其ノ楽ノ多
トニヨリ本國各地到ル處流行セザルハナク就中
東京横濱ノ如ハ最モ流行シ目下玉屋ノ数無量百
余二至レリ其他於神戸於大坂到ル處此ノ遊戯ナ
キハナシ是レ畢竟該遊戯ノ健康上ニ有益ナルモ
ノナレハナリ唯當港二於テ全国五港ノ一ニシテ
未タ如此文明國ノ遊戯ナク実ニ遺憾尠シヨリ曩ニ
私会所町八番地ニ玉突場開設仕候處幸ヒ皆様ノ
被下難有仕合ニ奉存候然ニ従来玉突賃百突ニ付
是迄金廿五銭頂戴致候處少数高価ノ様御思召之
御方モ有之依テ今度賃銭ヲ故正シ更ニ一時間三
拾五銭之割ヲ以テ頂戴ス且亦御客様御一人様ノ
時ハ私亦ハ雇トモ合手致御客様トモ勝シ時ハ賃銭一
切頂戴不仕候間尚ホ不相替続々御柱駕御遊ノ程
偏二奉希候  會所町八番地
       ■<屋号マタ幸> 柴田幸八
(明治15年8月16日付函館新聞朝刊4面=マイクロフィルム、)




 長沼圖に記載してある「牛場」の設置については次の事情かある。既に略述した如く箱館開港の事が定まるや開港に先立ち外國軍艦等の出入が多く其度毎に牛肉の請求があり、箱館奉行は其初國禁の故を以つて牛の売渡を拒み、或は鶏を以て牛に代へ供給したが、遂に牛・豚を供給する事とし尻沢辺の牧柵を設け一渡村・大野村から牛を買上げて之を飼養し、安政四年十二月御蔵地の内不用の處二町歩に尻沢辺の牧柵を移し牛・豚及鶏を飼養した。開港後外人の中に肉商を営むものがあり、官も亦軍川村(今亀田郡七飯村の内)に牧牛場を設け南部から牛を購入して放牧して外商に供給したが、該牧場は冬季凍死するものがあるのと熊の害とが多かつたので慶応年間之を廃し、其牛を牽來つて箱館山に放牧したといふ。牛乳の搾取の起原は安政四年米人ライスの請により牛一頭を渡したことにある。後慶応年間軍川牧牛場管理人肝付七之丞が牝牛中分娩して乳を出すものにつき雇人武田忠蔵に乳を搾らせ需要者に売渡した。その需要の動機は病者が在留外人医師の勧誘により之を飲用するに至つたためで殆ど薬と同一視されてゐた。
(田中啓爾著「続人文地理学」264ページ、「地図類から観た函館居留地の地域性とその変化」より、昭和25年11月、古今書院=原本、)




西洋
料理 直下ケ廣告
一上等      金八拾銭
一中等      金六拾銭
一並等      金四拾銭
一平常食     金三拾銭
一アヱスクレム 菓子付
        壱人前 金拾銭
過般來諸物価意外ノ下落相成候ニ連レ弊軒ニ於
テモ一層勉強前記ノ通リ直段者グツト引下ケ調
理方ハ殊更精品ヲ相用調進可仕候間旧ニ倍シ陸
続御光来之程偏ニ奉願上候
 但シ前記ノ外品者從來ノ代価ヨリ二割引ニテ
 調理可仕候
         船場町    養和軒
(明治19年6月15日付函館新聞朝刊4面=マイクロフィルム、)


○アイス、クリーム  公園の協同館を拝借して西洋料理を調
進する木村方でハ時節に向ひしゆへ來る七月一日より氷菓子を
調進し一寸小休みの人の好みに応ずるよし晩餐後散歩の時抔に
ハ至極よろしき趣向なり
(明治19年6月30日付函館新聞朝刊3面=マイクロフィルム、)

○アイスクリーム 七月一日
         より売出し
時節柄に相向ひ申候間美味に調進仕売出し申候
公園御散歩の方さまハ必らず料理御用ひ無とも
消暑御小休に供しアイスクリーム又はお茶菓子
等御好み次第調進仕候間臨光來奉仰上候尚又富
岡町町會所内にても當店に於て御料理調進仕候
間是亦御用奉仰上候
          公園地内協同館
 六月廿八日  西洋御料理 木討留吉
(明治19年6月30日付函館新聞朝刊4面=マイクロフィルム、)




 この掲示板は「青森県南部地方に関する掲示板です。青森県のことなら何でもどうぞ」と、うたっているだけあって面白いことがわかりました。やりとりの間に私の調べも進んだので、交信記録を資料その3にしました。日付時刻は省略、文中の空白行は削除、先頭に整理番号を付け、用紙節約のため改行はできだけ減らしてあります。

(1)台鍋、しらねべか      尽波満洲男
 台鍋(だいなべ)という言葉、鍋の形、料理法をご存じでしたら教えて下さい。
 明治時代、北海道で鹿肉を台鍋にして食べたという記録があります。しかし、台鍋という単語は小学館の日本国語大辞典にしか載っていません。それによれば「鉄製の、底が平らな足付きの鍋」というだけで、サイズすらわかりません。
 さらに用例として*津軽の野づら<深田久弥>幼な顔「台鍋だの、クド(七輪)だの買って斯(こ)して所でブラブラとしてゐたらいいねし」を挙げています。これは深田が書いてものではなく、妻の北畠八穂が代作した作品と後年明らかにされています。北畠は青森市出身です。
 また、地方史研究誌に、下北では肉鍋を「だいてん鍋」という。だいてんとは犬のことで、肉鍋の総称であったが、北海道に移住したときに「てん」が抜けて伝わったのかも知れないという記述があり、また「でなべ」とも呼ぶという説もあります。
 インターネットで検索しても出てきませんので、下北弁講座なども取り上げていないと思われます。北海道開拓記念館の収集品にもありません。
 南部弁で残っている可能性がありますので、お尋ねする次第です。

(2)ダッチオーブン?      管理人
「足つきの底が平らな鉄製の鍋」といったら思い当たるのは「ダッチオーブン」
アメリカの開拓者が使った鉄製の鍋なのですが、底が平らで三本の足がついています。
もしこれが台鍋だとしたら、明治の人たち(一部の人たちかもしれませんが)がダッチオーブンを使用していたと言うことになります。ダッチオーブンで検索をかければ、どういう鍋でどんな種類があるのか、料理法まで紹介されています。
「台鍋」を職場の長老たちに聞いてみても知りませんでした。機会がありましたら、調査してみたいと思います。
「ダイテン」については下北に限らず南部地方では当たり前のことだったようです。私の後輩の父親達もよく食べていたそうです

(3)ダッジオーブンでねんだ     尽波満洲男
管理人様
 ダッジオーブンなんて大きな鍋ではないようです。なにしろ土方車夫馬丁クラス相手のあいまいな飲み屋が酒の肴に鹿鍋を出すときなどに使われていたようです。足1本あればかなりの鍋ができ、ぼろもうけ出来たらしいので、小さめの鍋と思われます。

(4)わがったじゃ      管理人
冬の旅館の夕食のお膳や、宴会のお膳を思い浮かべてください。一人用の鍋がありますよね、固形のアルコール燃料が入った五徳とその上に乗った一人前の小さな鍋。
五徳と鍋がセットになって、ホームセンター等でも売られています、あの五徳の代わりに、鍋に足がついたものと思います。
昔、友人と泊まりがけでスキーに行ったときの宿で、夕食のお膳に足の付いたアルミの鍋が載っていました。鍋の下には陶器の皿があり、その上には固形のアルコール燃料が置かれていたのを覚えています、4本足だったか3本足だっだかは覚えていませんが、当時「ホッホーこういうのもあるんだ」と思いました。かなり昔の話なので、いつ、どこの何という宿屋だったかは覚えておりません、したがって写真もありません。

(5)なるほどー      宝塚の女
「台鍋」って、それのことだったんだのー(*^o^*)
あ、尽波満洲男さん、はじめまして。
シモさんがら「台鍋って知ってる?」ど聞がれで、わいもよぐ分がらねくて、どした鍋だべなーど思ってました。なるほど、1人用の、あの小さい鍋。
「台鍋」っていうネーミング、ピッタリだど思いますわー。
ああ、いがった。なんがスッキリしました(*^o^*)

(6)ちがるがもしれねども      管理人
私としては、足のついた一人用の、この鍋しか思い当たりません。
今では五徳と鍋が分離するようになっているのが当たり前のようですが、これを台鍋というのかどうかは私にも判りません。 尽波さんの記述だけで考えると思い当たるのがこの鍋。今では足のついた鍋は見たことがありません。

(7)だいなべって。。。      十和田市民
だいなべ。私は姑や舅から、とにかく肉の入ったトン汁のような料理をだいなべと呼ぶと教わりました。私は他県から嫁にきて、こちらの言葉につまずきっぱなしで、そのたびに姑や舅が丁寧に言葉の意味を教えてくれました。だいなべもそのひとつです。
姑「今日はだいなべにすべし」
私「?」「大きい鍋でなにつくるの?」
姑「う〜ん、ひらたく言えば”トン汁”かな。とにかく肉の入った汁だ」「肉は何でもいいんだ牛、馬、豚、鳥、熊。何でも」 。。。ということです。
正解かどうかはわかりませんが、我が家で「だいなべ」と言えばそういうことになります。

(8)せば始めるべし      尽波満洲男
管理人&十和田市民様 
 台鍋をお尋ねした尽波です。だいなべが台鍋か大鍋か字はさておき、お姑さんのだいなべ定義をお伝え下さり、ありがとうございました。だいなべイコール獣肉を入れた鍋料理(鐵鍋であれ土鍋であれ)を意味し、南部ではいまも使われているのですね。
 また、だいてんも、近年まで犬を食べていたことがわかります。小生は満州育ちなのですが、若い衆が野犬狩りをして、豚汁みたいに食べるのに相伴したことがあります。赤犬が一番うまいなんて基礎知識は、そのころ覚えたのではないでしょうか。
 昔札幌に台鍋という変なあだなの女がいたという女郎屋の回顧談があります。
明治31年8月14日付北海道毎日新聞2面
 深谷鐵三郎氏の談(資料その1と同じなので省略)
 臺鍋が鍋の形と料理の両方に使われていることがわかると思います。

(9)もう1回、台鍋の話こよ。     尽波満洲男
 サッカー談義が終わったらしいので、台鍋の続きを書きます。
 民俗学研究所「総合日本民俗語彙」第3巻によりますと、ナベドウラクの中で、五戸では「一に臺鍋つつくともいつて『臺鍋三年つつけばかまどをかえす』という言葉がある。かまどをかえすとは家を倒すの意である。臺鍋は小鍋である」と定義しています。ナベドウラクは九州で使われ、今的にはグルメ人間のことらしいのです。
 同第2巻ではコナベダテは「新潟県中蒲原郡ではベツナベともいい、家庭内の贅沢な別食をいう。福島県石城郡では病人の食物を作るときにも小鍋立てといい、一般に小鍋立てをすると身上をなくすという」としています。
 福田アジオら編「日本民俗大辞典」にも「こなべだて」小鍋立てがあり、共食が一般的であった前近代では個人を象徴する料理として慎むべきものとされた。江戸時代の文献に酒の肴として小鍋立ての料理が登場するが、好ましからぬ作法として禁じている教訓書も多い。近代になり急速に普及した―としています。
 遊廓での食事は仕出し屋が作って台に乗せて運んだので台の物といい、後に仕出し屋は台屋と呼ばれるようになったそうです。確かに明治の小説に、台の物の注文を取るシーンなどがあります。それで小生は、台の物に小鍋立ての肴があったとき台鍋と呼んだのではないか。なぜ南部弁に遊廓用語が残っていたのかと疑問視したのです。
 しかし、五戸のように初めから臺鍋はカマドカエシの元という意味で使うとすれば、臺鍋は高い食材を使い、飯がたくさん食べラサル(元は南部弁でしょうが、北海道でも使われる語形)としても多寡が知れてますよね。
 それで台鍋には(1)小鍋仕立て(2)薬食い、自家生産できない獣肉を買って入れる鍋物=食費増嵩(3)高いばかりで量が少なくてまずいと定評のあった台の物を食べる=遊廓通い―と3通りの意味があったのではないかと思うのです。十和田市民さん宅の台鍋用肉には鶏、2本足は入っていませんよね。農家であればこれは(2)であり、札幌のは貸座敷で鮭肉の台鍋も出たというのですから(3)で、そんな座敷に大鍋で運ぶわけもなく(1)でしょう。
 鍋のサイズは、鋳造業者も初耳だなど依然わかりませんが、一人前用の小さな鉄鍋なのでしょう。いろいろご意見、ご協力ありがとうございました。

(10)3回目だじゃ      尽波満洲男
 どぜう鍋、櫻鍋、あんこう鍋、皆小鍋ですよね。江戸ッ子は小鍋仕立てが好きだとしても、昔はどう呼んでいたのか。篠田鉱造という人が、明治時代にさまざまな江戸っ子からの聞き書きを集めた「明治百話」という本が岩波文庫にあります。その中の「牛肉店と小間物店」という項で見ましたが、下記のように呼び方に困っている感じがあります。
 「古く獣肉は少数ながら喰べた人があった。両国の湊屋、また鍛冶橋際のモモンヂ屋、ソウシタ店で、山鯨猪を重に兎猿などの肉を煮鍋で喰べさせました。一般牛肉鍋の流行り出したのは、横浜開港以来で欧米人らが多くなってからは言うまでもないこと、今申した三茂の牛肉鍋というのが、お話ししますと、とても疎末なもので、肉は一片々々皿に並べてはありましたが、今日の如く大片ではありませんでした。こん炉が素焼で、鍋は鉄鍋真鍮鍋などの、ソンな贅沢な鍋でなく、鋳鉄の不格好なもの台所でも置かれない、質素と申しますか、薄汚ないといいますか、むしろ憫れむべき器物で、ソレで炭火で煮て喰べたものです。」小生の独断的考察の続きは週末にでも、また書きます。

(11)またもや台鍋      尽波満洲男
 シモさんやそちらの皆さんに台鍋を教えてもらった札幌の尽波です。来年のことですが、小学校の同期会が北海道旅行をしたいというので、旅館の献立などを調べていたら「台の物」という言葉が、いまも使われていることを知りました。
 シモさんが「あれでないか」と書いた通り、宴会などのお膳に乗っていて、着席してから煮るあの鍋物を指すのですね。googleで検索しますと650件ほど出てきます。 機内食にも台の物が出るのですね。桜鯛と鰤子の煮付けとか鰻の柳川風などなので、機内ではぐらぐら煮るのは危険きわまりないから、調理済みのものを温めて出すようです。台の物がすき焼きだった機内食として白い深皿に盛られてた料理の写真もありました。店によっては「台の物(鍋・コンロ)」と親切か無愛想なのかわからない説明もあります。  ちょっと肉から離れますが、八戸せんべい汁研究所のホームページには、二戸では台鍋せんべいという煎餅が存在したことがあり「名川町剣吉地区ではせんべい汁といえば『台鍋』、『台鍋』といえばせんべい汁のことだったとの報告もある」と書かれています。
 お邪魔しました。

(12)まげだじゃ      管理人
お晩です、シモです。(次はAkemiさんあての答えなので省略)
尽波様
台鍋の情報ありがとうございます。
下北地方では、肉鍋一般を指す言葉だそうです、台鍋という発音ではなく「でなべ」と言うような言い方らしいです。
私の近辺の年寄り達に伺っても「でなべど?」とか「なんでほりゃ」と言うような答えしか返ってきませんでした。
個人的に調べようにも使用人の身、なかなか時間が取れず只只「台鍋って何だべ?」と言うだけでした、ですから皆さんの情報収集能力には頭が下がる思いです。
話が変わりますが、タイトルです。 今日から中体連が始まりました、我が家の長男も中2、 先発で出る出ないに関わらず、応援に行きました。
サッカー部なんです、私も昔サッカー少年、当然応援にも熱が入ります。




出店開業広告
一 西洋菓子  数品
一 西洋菓物  数品
一 パン菓子  同
一 食パン
一 南京菓子  数品
一 南京酒   同
敝舗儀従前西洋料理及パン菓子類販売営業仕居
候處災後会所町八番地ヘ移転致シ只西洋料理一
方ヲ営居リ候得共知己之諸君ヨリパン菓子ノ御
用度々被仰付乍気ノ毒時々御斷申上置候得共當
今ニ至テ諸方ヨリ御注文トモ有之然ル處毎度御斷
申上候モ御贔屓様ノ御用ヲ欠キ候段恐縮ニ奉存
俄ニ左ノ箇所ヲ借請仮ニ出店ヲ相開キ従前■モ
一層勉強仕リ精々廉価ヲ旨トシ來ル四日■販売
仕候間以前不変御愛顧ノ程伏テ奉懇願候
        会所町八番地
       ■  木村留吉
        東濱町十九番地
       旭橋つき當り
       ■  出店
(明治15年2月20日付函館新聞朝刊4面=マイクロフィルム、)




○去る廿七日開柘長官御帰京の際諸会社銀行
及び市民の重立たるものへ告示の主趣書取な
りとて得たれば左に掲く
拙者今般當地火災後ノ景況ヲ實見シ既二道
路改正家屋改良ノ議ヲモ決シタレハ本日ノ
便船ヨリ帰京セントス依テ一言スルコトアリ
凡ソ地方一般人民ノ幸福ヲ求ント欲セハ其
地方人民中ノ資力名望アルモノ同心協力公
益ノ事卿ヲ興起スルヨリ急ナルハナシ資力
名望アルモノニシテ一般人民二先チ土地ヲ
開キ物産ヲ起シ工業ヲ盛ンニシ或ハ海陸運
輸ノ便利ヲ謀リ或ハ資本貸與ノ方法ヲ設ク
ルコトアラハ果シテ一般人民二感覚ヲ與ヘ各
自業ニ励ミ生ヲ聊ンシ遂ニ地方ノ繁盛ヲ致
シ人民ノ幸福ヲ求ムルヲ得ヘシ當道ハ物産
富饒ニシテ戸口未タ繁殖ニ至ラス若シ戸口
ノ繁殖二從ヒ農産ヲ隆興セハ物産ノ出額今
日ニ幾倍スルヤ素ヨリ測知スベカラス其順
序方法ハ本使先二米国ヨリセ子ラルホーレ
シケフロン氏ヲ聘開拓顧問ト爲シ多年實
験シ爾來今日二至ルマテ教師ヲ海外ヨリ聘
シ夫々實験スル所アレハ本支廳二就テ之ヲ
審問セハ其利害得失自ラ明瞭ナルベシ依テ
開進会社ハ鋭意開墾牧畜二從事シ農具諸器
械及牛馬ヲ備ヘ農産ヲ増殖スルヲ要ス而テ
農産中第一地味ニ適當シ盛大ヲ期スベキモ
ノハ麻ナリ之ニ次クモノハ砂糖蘿蔔ナリ此
ニ種ヲ播種セハ一大國産ヲ増加スルヤ疑ナ
シ其他大小麦ヲ種植シ養蚕二着手スル等皆
地味ニ適當スルヲ以テ將來十分ノ出産ヲ期
スベシ牧畜ハ牛馬ニ止ラス綿羊ヲモ牧養セ
ハ利益不少ルベシ若シ綿羊拾万頭ヲ牧養セ
ハ其毛ヲ以テ我陸海軍兵士ノ服ヲ織製スル
ニ足ルベシ且ツ牧畜ヲ盛大ナラシムルハ牧
草ヲ改良セサル可ラス牧草ハ札幌七重ニ於
テ従来ノ雑草ヲ芟除シ更ニ種子ヲ播種試験
セシニ三年ニシテ雑草悉ク消滅シ播種セル
牧草ニ繁茂ス以テ改良ノ効験著名ナルヲ知
ルベシ然リ而シテ物産ノ増殖二從ヒ海陸運
輸ノ便利ヲ興シ内國ハ勿論海外迄モ容易二
輸出スル方法ヲ設クルヲ要切トス當道ノ海
運ニ付テハ三菱會社客年以來航海線路<略>
(明治13年1月31日付函館新聞朝刊1面、追加修正済み=マイクロフィルム、)




緬羊課職員(大正七年
      十二月調)
兼 課長心得 月田藤三郎
  事務官  小平権一
兼 技師
  農学博士 岩住良治
  技師   橋本徳寿
  仝 
  農学博士 片山外美雄
兼 技師   山脇圭吉
  技師   三浦正次郎
  仝    山田勝一
  属    岩井竹次郎
  仝    小島篤蔵
  技手   長崎渉
  仝    岸良一
  技手   坂田静夫
  仝    竹末要人
  仝    坂巻海三郎
兼 仝    豊島勝二
  嘱託   田制林之助
  仝    山本直正
  仝    谷邨一佐雄
  雇    富田耕三
  仝    笹本三千雄
  仝    樋口勇吉
  仝    吉田喜一郎
  仝    永野安蔵
  仝    福島友平
  雇    北島金之助
  仝    米野伊七
  仝    長谷川哲夫
  仝    宮下梅吉
  仝    石原重光
  仝    細田東一郎
 滝川種羊場
  場長
   技師  釘本昌二
兼 属    橋本慶治
  仝    金子迪徳
  技手   樋口敏郎
  仝    小田長助
  仝    竹ケ原利助
  嘱託   岡本正行
  雇    樋口典市
  助手   松井平蔵
 滝川種羊場月寒出張所
兼 属    金子迪徳
仝 技手   小田長助
  仝    斎藤信介
  仝    実吉吉郎
兼 雇    樋口典市
  助手   松沢耕三
 友部種羊場
  場帳
   技師  松岡忠一
兼 技師   山田勝一
兼 属    橋本慶治
  仝    福地誠助
  雇    小松崎安平
  嘱託   笠原甚太
  助手   山本新太郎
  仝    佐々木安世
  仝    日野善作
 友部種羊場千葉出張所
兼 属    山岡徹次
  技手   諏訪義種
 熊本種羊場
  場長
   技師  巻島得寿
兼 属    橋本慶治
  仝    高橋寛重
  雇    津田他多門次
  助手   相原禎門
  仝   沢田栄穂
 熊本種羊場大分出張所
  技手   上林芳太郎
  助手   伏見覚
  仝    渡辺桃人




○市内牛乳販売の近況  洋食と牛肉の景呪ハ
さきに記述せしが続きてこゝに記載すべきハ牛
乳販売の模様なり市中にて牛乳の営業者ハ目下
七重出張所。笹封。小林。石井。健全社。長谷川。鈴
木の七軒ゐて各家飼餐の乳牛ハ凱頭われ懸現今
日ー搾取るハ凡ろ四十頭渉ら搾取る乳量h一日
凡ろ七斗この七斗ハ即ち函館市中凡そ五万人の
人口へ振り撒くと一人につき五才四毛の点々滴
々たるもの真に金茎の露一杯も啻ならぬ有襟な
り扨一日七斗となすときハ一ケ月凡そ二十一石
この實価一合三銭とすれば六百三十圓なり朝ハ
午前三四時の未明より搾取にかゝり風雨炎天の
日と雖も日々三回宛市中の隅から隅。果から果
までこの七軒にて使雇する配達人二十七人が競
争奔馳して而して得るところ月に千圓に足らず
該営業もなか/\緩くなしといふベしこれにて
も前年に比すれば需用殆んど三倍に増加したる
なりといふこの末増加の望みハ十分多きに及ぶ
べき事勿論にて往末面白き営業なれば本業者ハ
つとめて夏牛を撰み飼料を撰みて夏牛乳を搾出
す事につとめなバ其需用ハます/\盛大に及ぶ
ベきなり
(明治20年9月15日付函館新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)




 當校生徒食用鹿肉火腿相製度候に付御地獲猟之品百股程御周旋御贈送相成間敷哉御都合出來候はば一応概略之代償被申越度乍御手数此段及御依頼候也
  明治十年一月            札幌農学校

勇沸分署大久保芳殿




明治31年7月26日付北海道毎日新聞2面
松井新四郎氏の談
 其時分は此辺は何処を見ても木許りでして鹿が沢山に居りましたか鹿と云ふものは五十も八十も一処に遊んで居りまして其内の一匹か番をして居ります人でもなんぞ怪しいものか見へれば其番の鹿が鳴いて一番先に逃出しますと外のか続いて逃げますか夫れもバラ/\になつては逃げません必ず一列になつて行くものです夫れも十月頃から四月頃までは札幌の平岸辺には居ないで皆んな下場所<しもばしよ>の方へ参つて居ります夫れは下場所の方は雪が少ないので笹なとか皆んな雪の上へ頭を出して居るので札幌辺はそうは参りませんので食い物の為に参る様ですそれ故下場所には鹿を獲るの稼業に致して居たものか沢山に居たものです


日付は書き忘れ
新妻清吉氏の談
 其後明治の六七年頃でしたか一時鹿をこの下場所で盛んに猟した事がありました其時は鹿の肉は実は売った同様でした、毎日牝馬を五頭宛連れて売りに参るものが三組も四組もあるのです、一匹の値段は其頃の一分位でした今の豊平の向ふの阿部与之助の処が其時分未だ彼れ程立派でなくて餅を売ったり盛切を売ったりして居たので彼の家が此下場所から参る鹿の問屋の様に後になりました彼所迄参って休んで居ると札幌の仲買が彼所で待って居る故商売ができる、後には阿部さんの店に宿って売って行く人もあり又阿部さんへ頼んで帰って行く者もあり阿部さんも是れが来ると札幌へ知らせに来ると言ふ様でしたから遂には鹿肉の問屋見た様になつて仕舞ひました。其内阿部さんも充分儲け出して今の様な紳士になって了ったのです。


日付は書き忘れ
深谷鐵三郎氏の談
 西洋料理は開拓使で横浜でコックを致して居た渡辺金次郎と言ふ者を雇って来たのが初めてで此人が二三人の下働きを連れて来まして東京から高位高官の方が御出張になる時に用度掛から此金次郎に命じて西洋料理を調進させたのです、今の豊平館の主人の原田さんもその時渡辺に付いて参った人ですが渡辺は極職人風で身持も善くないので其後東京へ帰りました跡で原田さんが遣って居て今の様な立派なものになったのです、此渡辺金次郎が帰ります以前に此人の設計で石狩に鮭鱒の鑵詰所が設けらました。此鑵詰所で製造致した品は三府五港は申すに及ばず処々へ輸出せられて一時は非常に盛大なものでした、仝じく渡辺の設計で勇払郡ビゞ村へ鹿の鑵詰所も出来ました、是も盛んに製造致しますが二ケ年程立ちます間に余り捕獲が烈しかった故か鹿の数が非常に減少して来たので遂に鹿の缶詰所は廃する事になりましたが実に残念な事です。然し此頃は鹿の捕獲は禁じられて居りますから再び盛んになる事も御座居ましせう、鹿のラカンも明治五六年頃には盛んに製造せられたものです、勇払郡苫小牧は製造庫が四棟も建築せられたので東京芝西大久保の薬種屋の倅で三枝吉五郎と言ふ人が製造を初めてので此人は幕府の軍艦快陽丸の火夫を致して居たもので後で岡田さんの所に使はれて居りました、この人は鹿のラカン許り製造ではありません、鹿の皮も製造致したので一時は実に盛んなものでした、苫小牧も今日では別に盛んな場所ではありませんが其時分は市等が建って中々盛んな所でした、斯様にラカンとか鑵詰とかを無暗に製造致したものですから沢山に居りました鹿も一時は全滅をする迄に至ったのですが残念な次第です。


明治31年8月21日付北海道毎日新聞2面
 深谷鐵三郎氏の談
 貸座敷の肴は何所へ行つても甘<うまとルビ>くないものに極つて居ますが別<わけとルビ>て此所は不味くて高い者でした夏の丼は通常生瓜の二本位の輪切か又は焼麩を水へ入れて大根下しに酢を掛けたので上等か越後梨の百合へき其れて通常か二朱上等は一分で魚類は増毛産物の塩鮑位を薄切りにして酢を懸け紅生薑<こうみようがとルビ>を振りかけ秋は例の秋味内地で云ふ鮭で是れも中落<なかおちとルビ>は打いて団子にし油て揚けて吸ひ種にし頭<ひずとルビ>は三盃<なますとルビ>にする正味は刺身にする臺鍋にする又照焼小串焼にすると云ふので一本の鮭は十円程になる夫れて刺身も満足には出来ないので屑か沢山出る是へ葱を少し入れて大平<おほひらとルビ>に使ふと云ふ始末ですから随分お笑草です冬は鹿の臺鍋で是もその時分前肢か二朱後肢が極高くて一分です夫れを少し許り臺鍋にして出すのが五十銭です是も前肢の一つもあれば幾十圓にもなるのです


明治31年8月14日付北海道毎日新聞2面
 深谷鐵三郎氏の談
 其内の臺鍋と云ふ字名の女が一番流行るので嫌がるのを無理に引張つて来て営繕の役所で一晩酒の酌をさせた事がありました此臺鍋と云ふのは其頃の大変評判な女でして大工土方の流行歌にカラ/\ガンと投げた臺鍋耳缺けたと云つて歌はれた者です斯様に評判者ですから定めて美女であらうと思ふと大違ひで其御面相は実は二度と拝めた者でなく其上片つ方の耳か無いので臺鍋と云ふ字名にもあり又流行歌も出来たので外の二名の方が余程お面相が宜かつたのです此評判は札幌許りでなく遠く東京まで聞へた者と見へまして其後越中屋が此の薄野へ引込でからも東京から諸役人か出張して薄野へ遊びに来る方は必ず此の越中屋へお出でになつて評判の臺鍋を出せと云ふので越中屋では真面目になつて手前方名物の臺鍋で御座ると云ふので鳥鍋鹿鍋を二枚宛夫れへ出したお客様は不思議な顔をして是れは已れの注文とは違ふ此家の名物臺鍋と云ふ別品か居るとの事だから夫れを出して貰ひたいと云はれる亭主良助是れには閉口をして其臺鍋なれは決してお目に懸る程の品物では無いお座敷へは出さない品物ですと断りに自身出る始末斯様隠されて見ると一層見たくなるのが人情でお客は何んでも出せと仰せられる底で止を得ないので其臺鍋が怪しけなるお面相へお白粉を塗つて赤い帯か何かで夫へ出るのでお客は二度吃驚り果は大笑となる事度々でした余り五月蠅いので越中屋の亭主良助も遂に臺鍋に亭主を持たしたので此度は大鍋が油鍋に出世をしたとて其頃大評判であつた夫れは薄野の今の丸西の隣りの所で髪結で森川と云うのを亭主にしたので油鍋となつた次第です




つつじの花の貧べ方

家庭菜園や庭を彩る花を観賞す
るだけでなく、美しい野菜とし
て食卓の味覚に加えることは、
あわたゞしい生活の中心のゆと
りを感じてうれしいものである
これから咲く花で食べられるも
のはたくさんあるが、どこでで
もたやすく入手できるつゝじの
花の食べ方を紹介しよう、花の
色はいろ/\あるが、真赤なも
のよりうす桃、白で大型のほう
が美味しいしビタミンCも多い
どちらも花の盛りをすぎた散り
ぎわになつて用いるこうした季
節のものの食べ方は、酢みそや
ゴマに和えるのが普通である。
花はやわらかいし、ビタミンも
あるから、熱湯をサツとそそぐ
程度にしておく、花を酢みそで
和える場合、余り甘くすると花
の香がなくなるから、普通みそ
五十cに砂糖三十c、それに酢
がサジ一ぱいの割合だつたら、
砂糖は三分の一の十cくらいで
十分である、その他スープに浮
かせたり、皿盛りに添えたりす
る方法もよいが、花せん(花せ
んべい)といつておせんべいの
中に焼きこんでもなか/\面白
く、殊に子供は大変喜ぶもので
ある、小麦粉をドロドロにとい
て塩味をつけ、フライパンにう
すく丸型に流し、外側がかわい
てきそうになつたころ、つゝじ
の花を開いてぺタンと押しつ
け、フライパンから上げぎわに
返してサツと焼く(女子栄養学
園上田フサ)
(昭和23年5月14日付夕刊北海タイムス2面=マイクロフィルム、)




猫のあれのやうに冷たくなつた鼻の頭へ、モ
ツのやめる匂ひが、さゝり込んでくる■■■
でこれからが焼鳥屋の天下である。モツやト
ンの味覚が冷たい舌にとろりとけて………か
もやラビツトのうまく喰へるのも
これからだ、アオジやツグミにか
はつてぼつ/\寒雀が登場して
くる。
  X   X
札幌に夜店を張る『焼鳥屋』は七
軒しかない……人口■十万を数へ
る本道の首都としては淋しい限り
である。
『一人で六十本(二円)喰つたのが
私んとこの最高です』
と焼鳥屋のおやじはいふ……札幌つ子のなか
にも嬉しいのがゐる訳だ。売りあげは又の借
りになり、一軒で一晩に十四、五円は■■…
  X   X
焼鳥屋はまた冬を讃へる商売ではある
(昭和11年11月13日付北海タイムス夕刊2面=マイクロフィルム、)




○函館の洋食并に牛肉類   社友に洋狂とい
ふ先生あり此人の行粧<みなりとルビ>を見れば洋服を着ず此人
の言葉を聞けば洋語をつかはず勿諭洋航をせし
といふ事も聞かず然るに洋狂とハ不適当なる異
名なれどこの人平生の所論によれぱ洋服の如き
ハ皮相の洋風なり夫れ皮相の洋風ハ内部の洋風
に及ばず故に縦洋服ハ着ずとも洋語ハつかはず
とも肉食で其肉其血其骨其筋其内部を洋風にす
るに如かずと凡そ函館中の肉食店のコツク、ポ
ーイハこの人の知已ならざるハなしといへり此
人所説の是非ハ素より記者の保証する所にあら
ず今この人に就て當市中の洋食店并に牛肉類
の近呪を知るの便を得たれば左に記載す
函館市中洋食店の數ハ凡て六軒あり船場町養和
軒ハ其家屋も洋風にて部屋の都合もよく玉突場
もあり割烹ハ多年熟練なる支那人の手になるを
以て風味なか/\によし其用ふる野菜菓物ハ直
ちに香港上海横濱より取よせ珍味多く十一月よ
り翌年四月に至る菓物払底のときと雖もパイナ
ロなゆののロるゐたぼじのなのしよぼごなぼりリ
ツプ。林檎。胡瓜 類を卓上に見る食后菓物の
珍ハこの家の得意とする所なり汽船乗組員諸會
社員等の來客多し○富岡町町會所及び公園内協
同舘ハ共に金キ印の管理する所の料理にて割烹
の風味も優等なるものとす其家屋ハ素より第一
等とすべし殊に町會所ハ大勢の客をなすに宜し
く協同舘ハ其座敷の風致もあり園遊會の如き催
ふしをなすにハ頗る相適せり來客ハ両館とも
其食室のうち官吏紳士の列坐せるを見ざることな
し○末廣町五島軒ハ其家屋ハ日本構造なれば日
本坐敷として見れば床間違ひ棚頗る上等の家な
れど食卓椅子を陳列してハ天上低く何となく頭
のつかへる心地せらる去れど清潔なると且つ場
所柄ハよし開業以來贔屓の客多し割烹に一層注
意なさば更に妙なるべし其他大町保養軒富岡町
万養軒ハ安直を以て評判高し其外日本料理店に
て近來西洋料理と一二品加へざるハなしと雖も
要するに餅屋ハ餅にあらず市中牛肉の売捌を営
業とするうち屠牛場を所有するものハ森亀小沼
健全肚。堀田。小林の五店にて共同社と称する屠
牛場ハ則ちこの五店の聯合設立に属するものと
す其売捌高ハ昨十九年ハ凡そ一千頭なり此ハ同
年コレラ病流行で魚類を用ふるもの少なく人々
争つて肉を使用せしゆへなり本年ハ未だ精算ハ
出來ずと雖も十九年に比しで大なる差なるべ
しこれハコレラ病の流行らぬ代り外國軍艦の入
港ハ先年より繁く大に其需用を増加したり扨小
売店の数ハ凡そ四十戸もあり冬期に至れば氷店
化けて販肉店となるの類もあれぱ凡そこの倍數
に至るべし牛の産地ハ多く南部産にて上等一頭
(凡そ三百斤)二十五圓なり市中小売ハ一斤中等
十八銭上等二十五銭とす追々冬期に及べハ例の
神戸の上等肉も輸入するゆへ風味よきビーフス
テキを食卓上に嘗むるに至るべし○鶏并に玉子
ハ地回りものハ僅々にて多くハ津軽地方より輸
入すこの輸入高ハ追て調査すべし家鴨も同じく
津軽地方より輸入物なり七面鳥ハ横濱より輸入
するが是ハ大會か若くハ新年抔の祝ひのときな
らでハ需用なきゆへ値貴く上等雄鳥二圓五十銭
同雌鶏一圓五十銭下等ハ八十銭ぐらゐ近來ボツ
/\市中にて飼養するものあり料理に用ふる野
菜類ハ多く森亀と永國橋金キにて売捌く北海道
の産物にて地味に適し横濱へまで輸出する洋食
用野菜菓物ハ札幌産の西洋種梨子林檎玉葱赤茄
子砂糖大根。キヤベツ。馬鈴薯。牝羊の各種なり
と聞けり
こゝに一般に洋食店に望むところハ其料理の鍾
類かへ風味を常に変化しいつもビーフステキ。
カツレツの陳套に流れず又其器物の掃除をよく
しガラス類の曇りなき様ナイフ。フヲークの錆
なき様に注意し勉めて客の嗜好を導かば來客も
一層満足すべし
(明治20年9月14日付函館新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)




      ○
 烤羊肉を食べる時に用ゆる酒類は、随意であるが『白乾兒』
即ち『燒酒』を用ゆるのが本式である。『紹與酒』の如き、アル
コール分の少ないものは、淺酌にはよいが、この痛快極る料理
には絕對に不向きである。價の廉なるがために、燒酎を用ゆる
と見るのは非常に誤つて居る。前掲の靜亭主人も『雪天爭得醉
燒』と歌つて居る。この『燒刀』といふのは、俗に『燒刀子』
といつて燒酒の別名である。燒酒が、其の辛辣なる點に於て、
恰も燒刀を嚥下するが如しといふのでこの稱があるのである。
 それから、烤羊肉を食べる際に於ける燒酒の飲み方は、盃に
注いてはならぬのである。「酒壼』を片手に握つた儘に飲まねば
ならぬ。一體支那の酒壷なるものは、徳利の上に盃を載せたも
のを合併して出來あがつたものである。否、元來の酒壺が日本
に傅來して、日本人が之を上下に引分け、徳利と盃とを作つた
ものであると思ふ。
 支那には徳利が二種ある。一は原始的な盃と徳利とを一儲に
したものと、一は日本でいふ銚子型のものである。紹興酒など
は銚子型の酒壷に入れるから、當然別に盃を用ゐなければなら
ぬ。燒酒は前者に入れて出すから盃を用ひずして飲むのが原則
である。
 考證は兎に角、満を引いた酒壼の白乾兒を口にすれば、白居
易ならねども『燒酒初開琥珀香』で、樹脂の香氣が、鼻を衝い
て來る。書いて居てさへ、喉がグウグウと鳴る。況んや、烤羊
肉の至昧に於ておやである。
      ○
 日本に於て原始的料理としで遺つて居るものに、水に因んだ
ものでは『刺身』があり、陸に因んだものでは『鋤燒』がある
海中で漁りたての儘で章魚を食ひ、山野に於て獵師が鴫の杉皮
蒸しを賞味する等のことは、皆原始人の料理に外ならぬ。
 ビスマークがウイルヘルムカイゼルを朝食に召いた時、ボイ
ル、エツグの『鴫の卵』を皮付の儘にホークを突差し、ナイフ
でポリポリ切つて食つたといふのも、原始的料理を味つたので
ある。
 要するに、料理の根本は『獵料理』に始まるといつてもよい
然るに『獵料理法』は、日本に傳つて無い。支那といへども同
様である。明治大帝の御膳に、初めて鶉の卵を供へ奉つたとい
ふ小田厚太郎氏は獵料理の研究家で、民間ではちよつと手の附
け難いこの研究を、宮中に於て行はなければならないと主張し
時の主獵官の容るる處となつて、今ではこれが宮中で保存され
つゝあるとか聞いて居るが、其の後どうなつたか知らぬ。
 支那に於ける原始的料理として著名なる所謂『成吉思汗料理』
を最初に日本に傳へた、濱のや主人富山榮太郎君は、この點に
於て日本に於ける支那料理界に一つの功績を遺したわけである。
(食道楽社編「食道楽」第5年10号2ページ、昭和6年10月、食道楽社=原本、)




公開実用  昭和53―3768
<3000円の印紙>
   
   実用新案登録願()
   
   特許庁長官 片山石郎殿   昭和51年6月28日
    
1.考案の名称 ジンギスカン料理用鍋装置
2.考案者
  住所
  氏名    }実用新案登録出願人に同じ
3.実用新案登録出願人
  住所(居所)東京都武蔵野市吉祥寺東町2−34−2
  氏名(名称)松井統治
4.代理人 住所 東京都千代田区内幸町2−1−1(飯野ビル)〒100
      電話 東京(502)3171(代表)
      氏名(6069)弁理士 瀧野秀雄
5.添付書類の目録
  (1)明細書     1通
  (2)図面      1通
  (3)願書副本    1通
  (4)委任状     1通
  (5)出願審査請求書 1通
             
   明細書
1 考案の名称
   ジンギスカン料理用鍋装置
2  実用新案登録請求の範囲
  少なくとも2本の受汁筒を周側板部に着脱自
 在に設けた熱源用ハウジング本体と、前記の周
 側板上に載置される鍋本体より成り、その鍋本
 体の焼板部をして、周辺部より中央部に向つて
 漸次と肉厚に且つ弧状に隆起させ、又上部に数
 多の溝を放射状に設け、更に焼板郎の周辺なる
 末端部に前記の受汁筒と連通する排汁孔を有す
 る受汁溝を設け、焼板部の中心部に排気口を穿
 ち、且つその排気口と連通して四周方向に排気
 される排気孔を頂板によつて形成して成るジン
 ギスカン料埋用鍋装置。
3  考案の詳細な説明
  本考案はジンギスカン料理(カオヤンロー料
 理〔烤羊肉料理〕)用の鍋装置に関し、更に詳
 細には熟源用ハウジングと鍋より成るジンギス
 カン料理用鍋装置に関するものである。
  ジンギスカン料理とは、元来がカオヤンロー
 料理のことで、即ちジンギスカンが雪原での戦
 いに際し、軍勢の志気を鼓舞するために、羊の
 肉を焙り焼きにして食させた伝説にちなんで、
 我が国で称呼させるようになつた名称であるが、
 今日に於ては羊肉のみならず、牛肉及びその他
 の肉類並びに生しいたけ、ピーマン等の野菜顛
 も材料として使用され、又これが特殊の鍋で焼
 かれている。
  そして、今日使用きれているジンギスカン鍋
 の一般的形状は、周辺部より中心部に向つて弧
 状に隆起し、これに数多のスリットが放射状に
 穿たれ、且つ周辺部に汁受用の環状溝が穿たれ
 たものであつた。しかしこの様なものに於ては、
 そのスリット部に当る個所が直接火焔で焼かれ、
 為に焦付いたり不均一なる焼上りとなつたりし、
 これを防止するには頻繁に反転したり移動した
 りするの要があり、又頂部及び頂部に近い個所
 が周辺部に比し余計に加熱され、即ち均一なる
 加熱が得られなかつたものである。
  本考案は叙上の点に着目し、前記の如き不都
 合を排除すると共に、更に之に新規なる効果を
 付与したもので、即ち本考案の目的は、こげつ
 きを防止し、且つ均一に加熱され、鍋のどの部
 分に於ても良好に焼き得るようにしたジンギス
 カン料理用鍋装置を提供するにある。
  又本考案の他の目的は、料理に際し肉類その
 他より生じた汁を受汁溝を介して受汁筒に受け、
 必要に於て、その受汁筒を取外すことにより簡
 易に廃棄出来るようにしたジンギスカン料理用
 鍋装置を提供するにある。
  更に本考案の他の目的は、熱源用ハウジング
 を設けたことにより熱効率が良く、又スリット
 が存しないことにより汁が熱源に滴下したりす
 ることがないジンギスカン料理用鍋装置を提供
 するにある。
  次に上記の目的を達成し得る本考案の一実施
 例を図面について詳細に説明する。
  (a)熱源用ハウジング本体を示し、大別して
 底板(1)と、この底板(1)の上部に連接する周側板
 (2)より成り、その底板(1)の中央には吸気口(1a)
 が形成され、裏面には複数の脚(1b)が一体に形
 成されている。又底板(1)の上面にはガスパーナ
 ーの脚部を係止するための溝(1c1)を有する係
 止用突起(1c)が底板(1)と一体に形成されている。
  周側板(2)の前面にはガスバーナーの基管部を
 挿入するための開口部(2a)が形成され、外側の
 少なくとも2個所には縦凹陥部(2b)が曲折板部
 (2c)により構成されている。又その曲折板部
 (2c)には係止溝(2c1)が設けられている。
  (b)は鍋本体を示し、大別して焼板部(3)と、立
 上り縁板部(4)より成り、この両者間に環状の受
 汁溝(5)が形成されている。焼板部(3)は周辺部よ
 り中心部に向つて弧状に隆起され、その中心部
 には排気口(6)が形成されている。又排気口(6)の
 外周縁部には数片の突片(7)が設けられている。
  更に焼板部(3)には数多の溝(3a)が放射状に穿
 たれると共に、この各溝(3a)の末端部が前記さ
 れた受汁溝(5)に連通されている。又焼板部(3)は
 中心部が厚くこれより周辺部に至るに従つて薄
 く、換言すれば周辺部が薄く中心部が厚く構成
 されている。尚受汁溝(5)には少なくとも2つの
 排汁孔(5a)が穿たれている。
  (8)は受汁筒、(9)は頂板を示し、その受汁筒(8)
 の一側には掛止板(8a)が形成され、この掛止板
 (8a)が前記されたハウジング本体(a)の係止溝
 (2c1)に引掛けられ、又この引掛けられた状態
 に於て筒部の一側が縦凹陥部(2b)に嵌合するよ
 に構成されている。頂板(9)の裏面には環状縁
 (9a)が形域され、之が前記された突片(7)上に載
 せられた時に環状縁(9a)が突片(7))の外側に位置
 され、之により頂板(9)が脱落しないようになつ
 ている。又頂板(9)の載置により各突片(7)間に排
 気孔(11)が形成されるようになつている。尚鍋本
 体(b)の裏面には、環状凹段部(11)と少なくとも2
 個の突起(12)が設けられている。
  叙上の構成に於て、熱源用ハウジング本体(a)
 の底板(1)上に都市ガス用、液化ガス用等のガス
 バーナーを載せると共にその基管部を周側板(2)
 の開口部(2a)に入れ、又ガスパーナーの脚部を
 係止用突起(1c)の溝(1c1)に嵌める。(斯くす
 ることによりガスバーナーは熱源用ハウジング
 本体(a)内の所定の位置に安定して保持される。)
 次に各受汁筒(8))の掛止板(8a)を前記の如く係止
 溝(2c1)に引掛け、次いで、鍋本体(b)の裏面な
 る突起(12)が受汁筒(8)内に入る状態に於て、環状
 凹段部(11)の内側を周側板(2)の外側に嵌合する。
 しかるときは受汁溝(5)部に穿たれた排汁孔(5a)
 が受汁筒(8)と合致する.このようにして準備を
 完了し、ガスパーナーを点火して調理に入る。
 そして、ガスパーナーの燃焼に従lい、外気は底
 板(1)の裏面に設けられた複数の脚(1b)間より吸
 気口(1a)を介して吸気され(注、ガスバーナー
 の基管部が入れられた開口部(2a)よりも吸気さ
 れる。)火焔は鍋本体(b)の焼板部(3)に当るが、
 この際、火焔は大むね焼板部(3)の中央部に多く
 当り、周辺部は之より少なく当る。(注、市販
 のガスパーナーのノズル孔の構成及び焼板部(3)
 が周辺部より中心部に向つて弧状に隆起された
 形状等と相俟つて)従つて、従来のこの種鍋に
 於ては中心部が強く加熟され、周辺部に至るに
 従つて加熱が弱くなるが、本考案のものによれ
 ば、その焼板部(3)は中突部が厚く周辺部に至る
 と薄くなるように構成されていることにより之
 が略均一に加熱される。そして熱気を含む排気
 は排気孔(11)を介して排気されるが、この際頂板
 (9)を有することにより排気孔(11)より出でた熱気
 を含む排気の一部は焼板部(3)にも当り、之によ
 り肉類及びその他の調理用品は上面よりも加熱
 される。又肉類等は従来の如ぐスリットを存し
 ないことにより、限られた一部に直接火焔が当
 ることがなく、従つて均一に加熱される。更に
 又調理に際し出でた汁は溝(3a)から受汁溝(5)、
 排汁孔(5a)を介して受汁筒(8)内に流下する。又
 受汁筒(8)内に溜つた汁は之を取外しそ廃棄され
 るものである。
  而して、本考案は少なくとも2本の受汁筒を
 周側板部に着脱自在に設けた熱源用ハウジンク
 本体と、前記の周側板上に載置される鍋本体よ
 り成り、その鍋本体の焼板部をして、周辺部よ
 り中央部に向つて漸次と肉厚に且つ弧状に隆起
 させ、又上部に数多の溝を放射状に設け、更に
 焼板部の周辺なる末端部に前記の受汁筒と連通
 する排汁孔を有する受汁溝を設け、焼板部の中
 心部に排気口を穿ち、且つその排気ロと連通し
 て四周方向に排気される排気孔を頂板によつて
 形成して成るから前記の如き所期の目的を良く
 達成し得られるものである。
4  図面の簡単な説明
  図面は本考案に係るジンギスカン料理用鍋装
 置の一実施例を示し、第1図は平面図、第2図
 は一部を縦断した正面図、第3図は熱源用ハウ
 ジング本体の平面図、第4図は同上の一部を切
 欠した正面図、第5図は受汁筒の側面図である。
(a)……熱源用ハウジソグ本体
(b)……鍋本体
(2)……周側板
(3)……焼板部
(3a)…溝
(5)……受汁溝
(5a)…排汁孔
(6)……排気ロ
(8)……受汁筒
(9)……頂板
(11)…排気孔




◎吉原食話(一)

沿革の、考證のと、とりたてゝ穿鑿すべきカキモノではない。又そんなオツクー
な亊は、此種のものには、いらの詮議である。たヾ家庭づくめの献立中に、コン
ナ縄暖簾式も、却て新春のお慰みだろうと、順序なく筆をつけたのである。

   ●臺屋及びその庖人
▲今の臺屋は昔は喜の字といつたそうである、これは小田原屋
喜右衛門といふ者始めてこの業を創めたから此名が起つたので
ある。志かし往時は啻だ小店だけの要求に藉られたのであるが
現今では樓の大小に関せず皆客の食物は此臺屋の手を待つので
ある。臺の物とは料理に限らず、鮓、蕎麦、菓子、水菓子、氷
汁粉。何んでも臺と呼んで這入るのである。
▲臺のものは其分量の多寡に依つて、並臺、大臺、並三と区別
する。それで並臺は拾弐銭五厘(原価六銭弐厘五毛)大臺は弐拾
五銭(原価拾弐銭五厘)並三は参拾七銭五厘(原価拾八銭七厘五
毛)と云ふ相場で、貸座敷から臺屋へ注文する時には、臺札と
称へる小さな木札に自樓の焼印を押したもの(並臺、大臺は札
に区別がしてある)を廻し、臺屋では此木札と引替へに翌日勘
定をする。それで臺の物を数へるに一枚二枚と唱へる。並三と
は並臺三枚の謂はれで、一枚一本といふのは並臺一枚に酒一本
を添へるからである。又デモ臺と云ふのは、客より料理の好み
がなく「何んでもいゝ」と言はれた時通す臺の物を指して呼ぶ
略語である。
▲廓内の臺屋は沢山あるが、先づ濱田、鯉松、八百三、魚富士の
四軒が大臺屋といふ顔である。
▲臺屋の料理は極く粗雑で、簡易で、従て季節のもの、走りも
の等を遣ふ献立の苦労はいらぬわけである。肴の如きも章魚が
臺屋の親玉であつて(芝居弁当の烏賊に於ける如く)此一品を
いろ/\に変化して、他は揃はぬ乍らドーニカ生活てゆかれる
に徴して其程度が解決される。
▲志かし昔の料理は安物ながら相応に一寸したものも出したら
しく、一九の「倡売往来」にある喜の字屋の書付を見ると、
 喜之字屋之書付者金平牛房照鰯荒布油揚煑付小肴骨煑附其外
 山海之魚鳥硯蓋玉子烏芋蒲鉾河葺漬蕨 鉢肴五餘魚煑附新生
 姜丼蕗焼豆腐鮓牛房独活蓮根烏賊辛螺木之芽槽吸物結残魚蛤
 煎葉或者味煮鯛麺葛掛等居続之注文也云々(原書の儘)
これで百年前の献立が略知られる。
▲臺屋の職人は普通町職人の如く品川町辺からは這入らぬので
その親分は島田屋と云ひ、此家一手で入れるのである。料理人
と云つても立場茶屋か、高が仕出屋位ひの手腕があれば(却て
立派な者は臺屋には用立たぬ)結構間に合ふので、其給料の如
きも、可成の處で拾参四円位であるから庖丁の精粗は論ずるだ
け野暮である。しかし調理法が極く気儘にゆくのと、頭を痛め
る注文も来ない處許りではなく、博奕が公然うてるのと、女が
自由に買へる特件があるので、結句給料の多寡に係らず放逸三
昧に身を處して、一度び此臺屋に這入つた者は、容易に廓外に
転ずると云ふ事は無い。
▲ところで、又古書採録の癖が出るが、寛政時分には、まだ此
臺屋として単独の店はなく、妓楼では皆自家に料理番を抱へた
と見へ、京傳の『青樓昼の世界』(寛政三年版)に
 又こちらの庭には山の宿からくる出入の魚屋、半臺を持込み並べ、傍に料理
 番の文助カルサンをか履き立て居る、下料理番の源七もおる、大黒柱のキハ上り
 亭主喜左衛門指図して居る、(魚屋)コリヤおめほさん、いゝ鰺で厶り升、
 生麦でなくつちあ斯様丈長はとれません(喜)文助吸物肴はそれでいゝか
 (文)ハイ、生貝は皆女貝だの、是つアいゝ地鮃だ(魚)いゝ魚で厶り升(源)旦
 那さん生海鼠もちつとお買んなさりまし(魚)此生海鼠は榎堂で厶り升(以下略)
と出で、よく当時の有様が写してある。
▲臺の物を西洋皿に盛つて侑めたのは明治十九年揚屋町の山田
樓が嚆矢で、当時之れに杉箸を添えたと云ふ話である。コーく
ると岩村教授(透氏)の「洋食に銀の箸用ゆべし」と云ふ説も復
活して見たくなる。
   ●引手茶屋の食物
▲化政から天保へかけては、吉原が一つの社交倶楽部のやうに
なつて、当時の御留守居や、通人連が、吉原に顔の売れぬのを
恥と心得た位であるから、是等鑑舌に精しき通客が多く出入し
た茶屋(廓語では引手の二字を略して呼ぶ)の包丁は極めて発達
して、その庖人は巨費を投じて品川町から俊を選抜して当てた
そうである。
▲此の風習は、つい先き頃まで残つて、予が幼少の折、山口巴
で河東節の巡講の際、よく妙つなものを出したと記臆された。
▲現今では、茶屋の二階で芸者を揚げて、それなり直ぐ帰る通
客が絶えたから、茶屋の出し物もイタク落ちて、料理番を抱へ
る家も皆無で、貸座敷同様、臺屋へ注文して膳を出すやつにな
つた。
▲ところで、そのお誂物即ち献立の見計ひは、皆茶屋の姐さ
んが適宜にするので、女中の各自嗜好品がいつも客膳に侑めら
れるといふ次第である。お客たるもの甚だ意気地が無いやうに
見えるが、実は登楼して遊蕩するのを主とするのであるから、
勢ひ茶屋の食物の如きは「何か見つくろつて」と命じてスマせる
風になつて来る。女中の専権は一面から観ると蕩客の舌の破れ
た證故である。
▲茶屋のお誂のうちで最も出されるのは鳥類と鶏卵で、吸物、
鍋類、イリ鳥、玉子焼、焼鳥と種々に変化される。これは場所
柄で滋養品と云ふ点で歓迎されるのであるが、あまり感服し
た料理法ではない。
▲引手茶屋に遊び居て芸妓でも連れ、濱田とか、金子とか、す
べて外へ出て飲食すれば、その食店では必ず勘定の外一割を多
くお客に請求する。此一割は月末に一括して、食店から茶屋に
払う約束である。即ち茶屋は此一割のハネを自れの所得とする
のである。
(有楽社編「月刊食道楽」2巻1号50ページ、明治39年1月、有楽社=館内限定デジ本、)

 念のため十返舎一九の料理のふりがなを書き出しておく。例えば荒布と油揚煮付けと分けたが、一緒に煮付けたものかも知れない。

金平牛房 きんぴらごばう
照鰯 てりごまめ
荒布 あらめ
油揚煑付 あぶらげにつけ
小肴骨煑附 こざかなあにに
其外
 山海之魚鳥硯蓋
玉子 たまご
烏芋 くわゐ
蒲鉾 かまぼこ
河葺 かはたけ
漬蕨 つけわらび
 鉢肴
五餘魚煑附 かれいにぴたし
新生姜丼 しんせうがどん
蕗 ふき
焼豆腐 やきとうふ
鮓牛房 すこばう
独活 うど
蓮根 はす
烏賊 いか
辛螺 さヾゐ
木之芽槽 きのめあへ
 吸物
結残魚 むすびぎす
蛤 はまぐり
煎葉 いりは
 或者
味煮 うまに
鯛麺 たひめん
葛掛 あんかけ




列伝体/明治幌都<横見出し>
   花柳史(三)

  ▽改まる所が御愛嬌横になつて
   秋の夜長に読んで下さるへし
  
  岩崎粂三郎

北一條西四丁目に丸新旅館といふがある
其先代は岩崎粂三郎で粂三郎明治三年に
請負師とし來札し岩村大判官が薄野創
設後真開楼といふ妓楼を開いた後貸座敷
の取締となり十一年に消防第三番組に組
頭を勤め勢力あり其後昇月楼主田中イソ
子等に図り今の三等小路を開いた三等妓
楼創始は岩崎の力大きに依るので粂三郎
は氣骨稜々侠客として聞ひた男だ後妓楼
を廃め北一條に旅館を開いたが丸新とい
へは誰知らぬものもなかつたが侠名を残
して四十四年終に病死して黄泉の客とな
つた

  侠骨中川良助

今の劇場大黒座は元千代富座といつた其
以前は妓楼で越中屋といつた大籬たつた
楼主は中川良助といつて富山市の売薬商
で明治四年に来札し請負師中川源左衛門
水原寅藏と交りを厚くし五年薄野に秋田
屋と共に妓楼を開いて頗る繁昌を極めた
が良助は非常の勢力を有し岩村大判官の
寵を受け五年「御用火事」の時水原寅藏、
長谷川幸太郎等と川中組といふ消防組を
組織して万一の危急に備へた是れ札幌消
防組の嚆矢である良助は頗る勢力家とて
其頃花柳の粋客として名のあつた水原寅
蔵氏(有名な水原林檎園主)を水原々々と
呼び流して居つた位で消防中川組成るや
第一番組は水原、第二組は大岡助右衛
門、第三組は亀田平三郎であつた良助
は是等の人々を取締つて侠氣に富み越中
屋といへば飛ふ鳥落す勢ひだつたが明治
十一年自ら火を失して同楼を焼尽せしの
みか自身も終に五十二歳を一期として焼
死し絶家同様になつてしまつたが併し良
助の侠骨稜々たる逸話が今日尚傳はつて
居る

  高瀬和三郎

札幌の見番組織の嚆矢者は高瀬和三郎が
和三郎は秋田県旧大館藩士で天保元年生
れだ明治元年雑役人夫として箱館戦争に
渡道し函館に居を定め千軍万馬の間に往
来して相応に金を溜め同四年札幌に開拓
令下り移民奨励を図つた時和三郎卒先し
て札幌に來て請負の群に入り五年七月薄
野に妓楼北海楼(今の大田楼)を開き繁榮
を極め少なからぬ貯蓄をしたので根が士
族上りの男とて早くも平岸村に苹果園を
造り北海楼は金子定義に譲り和三郎は又
夕張角田村に水田を作つた明治廿三年時
勢の変遷を考へて茲に薄野見番といふを
組織し万事は時の勢力家花月楼主笠原文
司に任した是れ札幌に於る藝妓見番の嚆
矢だ又廿九年此見番と別れ寺尾秀次郎と
新見番(今の札幌見番前身)を組織し薄野
見番は旧見番(今の元見番)と称へたが去
る四十一年七十九歳の高齢で病死した因に
北海楼は金子より横山晋之助に譲り長谷
川楼と改まつた委細は長谷川楼の件に述
べやう
(大正元年10月16日付北海タイムス4面=マイクロフィルム、)


列伝体/明治幌都<横見出し>
   花柳史(四)

  ▽改まる所が御愛嬌横になつて
   秋の夜長に読んで下さるへし

  長谷川楼沿革

今回太田楼と改称せし元の長谷川楼の祖
は生ツ粋の江戸ツ子長谷川幸太郎といひ
嘉永二年江戸深川に生る青年時代より鳶
の群に入り身体一面の文身をなし居たる
より明治に入りて夏冬とも襯衣に身を包
み居たり明治四年頃渡道札幌に來り五年
中川良助等と消防組を組織して第三番組
々頭となり次で南五條西四丁目角(今の
西花楼のところ)に妓楼を建て長谷川楼
と命名して営業を継続し居りしが十一年
千代富座主(今の大黒座前身)池田新太郎
氏の依頼にて同座の支配をなし後遊廓座
と名く長谷川楼は横山晋之助に譲り晋之
助は石狩町の金澤キセといふを妻となし
キセは同楼の女将として大に活勧し居る
うち十八年長谷川幸太郎は卅七歳を一期
として病死し遊廓座は若狭謙吉氏支配し
次で同氏之を譲り受け大黒座と改称し十
万円に近き資産を作り四十五年春死亡し
又長谷川楼主横山晋之助は北海楼の跡へ
移転営業せしも十数年前死亡せしより未
亡人キセ活躍して大に長谷川楼の名儀を
上げしが後都合ありて實家金沢姓に復し
営業は依然継続し居たるも大正元年九月
に入り同楼を内實岡部金四郎に譲太田楼
と改称しキセは名のみの楼主となりたり

  寺尾秀次郎

新見番主として永く同見を維持し後料理
組合に譲りし今の札幌見番を作り上げた
る秀次郎は天保七年安房天津村に生れ十
一歳にして江戸日本橋の某油問屋へ奉公
に来りしが少年時代より覇気に富み十九
歳にして宮城縣水沢町の伯楽佐藤氏方に
仕はれ安政四年廿二歳にして來道松前城
下より函館に渡り馬商人となり維新當時
函館戦争の間に奔走し明治三年兵部省の
御用にて來札し請負業に従事し居るうち
同年札幌神社地堅めに東京二段目の寄附
角力を呼び興行す是札幌角力興行の始め
なり同年四月今の製麻會社の下方に一戸
を建て俗に秀次長屋と名づけ秀次郎指揮
の下に今の同會社下方より篠路に出る現
在の創成川五十六町を掘鑿し一時之を寺
尾堀と命名したり同六年刑法係(今の警
察署前身)の探偵となり四年間奉職し十
年都合ありて石狩町に移りしが東京より
阿部権四郎同町に來り寺尾と交はり深く
後権四郎は石狩を縄張とし侠名高く石狩
町の角権といへば誰知らぬものなく又寺
尾は廿九年札幌なる北海楼主高瀬和三郎
の依頼にて一見番を組織し新見番と名く
後西の宮主人と石狩の角権と三角同盟を
作り黒清(今の角松女将)小蝶(後松寿と
改め今の札見取締)小福(今の町見番主)
等を出したるが四十二年寺尾は新見番を
料理店組合に譲り札幌見と改称するに
至りたるなり
(大正元年10月20日付北海タイムス4面=マイクロフィルム、)


列伝体/明治幌都<横見出し>
   花柳史(五)

  ▽改まる所が御愛嬌横になつて
   秋の夜長に読んで下さるへし

  松本彌三郎

俗に御用女郎東京楼と呼れたは東京府
下品川駅に妓楼港屋を開き居りし人、岩
村大判官が開拓使繁榮策の一として御用
達江阪といふに命じ港屋楼主松本に談じ
札幌行を約し松本は明治五年六月家族娼
妓一同を引連れ來札し今の新善光寺附近
へ二階建妓楼の新築をなし六年二月開業
の運びに至り束京楼と命名せしが見世張
は十各計りの娼妓が襠衣姿髪飾りまで凡
て吉原風にせしより人々はコワ珍らしと
て同楼は非常の繁昌を極めたりと而かし
て  娼妓雇入金 は開拓使
より凡て  支出し娼妓の年期
証文  は開拓使に納めあるなど日本開
闢以来珍らしき事といふべく人東京楼を
呼んで  御用女郎屋  といふに至
る彌三郎は明治十六七年頃死亡して後一
家断しが如く今は松本の血統何れにあ
るや殆んど不明となり居れり

  後藤彦右衛門

今の東京庵老女将の夫は後藤彦右衛門氏
といひ天保九年東京に生る今の老女將は
タヨ子といひ天保十四年埼玉縣大和田町
金島長右衛門の長女に生る彦右衛門氏は
父と共に日本橋区に蕎麦屋を営業し居り
交久元年廿四歳の時タコ子と結婚し明治
四年今の東京庵主人_太郎氏を生む翌五
年開拓使岩村大判官の命にて御用達江坂
氏の勧めにて前記妓楼東京楼主よりニケ
月遅れ一家來札暫らく南一條西四丁目西
角に住ゐ南二條西四丁目に新築し翌六年
三月開業し御用料理店と呼びたるは今の
東京庵にて當塒は蕎蓑屋兼料理店を開き
しが室数は僅に五室なりし又來札當時は
既に蕎麦粉流山の醤油大坂酒蕎麦道具料
理道具一切を東京より仕入れ來りしにて
開業の日戸外に大坂樽と醤油樽の積樽を
なしたるが是札幌に於る積樽の始めなり
又登楼する客山をなし黒田長官、判官、監
事も會飲し其頃粋客と知られたる水原林
檎園主水原寅蔵氏も屡々登楼し頗る繁昌
を極む後追々普請を増し三層楼を造り室
数を殖やせし上東京より屡々藝妓を仕入
れ來る中にも奴といふは同楼自慢の名妓
なりし後デコ桃と綽名の桃太郎お幾(今
の幾代女将)つや(某辯護士の前夫人)お
千代(今の八千代)等を出せり然るに廿五
年五月四日大火に罹り高楼悉き焼失せ
しも直ちに新築せしが彦右衛門氏は此前
後に死去す_太郎氏の代となりて業務益
々拡張廿五年十二月東京市京橋区岡崎町
鈴木新平氏長女マサ子(明治九年生)を娶る是
ぞ今の若女将なり_太郎氏は曾て区會議
員の公職に居りし事あり札幌料理店組合
取締となり後組合員と図り今の札幌見番
を組織し昨年同楼の大普請をなし札幌料
理店の老舗として恥かしからぬ新築をな
し大正に入り北海道料理店組合組織の先
頭となり多分同組合の総代たるべしと父
子共に花柳界に努めたるものといふべし
因に札幌に於る眞の料理店の嚆矢は今の
南一條西一丁目田中重兵衛氏裏手の滄海
楼(今の下宿屋)にて次にあらはれしは弥
生楼寿し金等なりし又札幌に於る劇場の
始めは明治五年今の西本願寺五丁目へ秋
山座を建設せし秋山久藏と云が始祖なり
 次は尤も波瀾の多き花月楼主笠原文司
(大正元年10月23日付北海タイムス4面=マイクロフィルム、)




八田副総裁
  守備隊其他幹部を招待
   野戦式午餐會
    農事試験場広場で

(公主嶺)満鉄副総裁八田嘉明
氏は山崎総務部次長、杉本秘書役
を携へ九月十七日午前十時五十五
分着列車にて來公、守備隊司令部
守備大隊、騎兵留守聯隊、警察署
憲兵隊等を訪問慰問の辞を述べ十
一時半より農事試験場講堂に集合
せる社員に対し慰労を兼ねたる一
場の訓辞を為し中本場長の案内で
場内を視察し農産物改良の實況を
身午後零時半より農事試験場畜産
広場の草原に紅白の幕を張り主な
る軍人、日満官民を主賓とし満鉄
社員所属長を陪賓とし主客約五十
名立食のヂンギスカン鍋の野戦式
午餐會を開催された席上八田副総
裁の挨拶に対し小川中佐の謝辞あ
り露天太陽の直射光線を全身に浴
し上衣を脱いでと副総裁自ら気を
利かし一同是に従ひ草叢の曠原に
シヤツ一枚となつて握り飯を囓ぢ
る時局柄相応しい宴会であつた、
宴終る頃有名な一萬二千圓アラプ
種小柄で怜悧で馬品の好い栗毛を
先頭に畜産部自慢の種馬三頭の騎
乗運動、高等馬術等を一同観覧に
催し百雷の如き拍手に迎送された
二時四十分閉宴副総裁は畜産科を
巡視した主任小松八郎氏不在の為
め高松農学士説明の任に当り緬羊
馬、牛、豚、鶏、乾草其他に付き
短時間の内にも要点を会得さるる
如く部員協力同心して精神的に善
良なサービスを呈し心から一行を
歓迎して居た騎乗の際は副総裁自
ら率先拍手され宴席にては自ら席
を離れ卓を廻りて乾杯さるる等彼
のキビ/\した眼光、爛々獅子の
如き顔貌身長高からざるも全身智
嚢かとさへ想はせる容姿而して内
心の温情溢れて万事鄭重親切なる
態度には一同感嘆し某社員の如き
は彼の副総裁を惣菜に戴き度いと
まで囁く者もあつた宴中も畜産巡
視中にも森所長より撫順炭礦に匪
賊討ち入り死傷者を出した事に付
時々入り來る電報を報告する毎に
憂色満面を覆ひ、そうか気の毒だ
と述べられた程で要するに副総裁
は敏腕家であつて人情に厚き徳者
と評するを妥当とすると当地に於
ける印象頗る良好なるものあり一
同に送られ三時二十三分発長春に
向つた乗車するに及んで我社支局
の写真機の前に小川中佐と並んで
快く立ちてレンズに撮られた(写
真は野天ヂンギスカン鍋八田副総
裁招宴の光景、左端副総裁一人隔
てゝ森地方事務所長、後姿小川中
佐)
(昭和7年9月19日付大連新聞2面=マイクロフィルム、)




 満鐵総裁と新候補

満鉄革新の期は愈迫り同鉄道内部の
動揺漸く甚しきものあり中村現総裁以
下躍起防圧運動を試み居れるも而かも
其の決行は床次鉄道院総裁出発前既定
の事實なれぱ総裁の更迭と共に國澤副
総裁以下四理事は必然連袂辞職すぺく
新幹部に付ては各方面よりの自称候補
者尠からざる模様なるが最近臺銀総裁
柳生一義氏の如きも又其の一人にて頃
來樺山伯を通じて一部薩派を動かし一
面原内相に迫ると共に山本首相を説か
しめ且つ政友會幹部に突撃しつゝある
も柳生氏対後藤男の関係よりして同會
の最高幹部は容易に動くべき模様もな
く内相も亦頗る淡々たる態度を持し居
れば其運動の猛烈なるにも係らず到底
は無効に終るべき形勢なりと確聞す
    (東洋通信)
(大正2年11月2日付満洲新報2面=マイクロフィルム、)


  東清副総裁請宴

東清満鉄打合の為め來長する東清鉄道
副総裁ウエンテユリー氏一行の為め満
鐵は長春ヤマトホテルに請宴を張る筈
にて右接伴の為め中村総裁田中理事荘
司運輸課員の外上田秘書役二日夜八時
北行せり
(大正2年11月5日付満洲新報2面=マイクロフィルム、)


  総裁重役上京

中村満鉄総裁は本月十五日東京商業會
議所に於て開催すべき臨時総会列席の
為め岡松田中両理事と共に九日発東上
の由
(大正2年11月5日付満洲新報2面=マイクロフィルム、)


  日露連絡打合

日露連絡打合は四日長春大和ホテルに
於て中村総裁岡松田中両理事東清副総
裁ウエンツユリー氏民政長官アアナシ
 ヱノ氏等と行はれ同夕中村総裁主人
となり露國領事騎兵聯隊長東清商業支
部長 本多吟爾賓総領事夏秋亀一氏木
部領事 大村大尉等を陪賓とし同ホテ
ルに盛宴を張れり東清副総裁一行は同
夕の臨時列車にて哈爾浜に帰任せり同
會議の内容は前報の如く細目のみ決定、
し重大事項は來春東京にて開かるべき
本會議に提出の筈
(大正2年11月6日付満洲新報2面=マイクロフィルム、)


 満鉄幹部東上

中村総裁犬塚 久保田両理事等明后九
日の台中丸にて東上の由
(大正2年11月8日付満洲新報2面=マイクロフィルム、)


 中村総裁上京

既報の如く中村総裁は犬塚久保田両理
事四倉秘書役と共に去る九日の台中丸
にて上京の途に就けり
(大正2年11月11日付満洲新報2面=マイクロフィルム、)




渋江長伯田村元雄
長伯ハ本草家ニて普く藥性を弁したれハ和藥種植付
の場所を拝借仰付られ明地/\にて土地相応の草ヲ植て
諸採薬の御用を佐とむ田村元雄ハ和人参を製法し
家にて小普請勤仕並にて三十人扶持被下さる宝暦十三年
に仰付られ朝鮮種人参の製法なり綿羊をも齎らせ
来て和羅紗ヲ製せり今吹上御庭に有よし織殿出役等も有
   人参ハ人の形のことくなるをよしとす七八年の後其の
種類によりて形をなす偏身人参といふハ片手片足枝の咲
たるあり二股を下品とす朝鮮の上党人参といふハ
偏身より上党ハ地□也

国立公文書館(6巻7コマ)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000006004&ID=&LANG=default&GID=&NO=6&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1


  渋江長伯 田村元雄
長伯ハ本草家にて普く藥性を辨したれハ和藥種植付之場處を拝借被仰付明地々々にて土地
相応の藥草を植て諸採薬の御用を勤む元雄ハ和人参を製法せらる家にて小普請勤仕並に
て三十人扶持被下宝暦十三年に被仰付朝鮮種人参の製法也綿羊をも齎らせ来て和羅紗を製
せり今吹上御庭に有り織殿出役等も有り
   人参ハ人の形ちの如くなるをよしとす七八年の後其種類によりて形をなす偏身人参といふハ片手片足枝のさきたるあり二股を下品とす朝鮮の上党人参と云ハ偏身なり

近藤本
改定史籍集覧 第11冊 (纂録類 第3)   


渋江長伯
   本草家にて普く藥性を辨したれハ和藥摘植場所江戸中
   の明地々々拝借被仰付薬種を摘植す尤日本国中
   原野薬の相応の場所ハミな渋江の預りとなる採薬御用
   を勤
田村元雄
   人薓を製法せし家にて御種人薓とて朝鮮の種を以
   日本の土地に植て是を製す小普請勤仕並ニ而三十口
   御扶持被下宝暦十三年に被仰付緬羊を齎せ来て和羅紗
   邏紗を織る今吹上御庭に織殿出来たり此緬羊の腹の
   毛を刈りて織る當時毛生少けれ者純毛の猨の毛を
   用ゆれハ世□の狂哥に
     和邏紗なるあがてふものに似せなんとゑたが
        毛むしる犬ころ寒し
 
早稲田本
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_03554/wa03_03554_0003/wa03_03554_0003.pdf




「畜産」の一家庭一冊主義へ!
    ◇画期的大衆化へ驀進する本誌◇

 本誌が機闘誌として発行されてから二十三年、既に二百六十七冊を各位の御手許に贈つてゐることになります。其の間、かの大正大震災當時、全市印刷機関全滅の折、動力のない印刷機を手押して遂に東京市月刊物の最先頭を切つて断然九月號を発行した印刷史上歴史的一場面を有する本誌であります。
 時勢は旋回又旋回、いつ迄も旧套を墨守して、機関誌なるが故に、大衆と無機的に遊離した誌面で通されなくなつてゐます。本誌は此の転回時代の主潮を敢然として享受し、その眞只中に躍出して、真に、時代に適応した、一家庭一冊主義を標示して、その誌面を隅から隅まで、畜産を加味せる研究、常識、娯楽、一切を含める大衆化を期して誌面の大刷新を図る準備中であります。
 しかし、此の本誌の犠牲的大車輪に対しては、一に、全國會員各位の「我が子同様」の熱誠なる御援助が無くては、それこそ敵機なき雲翳に高射砲を撃つやうなものであつて、吾々の努力も、一沫の泡影に過ぎなくなります。(以下略)
(中央畜産会編「畜産」22巻1号22ページ、昭和11年1月)




新京雑信  西崎捷三

  X  X
 昨年農林省を退官の上満洲國入りせられたさきの林政課長井上氏、
永島技師野田書記官米田技師以下十四名の一行は、満鐵が世界無類と
誇る超特急あじあで九月十二日家族同伴賑々しく新京駅に到着せら
れた。そこで村上局長は右の一行に在新京農林省関係者十四
五名を加へ都合三十余人を其の官舎に招いて歓迎會を開催せられた。
其の夜先づ悠然と巨躯を現はされたのが岸林務司長である。岸司長
には渡満以來軍司令部や官舎や宴會で殆んど毎日顔を合はすし、何か
と相談をもちかけては御指導を仰いで來た。間も無く井上氏夫妻、
野田氏、米田氏、馬政局の堀尾氏も見え、其の他の方々も続々來著せら
れた。九月も中旬になれば満洲では既に秋酣で多少寒いやうだが、此
の夜は満洲氣分を満喫しようと露天の下、芝生の上でジンギスカン鍋
をつつくのだ。余は會場の準備も出來たらしいので庭へ出てみた。
廣い芝生の上に六箇の鍋が列べられ、庭の一隅では頻に焚火してゐ
る。仰げば、さなぎだに鮮明な満洲の月が、折柄中秋の夜寒に冴え
亘り、光輝六合に漲りてやや凄い。満洲の秋の夜の冷爽な空氣は焚
火の勢に動揺して、庭に咲き乱れたコスモスの影を地上に軽く揺いで
ゐる。此處に圓坐して酒を酌み、蝦の油に羊を浸し、鍋にあぶつて食
ふと言ふのだから、ジンギスカン鍋と言ふ語源に近い氣分である。其
の昔ジンギスカンも沙漠の上に陣を張り、不氣味な大陸の月光の下、
焚火の傍に羊を裂いて、千里征途の渇を癒したことであらう。
  ×  X
 着任以來會議を続行し、たまの日曜日には官舎に研究會や座談會を
開催する等大車輪の活動を続けられてゐた村上局長には九月下旬よ
り凡そ二十日間関東軍の参謀と共に満洲國の東北方露領に近い方面
まで飛行機を利用しながら各方面の視察に出かけられ、一旦新京へ帰
着の上トランクを一つ積み添へて再び機上の人となり、大連まで七百
粁の行程を一気に翔破して六十日間東京へ出張せられた。余は大連
まで見送つて後南満各地を転々としながら北上帰京した。
 十一月初旬公主嶺に緬羊の共進會があつたので岸司長と米田技佐
とに従つて参観した。岸司長は三人の坊ちやんを連れられ米田技佐
の御嬢さんも一緒だつた。満洲の緬羊は雑駁であり改良行程を示現
してゐて面白く種類も亦多様である。テント張りの中では満童が紡
ぎ鮮女が織つてゐる。賞状授与式を終るや椅子の位置を変へて直に
ジンギスカン鍋の御馳走になつた。碧空の下寒気峻烈ではあるが、同
じ鍋を多民族でつつくのは愉快であり肉は頗る美味だつた。次で満
鉄の農事試験場をみに行つた。
(中央畜産会編「畜産」22巻3号15ページ、昭和11年3月)




畜産の権威いかヾ
  『双仔』を産む緬羊
    竹本さんが育て上ぐ

濠洲の羊毛関税引上げから不買同
盟――代用フアイヴアーの研究―
―毛織物の高騰――果は国産緬羊
の奨励と発展しつゝある昨今、世
にも隠れたる緬羊の研究篤志家が
発見され緬羊の増加思ひの儘とあ
つて畜産当局を初め学者連中にも
メンヨウなはなしではあるが成る
程こんな手もあると驚かせてゐる
快ニュースがある
 この   人は今秋地方行幸の
 際畏くも宮内省からホームスパ
 ン御買上の光栄を担つた道南洞
 爺湖畔の純農村洞爺村洞爺の住
 人竹本粂吉さん(40)と云ふ緬羊
 と云へば飯よりも好きで殆ど一
 家を顧ることさへ忘れると云ふ
 熱心サ、明けても暮れても緬羊
 々々で苦労してゐる変り種
彼氏数年前から一頭宛より仔を産
まぬ緬羊に二頭宛産ませる方法は
ないものかと考へ抜いた揚句双仔
を産む羊を発見、これを愛育して
爾来双仔々々と産ませることに成
功、緬羊の先天生理の改造?を
やつで了つた
 メリ  ノー種が良いとか何
 とか種類の改良や研究はやつた
 學者、専門家はあるが二頭の仔
 羊を産ませることは想ひもよら
 なかつた、これには流石に一驚
 を喫してゐるといふ

光栄、天覧を賜ふ

この緬羊は過般真駒内に出品して
天覧を賜はり福島に於ける東北六
県北海道の緬羊共進会に出品三等
賞を得た
  それ   ばかりでなく紡毛
 の機械も優秀なものを手製して
 ゐる、材料は尚自転車のリーム
 を応用したもので少しの振動も
 音響もなく能率的だと云ふので
 特許品跣足の評さへあり宮内省
 お買上げの光栄に浴した洞爺村
 ホームスパンの原料は皆此機械
 で彼れ氏独りで紡むいだものだ
 彼氏   却々の変り種で家貧
しいのに羊毛講習に招かれても謝
礼を貰はず曽て千住の製絨所長が
訪れ飼料をどれほど與へ、剪毛が
どれほどとれると訪ねても口を緘
して語らず最後に『そんなもの一
々計つてゐないから判らない…』
と一喝したそうだ
 兎に角今道南胆振緬羊界の至宝
 と囃されてゐるがこれが想ひの
 儘に出來としたら恐らく我国緬
 羊界に貢献さること大なるもの
 があらう
(昭和11年11月11日付北海タイムス朝刊*面=マイクロフィルム、)



  (3)大日本回教協会

 確か昭和十二年の始だったと思ふ。陸、海、外務三省の担当局部
課長を中心に「回教及猶太間題委員会」というものが結成された。
委員の構成は、外務省から、沢田次官以下、東亜、欧亜、亜米利加
の三局及調査部長、担当各課長、陸軍側は、参謀本部第二部樋口少
将以下、川俣、渡、唐川大佐、臼井中佐、太田少佐、陸軍省軍務局
町尻少将、影佐大佐、岩淵中佐、斎藤少佐等、海軍側からは、軍令
部の犬塚、横井、山田の各大佐、鵜沢、角田、江口の三少佐、海軍
省軍務局阿部少将、関大佐、神、藤井中佐、能登少佐等約五十名か
らなっていた。
 此の委員会の主な目的は、若し予想きれている様に将来、世界的
大戦でも起る様なことにでもなれば、アジアに位する我が国として
は、当然アジア各地の列強の植民地の動向が浮沈に拘わる重大問題
となって来る。
 世界宗教分布図を一見すれば明らかの様に、此等の植民地の住民
中約三億は回教徒である。我が国としても平時から予め此等の地域
の政治、経済、文化一般について充分の調査研究をして置く必要が
あるという事にあった。回教問題全般に関する一般の理解は最近に
なって急激に昂り、専門的の著者なども公刊される様になって来た
が、当時の我が国一般の此の問題に対する関心は無に等しいものが
あった。
 今更改めて詳述する必要もあるまいが、回教民族の目立った特徴
といえば、政教一致というか、宗教的戒律が即、民族一般の生活様
式を強く支配していることと、従って回教徒間の横の連絡が非常に
緊密強固なものとなっているという点であろう。
 かって、パンイスラミズム運動、即ち回教を信ずる諸民族を宗教
的に打って一丸として、一つの宗教的な国家連合を創設しようとい
う思想的、政治的な大運動も行はれたこともあり、更に今日でも、
アフリカ中亜方面の政治的問題を考察する場合には、どうしても此
の点を留意して置く必要さえあるとも言ふよう。我が国では、明治
以来その後進性の故か、アジア問題と言えば、即、中国大陸問題と
見られる傾向があって、此の回教圏民族の勤向等については、余り
きわだった取上げ方はされていなかったのである。アジア植民地の
解放ということを考えれば、当然、此の回教圏民族社会の本格的な
研究が先づ第一に要請される可きであった。
 昭和十五、六年頃になっても、我が国の軍人、政治家、指導的財
界人等の中でもこの問題を政治的、軍事的又は経済的問題として正
しく理解し、研究して居った人物は甚だ稀であったのである。陸海
軍外務三省は、東亜の事態が緊迫して来たのに刺戟されて、秘密裡
に「回教及猶太問題研究委員会」を発足させたわけであったが、事
は既に余りにも遅すぎた。併し、一部の有識者の間には、此の件に
ついて深い関心が持たれて居ったので、以前からアズハル回教大学
にひそかに数名の留学生を送るとか、回教教理、戒律等の研究も行
はれて居った。又、毎年一回の全世界回教徒の一大行事「メッカ巡
礼」にも十名近くの青年を参加させたりしていた。
 昭和十二年になって、ようやく三省の外郭団体として、民問に回
教圏一般に関する調査研究及び具体的な文化的、経済的事業を実施
する中軸機関を設置することが決定された。
 他方、林将軍は既に第一次欧州留学時代、即ち、彼の佐官時代か
ら、此の問題は将来の我が国対外政策には勿論、国防、軍事的観点
からも無視することの出来ない重大問題となろうと洞察して、一人
窃に精力的な研究に打込んで居ったのである。
 現に筆者の手元に、「第一次世界大戦時回教諸国の動静」という
約八〇〇枚の研究ノートも残っている。欧州留学中、彼は特に余暇
を割いてバルカン方面の旅行をしていることは先に触れたが、此の
旅行目的の一つには、欧州、中亜の回教文化一般の研究視察も含ま
れて居ったのである。彼が此の問題に特に留意する様になったの
は、そこに直接的な原因があった。即ち、第一次世界大戦の勃発以
前から、彼は伯林にあって、ドイツ政府、特にその軍部が熱心に回
教徒問題の調査研究をし、種々具体的に対回教圏諸工策に着手して
いることを知って、深い感銘と啓発を受けることになったのであ
る。歴史的に見て、アジア侵略に最も立遅れて居ったドイツ帝国に
は、広大な植民地といはれる可きものはなかった。此のドイツ帝国
から英、仏、蘭、等々近隣の諸国の広地域にまたがった植民地の存
在は無視される筈はない。然かも、その地域は殆んど回教圏であ
る。ドイツ帝国が敵対国と看倣した諸国の国力を支えている主要な
支柱は、いうまでもなく此等植民地の存在である。
 一度戦端が開かれるとすれば、此等植民地民族の動勢はその雌雄
を決する重要要素の一つとなろう。若し、此等の植民地に、民族独
立運動を起させるとか、又はその植民地統治を危うくする様な騒乱
工策等が出来るとすれば、その敵国側に与える支障こそ、計り知る
ことも出来ない絶大なものとなろう。此の観点から、ドイツは、国
を挙げて、此の回教圏諸国民族工作に乗出したものだったのであ
る。
 ちょうどその時期も熟し、夫等の諸施策が効果を表はし出した
頃、林少佐は伯林に滞在して居った。烱眼にも彼は異常な興味と熱
意を以て、此の問題の調査研究を開始した。先のノート等もその一
つの記録に過ぎない。独文の専門的資料等も量にして積上げて約一
米位はあったろう晩年まで仮の書斎に愛蔵されて居った。
 此等の殆んどすべては、後大日本回教協会に寄贈され、後に東亜
研究所の蔵書中に加えられた筈であるが、おそらく敗戦と同時に散
佚してしまったであろう。甚だ残念ではあるが、今となってはどう
することも出来ない。ケマルパシヤの大変革も、彼には唯単に土耳
古一国のものとしてではなく、将来のアジア植民地各地域の問題と
して深い研討が加えられて居った。彼が晩年までトルコの軍部指導
者層との間に書信の交換をつづけて居った事等もそのよい一事例で
ある。

 前置きが少々長くなったが、この事情を先輩として(彼の陸大生
徒時代の教官)充分に知って居った宇垣一成は、昭和十二年近衛内
閣の外務大臣に就任して居ったから、愈々外務省外郭団体として民
間に回教問題の専門機関を創立するという儀が起った時、「回教問
題ならば林大将が先づ第一人者だ」として、その会長就任を強く要
請して、使者として千駄谷林邸に米沢外務省調査部長を派遣して来
たのである。その時筆者も同席したのでよく覚えている。
 併し当初は、林は、政府が若し本格的に往年のドイツ帝国になら
って、回教徒民族工策をとりあげるとすれば、民間団体の会長に
は、自分の様な軍人出身の者では面白くない。みだりに欧州諸国を
刺戟する結果に終るものとして固辞したのだったが、当時学者、政
治家経済人中には一人として適任者と看倣される者が発見出来なか
った。民間で従前から此の種問題に取組んで来たのは、殆んど所謂
浪人的人物ばかりで、彼等は頭山満翁を会長にかつぎ出そうとする
動きがあった為、同翁の出馬は、日清日露両大戦前後のあの対鮮、
対支工策の様な結果も予想されるとして、外務省側に難色があり、
兎に角頭山会長案を制して而かもその陣営とも協調的役割を果せる
者として、林会長以外会長の適格者なしという結論となった。
 こんな経過を辿って、昭和十三年五月、東京会館で、第一回の設
立準備会が開催され、頭山満、林銑十郎、南郷次郎、瀬下清、田鍋
安之助、葛生能久、小笠原長生、井上雅二、川島義之、末永一三、
若林半等約二十名の有志と、陸軍、海軍、外務三省側から夫々担当
官五六名宛が出席して、民間の回教徒民族問題対策の指導的機関創
立の件を議決して、その三ケ月後に、会長林銑十郎、副会長長井坂
孝、村田省蔵、葛生能久、理事長松島肇、理事松室孝良陸軍少将、
匝瑳胤次海軍少将等々の役員も決定され、陸海軍及外務省の三省か
ら年間各五万円計十五万円の補助金の支給を得て、大日本回教協会
が設立された。筆者は、創立準備の当初から、会長秘書としてその
事務全般にも関係したので、その間の事情は充分承知して居るが、
陸海軍両省担当官等のその熱意はなみなみならぬものがあった。
 当時の彼の言葉から察して、林会長個人としては、「事は既に余
りにも遅きに失している。が併し、若し真剣に我が国として、回教
問題に取組むのならば、年間十五万円位の少額の基金では、何も出
来るものではない。最少此の五十倍位の予算が投ぜられねばならな
い。
 併し此の資金を効果的に使って、短期間に所期する目的を達しよ
うとするには、少くとも十数名の達識の士が、運営全般を強力に指
導しなければならないわけだが、残念ながら、我が国の学界にも、
政界、産業人の間にも此の任にたえられる者は自分の知る限り先づ
一人も見当らない。外交官中には可成各回教民族国家の研究をして
来た公使級の人物も居る様にも想豫されるが、従前から我が国の外
務省は、対欧米外交ばかり重視して居て有能な外交官の大部分はそ
の殆んどすべてはアジア各地に赴任することをあまり名誉として居
らぬ傾がある為か、残念ながらこれ又、会務全般を托し得る者が居
らぬ。」と語って居ったものである。
 彼の此の問題に対する自信と、その重視の模様がよくうかがえる
と思う。現に、東條将軍が陸相時代のことであったが、回教協会と
して一応の組織も整い、その事業計画の大要も立案されたので或る
日自らその資料を持って陸軍省大臣室を訪ねたことがある。二十分
程の僅かな時間であったが「若し国を挙げて此の問題を取上げると
なれば、年間一千万円位の予算は必要となって来る。
 此の際、民間団体としての役割は別としても、何とか陸軍として
も、対策実現に善処する要はあると思う」という意見を開陳した
のであるが、どうも最後まで東條陸相からは、此の問題の予備知識
さえもないかの様な、見当はずれの答弁しか得ることが出来なかっ
た。
 筆者も同席して居ったが、とうとう林会長も匙を投げて、「どう
も種々と論議して居っても、一向に要を得られない様だな。色々と
いそがしかろう。が、暇を見て、一つ研究して置いてくれ給え。」
と馬鹿に大声で勝手に結論を出したと思ったら、投げ出す様に書
類を陸相の卓に置いてさっさと引挙げてしまった。日頃に似ず、
『ヒゲさんえらい見幕だな』といささか驚いたことをはっきりと覚
えている。
 帰途の車中で「私の講義をきいた方だが、至極頭脳明晰な男だ。
併し、何分支那問題で頭が一パイなんだろう。考えに全く余裕がな
い。
 結局どうにもならんでせう。あまり期待せぬ様。松島(理事長)
や松室(常務理事)等に言って置いて下さい」。と如何にも残念そ
うに漏して居った。
 又此の当時「満鉄」から年間五万位の讃助金を支出して貰う様理
事会で決定して、その申請書類に会長の決裁をとる為筆者は千駄谷
の林邸に赴いた時、「満鉄には亜細亜問題の調査機関も設けられて
いる位だから、一般の理解もあらうし、松岡(洋右、当時総裁)も
善処するかも知れない。私の名前で申請するならば、年間二十万円
に変更して置いて下さい。」という希望的発言があった。早速理事
会で再審議して、満鉄宛に発信したが、此の場合も後になって多少
の補助金が支出されただけに止った。
 戦後、インド独立が実現する段になって、パキスタンと印度本国
が分離したことは衆知の事実だが、勿論これには、政治経済的、軍
事的、歴史的、地理的等々の要因はあるわけだが、回教民族と他宗
教を信ずる人々との間の歴史的な対立感が(英国統治時代に故意に
強化されたともいえるが)、この間の大きな原因の一つであること
も無視することは出来まい。
 この件等も戦前までの西欧諸国のアジア諸植民地統治の二大原則
「分割統治」と「問接統治」方式の一つの顕著な成功の例証とされ
よう。
 英仏蘭等の諸国を長く敵国視して居ったドイツ帝国が、その宣戦
の布告以前から此等の事実を無視する筈はない。ここにあの当時の
ドイツ帝国の熱心な対回教圏工策研究の原因があったわけである。
 林会長の企図して居ったものは、西欧諸列強の植民政策の歴史的
研究をすることによって、東洋人の国家日本としてその全く逆の立
場からする施策を、可能の範囲内に於いて、此等植民地に対して実
施して行こうというのであった。併し我が国の一般からは、その目
的さえも正しく理解されることが甚だ稀のまま終ってしまったので
ある。この事について思い出される話がある。つまらぬことでもあ
るが次に御紹介して置こう。
 昭和十四年上野松坂屋の後援で回教協会主催の回教圏展覧会が開
催された。松坂屋はたしか三万円近くの予算を投じて、当時百貨店
の展覧会としては最大級のものとなった。愈々発会式という段にな
って、松坂屋側から、宮殿下方、各大臣等の招待の希望が出て、重
役数氏から林会長に正式の斡旋依頼があった。百貨店の営業政策の
為でもあると考えたが、同社の宣伝部各位の徹夜の苦労も実際に見
て居った筆者は、当然な希望とも考えられたので早速林会長に取次
いで見たのであるが、
「大臣々々と皆は言はれるが、今の首相、商工、文部等々の各大臣
とも、全く此の種の問題を正しく理解しているとは見えんな。それ
だからこそ展覧会から始めたわけでせう。国家の為に大臣始め一般
を啓発してやるんだという気概で、事に当って頂きたいと伝えて下
さい。」
 めずらしく凛然とした一言であった。筆者は至極愉快に感じた
が、松坂屋とすれば巨額な資用を支出している。とにかく車を飛ば
して同社の役員室にもどって、多数の人々の居られる前で林会長の
意饗をありのまま披露に及んだ。
 営業的立場からして、おそらく失望をかうかと危惧もされたが、
同席して居られた各氏は何れも莞爾として微笑され、急に室内が溂
溌とした空気になった。
 併し、開会三日目頃から、梨本宮若宮始め一、二の妃殿下、陸
相、文相、商相、伍堂前商相等実に多数の名士が来会された。林会
長は、表面先の様な答弁はしたものの、早速蔭ではその日から色々
な機会を利用しては各界の有力者に参観をすすめていたのである。
 大日本回教協会会長として、丸五ケ年間関係して居ったから、そ
の間種々述べる可きことも多いのであるが、一切は省略して、現在
筆者の手元にある、会の事業計画と昭和十五年度事業報告の一部を
参考の為に左に収録して置く。
(宮村三郎著「林銑十郎(上)」565ページ、昭和47年1月、原書房=原本、)




   有合亭物語    父  岩井安栗手記より
                (原文のまま)
 
<略>明治三十二年のことで
函館から船で室蘭に着き岩見沢を経て札幌駅
まで来た。小樽駅手宮が終点で(函館本線は
まだ出来ていなかった)親子三人が札幌駅に
着いたのは小雨の降る夜であった。人力車三
台に分乗して雨のため幌をかけて走り始めた。
目的地は苗穂村二番地で(現在の北一条東十七丁目辺であった)駅前
から二丁程いった右側に山形屋旅館があり、その向側に高い黒い板塀
と大きな門があったのは区裁判所であった。又二丁程行くと北一条で
その右門は女子尋常小学校で(現在市役所とグランドホテルの所一角)
木造建平屋の大きな学校だった。東に行くと時計台で現在のところで
土塀を廻してあった。その前が創成尋常小学校(四ケ年卒業・現在の
中央創成小学校と産業会館・電報局の一丁角のところ)で竹垣が廻し
てあって土地が広いのでまわりにサクランボーの大きな木が沢山あっ
て季節には生徒一同が五粒位いもらったものだ。自分は明治三十七年
の卒業生であった。現在拓殖銀行の所には赤レンガの火力発電所があ
って窓から大きなダイナモが廻っているのが見えた。豊平館は一丁目
一角で一、二丁目の通りの道路の真中に小供なら五、六人で手をつな
ぐ太い巨木がところどころにあったのを記憶している。
 さて、話は元に戻って創成川の橋を渡ると人
家もまばらになって電灯も電柱二、三本おきに
ついていて人力車の幌の左右に小窓と言うより
穴といった方がよい窓から電灯の弱い灯が時々
ボーッと入って来る。家類もだんだんまばらに
なって左右にりんご畑が続き心細い感じがして
来た。二十分位で目的地に着いた。角が男爵佐
藤昌介博士(初代北海道大学総長)の邸宅でそ
の東隣がヒューエット氏宅であった。ぐるりは
りんご園で一丁程西にローランド氏組合教会の
宣教官がおり故レーン夫人(ポーリンさん)は
ローランド氏の令嬢で当時は十才位の快活なお
嬢さんで橇辷り等に東橋の坂に遊びに行ったこ
ともあった。その頃は今より雪の量も多く凧あ
げに六尺の竹垣も子供がまたいで行ける位積っ
たことを記憶している。
 三ケ年位でヒューエット氏が帰国されることになり、父徳松は料理
用ストーブや食器類・道具類を記念に貰った。それが動機で南一条西
二丁目仲通り北向池内金物店裏(現在池内デパート)に池内家の借家を
借り大店の奥様やお嬢さん方に西洋料理を教える事を考えついて始め
た。それがうけて庁立の先生方やあらゆる方々にひろまった。
然し料理を教えるには相当の材料費がいるので材料費を少なくする爲
めに出来上った品を一方で売ったら材料費の節約が出来ると考えた。
そして明治三十九年その場所に『米風亭(洋食店)』を開業する。<略>
(岩井あや編「有合亭物語」8ページ、昭和56年8月、岩井あや=原本、)




ゴトージヨサク 後藤恕作 (一八五八−一九二九)明治大正昭和時代の實業家。 安政五年三月、播州揖東郡網干村與平次の長男に生る。幼時緒方洪庵の門人村上棟 菴に句読をうけ、明治二年大阪に出で、居留地カペルシュ商會に入り、ついでレア ルヂュビェー商會、キルベー商會に移り、七年また蓬莱社につとめ、八年東京に往 き、清国全権公使として赴任する森有禮の知遇をうけて北京に渡り、同文館在勤米 人ハーリントンに師事して毛織染色学を修めた。かくて帰朝するや十三年毛絲紡織 に着手し、旧式紡錘によつてこれを細線に紡がしめたがつひに成功せず、のち氈絨、 メリヤス襟巻、靴下製造を試み、明治十四年海軍省より上納を命ぜられ、爾來事業 漸く好転し、府下大井町に毛織製造所を起した。これが民間毛織工場の濫觴であり、 後の日本毛織會社東京工場である。ついで木綿赤染の業を始め所謂後藤赤と唱へ、 推奨を得て染物工場を設け、また人工毛革を発明して人力車の脚臺に用ひられて流 行し、更にメリヤス、毛布、ヲーステットの如き各種織物を製し、十九年東京毛布 製造会社を創立し、二十七年日本毛布製造會社を起したが、三十四年の財界恐慌に よつて解散した。日露戦役後毛織製造所を、後藤毛織株式會杜の組織に改め、自ら 專務取締役となり、越えて大正となるや、欧洲大戦の刺戟による市価の昂騰に乗じ、 東京毛織物、東京製絨との三社合同に成功して、東京毛織會杜を設立した。現在の 後藤毛織倉杜は大正七年資本金二百萬圓を以て新たに設けられたものである。關東 大震災或は毛織物市況不況の打撃のために幾度か失敗と受難を重ねたが、不撓不屈 よく毛織業の改良発達に努めた。かくて昭和三年十一月御大典に際し、實業功労者 として緑綬褒章を下賜され、昭和四年没す。年七十二。(諌山)
下中邦彦編「日本人名大事典」第2巻608ページ、昭和54年7月、平凡社=原 本、)



東京便
   日曜正午  一記者

  本場江差追分(上)
江差追分の名人平野源三郎死本場追分の
正調漸く滅ひんとするを遺憾として去月
上京し神田青年会館の客室で追分節演奏
会を催した記者は固より没趣味没風流な
ると大閑莫ければ遂ひ之を聞くを得ず僅
に新聞紙上で散見した迄であつた然るに
其後本月十三日再び公開的に開会する事
となり記者へも招待状が来たのを見ると
我が苗村翁の追分節追懐談もあるといふ
案内故夕飯後青年会館の招待席に著た見
渡す處ろ非常なる盛会であつて楼上廊下
空席を止めない計でなく廊下通路に充満
して溢るる計りである此予期以上の盛会
には会主側でも恐慌して設備万端甚だ不
行届なるを断はつてゐた
聴衆り霰の如き拍手に促れて会主は演奏
者江差人平野氏は北海道に於て在来の追
分節が様々の節訛等を交へ昔なからの俤
を失はんとするを嘆き研究会なる者の出
来て全道の名手を集み其最も正調なるを
投票したる結果が平野氏を第一としたと
云ふ紹介を為し最初に歌沢が唄はれ追分
節の在郷節に江差追分節研究会名誉会員
の肩書ある平野氏が登壇して「忍路高島」
「人は涼しと」「恋の道にも」を淡い声で調
子低く唄つた次いで亦歌沢が唄はれ出し
て浅羽靖翁が満顔に笑ひを湛えて偉躯を
演壇の上に運んだ翁は前日札幌に帰北す
べくなるを特に本会の為め一日を延し本
夜帰北すると云ふので忙しい中を態々出
演せられたのである
翁は先づ私は此の席上にお話しするガラで
はない断はり併かし北海道に事には気の
狂ふ性分でツイ気が狂つて茲に赤面なか
らお話すると謙抑して元来別に学問上よ
り研究したことはないが古老などから段
々承知する所によつて追分の根元からお
話を致すとて私は明治十五年に始めて北
海道に行つ時コウといふ事を聞いた北海
道で一度び追分節を聴き三平汁を吸つた
ら故郷を忘れると追分節の切なる情と三
平汁の深い味とは人を移つす上に与つて
力の有つた事を思れる否な確かに力があ
つたのである翁は夫れより此の三平汁と
追分別の故事来歴に移つて斉藤三平の事
から忍路高島の説明を与え江差追分の流
派から江差の今昔に及んで近衛公と三平
汁西郷公と追分節と云ふ逸事に入り翁一
流の快舌を鼓して満場に聴衆の感興を与
へた翁は説いて曰く近衛公北海道を巡視
さるゝや馳走の致方なく東京料理をお勧
めしたに口に合はぬ已むを得ず三平汁を
出したら非常に喜ばれた以来公が北海道
の為めに尽力され今日鉄道の幹線七百余
哩に延長せるもの公の三平汁に成立つた
鉄道と云ふ事が出来る
(明治45年7月18日付北海タイムス=マイクロフィルム)

東京便
   日曜正午  一記者

  本場江差追分(下)
苗村翁又説て曰く明治十七年日韓の関係
の切迫したる当時に西郷公北海道を巡視
され居りて根室に在り旅情のつれ/\な
るや追分節を稽古されたが当時交通は至
つて不便にて内閣より公へ宛てての電報
は函館から汽船を仕立てて厚岸にて受取
り馬を打せて之を根室に致すと云ふ有様
であつた帝国政府の和戦の議決せず公に
因りて決を採る事と為り電報の来るや公
は追分の文句を籍りて即ち「纏まるもの
なら纏めて置けよ」と返電され端なく之
れが日韓の平和を繋ぎ留めたり故に追分
節も国家の大問題を解決するに当るべし
とて満場を哄笑せしめ尚亦た平野氏の事
に就て申上げたしと江差は唯今は辺陬の
地なるも今は昔の頗る繁華なりし江差が
今日の衰微は畢竟長官大臣等風流韻事を
解せざる為めにて之を全く拓殖の外に置
くにありと思ふ江差は維新前は頼三樹三
郎の如き勤王家も身を寄せし地にて殊に
土地の人は気慨ありしが今は追分を誇り
音楽家としての平野氏を紹介する江差と
為る北海道の為め私は遺憾である幸に諸
君の同情に因り拓殖鉄道にてもかかり諸
君が本場に行つて江差追分を聞かれるよ
うに致し度きものである
浅羽翁が三平汁と鉄道追分節と国家を結
付け平野氏の紹介にかこつけて拓殖鉄道
に持込んだりしたのは翁の壇場で全く余
人の道破し得ざる處でソコで喝采は雷の
如く起つた平野氏は其後を受けて浅羽翁
の選に係れる左の江差節を唄つて更らに
喝采せられた
 雪にたたかれ  嵐にもまれ
   苦労して咲く  かきつばた
 まとまるものなら  まとめておくれ
   恋路はだれしも おなじもの
夫れから十分間の休憩があつて江差節
「すゝぐまいもの」三下り「心細さよ」「文
のうはがき」「思ひ捨つるな」から字余り
「大島小島の注文が出て在郷節江差節三
下り字余りと唄ひ分けて聞かされ瞑想沈
耳せばギフ/\艪を漕いで月を砕くの孤
舟上哀音淋しく憂きなされて身は北海の
波にたたよふ凄艶の情を深からしめた夫
れから尺八三絃合奏があり亦「帯も十勝」
の江差節「ありや鳴くはづだよ」在郷節
「碓氷峠の」三下り等取り/\ありて長唄
めりやす紅葉詣でハ子と為なつたのは九
時を過くる三十分恰も十時半浅羽翁は帰
北されたので序なからお見送りをした哀
れ深い歌の節は尚耳底に残る心地して此
の通信を認めた事を付加へて置く
(明治45年7月19日付北海タイムス=マイクロフィルム)



実験山羊と緬羊

<略> 羊毛は国民生活上からも国防的見地からも不可欠のもので、緬羊飼育増殖が刻下の緊急事であることは今更ら繰返すまでもなく今は只実行の如何にあるのみである。我が国に於ける緬羊飼育なるものは特殊な農業形態に鑑み、之が飼育増殖は農家の自覚に待つこと甚大である。現在我が国の農家戸数は約五百六十万戸あるが其の三分の二の農家が毎戸三頭宛の緬羊を飼育すると仮定すれば其の総頭数は実に一千二百二十万頭の多きに達し、又五百六十万戸の農家の内養蚕戸数は二百九万二千戸ある、この養蚕農家のみに依て三頭宛を飼育するとしても六百二十七万六千頭の多数となるのであるが、之が実現は必ずしも不可能ではない、要は農家の非常時認識と之が実行の如何にあるのである。我が国に於ける緬羊飼育なるものは決して莫大の利益のあるものではないが、其の経営の宜敷を得るならば農家の副業としても又かなり大規模の経営に於ても相当の利益を見る事の出来る堅実な事業である。緬羊を飼育することが農家自らを益し国防的に国家の守りとなるならば一戸に二、三頭の緬羊を飼育することが非常時に處する農家の義務ではあるまいか、重ねて勧む農家一戸に必ず二、三頭の緬羊の飼育を、而して我が国全土に緬羊の声の聞ゆる時とき、国防の安全と国益は増大されるのである。
(瀬戸芳松著「実験山羊と緬羊」75ページ、「結論」より、昭和11年8月、瀬戸山羊牧場=国会図書館デジタルコレクション)





○本道緬羊成績
 上 道庁津田技手談

本年六月末の調査に依と本道民有
の綿羊は総数九百八十六頭(官有
者のを入るゝ時は約二千三百頭)
で将に一千頭に垂んとしてゐる
牛馬其他の家畜に比べると未だ至
つて微々たるものでは有るがそれ
でも全国民有の総数約五千頭(官
有を入るゝ時は約八千頭)の五分
の一に當り資源の多くない内から
之れ迄に増殖したことは良好なる
成瀬と言はねばならぬ元来本道の
綿羊は決して近頃のこととではな
いのである既に古く安政年間に真
濫觴を発し明治の初年には七重勧
業試験場から桔梗野牧羊場の新設
となり続いて札幌牧羊場の開設と
なり移入せられた緬羊は各種を通
じて約一千頭に上つたのであるが
惜い哉開拓使庁のこの炯眼なるそ
して熱心なる計画も諸種の原因の
為に遂に見るべき成績なくして廃
止の止むなきに至つたと云ふ事は
実に遺憾な事と言はねばならぬ
其■是迄牧牧羊場より移畜せられた
緬羊は慥かに道庁種畜場に於て明
治廿一年以来蕃殖を続け来つたの
であるが之れ亦四十三年に廃止の
議が出てゝ先覚者の熱心なる建言
が有つたに拘らず遂に将来ある使
命を絶たれてしまつたのは返す
/\も残念なるでる尤も其当時は
今日程毛織物の需用も盛ではなか
つた従て一般の緬羊に対する観念
も未だ頗る薄弱なるものであつた
不成功般の原因も一面茲にあるか
今日は既に国情か変た這般の大戦
以来毛織物に対する国民の嗜好と
需用とは著しく増して来た同時に
之が原料羊毛の殆ど全部を外国輸
入に求る所から来る戦時価格の暴
騰の為めに吾々の苦るしめられた
事も亦容易なもので無かつた
濠洲や英国のトツプ禁輸に依る不
便は一通りではなかつた自然こう
した事から一般の緬羊に関する概
念も増して来たのである羊毛は単
に洋服毛布の原料だけではないネ
ルもセルもメリヤスやモスリンも
将又マントや角巻から毛布襟巻類
帽子ゲートルに至る迄其用途の広
汎なる一々枚挙に遑がない、そし
て男も女も老人も若い者も何か毛
織物を身に着けねば幅が利かぬ時
代である婦人の洋装さへも年一年
と需用を増して居る
(大正9年12月10日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム、)


○本道緬羊成績
  羊毛の需要と
  飼育並に収入
 (中) 道庁津田技手談

時運の推移か国民に軽快敏捷の動
作と要求すればする程文化生活の
進歩と共に人々の生活が経済的に
なればなる程此程毛織物の必要が
生ずることは
△先進諸国の  例に徴して
明らかで
各國か綿羊の生産増殖に努むる所
因も亦此処に在るのである先年来
吾國の上下に羊毛自給綿羊飼養奨
励の声の喧しいのも亦宜なりと言
はねばならぬ一体然らば如何程の
羊毛が有れば所謂その自給自足が
出るかと言ふと少くとも一ケ年二
千五百万斤を必要とする二千五百
万斤の羊毛を産するにはかくも八
百万頭といふ莫大なる綿羊がなく
てはならぬ然るに現今どの位勲綿
羊が吾国にゐるかと言へは前記の
如く約八千頭て千分の一に當る實
に九牛の一毛である年々七八千万
円(大正八年七千二百五十万円)と
いふ巨額の羊毛及関係品を輸入せ
ねばならぬ理由も之れが為めであ
る然し如何なる方法手段を講ずる
も今日の頭数から八百万頭に増加
する事は三十年や五十年の努力で
は殆んど不可能であるので
政府は先差当洋服常用者(兵士警
官の如き)の需用を充たし
△一朝有事の  際の絶対数
量だけでも国内にて生産しやうと
言ふのが其政策である
之れが約六百万斤綿羊かくも百五
十万頭と要するのである明治十三
年頃一時全国の綿羊が七千頭に達
してゐた事を想ふと痛嘆せずには
居られない方今綿羊の飼養を以て
国家的事業なりと見做すのは又之
が為めであるのである然し本道で
は単に国家的精神から綿羊を飼養
する迄もなく農牧業の状態が之れ
を必要とするので道庁も既に古く
此点に向つて奨励をしてゐるので
ある事実各地の飼養者は毛や肉を
利用して寒むい本道の農業に色々
の趣味を加へてゐる洋服やマント
を織つて著てゐるもの自ら紡むい
でシヤツや目出帽を造つてゐるも
のもある婦人の為の新しいゐ■か
着々と基礎を築づいてゐると同時
に農業経営の円満を来たし地方維
持の有効なるか認められつゝある
のである
此辺からして曩の産業調査会は本
道に三百万頭の綿羊を適当とし政
府も亦此処に留意し道内二ケ所の
種羊場を設け真の
△普及奨励に  努めてゐる
のであるが現在各支庁に何程の綿
羊が居るかと言ふと
室蘭支庁の二百八十六頭(飼養戸
数七十戸)が第一で空知支庁の二
百三十七頭(三十九戸)が之に次ぎ
網走支庁の百廿六頭(五戸)浦河支
庁の八十三頭(十一戸)及び函館支
庁の八十頭(十二戸)が更に又之に
次ぐの状況で全く綿羊飼養者のな
い支庁は宗谷、留萌の二支庁限り
である総頭数が即ち九百八十六頭
で飼養者が百七十戸一戸当り五頭
八分といふ事になるそして其種類
はと言ふと綿羊にも可なり種類が
あるが現今本道にゐるものは毛質
の優れたランデイーユメリノ種が
全体の十四割肉味も宜いサウスダ
ウン種が十九割及び毛肉兼用のシ
ユロツプシヤ種が三十九割で昨年
北見の住友家で輸入した支那羊
(八割)を加へて結局四種となる其
の支那羊は輸入後日淺いのみなら
ず元來適当の種類と雜々としなけ
れば経済的飼養の實が挙がらない
もので尚ほ試験時代に属すると言
つて宣いが他の各種は年と共に成
績の向上して来ることは喜ぶべき
現象である即ち蕃殖の成績を見る
と適齢牡羊四百九頭に対し生産が
三百三十三頭で有るから八一四%
の好成績を示してゐる然し此の牝
羊中には種牡羊の関係上種付に供
さないものも少くないのであるが
空知北見方面各種五十三頭の平均
は実に九四三%と言ふ頗る良好の
結果である
又収毛の成績は浦河空知室蘭函館
の各
△方面の調査  でランブイ
ーメエリー種が十斤七分シユロツ
プシヤー種か七斤四分サウスタウ
ン種が五斤四分で各種を通じ二百
六十四頭の平均が八斤六分である
之れも府県の四乃至六斤に比する
と非常の好成績と言つて宜いも一
つ綿羊の発育状態を調べて見ると
前記の各地で本年三月中旬前後生
れたものが六月の中旬に三十四頭
の平均で六貫三百二十七匁になつ
てゐる北村のランブイーユカリー
種の如きは一日平均六十八匁(最
大九十四匁)の増量で大体に於て
優良な成績である之を要するに本
道の綿羊の成績は極て良好である
という事が出来る農業の発展と相
俟て其の前途は洋々たるもので本
邦羊毛自給上人々と共に欣び度い
のである
(大正9年12月11日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム、)


○本道緬羊成績
  羊毛の需要と
  飼育並に収入
 (下) 道庁津田技手談

終りに各地に於ける飼養者二三を
照会する飼養試験を委托せられて
以来頗る
△順調の発達 を遂げて、
現在では飼養戸数六十、緬羊二百
四十三頭を算し、本道第一の緬羊
村である
昨年本邦最初の有珠郡緬羊畜産組
合を設立し又緬羊品評会を開設し
て成功したしそして此処に至る迄
には飼養者一同の理解ある協議が
與つて力あるのであるが特に伊達
男爵、高野貞助、萱場粂三郎其他
佐治為治及為信の諸氏の功を多と
せねばならぬ、就中萱場粂三郎氏
は同村緬羊の主唱者で明治四十四
年以来之を飼養し頗る良好の成績
を挙げてゐる、飼養頭数は五十四
頭で本邦における成功者の一人で
ある、同村上野タケ氏は僅に一頭
の緬羊から今日八頭に増殖し毎年
剪毛の際の屑毛を利用して家族の
シヤツや目出帽などを造つて居る
緬羊の真の経営者で婦人飼養者の
模範である似湾村紀藤昆次郎氏は
目下十二頭を飼養し同地方に於る
△模範農家で ある、空知
支庁管内北村は伊達村に次で綿羊
飼養地で同農場主北村亀、牧場主
北村謹両氏の熱心なる指導に依る
ものである
既に飼養組合を設け一定の方針計
画の下に事業を遂行してゐる目下
の頭数は百十五頭で大に将来を嘱
目されて居る、同村の字中島と称
する一部落の飼養状態は一般の模
範となすに足るものである音江村
は綿羊に付ては相当古き歴史を有
するが飼養者の移動するのと血液
の更新を怠つた為め未だ良成績を
挙げて居らぬのは惜しい事である
頭数二十二頭江部乙村佐々木仁太
郎は五頭を飼養する同村の農家で
飼養管理には相当の注意を払つて
ゐる、滝川町には五戸七十頭の緬
羊が飼育されてゐるが成績は先づ
中等である、長沼村は本年十八頭
の払下を受けたる新飼育地である
浦河支庁管内の下下方は昨今の払
下地で頭数僅に十九頭であるが一
同の熱心洵に賞すべきものがある
△中心人物と しては在田
畜産組合長吉田校長及び大津試験場
長が有り将来有望の地である
函館支庁管内の八雲は昨年及一昨
年の払下である、同村小寺毅氏は
古く緬羊を飼養し目下十七頭を有
して居る、経営は一般の模範とす
る所であり桔梗園田牧場当別トラ
ピスト修道院も亦緬羊に古き経験
を有してゐるが成績は中等である
檜山支庁管内の利別は十五六頭飼
養せられ丹羽村は本年二十頭の新
払下地で飼養者の決心頗る固いも
のがある、後志支庁管内の喜茂別
村斉藤林松(十五頭)真狩村岡根庄
次郎(五頭)南尻別村吉橋理佐久(九
頭)氏等は何も従前よりの飼養
者で且つ篤農家である飼養の成績
も亦見るべきものがある、札幌支
庁管内の琴似村は本年十八頭の新
規払下地で一同の熱心賞すべきも
のがあり将来を期待されてゐる、
網走支庁管内の常呂村秦仁三郎氏
は明治四十三年末の飼育者で目下
十三頭を有してゐる、上湧別の城
岡作太郎氏は十六頭を有してゐる
而して成績は中等である、紋別住
友家の支那羊七十九頭は未だ試験
時代である
以上の外釧路支庁下の小田切栄太
郎氏等は本道に特筆すべき飼養家
で上川支庁の松平農場も相当古い
経歴を有つている
(大正9年12月12日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム、)




●羊太夫の石碑
 (羊年年賀用の字はがき)
       大槻如電

未年の年賀状に何か絵はがきの思付きはあ
りませんかと或者から申込まれたが羊の故
事は我国さらに無い夫れから去年午歳の例
(催馬楽)もあるから字はがきとして羊太夫
の碑がよからうと此の字はがきを作らせた
のです。此碑は上野国多胡建郡の標石で日
本三古碑と申して下野の那須国造碑と陸前
の多賀城門碑と共に千年以上の旧物である
和銅四年とあるから今年から千百九十五年
前の古物で実に珍らしい愛でたい紀念物で
あります
羊太夫といふは俚俗の称で文中に給羊とあ
るを羊に給ふと読んで羊を人名として太夫
の号を添へたのである。羊は養の省文で給
養は課役を免除する事である
此碑は上州吉井の南の在所にある覆ひ堂を
建てられ扉は鍵がおりて容易に窺う事が出
来ない。石質は粗末で数百年風雨に洒され
て文字漫滅してゐる。此の字はがきの原物
は所蔵の拓本で文字鮮明の方である世には
木版の拓本もある
賀辞はトキハカキハと云ふ言葉はかの巌と
なりて苔のむすまでと同じ意で千代に八千
代と賀ぐのである。古書には総て常磐堅磐
とかくが石碑だから磐では納まらない。そ
こで拙老が新案で石とした。だが拙老が新
案でない。類聚国史に常石堅石とある。め
でたしめでたし
(明治40年1月1日付日本新聞朝刊*面=マイクロフィルム、)

     


  羊毛の筆
      宮内得応

羊毛の筆は唐紙く書くには工合が宜いが、
日本紙へ書くには、どうも工合が悪いとい
ふことに就いて御話致しませう。これはまこ
とに妙な事ですが、私が以前三条公御在世
の折、筆の御用を仰せ付かつて能く伺ひま
したが、三条公が懐紙へ和歌などを御書き
になるには、どうも日本の鹿の毛の筆の方
が工合が宜い、羊毛の筆では、どうも墨附
が悪いと仰せられました、東久世様なども
同様の仰せがありまして、仮名書の筆は、
いつも日本の鹿などの毛で拵へえた筆を差
上げます。其の代り漢字を唐紙へ書かれる
時には羊毛其の他彼の国の獣の毛で拵らへ
た筆に限るといふことを仰せられました。国
を同じくするものは矢張紙となり筆となつ
ても墨附の良否にまで縁の濃い薄いを現は
すものかと、まことに面白く思ひます。こ
れは国々によつて気候も違ひ、随つて動物
草木の食物肥料等の具合種類も違ふ爲だら
うと考へます、現に同じ日本の鹿でも国を
異にするに随つて毛の工合が違ひます、馬
でも何でもすべてさうで、筆を拵らへる者
は、すべてかういふことに気を附なければ
なりません。羊の毛でも出る場所によつて
定つた相違があるのでせうが、羊の毛は、
すべて支那辺から毛で持つて来ますから、
どこの羊の毛がどうといふ御話は出来兼ね
ますが、やはり毛によつて相違のあることは
確かで、やはり其の毛の太細、硬い軟いで
拵らへる筆が違ひます。他のものゝ毛で拵
らへる時でもさうですが、すべて腰の強い
といふ筆は細い毛を数多く集めて、殆んど
軸へはいり切らぬという程にして、其の根
を固く締めて軸へ入れると腰が強くなりま
す。世の人はよく強いといふことと硬いとい
ふこととを間違ふ様ですが、硬い筆と申すと
太い毛を数少く集めたもので、鳥渡見ると
強い様に見えますが、書くこと暫時なれば間
もなく先が切れ、又脆く毛が折れたり致し、
又毛と毛のくッつく力が足りないから、文
字のはねる所などでは毛が分れてかすれて
まことに見にくゝなります。細い毛を数多
く集めて拵らへた筆は、先の切れることも遅
く、毛が細い爲めによくくッつき合つて、
いつも共同して働らきますから、文字のは
ね口なども、まことに手際よくゆきます。
これはすべて筆を拵らへる者の注意すべき
事で、羊毛の筆を拵らへるにも同様に気を
附けなければなりません。又太い毛と細い
毛と交つてもくッつきが悪うございますか
ら、毛を選ぶ時に、よく之を撰り分けなけ
ればなりません。私はこの事から会社とか
何とか、あゝいふ風に人を沢山使つて仕事
をするには、利口な人が沢山あるばかりで
は仕事は出来まい、利口な人少数と、利口
でない、唯人のいふ通りハイ/\と云つて
動く人が大勢とでなくば仕事は出来まい、
利口な人同士では、各自分自分の意見とい
ふものがありますから、お前そッちへ行
け、おれはこッちへゆくと云ふ風に、丁度
太い毛の筆が字のはね口といふ肝腎な所で
分れて見苦しい字を拵らへる如く、茲処と
いふ肝腎な場合に角突合が始まつて仕事が
滅茶苦茶になるから、利口な人の寄り合つ
てする仕事は割合に成功しない例が尠くな
いのであらうと思ひます。利口でない人は
自分自分の意見といふものが確乎しないか
ら、丁度細い毛同士の如く、互に頼り合つ
て助け合つて共同して事をするから、頭に
なる人さへ確乎して居れば割合に仕事が捗
取るのであらうと思ひます。筆でも心の入
れかた、根の締めかた、軸の拵らへ方、首
の入れかたにさへ注意をすれば細い毛を数
多く使つた筆ほど、長く保つて腰が強くて
調子が宜いのであります。序に申します
が、羊の毛の筆は、絵具筆に使ひますと、
色が滲み込んで、水で洗つてもよく落ちま
せんから、その筆で更に他の色の絵具を使
ひますと、以前の色が幾らか交つて、どう
も色の揚りが悪うございます。日本の鹿の
毛の筆などは、水で洗うと奇麗に絵具が落
ちますから、次の絵具に障りませんで、色
の揚りが、まことに宜うございます。です
から羊毛の筆は絵具筆にはいけません。こ
れと日本紙には適はないという事とが羊毛
の筆に就て特に申すべき事でありませう。
(明治40年1月1日付東京日日新聞朝刊6面=マイクロフィルム、)
時計台の「演武場」は三条公筆。




北海道の食文化
        田原良信(箱館奉行所)

<略>北海道各地で広く食された馬鈴薯料理の代表格と
もいえる「三平汁」は,江戸期の松前地方の漁師料
理がルーツであり,その後に広がった地域にあった
食材を加えた三平汁が食された。具材の魚にはサケ・
タラ・ニシンなど,地域や季節に合った特有のもの
が用いられ,野菜等の穀物は,イモ・ダイコン・ニ
ンジンなどが主である。なお,三平汁は味噌汁など
とは異なり,汁物のスープとしての役割ではなく,
水分は少なくて具である魚やいもなどを食するため
のもので,「三平」と呼ばれることの方が多かった。
具沢由の三平汁であるために,使用される食器は
やや深めの中皿が最適な大きさのものとなり,普通
のお碗では不足であった。中皿の大きさは,直径15
cm前後,高さ4cmm前後,深さ3cm前後となる陶磁器
製のものが多く用いられている。この中皿が通称「三
平皿」と呼ばれている。中皿の形態は,型打ちの輪
花形や丸形となる皿が大半で,絵付けは手書きのも
の,型紙摺りや銅版転写などのプリントのものがあ
る。手書きのものは,呉須による染め付けや色絵な
ど多様で,特に幕末期と考えられるものに多くある。
これに対して,型紙摺りや銅版転写のプリントのも
のは,コバルトによる松竹梅文や唐草文などが主流
であり,明治期から大正期に属する製品とすること
ができる(図4)。北海道内で三平皿が使用されて
いる各地の場所においては,明治期から大正期のプ
リント文様の中皿が多くみられる傾向にあることか
ら,馬鈴薯を用いる三平汁などの食文化が各地に広
がり,定着していった様子が伺える。馬鈴薯は北海
道の食文化ではなくてはならない食材であり,ほと
んど主食としての存在であった。北海道の食の近代
化は,この馬鈴薯の生産拡大を図り,主要食材とし
て確立したことが始まりといえよう。
(考古学ジャーナル編集委員会編「月刊考古学ジャーナル」675号15ページ、平成27年10月、ニュー・サイエンス社=原本、)




   羊(三)
      獣医学博士 須藤義衛門

   健康なる羊<略>

   本邦に於ける牧羊

本邦に於ては明治八年に至るまで、牧羊の
事なかりき。只往古より琉球に山羊を産し
現今十三万頭の多きに達せると、小笠原島
にも亦山羊を産す(往年米国水師提督ペル
リ氏の放ちたるものより蕃殖せしなりと云
ふ)るものありしのみ。此故に緬羊の牧業は
極めて近代の歴史あるに過ぎず左に其概要
を述べ、聊か以て世人をして当局者が辛苦
経営の一端を知らしむるの料とせん。
牧羊の事たる、衣食住三者中の二要を兼ね
人生須臾も欠くべからざるものに属す。従
つて開港以来逐年絨布の需要を増加し、多
額の国幣を費して之を海外に仰ぐの状態な
り。されど海外の供給を仰ぐのみにては到
底一般の需用を充たすに由なく、且之が爲
に多額の金銭を海外に投ずるは、国家経済
上亦黙視すべからざるを以て、曩に文部省
より岩山敬義氏等を欧米に派遣し、専ら開
墾牧羊の事業に就き、実地調査せしむる所
あり。此等諸氏の帰朝後、漸次斯種の事業を
興さんと謀るに際し、適々米国人ジヨンス
氏も亦斯業につ就き
建白する所あり。
内務省乃ち此言を
納れ明治八年九月
故参議院内務卿大
久保利通公に依つ
て、創めて下総に
一大牧場を拓き、
海外良好の種畜を
索め、畜産の改良
蕃殖を謀り、其増
殖するに従ひて、
順次之を各地方に
配布し、大に牧羊
業の振興を企てん
とせり。是れより
先き、明治八年五
月牧羊開業取調掛
を置き、牧羊開業
の事務を掌理し、
岩山敬義氏を長官
となし、米国の牧
羊家ジヨンス及ド
クトル、ヱツチ、
レーサムを傭ふ。
就中ジヨンス氏は
牧羊の事に精し
く、且頗る黽勉な
るが故に、斯業一
切の事を総括し、兼て勧業寮の選抜せる牧
羊生徒教授の任に当らしめぬ。翌九年清国
より各種の緬羊一千三百余頭を購入す。
其翌年にね亦米国産メリノー種五百余頭を
購求す。
此歳同国カリフオルニヤ州人ベーカー氏、
我政府の牧羊開業の美挙に感佩し、聊か微
意を表せんとて、メリノー羊種二十二頭を
献納せしかば、政府は報酬として大和錦二
巻を贈与せり。
此歳英国人リチヤルドチヱー氏を雇入れ
現業手伝人と爲し、傍牧羊生徒を教育せ
しむ。
明治十一年蒙古地方より支那羊九百九十余
頭を、欧州よりメリー羊一千三百九十余
頭を購求す。
明治十三年にも亦米国よりメリノー種羊七
百二十頭を購求す。
明治九年より同十八年に至る十箇年間青森
山形、高知、東京、秋田、静岡、巌手、長崎、鹿
児島、大分、千葉、茨城等の各府県、其他
に貸与せし緬羊、合計二千二百二十八頭の
多きに達せり。
東京駒場農学校に於ても、明治九年英国の
牧羊家ビグビー氏を雇入れ、本科学生の外、
各府県の現業生徒を募集し、泰西農業及牧
羊業の教授を始む。
明治十四年 陛下には下総種畜場に御臨
幸、羊放牧の景況及護羊犬の使用等を天覧
あらせらる。
翌年再び御乗馬にて行幸、事業の景況を叡
覧あらせられたり。此時御野立所に桜樹を
栽植し給ふ。現に『御幸櫻』と称せられたる
は即ちこれ。
明治三十七年末現在(農商務省調査)羊頭数
は左の如し
緬羊 東京、大阪、千葉、群馬、栃木、巌手、青
森、石川、大分、熊本、鹿児島の各府県、北海
道、農商務省等合計二千七百六十九頭。
山羊 茨城、奈良、三重、山梨、青森、山
形、福井、石川、富山、岡山、和歌山、徳島、
香川、佐賀、宮崎の各県には存在せず。其
他の各府県に飼養する頭数、合計六万七千
九百七十二頭。
 此外下総御料牧場の飼養頭数一千二三百
 頭。又長崎県下には本田親基氏の起業せ
 し牧羊場ありしが、農商務省調査の表に
 拠れば、三十七年十二月末日には一頭の
 緬羊なく、却つて二千七百八十七頭の山
 羊あるは聊か不審なり。
(明治40年1月5日付東京朝日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、)




●我が
 邦の 牧羊業
  (其の起源、飼育法、利益)

年立ちかへる新玉の年に因みある牧羊事業が、
久しく我国民に見捨てられて居つたが、因みあ
る年に向ふい、偶然にも再び其の頭を擡げ来り
茲に復活の生命を得んとしつゝあるは奇とすべ
くも又た喜ぶべき事である、此の復活の原由を
説くに先だち、我国牧羊業の由来を討ぬるのも
又た一興であろう▲我国牧羊業の起原 山羊は
余程以前から居つたけれど、緬羊の牧養を始め
られたのは明治維新の後である、即ち明治八年
に米国人ジヨンス氏が、牧羊の必要なる事を、
時の内務卿大久保利通氏に説きしに、卿は其説
を容れて一方に牧羊場を開くと同時に、千住に
製絨場を起した、今の三千五百万町歩の大地積
を有する下総の御料牧場は、
即ち是である、当時此の地方
は六里が原と称して、一望
千里の茫漠たる原野の、多
古と酒々井六里間の往来で、
道路頗る険悪、人通りも至
つて稀れで、至る処に野生の
馬が出没して居つた、大久保
卿は再度まで該地に出張して
牧地を選定し、米国より六百
頭の緬羊を取寄せ、ジヨンス
氏を同場の教師兼主宰とし、
若し利益あれば之を分配する
事を約束して、氏の努力を奨
励した、大久保卿の如何に牧
羊に熱心であつたかは、次の
逸事にて解るのである、恰ど
牧場が開かれて三年目に、緬
羊が続々として弊れるので、
時の場長岩山敬義氏は痛心に
堪へず、其旨を上申しやうと
倉皇東京に出でゝ、卿に面会
した、すると卿は執務の手を
止めて其来意を問はれた、氏
は羊が死んだから其旨を言上
せんが爲めに来たのですと答
へた、さうすると卿は態々出で来る位ゐである
から定めし羊が一匹も残らず死んだのであるか
と問はれたから、氏は否左様でないと答へたら
卿は声を励まして、然らば態々出て来る必要が
ない、外国の例を見ても牧羊業が爾う早速に成
功した例があるか、幾多の困難は最初より覚悟
の前でなければならぬ、若羊の声が一つも聞れ
なくなつたら出て来るが可いと謂はれたとの事
である、爾来諸種の困難に遭遇する毎に、死し
る卿の此声が活きて同場職員を励ましたのであ
る▲我国牧羊業の復活 牧羊場の創立せられて
から、卿は頻りに斯業を奨励し、所々に其の羊
種を分ちたけれども飼養法の進歩しないのと
羊種の本土に適しなかつた爲め、失敗に次ぐに
失敗を以てし、牧羊は到底我国に不適当である
と断念せられた爲めに、当時の創立に係るもの
で、今に存在するものは、長崎県下温泉嶽に於け
る恒産会社の牧羊場のみである、それさへ従来
幾多の困難に遭遇したのである、然るに単り下
総御料牧場にては、多くの困難に打勝つて、飼
養法を研究し、種羊の改善を計つた爲め、牧羊の
我国に於て有利の業たる事が認められ、殊に同
牧場技師辻正章氏が三十余年間の熱心なる研究
に依つて、舎飼法の農家副業に適当なるを発見
した結果、漸く牧羊業復興の兆が見えて来た、
其処へ昨年来戦後事業勃興の気運に伴ひ、毛織
物原料たる羊毛の需要日に増すに拘はらず、是
が原料は一に輸入品に頼るの外なきは、一国の
産業独立上不利の甚だしきものなる事を悟つた
のと、戦後陸海軍省の如きは、軍艦の食用たる
べき羊肉、製絨原料たる羊毛の専ら外国品にョ
らざるべからざるは、一国軍需品の独立を完う
する上から、頗る危険なる状態であるといふの
で、牧羊奨励の必要を感じた爲め偶然にも久し
く廃れていた牧羊業が、因みある未年に於て一
新紀元を開いたのである▲舎飼法とは何ぞ 牧
羊の方法には放牧と舎飼との二種がある、放牧
とは原野に放ち牧ふので、大規模の牧場制度に
適するのである、舎飼と云ふのは即ち辻氏の発
見に係るもので、専ら小さい小屋に入れて置い
て飼ふので、小規模の牧羊、即ち農家の副業的
に行るのに適して居るのである、尤も牧羊事業
は勃興を期するには、放牧主義の大企画を望む
べきではあるが、先づ行い易くして、効果の多い
は舎飼法である▲舎飼法の利益 舎飼法の利益
なるは一坪に三頭乃至五頭の割に小舎内に飼ふ
のであるから、第一には場所を要さない、第二
には監督の手数が要らない、第三には羊は植物
質のものは何でも食ふから、農家では廃物を以
て飼ふ事が出来る、第四に脱糞は牛馬のそれよ
りも肥分多く、殊に桑煙草の肥料に最も適当す
るから、外国の煙草の産地では、煙草の産額に
応じて、副業的に羊を飼ふて居るほどである▲
舎飼法と組合 羊は牝五十頭に牡一頭の割で配
してよいから、副業的に各戸五六頭宛飼ふには
組合で牡を置く方が利益である、又剪毛を売る
上から云ふても、共同して売払ふた方が万事に
便利である▲如何なる土地に適するか 牧羊は
最も湿気を厭ふ動物であるから、高燥の土地で
青草の豊かなる所は気候の寒暖を問はず適して
居る、又た昨年本邦に来たニユージランドの牧
羊家ドーナルド氏の話に依ると、ロムニーマー
スユ種と云ふ羊は我国の如き雨量の多い土地に
適して居ると云が、此種なれば何の地方にも適
するであらう、早晩我国へも輸入せらるゝ筈で
ある▲如何なる羊が利益なるか 羊には山羊と
緬羊との区別があるが、山羊には肉を専らとす
るものと、乳汁を専らとするものとあつて、山羊
の毛は羅紗の如き上等の織物には出来ないが、
我国に奨励すべきものは緬羊である、緬羊にも
肉を専らとするものと、毛を専らとするものと
あるが、緬羊の方は肉毛両種共に羅紗に適する
のである、只肉種はその味美なるも其毛量多か
らず、毛種は毛量多きも其味美ならずと云ふだ
けの相違である、是まで我国に輸入せられたの
は、緬羊中の改良メリノー種か黒面種である、
然るを卅四年に独逸よりラムブリー、メリノー
種を輸入して目下其種の蕃殖に力めて居るが、
此種は毛肉兼用で、独逸に於ける某牧羊家が、
父子三代の久しきを経て改良した種であつて、
現今欧米各国に行き渡つて居る此種の種羊の上
等の分は、一頭一万円もするのがある、普通の
ものでも千円より二千円もする、御料牧場に於
ても此種の全国へ普く渡る様に力めて居れど、
漸く本年度より牡羊の少しばかりを払ひ下る位
のものである、現今全国に五千余頭の緬羊が居
るけれど、此内岩手県下小岩井の岩崎農場にあ
る三百頭を除くの外は、皆御料牧場が其生地で
ある▲牧羊には幾許の利益あるか 一年の剪毛
収獲高はラムブリー、メリノーが十五斤乃至二
十斤、改良メリノーは七斤乃至八斤、K面種は
五斤乃至六斤であつて其価格は孰れの種類を問
はず、一斤四十六錢五厘に売れるのである、又
肉は生体の儘で一斤十錢であるなら何時でも売
れる、我国では横浜の丹波屋で、御料牧場の羊
肉を一手にて売つて居るが、それが横浜で売れ
る全部の僅か幾分であつて、其の大部分は上海
から輸入せられて居る、欧米各国では羊肉が諸
種の肉の最上位にあるから、価格なども一番高
いのである、横浜では一斤五十錢位で売て居る
是でも牧羊が単に剪毛の目的以外に、利益ある
事が分る、買肉から幾許の利益が上るかを見る
爲めに、羊の生育を知るの必要がある、羊の発
育時期は最長二十ケ月であつて、ラムブリーメ
リノー種の牡は体量卅二貫乃至四十貫、牝は十
八貫乃至卅貫、K面種の牡は二十貫乃至二十五
貫、牝は十二貫乃至十五貫となる、又分娩後十
五ケ月に至れば交接し、懐胎期間は五ケ月であ
るから、一年に二回子を生み、大低一回に一子
なるも稀には二子を生む事がある、
(明治40年1月1日付都新聞朝刊4面=マイクロフィルム、)




肉食の発達

 十年前に比べると我国民の一般は盛な肉食国民になつた尠くも帝郡二百萬の市
民は十年前に此べれば約二倍の肉を食ふ様になつた。
▲牛は一年三萬頭 東京市民の食ふ肉牛豚馬等の屠殺場は大崎、三の輪及寺島村
の三箇所で此の三箇所での昨年中の屠殺数は牛三萬頭豚一萬七千頭馬一萬頭羊二
十頭で日本人が盛な肉食国民になつた事が知れる殊に牛三萬頭を一年間に食つた
事は是迄にない多食の新記録で一ケ月に約三千頭一日に約百頭の割合で牛一頭に
は大抵平均七十貫目位宛の肉があるから即ち一日約七千貫目位宛の肉を二百萬市
民で食ぶ訳で一人平均三匁五分位宛の牛肉を食つて居る訳になるから一人で百匁
の牛肉を食ふ人は凡を三十人に一人しか無い割合になる豚も年々余計に売れるが
馬肉ば余り澤山は食はなくなつて來た羊はまだ宮内省御用の外は一般には余り食
はれない。
▲鶏肉も却々食ふ 鶏は屠殺場が無いのでよく解り兼ねるが大体東京全市で一日
に一萬八千羽位は食べる即ち一ケ月で約五十四萬羽其中半分は普通の鶏半分は軍
鶏、矮鶏、洋鶏、オケツコウ、鶩、七面鳥等で孰も一羽の肉は平均四百匁宛位で
あるから一ケ月にすれば廿一萬六千貫目の鶏肉を帝郡二百萬の市民で食べて了ふ
訳である一人にすれば一日約三匁六分宛食ふ訳であるから鶏肉百匁を食ふ者も二
百萬市民中三十人に約一人はある訳になる即ち鳥獣肉を合せれば此二百萬の市民
中十五人に一人は一日平均百匁宛の獣鳥肉を食べる人があると云ふ訳になるので
ある却々盛なる肉食國民になつたものである。
(肉食奨励会編「肉と乳」第6巻7号57ページ、大正4年7月、肉食奨励会=原本)


●料理雑談
  京都東京大阪神戸の特長

▲京都で料理通として知られて居る四條大橋の藤田清三郎氏は此程全国料理の特
長に就き興味ある談話をした其一節に曰く、京都は料理の源で桓武天皇以來藤
原家其元となり生田流が全國に流行して殊に儀式献立を主として仕事は綺麗に萬
人の舌に適し且つ経済を重んじ如何に東京大阪でも一度京都を修業せねば一人前
の職人と言はれぬとになつて居る而して江戸式と京都式を折衷したる間の子を大
阪神戸が歓迎する
▲名古屋は伊勢式と称し所謂中國風の一派を為し江戸式と京式を放れた華美を主
とす長崎は京と元として大阪風を取る北陸東北は幼雅と言ふも過言にあらず東京
の切身は三枚におろして片身を三ツ切として更に庖丁を斜に入れて斜方形に切る
京は絶対に之を下品として方形式は長方形に切つて高尚を尊ぶ作身は東京も綺麗
なれども上品を破ぎ蛮風を免れず
▲色物と称する野菜物を煮るにも東京は天然の色澤如何を顧慮せず京は之に重き
を置く煮物は東京が味淋、砂糖を多く用ゐて關東以外の舌に合はず……とて生粋
の京風味は辛しとて東京に合はず鳥職人も東京が薄切りにて京のボツ/\切に合
はず去りとて東京の鶏肉の作り身は大なり只東京職人として天下に誇るに足るは
天麩羅である之は江戸の代表的料理とも云ふべく炭と油を経済にして其揚加減の
上手なるは天下独特なり
▲又東京の料理 対職人の規律よきは感心なことで板場は一定の時間に出勤して
主人より挨拶し如何なる場合とて一定の時間に帰宅し若し事故あれば主人に暇を
乞ふて代人を入れ差支させぬ、京都大阪其他は不規律で一定の勤務時間なく職人
も亦無断欠勤して主人の迷惑を顧みず随つて主人は職人を重用せず阪神は掛合は
しと称して臨機応変の機略に富む職人を歓迎する神戸は御料理(海魚、川物、鳥、鮨)
と四職に分れて大阪と大差なけれど獨鮨のみは腕を鳴らして京阪を圧して居る尤
も鮨は東京自慢なれども京阪では卑しむさりとて京阪式は自慢するの余地なく京
職人の江戸仕込を高尚とす鰻は東京のは蒸して脂肪を抜きタレが甘口なるを以て
口中執拗く京は蒸さずに醤油二升酒しほ八升の煮詰めたるタレを付けて軽く甘し
凡て川魚は生臭きものなれば火をよく通す事肝要である
(肉食奨励会編「肉と乳」第5巻1号60ページ、大正3年1月、肉食奨励会=原本)


●君が代料理
      (故グリーン博士の逸事)

日本へ基督致傳道に來て居たグリーン博士が極めて温厚な永
の滞在中には色々と日本のためにも骨を折られたことは有名
な事實だが此の博士について美しい逸話があるそれは明治二
三年頃の博士が未だ神戸に居た時分だと思ふ長州の毛利公の
御隠居がある人を介して二人の家臣を博士の屋敷に差し遣は
して西洋料理見習ひの役目を申し付けられた所が暫らく立つ
て政府から突然其二名の侍の許に至急御用があるから上京す
る様にとの差し紙が來た當時はまだ例の邪教禁制で世間が喧
しかつたので二人の侍は屹度自分等が博士の邸に出入してる
ので罰せられるものと早合点し真青になつて上京して見ると
大膳職に西洋料理人がないので召抱えられるのと判りやれ
/\と安心したが二人で作つた馬鈴薯に牛肉をあしらつたも
のが非常に陛下の御思召にかなつたと見え其後数回同様の御
下命さへあつたと云ふ事を後で博士が聞き自分の邸で習つた
粗製物が思ひがけもなく九重の御賞讃を頂いたとは身に余る
光榮と深く感謝し爾來其料理を君が代と名づけて家内に祝事
等のある度毎に作つて先帝の御高恩を拝謝し居たとの事だ。
(肉食奨励会編「肉と乳」第5巻10号66ページ、大正3年10月、肉食奨励会=原本)




各國兵と其の戦事食料

兵糧が鐵砲玉より大事な事は今更云ふ迄もない什麼に精鋭な
る兵士と雖も『腹が滅つては戦が出来ぬ』扨ても今度の交戦国
の兵士の給養には何う云ふ風であらう

 口御馳走澤山の獨國

 先づ今回大戦争の中心となつてゐる獨逸の戦時糧食の定量
は、麺麭二十二匁五分、重焼麺麭百三十五匁、麺麭用麦粉百
四十五匁、鶏卵入ビスケツト百八匁の四種中一種を其の時と
場合とにより給與し、生肉が不足の場合は燻煙の牛、豚、羊
脂肉などを與へる又乾燥野菜、馬鈴薯、罐詰野菜等の内一種
を選み之れに食塩六匁、珈琲(焙)六匁八分、茶八分、砂糖五
分の内から一種を與へる事になつて居る必要の時は火酒一里
突若くは茶コーヒー等を加へて倍量の茶を給与する次に佛蘭
西は普通麺麭二百匁、重焼麺麭百八十七匁、戦用麺麭百六十
匁の三種の中から一種、其れと生肉百七匁、味附罐詰、野菜
食塩、砂糖各五匁、烙珈琲、生珈琲等を與へ尚ほ野外用の食
物としては生豚肉塩スープ葡萄酒又は麦酒ブランデー等も與
へられ酒保販売の煙草も四匁位は吸はせる。

 □黒パン噛る露國

 露國は黒パン百九十四匁、麺麭の内一種に牛肉百九匁若く
は罐詰八十一匁加之に生野菜乾菜食塩百二十四匁バタ五匁麦
粉四匁茶六分砂糖六匁胡椒等も支給する而して将校は是れ以
外に肉及びブランデー若干が貰へる軍隊は毎日一度温食を給
せらるゝ常規がある一体露西亜の兵士は黒パンと水と塩さヘ
あれば五日や十日糧道を断たれても平気の平左の点は贅沢な
生活に馴れて佛蘭西や英國の兵等には一寸真似の出來ぬ處が
ある。

 □香料を呉れる墺國

 墺洪國はパン百八十九匁、重焼麺麭百三十匁の内一種に牛
肉百八匁野菜脂肪汁罐詰塩砂糖珈琲及び香料の少量煙草九匁
ブランデー五勺が完全な戦時定量である英國はパン百五十一
匁ビスケツト百二十匁パン粉の内一種に生肉百五十一匁若く
は罐詰塩肉を給與し生野菜が乾果物なら三十匁を代りに與へ
生野菜が無かつた時はレモン水と砂糖を與へ尚ほ此外にラム
酒や煙草も給与はれる。

 口米と塩で大丈夫

 扨て最後に日本は什麼かと云ふと戦時基本定量は精米が六
合之が代用としては糒五合麺麭二百七十匁乾麺麭百八十匁の
内一種を與へ罐詰肉は四十匁と定められ無い場合は生肉や燻
肉卵なぞが代用品として用ゆられる夫れから梅干か福神漬十
匁と醤油エキス五匁(代用としては醤油四勺)に味噌二十匁
(或は粉練味噌五匁)食塩砂糖各三匁茶一匁が定量で加給品と
しては清酒二合火酒なら四合甘味品三十匁以内、紙巻煙草二
十本を與へ現地に於て調辮し得る生肉は七十匁と定められて
居る併しイザとなれば塩と米があれば十日でも二十日でも平
氣で我慢した例もある此点は欧米人には見る事の出来ぬ特点
である。

 戦乱と食料品

 贅沢品はまあどうでもよい、是非一日も無ければならぬも
のは食料品である、其中で日本の土地で出来るものは何でも
無いが舶来で無ければ得られないものは今度の時局の爲めに
まるで來なくなつた。

  口洋食の原料品

 覿面にうろたへ始めたのが洋食店である、これ迄洋食の原
料は多く佛蘭西及び英吉利から買つて居たが佛蘭西は去月三
十一日限り食料品の輸出をしない事になつた、英国からはま
だ何の通知も無いが事實荷が來なければ禁止も同然だ、獨逸
からも多少原料の供給を仰いで居たがこれは勿論もう何とも
仕方が無い、獨逸は事によると自分の國が食料品で往生する
かもしれぬと心配して居る位食物には貧しい國である。

  □品物の買占め

 昨今洋食屋仲間ではもう値段に係はらず品物本位で買ひ占
めにかゝつて居る、少々高くも仲間同志で殆ど奪ひ合ひの有
様になつて居るが又一方ではこの機運をつけ込んでもう品物
は何處にも無いと嘘の相揚を造り出す腹の黒い者も少なくな
い。
 洋酒の方は食料品程あせり様が激しくないが然しなか/\
の騒ぎである、世間が暫らく不景氣続きだつたので一向注文
もしなかつた處へもつて來てさあもう品が來ないとなれば只
その儘には捨て置かれぬ、殊にシヤンペン等は御大葬以來御
遠慮の結果ずつと需要が少くなつて居たが若しこれで戦捷の
祝賀会でも頻々催される様な事にでもなればその時は品物が
間に合ずてんてこ舞ひをせねばならぬ。
 又葡萄酒の売れ行きは例年秋から正月にかけてそれから花
頃迄が書き入れ時になつて居たのが今度荷がはいらぬとなつ
ては大変だ、家庭用として最も需要の多い葡萄酒が來ないと
いふ事は家庭團欒の上に悲しむ可き結果を與へる事になる。

  口カレーの品切

 仏蘭西から輸入して使つて居たマカロニはもうそろ/\品
切れになりて各洋食店では差當り大いに困つて居る、何とか
日本品で似たものを造らねばこの急場を凌ぐ事が出來ぬ、又
今後更に困る品はカレーである、カレーは勿論日本では出来
ず、米國でも欧羅巴でも出来ず、原料は印度で出來それを英
吉利に持つて行つて製し上げその上で全世界の需要に応じて
居たのであるからもう當分時局が納まる迄は來る見込みが無
い。

  口洋食店の狼狽

 市内数千の小さい洋食店では殆どライスカレーの売り上げ
をもつて算盤をとつて居た位であるから若しカレーが無くな
つて献立表の中からライスカレーを削らねばならぬ事となれ
ぱそれこそ一大事だ、カレーばかりで無い、胡椒の様なもの
も得られぬ事になると豚カツなどといふ料理も辛昧無しに喰
はせる事になる。
  
  口籠城主義

 これ迄舶來品は安くて一寸重宝なものだから何の氣無しに
其儘買つて使つて居たがいざもう來ないとなれぱ窮すれば通
ずとやらで苦しまぎれに却て私製品で舶來品に劣らぬよいも
のが出来ぬ限りも無いと昨今より/\代用品の研究に取かゝ
つて居るものさへある。問屋は割合に平氣だ、場合によつて
は手許に有るだけの品を値よく売り払つてあとは高見の見
物と澄まして居ても済むが、可愛想なのは小売店で死物狂ひ
になつて騒ぎ出した、旅館を兼ねた様な大きい洋食店ではも
う昨今籠城主義を取つて成る可く私製品ですむものは済ませ
舶來品は出来る丈け倹約する様になつた砂糖の騰貴、ミルク
の欠乏等の問題は今の處では何とも手のつけ様が無い窮境に
迫つて居る。
(肉食奨励会編「肉と乳」第5巻9号38ページ、大正3年9月、肉食奨励会=原本)




●軽子の内幕

銀杏返しに精々銘仙見当の着附、小さからぬ臀部を半幅帯に
全部暴露し、襷がけの紺足袋姿、軽子の粧ひは殆んど萬里同
風、之を粋だと見るお客もあるなり、お誂への煽りに御酒通
し物まで添えた廣蓋を食、中、母指の三つと肩先との中心取
り、千番一番の兼合にて梯子段を運ぶ軽子の藝當は、蓋し多
年の練磨から得た奥山式の離れ業なり、就中梯子段際から下
帳場へ誂へ物の通し方によリて、軽子の新旧如何を知るに足
るべしとは、ご念の入つた輕子研究者の申す所、
▼軽子の掛金   軽子にもまだ普通料理店の女中の如く下
番と座敷番とありて日々交替させる鍋屋もあり、又女中無人
の家にありては座敷のみに出すもあれど、常に五六名を抱え
居る鍋屋の軽子制度は大抵前者に拠るが多し、軽子には口賄
の給金なし、其日其夜の祝儀が収入となること、お医者様の
車夫と同様なり、唯だ其収得中より日々五銭若しくは十銭を
『掛金』と称して主人に納め、器物の破損辮償費もまた等しく
其お貰ひ中より支出する丈けが藪医の車夫公と異なる点なる
ぺし、其外承まはり客の債務なども、また軽子の責任にて場
合によりては其債務までも背負さるゝことあり、而かも日髪
日風呂白粉つけて紅つけて客の座に罷りツン出る軽子の懐中
勘定も苦しいものなり、
▼通ひと居附   軽子には自分の口丈けを主人任せにして
日々通ひ來る瘠世帯持もあれば、其儘寄せ部屋に雑魚寝する
獨身者もあれど、鍋屋の方にては客の人氣上世帯持の通ひ軽
子は喜ばざる風あり、故に最初の住込みには獨身者の如く吹
聴し置くも、日を経るまゝに二階借りする情夫のあることも
親が許した亭主のあることも知れ渡るなり、斯る手合は桂庵
の手から來る俗に渡り者に多しといふ、されば十銭二十銭の
祝儀も軽子に取りては容易ならぬ大金にて、鍋の世話からお
銚子の冷熱、持番のお客大事と冊きお世辞を並べるも無理か
らぬ次第なるも、鍋屋によりてば持番のみ大事として他の客
を疎外すとの弊害より全くお酌を禁じ居るもあり、之と反対
とベタ付を大に奨励するもあれど、先づ/\程よき所で切り
上げるが怜悧な軽子と評判さるゝものゝ如し、
▼軽子の収入   斯の如く軽子には住込める鍋屋によりて
収入の多寡はあれども平均月収上の部にて二十圓以上と知ら
る、之は自分の持番より入るものと総花式の割前より入る其
総計なり、又た一面軽子対手のお客の祝儀出す法にも持番馴
染みの軽子のみに五十銭出すもあれぱ同じ五十銭にても『皆
に』と云ふもありて其間おのづから二様あり但し『皆に』の方
は其後何れの軽子持になりても直段丈けのチヤホヤさるゝこ
と夢々疑ふべからずされば色男たがる銀流しなどは飲食代を
節減して祝儀を奮発すること廓内に於ける遊冶郎の寸法と同
じ、
▼輕子困らせ   軽子を困らせる作法尠なからず、先づ客
の次第に散ずる頃に遅く上り、一枚の鍋に割汁のみ漲らし
『火が落ちますが』で初めての生のお代りに漬物のお誂へ、夫
から一升代りとチビチビ客にも大抵弱るが、お正月の余興に
は家から餅を忍ぱして行き、之を鍋に焦げ付かせるが面白か
るべしなど、よくない謀反を企むもあり、前者は綺麗首の軽
子を張る蕩楽児などの、態ざとの業、後者は色氣抜きの書生
さん達の悪戯なり、軽子の勤めもまたツライもの同情してや
る直打あり。
(肉食奨励会編「肉と乳」第5巻10号64ページ、大正3年10月、肉食奨励会=原本)


食肉界に於ける馬公の勢カ
              平川畜峯

 口調では牛馬羊豚と申すが、肉の品位から云へば屠場法第
一條に示す通り牛羊豚馬の順序である、之を死前の功労に見
れぱ馬は第一番の働き者でありながらイザ肉となつては馬肉
馬肉とけなされて頓と頭が挙らない、が併し此世でシツカリ
働いた筈の馬公は、骨となつても首席で通らうとするには及
ばぬので、マア/\夫れで結構だが、我日本では馬を使用す
るものが未だ頗るぞんざいで、木か竹で造つた器物同様無茶
に酷待することが稀れでない。偶々馬の腰骨を傷めた時にも
治療代を支払ふよりも手取早く屠場に遣るか、さもなきや切
迫屠殺の便宜処分をやると云ふ具合で、馬の相場の安い間は
得てして無責任主義を発揮してしまふ、尤も改良種の上等部
類はさうではないが、地方農村の耕耘用兼肥蹈用として飼ふ
のに至つては極めて安値で、どうかすると一斤七銭の目安で
四百斤の肉量ある馬なら二十八圓の潰しに売る方が工面が宜
しい様な事がないでもない、そこで馬専用屠場とも称すべき
一らう豚Uう雀けん君うぼ
場所では老廃馬どころぢやなくて一見惜しい様な壮馬をどし
どし潰して居るから、馬も牛羊豚と同様頭から肉用動物とし
て産出するかの如き感じがする併し具さに観察すれは決して
肉用馬匹を育成する様な愚を學ぶものが今の世にある筈はな
く、何れも何等かの欠点例之ば体は立派でも裂蹄、蕪蹄、月
盲症、健炎、悪癖、關節の疾患、其他種々様々の難を持つて
居るのである、併かも其著しき欠点なるものは、概ね飼養者
又は使役者の不注意、不親切、若くは虐待に原因して居ると
認めるらるのが多い、是等の関係から馬匹改良対屠馬に就て
研究して見たら或は案外面白い発見をするかも知れぬと思ふ
詰り右様の次第ぢやに依て其等の地方に於ける馬肉は仲々甘
味い、従つて安くて甘味いのが馬肉、高くて不味いのが牛肉
と信じて居るから面白い。現に馬の屠殺で有名な某県下の町
営屠揚管理者が、牛肉は硬くで食へないと云つた、成程馬專
門丈けに肥へ太つた牝馬や騸馬を屠り、牛は一ケ年数頭其れ
も捨て物同様の老廃牛を屠る位ゐの事だから、午肉程不味い
ものはないと思ふのも強ち無理でなからう。
 さて日本で一番多く馬を屠殺するのは、東京府、熊本縣、福
岡県、長野県、岐阜県と云ふ順序だと記憶する、處が先達て
東京の或知人が、東京でも馬肉を売つてますかと云ふから、
東京こそ馬肉の本場ですよと例の櫻肉販売の話しをしたら頗
る驚いて居た、そして其人が或時熊本の牛肉屋で馬肉を食さ
れたときの話しが甚だ珍だ、何しろ素人の事とて確かとは鑑
定し得ぬ乍ら、どうも其味ひと云ひ泡の発生する具合と云ひ
的きり馬肉だと思つたから主人公に談判を始めた、「此肉は牛
肉ぢやなからう大変不味いぢやないか」と詰問すると、主人
公熊本辮で曰く『いやそんなことナカ皆様がうまか/\(甘
味か)と云ふて喰ふバツテン」と云つたさうだ、果して其肉
が牛か馬かは爰に問ふの要はないが、一般に世人は牛馬肉の
混売が盛んに行はれつゝある様に考へて居るから疑心暗鬼で
真物が却つて偽物に見えたりすることがないとは限らぬ、加
之東京なら東京で馬肉は澤山売つてないと思つてた人が、一
朝多大なる屠馬数を知るに及んで其肉は大部分牛肉に化ける
んだなと早呑込みをする、何時やらも此点に就て某地の新聞
紙に喧ましく書き立てたけれ共、之れは少しく否大分無理な
観察であると吾輩は信ずるのである。何故なれぱ都市での牛
肉店では顧客の信用に重きを措くから、さう/\無茶苦茶な
事はせまい、今一つは馬肉の消費者は労働者、農民若くは細
民等の社會が大部分だから、馬肉店は下町か、場末に占居し
都市枢要の街頭に営む様な事は稀れだ、加ふるに多数の行商
者が常に僻邑を廻つて責捌しつゝある事も思はなきやならな
い、之れは牛肉の勢カある都市の例で、馬肉のみ販売せらる
る土地に於ては自ら論はない筈だ、近頃食料問題が喧しくな
るにつれ、労働者乃至細民は成るべく安くて腹答へのある物
を撰ぶの必要から、だん/\馬肉の需要を増加する傾向が見
える、現に横濱では遊廓近き足曳町、長島町辺に『馬肉鍋タ
ツタ四銭」又は「馬カロウ只の四銭」など云ふ赤看板を掲げた
軽便鍋屋が急に七八軒出來たが、此種の店は爾他の方面にも
折々見受けるに至つた、即ち労働者がコツプ酒の肴に絶好の
御馳走する事は申す迄もない、吾輩も一度此馬肉鍋屋を研究
したいが、一人で行のはきまりが悪いし、二人で行くには連
れがないと云つた調子で、まだ経験しない、併し馬肉の試食
には少々経験があるが、矢張り味噌煮か牛乳煮が良く食へる
内臓では心臓か又は肝臓を一分厚さ位ゐに切つて、網で焼け
ぱ一寸焼鳥の様な乙な味がする、関西地方では愛知県の一宮
御油、瀬戸、岐阜県の多治見、大井、付知、御嵩、西濃では竹鼻と
云ふ様な土地が盛んだ、竹鼻の如きは饂飩鍋に馬肉を用ひて
農民に歓迎されて居る、以前は豊橋附近に馬肉熱が流行した
が、今では豚肉が專横を極めつゝあるらしい、それが奈良を
越して和歌山地方に行けば馬肉なんか食はれる物ぢやない位
ゐに思つてる、馬肉の行商で有名な岐阜県養老郡大憤村の當
業者は、原料を遠く奥州地方に仰いで一ケ年二千頭以上の肉
を県内は勿論長野、愛知、三重、滋賀の数県に跨つて堂々と売
捌いて居る同県では牛肉は年々輸入超過であるに反し馬肉は
之が爲め輸出超過を示て居る由來馬匹なるものは用途の性質
上廃役馬以外のものを屠殺するのは極て不経済でなければな
らぬに相違ないが現今ではまだ割合に廃馬に乏くないのと戦
後払下馬匹の美味を知て以來一層馬肉党を加へ潰値段も相當
に悪ないから食肉界に於る馬公の勢力も蓋侮る可らずである
(肉食奨励会編「肉と乳」第5巻5号43ページ、大正3年5月、肉食奨励会=原本)




駒井徳三氏
  昨夜渡満

  関東軍司令部
  の財務顧問

関東軍司令部財務部顧問(中将待遇)駒井徳三氏は十八日夜九時四十五分初東京駅発急行にて出発した、同氏は元満鉄社員、支那関係経済通の第一人者で三年ばかり外務省に在勤してゐた事もあり最近三年間は熱海東山でいう/\自適の生活を送つてゐたが今回陸軍省によつて見出され夫人まで離別して決死満洲へ乗りだしたものである東京駅に見送りに來てゐたけい子夫人は語る
「私は何事も知らずに居りましたが先月東京に十日程滞在して居た主人は突然熱海に帰りまして奉天に旅立つことを打ちあけてくれました何事も詳しいことは話してくれませんが御國のためだとばかり思つてをります」と語り死を決した氏が夫人を離別したことについては「そんなことも御座いましたが今は何も申しあげられません」と語つた
(昭和6年10月19日付朝日新聞朝刊11面=マイクロフィルム、)


満州国の日本人官吏

 駒井徳三氏 
埼玉県の人大正元年札幌農科大学を出るとすぐ満鉄に入り、広大な農土に活躍の第一歩をふみだしたが、持つて生れた豪放大雄大な性質は事毎に奇智を生み出し先年某氏が満鉄総裁としてさい配をふるつた際二万円を持たせて欧州視察にやつてやるといふ結構な申出をあつさり断り、その代り自分を支那全土及び満洲の視察に派遣してくれゝば妥当合理的な対満政策のプランを樹立して見せるといふので、当局もその熱に動かされて人間五人をつけ八万円を持たせて調査にやつた、君は得々として実地視察に約半年を費やし、大部の報告書を作りあげたが時あたかも社長の更迭となつて新社長はこの貴重な報告書について一片の質問もなさず打つちやらかしてしまつた、とりわけて気骨のある氏が怒つたのは無理もなくそれでフイと満鐵を飛び出し内地に帰つて約三年間外務省で働いたが、この間も満蒙に対する研究はおこたらなかつた、漸くて彼は勃々たる野心を抑へきれず再ぴ満洲に渡り、在満九年満洲事変勃発と共に遂に関東軍司令部財務顧問となつて今日に及んだ、氏が無比の満蒙通であることは余りにも有名で満蒙の天地に活躍する第一人者であるとその前途は嘱望されてゐる、家庭は夫人をはじめ長女きた子さん(二四)次女ますのさん(二二)三女遼子さん(一九)四女久子さん(一六)最男敏郎さん(二六)次男實さん(一〇)の七人暮らしである
(昭和7年4月23日付朝日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)


舞踊家になる
 駒井参議の令嬢
  明大出の法学士さん

満洲國の生みの親の一人である参議駒井徳三氏(前総務長官)の令嬢満洲野(二三)さんは舞踊にたん能で公開の席にも二三出演し各方面から好評を博してゐたが今春明大法学部卒業後は渡満父君の許に行くことになつてゐたのを断然やめてお父さんとは方面の全く異つた舞踊家として身を立てることになつた
満洲野さんは駒井氏の次女、氏が大豆の研究に専念し論文の材料を収集して満洲から札幌に帰つた翌々日に生れたので、當時から想ひを満洲の広野にのみはせてゐたお父さんから満洲野と名付けられ、舞踊は大連在住時代八歳の時からロシア人の舞踊家ポーラス夫人についてダンスを習ひ始め三年間前から藤蔭静枝さんの指導を受けてゐた
満洲野さんは十二月七日飛行会館の公演を前にし御茶の水文化アパートにあつて練習に
余念ない、彼女は朗らかに語る
私の芸術は未熟でお恥しいのですが、在来の日本舞踊は舞踊としての獨立的価値なく、詩歌や音楽の説明に過ぎなかつた、それが舞踊としての獨立性を持つ外國舞踊の影響を受け日本舞踊の静と外國舞踊の動とがお互に近づき合つて将来は両者が混成した面白いものが出來るのではないか、その興味と期待を心に精進してゐます、そして貧しい人、虐げられた人達のために微力ながら社会事業に奉仕して行またいと思ひますと若い舞踊家の信念は燃えてゐる
【写真は満洲野さん】
(昭和7年11月18日付朝日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、)


難関を突破する(18)

叛く馬占山を説得
 暗夜、捨身で直談判
    
「満州建国」難路の表裏 語る人駒井徳三氏

近づく満洲事変十周年、十年といへば一昔だ、この十年の間に亡くなつた人は、日本側にも満州国側にも相当ある―目をつむつて窓外の虫の音に耳を託するのは満州国の初代総務長官、満洲事変勃発と同時に関東軍特務部長として活躍した康徳学院院長駒井徳三氏、阪急沿線宝塚中州、逆瀬川畔の邸宅でかう語る
   ……○……
僕も年をとつたよ、見てくれたまへ―
昭和六年十一月八日わが軍に叛いた馬占山を説得に、時の板垣高級参謀(現朝鮮軍司令官)と敵地に乗込んだ時、馬占山を中央に撮つた記念写真を取り上げた駒井氏は、馬占山の左隣に坐す”青年駒井”の顔にしみ/\゛と見入る、なるほど髯のごま塩とでつぷりした
体躯が十年の星霜を物語つてゐる
昭和五年から熱海へ隠棲してゐると九月十八日、柳條溝の爆発から満洲事変が勃発した、南陸相から呼ばれて僕が奉天へ急いだのが丁度
勃発
一ケ月後の十月十八日だつた、さつそく軍の行動に呼応して建設工作にかゝつたのだが出発前十八貫あつた体重が二年間満洲にゐる間に十三貫八百となり、取返すのに四年かゝた、忙しかつた、あんな多忙はちよつとない、朝六時に起きて夜二時に寝る、一回も外出しない籠城生活、それで痩せ細つたのだね
駒井氏の活躍はこゝに躍如とする、話せぬ秘話、発表出来ぬ想ひ出の中から拾つた片鱗である
   ……○……
僕が建国工作中にやつた大仕事は幣制統一と国都建設、農業政策の三つであり、このうち前二者は遂行されだが、重農主義は遂に放棄されてしまつた、しかしクライマツクスは何といつても例の馬占山説得だよ、僕は事変までに永い大陸生活をやつてゐるので、重要な
人物とはほとんど
「旧知」の間柄で馬占山ともよく知る仲だつた、それが叛いたので多門師団の中央突破、チチハル入城となつて彼は追はれたのだつたが、軍入城と同時にチチハルの政治工作をせねばならないので板垣高級参謀と二人で飛行機にのり、生々しい戦野を越えて陸上部隊と前後してチチハルへ入つた、するとチチハルの政治工作をする予定になつてゐた張恵景氏がゐないので、危険を冒してハルピンへ彼を訪ねるべく真夜自動車を敗残兵がウヨ/\する中へ乗入れたものだ、ところが塹壕に引つかかつて墜落、板垣氏と二人、生命からがらはひ出して翌日漸く哈爾浜へ辿りつき張氏に会ふと『黒竜江省は馬占山でなくてはをさまらぬ』とのことだ、グズ/\してはゐられないので二人でそのまゝ馬占山引張り出しに出かけたのだつた、馬が海倫<ハイロンとルビ>にゐることがわかつたので試みに彼宛に電報を打つた、するとその真夜中に馬から
來ても生命を保証せず、面会もせぬ
との返電があつた、そこで勇敢な従軍記者諸君の一行とともに、北満の寒夜、玉砕行に出発して、マアうまく行つたのだつた
だいたい僕は馬占山に対しては今でもさう悪い感じを持つりてゐない、むしろ氣の毒な人だと思つてゐる、人間としては實によい男だし、満洲国に対しても悪感情を抱いてゐるのではないことを知つてゐる、彼がその後再び叛いたのは、全く個人的感情問題だつたので
目に一丁字なき馬将軍の悲劇
ともいへるのだ、彼はこのわれわれの説得に応じて後会見約束の日に『軍に謝罪せよ』といつてやつたら快く哈爾浜でわが軍に対し謝罪の大宴会を催し張恵景氏等とともに五巨頭会談に列し、建国と同時に陸軍大臣になつた
ところがこれが他のもの達によく思はれず、建国の式典後満洲側要人のみの宴会の席上で、出席者の揮毫を求められ、彼の番になつた時文字を知らぬ彼に『馬の絵でも描いたらよからう』とある人に辱められたため、顔色蒼白となりながら下手な字を書いたまゝ席を蹴り、その足で僕を訪ねて『黒河に残る家族を連れに行くからひまをもらひたい』と申し出て遂に叛旗をひるがへす結果になつてしまつたのだ、だから僕は今でも馬自身は悪くないと思つてゐる
                 【完】
【写真は右から板垣参謀、馬占山、駒井氏=海倫での記念撮影】
(昭和16年9月14日付朝日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、)




 2 羊肉利用の変遷

 わが国では,明治初期から国策としてめん羊飼育が奨励されてきたが,もともと羊肉の食習慣はなく,あくまでも羊毛生産が主目的であった。
 昭和10年前後にようやく羊肉消費の普及宣伝が始められ,東京では「成吉思荘」,札幌では狸小路の「横網」<原文のまま>という店で,ジンギスカン料理を食べさせたのが最初であるという。
 羊肉が一般に食べられるようになったのは,昭和20年代からで,戦後の衣料不足とあいまって,めん羊飼育頭数が爆発的に増加した時期と一致している。当時はまだ,羊毛生産後の副産物としてのマトン利用であり、ジンギスカン料理一辺倒であった。
 羊肉生産について本格的に検討され始めたのは,昭和30年代からである。化学繊維の普及および安価な仁毛の大量輸入により,めん羊飼育にかげりが見え始めたことから,めん羊関係者の間で、羊毛生J産主体から羊肉生産主体への転換が模索された。このため,サウスダウンをはじめ数種の肉用種が輸人され,コリデールとの交雑利用試験が各地で実施された。しかし,羊毛羊肉が100%自由化されたことから,まともに国際競争力を要求され,他の畜産物に比較し,きわめて厳しい環境下におかれ,頭数減少の歯止めとはならなかった。
 その後,食肉加工業界がマトンを加工原料として使用し始めたことから,輸入量は急激に増加した。一方北海道では羊肉の生食消費が順調に伸び,今日ではジンギスカン料理が郷土料理の一つになっている。しかしながら,これも飼育頭数が激減したことから,羊肉はほぼ100%が輸入物でまかなわれている。
 輸入肉はおもに毛用種のマトンであり、冷凍されたものを紙のように薄切りにし,たれに工夫を加え,なんとか食べられるようにしているが,本来それほどおいしいものではない。蒙古ならぬオセアニアの羊肉が,日本で焼肉料理となり,ジンギスカンの名を冠されるとは,英雄も草葉の陰で苦笑していることであろう。
(日本緬羊協会編「新しいめん羊飼育法」184ページ、昭和63年6月、日本緬羊協会=原本)




○冷氷肉の応用   農科大學助教授  津野慶太郎

日濠間の交通は挽近漸く頻繁を加へ日濠貿易は日を逐ふて愈々盛況に向ふ此交通貿易の発達は将來我か商工界は大影響を及ほすへく其結果として賀すへく喜ふへく憂ふへく慮るへき者交起るや必せり殊に我畜産界に於ては當業者益々奮ふて彼に當るの覚悟をなし欧州既往の歴史に鑒み我帝國現時の趨勢に徴し向後遭遇すへき困難に対し今日に於て豫め計画する所なからさる可からす彼の欧洌大陸諸国殊に仏国及獨逸に於ける牧羊家を見よ濠洲羊毛一たひ輸入の新路を開くや滔々大河を決するか如く古來獨國シレジアの特産たる細毛種羊の牧業を圧倒し仏国「メリノ」種羊の蕃殖をして一敗地に委せしめ欧洲市場を横行するの現況を呈せり又米濠の生牛肉一たひ欧洲に入るや漸次盛況を呈し近時益々其数量を増し欧洲牧畜家は為めに尠からさる影響を被ふるに至れり然るに先般商業視察の爲め本邦へ渡來せる濠洲商業会議所委員は我か東京府下の某肉商に対し一週間能く八百頭以上の牛肉を消費するの途あらは濠洲よリ本邦へ向け驚くへき廉価を以て生肉を輸入すへしと語れりと云ふ其生肉輸入の方法は氷冷肉輸送に由るや固より論なしとす而して目下我帝郡の如き全国中最多額の牛肉を消費するの地に於ても到底一週間に八百頭即ち一ケ年に四萬余頭の輸入肉を消費すること能はさるへきも凡そ物品の価格廉なれは随て其の需要を喚起するは経済の原則なるを以て生牛肉の価格始んと魚肉より低廉なるに至らは都人士の需要頓に増加しまた今日に見さるの濠州牛肉も日ならすして食膳に上ほることなきを保せす本邦肉牛生産家の強敵は我辺境に迫り我か隙に乗せんとす故に能く幾微を察して変を未然に防き一たひ競争を受くるときは克く彼を制するの良計を設けさる可からす其法他なし能く彼を知ち己を知るに在り仍て予は左に氷冷肉の応用に就き佛人ヴヰラン氏の所見を抄録し聊か読者の参考に供せんと欲す
古来世人の普く知るか如く氷点下の温度に於ける空氣中に生肉を貯藏すれは能く幾年月の久しきに保存することを得へし千八百九十一年佛國陸軍大臣フレイシ子ーか同國大統領へ呈したる報告書中に次の記事を載せたり曰く『寒氣を以て氷結せしめたる肉は久しく貯藏したるものと雖とも能く新鮮の肉に代用するに足るは人の善く知れる實事にして氷冷藏肉は啻に鮮肉の諸成分を含有するのみならす之を調理するに毫も鮮肉に異ならす之を食用するも香味鮮肉に劣らす且氷冷肉を氷室より取り出して遠隔の地に送るに酷暑の候と雖二日乃至二日半は能く用に供することを得る』こと
此信憑すへき報告は忽も事實に顯はれて屠肉商業上に次の現象を呈したり即ち千八百九十五年に於て佛國へ輸入したるもの屠羊十一萬六千五百頭屠牛四千頭に達し皆氷結したる儘輸入せり此肉羊四萬頭牛六百頭の氷結肉は巴里市内に於て売却せられたり
氷冷肉を消費する外國例之は英國に於ては氷結肉片は毫も肉舗の苦惰を被ふりたることなし即ち購買者は氷室に就きて需要の肉片を買取り往々巨額の肉量を買収し日中涼冷の時間に於て之を送致す如此肉は食卓に上りて毫も鮮肉と異ならす巴里に於てはホテル及料理店主多くは氷結肉を買収し兵営に於ても亦其の多量を消費す
予(仏人ヴヰラン氏を云ふ)は自ら冷結羊肉を食用すること屡々なり其調理法に就きて一言せんに早朝氷結せる羊肉塊を出して庖厨に懸垂し氷片全く自ら融解して肉塊軟化するを待つ此間大約七八時間を要す此際毫も肉計の肉片より滴下するを見す爾後之を割烹するに味は毫も鮮肉と優劣なきも只た香氣少しく足らさるを覚ゆ故に氷結せる羊肉に就き前述の注意と調理法を行ふときは人烟稠密の都府及軍隊には許多の利益を與ふへし近來南亜米利加及濠洲より氷冷肉の輸入夥しきも毫も怪むに足らさるなり
羊肉の如く全体を四分せるものは前述の融和作用は肉片の表裏共に完全に行はれ良結果を奏すれとも牛肉の如き巨大の四分体に於ては該作用不規則となり表面は軟化するも深部は否らす加ふるに軟化徐々たるを以て肉の色澤を失ひ一見嫌悪すへき外観を呈はすの不利あり而して氷室より出したる牛肉の色澤鮮麗なると其外氣に触れて霎時間に之を失ふとは實に一驚を喫するに足る殊に外氣の湿度高きときは其変敗一層速かなり
抑も太氣の温度下りて氷点に近つくときは肉舗店頭の肉片は皆鮮紅色を帯ひ大に外観の美を増すものなり寒氣一層増進すれは切断面は更らに暗色を呈し稍々褐色を帯ひ筋間に氷の小結晶を夾むを見るへし蓋し肉の色澤は其価格に大關係を有するものにして年齢牝牡身体の部位飼養法等の如き皆肉色を変する原因となり人工にては如何ともすると能はさるものなり氷室より出したる牛肉は暫時にして全面蒼白色を呈し宛も澱粉を塗りたるか又は石鹸水を以て洗條したるか如き観を呈す三四日を経過すれは益々厭ふへき色に変し脂肪は鈍黄色に化し外観不快の状を呈すと雖毫も腐敗臭を放たす然れとも湿潤の空氣に曝露すれは変敗速かなり殊に氷結牛肉の融化するや粗鬆の結締織に當める部位よりは夥しく肉汁滲漏滴下するに至る殊に一たひ軟化したる肉片を再三氷結せしめたるものは假令臭氣に異状なきも殆ん「ジエリー」的変化を生し肉の本性を失ひ筋繊維は箇々分裂するものなり如此ものは販売を禁すへきなり凡そ氷結肉は一商店より他へ転輾移動せしむ可からす又之を窓戸に懸垂し或は之を俎上に排列すへからす温暖の季節に於て之を市場の中央に懸くるか如きは愚の至なり若し氷冷肉を販売して世間の信用を博せんと欲せは須らく其色澤を失はさるに注意せさるへからす
バーブルのラガルド君は千八百七十八年氷室より出したる羊肉の保存期日に就き研究をなしたり即ち仝年五月十日氷室より出して食品貯藏窖内に置くに五月十四日に至りて全く腐敗せり再ひ仝月十八日に試みたるものは二十二日に至り腐敗せしと云ふ
モロツト君は肉片をして華氏三十二度より三十度の温に保たしむるときは長年月間貯蔵するを得へしと曰へり然れとも予の研究に依れは此目的を達するには華氏二十三度乃至二十一度の低温にあらされは不可なり又氷冷肉を大氣中に置きて保存に堪ふる時日は氣温高けれは二日間に過きす
以上佛人グヰラン氏の實験を記述したる固より生肉の貯藏法は從來種々の方法ありて古來各國民間に行はるゝと雖将來大仕掛の貯藏に適するは寒冷応用法を以て、主位に置くに至らん我邦の肉商家も宜しく之を研究して實際に適用せは平時は勿論戦時に於て莫大の効益を収むへきなり将來我政府に於て屠獣警察規則を制定し全國画一の取締法を設くるに至り交通の便一層発達するときは這般の貯藏法を利用して都鄙の肉価を平準に帰せしめ或は生肉を海外に輸出するの新路を開かは國家経済上有益なるのみならす濠洲肉の輸入の如きは敢て恐るゝに足らさるへし
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」147号18ページ、明治30年2月、牧畜雑誌社=原本)


◎英國に於ける氷結肉の近況 濠洲に於ては牧畜業盛大なるに從ひ肉用家畜を輸出すること多数なるよりして之か運搬費を節減するの一方策として肉類の氷結貯藏法を案出せり其方法は暗母尼亜<アンモニアとルビ>製の機械にて華氏零度下三十度以上に氷結せしめたる空氣中に生肉を納れ凍氷せしめて貯蔵する法なるか其方法たる近年の事にして今より二十年以前には此方法尚ほ幼稚なりしか其後改良に改良を加へて今日の盛況に達したるなり此方法の初めて商業的に行はれたるは千八百八十年屠羊四百頭を凍氷せしめ濠洲より輸出したるを以て嚆矢とす翌千八百八十一年には此凍氷屠羊二万千二百七十五頭に増加し八十二年には新西蘭土<ニユージーランドとルビ>も又此輸出に從事し八千八百頭より始めたり其翌年より濠洲外の諸國も之に倣ひ始めアルゼンチン共和國より一万七千頭の輸出あり爾來此方法益々行はれ一昨年に至ては倫敦への輸入濠洲本部より百三十九萬四千五百、新西蘭土より二百六十九萬六千、アルゼンチンより二百六萬八千頭総計實に六百萬頭以上に上ほり尚ほ此外に凍氷牛肉七十五萬八千本の輸入ありたり扨此肉の風味は決して劣りたるものに非すといへとも最初の間は人々皆之を疑ひ居りしも追々と時を経るに從ひ其疑を解き殊に直段<ねだんとルビ>の廉なるより大に世人の注意を惹き需用者随て増加する事となりたり勿論英蘭土及蘇土蘭の或る部分にては今尚之を嫌厭するもの無きに非さるも是又追々と此癖は滅するに至るへし元來英國人の年々消耗する牛羊豚肉は其三割六分を外國に仰き居る事にて昨年の統計に依れは英國人各一人の平均一ケ年間の消耗高は百二十三封度にして内七十九封度は内國産、四十四封度は外國産に係れり唯り牛羊豚肉に止まらす近年は野兎をも此方法にて濠洲より英國に輸出し千八百九千五年には一萬八千本なりしか千八百九十七年には十三萬千二百八十ハンドレット、ウエートに達せり此外果物野菜等の此方法に依て輸入せらるゝもの年一年と増加する由扨此等の凍氷物を輸入したる後の貯臓法と営業者との状況は如何と云ふに斯かる多額の凍氷物は着船毎に直に売捌き終る事固より出來さるが故陸上にも亦此凍氷室を設置し之に納め置き需用に随て売出す仕組なり今此凍氷室の重なるものを云へは倫敦市内には一頭五十六封度として百二十五萬頭を貯臓すへき凍氷室五六を下らすバーミングハム、ブリストル、グラスゴウ其他の市には九萬八千頭を貯藏すへき室各市数箇ありと云而して此凍氷室は最初は專ら外國輸入のものにのみ用ゐた れとも内國産の品も亦之に貯ふる時は甚便利にして殊に夏季市内の小売者は一時に多数の生肉、野菜、果物等を買入れ倉敷を払ひて之を右の貯藏室に入れ置き入用に随て取出す事を得るより益々此凍氷室の設置は英國に増加せんとする勢ありと云ふ
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」160号38ページ、明治32年2月、牧畜雑誌社=原本)


○凍氷牛肉の輸入 濠洲より盛んに凍氷牛肉を欧洲へ輸出することの状況は別項(英国に於ける氷結肉の近況)に記せしか我邦に於ては是れまて氷結室の備わる船舶なき為め之を輸入すること能はさりしか今回郵船会社の新造汽船春日丸は此氷結室の設備あるを以て府下の牛肉商「いろは」の主人木村荘平氏の依頼を受け初めて凍氷肉を輸入し來たリしに試みに宮内省に於て御買入れとなり又警視庁よりも特に第三課長の木村氏宅へ出張して肉を検査し其良好なるを賞せしよしなるか之を食ふに豊<ふつくとルビ>りと膩<あぶらとルビ>きりて味ひ頗る美なりと云ふ
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」160号31ページ、明治32年2月、牧畜雑誌社=原本)




●牧羊家飯沼氏死す  濠洲牧羊事業の爲め一度帰
朝中なりし新沼幸三郎(武藤幸三郎事)氏ハ二三ケ月
前より肋膜炎に罹り横浜石川仲町の堤金蔵方に在て
治療をなし居りしが其効なく一昨廿五日午前中遂に死
去したり氏は明治元年米船の水夫となりて日本を離
れ彼の有名なる智利、秘露の海戦にも出で船乗業を
以て世界を周遊し濠洲にも五ケ年間滞在し牧羊事
業の日本人に大利益あるを悟り其の計画の爲め日本
に帰りしにて死去の前日にも牧羊地の地図を携へて
上京し海外殖民論の著者なる恒屋盛服氏を訪ひ
夫れとハなしに濠洲牧羊事業に関する後事を託し同
被夕景に帰寓したるが忽にして呼吸迫り来り終に空
しく大志を抱いて還らぬ旅路に赴きしハ惜むべし
(明治24年8月27日付読売新聞朝刊3面=マイクロフィルム、)




   U 緬羊

 1.下総牧羊場

 何としても牛は主なものですから牛のことを中心に申上げたので
すが、そのほかの家畜類についても簡単にその変遷を申してみます。
緬羊は実に数奇な運命を辿り、変転の多い或る意味において面白い
変化を経緯して今日に至つております。初めは家畜についての特色
というものがなくて、これも入れる、あれも入れるというわけで、
明治4年頃から緬羊の種がアメリカその他から入つて来ておつたの
ですが、明治8年に、産業は内務省のものですから、大久保内務卿
が発案をして、今の三里塚に牧羊場というものを設けた。これは種
畜牧場とか種畜所とかいう意味と違つて、緬羊を飼つて毛を生産す
る独立の経営でして、或る期間、独立経済がたつものか、たゝぬも
のかやつてみようというものです。それは衣食住とも西洋の真似を
せにやならんと思つた時代ですから、まず洋服から帽子から毛が要
る。種をふりまくくらいでは、皆がなかなか事業を起してくれない。
政府でひとつ手本を示そう。それが成り立てば真似をする者も起る
だろうというので、今の牧羊場にアメリカ人を雇つて、8ケ年計画
というものをたてゝどんどん緬羊を入れ、それをふやして飼育事業
をやつておつた。大変な勢いだつたわけで、数字は忘れましたけれ
ども、下房牧場の沿革史というものに書いてあるのですが。8年間
に当時60何万円かの経費を使つてやる。将来において80何万円
かの収入になる。何でも15、6万円は儲かるわけです。それで雇
入れの外国人には給料を払つたほかに、収益の半分を与える。こう
いう計画で始めておつた。その当時は、船も貧弱な機帆船か帆前船
の小さなもので、濠洲やアメリカから3年間ばかりの間に、毎年千
頭以上の緬羊を運込んだものです。金はともかくとして、それだけ
の緬羊を小さな船でよく運んだと思うんです。最近海運の仕事がご
く発達してはいますが、昭和16年まで濠洲から緬羊を入れました
時は、一度に千頭以上積込むとなると、買入から積込から大騒ぎで
やつていたんでして、明治9、10、11年に6000頭くらい入
れたのですが、大した努力をしたんでしよう。そしてやつてみたと
ころが、入れたのが片ッ端から倒れた。あとから寄生虫が主な原因
だといわれていますが、日本の気候等には馴れないし、獣医の技術
も進んでいない時ですからやむを得ないのですが、バタバタ倒れた
のです。入れても半分倒すといつたような具合で末の見込もないよ
うだし、それにご承知の明治11年に大久保卿が暗殺され、その同
じ年に傭人アップ。ジョンスという男が強盗に入られて指を切られ
たとかいうようなことで悲観してしまつて、利益の配当は期待でき
んし、俸給だけで傭いをといてもらつて閉鎖してしまつた。こうい
う歴史があるのです。その後続いた下房牧場は農商務の管轄になつ
た。その時にはまた地方に獣医学校などもできません時ですから、
畜産の技術の練習場、講習場みたいになりかつ今でいえば種畜牧場
のような意味を少し持つて来たのです。
 緬羊は、かつて5、6千頭買つたのですけれども、だんだん減つた
から、大正7年の再奨励という時には、300頭くらい下房に残つ
ておつた。それからやはり各地に種の拡がつたのが、北海道にもあ
る、青森にもある、長崎にもあるというのをよせると、3000頭
あまりのものが、明治11年以来日本には現存していたのです。け
れども買入れた半分も残つていない。日本では緬羊は適しないもの
こうきめこんで、世論は耳をかたむけない状態で過して来たのであ
ります。

 2.緬羊の再認識

 ところがその后一方で緬羊は多少残つていたものとしてね、毛の
利用が進んで毛織会社もでき、又陸軍の軍服を織るために千住の製
絨所というものが活動しておりますから。毛の輸入がだんだんふえ
まして、第一次大戦の直前には、何でも6000万ポンドくらいの
羊毛を入れておつた。それが第一次大戦でパツタリ買えなくなつた。
オーストラリアもニュージーランドも、その他南亜も全部英国の属
領であつたものですから、重要軍需品として羊毛の生産地は殆んど
英国が抑えてしまつて、同盟国にも1ポンドも出さないという方針
をとつたものですから、ほんの短かい期間でしたけれども、緬羊の
飢饉が起つた。臨時産業調査局というものが農商務省におかれて、
緬羊の復興計画をたてられたのです。明治10年以来投捨てゝいた
が、一体見込があるかどうかという問題なんですが、その前から、
技術的には見込があるという証明はたつていたのです。それは明治
34年からと思いますが、小岩井牧場でシロクシヤーというのを入
れたら大変成績がいゝ。これまで下房に残つていたのも、或は北海
道なり長崎にあるものもメリノー系のものが多かつたのです。所が
シロクシヤーというのを小岩井でやり出したらうまく行く。それか
ら後明治41年に北海道の月寒の政府の牧場で飼つてみたらシロク
シヤーもサウスダウンもうまく行く。牧場でうまく飼えるばかりで
なく、試みに農家に2、3頭まいてみると、みんな健康によく育つ
て、毛も重宝している。そういう事実が明治の末から目立つて来た
ものですから、農商務省内でも、又緬羊をひとつ奨励してみようか
という空気が動いた。そういう時だものですから、第一次大戦の羊
毛飢饉の際に、復興説がとりあげられたのです。どのくらいの規模
でやるかというと、それまで6000万ポンドも入れていたのでし
て、一頭が6ポンド生産すると1000万頭要るわけですから、そ
れではとても事業はできない。ところが軍服だけは羊毛でなければ
ならぬが、それは製絨所で織つているのでして、製絨所の紡績能力
は500万ポンドくらいです。それがこなせれば、陸海軍の軍服と
それから警察官とか消防くらいまでの洋服でなければ仕事ができん
という範囲の供給には間に合う。500万ポンドの羊毛を自給する
のには、100万頭あればいゝ、100万頭は日本に飼えるかとい
うのですが、急にはふえないけれども。500万の農家戸數の1割
のものが2頭ずつ飼えば100万になる。その2頭、3頭という飼
方は、北海道ではうまく行つている。緬羊は特別に飼料が要らぬの
でして、草を本位にして、わずかの残滓物を濃厚飼料に加えれば飼
えるのであるから飼料の心配はいらない。需要のほうから言つても
供給力から言つても100万頭くらいは飼うことができるだろう。
こういうことで100万頭計画というものをたてた。机の上で10
0万頭といいますけれども、何もないところからやるのでして、3
000頭が元なのですから大へんなことです。それで種羊所を全国
に5ケ所おいた。種羊所で1000頭くらいずつ飼い、そこから種
を適当な場所に配布するという案でやりだしたのです。さて戦争が
すんで1両年すると、英国だつてそんなに羊毛を抱込んでも仕様が
ないし、濠洲でも売つてくれるようになつたので、羊毛は楽に買え
るようになつた。そうすると自給するよりも安く買えるものですか
ら、こんなことに経費を使つてはつまらんという事になつた。その
頃3、4年に一遍ずつ行政整理の問題が起ると、まず緬羊奨励費を
削るということになり、1年の予算が最初は二百何十万もあつたのが
いきなり半分にされ、その次の整理で又半分にされるということ
で、3度ばかり整理をくつて十何万円に削られたのです。ですから
5カ所の維持ができなくて、次々に廃止し、やつと北海道に一カ所
だけ種羊所が残されて、十何万円の経費で細々とあとを続けた。そ
の間に3000頭の基礎から、1、2、3万頭にもなつたのですが
100万頭はいつのことかという状態で、殆んど当にできない状態
だつた。

 3.有畜農業
 
 ところが幸か不幸か昭和の初めに、非常に農村が疲弊し窮迫を告
げるということでその救済策がいろいろ講ぜられるうちに、やはり
農業経営を有利にするということが重要なファクターである。いろ
いろ事例などを調べてみても、家畜を飼つている農家が幾らか経営
の歩合がいいようだというところからみて、昭和6年から有畜農業
という言葉を起した。これまでは優良な種を拡げて、現在維持しつ
つある家畜の素質をよくしていくことに力を入れていたのですが、
今度は農業の経営の中に入り込んで、よく行けば無畜農家を解消し
て有畜農業にしようということが表に現われ出した。これまで別世
界にいたような畜産界が、農業の中に初めて頭を出した。それほど
突飛ではないと思うのですけれどもとにかく一つの段階をなしたの
ですが、有畜農業の奨励ということが頭を出し始めた。これは有畜
ですから牛でも何でもいいわけですが、そのうちの一つに緬羊が
首を出した。これは微かなものではあるのですが、一つ有力なこと
は、ほかの家畜は蚕渣を少しは食うけれどそれほど足しにはならな
いのに、緬羊は蚕渣蚕糞を好んで食い、そして食わした結果が大変
いい。これはほんの補充にやるばかりでなく、それ一品でもうまく
栄養が保てるのです。桑畑はその頃50〜60万町歩あり、どんな
養蚕農家でも桑畑1反歩持つてはいますが、それが緬羊を1頭持つ
と、蚕の糞で飼える。あとは惣菜の屑で飼える。それは又桑畑の優
良な肥料を供給する。養蚕は消長常ないものでしたが、その当時も
やはり困つていたのでしよう。緬羊は養蚕家の救済にも役立つ。こ
ういうことが有畜農業のうちで、緬羊が善く問題にされ。沢山輸入
するような傾向になったのです。今度は政府は種羊所の拡張なんか
はしない。濠洲から買えば、戦争前の値段で、相当のものでも雌が
100円くらいで買える。ところが種羊所で生産して払下げるとな
るとすべての経費を原価に見積つて700円とか900円とかいう
計算が出て来るのです。ばかばかしいので入れたものをすぐ借すと
という方式をとり、予算のとれ次第買つて来て、1頭借りたものは4年
間に1頭子供を返すという形で貸す。同時に昭和9年頃から始めた三
井報恩会というものが東北の零細農家を救済するということからや
つた。三井の報恩会も4、5年間入れたのですが、5000頭くら
いは入れたようになつております。政府ではずつと続いて太平洋戦
争の時まで濠洲から買つた。向うで緬羊を船に積んで、まだぐずぐ
ずしているうちに戦争になる。というようなきわどい頃まで入れて、
相当な種が入つたわけです。そうしてほうぼうに拡がつたが、そう
儲けにはならない。その代り飼料は輸入肥料などに頼らずに行け
るものですから、戦争中、或いは終戦直後にもそう減らずに、ふえ
て来ているのです。ですから、一昨年に畜産振興5カ年計画という
ものをたてたのですが、28年の予定頭数などは、もうすでに超過
しているのです。今年は50万頭になると思います。50万頭に行
つたならば、100万頭は目の前にあると思うのですが、そういう
ふうに緬羊は失敗して消えそうになつたり、又芽を出したり、有為
転変の多い面白い経過をとつておるのです。
(農業発達史調査会編「農業発達史調査会資料」49号15ページ、岩住良治氏述「畜産発達小史」より、昭和26年3月、農業発達史調査会=原本、)




   三 羊肉
 羊肉による収入は緬羊飼育経済上重要な部分であつて、之を左右する点に於ては羊毛と共に恰も車の両輪の如き関係にあるのである。故に緬羊飼育農家の収益を高め、緬羊事業の発達を促進する爲には、どうしても肉羊の有利な処理法を講じて之が指導奨励を爲す要である。奨励官庁或は団体が全国主要な土地で羊肉料理の講習会を開いたり、宣伝の爲に羊肉の廉売をやつたり或は試食会を開いたりして居るのは此の爲である。
 羊肉は繊維が細く、組織が粗で、肉質が柔軟であるから消化がよろしく、一般健康者は元より、坐食者、老人、小児、患者の食料として適当である上に甚だ美味であるから、欧米に於いは牛豚以上の高価で珍重されてゐるが、我国に於ては美味なれど臭気悪しなど言つて、所謂食はず嫌ひの人が多く、又料理法も一般にはよく知られてゐないので需要は少いが、やがてはだん/\に普及されてその真価を現はして來るに違ひない。
 生産者は売却に先立つて必ず肥育法を行ひ、共同出荷の方法によつて羊肉取引商に送りつけるがよい。本道に於ける主なる羊肉取引商は札幌市南一條西四丁目六番地小谷肉店。 小樽市稲穂町東八丁目二十六番地杉田肉店の二軒である。送附は生體出荷と屠肉出荷とがある 生体出荷の際は輸送所要日数に応じ飼料及び飲料水の準備が必要である。屠肉輸送は運賃及び輸送減耗の関係上経済的で、現に本道から東京への取引は十二月より三月下旬迄此方法により、客車便扱ひで行はれ成績が良好である。屠殺後数時間を経て、屠体が乾いた程度の時、之を南京袋又はメリケン粉の空袋の清潔に洗つたものゝ中に包み、更に之をアンペラ又ハ莚で包装して送り出すのである。
 屠肉は一頭十円から三十五、六円位の價格で賣れる。(昭和九年)
(北海道農業教育研究会編「増訂緬羊と其の飼ひ方」6版87ページ、昭和18年5月、淳文書院=原本)



<


●戦用の新発明
 便利なる炊爨車
陸軍糧秣本廠に於て十八日午前九時より
陸軍一等主計岡崎内蔵松氏(38)の発明に
係る戦用炊爨車の試運転を行ひたり当日陸軍
経理学校兼陸軍大学校教官高山嵩氏も特
に同大学生六十余名を引率して見学の爲め出
張したるが庭前の広場に於て運転しつゝ飯を焚
く汁を煮て実見に供し且つ濾水器にて濁水を濾
過するなど両者とも頗る好成績を得たり
▲其構造 右炊爨車は炊爨車、搬水車、
喞筒、濾水器の四個より成り炊爨車は
炊爨の外搬水、沸水及び食物の運搬に
兼用せられ搬水車は搬水の外米洗桶及
び貯水器に兼用せられ殊に一般の食物
温汁等を戦闘線に運搬するには恰も弾
薬を戦線に分配する如く二人にて提げ
廻ることを得るなり喞筒及び濾水器は行
進途上に於て路傍の河水又は溜水等を
利用して炊爨調理用或は湯茶を作るに
便する爲め長きホースを附し喞筒にて
汲み取りたる水は直に濾水器にて濾過
清浄ならしめ就中素人目にさへ甚だ愉
快に感ぜらるゝは濾水器にて如何なる
濁水と雖も直に引用し得らるゝにあり
▲発明者曰く 抑も炊爨車改良の最も
必要を感じたのは日露戦役の実験に基
けるもので独り我陸軍のみならず欧米
各国に於ても大に研究せられ独逸の如
きは昨年既に発明を完うして新式の炊
爨中隊軍なるものを軍隊に附属すること
になつた欧米にありてはパン食なる故
単にスープを作れば足るも我国に在り
ては飯も炊く菜も煮ると云ふので其構
造甚だ面倒である殊に飯は焦る生煮が
出来ると云ふ厄介がある夫れで私のは
飯は絶対に焦げぬ様に又飯が出来れば
蒸気の加減で笛が鳴るので解る様にし
てある然し未だ却々理想に遠ざかつて
居るから愈々実地に応用するまでには
尚充分の研究を要するであらう
(明治42年10月20日付日本*面=マイクロフィルム、)




 4. ブルックス夫人について

 さてサウジアラビアで8年間の育児経験を持つ私は,ブルックス先生もさることながら,125年もの昔に,異国で初産を迎えた若いブルックス夫人の勇気に頭が下がる。当時の札幌にアメリカ人の医師がいたとは聞いていない。どんな女性が,助産の役目を果たしたのだろうか。当時の普通の女性と同じように,経験を豊かに積んだ「産婆さん」に頼って子供の産声を聴いたであろうか。出産は男性のまったく関与しない領域であったはずである。そうするからには日本語で意思疎通ができたか,通訳のできるよほどしっかりした女性がついていたであろう。何年に撮られたのであろうか,「お雇い外国人教師」の写真のなかには2人の女性が混じっている。ブルックス家に北海道で初めての白人の女の子が生まれる時,お互いが助け合ったことは想像に難くない。
 子供が病気の時などはどう対処したのだろう。漢方薬を飲ませたのだろうか。多少はアメリカから薬を持参していたと思うが,風邪を引いたり熱を出したり,はしかに罹った時など不安だったに違いない。幼い子供たちを抱える家族持ちのブルックス先生について,学生たちは辛辣である。新渡戸稲造の「子供たちがピーピー泣いて」という描写を読んだことがある。それだけで心が縮まった自分の若桜を思い出して,今の私はおかしくなる。当たり前ではないか。電話もない時代に,前触れもなく訪ねてくる学生たちは,子供にとっては,親の歓心を競う相手以外の何者でもない。赤子なりの自己主張である泣き声に当惑する学生が,欲求不満をもたらした言葉が後世に残ってしまった。そんな時,取り繕う暇もなかったブルックス夫人に,心から同情する私でもある。
 ブルックス先生が精魂を傾けている農場で生産される乳牛のミルクは,どう配分されたか知らないが,ブルックス夫人はミルクを使ってバターを作り,パンやクッキーの作り方を教えたとも聞く。夫人は,当時の日本人になじみのないバターの味を札幌に少しずつ浸透させ,北海道と酪農のつながりに役立ったと考えるに無理がない。夫人がアメリカに帰国して6年後の運動会で「パン食い競走」の発祥地となった札幌は,夫人のおかげで手作りバターで焼くパンのおいしさを知っている街に育ったのである。
 私の想像は尽きない。パンを焼く時,薪や炭火のオーブンなどを發明したのは誰だったのだろう。それは手に入れたのだろうか。瀬戸枕や蕎麦枕に驚き,大きな枕を作って布団に横たわったのだろうか。子供たちの靴は買えたのだろうか。学校教育は?
 10歳前後で帰国した,北海道生まれの長女レイチェルは,その後名門ウェルズレー女子大学を卒業している。ウェルズレーの隣まちに住んでいる私は,ヒラリー・クリントンも通った全米でいちばん美しい広いキャンパスを散策しながら,全米から集まる学生の顔の知的な輝きを眺める。当時いくら優秀でも女性はハーヴァードやMITに籍をを置くことはできなかった。このことだけでも,ブルックス夫妻の帰国子女の教育ぶりに,あらためて脱帽させられる。
 当時の外国人教師や技師たちが,いかに優遇されたとしても,現代ならモンゴルの奥地に家族とともに12年間過ごして大学を建てるに匹敵する。私には,このブルックス夫妻の札幌での生活ぶりに限りない感銘を覚えるのである。
 クラーク博士をかくも神格化させ,他のひとびとの業績をかくも忘れさせたのは,明治の教育・思想界の重鎮となった彼の直弟子たちの著作であろう。けれど北海道開発に尽くした外国人の業績を,全てクラーク博士のかげに隠してしまっていいのだろうか。私の「あしながおじさん」は,11年前に他界した。祖父の働きが日本人の心から消えてしまったことを悲しみながら。
(高井宗宏編「ブルックス札幌農学校講義」23ページ、ユステス・藤居恒子「第3章 ブルックス家のひとびと」より、平成16年11月、北海道大学図書刊行会=原本)






北大の思い出

            杉野目 晴貞

<略> 私は大正十五年の夏、ロックフェラー財団の最初の「国際奨学生」として、東北大学からイギリスに留学した。翌昭和二年、北大に創立される理学部へ当分の間勤務するようにという創立委員長の恩師真島利行先生の要請で、北大転任がきまった。これは全く予期しなかったことで、それまで北大も北海道も訪問したことはなかった。<略>
 スイスでの在外研究を終えてから、欧米の諸大学を視察し帰国した私は、早速北大を訪問した。思い出されることは、当時仙台や東京まで出かけようとすると、急行で二十四時間とか、三十六時間といった長時間を要し、昨今の交通事情では一寸想像もつかないほど不便なことであった。田所教授の案内で、型の通り佐藤総長を始め、農、医、工各学部にあいさつ廻りをした。
 この時の北大の印象は今なお鮮明である。まず構内の広大であることで、前身の札幌農学校が、アメリカのランド・グラント・カレッジの理念で開学されたものであることが容易に理解できた。すなわち政府は、札幌農学校の発展に備え、土地並びに森林を与えたのであった。しかも明治の始め、今の札幌駅の北の土地は札幌農学校の所管であったが、大正中期に医学部を増設し、北大がいよいよ独立した帝国大学の範疇に加えられるために、その市内の土地の一部を処分したが、今なお北大は附属農場を含めひとかこい百九十八万平方米(六十万坪)の広大な敷地を有する。これは皇居と、皇居前広場を合わせた面積よりも広いのである。旧制第二高等学校の校庭の一隅に、しかも古河家の寄附金で創られた東北大学とは比較すべくもない。
 単に敷地が広大であるばかりでなく、エルムの巨木があちこちに群生し、こんこんとつきない湧き水が構内を蛇行していた。しかも大正の始め頃まで鮭が産卵のため、この小川を遡ってきたという。まさかと思わないでもなかったが、あとでたしかめることができた。この夏まで、ケンブリッジ大学出身で、北大の英語教師をしていたイギリス人、ジョン・ランドン君は、この辺の風致を「ケンブリッジのミニアチュア」と称していた。しかし最近、この小川の水は全く涸渇してしまった。これは北大のイメージを破壊するもので、惜しみてもあまりある。このことは北大の維持管理にかかわることではなく、札幌市の再開発により地下水が下降したためである。
 次に北大最初の訪問で感じたことは、ローングラスの手入れが行き届いていることであった。冬は暖房、夏はローンの刈り込みと、きまった仕事を担当者が行っていたようであった。これは英米の大学構内を思い出させるものであった。
 以上は構内全体の感じについて述べたのであるが、学部によってはその独特の趣があった。
 農学部はまわりをエメラルド・グリーンのローンでかこまれ、白亜の牧歌的な校舎が整然と配置され、想像した札幌農学校のイメージにぴったりしたものであったし、その佇まいは画家の題材にもなっていた。特に最近国の重要文化財の指定をうけた旧農場には、今も北海道内外の画家が訪れている。
 医学部はその附属病院もふくめ、ドイツ式のパビリオン方式の建物で統一されていた。前庭の手入れもよかったし、緑はすばらしかった。
 工学部は尖塔のある白亜の校舎で、北国にふさわしい気分がみなぎっていた。前庭も他の学部と一寸変わったものであった。この工学部づくりは、初代学部長吉町太郎一先生が長期に亘る苦心の作であることを知った。
 理学部は、鉄筋構造で、しかも他の学部とことなり、数、物理、化、地鉱、植物、動物の六学科を一棟に収容するしくみであった。建物はゴシック風で、ロマネスク式の部分もとりいれた、昭和初期の国立大学の様式で、学内随一の最新の施設であったから、学内の羨望の的であった。しかし旧運動場がこの敷地にあてられたのであるが、これは大北大としては必ずしも充分ではないように思われた。しかし、南側のうっそうとしたエルムの原始林は学内でもきわだってみごとなものであった。
 昭和二十三年の初夏の候、北大構内で句会が開催された折に、虚子先生はいみじくも、
  理学部は薫風楡の大樹陰
とよまれたのであった。
 このように広い構内に四学部が悠然と点在していたのが印象的であった。私はこの最初の訪問で、北大がすっかり好きになったのである。
 初冬を迎え、やがて本格的な冬を経験したが、北大構内の冬景色はまた格別なものであった。見渡す限りの雪原、エルムの巨木につもった雪景色は、まさに絵画そのものであった。さながら山に登ったような感じすら与えてくれた。冬期間は毎朝といってよいほど新雪で清められた。当時北大では早朝、農場の馬が板で作った簡単な三角の器具を曳いて除雪していた。そのシュプールはまたみごとなものであった。
 一方キャンパスの傾斜地帯はよいスキー場となり、小学生を始め色とりどりの服装をしたスキーヤーが訪れるのであった。初心者には恰好のゲレンデでもあった。この風景は今もあまり変っていない。
 以上は四十二年前の赴任当初の北大の思い出であるが、北大のポテンシャルの偉大な点は充分評価しつつも、欧米の大学の施設設備に比較して、一般に見劣りしたのは事実であった。このことは、戦後間もなく、ケンブリッジ大学で学んだ高名な評論家でもあるさる教授が北大を訪れ、「有名大学なので堂々たる施設かと思っていたが、アメリカ中西部の高校を思い出すものである。」という意味の新聞寄稿があったほどである。
 しかし最近の北大の施設は、ほとんど全部衣替えした。歴史的な建造物はこれを保存することになっている。
 理学部開設のため設置された創立委員会は、北大農、医、工学部の関係教授を始め、東京、京都、東北の各大学理学部の関係各分野の権威ある専門家で構成され、教授選考にあたっては、広く国内の大学はもとより、理化学研究所などの研究機関から、なるべく若い将来有望な研究者を迎える方針をとったようであった。
 前に述べた「パリ会議」に出席しなかった教授内定者、内田亨、松浦一両氏はややおくれて在外研究員となった。さらに北大の農、工両学部から、田所哲太郎、小熊桿、坂村徹、犬飼哲夫、池田芳郎、上床正夫の六教授が配置がえされ、又は併任された。
 講座数は六学科合わせて二十五を予定したが、開学時においては二十一と変更され、逐次増設の方針になり、学生数は計八十名で、当時の高等学校卒業者はもとより、北大予科終了者も入学可能であった。
 かくて国立第四番目の理学部は、北大、北海道はもとより、各方面から祝福をうけ、期待されて、予定通り昭和五年四月一日発足した。学部長は東北大学理学部教授真島利行博士が併任された。早速講義が開始されたばかりでなく、各教授は大変な意気ごみで研究に着手した。
 冬ともなればスキーがきわめてポピュラーで、日曜日は先生方もきそって思い思いのスキー場に出かけた。会議が始まる前の雑談は、もっぱらスキーの話でもちきりであった。よくいわれるように、登山家や釣愛好家は、とかく自慢話が得意とされているが、スキーヤーもこれ等におとらないようだ。化学科では、年末休暇に入ると、ニセコでスキー合宿をした。筆者もこれに二回位参加し、ニセコの頂上でふぶかれたこともあったと記憶している。学生はすぐ上達するが、先生、少くとも筆者はなかなか身につかなかった。こんなわけで、先生と学生の接触は別に問題がなかった。
 次に北大の学風についてふれてみたい。
 出身校の東北大学の設立は、日露戦争後のいわゆる国策として、理工学分野の学問を振興し、産業の発展に資することを目的としたように伝えられている。この東北大学理学部は、京都大学の設立後十年間蓄積された、すぐれた研究者群で発足し、加えて練達堪能の行政官であった沢柳初代総長、さらに仙台という閑雅な学問研究にふさわしい環境などのため、東北帝国大学理科大学の研究成果はとみにあがり、ついに「研究第一」の学風が確立されるようになった。
 前述の通り、明治維新直後、一八六九年北海道開発が政府によってとりあげられ、アメリカ顧問団の意見を求め、組織的に開発が進められた。その結果、「開発はまず人間開発から」ということで、札幌農学校の設立方針が採択された。そしてクラーク先生外二名の米人教師に、黒田清隆校長兼務、書記兼翻訳官、農場監督の三名の日本人を加えて六名と二十四名の生徒によって、明治九年八月札幌農学校は開校された。北大はこの日本最初の高等教育機関に源を発しているのである。そして名称は農学校でもアメリカ式カレッジで学科課程も戦後の四年制と同様一般教育が実施された。評論家の中には、現在の北海道大学は、札幌農学校とかかわりがないと考えている人もいるが、それは単なる形式論で正鵠を失している。
 農学部についで医学部、さらに順次工学部、理学部と増設された。
 理学部開設後は、北大は人文社会系学部の創立を希求したのであったが、満州事変が勃発し、さらにこれがエスカレートし、ついに太平洋戦争に突入のため学部増設は到底望むべくもなかった。
 この四学部編制の大学は、西欧の大学と比較し奇異に感じた。およそ大学とよばれる高等教育機関は、人文社会中心で、しかも神学科が必ず設置されているのである。北大にはそれが欠けていた。
 しかし戦後は、教育基本法が制定され、さらに学制改革が断行され、教育の機会均等がおし進められ、ついに北大の先人が驍望した人文社会系各学部のほか、理科系学部もまた増設されたのである。かくて北大は九十五年の星霜をへて、文、教育、法、経済、理、医、薬、歯、工、農、獣医、水産の十二学部を擁する一大総合大学にまで成長した。すなわち学部数は国立大学中最も多いのである。施設も一新された。教育・研究の場として今後大いに発展することが期待される。
 以上の経過から北大の歴史はユニークなものである。第一札幌農学校開設当初から国際友情に支えられて現在に至っている。北大の卒業生、特に札幌農学校の卒業生の中からは、日本近代化に貢献した、いわゆる「変り種」が多数輩出した。新渡戸稲造先生が国際連盟の事務局次長として大いに活躍されたことはあまりにも有名である。また内村鑑三先生は無教会派を創始し、内村全集とともに不朽の業績をのこされた。
 おひざ元北海道は三年前、「北海道百年」を迎えたのであるが、今なお開発途上にあり、既に第三期総合開発が発足している。これが計画策定等についても、北大各学部あげて参加しているのが実情である。かくて札幌農学校開設以来、北大は北海道の開発とともに歩んできたし、今後もこれに協力するものと信じている。
 スポーツの思い出もつきないものがある。概括的にみて予科、本科合せて六年間の同一カンパスでの生活、それにO・Bの参加をえて各部が渾然一体となり、よき伝統をきづきあげていたのが特徴であった。
 中でもスキー、山岳、馬術の各部は地の利をえているほか、よき指導教授のおかげで断然すぐれていたように思われる。大野名誉教授の如きは日本のスキーの草わけで、オリンピックを札幌に招致にまで発展させている。
柔、剣、弓、空手、野球等の各部にもそれぞれすぐれた伝統がある。学長在任中剣道部の祝勝会で胴あげされたり、野球部では、坂元部長にほだされ始球式をつとめたりした。
 またボート部は堀内名誉教授の独得な指導により、北大ティームが名門ケンブリッジを破り、一躍北大ボート部の存在を世界にしらしめたのであった。<略>
(学士会編「学士会会報」714号*ページ、杉野目晴貞「北大の思い出」より、昭和47年1月、一般社団法人学士会=https://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_714.html、)




   成吉思汗鍋

別れ立つわれに喰はしむと足折りし羊が焼か
るる成吉思汗鍋に

足折りて遠くは行かず翁ぐさの花野にをりし
かの一匹か

成吉思汗が鉄蹄遠く征きたりし歴史のときも
此処に思はむ

野天にて羊焼くけむりわれに沁むや沁ま
ずやさしぐまれ来つ

襲ひたる匪賊にも理由ありしなり槍傷のこる
拓務技師いふ

幾度か匪襲の闇にありしといふ夫人もよく喰ふ
けぶる羊の肉

成吉思汗鍋のけぶらふ火あかりを警備交替の
カレアキンが通る

喰へといふにサンキユウといらへ笑まひた
ベリツセ隊長闇に消えつつ
(山野井洋著「歌集 竜爪緬羊牧場」128ページ、昭和17年8月、ポドゾル社=原本、)




   川柳   寿洛荘 鞍馬選

1等  浅草区雷門1ノ29
           横田良之助
鯛ちりをつつつきながら
鯛のこと
(評) この句を読むとすぐ、日米
水産の「鯛よりうまい」の広告を
思ふ、平凡な事柄ながらうまく
句にしている。
2等  静岡市上大工町71
           後藤六星
鍋焼を二つ仲よく風邪を
ひき
(評)<略>
3等  浅草区柴崎町2ノ13 中村アパート7号
           大森淳二
洟かんで鮟鱇鍋をほめて
ゐる
(評)<略>
秀逸<略>
佳調
<略>
    池袋     新堀明美
ジンギスカン鍋のうまさを軍事便
<略>
軸   鞍馬
てつちりのあとはおぢやにする用

大一座老妓は鍋へ構へたり
(大日本料理研究会編「料理の友」28巻2号96ページ、料理之友社=原本、)





 ビルマ日記
<略> 五月十日 庭のマンゴーが黄色に熟れて、自然に落ち
る。夜、落ちる音に目をさますことがある。青柿の落ち
る音に似ている。朝、落ちたやつを拾い集めて、食卓に
飾るのが楽しみである。が、拾うにも注意を要する。草
の茂みの中には、急にふえたサソリが、醜い格好でウロ
チョロしている。こいつに足でも刺されると、片足ぜん
ぶ腫れあがって、一週間ぐらいは歩行もできなくなるそ
うだ。命までなくなる十歩蛇や百歩蛇よりはマシだが、
強いて刺される必要もない。
 ところが、マンゴウを拾いに庭に入ってくるインド人
たちは、みな平気で草むらの上をハダシで歩いている。
そういえば、庭でジンギスカン焼をした時、インド人の
コックは残った火を、足で踏みつけて消した。
「彼らの足は、靴の皮底ぐらい厚くなっているんだな」
 私がそういうと、平野は納得できない顔で
「足の裏の皮底に不思議はないが、しかし足の甲まで厚
くなっているわけではなかろう。サソリは素早いやつ
だ、甲まで上って来るぜ」
 確かに、平野のいう通りだ。彼らが毒蛇やサソリを恐
れるのは、私たちと変らない。となると、どういうこと
になるのだろう。マンゴウを拾いたい一心で、サソリに
対する恐れを忘れるのだろうか。マンゴウは何処にでも
売っていて、おまけに安い。日本の金で十銭も買えば、
めしの代りにしても食べきれないほどある。しかし彼ら
にとって、十銭は容易に得がたい金であるのだろう。サ
ソリを恐れない理由は、たった一つ、そこにありそう
である。<略>
(榊原著「戦争の文学」98ページ、{}
昭和40年10月、東都書房=国会図書館デジタルコレクション)




 春の園遊会
<略> 天皇と有名人らの会話も無難なものばかりである。
「会釈をお交しになる」のだ。ところが招かれた有名
人の方がコチコチになっているのだからおもしろい
話しなどできるはずはない。山下選手が緊張してしま
って、「柔道は骨が折れますか」と聞かれて、「試合で
骨折してしまいました」と答えたのはご愛敬。
 それでも招かれたい人
 田中角栄健在なりしころ、新潟県人がやたら園遊会
に出て、新聞種になったことがある。田中角栄は票田
維持のため「天皇に会わせてやる」と選挙民にいって
いたのだろう。地方のとくに田舎の人びとには、まだ
天皇に対する憧れは強い。いや田舎の人だけではな
い。さるマスコミ会社の社長は、園遊会出席のために
根回しをした記者に、特賞を与えたというのは有名な
話である。
 もっとすごいのは、一見バーのホステスか芸者の
粋筋≠フ女性を夫人にカモフラージュして連れてく
る手合い。これにくらべれば、俳優三船敏郎が愛人を
同伴で堂々と園遊会に出たのは、まだかわいげがある
といえるかもしれない。
 園遊会では、芝生に椅子が並べられ、「皇帝円舞曲」
などの音楽が流れる。食べものは、ジンギスカン焼、
寿司、焼き鳥、サンドイッチ、そして果物、菓子、ア
ルコールなどそうとう豪華である。帰りに菊紋の入っ
た菓子を土産にもらうことになっている。むろん、国
民の血税によってまかなわれる。<略>
(松浦総三編「現代ニポン年中行事」43ページ、昭和61年5月、大月書店=国会図書館デジタルコレクション)




問121 羊肉の簡単な貯蔵法 食生活を改善するため
     羊肉の活用を考えています。農家で簡単にで
きる羊肉の貯蔵法を教えてください。
〔答〕  メンヨウ一頭分、十キロ前後の精肉量は、一
     般に農家の家族数からみて手ごろな量ですか
ら、これを貯蔵して、農繁期などとくに労働の激しい季
節にこれを食ぜんに供することはまことに好ましいこと
です。
 羊肉を貯蔵するのに、経費と多くの手間がかかるよう
では普及性がありません。この意味で、ここではいずれ
の家庭でもできる羊肉の貯蔵法を紹介しましょう。
(1)羊肉のしょうゆ醤づけ 三百七十五グラムほどの羊
肉のかたまりを沸騰した湯に入れて約一時間煮沸し、そ
れをしょうゆ(砂糖を五パーセント入れる)につけます。
これが良質のしょうゆですと、半年や一年は保存がきく
といわれています。また、肉をフライパンで油いためし
てから、しょうゆにつけてもよいのです。つけ込みしょ
うゆにショウガを一、二パーセントぐらいおろして入れ
ると、さらに風味がよくなるものです。(鈴木、長谷川両
氏発表)
(2)羊肉のぬかづけ 新鮮な米ぬか七・二リットル
(四升)に対して、塩一・八〜二・七リットル(一〜一・5
升)をまぜ、清水を適当に加えて錬り、ぬかみそを作り
ます。これをおけかかめに入れ、五百六十〜七百五十グ
ラムぐらいの羊肉のかたまりを適当数つけ込みます。そ
して、肉がぬかみそから出ないように表面を平らになら
し、しょうぶな紙かセロファンなどを密着させ、そのう
えで、容器を密閉します。冷暗所に保存すれば、約六ヵ
月は貯蔵できます。そして、これを食べるには、あらか
じめ水に数時間つけて塩出しをおこないます。なお、ぬ
かづけの味は、二ヵ月ぐらい経過したものがもっともよ
いということです。(鈴木、長谷川両氏発表)
(3) 羊肉の塩づけ この方法は大きな肉塊を貯蔵する
のに適しますす。なわち十キロの肉塊に対して塩五百五
十グラム、砂糖四百グラム、硝石九・四グラムの割でよ
く混合したものを、表面にまんべんなくすり込み、大き
なたるかかめなどに入れておけば、長く保存がきき使用
できます。小さな肉塊では、それがいちじるしく縮むた
め適しません。
(鶴田翔平編「養畜の相談」207ページ、昭和35年11月、家の光協会=国会図書館デジタルコレクション (注)鶴田氏は大正15年北大農卒