おほん、きょうは昭和12年の「料理の友」2月号に「成吉思汗鍋料理」という記事を書いた吉田誠一という中華料理の料理人を中心に話しましょう。資料を1枚だけ配りますから、いつもやっているように回して。はい、行き渡りましたね。北京にいた井上某が烤羊肉を見付け、鷲沢某がジンギスカンと命名したという説は、佐々木道雄著「焼肉の文化史」に短く取り上げられたので、焼き肉とかジンギスカンに関心のある人には知られるようになったはずと私は見ますが、この吉田誠一は「料理の友」に、昭和12年に初めてジンギスカン料理について書いたのではないのです。實はもう1本あって、これより4年早い昭和8年5月号に書いているのですよ。題名は「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」というのです。肩書きは支那料理店「春秋園」の吉田誠一ね。東京の大井鎧町にあった店です。昭和12年の「成吉思汗鍋料理」は2回目で、肩書きは大日本料理研究会講師講に変わっていたのです。
自慢じゃないが、こうした調べ物をするとき、私はジンギスカンという文字列がないか1ページずつめくって見るのです。隅々までは読まないけれど、カタカナは平仮名と漢字に比べれば画数が少ないので、ジンギスカンの文字列があれば、そこは白っぽい感じで、目に付きます。なぜそういうことを強調するか。
それはですね「料理の友」の昭和8年5月号の目次には誤植があって「成吉思汗料理」はなく「素人納豆の作り方」が2つ並んで載っていたのです。本文には「AY生」の作り方しか載っていないのに目次には「◆素人納豆の作り方 吉田誠一 一二〇」と「◆素人納豆の作り方 AY 一二三」と並んでいて、目次だけ見てゆく探し方だと、多分見逃したでしょうね。佐々木さんもそうだったかも知れません。だから徒労は承知の上で総当たりを心掛けよというわけです。バカバカしいようだが、一心岩をも通す。わからない人はgoogleでもgooででも検索しなさい。まあ、念力ではないが、近いかな。この誤植目次は参考文献というにはトリビアルなので、出典には挙げないでおくけど、怪しいと思う人は「料理の友」で確かめなさい。
吉田誠一という名前は、昭和3年に「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」を書き、昭和12年の記事の筆者と同姓同名で支那料理のプロであり、同一人物であることは間違いないでしょう。それで両記事の違いを比較できるように長めに引用させてもらいました。どうぞ著作権関係者の方々のご了承をお願いしておきます。
資料その4が両記事の先頭部分を引用したものです。この(1)の存在を知ってか知らずか、佐々木氏は(2)を要約して「焼肉の文化史」に載せたのですね。「ジンギスカン料理の由来」という項の先頭に「昭和12(1937)年2月発行の料理月刊誌『料理の友』の「成吉思汗鍋料理」(吉田誠一)という記事(以降、「成吉思汗鍋料理」という)に、ジンギスカン料理のいわれが記されている。(1)」とありますから、出典は明らかに(1)ではないはずですよね。
資料その1
(1)痛快無比 成吉思汗料理
=美味烤羊肉=
春秋園 吉田誠一
成吉思汗料理と云へば北京に遊んだことのある人は誰しも前門外肉市の正陽楼、観音寺街の華芳園、外鼓楼、大街の龍海居等を想像され、『火又子』の上で羊肉を焙りながら、原始的料理に舌鼓を打たれたことを思ひ出されませう。この珍しいそして美味百パーセントの成吉思汗料理を、私は一般家庭に採入れて皆様の食卓を賑はして頂きたいと思ふものであります。成吉思汗料理の原則としては野天でやるのですが、都会の人には座敷の中でスキ焼の代りにやればよいと思ひます。これから成吉思汗料理に就て稿を追ふてみませう。
この料理は成吉思汗が陣中で羊を屠り、軍刀をもつて火に炙りながら喫したのが始まりで、これを成吉思汗と云ふなどゝ見たことの有るやうなことを云つて居る人もあり、又現在ではさう思つて居る人も少くないやうでありますが之は間違ひで、成吉思汗とは日本人がつけた名称で、支那ではこれを『烤羊肉(と云ひ、烤(とは焙ることを云ひます。
呉恵堂の燕都食譜には『前門外外肉市正陽楼の烤羊肉は日本人によつて著名となる、日本人の来遊者必ずこれを賞味せざるなく、彼等はこれを成吉思汗と名づく、元の太祖陣中に用ひたる遺風なりと誤伝せるに因る、料理とは菜と云ふに等し……とありますから、これ等を想像しても日本人の付けた名称といふことが断定がつきませう。今より約二十年前北京に居住してゐた井上某が正陽楼に於て、偶然にこの料理を喫し、在留邦人に自慢して吹聴し、鷲澤某を誘ひ出して賞味しその席上に於て、この原始的料理を食べるとなんとなく三千年の昔に還つたやうな気持がする、何とか奇抜な名称をつけやうじやないか、 よからう三千歳(はどうだOKと云つたかいはないか知らないが両人の間で話が纏まり三千歳(と云ふ新しい名称が附せられたのであります、それから後北京在留邦人間に忽ち評判となりました、日本では弊園、昨冬以来この成吉思汗料理のトップを切り、各方面の御賞讃を蒙りこの成吉思汗を食さざれば支那料理の通人にあらずと云ふ位までに歓迎されて居ります。
其当時鷲澤氏が来遊せる人々をこの菜館に招待して、三千歳に舌鼓してゐると『或人が自分が蒙古を旅行した時に、蒙古人が牛の糞を乾燥して、これに薪等を混ぜて火を燃しながら羊肉を焙つて食べてゐるのを見た、そこでよく話を聞くと成吉思汗が陣中で好んでこれを嗜好したと云ふ』と話した、其時鷲澤氏が早速それでは成吉思汗と云ふ名を付けやうぢやないか? と提議満場一致で命名されたので、つひに今日成吉思汗の遺物の如く誤り伝へられたのであります、<以下略>
(2)成吉思汗鍋料理
大日本料理研究会講師 吉田誠一
成吉思汗料理と云へば北京に遊んだことのある人は誰しも『火又子(』の上で羊肉を焙りながら、原始的料理に舌鼓を打たれたことを思ひ出されませう、この珍しい料理が五六年前までは食通の人々に賞味されてゐたのですが、昨今では家庭でスキ焼の代りに座敷で賞味されるやうになりました。
然し火又子……鍋が特種のものにて支那より取寄せなければ間に合ず、読者諸姉より毎日手軽な鍋の研究と其調理法の秘訣を公開するやうにと熱望に依り、本会は最も手軽な鍋を七輪、電燃、瓦斯其他火鉢でも使用出来得るやうに完製して本社代理部で販売することに致しました。
又料理法も緬羊のみに留めず、如何なる地方でも出来得る様に研究致しまして、最も美味しく、最も簡単に、最も栄養ある食べ方として、最も痛快な料理として手加減を加へて御紹介することに致しました。
成吉思汗料理の原則として宴席に列した客が、野天に出て火又子を囲み自ら炙りながら食べる料理であります、此の料理は成吉思汗が陣中で羊を屠り、軍刀を以て火に炙りながら喫したのが始まりで、これを成吉思汗と云ふなどと云ふ人もあり、現在ではさう思つて居る人も少くない様ですが、成吉思汗とは日本人の付けた名称で、支那ではこれを『烤羊肉(』と云ひ、烤(とは焙ることを云ひます。
呉恵裳の燕都食譜には前門外肉市正陽楼の烤羊肉は日本人に依つて著名となる、日本人の来遊者必ずこれを賞味せざるなく、彼等はこれを成吉思汗と名づく、元の太祖陣中に用ひたる遺風なりと誤伝せるに因る、料理とは菜のことなりとありますからこれ等を想像しても日本人の付けた名称と云ふことが断定出来ませう。
今より二十幾年前に北京に居住し居た井上某が正陽楼に於て、偶然にこの料理に接し在留邦人に自慢して吹聴して鷲澤某を誘ひ出して賞味し、其席上に於てこの原始的料理を喰べるとなんとなく三千年の昔に還るやうな気持がする、何とか奇抜な名を付けやうぢやないか? OKと云ふので両人の間に話が纏まり、三千歳(と云ふ新しい名称が付けられたのです、其後北京在留邦人間に忽ち評判となりました、其当時鷲澤氏が来遊する人々をこの菜館に招待して三千歳に舌鼓をしてゐると或人が自分が蒙古を旅行してゐた時に、蒙古人が牛の糞を乾燥して、これに薪等を混ぜて黒煙猛々と、火を燃しながら羊肉を焙つて食べてゐるのを見た、そこで話を聞くと成吉思汗が陣中で好んでこれを嗜好したと云ふ………と話した、其時鷲澤氏が早速それでは三千歳と云ふ名を成吉思汗に改めやうぢやないか? と提議、満場一致で命名されたのでつひに今日成吉思汗の遺物の如く誤り伝へられたのであります。<以下略>
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参考文献
上記(1)の出典は佐々木道雄著「焼肉の文化史」308ページ、平成16年7月、明石書店=原本、資料その1(1)は大日本料理研究会編「料理の友」21巻5号120ページ、吉田誠一「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」、昭和8年5月、大日本料理研究会=マイクロフィッシュ、(2)は同25巻2号16ページ、吉田誠一「成吉思汗料理」、昭和12年2月、同同
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昭和12年の「成吉思汗料理」は、昭和8年の「痛快無比 成吉思汗料理」と、ほとんど同じでしょ。これだけそっくりに書ける人が別人だったら盗用で問題になるですよね。(2)は基本的には料理の友社がジンギスカン鍋を売り出したというお知らせなんです。ただ、一般にはジンギスカンはそれほど知られていないので、ジンギスカンのタレの作り方から焼き方まで教えないと鍋が売れないから、4年前「料理の友」としては初めてのジンギスカンの記事を書き、大日本料理研究会講師の肩書きを得ていた吉田が起用されたとみられます。だから、期待に応えて「最も手軽な鍋」を「本社代理部で販売する」というお知らせだけですませず、吉田はこの鍋さえあれば牛でも鯨でもジンギスカンになると7種の作り方を加えたと思われます。
緬羊、牛、豚、鶏、鴨、鶏モツ、鯨を使うといっても、豚と鴨はタレは羊肉のタレに大根おろしを入れるとよいと勧めるぐらいしか違いがないので、作り方説明だけだと2ページに終わってしまいます。それで4年前に書いたガクのある由来を下敷きにして、原稿を倍以上に延ばしたとみますね。井上某が見つけた烤羊肉という支那料理に鷲沢某が「三千歳と云ふ名を成吉思汗に改めやうぢやないか? と提議、満場一致で命名されたのでつひに今日成吉思汗の遺物の如く誤り伝へられたのであります、」と繰り返したのです。これが真相だぞと自信満々書いたことが、よくわかりますね。
このとき「料理の友」代理部が発売したジンギスカン鍋は、どんな形だったかというと、このジンパ学のトップページにある右側の鍋なのです。詳しいことは後日の講義で説明しますから、青色の料理の友の鍋をクリックして形だけ見ておいてください。戻りはブラウザーの戻り矢印をクリックする。この鍋の絵は広告から抜き出して、私の秘書兼御用人に肉を持つ箸と右手の線を消させたものです。
定価が発売当時1円で後に1円50銭に値上がりしますが、ともかく「鍋が特種のものにて支那より取寄せなければ間に合」わなかった火叉子を「七輪、電燃、瓦斯其他火鉢でも使用出来得るやうに」改良した「手軽な鍋」を売り出したことは、画期的なことだったのです。
前回の講義で話した入江随筆が掲載されたのが昭和39年。遅くても昭和12年、その前の昭和8年から数えると、實に30年もの長い年月を経た後で、北京・井上某が見つけた羊の焼き肉がジンギスカンと呼ばれるようになったという吉田説を裏付けるような入江説が現れたのは、偶然の一致ではないでしょう。ものがジンギスカンだけに、火のないところに煙はたたず。はっはっは。ジンギスカンの歴史に関心のある人ならば、井上・鷲沢コンビ説はもっと深く追究しなきゃいかんと思うでしょう。
ジンギスカンの研究では、私より5年は早く手を付け、しかも入江さんの随筆を発見した高石さんが、これに気付かないわけがない。「畜産の研究」平成18年2月号に「料理の友による成吉思汗料理考」という論文を発表しています。同論文を拝見すると、高石さんは昭和12年の記事だけを取り上げ、その内容の詳しい紹介に重点を置いています。
その理由は、高石さんが「料理の友」を直接読んだのではなくて、ある友人から送られてきた昭和12年のコピーを調べたことがわかります。多分前の年、平成17年と思うのですが「6月のある日、東京のS氏より問い合わせがあり『火叉子(ホチャツ)という器具を知っているか』とのことであった。さて、今までには耳にしたことがなかったので、判からないと応えたところ,『烤羊肉(カォヤンロウ)というものに使う器具だそうだ』というのである。早速、その資料を見せてほしいとお願いしたところFaxで提供して頂いた。(2)」と、入手の経緯を書いています。
そして三千歳の話に絡む「この井上某なる人物は、入江湊氏が日経新聞のコラムの文中に登場した人物と同一人物らしい。(筆者記事:畜研57(10),2003.10)」と書き「井上某なる人と鷲沢某なる人物が、ある謎の人物と共謀して衆議一決したようである。非常に曖昧さがあるので、誰かからの言い伝え書きであろうか。また、この話は何時のことかというのが明らかでなく曖昧である。(3)」と指摘しています。
このカッコの中の筆者記事とは、高石さんが雑誌「畜産の研究」の平成15年10月号に掲載された論文「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」、即ち入江さんの随筆紹介を含む論文を指しています。
続けて高石さんは「入江氏の話では,井上某なる人物に何か変わったものはないかといい,「食べられるかな」と,いわれながら正陽楼に連れて行って貰い,その雰囲気からの由来とあった。それから見ると、前段の話とは少し違うのだ。(4)」317ページと述べるに留めています。ホチャツについては、後で取り上げますが、この昭和12年より昭和8年の記事の方が詳しいとだけいっておきましょう。
そこで私はですね、まず吉田誠一とはどう経歴の人物なのか、手かがりを探しました。「呉恵裳の燕都食譜には」なんて、漢籍も読めるらしい。8年は「呉恵堂」だったのが、12年では「呉恵裳」と違っているのはさておいても、ただの料理人ではなさそうだ。どこで支那料理を勉強したのかなど謎だらけだと思うでしょうが「料理の友」調査で、経歴のヒントは得ていたのです。
「料理の友」に吉田誠一が初めてジンギスカンのことを書いたのは昭和8年の5月号であり、かつ同年1月号から5月号まで、吉田が務めていた支那料理店、大井駅前の春秋園が広告を載せていました。コピーがありますから、スライドで見てもらいましょう。見えにくい人もいるようだから説明しますと、半ページの大きさで、中央に五徳に架けた網のような鍋が描かれ、その鍋から右上に向けた黒い帯があり、白い字で成吉思汗料理と書いてあります。
鍋の左にチョッキを着た男が左足を台に挙げ、短いサーベルみたいな形をしたプロシェットという串で刺した肉を大口を開けて食べようとしてる。そして男と黒い帯との間に「君よ!! 来たりて試せ この快味!」という台詞が書いてある。場所は大井鎧町、カッコして旧後藤本邸とありますから、後藤という人から屋敷を買い取って支那料理店を開いたのでしょう。
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参考文献
上記(2)〜(4)の出典は養賢堂編「畜産の研究」60巻2号315ページ、高石啓一「料理の友による成吉思汗鍋料理考」、平成18年2月、養賢堂=原本、スライドは大日本料理研究会編「料理の友」21巻1号広告でページ番号なし、昭和8年1月、大日本料理研究会=マイクロフィッシュ
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どうです、どこかカルピスの広告を思わせるモダンな、支那料理店らしからぬデザインだと思いませんかね。吉田が書いた「痛快無比 成吉思汗料理」は「當庭園のテント張りで成吉思汗に舌打つ客、鼻を衝いて來る羊脂の香煙、書いてゐてさへ喉がグウ/\鳴ります況や成吉思汗の味に於ておやですお試し下さい。(5)」と春秋園の宣伝を入れて終わっていますが、この絵のあんぐり大きく口を開けた男性とマッチしていると私は思いますよ。
また、鍋の盛り上がりや脚付きコンロの形もよく見ておいて下さいよ。特にテーブルの上の皿ね。肉の切り身ばかりのように見えませんか。吉田のジンギスカンの材料には野菜は全くなくて肉ばっかり、薬味に葱、生姜、ニンニク、柚子が出てくるぐらいなのです。その吉田が料理をこしらえていた春秋園の広告です。野菜は焼かなかったんですね。私にいわせれば野菜も焼くようなったのは戦後だよ。
春秋園はこれに先立つ昭和7年の「食道楽」4月号55ページに1回だけ広告を載せています。イラストは何もなく「独特の成吉思汗料理」「支那料理 春秋園」と大きめの字で2行、その下に「大井町(旧後藤邸)」「省線駅前自動車送迎無料」「電話大森二一三八番」と小さく入ったものです。
ラーメンとカレーライスは国民食なんていわれるだけあって、さまざな本が出ているけれど、ジンギスカンの本は1冊もない。本屋で見たことがありますか。ないでしょう。せいぜい「焼肉の文化史」に20ページほど書いてあるぐらいです。
だから、私はいつも資料を探すとき、ジンギスカンの歴史だけでなく、羊と山羊、羊肉料理法なども網羅するジンパ学のどこかで使うことを念頭に置いて見るのです。それでたまたま昭和5年の新聞広告を見ていて、月刊誌「家禽と家畜」2月号に吉田誠一という人が「兎の支那料理」という記事を書いていることを見付けた。ジンギスカンを書いた吉田と同じかどうかわかりませんが、同姓同名、調べる価値がありそうです。
検索すると、この雑誌は、つくば市にある農林水産研究情報センターが一番そろっているのです。お願いしたら研究仲間のある人がコピーを取り寄せてくれたのです。筆者はやはり上野翠松園の吉田誠一で大当たり。兎肉の蒸し煮など4種類の作り方を説明してから「さて、我国の一般家庭では兎の肉を料理すると云ふ事を余り知つて居ない。台所がまだそれだけ兎肉に理解がないのである。今後は一般家庭の主婦が是非共、此の安い兎肉を、台所で自由自在に料理して、食膳に共する様にしなければ駄目である。支那などは此の点から云つて、我国の家庭よりも遙かに進むで居る。(6)」と結んでいた。まるで支那でたっぷり食べてきたような書き方です。
このとき、その仲間が、吉田誠一という人物は、この雑誌の第2巻5号から「支那食味放浪」を連載していると教えてくれたのです。私にゃピンと来た。というのは「料理の友」をどんどん読んでいたとき「連載」と銘打った吉田の小説があったはずだぞ、とね。メモを見直したら昭和8年4月号でした。題名もそっくりの「支那食味放浪記」です。
それで直ぐ研究仲間にお願いして、またもやそのコピーを取り寄せてもらったんです。このお取り寄せは本当にありがたかったですよ。なにしろ秋葉原からでも筑波往復はほぼ1日つぶれますからね。持つべき者は親切な友人、研究仲間ですなあ。北大にいる間に部活を真面目にやると、自分の上下7年の部員と顔見知りになれるメリットがあると演説した某部の先輩がおりましたが、友達は本当に大事にしなさいよ。
もう一度いうと、この雑誌は誠文堂家禽と家畜社が昭和5年10月に創刊した副業の専門誌でした。目次を調べたら1巻3号はドジョウの養殖法も取り上げているのです。川魚と家禽とどう関係するのか変に思うでしょうが、ドジョウを鶏に食べさせると卵を沢山産むということで家禽の縄張り内だというのですね。4巻4号には「名曲を歌ふ壱万円の九官鳥事件の真相」という穏やかならざる記事も載っている。九官鳥もペットですからね 。
もちろん緬羊と山羊は毎号のように取り上げられ、農林省畜産局の現役技師や農場主が書いていました。昭和7年の3巻4号なんかは緬羊関係記事が16本も載っており、緬羊特集号といってもいいくらいで、農林省が国策である緬羊増殖推進のためと、後押ししたことがうかがえるます。
肝心の吉田の「支那食味放浪」は、2巻5号、3巻1号、2号、3号、4号、5・6合併号と少なくとも6回は掲載されていてね、第1回を読んで、ちょっと驚きました。どうしてかというとですね、中華料理がテーマの小説なんですから、鯉料理の話ができてもおかしくないけれど、ご丁寧に鱗を剥がすところから3枚に下ろし、小説の中には書いていない頭の切り落とし方まで小さな挿絵が11枚も付いていたからです。それどころか前菜に出る小皿に盛った燻魚、白鶏、皮蛋、これはピイタンと読ませていますが、小さめとはいえ、これらの写真が3枚も付いていて、まるで料理の作り方そのものなんですよ。
粗筋をいうと、中国からある男が東京に帰ってきたので、その友人3人が元気かと訪ねる。すると、男は中国に同行して中華料理を勉強してきた妹に料理を作らせて、いろいろ講釈するという形なのですから、まあ小説といえるでしょうね。前菜にアヒルの卵で中身が黒く変色しているピータンを出して、その作り方の説明として李公耳の「食譜」という本から15行もの中国語の原文を引用しているのです。漢字だから材料のアヒルの卵ぐらいはわかるが、ほかは読めなくてお手上げです。
それで作者の吉田も気になったのでしょう。ピータンは食材専門店から買ってきたものであって「一般料理店に於ても之を求めて客の求めに応ずされば、之を家庭で作ること困難なり、著者は二ケ年の月日を要して研究中なれど、今だ不完製にして公に発表し能ず、こゝに食譜をもつて参考に供す(7)」と弁明して終わっています。かなり風変わりですよね。編集者も小説離れしてると感じたのでしょうね。吉田のピータン研究記事の後ろに「[記者曰く]本稿は副業禽畜の料理を小説体に記し読者の興味に添はむとした新しい試みである。(8)」と付け加えています。珍しいでしょう。
小説が挿絵や写真が変わっているだけではなかったのです。題名も似ているのですが、2年の間を置いて書いた2つの小説の書き出しが、これまた驚くなかれ、そっくりだとすぐに気付きましたね。「料理の友」昭和8年4月号に掲載された「支那食味放浪記」と、この「支那食味放浪」が似ているところを見せるために、両方の先頭部分を引用したのが、これから配る資料の1枚目にあります。はい、後ろへ回して。2回に分けて配るところが私の芸の細かいところだ。最初の1枚をもらって消えた人の分は知らんよ。
資料その2
(1)支那食味放浪
朋友の來訪
行人の往く儘に踏躙られし路傍の小草に至るまで、芽を出し花吹くことを忘ぬ四月半ば、日曜日を幸に各々花見と称して、四方の遠近へ心のまゝに一日の苦を忘るゝ中に、新議事堂裏でシボレーを棄た三人連はシークの背廣服に口髯のないのは只一人、年輩また殆ど揃うて三十の上を二三年、之を俗に紳士と云へど生活の上から見れば、田舎の田作阿爺と云はるゝ者よりも遙に哀れなる人かも知れず、農林大臣官舎と高島家の横の細道を、ぶら/\桜花の下を心地よく、ステツキの尖端の若草を叩き小石を転しながら。
『おい、菅沼の邸は突當りの日枝神社を右へ廻つて坂を上れば五六軒目だ、此処へ來れば昔の学生気分が懐しいよ』
『オーケー、学生気分を発揮して、三年振りで菅沼と今日は愉快に語う、はゝゝゝ』
笑ひながら語りながら歩みながら、日枝神社前の坂道を上がらんとせし出合頭に現れしは二十三四の令嬢、飛模様の御召に絵羽織七三に結びし洋髪にウヱーブの鏝も鮮に、くつきりと色白のモダンガールに非ず上品な美人三人連を目早く認めて小腰を屈め、
『おや、皆様御揃ひでお珍しい暫くで御座いました、何處へおいでゝ御座いますか』
『やあ倭子さんでしたか?暫くでした、今日は久し振りで上海から帰られた貴女の兄さんの處へ御邪魔にやつて來ました』
『あらそうで御座いますか? ようこそ御出下さいました、兄も在宅で御座います』
思はぬ不意の令嬢に案内された三人連は、菅沼家の前庭に面した応接間へ通され、先づソフワを進められ、いつ何時でも客に用意の銀莨函に、スリキヤツセルと埃及の両切、連の一人宮地は四辺を見廻し、
『なるほど、良く出來てゐる、和洋折衷で日本人の応接としては、いはゆるブルジヨア階級を除いて、之以上あるまい、而も近来の世間に見るやうなけば/\しい安普請と違つて、万事しつくりと落付の有る工合、やはり何に依らず急造は総てに慌て気味があつてかうは行かんよ、金は掛つてゐても少しも金臭くない處は如何にも気持が好い、築地に於ける我輩の家とは大違ひするはゝゝゝ』
倭子は満面に微笑を浮べながら、
『あらまア宮地さんは初めて御出になつた様に、大変な御褒め方ですこと? 何んと御挨拶いたしませうほゝゝゝ只今兄に申伝へますから暫く御待ち下さいませ』
(2)連載小説 支那食味放浪記(一)
朋友の來訪
行人の往く儘に踏躙られし路傍の小草に至るまで、芽を出し花吹くことを忘れぬ四月半ば、日曜日を幸ひに各々花見と称して、四方の遠近へ心のまゝに一日の苦を忘るゝ中に、新議事堂裏でシボレーを棄てた三人連は、シークの背廣服に口髯のないのは只一人、年輩また殆ど揃ふて三十の上を二三年、之を俗に紳士と云へど裏面を見れば待合へ入浸りのエロ紳士かも知れず、農林大臣官舎と高鳥家の横の細道を、ぶら/\桜花の下を心地よく、ステツキの先端の色草を叩き小石を転がしながら。
『おい、菅沼の邸は突當りの日枝神社を右へ廻つて坂を上れば五六軒目だ、此処へ來れば昔の学生気分が懐しいよ。』
『OK学生気分を発揮して、三年振りで菅沼と今日は愉快に語らう、はゝゝゝゝ。』
笑ひながら語りながら、歩きながら日枝神社前の坂道を上がらんとせし出合頭に現れしは二十三四の令嬢、飛模様の御召に絵羽織七三に結ひし洋髪にウヱーブの鏝も鮮かに、くつきりと色白のモダンガールに非ず上品な美人、三人連を目早く認めて小腰を屈め、
『おや、皆様御揃ひでお珍しい暫くで御座いました。何處へおいでゝ御座いますか?』
『やあ、静子さんでしたか? 暫くでした。今日は久しぶりで上海から帰られた貴女の處へ御邪魔にやつて來ました。』
『あらそうで御座いますか、ようこそ御出下さいました。兄も在宅で御座います。』
思はぬ不意の令嬢に案内された三人連は、菅沼家の前庭に面した応接間へ通され、先づソフワを進められ、いつ何時でも客に用意の銀莨器にに、スリキヤツセルと埃及の両切連の一人宮地茂美は四辺を見廻しながら、
『成程よく出來て居る、和洋折衷で日本人の応接としては、所謂ブルジア階級を除いて、之以上あるまい。而も近来の世間に見る様なけば/\しい安普請と違つて、万事しつくりと落付の有る工合、やはり何に依らず急造は総て慌て気味があつてかうは行かんよ、金は掛つて居ても少しも金臭くない處は如何にも気持が好い、築地に於ける我輩の家とは大変な違いだ、はゝゝゝゝゝ。』
静子は満面に微笑みを浮べながら、
『あらまあ宮地さんは初めて御出になつた様に、大変な御褒めなのですこと? 何と御挨拶いたしませう、オホヽヽヽヽ。只今兄に申伝へますから暫く御待ち下さいませ。』
同じ人が書いたのだから、似てしまうのは当然としても、田舎の親爺とエロ紳士、高島家と高鳥家、倭子と静子、笑い声のゝの回数など細かい違いはありますが、これだけでは殆ど同じですよね。(1)はこの後、前菜の作り方の講釈になるが(2)は「上海の夜の女」という章で、コールガールたちの話で終わってしまい、料理談義はまったく出てきません。
(2)は「料理の友」4月号に載ったものです。それで5月号は料理の話になるかなと期待して見たらですね、その前から連載していた井東憲という作家の「輝やく港」の7回目と春風亭東馬の新作落語「黄金狂時代」の2本立てで、吉田の「支那食味放浪記」の2回目は載っていないんですな。
きっと1回だけ休んだかなと6月号を見ると、花田鐵太郎の短編「屋上の花婿」だけ、7月号からは小生夢坊の新興伝奇小説「銭屋異譜」になっている。つまり、吉田の小説は1回で終わっちゃった。思うにですね「料理の友」には華族や有名人の料理談義も載っており、上流階級にも読まれる雑誌なのです。それに、こともあろうに、上海の売春婦の話なんか書いたので、礼節を重んじるこうしたご婦人たちのひんしゅくを買い、1回であっさり切られたのでしょう。
それに対して「家禽と家畜」の連載「支那食味放浪」の方の2回目は、鶏のスープをはじめ作り方のメモを取るという形でナスの挟み揚げ、車えびの甘煮、鶏の丸揚げ煮などを紹介しています。3回目は宮地宅の隣に引っ越してきた「支那料理の友」主幹を務める山路白雪が登場し、その縁で宮地の妹愛子が菅沼倭子から教わった「支那風のお菓子の拵え方」を雑誌に書くなど料理法を紹介したり、こちらは真面目な構成なんです。
でも6回目は長さが10ページもあり、前半はある女性の家で宮地がコイの丸揚げ煮などの作り方を教わます。後半は一転して山路が「支那料理の一般心得を語る」という座談会を開いたという設定で、そのやりとりになります。場所が吉田が働いている翠松園にして、その3階から見下ろしたところなど上野公園の写真が4枚もあり、どうみても2回分をまとめて掲載したと思われるのです。
座談会の出席者は、虎ノ門晩翠軒の吉井藤兵衛、芝浦雅叙園の海老周之助、桶町盛京亭の篠原呂市、上野翠松園の吉田誠一、大井の平沢美江、永田町の菅沼倭子、それに山路白雪。吉井、篠原、吉田は実在した経営者や料理人です。山路と菅沼は架空ですが、平沢という女性は肩書きがないのでわかりません。
でも座談会で「支那本場の料理より日本の支那料理はすべてが手際よく綺麗ですが、どうも味が日本化している様です」という菅沼の発言を受けて「味の日本化すと云ふのは止を得ないのです。之は客本位から來るので譬ば茲に有る鯉等にしても、酢を利かせろとか或は砂糖をもつと加えろとか脂濃いとか客が一々云ふのです、客本位で有つて見れば私の店ではそんな事が出来ませんとも云へません(9)」と応じていることから、支那料理店の経営者のように思われます。作者の吉田は、後に翠松園から大井の春秋園に移ったのですから、春秋園にいた知り合いを想定したかも知れません。
山路が司会を吉井に頼み「支那料理の日本化」、「広東の蛇料理」、「蛆虫料理」、「蛹料理」、「蝸牛料理」の順で話が進む。それを分析すると、見出しを除いて174行あり、47回の発言で成り立っている。うち吉田が15回発言し、その長さは123行、7割を占めます。これに対し吉井は5回発言して全部で10行しかなく、吉田は1回平均11行強だから、結果として吉井は吉田の1回分程度しか話していない。
恐らく実名で登場させた有名人とは面識があり、その人たちから聞いたことを発言に仕立てたけれども、それだけでは足りない。それで自分の名前の発言を増やしたため、独演会みたいになってしまったと考えられます。私は、吉田誠一は料理の本だけでなく、こうした小説も書いた。そのころの料理人にしては珍しいマルチタレント、かついい度胸の持ち主だったと思うのです。
絵と写真を入れて1回目5ページ、2回目6ページ、3回目7ページ、4回目6ページ半、5回目4ページ半でした。それまでの雑誌全体のページ数はほぼ100ページ。140ページのときもありましたが、この6回目を載せた昭和6年の11月12月合併号は200ページと倍増したせいもあるでしょうが、いきなり小説に10ページも割り当てている。
そのくせ座談会の最後は、吉田が発言し、蘇東坡の蝸牛の詩を引用し「動物学では軟体動物の腹足類に属して田螺や鮑の類だと云ひ蝸牛の様に塩を振りかくれば水の如く溶けてしまふと云ひます(10)」といい、すぱっと終わっている。座談会らしく「きょうはどうもありがとうございました」というような謝辞で終わる決まり型ではない。だから編集者が一方的に打ち切りを決め、吉田から預かっていた2回分を全部載せ、行替えのよいところでちょん切ってしまったとも考えられます。
また、6回目の前半は、なじみだった芸者との再会する場面があり、後半は座談会という構成もへんてこです。思うに、5回掲載したものの編集部の望む料理小説ではないと打ち切りを宣言された。それで吉田はいきなり打ち切りはひどいと抗議し、2回分を書くことで折り合いを付けたとも考えられます。
いずれにせよ、吉田が昭和6年に小説を試み、それを「料理の友」の編集者に見せたかどうかわかりませんが、2年後に再び「料理の友」で似た題材で書き、1回で終わったことは確かなのです。どうも吉田はですね、一度書いたことを繰り返し使う癖というか、時期と場所が違えば同じ筋書きでも構わないと思っていた節があります。そういう人だから、昭和8年と12年のジンギスカン料理の由来の講釈がそっくりでも気にしていなかったのではないかな。それどころか、他人の書いた文章をそっくり書き写すこと、つまり部分的な盗作も気にしていなかったようで、そういう意味でも大胆な料理人だったと思われます。
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参考文献
上記(5)の出典は大日本料理研究会編「料理の友」21巻5号120ページ、吉田誠一「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」、昭和8年5月、大日本料理研究会=マイクロフィッシュ、(6)の出典は「家禽と家畜」2巻2号85ページ、吉田誠一「兎の支那料理」、昭和5年5月、誠文堂家禽と家畜社=原本、資料その2(1)は「家禽と家畜」2巻5号92ページ、吉田誠一「支那食味放浪」、昭和6年5月、誠文堂家禽と家畜社=原本、(2)は大日本料理研究会編「料理の友」21巻4号146ページ、吉田誠一「支那食味放浪記」、昭和8年4月、大日本料理研究会=マイクロフィッシュ、(7)と(8)は「家禽と家畜」2巻5号96ページ、吉田誠一「支那食味放浪」、昭和6年5月、誠文堂家禽と家畜社=原本、(9)は同3巻5・6号174ページ、同、同6年12月、同、(10)は同177ページ、同、同、
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ここで雑誌「家禽と家畜」から離れて考察の材料を「文藝春秋」に求めてみましょう。昭和13年1月号に「風物支那に遊ぶ座談会」という題する座談会が載っています。出席者は五十音順でいうと、井上謙吉、井上紅梅、小口五郎、島津四十起、竹内夏積、中野江漢、波多野乾一、村松梢風、山縣初男の9人でした。
手短に出席者の経歴を紹介すると、井上謙吉は陸軍大学を明治41年卒業した諜報活動の専門家で、工兵大佐で退役して支那革命軍顧問を務めたりした。ジンギスカンについては「これは邦人間に成吉斯汗料理と呼ばれ、羊肉のすき焼きで特殊の鍋を屋外の松の薪火に上にかけ羊肉を自ら箸にしてすき焼きにするもので支那では之れは烤羊肉(と云つて居る。其根源は蒙古から伝来されたと云はれる、北京前門外の正陽居(と云う料理屋が最も有名で、此処には又羊肉は他の野菜と混ぜてスープに煮ながら食する羊肉火鍋子((よせ鍋)もありこゝの羊肉は少しも其特有の肉臭がない、而して此料理は味はうには北支特有の白瑰児酒<パイカルチユーとルビ>(焼酒の一種)を傾むけることが最も適してゐるのである。(11)」と「糧友」に書いています。
同じ井上でも紅梅の方は上海に詳しい作家です。「支那風俗 巻上」という本に、余君という中国人があなたのような人は北京へぜひ行きなさいと勧めて「又前門内に山羊の立ち食ひ店がありますよ。大きな火鉢に炭火をカツカとおこして鉗子で山羊の肉を挟んで焼き、ダシをつけて食ふのです。腰掛はあるけれど誰も腰かけない。それは片脚を載せる為めの台に使してゐるのです。まあこんな具合に、と余君は長袍の上に帯を締め、右の足を腰掛の上に載せ、左手で山羊を挟み焼く真似をし、右手で高粱酒を飲む真似をする。こんな態ちですから、側から見ると丸で喧嘩腰で談判でもしてゐるやうですが、別にそんな物騒な事ではなく唯山羊を食べてゐるのです。(12)」という話を書いてます。鉗子で山羊肉を挟む以外は伝え聞く正陽楼での正しい食べ方であり、案外正陽楼のことだったかも知れません。
小口五郎がよくわからないのです。「戦前雑誌記事索引」から小口が雑誌「外交時報」「支那」などに書いた記事16本の題名を調べたところ「蒋政権と次期抗戦と西南開発」「重慶新聞の現状」「国民政府の清郷工作」など中国全般にわたること、小口訳の宋文炳著「支那民族史」掲載の「支那文化史体系」12巻の広告によれば、小口は呂思勉著「支那民族史」を訳しており、その肩書きが外務省情報部となっていることから察して、やはり長く中国に滞在した人物と思われます。
島津四十起は明治33年から上海に住み、金風社という出版社を経営し、大正2年から「上海案内」と「支那在留邦人々名録」を刊行しました。歌人でもあり「人間を歌ふ四十起歌集」を出し「第一短詩集」にも名を連ねています。(13)
竹内夏積は「文藝春秋」昭和12年12月号の「今様北支風土記」に「前門外の近くの正陽居、これは羊肉の料理で、食ひ方の豪壮な所から日本人がジンギスカン料理と名をつけ、北京名物の一つにしてしまつた。(14)」と書いています。
また竹内夏積編「支那の全貌」を見たら、この本は井上謙吉、波多野乾一、村田孜郎、竹内の4人の共著で、序文に竹内が手短に共著者を紹介していたので、それを読みましょう。こうです。
井上謙吉氏は陸軍大学を優位で卒業され、陸軍部内に於て、その将来を約束された程の方であつたが、支那を愛するの余り、役を退き、或は革命軍の顧問となり、或は国民革命を援けて各地を転戦されたりしたこともある。北清事変に際しては一少尉として天津城門の爆撃に偉功あり、列国軍から感謝の辞を寄せられた事もある。
波多野乾一氏は人も知る支那通で、北京に長く大毎特派員として在り、現在は外務省にあつて、その蘊蓄を傾けられ、特にその共産党研究は斯界の権威として何人も認めて居る所である。次の村田は飛ばして、序を代弁する所の筆者も亦、朝日時代より支那に在り、四川、貴州、雲南に遊び、広東に住み、漢口に移り、北京に七、八年を暮した。半生を支那研究に没頭した書生である(15)―と。
そして竹内は「支那の人物」を担当して、蒋介石、何応欽、宋子文兄弟など当時の有名人にまつわる秘話、今となっては本当か嘘かわからないが、信じられないような日中首脳の約束も書いてあります。
中野江漢は中国語にも訳された「北京繁昌記」の筆者です。繁昌記というと、もっぱらダウンタウンに焦点を当てた本が多いのに、これは北京の石碑や名所の額などの解説ばかりの堅い内容です。座談会で重要な発言をした人なので、後で少し詳しく紹介します。
波多野乾一は東亜同文学院卒で、大阪毎日新聞北京特派員、北京新聞主幹、時事新報北京特派員など中国生活が長く、後に外務省嘱託になり著書に「中国共産党史」があります。(16)また榛原茂樹という筆名で麻雀普及にも尽くした人です。
村松梢風は作家の村松友視の祖父で大正6年に文壇にデビューし「一九二四年中国へ渡り、以来多くの中国物を書く。(17)」。昭和4年に上海と南京が中心の「新支那訪問記」には上海に半年滞在しているとあるように「思い出の上海」、「支那風物記」、「支那漫談」などの本を書いています。
山縣初男は陸軍士官学校12期生で明治40年に書いた「軍人精神教育之栞」をはじめ「新支那通志」、「西藏通覧」を出し、さらに中国語の本の翻訳も手がけてますね。雲南軍の軍事顧問に派遣されたり、大東亜戦争末期に陸士同期の小磯国昭首相に頼まれて重慶経由の和平工作にも携わった(18)人です。
中野が「満洲事変以来、何処から現れたか急に『支那通(』が多くなつた。同じ支那通の中にも『支那通り(』といふ一派がある。支那を素通りして來て、忽ち支那通を気取る輩である。世の対支那観を誤らするは、これ等自称支那通の『自涜的支那観(』である。」(19)と読売新聞に書いておりますが、ここに集まったのは本物の支那通だったといえるでしょう。
以前の講義で濱町濱の家と「文藝春秋」の関係年表みたいな資料を配ったことがありましたね。あの末尾に「風物支那に遊ぶ座談会」で「出席した中野江漢が『この家の宣伝をするやうだけれども』と成吉思汗料理について発言している」としか書いていませんがね、何を隠そう、あの座談会の「成吉思汗料理」という一章に中野が井上・鷲沢コンビについて説明しているんです。これは講義の都合というヤツです、はっはっは。
そこを抜き出したのが、資料その3。「文藝春秋」に堂々と載っていた話ですよ。もし読者が20歳でそれを読んでいたら平成18年で88歳、米寿です。読んだ覚えがあるとおっしゃるかも知れんのですが、ほとんど忘れられている。いや昭和13年ごろのインテリでも、ジンギスカンなんて眼中になかったのかなあ、不思議ですよね。
資料その3
成吉思汗料理
中野 どうも南方に押され氣味ですね。少し北方に移りませう。豚料理もあれは兎に角北方から南へ行ったもので、羊料理などもさうですね。
島津 南方には少いですね。
中野 この家の宣伝をするやうだけれども、こゝの成吉思汗料理は支那には普通にある料理です。唯あれを一番初めに名前を付けたのが鷲澤與四二と井上君です。如何にも成吉思汗が沙漠で食ひさうな料理だといふので成吉思汗料理と名付けた。それから支那人の間にも成吉思汗料理といふことになつてしまったんですね。
北京の食物の本を持ってゐるが、その中に「日人の命ずる所」とちやんと書いてありますよ。それを日本に一番最初持つて來たのが僕なんですよ。それから僕がこゝの主人に勧めたら、わざ/\北京へ行つて正陽楼(の道具を買つて來た。テーブルから腰掛、あのたれは錦州から出る蝦の油に大蒜や何か入れるのですが、さういふのも向ふから買って來た。
楊枝も向ふの長い楊枝、焼酒も向ふの焼酒を持つて來て、この家は物干を応用してやつてゐる。最初試食をしたのが喜多村緑郎、松崎天民、久保田万太郎、それに僕でした。
まあ成吉思汗料理はこゝが元祖なんです。
島津 それは楊ですか、あの油煙で臭味が取れるのでせう。
中野 油煙を滲み込ませるんですね。
島津 成吉思汗料理は確にうまいですよ。
井上(謙) あれは雪が降る頃こんな小さな椅子に腰掛けて……。
中野 あれは腰掛けてはいけない。片足をかうやつて、さうして肉を食べながら焼酒を飲むんですよ。
山縣 羊もいゝですね。
中野 羊も時期があつて、その時期の外はいけない。
井上(謙) さうして終ひに葱に味噌を付けてやらんと氣分が出ない。
中野 どうもあれを食べ過ぎていかんですね。あれを食べ過ぎて流産した人がある。<以下略>
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参考文献
上記(11)の出典は外山操編「陸海軍将官人事総覧 陸軍編」付録8ページ、昭和58年6月、芙蓉書房=原本、糧友會編「糧友」13巻5号55ページ、井上謙吉「支那料理の美味を語る」、昭和15年5月、糧友會=原本、(12)は井上紅梅著「支那風俗」巻上86ページ、大正9年12月、日本堂書店=原本、(13)は勉誠出版編「アジア遊学」No.62の23ページ、和田博文「上海在留日本人の出版活動 島津四十起と金風社」、平成16年4月、勉誠出版=原本、
(14)は「文藝春秋」15巻16号402ページ、竹内夏積「今様北支風土記」、昭和12年12月、文芸春秋社=原本、(15)は竹内夏積編「支那の全貌」序、昭和12年9月、信正社=原本、(16)は朝日新聞社編「現代日本朝日人物事典」1283ページ、平成2年12月、朝日新聞社=原本、(17)は静岡新聞社出版局編「静岡百科事典」788ページ、昭和53年8月、静岡新聞社=原本、(18)は戸部良一「日本陸軍と中国」213ページ、平成12年2月、講談社=原本、(19)は昭和7年3月22日付朝刊4面、中野江漢「満洲の風俗を語る」=マイクロフィルム、資料その3は文藝春秋社編「文藝春秋」16巻1号388ページ、「風物支那に遊ぶ座談會」、昭和13年1月、文藝春秋社=原本
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この座談会には2人の井上が座っていたのに「鷲澤與四二と井上君です。」という中野発言に何も反応していない。この井上君は謙吉でも紅梅でもないからです。わかりますね。ここが元祖というのは、濱の家を指しているんですよ。
出席者は皆支那通ではあっても満洲通ではないから、満洲にいた駒井徳三がジンギスカンと命名したという話を知らなかったという見方もできなくはありませんが、駒井は満州国総務長官を半年ほどで辞め、満州国参議もやめて日本に戻り、昭和10年4月から兵庫県で康徳学院という私塾を開いていました。この座談会の載った「文藝春秋」ぐらい目を通していたんじゃないでしょうかね。
ですからね、ジンギスカンの命名者は鷲沢・井上だと「文藝春秋」に書いてあったけれど、あれはまったく嘘だ。この儂が満鉄にいたとき命名したのだよと、晩年でも看護に通った娘の満洲野さんに伝えることはできたと思われます。でも「父とジンギスカン鍋」には何も書いてません。駒井さんは中野発言を知ってか知らずか語らなかった。満洲野さんも、父親の明言は聞いた覚えがなかった。嘘でもそう書いていほしかった人は沢山いるかも知れませんがね、満洲野さんの思い出は「蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない。(20)」でしたよね。
この文春正月号の奥付には発行部数「三四八、〇〇〇」と明記してあります。少なくとも35万人近い日本人が読んでいた「文藝春秋」に載った中野発言、それより何回も「じんぎすかん」と広告を載せた濱の家の存在が、まったく今に伝わっていないということは、太平洋戦争というか、第二次世界大戦の敗戦ショックで、戦前の記憶がすっぽり消失してしまった。すぱっとリセットされちゃったということでしょうか。
ジンギスカン料理の歴史を紹介している精肉店やジンギスカン料理店の通販ページは、わんさかあるけれども、古い「文春」または「料理の友」に命名者の話が載っていると書いてありますか。見たことがないでしょう。
ジンギスカンの歴史の本がないから、調べられないとでも弁解するかね。では駒井徳三説の根拠は何なのだ。出鱈目、怠慢、不勉強、何といわれても、ぐうの音も出ないでしょう。いい加減な歴史話をだな、おほん、いまも定説のように掲げている公的機関のホームページの担当者は、特に反省してもらいたい。
いや、待てよ、我々はそんな古い記録を調べる暇人ではないのだと反撃してくるかな。いや、だれそれの持説を信用したと弁解するか。どっちにせよ、ジンパ学によって、過去のこうした記録が掘り返されなかったら、いつまでも「ジンギスカンの名前の由来には諸説がある」ぐらいで誤魔化していくしかなかったでしょう。
いや、まだ結論に到達していないのだから、鬱憤晴らしはそれぐらいにとどめてだ、冷静に話を進めましょう。中野江漢はこの「文春」座談会だけでなく、よその雑誌でも同じことを繰り返し発言したり、書いている可能性があります。私でなくても、そう考えるでしょう。ジンギスカンを「日本に一番最初持つて來たのが僕なんですよ。」とは、どういう形を指すのか。「最初試食をしたのが喜多村緑郎、松崎天民、久保田万太郎、それに僕でした。」とは、里見クの「満支一見」より先なのか後なのかも大問題です。それで中野について重点的に調べてみたのです。
中野は「北京繁昌記」という有名な本を書いています。長男の中野達、この方は國學院大教授でしたが、その達氏が編者となり平成5年に東方書店から出した「北京繁昌記」初版にある自序と解題から、本名は吉三郎、江漢はペンネーム。明治22年、福岡県生まれで17歳のとき支那漢口に渡り、佐藤胆齊の私塾に学び、新聞記者になり大正4年に北京に移った。大正5年には北京連合通信社を設立したのち、京津日日新聞北京支局主任を務め「京津繁昌記」の連載を始めた。これを「北京繁昌記」と改題した(21)のですが、アカデミックな本で、飲食店などの案内は皆無です。支那風物研究会を主宰して「支那風物叢書」13編などを発行したことがわかりました。
中野の座談會における発言からすれば「支那風物叢書」のどれかに、ジンギスカンのことが書いてありそうな気がするのですが、これらは札幌にはないので、どこかへ出かけなれば読めない。それで私は東京へ出て行き、図書館巡りをした。そして松崎天民が編集していた雑誌「食道楽」の中で、ジンパ学にとって非常に重要な文献を見付けたのです。それはですね、中野が昭和6年10月号に寄稿した「成吉思汗料理の話」という記事です。それがなぜ重要なのか。
一部を抜き書きしたものを並べて資料その3にまとめてありますから、読んでください。はて、どこかで読んだようだという程度なら、まあ身を入れて講義を聞いていた人だね。筆者の名前がいえれば、よく覚えてくれたと褒めてあげます。
資料その4
(1) 『この料理は、成吉思汗が、陣中に於て羊を屠り、火に炙つて食つたのが始りだ。そこで成吉思汗料理と名づけ、始め蒙古人が愛喫したのが、支那の本土に伝つたのだ』
と、まことしやかに説いて居る人がおる。今では誰でもさう信じて居るらしいが、それは大間違いである。
(2) 呉恵堂の『燕都食譜』といへば、民國の七年の出版で、北京に於ける料理の解説をした名著だが、その中に 『前門外肉市の正陽楼(の烤羊肉は日本人によつて著名となる。日人の來遊する者、必ずこれを賞味せざるはなく、彼等は之を『成吉思汗料理』と名づく、元の太祖、陣中に用ゐたる遺風なりと誤傳せるに因る。「料理」とは「菜」といふに等しい』
とある。これを以てみても、日木人の命名せることがわかるのである。
(3) この料理は、今から二十年前、當時北京に居住して居た井上一葉といふ料理通によつて発見された。井上氏は『正陽楼』といふ料理屋に於て、偶然にもこれを知つて、在留邦人間に吹聴し先づ鷲澤與四二氏を誘ひ出して賞味した。鷲澤氏は當時、時事新報の北京特派員で、現に同社の顧問であり、雑誌『べースボール』の社長である。その席上
『支那那に遺された唯一の原始料理だ、これを食べると、なんだか三千年の太古に還つたやうな氣がする』
だが『烤羊肉では陳腐だ、何んとか奇抜な名をつけやうぢやないか』
『三千歳(とはどうだ』
と両人の間に話が纏まり、『三千歳』といふ新しい名称がつけられた。このことは、當時北京の邦人間で発行されて居た『燕塵』といふ雑誌で発表され、忽ち評判となつた。爾來これを食はざれば支那通にあらずといふ風に流行しだした。
それから程なく、鷲澤氏は、折柄來遊せる人々を、此楼に招待して『三千歳』に舌鼓を打つて居ると、或人が『僕が蒙古を横断した時に、蒙古人は、牛糞の乾燥した燃料を用ゐて、羊肉をあぶつて食つて居たのを見た。よく聞くとジンギスカンが陣中で、好んで食つたといふことだ』
と話したので、鷲澤氏は、早速、
『それでは「成吉思汗料理」と名づけやうではないか』
と提議、満場一致で命名された。このことも當時の『燕塵』誌上で発表されたので、遂々成吉思汗の遺物の如くに誤り伝へらるるに至つたのである。
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参考文献
上記(20)の出典はさっぽろ百点編「札幌百点」第5巻2号16ページ、藤蔭満洲野「父とジンギスカン鍋」、昭和38年2月、さっぽろ百点=原本、(21)は中野江漢著「北京繁昌記」397ページ、中野達「解題」、平成5年12月、東方書店=原本、資料その4は食道楽社編「食道楽」5年10号388ページ、中野江漢「成吉思汗料理の話」、昭和6年10月、食道楽社=原本
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はい、その辺に吉田誠一といった人がいたようだが、当たり、正解です。前回の講義で取り上げた吉田誠一の記事とそっくり、いや、そうじゃない。この雑誌が出た2年後、吉田が「料理の友」に書いた「痛快無比 成吉思汗料理」の先頭部分が、まったくそっくりの内容ですよね。「何とか奇抜な名称をつけやうじやないか、 よからう三千歳(はどうだOKと云つたかいはないか知らないが(16)」なんて白っぱくれても駄目、似てます。そっくり真似てます。
中野の原文の「三千歳」の歳には「さい」とルビがついているのにですよ、吉田は「とせ」にしています。そうなれば「さんぜんとせ」はおかしいから「みちとせ」と読ませるのでしょうね、私にいわせれば、まるで花魁の名前だね。
中野は「文藝春秋」の座談会で「北京の食物の本を持ってゐるが、その中に『日人の命ずる所』とちやんと書いてありますよ」と発言しているが、それが「呉恵堂の『燕都食譜』」という本だと思われます。吉田は昭和12年に「料理の友」に昭和8年のとそっくりのジンギスカンの作り方を書いたとき、呉恵堂を呉恵裳と書いています。自分で本を持っているとか、読んだことがあるなら、すぐ見つけそうな誤植だと思いませんか。
吉田は「二年前の中野江漢氏が発表した由来によれば」なんて一言も書いていないけれども、部分とはいえ、この中野の記事を書き写したに違いない。否定できませんよね。そっくりの部分はほかにもあるので、また改めて検証しますが、きょうの資料の1と4を見くらべれば、立川志の輔なら、そっくりですね、はい、合点して頂けましたかというところだ。一度講義でいってみたかったんですよ、はっはっは。
それからもう一つ、重要なことは中野が三千歳と命名したときと、成吉思汗料理と命名したときの2回とも「當時の『燕塵』誌上で発表されたので、遂々成吉思汗の遺物の如くに誤り伝へらるるに至つたのである。」と書いていることです。前回「燕塵」について話しまたとき、この証言には触れませんでしたが、この「燕塵」紙面と呉恵堂の本が大難問。一心岩をも通すと念じつつ探しているが、いまだ見付けかねてます。どうも「燕塵」は中野の思い違いの線だなあ。
實はね、吉田は、この2回で終わらず、もう1回ジンギスカン試食会の献立として作り方を書いているのですよ。昭和12年5月号にね、続けざまです。写真のグラビアと記事とに分かれているので、それらをまとめたのが資料その3です。
資料その5
【記事の部】
試食聯盟晩餐
満洲建国記念 成吉思汗料理
春秋園 吉田誠一
三月十八日、第二回目の試食聯盟晩餐が大井の春秋園で開かれました。出席された会員は百名。当日の主試食は、満洲の建国を記念する成吉思汗料理で御座いました。陣中料理を偲ぶ成吉思汗料理、それは単に材料の点から申しますれば、羊の肉を焼き、割醤油を付けて食べると云ふに過ぎないのですが庭園に出で、穴のあいた鉄製の饅頭笠を伏せたと云つた様な鍋の上でぢり/\と羊肉を焼き乍ら立食する、其の興は一寸他では味はゝないものであり、且其の肉の美味を讃へる声はー、皆様の口から漏れた所で御座いました。見知らぬ方々の多い会合とは思はれぬ親しみも、此処から起つたものと、うなずかれる程で御座いました。興と意義深かつた試食の会は又の日を期して九時過ぎ散会致しました。以下は其の日のお献立と調理法を掲載いたします。
<菜單と他の料理は略>
(3)成吉思汗<ヂンギスカンとルビ>(羊肉のスキ焼)
材料 五人前
羊肉百匁、羊生脂少々、酒、酢、醤油、パセリ少々、葱少々、柚子又はレモン一個
成吉思汗料理につきましては、本誌新年号にくわしく申上げましたが、成吉思汗料理と云ふのは、日本人がつけた名で、要は、羊肉を薄く刺身の様に切り、それを酒と醤油を同量に混ぜ合せた汁に暫く浸して置き、之をスキ焼にして、醤油と酢酒を各々同量宛合せ、それにパセリと葱の微塵切りを加へ、柚子或はレモンの搾り汁を加味したタレをつけて食べるのです。
尚此の料理法は、牛、豚、鯨等の肉に応用されても妙味あると云ふ事と、陣中を偲ぶテント張りの下の成吉思汗料理は、當春秋園独特のものであると云ふ事を附け加へて置きます。
<グラビアの部>
料理の友試食聯盟試食会の光景
(成吉思汗料理<ジンギスカンレウリとルビ>)
料理の友社「試食聯盟」の満洲建国記念試食会が三月十八日午後六時より品川区大井町春秋園に於て開催され会するもの百余名陣中料理の珍味に舌鼓を打ち非常なる盛会であつた写真説明(上)陣中料理に舌鼓を打つ第一班(中)同第二班(下)司会者倉林有隣先生の挨拶
試食会出席会員(イロハ順)
<90人の名簿略>
マイクロフィッシュでは写真は真っ暗で、なにをしているところかよくわかりません。写真説明は3枚分しかありませんが、よく見ると、上と中の間に鍋とプロシェットと呼ばれるサーベル型金串とタレの器を切り抜いた写真があるのです。多分、原本ならもっとはっきり見えて、スライドで見せたあの広告の鍋とプロシェットは、あまりデフォルメしていないことがわかるのではないかな。
また記事で本誌新年号で説明したとあるが、1月号ではなくて2月号掲載の「成吉思汗料理」を指すのでしょう。ただ、このころは次の号、つまり2月号は1月下旬には売り出されていましたから、新年号という言い方は全くの間違いとはいいにくいね。それから出席者の中に、大正15年に「素人に出来る支那料理」という本で、ジンギスカンを紹介した山田政平の名前があります。山田のことは前回少し話しましたね。
それから、別のことを調べていてね、昭和8年1月27日付の朝日新聞に春秋園が高さ2段で新聞1ページの全幅の大きな広告を出していたのを見付けたのです。歴史として4年逆戻りしますが、大事な広告例なのでスライドでそれを出して見せましょう。棚からぼた餅、いやジンギスカンというサンプルだ。はい、見えますね。上のコピーで端から端まであるのがわかりますね。
字が読めるように拡大すると画面からはみ出すので、これぐらいで我慢してもらいたいが、後ろの人のために説明すると、右側に3本足のコンロに乗せた鍋の絵があり、その左側に「痛快無比 成吉思汗料理」「御婚礼御披露 其他御宴会は」とあり、真ん中にどでかい字で春秋園と書いてある。鍋からの煙が尾を引いて春秋園の字の上にまで延びている構図だ。左端の2行は「駅前自動車送迎無料」「御送迎自動車も差出ます」となっています。下はそのジンギスカン鍋のところを拡大したものです。
鍋の絵は春秋園で使っていた鍋を写生したと思われるのですが、これはきょうの講義の初めの方で見せた「料理の友」に出した広告の中の鍋の形に似ているでしょう。「君よ!! 来たりて試せ この快味!」というコマーシャルのね。焼き面と私は呼ぶが、肉を焼く面が、これだとロストル型であり、あっちはぷつぷつで表現していて、ちょっと違うけれど、コンロの長い脚は同じですね。
春秋園は「料理の友」の昭和8年の1月号から5月号まで、あの広告を続けて出し、5月号に吉田誠一が「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」を書いたということは、広告を5回出すからジンギスカンのことを書かせろと交渉した結果と考えられるのです。広告を出すし原稿料はいらないから、とにかく春秋園に独特のジンギスカン料理をやっていることを宣伝させてくれと頼み込んだのではないでしょうか。「料理の友」にしても、現役の主計将校も混じる糧友會あたりから国策として羊肉料理を取り上げろとか、我々に書かせろと牽制されていたかも知れません。
だとするならば―大臣でこの言い方が好きな人がいるようですがね、だとするならば、広告を出してくれる春秋園の吉田に書かせるべきだとなった。糧友會の「料理の友」に対する圧力はあったと思いますね。いずれ証拠を示して話しましょう。
春秋園側には、ジンギスカンは濱の家ばかりじゃないことを知らせたいという焦りもあった。それでこういう大型広告を朝日に出した。こんな大きな広告をちょぃちょい出した支那料理店は目黒の雅叙園ぐらいですよ。大奮発だ。しかも鍋の傍に「痛快無比 成吉思汗料理」と書いている。これは吉田が「料理の友」に書いた作り方の題名そのものですよね。「来たりて試せ この快味!」とも快の字が共通している。吉田の記事は完全に、この広告と連動していたのです。吉田が春秋園の単なる料理人ではなくて、店の広告政策に無関係ではなかったという証拠と私はみたいですね。
ややっ、時間になりましたな。「家禽と家畜」の小説を読んでみて、私は翠松園の吉田と春秋園の吉田は同一人物と断定したのです。わかりますね。上野にあった翠松園は「味道楽」のどれかに写真が載っていますが、大きな支那料理店でした。また昭和6年に松崎天民が書いた「東京食べある記」にも名前が出ています。吉田はここで修業し、このころ春秋園へ移ったことが考えられます。
いくら吉田が素人の物書きだからとか、著作権がうるさくいわれなかったにせよ、転載まがいはいけませんよね。それで私としては、吉田側に引用でも丸写しでもなんでもして、ジンギスカンの原稿を書き、テント張りの下で食べられるのは春秋園だけと宣伝しなければならん何か事情があったのではないかな。つまり料理人吉田が上野の翠松園から大井の春秋園に移ったことが何か関係あるような気がするのですがね、もっと考察が必要です。
きょうは鷲澤・井上から吉田にそれたけれども、吉田からさらにもう一段別の話に移り、また北京の鷲澤・井上組に戻らないと、全体像がわかりにくいからです。決して出任せで講義しているわけではありませんからね。はい、終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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参考文献
上記資料その5【記事の部】の出典は大日本料理研究会編「料理の友」25巻5号20ページ、吉田誠一「満洲建国記念 成吉思汗料理」、昭和12年5月、大日本料理研究会=マイクロフィッシュ、同【記事の部】は同、グラビアページで番号なし、同、同、スライドは昭和8年1月27日付朝日新聞朝刊6面、広告=マイクロフィルム
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