きょうは前回の東京の高円寺にあった成吉思荘の続きです。多くの本やウェブサイトは成吉思荘は日本で初めてのジンギスカン料理の専門店と書いていますが、例えば成吉思荘のジンギスカン料理は御一人様何円だったとかね、メニューとか何かその証拠を示していますか。そんな記録、見たことはないでしょう。
白状すると私もね、専門店の定義も考えずに「日本最初のジンギスカン専門店である成吉思荘の生みの親になる赤坂田町の松井平五郎」うんぬんとやったことが「ジンギスカン広めた東京の濱の家」の講義録に残ってます。いずれ本にするとき直しますが、まあ素人同然だった私でさえ、すぐ覚えたぐらい盛名を馳せていたのです。
その成吉思荘元祖説の拡大に多大の影響を及ぼしたとみられる「ウィキペディア」は「最初のジンギスカン専門店は、1936年(昭和11年)に東京都杉並区に開かれた「成吉思(じんぎす)荘」とされる[7]。」と書いており、根拠の[7]を見ると「^ a b c d e f g h “調査報告その3 ルーツを探る”. 探偵団がたどる ジンギスカン物語. 北海道新聞社 (2003年1月9日). 2010年1月21日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年4月18日閲覧。(1)」となってます。
ではと道新の記事を見ると、鈴木順子記者が「日本緬羊協会(東京)の国政二郎副会長(七一)」の案内で「東京都杉並区の地下鉄丸ノ内線東高円寺駅近くの住宅街。」に行ったら、国政さんが「マンションの工事現場を指さした。」つまりそこが「一九三六年(昭和十一年)、食肉商の故松井初太郎氏が日本で初めて開いたジンギスカン料理専門店「成吉思(じんぎす)荘」の跡地。国政さんと目を凝らしたが、嘉劇俳優として一代を築いた古川緑波(ロッパ)をはじめ芸能人や有力政治家も訪れた華かな店の名残はどこにもなかった。(2)」です。
計算すると成吉思荘が開店したとき国政さんは4歳であり、この記事によれば「国政さんは同協会に入った直後の六二年ころ、同荘を初めて訪れた。」が「当時の国政さんの月給は約二万円。それが一回の食事に五千円もかかった。接待などの場だった。(3)」とあり、こうだから元祖なんだと成吉思荘の経営者から聞かされたという話ではない。
贔屓客は「古川ロッパをはじめ」とあるが、本当か調べてみました。ロッパは自ら「日記狂」と認めており、昭和9年から昭和35年までのうち、昭和10年が欠けているが、ほぼ全日記が3冊の本で読める。私は成吉思荘とジンギスカンという文字列を探してみましたね。
確実なのは昭和32年3月3日「本番の寸前、根岸来る。丹下キヨ子の一行来り、終ると根岸の案内で、西銀座の成吉思汗部落といふ珍な所へ連れて行かれる。これは中々よかった。奥庭に小天幕あり、成吉思汗鍋をやる。羊肉と野菜、タレに大蒜うんと入れてつけて食ふのだが、これはいける。丹下の友、ブラジルから来た二世の伊藤さんてのが、ブラジルの宝石アグアマリンといふのを二粒呉れた。それを持って、タクシー帰宅。成吉思汗の勘定は丹下が払ったのだが、二千二百円、その安さもいいぞ。帰宅。アド三。(4)」とあるだけで、成吉思荘は見つからなかった。
ジンギスカンという単語としては昭和28年12月20日分の「初笑寛永御前試合」の撮影の説明にあった「伴淳の成吉思汗と、荒川さつきの猿飛佐助といふ大変なアチャラカとなる。(5)」ともう1回の2カ所でしたね。
道民主体の講義で改めて取り上げるが、ロッパは4回道内巡業に来たけど、ジンギスカンは食べたと書いていない。日本緬羊協会は戦後できた組織だが、その機関紙「緬羊」にロッパが歌手の暁テル子とジンギスカンを食べている写真が載っていたように思うので、戦後の日記は気をつけてみたのだが、見落としたらしい。もしそれが書いてあったとしてもだ、数寄屋橋のニュートウキョウかどこかで成吉思荘ではなかったはずで、行方不明のその資料が出てきたら訂正します。
ロッパはね、濱町濱の家の講義で、濱の家で支那料理を食べたと11回、美味しい支那料理店として1回、計12回も書いていたと話したはずですが、そのほかレストランで羊肉の煮込み2回(12年)、うまい羊肉1回(14年)計3回羊肉を食べたと書いているのだから、もし成吉思荘で北京料理しか食べなかったにせよ、ロケ先で飛び込んだ小さな食堂じゃないんだから、書かないわけがない。鈴木記者は国政副会長から聞いたまま書いたらしいが、成吉思荘が日本最初のジンギスカン専門店という見方も、こういう思い込みの類いなのです。
はい、きょうの資料を配りますが、1枚目を見なさい。多分ですよ、国政さんは緬羊協会の古老たちから聞いた成吉思荘元祖説を信じて鈴木記者を案内したのでしょう。その先輩たちにしても資料その1(1)にした広告のように「元祖」と堂々と書いているから元祖なんだろうぐらいの根拠だったんじゃないかな。
では同(2)の成吉思荘は元祖じゃないのか。しかも場所は渋谷で高円寺ではない。高円寺が跡地と教えていいのか。鈴木記者は素直に国政さんから聞いた通り素直に書いており、羊肉料理の歴史を調べていないのです。こちらはね、白金台町にあった松井精肉店、親類の松井幸太郎さん経営でした。
私はね、道新のお膝元、わが北大ジンパを知ってか知らずか、この探偵団が全く無視したことに腹を立てて、あえてジンパ学と称してこの研究に着手したのです。北大OBの駒井徳三が南満洲鉄道の調査部長のときにジンギスカンと命名したなんてね、調べたらまったくの作り話で平社員でやめていたとかね、この手のいい加減な作り話をいちいちやり玉にあげたら、さぞ愉快だろう、とね。
そしたら、アメリカからの初の綿羊輸入が2年違うとか、羊肉食普及活動を始めたのは糧友会だとか、東京・濱の家、正しくは「濱のや」と平仮名だがね、昭和6年からジンギスカンを売り出していた等々、自慢高慢馬鹿のうち―ですからやめますが、はい、成吉思荘の資料を示しながら話しましょう。
ああ、それから濱の家は、研究初期に見付けた久保田万太郎が「じんぎすかん料理」で「濱の家」と書いており、講義録にそのまま引用したので、誰かの文章を引用するとき以外、講義録では統一して漢字にしてますから、何かに私の講義録を引用するときは「濱のや」にしなさいよ。
資料その1
(1)
(昭和13年2月5日付読売新聞夕刊12面=マイクロフィルム、)
(2)
(昭和13年5月11日付読売新聞夕刊12面=マイクロフィルム、)
そもそも成吉思荘は最初から羊肉料理専門店ではなかったのです。その前にジンギスカン愛好会みたいな組織があり「緬羊肉料理試食場」と入れた広告があるくらいで、その組織が発展してできた料理店なんです。ただ成吉思荘という店名に宗家とか元祖と古そうな冠を付けて開店したので、最初からジンギスカン料理店だったように受け取られたようだが、本当は中華料理と二本立てでスタートしたのです。
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参考文献
上記(1)の出典はジンギスカン(料理)
https://ja.wikipedia.org/
wiki/%E3%82%B8%E3%83%B3%E3
%82%AE%E3%82%B9%E3%82%AB%E3
%83%B3_(%E6%96%99%E7%90%86)
#cite_ref-oh-sapporo_03_7-1=平成31年1月31日現在
(2)と(3)は平成15年1月9日付北海道新聞札幌圏版23ページ、「探偵団がたどるジンギスカン物語」調査報告その3」=マイクロフィルム
(4)は古川ロッパ著、滝大作監修「古川ロッパ昭和日記 補巻・晩年編」551ページ、平成3年6月、昌文社=原本、
(5)は同*ページ、同
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開業までの歩みから見ていきますが、資料その2は前回の講義でも使った日本緬羊協会編の「緬羊」に載った「羊肉普及に…半世紀」という成吉思荘の初代主人松井初太郎さんにインタビューをして聞いた思い出話の第3章です。名簿を付けましたが、大正11年の畜産博覧会の話の続きなので、質問は入っていません。それから原文はジンギスカンとコウヤンロウが平仮名で読みにくいので、この2品は片仮名に書き換えました。
文中の一ノ戸さんは東京女高師の一戸伊勢子講師、丸山警視総監は昭和4年に就任し、濱口首相狙撃事件の責任を取って昭和6年に辞任した丸山鶴吉で、奥さんは茂といい5つ年下(6)でした。料理人の王さんは、初太郎さんの息子で2代目主人統治さんによると、王という名前のコックは初代と2代目と2人続き、3代目から日本人のコックになったそうです。
日本橋濱の家は京蘇料理店だったが、昭和6年に鎌倉文士のジンギスカン試食会の世話をしたことからメニューに取り入れて帝都唯一、東京じゃうちだけとジンギスカン料理の店として有名になったことは以前の講義でやりましたが、成吉思荘の場合は羊肉好きの会員組織が後ろ盾になるとしても、本職は精肉店兼羊肉問屋であり、直営のジンギスカン店で失敗して宮内庁御用達の暖簾にケチがついてはいかんと、中華料理だけでも経営できる体制を固めて慎重に開業したらしいのです。
高円寺で開店しました、さあ、お出で、ジンギスカンを食べてみて、と始めたのではないのです。ジンギスカンだけの料理店ではなかったことがわかるように、開業したころのメニューを後の資料で見せます。
資料その2
羊肉普及に…半世紀
成吉思荘当主の松井さんに聞く
▽聞く人 松尾久延(本会肉羊部長)
常葉順(〃普及課長)
▽語る人 松井初太郎(成吉思荘当主)
以上敬称賂
記録と文責 本誌・井川正久
羊肉指定商芝なる
高円寺に店開き
その翌年つまり大正十一年に、赤坂の店は「農林省羊肉指定商」と
なりましたが、ここの店も同じ年につくつたものです。確か四月だ
つたと思います。そして店開きと同時に糧友会―陸軍糧秣廠の中に
あつた食糧の研究機関―の指定となり、陸軍は羊肉料理を研究する
ことになつたものでした。
即ちあちこちの学校で羊肉の試食会をやつたり、丸本さんという
栄養の方の係官がしばしばうちへも見えました。この人は蒙古へも
渡つたことがあり、参考になるものをいろいろ持つてこられた。北
京の支那料理店で、羊肉の焼いたのを食べさせる―これがジンギス
カンだというわけで、ナベも見せてもらいました。業者に呼びかけ
講習会も何回か学校でやつたりしましたが、注文はそれ程ありませ
んでした。
一ノ戸さんという人(当時女高師の先生)が一生懸命に料理法を
説いたのもこの頃です。この人は羊肉を和食に利用するので、脂肪
とかスジは一切取り除いてしまう。したがつて材料費も高くついてし
まうし、厄介でした。結局ジンギスカンが一番手つとり早くてよい
というので、ここをジンギスカンの試食会場にしました。
ところが此の辺はその頃から住宅地で、営業はできませんので、
当初は"めん羊をたべる会"としてクラブ組織で運営しました。そ
して営利的でなく、安く便宜にたべて貰うのが私どもの目的でし
た。ここでたべて貰うことにより赤坂の店が繁昌することになつた
のです。
その頃のお値段は、といえば、一人前一円二〇銭で肉は五〇匁、
水菓子、御飯、スープ付きでした。その翌年に関東の大震災で赤
坂の店はやられましたが、こちらは大した被害もなく、商売の方は
順調に行つておりました。
その間わが国のめん羊頭数も増えていつたようですが、こうして
かなりの年月が経ちました。
どころがそのうちに、料理だけでなく酒も欲しい…という人がボ
ツボツでてきた。前にも述べましたように、ここは正式の営業で
はなかつたものですから、酒はできなかつたわけですが、つまり喰
べるだけでは物足りないというのです。
そして、いつそ本式に営業許可をとつたらどうか…という人もあ
るというわけで、たまたまその頃丸山警視総監の奥さんもクラブ
員であつたところから、また、のちに代議士になつたが、尾崎末吉な
どという警部も会員で居られたので営業許可も簡単に下りました。
さて、そうなると、ジンギスカンだけでは範囲が狭いので、支那
・山東省出身の料理人で王という男を呼んだ。王は、「コウヤンロウ
というのがジンギスカンですよ旦那」という。それじや一つマトン
料理という呼びかけでやろう…というので、ジンギスカンはもとよ
り、水たきもやれば煮込み、蒸上物なども始めました。
王は現在銀座で「天竜」という餃子(ぎようざ)屋をやつていま
す。私どもの肉の販売の方からいくと何といつてもジンギスカンで
すがジンギスカンだけではいけないから、めん羊肉を主にし、その
特徴を活かした支那料理というわけでマトン料理ジンギスカン焼と
して本格的に始めたのが昭和十一年です。
成吉思荘の玄関前に立つ松井初太郎さん。右側の喇叭ように見えるものは、暖簾に白抜きで染め出した初太郎さん自身が考案した焜炉と鍋の図案。
その上には右から成吉思汗料理と彫った銘木の看板が掲げられており、その看板は閉店後、松井統治氏が保存していた。
資料その2の談話には福岡大学研究推進部にある「松井家文書」と食い違うところがあります。それは「大正十一年に、赤坂の店は『農林省羊肉指定商』となりましたが、ここの店も同じ年につくつたものです。」という個所で「松井家文書」では1年早い大正10年に委嘱されたとなっています。
前回の講義でもこの文書のことは話しました。初代松井平五郎さんが赤坂で精肉店を開き、その店は太平洋戦争の帝都空襲で焼失したので廃業、息子の初太郎さんが成吉思荘の経営を続け、そのまた息子の統治さんが経営に当たるあたりまでのことを初太郎さんが晩年書き留めたものが原本で、それを福岡大学教授だった親類のある方がコピーしたのが、私のいう「松井家文書」です。コピーは許されなかったので、私が福岡に行って大事だと思う箇所を抜き書きしてきた。その中の大正10年から昭和11年までの文書を資料その3にしました。
この文書の初めの「経歴書」の部のページ番号のないところに「昭和三十八年正月/喜寿を迎へて懐古すれば/初太郎」とあり「亡父」の部の20ページに「昭和三十八年正月/初代の松井家/亡父の生涯を懐古」とあります。20ページを超える長さであり、私が飛び飛びに書き写した分の最新事項は同年3月の株式会社成吉思荘の役員改選ですから、1月から半年ぐらいかけて書いたのでしょう。
また経営関係の各種記録が詳しいことから、松井家にかかわる様々な文書は予め赤坂の本店から高円寺の方へ疎開させていたとみられます。これも初太郎さんの慎重主義によるものと私はみてます。
資料その3
一、全国々緬羊肉取扱指定商に 私三十六歳
大正十年四月 農商務省より本店に対し国産緬羊肉全国一手取扱を委嘱され爾来全国緬羊出荷組合を対照に 取引を開始した 尚一面に於て羊肉消費普及を図り農商務省並に陸軍糧秣本廠の後援を受け 羊肉料理の研究並に試食会、懇談会等各所に於て開催協力得て 羊肉販売に邁進
一、自家飼育緬羊畜産博覧会に出陳
大正十年十二月 上野公園に於て農商務省並に大日本中央畜産会主催 全国畜産博覧会開催 其際 東京府内 代表として父が中延に於て飼育の緬羊三頭(牝羊二、牡羊一)平五郎、初太郎、六平の三名義を以て 出陳 何れも 二、三等に入選 賞賜並
−−−−−−−−−−−−−以上6ページ
賞状を受賞した
<7ページはこのほか、茨城県下に緬羊牧場を新設などが書いてある>
<8ページから10ページには松井自動車部開設、関東大震災で赤坂の本店の焼失と再建、東京都食肉同業組合代表者に就任などが書いてある>
−−−−−−−−−−−−−以上10ページ
一、昭和十一年四月
成吉思汗料理創業
国内に於ける生産肉羊愈々増産是に従ひ羊肉消費普及の重要性から羊肉料理 成吉思汗焼を創意工風<原文のまま>し企業に当り其営業所を別宅である 杉並区高円寺二の四一八番地 所在の開放し北京式マトン料理 成吉思汗焼 宗家 成吉思荘と命名 開業 最初は会員組織の形態で発足したが 其直後 農林省並に陸軍糧秣本廠其他知名の有力者各位の希望と後援により 正規による料亭許可を請け我国最初の緬羊料理の開祖となつた記録を作つた次第です
一、実用新案特許
松井式成吉思汗焼鍋発明
発明の動機は (一)羊肉消費普及を目的に (二)滋養に富む羊肉の味覚と栄養価を活かすために鋭意工風<同>理想的肉焼器として考案したものです 尚其際現品を一家に一台と言ふ計画にて販売企画をしたが 当時日、支戦時下にて早くも金属統制発令され此為遂に製作中止とやむなきに至り 計画は未完成となつた
一、大東亜戦争と食肉界の組織変動<略>
−−−−−−−−−−−−−以上11ページ
資料その2の回顧談からすると「農林省羊肉指定商」は大正11年、松井家文書では10年に「国産緬羊肉全国一手取扱を委嘱」だから、別物でなきゃならん。中央畜産会の機関誌「畜産」の大正15年6月号は実質「緬羊」特集号で、指定羊肉商という肩書きで平五郎さんが「羊肉販売の実況」、そのすぐ後に畜産局にいた山田喜平さんが「肉羊閑話」を書いています。平五郎さんは「当局に於ても此点に留意せられ羊肉商奨励規定をも設けて羊肉食用の普及を企図せられ」「私は昨年十月該奨励規定に基き主務省のより我国最初の羊肉販売の指定を受け(7)」うんぬん。
喜平さんも「昨年からは農林省の指定羊肉商を設定して奨励金を与へ成る可く高価に民間より肉羊を買入る様取計ひ既に東京の松井商店主松井平五郎氏外最近北海道札幌の肉商小谷義雄氏を指定されたが将来は九州関西方面にも一箇所は必要だらう。(8)」と書いている。つまり大正14年に「農林省の羊肉販売の指定」を受けたことになり、松井家文書を信じれば4年、談話にしても3年違うことになります。
資料その4は羊肉商に対する補助金制度の説明ですが、大正11年は補助金は出たが、指定商制度はなく「緬羊」の記事から指定は13年度になってからです。「緬羊」特集号に「今回三越呉服店経営食堂ヲシテ羊肉弁当ヲ販売セシメタルニ一般ニ好評ヲ博シツゝアリ(9)」という記事があるので、このころから農商務省と補助金がもらえるようになり、喜平さんがちょいちょい取扱頭数調べにくるなど指定商同然になったことから大正10年に指定を受けたように記憶してしまったことが考えられますが、渡会隆蔵著「日本の緬羊 現状とその将来」にも「大正十一年度から全国主要九大都市(東京、大阪、仙台、札幌、小樽、盛岡、福島、長崎、熊本)に羊肉指定商を設け民間から羊肉を買い入れた場合一頭につき二円乃至三円の奨励金を交付し、猶この他に生産地に近い年で、羊肉の消費宣伝会を催し、試食会や廉売等を行つて、大いに羊肉の消費につとめ、殊に成吉思汗料理は各方面の好評を博して、次第に羊肉の消費者が増加し販路も漸次拓けて行つたが、遺憾ながら昭和七年度の予算削減に際して、本奨励金も廃止されることになつたのである。(10)」とあります。資料その4(2)の12年度の交付金額がないのは震災で松井商店が焼けて羊肉買い取りができなかったからかも知れません。
資料その4
(1)
羊肉商補助
羊肉ノ販路ヲ安固ナラシムルニハ先ヅ一般家庭ニ於ケル羊肉ノ需要ヲ普及スル要アルヲ以テ大正十一年度ニ於テ羊肉ニ<原文のまま>補助金ヲ交付シ低廉ナル価額ヲ以テ三越呉服店ニ羊肉ヲ提供セシメ同店食堂ヲシテ羊肉弁当ヲ安価ニ販売セシメ以テ羊肉ノ普及宣伝ニ資シ併テ生産者ノ羊肉販買ニ有利ナラシメタリ而シテ同年度ニ於テ交付シタル補助金総額ハ三、二五一・<・の右に小さい円の字>四ナリ
(2)
(ニ)羊肉商補助
羊肉ノ販路ヲ安固ナラシムルニハ先ヅ一般家庭ニ於ケル羊肉ノ需要ヲ普及スル要アルヲ以テ大正十一年度ニ於テ羊肉商ニ補助金ヲ交付シ低廉ナル価格ヲ以テ三越呉服店ニ羊肉ヲ提供セシメ同店食堂ヲシテ羊肉弁当ヲ安価ニ販売セシメ以テ羊肉ノ普及宣伝ニ資シ併テ生産者ノ羊肉販買ヲ有利ナラシメタルガ大正十三年度ニ於テハ羊肉商ヲ指定シ民間飼育ノ閹緬羊又ハ二歳以下ノ牡緬羊或ハ其ノ屠肉ヲ買入レタルトキハ毎一頭又ハ屠肉一頭分ニ付金三円ノ奨励金ヲニシ緬羊飼育経済ノ緩和ニ資スルコトトセリ其ノ交付金額左ノ如シ
大正十一年度 三、二五一・四〇<・の右に小さく円の字>
大正十三年度 三〇〇・〇〇 十月ヨリ十二月迄
(3)
●羊肉商奨励金交付二関スル件
農商務省指令畜第三一一〇号(大正十三年六月十六日附)
東京市赤坂区田町六ノ一〇 松井平五郎
農林省指令畜第四一一四号(大正十四年七月十八日附)
札幌市南一条西四丁目六 小谷義雄
緬羊肉利用普及奨励ノ為別羊肉商奨励金交付条項ニヨリ奨励金ヲ交付ス
羊肉商奨励金交付条項
第一条 奨励金ハ閹羊若ハ二歳以下ノ牡羊又ハ其ノ屠肉ヲ其ノ緬羊ノ飼育者ヨリ買受ケタル場合ニ於テ之ヲ交付スルモノトス
但宮内省及政府所有ノ緬羊又ハ其ノ屠肉ヲ買受ケタルトキキハ此ノ限リニ在ラス
第二条 奨励金ハ当分ノ内一頭又ハ屠肉一頭分ニ付金参円トス
第三条 奨励金ヲ請求セムトスルトキハ請求書及別記様式ニ依ル明細書ニ生体ニテ買受ケタル場合、種類、性、年齢又ハ換歯数生体量及屠殺年月日ヲ屠肉ニテ買受ケタル場合ハ種類、性、年齢又ハ換歯数、屠肉量及屠殺年月日ヲ記載シタル屠畜検査員ノ証明書ヲ添附シテ毎月月廿日迄ニ前月分を取纏メ畜産局長二差出スヘシ
第四条 本奨励金ノ交付ハ政府ノ都合ニ依リ何時ニテモ之ヲ廃止シ又ハ停止スルコトアルヘシ
明細書様式<略>
ちょっと戻りますが、資料その2の初太郎さんの談話「大正十一年に、赤坂の店は『農林省羊肉指定商』となりましたが、ここの店も同じ年につくつたものです。確か四月だ
つたと思います。そして店開きと同時に糧友会―陸軍糧秣廠の中にあつた食糧の研究機関―の指定となり、陸軍は羊肉料理を研究することになつた」の「ここの店」と「店開きと同時に」は聞いた通りなのでしょうが、話が少し怪しい上に誤解を招く書き方ですね。
「ここの店」とは、インタビューを受けた場所、高円寺の建物、後の成吉思荘ですが「店開きと同時に」の方の店は「農林省指定商」とみるべきだ。だから「ここの店も同じ年につくつたもの」とは、大正11年に購入したという意味でしょう。しかし糧友会が結成されたのは大正15年、昭和元年であり、大正11年に陸軍主計将校の間で結成の動きあったにせよ、発足はしていない。だから糧友会指定はあり得ないのです。
「その頃のお値段は、といえば、一人前一円二〇銭で肉は五〇匁、水菓子、御飯、スープ付きでした。その翌年に関東の大震災で赤坂の店はやられましたが、こちらは大した被害もなく、商売の方は順調に行つておりました。」とあるのは、大震災で赤坂の松井本店はつぶれたが、すぐ仮店舗を建てて商売は続けたと解釈すべきでしょう。糧友会が「羊肉講演、羊肉試食會、羊肉料理講習會、羊肉廉賣會等を開催して羊肉知識の普及と榮養經濟美味羊肉料理の一般化を圖り(11)」ますと宣言したのは昭和2年。それから鍋羊肉と称してジンギスカン料理の講習会を開き始めたのだから、会員組織が大震災前からできていて一人前一円二〇銭で食べられたはずはないのです。
これは大正15年の「緬羊」特集号に初太郎さんの父平五郎さんが寄稿して「新聞、雑誌其他印刷物に依り宣伝に力めしは勿論女子大学割烹研究会、世界料理展覧会或は畜産博覧会等苟も羊肉宣伝に効果あるもの思惟する場合は力めて之に出品して販路の開拓に専念した(12)」と書き、喜平さんも同じように「羊肉食の普及宣伝」に「汎ゆる機会を利用した。又邦人の嗜好に適ふ料理法を女高師の一戸講師に研究委託して之を発表する等」努力しており、さらに松井羊肉店の肉羊肉仕入れ量統計まで書いている(13)のに"めん羊をたべる会"に全く触れてないのは、まだできていなかったからでしょう。
旧陸軍糧秣本廠にいた丸本彰造は「大正十一年新春、私は北支の支那駐屯軍並に山東駐剳軍の諸部隊兵食改善指導の為出張」して北京正陽楼で烤羊肉を食べ、鍋を持ち帰って翌年春東京九段坂の偕行社で、本邦創始の成吉思汗料理の披露試食会を行つた(14)」と戦後の「糧友」に書いています。大震災は大正12年9月1日発生だから、12年春は赤坂の店は平常営業しており、多分ですが、この試食会で焼く羊肉を買いにいって丸本と松井商店とのつながりができ、それから「丸本さんという栄養の方の係官がしばしばうちへも見えました。」ですね。丸本たちが糧友会を組織したのは昭和元年、日本人が羊肉を食べるようにする羊肉食普及活動を始めるぞと宣言したのは昭和2年だったことを思い出して下さい。
農商務省のお役人のほかに陸軍のお偉方も馬に乗ってくるようになり、類は友を呼ぶでマトン料理店みたいなってしまったらしいのです。有力会員だった丸山鶴吉が警視庁総監になったのは昭和4年ですから、緬羊をたべる会の形が整ったのはそのころではないかなあ。
それから「松井家文書」では略しましたが、初太郎さんは昭和11年に東京肉商同業組合の第10代組長になりました。福原康雄著「日本食肉史」によると、初太郎さんは役職嫌いで死去した前組長の残任期間だけ仕方なしに務めた。「今日成吉思汗鍋と称する特殊鍋は實に氏の考案によるものである。 氏が組長となつて先ず考えたことは、業者の人格向上と積極的な肉食の普及宣伝であつた。業者として肉に対する知識も必要であり、また官庁の諮問に対し、業者としての意見を具申し得るだけの知識の涵養を目的として、農林省技師を組合嘱託として常に指導講習を行う計画を建てたがこれは実現に移る時日がなかつた。 肉食宣伝のためには肉料理に関する四季のパンフレットを作成頒布した。その目的は新聞雑誌に見えるようなビフテキやスキ焼の調理法でなく、一般家庭の主婦によつて出来得る下等肉の安易な、しかも経済的な調理法であつた。執筆者は当時農林省技師であつた現山口大学教授、農学博士木塚静雄氏と聞く。然し、こうした進歩的な仕事にも反対が起つた。それは主として下町の業者からで、費用をつかつてまでそんなことをやる必要がないというのであつた。ために氏は経費捻出のため自ら足を運んで東京、大宮などの問屋を訪れ若干の寄付を得て刊行を続けた。(15)」とあります。
資料その5(1)は、東京で古書の蒐集と研究をしておられる方から頂いた「肉料理乃栞」の表紙のコピーです。「はしがき」に夏に出した栞が喜ばれたから冬向けの栞を出すとあるから、組合として栞を2回続けて出した形ではあるが、栞発行に反対する組員もいたので、冬の栞は松井本店の責任で発行としたようですね。
同(2)はその目次、その中の羊肉料理を抜き出して同(3)に示しました。ジンギスカン鍋のつけ汁に林檎汁一個分と蜜柑汁三個分を入れるところが新しい。山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」では昭和12年4月発行の第4版のレシピでね、初めて林檎汁一個分と蜜柑汁一個分を入れるように変えており、こっちが半年早い。またレシピも糧友会丸出しでなく、つけ汁を甘くして、特に「下手をすれば肉はすぐになくなるから附け合せ」として「葱や、椎茸を一緒に焼けば面白い。」と、肉だけでなく野菜も食べる提案は斬新です。私はね、野菜を入れるようになった時期を聞かれると、戦後です、女子供も一緒に食べるようになってからですと答えますが、その提案は「肉料理乃栞」だったのですね。
それから、鍋についてだが、糧友会がなにか特製鍋を売っているようにも取れますが、そんな事実はありません。筆者の木塚さんは初太郎さんが独自で鍋を作り出し、クラブで使っているが、市販を始める時期がはっきりしないので「線太の魚焼網」でもよいとしたとみられます。
資料その5
(1)
肉料理の栞
はしがき
此の夏の料理の栞が皆様に大変喜欣んで戴けましたので、続いて冬の料理を記すことに致しました。肉料理は冬こそ得意の季節であります。昼の激務に疲れてゐられる旦那様方の心を癒し、一家団欒して鍋を囲むなぞ、人生でも此の上ない美くしい情景ではありませんか。私は皆様方が肉をよく理解せられて、益々腕の冴え発揮して來られることを心から嬉しく存じます。
笑つて肉食 笑つて健康 笑つて活躍
(2) 上欄の目次
肉料理に就いての一般的注意………………………一
煮焼する場合の注意…………………………………二
硬い肉の軟化法………………………………………四
臭味を抜く方法………………………………………五
簡単な貯藏法…………………………………………六
家庭的なラードの作り方……………………………九
内臓の利用に就いて…………………………………一〇
肉料理上開係深い食品の簡単な見分け方…………一二
罐詰の知識……………………………………………一九
冷藏と肉………………………………………………二三
下欄の目次
牛肉料理………………………………………………一
一、鋤焼の方法……………………………………一
二、ビーフステーキ(ビフテキ)…………………二
三、カレーライス…………………………………四
四、牛肉野菜汁……………………………………五
犢肉料理………………………………………………六
一、犢肉のカツレツ………………………………六
二、犢肉のフリカデル……………………………七
豚肉料理………………………………………………八
一、豚肉常夜鍋……………………………………八
ニ、バラ肉のプツキリ煮…………………………九
三、薩摩汁…………………………………………一〇
四、炒飯……………………………………………一一
羊肉料理………………………………………………一二
一、マトンチヤツプ………………………………一二
二、成吉思汗鍋……………………………………一三
三、炒羊肉絲………………………………………一五
四、羊肉のスチウ…………………………………一六
内臓料理………………………………………………一七
一、肝臓の生姜煮…………………………………一七
二、肝臓の尉火焼…………………………………一八
三、心臓の炒煮……………………………………一八
四、心臓の串焼……………………………………一九
五、膵臓の捏揚……………………………………二〇
加工品の料理…………………………………………二一
一、ハムの卵巻き…………………………………二一
二、ハツトドック…………………………………ニ一
三、ソーセージのフライ…………………………二二
四、べーコンの野菜巻き…………………………二三
(3) 羊肉料理
マトン、チヤツプ(一人前)
〔材料〕羊ロース肉(肋骨を付ける)骨付きで三十匁(一一〇瓦)
塩 胡椒、豚脂
〔作リ方〕肋骨一枚をつけ一人前に切つた羊ロース肉に塩、胡
椒を振りフライ鍋にラードを煮立てゝ羊肉の両面を茶色に炒めま
す。
注意 熱い中に皿に盛り粉吹き馬鈴薯、塩茹での青豆或は繊切
りの甘藍等好みのものを附け合せて出します。掛け汁は色々ある
がトマトケチツプは手軽で美味しい。
成吉思汗鍋(五人前)
成吉思汗鍋は羊肉の美味しい喰べ方として糧友会等は特別に鍋
を作つて推称してゐます。實に野趣があつて面白いものでありま
す。
〔材料〕羊肉(腿、肩肉)三百匁(一瓩位)
汁 醤油一合、林檎汁一個分、酒五勺
蜜柑汁三個分、砂糖、味の素、少量
薬品 ペセリー、生葱一本、生姜皮付十匁、ユヅの皮
以上を綺麗に微塵切りする
〔方法〕汁を合せて之に藥味を混ぜ其の中に鋤焼の様に切つた
羊肉を十分程浸して置きます、鍋を(特殊な成吉思汗鍋あり無け
れば線太の魚焼網でもよし)熱くして此の上に胡麻油又は豚の脂
肪を塗つて用意の肉を広げ裏返して大低焼けた所に薬味の入つた
汁につけて其の儘喰べます。
〔注意〕炭火の中に青松葉を落して燻し乍ら焼けば更に趣深
いものです。
尚羊肉は輕いから一人前百匁位平気で喰べられますし重苦し
いようなことはありません。下手をすれば肉はすぐになくなるか
ら附け合せを考へて其の程度を工夫するがよいでせう。
附け合せとして葱や、椎茸を一緒に焼けば面白い。
炒羊肉絲<チヤウヤンユウスイとルビ>
之は豚肉の炒肉絲<シヤオニスイとルビ>に類似の料理であります。
〔材料〕腿肉百五十匁(三七五瓦)豆油又は胡麻油五匁(二〇
瓦)豆粉、葱少々
〔方法〕肉は厚さ三糎位で細長く切り、鍋に油を煮立てゝ豆粉
を撒布し肉を入れ絶えす攪き混ぜ半熟になった頃醤抽を注いで又
攪き混ぜ酒を入れて再び炒り炒り過ぎぬ中に取出して喰べます。野
菜を入れるならば細く切り肉と同時に炒るのです。醤油を注ぐ頃
韮、豆もやし、高野豆腐の絲切り等を加へればよいでせう。
マトンスチウ(五人前)
〔材料〕腿肉又はスネ肉五十匁、人蔘五本(西洋)、蕪菁十個、
キヤーベージ十枚位、馬鈴薯三個、バター大匙一杯(胡麻油一勺
でも可)、塩、メリケン粉大匙一杯半、玉葱十個。
〔作り方〕肉を五六分角に切つて之をフライパンにバターを溶
かして、此中で手早くいためるか又胡麻油でいためておきます。
玉葱及小蕪菁は丸のまゝ矢張いため人蔘及び馬鈴薯は適当の
大さに切り之をいためて野菜類を深鍋に移し入れ材料を覆ふ位熱
湯をつぎ入れ火にかけて煮ます此際火加減は弱火で長く煮る方が
よろしい。
野菜類の柔くなつた時に塩を加へ此中に羊肉を入れて強火で短
時間に沸騰させメリケン粉を水に溶かして加へ入れて手早く攪拌
し塩胡椒で味をつけて火から下します。
〔注意〕右の煮方は羊肉の硬い部分は野菜と同時に入れ初め
高熱で沸騰させ後低熱で長く煮る方がよろしいのでかくすれば肉
の結締組織が多少溶けて居るので肉は柔くなるし野菜類の取合せ
て羊肉特有の香も失せて美味くなります。又胡麻油もよく羊肉の
香を消します、胡椒は後で入れると其の味がよろしい。之にトマ
トソースを入れると尚よろしいのです。
<奥付>
昭和十一年十一月二十日印刷
昭和十一年十一月廿五日発行
肉料理の栞
東京市赤坂区田町六ノ十松井方
発行所 東京肉商同業組合
電話赤坂(48)三四一〇・三四一一
東京市赤坂区田町六ノ十
発行人 松井初太郎
東京市芝区田村町四ノ十四
印刷人 石橋印刷所
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参考文献
上記(6)の出典は日本図書センター編「昭和人名辞典(東京編)」940ページ、昭和62年10月、日本図書センター=原本、底本は谷元二編「大衆人事録」14版、昭和17年、帝国秘密探偵社、
資料その2は日本緬羊協会編「緬羊」135号8ページ、昭和34年8月、日本緬羊協会=原本、
資料その3は松井初太郎記述「松井家文書」より、昭和38年1月起筆、福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、
(7)は中央畜産会編「畜産」巻号なし、32ページ、大正15年6月、中央畜産会=原本、
(8)は同37ページ、同、
(9)は農商務省農務局緬羊課編「緬羊彙報」4巻5号、ページ番号ナシ、大正11年5月、農商務省農務局緬羊課=原本、
(10)は渡会隆蔵著「日本の緬羊 現状とその将来」60ページ、昭和30年10月、日本緬羊協会=館内限定デジ本、
農林省畜産局編「本邦の緬羊」第2輯38ページ、昭和8年7月、農林省畜産局=国会図書館デジコレ本、
資料その4(1)は農林省畜産局編「本邦内地ニ於ケル緬羊ノ飼育」14ページ、大正13年3月、同、
同(2)は農商務省畜産局編「本邦内地ニ於ケル緬羊ノ飼育」16ページ、大正14年3月、農商務省畜産局=国会図書館デジコレ本、
同(3)は中央畜産会編「畜産関係法規」238ページ、大正15年4月、中央畜産会=国会デジコレ本、
(11)は糧友會編「糧友」2巻11号2ページ、昭和2年11月、糧友會=原本、
(12)は中央畜産会編「畜産」巻号なし、32ページ、大正15年6月、中央畜産会=原本、
(13)は同37ページ、同、
(14)は糧友會編「糧友」12号3ページ、丸本彰造「緬羊政策今昔記」、昭和30年10月、糧友会=原本、
(15)は福原康雄著「日本食肉史」213ページ、昭和31年9月、食肉文化社=館内限定近デジ本、
資料その5は松井本店編「肉料理の栞」、昭和11年11月、東京肉商同業組合=原本コピー
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「松井家文書」に自動車部開設というのがありますが、本店関係者で自動車に明るい人がいて、精肉店とは別に一時期、タクシー会社もやったそうです。それで統治さんは、赤坂にあった自動車練習場の中だけという約束で車を走らせていた。戦前の慶応ボーイらしい話です。自動車練習所になる前は演技座という新国劇の発祥の劇場があり、それが火事になったとき沢田正二郎が舞台姿の儘出てきて、お客に慌てずに避難するよう呼びかけたという話を聞いたことがあるなんて回顧談もされました。
昭和2年11月、糧友会が糧秣本廠の中で開いた第1回羊肉料理講習会に松井本店が呼ばれて羊肉販売をしたかどうかは「糧友」の記事ではわかりませんが、第2回は「やがて出來上つた料理を試食して一同は、羊肉料理のおいしいことを今更に驚き合ひ、羊肉礼讃の聲が室に満ちた。一方講習場内に出張した松井羊肉店の、羊肉も亦盛んに売れて居た。本會からはパンフレツト「羊肉食宣伝の趣旨、羊肉料理法」と雑誌『糧友』を一同に無料で配布した。(16) 」とあります。以来糧友会の羊肉講習会の度に付き合わされたのでしょうが、なにしろ参加者は初めて羊肉を見るのですから、安売りしたところで「注文はそれ程ありませんでした。」となるのは当然ですよね。
こうしたことから羊肉卸商でもあった松井本店と糧友会の関係が深まり、丸本から鍋も見せてもらったとありますが、その鍋が丸本が大正10年、支那料理研究のため北京へ行き、正陽楼で烤羊肉を食べ、これを日本に普及したいと鍋を持ち帰り、翌11年に九段の偕行社で「本邦創始の成吉思汗料理の披露試食会を行つた(17)」ときに使った鍋だったと思いますね。
前の講義で使った大判の鍋の写真をもう一度見せるのは芸が無いから、あの鍋の銘のクローブアップを資料その5にしましたが、右から成吉思汗焼鍋と読めますが、この反対側の縁には赤坂松井本店とありましたね。これなんかは丸本が見せた北京あたりの大判の鍋を見習ったものでしょう。それから統治さんによると、鍋の試作を東京でやると鋳物業者に知れて特許を先取される恐れがあると、父親平五郎さんの古里、三重県でこっそり鋳造させていたそうです。これも初太郎さんの慎重主義の一例ですよ。
資料その6
(松井統治氏所蔵)
成吉思荘の庭に蒙古政府から贈られたパオがあり、その中でジンギスカン料理が食べると、蒙古で食べているような気分になるということで人気を集めました。黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」に「モンゴル帝国の創設者・チンギス・ハンにちなんで庭にモンゴルの遊牧民が用いる饅頭型の組立て式の家屋『包』を建てて客室にした。料理だけでなく日本庭園のあちこちに点在する羊毛(で覆われたパオでの飲食の物珍しさも手伝って、高円寺という不便な場所にあるにもかかわらず成吉思荘は連日大入り満員となった。(18)」とあります。
開店して1年後の「文藝春秋」に「高円寺青バス山谷停留所際にある成吉思荘、露天で成吉思汗鍋が食べられる様にしてゐるのは中々面白い。(19)」と載っているから、まだ包はなかったか、まだ徳王から贈られたそれを組み立てていなかったですね。
パオというのは、モンゴル民族独特の移動できる家です。資料その6(1)の図のように屋根の煙抜きは布状の覆いを被せており、煙が立つときはその覆いの紐を引っ張ってずらし、その穴から出す。日本では梅雨があり、モンゴルと同じように青空の下に置けないので、統治さんは「土俵のような屋根」を掛けたそうです。
私は暇があると、思い付いた単語を組み合わせてジンパ学に役立つ情報を検索します。犬も歩けば棒に当たるという諺に因んで、私はこの尽波式検索を犬棒と称しておるが、この犬棒で「すぎなみ学倶楽部」というサイトを見付けた。東京都杉並区のあれこれ情報を10年も集め続けているので、成吉思荘の閉店年を知りませんかとメールを送ったのです。すると、閉店はわからないけど「躍進の杉並」という本に成吉思荘の写真が掲載されているというありがたい返事がきた。早速都立中央図書館でコピーさせてもらいましたね。
それが同(2)のパオの入口の写真です。白い塗り壁のようだし、屋根の煙抜きの上にもう1つ傘みたいな屋根がありますね。「躍進の杉並」は昭和28年に作った本なので、統治さんがパオを模した小パオを建てる前の写真です。入口も大きく、庇が張り出し敷石の上に立つ柱で支え、への字形の看板が付いています。完全にパオを覆ったんですね。
同(3)はパオの中で、お客は座布団を敷いて床に座っています。石油ランプ形の電灯の向こうの天井と布壁の境目をよく見なさい。壁の上端を内側に曲げて屋根とは別物だとわかります。それに屋根を支える横桁が太い。
同(4)は資料その1にしたインタビューの記事に付いている写真6枚のうちの1枚で「詩的な苞(。これはその中の最大のもの。蒙古のものをそのまま据えたのである。こういう処で喫する『じんぎすかん』の味はまた格別というもの。(20)」という説明があります。この記事は昭和41年に書いたものであり、統治さんは39年に小パオを9室建てているので「その中の最大のもの」とみられますが、壁の前の材木が足場みたいで新築の小パオとは思えません。
昭和44年の「月刊食堂]によると、成吉思荘は昭和39年に「八〜一〇人用の客席である小パオを九室」、44年中に「「大広間(七〇人)、特別宴会室(二〇人)、鉄板焼きコーナー(二四人)」を完成させ「中心は蒙古政府から贈られたパオである。これは羊の毛にシートをかぶせて作ったもので、一五、六名用の宴会に使われている。また蒙古パオの形を模して作った一〇名用の新パオが九つ、中庭をとりまいてまるく並んでいる。この独特な客室の他に七〇名収容の座敷と三〇名収容の座敷、二〇名の鉄板焼きコーナーがある。」さらに「四○○坪の敷地内には、この一連の工事で新設された施設と、古くからある二つのパオがある。(21)」と書いてます。だから、これは、そのとき残っていたバオの覆いと一部と考えます。
同(5)は同じパオの中ですが、天井と布壁の境目がなく同じ布で覆われ、横桁はほっそりしています。これはね、同(3)の写真は昭和31年に撮った本物のパオであり、こっちはその後、本物を模して作った小パオの1室だから違った当然なんですね。丸テーブルの左の切れ込みに女中さんが入り、真ん中の鍋で肉を焼いたはずです。
資料その7
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
成吉思荘にパオなどを贈った徳王は昭和13年に初めて来日して10月21日から東京に10日間滞在して、近衛首相はじめ政府・軍部首脳との会談、神社参拝、観劇など盛り沢山の歓迎行事に臨みました。(22)新聞に載っていませんが、この間に成吉思荘を訪れて羊肉料理を食べたらしい。道内発行の雑誌「北海春秋」に「徳王が来られたときには東京の新宿と荻窪の間にある蒙古作りのジンギスカン料理の専門店に招待になつたので、大兵肥満の王は余程嬉しかつたと見えて食うも食つたり一人で無慮七十三人前をペロリと平らげた。今でもあの店に記念のために壁にかかつているかと思うが、王の胸に光つて見える吾邦の勲一等旭日章が目に浮ぶ。或る回々教徒が王は『食ふ一等』でもあると笑つた。(23)」という話が載っています。
はて、蒙古民族は羊肉を焼いて食べないはずではないのかと疑問に思うでしょうが、徳王はカオヤンローとして食べていたらしい。葛西宗誠という茶人が兵士として北支那にいたとき司令官の命令で徳王に「点前で薄茶を差上げたら、お禮のしるしに山の麓にある彼の官邸へ晩餐に招かれた。庭に案内されると嬉しいことに本格的なヂンギスカン料理である。北支の秋は肌寒かつたが、眞赤になつた鉄板の隙問から滴り落ちる羊の油が青白い焔を上げ、焼けた肉を一尺以上ある箸ではさみ、好みの藥味を数種類入れた醤油にちよつとひたして食つた味は今でも忘れられない。(24)」と雑誌「あまカラ」に書いています。資料その8(1)が徳王の写真(25)です。この体格ですからね、バンドを緩めたら相当食べること間違いない。
徳王は、昭和12年に東京市にパオを贈ってます。東京日日新聞は「日蒙親善の贈物としてこのほど蒙古の王様から東京市へ蒙古特有の原始的な移動住宅『包(』が贈られて来た、屋根は獣の皮、壁は粘土様のもので高さ約一間半、直径二間位のガスタンクのやうな円筒形の住居だ、市では大喜びで上野自治会館に大事に保存してゐるが児童のよき教育資料として近く一般に公開する筈で<略>」(26)」と伝えていますが、成吉思荘への寄贈もこのときだったかも知れません。
店をやめたとき、このパオは畳んで杉並区の郷土館に寄附したと統治さんから聞きましたが、区立郷土博物館に問い合わせたところ、そのような資料はないとのことでしたから、多分建てずに保存しているうちにフェルトが腐り、廃棄したのではないかな。
いつやめたのか伺ったらですよ、杉並の保健所に廃業届けを出したら、係の人がほっとした表情になったことをはっきり覚えている。なにしろあそこは住宅街で、その中にある飲食店ということで向こうも随分気にしていたんでしょうねという思い出話に曲がってしまい、統治さんから聞きそびれましてね。知っていたら教えてと、あるサイトの交流欄に書いたら平成8年ごろという書き込みがありましたが、まだ証拠が見付からない。だれか調べてレポートにしてくれれば高く評価しましょう。
徳王はパオのほかに衝立もプレゼントしてくれたそうです。資料その(2)は映画評論家の荻昌弘さんが書いた「続味で勝負」にあるその衝立の写真。左の統治さんと一緒に写っている人の名前も聞いたのですが、忘れちゃった。ただ暁星中学・高等学校の同窓生広告で「宗家成吉思荘」として松井統治(1940年卒)、松井穣(1943年卒)(27)とあるので、穣という方かも知れません。
荻さんは大正14年生まれで、小学生のころ中央線郊外へ何度かジンギスカン鍋を食べに連れていってもらった(28)そうです。成吉思荘の開店は昭和11年、荻氏が小学5年生のときだから、行ったのは5、6年生のころとなります。
その覚えているジンギスカン店と成吉思荘が同じ店だと取材にいって初めてわかったといい、私も成吉思荘も全く戦前と変わったけれど、成吉思荘の変わらないことを2つ挙げると「上品で、典雅で、おっとりした雰囲気とサービスを押し通すこと」と、羊肉のうまみと「ここの漬け汁は、それだけ啜るにもあたいする美味(29)」と褒めています。
衝立の織物は元々は壁掛けらしいのだが、成吉思荘では紋様とジンギスカンらしいひげ面と組み合わせて小さな壁掛けにして、室内に掛けていたようです。というのは私が統治さんを探してお会いできたのは平成18年で、もうとっくに店はなかったからです。
資料その8
(1) (2)
初太郎さんがジンギスカンの肖像画を商標にしようと申請したは昭和10年2月ですから、このころ正式に飲食店の営業許可を取ることに決めたのでしょう。資料その8は松井家に残っていた商標登録通知です。統治さんは親類の法律事務所に更新を続けるよう頼んであるといってましたが、工業所有権情報・研修館で調べもらったところ 昭和20年8月で期限切れになり、継続はしていないらしいということでした。
資料その9
(松井統治氏所蔵=平成18年4月撮影)
これは戦前のことですからさておき、いまジンギスカンの肖像を商標にすると、どうなるのか気になりますよね。加瀬英明という国際問題評論家が平成16年に相撲の朝青龍に「東京で、美味しいジンギスカン鍋の店を知っていますか」と尋ねたときのこと(30)を「渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針」に書いています。
それによると「朝青龍関の表情が、一瞬、険しくなりました。『率直に申し上げて、私たちにとってこれほど不愉快なことはありません。ジンギス汗は、私どもにとって神です。もし、日本の方々が外国へ行って、天皇陛下の名前がついた鍋があったら、どう思うでしょうか』私は『ひとつ、利巧になりました』といって、身を縮めました。(31)」という話なのです。
となると、勝手に神様の名前を付けて北海道遺産に指定するなんて、とんでもない暴挙であり、道産子とわかれば神をも畏れぬやつらだなと朝青龍に半殺しにされそうだが、なんのなんの、モンゴルではチンギスという恐いお顔をレッテルにしたウオツカがあるんだから安心しなさい。とっくに商品名になっていたことを朝青龍も加瀬氏も知らなかったというだけのことだったんですなあ。
教育学部のA名誉教授が私のいる町内会の会長だったとき、モンゴルの女性教育者グルーブを招いて歓迎ジンパをやったことがありましてね、お土産にもらったチンギス・ウオツカの金属製の外筒をね、私が頂いて資料その9にしました。検索すると、通販のページにもっと綺麗な写真があります。彼女たちはジンギスカンが美味しいから、タレを買って帰りたいなんていってましたよ。もうモンゴルの方々もグローバル指向で、水炊きの羊肉にこだわっていないようです。
資料その10
とんでもないのは加瀬氏の方で、ジンギスカンを言い換える名案が思い浮かばない。「それでは、全国でこの羊肉鍋によって生計をたてている人々が、困ることでしよう。『頂門の一針』の諸賢に、妙案がおありでしようか。(32)」とまで書いたのです。わが政府の外交ブレーンだったりした人が、まるで無条件降伏だ。ジンギスカンと呼ぶことが、そんなにまずいのなら、今後はジンパ鍋と呼び換えましょうや。加瀬さん、いかがでしょうかといいたいね。はっはっは。
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参考文献
上記(16)の出典は糧友会編「糧友」3巻2号88ページ、昭和3年2月、糧友会=原本、
(17)は糧友會編「糧友」12号3ページ、丸本彰造「緬羊政策今昔記」、昭和30年10月、糧友会=原本、
(18)は黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」188ページ、平成19年5月、NHK出版協会=原本、
(19)は文芸春秋社編「文芸春秋」15巻12号277ページ、「目・耳・口」より、昭和12年10月、文芸春秋社=原本、
(20)は日本緬羊協会編「緬羊」135号7ページ、昭和34年8月、日本緬羊協会=原本、
(21)は柴田書店編「月刊食堂」8巻3号241ページ、編集部「オリジナル商品とのれんを守る接客技術」より、昭和44年1月、柴田書店=原本、)
資料その7(1)は参謀本部編「東蒙事情」2号8ページ、「東部内蒙古ノ風俗」より、大正5年2月、参謀本部=近デジ本、
http://dl.ndl.go.jp/
info:ndljp/pid/944410
NPO法人チューニング・フォー・ザ・フューチャー制作「すぎなみ学倶楽部」、
http://www.suginami
gaku.org/
同(2)は南雲武門編「躍進の杉並(昭和28年版)」65ページ、昭和28年11月、躍進の杉並刊行会(非売品)=原本、
同(3)は日本交通公社編「全国うまいもの旅行」ページ番号なし、昭和31年6月、日本交通公社、同、
同(4)は日本緬羊協会編「緬羊」135号8ページ、昭和34年8月、日本緬羊協会、同、
同(5)は柴田書店編「月刊食堂」8巻3号240ページ、「料亭経営の近代化で30年の伝統を固守」より、昭和43年3月、柴田書店、同、
(22)は読売
(23)は北海春秋社編「北海春秋」1巻10号10ページ、一沙門「パニュルジュの羊」より、昭和33年10月、北海春秋社=原本、
(24)は甘辛社編「アマカラ」41号28ページ、昭和30年1月、甘辛社=原本、)
(25)は改造社編「大陸」1巻7号345ページ、山本実彦「徳王と蒙古の英雄を語る」より、昭和13年12月、改造社=館内限定デジ本、
(26)は昭和12年6月4日付東京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、
(27)は昭和58年12月16日付毎日新聞朝刊16面=マイクロフィルム、
(28)と(29)は荻昌弘著「続味で勝負」48ページ、「羊肉料理」より、昭和56年9月、毎日新聞社=原本、
(30)と(31)と(32)は渡部亮次郎編「渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針」71号、加瀬英明「ジンギスカンの屈辱」より、平成17年3月27日発行、
http://melma.com/
backnumber_108241
_450734/、)
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さて、昭和11年に話を戻します。開店前に成吉思荘が出した求人広告の進め方がちょっと面白い。クラブ組織だったときの女中をそのまま雇うにしても、人数が足りないとみて募集したのでしょうが、まず資料その11(1)の募集広告を見なさい。松井と個人名だ。こうしたのは、成吉思荘なんて初めての人は読み方もわからない店の名前より、高円寺では松井さんの屋敷として知られていたから、まずは松井で尋ねてもらうためだったと思いますね。4月17日は東京日日にも同じ求人広告を出しています。これも初太郎さんの慎重主義による進め方と私はみてます。
すぐ何人か18日に訪れ、炊事婦が決まったようで同(2)の19日分はお座敷女中だけの募集になり、ここで成吉思荘に振り仮名をつけて店名を明らかにしたのです。ところが飯炊きおばさんが長続きしなかったようで、同(3)のように再度募集していました。お座敷女中もすぐやめてしまうと困るので同(4)のように半年後から保証人も入り用に変えたことがわかります。
それから3カ月でまた同(5)の広告がありました。保証人がいても長続きしなかったようで、20歳以上なら保証人無しでも結構、座敷で働きたいとくる女姓ならどんどん採用することにしたんですね。
資料その11
(1)
御座敷女中 数名入用住込
十六ゟ廿五迄
及炊事婦入用四五迄 一八一九日正
午ヨリ五時迄委細本人来談 高円
寺二の四一八 西部電車山谷下車 松井
(昭和11年4月17日付都新聞朝刊12面=マイクロフィルム、)
御座敷女中 数名入用住込十
六ゟ廿五迄及炊
事婦入用四五迄 一八日一九日正午ヨ
リ五時迄委細本人来談 高円寺二
の四一八 西部電車山谷下車 松井
(昭和11年4月17日付読売新聞朝刊8面広告=マイクロフィルム、)
(昭和11年4月17日付東京日日新聞朝夕刊面=マイクロフィルム、)
(2)
御座敷女中
素人歓迎数名入用十六歳より
廿五歳迄正午より五時迄本人
来談 当方近日開店高級料亭
西武バス電車共山谷下車
高円寺二丁目四一八番地
成吉思荘() 松井
(昭和11年4月19日付都新聞朝刊10面=マイクロフィルム、)
(昭和11年4月19日付東京日日新聞朝刊14面=マイクロフィルム、)
御座敷女中
素人歓迎数名入用十六歳より
廿五歳迄正午より五時まで本人
来談 当方近日高級料亭
西武電車バス共山谷下車
高円寺二丁目四一八番地
成吉思荘() 松井
(昭和11年4月19日付読売新聞朝刊12面広告=マイクロフィルム、)
(3)
御座敷女中
素人歓迎数名入用十六歳より
廿五歳迄及炊事婦二十歳以上
正午より五時まで本人来談
西部バス電車共山谷下車
高円寺二丁目四一八番地
成吉思荘()
(昭和11年5月20日付読売新聞朝刊8面広告=マイクロフィルム、)
(4)
座敷女中入用
十六七歳 素人歓迎
要保證人 本人來談
高円寺二丁目四一八番地
西武電車
青バス共 山谷停留所前
成吉思荘()
(昭和11年9月18日付読売新聞朝刊8面=マイクロフィルム、)
座敷女中入用
廿歳ゟ廿五六歳迄素人歓迎
保證人を要す 本人來談
高円寺二丁目四一八番地
西武電車
青バス共 山谷停留所前
成吉思荘()
(昭和11年9月21日付読売新聞朝刊8面=マイクロフィルム、)
(5)
御座敷女中募集
素人にても可 年齢廿歳より
面談午前十時より二時迄
高円寺山谷
(西武電車青バス共
山谷停留所前)
成吉思荘
(昭和12年1月15日付読売新聞朝刊11面=マイクロフィルム、)
求人広告はこれぐらいにして、店の宣伝広告を見ます。初太郎さんはクラブの会員たちと同じぐらい、どちらかといえば料亭をよく使う上流階級の人々を客層に想定したとみられます。統治さんが保存していた資料その12にしたゴルフ雑誌用の広告の原稿があったからです。同(1)の写真の上の原稿に薄く「「『ゴルフ』雑誌 一月号原稿」その下の方に「昭12」書いてあったのです。原稿は縦15.5センチ、横10.2センチとメモがあるのですが、いまになるとどっちの原稿の寸法かわかりかねます。
ともあれ「ゴルフ」という雑誌を探してみたら、戦前のゴルフ雑誌を所蔵している公立図書館が見付からない。伝統を誇るゴルフ場数カ所に電話しても雑誌は保存していないというので掲載号探しはあきらめました。ただ道立図書館には小樽ゴルフ倶楽部で出した月刊誌「はまなす」があるとわかるが、それに成吉思荘の広告があるかどうかは、まだ確かめていません。
それから、私が悪いのだが、この広告の写真が何に載っていたという記録がない。マイデータベースによると元農水省北海道農業試場長西部慎三さんの講演記録集らしいのだが、明記していない。でも同(1)の下になっている黒地白抜き広告の原稿が統治さんの手許に残っていてよかった。それが同(2)では左上に「農林省 糧秣廠 糧友会 畜産会 御後援」とあります。成吉思荘はこの4団体とともにマトンの消費拡大の一翼を担って歩むことを公式に表明した広告でした。この後にある資料その15の「字は全部筆字で黒地白抜き、緬羊肉の方は株にむくむくした緬羊の絵があり、成吉思汗焼の方は左上に仏教の六重塔の絵がある。右上横の余白に『東宝』のゴム印と『六寸二分 タチ切り』と書いてある。下部余白に『昭12年』と鉛筆で書いた跡がある。左側余白に『9.8/10』とある。」は、これを指しているのかも知れません。
拡大しつつあった支那事変を意識して中国の塔の絵を入れたと思いますが、ゴルファーは有望なお客とみて、まだ発行されていたゴルフ雑誌用に、こうした凝った広告原稿を作ったのでしょう。
同(3)は右端の「『ゴルフ』雑誌1月広告原稿」という薄い鉛筆書きが読めるよう黒を強くしました。同(1)の上になっている原稿の真ん中に「園内趣味の田舎家に囲炉裏を設けました/野趣に満ちた山村の情緒をゆる/\お味ひ下さいませ」という2行の惹句を入れた拡幅版ですね。(3)の画像と「陣中料理」「無敵」という単語からみて、資料その9のジンギスカンの肖像画じゃないとしても何か絵を貼り付けたのでしょう。
ちょっと脱線だが、札幌では昭和7年にできた月寒ゴルフリンクスが古く「広報さっぽろ」は「当時のゴルフは財界人や学者、高級官僚といった一部の人たちのスポーツとされていました。(33)」と書き、農学部の館脇操教授をはじめそこでゴルフを楽しんだ教授もいたので「文芸春秋」に「女学生やデパート嬢は、スキーやスケートやドライヴに、放胆な桃色の夢を追ふ。大學の先生方は、月寒のゴルフリンクスに、ノートの汚点()を忘れる。(34)」と冷やかされたのです。
資料その12
(1)
(出典不明)
(2)
(松井統治氏所蔵)
(3)
(松井統治氏所蔵)
さて、統治さんが亡くなってから見付けたので伺うことができませんでしたが、昭和11年、成吉思荘の開店直前、松井本店と同じ赤坂田町の割烹店がジンギスカンを売り出したのです。資料その13はその記事です。日本橋濱町の濱の家は、もう押しも押されもせぬジンギスカン料理の店として名が通り、大井の春秋園などほかにもジンギスカンを出す料理店があったけど、赤坂で食べられる店としてある程度の客を見込んでの開店でしょう。
この富士川は、近くの松井本店から羊肉を買わず、別の精肉店から仕入れていたとしても、その羊肉は松井本店が卸した肉ですから、売れ行きは松井本店で推察できるし、初太郎さんとしては成吉思荘はジンギスカンだけの料理店ではないし、クラブのときからの常連もいるからと、富士川のジンギスカンはさして気にしなかったでしょう。
資料その13
美味しいマトンの
成吉思汗焼
赤坂・富士川の名物
赤 坂溜池の電車停留所前
にある割烹店「富士川」
では、最近マトン肉の成吉思汗焼
鍋を始めて、非常に好評を博して
ゐる。
大亜細亜の闘将として世界的威名
を馳せた英雄成吉思汗が征旅の
「野戦料理」として好んで用ひたの
が此のマトンの焼肉で、自然の美
味をそのまゝ味はふ點に於てこ
の調理の右に出るものはないと賞
揚されてゐる。
マ トン料理(成吉思汗鍋)
の栄養価については、
既に農林省でも推奨してゐる程で
あつて、しかも味覚の點から云つ
ても牛や鳥に遙かに優つてゐる、
昔からその高雅な風味はあまねく
食通に知られ、料理史を繙いて見
てもマトンは常に高貴な饗宴の王
座を占めてゐる。
滋 養もあらゆる内類中断
然秀れてゐる、肉質が
臂用に柔軟で、繊維が細く、粗い
から消化が良く、蛋白質を多量に
含み、鉱物質も多く、大切なビタ
ミンA・B・Cを豊富に含有してゐ
る。
従つて、健康増進の上から云つて
も大変に効果がある。
そ こで、「成吉思汗料理」
とは、どんな調理法か
といふと、マトンの肉を特製「成
吉思汗焼鍋」に焙つて食膳に供す
るのであつて、一種の「お座敷マ
トン・ビフテキ」である、これに
つける「調味汁」の味が素晴らしく
おいしい。
マトンの肉が程よく焼けた味と、
調味の汁の味とが譬へようもない
醍醐味である。
酒 によし、御飯によし、
下戸にも上戸にも向く
宴會や会食にも絶好である、富士
川では、これをお客三人以上の場
合一人前一圓二十銭(御飯、新香
果もの付)で供してゐるが、非常
の勉強である。是非一度試食され
る様お薦めする。
赤坂区田町七丁目一番地
溜池電車停留場前
割烹 富士川
電話赤板一九二五
この記事から富士川は、3人組なら定食が1円20銭で食べられるが、1人だけなら、10銭ぐらい高かったかも知れませんよね。では成吉思荘では同じような献立はいくらであったのか。資料その12を見なさい。同(2)の電話番号は2つなのに対して同(3)は1つだ。つまり同(3)の方が先に使われた広告であり「無敵成吉思汗焼 御一人前 一、〇〇」と読めるから定食でなければ1円、同(2)のころは「御定食 一、二〇」、1円20銭だったとわかりますね。
資料その2の初太郎さんの発言の最後「ジンギスカンだけではいけないから、めん羊肉を主にし、その特徴を活かした支那料理というわけでマトン料理ジンギスカン焼として本格的に始めたのが昭和十一年です。」とあるように、ジンギスカンだけではなかった証拠でもある当時のメニューの写真と記録があります。
帝都唯一と豪語した日本橋濱の家はもともと支那料理店で、昭和6年にジンギスカンをメニューに加えたのに対して、5年後発の成吉思荘は経営で躓かないよう最初からジンギスカンと支那料理の2本建てだった。私はね、元祖とか宗家とか大きく出たことは確かだが、だからといって「最初のジンギスカン専門店は成吉思荘」という見方はおかしいというのです。
元祖、宗家について私は統治さんに尋ねたことがあります。そのとき昔の広告のことはすっかりお忘れだったようで、統治さんはそう名乗ったことはないといいましたよ。それで私はね、元祖と名乗ったのは松井式成吉思汗焼鍋を造り出し、全国に普及させようとした元祖ということ、宗家は緬羊料理と書いてマトン料理と読ませ、その中心となる料理店という宣言と解釈しています。
さっきもいったが、統治さんのお宅でこれを撮影させてもらったとき、私のデジカメが突如不調になった。マーフィーの法則みたいに、起これば最悪というときに写りが悪くなったんですよ。それで一晩だけとお願いして大事なメニューをお借りして茅場町のビジネスホテルに持ち帰り、持参したパソコンでできるかぎり打ち込んだ。
どうしてコピーを取らなかったのかと思うでしょうが、画面9インチのMSI製パソコンは南門を出たあそこのドスパラで3万円で買ったばかりでね、ポチと名付けた。私はその前にニークラッシャーとも呼ばれた重たいNECのラップトップを使ったことがあったから、軽いポチが気に入り、さっそく東京へ持っていったってわけです。
それにいずれまた撮り直しに伺うつもりだったこともあります。一期一会の意味が本当にわかったときは、もう手遅れなんですなあ。私のこの講義もそうなるから、質問があるならね、今でしょ、だよ。ふっふっふ。
そのときの写した20数枚のメニュー写真の中でもなんとか字が読めるものと、ポチに残ったファイルから開業初期の菜単、メニューを説明してきたが、私も85歳を過ぎたので終活というらしいが、コピー代でみれば30万は下らんと思う資料の断捨離を始めたら、全く覚えのない菜単の原寸コピーが3枚出てきたのには驚きました。
いまとなっては、なぜそんなものが残っていたのか説明できんが、宿で中国語の読みを打ち込む時間がなくなったか、念のためにコピーしたか―だろうが、とにかく、これでポチの切れ端ファイルでは明確にできなかったことがわかったので、今回から菜単の説明順を変えて話すことにしました。
まず資料その14(1)の菜単の写真を見なさい。右半分は上端がすり切れた黒っぽい菜単の表紙です。縦21センチ、横13センチある。「北京料理之部」はいいとして、成吉思荘の電話番号が2本だ。
左側は白っぽくて縦19センチ、変色した透明テープでつないだ折り目までの幅が9センチで、字が小さいが、成吉思荘の名前の左脇の電話番号は1行しかない。右側と左側は明らかに別物だ。右側は成吉思荘が繁盛して1本では間に合わなくなってから作った菜単ですね。
コピーとポチのファイルを継ぎ足したのが同(2)の菜単で、実物はこれを縦書きにしたものだ。横線から上の4行はポチのファイルにあるのが同(1)では表紙に隠されて見えません。もしかしなくても、左の菜単は2つ折りで、料理の注文に使うものではなく、レジのようなところに沢山置いて自由に取らせる宣伝用じゃないかなあ。左端に銀座から高円寺まで15分とうたい、コピーでは大小6つの黒い点にしか見えないが、主要地点を縦に並べたコース図があります。
資料その14
(1)
(2)
異風
成吉思汗料理 御定食御一名様
一、二〇 御肉・御飯・スープ
新香・果物付
――――――――――――――――――――――――――――――
純粋北京式
マトン(緬羊肉)料理 御定食御一名様
一、〇〇 御料理四品(御飯新香付)
二、〇〇 〃 五品( 〃 )
二、五〇 〃 〃 ( 〃 )
点心一道
三、〇〇 〃 〃 ( 〃 )
点心一道
同一卓式 御料理(鯉入) 六品(御飯 新香・果物付)
御二名様 金五圓より
右の外一品料理又は一卓式は御希望の献立に依って
御用命に従ひ申し候
猶乍勝手卓式御料理御用命の節はなるべく
---------------------------------------------------
前以て御申聞け賜り度候
御用承り電話
中野 五八六四番 當莊
赤坂 三四一〇番 赤坂
三四一一番 松井
東京市杉並区高円寺二丁目(青バス山谷下車)
成 吉 思 荘
電話中野五八六四番
銀座より一直線
自動車にて十五分
┌─┐
│成│
│吉│
│思│
│莊│‖
└─┘‖
‖
下車 ‖
荻窪←==●==========●===●===◎===●===◎==
‖ ┌─────┐ 山谷 淀橋 新宿 四谷 銀座
↓ │蚕業試験所│
堀 └─────┘
の
内
――――――――――――――――――――――――――――――
次は完全な菜単の裏表両面のコピー、資料その15(1)と同(2)です。ともに幅39センチ、縦20.7センチ。右前で3つ折になる。同(1)が表紙を含む表側です。全部筆字で「菜單 北京料理之部」の縁取りはラーメン丼などにみられる雷文様で囲んである。資料その14(1)と重ねて透かし見ると、サイズも字配りも完全に一致します。つまり資料その14の表紙は、擦り切れたこっちの(1)の一部だ。どうしてそんな余計な物を重ねてコピーしたのか忘却の彼方、訳がわかりません。
資料その15
(1)
――――――――――――――――――――――――――――――
北京料理定食
金壱圓五拾銭也 御一名様 御料理四品 (御飯新香
果物付)
金弐 圓也 御一名様 御料理五品 〃
金三 圓也 御一名様 御料理五品 〃
金四 圓也 御一名様 御料理六品 〃
金五 圓也 御一名様 御料理七品 〃
金弐 圓也 御一名様 御料理五品 〃
一卓式
金八圓 圓也 御三人様 ┐
金拾円 圓也 御四人様 |上記既定外に御人数様 御超過も
金拾五 圓也 御六人様 │ 差支御座ゐません
金弐拾 圓也 御七人様 │ 但し御一名様増毎に金五拾銭也
金参拾 圓也 御八人様 ┘ を頂戴致します。
◇右以上金弐百圓迄の卓式は幾程にても調理致します
◇御宴会の場合御会費は特に御便宜御相談申し上げます
御家庭に於て御宴会の場合弊莊の出張調理を御利用願ひます
但し参拾圓卓以上の事
――――――――――――――――――――――――――――――
<裏表紙は空白>
――――――――――――――――――――――――――――――
┌───────────┐
| 菜單 北京料理之部 |
└───────────┘
元祖 成吉思荘
電話(38)五七三四番
中野 五八六四番
――――――――――――――――――――――――――――――
(2)
――――――――――――――――――――――――――――――
冷之部
1 拌三鮮 パンサンシヱン 一、〇〇
2 拌三絲 パンサンスー 一、〇〇
3 拌鮑魚 パンポーユー 一、〇〇
4 拌鳮絲 パンキースー 八〇
5 拌海蜇皮 パンハイチヨピー 六〇
6 白切鳮 パイチヱーキー 八〇
鳮之部
7 炸子鳮 ザーツーキー 一、〇〇
8 軟炸鳮 ヱンザーキー 一、〇〇
9 紅焼鳮丁 ホンショウキーテン 一、〇〇
10 青豆鳮丁 チントウキーテン 一、〇〇
11 @鳮庀 リュウキーペン 一、〇〇
12 炒鳮絲 ツオーキースー 一、〇〇
蝦之部
13 炸蝦仁 ザーシャーイン 一、〇〇
14 炸蝦球 ザーシャーチュウー 一、〇〇
15 @蝦仁 リュウシャーイン 一、〇〇
16 煎蝦餅 チュンシャーペン 一、〇〇
17 蝦仁吐絲 シャーイントースー 一、〇〇
18 炸蝦捲 ザシャーキュアー 一、〇〇(二人前以上調進)
雜菜之部
19 紅焼海参 ホンショウハイセン 一、〇〇
20 紅焼鮑魚 ホンショウポーユー 一、〇〇
21 糖醋魚塊 タンスーユークワイ 一、〇〇
22 炸魚條 ザーユーテョー 一、〇〇
23 @魚庀 リュウユーペン 一、〇〇
24 焼@魚庀 ショウリュウユーペン 一、〇〇
25 紅焼鳥肚 ホンショウユードー 一、二〇
26 炒雜辨 ソーザイバン 一、〇〇
27 紅焼四絲 ホンショースーシー 一、〇〇
28 白汁龍腸 パイズールンチャン 一、五〇
29 炒三辨 ソーサンセン 一、〇〇
30 炒什錦丁 ソーシキンツイン 一、〇〇
31 紅焼白菜 ホンショーパイツァイ 六〇
32 紅焼松茸 ホンショーシュンムヲ 一、〇〇
33 蝦子白菜 シャーツーパイツァイ 八〇
34 蝦子松茸 シャーツーシュンムヲ 一、〇〇
魚翅之部
35 紅焼魚翅 ホンショーユーツー 三、〇〇
36 紅扖魚翅 ホンショーユーツー 三、五〇
37 鳮蓉魚翅 キーユンユーツー 三、〇〇
38 白汁魚翅 パイスーユーツー 三、〇〇
燕菜之部
39 通天燕菜 トンテンエンツァイ
40 芙蓉燕菜 フーヨーエンツァイ
41 四喜燕菜 スーヒーエンツァイ
42 冷拌燕菜 リャンパンエンツァイ
貝之部
43 紅焼干貝 ホンショウカンペイ 七〇
44 沐須干貝 ムーシューカンペイ 七〇
45 燴蟹脚 リュウハイテイ 七〇
46 芙蓉蟹 フーヨーハイ 七〇
湯之部
47 三鮮湯 サンセンタン 七〇
48 鳮庀湯 チーペンタン 七〇
49 燴鶏絲 ホイキースー 一、〇〇
50 龍腸湯 ルンチャンタン 一、〇〇
51 鮑魚湯 ホーユータン 七〇
蜜之部
52 錢A仁 チヱンジンユー 一、二〇
53 B絲山葯 パースーサンヨー 一、〇〇
54 B絲平菓 パースーピンゴー 一、〇〇
55 B絲香焦 パースーヒンヂョウ 一、〇〇
56 B絲栗子 バースーリーツ 一、〇〇
57 蜜錢香焦 ミツチヱンヒンヂョウ 一、〇〇
◎御好みに応じ御土産品各種調進致します
@は[火留]
Aは杏の上が禾
Bは枚の木へんでなく扌へん
残るは私が撮った写真、資料その16です。同(1)は私が初めて統治さんにお話を伺いたいと手紙を出したら、いいよという返信が頂いた。それに同封されてきた平成17年の東京新聞掲載の「ジンギスカン誕生秘話」に付けられた菜単の写真です。説明に「開店当初のメニュー」とあるけど、それは統治さんの説明通りだったかも知れんが、表紙の電話は2本だ。
マトンだけでは商売にならないかも知れないと、中国人コックを雇って中国料理も出せる料理店としてスタートした成吉思荘ですよ。最初から2本も電話を引くわけがない。現に資料その14(1)の左側は1本だ。私のボケ写真同(2)も、そういう目で見ると2本のように見えます。
気になるので拡大したのが同(3)。確かに電話は2本だが、驚くなかれ、右は「緬羊肉料理之部」の帳場用、左は「北京料理之部」だったのです。私は統治さんから片方は帳場用、もう一方は調理場用と聞いたように思うが、中国人コックは中国語で注文を伝えてくれれば十分、菜単は必要ないわけだから私の聞き違いですね。
最初は資料その14(1)の左側のサイズの菜単を使ったが、お客が記念になどと持ち帰ったりして余部がなくなり、右側のサイズに拡げたことが考えられます。私は振り仮名付きが面白いからと、それを開いて写真を撮らせてもらったように思いますから、こうして見ると電話が2本になってからの初版か2版ぐらいの菜単の帳場用を撰んだということですね。
資料その16(1)の「緬羊肉料理御献立表」の字と値段は同(4)と(5)と同じだが、振り仮名のある同(3)の川羊肉鍋からが写っていないので、私が写した菜単と同じかどうかはわかりません。
資料その16の同(4)からの菜単写真7枚の位置関係ですが、同(4)は1ページの右上端ですね。同(5)がその下になります。この2枚で定食は1人前成吉思汗焼、スープ、御飯、新香、果物で1円50銭とわかるよね。富士川より20銭高いが、資料その13の富士川の値段は3人以上の値段だから、1人なら成吉思荘と同じ1円50銭14だったかも知れません。
次の同(6)は(4)の左側、同(7)は(6)の左、同(8)はまたその左です。同(9)は(5)と(6)にまたがる下になり、同(10)は(7)の下。以上の断片写真とポチのファイルから構成した菜単が同(11)です。同(9)と(10)に10銭か20銭高い値段がペン書きされているが、上の値段を消しておいての書き込みじゃないから、初太郎さんか会計係が手許にあったこの菜単で値上げを検討した名残なんでしょう。
資料その16
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
(9)
(10)
(11)
緬羊肉料理御献立表
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
名物 成吉思汗焼 御一名様 羊肉 一、〇〇
薬味付
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
定食 成吉思汗焼 御一名様 スープ、御飯、 一、五〇
新香、果物付
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
蒙古風 羊雑砂鍋 羊肉と内臓の
水だき 大 五人様分 三、〇〇
中 三人様分 二、〇〇
小 二人様分 一、五〇
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
北京風 川羊肉鍋 羊肉、素麺
白菜、よせ鍋 二、〇〇
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
―――――-
肉の御料理
―――――-
1 五香醤肉 焼羊肉 七〇
2 凉拌肚絲 羊肉の骨付 七〇
甘酢煮
3 鍋焼羊肉 肉の玉子揚げ 八〇
4 炸裡脊 肉の唐揚 七〇
5 軟炸裡脊 軟肉、玉子の白味 八〇
つけあげ
6 炸丸子 肉団子 七〇
7 @丸子 肉団子 七〇
煮物
8 糖醋丸子 肉団子 七〇
甘酢煮
9 爆炒肉片 肉とねぎ 七〇
煮物
10 炒肉絲 糸切肉と筍 七〇
うま煮
11 雑菜炒肉絲 支那の新香と 七〇
肉煮もの
12 糖醋裡脊 揚げ肉の甘酢煮 七〇
13 鍋塔肉片 揚げ肉と野菜 八〇
煮もの
14 青豆肉丁 青豆と肉 八〇
煮もの
15 炒木須肉 糸切肉と玉子煮 七〇
スープ類
明治10年代の函館の牛肉店の広告は大体「愛顧諸君之お蔭を蒙り弥々繁栄におもむき難有仕合奉存候」といった決まり文句が入っているが、成吉思荘はクラブ組織の会員のお陰もあり、繁盛に赴いて電話が1本では間に合わなくなり、もう1本引いたことは間違いない。その増設時期は菜単だけではわからないが、雑誌広告から推理できるんですなあ。
はい、掲載媒体と掲載年月の明確な広告が4件あります。資料その17(1)は中央畜産会が出していた「畜産」の昭和12年1月号に載った羊肉の出荷要請の広告です。この「畜産」という月刊誌は主として牛馬を扱い、広告は数件しか載せていなかったのですが、昭和12年1月号から編集方針が変わり、増ページして豚羊問題にもページを割くように変わり、広告もたっぷりになったんです。それで松井本店にも広告を付き合えと声を掛けたようで「畜産」に出した松井本店の広告としてはこれが初めて。欠号があるので正確ではないが、14年末までに7回使われた広告です。
同(2)は同(1)の次、4月号に出した登場した松井式成吉思汗焼鍋の広告です。右上の円内に「一家に一臺」とある。国会図書館の蔵書を検索すると「一家に一台」というフレーズを入れた本と記事は平成31年3月現在46件あるけど皆戦後のものです。「一家に一冊」に変えると131件になるが、戦前のものは6件、昭和12年以前は昭和3年の岩崎高敏著「一家に一冊必要な 人事百般の法律知識」しかない。どうやら「北海道の家庭には一家に一台、鍋がある」という言い方のルーツはこれ、成吉思荘のこの鍋広告らしいのです。
初太郎さんは一式の呼び方を考え、でんと重い焜炉込みは台、鍋だけなら「鍋一個 金参圓也」と使い分けている。ジンバ学では枚で統一しているが、私も最初は個が正しいのではないかと思いつつ講義してましたね。
ちょい脱だが、臺の呼び方の古い例を探したら満田百二の「日本綜合料理」にありました。昭和7年4月、陸軍被服本廠の庭で開いた陸軍主計団懇親会の内容を「野外立食献立例」に挙げ、その模擬店「成吉斯汗鍋」の用具と主材料は「四臺、羊肉。」と書いていまた。資料その15(3)は満田自筆の模擬店配置図ですが、ジンギスカン店は四角い台それぞれに鍋を置き、さらに鍋を逆さに被せたようで、どう見ても下は七輪ではないよね。
私はね、同(4)の写真のような焜炉と鍋と見ます。これは昭和10年、第一銀行の重役だった渋沢敬三が満鉄公主嶺農事試験場でジンギスカンを食べている写真の一部です。かつて満蒙と呼ばれた地域では、底に小穴を開けた鍋みたいな焜炉でカラカラに干した牛や羊の糞を燃やし羊肉を焼いた。これは満鉄製とみるのですが、糧秣本廠では研究用に現地で買い集めて何組か所有していたのでしょう。
平成22年に中国瀋陽の調理器具の問屋街で、私はこの写真を示し、こんな鍋はないかと探したとき、ある店でそれを置いて行けば1週間で同じ物を作るよといわれた。それじゃ何にもならんとお断りしたが、古道具屋を回るべきだったのですなあ。
陸軍糧秣本廠の外郭団体、といっても主計将校が中心の糧友会が昭和2年に初の羊肉料理講習会を開いたとき、金網で焼くのになぜ鍋羊肉かと質問が出たことから、そのときはまだ鍋を使っていなかったと推察されるが、その後、翌3年の春、東京で開いた食糧展覧会の実演用に満洲から送らせている。つまり満蒙型の本物を台に載せて使ったので、以来数え方は何台という数え方が使われたと考えられます。
松井本店は糧友会と密接な関係にあったから、そのどれかを参考にして独特の鍋と焜炉を作り出して成吉思荘を開き、松井式成吉思汗焼鍋としても売り出し、数え方も糧友会にならって台にしたとみられます。
資料その17(2)はもう一つ、重要な情報が入ってます。それは、左の成吉思荘の上の小さい字の2行、これは「緬羊肉料理/試食場」です。初太郎さんの言う「めん羊をたべる会」の畜産関係の会員で開業後1年の間に一度も来なかった人に、いまは成吉思荘と名乗っているよと知らせるために入れたのでしょう。
それから左の3店の肩書きですが、松井本店は「緬羊肉/牛豚肉」その下に「卸小売商」、真ん中の成吉思荘は「緬羊肉料理/試食場」、左端の松井精肉店は「支店」だ。開店してから、ほぼ1年たっても高円寺サイトは電話は1本、まだ試食場と称していたのです。
資料その17
(1)
(2)
(3)
(4)
はい、資料その18(1)は、赤坂松井ではなく成吉思荘として初めて「糧友」に出した広告です。全体に暗くてよく見えないが、真ん中の円内「緬羊肉は松井」の左上は「明治四十年創業/羊肉界の開祖/国産」、右下に「赤坂田町六丁目/電話/赤坂(48)3410/3411」です。左の直線は銀座と高円寺を結ぶ主な地点で山谷の蚕業試験所の前から右折すると成吉思荘があることを示すコース図は資料その14(1)と同じなので、この号の発行が昭和12年5月ですから、逆に資料その14(1)の左側の菜単はこのころ使っていたものでしょう。
気になるのは菜単にない炭やきチャップと松葉やきです。このころ山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」は3版になっており「洋食のラムチヨツプ又はマトンチヨツプ、アイリツシユスチウ、支那料理の鍋羊肉(一名成吉思汗料理)炒羊肉等は人口に膾炙するところである。(35)」「炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい。(36)」というくだりを思い出して、菜単にないけどできるかと尋ねる客がいるので、季節向というより「糧友」読者、陸軍関係者向きに付け加えたんじゃないかなあ。
「畜産」昭和12年7月号に載った同(2)は資料その17(1)の絵と似いてますが、中身が違い「畜産」の読者に、料理代の目安を知らせることを狙ったらしく、1回しか使ってません。
資料その18
(1)
(2)
この(1)の広告はもう2回、翌13年の「糧友」1月号の年賀広告代わりと5月号で使われました。特に5月号は羊肉料理特集号というべき内容でね。緬羊肉問屋なんだからと頼まれ、中古みたいなこれで間に合わせたらしい。表紙の絵をスライドで見せますか。はい、女性が羊の群を見ながら食べているのは羊肉としておきましょう。
次は資料その19で同(1)にした余白の多い簡素な1ページ広告は、昭和14年1月号の年賀広告に使われてから同年だけて6回、枠の内外に謹賀新年とか暑中御伺と入れたりして毎月ではないが、昭和16年の休刊まで載ってるから成吉思荘の広告としては最も多く使われました。ここで電話2本になっている。どうやら昭和13年中に1本増設したとみていいでしょう。
同(2)は「糧友」の昭和14年8月号と15年1月号に出た広告です。同(3)と似てますが、異風によって黒雲がわき出したのか目立ちますね。でもね(1)と(2)の電話は2台に増えている。3年目には1台では足りないくらい繁盛してきたということですね。
資料その19
(1)
(2)
|
参考文献
上記(33)の出典は札幌市総務局広報部広報課編「広報さっぽろ」平成15年2月号8ページ、[豊平区民のページ」より
https://www.city.
sapporo.jp/somu/koho-shi/
200302/)
(34)は文藝春秋編「文藝春秋」13巻10号325ページ、昭和10年10月、文藝春秋=館内限定デジ本、
資料その13は昭和11年3月22日付都新聞朝刊4面=マイクロフィルム、
資料その14(5)は平成17年5月28日付東京新聞朝刊30面=原本、
資料その17(1)は中央畜産会編「畜産」23巻3号ページ番号なし、昭和12年1月、中央畜産会=原本{同巻2号、3号と連続3回掲載}、
同(2)は中央畜産会編「畜産」23巻4号ページ番号なし、昭和12年4月、中央畜産会マイクロフィッシュ{同巻5号、6号と連続3回掲載}、
同(3)は満田百二著「日本綜合料理」130ページ、昭和13年1月、糧友会=館内限定デジ本、
(35)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」8版357ページ、昭和16年6月、小安農園出版部=原本、
(36)は同361ページ、同
資料その18(1)は糧友会編「糧友」12巻5号、ページ番号なし、昭和12年5月、糧友会=原本、
同(2)は中央畜産会編「畜産」23巻7号ページ番号なし、昭和12年7月、中央畜産会=マイクロフィッシュ、
資料その19(1)は中央畜産会編「畜産」25巻10号ページ番号なし、昭和14年10月、同{同巻1号、3号、7号、8号、9号と6回掲載}、
同(2)は糧友会編「糧友」14巻8号、ページ番号なし、昭和14年8月、糧友会=原本
|
私が明治からずーっと何10年分も各新聞の紙面を見てきた経験からいえば、ずっと昔から毎月1回は大なり小なり新聞広告を出し続けてきた様々な商店、料理店が生き残り、老舗とか名店といわれているのです。ところが、松井本店の新聞広告は少ない方だとみていたんだが、昭和12年から変わり始めた。
資料その20(1)は縦長2段の駱駝の絵入り広告で昭和12年11月4日付東京日日の夕刊2面に1回だけ掲載されました。このころ東京日日は支那事変の日本軍の進撃に合わせ、右端の「祝 皇軍大勝」協賛の広告集めをしており、成吉思荘も付き合わされたらしいのです。振り仮名がジンキスソウと間違ってるが、かすれた文字と駱駝の絵がいいと美術的価値を認められたようで「新聞広告美術大系」という本に載っています。
同(2)は翌13年5月から東京日日に掲載された松井本店の綿羊の絵入り2段広告。でも5月19日に初めて載った広告は、毛刈りされたばかりの綿羊みたい、貧相でいかんと農林省あたりからいわれたか、2回目の6月11日からは左上に「陸軍省御推奨・農林省御推奨」と入れた同(3)に変え、3回目から今風でいえばモフモフ、短足羊の同(4)に取り替え、10月からは「マトン愛食時代來る」というキャッチフレーズ入りに統一されてます。この(4)も美術家のお眼鏡に適って「新聞広告美術大系」に入っています。
さらにこのころ松井本店と成吉思荘は東京日日に集中的に出稿しています。同(9)は、これらの掲載日の一覧表。5月19日が(2)、6月3日が(3)、6月11日からの「もくもく」が(4)、11月3日以降は(5)です。コピーとトリムがまずく少し大小がありますが、皆同じ2段の広告です。
また7月5日までの成吉思汗が(6)、それから後は(7)ですが、これも2段の同サイズ。「マトン松井」は(5)の1段の豆広告で続けてます。いずれも東京日日新聞で、都新聞などほかの新聞には載ってません。
資料その20
(1)
(2) (3)
(4) (5)
(6) (7)
(8)
(9)
5月
19日夕刊2面1段 やせ緬羊
21日夕刊2面1段 成吉思汗
6月
3日朝刊11面2段 やせ緬羊(推奨を追加)
9日夕刊2面2段 成吉思汗
10日夕刊2面1段 マトン松井
11日朝刊2面2段 もくもく(羊の絵変更)
14日夕刊2面1段 マトン松井
19日夕刊2面2段 成吉思汗
20日夕刊2面2段 もくもく
26日夕刊6面1段 マトン松井
7月
5日夕刊2面2段 成吉思汗
5日朝刊2面2段 もくもく
7日夕刊2面1段 マトン松井
10日朝刊4面2段 もくもく
8月
5日夕刊2面 マトン松井
6日夕刊2面 成吉思汗(字体変更)
11日夕刊2面 もくもく
17日夕刊2面 マトン松井
20日夕刊2面 もくもく
9月
4日夕刊2面 マトン松井
7日朝刊3面 もくもく
14日夕刊2面 マトン松井
16日夕刊2面 もくもく
20日夕刊2面 マトン松井
10月
3日朝刊5面 もくもく(愛食時代を追加)
7日夕刊2面 成吉思汗
9日朝刊7面 もくもく
13日夕刊2面 マトン松井
20日夕刊2面 マトン松井
29日夕刊2面 マトン松井
11月
3日夕刊2面 マトン松井
3日朝刊5面 もくもく
4日朝刊3面 成吉思汗
9日朝刊4面 マトン松井
10日夕刊2面 マトン松井
18日夕刊2面 成吉思汗
21日朝刊3面 マトン松井
29日夕刊2面 マトン松井
12月
4日朝刊5面 成吉思汗
6日夕刊6面 マトン松井
15日夕刊6面 成吉思汗
20日夕刊4面 マトン松井
22日夕刊2面 もくもく
昭和14年1月
6日夕刊5面 もくもく
11日夕刊2面 マトン松井
16日朝刊2面 マトン松井
26日朝刊4面 成吉思汗
2月
2日夕刊2面 もくもく
3日夕刊2面 松井成吉思汗
7日夕刊2面 マトン松井
10日朝刊4面 成吉思汗
23日朝刊6面 マトン松井
3月
18日朝刊4面 もくもく
20日朝刊5面 マトン松井
26日夕刊2面 成吉思汗
28日夕刊2面 マトン松井
29日朝刊4面 成吉思汗
(4月以降は未調査)
なぜ、開店から1年もたってから急に広告を出し始めのか。私は、この広告作戦は、初太郎さんが馴染みの将官、役人などからの情報で、支那事変がいずれ成吉思荘の営業に響くことを懸念したことによると考えます。松井式鍋を一家に一台と売り込もうにも、鉄材が手に入りにくくなり、断念せざるを得なかった。そこへもってきて資料その21にした物価統制の始まりです。この段階では羊肉は牛肉、豚肉の代用として認められてるが、いずれ成吉思荘、松井本店ともども商売が難しくなるとみて、稼げるうちにと、営業強化を図った現れとみます。
また、いま老舗とか名店といわれている店は、昔から毎月1回は大なり小なり新聞広告を出し続けている。松井さんの店もそうなりたいなら広告代を惜しむなと、だれがアドバイスしたかも知れない。
もう一つ、忠君愛国の精神です。初太郎さんは国策である綿羊増殖を援助するために、自分は羊肉消費を増やすよう努力しようと決心した。お国のためにニッコリ笑って死ねと教えられた時代であり、兵役に就かなかった初太郎さんは、お国のために羊肉消費の拡大に尽くすことにしたと考えます。
資料その21
物価引き下げ第1弾
中央物価委員会総会は十五日午後三時日本工業倶楽部で開催、第一特別委員会の答申「配給の改善の件」「供給の確保の件」第二特別委員会所属の繊維品、金属品、食料品、化学工業品、雑品及び家賃、交通費各専門委員会の答申を付議決定した、即ちこれによつて繊維品、金属品、化学工業品、雑品等につき最高販売価格が設定されまた食料品物価及び交通費等の騰貴抑制上適切なる方策が示唆された、なほ今回決定を見た最高販売価格はいづれも平均して市価より一割乃至二割方下値に決めてあるが今後の情勢の推移を見た上さらに相当程度の引下げを行ふものであることは従来の最高販売価格と同様である、答申要綱左の通り
肉類は一食に一皿
食料、交通費も騰貴抑制
食料品物価専門委員会答申
肉類価格の抑制に関する意見=
肉類に関しては牛肉、豚肉及び
鶏肉等国民の日常食用とし来り
たるものの価格の騰貴を見特に
牛肉は海外よりの供給減退に基
きその騰貴率顕著なるものある
のみならずこれに伴ひ豚肉もま
た価格騰貴の趨勢にありよつて
価格抑制の応急的方策として速
かに牛肉、豚肉等の増産及び配
給の改善を図るは勿論他面之等
肉類の消費の合理化、価格の抑
制及び代用品としての鯨肉、兎
肉等の食用奨励等に関し差当り
左の諸対策を実施するを緊切と
認む
(一)牛豚等の増殖及び配給の改
善
(1)牛の増殖に付ては差当り年
約十万頭以上を目標とせる政府
の増殖方法の励行を期し更にこ
れが増殖に努むること
(2)肉類及び肉畜の配給の合理
化を図り冷蔵車その他の運搬設
備の充実に努むると共に之が代
用食として増産に努むべき豚、
兎等に付ては之が運賃の低下を
図ること
(二)牛肉豚肉の消費節約
牛肉豚肉の供給不足に鑑み公私
の会食等は固より一般旅館、飲
食店及び各家庭に通じ肉類は一
食に一皿を限度とし出来得る限
り之が消費を節約せしむる方策
を講ずることとし犢については
特にこれが屠殺の制限方に関す
る具体的方策を樹立すること
(三)代用食の奨励
牛肉、豚肉の消費節約実行の方
策として鯨肉、兎肉及び羊肉等
の食用を奨励すると共に速かに
これら代用品の供給を豊富なら
しむべき方策を確立すること、
殊に鯨肉については南氷洋にお
ける捕鯨事業の振興に伴ひ鯨肉
をも併せ内地への輸送道を開く
こと
(四)小売価格の抑制
(1)小売価格は之を表示せしむ
ることゝし牛肉及び豚肉につい
ては各銘柄につき各地方毎にそ
れ/\゛その標準小売価格を設定
すること、なほこれ以外の肉類
についても必要に応じその標準
価格を設定すること
(2)標準小売価格は新聞紙、ラ
ヂオ等を通じこれを公表すること
(3)府、県、市、家畜市場及び
小売市場等関係団体には適当な
る指導員を置き相互の連絡を保
ち公設小売市場、私立小売市場
等をして適当なる価格を守らし
むるように指導せしむること
(五)肉類についてはその性質上
特に量目、品質等につき取締を
厳にすると共にこの点に関し一
般消費者の関心を高むること
広告が効いたか成吉思荘の営業は順調に伸びたようです。資料その22(1)でわかるように農商務省の会議後の懇親会、同(2)は糧友会主催で昭和12年12月25日に成吉思荘で開かれた「現下の羊毛肉問題懇談会」の記録からで、終わり際の丸本と初太郎さんの会話です。
これには農林省畜産局長の岸良一、同畜産課長の田口教一、同蚕糸局長の細川利寿、同畜産課長の石崎芳吉、陸軍被服本廠長の鈴木熊太郎、陸軍糧秣本廠長の鹿野澄、同衣糧課長の清水菊三、千住製絨所長の山本昇、糧友会から理事丸本彰造はじめ4人が出席していました。お客は脂で汚れないよう大袈裟なよだれかけをして英雄気分もないと思いますが、こんな風に官庁や軍隊がなにかと使うことも多々あったでしょう。
昭和13年の東京日日新聞の「非常時の胃袋/江戸ツ子は肉が好き」という記事に「市設芝浦の家畜市場の調査では国民一人あたり五百匁の肉を食べることになつてゐるが東京市民はその三倍の一貫五百匁を胃袋へ詰め込んでゐる、十一年中に市民が食べてしまつ牛肉があ五万頭、豚肉が四十八万頭とさくら肉(馬肉)一万八千頭、犢牛が六千頭、緬羊が千頭」であり「青島、カナダ、濠洲」からの輸入肉も合わせ「二千数百万円の牛豚羊馬の肉が豚かつになつたり、牛鍋になつたりヂンギスカン鍋になつたりしたわけだ、(37)」とあります。西洋料理でも使われたはずですが、初太郎さんの答えと合わせると羊肉好きが増えきたことが推察されます。
資料その22
(1)
○緬羊技術員会議 昭和十一年度地方緬羊技術員事務打合会は七月十七、十八、二十日と猛烈なる酷暑を突いて中央会議所で開かれた。地方より参集せる緬羊関係官は四十三名の多数に上り、本省よりは畜産局長、畜産課長、種羊場長、畜産課職員多数出席し、関係官庁としては陸軍千住製絨所、拓務省、畜産試験場、東京帝大農学部、蚕業試験場等より夫々多数の御臨席あり、連日重要懸案に就て慎重審議し前年度の会議にも増して技術官各位の真剣なる奮闘振りは三伏の厳暑も顔負けの感あり、而も堂々たる態度は本邦緬羊事業の厳然たる存在を益々確固たらしむるものあり斯業発展上大いに意を強くせしめ稀に見る盛会であつた。
会議最終日成吉斯荘で成吉斯汗鍋をつゝきながら石崎課長を始として諸先輩の血涙史を承り御互に肝胆相照して來るべき時代への希望の杯を挙げた、夏の夜の歴史的シーンは緬羊国策を真に有意義ならしむる前提であり我々として永遠に忘れるこの出来ない思出である。
(2)
現下の羊毛肉問題懇談会
羊肉料理店
丸本 成吉思汗料理は繁昌するか。
主人 いや――おかげ様で。今晩もお断りするお客が三組も四組もある様な
有様です。
丸本 どれ位羊肉を使ふか。
主人 かつてはもも肉で二本ばかりでしたがこの頃は八本か十本程を消費し
ます。目方で十貫目。夏場でもあまり減少しません。二割減位のもの
です。
記者 それではどうも有難たうございました。かなりおそくなりましたから、
これ程で。
もっと戦前の成吉思荘の雰囲気が察せられるのが次の資料その23です。道内にいた金野芦影子という俳人が俳誌「石楠」主宰の臼田亜浪に連れられて成吉思荘でご馳走になった思い出です。金野がこれを書いた昭和27年になっても道内ではジンギスカンはあまり知られておらず、金野自身初めてだったので、わざわざ鍋と肉の形、食べ方を説明したのでしょう。
それだけではなく金野の句集「青蘆帖」の職歴によると、大正6年から同11年までいまはニセコ町になった狩太町役場に勤め、その後道庁に移り昭和13年まで十勝支庁で働いたとあります。臼田にジンギスカンをおごられた「昭和十三年五月」金野は十勝支庁職員(38)だったのです。
昭和11年に札幌のおでんと焼き鳥店「横綱」で道内初のジンギスカンの試食会を開いたが、その準備をしたと主張した道職員中西道彦がそのとき十勝支庁勤務で金野と3年間重なるのです。そりゃ仕事が違うから中西は無理としても、札幌に出張した同僚などから横綱ジンギスカンのことは聞いたこともなかったのでしょうか。それがいまや道民のソウルフードだなんてね。
インターネットの英辞郎でSOUL FOODを引くと「ソウルフード◆米国南部の黒人の伝統的料理」と出ます。東洋学園大の勝田薫教授の論文「命と魂の食事――『ソウル・フード』試論――」によると「ソウル・フードとはアメリカ黒人社会では奴隷制時代から現代に伝えられている家庭料理の総称」であり「白人主人からあてがわれる配給食糧がはなはだ乏しかったので奴隷たちは生きのびる為に食生活に様々な工夫を凝らし」「何といってもソウル・フードの主役は豚肉である。(39)」。だからジンギスカンは羊肉料理というだけでも誤用であることは明らかだ。
深く考えずに使った覚えのある人は藤田論文を読んでみた方がいいと思うね。
資料その23
昭和十三年五月、恒例の日本赤十字社総會に出席するため、
上京した機會に、一日石楠社を訪れた。夕方にかけて、いろい
ろ先生のお話を承つた後、お暇しようとすると、
「芦影子君――君は、成吉思汗料理を食べたことがあるかい」
「いや、ないんですが」
「そうか、それじや一緒に行こう。初ものを食べると長生きす
るぜ」
というわけで、お言葉に甘えてお供することになつた。高圓
寺通へ出てから、暫くして、支那風造りの料亭に行きついた。
それが成吉思荘であつた。
出て來た女中は、先生のお顔見知りらしかつた。焜炉に火が
入り、緬羊の肉を焼く特有の鍋――鍋と言つても普通のそれで
はなく、剣道のお面のように空間があり、中のもり上つた圓形
のもの――がかけられる。そしてその上に平たく卸した肉が焙
られてゆく。ひどい油だ。鍋の面が湾曲しているのは、油がそ
れを伝つて下に溜り、火中で燃えないしかけらしい。
葱・辛子・その他刺戟性の匂いと味のする藥味を入れたたれ
に、焼けたての肉を入れてじゆつじゆつさせながら食べるので
ある。これは旨い――と思った。榮養価もまさに一〇〇%であ
る。勿論お銚子も出たが、あまりいけない私は、その大部分を
先生にお委せしてしまつた。
「これ成吉思汗料理さ。緬羊はまとんという。この焼いた肉が
焼まとんというわけだ。ところで、成吉思汗が大陸征服の際、
何故緬羊を引き連れて歩いたか――そのいわれを、君は知つて
いるかい」
と先生に言われたが、初耳であり知ろう筈もなく、「さあ」
という私に対して、次のように語られた。
緬羊の飼料は野草で足りる。山野には野草が充満している。
從つて飼料を携行する必要はない。
緬羊の毛は、毛糸として防寒衣料になる位だから、緬羊と共
に寝ることによつて、防寒且つ保温の目的が達せられる。
兵糧に窮して、よくよくの場合は、これを屠つてその肉で飢
えを凌げる。
「ここまでの三つは、誰てもが考れば、思い當ることなんだが
これからの一つは御婦人の前では公開を憚る」
と言われる先生に、
「何でしよう、教えて――」
とねだる女中を遠ざけて語られたお話――
不自然ではあるが、陣中、兵はそこに慰安の途を見出して、
殺伐の心を癒したという。
緬羊の功徳を説かれる先生の前に、私は畏つて謹聴したが、
謹厳な先生にもこのユーモラスな半面のあることは、徴笑まし
かつた。何でもこの話の種の出どころは、石原沙人氏らしく、
當時のお話で記憶している。
「こちらは何の先生、いつもお連れの皆さんが、先生々々と仰
しやるんだけど――」
と女中が先生を指さして私に聴く。
「芦影子君、いうなよ」
という先生の口止めも、その場の雰囲氣から、遂に「俳句の
先生」と言わざるを得なかつた。途端に女中が、
「先生、何か書いて頂戴」
と言つて、別室から持つて來た白の絹地を、そこへひろげて
しまつた。
「だから言わないことではない」
と、私を輕くきめつけられ乍ら、女中に墨をすらせて、筆を
探られた。
女中の名を読み込んだ、杜若の句であつたことを、朧ろげに
覚えているが、文句は思い出せない。私にも、表現上の措辞に
ついて御相談があつた。この時の御署名を、何と「唖聾」と書
かれたことには驚いた。併し音は「あろう」であることに変り
はない。戯作に用いられる手であることは覚つたが、その當意
即妙さには、ほとほと感心させられたものである。
次の資料その24の写真の美女を知ってますか。諸君が生まれる前の女優さんだから無理だろうなあ。えっ、その通り、木暮実千代です。木暮の本名は和田つま、この本「木暮実千代 知られざるその素顔」の筆者黒川鍾信、引用箇所に出てる女将和田津るも松井家の親戚なんですね。統治さんはこの本を読んで「余計なことを書くな」と黒川を叱ってやったよといってましたが、そういう関係から木暮や連れてきた三船敏郎や大木実といった俳優たちが成吉思荘でふざけている写真などの面白いアルバムを拝見したことがありました。ややオーバーな気もしますが、戦前の盛況ぶりの一端がうかがえます。
資料その24
(1)
<略> 成吉思荘が繁盛したのは、料理やパオの珍しさによるものだけではない。
女将の存在が大きかったからである。
昭和十年七月、四十四歳の夫・重夫を失った津るは、松井初太郎に乞われ四年後に二長町の和田牛乳本店を離れ、成吉思荘を手伝うことになった。上野の大店の米屋の娘に生まれ、重夫に嫁ぎ、本店を切り盛りしてきた津るには、商家などの女主人に対する尊敬語=「お上()さん」そのものが備わっていた。これが料亭・旅館などの女主人を指す=「女将()さん」に文字が変わっても、サービス・客あしらい・従業員の統括・トラブルの処理など陣頭指揮を執る仕事の内容には変わりなかった。
それと津るは、美貌の持主だった。四十を前にした女盛りでもあった。夫と死別した「未亡人」という言葉の響きは、男心をそそる。津るが成吉思荘の女将になってからは、連日連夜、満席となった。
やがて陸軍御用達の料理店となり、東条英機、杉山元、阿南惟幾など首相や大臣が顧客になる。陸軍関係者だけでなく政財界人も競って出入りするようになり、津るを目当てにせっせと通ってくる大物たちが跡を絶たなかった。<略>
(2)
|
参考文献
上記の資料その21の出典は昭和13年7月16日付東京日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、
(37)は昭和13年4月3日付東京日日新聞夕刊7面=マイクロフィルム、)
資料その22(1)は中央畜産会編「畜産」22巻12号41ページ、RS生「光輝燦たり緬羊界」より、昭和11年12月、中央畜産会=原本、
同(2)は糧友会編「糧友」145号32ページ、昭和13年2月、糧友会=館内限定デジ本、
(38)は金野芦影子著「青蘆帖」ページ、昭和51年月、芦影漁房=原本、
(39)は東洋学園大学編「東洋学園大学紀要」 11号111ページ、勝田薫「命と魂の食事――『ソウル・フード』試論――」より、平成15年3月、
http://warp.da.ndl.go.jp/
info:ndljp/pid/261087/www.
tyg.jp/tgu/school_guidance/
bulletin/k11/images/katsuta
.pdf、
資料その23は関根欣三、甲田鐘一路編「臼田亜浪先生」119ページ、昭和27年7月、石楠社=原本、
資料その24(1)は黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」188ページ、平成19年5月、日本放送出版会=原本、
同(2)は同表紙、同、
|
太平洋戦争でアメリカ軍の東京空襲が繰り返され、昭和20年5月20日の爆撃で赤坂の松井本店は焼けてしまったが、高円寺の「別宅は防火の甲斐あつて焼失を退け無事に存在 九死に一生を得た思ひで勇気を取りもどした」と松井家文書にあります。当然初太郎さんたちは高円寺に移り住んだのでしょう。
広島の兵営で被爆した統治さんは戦後どうしたか私は経歴を伺いました。1年ほど健康を取り戻したので赤坂で商事会社を作り、親類の矢崎総業から電線を仕入れて売った。焼け跡の復旧工事が盛んに行われていたときですから、結構もうかったそうですが、いつまでもこうしてはおられないと社員を矢崎総業に移籍させて廃業した。そしていずれは成吉思荘の経営を引き継ぐとしても客商売の経験がないのはまずかろうと考えて、昭和25年に東京駅の駅舎にあるステーションホテルに入社、ホテルマンとして修業したそうです。
「営業部主任として就職十ケ年三ケ月勤続 昭和三十六年十二月一杯で円満退社」「昭和三十七年一月元旦より 父の経営の株式会社成吉思荘にに入社 専務取締役に就任(40)」したと「松井家文書」にあります。でも松井本店という後ろ盾を失った成吉思荘の経営は苦しく、席の暖まる暇もなかったらしい。
なにしろ戦前は羊肉のいいところだけ切り取ってきて成吉思荘で使い、残りは本店に出入りしていた小売りの精肉店によきに計らえとやっていたという殿様商売から一転、仕入れた肉は全部活用しなければ採算がとれないという厳しい状況になったのですから大変でしたと奥さんも苦労話に加わりましたもんね。
それで料理はマトンのジンギスカン以外のメニューとして、ラムも取り入れ、刺し身も出すなど料理を増やした。資料その25(1)は「『成吉思荘』は昔から、ジンギスカン焼きを主としたジンギスカン料理を始め、埼玉県に専属の飼育場を設け、飼料の考慮によって、羊を肥育させ、新鮮な肉による独特の料理を提供しています。ここではラムの使用が大部分で、柔らかく、臭味が少ないので、特別に臭味を取る工夫を必要としていない。メニューはジンギスカン焼きの他に十数種の羊料理が用意されている。(41)」と簡単な説明付きで紹介された料理です。さらに若者に好まれそうな料理を出すために鶏肉、魚介類の料理も出すように変わっていったことは、この後に示す資料でわかります。
経営面では資料その7(3)で見たように女中が仕切って客に肉を焼かせなかった戦前の儘の料亭スタイルの客扱いは残したけど、ノーチップ制にして一律10%のサービス料をもらうように改め(42)女中の収入を安定を図った。
また炭火の重たい焜炉と鍋一式をいちいち客室に運ばずにすむほか、客自身が楽しみながら焼くことも考えて、ガス焜炉に合わせたジン鍋を開発した。資料その25(2)がそれですが、構造、特許などは鍋の形の変遷の講義録にあるから、講義録を読んでいる人はここをクリックしなさい。
資料その25
(1)
ジンギスカン焼き 600円
マトンチャッブ 350円
モンゴリアンサラダ 250円
ラムの刺身 400円
シャシリック 350円
成吉思荘シチュー 250円
五香焼き 250円
串焼き 300円
羊の唐揚げ 250円
シューマイ 150円
味噌焼き 350円
肉だんごトマト煮 250円
(2)
戦後は次々建物を改築したこともあり、経営が苦しかったせいでしょうか、広告は使わなかったといっていいくらい少ない。私の見落としがあるか知れないが、資料その26にある3件ともう1件、北京正陽楼の思い出を集めた講義録にある昭和30年発行の「糧友」12号の裏表紙に発行人の丸本彰造の要請で付き合ったとみられる広告があるぐらいです。
同(1)は前に見せた資料その19(2)の異風という単語を引き継いだ広告だし、同(2)は資料その16の都心から成吉思荘までのコースの説明図を山手線と地下鉄丸の内線に置き換えた広告ですね。左上の門の写真がありますが、門柱の裏の小部屋で玄関係が店に来る車を見ていて、車が入ったら玄関係は直ちに玄関に出て車が止まるのを待ちドアを開ける。玄関には接客係と受付係が待機し客が入ってきたら一斉にいらっしゃいませと挨拶する。受付係はどちら様でございますかと伺い予約表で客室と担当接客係を確認する(43)という手順が定められていました。
このほか、玉葱はパサパサに乾かないよう時々脂身を塗りつけてゆっくり焼く、客の皿の上のものがなくなったとき、次のものが焼き上がるようにするなどなど、心得を守るように指導していたらしい。だからでしょうが、統治さんは客自身でシューッと消臭剤を掛けて帰れなんて、とんでもないやり方だといってましたね。
同(3)の成吉思荘の字体は同(2)と同じだが、なにか私でも書けそうな素人が描いたみたいな感じですね。
資料その26
(1)
(2)
(3)
さあ、ここで統治さんから頂いた成吉思荘が繁盛していたころの案内パンフレットを資料その27、メニューを資料その28として見せましょう。パンフは縦21センチ、横10.5センチで、2つ折りに4つ折りのページを綴じ込んであります。資料その27(1)は2つ折りの表紙と裏表紙を開いた形です。和色大辞典によれば藍墨茶(44)だと思うのですが、画像を圧縮するために出た変なにじみは見えないことにしてね。
右側の表紙は庭園の写真入りで下に「宗家 成吉思荘」、左側の裏表紙には「木々のみどりに/武蔵野の/おもかげをのこす/じんぎす荘……。」と入れて下に道案内の説明図があります。
表紙を左開きすると同(2)になり、蒙古兵と馬の絵と成吉思荘の歴史の説明があります。さらに開くと同(3)の統治さんが特許を取ったガスこんろ用のジン鍋を据えた見開きページになります。これは1回目の「元は赤坂の緬羊肉問屋の別荘だった成吉思荘」の講義で紹介したから省略するが、要は中国のカオヤンローを日本人の味覚に合うよう改良したのが成吉思荘のジンギスカンだということですよ。
鍋の真ん中から両開きにするとA3と同じ幅の同(4)となります。ここに見える6つの写真をそれぞれを同(5)から同(10)として説明しました。4つ折り右端の「てむじん」「新包」のページを畳んでから、めくると同(11)の見開きになり、その次は裏表紙で同(12)がその案内図です。
それからパンフの制作時期ですが、裏表紙に昭和43年7月から始まった3桁の郵便番号(45)が載っているので昭和43年夏以降ですね。「月刊食堂」昭和43年3月号の記事「料亭経営の近代化で30年の伝統を固守」によれば、成吉思荘は「昭和三八年の店の改造第一期工事は調理室、倉庫、従業員宿舎、更衣室、事務室といった近代化の地固め」「三九年には店舗改造第二期工事に入り、八〜一〇人用の客席である小パオを九室作った。羊毛にシートをかぶせて作る蒙古パオを模倣し、杉皮と雑木を縄で組み立てたこのパオは、成吉思汗の店らしいふんい気づくりに成功している。」「昨年末に終えた第三期工事で、大広間(七〇人)、特別宴会室(二〇人)、鉄板焼きコーナー(二四人)の設立と、庭園の整備が行なわれた。(46)」とあります。
さらに「月刊食堂」は翌44年1月号でも、写真を大小37枚も使って従業員に指導している接客法を詳しく紹介した「オリジナル商品とのれんを守る接客技術=成吉思荘にみる=」を載せていてね。それでは「中心は蒙古政府から贈られたパオである。これは羊の毛にシートをかぶせて作ったもので、一五、六名用の宴会に使われている。(47)」と9つの新バオと分けて書いてあるのに、このパンフの見取り図にはそれが載っていないし、調理人と対面しながら客自身が焼く鉄板焼きコーナーもない。
また44年の記事の写真では門柱の後ろら玄関掛の待機所があり、玄関はのれんを掛けているなどかなり違いが認められるので、44年以降に蒙古パオは畳んで保存し、その跡に離れ舎を建てるなどの工事を行い、その後で作られたパンフとみてます。
資料その27
(1)
(2)
◎半世紀の歴史を誇る
じんぎす荘
"成吉思荘"が、東京の郊外、杉並の片す
みに「じんぎすかん料理」の専門店とし
て開店したのは昭和十年。当時、農林省
が国策として、日本の緬羊を一○○万
頭にふやす計画をたてました。しかし、
そのためには、まず緬羊肉を食べること
をPRしなければなりません。そこで、
明治の後期から緬羊の生産と販売を手
がけてきた、東京・赤坂の松井本店が、
"会員制"で「じんぎすかん料理店」をは
じめました。これが「成吉思荘」のはじ
まりです。
仔羊肉について八十余年の歴史をもつ
「成吉思荘」は、四季を通じて、新鮮で質
の良い仔羊肉()を使い、また、多年の研究
からつくり上げたたれと薬味が、いっそ
う味をひきたてています。「じんぎすか
ん料理」の宗家としての"のれん"に、
きっとご満足いただけるものと、確信
をもっておすすめしています。ご宴会、
ご会食むきのお部屋、評判の蒙古の家
「包」(パオ)など、趣きのあるお席を
用意しており、材料も仔羊肉()のほか、
季節に応じた魚介類や、鶏肉、牛肉など
も用意しております。また、ご宴会など
の出張料理も、当荘独得の味覚と風情
でご奉仕いたします。
(3)
(4)
(5)
<成吉思荘内の見取り図 左上の青長方形は2階の宴会場「福寿」で「20〜70名様」と説明。下が1階で左上の黄色部が「庭の見えるお席"てむじん"50名様」と説明。その真下の薄赤部の正方形が「離れ舎 百寿 12〜16名様」と説明。その右の庭園を挟んで車寄せがある。中央に玄関ホールとロビーがあり、右下に丸い庭園を囲んだ薄青の円は新包9室で玄関ホール上のフロントにくっついた「草原」から時計回りで「萬里」「長城」「五原」「包頭」「興安」「遼河」「固陽」「陶林」という部屋名。「五原」と「陶林」は「9〜10名様」だが、ほか7室の定員は「8名様。右上の説明は「本館」で調理室、倉庫、事務室などがあったらしい。>
<見取り図下の記事>
木々のみどりに武蔵野のおもかげを残す成吉思荘
羊三代*セ治・大正・昭和の三世代にわたって日
本の緬羊肉をつくり、育て、そして皆様に喜ん召
し上がっていただくことが、成吉思荘の使命とみず
から任じており、そのような意味で、各部屋もじん
ぎすかん料理の味をお楽しみいただけるよう工夫し
て建てられております。なお、鶏肉、牛肉、魚介類
その他の一品料理もご賞味ください。
戦前「成吉思荘」を訪れた蒙古の王様徳王≠ヘ、当荘で
日本のじんぎすかん料理≠召し上がり、故国をしのんで
たいへんに喜ばれ、「福寿」の二字を記念に残されました。
現在、大切に保存している包は、蒙古政府から贈られたもの
ですが、湿気の多い日本では、その保存もなかなかむずかしく、
いろいろと苦心しています。しかし、それだけに当荘の包は
たいへんに貴重なものとされています。
なお、当荘の玄関入口にかけてある羊毛でつくられた額は、
包の正面に飾られるものです。
(6)
新装なった玄関
(7)
百寿
庭園の離れ舎―――ユニークな16角の大円形テーブル。
小宴会、パーティなど落ち着いた雰囲気で、たいへん
ご好評をいただいております。
(8)
福寿
蒙古の徳王に書いていただいた「福寿」の文字を生かして
福寿と名づけました。
お部屋は階上にありますので、他のお客様の出入りに
お気兼ねなく、特に多人数の披露宴やクラス会などに
ご好評をいただいております。
(9)
てむじん
「てむじん」とは、英雄・成吉思汗の幼名です。池と木々と
さまざまな石灯籠を配したお庭をながめながら、ご家族連れや
親しいお友達と、じんぎすかん料理の味わいをご自分の手で
お楽しみください。
(10)
新包
内、外観とも「包」を模してつくった、小宴会
用のまるい部屋で、中央の中庭をとりまいて九室
が円形にならんでいます。蒙古にちなんで草原
長城≠ニいった名をつけました。
<新包の写真の右にある囲み記事は次の通り>
●蒙古の家パオ●
広大な草原に散見する包(パ
オ)……包は遊牧の民の家であ
り、蒙古草原の風物詩でもあり
ます。
民家とはいえ、緬羊を追って
放浪するため、運搬と組立てが
しやすいように考えられた包は、
木製の柱、天井、壁にあたる部
分の三要素にわけられます。特
に天井と壁にあたる部分は、羊
毛をフェルトのようにすいた、
厚いジュータン状のものででき
ており、夏は涼しく、冬は暖かい
ばかりでなく、通風も十分に考
慮されたものになっています。
(11)
伝統のたれ≠ニ薬味
じんぎすかん料理をおいしくするのは、たれと
薬味です。ねぎ、パセリ、しようが、レモン、ゆず
など、十余種の材料と、当荘秘伝のたれとがとけ
合うことで、吟味された肉のうまさをいっそうひきたて
ます。なお、お好みによってニンニク、七味などを加えて
いただいても結構です。このたれは、肉を供するときに合わせて
つくり上げますので、新鮮な味をお楽しいただけます。
カニの巻揚<左面上左>
●カニと白身の魚を材料につかい、卵の材料につかい、
卵の薄焼きを巻いて、蒸して、揚げて……。温かいうちに
お召し上がりください。
ラムタン<左面下>
●ラムの肉を使ったユニークな雑炊。当荘の自慢の
一つです。お酒のあとでは、格別の味わいになります。
モンゴリアサラダ<左面上右>
●ハムとキュウリに、ゴマ油の風味を生かした前菜的な料理です。
ラムの唐揚<右面上>
●当荘が厳選したラム肉に、しょうゆの味を加えた唐揚です。
肉のよしあしが欠かせないきめてといえます。
ラムのシューマイ<右面下>
●ラムの肉のやわらかさをご賞味ください。
伝統の風味<右面の赤丸中の説明>
半世紀にわたり受け継が受け継がれた、秘伝の味わいを
お楽しみください。
<右面の肉皿上の説明>
当荘で使用しているラム肉は、生後一年未満。肉と油とが微妙に
からみ合う時期をむかえたものの中から、さらに肉がやわらかく
風味をもったものを選び出します。これが羊三代。明治の後期から、
牧場をもってみずから育てた経験が、そして確かな眼が、
じんぎすかん料理にふさわしい肉をつくり、選び出しているのです。
(12)
<地図下の説明>
●新宿駅・荻窪駅から三つ目……地下鉄(丸ノ内・荻窪線)東高円寺駅前
●駐車場完備
車で新宿方面よりおこしの方は、環七ガード下でUターンして、新宿寄り
一つ目の信号の、成吉思荘看板を左折してください。
●毎月曜・定休日
●営業時間 AM11:30〜PM10:00
〒166 東京都杉並区高円寺南1−7−21 ☎314−0291(代)
次はパンフレットに書いてある料理5品が全部載っているメニューです。昭和44年の「月刊食堂」1月号の記事では「定食には一三〇〇円、一六〇〇円、二〇〇〇円の三コース」とあり、客に合わせたサービスの例として「マシンの嫌いな客」を挙げているが、このメニューでは定食は6000円からの4コースだし、肉はラムばっかりのようだから、早くても昭和50年代のものと私はみてます。
サイズは淡香色で3つ折り、縦17センチ、横9センチです。統治さんからパンフと一緒に頂いたので、店でも組み合わせてカウンターなどに置き、客おに持ち帰ってもらうようにしてかも知れません。
資料その28
(1)
(2)
●じんぎすかん料理●
じんぎすかん焼(ラム)………………¥2,200
★
牛肉………………………………………¥4,000
とり肉……………………………………¥1,500
エビ………………………………………¥1,500
●お定食●
スペシャル………………………………¥6,000
アワビの酒むし(他) じんぎすかん焼
エビのレモン焼 のり茶漬とお新香
若どりのオレンジ煮 フルーツ
生野菜
A.………………………………………¥5,000
モンゴリアサラダ じんぎすかん焼
エビのレモン焼 のり茶潰とお新香
若どりのキスカ風 デザート
生野菜
B.………………………………………¥4,000
モンゴリアサラダ じんぎすかん焼
エビのレモン焼 のり茶漬とお新香
若どりの唐揚 デザート
生野菜
オリジナル………………………………¥3,500
モンゴリアサラダ じんぎすかん焼
ラムのシューマイ のり茶漬とお新香
ラムの唐揚 デザート
<以上左面>
●お好み料理●
モンゴリアサラダ………………………¥ 800
アワビの酒むし…………………………¥2,000
クラゲの酢の物…………………………¥ 900
川エビ……………………………………¥ 700
★
ラムのステーキ…………………………¥2,000
ラムの唐揚………………………………¥ 800
ラムのシューマイ………………………¥ 600
ラムのチャシュー………………………¥ 600
ラムタン(モンゴル風雑炊)…………¥ 800
★
若どりの唐揚……………………………¥ 900
若どりのキス力風………………………¥1,500
若どりのオレンジ煮……………………¥1,500
★
エビのレモン焼…………………………¥1,500
力二の巻揚………………………………¥ 900
★
生野菜……………………………………¥ 800
●お飲物●
日本酒……………………………………¥ 450
老酒………………………………………¥ 500
高りゃん酒………………………………¥ 550
ビール……………………………………¥ 500
ウィスキー(サントリーオールド)…¥ 400
<以上中央面>
●デザート●
ブランデー(ヘネシー)………………¥1,000
オレンジジュース………………………¥ 300
コーラ……………………………………¥ 300
アイスクリーム…………………………¥ 400
メロン……………………………………¥1,000
●おみやげ●
じんぎすかん焼(生肉・たれ・やくみ付)
……………………………………………¥2,200
ラムのシューマイ…… ¥1,800・¥2,800
ラムの唐揚………………………………¥2,000
若どりの唐揚……………………………¥2,500
★パーティー、御宴会は御予算に応じて承りまず
★個室のみサービス料・席料を別にいただきます
★毎週・月曜日定休
<以上右面>
(3)
序でに私が統治さんから頂いた成吉思荘の盃1組とサービスマッチ1組を資料その29として見せましょう。同(1)ですが、成吉思荘といった銘はないけど盃は3個入りで、それぞれの周囲に春夏冬の3字が書かれています。四季の秋がないのは秋がない、商いに飽きない、真面目に営業してますという洒落からですね。2個しかないのは、1個は研究仲間の協力お礼に進呈したからです。ふっふっふ。
下のマッチ4箱の片面は「じんぎすかん料理」ですが、同(2)でわかるように裏返すと箱毎に成、吉、思、荘と字が違っています。私はビール党だし、肺がんであの世へいったオヤジのDNAを受けてるから40代で煙草はやめたので、この両品はただただ宝物として鄭重に保存してきたから日焼けしてないのがわかるでしょう。終活でいずれジン鍋博物館行きだね。
資料その29
(1)
(2)
もう時間ですね。初太郎さんが書いた「松井家文書」によれば、松井本店の開業は明治24年で、明治44年の項に「また我国に於ける国産緬羊肉販売の開祖たる記録を作り業界の模範となる、(48)」とあるけど羊肉料理店を開いたなどとは書いていない。
ところが「北海道緬羊史」には「明治45年東京市赤阪区田町で、松井肉店が羊肉料理を始めたのが、わが国における羊肉料理店の第1号である。年間40〜50頭のあきないがあり、専ら外国人を相手に、骨付チャップなどを出していたようである。農商務省から1頭当り3円程度の助成金を受け、生体価格は上物で24円くらいまで支払った実績があり、下級品は1頭10円を下廻ったものもあったとの記録がある。(49)」とあります。つまり松井肉店は24年も前から赤坂の本店の方で羊肉料理店を開いており、成吉思荘は2度目ということになるんですなあ。
どういう根拠でこういう記事が書けたのか、わからずにいたのですが、あるとき大正8年の小樽新聞に「羊肉供給照会」という記事を見付けました。「今春開催の中央畜産会主催畜産工芸博覧会会場に於て羊肉普及の為赤坂区田町六丁目十番地松井平五郎をして羊肉料理売店を設けせしむるに付之が原料緬羊の供給に関し農務局長より道庁に申越あり道庁にては関係支区長宛去勢羊及老廃羊等にして淘汰売却を要するものあらば此際成べく右原料として上記指定人に売却方勧誘を望む旨通謀せり(50)」という記事です。
それでね、私は資料その1にした平五郎さんインタビューの前半の外国人数人の注文をまとめてから1頭つぶして前足、もも、チャップという風に売った(51)という話をだね「緬羊史」編集部が松井肉店が料理を売っていたように受け取っていた。かつての「いろは」など有力肉店が肉鍋店もやっていたようにね。
松井本店は明治40年に松方侯爵が運営する松方農場の羊肉を売り始め、さらに44年には宮内省御用達になった一流精肉店だから45年ごろから、羊肉料理店を始めていてもおかしくない。その松井に博覧会場で羊肉料理の売店をやらせるからマトンでも何でも出荷願いたいという小樽新聞の記事を見て、やっぱり松井は「わが国における羊肉料理店の第1号」と自信を持って書いたと考えました。私の推察はちと飛躍が過ぎるかも知れないが、「北海道緬羊史」が間違っていることは確かなのです。ふっふっふ。
きょうは渋谷の成吉思荘まで話せませんでしたが、こちらは資料その17(2)の広告の左端にある芝区白金台町の支店、松井精肉店が開いた料理店で、統治さんの言い方ですと、店主は「血のつながりのないおじさん」松井幸太郎さんでした―ということで終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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参考文献
上記(40)の出典は松井初太郎記述「松井家文書」より、昭和38年1月起筆、福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、
(41)と資料その25(1)は柴田書店編「月刊食堂」3巻12号ページ番号なし、昭和38年11月、柴田書店=館内限定近デジ本、
(42)は同8巻3号240ページ、昭和年月、同、
資料その25(2)は荻昌弘著「続味で勝負」49ページ、昭和56年9月、毎日新聞社=原本、
(43)門番は柴田書店編「月刊食堂」9巻1号ページ番号なし、昭和44年1月、柴田書店=館内限定近デジ本、
資料その26(1)は昭和24年12月27日付読売新聞朝刊2面=マイクロフィルム、同(2)は日本緬羊協会編「緬羊」101号3ページ、昭和年月、日本緬羊協会=マイクロフィルム、
同(3)は同135号6ページ、昭和34年8月、同、
(44)は和色大辞典=
https://www.colordic.
org/w/
(45)は井手秀樹著「日本郵政 JAPAN POST」は誤りで調査中、
(46)は柴田書店編「月刊食堂」8巻3号240ページ、昭和43年3月、柴田書店=館内限定近デジ本、
(47)は同9巻1号156ページ、昭和44年1月、同、
(48)は松井初太郎記述「松井家文書」5ページ、昭和38年1月起筆、福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、
(49)は北海道緬羊協会編「北海道緬羊史」237ページ、昭和54年2月、北海道緬羊協会=原本、
(50)は大正8年3月1日付小樽新聞3面=マイクロフィルム、
(51)は日本緬羊協会編「緬羊」15号3ページ、昭和24年4月20日、日本緬羊協会=原本
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