講義ではいわなかったことだが、目次を見て、そんな珍しい博物館がどこにあるのかと読みに来た諸君、その好奇心を今後も持ち続けてください。人だかりを見て、なんだなんだと首を突っ込
んだら酔っ払いの喧嘩だったなんてこともあるが、何だろうと思ったことは一応当たってみるという心がけが大事なんです。それが将来役に立つとは断言はでき
ないけどね、少なくとも会話を途切れさせない材料にはなります。
まず場所だが、北海道は岩見沢市栗沢町万字仲町8にある。はっきりいうが、JRとバスであっさり行けるようなところではない。グーグルのマップで「ジン鍋」でもいいが「ジン鍋博物館」と入れてご覧。ジン鍋アートミュージアムと赤い字の正式名称とピンで示してくれます。
それからね、地図と共に画面左上に館内の展示の一部の写真を示してくれる。今年、令和3年の開館日のお知らせを含め18枚の写真加が見られます。中に1枚、博物館の南側、画面半分は野原という写真がある。それは博物館前から360度の風景が見られる親切な写真だから、ぐるりと廻してみなさい。
令和3年の開館日のお知らせに「※ガソリン満タンを強くおすすめします。夏タイヤOK。駐車場あり。」とあり、漫画の「動物のお医者さん」で漆原教授がカラスにジンパの肉を取られまいと防戦するシーンがあったように思うが、ここなら俺にも1切れと、ヒグマが草叢から手を出しそうな環境であることがよくわかるよ。
博物館前でジンパをやっている最新の写真で見せたいが、コロナのせいで集まれない。代わりに資料その1として、手許にあった2年前、材料持ち寄りジンパの様子を入れた建物の写真を見せましょう。商店の店先に座り込んで焼いているように見えるね。この建物はかつての溝口商店であり、溝口館長が生まれ育った家なんです。7、8年前かなあ、館長の御母堂、お母さんが亡くなり、空き家になっていたが「炭鉱閉山の限界集落にB級博物館を作り、人々の記憶に残してもらうために」という願いを込めて溝口館長が再利用に踏み切ったのです。
資料その1
鍋博物館の話に入る前に私と溝口館長ことミゾさんとの関係をざっと説明しておきましょう。もうすっかり忘れられたが、かつて会員同士が掲示板にあれこれ
書き込んだり、読んだりするパソコン通信という通信手段が流行りました。ざっと30年前だが、ミゾさんは大胆にも北海道横断異人種交流ネットワーク、この
名前の横断から略称ヨコネットと呼ぶ小さな情報交換グループを立ち上げようとして、顔見知りの私に参加しませんかと声を掛けてくれた。それで私はヨコネッ
トの創立会員の一人としてコヨネットに深入りすることになったのです。いま顧みるとヨコネットは道内では2番目という早いスタートだった。
一時期、情報都市を目指した江別市から市民対象のプロバイダー事業を受託し、江別市のミゾさん宅の屋根裏のパソコンを増やしたため、その熱気で出火する
んじゃないかと会員が心配したこともありましたなあ。会員が自分の仕事関連の秘話や趣味などを話す会合やオフミという飲み会を年に数回ずつ続けましたね。
また会員同士で結ばれたカップルがあり、その子供さんがいま大学生なんだからねえ、いやもう卒業しちゃったかな、とにかく私も年を取るわけだ。
未年の平成15年から私がジンパ学の研究を始めたら、今度はミゾさんがジンギスカンに興味を持ち、本気で鍋集めを始め、遂に鍋博物館を開くに至ったのです。ミゾさんは私が北大を出た年の生まれだから私より遙かに若いが、酒は遙かに弱い。鍋研究と関係ないか、ふっふっふ。
それからね、ミゾさんは令和2年、月1で道新聞のコラム「朝の食卓」執筆を頼まれ「岩見沢市出身。北大法学部卒。シンクタンクなどを経て、1992〜2018年に北星短大教員。16年に万字地区の実家の商店点を改装し、ジン鍋博物館を開設。『ジンギスカンの伝道師』を目指し活動中。63歳。(1)」と紹介されました。だから鍋だけでなく、食べる方もあれこれトライするわけね。
さて旧溝口商店のある万字という土地ですが、かつては万字炭砿があり、最初はスキーリフトの椅子の代わりに箱をぶら下げたようなケーブルで夕張側へ石炭
を運んでいたのですが、大正3年に万字線が開通して岩見沢側へ貨車で運ぶように変わりました。溝口商店は明治41年開業で、北海タイムスの開通祝賀広告に
加わっていますし、資料その1はそのころの記事で商店の一括紹介の中ですが、溝口商店の名が見えます。大正3年、綿羊は毛を取るための家畜であり、ほとん
どの日本人はその肉を食べられるなんて思っていなかった時代です。
資料その2
●万字沿線発展
(万字市外と美流渡)
炭礦汽船株式会社整理終了後に於け
る所有礦区の採炭事業拡張は頗る目
醒しきものありて万字炭山の如きは
近く鉄道の開通と共に従来一ケ年十
二三万噸の採掘に止めたるを一躍二
十五六万噸乃至三十万噸出炭すべき
標準を以て一切の坑外設備に大改善
大拡張を加へ居れるのみならず石油
の沢礦区も最近採掘に着手せるあり
幌内川沿岸に於ける三菱の大礦区亦
汽車開通後採炭に着手すべきやに伝
へえら居るを以て万字市街地の膨脹
と美流渡市街の発展は実に驚くべき
ものあり亦た志文市街の如きも最近
頗る活氣を呈し來りて沿線到るとこ
ろ歓喜の声に充てり左に万字及美流
渡両市街に於ける重なる実業家を紹
介せん
▽萬字市街地
△太田雑貨店<略>△大鷹旅館<略>△
石川雑貨店<略>△水原商店<略>△須
山商店<略>
△小泉菓子店 兵庫県の人明治三十年渡
道四十三年夕張市街より転住現在の營業
を開始した義侠心が深いところに信用を
得て居る尚ほ
△兼カ製材販売所△野村魚菜店△長谷川
松村吉川豆腐店△兼ウ西川薬店丸一大河
原商店△松村菓子店△丸天天野料理店△
丸正石呉服店△丸モ諸橋薬店△中川理髪
店△宮森自転車屋△滝沢風呂屋△魚喜そ
ばや△丸中久保田雑貨店△丸二渋江鉄工
場△久○高崎商店△小林雑貨店△丸三須
山魚菜店△相貝時計店丸岡そばや△寺越
魚菜店△溝口商店△山五山田旅館△佐藤
青物店△上○竹屋雑貨店△並田建具店△
石崎雑貨店△金升下村呉服店△山七野沢
雑貨店△丸メ只野鐵工場△佐藤写真館△
内村牛乳店△榎本料理店
等何れも顧客の信用を博し漸次発展
し居けるも紙面に限りあるを以て群
しき紹介は之を略す
いま、私がジンパ学の研究に呼応して、ミゾさんもジンギスカンに興味を持ったように話したが、別の強いきっかけもあったのです。それはね、ミゾさんは日経新聞の文化欄に「50
歳のこ頃、この料理のルーツを研究している旧来の知人に協力しようと、実家で古い鍋を探したのが始まりだ。」、ベル印の鍋1枚を含む4枚が見付かり「ベル
食品によると1956年にタレを発売。当時は経営難で、社運をかけた新商品だった。レンタル鍋を作ったが、製造枚数など詳細を記録する余裕はなかったという。56年は私の生まれ年でもあり因縁を感じ、収集熱に火が付いた。(2)」と書いたように、ベル鍋発見だったのです。
当時はまだお母さんが1人で営業していた溝口商店で、ミゾさんが地下倉庫にあった鍋を調べたところ、ベル食品がジンギスカンのたれを売り出し、たくさん
仕入れた精肉店や商店におまけとして進呈していたベル印の鍋が運良く捨てられずに残っていた。ジンギスカンの普及をみて溝口商店は羊肉も扱い、ベルのタレも売っていたからこそ、ベル印の鍋があったんですなあ。
ジンギスカンのタレのことは戦後のレシピの講義で取り上げるけど、昭和30年にベル印より先にノーブランドといっていいタレが道内の精肉店に出回り、次いでベルやソラチのタレが現れたのです。それでもかなり長い間、タレは各家庭で醤油や酒などを混ぜて作るものであり、いまのように瓶入りを商店で買うものではなかったのです。精肉店、商店では羊肉を買ったお客に、ジン鍋を持ってなければ貸していたんです。事実、私は鍋貸しますと入れた精肉店の3行広告を一度見た覚えがあり、戦後の道新と北海タイムスでそれを探しているのです。
JTBパブリッシング編「るるぶおまかせ札幌グルメ」によれば「精肉店は羊肉を買った客に鍋を貸し出すサービスを行っていたという。ここに注目したベル食品は精肉店に対し、成吉思汗たれ一箱につきジンギスカン鍋を一つ景品につけて販売。鍋の購入費を気にせずにすむと、精肉店は喜んで羊肉と成吉思汗たれを売り進めた。(3)」とあります。
安いマトンを変な形の鍋に乗せて焼き、煙を除けながら熱々と食べるジンギスカンは、一杯飲む親睦行事だけでなく、家族団らんにもってこいの御馳走として道内に広がり、わが北大生にも愛され、ついにジンパという北大語で呼ばれるまでに至ったのです。
溝口商店に残っていたベル鍋のうちで、私が最古と見る鍋を資料その3(1)にしました。周環の上にしているところに「札幌ベル食品KK」とあるのが見えますね。いまいった周環という単語は初耳なはず、当然です。焼き面と鍋の縁の間のね、脂がたまる平らな部分に私は周環と命名した。ジンギスカン鍋の凹んで平らなところという程度の言い方では、鍋の研究はできないから、以前の講義でも話したように思うが、私がそう命名したのです。
で、このベル鍋は焼き面、これも尽波式の呼び方だが、焼き目の脂を流す溝を途中から二股にして、それに合わせて脂落としの隙間、ミゾさんはスリットと呼ぶようだが、この鍋のそれは、実にのんびりと不規則な溝と幅の広い隙間の曲がり具合が手作りらしくていい。後で示すが、鍋の全体をアートとしてとらえ直す、ジン鍋アートミュージアムの研究材料第1号らしいと思いませんか。はっはっは。
焼き面の頂天のくぼみが大きく深い。焼き面に脂を塗るための脂身の置き場でしょうが、私はこのデザインはベル食品のマークのベルを鳴っている様子
を表しているとみたい。ジンギスカンのタレはベルだよ、リンリンかカーンカーンか、ともかく音が響き渡るようにタレも広まって欲しいという願いを込めてのものと解釈しています。
この鍋は脂落としの隙間が14本だが、最近、曲がりを揃えて24本も開け、頂天はBELLと入れて下の鍋のマークに近い鍋が見付かった。同(2)はその鍋のマークのクローズアップね。ミゾさんは、もう1枚ある古いベル鍋のマーク見比べて同(1)の間に入ると判定して私の意見を求めてきた。
それでね、昭和25年の新聞にあるラムネとシロップそれぞれのマークが一緒になって見られる広告、同(3)をもとにして、新商品のジンタレ用として、製造はやめてお蔵入りしていたラムネのマークを使ったことが考えられるから、マーク入りが後という見方に同意しました。出典は北海タイムスだったと記憶してますが、図書館調べはコロナ感染の危険が収まるまで待ってもらいましょう。
これらの鍋がベル食品が精肉店に進呈した鍋として、古いことを示すために、私が研究を始めて間もないころ、ベル食品から頂いたおまけ鍋の写真同(4)と比べて見なさい。ベル食品の社史とおまけに配った鍋はないかとメールを送ったら、當時の広報担当から鍋はこれしか残っていませんと送られてきたものです。ベルシロップのマークの円内のBELLの4文字以外の横文字を消し、すっきりさせて正式マークしたことは一目瞭然です。
その後、満洲の小学校の同期生とベル食品を訪ねたとき、道東で最近見付けたという鍋を1枚見せてもらったが、これと似た感じのきれいな鍋でしたね。改め
て写真を撮りに行くつもりでしたが、そのままになっています。ですからベル社内には少なくとも2枚は保存されているはずです。
それから断っておくが、この講義録では鍋と関係写真はその都度説明し、参考文献では必要と思う記事、引用文だけにしています。
資料その3
(1)
(2)
(3)
(4)
私はベル食品とほぼ同時期にたれを売り出し、道内のジンたれ市場で相並ぶソラチを忘れてはいません。ソラチもベルに負けずに鍋のおまけをつけて精肉店に
たれを売り込んだのです。札幌・二条市場よりちょっと東で、マトン党には知られた片岡精肉店の店主、片岡進氏が「うちにソラチ鍋があるはず」というので、
大に期待したのですが、残念ながら片岡さんは亡くなられた。閉店して建物を撤去したとき鍋探しをしたけど、なかったそうです。どうやら片岡さんの思い違い
だったらしいのですが、片岡コレクションの鍋は新篠津村のジンギスカン店「ラムラム」が引き継いでいます。
中学生のときから店を手伝っていた片岡さんは、冷凍の羊肉は解凍しないで、凍ったまま鍋に乗せて焼きなさいといいましたね。うまく焼けるのかと心配しましたが、さるお宅のジンパでカチカチの冷凍肉を焼いてみたら、ちゃんと焼けることがわかりました。 また片岡さんはうちは魚町通りの店だと古い呼び名にこだわり、包み紙は南二条魚町通りとした父親時代の儘という包み紙を資料その4で見せましょう。
彼はいくつか石油缶で作った焜炉を店に置いていて、大学生が学内のイベントで食べるなどど羊肉を買いに来たりすると、七厘がなければ横置きにして上面を切り開いた焜炉を見せて自作を勧めたり、通販では自家製タレをサービスしたりユニークな親方でした。
資料その4
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参考文献
上記の資料(1)は令和2年1月5日付北海道新聞朝刊*面=原本、
資料その2は大正3年10月17日付北海タイムス3面=マイクロフィルム、
(2)は平成28年11月3日付日本経済新聞朝刊40面、溝口雅明「ジンギスカン 鍋も味わい/北の大地に博物館オープン、収集通じ食文化ひもとく」=原本、
(3)はJTBパブリッシング編「るるぶおまかせ札幌グルメ」78ページ、平成28年10月、JTBパブリッシング=原本、
資料その3(1)は平成27年11月、ジン鍋アートミュージアム=原本、
同(2)は令和2年12月17日、同、
同(3)は昭和25年以下新聞の再調査待ち、
同(4)は平成15年*月、ベル食品広報室、同、
資料その4は平成15年*月、札幌市片岡精肉店提供、同
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万字で生まれ育ったミゾさんはね、室蘭線志文駅と万字炭山駅を結ぶ国鉄万字線の開業日が大正3年11月11日だったので、11月11日に強いこだわりが
あるのです。まず本気で鍋博物館を作ると私をはじめヨコネットの仲間とマスコミ各社に知らせたのは平成26年11月11日、そのとき、鍋の枚数は38枚
だったそうです。
それから1年で83枚まで増やして平成27年11月11日に仮開館した。その日、ミゾさんがごそごそ鍋の整理をしていたら、若いカップルが入ってきた。
偶然ですが、男性の誕生日が11月11日だったそうで、ミゾさんのメールによれば「寄付金箱に野口英世先生を1枚、気前良く入れてくださいました。」の
で、来館第1号の2人に「感謝とお礼の気持ちとして、お土産に『ミゾ梅漬け』を差し上げ」た。博物館裏の梅の木からの自家製品ですね。当然正式開館日もそ
れ、28年11月11日でした。万字線で岩見沢市内の高校へ通ったミゾさんが11番で卒業したかどうかまでは、わしゃ知らんね。
珍しい博物館ができると道新などに取り上げられ、186枚で正式開館してからはテレビ各社も競って万字を訪れ、珍しい形の鍋がたくさんあると紹介しまし
た。それでミゾさんが古物店廻りやインターネットのオークションで集めたほかに、こういう鍋でよければという寄贈鍋が増えてね、令和2年半ばで370枚を超えているので、近い将来において400枚に達すること間違いなしと講義録に残ったが、館長の努力と有志の寄贈があり令和3年4月現在、445枚になっています。400ではなく450といっとけばよかったんだが、多数枚の鍋蓄積なればこその研究ができるという、うれしい読み違いですよ。
鍋博物館はただ鍋を飾って見せるだけでなく、鍋を使って食べる、ミゾさんに言わせると鍋の動態保存もするのです。そのためもあって、参加者が好みの羊肉、野菜を持ち寄って鍋による違いを味わう「持ち寄りジンパ」も開くのです。
それに令和元年でしたが、ノイズサミットという岩見沢の音楽グルーブがジン鍋を主楽器とするコンサートを開いた。いろいろな厚さ、鉄だけでなくアミルなどの鍋などがあり、それぞれの違う音で鳴るし、沢山あるから参加者全員に鍋を1枚ずつ持たせて、ラデツキー行進曲に於ける聴衆の手拍子みたいに、合奏するなんてこともしたそうです。そのうちの5曲を録音を「万字の空にジン鍋の月」というCD−ROMを作った。
それから去年は35マガジンという雑誌がジンギスカン特集を出した。「溝口雅明〔ジン鍋アートミュージアム館長〕が棺桶にもっていきたいジンギスカン鍋35枚」という縁起でもない見出しをつけ、焼き面35枚の写真を4ページで見せたのです。
ミゾさんが書いた道新の「朝の食卓」によると、初めからこういうタイトルといっていたそうで「出版されるまでに、私が棺おけに入らずに済んでホッとした。(4)」と書いたのは半ば本音。デジカメのフラッシュで撮る鍋写真と違い、6人のチームが撮影しただけであって「プロが撮影した35枚はどれも芸術的(5)」という評価は私も異議なしですよ。
(4と5は令和3年3月7日付北海道新聞朝刊26面「朝の食卓」=原本、)
資料その5の紙面の写真はフェイスブックの「ジン鍋博物館」からの借りたものです。ページ番号のないので、勝手に番号をつけると(1)1ページと2ページ、(2)が3ページと4ページです。私は館長から恵贈された1冊で鍋写真は撮れるけど、こう綺麗に写せないからコピーしておき、代わりに面白い各鍋の紹介を書き写した。ちょっとした誤解なきにしもあらずだが、よくまとめています。ああ、それから写真は縮めて入れてるからね、フォトを使えるなら拡大を試してご覧。
資料その5
(1)
01 昭和35年頃、ベル食品が販促用につくった最初の鍋。同社は計7種の鍋をリリースしており、その記念すべき第1号。北海道には2枚のみ存在。
02 実用新案取得の二重構造鍋。付属のシャチホコ型ハンドルで鍋を持ち上げることが可能。上層の鍋をずらせばスリットがふさがり、脂が落ちず煙が立たなくなる。
03 館長の実家「溝口商店」から発見された4枚のうちの1枚。博物館開設のきっかけになった。館長は高校までこの鍋で週1ジンギスカンを楽しんでいた。
04 3と同じく実家から発見された。鉄板をプレスして作られている。鋳物に比べれば焼き上げる機能は劣るが、安価なためジン鍋の普及に一役買った。
05 旭川の人が考案。煙突部分を回転させると火力調整が可能。旭川は味付け文化圏なので、後片付けが楽なように焼き面がフラットになっている。
06 旧国鉄苗穂工場の職人さんが自分たちで楽しむために内職で製作したらしい。頂天にデザインされているのはSLの動輪。館長お気に入りの1枚。
07 真鍮製。旭川の骨董屋で入手したが誕生の由来は不明。韓国やタイなどの文化圏では光り物の鍋は好まれるため多数存在するが、日本ではレア。
08 葵の御紋のデザイン。アルミ鋳物。当初由来が不明だったが、ヤクオフに同商品が社名入りの箱付きで出品されており、新潟燕三条の会社が作ったことが判明。
09 通称「ウールマーク鍋」。今はなき大阪の会社が製作。羊=ウールマークと職人が考えたのであろう。牡羊座のマークも施されており、かなり凝った意匠。
10 「五稜郭鍋」と呼んでいる、鋳型設計会社ウエノヤマ技巧が製作した鍋。設計と鋳造をすべて函館で手掛けている。頂点には箱館奉行所が。現在も販売中。
11 10と同じくウエノヤマ技巧製。モチーフは大沼を走るSLで、動輪をデザイン。土産物として開発されたものの、最終的には市場に出なかった非売品。
12 ウエノヤマ技巧による受注生産の鍋。通称「川型鍋」。昭和10年に作られた鍋がモチーフ。特徴的なスリットのおかげで燻し効果が高い。
13 商品名「蒼き狼」。旭川の臼井鉄工所が復刻した。しかし同社がなくなったため、岩見沢鋳物が跡を継いで作っている。ネットで購入可。お値段は12,000円。
14 室蘭工業大の鋳物を研究する先生が中心となり、岩見沢鋳物とのコラボして製作。同校の生協のWEBで販売中。3種製作したうちの1枚。
15 北海道土産として製作された「ハローキティグルメ鍋」。千歳空港などで販売中。館長の誕生日を祝して教え子から贈られたが、値札が貼られたままだった。
16 岩見沢鋳物が手掛けた、かねひろジンギスカンのオリジナル。かねひろの味付きジンギスカン用に作られたと思われる。羊マークがかわいらしい。
17 長沼成吉思汗のオリジナル鍋。味付きジンギスカンを焼いても、後始末がラクなように溝がない。長沼は滝川と並ぶ「味付き」の名所。館長は圧倒的に長沼派。
18 富良野の谷ジンギスカン(たにじん)オリジナル。「盆賊鍋」。岩見沢鋳物で製造。脂などを排出する注ぎ口が特徴を。極めてシンプルなデザイン。
19 溶岩をくり抜いて作っているため、通称「溶岩鍋」。「東京ジンギスカン倶楽部」からの寄贈。温まるまでに非常に時間がかかかるのが最大の難点。
20 長野県飯田市「肉の鈴木や」が独自開発した「焼鍋奉行」。萬古焼。トップで肉を焼き、周りにスープをはって野菜を煮込めるハイブリッドスタイル。
(2)
21 北広島市の方からの寄贈品。奥様の嫁入り道具の一つで、昭和30年頃に丸ヨ池内で購入されたもの。新婚夫婦にちょうど良い小ぶりなサイズ。
22 菊の花の紋様が入った南部鉄器。職人は日本的モチーフを好んで用いることが多い。まさに高い技術力から生まれた、アートを感じる美しい一枚。
23 梅の花がデザインされた南部鉄器。岩鋳という鋳物メーカーが制作。円周の二重構造になっている脂だまりは機能性よりもデザインのためと思われる。
24 南部盛栄堂による裏面のネジをまわすと5分割できる鍋。炭火が隙間から上がってくるが脂は落ちない構造で、かつ洗いやすい。ただ実用的かどうかは疑問。
25 山形の「羊肉のなみかた」オリジナル。お寺の鐘を作る会社が作っているため、叩くと澄んだ良い音が響く。その秘密は他の鍋と金属の配合が異なるため。
26 見ての通り真四角の形状から「ピラミッド鍋」と呼ばれる。肉を焼くスペースをピラミッド型にしたアイデアが光る。北海道で昭和40年代に普及した。
27 ダイヤアルミ社製のアルミの鋳物。表面はジンギスカンなどの燒き用に、裏返せば付属フタを使っての蒸し焼きや鍋が可能。リバーシブルで使える多用途。
28 岩見沢の「レジャーランド玉千館」で使用。味付け≠ニタレ@シスタイルの中間点が岩見沢なので両方楽しめるよう仕切りをつけたのではないか。
29 直径11 cm 、重量0.5kg、 高さ2cmと同博物館の最小鍋。札幌医大の医師たちによるジンギスカン愛好会がシャレで製作。とはいえ鉄製なのでちゃんと焼ける。
30 北大向いのジンギスカン屋「義経」の宴会用の鍋。直径46cm 、重量10.8kg。岩見沢の町内会でかつて使用した使用していた。錆びないように年1回動態保存≠している。
31 名古屋で昭和33年に作られた。通称「イースタン鍋」。喜を2つ並べたようなあのマーク入り。中華圏ではではおめでたい席で使われるマークだという。
32 よくジンギスカンが食べられる地域、岩手の遠野で作られる「かっぱん」。手間のかかる削り出しで作られている。熱源は固形燃料で一人用サイズ。
33 アイシングループの1社、「高岡工業」が製作。六角形の鍋は当博物館では唯一となる。鋳物のプロに「精度が非常に高い技巧だ」と言わしめた。
34 南部鋳物の「義経なべ」。中心の小鍋で水炊きなどを、周圍で焼肉を楽しめる構造は高い技術力の賜物。5つに区切られているのでパーソナルスペースも確保できる。
35 持ち手を上げても、シンメトリーで美しいフォルム。熟練の技が光る深鍋。日本のグッドデザインと呼ぶにふさわしい。南部鋳物の会社、岩鋳製。
(田中裕基編「35MAGAZINE」ページ番号なし、令和2年10月、35design=原本、)
以前の講義でも話したことだが、ジンパ学という新しい分野を開拓する私はね、羊肉の生産、その調理法だけでなく、その調理に欠かせない焼き面、一般には
ジンギスカン鍋と呼ばれる鉄製器具の変遷調べもやってきました。その結果として、日本のジンギスカン鍋は、北京の正陽楼に代表される烤羊肉の半固定大型の
鍋の系統ではなく、旧満洲から内蒙古で使われた移動型の鍋と焜炉を手本にして作られたという見方になりました。
満蒙型は本来、鉄鍋に似た焜炉で乾燥した羊糞や牛糞を燃やし、剣道の面に例えられる中高に少し反ったロストルで焼いた。日本人はそれを鍋と呼んだのだ
が、日本には木炭という立派な燃料があるから羊の糞は使わず、また七輪があるから、鍋を七輪に合うサイズに縮めて肉を焼くように変えた。郷に入れば郷に従
えと、食べる材料も羊肉だけでなく季節の野菜も焼くようになり、葱など野菜が焼き面から転げ落ちないよう縁の高い鍋が作り出され、さらに室内用として脂落
としの隙間のない鍋も作られたのです。
学外の方々もこの講義録を読んでいるようだから、ロストル型を一応説明しておきましょう。ロストル型の鍋だと、焼き面の隙間から脂がぼたぼた火の中に落ちて焦げた青い煙がたっぷり発生するが、いまの星型鍋だと、隙間がなくて脂が火の中に落ちないから煙はそう立たない。
私が10年前からロストルみたいな古い鍋があったら連絡してくれと、この講義録の目次で呼び掛けてきたが、持っていると知らせてくれた者は皆無、ゼロ
だ。その理由の1つは、中年の道民でも石油や瓦斯ストーブ育ちで、石炭ストーブのロストルを知らないからだったとはねえ。桑園駅から工学部の裏まで石炭運
びの専用線路があり、蒸気機関車が石炭を満載した貨車を引っ張ってきて、北大構内の各室のストーブはその石炭を焚いていたなんて話すと、ウッソーといわれ
そうですなあ。
ではロストル鍋は絶滅したのかというと、そうでもない。資料その6(1)がそれだが、「焼肉ロースター用Newロストル」と呼び、直径27センチあります。販売元はロストル鍋ではないと強調していましたが、これと成吉思荘の創業者松井初太郎氏が作った直径47センチ、資料その6(2)にした鍋が似ていると思いませんか。
今の焼き肉店のように一段凹んだところに掛ける焼き面と違い、松井鍋は薪を燃やして焼く鍋であり、かつ縁に「成吉思汗焼鍋」と「赤坂松井本店」と浮き彫りの文字を2カ所に入れるためやや幅広になっているが、脂落としの隙間をできるだけ縁まで延ばそうという発想は同類だ。異なるのは焼き面の棒の断面で同(1)は逆台形で上側が広くて研磨されているのに対して松井鍋は台形で鋳型の儘ということぐらいです。
資料その6
(1)
(2)
溝口館長も鍋博物館と名乗るからには、せめて1枚、クラシックなロストルの鋳物鍋を確保したいと四方八方捜しているけれど、見つからなかった。道民はジンギスカンが好きで鍋が一家に1枚あるといわれながらも、公開されているロストル型は滝川市立郷土館にたった1枚とは情けないが、どうしようもありません。
鍋の形の変遷の講義録にロストル鍋があったら、研究用に1枚5万円で買うといった私の発言があるのだが、売りたいという連絡も皆無。これは若い諸君のほかに読者が少ないという閲読率の偏りもあるだろうから、やむを得ないがね。
それでね、溝口館長は令和元年5月に、テレビ東京の「開運!お宝鑑定鑑定団」の「お宝買いますコーナー」の依頼に応じて出演したんですよ。東京から
やってきた若い女性レポーターにね、内地と呼ばれた国内で初めて作られたジン鍋を探していることを聞かせ、5万円でその鍋を買うと全国に放映してもらったのです。
彼女はジンギスカンを食べたことがなかったので、テレビ局持ちで前日、札幌で試食させたそうですが、ミゾさんもいきなり鍋買いたいではなくてさ、ざっとしたジンギスカン鍋の形の変りようを説明した。
資料その7(2)のように座ってね、月刊誌「糧友」発行などで食生活改善を図った団体、糧友会が同(1)でわかるように愛読者などに会創立10周年記念
にジン鍋をプレゼントする計画を立てたと本筋に入った。そこは女子学生からミゾリンなんて愛称を奉られていた元先生だから、私と違って話し方は慣れたものだ。
その糧友会が昭和10年に国内で初めて同(3)に示すロストル鍋を作り、本当に無料贈呈したと語り、最後に「同じ鍋があったら5万円で買います。よろしくお願いします」と1万円札を5枚扇形に広げて持ち、カメラに向かって最敬礼したのです。同(4)がその瞬間だが、頭がぶれているのは、ミゾさんの下げ方
が高速だったせいで手ぶれじゃないからね。はっはっは。
資料その7
(1)
(2)
(3)
(4)
超レアな鍋だから同じ鍋がこの世に残っているとは思えないが、似た鍋があるがどうかとね、テレビ局に電話してくることを期待したのですよ。ところが、全く反響なしでガックリ、5万円は温存するしかなかった。
それにしてもだ、道内でこうもきれいさっぱり見付からないということは、道民がジンギスカンを食べ始めたのは、ロストル鍋の煙を減らす改良型として現れ
た星型隙間なしの鍋に変わってから食べ始めたせいではないのか。だとすれば、せいぜい昭和30年代からで東京より20年は後発の歴史しかなく、北海道遺産
などと威張れるような古さはないという論拠になりかねません。
金網で焼いた昭和初期からロストル鍋を経て、今の星形隙間なしに変わってきたことを裏付ける標本として、金網はともかく、ロストル型の旧型鍋なくして日
本初の鍋博物館でございますと大きな顔はできない。そのうちに山形か長野あたりの郷土資料館が何枚かロストル型鍋を集めて、うちが先進地だ、元祖はこっち
だった証拠だと言い出すかも知れん。あせりましたね。
それからもう1つ、道産子は古い物を大事にせず、ぱっぱっと捨ててしまう。ジンギスカン鍋も同様、古くなったからとあっさり捨てて仕舞った。それで戦前
から昭和20年代に使われたロストル型の鍋は残ってないらしいのです。某町の郷土資料館の学芸員に「鍋はいらないと断ってます」とボロ布みたいに言われた
ことがあるくらいで、簀の子を丸く切り出したような焼き面は、もはやこの世にないのかも知れん。
道内でもかつてロストル鍋で焼いていたという、せめてもの証拠としてね、私は滝川市立郷土館にあるたった1枚のロストル鍋、資料その6に示しましたが、このデータを記録しておくことにした。記録を残すのも博物館の使命なのです。
測定させもらったところ直径28.5センチ、重さ2.45キロ、頂点の高さは5.2センチ、縁の高さは底面から8ミリ。縁の上部は薄いところと厚いところがあり、資料番号を手前にして上から見て左側が厚く、右側が薄くなっているが、切れ目、凹凸はなく全体に高さは同じだ。縁の内側は緩いカーブで周環になっており、その深さは7ミリだった。
焼き面を上から見ると、左から独立した棒6本、次の3本は中央部で結合して、そこが細長い帯型になっている。次はまた独立した6本で計15本、だから脂落としの隙間は16本だった。頂点の帯型の部分の幅は3.4センチ、中央に緩く落ち込む丸い凹みがあり、深さはボールペンの先を入れてみたところ6ミリでしたね。
資料その8は見ればわかるはずで、ただ、真上からの写真で中央部の帯型が影のせいで上下が違うように見えますが、実物はきれいな対称形ですからね。
裏返すと、底面は真っ平らではなく、直径21センチ、高さ2ミリぐらいの突起の輪(幅欠測)があった。中央部のロストルの棒の断面は縦1センチ、横7ミリの長方形で、帯型の隣の隙間の端の高さは底面から1.8センチ、一番離れた位置のそれは1.7センチでほぼ同じだ。棒の太さと直線と端が縁と同心円を形成している。全体がきれいな仕上がりなので、戦後の鋳造品と私は見ましたね。
ロストル鍋のそばに鋳物のハンドルが掛けてありました。曲がったままの長さは15.2センチ、幅2.8センチ、鍋と接触する3つ又の爪になっていて、鍋の縁が入る場所の間隔は7ミリ。爪の先は僅かに不揃いで最長2.5センチでした。これをロストル型鍋にあてがってみたところ、写真のように合うので、これはロストル鍋用のハンドルだったかも知れません。
資料その8
ところがだね、令和3年4月、まったく意外な情報から、渇望して止まなかったロストル鍋が手に入ったのです。その発端は、由緒ある三里塚で日本綿羊史を研究している若き学徒、山本佳典氏から私にね「発作的にヤフオクでジン鍋を漁ってしまったのですが、こんな妙なものを見つけました。原始的なジン鍋のようにも見えますが、尽波先生はどう思われますか?(6)」とメールがきたことでした。
私とミゾさんがロストル鍋探し中と知ってのお知らせですからね。何が何でも2、3が6、あっ小学生みたいなことをいっちゃったが、すぐヤクオフのその妙なものを確かめた。それが資料その9にした「商品: 火鉢 鉄製 鉄板セット」で即決価格は1万円。添えられた写真3枚のうちの2枚がその(1)と(2)で、残る1枚は同(2)を立てかけて写したものでした。
七輪じゃないが、何かの鉢に乗っかっているブツが、裏返しのジン鍋でなかったら何なんだ。直径なんかどうでもいい、一目見ただけで即決価格をクリックしましたね。永年捜して得られなかった鍋がだ、ヤクオフに出ていて、それも1万円なんて世の中はわからん。糧友会の鍋写真を初めて見たときみたいに「求めよさらば与えられん」という言葉は本当だと思いましたよ。
資料その9
(1)
(2)
ジン鍋博物館に直送し、ミゾさんに計測してもらい、山本氏へあれは本物のジン鍋でしたとお礼メールを送り、コロナ嵐が収まったら、鍋予算5万円の残り全額でとはいわなかったがね、一席設けると約束しましたよ。お尋ね形ではあったが、私にすれば日本海大海戦の「敵艦見ゆ」に匹敵する貴重な第1報あってのことだから、それぐらいしなくちゃ申訳ない。
その後の山本氏のメールによると、キーワードは鍋でなく、鉄板で見付けた。「ジン鍋が鍋に分類されることに今一つ釈然としていないところがあり、むしろ鉄板だろうと思って調べたのがハマりました。(7)」とのことです。ヤクオフのロストルを見ると、金網に近いものが多いこともあり福島県内の出品者は多分ジン鍋とは思わず、分類として調理用鉄板の仲間とみたらしいこともラッキーでした。いずれかのオークションに出るなら鍋かロストルだろうと、ついついスイープする角度が狭くなっていたんだなあ。反省しました。
資料その10の写真(1)が前から、同(2)が真上からね、ミゾさんが磨き上げて、すぐ撮ったので新品みたいでしょう。これで焼くときはラムに市販のタレでなく、鍋の雰囲気としてマトンと日本酒、醤油ベースに果汁のお手製タレでという気分になりませんか。ふっふっふ。
資料その10
(1)
(2)
鍋のデータですが、ミゾさんの計測によると、この川型ロストル鍋は直径26センチ、頂天の高さ4.5センチ、厚めの鋳鉄製で重さは3.1キロ。焼き面の川型の脂落としの隙間の一番外側は、差し込み式のハンドル穴が1個ずつある。さらに「糧友会鍋よりは2センチ小さいのですが、300g重い。スリットはきれいに開いています。厚みが有ります。使い込まれた跡は無くて、錆以外は新品同様です。脂溜まりが無いので、戦前の製造、糧友会鍋の前後かも知れません。」とのことでした。また火鉢とされた鉄製鉢は直径21センチ、高さ12センチ、重さ400gで、2個がすっぽり重なっており、それで出品者は高さ15.5センチとみたらしいとのことでした。
ここでロストル鍋3枚の直径と鍋の重さを検討してみますか。糧友会鍋は直径27センチ、重さ2.8キロ、滝川の公開鍋のそれは28.5センチ、2.45キロ、今回の新入り鉄板は26センチ、3.1キロです。直径を重さで割った数値をロストル係数と名付けて計算してみると、糧友会鍋は9.64、滝川鍋は11.63、鉄板鍋は8.38となる。この3つの係数間の差は糧友会鍋と滝川鍋間は3.25、糧友会鍋と鉄板鍋間は1.26で、鉄板鍋のロストル係数は滝川鍋のそれより糧友会鍋に近い。
もっとロストル鍋があれば、それらの計測から鍋分類の手かがりが得られるのだが、いまはこれぐらいしかいえない。本州に少なくとも4種ある複製ロストル鍋のロストル係数は同列に扱っていいのか今後の課題です。
脂落としの隙間の本数は糧友会鍋は本、滝川鍋は頂天に窪み部があるが、そを支える形で隙間かあり、それを数えると15本、鉄板鍋は資料その*の(2)でわかるように16本、しかも縁がないことも糧友会鍋と同じだ。私が特に注目するのは底面の横棒の付け根です。資料その11(1)は鉄板鍋、同(2)が以前の講義で使った糧友会鍋の底面の一部です。
焼き面の裾の平らなところを周環と呼んだので、これは底周環と呼ぶことにとしますが、横棒は底周環の平面から1段下がった位置から始まっているという点で似ている。鋳型が疲れたようで、糧友会鍋のようにくっきりしてないけど、同じであることは、いずれ同角度の写真で見せましょう。
資料その11
(1)
(2)
それからね、ハンドルの差し込み口が長くて角張っているのは、松井式肉焙器つまり松井鍋のそれに似ている。栓抜き型のハンドルなら、もっと短くてもいいはずです。戦後作られたニチメン鍋の1つ、次の資料12の鍋も取っ手かなかくて角穴ですから、やはり松井式鍋と同じように栓抜き型と氷挟み型の2つのハンドルを使えるように開けたサイズとみます。
またね、料理の友社が昭和15年まで「本社創製」とうたったけど、社自体が糧友会の指導を受けていたようだし、2年先行した糧友会鍋の技術を生かしたとも考えられるから、この鉄板鍋は、もしかすると広告の絵だけで鍋写真が見付からない料理の友鍋の末期の製品かも知れません。今後もロストル鍋探しを続けて枚数が増えれば、そういう見方の訂正とロストル係数による年代推定ができるでしょう。
いま大抵の会社は内外に蓄積されているいろいろなビッグデータを分析してビジネスの発展に役立てようと努力してそうだが、世界唯一のわがジン鍋博物癇に
450枚近い鍋があるということは、見方を変えればジン鍋に関しては例のないビッグデータそのものだ。これを分析しない手は無い。大まかではあるが、今後
の分析の方向と思われる例を話しましょう。
令和2年3月、成田市の老舗緬羊会館が閉店しました。博物癇では成田にいる綿羊史を研究しているある人を介して、不要になったジン鍋を1枚寄附してもらったのです。それはわが講義録の「顧みられなかったジン鍋の形の変遷を顧みる」でも紹介したニチメンの半球形の鍋です。
このニチメン鍋はツキサップじんぎすかんクラブでも以前使っており、ちょっと欠けたところがある鍋を博物館に寄贈してもらっており、2枚になったので
す。同じニチメンの鍋なのに、見たところ焼き面のカーブが違う感じ、成田鍋がわずかながら角張っているように見えるのです。
そこで新兵器、型取りゲージで計ってみました。資料その12(1)は焼き面にゲージをあてがったところです。130本の鉄針が焼き面をなぞって並ぶから、
そのままもう1方の鍋にあてがえば、同じなら鉄針は動かないし、違えば針先と焼き面との間に隙間ができるはずです。ゲージを外したところが同(2)で、こ
の曲線をボール紙などに書き写して型紙を作り、例えば枚数の多いジンギス印の鍋にあてがってみれば、また新しい違いが見付かるかも知れません。
結果はぴったり同じでした。見た目という感覚ではなく、ゲージで確かめられた。そこでどこか違いはないかと改めて見直したら、底の輪になっている面のニ
チメンという浮き彫りの字のうち、特にンの形が違うことに気付きました。同(3)ですが、左の月寒鍋のンの跳ねが細くなっています。私とミゾさんは鋳型を
作る木型がく古くなり、すり減っていたせいと考えました。この見方が正しければ月寒鍋の鋳造時期は成田鍋より後ということになりますが、いずれ鋳物のプロ
に聞いてみます。
資料その12
(1)
(2)
(3)
もう1例は産地の特徴というか傾向があるらしいということです。1枚しかなければわかないけれども、そこはビッグデータです。鋳物工場がはっきり山形県
内とわかる鍋が3枚集まりました。資料その13(1)がそれですが、どれも脂を流す溝が右ひねりの放射状のなっており、平べったい頂天に字か模様がある。
私はこの原型は戦後、羊毛を出荷する農家向けだったらしいトウカネのジン鍋ではないかと思うが、これはまだ実物は見付からず、これ以上のことはいえない。
盛んに鍋を作り続ける岩手県水沢市などの南部産の鍋も集まると、同(2)なんか、ずばり南部鉄瓶の模様そのものだよね。同(3)でわかるように、鋳物の
肌がなめられかで模様が細かい、製造者の銘入りという共通点があるらしいのです。「鍋コレクションと学術研究の殿堂をめざす」とうたう博物館でからね。
AIを使うほどではないが、ビッグデータ分析の手法を借りた研究をしなければならんのです。
資料その13
(1)
(2)
(3)
さて、鍋博物館顧問として近況を説明しましょう。枚数激増でね、複数枚ある鍋は1枚だけにしても展示しきれない。棺桶が壊れると選ばれなかった超重量鍋をまず見せましょう。入り口の右側にデーンと置かれているのは、岩見沢鋳物社が特に鍋博物館展示用として鋳造した室蘭工大デザインの特大鍋、資料その14(1)です。同社の白井雅人社長のご厚意により溝口館長と私は、令和元年6月、木型と特殊な砂で鋳型をつくるところから鍋が触れぐらい冷えるまでの3時間近くかかった全工程を見学させてもらいました。
ミゾさんと私は同年4月、函館の上野山技巧社の木型で五稜郭鍋を鋳造している村瀬鉄工所でも鋳造工程の見学しており、いずれ長野県などのジンギスカン店が使っている、または所蔵しているロストル鍋の計測結果の講義のときに、鋳造工程を合わせて説明するつもりですが「製造工程見学で圧倒されましたが、出来上がって設置された現物を見て、再度、圧倒されました。」と館長がフェイスブックに書いた通りです。
なにしろ直径1メートルの焼き面と縁とを合わせて北海道のカスベ形なので最大長1.3メートル、最短1.2メートルあり、写真の置き方で上端が宗谷岬、手前が松前の白神岬ということになります。さらに底面には、室蘭のMを無限大の∞のようにした室工大の校章が付いている。重さは公称80キロだが、実はもう少し重いらしい。トラックから降ろして据え付けるのに河村正規工場長と工員さんの3人でやっとだったそうです。
またミゾさんは「ジンギスカン専用鍋としては、たぶん日本一、そして世界一だと思います。」とも書いているが、お値段は27万円というのも世界一でしょう。
それから特大鍋の焼き面の下の押しボタンみたいなのが棺桶組29番、最小鍋の「一切れ用鋳鉄ジン鍋」です。データは棺桶組紹介の通りで、工程見学でこのチビ鍋も岩見沢鋳物社の製品、意外にも特大鍋と兄弟とわかったのです。
同(2)がそのクローズアップ。火起こし用のライターの長さとほとんど同じだ。特注で作り、左側にある鍋形のレッテルを付けて仲間に配ったそうで、その
周環には「用途いろいろ!! 灰皿・文鎮・飾り物・カップ麺にお湯を入れた時のふた など、もちろん一枚くらいなら肉も焼けます、鍋ですから。」と書いて
あります。
同(3)は一時期の最大最小コンビ。右は棺桶組19番、直径40センチ、特大鍋もそうですが、七輪からはみ出るから、2つ割のドラム缶みたいな焜炉か焚き火でないと焼けませんね。小さい方は棺桶組32番、商品名「かっぱん」の通り、河童の顔を象った焜炉と組になっており、縁の折り返しが河童の頭の皿というか緩いギサギザになっています。固形燃料を使う直径12センチの鍋です。
特大鍋が入るまで最重量鍋だったのは士別の煮込みジンギスカン用で、分厚い鉄板で凹ませたようなごく浅い鍋です。1枚で5キロあるそうで、下手に持ち上げてギックリ腰になってはかなわんので、明るいところへ持ち出して写すのはやめました。
序での話しですが、鍋の直径は取っ手を入れず、底面の直径を指しています。これは鍋底を計測してみると、その直径が1寸=3センチの倍数になることを知ったからです。だから「かっぱん」は4寸鍋、大鍋はほぼ1尺3寸鍋として設計されたということですね。
資料その14
(1)
(2)
(3)
ちょっと寄り道しましたが、館内の説明に戻します。鍋を手に入れたときに付いてきた説明書は勿論、箱も全部保存しています。ほとんどはむき出して入手し
た鍋ですが、中には外箱と説明書が保存されていた鍋があるのです。外箱だけでも製造会社名が入っていたり、例えば一見同じでも印刷してある何か特許らしい
番号があれば、東京の独立行政法人・工業所有権情報・研修館で特許なのか実用新案なのか調べ、いつごろ誰が取得したものか明らかにできる。ヤクオフなどで
買った鍋は売り手の住所を記録しておきます。
例えば資料その13(1)は取っ手の穴が変わっていて眼鏡みたいに2つです。箱と説明書から作ったのは三洋鋳造とわかるが、インターネットの検索では見
付からない。でも出品者が滋賀県ということは記録してあります。同(2)は穴なしの平たい取っ手で、そこに「迅雷」「野分」と彫り込んであり、出品者は石
川県小松市と記録してあります。
同(3)は珍しい6角形の鍋で棺桶組33番、脂だまりの4カ所に1字ずつ分けて「高丘工業」を浮き彫りにしてある。これはなにかの記念品として作った鍋ではないかと、合併で社名が変わっているが、創業時は高丘工業だったある会社に尋ねたが、要領を得なかった。思うに創業した頃の製品で、もう当時の古いことを知っている人がいなくなったせいらしいのです。
資料その15
(1)
(2)
(3)
しかし、我々は簡単に諦めないのです。例えば、博物館の取材に来たマスコミの皆さんが焼き面の葵の紋が面白いと大抵写していく棺桶組8番のアルミ鍋、資料その16(1)があります。水戸黄門ドラマの「この御紋が目に入らぬか」でおなじみの紋ですからね、徳川家ゆかりの人たちが作った記念品とみていたのですが、
ヤクオフでこの鍋の写真の付いた化粧箱と五徳、同(2)を手に入れたのです。同(3)の右は鍋の底面、左は支持具が4本だけど真上からみて五徳です。
その箱のマルエフというマークからたどって、新潟県燕市の藤井器物製作所がアルコールを燃料とするコンロと五徳付きで販売したことがわかったのです。同
製作所によると、意外にもたまたまああいう模様になったのであって、葵の紋という意識はなかったとのことでした。もうアルコールのコンロの残品はないそう
ですが、固形燃料に押されて消えたとはいえ、ジンギスカンにアルコール・コンロを使った時代があったという全く予想外の情報まで得られたのです。
頂天に蒸気機関車の動輪マークが付いた鍋は、来館者に国鉄某工場でこれを作ったという人がいて溝口館長がその思い出話を聞いたとしか話さずに来ましたが、今回御棺桶組6番、製造は旧国鉄苗穂工場と載ったので、改めて紹介てしておきします。
ぽつりぽつりでもこうして鍋情報が集まれば、こんな番号、こんな形の鍋を持っているが、いつごろの製品かといった質問に対して、データベースに基づいて、すぐ答えられるようになるはずです。そうした鍋に関するあらゆる研究をすることもジン鍋博物館の任務の1つなのです。
資料その16
(1)
(2) (3)
以前の講義でジンギス印の鍋情報を得て、ジンギス印はブランドは同じでも複数の会社、工場によって鋳造された鍋だ。最初は脂落としの隙間のある鍋だった
が、鍋がよく売れた北海道から煙の出ない隙間なしの鍋を作ってくれと要望され、そこで隙間なしのジンギス印が登場したと話しました。
鍋が214枚だった平成29年9月に調べて以来やっていないのですが、そのとき資料その17にした写真でわかるようにジンギス印は15枚も集まっていた
のです。左下の1枚は焼き面がピラミッドみたいな正方形で隙間なし、ただ裏に兵士マークがあるだけという変種なので、これを除いて14枚。当時の全枚数の
6.5%になり、私が一番多く見た鍋というのはオーバーではないことがわかるでしょう。
これまでは同時に見たにしても、せいぜい2、3枚ですから、形で分類したことはありませんでした。そのとき溝口館長に形別の枚数も調べてもらいました。
資料その17(2)が鍋とその分類結果で、直径の大中小はさておいて4つの系統が認められるというのです。この14枚は皆、例のジンギス印の5字と417157
の登録番号が焼き面か底面に彫り込まれています。
資料その17
(1)
(2)
1.【隙間ありで兵士マークあり】5枚
2.【隙間なしで兵士マークあり】4枚
3.【隙間なしで兵士マークなし取っ手の穴が1つ】1枚
4.【隙間なしで兵士マークあり、仕上がりが美麗】4枚
合計 14枚
「ジンギス印」の5字の違いもあります。資料その18(1)は鍋博物館の鍋ではなく、いま北海道博物館に納まっている鍋です。月寒の種羊場に務めていた
北村さんが寄贈した鍋で、ジンギス印の字体が細くて筆記体みたいでしょう。脂落としの隙間があり、私が見たジンギス印では最古と考えております。同(2)も北村さんの鍋からです。溝口館長も同じ取っ手の穴1つ鍋の写真を提供してくれたのですが、光線の角度のせいでジの字の濁点が良く見えないので、こっちにしました。
同(3)は(2)と同じ鋳型で作られたらしいが、取っ手の形がねじり三輪に変わっている。よく見て欲しいのはンとギの字の下端が周環の仕切りにくっつい
ているところです。いずれ専門家の見解を伺うが、100回ぐらい同じ木型で鋳型を作ると、くたびれてこうなるのではないでしょうかね。この型崩れは兵士
マークでも認められます。(4)が(5)のように崩れて輪郭やマークのところで折り返す三角の鋭さがなくなります。焼き面を針金ブラシで掃除
しても起きるのかも知れません。
同(6)は東洋物産株式会社と登録番号4種を明記している外箱です。それに同(2)の取っ手の穴が1つの鍋が入っていたそうですが、女性の持っている鍋と違い過ぎるので、箱付きだよとオークションの売値を高めるため使った別の鍋の外箱でしょう。
資料その18
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
ジンギスカンが大好きという人が鍋についても関心をもってもらうと、いろいろわかることがあるのです。たとえば煙突付きの鍋です。資料その19(1)は
取っ手に浮き彫りで「北海鍋」と「PATET 482299」とある平たい鍋を真上から撮った写真です。突き出た煙突を白い棒が貫通しているでしょう。こ
こに小さな穴が3つ開いていことを示すために、その2つの穴に私が博物館横で拾った枯れ草の茎を通したのです。
これは私が取っ手に彫ってある番号を調べて、昭和33年に旭川市におられた塚本真という方が実用新案の登録を認められた鍋とわかりました。本当はこの煙
突には筒型の蓋があり、その筒のところにも同じような小穴が開いていて、蓋の穴と煙突の穴の位置を合わせて満開にしたり、ずらしたりして七輪を通って出る「空気の流通を調節するようにしたから、従来の如き欠点なく又煮沸した余剰の汁は注出口6から容易に注出し溝3から溢出せしむる事がないから卓上を汚損すること無く極めて有益なる特長がある。(4)」と塚本さんは登録申請の書類に書いたのです。
溝口館長が初めて手に入れた北海鍋、整理番号「テイ073深穴」は鍋の蓋が失われていました。でもね、この鍋は旭川の人が実用新案の登録をした鍋だという館長の説明を聞いた旭川のAさんが、そのことを知らせようと鍋の写真をFacebookの「旭川人」に投稿した。
すると、それを見た旭川のBさんがわが家では蓋付きをいまも使っていると、そのつまむための突起付き、差し込み型の蓋をした鍋の写真を「旭川人」にアッ
プロードした。それを見て溝口館長は拝借させてもらいFacebookの「ジン鍋アートミュージアム/ジン鍋博物館/ジンギスカン鍋博物館」に加えたので
すね。そこまで聞けば私としては、旭川の方に感謝しつつ又借りしないわけがない。同(2)がそれです。つまり鍋博物館の鍋がきっかけで同じ北海鍋でも煙突
の蓋の作りの違いから少なくとも2種作られたことが明らかになったのです。
その後、ミゾさんがつまみ無しの蓋付き北海鍋、棺桶組5番を手に入れたのですがね、錆か焦げつきか蓋が全然回らない。錆落とし剤を吹き付けて1晩置き、翌日金槌で丁
寧に叩いたら取れたそうです。塚本さんの登録申請の図解では被せる蓋になっているので、つまみ付きは後で作られたのでしょうが、その図解の蓋の天辺にごく
小さな突起が描いてあるので、ほかの形の被せ蓋もあるかも知れません。
資料その19
(1)
(2)
(3)
ジン鍋博物館の存在が広く知られるようになるにつれて、資料にと古い鍋を寄贈してくれる人が観覧かたがた訪ねてくるようになってきた。資料その
20(1)と同(2)の鍋がそれです。(1)のカスベみたいに北海道の形をした鍋をみると、サッポロビール園で使っている鍋という人がよくいます。この鍋は1枚の説明書が付いていて、私が焼き面と呼ぶ真ん中の盛り上がったところは大雪山、全体でそれを囲む平野で北海道を表現しているそうです。取っ手になっている4つの
平面はケバ地図のようで大雪に連なる山脈を現しているんですな。いまはきれいに磨かれているけど、かさばる鍋だから立てて置くとしても、モダンなキッチンでは置き場所に迷うこと確実だ。ふっふっふ。
同(2)はアルミ製の鍋です。名誉顧問のレトロスペース坂会館の坂一敬館長が中本同館副館長とともに、初めて館内視察に訪れたとき、鍋博物館の防火責任
者でハンドルネーム黒松さんが実験に必要と精肉店に頼んで厚さ5ミリ、6ミリ、7ミリ、8ミリと4段階に切り分けたロール肉を用意し、ほかに味付き肉など
も加えて歓迎ジンパをやりました。
その黒松さんが子供のとき、この鍋を使っていた。狭くて深い周環には水を張って焼いていたそうです。多分アルミ鍋の焼き面の温度の上がりすぎを押さえる
ためだったらしいが、そういう使い方も、見覚えのある鍋と出会ったからこそ、そういえば―と出てくる話であり、溝口館長も説明するだけでなく、聞き役にも
なり、そうした来館者とのやりとりを楽しんでいます。
そのジンパでは私もご相伴に預かったので、感謝とともに一言だけ感想をいいますと、入れ歯なので8ミリは危ない、5ミリで充分とわかった。フグの肝で死
んだ歌舞伎の板東三津五郎に美食のダンディズムを感じるという人がおるが、ロール肉で喉詰まりして死んだら、物笑いの種になるだけだよね。
資料その20
(1)
(2)
平成29年5月20日付北海道新聞の「キャッチ」という欄に「『ジン鍋』個性も味わって」と大きな見出しで博物館の紹介記事が載りました。これに最も新しい寄贈鍋のことが書いてあります。「岩見沢の元宿泊施設の名が刻まれた鉄製の丸鍋で、鍋の面が二つに仕切られている。『道北や道東ではタレに漬けた肉、道央や道南では漬けていない肉が好まれる傾向がある。岩見沢はその中間点。双方の肉を分けて焼いたのでは』と溝口さん。(5)」とあります。
棺桶組28番のその鍋の写真が資料その19です。このサイズでも焼き面の字はちょっと読めないが、周環の上側には「(株)
レジャーランド玉千館謹製」、下側には「岩見沢市東山 TEL5−3345」と文字が浮き彫りに入ってい。玉千館という施設名にちなんで、玉の字の下の横
棒を丸く伸ばして、真上の丸い点にした「ヽ」を支える形に見える商標が焼き面の頂天にあります。普通の鍋なら1つの注ぎ口が仕切り別に2つ付いているのも
本当に珍しいね。
はたして館長の推察通りだったのかどうか。羊肉と豚肉と2種類の焼き肉用だったとか、義経鍋のようにお前そっち、おれはこっちで焼くという使い方だった
かも知れません。このレジャーランド玉千館でジンギスカンを食べたことのある岩見沢市民がたくさんいると思われます。そうした方々から、玉千館ではどうい
う風に使わせていたか、ぜひ知りたいところです。
また、そうした情報の収集保存がこの報告の副題「B級だけど鍋の学術研究の殿堂目指す」ことになるのです。学外の方で、この玉千鍋で食べたことがある、または使い方を知っているという方は館長に電話で知らせて下さい。私からもお願いしておきます。
資料その21
平成29年9月にミゾさんは「ジンギスカンと岩見沢 五つの物語」を発表しました。それは岩見沢のジンギスカン事情をよく調べたものでなければ書けない
ない内容なので、顧問として来館者に読ませるだけではいかん、ジンバ学講義録のここに資料その22として全文を転載し、より広くジンギスカンと岩見沢の
縁、えにしと読んでもらいたいが、結びつきを知ってもらうことにしました。
滝川の松尾ジンギスカンより先に味付け肉を思いつき、店で売っていた松本畜産のことは知られていませんが、当時の新聞スクラップがあるそうなので、いずれここに追加します。それから、この4に書いてある仕切り付き鍋が、資料その20の鍋であることはわかりますよね。
資料その22
ジンギスカンと岩見沢
五つの物語
1.北村での道内初の羊食会と『羊肉料理法』パンフレット発行。資料展示:北
村環境改善センター。
1920年(大正9)、北村飼羊組合員を対象とする羊食会を実施。
1921年(大正10)、北村緬羊組合設立。
1924年(大正13)、『羊肉料理法』パンフレット発行(北村緬羊組合)、
14種類の料理レシピ紹介。
No.A羊肉の網焼…「味付きジンギスカン」の先駆的試み。
2.(有)松本畜産による「元祖味付きジンギスカン」の考案と小売販売。
1953年(昭和28)、創業者の松本昭男氏がタレに漬け込んだ味付け羊
肉を商品化し、精肉店で販売。
1990年(平成2)、金子町に直売所と食堂の「松龍(しょうりゅう)」
を松本氏が開き、2代目店主がその味を守って経営し
ている。焼き方は、七厘+炭火+網焼き。
3.岩見沢鋳物(株)によるジンギスカン鍋の製造。所在地:栗沢町由良工業
団地。
戦後の創業だが、高い技術力を持ち、数々の受賞歴もある。
現在、道内で鋳鉄製のジンギスカン鍋を製造する数少ないメーカー。
・長沼かねひろオリジナル鍋2種。
・室蘭工業大学とのコラボによる室工大ジン鍋3種と特注品の巨大鍋。
・ハローキティグルメ鍋(大と小)、遠藤木型(ヌリプラ倶楽部、札幌)。
・小樽ジンギスカン「北とうがらし」オリジナル鍋 他。
4.「味付け」と「焼いてタレ付け」文化の境界地・混在地としての岩見沢と
「仕切リジン鍋」の発見。
滝川・旭川・帯広・長沼等の内陸部は「味付けジンギスカン」の文化圏であ
る。
札幌・小樽・函館・室蘭・釧路等の地域では冷凍ロールスライス肉または解
凍肉・生肉を焼いてからタレを付けて食べる文化圏である。冷凍流通が整う昭
和40年代―50年代前半くらいまではかなりはっきりした地域の色分けがあ
った。
岩見沢市はその境界地であり、混在地でもあった(作家の開高健が文芸春秋
編「諸君!」<昭和58年8月号>で、このことに言及している)。それを裏
付けるような珍しいジンギスカン鍋が見つかった。浅型・穴無しの鋳鉄ジン鍋
であるが、真ん中に鍋を左右に分ける仕切りが付いた構造になっている。「玉
千館レジャーランド」の銘が刻印されており、調べてみると1979年(昭和
54)から2―3年の間運営されていた温泉宿泊施設で使われたオリジナルジ
ン鍋と判明した。一つの鍋で二種類の食べ方をした鍋と推測されている。
5.栗沢町万字地区に開館した「ジン鍋博物館/ジン鍋アートミュージアム」。
2016年11月11日開館。
世界唯一のジンギスカン鍋専門の搏物館で、現在214枚の所蔵品がある。
2005年に旧溝口商店から発見された4枚の古鍋・珍鍋を契機に蒐集が始
まった。炭鉱町ではジンギスカンは人々に好んで食され、食料品販売の溝口
商店も大いに繁盛した。昭和30年代前半にベル食品がジンたれ販促用に配
布したオリジナル鍋(現存するのはこの一枚のみ)他、全国各地で製造・使
用された鍋が展示されている。
※北村と栗沢町は、2006年3月の平成大合併で岩見沢市に編入された。し
たがってこの五つの物語は、実は岩見沢市と北村と栗沢町を結びつける物語
でもある。
2017年9月6日 ジン鍋博物館 館長 溝口雅明
ジン鍋アートミュージアムは博物館の学芸員は、資格を持ったミゾさんと同年齢のヨコネット仲間の就任が決まっていたのですが、開館して間もなくのとき亡くなった。それで今はミゾさんの後輩が務めております。館長に次いで動いているのは専属アートディレクター、ハンドルネームはコン太の父さんです。後で作品を紹介します。
鍋博物館ある鍋でもっとも多いのは、いまさっきいったジンギス印ですが、その外箱とか取扱説明書に書いたあるレシピをミゾさんは「ジンギス印鍋たれレシ
ピ」と呼び、その味見レポートをフェイスブックの鍋博物館に書いているので資料その23にしました。「ジンギス印鍋たれレシピ」の最も変わっている点は、タレだけで肉は何人分何匁と書いていないことです。
資料その23(1)はタレに使う昆布だしの汁などを揃えたところ、同(2)は出来たタレを入れたペットボトルと味比較用のベル印タレと肉、野菜です。ミゾさんのトッピングとは、ほんのちょっぴり入れるという意味です。
資料その23
[たれの作り方]
コンブの出汁 一合、酢五勺、醤油五勺、ウスターソース五勺、
レモン・柚子・ネーブル・橙等のしぼり汁一個分、
塩 ティースプーン二杯、砂糖 同じく三杯、味の素少々
(右は十五人分)
薬味はネーブル、レモン、柚子、橙等の表皮、
パセリ、ネギと三色位をミジン切とし、黄、青、白と色どり
よく盛合せ、他に胡椒、ニンニク、オロシ大根等お好みに
応じ、右の調味料に加えて戴きます。
(ポン酢、生姜醤油にても可)
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1.「ジンギス印鍋たれレシピ」---------------
と呼ぶことにします。
私が用意した原材料。
・・・・・・・・・・
コンブ出汁
ミツカン穀物酢
キッコーマン醤油
ブルドックウスターソース
BIOCA有機レモン果汁ストレート100%
COOPみりん
赤穂の塩
ホクレン上白糖
SB七味とうがらし
ハウステーブル胡椒
・・・・・・・・・・・・
レモン果汁と七味と胡椒以外のものを指示量混ぜて
サッと火にかけて冷ましました。
冷めてからレモン果汁・七味・胡椒を入れて
ペットボトルへ移しました。
タレだけを小皿にとって味見すると、酸味が強い感じ。
後味はウスターソースが鼻腔に残る。
薬味に
刻みネギ、SBチューブ入り生しょうが、同ニンニクを用意。
比較用に、ベル食品オレンジ瓶ジンギスカンのたれ。
2.食材---------------------------------
生ラムジンギスカン用(ニュージーランド)
もやし
玉ねぎ
ピーマン
しめじ茸
3.鍋と熱源-----------------------------------
パナソニックIHコンロと付属の鉄合金鋳物グリル鍋(テフロン加工、深溝あり)
※「炭火+穴あき鋳鉄鍋」ではありませんが、焼き面の温度は十分です。
余分な脂は溝に落ちるので、肉に付かず美味しく食べることができます。
(1)
(2)
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★実食レポート★
「ジンギス印鍋たれレシピ」のたれを次のように
方法を変えて、食べました。
a.そのままストレート
b.刻みネギをトッピング
c.チューブ入り生姜とニンニクをトッピング
a.そのままストレート
焼いた肉からの脂で酸味は中和されて、酸っぱくはない。
ウスターソースの味が勝っている感じ。
さっぱりしていて、美味しく食べられる。
b.刻みネギをトッピング
aとさして変化なし。
c.チューブ入り生姜とニンニクをトッピング
少しだけコクが増す。
ストレートよりはいつもの市販のたれで「慣れたような」味。
食べ飽きしないさっぱり感が特徴である。
焼き野菜も野菜本来の味が楽しめる。
羊肉や野菜に対して出しゃばらない感じ。
比較のために、ベル食品ジンたれも使ってみた。
香味野菜と香辛料が一口目に「ガツン」と来る感じである。
味も濃い(塩分強め)。
工場で加熱してから瓶詰めされているので、香りは弱い。
「c.チューブ入り生姜とニンニクをトッピング」
これで食べて続けたが、羊肉の肉汁と脂で味が馴染んできて、ウスターソース味も緩和され、食べやすくなっていった。
食後の喉と口中に残る味と香りもさっぱりしている。
好き嫌いはあるだろうが、市販のタレより、さっぱり感がいいかも。
私はね、一戸伊勢子から山田喜平へと続く松葉で燻しながら焼く実験は一度はやっておきたいと思いつつも、かつて某団地何号館と称していた12階建てマン
ションに永年住んでいるため、できずにきました。ベランダで何かを焼いて煙を出したら非常識と、上下左右の方々に非難されること間違いないからねえ。その
点、万字は自然がいっぱい、絶好の実験環境です。
それで平成30年7月の開館日の持ち寄りジンパに私は先約のある行事のため参加できないが、資料その24にした両レシピの松葉燻しを試すようミゾさんに頼んだのです。
資料その24
2 羊肉の網焼
材料 羊肉百匁、味淋一勺、塩小匙一、醤油一勺七色蕃椒少々。
方法 羊肉を一分位の厚さに切り、味淋、醤油の中に約十分間浸し、
後ち蕃椒粉と塩を撒布して十分間をき金網のよく焼けた上にて両面を
焼く。
注意 之れを焼く際に松葉か、又松笠など火の間に置き、多少此の煙
の出る處にて焼けば一層風味を増す、併し斯かる事は各自の嗜好故如
何様になすもよし。
此の料理には肉の薄い部分を利用すればよい、決してロースなどを用
ふる必要はない。
複雑なる香味を好まるゝ方には「セルリー」を細く切つて肉に浸し置
く時に交ぜて 入れるもよし。
(一戸伊勢子のは「裁縫雑誌」22巻第12月号79ページ、大正11年12月)
○鍋羊肉又は成吉思汗料理(五人分)
材料 羊肉(肩肉又は腿肉)三百匁、醤油一合、酒三勺、砂糖十匁、
林檎汁一個分、蜜柑汁一個分、七色唐辛子少量、味の素、生姜、
生葱、パセリ、胡麻油少量。
方法 羊肉は一分位の厚さに切つて置き、生姜は搾りと生葱、パセリ
は微塵切にし醤油、酒、砂糖、七色唐辛子味の素をと合せて汁を造り
使用直前に之に果汁をも入れ其の中に羊肉を約二、三十分浸して一方
七輪にかけた特製鍋又は金網に焦げつかぬやう胡麻油を塗つて肉の両
面を焼き尚ほ新しい漬け汁をつけ乍ら食べる。
注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼
くと一層風味がよい。
(山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」8版361ページ、昭和16年6月発行)
それでね、ミゾさんはまず一戸レシピを試した。松葉燻しをやる前の予備実験ですね。材料は生ラム肉100g、キッコーマン醤油20ml、COOP本みり
ん20ml、赤穂の塩少々、SB七味唐辛子少々。資料その25(1)はその醤油とみりんの調合液。同(2)はレシピ通り羊肉を10分間漬け込んだとろで
す。次いで塩と七味唐辛子を振って10分間置き、試しですからIHヒーターで焼いてみたそうです。同(3)が焼いているところで、一戸レシピにはありませ
んが、少し野菜も焼いてみたが、タレには合わなかったそうです。
これで一戸レシピは@醤油の焦げる良い匂いがするが、焦げ付きやすいAかなりしょっぱいので塩振りは必要なし、七味唐辛子もしょっぱさにかき消されるB
どうもジンギスカンとは違う食べ物で、酒の肴としても数切れ食べれば十分だろうC肉がいいので、まずくはないが、たくさんは食べられないDよって持ち寄り
ジンパで試すには及ばない―とわかった。
資料その25
(1)
(2)
(3)
ミゾさんは私に「一戸さんがレシピを作ったころ、硬くてにおいも強い羊肉しか買えず、しょっぱくしないと食べられなかったのかも知れません。」と聞かせ
てれました。だからこそ、一戸伊勢子は昔から伝わる魚を杉板に貼り付けて焼いたり、松葉と一緒に炮烙に入れて蒸し焼きにする料理法の応用として、松葉や松
笠で燻すようにしたのですね。
はい、いまはだれもやらなくなったその松葉燻しの本番、持ち寄りジンパの公式報告が資料その26です。写真はフェイスブック向けを意識して撮影したもので、いちいち説明しなくてもわかりますね。
資料その26
7月開館日。
■7月21日(土)。
250枚突破&「昔風・付けたれレシピ」再現実習、持ち寄りジンパ。
館長を入れて12名でジンパやりました。一般参加8名、北海道新聞取材チーム3人、館長。好天に恵まれ、楽しく、美味しくジンパできました。
今回の持ち寄り肉には、「冷凍ロールスライス」という条件を付けました。それを焼いて、「昔風・付けたれ」と様々なトッピングで食べるという実習です。
熱源と鍋は、七輪+炭火+スリット有りジン鍋。
【持ち寄り肉】
札幌・大金畜産「冷凍マトンロール」
札幌・丸久 伊藤商店「冷凍マトンロール」
ニュージーランド「ラム肩ロースの冷凍ロール」(ロール加工はニュージーランドで行い、輸入しているそうです)
スーパー小売の「ラム肉ロール」他3点。
《4月29日ジンパの在庫処分》
標茶町・のざき商店「味付けラム肉」
長沼町・かねひろ「味付けマトン」
江別市・とんでんファーム「みそ味ラムジンギスカン」
【付け合わせ野菜】
玉ねぎ、もやし、ピーマン、なす、シメジ茸、ニンジン、キャベツ。
【付けたれ】
昔風・ジンギス印鍋たれ
ベル・オレンジラベルじんぎすかんたれ
ソラチ・ジンギスカンたれ
参考持ち寄り……旭ポン酢
【トッピング】(用意したものは以下の通りですが、全て使ったわけではありません)
一味唐辛子
七味トウガラシ
カレーパウダー
濃縮還元レモン果汁
ゴマ油
生にんにくおろし
生しょうがおろし
辛み大根おろし
りんごおろし
大葉(青紫蘇)きざみ
イタリアンパセリきざみ
【燻し香付け用松葉】
カラマツ若葉
赤エゾマツ若葉
トドマツ若葉
(注=真ん中で立っている薄赤いシャツの男性が溝口館長)
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実習内容が多岐にわたるため、手短なレポートは難しいのですが、12人中、10人が北海道生まれ・北海道育ち、Sさんご夫婦の夫が宮城県生まれで社会人になってから札幌暮らし、妻は山形県生まれで社会人になってから北海道暮らし。
12人中、明らかな「味付け」派は3人。残り9人は「焼いてから付けたれ」派でした。長沼町生まれ・育ちのTさんは「半端ない」味付け派でした。
昔風付けたれからスタートしました。
先ずはストレートで味わってもらい、次にいろいろとトッピングして、味を比べました。ストレートは、酸味は強めだがさっぱりして食べやすいとの大方の評価でした。
トッピングの「辛み大根おろし」は、皆さんに好評でした。
自家菜園で採ってきてくれたKさん、ありがとうございました。Kさん持ち寄りの大葉きざみもいいアクセントになりました。
しょうが、ニンニクも皆さんが使いました。
今回、山ワサビとリンゴの出番はありませんでした。
粉末香辛料とゴマ油、レモン果汁も出番なし。
たれは、「やっぱり、ベルが一番お気に入り」ということで、ベルたれに変更した人が2人。ソラチは出番なし。
ほとんどの人が「昔風たれ」にトッピングを加えて、食べ続けました。
冷凍ロールスライスや生ラム・生マトンを「焼いて付けたれ」をする方法ならではのトッピングジンギスカンです。
味付けジンギスカンを何種類も食べ比べるよりも、美味しくて、飽きがきません。
さて、本日のスペシャル実習………
【燻し香付け用松葉】………大正・昭和初期のレシピにはよく書かれています。
カラマツ若葉
赤エゾマツ若葉
トドマツ若葉
館長の私も参加者全員が、初体験。
当館の尽波顧問からのたってのリクエスト、皆さん、煙りの匂いや肉に移った燻し香を真剣に味わいました。
炭火の中に、小枝を折って、投げ入れると、勢いよく煙が出ます。
やった人でないと、分かりません。とても、文字での説明は難しい。
3種類の松葉、それぞれに特徴がありました。特に、最後にやったトドマツはパチパチと爆ぜるように燃えて、強い香りが出ました。
屋外で七輪・炭火でやる時、付けたれでやる時は、この松葉燻しは、「有り」だと思いました。
最後に、先に帰った新聞社チームを除いて8人で、本日のジンパ成功を祝って、集合写真を取りました。
戦後になって、松葉燻しのジンギスカンを食べたのは、我々が最初かもしれません。
参加の方は、感想をいただけると幸いです。
「熊出没注意」のTシャツは、写真のように掲げました。
明け方と昼間にも、近所の住民が爆竹やロケット花火を鳴らして、警戒していました。
松葉燻しを要請した私としては「文字での説明は難しい。」としても、参加した方々の感想もぜひ知りたい。資料その27は後日、ミゾさん宛てに送られてき
た5人の感想とミゾさんの総括です。いまの星型鍋では、想像通り肉と松葉の煙がほとんど接触しないので、増すはずの「風味」は増さず、松葉の煙に巻かれる
だけだったんですね。ああ、それから資料その26のジンパの写真はBさん、クマ警戒シャツは館長提供、これを着たらクマは鏡かなとかえって寄って来そうだね。
でも、今世紀初と思われる燻し実験の結果が芳しくなかったにせよ、簡単に諦めませよ。金網で焼いたらどうなのか、いずれ私も加わって試してみます。美味求真と燻し実験をしてみたレポート、いいですねえ。内容なりに私は評価しますよ。
資料その27
(1)Aさん
トドメの「トド松」は油脂分が強く炭火に入れた瞬間,パチパチと
音を出しながら白煙.香りも強くハンダ付けの松脂を想出しました.
しかし,結構なクセも,癖になりそうでした.
(2)Bさん
松の葉テイストですが、屋外もあってかよくわからなかったです、
トドマツの花火音が印象的で、何処かで嗅いだことある匂いは、
Aさんの言うように、ハンダ付けの時だと思い出しました。
(3)Cさん
カラマツ若葉が1番手
たき火的な香りがします。
赤エゾマツ若葉がその次
慣れてしまったのか、カラマツよりにおいがしなかったかんじです。
トドマツ若葉がとどめ
松脂のにおいが一番しました。
自分の印象では羊肉が臭いというのがピンとこないので、松の葉要らんだろう、と思うのですが、当時は臭みを消す方法としていろいろ工夫していたんですね。
(4)Dさん
さて,松葉のレポートです。
1 松葉を七輪に投入すると,煙がもうもうと出るのですが,現在のジン鍋の形状ではその煙が肉に薫着するということはありませんでした。
2 網焼きなら効果があるかもしれない・・・と思いついたところで閃きました。
これは,「薫香を炊き込める」というあのスモーキーフレーバーなのではないか。
私も一旦「羊肉の臭い消し」説だったのですが,1の結果からスモーキーフレーバー説を唱えたいと思います。
ジンギスカンを食べている最中,好奇心旺盛な者が「松葉の香りをつけてみたろ」てな調子で試した光景が浮かびます。鍋なら「松葉の香りをつけてみたろ」という気は起きなかったと思います。
3 ということで,結論ですが,これは網焼きでこそ生まれた「松葉薫香付け」ですから,今回のジン鍋ではその「薫香」効果,つまり松葉の煙の効果は判明せずということです。
(5)Eさん
>既に報告もありますが,今回は冷凍ラムロールスライスと,生肉で
>タレあと付けという
子供の頃から、生マトンで焼いてタレを付けて食べるのが習慣(我が家)
なので、たれの付いた肉を焼くとタレの焦げたような味がつくのが
気になり、やはりタレあと付の方が美味しいと思った。
>松の葉を火に加え> 燻煙を試す実験.
とても、燻製とは、ほど遠い強烈な香りと煙でした
強い香りが好きな方には、好まれるでしょうが
私は、やっぱり生の焼いた香りがいいです。
左から燻し焼きに使ったトドマツ、エゾアカマツ、カラマツの葉の見本。
(6)溝口館長
7月21日に使った「スリット」鍋では、おっしゃる通り、十分な煙が肉まで
上がって来ないと、私も思いました。3種類の松葉で、微妙な差の香りは付きましたが……。
戦前のジン鍋は、尽波さん命名するところの「満蒙川型ロストル鍋」なので、
ほぼ、網焼きと同程度に大量の煙が肉に上がってきていたはずです。
戦後の「星型深溝スリット鍋」は、スリットの合計面積は少ないので、
Dさんご推察の通りです。
戦後に書かれたジン鍋添付の「たれレシピ」や取説には、「松葉燻し」の記述はありません。
214枚の鍋データを検索して得られた7種類のレシピには、「松葉燻し」は載っていません。
鍋博物館のデータベースによると、鍋集めで私は7枚協力しているそうたが、縁は異なもの味なもの。その中にはまったく思いがけないつながりから頂いた鍋
が2枚あります。1枚はサロン印の二重式焼き肉鍋と呼ばれたものです。つまり昭和34年に発売された鍋という焼き面が2枚重ねで、上の鍋の焼き面にある脂
落としの隙間から流れ出た脂は、下の鍋でその隙間とぴったり合わせた溝で完全に受け、炭火の中へは落ちないようにした鍋です。博物館には大と中があり、そ
の片方は私がもらい受けて入った鍋なのです。
満洲の話になりますが、小学校の先生だった私のオヤジが奉天の高千穂小学校で教え、新京の東光小学校に転勤したら、また受け持つことになったという奇縁
の女子児童、いま静岡県におられるある女性の旦那さんが小樽勤務のとき、小樽で買ったという鍋です。その女性の妹さんと私がやはり東光小学校の同級生で、
年に1回、同期生の全国各地への小旅行を続けていたとき、たまたま私のジンバ学の話を聞かせたことから、姉さんが1枚持っているから話してあげるというこ
とで私がもらい受け、ここに納まったという経歴付きです。
北海道旅行のときは、私と某君と2人が幹事を務め、月寒でジンギスカン昼食という日程にした。ただその店は鉄板焼きスタイルで鍋は使わなかったのです
が、みんな新京時代に食べたことがなかったということで、満足してくれました。満洲育ちといっても、その土地によりけりで、私が引揚げ船に乗るまで海を見
たことがなかったように、ジンギスカンを知らずに育った人の方が多かったかも知れません。
もう1枚も広島、赤ヘルカープのいる方の広島にいる、やはり同期の女性からもらった鍋です。彼女が結婚して呉市に住んでいたとき買ったそうで、外箱と説
明書付きというのも珍しいのですが、その説明書に「第十一回名古屋金物見本市の贈答用金物コンクール」の賞状の写真があり、その名古屋市長の名前から調べ
ていき、昭和34年製造とわかった。
それだけでなく、ヤフーのオークションで似た鍋が出ていたので、それを買ってみたら、イースタンという同じ会社の製品で、説明書からヤクオフの方がほぼ同型ながら後輩とわかったのです。この2枚については鍋の形の変遷の講義で詳しく話したので、講義録を見なさい。
繰り返すけれど、ビッグデータというのはGAFAのようなところで蓄積されているデータだけでない。情報が少ないジン鍋の場合、250枚でも、ほかにな
いのだからビッグデータです。資料その25で「214枚の鍋データを検索して得られた7種類のレシピには、『松葉燻し』は載っていません。」と自信をもっ
ていえるのです。よりデータをビッグにするために、もし外箱だけ、説明書だけでも残っていたら研究材料として博物館に寄贈してほしいのです。
溝口館長は日経新聞に「近年では気密性が高まった道内の住宅でジンギスカンを
すると、独特の臭いが1〜2週間も残るなど主婦層に嫌がられるようにもなってきた。<略>『家ではもう使わないから』と鍋が集まるのは、さびしいことでも
ある。うまいジンギスカンをみんなでわいわい食べて、食文化を盛り上げていければいい。(6)」と書きましたが、北大でも、かつてのように構内のどこでもジンパはできなくなったようにね、普通の家でもやりにくくなった。北海道の家庭には必ず鍋が「ある」ではなく、既に「あった」と過去形で語られていると指摘する人もいるくらいだ。
ジン鍋アートミュージアム顧問として言わせてもらえば、ジンパ学は考古学の一分野ではない。考現学に近い学問であり、鍋博物館も自ずとそういう研究の場
を目指すことになります。当然鍋だけではなく、関連分野の情報も集め、蓄積していく。資料その28(1)の画像は、私がある方から頂いた本そのものをス
キャナーのガラス面に乗せて写したものです。右が北海道庁種羊場が昭和10年から発行を始めた「緬羊彙報」の創刊号、左が昭和23年から出した北海道緬羊
技術連盟編の「緬羊とその技術」の同じく創刊号です。こうした古い本も集めて行けば、わかることがあるはずです。
私があの世に往った途端、待ってましたとばかり捨てられないようにだ、この手の古雑誌類は鍋博物館へ移しておきます。研究が進むにつれて私は新聞のマイ
クロフィルム、図書館、文書館に保存されている古文書、書籍のありがたさがわかるようになりましたね。古い鍋と外箱の断捨離はやめてほしいのです。
同(2)は「緬羊とその技術」創刊号に載っているジンギスカンのレシピです。以前の講義でも話したことだが、鍋羊肉と書いてカオヤンローと読ませてい
る。陸軍糧秣本廠の外郭団体、糧友会が昭和2年に開いた羊肉料理講習会の際の名前そのままだ。野菜らしいのはセリとネギだけで、それも微塵切りにして漬け
汁に入れ、焼いて食べる野菜は何もない。皆さんが愛する北大生協のジンパセットでさえモヤシが入っているし、なんとかビール園ならトウキビやらカボチャな
んて固いものも出てきますよね。
同(3)は後に道立種羊場長になった吉田稔技師が、その創刊号に書いた論文から抜き出したものです。生肉を使うジンギスカンが広まり、道内の綿羊が激減
するなんて夢にも思っていなかったことが察せられる。つまりジンギスカン料理はこの後、昭和20年代以降にビッグバンみたいに大変化して普及したのです。
資料その28
(1)
(2)
成吉思汗鍋のこと
成吉思汗鍋は味では世界に誇る支那料理中の粋たるもので、本名
は鍋羊肉と謂ふ。野天に烈火を起して鐵格子を渡し、之で羊肉を
「ジリ/\」焼いて食べると言ふ。料理としては素氣ないが粗野剛
健で羊肉料理の秘訣である強火で短時間に料理すると言ふ原則に
當はまり、味は上々榮養価値は満々而も長く後口に餘韻を残す處
に魅惑がある。此の成吉思汗鍋は西暦一一四〇年代の中葉蒙古の
一大英雄成吉思汗が白馬に鞭ち大軍を叱咤し中央アジヤを席捲し
欧洲の中原を風靡した時、部下の将兵と共に行く先々で羊を屠り
盾を焼きき、その肉を焙り、高粱酒を傾けながら今日の勝を誇り、
明日の策を練つたことに由來して居り名も何時しか「ジンギスカ
ン鍋」と称へられるに至つた。
料理法
(一)材料 羊肉(肩、股肉)三百匁、醤油一合、リンゴ汁三勺、
蜜柑汁、生姜汁、芹、七味唐辛子、味の素、砂糖少々、胡麻油少
々、酒少々
(二)方法 羊肉はスキ焼切より稍厚目に切つておく、各種の搾り
汁に醤油一合、酒三勺の汁を作り混ぜ合せ、味の素少々に砂糖茶
匙一杯を入れ、七味唐辛子を少しふり味を調べる。芹や葱は微塵
切りとし前記汁と合せ、その中え羊肉を二、三十分漬けておく。
一方七輪え炭火を起し、火が落ち付ついたら成吉思汗鍋をかけて
肉が焦げつかぬやうに胡麻油等を塗つて、汁より取リ上げた羊肉
を鍋に載せて焼きながら食する。
註 肉を度々裏返して焼くと肉汁が火の中え落ちて味が悪くな
るから、肉は七分通り火が通つた處で裏返しさつとあぶる、此の
程度が一番美味しい。
(北海道緬羊技術連盟編「緬羊とその技術」創刊号26ページ、昭和23年8月、北海道緬羊技術連盟=原本、)
(3)
緬羊奨励の一考察
吉田稔
<略>又今後羊肉の利用については指導者飼育者共に関心を
持ち、農村に於ける肉加工の技術を普及し蛋白質の給源
として肉の長期貯藏や恰も沢庵を漬けるが如き氣安さで
ソーセーヂ等を作る様にしたいものである。今後農村は
より科学的に向ひ又指導者は更に合理的なる経営への援
助にあらゆる知能を動員すべきであらう。<略>
(4)
創刊に題して
山田喜平
<略>當場が今後本誌を通じ本道當業者と絶たざる聯絡をとり親睦を圖り、又緬羊飼育の技術的並経済的試験調査を発表し尚本邦内地諸縣及諸外國の緬羊事情を
も時々報導して當業者の利便を計らむとするものであるが、而も漸次内容を改めて將來は成るべく月刊誌にまで漕ぎつけ度い念願をもつて居る。就ては冀くは各
位に於かれても尊い御實験や近況を報告せられて本誌の発展に対し御援助を惜しまれないやう切望に堪へないのである。
(北海道庁種羊場編「緬羊彙報」創刊号2ページ、山田喜平「創刊に題して」より、昭和10年1月、北海道庁種羊場=原本、)
同(4)は初代の道庁種羊場長山田喜平さんが「緬羊彙報」の創刊挨拶というべき一文の末尾です。この中の當場をジン鍋博物館、當業者は鍋保存などジンギ
スカンに関心のある方々、緬羊飼育は鍋保存、月刊誌はFacebookの「ジン鍋アートミュージアム/ジン鍋博物館/ジンギスカン鍋博物館」と読み替えれ
ば、溝口館長の気持ちを伝えることになるだろうと考えて引用しました。
それから将来の計画として、いま使っている鍋のデータもできるだけ集めたい。サイズは後回しにしても写真だけでも残したいのです。なにしろ道産子は古い物はあっさり捨てちゃうからね。以下にその1例をアルバム仕立てで示した。所有者は札幌市手稲区に住む方です。
某氏宅で使用中の扇矢印鍋 |
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肉厚の脂落としの隙間なしの星型鍋で、直径25センチ。縁の凹凸の付け方、幅広な周環の雷紋の配置など初期のジンギス印を思わせる作りだ。 |
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取っ手はこのように定番の三つ輪ではなく、長方形で穴なし。周環に合わせて雷紋を刻んである。穴なしの方が鋳込むときに失敗が少ないのではないか。 |
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縁の裏面にメーカー名の扇矢がある。左から書いているから、戦後の製品は間違いない。 |
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英語圏に輸出するわけでもないのに、MADE IN JAPANと浮き彫りの字がある。
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鍋のサイズは中というからには、扇矢印の大と小も存在するかも知れない。 |
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中国・夏宮とあるカラー写真のついた外箱。中国料理とのつながりを示したつもりらしいが、MADE IN JAPANとあるからには中国製ではなく、国内鋳造だろう。ヒントとしてありがたい。 |
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外箱写真のクローズアップ。「中国・夏宮」で検索すると、北京のホテルのレストランが出てくる。丸い屋根の四阿という造りから紫禁城の後ろの景山公園内の富賢亭とみたい。 |
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扇矢印のはずなのに、外箱では扇印となっていまる。恐らく箱の印刷間違いと思われるが、廃棄して作り直すよりはと、目をつぶって使ったのではないか。 |
終わる前にもう一言。鋳物鍋と違ってアルミの使い捨て鍋は焦げ付きやすいのは皆ジンパで経験しているだろうが、それぞれの焼き面の温度の違いは知らない
よね。「ジンパ学/ジンギスカン学術研究の殿堂となる」次の1歩として、鍋博物館では資料その29にした非接触式遠赤外線放射温度計を備え付けた。測定し
たいモノに向けると零下30度から580度まで即座にデジタル表示すると聞けば、使い道はわかるね。
資料その29
焼いている肉から汁がじゅくじゅく出始める温度なんか家政学の研究にありそうだが、そっちはまだ調べていないので、うんぬんしないが、さし当たり鍋博物
館に於ける「鋳鉄製のスリット有り無しの比較、鉄、真鍮、アルミ、陶器、火成岩等の材質による温度の比較、電気式ジン鍋・ホットプレートの表面温度比較な
ど」の報告を期待して下さい。それを手伝ってレポートを書きたい人は溝口館長に相談しなさい。
ジンパという名前とやり方の発祥地である我が北大は、令和7年、2026年に創基150年を迎えます。そこで150年にちなんで「ジン鍋アートミュージ
アム名鍋150選」として5年後、北大総合博物館で選んだ150枚の展示会を開くことを思い付いた。ミゾさんもOBだから大賛成、これから北大当局にこの
企画を持ち込むが、面白そうでしょう。問題は私がそれまで保つかどうかだが、エイジシュートならぬエイジ腹筋80回で鍛えておるわけですよ。
わっはっは。
最後の資料その30は博物館開設の趣旨と令和3年の開館日、アートディレクターの最近のポスター2点です。
資料その30
(1)
●開設趣旨
北海道民の食文化として定着し、北海道遺産にも指定されているジンギスカンは言わば無形文化財である。この博物館では、有形資料としてのジンギスカン鍋
を蒐集し、その起源と変遷を実物展示により広く一般市民に啓発し、ジンギスカンの歴史や文化により一層の親しみを持ってもらうことを目的にする。さらに、
鍋の形状、紋様、デザイン、意匠などをアートとして捉え直し、食と学びとアートを融合する博物館を目指す。併せて、ジンギスカン関連資料・文献・ビデオ等
の展示も行い、ジンパ学/ジンギスカン学術研究の殿堂となれるよう高い志をもって運営にあたる。
(2)
4月29日(木)−30(金)−5月1日(土)
5月8日(土)−9日(日)
6月12日(土)−13日(日)
7月10日(土)−11日(日)
8月14日(土)−15日(日)
9月18日(土)−19日(日)
10月16日(土)-17日(日)
11月11日(木)開館記念日(シーズン最終日)
開館日変更の場合はその都度、facebookでお知らせします。
(3)
上のポスターは館長が棺桶にうんぬんと鍋紹介の記事が載せた雑誌が出てからだが、コン太の父さん氏が「100均でミニチュアの棺桶を見つけましたので、これを使ってちょっと遊んでみたいと思います。お楽しみに。(1)」とコメントしていた。どうするのかと見ていたら、こう遊んでくれたという作品です。ナニの正体は箸箱でしょうが、フォトコラージュというのかな、アートになってますよね。下は、ズバリだから説明せずに終わります。
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参考文献
上記(4)の出典は昭和33年5月23日公告の「実用新案公報 昭33-7745」、
(5)は平成29年5月20日北海道新聞夕刊1面=原本、
(6)は平成28年11月3日付日本経済新聞朝刊40ページ、同
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