酔われた秩父宮のタクトで陸大行進曲

 はい、始めます。きょうは昭和5年、1930年に満洲の公主嶺というところで開かれた秩父宮雍仁殿下の歓迎ジンパを取り上げます。陸軍糧秣本廠の外郭団体である糧友会は昭和2年から羊肉食の普及運動を始めたことは以前の講義で話しましたね。その運動を推進させる狙いからとみられるのですが、機関誌「糧友」の昭和4年12月号に作家の遅塚麗水が満洲を旅行してジンギスカンを食べた話を書いています。時事新報が里見クの「満支一見」を発表する2年前のことです。
 でも遅塚がジンギスカンを食べた思い出を書いたのは、この「糧友」か゜初めてじゃなかった。最初はね、その8カ月前の昭和5年4月、大阪屋号書店から出した「満鮮趣味の旅」でした。だから「満鮮趣味の旅」を読んだ糧秣本廠の偉い人か「糧友」編集部員がだ、羊肉の食べ方の知識を増やすのにもってこいの話だから「糧友」にもぜひ書いてほしいとね、遅塚に発注したことが考えられます。
 遅塚が板前なら、同じ材料で別の料理を作る腕の見せ所です。違いを際だたせるために、ですます調で書き、さらに鍋と焜炉の図解を付けたと考えられます。「糧友」の「成吉思汗料理」には遅塚自身が描いたらしい円盤型UFOを上下2つに分けたみたいな絵が付いているからです。いま配る資料で、それらを見てもらいましょう。はい、1部ずつ取って後ろへ回す。
 まず、遅塚の足取りです。昭和4年、遅塚は韓国を見て、アカシヤの花が散るころ大連に行き、友達の関東州長官、木下謙次郎に会います。木下は「美味求眞」を書いた食通でね、鎌倉由比ヶ浜での試食会の準備をした濱の家主人に対して、本物の気分を出すために七輪に松葉もくべて燻し焼きにするよう命じたのは木下だと、久保田万太郎の短編「じんぎすかん料理」にあります。遅塚は立派な長官官邸で昼飯をごちそうになるのですが、木下はここで「美味と嘆称するに足るのは豚肉だよ」といったけれど、あいにくそれがないのは遺憾と弁解して、和風料理を出した(1)そうです。
 遅塚は大連を出て奉天、いまの審陽などを回り、茂林廟の喇嘛寺の僧と話をして、砂漠で一夜を過してみたいと、横尾という日本人のガイドと一緒に通遼という奥地へいきます。
 里見クは「満支一見」にね、志賀直哉と鄭家屯まで行き砂漠の端を見たと書いてます。また志賀は鄭家屯の道端に凍った髑髏が転がっていたと日記に書いていますが、通遼はその鄭家屯よりもっと奥、西の砂漠寄りなんです。きょうは秩父宮殿下の公主嶺ジンパが主テーマであり、これらの位置関係のわかりやすい鉄道の路線図が満鉄の「鮮満支旅の栞」にあったので、資料その1にそれの一部を拝借しました。このころは右書きでね、京新ではなくて新京ですよ。
 新京から奉天への鉄道を見てください。新京の直ぐ左下に満鉄が農事試験場を設けた公主嶺があります。さらに下がると交差点みたいに四平街があり、そこで分かれて西に向かう鉄道を見ると、鄭家屯があり、下に向かう曲がり目が通遼となってますね。通遼は鉄道が通るまでは蒙古語で富める平野という意味のパインタラと呼ばれた土地(2)でした。

資料その1

    

   通遼から茂林廟まで6里、24キロぐらいあるので案内役の喇嘛僧と乗用車を頼んだので、その運転手と助手、遅塚と横尾合わせて5人がボロ車に乗って出発しました。途中で喇嘛僧が友達だという蒙古人のパオ(包)を訪ねたら一家は不在。でも勝手知ったる他人の家、中を見せてもらったりします。
 茂林廟を目指すのですが、砂嵐がひどくて車が砂に埋まってしまう。それで遅塚と横尾と喇嘛僧3人は歩いて通遼に引き返すことにした。ところが、この坊さんは足が速くて、待ってもらっては追いつくのがやっと。そのうちに喇嘛僧は見えなくなってしまう。かろうじて往き道で寄ったパオを見つけてお茶を飲ませてもらおうとしたら、幸いなことに包の主人は、横尾氏の顔見知りだった。
 「日本の東京から万里の山海を踰へてとおくこの蒙古に來た私の事を聞いて、私の為めに羊を屠つて晩餐を共にしやうと言つてくれた、蒙古人が、常に遠來の珍客に誇りがに饗まふ成吉思汗料理である、私は喜んで之を受けた。(3)」というのです。「誇りがに」とは、誇らしげにという意味ね。
 あれっ、蒙古にはジンギスカン料理はない、羊肉は煮て食べると聞いているぞ。その話はおかしいという人がいるかも知れませんが、蒙古は広い。このあたりの蒙古人は焼いて食べることもあったようです。遅塚が訪れてから5年後ですが、新京で発行されていた新京日日新聞に資料その2のような記事が載っています。

資料その2

茂林廟で行はれた
  成吉思汗祭
     事変後初めて行はれる

(通遼発)東西史家の膾炙する英雄は蒙古成吉思汗に指を屈
する事等しく首肯する處であらう今迄蒙古は廃残の余喘を
持するに過ぎなかつたが新興満洲国の独立と共に稍々生気
を覚えて居る憶へば成吉思汗の蹶起が奇怪の様に感ぜられ
る夫れでも蒙古人は大和民族と一派相通ずるの感を深くし
愛すべき民族ではある、内蒙第一の喇嘛寺茂林廟(通遼西
方六支里)にては例年陰暦極月二十三日大英雄の記念祭を
行ふ事になつて居るが事変當時崔興武軍の攻略掠奪に逢着
し廃墟の惨状なるも本年始めて之れが例祭を挙行、活佛阿
旺図巴丹臨場本堂集寧寺前広場に寒天を物ともせず集りた
る村民三百喇嘛五百余名天幕張祭場の中央祭壇には偲ばる
る成吉思汗の写真を懸げ蒙古一流の生贄を供へ香を焼き各
寺院は鐘を撞き終日終夜、鐘太鼓、読経、蒙古の乾燥した
る空気に時ならぬ音波を送り十里の外を驚かした、活佛は
一場の訓示を與へ、学校の再興、日本語の教授、患者の施
療を宜し一同蘇生の欣びをなして居る、終つて一同別席に
設けられたる成吉思汗の串焼肉に舌鼓をちし、又もや喇嘛
僧は各寺院に帰り念仏に入り茂林廟は時ならぬ殷盛を呈し


「亜細亜大観」のURL
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1265980
9コマ目

 記事に出てくる「成吉思汗の串焼肉」とは、羊肉の焼き肉という意味でしょう。牛肉や豚肉とは考えにくい。村民は喇嘛教を信ずるからには蒙古人なのでしょうが、それを食べたということは、蒙古は広くて、蒙古人は羊肉を焼いては食べないと一概に言い切れないという証拠です。国会図書館の近代デジタルライブラリーにある「亜細亜大観」という写真集にも、当時の満州国興安北省に住む蒙古民族の女性が串刺しにした羊肉を牛糞の焚き火で炙っている写真(4)がある。焼けたら小刀で切って食べるという説明が付いていますよ。その写真を見たい人は資料その2の下段にあるURLで見なさい。
 主人が遅塚の来訪を歓迎して、一緒にジンギスカンを食べることになった。資料その3は「満鮮趣味の旅」と「糧友」の違いを比較できるようそれぞれの焼く準備をするところから引用してあります。また「糧友」掲載の遅塚の絵をよく見ておいてください。上が隙間のある蓋、下が鉄鍋を組み合わせた形、鍋型UFOとでも命名しておくか。後でそっくりなのを、また見せます。

資料その3

 満鮮趣味の旅

 包の主人は、大きな鐵の圓盤を、両手に抱へて沙の上に舁き卸した、赤錆ぴのした分厚の鐵器は、龍井で見た加藤肥州の釜と趣を同したものであつた、火を盛るの器である、子供等は籃に盛つた牛糞を割つて鐵盤の中に積み重ね、火を点ずると、やがて烈々と燃えさかつた、牛糞を丸めて壁に打ちつけて日に乾したもので、厚焼煎餅のやうなものか燃料であるのである、脂肪分があると見えて、紅い炎を迸しらして熾んに燃える、更にその盤上に、平らな鐵條を組み合せた圓形の網を載せた、やがてそれが灼熱して紅くなつた。
 主人も、私も、横尾君も、子供達も、細君も、五郎八茶碗と箸とを持つてその周囲に團欒した、大きな鉢のうちには、蟹の油、鰕の油、胡麻油、野芹と韮と、唐辛とを混ぜた汁に浸して、羊の肉は盛られてあつた、火の加減を視てゐた主人は、その肉の一塊を取つて鐵網の上に打ちつけた、香はしい匂を漲らして肉は炙られた、私達も、手に/\その肉塊を取つて鐵網の上に打ちつけた、灸られた肉を取つて、黄いろい岩塩をつけてこれを食べるのである、何んと豪快なる食事の作法ではないか、五郎八茶碗には、高梁の粥が盛られた、小さな茶碗にはこれも高梁の酒が注がれた、私は拳のごとき灸肉塊を啖ふて高梁酒を飲んだ、一代の梟雄成吉思汗が、沙場に夜営した時に、毎に好んで将士と共に灸肉を肴に酒盛をしたのであるといふ、私は痛快に飲み、痛快に食らつた、遼河の上流、白草原頭、満天の風露、秋のごとき静夜の中に催されたこの原始的豪快な酒盛は、世を終るまで忘れることの出来ない思出である。


 糧友

 主人は子弟にいひつけて、大きな鐵盤を持たせて沙の上に舁き据えました。直径三尺ばかりの、皿のやうなものであります。鐵盤の上に燃料は盛られました、この辺の燃料は、柴でも炭でもありません、牛の糞を丸めて石に打もつけて天日で乾し固めた大きな厚焼煎餅のやうな物であります、煎餅形の牛糞をヘシ折つて盛り上けて火をつけると、丁度菊の花のやうな美しい焔をほとばしらせて烈々と燃え上ります、所謂糞火であります。燃え上つたその上に、今度は平らたい鐵條を縦に並べた半圓型の蓋を載せます、鐵條の蓋は灼熱して眞赤になりました。
 やがて主人も私も、その子弟も火を囲んで團欒しました。大碗には高粱の粥が盛られ、小さな茶碗には高粱酒が濺がれました、主人は先づ箸を執つて、傍にある大きな鉢に盛られた羊肉の一塊を取つて、鐵條の蓋の上に投げつけました、私達も、主人のする通りに肉塊を投げつけました、香ばしい匂を漲らして肉は炙られました、生炙でもいけず、炙すぎてもいけず、丁度好い加減のところを狙つて頬張ります、頬の零ちる旨さであります、歯牙香ばしといふべき美味でありました、飽まで肉を食ひ、飽まで粥をすゝり、飽まで酒を飲みました。
 沙漠の一夕、まことに豪快な野宴でありました。四囲の風物が荒涼幽寥であり、そしてその食餞が、原始的であつたことが、殊に興趣を深くしたのである とはいへ、蒙古旅中のこの一夕の會歓は忘れがたい思ひ出であります。
 この料理の羊肉は先づ前日に屠つた羊の肉を好い程に切つて、杢蔵蟹や河鰕の油の中へ、田芹や、薑や、韮や葱をきりまぜたものへ肉を漬けて置くのであるといふことであります。その油には、永く漬けて置くだけ肉の美味を増すさうであります、肉を漬けるその油を、什麼して拵へるかといふことは、惜しい事には聞き漏らしました。

    

     遅塚が「成吉思汗料理」に付けた鍋と焜炉の絵


 遅塚の説明からすると、羊肉はカニ、エビの油などの中に前日から漬けておくとしても、甘いのかしょっぱいのか味がわかりにくい。「満鮮趣味の旅」では黄色い岩塩で味付けたとあるけど「糧友」では、それを書いていない。油に薄い塩味が付いていたのかも知れません。牛糞の火で鐵の焼き面が眞赤に焼ける様子から火山の噴火を連想したのか、遅塚は糞の火と書いて糞火という単語を作り「糞火で紅茶を沸かす」とか、詩で「糞火に羊肉を熾き」などと使っています。そのうち私も使わせてもらいますかね。
 遅塚の挿絵ですが、私が焼き面と呼ぶ、いわゆる鍋の方は「鉄条の蓋」、糞火を燃やす焜炉は「鉄製盤」と説明し「鉄製盤」は「径三尺」と書き、盤に蓋を乗せると、こうなると点線で示しているのがわかりますね。
 蓋は放射状に鉄棒が並んでいるように描いてますが、もしそうだとすると、中心部の工作は非常に難しくなり、上手な鍛冶屋でないと作れないのではないかなあ。焜炉の方は、単なる鉄鍋そのもので、ロストルみたいな隙間が描かれていないことに留意して下さい。乾燥した羊糞、牛糞を燃やすならこんな焜炉で充分なのですね。
 遅塚は、通遼での砂漠ジンパの後、ロシア人の沢山いる哈爾浜に行き、コーカサス料理でまた羊肉を味わうのです。「高科査斯の羊肉料理」という章に「羊肉の大塊を、団子のやうに幾個も真鍮の串に貫いて炙つたものである。山と盛られた羊肉は、陽炎のやうな、淡い白気を揚げながら、香はしい匂を振り撒いてゐる、私は食指の動くを覚えた、その肉味の香膩にしてしかも脆美なる、私は旨しと貪り食つた。(5)」と回顧しています。
  

参考文献
上記(1)の出典は遅塚麗水著「満鮮趣味の旅」117ージ、昭和5年4月、大阪屋号書店=館内限定近デジ本、 (3)は同200ページ、同、同、 (5)は同235ページ、同、同、 資料その1は(南満洲鉄道鮮満支案内所編「鮮満支旅の栞」ページ番号なし、「鮮満北支交通図」より、昭和14年5月、南満洲鉄道東京支社=近デジ本、 (2)は同122ページ、同、 資料その2は昭和9年2月13日付新京日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (4)は亜細亜写真大観社編「亜細亜大観」13輯3号7丁、推定昭和10〜17年発行、亜細亜写真大観社=原本、 資料その3の「満鮮趣味の旅」201ページ、昭和5年4月、大阪屋号書店=館内限定近デジ本、 「糧友」は糧友会編「糧友」4巻12号50ページ、遅塚麗水「成吉思汗料理」より、昭和4年12月、糧友会=原本


 それから遅塚は公主嶺の満鉄農事試験場を訪れますが、ジンギスカンも食べず、半日でいただけで新京へ旅立ちます。資料その4は、その見聞を書いた「公主嶺の半日」の要点です。蒙古種の緬羊の品種改良の狙いをわかりやすく説明しています。

資料その4

     公主嶺の半日

 公主嶺には満鉄の農事試験場がある。
 今から二百余年の昔、前朝清の太宗の王女、蒙古科爾沁部の達爾罕王に尚し、帝都から蒙古へ行く途すがら、病を獲てこの地に薨去した、乃ちこゝに葬つて陵と作す、公主嶺の名は之に基くとあるもの是れである。<略>
 公主嶺の農事試験場は、満洲の主要産物である大豆、小麦、高粱、大麦、燕麦、黍、稗、玉蜀黍、菜豆、緑豆、豌豆、豇豆や、馬鈴薯、向日葵、胡麻、蓖麻、大麻、亜麻、煙草、をはじめ、緬羊、仔羊毛皮、豚、馬を栽培、飼養して、改良種を無償で頒布して大いに生産に資してゐる、<略>
 蒙古種の緬羊は、善く風土に慣れて体躯は頗る頑健であるが、從來肉と毛とを目的とし、毛質に就いては関心を欠いてゐたので、品質不良、量も亦た少なかつたのであるが、毛皮の利用が次第に毛織に進みつゝある今日にありては、粗毛の多くして緬毛の少ない蒙古種は、製絲製布に適しない、そこで在來の種羊にメリノー種を配して、改良し得た緬羊は、毛質は全くメリノー種に同じく、毛量こそ稍や劣れども、猶且つ従来のものに比すれぱ三倍に達する成績を得、米国から優良なメリノー種を購入して、公主嶺の外に林西縣の黒山屯にも種羊場を設けてその改良種を無償で頒布してゐるといふ、満蒙にある羊は今ま凡そ二百万頭、これを尽く改良種と作し終るには尚ほ二十年を要する、成功の暁は東洋に於ける莫大の需要に対して、多大の貢献をなすであらうと思はれる。<略>
 青蕪のうちに、灰色の一群団が、右に左に游動き跳躍してゐるのが見えた。締視すれば緬羊群であつた、緬羊のうちに、カラクールといふものがある、帽子若くは外套の襟として、珍重するアストラカンがそれである、漆よりも黒い沢ある柔毛が渦紋を巻いてゐるこの皮は、實に力ラクールのその胎内より地上に堕つるや否や、屠りてこれを製鞣するのである、米国では、母羊から堕胎せしむるといふことである。
 私は、公主嶺の試験場に半日を過ごして後、長春から來た汽車を捉へて、奉天に向つた、車中の客に邦人が多かつた、夜食を食堂で摂つた、四もに聞ゆる郷音のうちに坐した私は故郷に帰つたやうな心地がした、一陶の麦酒、三皿の肉魚、私は微酔を帯ぴて臥榻に身を横へた。<略>

 遅塚と前後して満鉄に招かれて詩人北原白秋も公主嶺を訪れます。北原は昭和17年に「満洲地図」という詩集を出します。その中に「公主嶺」と題する詩があるので、ちょっと脱線ですが、資料その5(1)にしました。緬羊の前の個体の動作を真似る様子をよく観察した作品だと思います。ぽろん、ころんは、首につるしたりする鐘の音ではなく、座っていた羊が立とうとして踏ん張り、地面を強く踏む音の擬音的表現でしょう。
 北原はあとがきで「私は昭和の四年、今から溯つて十三年前に、満鉄の招聘を受けて渡満し、一ケ月に亘つて、北は満洲里、西は鄭家屯、東は新義州、南は関東州一円を巡歴した。その直後、十数編の童謡を作したのみで、荏苒今日に至つた。(6)」と、お詫びみたいなことを書いていますが、皆さんも知っている童謡の「まちぼうけ」「ペチカ」はこの満州視察で作られたものなんですよ。
 北原は「ぽろん、ころん」なんて、のんびり平和な情景をうたいましたが、実情は大違いでした。資料その5(2)のように、昭和3年、満洲を支配してた軍閥の張作霖が関東軍によって暗殺されて以来、匪賊や馬賊の襲撃に加えて排日運動は激しさを増し、在住日本人は安閑としておられなくなったのです。

資料その5

(1)  公主嶺

  ぽろん、ころんと音がする。
  羊が耳立てのびあがる。

  ぽろん、 ころんと音がする。
  うしろの羊ものびあがる。

  ぽろん、 ころんと音がする。
  あとから、あとから、のびあがる。

  ぽろん、 ころんと音がする。
  羊がさわさわのびあがる。

  だれもゐませぬ広野原、
  秋はお日和、うまごやし、

  ぽろん、 ころんと音がする。
  風の中から音がする。


(2)
 張作霖の死は、各方面に大きな影響を与えた。張作霖の後を継いだ長子の張学良は国民政府と意を通じて、東三省には一斉に青天白日旗が揚げられ対決姿勢をあらわにするとともに、六月に入ると国民政府も長城線以南の統一を形式的にも完成しつつあった。<略>
 ところで、昭和に入ると日本は世界恐慌と金解禁などが重なり、未曾有の経済不況に陥り、町には失業者が溢れ、農村は著しく疲弊していた。そしてその影響は満州経済にも及んでいた。代表的な国際商品であった大豆は暴落し、石炭収入も低下するなど、その輸送の請負に大きく依存していた満鉄の運賃収入もみるみる激減していった。
 さらに張作霖爆死事件以来、中国東北民衆の排日運動はますます激しくなり、張学良も満鉄との競争線の敷設や奉天兵工廠の増設など、日本への対決姿勢を強化していった。<略>

  

参考文献
上記の資料その4の出典は遅塚麗水著「満鮮趣味の旅」258ページ、昭和5年4月、大阪屋号書店=館内限定近デジ本、 (6)は北原白秋著「満洲地図」259ページ、昭和17年9月、フタバ書院成光館=近デジ本、 資料その5(1)は同112ページ、同、 同(2)は幕内満雄著「満州国警察外史」12ページ、平成8年4月、三一書房=原本


 秩父宮殿下が昭和5年に陸軍大学生として、いうなれば修学旅行で満洲を回り、公主嶺でジンギスカンを召し上がったことは、内地の新聞には載っていませんが、満洲の新聞では大きく取り上げられ、公主嶺のジンギスカンが知られるようになったといえます。公主嶺の日本人はそれを誇りにしたし、子供たちもそれを後々まで覚えていました。
 公主嶺小学校同窓会が戦後の昭和62年に「満洲 公主嶺」という公主嶺小学校80周年記念誌を出版しました。「過ぎし四○年の記録」という副題が示すように、戦前の公主嶺の思い出などがたくさん載っており、その1つに秩父宮が公主嶺見学に来られたときの様子があります。
 小松用太氏は「陸軍大学在学中の実地戦術研究のため來公されたと聞いていました。小学校西側の道路でお出迎えしました。歩兵大尉の肩章をつけて馬に乗ってお通りになりました。ご滞在中の昼飯は公主嶺名物のジンギスカン鍋を差し上げたところ、大変なお喜びだったとのことでした。(7)」と語っています。
 陸軍大学の学生とはいえ並みの学生ではない。まだ皇太子殿下、いまの天皇陛下がお生まれなる前であり、秩父宮様は直宮というのですが、そのとき皇位継承の順序一位にあったお方です。そういう超VIPが治安の悪い満洲へ修学旅行においでになるとなれば、その警備には万全を期さなければならない。
 角田房子の「いっさい夢にござ候 ―本間雅晴中将伝―」によると「本間と教官・菰田康一中佐はその前年に渡満して、この旅行の計画日程を立案した。(8)」というので、昭和4年の満洲日報と大連新聞を見ていったら、大連でインタビューした記事がありました。でも公主嶺はもちろん、ハルピンまで足を伸ばした筈なんですが、御附武官が下見にきたという記事は見付かりませんでしたね。大連新聞が1年後の旅行計画を載せたのは、歓迎態勢を整える便宜を計ってのことと思いますが、資料その6にそれらの記事をまとめました。
 ところで本間雅晴という名前に記憶はありませんか。太平洋戦争でフィリピン攻撃軍を指揮した司令官でした。本間と敵対した司令官マッカーサーは「I shall return」と言い残して逃げ出した。ところが敗戦で立場が逆転、この占領作戦で捕虜にしたアメリカ兵などが移送中にたくさん死亡した責任を問われ、フィリピンで死刑に処せられた陸軍中将、本間雅晴その人です。
 角田の「本間雅晴中将伝」によれば、オックスフォード大に留学中の秩父宮が、大正天皇の病気お見舞いで帰国するけど、またイギリスに戻って勉強を続けるという前提で、イギリスに精通した教養ある人物として参謀本部第二部欧米班長だった本間が適任と御附武官に選ばれた(9)そうです。
 間もなく大正は終わり昭和となるのですが、陸軍中尉秩父宮の再度留学の願いは叶えられず、東京・麻布に駐屯していた歩兵第3聯隊に配属となります。そうなると、御附武官は英国通の本間でなくてもいいはずなんですが、本間はそのままスポーツ好きでやんちゃといわれた秩父宮のお相手役を続けていたのです。

資料その6

  【満洲日報】

(1)明春、秩父宮殿下
    満鮮地方を御見学
     陸大生と御同行、本間御附武官
      下検分に東京出発

【東京十六日発電】陸軍大学二学年の学生は明年五月満鮮地方
見学に赴くが、目下同校御在学の秩父宮殿下も一行と御同行
あらせられる筈で、本間御附武官は下検分のため十五日夜東京
駅を出発鮮満に向つた


(2)秩父宮殿下
    御來満の下検分
      けふ本間侍從武官と
       菰田陸大教授の來連

秩父宮殿下御附侍従武官本間雅晴
中佐及陸軍大学教官菰田康一中佐
は明年秩父宮殿下満洲御見学に就
いて其下検分旁々沿線視察の為十
九日入港のうらる丸にて來連した
が、本間中佐を船中に訪へば語る
 今度は奉天、ハルピン辺り迄廻
 つてみますが目下陸軍大学に御
 在学中の殿下も來年は二年に御
 成りですから学生として他の学
 生連と御一緒に八月頃満洲御見
 学に御出でになるかと思ひます
 が私が來ましたのは特にその下
 検分と云ふわけでもありません
 けれど旁々色々御話も出るかと
 思ひます(写真向つて左本間中
 佐と菰田中佐)


(3)御附武官金州
    南山視察

【金州特電二十二日発】秩父宮殿
下の御附武官たる本間雅晴陸軍中
佐は陸軍大学教官菰田康一中佐と
共に二十二日九時四十分着急行に
て金州に着き池田民政支署長事務
取扱の案内にて南山及び金州城内
を視察し同十一時二十六分発急行
列車にて奥地へ向つた


(4)『遼陽』
    御附武官來遼

秩父宮殿下御附武官本間中佐及び
菰田陸大教官は廿四日午前曹山付
近の戦蹟視察午後零時五十八分遼
陽駅着、軍隊側、見坊■地、長山
署長其他有志の出迎へを受け一先
づ遼塔ホテルに入り午後南門外方
面視察同夜一泊翌廿五日煙臺沙河
附近視察の為め北行


  【大連新聞】

(5)本間侍徒武官
    けふ來連
     明春五月秩父宮さま
      御來満打合の爲め

在満邦人がお待ち申す秩父宮殿下
には陸大御在学中明春五月同校戦
史旅行團の一員とならせられ御來
満遊ばさる事と決定したのでこれ
が打合せのため侍従武官本間稚晴
歩兵中佐と陸大教官菰田康一砲兵
中佐と同行し十九日入港のうらる
丸で來連した、侍従武官は船中謹
んで語る
殿下は大変に御壮健にわたらせ
られ、日々学務に御勉励遊ばさ
れてゐます畏いことですが満蒙
の開発、日支共栄共存の大勢に
は常に御心を止めさせられかつ
諸事情には御興深げに拝されま
すまた戦跡視察といふ陸大の旅
行に御加はりになるについては
地下に眠る護国の英霊を親しく
弔はれる深い御精神が拝されて
感激に堪へない次第であります
(写眞左本間侍従武官右菰田陸
大教官)

(6)上陸直ちに
    満鐵訪間
     あすは御警備
     其の他打合せ

秩父宮侍従武官本間中佐は上陸後
直に満鉄本社を訪問し種々打合す
る處があつたが、明二十日午後二
時から関東軍司令部に於て関東庁
満鉄等と御警備その他に関する打
合会をやり、沿線各地を詳細に視
察する筈であるが満鮮御旅行の予
定表は次の通りである打合視察の
結果多少の変化は免れないなほ殿
下は陸大旅行団として御行動仲は
一士官としての御資格で視察を終
へ宿舎に御帰りになれば殿下の御
資格にならせられるのである
  陸大旅行日程
△五月一日大連(大連宿営)<略>
△十一日鉄嶺附近の地形、公主嶺農
事試験場(公主嶺同)△十二日現地
戦術(同上同)△十三日同上(同上
同)△十四日同上(同上同)△十五
日長春、午後の汽車にて御出発本渓
湖へ(同上同)<略>

  

参考文献
上記(7)の出典は公主嶺小学校同窓会編「満洲 公主嶺」198ページ、昭和62年11月、公主嶺小学校同窓会=原本、 (8)と(9)は角田房子著「いっさい夢にござ候 ―本間雅晴中将伝―」76ページ、昭和47年10月、中央公論社=原本、 資料その6(1)は昭和4年9月17日付満洲日報朝刊2面=マイクロフィルム、 同(2)は昭和4年9月20日付同、同、 同(3)は昭和4年9月23日付同、同、 同(4)は昭和4年9月26日付同、同、 同(5)と同(6)は昭和4年9月20日付大連新聞夕刊1面=マイクロフィルム


 当然、本間たちは公主嶺に寄り、独立守備隊司令官として9月1日に着任したばかりの寺内寿一中将と会い、あれこれ相談したはずですよね。公主嶺には宮様のお泊めするにふさわしい旅館、ホテルがないから、司令官の官舎を整備して宿泊所にするとか、満鉄農事試験場の協力を求め、歓迎宴会ではジンギスカン料理を出すと決めたと思われます。
 それでね、秩父宮さまをお泊めするため、寺内さんちでは8月から家を明け渡したのですなあ。「これがため夫人と女中を一ケ月前より奉天に一戸借用せられて移され、官舎全部を宮様の為に開放せられた。官舎は浴場を改築し調度品や床の絨氈を新調する等一騒ぎをしたが、勿論所要経費は関東軍司令部より予備費で支弁せられたものの閣下も床の間の置物や軸等を態々東京の本邸より取り寄せられた。(10)」と當時の副官だった山田鉄二郎氏は書き残しています。
 大正4年5月に陸軍大学生だった北白川宮成久王殿下が戦史見学團の一員として満洲に来られたとき、大連では大連ヤマトホテルに泊まられた。そのときの記事を見ると「同ホテルは爲に内部の総塗替を為し殿下の御寝室其他は大消毒を行ひ猶ほ同ホテル員は健康診断を受けたり(11)」とありますから、寺内家のあっさり明け渡しは賢い過ごし方だったといえましょう。
 秩父宮は皇族扱いされて、別席に用意される特製の献立は好まなかったようで、普通の兵隊と同じものを召し上がられた。野砲兵第五聯隊附陸軍大学一年生のとき山口県内での演習中なんか「百姓屋へ御立寄りになり、その農家で使つて居る湯呑で、水を御召上りになり、後でそのことが分り、その一家や村民一同非常に感激したことがある。<略>(12)」そうです。
 そうはいっても天皇陛下イコール神様だった戦前のことだし、ましてや天皇陛下のすぐの弟に当たられるお方です。山田副官によれば「当時は臣下として殿下を御招待申し上げることは親補職以上でなければ出来ぬという内規であったが、閣下(寺内)は殿下を一学生として学生一同と共に一夕御招待することとなりこの準備を私に命ぜられたのである。(13)」というのです。
 親補職とはね、地理学者の山上万次郎は「大審院長・会計検査院長・行政裁判所長官ニシテ、武官ニ在リテハ、軍事参議官・参謀総長・師団長・東京衛戌総督・教育総監・海軍軍令部長・鎮守府司令長官・要港部司令官・艦隊司令長官トス。此ノ他、臨時ニ、人ニ従テ、特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フコトアリ、大審院長以下ヲ、親補職ト謂フ。(14)」と定義しています。
 早い話が、寺内が大将なら文句なしにご招待できたけど、1階級下の中将だし、ましてや独立守備隊司令官では親補職とはほど遠い地位だから、固いことをいえば秩父宮をお招きできない。でも、そこはほれ、見方を変えれば、陸軍中将が後輩の陸軍大学の学生たちに御馳走するのだからいいじゃん。それに珍しい料理だと宮様はお喜びなるはずだから大目に見てよと口説いたと思いますが、気の優しい本間は、特例として招待宴を認めたのでしょう。
 だから私は当然、公主嶺ならではの料理としてジンギスカンを出したとみていたのですがね、山田は「私は時期は悪いが他に趣向もないので守備隊の将校集会所の庭で『ジンギスカン』鍋を準備することとし、農事試験場に頼み肉用種の羊を予め特別飼料で育てて貰いちょうど春になり青草を喰うと羊は香りがわるくなるので之れを避ける様に頼んだ。(15)」と書いています。これじゃ身も蓋もない、いやジンパ学らしく鍋も蓋もないと言い直しておきますか。ふっふっふ。
 秩父宮殿下の伝記に当たる「雍仁親王実紀」を見ると、秩父宮の満鮮戦史旅行、つまり陸軍大学2年生の修学旅行の記録は資料その7のようになっており、昭和5年5月16日に公主嶺に着き2泊されたのに、何も記載されていません。この調子では、公主嶺見学とあったとしても、ジンギスカン鍋御賞味なんて記録されなかったでしょうね。

資料その7

五月
 一日 夕刻、皇太后行啓あり。
 四日 満鮮戦史旅行に御出発(随行、浅見武官・溝口雇員、先発本間武官・曾根田属)。
 五日 神戸港にて「うらる丸」御乗船。
 八日 大連御上陸、満鉄主催ラグビー(満鉄対奉天医大)御覧、旅順へ。
     菰田康一(陸大教官)――
    陸軍大学校で行う満州戦史旅行は、期間約一ケ月に亙り、日清・日
    露の二大戦役の戦場を実地に踏査し、吾々の先輩の激戦苦闘の跡を
    尋ねるので、陸軍大学校教課中の重要なものであり、また学生も非
    常に楽しみを以て期待しているところなので、その準備として昭和
    四年、当時の御附武官本間雅晴中佐と、現地の調査に満州に出張し、
    戦史旅行の指導計画を立案したのです。<略>
 十日 水師営・二〇三高地等にて、石原莞爾参謀「低地よりする旅順要塞
    の地形観察」板垣征四郎参謀「軍事上より見たる満蒙について」太
    田関東長官「関東庁施政一般について」などの三〇分講話あり。
 十一日 金州城・得利寺を経て湯嵩子へ(関東州外よりは寺内独立守備隊
     司令官随行)。
 十二日 鞍山製鉄所を経て遼陽へ。
 十三日 沙河より奉天へ、奉天医大運動場において郷軍・青訓・少年団を
     御親閲、東北辺防軍司令官張学良を御引見。
      菰田康一(陸大教官)――
     張学良に御会いになるということは、こちらとしては積極的に計
     画していたわけではなかったのであります。<略>
 十八日 長春。
 二十一日 安東。
 二十二日 新義州。
 二十三日 京城。
 二十四日 斎藤朝鮮総督の午餐会に毎臨席(朝鮮軍司令官南次郎、神田参
      謀ら)。
 二十五日 釜山。
 二十六日 下関御着、戦史旅行解散。
       菰田康一(陸大教官)――<略>
       福田寛邦(陸大同期生)――<略>
 二十七日 御帰京、御同列御参内、午後極東競技大会(陸上・庭球・排球)
      御覧、大宮御所御伺候。<略>

  

参考文献
上記(10)と(13)と(15)の出典は上浜快男編「元帥 寺内寿一」183ページ、山田鉄二郎「歩いた道六十年」より、昭和53年6月、芙蓉書房=原本、 (11)は大正4年5月5日付満洲新報朝刊2面、「殿下と旅順」=マイクロフィルム、 (12)は中桶武夫著「軍神杉本五郎中佐」181ページ、昭和15年3月、平凡社=館内限定近デジ本、 (14)は山上万次郎著「日本帝国政治地理 第一巻」306ページ、明治42年6月、大日本図書=近デジ本、 資料その7は秩父宮家編「雍仁親王実紀」431ページ、昭和47年10月、吉川弘文館=原本


 しかし、満洲で発行されていた新聞にすれば、秩父宮殿下が満洲においでになるということは大歓迎。絶好の皇室ネタだと取材に力を入れ、ご乗船になったところから宮様の動きを細かく伝えようと大きなスペースを割いています。秩父宮の動静は「雍仁親王実紀」に見るように無愛想、公主嶺でのことはノータッチなので、ジンパ学研究では、いきおい満洲の新聞記事を追うことにならざるを得ません。
 ところが、満洲にあった新聞社は皆、敗戦によって消滅してしまい、内地の購読者に送っていた紙面が少しでも保存されていればいい方で、名前しか残っていない新聞がほとんどです。たまたま満洲にあった図書館の紙面が敗戦後も無事保存されていて、それを中国でマイクロフィルムに仕立てて読めるようになった新聞があります。
 ジンパ学研究では、満洲日日などそうした新聞が最大の頼りなんです。でも、新聞社がないから、記事のデータベースの作り手がいない。だから、戦前の満洲の情勢を知りたければ、あるかどうかわからない情報を求めて、ひたすらマイクロフィルムを1ページずつ読んで捜すしかない。ジンギスカン料理始めましたなんて料理屋の広告があるかも知れないから、広告も目配りしなければなりません。
 中国料理研究者の田中静一氏は平凡社の「世界大百科事典」に「ジンギスカンなべともいい、中国料理の烤羊肉(バーベキュー)に、旧満州(中国東北部)に居住していた日本人がつけた名称。(16)」と書いています。断言していますといった方がいいかも知れない。私はフィルムを読むとき、それを裏付ける記事を集めることも念頭に置いて読むんです。このフィルム読みでね、私の老眼がうんと進んだので、そうした記事をいくつか見落としたかも知れません。
 昭和5年の新聞記事がなんの注釈もなしに、ジンギスカン料理と書いていることからみても、満洲では早くからカオヤンローをそう呼んでいたことが認められますがね、いつごろからかジンギスカン料理と呼んだのか「世界大百科事典」ではわからん。田中氏が中国の古い食文化の研究者だったそうですが、満洲や北京で発行された新聞や雑誌、マイクロフィルムもたくさん読んで、そういう結論に達したのかどうかだ。
 既に私は北京在住邦人命名説の立場を明らかにしているが、もし、満洲の方がもっと早くからジンギスカンと呼んでいたという証拠が見付かれば、私は北京発祥説を捨てて、田中氏の在満邦人命名説に従いますよ。これまでにジンギスカンの命名者捜しを真剣にやった研究者がいないと思うから、私がせっせと捜しているのです。もし、いたら、とっくに「成吉思汗料理概説」なんて本が出ているはずだ。ないですよね。
 繰り返しになるが、一瞬の緩みで、短いが重要な記事を見落としているかも知れん。皆さんが今後、なにかの機会に満洲の新聞フィルムを読むようなことがあって、これはジンバ学に関係あると思う記事があったら私にメールをください。調べて返事しますよ。とにかく地図にない山に登るようなもので、わかっていないから面白いんだわ。はっはっは。
 資料その8にある昔の新聞記事はまったく句読点がないので、ずるずるつながっていて読みにくいけれども、そのころの読者になったつもりで読んでください。

資料その8

(1)昨日正午
    門司御出港

 門司六日発電 秩父宮殿下には商船うらる丸にて今朝七時門司に入港々務部ランチにて下関に御上陸遊ばされ昔源平決戦の地を現代戦術上より御研究になり更に城山要塞に御登攀御研究あり正午御出港大連に向はせられた
 神戸五日発電 陸軍大学校学生の御資格にて御渡満の秩父宮殿下には五日正午出帆のうらる丸にて大連に向はせられた


(2)船上の秩父宮さま
    平民的な御態度に
     御同船の光榮に浴した人々感泣

御召船に於ける宮殿下は御一行の陸大生と何等変ることなく頗る平民的に亘らせられ陸大生に限り上甲板に御出入りを差許され航海第二日目の七日には陸大生小島中尉の日本海々戦、壇の浦戦史、同松谷中尉の朝鮮征伐に関する御前講話を聞し召された

 スポーツの宮様の
  デツキゴルフの鮮かさ
   六大学リーグ戦のラヂオに御興
    御學友の陸大生謹話

船中に於ける宮殿下には御召船が港内に徐々に進航するにつれ終始ブリツヂにたゝずませ給はひ岡本船長、北村パイロツトの御説明を御召されて居たが御一行中の御学友は船内に於ける殿下の動静について左の如く謹話した
 殿下の船室には特別室を当て吾々学生五十一名は全部二等室に陣取つて居ました第一日目の門司出帆後は風が強く海も可なり荒れましたが翌七日は頗る快晴でありました殿下は殊の外お船に強く航海中は側近者とゴルフや輪投げ等を遊ばされ船中の無聊を御慰めになりましたが流石にスポーツの宮様だけにゴルフは全く堂に入つたもので一同が恐懼したやうな訳でした七日の午後三時には中甲板にて殿下と御同船の光栄に浴した愛媛女子師範生徒百廿名と大阪女子薬学専門學校生徒五十四名が船中の御無聊をお慰め申上げる意味でダンス並に体操、薬学専門女生の校歌等を台覧に供した殿下には殊の外御満足の御様子にて畏くも女生徒一同に対しそれ/\゛御菓子の御下賜があり一同は無上の光栄に浴しました尚殿下には船中で絶えずラヂオを御召されましたが殊にスポーツには御熱心にて目下東京に開催されてゐる東都六大學の野球リーグ戦は非常な御興味のやうでありました吾々はなるべく殿下に対し不都合のない様注意して居ますが至極平民的な御態度につい馴れ馴れしくなり出過ぎ勝ちとなり後で種々考へて恐縮して居るやうな次第です


(3)殿下は船にも
    大変おつよい
     大任をはたしてほつとしました
      岡本うらる丸船長謹話

秩父宮殿下御乗船の光栄に浴したうらる丸船長岡本万助氏は午前八時三十分殿下を御見送り申上げた後不眠不休の緊張からほつと大任を果して安堵の心境となり船長室に身を横たへ殿下より拝領の銀製力ツプに包み切れぬ満悦の微笑を湛へてゐた、岡本船長を訪ふと両眼を喜びに輝やかせながら御航海中の殿下の御様子に就いて慎み深く語る
 殿下が御乗船になるまでは勝手が判らないため一番心配いたしました。殿下は御自分で船には弱いと仰せられてゐましたが午後一時門司出帆後八時間は海の蜒りが大きく満員の船客は半数以上船酔して仕舞つたが殿下には御平気の如く拝せられた、それでも御晩餐は食堂に御出で無く船室で御攝りになられた、恐懼に堪えなかつたのは殿下が頗る御質素に渡らせられたことで御用意のタオルを御用ひ無く態々御所持の日本手拭を御使用遊ばされ靴下の如き木綿製のものであつたと拝察いたしました、船中ではデツキゴルフに打興ぜさせられ非常に御上手で殿下の御聡明に渡らせられることは驚嘆に値するものでその御平民的な御態度には事毎に恐懼いたしました、その一例は私などにも貴方と御呼びになり私たちはつひ引摺り込まれてゴルフの御相手に夢中となつてしまひましたが私などは到底殿下の御相手ではありませんでした、大連に接近すると殿下には種々御下問あり之に対し御答へに苦しみました、で冷汗を流しながら自分の存じてゐることだけを例へばオイルタンクや埠頭設備などを謹んで御説明いたしました
と語り終つて『重任を無事に果し得て何よりの幸福を感じてゐます』と安堵の吐息をホツト洩らし感激にひたつてゐた、岡本船長は神戸出帆前夜住吉神社に参拝し斎戒沐浴したといふが同船長のほかに同船で重責を感じたのは高橋事務長と丹後司厨長でいづれも御下賜品を戴き感激の涙にむせんだが丹後司厨長は万一のことがあつてはと司厨部員を督励し細心の注意を払つて殿下の御食事を御調理した苦心を語つてゐた(写真は岡本船長)


(4)一般船客と
    御一緒に御食事
     女子師範、女薬等のダンス台覧
      高橋うらる丸事務長謹話

御召船の光栄に浴したうらる丸高橋事務長は船内に於ける殿下の御動静について謹んで語る
 宮殿下の御居間は本船が特に入念を凝してしつらえた特別船室を御当て申上げましたが六日は門司出帆後夕方から荒天となり余程時化ましたが七日は全くの好晴で殿下は終日デツキゴルフに興せられ愛媛女子師範大阪女子薬学専門学校生徒等のダンス体操校歌を台覧に供しました殿下の御食事は船内一等食堂にて恐れ多くも至極平民的に一般の一等船客と御一所に遊ばされましたテーブルは新庄商船専務、岡本船長御附武官本間中佐、陸大幹事牛島少将、菰田教官の五名と共に攝せられ夜間は多く御居間にて読書に御耽り遊ばされ大抵午後十時に御寝遊ばされて居たやうに拝見しました殊に殿下は東京御出発以来御愛玩の十六ミリ撮影機にて途中の風俗を御撮影になり出来上つたのを下関から既に宮家に列車便で御送附になり航海中も種々と移り行く風物を御撮影になつたやうです航海中も頗る御元気にて御無事御上陸の姿を拝することが出来たのでこの上の欣びは御座いません云々


(5)商船の光栄
    之に過ぎません
     新庄商船専務謹話

大阪商船専務新庄精一氏は神戸から態々乗船殿下を御送り申上げたが左の如く語る
 私は会社側を代表しまして宮殿下を御送り申上げて参りましたうらる丸には皇族殿下の御乗船は今回が初めてゞ本船は素より商船の光栄之れに過ぐるものはありません航海中も殿下には頗る御気先麗しく殊に船内でも至極平民的にてよほど御気軽に渡らせられ吾々にも御話かけになると云つた砕けた御態度は全く感銘の外ありませぬ云々

  

参考文献
上記(16)の出典は平凡社編「世界大百科事典」14巻250ページ、平成19年9月、平凡社=原本、 資料その8(1)は昭和5年5月7日付大連新聞朝刊2面=マイクロフイルム、) 同(2)は昭和5年5月9日付大連新聞夕刊2面=マイクロフイルム、 同(3)と(4)は同、同、 同(5)は昭和5年5月9日付同、同


 大連上陸の前日に大連での日程が掲載ていますが、ジンパ学としては大連よりも公主嶺ジンパが大事なので、資料その9程度の紹介にとどめ、5月8日奉天を出発されるまでの報道を省きます。でも、今風にいえば水面下では「<略>当時は前述の如き日満間排日の空気の旺盛な時であるので殿下一行の通過せらるる満鉄沿線の警備は、守備兵を全沿線の線路外側に配置して至厳な警戒を行った。<略>(17)」のでした。

資料その9

御待ち申し上げた
 秩父宮さま御來満
  明朝入港のうらる丸で
   殿下の御一行六十七名

秩父宮殿下には陸軍大学生の御資格を以て満洲戦跡御見学のため五日正午神戸出帆のうらる丸に御乗船御來連の御途に就かせられたが六日朝門司に御入港と共に港務部ランチにて下ノ関に御上陸壇ノ浦其他御見学正午門司を御出港遊ばされたが大連御着は明八日午前七時四十分港外御着の御予定である、尚ほ殿下の御一行は引率者牛島陸大幹事以下六十二名の外に秩父宮殿下御附武官本間雅晴中佐同淺見敏彦大尉と宮内官曽根田大治氏同溝口三郎氏とである

八時三十分御上陸

うらる丸御乗船の秩父宮殿下には御一行と共に六日正午門司を御出発遊ばされ八日午前七時四十分港外に御到着同八時半大連御上陸の御予定である、大連御到着に際しては関東長官、関東軍司令官、満鉄総裁は港外までランチで御迎へ奉り乗船御伺候申上げ御上陸の際は埠頭長御先導、鉄道部長御誘導申上げて埠頭貴賓室に御成り遊ばされ後満鉄総裁及総裁秘書役御誘導申上げ左の御予定にて各方面へ御成り遊ばされる

殿下八日の御日程<略>

 資料その10の記事によれば、當時の公主嶺には兵隊を含んでの人数でしょうが、日本人が2000人ぐらいがいたのですね。宮様に見苦しくないようにと急いで駅や道路を整備した。よくあることですなあ。私が学生のころ共産党の細胞諸君は天皇陛下を大箒、皇太子殿下を小箒と呼んでいたね。どちらかがご覧になるとかお通りになるところが整備されて奇麗になるからです。
 昭和29年の北海道国体に天皇陛下がおいでになったが、青函連絡船の洞爺丸のペンキを塗り直したので、帰省するとき違う船かと思った記憶がありますよ。それから平成天皇の妹さんの島津貴子さんがボート遊びに支笏湖においでになるというので、木の桟橋の釘が出っ張っていないか、おじさんが手でなでて確かめているのを見たと悪友がいっていましたが、ホラかも知れません。
 治安がよくないので、ご滞在中に匪賊襲撃で送電線を切られる事態も想定して、発電機を持ち込んだと思われます。送迎者心得は略しましたが、細かなことが書いてあります。

資料その10

(1)赤誠をこめて
    殿下の御到着を待つ
     二千の同胞光榮に感激して
      御歓迎準備をいそぐ


(公主嶺) 秩父宮様御着公の御日程発表さるゝや二千有余の当地同胞は誠心誠意無上の光栄に感激し一日千秋の思ひして御安着の日を御待ち申上げ衷心より御歓迎致し奉らむと思はれながら日夜殿下の御噂のみ申上げて居る関東庁より松田高等課長を特派し当局は御警護の警官をも増加し満鉄会社亦駅の塗り替へ修繕消毒構内及び御通過の御沿道に砂礫敷きを為し清掃に労め電灯会社に於ても臨時数名の応援を得て万一の故障に備ふる為め発電機一台の予備を運転騎隊と御台臨の光栄に浴する處悉く赤誠を披瀝して此の千歳一遇の御光栄に答へ奉らむと人心緊張各方面に遺漏なき様準備が急がれて居る

(2)瑞気全市に溢れ
    けふ宮殿下を迎奉る
     午後零時五十分公主嶺駅御着
       伺候は四時半より

【公主嶺】戦蹟御視察中の秩父宮殿下には今十六日午後零時五十分公主嶺駅に御到着遊ばされるが当日の御日程及び奉迎送者の心得は大体次の通りである
御日程
▲午後零時五十分公主嶺駅御着御召列車内に於て寺内独立守備隊司令官賜謁
▲駅ホームに於て列立者に賜謁、終つて駅長御先導、鉄道部長御誘にて午後一時駅御出発
▲憲兵分隊長御先導駐屯地司令官軍参謀長、警務局長、憲兵隊長等扈従し泰平通を農事試験場へ台臨
▲午後一時五十分農事試験場御出発、畜産道路を経て畜産科へ台臨
▲午後二時四十分畜産科御出発畜産道路農事試験場前霞町を経て午後三時五分将校集会所へ成らせらる
▲午後三時四十分独立守備隊第一大隊御見学
▲午後四時御仮泊所へ入らせらる
▲午後六時三十分将校集会所御招宴場へ成らせらる
▲午後七時三十五分御仮泊所へ入らせらる

奉迎送者心得<略>
奉迎送服装<略>
伺候者資格<略>
伺候の時刻<略>

  

参考文献
上記(17)の出典は上浜快男編「元帥 寺内寿一」183ページ、山田鉄二郎「歩いた道六十年」より、昭和53年6月、芙蓉書房=原本、 資料その(9)は昭和5年5月7日付大連新聞朝刊2面=マイクロフイルム 資料その10(1)は昭和5年5月16日付大連新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 同(2)は同満洲日報朝刊3面、同


 さて、肝腎のジンギスカンを召し上がられた日です。ここで注意してもらいたいのは、夕刊の存在です。このころの夕刊の紙面の枠の上に印刷してある日付は翌日の日付でなのです。本当に配達した日は題字の下など別に書かれています。
 ですから、資料その11の記事では17日夕刊となっていて、17日の宴会に臨まれ、7時半に御仮泊所に入られたとあるけれども、これは日程を知って書いたことで、実際には16日の昼ぐらいまで、そうですね、農事試験場へ向かわれたあたりで原稿を締め切ったと思われます。だから満洲日報の17日付朝刊にあるように、殿下が「御予定の時間も過ぎて、九時過ぎ」まで粘られたという事実と異なることになるわけです。
 山田副官の手記では「日本酒は満州でも酒屋があったが地酒ではまずいので閣下の命で灘の生一本の黒松白鷹という上等酒を一樽内地から送って貰うことにした。」とあるのですが、寺内司令官は飛んだ手違いで内地から灘の銘酒が届いたと、とぼけてますね。このあたりから、出席者はこの宴会をくだけた雰囲気にしようとする主催者の気持ちを感じ取ったのではないですかね。

資料その11

   【大連新聞】

(1)公主嶺御視察の
    秩父宮殿下
     けふ騎兵聯隊の勇壮なる
       障碍物競走を台覧

(三浦特派員公主嶺十六日発電)秩父宮殿下には予定の如く十六日午後一時五十分大連を去る四百六十余哩、北満境唯一の軍隊駐屯地公主嶺御着、在住民二千余名駅頭に御歓迎申上げ、殿下には騎馬にて農事試験場に成らせられ神田場長の御案内にて御視察、大農耕法等に関する御説明を聴取、畜産課では小松課長より畜産の状況に就いて御聴取、同三時五分将校集会所に成らせられ四時四十分守備隊御見学、司令官々舎に入らせられ同六時三十分より寺内司令官の御招宴に臨ませられた、御招宴は殿下を主賓として百五十名、成吉斯汗料理を屋外にて御摂りになり七時卅分御仮泊所司令官々舎に入れせられた、本十七日は午前八時廿八分騎兵練兵場に成らせられ敷島台高地より約三時間に亘り学生と共に菰田中佐の公主嶺一般地形の講話を聴こし召され午後は御休息の都合に依り騎兵廿聯隊の障碍物競走を台覧に供する予定あると


(2)南満の最前線たる
    公主嶺に御着
     獨立守備隊、農事試験場御視察
      成吉斯汗鍋に御興

(三浦特派員公主嶺十六日発電)満洲に於いて初めての雨の一夜を奉天ヤマトホテルにお明上になつた秩父宮殿下には今日午前八時官民多数の奉送裡に奉天駅御発公主嶺に向はせられた、夜来の雨も晴れ車窓に展け行く大平原には清々しい初夏の気が満ち渡つて居る
  車中の殿下 には鐵嶺、開原等の穀類集散地について説明を聴し召され万里の長柵巡る日露役満洲里最終の陣地たる馬仲河駅、彼の福島参謀と露軍オラノフスキー参謀の所謂四平街覚書に関する休戦条約地記念碑を望ませられ四平街を経て午後零時五十分公主嶺駅に御着寺内中将以下多数官民の御出迎へを受させられ同一時十分
  農事試験場 に台臨、公主嶺は蒙古タル汗王の所領地で南北満洲の分水界にて駅左方に拡がる広漠たる原野、青々とした牧草の波には其所此處に羊群を発見し蒙古といふ感じがことの外深い、試験場の御視察を終らせられた殿下には一時五十分御発畜産道路を経て畜産場へならせられ三時五分將校集会所へ向はせられ三時四十分寺内独立守備第一大隊を御視察四時御仮泊所に御帰還六時三十分より将校集会所に於ける寺内中将の御招宴に臨ませられたが同夜の御料理は
  蒙古料理と して有名な屋外にて羊肉をさきかゞり火に炙る成吉思汗料理にて殿下には御初めての事でもあり殊の外御感興深げに拝せられた


(3)落陽紅に燃ゆる頃
    銘酒の盃をあげ給ふ
     羊肉やジンギスカン鍋を御賞味
      公主嶺の秩父宮殿下

〔公主嶺〕秩父宮殿下には十六日午後七時より将校集会所裏庭の寺内司令官の御招宴に御台臨遊ばされたが会場には紅白幔幕を張り廻らしヂンギスカン鍋に公主嶺農事試験場に飼育される羊廿頭を屠殺し宜しい肉のみ選んで膳部に上し殿下御手づから木箸にて木炭火にかざされ御賞味遊ばされた寺内司令官の御挨拶に曰く『私の不在中飛んだ手違ひから内地から灘の銘酒が届きました』と真紅にもゆる落陽がまさに西の彼方大陸に入らんとする頃一同杯を挙げ立食にて頗る盛況であつた
【写真説明】公主嶺騎兵二十聯隊にお成りの秩父宮殿下(十七日午前八時二十分)


(4)陸大校歌の合唱に    (四)
    殿下もお手拍子
     公主嶺に於ける成吉斯汗鍋の御夕

   秩父宮殿下に扈従して  三浦特派員謹記

<略>
軈て御宴たけなはとなるや殿下には陸大生と共に御手を打ち足調子をとられて陸大校歌を御合唱遊ばされ頗る御喜悦と態に拝された殊に寺内司令官、中谷警務局長、高木中佐の見事な三禿頭を電灯の下に並べて陸大生一同百燭光にまさる光だとはやし立てた時の如きは殿下もいと御機嫌麗しく御哄笑遊ばされた藤根理事が胴上げされる等殿下の御招宴としては稀に見る打ちとけたものであつた
   ◇
御招宴に侍つた十数名の婦人連中は酒間に奉仕し頗る声援であつたヂンギスカン鍋はヂンギスカンが攻城野戦の間に用ひた原始的料理にて殿下には殊の外御気に召されかくて御招宴は四斗樽の鏡の底の見え始めた九時ごろ殿下の万歳を三唱し殿下には頗る御満足で御退宴遊ばされたと洩れ承る尚殿下の御召上りを願つたヂンギスカン鍋に就ては特に農事試験場飼育の羊二十頭を屠殺し料理一切は長春ヤマトホテルより態々コツクを招いて御調理申上げたものである
   ◇
<略>


   【満洲日報】

(5)御杯をお手に遊ばされ
    羊の肉を御賞味
     成吉思汗鍋に御興いと深く拝す
       公主嶺に於る秩父宮

【公主嶺特電十六日発】公主嶺農事試験場より陸大生も乗馬にて扈従した、殿下には御馬上より左方にあたり白楊の木蔭に群なす羊、牛の放牧を眺めさせられつゝ一時五十分畜産科に台臨、農具倉庫前にて小松科長は約三十分にわたり蒙古在来種の羊より
 改良種  までの試験成績につき講話申し上げ羊毛を台臨に供した、次いで陳列した各種の羊、鶏、豚、種牛、種馬の実物により御説明申し上げたが、殿下もいち/\家畜の前に立たせられ御興深げに御見学あらせられた、御帰途御馬上より大耕農法の農具を御覧あつて再び畜産道路を、前後約二丁にわたる乗馬隊の中央に列し給ひ速足にて霞町を経て三時すぎ独立守備隊入口の将校集会所に入らせられた、こゝにおいて殿下には陸大生と共に寺内司令官より鉄道守備隊勤務に関する講話を
 御聴取  将校集会所より更に独立守備隊第一大隊に成らせられロシヤ時代の建物をその儘使用してゐる兵舎内を三浦大隊長の御説明にて御見学あつて四時守備隊前の司令官々舎の御仮泊所に入らせられた、御仮泊所の建物もまたロシヤ時代のものを一部改造した赤煉瓦の粗末な白楊樹に囲まれた平屋建で、殿下の御部屋は
 日本間  十畳である、殿下には御休養あらせられる間もなく寺内司令官の御案内にて六時三十分、武士道街を将校集会所裏庭の御招宴場に成らせられた、御招宴場は、牧草蒼きスロープの白楊の樹下に紅白の幔幕をめぐらし、殿下を御中心に、陸大側及び寺内司令官以下、全将校約百名、円陣をゑがき、殿下には司令官、参謀長等と御食卓を共にせられて椅子によらせられ
 御前に  は成吉思汗鍋独特の汁を入れた皿を置かせられた、御宴会は寺内司令官の御挨拶に始まり、羊の肉を焼く成吉思汗鍋に殊の外御興がられ、また野戦式の御宴会が御気に召し御気色いよいようるはしく、御杯を御手に遊ばされ、羊の肉も御賞味あらせられた、御宴酣となり微醺の廻ると共に電灯の下に寺内、三宅、高木守備隊長等の帽子を取つて禿頭を照す青年将校の座興を御覧あつて
 御高笑  あらせられた、また御談笑の間に、成吉思汗鍋の由来を書いたパンフレツトを御覧あり、そのうち三浦守備隊長の音頭で「守備隊の歌」をお耳に達すればせ陸大生は「陸大の東京行進曲」で応酬は御宴はます/\佳境に入つた「陸大校歌」を歌ふや殿下には椅子より立たせられて御手拍子御足踏みを遊ばされて共に御合唱あらせられた、かくて御宴はつきず御予定の時間も過ぎて、九時過ぎ公主嶺の星月夜に
 声高く 「殿下の万歳」を三唱して散会、殿下にはことのほか御満足げに拝したと洩れ承はる


(6)安楽椅子

宮殿下お成りの沿線各地は扈従者でどこもかしこも宿屋は満員▲関東軍関東庁陸軍大学で宿屋は完全に占領されて▲満鉄は湯崗子、遼陽、公主嶺とも駅構内に一等車を持ち込んで列車ホテルを作つてゐた▲それでも宿屋が足らず料理店まで徴発する騒ぎであるが▲こんな宿屋難のうちにも流石は警務局長の中谷氏は、「局長さんがお泊りになる」といふ光栄に感激せしめ▲公主嶺の料亭やまとの如きは夜具まで新調して上へ下へと大歓待▲そこへ御招宴で気勢を揚げた強者達が大挙おしかけて保々地方部長を音頭取りにしてメートルをあげたとの事▲公主嶺におけるジンギスカン鍋の御招宴で菰冠一丁と羊二頭を平げた陸大生の元気なことは相不変で▲その菰冠は寺内司令官がわざわざ内地から取りよせた白鷹の銘酒▲羊は試験場で特別に飼育したので素晴しく柔かな肉だつたと好評嘖々▲ところで満鉄映画班のライトかやつとその日の午後についたので▲寺内司令官、中谷警務局長らのハゲ頭が燦然とカメラに収められた▲お終ひにには胴上げが始つて満鉄ではとう/\藤根理事が勇ましく胴上げされるほどの賑はひ▲その余勢をかりて帰つた将校連中の鼻息の強かつたこと▲宿屋から電話をかけさせて天馬空を行く勢ひ……▲ところで寺内司令官の御挨拶によると「私の不在中にどうした手違ひか灘から銘酒が一丁転がり込みまして……」かく御盛宴の素になつたことになる。

  

参考文献
上記の資料その11(1)の出典は昭和5年5月17日付大連新聞夕刊2面=マイクロフイルム、 同(2)は同、同、 同(3)は昭和5年5月17日付大連新聞朝刊2面=マイクロフイルム、 同(4)は昭和5年5月20日付同、同、 同(5)は昭和5年5月17日付満洲日報朝刊7面=マイクロフィルム、 同(6)は昭和5年5月21日付満洲日報朝刊2面「安楽椅子」、同


 ジンパで食べた羊肉ですが、資料その11の最後の(6)で満洲日報は2頭としていますよね。大連新聞の20頭とはえらい違いだ。私は満洲日報を先に読んだので、陸大生だけで50何人もいるのに、2頭分ではお口汚し、何切れも当たらないぞと疑っていたが、大連新聞を読んで納得しました。太っ腹な満鉄のことです。20頭の肉から精選した2頭分ぐらいを殿下のテーブルに乗せた。記者から聞かれた関係者が2頭だと答えたので、そのまま書いたのでしょう。調理者の身元まで調べた大連新聞を信用しますね。
 でも長春ヤマトホテルがホテル庭園でジンギスカンを売り出したのは昭和13年。だからこのとき出張してきたコックはジンギスカンのたれを作れなかったようで、実際には「公主嶺駅構内食堂の井本ツルノさん」がタレを作って差し上げた。これは私の同級生A子さんからの情報でしてね。ツルノさんという女性は構内食堂を経営していた井本賢治氏の奥さんと思われます。
 その甥で公主嶺小39回生の井本稔さんがツルノさんから直接聞いたところでは「羊肉のにおいを消すために、名前は忘れたがネギのような草を使った。日本では手に入らないから、日本のジンギスカンは本物ではないよ」と語ったそうです。
 それから「陸大の東京行進曲」。満洲日報の「安楽椅子」によると、満鉄が陸大生一行55人を満鉄社員倶楽部の支那料理に招待したとき、彼らが東京行進曲を歌った。「▲其「東京行進曲」たるや「昔恋しい銀座の柳」の低級卑調に憤慨し、同大学で自ら作詞作曲した勇壮活溌なもの(18)」だそうでね。歌詞だけの替え歌ではなかったようです。
 資料その12は新聞記事ですが、このときの出席者の思い出などからも、このジンパの経過を知ることができます。資料その12(1)は秩父宮を偲ぶ会編「秩父宮雍仁親王」からの引用です。宴会のコンパニオン、お酌サービスをした女性たちが将校夫人ではなくて、芸者であったこと、新聞の書いたように閉会は9時てはなくて宮様が午前様になったという新証言であり、ちょっと長いのですが、関係者のご了承をお願いしておきます。
 それから「秩父宮雍仁親王」は芦沢紀之という作家が編集に参画しており、資料その12(1)は「同期生岡田重美の手記」の基づくとあります。たまたまなんですが、私は国会図書館でそれとおぼしき手記を見つけたんですよ。それが資料その12(2)ね。
 岡田の手記が載っていたのは「秩父宮雍仁親王殿下を偲び奉りて」というガリ版刷り、96ページの本でした。扉に「昭和二十八年四月十三日/秩父宮雍仁親王殿下を偲び奉りて/陸軍士官学校同期生/謹んで本冊を百日祭に捧げ奉る」とあり、秩父宮のご生涯のうち、陸軍の幼年学校、士官学校、青年将校、陸軍大学校、参謀本部、御療養と6つの御時代に分けて、それぞれの同期生の殿下の思い出(19)を収めてあります。
 公主嶺のことは陸軍大学校御時代にあり、ほかにジンパを書いた者はいないので、編集担当者が岡田は公主嶺のことを書けと割り当てたと思われます。(1)と比べると思ったより短くて芸者のことは書いていない。つまり秩父宮を偲ぶ会の編集陣が、独自に陸大の同期生たちにインタビューして楽しかった歓迎ジンパの様子の再現に努めたことがうかがえます。(1)同様、長めの引用について関係者のご理解をお願い致す次第であります。はい。

資料その12

(1)
<略> やがて、寺内司令官の挨拶が終ると、一同は盃をあげて秩父宮の御健康を祝し、宴会は盛大に始まった。このとき同席した同期生は、みな一様に秩父宮は酒にお強かったと語っている。秩父宮は出席者一同からすすめられるままに、いくらでも盃をあけられ、またよく召上がった。それでもさっぱり酔われたという御様子を見せられなかったので、一同の頭には「殿下は酒に強いのだ」という印象がこびりついてしまったのであろう。実は、秩父宮が宴席に出席された場合、一緒の席にいる以上、決して誰彼の差別をなさらない。勿論、上級者に対して礼はつくされるが、上司、同期生、後輩から盃をすすめられれば受けざるを得ないのだ。誰のを受けて彼のを受けないなどとは、最も好まざるところであった。そのため、この宴席では、司令官から現地将校に到るまで、すすめられれば断わりきれなかった。同期生は酒に強いと驚いたが、めったにないことであっただけに、秩父宮もつい無理を重ねられてしまったのだ。宴会が終って宿舎へ帰られてから、秩父宮は、随分苦しまれたそうである。
 このように、秩父宮は、快く盃を重ねられながら、長い竹の箸で羊の肉をつまみ、炭火で焼いてはおいしそうに召上がって、健啖ぶりを発揮されたのであった。やがて、広い庭のところどころに準備されていた篝火に火がともされ、ようやく濃くなり始めた夕暮れに美しく輝いていた。満州大平原に赤い夕陽が没するときの夕景は、まさに歌に歌われた文字どおりの”赤い夕陽の満州”であった。
 また、この宴会で、接待の応援に出た女性たちは、実は花街の職業婦人たちであったが、当初、秩父宮は、その女性たちを守備隊将校の夫人と思われて、実に丁寧に応待されたものだから、喜んだのはこの女性たちであった。すっかり感激してしまって、入れかわり立ちかわり、秩父宮の周囲に集ってサービスするので、困ったのは秩父宮である。いかに庶民的といわれ、下情に通じておられるといっても、そこは宮さまである。その辺のことまではさすがにお分かりにならなかった。傍の先輩や同期生が、秩父宮の困惑されるのをにこにこ楽しみながら、酒の肴にして盃を重ねていた。もっとも、秩父宮がもし彼女らが職業婦人であると、仮に御存知であったとしても、人に差別感を持たれない宮であるだけに、案外、このような結果になったろうとは、同期生の述懐である。後刻、この点が同期生のなかで議論の種になり、
 「いや、殿下は御存知なかったよ。第一、芸者なるものの存在は知られていても、お遊びの方は知らんのだから」
 「そんなことはない。御存知だったが、例によって、差別感を持たれないから、ああいう結果になったのだ」
 同期生の大勢は前者の意見であったが、酒の酔いも手伝って、将校、同期生連中も、このような話題に発展してしまったのであった。実をいうと、秩父宮も女性たちが芸者であることは途中で気付かれたのだが、終始、御態度を崩されず、女性たちを感激させ、喜ばせて、結局、彼女らのサービスが節度よく行き届いて、出席者は楽しい雰囲気のもとに、深更にまでおよんだのであった。本間御附武官や菰田教官が、秩父宮に大分遅くなりましたからと御帰還を促しても、もう少しといわれて、とうとう、十二時過ぎにまでなってしまった。途中、心配した本間武官が、「あまり御酒を召上がり過ぎては」と、御注意申し上げても、秩父宮は依然としてすすめられるままに盃を重ねられていたという。<略>

(2)                 岡田重美

 殿下と御一緒であつた私達陸大四十三期生の満洲戦史旅行が行われたのは、満州事変前現地の情勢が極めて険悪であつた時なので、殿下の御警衛について現地機関の苦労は並々ならぬものがあつた様である。
 学校当局に於ても殿下の直接警衛は学生自ら行うという方針で、殿下班の者は直接護衛班として常に殿下の前後左右を取り巻き、不逞の徒あらば身を以てお護りする様に用意せられていた。私は幸にも此の特別班の一員に加えられ、満洲旅行間終始殿下と行動を共にすることができたことは誠に光栄の至りであつた。
 公主嶺附近の現地戦術で始めて広漠たる南満の大広野に接し大陸の雄大さに打たれたのであつたが、この時も公主嶺駐屯部隊がこの部落、彼所の林の中に密かに厳重な警戒網を張りめぐらし眼を光らせて監視していた情景は當時の満洲ならでは想像もつかないことであつた。
 其の日の夕、独立守備隊司令官寺内中将の招宴が官邸の広い庭園で行われ、殿下も御臨席になられた。料理は大陸に因んだヂンギスカン鍋で、深い木立の中にしつらえられたテーブルの上には、特に公主嶺の農事試験場で育成したという羊の肉が山と積まれ、眼をあぐれば新緑にしたゝる南満のゆるやかな丘陵がはるか地平線迠続いていた。
 私はその后新京のヤマトホテルで又北京の古い飯店で或は東京郊外の料亭で度々ヂンギスカン鍋を口にしたが、この夜における程豪壮雄大な夜宴をしみじみと味つたことはなかつた。其の昔ヂンギスカンが数万の兵を率いて遠く欧州に遠征した時の夜毎の宴も斯くやとばかり偲ばれるのであつた。
 やがて寺内将軍の挨拶の後一同盃をあげて殿下の御健康を祝し、宴が始められた。
 殿下は酒はお強い方であつて、おすゝめすればいくらでも盃をあけられたが、私達の様に酔をみせられたことは決してなかつた。
 やがて庭園の所々準備せられた篝火には一斉に火がつけられ、漸く濃くなり初めた夕暗に美しくかゞやいていた。
 夜も更ける頃殿下はこの素朴な野宴に十分歓を尽されて御帰還になり、私達も二人、三人と大陸の夜気にほてつた頬を冷しつゝ宿舎に帰つて行つた。今尚消え難い私の思い出である。

  

参考文献
上記(18)の出典は昭和5年5月13日付満洲日報朝刊2面「安楽椅子」=マイクロフィルム、 (19)は秩父宮を偲ぶ会編「秩父宮雍仁親王」の扉ページ、昭和45年9月、秩父宮を偲ぶ会=原本、 資料その12(1)は同371ページ、同、 同(2)は堀場一雄、長命健一、鶴見策馬編「秩父宮雍仁親王殿下を偲び奉りて」68ページ、昭和28年4月、陸軍士官学校同期生=館内限定近デジ本


 しかし、秩父宮がいくら酒にお強かったといっても、全く酔わないということはあり得ない。大連新聞の三浦特派員は「御酒類は余りお召上りにならないが日本酒を二三杯位はお召上りになり御学友成田法学士と御会ひになつた夜は愉快だとお仰せになり日本酒を五六杯もお召上りになつたと承る恐らくレコードであらう、(20)」と書いていますが、この夜はそんなレコードをあっさり突破したことでありましょう。
 そしてだ、少しくお出来上りになられた殿下がだね、合唱を指揮したり、寺内将軍に脱帽命令をお掛けになったという微笑ましい思い出が「満鉄社員」という本にあるので、資料その13に引用しました。
 筆者は元満鉄職員の高橋五百歩こと高橋鹿蔵氏で、略歴によれば大正10年に満鉄に入り満州事変當時は奉天駅助役(21)とありますが、公主嶺駅勤務に触れていない。でも、公主嶺駅にいたからこそこんな秘話を知っていたのではないかと思って満鉄の「社員録」を調べたんですよ。
 案の定、高橋は昭和4年3月1日現在では確かに公主嶺駅助役(22)でした。満州事変當時とは昭和9年とみて昭和9年9月1日現在の奉天駅勤務者を見たら構内助役13人(23)の中に高橋がいた。「日本人物情報大系」の満鉄の「職員録」は、だいたい3年おきで収録されていて、昭和6年版があるのですが、高橋は公主嶺にはいないのです。どこにいたのかヒントがないので、縮小されたページを虫眼鏡で見ていったら、なんと奉天鉄道事務所の所員71人の27番目(24)に高橋の名があったのです。
 だから秩父宮がおいでになる1年前に高橋はいたけれど、奉天にいつ転出したかがわからなければ、公主嶺駅助役でいたとはいいきれませんよね。それで私は「南満州鉄道株式会社社報」の辞令を調べた。これまたマイクロフィルムでね、裏写りの激しいページが多くてね、とにかく我慢して読んだんですよ。
 それで高橋は昭和4年11月に公主嶺消防組副監督(25)を命じられ、同じ11月に列車の機関士にタブレットを渡さずに発車させ、それをまた上司に報告しなかったと月給の5%の過怠金を取られ、機関士は譴責(26)とわかりましたよ。はっはっは。
 そしてね、昭和6年8月1日付(27)の奉天転勤の辞令を見つけたんですよ。つまり高橋は秩父宮が公主嶺にお出でになったとき、確かに公主嶺駅助役だったから、資料その13は本当の話なんだろうね。序でに公主嶺に至るまでの高橋のポストを捜した結果、大正12年7月には奉天列車区庶務方(28)にいて、大正15年7月には長春列車区車掌、(29)昭和4年3月までに公主嶺駅助役に栄転していました。

資料その13

<略> 秩父宮が、陸軍大学生として、現地戦術の修学旅行で、満洲の公主嶺に立寄られたことがあった。そのとき、独立守備隊の練兵場で、歓迎のジンギスカン鍋の夜宴が張られた。秩父宮学生は、途方もなくご機げんで、しばらくは健啖と饒舌であったが、いよいよ興がのると、やがて羊肉の皿盛を乗せてあった六尺机の上に飛上り、指揮刀でタクトをとり、東京行進曲の音頭をとられた。同行の学生団が吼えるように声をだして唱和した。すると次には、守備隊司令官の寺内少将を手招きして、ほかに大学教官のひとりと、もうひとりは学生を側近くに寄せられ、三人がそろったところで、
「脱帽!」と、号令をかけられた。
 いっせいに、三人が帽子をとると、これはまたどうだろう、いずれ劣らぬさん然たる光頭の選手ばかりであった。宮さま学生は、アーク灯の下で三つの頭をだき抱え、映写班に撮影を命じて笑いこけた。<略>

 高校の英語でデモクラシーでなくて、モに力を込めてデモークラシーと読むと教わりましたが、そのテモークラシーのお陰、言論の自由が認められた戦後だから、高橋は殿下の酔態を思い出すままに書けたのです。戦前の新聞社では皇室関係の記事の誤植を見逃したら大問題、始末書では済まなかったのです。ましてや秩父宮殿下が御酩酊遊ばされて、こうこうしかじかなんて絶対に書けなかった。3つの輝くおつむにアーク灯、それこそハイライトなんですが、満洲日報と大連新聞は青年将校のだれかの座興のようにぼかしたのは、ぎりぎりの表現だったと思われます。
  

参考文献
上記(20)の出典は昭和5年5月16日付大連新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 (21)は高橋五百歩著「満鉄社員」奥付、昭和34年4月、東都書房=館内限定近デジ本、 (22)は芳賀登ら編「日本人物情報大系」16巻491ページ、平成11年10月、皓星社=原本、底本は昭和4年版「職員録」145ページ、 (23)は同17巻34ページ、同、底本は昭和9年版「職員録」87ページ、 (24)は同16巻598ページ、同、底本は昭和6年版「職員録」203ページ、 (25)は南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社社報」6792号2面、昭和4年11月28日、南満州鉄道株式会社=マイクロフィルム、 (26)は同6896号1面、昭和5年3月13日、同、 (27)は同7290号36面、昭和6年8月1日、同、 (28)は芳賀登ら編「日本人物情報大系」16巻339ページ、平成11年10月、皓星社=原本、底本は大正12年版「職員録」175ページ、 (29)は同416ページ、同、底本は大正15年版「社員録」130ページ、 資料その13は高橋五百歩著「満鉄社員」45ページ、昭和34年4月、東都書房=館内限定近デジ本


 秩父宮殿下をお迎えした公主嶺での大ジンパは、満洲在住の日本人の興味を引いたんですね。ジンギスカン鍋とか焼きという名前が、わっと広まる切っ掛けになったことは確かです。新京より南にある鐵嶺と開原の記事が見付かったので資料その14にしました。いずれも昭和5年のことです。

資料その14

(1)厳かに表彰式を終り
    成吉思汗鍋の清興
     第二回優良豚品評会了る

鉄嶺畜産組合主催第二回優良豚の品評会は十八日以来陳列館構内広場において開催されてゐたが出品五十一頭、審査員高松農学士、委員松永獣医等二日間に亘つて審査の結果一等三頭、以下四等まで飼主に対し二十日午前十時より商品館クラブにて表彰式が挙げられた来賓は満鉄農務課長代理実吉技師、公主嶺農事試験場畜産課長小松技師、奉天獣疫研究所長代理奥田技師以下沿線各地から十数名、在鉄知名士には今井旅団長、黄県長以下日支官民数十名藻寄会長の挨拶に次いで高松審査委員長の審査報告、農務課長の祝辞、来賓の祝辞、受賞者総代の答辞あり、閉会後記念撮影、更に公園でジンギスカン鍋の饗応あり始めての珍料理の佳味に舌鼓を打ち盛会であつた


同(2)成吉斯汗鍋
     試食会
      会費一円

過日優良豚表彰式の当日来賓を招待して成吉斯汗鍋を饗応したところ始めての珍味佳肴に好評を博し一般地方人間にも是非一度といふ希望があるので明廿六日午後四時より公園温室附近で試食会を催す由、会費一円希望者は地方事務所御園生氏宛申込まれたしと


同(3)仲秋節
     川崎氏が観月の宴

川崎開原地方事務所長は去る六日の仲秋節に各区所長地方委員及び各区長その他二十余名を招待し午後五時より事務所後庭に於て観月の宴を張られたが巨口細鱗ならぬ成吉斯汗鍋の佳肴に灘の芳醇、澄み渡る東天に昇る月光を酒中に宿らせて挙盃数行共に興に十分の歓 を尽し明月天に中する頃稀有の盛況裡に閉宴した

 昭和4年の鐵嶺の第1回豚品評会では「来賓及出品者一同に会し盛宴を張つたが、(30)」であり、やはり昭和5年が初ジンパでした。それから満鐵鐵嶺地方事務所が音頭をとった試食会に何人集まったのかと続報を探したけど、なかった。ちょうどこのとき、鉄嶺にあった陸軍駐屯地を新京に移すことになり、その送別会だ見送りだと移動関係のニュースが輻輳したせいでしょう。昭和5年は里見クが時事新報に連載した「満支一見」で北京のジンギスカンのことを書いた年です。たった3例ではあるけど、察するに、名前は知っていても満洲でもジンギスカンを食べたことのある日本人はまだ少数派だったと思われます。
 次は、このジンパに使った鍋調べです。ジンパ学では料理もさることながら、そのとき使われた鍋も大事な研究対象なのです。私はなにか記録はないかと本や雑誌の記事を捜し、国会図書館で石渡繁胤著「満洲漫談」という本を見つけたのです。
 これには公主嶺の農事試験場が作らせたジンギスカン鍋の写真だけでなく、さすが科学者、希有なことですが、鍋の諸データも書いてある。こりゃ公主嶺の講義に使えると喜んだのですが、惜しむらくは写真が小さい。写真は縦4センチ、横6.1センチあるが、鍋としてはそれらの半分しかないのです。
 それで、うんと拡大して調べるために、国会図書館でコピーを頼まず、私は古書店でその本を買いましたね。資料その14が石渡さんが撮った鍋の写真とその解説です。どこかで見たような鍋だ、そうです、3本足の長さこそ違うけど、基本構造は資料その3の遅塚が筆で描いた鍋そのものですね。農事試験場にも同形の鍋があり、それを手本にして発注したと思うのです。
 石渡さんは東京農大教授で蚕の研究者だったので、満洲の養蚕指導や視察、柞蚕というやはり蚕の一種の研究に大正12年から昭和7年までに12回も満洲と朝鮮を訪れた。(31)「満洲漫談」はその見聞記なのです。解説の重さの基はキロと読む。22キロというと安いママチャリぐらいの重さだから、片手で持つのはきついでしょうね。
 柞蚕で思い出したが、明治時代の飛行機は布張りでね、翼や胴体に羽二重を張っていた。柞蚕の糸で織った布はより伸縮性が優れているというので柞蚕も研究された。それで満鐵が大連に製糸工場を建てたので、堀江覚治という代議士が福島県で女子工員を100人ほど集めて送りだした(32)と雑誌に書いています。

資料その15

   
  一、成吉斯汗鍋

 成吉斯汗鍋は蒙古に於ける陣営宴食である、成吉斯汗が初めたと云ふのでその名が付けられたのであつて、冬日軍陣に疲れた将士を犒ふ為めに大將が催すものである、羊肉を各自適宜に切り取つて火に載せて食するのである、焚火の上に鐵棒の連ねたものが横へてあるからその熱した鉄棒に羊肉を載せる一方焼けたら裏返して焼き、塩、醤油その他の味をつけて食する、小切の焼肉であり又は我等のスキヤキに類似したものである。
 羊肉を切り取るには各人が所持する腰に帯た蒙古刀なる小刀を用ゆるのである。
 此式によつて満鉄農事試験場で製作された鍋は外形写真の如く次の大きさと重量とを有する。
 鋳鉄製で淺い鍋形である、之に並列した間隙のある蓋が付いて居る、鍋形部の底の下側には三本の脚が付けられて居る。
 鍋の口径、四一・五糎、上縁の周辺、一三一糎、高さ 一八糎、深さ 一〇糎
 この鍋形の内に炭火又は木片を入れて燃焼するのであつて即ちこれは火入れである、而してその上に中央のやゝ膨れた並列間隙のある(鐵棒を並列した如き状)蓋を載せる、この鐵棒の熱した時に少許の肉脂を塗沫し、次で羊肉を載せて焼くのである蓋と云つてもこれが即ち肉を焼く網である、この蓋の大きさは左の如くである。
  蓋の径、三九・五糎、高さ 六・〇糎、周辺 一二五糎、網の鉄棒の数 二十二本、  鉄棒の間隙上面にて 七・〇粍、下面にて五・〇粍
 鐵棒は湾曲したロストル状のものであつて其の間隙は上面で広く、下面で狭い。重量は鍋形の火入の部が十五基、蓋即ち肉焼の部が七基半、全部で二十二基半である。
 火は赫々と燃えて鐡棒は熱したそれに載せて焙られた肉は炭火の火力に脂肪の燃える煙は濛々と立上る、それでも戸外の催しであるから、爲に何等の悪感をも與へない。焼ければ取つて食ひ焼ければ取つて食ふ。丁度スキヤキ鍋に向つた時の如く食慾が意外に進むのである、興味深きこと限りない、昨年秩父宮殿下満洲御旅行の際に公主嶺満鉄農事試験場に於てこの催しがあつたが、殊の外御興味深く思召され御喜びであつたと拝聞する。
 又今年は鎌倉に於て有志の面々が集つて成吉斯汗料理の催があつたとの事である。
 スキヤキと又別種の趣があるから野外の催しとして推奨したい。(昭和六年十一月一日記)

 昭和6年に石渡さんが研究のため大連に着き、新聞記者のインタビューを受けた記事があります。「柞蚕研究/石渡博士來連」という見出しで「満洲に於ける柞蚕の改良と云ふ重大使命を帯びて満鉄農事試験所から其学理的研究を嘱託されて居る東京農業大学教授石渡繁胤博士は十四日入港あめりか丸にて來連したが氏は『再三やつて來ますが今度は蛾が卵を生みつける時なので特にやつて來た訳です』と前提して語る」とあり、研究の狙いを説明してますが、北海道でも中国山東省の柞蚕を移入して養殖を試みたが、失敗した(33)と述べています。
 この後石渡さんは、関東州に近い萬家嶺というところにあった満鉄農事試験場の万家嶺蚕場へ行って3カ月間研究した。「満洲漫談」の「五、万家嶺の毎日」に、そこで匪賊に襲われたりした経験なども書いてますが、宿舎では昼食と夕食のおかずは豚肉か羊肉を炒めたり煮たものが定番(34)だった。
 この年の8月下旬に報知新聞が久保田万太郎の「じんぎすかん料理」を連載したから、石渡さんは萬家嶺から近い熊岳城にあった果物研究の熊岳城分場に行ったときにでも、それを読んでジンギスカン料理に興味を持ったのではないですかね。
 また蒙古刀という小刀で肉を切り取って食べる蒙古人とも鍋を囲んだりした。そのときにでも借りて寸法を測ったと思われますが「蒙古刀は蒙古人が腰に帯ぶる小刀で箸付である。成吉斯汗料理に行く時に帯びて行くものである」「男子用と女子用がある」(35)」などサイズと考察も書いてあります。
 またこの本には「三四、成吉斯汗料理」と題するごく短い章があり「此の漫談の初めに成吉斯汗鍋に就て記した、スキヤキとは別種の趣のあること、又内地では鎌倉では有志によつて催された。大森春秋園、京橋の盛京亭では小規模に此料理を始めた、此鍋料理が開かれたのを喜ぶと共に普及されんことを望むものである。(36)」と書いてある。春秋園が始めたのは昭和7年末とみられるので、トップを切った濱町濱の家を書いていないのは変なのですが、多分濱の家は新聞広告を出さなかったので、わからなかったのではないでしょうか。
 ところで、石渡博士は黙々と「満鉄農事試験場で製作された鍋」の写真を撮ったり、サイズを計ったりしたのでしょうか。この鍋を倉庫から運んできたか管理している試験場の職員に、いつ作ったかとか、何個持っているかなどと尋ねたと思うのですが「満洲漫談」の説明には、そうした関連情報が何もない。私は石渡さんは聞いたけれど書けなかったとみるのです。
 その理由は、この鍋は貴賓歓迎用に作られたものだったからです。いいですか。「御招宴は殿下を主賓として百五十名」が一斉に焼くのですから、試験場の手持ち鍋だけでは足りるわけがない。特に下々のものが使っている鍋でいいと殿下がおっしゃったにしても、とてもとても畏れ多くて、第一、宮内省が許しませんよ。新品の鍋を使う約束でジンパが認められたことも考えられます。それで試験場は大連沙河口にあった満鉄の車両工場に30個ぐらい発注したと私は考えているのです。いずれ別の講義で話しますが、この沙河口工場は大正2年か3年に鍋を5枚作ったことがあると考えられるからてす。
 これは荒唐無稽な話ではないのです。資料その15を読みなさい。このお召し電車はどれぐらい使われたかわかりませんが、天皇家の御用を承るということがいかに名誉なことだったか當事者の高揚ぶりをよく伝えている。もし鍋を満鉄ではなくて、大連あたりの鋳物工場に作らせたとしたら、監督が日夜張り付いて鍋作りに眼を光らせたと思いますね。

資料その16

  御召電車を謹製

 昭和七年の秋、大阪府下で陸軍特別大演習が行われたが、この演習を統監される天皇陛下の御召電車を謹製することになつた。発註は南海鉄道株式会社から行われたが、私は一生一代の光栄に感激して精魂をつくして謹製の準備にかかつた。工場の中央に作業場を特設し七五三縄を四方にめぐらし、最優秀工員を選抜して製作に当らせた。私は毎目、斉戒沐浴して現場に臨んで終始監督を続けた。その甲斐あつて金色さん然と輝く菊花紋章に飾られた御召電車が予定通り完工した。最高の技術を投入した当時としては最優秀なものだと確信しているが、無事納入を終り大任を果し、その光栄と感激を全社員と分ち合つた思い出はいま思い出してもなお新たなものがある。

 鍋を特注で用意した理由は、もう1つあったのです。資料その16にしましたが、翌年、昭和6年に閑院宮春仁王殿下が秩父宮と同じく陸軍大学生の戦史旅行で公主嶺においでになるとわかっていたからです。同じ趣向でジンギスカン料理を差し上げるべく準備したのに、こちらは雨降りで主賓閑院宮はご欠席となり、学生たちも室内では気勢が上がらなかったようですがね。
 「満洲漫談」を通じて、そういう特製の鍋が公主嶺にたくさんあると知れると、軍部や議会のお偉方から必ず分けてくれといってくるからと、石渡さんは口止めされたことが考えられます。
 でもね、身内は別格ですよ。秩父宮の歓迎ジンパが終わってから、農試は奉天にあった満鉄獣疫研究所に対して何枚か鍋を貸し出ししてます。その証拠写真が資料その16(2)から(4)です。これは「回想 奉天獣疫研究所の20年」という本で見付けた写真でね、芸者と思われる女性2人を交えた7人で鍋を囲んでいる写真と、上から焼き面を見た写真と2枚載っていました。
 スナップの右側の鍋は焜炉の膨らみや足の高さなどから資料その14の鍋と同じ鍋に見えますね。上から見た写真の鍋は、焼き面の盛り上がりが低いこと、脂落としの隙間が焼き面の端まで開いておらず、平らな縁があるように見えるから、これも農試特製の鍋だとは言い切れませんな。
 (2)の写真右側の「畜魂祭スナップ(1930.10.1)/屋上ジンギスカン」という説明からすると、秩父宮ジンパの4カ月後に奉天に鍋が行っていたことになります。秩父宮家へ鍋2枚を献上したという言い伝えは、一時貸与か永久移管かわかりませんが、獣疫研へ農試自慢の鍋を持っていった事実から生まれた伝説かも知れません。
 日本から緬羊を連れて公主嶺農試に赴任し、後に獣疫研の所長になった大正2年畜産卒の香村岱二さんは、このとき留学中でしたが、大正13年畜産卒の太田兵三さんがいました。そんな北大OBのつながりで鍋借りはスムーズにいったと思いますね。

資料その17

(1)閑院宮敷島臺上で御作業後
     現地戦術を御研究
      小雨の爲ジンギスカン鍋は御取止め
       閑院若宮殿下公主嶺御視察

閑院若宮春仁王殿下五月四日午後五時十八分公主嶺駅御着駅前より御乗馬御仮泊所に向はせられた、長途の御旅行に加ふるに連日の御日課に御忙はしき閑院若宮殿下に於かせられては些かの御疲労の御気色もあらせられず当地御一泊の翌第二日目たる五日は早朝御起床御朝食後午前七時三十五分御仮泊所御出門御警護供奉員を随へさせられ御乗馬にて霞町より東遠方踏切を経て騎兵第二聯隊に御到着聯隊長若松中佐以下奉迎背後の敷島臺上に於て陸大生一行と共に香月統裁官り課せられるゝ作業に御精励あらせられ午後は強風雨中を冒して御乗馬に召され附近の地形御視察現地戦術の御研究を遂げられた午後五時御宿所に御帰着遊ばされ六時より森司令官が殿下御宿泊所の将校集会所後庭若芽薫る楊樹林中にて当地独特の風情あるジンギスカン鍋の御招宴に台臨遊ばさるゝ御予定にて準備役員は朝來の曇天小雨にも拘らず紅白の幔幕を引き廻し既に準備を整へられて居たが午後に至り降雨甚だしく野外の宴会は到底実施困難に陥りため為め残念ながら場所を変更さるゝ事となり主賓の宮殿下御台臨は取り止めとなつたが大衆を一堂に容るゝ家屋なく大学生と陪賓の騎兵将校は騎兵第二聯隊兵舎内にて地方側及守備隊将校は農事試験場に分れて実施された
(写真先頭の御乗馬が閑院宮春仁殿下次が吉原御附武官、五日午前八時騎兵第二聯隊河口入りの處)


(2)


(3)


(4)

  

参考文献
上記資料その14(1)の出典は(昭和5年9月22日付満洲日日新聞朝刊4面=マイクロフィルム、同(2)は同年9月25日付同、同、同(3)は同年10月9日付大連新聞朝刊5面、同、 (30)は昭和4年9月22日付満洲日報朝刊4面、同、 (31)は石渡繁胤著「満洲漫談」緒言、昭和10年1月、明文堂=原本、 資料その15は同1ページ、同、 (32)は海外之日本社編「海外之日本」1巻1号46ページ、堀江覚治「満鐵の新事業たる醋酸製絲」より、明治44年1月、海外之日本社=館内限定近デジ本、 (33)は昭和6年7月16日付大連新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 (34)は石渡繁胤著「満洲漫談」12ページ、昭和10年1月、明文堂=原本、 (35)は同3ページ、同、 (36)は同61ぺージ、同、 資料その16は田中大介著「働く喜び」100ページ、昭和36年11月、田中大介=館内限定近デジ本、 資料その17(1)は昭和6年5月7日付大連新聞朝刊5面=マイクロフィルム、同(2)と同(3)と同(4)は富岡秀義編「回想・奉天獣疫研究所の20年」27ページ、平成5年10月、「回想・奉天獣疫研究所の20年」刊行委員会=原本、


 それから4年後、昭和10年5月15日、内地の銀行シンジケート団が融資先としての満洲視察にきたので満州国政府は大歓迎して、公主嶺ではジンギスカンで接待しましたが、そのときの鍋の写真を資料その17(1)にしました。焼いているのは、若き日の第一銀行取締役、渋沢敬三さんです。後に日銀総裁、大蔵大臣を務めた人ね。それより鍋全体をよく見てください。
 コップの高さから見て焜炉を置いた箱の縁の高さが10センチぐらいなのに、焜炉は接触していない。これは焜炉の足が長いからにほかならない。これが石渡さんの写真の鍋だと、焜炉底面のクリアランスは8センチと考えられるから、ぴったりでしょう。
 難点は、どう数えても、この焼き面の鉄棒は20本を超えそうにないということです。石渡鍋の焼き面は22本で、いかにも曲げた棒が並ぶ感じだが、こっちは棒と言うより幅細の板みたいでしょう。
 北京の正陽楼の鍋の焼き面を上から撮った写真をみると、横から見るより、うんと板みたいに見えるんですなあ。それで、案外、これがいわゆる満蒙で使われていた鍋で、農業試験場ではこれをお手本にして、焜炉は同型だが、いくつかは焼き面が22本の高級品とし、残りはこれと同じ20本乃至18本のお徳用でよいと発注したことも考えられます。

資料その18
(1)
     


(2)

五月十五日 公主嶺農事試験場
 有名な農事試験場の楼上で成吉思汗鍋の饗応に預る、云はゞ羊の肉のスキ焼である、此の農事試験場では緬羊の改良もやつてゐる、即ち、蒙古在來種は一頭の採毛約一斤であるが、メリノー種との一回雑種は在來種の約二倍、二回雑種は約三倍の産毛可能となつてゐる。
 此の方法によつて緬羊の改良は折角普及に努めてゐるものゝ、他方蒙古人の牧羊は成吉思汗鍋の例に洩れず、羊毛を主とせずして寧ろ其の肉及其の皮を主とするに、此の目的には改良種は却つて不適當であるといふが如き地方的特殊事情は到底看過し難い点であつて、斯る関係は独り羊毛のみに限らず、棉花其他に就ても能く實際に即せしむることは容易ならざる苦心を伴ふべき問題であらう。<略>

 渋沢さんたちが公主嶺に行ったことは新京日日新聞の「▲渋沢敬三氏(第一銀行取締役)十四日午後来京ヤマトホテルに投宿十五日午前発南行」と「▲シンジケート銀行団二十二名十五日午前十時十分発公主嶺往復」(37)という記事にもなっています。資料その17(2)はシンジケート団の報告書の一部ですが、これを書いたのは三井銀行調査課員泉山三六でした。泉山は戦後、代議士になり、酔っぱらって国会内で女性議員にキスを迫り、大蔵大臣ならぬ大トラ大臣を演じて辞任したのだが、皆さんは知らないでしょうなあ。
 この写真は「渋沢敬三著作集」からですが、元々は「銀行信託シンジケート視察団満州各地旅行 昭和10年5月」というタイトルで満鉄が作ったアルバムに張ってあったものと推定されます。實はね、そのアルバムが平成20年にヤフーのオークションに3万円からで出たのです。
 私はセリ終了後、残っていたウェブ画面から知ったのですね。残念だから、余部があるかと尋ねたら「ご質問いただいたのは、戦前の銀行団による『満州視察団写真帳』のことでしょうか? この写真帳は、3月16日に落札されております。満鉄が作成して視察参加者だけに配布された、いい写真帳でした。(38)」とお答えメールをもらいましたよ。
 私の出品ページのメモによると、参加者41人の名簿に渋沢さんの名前がある。また91枚の写真につけた説明の抜き書きがあり「●ジンギスカン鍋を囲みて午餐會(於公主嶺満鉄農事試験場)→日本髪の女性が数人接待しています」とあるのが、この写真の説明でしょう。資料は私が少し右端をカットしちゃってるが、著作集の写真は帯を締めた女性の後ろ姿が写っているから間違いない。どこに研究材料が転がっているかわからないから、何でも気をつけて見ておくべしということですね。
 まだこの鍋には続きがあるのです。畏れ多くもこの鍋を秩父宮家に2枚献上したというのです。昭和8年夏、全国の大学、農林学校などから選抜された学生と関係者による満洲産業建設学徒研究団が結成され、満洲を見学する事業が行われた。名簿を見ると第一分団311人の中には北大農学部から7人、実科4人、理学部2人が参加してます。7月14日神戸をたち、8月14日敦賀に帰ってくるまでの間に、公主嶺の満鉄農事試験場を訪れてジンギスカンをご馳走になった。そのときに招待側から聞いたというので、資料その18に報告書の一部を引用しました。
 毎日新聞の松岡記者は、大正13年に北京に行き、芳沢公使はじめ多くの方々からジンギスカンのことを聞かされたけど、食べるチャンスがなかった。だから9年待ち焦がれたジンギスカンと書いたのでした。
 ところが、人様々で、松岡と一緒に公主嶺でジンギスカン料理を食べて、グロテスクと評した人がいたんですなあ。橋本隆吉という岐阜農林学校の校長さんです。岐阜県内から選ばれた農学校長2人のうちの1人で産業建設学徒研究団第1分團の客員として満洲を回ったときの見聞をまとめた「満蒙の旅」という本で見付けました。豪快を通り越して奇怪に感じたのでしょうか、460字ほどの文章に3度も繰り返し書いています。資料その18(2)がそれです。

資料その19

(1)黄金色の満月下に成吉思汗鍋

            新聞班長 大阪毎日新聞社総務 松岡正男

<略> われ等満洲産業建設学徒研究団の第一分団、即ち農業班が八月四日、公主嶺の満鉄農業試験場を見学した後、同地の地方事務所長の前田鉞雄氏、取引所信託株式会社専務大岩峰吉氏、試験場の村越信夫氏、並にその他の有志諸君は、われ等三百の学徒団のために十二頭の羊を屠り、私としては九年間待焦がれた成吉思汗鍋の御馳走にあづかつたのだ。
     ◇     ◇     ◇
 公主嶺は東にかすかに、吉林省境の連山を望む外は、興安嶺まで直径八百キロ、大連まで同じく六百六十キロ(北海道から九州までに相当す)全く目を遮る何物もない、一眸千里の大平原のまつたゞ中に位する。農業実習所に隣接するこの広い/\平野の一部に、紅白だんだらの幕が張られて、われ等今宵の宴会場にあてられてゐる。その日は恰も陰暦十四日に當り、西方の平原にいはゆる満洲の赤い夕陽が臼づかんとすれば、東方の地平線からは、黄金色の満月が静かに上り、日月実に相望むの光景は、満洲ならでは見ることが出來ない風景であつた。
     ◇     ◇     ◇
 主客は三々伍々老いたる白楊が長く枝を垂るゝところ、緑したゝるばかりの芝生の上に、即ち成吉思汗鍋を囲んで座つた。こゝでちよつと成吉思汗鍋の説明を要すると思ふが、これは直径半メートルばかりの普通の鍋に、三本の脚がついたもので、その中に一杯の炭火を入れ、亀甲型の素朴な鉄炙が恰も鍋の蓋のやうな形で、その上に載せられてゐる。この上に用意された羊肉を、老酒と蟹の油を調合したたれに、わけぎをきざんで浮かした中に、浸しては乗せて焼くのである。斯くの如くして焼かれた羊肉の匂ひは飽くまで食慾をそゝり、肉を焼く時にそここゝから立ちのぼる紫の煙を透して、將に天に冲せんとする月光を望む時、われ等の心の中に詩趣が漲る。
 場所は満洲の曠野、料理は蒙古の英雄を偲ぶ成吉思汗鍋、われ等は羊を追ふ原始民族の粗朴なる姿と、かれ等の大望心を追憶する。<略>
【附記】先年秩父宮殿下が陸軍大学の御學生として、畏くも公主嶺に御一泊遊ばした時、街の有志はわれ等学徒団員をもてなしたと同様な、成吉思汗鍋を差上げたさうだ。宮殿下にはこれが非常に御気に召し、御帰京の後鍋の御注文があり、街民が殊の外の名誉として、成吉思汗鍋二個を献上したさうである。「宮内省にもこの鍋がをさまつてゐる筈です。あり難いことです」と主人役の一人が語つてゐた。


(2)<略> 午後七時より公主嶺實習所の芝生の庭園に於て當地の時局後援会主催の歓迎宴会に参列仕り候、露天に幔幕を張り廻らし、高粱むしろを拡げ、中央にジンギスカン鍋を置き申候、今宵は當地獨特の古來より傳はり居る、羊肉のスキ焼の馳走に有之候、人之れを称してジンギスカン料理と称す、極めてグロテスクなものにして、野趣たつぷりのものに有之候、折柄十三夜の月は林間に懸り、古代色を帯び居り候、彼の一代の英雄ジンギスカンを思ひ合せて英雄気取りに相成り申候、我等は数日來内蒙古の奥地に入り、目と耳との蒙古趣味に浸り申し候も、未だ口の蒙古化を味ひ得ざりしに此處に於て此のグロテスクなテロイツクな馳走に遭はんとは存じ申さず候、當地の人々の好意を感謝いたし候。
  月涼しジンギス力ン鍋公主嶺
  林間に月のかゝりて夏涼し
 豊かな白馬を樹間につなぎ、多くの部下に擁せられて、親分気取りに大あぐらをかき、酒宴の最中入口には青竜刀を持てる、逞しき歩哨まで立てたる、グロテスクな光景を追想して、馬賊の豪快さも併せ味ひ申候、宴会後本日の宿舎満鉄クラブに帰り寝につき申候。
                          八月四日夜

  

参考文献
上記の資料その18(1)の出典は渋沢敬三著作集4巻339ページ、平成5年2月、平凡社=原本、 同(2)は三井銀行調査課編「満州国視察報告書」8ページ、昭和10年7月、三井銀行=館内限定近デジ本、 (37)は昭和10年5月16日付新京日日新聞夕刊1面=マイクロフィルム、 (38)は平成20年11月16日付ヤフーオークション経由出品者X氏からの回答全文、 資料その19(1)は満洲産業建設学徒研究団至誠会編「満洲産業建設学徒研究団報告 昭和8年度第1篇」523ページ、昭和9年12月、満洲産業建設学徒研究団至誠会本部=館内限定近デジ本、 同(2)は橋本隆吉著「満蒙の旅」87ページ、昭和8年11月、甘氷會=同


 松岡によれば鍋のサイズはともかく、3本足というから石渡さんの写した鍋ですよね。それを本当に秩父宮に献上したのでしょうか。昭和9年から公主嶺駅員となり戦後は焼尻島に住んだ磯野利男さんは自分のホームページ「焼尻電脳新聞」に昭和11年に秩父宮家に羊肉、鍋など一式を献納した(39)と書いていました。献上はそれよりもう3年早いとなると、ジンパ学上の新たな問題です。私はまず秩父宮が東京にお戻りになってからの大連新聞を読みました。
 秩父宮家に鍋を献上した話が本当なら満洲の新聞が書かないわけがない。公主嶺の名誉とデカデカと出ているはずだから、直ぐ見付かるだろうと手を付けたのですが、とんと見付からない。代わりといっちゃあ変だが、大骨鶏という卵を沢山産む鶏を献上した記事が出て来たのです。
 一連の記事をまとめたのが資料其の19です。(2)の写真は唐丸籠みたいな籠が2つ並べてあり、その前に男性が1人かがんでいるのがわかるという程度の画像です。秩父宮のリクエストと聞いたので、満鉄では卵をたくさん召し上がるためと思い込んで献上したら、今上天皇が研究材料に望まれたとまるで話が違っていたのですね。
 目下私は国会図書館にある大連新聞の昭和7年9月までの分を見終わったが、まだ鍋献上の記事は見付かりません。このまま資料その18から松岡が公主嶺で食べたのは昭和8年8月とわかりますから、そこまで調べてみます。それから満洲日報も同様に調べるつもりです。
 大連新聞を見た感じでは載っていないような気がするのですが、とにかく鍋献上説が本当かどうかはこの2つの新聞を愚直に読むしかないでしょう。私としては、資料その19の大骨鶏の献上が3年たつうちに鍋献上に化けたのではないかと思いますがね。

資料その20

(1)秩父宮家へ
    更らに鶏を献上
     瀬川少將を通じ
      公主嶺農事試験場から

若葉の五月、秩父宮殿下をお迎えした際満鉄公主嶺農事試
験場は非常に産卵する大骨鶏の卵三十個を御献上申しあげ
御嘉納を辱ふした、然るに京城到着後孵化したのは雄ば
かりで雌を得られる見込みがない旨の通知に接した農事試
験場はあらためて卵でなく今度は優秀な大骨鶏雄二羽雌五
羽を京城にある瀬川少将を経て献上する事とし満鉄総務部
及び農務課で輸送方法や時期に就いて協議中である


(2)満州産の大骨鶏
    秩父宮さまに献上
        公主嶺農事試験場で飼育した
          雄雌七羽、けふ発送

今春五月秩父宮殿下御來満の節、公主嶺農事試験場では御附武官の手を経て満州産大骨鶏の卵三十個を献上したが、その卵からは遂に二個しか孵化しなかつた、そのためこの度瀬川侍従武官から再び農事試験場宛に手紙があつたので試験場では品種を
 厳選の  うへ目下生育中の大骨鶏雌五羽、雄二羽を瀬川侍従武官まで送付することゝなり、その鶏は丁寧に青竹で作つた籠に入れられ五日朝公主嶺から満鉄農務課に送られて来たので六日出帆の定期船で直に東京に送られるが瀬川侍従武官の手を経てこれら光栄の鶏は秩父宮殿下に献上される筈とのことである、さてこの大骨鶏は満洲稀有の鶏で体も重く卵も大きく、目方は雌で約一貫目(普通七、八百匁)卵は二十匁から二十五、六匁(普通十四、五匁)あり食用卵用兼用として特に将来を
 有望視  され、満鉄農事試験場の手で目下盛んにその改良に努力中のもので、普通年産八十個位のものが現在の改良種では百九十九個を産み出すほどの良種なものが生れるまでになつてゐる、色はバフ、褐色、黒色である、満鉄当事者一同は何れもこの殿下の思召に感泣し層一層品種改良の努力を誓ってゐる(写真はけふ送り出される大骨鶏)


(3)献上品や光栄の人
    賑った出船のはるびん丸

<略>その外関東軍より宮中に献上の梨、ウヅラ、鷹五羽、満鉄農務課より秩父宮殿下に献上の大骨鶏雌五羽、雄二羽等々…はるびん丸は久方ぶりに数多の話題を乗せて出帆した

(4)聖上に畏くも
    大骨鶏献上
     東京満鉄支社から

【東京特電十五日発】満鉄より秩父宮殿下に献上されることゝなつてゐた公主嶺農事試験場の大骨鶏七羽は去る十二日午前七時無事東京駅に着いたが、右大骨鶏は秩父宮家に献上さるゝものにあらずして、
 畏くも  聖上陛下に献上せらるゝものである旨瀬川侍従武官より満鉄東京支社に通達あり、満鉄東京支社にては恐懼して右大骨鶏を直に狸穴社宅に移して手当を施したるのち、十三日午前十一時半杉浦事務員は満鉄東京支社長代理として江口事務員帯同のうへ宮内省に出頭、宮内省内廷課長黒田長敬侍従を経て公式献上の手続を終へ退出した、洩れ承るところによれば先年高松宮殿下の満洲御視察の砌、公主嶺農事試験場において右大骨鶏を 御覧に  相成り、予て生物学御研究に御興味深くあらせらるゝ聖上陛下に御帰後京報告ありしため、秩父宮殿下におかせられては今春満洲ご見学の際、特に右聖上陛下の御思召を体せられて右大骨鶏の献上につき瀬川侍従武官まで御下命ありしものと推察され、満鉄支社においては有難き光栄に感激してゐる


(5)献上の鶏卵に
    御聖徳を偲ぶ
     瀬川武官を経て大骨鶏を
      国家産業の資料に

(公主嶺)本春侍従武官瀬川少将をして在満軍状を視察せしめられ畏れ多くも軍隊の慰問の有難き御思召を伝達せられたるもので当時公主嶺農事試験場では産卵数増加の改良試験中なる大骨鶏の巨大卵を珍品として御台覧に供し奉らむとし同武官が大任を果し離満せんとする時佐藤庶務主任が携帯して安東県まで出張し侍従武官を経て献上の手続きを採られた事は当時報道せる事なるが其後宮中では在外臣民の赤誠を御嘉納遊ばされ宮中養鶏係に命じ孵化せよと仰出され係官は聖旨を奉戴し熱心に孵卵作業に従事されたるも遠路運搬中の動揺により遂に一箇も雛鳥とならざりしと洩れ承はり満鉄当局も恐懼措く能はず先般親鳥を選抜し大骨鶏の雄二羽雌三羽を瀬川侍従武官を経て献上の手続きを了した處、時恰も陛下に於かせられては陸軍大演習御統裁の御為め岡山県下に御駐輦中侍従武官の奏上により御嘉納の御沙汰があつた事を如何なる誤りか或新聞紙上には秩父宮殿下に献上せるものゝ如く誤り伝へられたので宮内相当局は畏れ多しとして東京満鉄支社に対し誤解なき様注意さるゝ處ありたりとの事である、僅か二十箇の鶏卵巨大鶏を珍重として捧げたる国民至誠の献上品を其場で費消する御食膳に供し給はず国家産業改良の資料として孵化を御命じ給ひたる御聖慮の有難き御聖徳の御高き唯勿体無きの極みであると当地試験場某氏は謹んで語つて居た


(6)献上の大骨鶏が
    御養場で卵産
     瀬川少将よリ松島場長に礼状

(公主嶺)農事試験場より侍従武官瀬川少将を経て大鶏卵産出を以て有名な養鶏改良の種鶏大骨鶏を聖上陛下に献上したる事は当時既報の通りであるが此程同少将より松島の農事試験場長宛左記の如き禮を寄せられ内地に於て産卵したとの報に接した
拝啓 時下寒冷の候愈々御清穆之段奉賀候陳は先般格別の御配慮に依り御送附下され候大骨鶏雌雄共異状なく到着東京満鉄支社を経て受領直に献上の手続を了し目下御飼育中にて本日始めて第一回の産卵致候旨承り定めし御満足の御事と拝察致し居候此に度々の御配慮に対し深謝の謝意を表し申候右御報旁々御通知迄如御座候 敬具
  十二月四日                 瀬川章成
     松島鑑殿

 ところで、高橋五百歩の「満鉄社員」にも、この大骨鶏献上の生々しい話が出てくるのです。「満鉄社員」は高橋自身と思われる熊谷耳郎、多分ジロウと読むのでしょうが、熊谷の回顧録という形で書かれていてね。熊谷がハルピン鉄道局で現業員養成係の新設を命じらる。でもそれは表向きでの話で、本当は関東軍のソ連の鉄道事情研究に協力するのが仕事だったというところから始まります。
 満鉄の昭和12年版「職員録」をみると、高橋は哈爾浜鉄路局総務處(40)にいて、昭和15年版では、引き続き哈爾浜鉄道局総務課(41)にいます。「日本人物情報大系」は、昭和15年版までしか収めていないので、その後はわかりませんが、高橋の略歴は「照和8年満鉄在職のまま関東軍鉄道司令部嘱託,その後一時復社,昭和11年再び軍鉄道司令部嘱託となり,その後ハルピン鉄道局特別調査機関勤務となり,その主任,課長となる。(42)」ですから、熊谷と重なるところがあります。
 熊谷はソ連の線路開通を確かめるため危険な任務もこなしたりするのですが、ある年の12月、東京・麻布の満鉄総裁公館で開く参謀本部主催の大陸鉄道研究会のために、ハルピンから極秘書類を詰めた大型トランク2つを持って出張します。
 3カ月かけて報告書をまとめたが、その間、秩父宮大佐は参謀本部側の研究委員として何度か出席され、最後の日と思われるのですが「午前の予定が終って、主客がそろってお昼の会食をすることになった。こうした機会には滅多に巡り合わないたせろうという心づかいから、遠来の満鉄社員は、とくに秩父宮の側近くに誘導されて席についた。(43)」そうです。
 高橋は「秩父宮委員の人間味」という章で、秩父宮にまつわるエピソード2つ書いているのですが、資料その13はそのジンパ分であり、資料その20が大骨鶏の方なんです。秩父宮様御臨席のちゃんとした食事ですから、デザートは別室だったんですな。そこで熊谷、つまり高橋が大骨鶏献上でドタバタしたことを殿下に申し上げたんですね。殿下の当意即妙が決まってます。

資料その21

 もうひとつのはなしは、この旅行からご帰京になって、宮さまは兄殿下に、旅行中の土産ばなしを言上されたが、そのとき、
「公主嶺の満鉄農事試験場に、年産三百六十個の多産鶏がいるそうです。」 と、いわれた。
 この方面にご趣味の深い陛下は、
「それは珍らしい。原種一番を割譲してもらえないだろうか。」 と、すこぶるご執心の態度をお示しになった。
 このことが、宮内省から満鉄本社に伝えられ、本社では直ちに農事試験場長宛に、献上の指令を社内電報で発した。するとここにひとつの間違いいが起きた。
 電報の宛名に「ノジチ(農場長)」と、書いた略号が「チジチ(地事長)」に誤って受信され、その電報は、チジチの地方事務所長に、しかも夜半に配達された。
「キウチユウニケンジヨウノ」ダイコツケイヲ」アスノトクキユウデケイコウセヨ」ソウサイ」
(宮中に献上のダイコッケイは明日の特急で携行せよ。総裁)
 面くらったのは地方事務所長で、地方課長を呼んで首をひねってみたが、何んのことやらチンブンカンプンで皆目わからない。宮中献上、明日特急、ゆるがせできなかったので、地方課長は夜半をいとわず、駅電信室までノコノコ歩いて行って、電信照合を依頼した。そこではじめて宛名の間違いであることがわかった。
 ダイコッケイというのは「大骨鶏」と、いう鶏の品種のことであった。そして献上のことについては、昼間本社と試験場の間には、電話の打合せがすんでいて、電報は記録を残すための形式にすぎなかったので、側杖を食った地方事務所こそいい災難であったわけである。
 当時、熊谷は公主嶺に在勤していた。記憶のなかにこのほほえましい光景が浮んでいたので、陪食のデザートで別室に招かれたとき、彼は旧知に再会したような錯覚から、大骨鶏のはなしを懐旧談として持出した。すると、
「そいつはどうも、大コッケイでしたね。」と、宮さまの表情が大きくほころびた。

 最初ね、秩父宮が大骨鶏の卵を所望されたのは、生物学がお好きな兄上陛下を喜ばそうとしたぐらいに思っていたら、ちょっと違ったらしい。昭和4年の国民新聞に「陛下勅命の/珍鳥/南洋から十六羽持帰る/甘露寺侍従が」という記事があったのです。積んできたのは「ジヤワ、スマトラ特産の珍鳥、鶏の原種十三羽、黒雉子二羽、赤襟鳳凰一羽合計十六羽」で「宮内省では服部廣太郎博士が専らその飼育に當る(44)」というのです。
 服部はれっきとした宮内省御用掛で陛下の生物学の先生です。秩父宮は前の年から皇居内で、この「鶏の原種」を飼っていることを知っておられたからこそ、大骨鶏の割譲にこだわったんでしょう。おじいさんの教育勅語にある「兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という教えを地で行ったってことですなあ。
 ところで、秩父宮が公主嶺においでになった1年後に秩父宮盃を頂いて運動会を開いたという記事があります。資料その21(1)がそれですが、私はこれまで一番公主嶺の記事が載っているとみた大連新聞を主として読んでいて、満洲日報は手つかずに近い。満洲日報を遡って読めば、秩父宮殿下が公主嶺の人々へ優勝盃を下賜された経緯がわかるかも知れません。
 昭和9年に秩父宮殿下が満洲国にお出でになったときの新京駅長の高沢公太郎氏談話として「この前秩父宮がお出での時は、畏くも酒肴料として金一封を賜つたが、それで優勝旗をつくつて旅客、貨物、運転の三部に分れて毎年陸上競技武道スボンヂなどの試合を行つて優勝旗争奪戦を試み体育の奨励をやつてゐます(45)」という新聞記事がありますが、わざわざ秩父宮盃と呼ぶからには、こんな簡単ないきさつで作られたと思えません。
 それによってまた鍋献上説に関係する情報が見付かるかも知れません。ほかの課題解明と並行して満洲の新聞読みを続け、いずれ講義内容を更新するつもりです。
 秩父宮殿下は昭和13年、中国戦線と満洲を視察されたのですが、一切伏せられており、無事帰国されてから資料その21(3)に示すように発表されたのです。中の「昭和十年天皇陛下御名代として」は誤りで昭和9年だ。また同(4)は戦後出版された「雍仁親王実紀」からですが、このとき公主嶺にも行かれたことは明らかです。朝日新聞は「中北支の戦線をつぶさに御視察、満洲国にも御立寄り遊ばされた(46)」と書いていますね。
 夏の夕方、新京をたって公主嶺までいって戻る納涼列車があったくらいだから、飛行部隊視察は当然日帰りでしょう。となれば昼食はジンギスカンとなりそうで、複数の人々が秩父宮様にジンギスカンを差し上げたと伝えるのは、この13年のご視察のときのことのようなので、公主嶺駅員だった磯野利男さんの記録と絡めて取り上げましょう。
 満洲でもずっと北の方に入植していた千振開拓団を訪問されことは5月「二十七日 佳木斯駅御発、千振村移民団御視察(47)」と記録されています。そのとき宗団長の手記の抜粋が資料その21(2)です。「団生産の緬羊で料理した回回料理」という書き方なのでジンギスカンとは断定できないけれど、千振産の羊肉を食されたことには変わりはない。
 宗団長は昭和3年夏から4年ほど満鐵公主嶺農業実習所長(48)を務め、陸大生の殿下が公主嶺見学にお出でになったとき、同じ公主嶺で満洲で農業を始めようという青年たちを鍛えていた農業教育者でした。ですからジンギスカンを知らないはずがない。しゃぶしゃぶだったかもね。
 秩父宮様は療養のため、この3年後から御殿場に住まわれた。農場を開いて「ニワトリとメンヨウは御殿場に来て間もなくから、終戦後アンゴラもヤギも一時は飼っていました。役ウシも朝鮮牛を一頭三年ばかりおいていたんだが、今は飼っていません、食糧事情も年一年とよくなってくるので昨年から五反歩位に減らし、更に三段位にしようと思っているけれど……」(49)と、インタビューで答えています。
 昭和18年春に御殿場で陸軍製絨廠の供出羊毛検収があると「聞召れ、畏くも御生産の羊毛を”兵の戎衣に”との有難き思召をもつて、十七日陸軍製絨廠に下賜あらせられた(50)」という新聞記事がありますから、御殿場に来て間もなくから飼われたことは確かです。まあ、秩父宮様は何かと緬羊と縁のあるお方だったのです。次回は満鉄公主嶺駅員だった石川利男氏のジンギスカンの思い出を取り上げます。

資料その22

(1)[公主嶺]
    殖産部軍優勝す
     気遣はれた雨もはれて
      第一回運動會の盛況

公主嶺体育協会並に満鉄運動会支部主催の第一回陸上競技大運動会
は既報の如く七日午前八時半開始のところ六日の午後より断続的に
見舞はれた降雨は当日も晴雨定まらず所謂雲行き観望順延説もあつ
たが各団体の主将と協議の結果全公主嶺第一回の大運動なので風雨
に拘らず断行すべく決定しトラツクその他の手入れ等に開始を十時
に改定一般に急告し各係員の大活躍に諸設備は完整し型の如く各チ
ームは楽隊を先頭に勇しく入場し優勝旗の返還式を終り小学生によ
り運動競技は開始され競技種目の如く順序よく進行十一時半頃より
暗雲一掃無風快晴の運動日和に恵まれたので観衆は殺到前例になき
盛況を呈し各軍の応援団は白熱化し責任競技の行はるゝ出場選手は
必勝を期しての奮闘目覚しくフアンの手に汗を握らせたが些の故障
なく全競技を終り優勝旗と秩父宮殿下優勝盃の授与式を終つたのは
七時半にして当日の優勝軍は殖産部であつた


(2)秩父宮殿下千振開拓団御視察
        元千振開拓団長
            宗光彦記

<略>それから農事試験場に御案内したが、途中で小
学校に立寄られた。そのとき小学校では恰も豚が
分娩最中であったし、鶏舎の金網張り作業の実習
中であった。これらを興味深かげに御覧になり
「ここでも白レグを飼うのかなあ」などといわれ
た。試験場では、ちょうど珍しく捕えてきたざり
蟹が二、三匹入れてあるのを御覧になって「ここ
にもざりがにがいるのかなあ」と言われた。私は
この動物を初めて見て珍らしく思ったのに、殿下
はすでに御存知であるとは、お知識の広いお方だ
と感嘆した事であった。三時間余りの御視察を終
えられ、試験場建物の前で記念撮影の後、千振荘
で小憩し、団生産の緬羊で料理した回回料理を差
し上げると「これは美味い」とお賞めを頂いた。
<略>


(3)御一ケ月に亘り
    第一線を御視察
     秩父宮殿下 四日 福岡御着

【福岡國通】秩父宮殿下には去る五月四日御附武官小池中佐、山口少佐を従へさせられ飛行機にて福岡御出発、同夕刻上海に御到着後或は急造の御召列車で或は飛行機に召され硝煙の臭漂ふ中支、北支の第一線を親しく御視察、皇軍将兵を犒はせられ、御憩ひの御暇もあらせられず十八日北京御発張家口を経て満洲に向はせられた、殿下には昭和十年天皇陛下御名代として満洲国を御訪問遊ばされてこの度に四年目の御渡満のことゝて殊のほか御親しみも深く、かくて重要地点を御視察遊ばされ、四日飛行機にて奉天を御出発、同日午後一時卅四分御出発以来一ケ月にわたる長期の御視察の旅を御恙なく終へさせられ、御機嫌麗はしく福岡雁の巣飛行場に御帰着遊ばされた
 小池御附武官謹話
【福岡国通】秩父宮殿下におかせられては去る五月二日東京御発、中支、北支の戦蹟を御巡視遊ばされ、次で満洲各地における軍状並に産業、交通、移民、教育等について御視察遊ばされ六月四日長途御多忙な御旅行にも拘らせられず、些の御疲れもなく福岡着御帰國遊ばされたが、右御視察の御模様につき小池御附武官は左の如く謹話を発表した
    □
<略>殿下には
  軍状  の外産業、交通、移民、教育等の諸政策就中満洲における民族融和の具現に関しても深く御心を留めさせ給ひ、上海、北京、新京其他現地において各主任者を召されて實況を御聴取遊ばされ特に満洲に於ては千振移民團、孫呉青年義勇隊、新京大同学院、同建国大学、奉天満軍中央訓練處、鞍山昭和製鋼所等を親しく御視察遊ばされました<略>


(4)昭和13年5月
<略>二十日  奉天を経て新京御着。
二十一日 関東軍司令部に於て植田軍司令官・東条参謀長より状況御聴取。宮内府に満州国皇帝を御訪問、御招宴に御臨席、大同学院・建国大学御視察。
二十二日 新京陸軍病院御視察。溥傑氏夫妻・潤麒氏夫妻を午餐に御招待。
二十三日 公主嶺の飛行部隊御視察。
二十四日 新京御発、国境方面に向はる、牡丹江及び東寧御視察。<略>


(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記の(39)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん」(CD−ROM版)、287−2号、平成13年、ISONO sunao=原本、 資料その20(1)は昭和5年10月29日付大連新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 同(2)は昭和5年11月6日付満洲日日新聞朝刊10面、同、 同(3)は昭和5年11月7日付同夕刊2面、同、 同(4)は昭和5年11月16日付同2面、同、 同(5)は昭和5年11月25日付大連新聞朝刊7面、同、 同(6)は昭和5年12月17日付同5面、同、 (4038)は芳賀登ら編「日本人物情報大系」17巻226ページ、平成11年10月、皓星社=原本、底本は昭和12年9月1日現在「職員録」186ページ、 (41)は同436ページ、同、底本は昭和15年7月1日現在「職員録」409ページ、 (42)は高橋五百歩著「満鉄社員」奥付、昭和34年4月、東都書房=館内限定近デジ本、(43)は同45ページ、同、 資料その21は同45ページ、同、 (44)は昭和4年4月7日付国民新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (45)は昭和9年5月10日付新京日日新聞朝刊3面、同、 (46)は朝日新聞社編「朝日新聞縮刷版 昭和13年6月(復刻版)」39ページ、平成7年7月、日本図書センター=原本、底紙は昭和13年6月5日付朝日新聞朝刊3面、 資料その22(1)は昭和6年6月10日付満洲日報朝刊5面=マイクロフィルム、 同(2)は満洲開拓史刊行会編「満洲開拓史」822ページ、昭和41年3月、満洲開拓史刊行会=原本、 同(3)は昭和13年6月5日付新京日日新聞朝刊1面=マイクロフィルム、 同(4)と(47)は秩父宮家著「雍仁親王実紀」584ページ、昭和47年11月、吉川弘文館=原本、 (48)は南満洲鉄道株式会社総裁室地方部残務整理委員会著「満鉄附属地経営沿革全史」下巻267ページ、昭和52年4月、竜渓書舎=原本(復刻版)、 (49)は博友社編「農業世界」47巻1号44ページ、「秩父宮殿下と農業 新しい農村の向上策を語る」より、昭和27年1月、博友社=館内限定近デジ本、 (50)は昭和18年5月18日付朝日新聞朝刊3面=マイクロフィルム