皆さん、前回配った細川日記の資料、持ってきてますね。では、その続きをやりましょう。黒田清隆との契約に従って、御雇い教師として日本へ赴任する直前のホーレス・ケプロンが、博覧会視察に渡米したばかりの細川とがサンフランシスコで4回会ったことは明らかです。西島照男さんがタイプ清書ではなくて手書きのケプロン日記を訳した「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」の記述と細川日記の日付、それに横濱での英字新聞の客船記録を付き合わせると、ピタリ一致することを示すテーブルを用意したので、スライドで見せましょう。細川日記によると、シスコからニューヨークまで汽車で6日を費やしています。ワシントンとニューヨーク間を1日とみると、黒田がサンフランシスコで船に乗った後までも、ケプロンは政府高官としての秘密保持の義務でしばられていたという点からみて、それ以前に黒田を女子教育の視察に連れ出すような行動は、取りにくかったのではないか。黒田がたとえば女子教育に関心があったすれば、その先生はケプロンでなくて、アメリカ駐在の少辨務使森有禮に案内されたとか、帰りの道中に付き添った人物ではなかったか。特に後者はじっくり話す時間があったでしょう。ただ、これは私の想像であって、証拠はもちろん何もありません。
明治4年 1871年
5月 6日 6月23日金曜 細川が横濱出航
10日 27日火 ケプロン、後任者決定を催促
11日 28日水 グラント大統領、辞職許可する
14日 7月 1日土 黒田がシスコ出航
17日 4日火 ケプロン、秘密保持任務から解除
26日 13日木 ケプロン、農務局で離別のあいさつ
28日 15日土 細川がシスコに到着
29日 16日日 ケプロン、ケノーシャで子息を見舞う
6月 7日 24日月 黒田が帰国、153日間の旅終わる
細川は毛織物工場を視察
8日 25日火 ケプロンがシスコ到着、細川の宿訪問
9日 26日水 ケプロン、細川と懇談
10日 27日木
11日 28日金 ケプロンと細川、植物園見物へ
12日 29日土 ケプロンと細川連れ立ち農具購入
15日 8月 1日火 ケプロン一行の出航を細川見送る
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参考文献
上記スライドの出典は細川潤次郎著「新國紀行」13ページ、明治16年1月、細川潤次郎=近デジ本、ホーレス・ケプロン著・西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」26ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、北根豊監修「日本初期新聞全集」第31巻476ページ、平成11年6月、ぺりかん社=原本、原紙は「The Japan Weekly Mail[Aug.26,1871]」
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はい、このようにケプロンは細川と語り合ったり、行動をともにしながら、羊毛をとるならばメリノーが一番と教えてた可能性を私は指摘したかったのです。しかも、細川はケプロンと初めて会った日の前日、パシフィックウーレンミールなる織物工場を見に行き、羊毛を洗って染めるところから毛布とメリヤスにを織る工程までじっくり見たばかりでしたから、ラシャぐらい自給したいのだが、羊は日本でもどんどん増やせると思うかなど尋ねたいことが山のようにあったでしょう。日記によれば、ケプロンと別れて6日後の6月21日、太陰暦の方ですよ。牧畜を学んでいる岩山壯八郎が宿に遊びに来て、人工造石の話を聞かせたようです。1862年にランソメーが発明したうんぬんという記述からすると、高炉セメントのことらしいのですが、岩山と羊の品種選定まで話し合ったとは日記にありませんでしたよね。はい、そこできょうの資料を配ります。私が手間を掛けたデータや読み下しに苦労した漢文も入っています。
細川はサンフランシスコの博覧会視察の後、大陸横断鉄道に乗ってニューヨークへ行き、さらにワシントンとボストンにまで足を延ばします。ナイヤガラ瀑布にいたく感心したようで、4ページも書いています。ワシントンでは農務省の建物を見て、前長官ケプロンの名前がもう一度出てきますね。サンフランシスコのブルークス領事は、細川が帰りに乗る予定だった船がきているが、まだ「ニューヨルク」から戻っていない。岩山は「マスサコセットニ罷越ボストン近傍ノプムヘルストノ農学校ニ入門ノ儀勧メ置申候」、三隅はオークランドで療養していたが残念ながら帰国する(1)などなど、筆まめに外務省に連絡したことが外務省日誌からわかります。結局、三隅は細川と同じ船で帰国しました。
細川が帰国したというサンフランシスコの新聞を訳した記事が明治4年の「万国新聞」の翻訳ダイジェスト版に載っています。「果シテ日本国ニ於テ貴重スベキ人物」と、大変な持ち上げようです。細川のように農機具や緬羊を直接買い付けにきた明治政府のお役人は稀だったので、サンフランシスコでは評判になったのでしょう。いまからプリントを配りますが、資料その1の(1)がそれです。また、細川が買った羊8頭はどうなったのか。やはり「日本初期新聞全集」に収められた「新聞雑誌」にその後の消息が載っていたのです。それが資料その1の(2)です。細川さん、種付け済みを意識して買ったとも思えませんが、記事によれば2頭生まれたので、明治5年には全部で10頭が飼われていたことになります。これで細川の買ったメリノーが岩山の羊より先に日本にきていたという証拠が全部そろったことになります。はい。
ところで皆さん、フランス物でロックフォールというチーズを知ってますか。微塵切りのキュウリみたいに青カビの入ったあれは、ラコーヌ種という羊の乳で作ったものです。細川と同じころ、国内にいた羊の乳を搾って、国産ロックフォール・チーズを作ろうとした勇敢なチーズ好きがいた―というのは冗談ですよ。はい、チーズ。
資料の1の(3)を見て下さい。羊の品種はわかりませんが、明治4年末に牛ではなくて、緬羊の乳を搾って売り出したという記事が見つかったのです。細川さんが日本で海外まで羊を買いにいったのは我が輩が初めてなるぞと胸を反らせていたころ、もうこのように国内で何頭も羊を飼っていた日本人がいたのです。山羊の間違いじゃないかと思うでしょうが、この記事のすぐ隣に「○或ル医士ノ説ニ食物ハ人身ヲ養フ第一ノ者ナルニ泰平ノ奢侈ノ弊ヨリ只其口ニ甘キヲ賞翫スルコトニ成行シモ開化ノ今日肉食ノ人身ニ益アルコトヲ知ルニ至レリ凡テ滋養食物ノ概略ハ牛肉牛乳ソツプ鶏肉鶏卵五穀ニハ小麦蕎麦大豆ノ類菜蔬ニハ葱胡蘿蔔慈姑蓮藕馬鈴薯ノ類此外尚有リ蕎麦ハ滋養ノ功多シ然ルヲ世人其功アルヲ知ラザル者多シ酒ハ葡萄酒麦酒ノ類但シ過飲スヘカラス云々」(2)という記事があるので、飼い主は当然ですが、記者たちもラシャメンと山羊を区別し、山羊の乳ではないことを十分に承知して書いたと思われるのです。牛乳は滋養食物と書いた隣に羊乳販売開始の記事を置くなんて、整理の芽生えが感じられますね。ああ、後に新聞社では紙面のレイアウト、見出しの文句を考えたりする記者を整理記者というようになりました。女性の何と勘違いしないように。
となると、この羊はどこからきたのか。横濱あたりで外国人にクリスマスにまで間があるから、しばらく預かってくれと頼まれて羊の世話をしているうちに、飼育や繁殖に自信を持つような人物が出てきてもおかしくないでしょう。明治4年11月12日、岩倉使節団が政府要人に見送られて横濱から出航した記事に続けて「耶蘇誕日にハ屠牛家にて其見世に肉類を飾るは一般の風俗なれは當所にても諸家大に競て飾を為したり我輩見聞する日本屠牛場並にボルグス人名 社中ドモニー人名 社中ドグレス人名 社中(共に屠牛会社の名)及ひ其他の諸店争ひ飾れる中に就て日本屠牛場は勉て新鮮の牛肉豕肉羊肉等を択ミ日本国にて極上なる者を掛けたり」(3)と「万国新聞」はクリスマスを迎える肉店や屠畜場の様子を伝えています。11月にクリスマス騒ぎとは変だと思わないで下さい。陰暦のせいです。西暦では12月23日、イブの前日に当たっていたのです。
清国羊でも蒙古羊でも、とにかく新鮮なる羊肉を店先にずらりとつるしたのでしょうね。つまりそう飾ることができたということは、ごちそう用に稲わらや干し草を食べさせて師走までもたせていたからでしょう。同じように草を食べ、反芻する牛を飼った経験があれば、その知識が応用できます。難しいことではないと思います。錦糸堀で緬羊の乳を売り出した御仁も一頭や二頭じゃなかったでしょう。
小谷さんの「羊と山羊」によれば「羊は乳汁を分泌すること少なきを以て羊乳を搾取販売せんが為めに緬羊を飼育するは恐くは伊太利國を除きて蓋し他にあらざるべし、尤も牛乳よりも養分多しとて欧州諸国にても間々之を賞用するものあり、支那にても蒙古、西藏には夙に之を茶と共に飲用し、一日も欠く可らざる要品とし又之より乾酪を製して古来、北京朝廷への貢物とせり」とあります。さらにイタリーは乳量の多い羊も多く、ソブラビシヤナ種という普通の羊でも年産「二斗四升余乃至二斗七升余にして一日一頭の平均産額は一合四勺乃至一合六勺余とす(通常羊の約二三倍)」(4)と記していますから、明治から大正にかけてはイタリー産の方が有名だったらしい。つまりペコリーノ・ロマーノなどペコリーノと付いたイタリー産の羊乳チーズです。乳量1升は1.8リットルですから、自分で換算しなさい。
ついでにいわせてもらいますがね、月寒種羊場でもちょっと乳用羊を飼った記録があります。大正15年の雑誌「畜産と畜産工芸」に「羊乳の研究」と題して岡本正行場長がドイツ原産のオストフリーシャン種9頭による搾乳実験の結果を発表しています。さらにメリノーとコリデール両種の離乳後の乳でバターを作ってみたら脂肪分が多いため「牛乳の場合の約二分の一の乳量を以て同量の乳酪を得た」(5)そうです。
雑誌「シープジャパン」のホームページで、公開されている東北大の大内望先生たちの論文を引用させてもらえばですね、羊は「泌乳初期には日量約1.2Lを生産するが徐々に減らされ、泌乳期間180日を通じて、約210Lを生産する」。それで、牛1頭分の乳量を確保するには「約30頭のめん羊が必要」(6)とあります。これはフランスの搾乳専用種のデータのようで、錦糸堀でははるかに出る量が少なかったし、買手も少なかったと仮定して、20頭ぐらい搾って日産1斗、18リットルぐらい売るつもりだったんじゃないですかね。ともあれアメリカ直輸入のメリノーとまったく別に、明治4年には外国人が食べるためや売り物として輸入した羊たちが当時、もう開港地から、だんだん広がり始めていたと考えられます。今日の資料、一番後ろの人にもいき渡りましたか。
資料その1
(1)万国新聞第52号
オークランド新報抄訳 明治四年辛未九月十九日発行
日本官人出立ノ事
吾輩昨夕新聞ヲ得タリ曰ク本日出帆ノ蒸気アメリカ 舩号 ノ旅客多キガ中ニ華盛頓ノ人ヱス、ペルシャイン、スミッツ君及ビ細川潤次郎君モ乗組タリトスミッツ君ハ故ト華盛頓府政庁ニ於テ法律ノ補助官タリシガ今度皇国日本政府其國ノ為メ同氏ヲ万国公法ノ商議官ニ命ジタリ其職務ハ必ス緊要ノ事ニシテ是迄日本政府ニテ外国人ニ委任スル所ノ類ニアラザルベシ而テ同氏法律ノ学ニ暁ニシテ礼節ニ達シタルヲ知レル者ハ同氏ヲ此任ニ充ツルヲ以テ至当ト為ス近頃日本政府ハ大改革ヲ成シテ候伯食邑ヲ全廃シタレバ内国ノ法律及ヒ万国公法モ随テ全ク改正スベシ則チ万国公法商議ノ新官ハ其国政ニ関スルヤ甚ダ広ク将来成功ノ日ニ至ラバ善悪トモニ衆人之ヲ観ルベシ
細川君ハ日本ニ於テ農業ノ事ヲ委任セラルゝ人ナリ今度内国事務局ト執政ノ命ニヨリテ米国ニ来リ過日桑法朗西是格ニ於テ興行アリシ人工物展覧会ヲ見分シ加之大西洋沿海ノ大都会ヲ巡行シ諸邦諸邑ニ至リテ各般ノ製造局ヲ観察シタリ是蓋シ其製造法ヲ日本ニ伝ヘント欲スルナリ同氏帰国ノ時搬車、蒸気打樁機、種々ノ舟車、乗車、蒸気毛織機械各種ノ新機械、農具其他必要ノ品物ヲ舩ニ積ミタルヲ以テ是ヲ察ルベシ細川君使節ト為リテ他ニ習慣セル人ノ補助ナク斯ノ如ク諸事整ヘルハ果シテ日本国ニ於テ貴重スベキ人物ナルコト知ルベシ向後我米国ニ使スル者ハ皆此ノ如ク才能アリテ実用ヲ達スベキ者ヲ択テ委任アランコト和米両国人民ノ為ニ希望スル所ナリ
(2)新聞雑誌26号 明治5年1月発行
○昨年細川少議官「米利堅」国ヨリ帰朝ノ節諸種苗及ビ耕作器械等ヲ携ラレタリ其中綿羊八匹當時雉子橋御門外官邸ニアリ是ハ彼国滞在中探査シテ償ヒ得ラレタルモノニシテ最上ノ品種ナリ価直モ亦随テ貴ク凢ソ平均一匹ニ付キ洋銀百五十弗内外ニ當レリトソ我邦古来未ダ如此上種品ノ来ルヲ聞カズ此牝羊ノ内妊メルモノアリテ昨冬十二月廿日朝牡児一匹ヲ産シ同廿日復タ牡児一匹ヲ産セリ其余ノ分娩モ皆近キニアリト食餌至テ些少ナリ 一烏麦 水ニ浸ス 一胡蘿蔔 細カニ切ル 一豌豆 水ニ浸ス 右ノ品一匹ニ付一合余ノ量ヲ分半シ朝八字ト夕四字トニ飼養セシム又塩少々ヲ隔日ニ與フ若シ躯幹ニ■<やまいだれの中に種>物或ハ疥癬等ノ類ヲ発スルコトアレハ煙草ヲ水に浸シ此水ヲ以テ洗フコト凢三四度ニシテ効アリト云
(3)新聞輯録6号 明治4年12月発行
○近頃本所錦糸堀元亀岡邸住居羣濈窩主人綿羊乳ヲ売出セリ其定価一升銀四十匁一合同五匁ナリ又煎熬シテ遠國ニ送リ或ハ数日貯ヘテ腐敗ノ憂ナカラシム綿羊乳ハ大有力ノ滋養薬ニテ専ラ衰弱ヲ滋補シ神気ヲ強壮シ肺労神経労瘰癧病其他血液費耗セル症ニ功験アリ又性質虚弱ナル人或ハ労瘵質ノ人朝暮之ヲ服シテ身体ヲ強壮ニス小児乳ナキ者又乳不足ナル者常ニ之ヲ用ル最良シ
(4)金港雑報20号 明治4年12月発行
長崎来信
當地も鶏豚の類大に流行追々直段騰貴致し既に左の通蒸気テルコンヤン船上海より當港へ積越候所直様相場下落いたし買手更に無之人心の変更速なり右に準し猫鼠の類少々流行せり
○羊 七百疋 一疋ニ付七弗 同運賃二弗
○豚 五百疋 代価ハ略す
○鵞 千六百羽 一羽ニ付 壱弗半 同同 壱弗
○七面鳥 五百羽 同 三弗 同同 壱弗
○兎 七百羽 同 壱弗半 同五十セント
○家鴨 五百羽 同 壱弗 同五十セント
(5)新聞雑誌第26号 明治5年発行
○我朝ニテハ中古以来肉食ヲ禁セラレシニ恐多クモ天皇無謂儀ニ思召レ自今肉食ヲ遊バサルゝ旨宮内ニテ御定メ之アリタリト云
(6)近世事情5篇巻11 明治5年
○(1月)二十四日<略>時ニ皇帝中葉以降肉食ヲ嫌忌スルノ陋俗ヲ除革セント膳宰ニ勅シ始メテ肉饌ヲ進メシム聞ク者嘖々叡慮ノ果決ナル率先シテ衆庶ノ迷夢ヲ喚醒スルヲ称ス
(7)京都新聞17号 明治5年2月
牛羊渡来
第十号ニ富国基礎ト記シタル京都府勧業場ヨリ大坂在留レイマン ハルトマン商会エ注文アリシ米利堅種ノ牡牛二匹牝牛廿五匹牡羊十二匹牝羊十二匹サンフランシスコヨリ舩中無恙正月廿八日神戸着港殊ニ舩中ニテ牛七匹羊五匹ヲ産ス孰レモヨク成長セリ彼地ヨリ牧者ヨンソン 人名 ト云フ者付添来ル此人牧法功者ノ由就テハ牧畜ノ道益盛ニナリ牛羊ノ蕃殖谷ヲ以テ数ルニ至ラン志アル者ハ此ヨンソン氏ニ就テ牧畜法ヲ直伝セハ功ヲ成スコト速ナルヘシ
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参考文献
上記(1)の出典は北根豊監修「日本初期新聞全集」第32巻83ページ、平成3年10月、ぺりかん社=原本、原紙は明治4年8月付「明治4年外務省日誌」15号13丁表、
(2)は同33巻418ページ、同3年12月、同、原紙は明治4年12月付「新聞輯録」6号4丁裏、
(3)は同巻384ページ、同、原紙は明治4年11月付「万国新聞」15号7丁裏、
(4)は小谷武治著「羊と山羊」81ページ、明治45年4月、丸山舎=原本、
(5)は畜産中央会編「畜産と畜産工芸」12巻7号6ページ、岡本正行「羊乳の研究」、大正15年7月、畜産中央会=原本、(6)は社団法人日本緬羊協会編「シープジャパン」第24号9ページ、大内望、ベルナルド・S・モジャノ、八巻邦次「南ヨーロッパの乳用めん羊」、平成9年10月、社団法人日本緬羊協会=原本、
資料その1(1)は北根豊監修「日本初期新聞全集」第33巻149ページ、平成3年12月、ぺりかん社=原本、明治4年11月付「万国新聞」(翻訳ダイジェスト版)52号1丁表、
同(2)は同34巻117ページ、同、原紙は明治5年1月付「新聞雑誌」26号3丁裏、(5)は同巻117ページ、同、原紙は同号7丁裏、
同(3)は同33巻418ページ、同、原紙は明治4年12月付「新聞輯録」6号4丁裏、(4)は同巻452ページ、同、原紙は明治4年12月付「金港雑報」20号9丁表、同(7)は同35巻208ページ、同、原紙は明治5年2月付「京都新聞」17号8丁表、
同(6)は山田俊蔵、大角豊次郎著「近世事情 5篇巻11」4丁表、明治6〜8年、山田俊蔵=近デジ本
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細川の羊に与えるえさの量が、なんだか少な過ぎるように思うのですが、サンフランシスコでケプロンから教わった通りだったのでしょうか。羊たちは横濱で陸揚げされ、東京に運ばれてからは雉子橋御門の外にある官邸、明治政府の勧農役邸で飼われていたことがわかります。雉子橋という場所は、皇居を囲むお堀の東側そば、東京メトロ東西線竹橋駅の近くです。検索すると、いまも30メートルほどの橋が架かっています。この雉子橋と竹橋一帯にはもともと厩舎があり、寛政5年に徳川家斎が白牛10頭を飼い始め、白牛酪と称する一種のチーズを作らせていた所なのです。「日本食肉文化史」に「現在、武道館に入り口近くに”牛が淵”と呼ばれるお濠が残っているが、江戸の牧場はこのあたりではないかと思われる。家斎がお膝元に牧場を作った理由にはおそらく新鮮な牛乳が飲みたいというようなこともあったのではないだろうか」(7)とありますがね。その白牛が明治政府になっても残っていて、明治4年11月の「新聞雑誌」は「房州嶺岡ニテ牧養セシ白牛ハ最モ美乳ヲ出ス由ニテ、此節雉子橋勧農役邸ニテ右ノ牛乳ヲシボリシヲ宮内省へ御買上ニ相成 主上日日両度宛御服用遊サルゝ由」(8)という記事を載せています。
「明治天皇紀」の明治4年12月4日の記述として、宮内卿徳大寺實則らが皇后に牛乳を滋養として勧め「乃ち本日より侍医に命じてこれを供進せしめたまふ、天皇亦十一月より日々両度飲用したまひしが如し、(9)」とありますので「新聞雑誌」の記事は正しかった。嶺岡牧場の歴史や徳川吉宗が輸入した白牛の意義などは、ジンパ学と直接関係ないので触れずに進みます。
こういう記述だけからみると、明治天皇は、まず白牛から搾った牛乳を飲まれ、やがて肉もお召し上がりになったように受け取れますが、どうも真相はその逆らしいのです。後の資料に引用しておりますが、まず牛肉をお好きになられたらしいのです。
宮中の肉食解禁はですよ、資料その1(5)で見せたように「新聞雑誌」に「自今肉食ヲ遊バサルゝ旨宮内ニテ御定メ之アリタリト云」という有名な記事が掲載されたのが明治5年1月だったので、一般には明治5年からと思われているし、さらに資料その1(6)と1月24日宮中で開かれた西洋料理による晩餐会と結びつけて、1月24日を記念すべき日と考えている人もいるようですが「明治天皇紀」には明治4年12月17日のところに「獣肉の供進」として肉食解禁(10)が書いてあります。つまり「明治天皇紀」に従えば、厳密には明治4年12月17日、西暦では1872年1月26日とみるべきなのです。「新聞雑誌」は第26、27、28号の3冊が明治壬申正月に発行されています。25号には「○十二月十七日ヨリ 皇城御車寄ヲ始メ其他諸口都テ靴ニテ昇降差許サレタル由(11)」という記事が載っています。26号はいわば元旦号であり、肉食解禁は靴履き許可と同時に決めたと思われるのに、半月遅い。反響が大きいとみて宮内省は発表時期を検討したのかも知れません。
いまの東京・濱離宮公園のところに延遼館という外国要人の接待所がありまして、前年11月18日の大嘗祭の日に、そこに各国公使10人を招待したときの献立が23号に載っています。何鳥かの焼き鳥以外は魚と野菜ばっかり。煮鮑、鯛の小串、鮭の作り身、鯉の汁で酒を飲み、赤貝と若布の酢の物、筍煮染め、栗煮染め、鯛の汁、大根の漬け物で御飯を食べた(12)と思われます。焼き鳥たって、そのころは本物、山野で捕まえた小鳥だったでしょう。それが、ころっと変わって4つ足OKとなったのですから、まさに革命だったのです。
いいですか。資料その2(1)をよく見て。牛羊と並んでいますね。一般には肉食といえば牛肉と早のみこみされていますが、そうではないんですね。牛肉と羊肉は同格だとお定めになったのでございますぞ。明治天皇は、普段は牛肉か羊肉を召し上がる。そして時々は豚肉、鹿肉、猪肉、兎肉を食べるとランクを2つに分けられたのです。勿論、細川が買い付けたメリノーが近くの雉子橋にいるから羊肉も食べると決めたのではなくて、自今国賓などを招く正餐に羊肉料理が出ることを見込んでのことですね。また鶏、鴨などの鳥類に触れていませんが、これらは従来通り召し上るということです。
クレオパトラの鼻がもう少し低ければ、大地の全表面は変わっていただろう―という、パスカルの言葉がありますが、このときに宮内省高官が牛肉としか受け取れないような肉食という表現ではなく、牛や羊の肉をお召し上がりになり、たまには豚なども、と具体的に新聞雑誌の記者に伝えていたら、パスカルではありませんが、日本に於ける羊肉の地位は変わっていただろう―でしたね。絶好の機会を逸しました。わがジンパ学の単位を取得したならばですよ、明治天皇の肉食の御沙汰と聞けば、すぐ私が「牛と羊は同格といってたっけなあ」と思い出して下さいよ。レポート評価の怨みはさておいてね。
資料その2はそうした肉食解禁のまとめです。(2)以下にさっと目を通してください。
資料その2
明治天皇紀
(1)明治4年12月17日
獣肉の供進
十七日 肉食の禁は素と浮屠の定戒なるが、中古以降宮中亦獣肉を用ゐるを禁じ、因襲して今に至る、然れども其の謂れなきを以て爾後之れを解き、供御に獣肉を用ゐしめらる、乃ち内膳司に令して牛羊の肉は平常之れを供進せしめ、豕・鹿・猪・兎の肉は時々少量を御膳に上せしむ、○宮内省要録、例規録、東京往復
(2)明治5年1月24日
二十四日 大臣・参議及び左院議長後藤象二郎・外務卿副島種臣・左院副議長江藤新平・外務大輔寺島宗則・大藏大輔井上馨・同少輔吉田清成・神祇大輔福羽美静・式部頭坊城俊政を御學問所代に召し、西洋料理の晩餐に陪せしめたまふ、○宮内少録日録、吉井友實日記
(3)明治5年1月27日
(御諱闕画の制を廃す及び擡頭平出等の書式を記録に用ゐるを停むは省略)
午後四時御學問所代に於て西洋料理を供進せしめ、文部卿大木喬任・司法大輔宍戸璣・同少輔伊丹重賢・兵部少輔西郷從道・同川村純義・東京府知事由利公正に御陪食を仰付けらる、太政大臣三條實美・左院議長後藤象二郎.大内史土方久元竝びに宮内卿輔等亦陪す、八時前入御あらせらる、○宮内少録日録、吉井友實日記
(4)明治6年7月2日
西洋料理食餌作法の稽古
二日 御學問所代に於て御昼饌を取らせられ、西洋料理を供進せしめらる、又本日より皇后の午餐に西洋料理二品を供進す、是の歳九月中旬以後の事なり、天皇、皇后及び女官等をして正式に西洋料理を食するの法を知らしめんとし、先づ九等出仕西五辻文仲をして其の法を練習せしめたまひ、文仲が築地精養軒主北村重威に就きて之れを習得するや、一日皇后と内廷三層の楼上に出御して西洋料理を供進せしめ、陪食の女官等をして文仲の爲す所に傚はしめらる、皇后、天顔の麗しきを拝して歌を詠じたまひ、其の夜文仲の宿直せるを召して之れを賜ふ、御歌に曰く、
高楼に大御酒給はらすとて人々
いとまなうつかうまつりけるを
最上川ふねにはあらぬ高殿や
のほり下りもいなとたにせぬ
○内膳司日記、青山御所内膳司日記、西五辻文仲談話速記
(5)明治6年7月15日
十五日 宮内卿徳大寺實則・宮内大輔萬里小路博房・侍從長東久世通禧及び東京鎭臺司令長官陸軍少將山田顯義・文部省三等出仕田中不二麿・從四位由利公正・同佐佐木高行を召し、御學問所代に於て西洋料理の午餐に陪せしめたまふ、○内膳司日記
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参考文献
上記(7)は伊藤記念財団編「日本食肉文化史」175ページ、平成3年9月、伊藤記念財団=原本、(8)は北根豊監修「日本初期新聞全集」第33巻157ページ、明治4年11月付「新聞雑誌」第19号、平成3年12月、ぺりかん社=原本、
(9)は宮内庁編「明治天皇紀」第二604ページ、昭和44年12月、宮内庁=原本、(10)と資料その2(1)は宮内庁編「明治天皇紀」第二607ページ、昭和44年12月、宮内庁=原本、(11)は北根豊監修「日本初期新聞全集」第33巻414ページ、平成3年12月、ぺりかん社=原本、原紙は明治4年12月付「新聞雑誌」25号1丁表、
(12)は同巻409ページ、同、原紙は同4年12月付同23号6丁表、資料その2(2)は宮内庁編「明治天皇紀」第二636ページ、昭和44年12月、宮内庁=原本、(3)は同第二639ページ、同、(4)は同第三97ページ、同、(5)は同第三103ページ、同
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明治5年2月18日に修験者10人が政府に直訴したいと皇居に押し入り警備兵に4人射殺された事件が起こりました。「太政官日誌」は「其旨趣ヲ問フニ政府ヘ直訴スヘキノ旨ヲ申立テ強テ押入ントス因テ之ヲ舛方門内ニ導キ尚願ノ旨趣アラハ其筋ヘ申出ツヘキ旨再三懇諭ニ及ヘトモ更ニ聴入レズ終ニ抜刀挺身逼リ入ントス因テ之ヲ縛シ手余ル者ハ打取ル(13)」と速報した。「都鄙新聞」は「全ク発狂人ト見ヘタリ(14)」と書き「横濱毎日新聞」とともに、各自携えていた「ワレ/\ハ御嶽御前ヨリ神チヨクニ付<略>(15)」というような意味不明の書面内容を紹介していますが、直訴の目的はさっぱりわかりません。
でも岡山県畜産協会のホームページ「おかやま畜産ひろば」に浅羽昌次さんが寄稿した「明治時代における食肉事情」によれば、彼等は「明治天皇に肉食中止の直訴を企て」たという見方をしています。(16)明治天皇御自ら肉食をなさると聞いて、世も末といきり立った頑固な人々が大勢いたのですね。
ともかく、口だけでなく実行しなくちゃと重臣を招いた西洋料理の晩餐会を開いては、明治天皇はご一緒に牛や羊の肉を賞味されたことが、資料その2(2)と(3)からうかがえます。(5)もそうですね。宮中で肉食を始められた、そして晩餐会を開いたとなれば、われわれは当然皇后陛下も同席されて、一緒にナイフとフォークを使って肉を食べられたと思ってしまいますが、どうもそうではなかった。前代未聞の献立革命でありますから、宮内省としては慎重のうえにも慎重な態度をとり、獣肉供進の仰せが出てからも、皇后陛下には獣肉のお膳は出さず、1年近くたち、天皇が「奥にも食べさせたい」とおっしゃって、実行に移されるまで従来通りのお食事だった。「あんたばかりずるーい、私もお肉食べてみたいわ」なんて、慎みがないことはもおっしゃらなかったんでしょうね。
資料その2(4)に出てくる西五辻文仲が謹みて申すには、天皇陛下が西洋料理は食べる作法があるそうだ。「奥の者は誰も食つたことがないから、一遍西洋料理を食はさうと思ふ、だからお前行つて覚えて来い」と仰せられた(17)とあります。食ったとか食わそうとか、上御一人とも思われぬ言葉荒ではございますが、皇后様はじめ宮中の女性たちは、それまでまだ4つ足はもちろん、西洋料理は食べていなかったことは間違いないでしょう。
私はですよ、天皇は肉も食べるといわれてから西洋料理を食べ始めたとばかり思って、これらのデータを集めたのですが、實はその前から西洋料理は召し上がっておられたのです。たまたまドナルド・キーン著「明治天皇」を見たら、解説に「明治天皇紀」に明治3年と同4年に西洋料理を食べた記述があると書いてあったのです。想定外、やられたーです。思い込みで判断しちゃいかんのですねえ。すぐ読み直しました。
まず明治3年8月12日、やはり延遼館でデンマーク使節に「酒饌を賜ふ、」とあります。「延遼館賜饌は従来西洋料理なるも、向後饗饌の式を設け、着館の際は簡易なる國風の祝酒を賜ひ、次いで食堂に召し、西洋料理を賜ふ事、」などを「従来屡々外国使臣朝見の事あり、其の儀注略々定まれりと雖も尚未だ確定せざるを以て、外務省をして調査せしめ」定めた内規によって、西洋料理を召し上がった(18)のですな。 肉食するぞと宣言される1年前だから、多分この西洋料理は鳥肉か魚の皿にしたと想像されますが、フォークやナイフはどうだったのでしょうね。
明治4年の方は11月21日、横須賀造船所視察に向われるときのお召し艦、軍艦龍驤で「御昼饌に西洋料理を取らせられ、畢りて将臺に出御、消火練習を覧たまふ、(19)」とありました。
こんな風に天皇は重臣たちと西洋料理で肉を食べられても、晩餐会にお出にならない皇后は依然として和風の食事を続けられていた。ところが明治6年7月2日、カレーライスにサラダぐらいだったかも知れませんが、天皇のお昼は西洋料理であった。と同時に皇后陛下のお昼にも、この日からは洋風の皿を2品加えることになったのです。宮内省としては特記すべき大変革だったので「明治天皇紀」に書き出されているですね。
しかし、肉だけみれば、明治天皇はかなり早くから牛肉を召し上がっていたことが、総理大臣にもなった侯爵大隈重信が書いた「肉食民族と菜食民族」という一文からも察することができます。「ちとお前たちのご馳走をこちへもくれてみよ」なんてお言葉は、実際にその場に居合わせないと書き残せない描写に思われますし、かつ珍しい証言なので、資料その3(1)としました。
いいですか、小鍋立てとは七輪に丁度乗るぐらいの小さな鍋で煮炊きすることですが、豪傑が集まってそんなちまちま食べるわけがない。本当は土鍋だが、遠慮して小鍋と書いたんじゃないかなあ。ともかく若き明治天皇は宮中で重臣たちと一緒になって牛鍋で酒も飲まれた。四つ足の肉がこんなにうまいとは知らなかった。それなのに食べる度に宮中が穢れるとか、奥でつまらん苦情をいうのには参るなあ。これでは來日した外つ国の賓客とあずましく西洋料理も食べられないじゃないか。ええい、この際毎日食べてもいいよう、こんな因襲は改めるぞよと仰せられたのが真相だったかも知れませんとね。以前から話してきたが、どうもいい線、いっていたんですなあ。
さらに調べたら大隈さんは明治天皇が初めて牛肉を召し上がったこの裏話を得意にして、何度か身近な人や新聞記者に聞かせていた。それらが資料その(2)と(3)。特に(2)を見なさい。晩年の大隈さんが日々側近の人などに語ったことをまとめ、大正9年11月から月刊誌「文明協会講演集」に「大隈侯座談日記」として亡くなるまで15回連載した。(20)その3回目の「座談日記」からですが、牛召し上がり事件の後「宮中の御模様が改つて來たやうに思はれる。」と大隈さんが認めているでしょう。
「大隈重信叢書」第3巻の「序に代えて」に「大隈侯昔日譚」は大正10年7月から報知新聞夕刊に連載した記事だと元報知新聞記者の松枝保二氏が書いていた(21)ので、報知の記事を(3)にしました。「叢書」第3巻では「外国市場の影響」と小見出しのついた記事の後半になっています。なぜ報知新聞からコピーしたかというと「叢書」は振り仮名がないからです。それでね、例えば陛下のお言葉の朕はチンかワレかわからないけど、元の記事の振り仮名はオレでした。大隈さんはオレと語り、聞き手の松枝記者が人扁の俺ではあるまいと朕の字を充てたと考えられます。オレ陛下は「うまい/\」と飲みながら複数の肉片をね、大隈さん得意の口調を借りれば、召し上がられたのであるんである―だ。
それにしても女官たちが三条、岩倉なんてお公家さんを説教するだけの権威を維持していたのには驚きますね。もしこれがジンギスカンだったら煙ですぐばれて一網打尽、陛下には諫言的嫌みを申し上げ、三条・岩倉さんは即呼び出されてがっちりヤキだね。あっはっは。ああ、それから最後の行末尾に訳のわからん「国風」の2字が入っています。それこそ、あるんである。誤植とみたか「叢書」第3巻ではこの2字を削っており、ありません。
作家榛葉英治は早稲田出身だからでしょうが「大隈重信」という本を2冊書いている。先に出た「大隈重信 進取の精神、学の独立」上下2巻(22)は(3)、後発の「大隈重信(23)」は(2)を取り込んでいます。それはいいのですが、大隈さんのいった「多分明治四年時分」に括弧して「註、明治五年一月二十四日(24)」と書いています。この日付は資料その2(2)と同日だから西洋料理の晩餐の後、さらに牛鍋を食べたことになり、食べ過ぎだじゃなくて、宮中を穢したと御内儀に叱られたことになる。なにかの勘違いでしょう。
このほか国会図書館の近代デジタルライブラリーに大正11年に報知新聞社が出した松枝保二編「大隈侯昔日譚」がありますが、これとは別の「大隈侯座談日記」の抜粋みたいな本が1冊あります。私がその本の「牛を召上る」と同じ箇所をPDFで保存し、ひとしきり検索してから、その書名などを記録しようとしたら、もう見つからない。キーワードを変えて意地になって1000冊はみたね。残ったPDFを見ると「牛を召上る」は「明治天皇が牛を召上つた最初」という題になっており、その後ろは「天狗と山伏」、その前は3000年たって初めて咲く花の話で、どっちも「文明協会講演集」大正10年1月号の「大隈侯座談日記」の一部で、仮名遣いから戦前の本と推定されます。
資料その3(2)と同(3)から明治天皇は牛鍋のうまさを覚えられて、時々は召し上がられたように思ってしまいますが、そうではないらしい。同(4)の話は日清戦役の後というから明治28年より後、明治30年ごろと仮定すると18歳ぐらいの皇太子、後の大正天皇が初めて鋤焼きを召し上がられたことになる。食堂でご一家そろって食事をなさるなら牛鍋は経験済みで、鋤焼きなるものは牛鍋に似ておるとか、味付けはこの方がよいとか仰せられそうなものですよね。
殿下のメニューに鋤焼きを加えたということは、そのころまで宮中では牛肉は洋食でしか食べなかったのではないでしょうか。
資料その3
(1) 肉食民族と菜食民族
<略>先帝御十七歳の御時、世は明治の新政となつて、薩摩、肥前、土佐等の野武士が侍従として御前に仕へたが、固より揃ひも揃つた豪傑連のことだ、寄集つて小鍋立をし、筍の皮に包んだ牛肉を取出して、煮て食つて酒を飲みなどした。すると先帝には御気付になり、侍従の詰所へ往かれせられて御前達は何を食つて居るか、ちとお前達の御馳走を此方へも呉れてみよと仰せられた、そこで豪傑連の事だから、御遠慮も申上げず、件の牛肉を取分けて差上げたが、殊の外御意に副ひ、御酒も御好みなので、大層旨しいとて、それを肴に一所に一杯御召上がりになつた。人間の舌といふものは公平なもので、味覚に天子庶民の差別は無い、長い幾千年來の習慣で、宮中では一向それ迄牛肉などは御存じもなかつたのであつたが、一度御試しになると、琵琶湖の魚などより大層旨しいから、俄に御好きにならせられて、其後も牛肉をと仰せられる。それが奥に知れたから大変の騒ぎ、皆顔を顰めて。四つ足を御召上りになるなどゝは以ての外の思召、宮中が穢れるといつて御諫め申すけれども御用ひにならぬ、到頭其後は初中終牛肉を召上がる、牛肉ばかりぢやない、豚肉も召上れば牛乳も御飲みになる、是迄牛乳が我国に無いではなかつたが、唯それを飲む事を知らなかつた迄だ、到頭其後は宮中で西洋料理をも召上れば毛織物の軍服も御召しになり、靴をも御用ひになる。<略>
(2) 牛を召上る
「明治になると宮中におかせられても萬事に改新の気風が
漲つて來たが其中で如何にしても手の附け難かつたのは御
内儀だつた。是には流石の維新豪傑連も如何ともすること
が出來なかつたものである。或時――多分明治四年時分だ
つたと記憶へてゐるが、宮中宿直の間に侍従達が集つて牛
鍋をつゝかうと云つてこそ/\やつて居たことがある。い
くら内緒にしようと思つても牛肉の煮える好い臭がプーン
と御廊下に漏れて来てつい御若い 陛下の鼻に入つたので
ある。其時迄御存じなかつた好い香なので溜りの襖をそつ
と明けて御覧になると中で圓くなつてやつてゐるんだら
う、それは何かと御尋ねになる。一同も恐縮したが、牛で
ございますと答へる、甘いかとの御言葉に、如何にも美味
にございますと申上ぐる、重ねて一つ俺も食して見ようと
仰言ある。侍従連中は書生上りが揃つてゐたから、それで
はと云つて鍋から摘んで差し上げたのだね。‥‥これが翌
日になつて女官達に知れたのでほうら大騒ぎさ。宮中で牛
を喰ふさへあるに、是を 陛下に差し上ぐるとは実に言語
同断だと云ふのでお頭の三條岩倉呼び附けられてきつと警
しめ叱られたのである。之を 陛下が御聞きになつて、あ
れは俺から求めたのだ、牛を喰ふのが何で悪い、俺も人間
だ、今日迄神様かなんぞの様に懸け離れた扱をして来た汝
達こそ過つてゐるのだと仰せられたと云ふ。此御言葉には
餘程力があつたやうで、其頃から目に見えて宮中の御模様
が改つて來たやうに思はれる。
(3) 明治初年の風俗人情世態(三)
<略>
其頃は未だ酒等も戸毎に造つて
居た。昔から我国では大嘗会とか
新嘗会とかには、黒酒白酒を造つ
て供へる習慣があつたので、其風
習は各町村でも産神の鎮守祭とな
つて秋の国風の一つとなつて残つ
て居るが、其習慣から各戸で所謂
ドブロクを造ることになつて居
た。牛を食ふ等と云ふことは飛ん
でも無いことで、これに就ては面
白い挿話がある。其頃まだ御若く
あつた先帝が、或る時宮中で御附
きの者共が竊かに一室で牛肉の煮
喰ひをして居るのを御見付けにな
つた、其頃は未だ宮中に獣等を
入れるは不浄なりとして厳禁され
て居たのであるが、陛下は『それ
は何だ』と仰せられる。畏る/\
『牛肉と云ふもので』と申し上げる
と『朕も一つ喰はう』と仰せられて
箸をつけられ『これはうまい/\』
と仰せになつて召し上がられた、
所が一方儀式の喧ましい女官共が
『これは怪しからぬ、宮中で不浄の
ものを……』等と騒ぎ出した、す
ると陛下は『朕も人間だ、うまいも
のは何でも喰ふていゝ』と仰せら
れて旧來の陋習をブチ破つてお了
ひになつたと云ふことである国風
<略>
(4) ▼御好のスキ焼
日清戦役の後、或時の事なり、日野西侍
従は殿下に申し上ぐるやう「日本にては
古来牛肉を食せざりしに御維新の前後よ
り牛肉の美味なることを教へられ、之を食
するに至りしが、此の牛肉の料理は皆外
国の法に依りしより当初は余り流行せざ
りしも一度びスキ焼の法考案せられ、日
本人独特の料理に此の美味を調理すること
となれるは頗る喜ぶべきことがなり、抑も
此のスキ焼の妙は孟子の所謂衆と共に楽
しむにありて、只一人にては面白からず
両三人打寄りて同じ鍋を突くに興あり」
と申しゝに 殿下はさらば試みに食し見
んと仰出され、鉄鍋を御取寄せあり、牛
肉を吟味して下の方にて爲すやうの料理
に御食を取られしが頗ぶる此のスキ焼の
御意に叶ひし由にて、日野西氏へも共に
鍋に箸を附けよと仰せられしも、固より
左様な事のなり難きに 殿下御鍋のもの
を小皿に分け之を頂きたる由にて、此後
殿下の御食卓に、新たにスキ焼の鍋を数
へ奉つるに至りけると
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参考文献
上記(13)の出典は「日本初期新聞全集」34巻103ページ、平成4年2月、ぺりかん社=原本、原紙は明治5年2月発行「太政官日誌」12号1丁裏、(14)は同35巻139ページ、同、原紙は明治5年2月付「都鄙新聞」8号原稿2丁裏、(15)は同巻113ページ、同、原紙は明治5年2月20日付「横濱毎日新聞」2面、(16)は http://okayama.lin.go.jp/ tosyo/0204/tks08.htm、浅羽昌次「明治時代における食肉事情」、(17)は出典は堀口修監修「明治天皇紀」談話記録集成第3巻169ページ、臨時帝室編修局史料、平成15年4月、ゆまに書房=原本、(18)は宮内庁編「明治天皇紀」第二3237ページ、昭和44年12月、宮内庁=原本、(19)は同3595ページ、同、
(20)は早稲田大学史編集所編「大隈重信叢書5 大隈侯座談日記」5ページ、「まえがき」より、昭和45年5月、早稲田大学出版部=原本、
(21)は同「大隈重信叢書3 大隈侯昔日譚」8ページ、「序に代えて」より、昭和44年8月、同、
(22)は榛葉英治著「大隈重信 進取の精神、学の独立」上巻147ページ、昭和60年3月、新潮社=原本、
(23)と(24)は榛葉英治著「幕末・維新の群像3 大隈重信」53ページ、平成元年12月、PHP研究所、同
資料その3(1)は子安農園内家畜研究会編「家畜」3巻1号4ページ、大隈重信「肉食民族と菜食民族」より、大正8年1月、子安農園内家畜研究会=原本、
同(2)は大日本文明協会編「文明協会講演集」大正10年1月号26ページ、「大隈侯座談日記」より、大正10年1月、大日本文明協会=館内限定近デジ本、
同(3)は大正10年8月17日付報知新聞夕刊3面「大隈侯昔日譚(十七)」より=マイクロフィルム、
同(4)は明治44年8月20日付北海タイムス朝刊7面、同
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宮中で洋食作法を学んだのは明治5年9月以降だったことを示すのが、資料その2の(4)です。ということは、それ以前のディナーでは、ナイフやフォークは並べてあっても、だれも正しい使い方を知らないから、多分陛下はじめ陪食の皆さんは、いざ食べるときは、箸を使っていたんでしょうね。箸で挟めるようにステーキなどは予め切り分けてサービスされたと思われます。
(4)だけでは実情がわかりにくいので、洋食作法のコーチになるため築地精養軒に勉強にいった西五辻文仲の談話のさわりを資料その4で紹介しましょう。これは「明治天皇紀」談話記録集成という本に載っていますから、興味のある人は図書館から借りて読みなさい。
資料その4
<略>これは私の名誉なことのお話を申上げるのですが
陛下から或時斯う云ふお話がございました、「西五辻お前西洋料
理を食ふ法を知つでゐるか」と云ふ仰せてあります、其の時分私
は唯出すものを食つで居れば良い、法といふものは別にないのだ
らうと思つで居つたのですから、「別に法といつては存じませぬ」
とお答へ申上げますと、「さうか、それでは誰かに教へて貰つて
來い」といふお言葉てあります、それから私が「それを習ひまし
てどう云ふことになるのでございますか」「イヤまだ奥の者は誰も
食つたことぱないから、一遍西洋料理を食はさうと思ふ、だから
お前行つて覚えで來い」「畏りました」といふ訳で、それから宅
に帰りまして兄に聞きまますと「そんをものは覚えられるものでな
い、俺だつで知らない」と申します、そこで築地精養軒の北村重
威の所に駈込んで「実は斯ふ云ふことがある、陛下が西洋料理
を食へる法を誰かに習つて来いと仰せになつたが、君に教へて貰
ふより外に仕方がない、併し一体法などゝいふものがあるのか」
「それはございますとも」「さうか、矢張あるのか、それならそ
れを教へて貰へまいか」「宜しうございますともも、私の大変名誉
でございますからかお教へ申しませう」と快く引請けて呉れました
これを読んで私はてっきり大人の会話だと思っていたのですが、このとき明治天皇は20歳で西五辻は14歳、大学生と中学生みたいなやりとりだったのです。なぜ年齢を調べたのかというとね、岩倉使節団に随行した久米邦武の口述をまとめた「久米博士九十年回顧録」という本の欧州行きの船中の思い出話に、五辻文仲が出てきたからなんですよ。
おや聞いたような名前だな。あっ、精養軒で習ったテーブルマナーを宮中で教えた西五辻だなと思ったのですが、それにしては西がない。おかしいと読み返したら、西五辻が「宅に帰りまして兄に聞きましたら」といった兄の安仲の誤植とわかったのです。五辻家では男は皆、何仲という名前なのでこんがらかったらしい。
久米さんはね、使節団に五辻文仲といふ公家衆がいた。おとなしい人で、お育ちのせいでスープと魚はいいが、牛、羊、鶏の肉料理が食べられない。それで、せめて卵でもたっぷり食べたいと茹で卵と思われるのですが、給仕の持ってくる卵を何個も取ろうとして断られた。でも何日も続けて何個か取ることに成功した(26)と語っています。
そのページの前に使節団のメンバーが書いてあり、そこではちゃんと大使随行に五辻安仲がいて、出発時の官職は式部助、出身年齢は公家27と書いてあった(27)ので、安仲が正しいとわかったのですが、念のため文仲を調べたら、安政6年1月1日生まれで明治6年は14歳だったことになる。
そんな若僧が宮内省にいたとは信じがたいと調べたら、米窪明美氏が書いた「明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在」にも「明治六年九月中旬、当時十四歳だった西五辻文仲は明治天皇より〈西洋料理を食ふ法を知つてゐるか〉と質問される。天皇は、西五辻の兄が大膳職にあったので、文仲も西洋料理に詳しいと思ったのだろう。(28)」ありました。
米窪氏によると「侍従職出仕、通称内豎である。彼らは十歳前後から十五歳位までの公家の子弟で、その役目は簡単にいえばお小姓だ。」そうで「西五辻は明治六年から七年まで内豎として明治天皇に仕え、後に貴族院議員となった人物である。(29)」。「明治初期の官員録・職員録」で確かめたら西五辻は明治7年10月版に「九等出仕 西五辻文沖(30)」と沖と誤植して出て、それっきり。安仲の方は明治4年11月版に式部寮助という職名で出てからずーっと宮内省にあります。
「昭和新修華族家系大成」によると五辻安仲は五辻継仲の長男、文仲は3男ですが、その昔あった西五辻という公家の家系を再興させるために、西五辻を名乗った。「安仲は幕末王事に尽力し、明治4年岩倉大使の欧米派遣に随行し、以後宮内省に奉職して、明治二十二年より同二十六年まで大膳大夫を勤めた。(31)」とあります。
それにしても安仲が食事の作法は覚えられない、知らないと答えたとはね。岩倉使節団員として2年近く西洋料理を食べてきた人とは思えん。久米さんの思い出話だと、平賀義質という米国通が食事の作法を伝えたのに、船では書生気質の連中がそれを無視して、わざと皿を両手で持ち音を立ててスープを吸ったり、ステーキを芋刺しにして食いちぎる(32)なんてことをしたそうです。
まあ、明治天皇は、たっぷり西洋を回ってきた兄貴の安仲から文仲が教わることを期待したんじゃないかなあ。それに比べて立派なのは「久米博士九十年回顧録」にある岩倉具視。イギリスで食事に招かれ、羊肉の臭いにはもう慣れたといって食べた話です。資料その5は中村洪介氏がそれをまとめたものです。
資料その5
(1)
ここに一つの挿話がある。明治五年十月六日(一八七二年十一月六日)、岩倉大使、大久保副使、久米大使随行たちは、英国北西部チェスター在の一名士宅に招ばれ、食事を共にした。ロースト・ビーフが供された時、岩倉は「日本では牛肉は従来用いず、新政府となつてから初めて食したが、中々滋味な物である」と述べた。次に焼いた羊肉が出て、「牛肉と羊肉と何れがお好か」と尋ねられ、岩倉が「何れも好物である」と答えたところ、「羊肉は牛肉より少し臭気があつて、初めて食する方は嫌はれる方が多いが、左様な御感じはなかつたか」と早速問い返された。岩倉は「成程初め其の臭を感じたが、今は何ともない」と、その場を切り抜けたという。
これは「物事を漠然として置くを好まず、必ず其の間に優劣を付けねば承知せぬ性分」の西洋人と、「茫漠を以て上品とする」東洋人との考えの相違を物語るエピソードなのだが、牛肉にせよ羊肉にせよ、「日本では……従来用いず、新政府となつてから初めて食したが、中々滋味な物であ」り、「成程初め其の臭を感じたが、今は何ともない」とたとえ外交辞令的にでも答えざるを得なかった岩倉の「公式」意見は、そのまま日本政府の西洋音楽に対する「公式」な意見でもあった。
(2)
<略>此人ヨリ兼テ懇切ノ招状アリタレハ故ニ路ヲ迂シ、城壁ノ壮屋ニ宿ヲナス、此日ハ路ニテ日瞑シ、夜中ニ著シケレハ、全家迎ヘテ、衆ニ室房分配シ、朝夕ニハ衣ヲ振フテ食堂ニ就キ、一家ト会食ス、夫婦子女相款シ一見旧識ノ如シ、
実をいうとね、この焼いた羊肉なるものが、原本ではマトンチョップとかラムのなんとかで、岩倉が初めて羊肉を食べた宴会のことも書いてあるんじゃないかと「久米博士九十年回顧録」を当たったことがきっかけで、文仲14歳を知ったのですよ。それで日本に入ってきた西洋音楽の研究なのに、こういう食文化の面にも注目した中村さんに敬意を表して、中村さんの遺稿「近代日本洋楽史序説」の文章を引用させてもらったというわけ。はっはっは。
「九十年回顧録」には、岩倉一行を招待したトルマシャー氏の「夫人は『夫では閣下は余程羊肉が御好と見える』と感じ入つた様子であつた。(33)」と書いてあります。きちんと切り分けて、うまそうに羊肉の皿を平らげたんでしょう。資料その5(2)は久米さんが編集した「特命全権大使米欧回覧実記」の該当箇所です。公式報告書ですから、やむを得ませんが、まったく四角四面でしょ。こうした逸話を見つけるには検索と広く本を読むしかないのですね。
ところで愉快なのは西五辻の精養軒での勉強法です。「一番軟くて一番旨い物を五遍でも六遍でも同じ物を食ふのでないと、こつちが覚えられない」とかけて、昼と晩と1日に2回通ったりもした(34)。食事代は宮内省持ちでしょうし、こんな結構なお役目はないと、私ならせっせとマナー実習に励みますが、西五辻は食い盛りですからね、料理の食べ方を覚えるより、公家の家では出てこない西洋料理そのものを楽しんだと思われます。
西五辻は精養軒の北村に西洋料理を一通り食べても覚えきれないから、毎回同じ料理を出せとか、一番柔らかくて一番うまいものを5、6回食べないと覚えきれないとか、無理をいい「何遍通いましたか七八遍は行きました」(35)というけど、やめられない、止まらない、もっと多く通ったのではないかなあ。
とにかく北村から「もうこれならば宜しうございませう」といわれたので、西五辻は陛下に「どうやら斯ふやら法を教へて貰つて来りました」と報告し、内廷の3階で初めての西洋料理の食事会が開かれたのです。一番困ったのがナイフとフォーク。岩倉具視が使節団で欧州を回った土産として献上した食器を使うことにしものの、サイズが大きかった。やむなく両陛下はそれを使って頂き、ほかの陪食者は借り物の精養軒のネーム入り、ボーイも精養軒から雇った。自転車もないころのことです。築地から皇居の奥まで食器やら煮炊きの道具を、2人で担ぐ釣り台で運ぶしかなく、用意に数日かかった(36)そうです。そして女官向けの西洋料理のマナー講習会を催したところ、まるで落語みたいだったと西五辻も認めている様子を資料その6(1)に引用しました。読んで下さい。
それから食べ方は西五辻から習ったものの、両陛下は洋食がお好きになったわけではなかったようなのです。愛知県西尾市にある岩瀬文庫という私立図書館に「閃鱗之一片」という本があります。平好彦という人が明治天皇、皇后両陛下のことをはじめ宮中のことを詳しく記した貴重な手書き文書だと知ったので、先日拝読にいきました。これまで(2)は満洲新報に載った「雲上の御消息」という記事でしたが「閃鱗之一片」が桁違いに詳しいので、その一部の「上の御食事」から引用させもらうことにしました。略しましたが、お箸の製造過程だけでも26行も書いてあります。行書なんだが、黒い四角は恥ずかしながら読めない字、それと「待る」は「侍る」だろうと思うが、はっきり彳です。
資料その6
(1)
それから用意が整ひましたので 陛下に申上げますとお上りになりまして「今日は西洋料理を皆な一緒に喰べる、西五辻が覚えて来たと云ふから、あれのする通りにせよ」と仰せになりました、西洋料理の喰べ方の御伝授役であります、よく落語の噺にあります通り伝授役がお芋を転がすと皆なが転がすやうに、それと一緒のことをしたのであります(笑声)其の時女官などは碌に喰べる者はありませぬでした、成程バタは今から思ふともう一層臭かつたやうであります、精製したものがなかつたからでありませう、誰もバタを附けて喰べる者はありませぬ、唯附けるものだと聞いて眺めてゐるだけであります、其の時、夜は私が当番でありましたが 皇后陛下から出て来いとの御沙汰で伺ひました所が、今日はお上は御満足であらせられた、斯う云ふ歌を詠んだからやらうといふことで戴いたのであります、<略>
(2)
極めて御質素な御食事
一上御両方の御食事御献立ては朝と晝とは二汁三菜夕にて二汁五菜の御定なりその内二汁の時は一汁は味噌一汁は醤油にて調ずるなり又三菜五菜と申し待りその中の一汁は野菜のみの極めて淡白なる御料理に待るその他は魚類が主にて侍り刺身、照り焼、煮附、蒲焼、蒲鉾、などに調じまつるなり
洋食
一西洋の料理は両御方ともに深く好ませ給はず上には午ると夕には鳥肉の「すーぷ」を一合づゝきこしめし給ひしもきさひの宮には「すーぷ」さへも聞召さずとかや
御膳部の御吟味
一御膳部の調進には吟味の上にも吟味を為す事■いわずもがな両御方に奉る可き御料理は調進しまつ奉し中の品を少し取り大膳職より当直の侍医に差出しそれより又御毒味役の諸因へ廻せし上始めて供御になし待るなりその御毒味の役は右の当直の侍医をはじめ侍従膳部副長命婦一名承り待るなり併しながらこは■とて人の定まり居るには非ずその日当直の人々の奉仕するなり
両御方の御膳
一御両方に供へ奉る御膳は今も尚昔のまゝにて白木隅折り刳り脚の高膳にて御食器は菊桐の御紋章又は若松の鶴鹿などの模様ある薄手の京焼を御用ひ給なり
それより御料の御箸は一回毎に新らしきものを用ひ給ふは申さずもがなしつらゑの御用を承るものも精進潔斎して十二分の注意を為すもいはずもがな<略>
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参考文献
資料その4の出典は堀口修監修「明治天皇紀」談話記録集成第3巻168ページ、臨時帝室編修局史料、平成15年4月、ゆまに書房=原本、
(26)は久米邦武述「久米博士九十年回顧録」下巻187ページ、昭和9年10月、早稲田大学出版部=原本、
(27)は同179ページ、同、(32)は同186ページ、同、(33)は同410ページ、同、
(28)は米窪明美著「明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在」83ページ、平成18年6月、新潮社=原本、
(29)は同21ページ、同、
(30)は寺岡寿一編「明治初期の官員録・職員録」2巻210ページ、寺岡書房=原本、
(31)は霞会館諸家資料調査委員会編「昭和新修華族家系大成」上巻145ページ、霞会館=原本、
資料その5(1)は中村洪介著「近代日本洋楽史序説」248ページ、平成15年3月、東京書籍=原本、(2)は久米邦武編「特命全権大使米欧回覧実記」2冊2編403ページ、明治11年10月、博聞社=近デジ本、
(34)と(35)は堀口修監修「明治天皇紀」談話記録集成第3巻170ページ、臨時帝室編修局史料、平成15年4月、ゆまに書房=原本、(36)は同171ページ、同、資料その6(1)は同174ページ、同、同(2)は平好彦著「閃鱗之一片」丁番号なし、明治42年11月、平好彦=原本
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私が小学生だったころ、敗戦前の満洲の小学校ですがね。朝会で明治天皇御製といって、明治天皇の作られた和歌、たとえば「あさみどり すみわたりたる 大空の ひろきをおのが 心ともがな」なんてね、全員で朗詠させられたものです。時々昭憲皇太后御製も詠いました。「みがかずば 玉の光は いでざらむ 人のこころも かくこそあるらし」なんて、同じ節で歌いました。この西五辻に下された御製は、そうした広く知られた御製ではありませんが、西洋料理の作法講習会のために内廷の3階まで何度も三度も上り下りしてご苦労であったというねぎらいのお歌ですね。つまり皇后陛下におかせられましても、初めて西洋料理を召し上がられ、きわめてウレピー状態であらせれたとご推察申し上げる次第でございますよ。
この日の献立は、牛肉か羊肉をこう料理して差し上げたと、内膳司日記などに記録されているのでしょうが、国立公文書館をどう検索しても出てきません。私が大正2年から5年分、雑誌「料理の友」を検索した経験からすると、大正初期でも西洋料理の作り方には「淡白な」とか「あっさりした」という形容詞が付いているものが目立ちますから、ましてや明治の初め、多分お印程度に肉の入った和風に近い料理だったのではなかろうかと考えています。
なぜならばですよ、宮内省から「西洋料理修業トシテ」内膳司出仕の松岡立男を横濱在住のボナンというフランス人のところへ「差遣事」にしたのは、もっと後の明治8年1月25日だったと「横濱市史稿巻8 風俗編」にあるからです。この本によればですね、宮内省でも内外貴紳の接待上、西洋料理を取り入れる必要があり「西洋料理法中、其調理法の最も発達したものは仏蘭西であつたので、宮内省は仏國式に依つたものであつて、民間に於ても仏國式料理が全盛であつた(37)」と、選択した理由を説明しています。この松岡は明治17年に退職したそうですから、何年ボナンに学んだかわかりませんが、この後10年は内膳司で働いたことになり、その間に宮中の西洋料理の基礎が固まり、今日まで皇室の公式晩餐会は一貫してフランス料理が出されているんですね。
敬愛大の澤護教授は著書「横濱外国人居留地ホテル史」でボナンではなくボナと書き、明治5年から11年まで居留地84番でオリエンタル・ホテルを経営し、その後、グランド・ホテルのオーナーになったのであって、明治6年のグランド創立時の経営者の1人だったとする通説とは違う見解を述べています。
そして明治5年冬、オリエンタル・ホテルが開いた舞踏会に「女性80名を含め招待客は500名を越した。したがって,少なくともかなり広々とした宴会場は設けられていたことになり、また出された料理の品々は超一級のものだったというから,ボナのコックとしての腕は非凡なものがあった。それだからこそ,1875年に宮内省の調理担当だった九等属の松岡立男が西洋料理を修業のため,ボナのもとに派遣されることになったわけである。(38)」と説明しています。
しかし、明治5年2月の横浜毎日新聞にボナという人物がこれまで164番でホテル渡世をしてきたが、今度本町通55番に移るからよろしくという広告を4回出しています。「ホテル舘 ボナ(39)」という書き方なので、これがオリエンタルホテルかも知れませんが、きょうは澤さんの住所に疑問なしとはしないという程度にとどめておきます。
「横濱市史稿」にはですね、横濱の人々が外国人と接するときに使っていた異国言葉、いまでいうピジンイングリッシュの語彙資料が含まれていましてね。札幌農学校に着任したブルックス教授の歓迎晩餐会、例えば鴨肉の煮込みの付け合わせにあるアラビスとは何なのか、わかりはしまいかと調べたけれど、ぴったりのものはありませんでした。馬はホウスとかホラルス、牛はベフとかカヲ、鶏はチイケンなんですが、羊はありません。異人さんと羊絡みで接触する機会が少なかったせいだろうと思います。
それから大正11年に「明治大帝」という本が出ています。それにね、下総御料牧場長を務めた新山荘輔がこういう話を書いています。日露戦争中、ある将軍から満洲豚6頭が献上された。この豚を繁殖させて見よと仰せられたので、下総で飼ってみた。いろいろあって100頭まで増やせた。すると西洋豚と満洲豚のどちらがうまいかとご下問があり、試食してみたら満洲豚の肉は脂が少くて遥かにうまいと申し上げたら「それなら肉をこちらへ寄越せ」とご沙汰があり、何頭かつぶしてお届けしたら「側近の人々や要路の大官に、それぞれ御分け遊ばされた由に洩れ承つてゐる。(40)」と新山は書いており、陛下ご自身は味見もされなかったらしいのです。
また下総牧羊場の開設など緬羊増殖を進めた内務卿大久保利通が、岩倉使節団員だった長与専斎が見てきた外国の肉食の報告を聞いたまま、天皇に申し上げたことがある。すると陛下はそれはわかった。が、わが国民は穀物を常食してきたが、肉食の民族に劣るとも思えない。「確証を得て改めるべきは改めよ、軽挙は害ありて益無し」と仰せられた。それで後日、大久保は軽率だったと大山巌らに語った(41)と本にあります。こうした回顧談から、私はね、牛にせよ、羊にせよ肉はお好きじゃなかったとね、お察し致しておるのでありますよ。ふっふっふ。
明治41年の雑誌「新農報」の「談叢」という欄に、宮中の肉食に絡めて板垣退助が三條実美をからかった「食物思想の変遷」と題する小話が載っています。「何々のて」「何々ては」「何々ほと」とある原文に、濁点をつけて資料その7(1)にしました。これはさっきの資料その3の大隈重信の回顧談と通じるものがありますね。
資料その7(2)は「閃鱗之一片」にある目黒のサンマみたいな話。明治天皇は果敢に肉食を取り入れられたけれども、やはり京都でお育ちになったお方であり、下々が食べるようなものとリクエストされても、やっぱり魚だったのですね。
ことに明治天皇はヒガイという川魚を好まれた。元宮内大臣田中光顕は「魚ではあゆとひがひでした、ひがひは京都の川でとれる魚で、大帝が御好みになられるところから誰がつけたのか、ひがひを鰉と書くようになつた、(42)」と語り、時事新報主筆を務めた波多野承五郎は「明治天皇は鰉が大層お好きであつたから、大膳職がそれを生かして持つて來るのに、苦心をしたと言ふ話がある。(43)」と書いている。
いや、それどころか、新宿御苑などで飼育試験をさせたというんですから、余程お好きだったんですな。「閃鱗之一片」にちゃんと書いてあります。実はね、私としては牛肉と羊肉の召し上がり方も書いてあることを期待して岩瀬文庫に行ったんですよ。
手を清めて木箱から取り出し、うやうやしく読み進んだら「上の御好の肉類は海魚にては鯛、鱧、鯒、かます、鱸、鰈、鱚、などにて川魚は鯉、鰉、鮎、鮒、鰻、など又鳥類は鶏、鴨、鶉、鴫など中にも魚類は鰉と鮎とをことの外好ませ給ひ鮎のごときは大膳職の庖厨に年中絶ゑることなしと(44)」。牛も羊もないのにはがっくり、それこそヒガイ甚大だあ。
同書によると明治23年、鏑木余三男に命じて瀬田川産の鰉を「新宿植物御苑の池に移し余りをば日光中宮祠の湖に放ち」明治36年には滋賀県水産試験所が1800匹を飼育してみたけれど、夜行性で産卵数も少ないため、うまくいかなかったそうです。(45)ああ、それから資料その7(1)の末尾の「大朝」は、新農報社が大阪にあった関係から、大阪朝日新聞からの引用を示すクレジットとみられますが、未調査です。
資料その7
(1)
明治五六年頃には大西郷、板垣伯などが参議で、太政大臣は三條実美公であつた。▲一日閣議の終つた后三條公が板垣参議に向ひ眉を顰めて、此の頃宮中では牛肉を召さるゝといふが、予は未だ歴代の天皇にして牛肉を召上られた例を聞かぬ、かゝる事果してありたるやと、真顔で問ひかけた▲板垣参議之に答へて、さる事の有無は知らぬが、更に承れば、此の頃侍医等は、陛下御不例の際、水薬を進め参らする由、是又御先例ある事にやと、隙かさず反問した、謹厳な三條公、頗る真面目で、予も未だ左様な事例は存ぜぬと答へた▲最前から傍らで、此の面白き対話を聴いてゐた大西郷が堪へ切れず、両手を以て頭を抱へ、大声で失笑したので、流石真面目な三條公も、始めて揶揄れたに気が注いて 顔を赧めて話はソレキリになつた▲これは板垣公の話だが、今日では上流ほど西洋料理に近づき、牛肉と親しくなつてゐる、食物思想の変遷を研究したら、随分面白い事があらう(大朝)
(2)
下ざまの御料理
一上には下様の事情を知召すとの大御心を注がせ給ひ女官に仰せられ何品にもあれ庶民の食するやうなるものを調じさせたまふことなどもありとかや御旨を承りし女官はいかに勅■なればとて庶民の食物同様の物を調ずるといふことは出来ざるなればまず上品を旨として料理し奉るなりしか
かあれそれにては大膳職より奉るものと同じければ何をがな下もざまにて用ゆるものをとの御掟なれば或る時鰊の附焼を調じまつりしに思の外御意に愜ひその後はしば/\鰊の附焼をまゐらせよとの御こ命ありとぞその外蛸の桜煮、更科の蕎麦などはことの外に好ませ給ひ又大膳職にて調ふるものには鼈の調理せしを好ませ給ふなり
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参考文献
上記(37)の出典は横浜市編「横濱市史稿 巻8風俗編」708ページ、昭和7年4月、横浜市=原本、(38)は澤護著「横濱外国人居留地ホテル史」121ページ、平成13年3月、白桃書房=原本、
(39)は北根豊監修「日本初期新聞全集」第35巻*ページ、平成4年4月、ぺりかん社=原本、原紙は明治5年2月16日付横浜毎日新聞368号、同17日付同369号、同18日付370号、同19日付371号各2面、
(40)は大日本雄弁会講談社編「明治大帝」395ページ、新山荘輔「牧畜の御奨励」より、昭和2年11月、大日本雄弁会講談社=国会図書館インターネット本、
(41)千葉胤明編「明治天皇御製集」5ページ、大正11年9月、大阪毎日新聞社、同、
(42)は昭和7年7月29日付東京日日新聞朝刊2面、「明治大帝の御逸話 二十年聖忌に際して 田中光顕伯謹話」より、毎日新聞社=原紙、
(43)は波多野承五郎著「随筆東海道」293ページ、「鮎のお国自慢」より、昭和5年4月、万里閣書房=近デジ本、
(44)と(45)は平好彦著「閃鱗之一片」丁番号なし、明治42年11月、平好彦=原本、
資料その7(1)は新農報社編「新農報」第108号43ページ、明治41年1月、新農報社=原本、
同(2)は明治43年1月18日付満洲新報3面「雲上の御消息」より=マイクロフィルム
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だが待てよ、満洲日日新聞に似た記事があったぞと、探したらあったんですよ。まだまだ我がメモリー力は衰えておらんと気をよくしたがね。「閃鱗之一片」の奥付は明治42年11月3日、つまり明治時代の天長節(46)となっているのを信用すると、2月ほど前になる「両陛下の御膳部」という見出しの記事でした。
「野菜は京都種の物を喜ばせられ魚類は鯛、鱧、鯒、魳、鰡、鱸、鱚類川の物にては鮎、鰉、鯉、鮒、鰻の類殊に鮎は最も好せられ毎年長良川上流の物又は伊豆大仁より御取寄せありて四時御庖厨に断るゝ事なし鳥類は鶏、鴨、鶉、鴫、雁、雉子の類を召さる(47)」で獣肉はなし。似てるでしょう。
「閃鱗之一片」と満洲日日の記事の関係はわかりませんが、このころの宮内省の職員に平好彦はいないので、これはペンネームであり、奥付の「いなり山の庵にて紅華山人謹記(48)」という稲荷山をヒントにすれば、筆者は有職故実に通じた宮内省御用掛、多田好問だろうというのが私の仮説です。理由は多田は豊多摩郡渋谷村大字下渋谷字稲荷山一三四に住んでいた(49)からですが、ともあれ、これらから明治天皇は行事以外、滅多に四つ足は召し上がらなかったといえるでしょう。
だがね、洋食の勉強が進んだからと思いますが、明治10年代になると天皇が行幸されたときは羊肉料理が出たようです。召し上がったかどうかわかりませんが、陸軍士官学校にお出でになったときの3年分の昼食の献立がアジア歴史資料センターの文書で見られるので、資料その8にしました。必ず羊肉が入るけどパンがないのは、料理で満腹になるからパンは出すに及ばんと仰せられたからというのが私の見方だ。
皆筆で書いた楷書的行書でね、■は私が読めない字。花菜はカリフラワー、シユーアラシヤンチイル はシュー・ア・ラ・シャンティで、シュークリームの類いらしい。鴫と山鴫が出てくるが、水辺にいるのが鴫で、山の方におるから山鴫。文学部らしく味つけすれば芥川龍之介の作品に「山鴫」という鳥撃ちの短編があってね。青空文庫で読めます。
14年の伺い書に「御陪食之献立昨年之振合ニ準シ別紙之通取調候」とあるので、13年の行幸でもこれに類した洋食を差し上げたらしい。それは見つかりませんが、コックは前年の献立をどう変えるか頭が痛かったことでしょう。
同(4)は上記3回と違って個人宅、侯爵松方正義邸へ行かれて召し上がった晩餐の献立です。何だかわからないのはカープルです。「御用西洋諸品調進帳」には液体らしく1瓶30銭となっている。値段からするとアルコール1瓶35銭、練り辛子1瓶50銭など(50)に近い物体らしい。
松方邸はその昔、赤穂47士の大石主税や堀部安兵衛らが10人が切腹した松平隠岐守の屋敷で、維新後は開拓使の所管になりました。松方が払い下げを受け大家族で住んでいて、天皇をお迎えするに際して大改修をした(51)そうです。
「松方正義関係文書」によると、明治天皇は「有栖川宮熾仁親王殿下ヲ始メ奉リ侯ヲ合セテ二十五人ニ御陪食仰付ケ(52)」食事のお終いごろ「侯ノ子女ヲ召サセラレ御菓子ヲ賜フ而シテ/子女ノ数頗ル多シ竜顔完爾トシテ侯ニ対シ/子女ノ数頗ル多シ合計幾人ナリヤ/ト問ハセ給ヘル等洵ニ御満悦ノ御有様ナルヲ拝シ奉ル(53)」とあります。明治天皇が松方に子供は何人かと聞かれたとき、松方が何人と即答できず、後で調べてお答えしますといったというエピソードが知られてますが、「文書」に御下問に対し侯ハ云々と何も書いていないから、案外このときの御下問から生まれた話かも知れません。
資料その8
(1)明治14年12月
来二十四日士官学校ヘ
行幸之節同校より献上洋食献立
午餐
一 牛肉羹 タピヲカ
一 冷製魚 鶏卵■凝膏
一 冷干豕 香草
一 牛酪焼羊肉 苑豆
一 煮込鴨 橄欖実胡蘿蔔
一 牛乳烹犢肉 菌
一 塩烹花菜 掛汁牛酪
一 蒸焙雉子 サラト
菓子
一 果物入粮庭罹
一 シユーアラシヤンチイル
小菓 木実
酒
一 紅白葡萄酒
一 セリ酒
一 シヤンぺン酒
銘酒 壱種
(2)明治15年12月
十二月廿五日士官学校ニ於テ被仰付候午餐御陪食献立
一 牛肉羹 潰シ葱摘入肉
一 蒸焼魚 掛汁白芋
一 袋蒸雉子 寄ソツプ
一 洋酒焼牛背肉 松露菌
一 紙包鴫 油揚ケ香草
一 牛酪焼骨付羊肉 水豆揚ケ芋
一 湯烹花菜 掛汁牛酪汁
一 蒸焼七面鳥 サラド
菓子
一 玉子蒸菓子 一 メランゲ包牛乳寄油
酒 一 紅白ブドウ酒 一 セレ酒 一 三鞭酒 一 銘酒
一 木実 二種
(3)
(御陪食之献立昨年之振合ニ準シ別紙之通取調候)明治16年12月
來ル廿五日
午餐献立
一 牛肉羹 鶏卵■身
一 洋酒蒸魚 松露白芋
一 冷シ麦粉包雉子 凝汁
一 煮込牛繊肉 摘入肉菌
一 葡萄酒烹山兎 野菜
一 牛酪焼山鴫 豌豆
一 湯烹花菜 牛乳掛汁
一 蒸焙羊肉 サラド
菓子
一 麦子包潰シ果物
一 牛乳凝膏ヴアニール入
酒
一 紅白葡萄酒
一 セレ酒
一 シヤぺン酒
銘酒一種
果実 小菓子類
(4)明治20年10月14日
松方正義侯爵邸へ臨幸された際の晩餐献立
一 牛肉羮ニ潰野莱 一 皿焼魚ニ「カープル」入注汁
一 煉麪包焼牛繊肉 一 牛酪焼羊肉ニ豌豆
一 葡萄酒 一 凝汁寄抱肉
一 肉詰茄子 一 蒸焙犢肉ニ「サラド」
一 葡萄酒 一 牛乳凝膏入「カステーラ」
一 三鞭酒干藻寄 一 飾付小菓子及果物
一 菓子 若紫、梢錦、若緑
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参考文献
上記(46)と(48)の出典は平好彦著「閃鱗之一片」丁番号なし、明治42年11月、平好彦=原本、
(47)は明治42年9月10日付満洲日日新聞朝刊1面=マイクロフィルム、
(49)は印刷局編「明治四十二年 職員録(甲)」64ページ、 明治42年、印刷局=近デジ本、
(50)は藤村通監修「松方正義関係文書」12巻77ページ、昭和56年12月、大東文化大学東洋研究所、巌南堂書店=原本、
(51)は藤村通監修「松方正義関係文書」3巻*ページ、昭和56年12月、大東文化大学東洋研究所、巌南堂書店=原本、
(52)は同131ページ、同、
(53)は同132ページ、同、
資料その8(1)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09120881800、起明治14載10月尽同12月 諸省院使 39 5(防衛省防衛研究所)」、
同(2)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09120992500、明治15年11月 12月 諸省院(防衛省防衛研究所)」、
同(3)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09121093300、明治16年従10月至12月 諸省院庁 7(防衛省防衛研究所)」、
同(4)は藤村通監修「松方正義関係文書」3巻131ページ、昭和56年12月、大東文化大学東洋研究所、巌南堂書店=原本
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また「此等御晩餐ノ調理并ニ菓子ノ製造ハ侯特ニ之ヲ大膳職ニ托シ大膳職ハ邸内ニ出張シテ精撰調理シ奉レルモノナリ若シ夫レ御陪食以外ノ供奉高等官判任官及ヒ供奉外出張員、乗馬陪覧招待來賓、海軍楽隊員、護衛警官其他御者從者馬丁車夫傭人僕婢等五百余人ニ対シテモ亦折詰料理并ニ菓子ヲ配付スルコト各差等アリ(54)」とあり、大規模な行事だったことがわかります。詳しい記録も残っているので、購入した肉類だけを資料その9にしました。
肉それぞれの1斤当たりの価格で見ると、牛肉ヒーレというヒレと羊肉は40銭で最高なのは当然でしょうね。次いで子牛肉が25銭、サーロインらしいサランが24銭となります。豚肉は13銭で、部位のわからない牛肉巻ソープは12銭と格段に安いから、ブイヨン用の肉とみました。
東京の松井本店が羊肉も扱い始めたのは、松方の栃木縣の千本松農場で増やした緬羊の肉の売るのがきっかけでしたから、産地が気になったので調べたら、松方が羊を飼い始めたのはもっと後で明治38年。(55)だからこのときの羊肉はよその牧場産で、天皇陛下がお召し上がりになるのだからと、河合万五郎はそれはそれは素性から十二分に吟味した肉をお納めしたはずです。
この河合は明治3年に荏原郡白金村に堀越藤吉と屠殺場を設けた(56)人で、牛鍋の三老舗といわれた「浅草の米久、京橋の河合、四谷の三河屋(57)」の牛肉店河合の店主でしょう。国会図書館サーチで河合万五郎を検索すると、鈴木荘太郎著「実地応用日本商法問答」2巻の出版者は京橋区南伝馬町3丁目8番地の河合万五郎なので、東京牛肉商頭取(58)として協力したと思われます。
資料その9
明治二十年十月十三日
松方大臣御頼御用品
肉類調進帳
(印)[支払濟] 大膳職 御役所 河合萬五鄭
記
十月十三日
一金三圓六拾銭 牛肉巻ソープ 三拾斤
一金六圓也 牛肉ヒーレ 拾五斤
一金壱圓四拾四銭 牛肉サラン 六斤
一金五拾弐銭 豚肉 四斤
一金弐拾銭 牛生油 弐斤
一金弐拾七銭 角麪包 三斤
一金拾銭 麪包粉 壱斤
十月十四日
一金五圓六拾銭 羊肉チヤプ 拾四斤
一金三圓七拾五銭 犢肉 拾五斤
一金四圓八拾銭 牛乳油 三瓶
合金弐拾六圓弐拾八銭也
右之通リ正二奉受取候也
明治二十年
十月十五日 河合萬五郎(印)
大膳職 御役所
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参考文献
上記(54)の出典は藤村通監修「松方正義関係文書」3巻131ページ、昭和56年12月、大東文化大学東洋研究所、巌南堂書店=原本、
(55)は肉食奨励会編「肉と乳」6巻1号25ページ、佐藤悠次カ、伴東「松方侯爵家経営 千本松農場の牧羊業(一)」より、大正14年1月、肉食奨励会=館内限定近デジ本、
(56)は河野秀樹著「周縁を呑み込んだ都市」87ページ、平成14年1月、文芸社==原本、
(57)は奥田優曇華著「食行脚(東京の巻)」55ページ、大正14年7月、協文館=近デジ本、
(58)は山寺清二郎編「東京商業会議所会員列伝」204ページ、「木村荘平君の傳」より、明治25年2月、聚玉館=近デジ本、
資料その9は大久保達正監修「松方正義関係文書」12巻75ページ、平成3年2月、大東文化大学東洋研究所、巌南堂書店=原本
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かつては山羊と緬羊をごっちゃにして、臭いと食わず嫌いされた羊肉がですよ、ジンギスカンという食べ方のお陰で、道民は貧富に関係なく羊肉と親しくなり、さらに東京でもブームといわれるまでに好まれるに到るなんて、だれも思わなかったし、関係記録も少ないのです。だからこそ新聞でも雑誌でも読みまくって調べなきゃならんのですよ。
論より実行、国会図書館サーチで検索すると、陽其二という人が明治38年に出した「家庭支那料理法」という本は国会図書館にはないけど、山口県立図書館にはあると出ます。ジンギスカンは無理でも、カオヤンローは書いてあるかも知れんと、夜行バスで山口まで読みに行ったね。
鶏と兎を調理台に乗せ、天井から羊がぶら下がる台所を描いた薄緑の表紙には「支那料理大家陽其二先生著/家庭支那料理法/東京 大學館発兌」とあるきれいな本でしたな。110ページに料理の心得と291種の作り方が書いてあり、うち8種が羊肉料理。焼羊肉は「羊の肉を大角に切り、六七斤計りの物ならば鉄又にさし、火の上にて焼く、其味甚だ宜し(59)」と近いが、ちょっと違った。その次の全羊は「羊の丸煮の料理は種々あれども、料理屋の上技なれば中中自分の家にて出来る事に非ず(60)」ですと。はっはっは。その表紙の写真は以前の講義で見せたから陽其二で検索してご覧。
でも陽は料理人ではなく、ちょっと脱線だが、高橋康雄著「メディアの曙 明治開国期の新聞・出版物語」では、木本昌造の弟子として出てくる。「昌造は門弟として仕えている陽其二とともに活字を分析しながら母型作りのヒントを得ようとしたが、いっこうに埒があかない。(61)」とあります。そのほか「支那貿易説」など本を書いたり、丸家善七と組んで「人身剪形剖体図解」という本を出版したことが知られています。
さてと、天皇家の肉料理はこれぐらいにして、国民の食卓の方へ戻します。明治5年4月には「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(62)とお寺さんも肉食と妻帯と洋服着用が許されましたし、6月には尼さんも肉食が許された。例のメリノー細川は帰国してみると民部省の椅子がなくなっていて、まるで浦島太郎。左院少議官という新たな職務はあったものの、もう牧畜園芸は自分のお仕事ではなくなっていた。それで、雉子橋にいた民部省時代の顔見知りにでも「しばらく羊を預かってくれ給え」とでも頼んだのでしょう。
それにしても、検疫なんて面倒なことはしていなかった時代です。資料その1の(4)と(5)で示したように、長崎や神戸なんかは、もうお隣清国どころかアメリカからも直輸入で羊が持ち込まれていたんですね。坊さん、尼さんも肉を食べてもよいご時世になったのです。ましてや、假名垣魯文が本に「牛鍋くわねばひらけぬやつ」などと書いてはやすし、新聞は新聞で「○牛肉ヲ喰スルニ今ニ於テ其嗅気ヲ好マザル人アリ此嗅気ヲ去ルニハ味醂ト醤油ヲ調和シテ煮上リタル節生姜ノ汁ヲ少シク其鍋ニ入レハ其薫ヒ去リテ鳥肉カト疑カハレル位ナリ殊ニ肉モ和ハラカニ喰セルナリ」(63)なんて、においが嫌ならこうして食べなさいと奨めるものですから、文明開化に遅れてならじと肉を口にする人々が増えたんですね。
資料その1(4)の「金港雑報」の長崎来信の羊700匹という数字は、食用でも繁殖用でも、それぐらいはさばけるという見込みで積んできたんでしょうね。そういう目で、新聞を見直しますと、明治5年になると例の「The Japan Weekly Mail」に、牧夫経験があるといった求職、カリフォルニアの乳牛を売るといった広告が入るようになります。神戸のヨンソンにも学ぼうという者もいたでしょう。でも、牛が主力で羊はまだまだ少ないのです。例えば「日新真事報」という新聞の広告文をスライドで見せましょう。1号分だけで3つも広告が載っています。
日新真事誌35号
(1)米国農事ニ熟練スル者日本ヘ農開ノ為メ今般着港致シ牛馬羊豕牧畜ノ業ニ委シク其外耕作植物ノ術ニ至迠農事ニ関スル一切ノ義ヲ心得雇ヒ入度モノ又ハ農方教授ヲ請ケ度御望ノ方ハ芝金杉橋際濱屋幸二郎方ヘ申込ミアラバ速ニ当人ヘ引合セ御相談申ベク候
(2)[アメリカ]及ヒ[ヱギリス]産ノ牝犢並ニ牝牛
右御望ノ方ハ私宿所エ御光来可被下候
横濱九十八番
売主 ゼームスウエルハン
(3)今般カルホルニヤ産ノ女牛并ニ牛児ヲ取寄候ニ付御望ノ方ハ低価ニテ差上申候
横濱七十番フレチヤ社中
(以上 北根豊監修「日本初期新聞集成」38巻74ページ)
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参考文献
上記(59)と(60)の出典は陽其二著「家庭支那料理法」43ページ、明治38年11月、大學館=原本、
(61)は高橋康雄著「メディアの曙 明治開国期の新聞・出版物語」214ページ、平成6年10月、日本経済新聞社=原本、
(62)は北根豊監修「日本初期新聞全集」第37巻185ページ、平成4年9月、ぺりかん社=原本、原紙は明治5年「太政官日誌」33号、
(63)は同33巻366ページ、 平成3年12月、同、原紙は明治4年12月28日付「都鄙新聞」1号
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こんな具合です。もっと見ていきましたら、明治5年の大阪新聞に「○近頃桃谷ニ舶来ノ綿羊ヲ飼養アリ価直一匹五十両以下也牡ハ少ク牝羊五匹ニ牡羊一匹ノ割ニシテ夏冬ニ分娩ス一腹ニ二匹ニ過ズ毛ヲ刈モ又夏冬ヲ以季トス食餌至テ些少ニシテ藁ヲ主トシ飼養豕ト致易ニシテ其利益ヲ得ルモ又豕トハ遙カニ勝レリ若シ望ムモノハ桃谷又ハ天満橋北詰北ヘ入所ヘ行ヘシ飼養及ヒ摘毛ノ法迄伝習アルヘシトソ」(64)と羊の飼育の記事が載っていますし、日新真事報に「五月九日米船アルコニヤ郵便にて上海より横濱へ輸入貨物 羊五十六匹金中唐桟の類二百四十八箱家具五箱制作茱十三ハコ青黛四十六ハコ油茱一ハコ南京油五十八樽斗卜儿一ハコ○長崎より輸入茶百十ハコ唐物類六ハコ蝋燭百十ハコタバコ百一ハコ○同兵庫より輸入卜儿三ハコ茶六百五十四ハコ牛九十五匹金巾唐桟類九十三ハコ馬車一ツ馬二匹漆器物六ハコ」(65)と羊の輸入を伝える記事があります。このように民間ではどんどん羊を海外から買い込んでいる様子がわかりましたので、私は「横濱毎日新聞」が創刊以来、ずーっと横濱運上所、いまの税関が発表する輸出入品の品名と数量を掲載しているのに目をつけて、その中に生き物がどれだけ含まれているか調べてみました。運がよければ、細川の輸入したメリノーも、ここに計上されることを期待しました。その結果をまとめたのが、資料の2枚目、資料その10です。
資料その10
横濱毎日新聞に掲載された鳥獣類一覧
明治
年 月 日 号 記載事項 全集掲載巻とページ
4 2 25 62 牛五十四疋、兎馬一疋 補巻1−73
4 6 10 157 生牛三十九匹 31−348
4 8 2 201 生牛三十疋 32−30
4 8 3 202 生牛十疋、生牛二十五疋 32−31
4 8 7 206 羊二十疋 32−42
4 8 8 207 生牛二十疋 32−44
4 8 12 211 生牛四十疋 32−73
4 8 19 217 生牛十壱疋 32−107
4 8 21 219 羊十五疋 32−117
4 8 23 221 牛二十疋 32−136
4 8 29 227 牛二十疋 32−165
4 10 18 269 牛拾二疋 32−402
5 2 5 358 牛十二疋 35−36
5 2 27 379 生牛二十疋 35−154
5 2 28 380 生牛十八疋 馬一疋 35−160
5 3 6 386 牛四十五疋 36−52
5 3 14 394 生牛三十壱疋 36−91
5 3 17 396 豕弐百疋 亀六疋 36−118
5 3 20 399 牛四十壱疋 鵞十二 36−149
5 3 26 405 西洋牛一疋 洋馬二疋 36−178
5 3 28 407 馬二疋 36−205
5 4 8 415 牛二十八疋 37−69
5 4 16 422 綿羊六疋 37−119
5 4 21 427 牛四十疋 37−168
5 4 22 428 牛二十疋 洋牛壱疋 37−172
5 4 25 431 牛十疋 37−186
5 6 21 482 牛の子三疋 39−105
5 6 22 483 羊廿四疋 39−116
5 7 4 493 羊九疋 40−23
5 7 20 505 支那馬一疋 生牛五疋 40−100
5 7 21 506 羊十三疋 40−120
5 8 20 533 生羊十疋 41−132
5 10 6 572 羊八疋 43−38
5 10 13 579 アラビア馬三疋 43−103
5 10 21 586 支那馬壱疋 43−157
5 10 22 587 羊拾九疋 43−162
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参考文献
上記(64)の出典は北根豊監修「日本初期新聞全集」37巻333ページ、平成4年9月、ぺりかん社=原本、原紙は明治5年3月「大阪新聞」1号、
(65)は同38巻119ページ、平成4年12月、原本、原紙は明治5年5月13日付「日新真事誌」39号、
資料その10の出典は北根豊監修「日本初期新聞全集」31〜43巻及び補巻1、平成3年8月〜同9年9月、ぺりかん社=原本、原紙は前記各巻にある明治3年12月8日〜同5年10月30日付「横濱毎日新聞」より
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調べたのは明治3年12月8日の創刊号から5年10月30日の599号までの242号分です。これは横濱港における当時の動物輸入状況ということです。そうはいっても、この間の新聞が全部そろって残っているわけではありません。監修の北根豊さんたちが苦心して集めたものなのです。創刊号は国会図書館、2号が無くて3号は四国の宇和島伊達文化保存会の所蔵、それからポーンと飛んで111号まで欠落という具合なんです。
横濱には東西2つの運上所、いまの税関があり、その輸出入を翌日の紙面に載せていました。休日のほかに、理由はわかりませんが、一時公表を差し止められたりしていますが、ともかく生き物の記入のある日が36日あったんです。合計しますと、生牛と書いたりしていますが、牛が556頭、次いで1回だけなのに200頭と固めて輸入したせいで豚が2位、次いで羊で159頭でした。馬は洋馬とか支那馬、兎馬というのも含めて11頭でした。鵞鳥はいいとしても亀6匹も鳥獣類かという疑問もありましょうが、そこは私がいかに真面目に調べたという証拠として認めてもらいましょう。ペットとして輸入したのでしょうね。
細川のメリノー8頭や「米船アルコニヤ郵便にて上海より横濱へ」の羊56匹に該当する頭数が見当たりませんが、横濱だけで少なくともこれぐらいの家畜が輸入されていた。全部を直ちに食用にはしなかったでしょうし、神戸、長崎でも同様に輸入されたでしょうから、合計すると結構な数になり、当然大阪新聞の伝えるように、商売になると羊飼育を始める者が現れてもおかしくはないわけです。
皆さんの中には、何も私が重たい日本初期新聞全集を借りだして、いちいち横濱運上所の発表品目と数量を一々調べなくても、まとまった記録が保存されているはずだと考える人がいるでしょう。ところが、そういう立派な記録があてにできないから調べざるを得ないのですよ。いいですか、身近なところで「滝川畜産試験場五十年史」があります。昭和56年に開基75周年ということで作られたものです。それには明治元年からの「めん羊飼育頭数の推移(全国)」という表があります。その飼育頭数を見ますと、明治元年は4頭、同2年は8頭、3年と4年は0頭に減り、この後盛り返して同5年は10頭、6年は150頭、7年239頭、8年909頭、9年には激増して2083頭(66)に達しています。この数字が何に基づいたものか記載がないのでわかりません。明治2年の8頭は細川メリノー分だとしたら、明治5年ケプロン輸入の9頭はどう数えたのでしょうか。
一方、国会図書館の近代デジタルライブラリーで大蔵省関税局編纂による「大日本輸出入十四箇年表」を見ることができます。「本表ハ外国貿易ノ盛衰ヲ一覧セン為メ明治元年ヨリ十四年ニ至ル十四箇年間ノ物品ノ数量元価及船舶ノ入港出港ノ多寡等ヲ年次列載シメタル者ナリ」(67)という本なんですが、輸入の部の綿羊は明治元年から6年まで記載がありません。つまり、1頭も輸入されなかった。善意に解釈しても、この本をまとめた明治22年にはデータが残っておらず、輸入頭数不明ということでしょう。明治7年になって、いきなり960頭、その元価7824円47銭5厘が初めて輸入された(68)形になっています。1頭も輸入していないのに明治元年にいた4頭の羊は、明治の前、慶應年間から飼われていたとしても、明治4年分として計上されているはずの横濱運上所経由の少なくとも35頭の羊よ、いずこへ―。陸揚げした途端に食べちゃったんですか。それにしても生きたのを輸入したのですから、運上所の記録に残り、全国集計に載るはずですよね。つまり横濱毎日新聞の数字は断片的であるにせよ、大蔵省集計よりは遙かに外国人輸入商の動きがつかめることを皆さんも認めるでしょう。テレビの志の輔なら「合点していただけますか」と同意を求めるところですよ。
さて、細川は帰国してから順調に出世します。明治19年6月調べの「職員録」によるとですね、正4位勲3等、元老院議官になっています。破産法、会社条例、商法の各編纂委員、農商工上等会員という肩書きが付いています。そのときの元老院議長は、民部卿だった大木喬任、副議長は開拓使長官だった東久世通禧(69)でした。それで思い出しましたが、東久世の日記が本になっておりまして、明治4年4月17日、西暦では6月4日のこととして「一、黒田次官米国華盛頓ニ而農工所長人物カプロント申人雇入、當六月中ニ者帰国相成候趣」(70)と書いています。西島照男訳の「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」によれば、ケプロンと契約したのは西暦の5月3日ですから、1カ月後に函館に伝わったことになり、意外に早いと思います。初めから人選は黒田一任と決まっていたことですから、東久邇は必ずしも快くはなかったでしょうが、2日後に、完成した札幌本庁へ移るため函館を離れなければならない準備がありましたから、そうか、よきに計らえぐらいしかいわなかったかも知れません。
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参考文献
上記(66)の出典は滝川畜産試験場50年史編集委員会編「滝川畜産試験場五十年史」29ページ、昭和56年7月、北海道立滝川畜産試験場=原本、
(67)は大蔵省関税局編「大日本輸出入十四箇年表」ページ番号なし、明治22年、大蔵省関税局=近デジ本、
(68)は同35ページ、同同、
(69)は寺岡寿一編「明治初期の官員録・職員録」第6巻262ページ、昭和56年2月、寺岡書洞=原本、
(70)は霞会館華族資料調査委員会編「東久世通禧日記」下巻60ページ、平成4年1月、霞会館=原本
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一方、細川は新しい仕事に慣れ、少しは息抜きできたのか、19年にオール漢文の「梧園随筆」という3冊シリーズの本を出しました。その第1冊の26ページに「本邦牧羊」という題で、明治4年に私がアメリカに行き、8頭買ったのが近年の外国産緬羊輸入の始まりであると書いたのです。その3年前の明治16年に「新国紀行」を刊行、サンフランシスコでメリノー種8頭の買い付けを書いた滞米日記を公にしていたのですが「本邦牧羊」の冒頭に、もう一度、官金で緬羊を買って帰ったことを書いたのです。
細川さんは学者でもありましたから、続けて我が国における緬羊の古い記録にも触れています。私は漢文に強くないけれども、推古天皇以来の羊の歴史をおさらいすることにもなる「梧園随筆」を勉強してみましょう。資料その11になっています。配った資料を見て下さい。
1字、黒い■で伏せ字になっています。これは羊扁に歴史の歴を書く字でUNICODEにもなくてお手上げです。その前の羖は、コと読み「黒いおひつじの意」と現代漢語例解辞典にあります。小谷さんが参考書に挙げた田中芳男の「羊の話」には、その「羖■羊は毛長さ尺余のものを云ふ」とありますので、■と2字になったときは、示す羊が変わるのでしょうか。また田中さんは李長行は「羖■羊二白羊一鵞二を進ずとあり」(71)と、細川さんと頭数が違います。出典は同じなのでしょうが、こうも古いことになると、どうも明治時代の権威たちも自信なさそうですなあ。
本邦の牧羊
【書き下し文】
予民部に在る日、専ら勧農一課を掌り、種芸の事を嘗み調る。
邦人の長を所とす、牧畜に至て、則ち之を外邦と較ぶ。愧色有るを免れず。
米国に役で適き、官金を以て良き種羊八頭を購い帰る。
事は明治四年に在り。是近時外邦の羊頭輸入の始めと為す。官下総の牧羊場に置き何れにか亡う。
羊の蕃息は期すべきなり。然に人は率に曰く、我邦は牧羊に宜しからずと。
且に我邦は雨湿の気多く、羊蹄は為に爛る。其は羊に宜しからぬ一なり。
我邦の地、自然に竹生れ、竹の性硬く、羊飼いに適さず。其は羊に宜しからぬ二なり。
我邦は硫泉多く、硫気又羊に害す。其は羊に宜しからぬ三なり。
予恐くは皆定論にあらずと。地球の上に羊を産せざる地は無し。是が明徴を為す。
我邦は近時牧羊を未だ知らずを以てす。此等疑いを致すのみ。
按るに推古天皇の七年、百済は駱駝一匹驢一匹、羊二頭、白雉一隻を貢ぐ。
弘仁十一年、新羅人李長行等は羖■羊二、白羊四、山羊一、鵞二を進む。
承平五年、呉越の人蒋承勲来て羊数頭を献ず。第に当時曽て意を蕃息に用いるや否や知らず。
醍醐天皇の延喜五年、諸の国司に命ず、獣皮を民部省に輸するを。
武蔵の国羊皮を輸す。是より先、貞観十二年、小野春風請を奏す。
其の兄春枝が献ずる所の羊の革甲を仮す、以て警備に充る。
羊皮之を此の如くに用る。則ち当時已に羊を牧すを知るべし。
又按ずるに拾芥抄の禁食部に羊肉載る。即ち当時羊肉之を用ふ。恐く亦尠からず。
徳川氏の末年、巣鴨に飼羊場を設る。渋江長伯之を掌り、後又多くの西土の種を致す。而して未だ蕃息を得ず。牧羊は漸に以て廃る。惜しい哉。
【口語訳】
私が民部省勧農一課にいたとき、もっぱら農業全般を扱っていた。
日本人の所長が牧畜は外国に見劣りするといった。それで米国に行き、官金で優れた種羊八頭を買ってきた。明治4年のことで、近年では外国から羊を輸入した始まりだ。
政府がその輸入羊を下総の牧羊場に置いている間に死んでしまった。
羊の蕃殖は期待できたのに、人々は日本は羊飼いに向いていないという。
適さない理由その一は、雨降りが多いので、羊の蹄が爛れる。
その二は、我が国に生える竹は硬くて羊の餌に適さない。
その三は、硫黄を含む温泉が多く、その硫気がまた羊に悪い。
私は皆定説ではないと思う。地球上で羊の住めない所はない。それが証拠だ。
我が国では近年まで羊を飼育していなかったので、こうした疑いを持つのだ。
考えてみると、推古天皇の七年(大化の改新前で元号がなかった)、百済は駱駝一匹、驢一匹、羊二頭、白雉一羽を貢いでいる。
弘仁十一年には新羅の人李長行らが羖■羊二、白羊四、山羊一、鵞二を献じた。
承平五年、呉越人の蒋承勲が日本に来て羊数頭を献じている。ただ当時増殖させようと図ったかどうか未だにわからない。
醍醐天皇の延喜五年、諸国の司に獣皮を民部省に差し出すよう命じ、武蔵の国が羊皮を送っている。これより先の貞観十二年、小野春風が兄春枝が献ずる羊の革甲を使い警備に充てるよう奏上した。羊皮をこのように用るとは、当時もう羊を飼うことを知っていたのではないか。
また調べてみると、拾芥抄の禁食部に羊肉が載っている。恐らく当時は結構羊肉を食べていたのではあるまいか。
徳川幕府の末期には、巣鴨に飼羊場を設けて渋江長伯が管理して、海外から多くの羊を入れたのに、うまく蕃殖できぬまま、飼育が廃れたのは惜しまれる。
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参考文献
上記の(71)の出典は東京学士会院雑誌第15編の8(復刻版)401ページ、田中芳男「羊の話」、昭和52年9月、鳳出版=原本、資料その11の「本邦牧羊」は細川潤次郎著「十洲全集」第1巻、「梧園随筆」巻一22ページ、大正15年6月、細川一之助=原本(非売品)
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日本の気候風土がそもそも緬羊に不向きなのだという俗説に対する細川の反論は、わかりますね。この口語訳をある人に見せたところ、本邦が牧羊に適さない根拠とした2番目の理由について「羊が竹を食べるとは思えず、笹ならあり得るかと辞書を調べてみたけれど、笹のことを竹と書くことは無いようだ」といわれました。私はですね、羊もパンダと同様に竹を食うと思い込むような輩が、牧羊不適の理由に我が国の竹の堅さを指摘しているように荒唐無稽なのものばかりだ―という意味で取り上げたと考えます。細川にすれば、羊の餌は牧草だと百も承知していた。ケプロンとともに果樹園などを見て回り「園之外為圃。一老人携籃摘覆盆子。圃外為牧苑囲以籬笆。散牧牛豚。或寝或訛。吐綬鶏方将雛求食。真是一幅洋画中田園景色也」(72)と日記に書いているくらいですから、竹は不要と知っていたはずです。皆さんの中にも、あれっ、羊は竹は食べないのと疑念を持つ人がいないとも限りませんので、ちょっと説明しておきます。
それから後半の「醍醐天皇の時代に貢がれて以降」徳川幕府による織物生産までの間に羊を飼い、毛や肉を利用したという記録に乏しいように思える。それで細川は14世紀の「拾芥抄」の禁食部に羊肉があるからには、公的にはなくても結構繁殖させて食べていたのではないかといった―とみるわけです。
余談ですが、細川は後に「梧園食単」という食べ物随筆を出しています。中国の有名な料理手引き書「随園食單」をもじった書名と思われますが、その中で緬羊と山羊の肉について、こう書いてます。「羊肉ハ軟脆ニシテ美味ナリ、惜ムラクハ我ガ国ニテハ牧羊ノ業未ダ盛ナラズ、之ヲ以テ食品トスルコトヲ得ザルコトヲ、」と。漢文の読み方をそのまま書いたような文章ですね。これに対して山羊はちょっと臭いといっています。「山羊ハ長崎ニテ飼養スルヲ以テ、余数シバ其ノ肉ヲ喫ス、唯少ク羶臊ノ気アルヲ憾ム、(73)」。どうも細川は山羊肉を食べた回数の方が多かったようです。
ただし、これらの四つ足肉の評価の前に「鳥肉ノ次ニハ獣肉ニ及バザルベカラズ、余ハ老後淡味ヲ好ミテ肉食ヲ好マズ、」とあり、ある人が細川さんよ、70過ぎだからといって肉食をしないのも体によくないよというから「乃チ獣肉ニ関スルモノ数條ヲ書シテ以テコノ編ヲ終フ、(74)」つまりおまけとして書いたものだったのです。
細川は明治7年ごろ神田駿河台で搾乳場を開きました。「当時の高襟党と自惚れ、あるいは世の先覚者としてうたわれた大官貴顕紳士の人々が、これに従事したことは搾乳業が新しい事業としてみられていたことを示すものである。(75)」そうですが、この「梧園食単」には、牛乳については何も触れていません。はい、次回は、きょう配った資料その6の「本邦牧羊」だけ忘れずに持参してください。
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参考文献
上記の(72)の出典は細川潤次郎著「新國紀行」14ページ、明治16年1月、細川潤次郎=近デジ本、
(73)は同「梧園食単」61丁表、大正10年5月、西川忠亮=近デジ本、
(74)は同59丁裏、同、
(75)は農林省畜産局編「畜産発達史 別編」134ページ、昭和42年2月、農林省=原本
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