宴の肉料理は牛、鶏、鶉、羊の順だった

  ジンパ学研究のために私は国会図書館はじめあちこちの図書館に出掛けて本や雑誌の羊関係の記事を探して読んで来ました。ところがだ、コロナ・ウイルスの大流行 、それができなくなった。令和2年の春以来、私は年を考えて外出自粛を続けてましてね、JRと地下鉄に乗っていないし、赤ちょうちんの縄暖簾どころか、先生たちとのジンパもなし。本当だよ。
 歩くには億劫な距離のところに行くときだけ、通勤タイムは避け、2枚重ねのマスクをして、ソーシャル・ディスタンスを心がけてね、バスに乗る。もっとも近くに寄ってくる人がいないのは、私の人相のせいかな。はっはっは。
 いや、笑っている場合じゃないんだ。家内と2人で家に籠もるストレスを感じながら、インターネットと定期購読の雑誌といつか使おうと、ため込んである資料で研究を続けてきました。その1つが日本緬羊協会が発行していた季刊誌「シープ ジャパン」です。
 調べたら平成4年4月発行の第2号が一番古いから、28年も購読していることになるわけだ。国内の綿羊は激減したけれど「羊の総合誌」というモットーはそのままだし、購読料は安いから、私としてはまだまだ購読しなきゃならんのです。
 それでね、令和3年の前半期号を読んだら、畜産技術協会の石原哲雄会長による「年頭のご挨拶」に意外なことを書いてあったんです。皇居での賓客歓迎宴にの料理に使うためにね、御料牧場ではわざわざ小柄の綿羊を飼っているというんですなあ。資料その1がご挨拶のそのくだりです。ああ、今回はオンラインだから配る資料は画面で示せば済むし、パソコンの前に座っての話だから楽すぎて、脱線が長くなりそうな気がするが、とにかく始めます。資料の画面は1分間止めるから、その間にセーブするように、間に合わなかったら講義録を見なさい。

資料その1
 <略>宮内庁は,外国の賓客をおもてなしする晩餐会のメイン料理は羊肉を基本としています。その羊肉を供給するために御料牧場は,種雄羊,種雌羊を海外から導入しその交配で生まれた羊を肥育していますが,晩餐会に提供される羊肉のサイズは,銀の大皿(8人分相当)に合わせためん羊のサイズが求められていることから,世界的な時流に逆らって小振りのめん羊を選定・導入しています。<略>

 畜産技術協会の役員だった石原さんは令和2年6月に会長に就任したので「シープ ジャパン」に執筆するのは初めてだったことから「ご挨拶」に前歴に触れています。それによると、大学で研究用の頭の黒い綿羊、サフォーク種を2年管理した。農林水産省に入り畜産行政に携わり、最後の6年半は栃木県高根沢の宮内庁御料牧場の場長を務め、またサフォーク種を管理したそうです。当然宮内庁の求める羊肉のサイズに詳しいわけですよ。
 以前の講義、そうそう講義録では「肉は最高とサウスダウンを推奨したケプロン」となっているあれだ、開拓使顧問ホーレス・ケプロン、彼は4年間いろいろ助言、指導してくれたが、その1つに彼は羊毛用のメリノーだけでなく、肉が美味しいサウスダウンもと勧めた。いいですか、ケプロンはね「若シ東京七重ノ畜類余ガ所有ナランニハ」つまり、開拓使の綿羊がもし我輩のものだったら「横浜『レーン、クラウホルト』ノ輸入セル」「ソーツ、ドーン」の牡羊2頭を「幾元ニテモ買入レ一ヲ七重一ヲ東京ニ置クヘシ一ケ年間此牡羊ノ種ヨリ出ル羊子ハ殆ト購フ所ノ価ニ二千倍スヘシ是レ余カ深ク信スル所ナリ」(1)と黒田長官に書き送ったくらい惚れ込んでいたんですからね。
 私としてはだ、だから御料牧場の小振りの綿羊とは、このサウスダウンに違いないと、宮内庁のホームページを検索したら、飼養家畜家禽の6種類に綿羊はサフォーク種しか書いていない。これは意外、もっとも雉子も飼っていて、わざわざ「日本きじ」とあったのも意外だったがね。ふっふっふ。
 また国会図書館を検索したら、昭和47年の「日本緬羊研究会誌」に御料牧場の高野守雄氏による論文「輸入サフォーク種めん羊の飼育成績」がJ−STAGE、科学技術情報発信・流通総合システムで読めるとわかったので、さっそく読ませてもらった。
 それにより、御料牧場では本格的にサフォークを飼い始めたのは昭和45年とわかりました。資料その2がコリデールからサフォークへと変わったときの事情です。高野さんの論文の儘ですが、読みやすいように改行しました。

資料その2
 <略>御承知のとおり当場の使命は,羊肉の生産供出で羊毛は不必要なため兼用種であるコリデール種の外に肉用種を入れてみたらどうかと言う事になって,昭和35年に農林省に依嘱してニュージランド産の同種の種雄2頭を導入した。
 これがサフォーク種飼育のはじまりである。この2頭は,もっぱらコリデール種の種雌に交配してF1造成用に使用されたが,ついで40年4月にたまたま千葉の鹿野山のマザー牧場で開催された国際畜産ショーに豪州から出品されたサフォーク種の種雄1,種雌3,計4頭を購入した。
 この第2回に導入されたサフォーク種は,純粋繁殖と共に前回同様コリデール種とのF1造成に供用されたが成績は概して良好であった。
 しかし何分頭数が僅少なためと,その後宮内庁からの羊肉に対する需要量が増加したために,一度に相当数の種めん羊を導入する事になって去る45年に豪州から種雄5,種雌50頭を輸入した。

 高野さんは始めたときの飼育成績ですが「シープ ジャバン」が御料牧場の緬羊にノータッチな筈はないだろうとね、協会のホームページにある既刊号の目次を見たら、平成9年10月発行の24号に宮内庁御料牧場畜産課長の竹居宏氏が「御料牧場におけるめん羊改良の推移」を書いているとわかった。これは同牧場の輸入実績の表、サフォークの発育実績などのグラフと合わせて2ページの短い「地方便り」でした。当然「産めよ殖やせよ」だろうと読んでみたら、平成7年から180度というほどでもないが、方針変更して大型化はやめたというのです。その要点を抜き出したのが資料その3です。

資料その3
(1)その後も増え続ける需用に応えるためた,昭和57年と58年にはアメリカから大型のサフオーク種34頭(♂7♀27)を導入して,大型化へ改良を進め、さらなる産肉量の増大を図りました。

(2)平成元年にはオーストラリアから,2年にはニュージーランドからサフォーク種26頭(♂5♀21)をそれぞれ導入し,肉用種として後躯の充実した体型へと改良を進ました。

(3)大型化による産肉性の向上は達成出来ましたが,大きすぎて飼養管理面,また調理面に問題があることから、改良目標を,大型化を抑え肉質の向上と後躯の充実へと変更し、平成7年と8年にオーストラリアからサフォーク種29頭(♂4♀25)を導入して改良を推し進めてきました。

(4)肉質及びサイズ面でほぼ満足の行く成果が得られてます。

 「調理面に問題」と竹居さんはボカしてるが、石原さんのいう「銀の大皿(8人分相当)に合わせためん羊のサイズ」に違いないよね。サウスダウン専門の十勝・足寄の石田めん羊牧場のホームページに「小柄な体型、繁殖力の低さ、系統の少なさ羊飼い泣かせの品種がサウスダウンです。(3)」とありますが、御料牧場は羊肉をバンバン売って稼がないと、宮内庁から叱られる組織ではないはずだから、内緒で飼っているかも知れないよね。それで石原さんに「御料牧場ではサフォーク種に掛けて1代雑種を料理用にされていると思うのですが」とお尋ねメールを送ったんですよ。
 私からのメールは、運良くスパム扱いされず石原さんに届いたんですなあ。間もなく石原さんから御料牧場では過去にもサウスダウンを飼育したことはないとメールが来ました。石原さんの説明を要約したのが、資料その4です。

資料その4
(1)肉量確保のために大型サフオークを飼育するほうが効率的であり、いま世界的にもサフォークの大型化が進められている。御料牧場では、サフォーク種の純粋の繁殖肥育をしており、肉の大きさに皿を合わせるべきだ主張しても、大膳課は銀の皿に合わせるようにと譲らない。

(2)それで体格のよい雄ではなく、オーストラリアから数年おきに本当に小柄な雄を導入している。そういう雄を調達できないとなれば、品種を変えるかも知れないが、いまはなんとか大膳課の要求に応えられている。

  

参考文献
上記の資料その1の出典は畜産技術協会編「シープ ジャパン」109号1ページ、石原哲雄「年頭のご挨拶」、令和3年1月、畜産技術協会=原本、 (1)は開拓使編「開物類纂」4号31ページ、ケプロン氏七重試験場巡見の報文、明治13年3月、札幌市中央図書館デジタルライブラリー、 (2)は宮内庁ホームページ= https://www.kunaicho.go.jp
/about/shisetsu/others/ bokujo-enkaku.html) 資料その2は日本緬羊研究会編「日本緬羊研究会誌」9号31ページ、高野守雄「輸入サフォーク種めん羊の飼育成績」、昭和47年*月、日本緬羊研究会= https://www.jstage.jst.go.
jp/pub/pdfpre view/jpnj sheepsci1964/ 1972/9_1972_ 9_31.jpg、 資料その3は畜産技術協会編「シープ ジャパン」24号24ページ、竹居宏「御料牧場におけるめん羊改良の推移」、平成9年10月、畜産技術協会=原本、 (3)は 石田めん羊牧場「牧場について」= https://www.ishida-sheep
-farm.com/about 資料その4は畜産技術協会長石原哲雄氏からのeメール=令和3年2月2日受信、

 この後、石原さんと数回メールのやりとりがあり、石原さんが宮内庁内の雑誌に書いたジンギスカンの話の原稿を戴いたので講義録の「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」に加えようとしたけど、掲載年月などが不明でね、ペンディングになってます。
 私は東京に行くと国公立図書館だけでなく、品川の方にある味の素食の文化センターにもご挨拶かたがた行きます。あそこのライブラリーは食関係の書籍専門、しかも開架だからとてもネタ集めが捗るんですワ。また文化センターとして雑誌「vesta」のほかにメールマガジンも出していてね、去年ぐらいからだと思うが「vesta」のバックナンバーが読める毎月のパスワードを教えてくれるようになった。
 そうなればコロナのせいで家に籠もっている私が利用しないわけがない。石原さんには質問したころだったと思うが、メールマガジン200号がきて、新しいパスワードで読める「vesta」のバックナンバーがまた何冊か増えた。その1冊が「酒と食」特集の106号でね、食文化研究者の森枝卓士氏が連載した「文明開化の食 『西洋料理通』と河鍋暁斎の記録から」の最終回があり、最初の2ページに明治天皇が召し上がった西洋料理のメニュー2枚が載っていたのです。
 画像だからね、がんがん拡大してみたら、その片方は「『秋山コレクション』<宮中献立>の中でもっとも古い明治8年5月28日のメニュー。(4)」であり、昼飯なのに油焼と蒸焼と羊肉料理が2品も入っている。資料その5が書き換えたその献立ですが、もしかすると明治天皇は羊肉がお好きで、3日に1度は召し上がったんじゃないか。ジンパ学上、こりゃ放置できない、調べようと思い立ったのです。ただし、これは秋山コレクション中、最も古い献立てはなく、もう1年早い明治7年が1枚あったことは後で話します。
 さらに森枝さんは出版社から料理の解説を書くよう頼まれ、天皇の料理番として知られた故秋山徳蔵氏のメニューのコレクションを調べて「宮中晩餐会」という本の料理解説を引き受けた。またその縁で秋山氏の孫である秋山徳子さんからコレクションが散逸しないよう預かってくれるところ探しの相談をそされたので、味の素食の文化センターを紹介した。それで同センターへ行けば、全コレクションの画像が見られるし、センターではそのDVDを作って売っているとも書いていました。
 ああ、資料そまの5の説明を少しすると、松露は茸、臘干はハム、雁肝はフォアグラです。

資料その5
   明治八年五月二十八日
     御午餐献立

   牛羹肉摘入
   鮭白汁掛鰕蛎菌松露
   油焼羊肉
   袋蒸鳩
   寄物雉子羽盛
   冷シ臘干
   雁肝干藻寄
   洋酒烹牛脊肉
   洋酒煑兎股肉酢入
   油焼犢牛股肉
   油煑鶉苑豆
   洋酒入菓子
   蒸焼七面鳥松露
   蒸焼羊股肉洋菜
   洋独活白掛汁
   洋菜花白掛汁
   牛乳凝膏
   アナ々製菓子
   于菓物寄菓子
   茄菲入氷菓子
   菓物入氷菓子

   錺附造菓子及木菓子数品

 少しずつでも一度にこんなに平らげられるか疑問ですが、森枝さんは「英国のパークス公使をはじめとする、欧米の各国公使を招いての午餐会である。太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視などが同席している。『これでもか』と料理が並ぶのは、エスコフィエが古典的フランス料理を整理統合して、現在のような前菜主菜というようなかたちにする前の典型的なそれである。(5)」と解説してます。
 その古典的フランス料理とは、昔のフランスでは、テーブル一杯に何種類ものスープの大皿を並べる。スープがなくなると皿を下げて、焼き肉などの大皿を持ってきてその場所に置く。それがなくなると、お菓子やアイスクリームなどが出てくるという出し方だった。それでは熱い物は冷めるし、好きなものが出ていても座った位置の近くの料理しか食べられない。
 それでパリに来たクラーキンというロシアの大使が「ロシヤ風に1皿ずつ出して、熱い料理は熱いまま、おいしく食べようじゃないか」と言い出し、それが広まって、どーんと料理をまとめて置くのはやめて1皿ずつの出し方に変わった(6)―というのは故辻静雄氏の解説の受け売り。そう言われてみると、このメニューは羊肉と鳩、蝋干即ちハムと雁肝即ちフォアグラとだいたい2品は出すようになっている。菓子のアナ々はバナナじゃなくパイナップルです。
 松平乗昌編「宮中晩餐会」は平成24年に出た本であり図書館にあるんだが、コロナが怖いので通販で買ったら、販売調査カードが挟ったままの新しい古本でした。ところがだ、森枝氏が「vesta」で秋山コレクション最古と紹介した献立より、もう1日早い献立が載っていました。それは「明治8年8月27日賜餐/米国前大蔵卿御夫妻始」という仏文とペアになっている献立でした。
 ところがルーペを使っても読めないくらい小さい写真でね、仏文の方には筆で「明治八年八月二十七日」と書いてあり、さらに6カ所に短いスラッシュを付けているのが見えました。後でわかったのですが、これはだれかが仏文の綴り間違いなどに付けた印しだったのです。
 「宮中晩餐会」の献立の掲載枚数を数えたら、明治時代が33枚、うち仏文とのペアが7組あるから実質26枚、鍋島家に行幸されたとき晩餐1枚を加えて34枚。そのほか39年2月20日に英国コンノート親王を迎えて晩餐会での演奏曲目、日仏両文で2枚がありました。メニューと一緒にこういうのがテーブルに置かれた場合、その聞き方とか、1曲ごとに拍手をしたかどうかついて記録がありそうなので、レポートのテーマとして認めましょう。
 大正時代は15枚でペアの仏文を除くと実態は10枚。昭和時代は34年までで20枚、ペア分を除いた実態は17枚でした。3代合わせて61枚。外国語のも混ぜて表紙に11枚、目次に8枚、口絵に8枚のメニューがちりばめてありました。
 30枚足らずのメニューに14回羊肉が使われてはいますが、牛肉はもっと多い。それにしてもこの1冊で明治時代の45年間の皇室関係宴会に於ける羊肉食を云々できないことは明らかだ。森枝氏のいう何十冊も保存されている分厚いアルバムのメニューを全部収めたDVD、これはCD−ROMだったが、とにかく最多枚数というそれを買って調べることにして「秘められた和食史」を書いた安原美帆さんに、コロナ見舞いかたがた、こういう本を買ったよとメールで知らせたのです。
 すると、安原さんから私が持っている「天皇家の宴」で「明治8年5月28日の晩餐会のメニュー」を探したら「5月18日、8月27日はあったのですが、5月28日は収録されていませんでした。残念です。」とあり、でもこれには「日本で始めての宮中のメニューとして明治7年9月2日午餐のメニューが巻頭を飾っています。(7)」と教えて下さった。
 「天皇家の宴」を見れば最古も含めて200枚のメニューがわかるならと古本を探しましたね。すると、昭和61年の出版当時は1万9000円もしたが、いまは最安は3000円とわかったので即決で発注し、ついでに味の素食の文化センター制作の2500枚入りという3000円のCD−ROMも注文した。
 「宮中晩餐会」ですぐ気付いたことだが、仏文のメニューには和文のメニューが必ずペアになっていない。こりゃフランス語を勉強しないといかんぞと、塩川裕美・藤原知子著「新・現場からのフランス語」、辻調理師専門学校など共著「新訂フランス語基本用語」、佐藤巌ほか4人共著の「フランス料理仏和辞典」と3冊もまとめ買いしちゃった。なにしろコロナ感染が怖くて2年近く国会図書館に出掛けてないので、毎月の交通費がまるまる浮きでね、太っ腹で買えるんですよ。はっはっは。
 それにね、酔っ払って同じ「天皇家の宴」をもう1冊買っちゃったと後悔したけど、届いた本は全く別物で結果オーライ。帙入りキンピカ小口の「天皇家の饗宴」と1字多い題名の本でした。奥付を見たら「豪華限定版参壱百五拾部之内第 番」とあり、第と番の間に細い朱筆で「一百一拾七」と手書きしてあり、驚くなかれ、その隣りに「定価五万六阡圓」とあったんですなあ。その10数分の1で買えたんだから、最初に買った人に申し訳ないよね。はっはっは。私が本当に買ったという証拠写真を見せましょう。

資料その6
  

 昭和53年12月発行の「天皇家の饗宴」には、明治時代63枚、大正37枚、昭和53枚の献立を取り上げ、1枚ごとにその時々の国内外の状勢が書れているが、料理については短い解説56編の中に少しあるだけ。資料その5にしたメニューが明治時代の先頭にあり、大きさは横13.8センチ、縦18.7センチとあるからB5の半分だったのですね。
 変わっているのは天皇家・旧宮家の系譜があり、明治天皇の大正天皇を含むお子さんを数えてみたら15人だった。それでね、明治天皇が子沢山で知られた松方正義侯爵に子供は何人かと聞かれたのは、畏れ多いことではありますが、朕にかなわんだろうと自慢なさるつもりだったのではないかと拝察致しました。はい。
  

参考文献
上記(4)と資料その5と(5)は味の素食の文化センター編「vesta」106号61ページ、森枝卓士「文明開化の食 『西洋料理通』と河鍋暁斎の記録から」最終回、平成29年10月、味の素食の文化センター・メルマガ会員限定サイト、 (6)は辻静雄著「フランス料理の手帖」146ページ、平成6年5月14版、新潮社=原本、
(7)は安原美帆氏からのEメール=令和3年3月23日受信、 資料その6は令和3年4月20日に尽波満洲男撮影、

 さて「全2527点のカラー画像(pdf)が、CD1枚に収められています!」とうたう大物「秋山コレクション」ここからCDと呼び、秋山と敬称を略しますが、そのファイル構造は資料その7(1)のようになってます。縦横の線の隙間は気にしない。メニューカードはメニューの画像、DATAはメニュー1枚毎の整理番号、会食年月日、場所のほか備考として全部ではないが、主賓などの記録付きです。
 さらに宮中献立はヨーロッパ諸国献立を除いた宮中料理は資料その7(2)のように年代別になっている。これは日仏両文ある場合2枚と数えているし、音楽の演奏曲目も数枚入っているので正味の枚数としては少し減ります。
 「天皇家の饗宴」を「饗宴」、「天皇家の宴」を「宴」と略して呼ぶことにするが、この両書は秋山コレクションを元に書いた本なのだから、全部CDにある献立の筈なんだが、そうではないのが1枚、それも最古なんだから面白いよね。後で話しますが、2冊買った甲斐があるってもんてす。はっはっは。

資料その7
(1)
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
  ┃ 秋山CD        ┌宮中献立        ┃
  ┃   │┌メニューカード─┼その他別冊       ┃
  ┃   └┼        └ヨーロッパ諸国献立   ┃
  ┃    └DATA                 ┃
  ┃      │         ┌メニューカードA ┃
  ┃      │┌アルバム未収蔵─┼         ┃
  ┃      └┼        └メニューカードB ┃
  ┃       └アルバム収蔵            ┃
  ┃          │               ┃
  ┃          │┌宮中献立          ┃
  ┃          └┼その他別冊         ┃
  ┃           └ヨーロッパ諸国献立     ┃
  ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
(2)
アルバム収蔵分
宮中献立
第1集 102枚
第2集  46枚
第3集 104枚
第4集 104枚
第5集 135枚  以上明治分計491枚
第6集  56枚
第7集 133枚
第8集 128枚
第9集  79枚  以上大正分計396枚
第10集 99枚
第11集 86枚
第12集 99枚
第13集 62枚  以上昭和分計346枚
             合計1233枚
その他別冊
同1  89枚
同2 103枚
同3 102枚
同4 104枚  以上明治分計398枚
同5 100枚
同6 103枚
同7  95枚  以上昭和分計298枚
             合計696枚
アルバム未収蔵
メニューカードA  65枚 内明治分36枚
同      B 102枚    同 5枚
       計 167枚  明治分41枚
以上明治分総計930枚

 この献立を、それこそ、どう料理しようかと考えましたね。昔なら集計用紙に書き出して数えるところですが、いまはエクセルやスプレッドシートを使わない手は無い。そうはいっても資料その5のような献立をどう解析すればいいのか。ジンパ学だから羊肉料理だけとし、焼き物で何回、煮物で何回でした―では小学生の夏休みの研究だ。
 それでね、まずは献立の書きようの変化から調べました。明治10年代の主流といえるのは唐草模様と呼んでいいと思うが、棒に草が搦んでいる模様の枠内に料理名を横書きししたが、明治20年秋からからガラリと変わり、枠なしで和文は縦書きに統一されました。
 資料その8(1)と同(2)が両スタイルの第1号の献立です―と見せたかったが、古い方はスキャナー撮りしてみると、ただの古い紙にしか見えない。それで代わりに明治11年2月8日の献立のコントラストを強くして示しました。
 これなら唐草枠と横書きがわかるでしょう。CDの宮中献立第1集41番のこれの備考は「晩餐 御陪食」で主客の名前はなし。同第1集1番からの22枚は唐草模様の枠が2組でしたが、9年10月4日の献立から内側の細い棒にからむ模様はなくなり、外側だった太い棒の模様だけになりましたといいたいが、前の2枠が好きという料理番もかなりいたようで、この後、すっきり統一されたとはいえません。
 同(2)は明治20年10月27日の午餐から使われたスタイルです。その他別冊その1第76番、備考に「晩餐 スタイン氏 午餐」とあります。用紙は縦長、上部に菊の御紋を置き、その下に横書きで開催年月日と午餐か晩餐を2行に分けて書き、その下に「一 何々」と縦書きで出す順に1品1行で右から左に並べるようにに変わりました。
 「宴」はこの日ではなく備考に「晩餐 スタイン氏 土方大臣 賜餐」とある11月2日の献立を取り上げてます。「オーストリアの憲法学者に賜餐」という見出しですが、そのローレンツ・フォン・シュタインに師事した侍従の子爵藤波言忠が代わりに天皇にご進講申し上げた。「案ずるにその熱心な進講に対して宴を設けられたのではあるまいか、スタインとあるのはその故であろう。(8)」とありますが、健康を損ねていたシュタインに代わって法学博士で鉄道事業に精通した息子のエルンスト・フォン・シュタインが来日(9)してご馳走になったのでした。ふっふっふ。
 昭和40年代になると、時々横書きも交じりますが、菊の御紋と模様無しの簡潔な書き方はいまも続いているようです。極端に品数が少なかった例として、昭和18年の午餐で鮮魚牛酪焼、小鴨焙焼、温菓の3品、敗戦後間もなくの昭和20年10月に鮮魚牛酪焼、若鶏蒸焼の2品があります。

資料その8
(1)
   

(2)
     

  

参考文献
上記資料その7は味の素食の文化センター編「メニューカード・コレクション」CD−ROM版、平成26年11月、味の素食の文化センター=原本、 (8)は秋山四郎編「天皇家の宴」20ページ、昭和61年4月、秋山徳蔵を偲ぶ会出版部=原本、 (9)は「九州の日独文化交流人物誌」32ページ、上村直己著「エルンスト・フォン・シュタインの来熊」、平成17年2月= https://kumadai.repo.nii.
ac.jp/?action=pages_view_
main&active_action=reposi
tory_view_main_item_detail
&item_id=23180&item_no=
1&page_id=13&block_id=21
資料その8(1)は秋山CD宮中献立第1集41番の明治10年2月8日夕餐献立、 同(2)は同別冊その1第76番の明治20年10月27日午餐献立、

 CDの講義をするのだから1枚ぐらい「宮中献立」の羊肉料理の絵か写真はないかを探したら、1枚ありました。東京の明治記念館の開館70年記念展宣伝のために再現したドイツ皇族を迎えた明治20年5月13日に午餐でした。撮影時の契約条件があって駄目だと借りられなかったけれど、同じらしい写真が月刊誌「Pen」のホームページにあるから、資料その11のURLで見てもらいたい。

資料その11
https://www.pen-online.jp/news/food/meijikyutei-meijikinenkan/1

 坂本裕子氏による記事「幻の高級カレーライスを133年ぶりに再現!宮中晩餐の世界を体感できる展覧会&イベントが、明治記念館で開催中。」の7枚目の写真の左寄りの骨付きフライのような1品がね、和文は「牛酪燒肉包羊肉豌豆」で、仏文のメニューでは「Côtelettes de mouton en villeroi」というそれですね。
 「フランス料理仏和辞典」によると、ムートンの後ろはヴィルロワ風となり、それはソース・ヴィルロワで包み、衣をつけて揚げた料理とある。ではソース・ヴィルロワというと「フランス王ルイ15世の総督を勤めた Villeroi 捧げられたもの」であり製法は「ソース・アルマンドに出し汁とシャンピニオンの煮汁を加えて煮詰める、少し冷めたものを用いる(10)」そうです。ソース・アルマンドとは sauce allemande と書くらしく、辞書通りならドイツ風のソースとなる。それを付けるとか浸すじゃなくて包むだからね、湯葉みたいなものをソースというのがドイツ風なのか、どこがドイツ風とまで書いていないから、私にゃこれ以上はわかりません。ふっふっふ。
 買ってしまったから気付いたのだが、私の場合、献立にある材料がわかれば充分であり、何々の伯爵夫人作りとかベルビュー風といった作り方は不要だったんですなあ。でもね、現場という単語にひかれて買った本「新・現場からの調理フランス語」を読んだら「映画の中のフランス料理」で4本を取り上げており、うち「シェフ」と「バベットの晩餐会」は見た映画だ。殊に「バベット」に出てくる海亀のスープが気になり、探したら時計台の近くのレストランにあったので「缶詰物ですが」といわれたが、じっくり味わってみたことを思い出した。
 それで海亀という単語 tortue de mer を探し、明治12年10月15日の仏文「POTAGE/Tortue」を見付けた。日本じゃ海亀を捕まえたら酒を飲ませて海に帰すしきたりがあるのに、たまには宮内省御用達にして帰さなかったなと納得したら、実はスッポンだったのですよ。
 CDは和仏両献立があるときは必ず仏文和文の順に並べているのに、CDに収めるプロセスでこの並びが崩れ、和文の次に同年10月20日の和文献立1枚が挟まり、仏文がその後ろになった。このため私は先に「泥亀羹野菜牛乳」でスッポンの初登場を知り、それから後になった仏文だけで和文がないが、その近くに海亀のコンソメもあるんじゃないかと見廻して、2枚前の献立が日付が同じ、Tortueは海でなく陸の泥亀と気付いたというわけ。丸鍋で味は知っているから、安心して海亀代わりに使ったに違いないのです。
 フォアグラは明治8年から使われてますが、同40年1月21日の午餐は「仏国大使 親任状奉呈 御陪食 於豊明殿」で、献立は「一 凝汁寄雁肝 アスピツク ド ホワグラー」と定番のゼリー寄せらしく和文は簡単ですが、仏文は「Aspic de foie−gras naturel」とナチュレルが付いている。
 それで「宴」は「缶詰でない生のフォア・グラが出されている。<略>おそらく密封した容器に生のフォア・グラを詰め,船の冷蔵庫に保存して送らせたものであろう。<略>主客がフランス大使だけに、気を使われたのであろうが、航空便のある現在でも生のフォア・グラは,なかなか口には入れ難い。(11)」と書いてます。
 私はね、そうではなくてフランスでフォアグラ用に飼っている鵞鳥を20羽ぐらい買い、生きたまま船で送らせたと考えます。以前の講義で見せた「ペルリ提督日本遠征記」の甲板の絵を覚えてないかなあ。船員が餌やりを忘れなければ、半分は生き残って宮内省大膳寮に安着。午餐の日程が1週間ぐらいずれても心配ない。そう思いませんか。はっはっは。
 思わず脱線しちゃったが、私は手始めに明治8年から9年にかけての20回の午餐晩餐の献立から使われた四つ足と鳥の種類を調べました。この辺はこまごま書いた時代でね、牛肉も牛へんに賣と書く子牛の肉を区別しておるが、鶏は雛鳥と分けたりしなかったりだ。美味と定評のある鴫は古くから使われてきたせいか、ただ鴫と書くほかに山鴫、海鴫と書き分けたりしてます。
 それでほぼ毎回使われる牛肉だけ成牛と子牛に分けるが、ほかの肉は老幼は無視すると、牛、子牛、羊、鶏、鶉、鴫、鴨、七面鳥、雉子、ハムも含めて豚とし、鹿を加えて11種。それから雁肝と書くフォアグラはちょいちょい使われるとわかったので、飛ぶ雁と分けて13種だ。さらに兎、鳩、家鴨、山鳥、鵞鳥、猪、鷺も使っていて明治時代は合せて20種でした。当然ですが、海と川の魚、スッポンと海亀とキャビアは無視ね。
 札幌農学校のブルックス先生の着任歓迎パーティーで白鳥が出たように、このころは鴫、鴨、山鳥などは山野にたくさんいたし、狩猟も盛んだった。静岡民友新聞で見付けた野鳥の買い入れ価格の記事を資料その9にしましたが、こうした方面の御用達ルートで野鳥が東京に届いたのでしょう。

資料その12
●浜松鳥類相場   例の浜松紺屋中島銃砲
店にて買入相場は左の如しと云ふ
山鴫   25銭    小鴨  14銭
大鴨 15銭ゟ30銭迄 勺鴫  4銭
番鳥   5銭     クイナ 1銭5厘
田鴫   11銭    青鷺  25銭
白鷺   1円20銭  相黒  4銭
土鳩   6銭     山鳩  7銭
雁    1円     ガツチ 5銭
鶉    8銭     ヒヨ  2銭
チヨウマ 2銭

 20種なんだしエクセルに書き入れて、カウント関数で使われた回数を調べるのは簡単だろうとは思うけどね、正直なところ私はエクセルと相性がよくない。文学部同窓会の会員名簿作りでは使ったのだが、或るテーマの統計でワークブックが大きくなったので、中間を畳んだら開けかなくなって数日の努力をパアにしたことがあります。この講義録の目次に「戦後の料理書に現れたジンギスカンの料理法(平成編と総括)」と予告したままになっているのは、掲載した本の発行年月が途中から入らなくなり、お手上げしたからです。いずれは作り直して、手作りタレの醤油や酒の割合が昭和と平成ではかなり違うなんていえるようにするつもりですがね。
 予備実験をしてみて、私は材料を素数で現し、その累積で材料の組み合わせを区別することを思い付いた。例えば牛は2、羊は3としますか。掛けると6だ。鶉が6で、鶉以外使っていなかったら、どっちによる6かわからん。整数ではなく、この場合、素数を使うと、そうした混同は起きない。牛は3、羊は次の素数の5となり、掛けると15だが、15という素数はない。近いのは13か17で、その辺に鶉があったとしても13か17であり、決してダブらない。それで物凄く長い桁数の素数の掛け算を使い、情報を伝えるRSA暗号というのがあるくらいです。
 例えばだね、牛の3と鶏の11と豚のハムの31の掛け算なら1209だが、鶏ではなく鶉なら13で1023で組み合わせが違うとわかる。全献立をこのように計算して分類すれば答えの数値は何種類かになり、それからどの組み合わせが多用されたかがわかるはずだよね。
 次はエクセルへの書き込み方だ。2台のパソコンの片方にCDの献立の画面を出し、片方のエクセルに書き込んでみたが、蒸焙七面鳥、七面鳥は23か、真ん中辺のはずなんてやっていては能率が上がらん。またそういうやり方は入力ミスのもとだから、昔懐かしの単語カードに日付、午餐晩餐の別と材料、第何集何番という分類番号を書き出し、カードを見ながらエクセルに入力することにしました。百均店で求めたそれはプラスチックの環でカードを留め、表紙にWORD CARDSとあるから、今でもこれを使う受験生が結構いるんだね。
 イザ始めたら仏文だけの献立で引っかかりましたね。「天皇家の饗宴」と「天皇家の宴」に飜訳した献立がそれぞれ何枚あるか調べたら「饗宴」は献立61件のうち17件、「宴」は70件のうち40件あり、大いに当てにしたのですが、和文付きなのに仏文を訳したもの、それもまた7件は同じ宴会だったりで訳語の参考程度にし使えませんでした。
 それから和文の料理名の下にフランス名を片仮名で書いた献立も現れます。明治19年2月8日晩餐は11品全部が片仮名書きで漢字ゼロ、最も長いのは「ペチー ポワー ガルニー デスカロツプ ド ムートン」、最後のムートンで羊肉と判定した。それから全部漢字で書いたスープの名前で最長は12字で、第1集では「牛肉羹酸葉麭包牛乳鶏卵入」と「湯引魚芝鰕松露酢漬物掛汁」、麭包はクルトンで、浮身入という書き方もありました。
 休み休み930枚のカード書きをしたが、約1200語の辻静雄監修「新訂フランス料理基本用語」は「あとがき」が凄い。かいつまんでいうと、ワープロも無い時代にオーギュスト・エスコフィエの900ページにもなる「ギド・キュリネール(料理の手引き)」の単語を書き出したら18万枚。それを約8100語に絞り、ジョエル・ロビュションの家庭向き料理書からの3130語と合わせたものが元になっているとあります。1000枚足らずで頤をだしちゃいかんのですなあ。
 カード作りでCD「宮中献立」第1集84番の明治12年6月5日午餐の仏文献立に「POTAGE/Ox Tail」を見付けた。こりゃ英語だし、フランス語も同じかと「フランス料理仏和辞典」で確かめたら、やはり英語と認め「オックスティールスープ〔イギリス料理.牛の尾入りのコンソメ〕」(12)でした。
 明治39年12月18日の献立の「煮込鶏肉 アオル ヲーブアン フヒナンシエー」は見たような気がするので、探したら同年1月27日の「麦粉包鶏肉 ウオル ヲー ウアン ア ラ フィナンシヱー」だった。鶏肉とわかれば充分なのだが、せっかくだから共通の「ア ラ フィナンシェー」を探したら「宴」では明治8年8月27日など4枚にあり、どれも理財家作りと訳している。はっきり思い出せないが、理財家とは何かとまた検索していてウオル ヲー ウアン ア ラ フィナンシエーは vol-au-vent à la financière らしいとわかった。
 financière は資本家風で「その名のとおり,たいそう贅沢なもので,鶏冠,家禽のクネル,シャンビニォン,トリュフなどの煮込みよりなる(13)」と辞典でわかったが、vol-au-vent がない。それでグーグルの飜訳を使ったら「金融へのヴォロヴァン」という訳でわけがわからん。でも同名でYouTubeを探したら深い小皿みたいなパイに料理を盛る動画があったので、パイに鶏肉などを詰めたものと察しました。さらに検索したら、ヴォロヴァンは直訳すると風で飛ぶこと、風に舞うほど軽く膨らんだパイのこと(14)と辻調グループのホームベージにありました。まあ、フランス語の勉強のようではあるが、こんな単語の吟味で肝心のエクセルの書き込みは、とんと捗りませんでした。
  

参考文献
上記の(10)の出典は杉富士雄監修「フランス料理仏和辞典」1708ページ、平成4年3月、イトー三洋株式会社=原本、 (12)は同1210ページ、同、 (13)は同708ページ、同、 資料その11のURLは内容の通り、 (11)は秋山四郎編「天皇家の宴」62ページ、昭和61年4月、秋山徳蔵を偲ぶ会出版部=原本、 資料その12の出典は明治38年10月15日付静岡民友新聞朝刊3面=マイクロフィルム、 (14)は https://www.tsuji.ac.jp
/oishii/recipe/k11001_out lline.html?CID=TJONCS0001 &RECIPE_CD=k11001

 カードを年代別に分けると明治15年と30年は1枚きりなのに、明治30年代などは同じ日の献立が3枚もあったりするので、まずは有効枚数を調べました。資料その10がその結果で38%、なんとほぼ4割が重複分とわかりました。
 合計929枚で1枚少ないのは明治25年1月19日と同年同月29日の午餐献立の間にある別冊その2第68番は宮内省雅楽部の「舞楽目録」は日付がないので、予め除いて調べたからです。もう1枚「ヨーロッパ諸国献立」から紛れ込んだとみられる日付なしの音楽プログラムがあるが、収蔵分類では明治39年2月28日の英皇族コンノート殿下接待の献立と対にして第3集の第85番、献立は86番としているので、献立は宮中料理に加えプログラムは単なる重複分で処理しました。

資料その10
明治  枚数 重複枚  小計 | 明治  枚数 重複枚  小計
 8年 12   2  14 | 31年 18   9  27
 9年 12   1  13 | 32年 21  19  40
10年  9   0   9 | 33年 17   7  24
11年 27   4  31 | 34年 18  14  32
12年 19   4  23 | 35年 26  19  45
13年  3   0   3 | 36年 19  13  32
14年  3   0   3 | 37年 18   4  22
15年  1   0   1 | 38年 29   8  37
16年  6   2   8 | 39年 34  18  52
17年  5   2   7 | 40年 35  12  47
18年 19   4  23 | 41年 28   8  36
19年 14   2  16 | 42年 31   7  38
20年 31  10  41 | 43年 25  12  37
21年  8   1   9 | 44年 25  16  41
22年 12   0  12 | 45年 15  11  26
23年 24   4  28 | 合計 669 260 929
24年 30  12  42 | 
25年 15   5  20
26年 21  10  31
27年 10   3  13
28年  6   4  10
29年 23  12  35
30年  1   0   1

 重複分を除いた献立は669枚ですが、これはオードブルまたは前菜と書かれていて材料不明の分と牛肉、鶏肉を使ったスープ、ホタージュは無視しておるから、この回数が即CDにある献立に於ける使用回数とはいえないけれど、資料その11(1)のように1回の宴会で同じ材料が2品に入っていたら2回、3品なら3回と補正した回数が同(2)です。さらに羊肉の料理名に絞ると最多は58回出現の蒸焙羊肉でした。
 「乃ち内膳司に令して牛羊の肉は平常之れを供進せしめ、豕・鹿・猪・兎の肉は時々少量を御膳に上せしむ、(15)」と「明治天皇紀」にありますが、4つ足で見ると山にいる鹿、猪より豕、つまり豚肉が上位にあるのはだ、保存の利く臘干、臘乾、燻豚と書いたハムとして使われたからです。1例だけだが、明治8年に「冷物丸焼豚子菜」があり、宮中饗宴の料理はイギリス経由のフランス料理だとする学習院大の長佐古美奈子氏は、イギリスでは牛肉や羊肉の丸焼きを大皿に載せて出し、客の前で切り分ける料理が盛んに行われ、これこそ「まさに大皿上の丸焼料理なのである(16)」と考察しています。
 さては宮内庁で8人分の大皿に固執するのは、このイギリス式の名残かと思ったら、そうじゃないらしい。長佐古氏は「宮中晩餐会では給仕人が料理を盛り付けた大皿を持って回り、来客は各自で取り分ける。これが本来のフランス料理のサービス方式となる。これは主賓も天皇も同様である。これも現在においても同様の方式で続けられており、陛下もご自身で料理をお取りになるという。(17)」と別の論文に書いてます。
 また羊肉より鶏と鶉を多用したことが同(2)でわかるよね。コケコッコーの鶏はさておき、鶉も鳴き声がよいと徳川時代から飼われていた。「王政復古明治維新に、鶉飼養ので飼育の道も全く中止して、顧みるものがなくなつたのであるが、最近に至り再び非常な勢ひで流行し始めたのである。(18)」と大正7年に出た「二十年実験鶉飼育法」という本に書いてありますが、こう頻繁に使われたことから、趣味の鶉飼育は影か薄くなったかも知れないが、宮内省御用達の飼育業者がいたと考えられます。
 それからね、北大図書館にもあるこの本の共著者の1人は農学士赤木顕次。アカギケンジ、北大生なら必ず知っている名前だ。コロナ蟄居で調べに行けないので「都ぞ弥生」の作曲者ではないかとしかいえないが、これを調べたレポートには応援団OBの私はプラスαで評価します。ホントだよ、はっはっは。
 同(3)の料理名調べですが、煮の入った料理は者の下が点でなく火の煑も煮に直して数えているので、厳密には分けると少し減ります。また赤茄子汁煮羊肉は2回だが、赤茄子汁烹羊肉は1回なのでカウントしていません。こうした書き方からみて料理名は当て字でも許されたと思われます。

資料その11
(1)
 明治12年7月7日午餐
 犢肉菌胡蘿蔔と蒸焼犢肉生菜の2品

 明治12年10月4日午餐
 洋酒煑牛脊肉松茸と串焼牛腎と牛酪焼牛肉鞘隠元の3品

 明治12年10月20日午餐
 冷牛肉野菜と洋酒焼牛肉豌豆と網焼牛肉葱の3品

(2)           (3)
  各肉の使用回数     羊肉料理名の出現回数
               (仏語名15回は除く)
 牛肉  600回     58回 蒸焙羊肉
 鶏肉  426      24  牛酪焼羊肉
 子牛肉 292      16  蒸焼羊肉
 鶉肉  253      13  網焼羊肉
 羊肉  209      13  牛酪煎羊肉
 雁肝  153       6  煮込羊肉
 鴫肉  138       4  蒸煮羊肉
 鴨肉  102       3  洋酒煮羊肉
 七面鳥肉 98       3  油揚羊肉
 豚肉   97       3  焼羊肉
 家鴨肉  71       2  赤茄子汁煮羊肉
 雉肉   48       2  羊肉
 鳩肉   30       2  肉包羊肉
 鹿肉   21       2  蒸焙羊股肉
 山鳥肉  16       2  蒸焼羊股肉
 兎肉   12       2  烹物羊肉
 猪肉   11       2  烹込羊肉
 鵞鳥肉   9       2  薄切羊肉
 雁肉    4
 五位鷺   3

  

参考文献
上記(15)の出典は宮内庁編「明治天皇紀」第二*ページ、昭和44年12月、宮内庁=原本、 (16)は「学習院大学史料館紀要」26号32ページ、長佐古美奈子「宮中晩餐会の歴史的考察 その(1)―現在に続くイギリス風の導入―」、学習院大学史料館、令和元年3月、=
https://glim-re.repo.nii.ac.jp
/?action=pages_view_main&
active_action=repository_view
_main_item_detail&item_id=
4833&item_no=1&page_id=
13&block_id=21
(17)は同27号24ページ、長佐古美奈子「宮中晩餐会の歴史的考察その(二)─明治二二年大日本帝国憲法発布式の諸様相─」、同、令和2年3月=同、 (18)は赤木顕次、足沢勉著「二十年実験鶉飼養法」2ページ、大正7年12月、博文館=国会図書館デジタルコレクション、 https://dl.ndl.go.jp/
info:ndljp/pid/981135

 牛酪焼ならバターを付けて焼いたと察せられますが、蒸焙羊肉と蒸焼羊肉の違いは仏文でわかるんじゃないかと両文ある献立の表記を集めてみたのが資料その12です。5乃至6桁の数字は宴会を開いたの年月日です。
 秋山の「仏蘭西料理全書」の解説を要約すると、黒い肉と分類されるマトンのローチは肉塊を一旦沸騰した湯の中に入れて外側全体に脂肪分の壁を作り、それからぐるぐる回転する装置付きのローチ竈で焦がさぬよう燒き上げる。一方、白い肉とされるラムのローチは熱湯浸しはせずに竈に入れて焼き、焦げ色をつける(19)となります。ですからマトンは蒸し焙り、ラムは蒸し焼きにしたことが考えられますが、秋山のこの本が出る前のことですし、必ずロチと書いていないから、焦がさないように焼いたのが蒸し焙り、万編無く焦がせば蒸し焼きと私は見ますね。
 資料その12には網焼きがありませんが、用いるのは「格子のついた道具で、本のように開き肉をはさんで肉にさわらずに両面を火にかざせるようになっている。(20)」と「ラルース・フランス料理小事典」にあります。
 669回の献立からわかる材料の組み合わせや209回の羊肉料理のリスト、素数の積による材料組み合わせ調べの結果などは別ページにしたので、ここをクリックして、ぜひ目を通すことを勧めます。ふっふっふ。

資料その12
蒸焼羊肉洋野菜 80827(明治8年8月27日を示す、以下同じ)
 ▲Gigot de Mouton salade
蒸焼羊肉鴫野菜   81118 晩餐
 ▲ROTI Mouton Becasce Salade
羊肉蒸焼洋野菜   110325 晩餐
 ▲ROTIS Mouton.Cailles.Salade.
牛酪焼羊肉白芋   110808
 ▲Cotelles de Mouton à la Puiée.
蒸焼羊肉野菜   120605
 ▲ROTIS Choux aux Pommes. Gigot de Mouton
蒸焙羊肉野菜   121205 晩餐
 ▲ROTI. Selle de Mouton.
煑込羊肉橄欖菊芋   161003 晩餐
 ▲Mouton aux olives.
蒸焙羊肉サラト   170304
 ▲RÔTI, Gigot de Mouton, salade.
蒸焙羊肉サラド   180803 晩餐
 ▲Gigot de Mouton,Salade
ペチー ポワー ガルニー デスカロツプ ド ムートン
            190208 晩餐
 ▲PETITS POIS GARNIS D'ESCALOPE DE MOUTON
蒸焼羊肉、サラド   190523 晩餐
 ▲Gigot de mouton rôti Salade,
牛酪煎羊肉   200324 晩餐
 ▲Côtelettes de mouton à la duchesse.
蒸焙羊肉掛汁   200325 晩餐
 ▲Gigot de mouton à la jardinier. r
洋酒煑羊肉菌   200425 晩餐
 ▲CÔTELETTES DE MOUTON À LA FINANCIERE.
蒸焙羊肉サラド   200429 晩餐
 ▲GIGOT DE MOUTON RÔTI, SALADE.
牛酪焼羊肉隠元豆   200707 晩餐
 ▲Côtelettes de mouton aux flageolets.
牛酪焼羊肉鞘院元   200919
 ▲Côtelettes de mouton aux Haricats verts.
蒸焙羊肉 サラド   201102 晩餐
 ▲Gigot de mouton salade.
蒸焙羊肉 サラド   240604
 ▲Gigot de mouton, salade.
蒸焙羊肉、鯡松露入サラド   241106
 ▲Gigot de mouton, Salade Venitienne.
脊羊肉焙焼及平菌油煑   320314
 ▲Côtelettes de mouton à la Parevençal
牛酪煎羊肉潰シ栗   340318
 ▲Côtelettes de mouton purée de marron
牛酪煎羊肉 注汁   360519
 ▲Côtelettes de moutton purée de pois-verts
蒸焙羊肉 注汁 サラド   360521
 ▲Côtelettes de moutton
牛酪煎羊肉 注汁   360613
 ▲Côtelettes de moutton
蒸焙羊肉 サラド   360925
 ▲Gigot de mouton rôti salades
蒸煑羊肉 ジゴー ブレーゼー   400313  
 ▲Gigot de Mouton Braisé provençale
蒸焙羊肉 ヂゴー タギヨー ローチ サラド 430906
 ▲Gigot d'agneau rôti, salade

 それから後回しにした最古という宮中宴会について説明します。これはCDにはないけれど、なぜか「天皇家の宴」には載っているのです。資料その13が明治7年9月22日に開かれたその宴会の献立とその写真です。このように子供向けの童話本のような絵の右半分に料理名があるので、その和訳名も似せた配置にしてみました。ふっふっふ。

資料その13
(1)
      明治7年9月22日午餐
                    
    前菜           野菜料理
   アンチョビ        アスパラガス ブランシュ
   野菜の塩漬        小粒の白いんげん
   ソーシッソン(大腸詰)  
   グリーンオリーブ      焼肉料理
    魚料理         雉子
                白鳥
   鮭の練習マヨネーズ    羊の鞍下肉
                セロリのサラダ
    アントレ         
                アントレメー
   ルーアン地方の小鴨    
   田鴫のポーピエット洋酒煮 チョコレートのババロア
   子牛の心臓肉ゼリー掛け  バニラアイスクリーム
   鵞鳥のパテ        ピエスモンテ
                小型菓子
                デザート取り合せ
                コーヒーとリキュール

   

 「天皇家の宴」は、この宴会について「宮中に外国の使臣を招いて宴を設けられたのは、この日が初めてである。記念すべき歴史的なしかもカラーの美麗なメニューである。」とし、さらに「文献によれば」として外務卿寺島宗則が列国と厚誼を厚くするため開くよう進言して実現した午餐であり、英、米、仏、独、伊など各国の公使を招き、日本側として太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視、参議伊藤博文等が列席した(21)と解説しています。この「文献」は学習院大の長佐古氏の論文に依れば「明治天皇紀」であり、さらに料理を担当したのは「横浜居留地のグランド・ホテル初代料理長仏蘭西人のルイ・ペギュー(22)」だそうです。羊の鞍下肉を焼いたのか煮たのかわかりませんが、メニューの左に微かにHORS…と見えるのはオードブルですね。でも和文の献立にオードブルと1行現れたのは明治30年代でしたね。
  

参考文献
上記(19)の出典は秋山徳蔵著「仏蘭西料理全書」1250ページ、大正12年8月、秋山編纂所出版部=国会図書館デジタルコレクション、 https://dl.ndl.go.jp/
info:ndljp/pid/970458 (20)は日高達太郎飜訳監修「ラルース・フランス料理小事典」20版3ページ、平成2年10月、柴田書店=原本、 (21)と資料その13(2)は秋山四郎編「天皇家の宴」190ページ、昭和61年4月、秋山徳蔵を偲ぶ会出版部=原本、 資料その13(1)は同5ヘージ、同、 (22)は「学習院大学史料館紀要」26号26ページ、長佐古美奈子「宮中晩餐会の歴史的考察 その(1)―現在に続くイギリス風の導入―」、学習院大学史料館、令和元年3月、=
https://glim-re.repo.nii.ac.jp
/?action=pages_view_main&
active_action=repository_view
_main_item_detail&item_id=
4833&item_no=1&page_id=
13&block_id=21

 さてCDにある羊肉料理はここで終わり、こうした献立コレクションを残した秋山徳蔵氏の経歴についてわかったことを話しましょう。秋山は昭和30年に「味」という本を出しました。資料その14は同書の奥付にある著者紹介です。

資料その14
  明治二十二年福井県武生町に生まれた。同
 四十二年に渡欧、主としてパリでフランス料
 理を修業した。大正三年に帰朝、宮内省大膳
 職主厨長を拝命し、今日に至っている。
  その間、大正・今上二代にわたって天皇御
 一家の日常の食事をつくり、且つ両天皇の即
 位御大典の賜宴その他の宮中饗宴の料理を主
 宰した。<略>

 これでは主厨長拝命の時期がはっきりしませんが「味」の本文には「身許調査に半年以上かかり、その年の十一月に宮内省大膳職主厨長を拝命した。(23)」とあります。ロチという焼き方で引用した秋山の本「仏蘭西料理全書」は大正12年月の出版で、そのときの宮内省大膳寮大膳頭だった上野季三郎が序を引き受け「大膳寮厨司長秋山徳蔵君は、<略>曩に仏国巴里に於ける一流料理店に在て、数年間之か研究実習を積み、帰京の後間もなく今の職を奉し(24)」と書いている。当然「今の職」は大膳職主厨長ではなく大膳寮厨司長ですよね。
 もしかすると、大正3年から8年も後だから主厨長という職名が厨司長と変わったこともあり得ると大正11年の「職員録」をみたら大膳寮の大膳頭は上野、その下に事務官2人、属9人、主膳監2人、主膳61人、膳手16人、膳手兼務30人、そして末尾に厨司長として秋山と緑川幸二郎2人の名前がありました。
 昭和5年の「主婦の友」に載ったインタビュー記事によると、緑川は日本料理担当で明治天皇は「明治大帝様は、大そう御食通であらせられました。毎日献立も、大抵御上から、今日はこれ/\と、御好みの御指図が出たものであります。(25)」また「西洋料理はあまり御好みにはなりませんで、御陪食を命ぜらるゝとき以外は、日本食であらせられました。(26)」と語ってます。
 数え年かも知れんが、このとき86歳。秋山より40以上年上かつ大膳寮勤務歴は長いことは間違いないが、名前の上にの数字からすると秋山は月給171円に対して緑川は125円。職名は同じでも月給に差があったのです。
  

参考文献
上記資料その14の出典は秋山徳蔵著「味」奥付、昭和30年5月、東西文明社=原本、(23)は同58ページ、同、 (24)は秋山徳蔵著「仏蘭西料理全書」1ページ、上野季三郎「序」より、大正12年8月、秋山編纂所出版部=国会図書館デジタル本、 (25)と(26)は主婦の友社編「主婦の友」14巻11号414ページ、「明治大帝ら奉仕した老厨司長の想出話」、昭和10年11月、主婦の友社=国会図書館遠距離複写サービス、

 大正12年の「職員録」は関東大震災のせいで纏まった形ではないので、大正11年版を見ると大膳寮の項の先頭に「宮内省官制」と「判任待遇宮内職員職制」と2件の制度改正の抄録が載っていました。資料その15が厨司長制を設けたことにがわかる両制の全文です。

資料その15
  ●大膳寮
  宮内省官制 大正十年十月
        皇室令第七号(抄)
  一大膳寮ニ於テハ供御及饗宴ニ関スル事務ヲ
  掌ル
  一大膳寮ニ左ノ職員ヲ置ク
    主膳監
    主膳
  主膳監ハ専任一人奏任トス膳差ノ事ヲ掌ル
  主膳ハ判任トス膳差ニ従事ス

  判任待遇宮内職員職制 大正十年十月
             宮内省令第十
  一号(抄)
  一大膳寮ニ膳手及厨司長ヲ置ク
   膳手ハ専任十六人膳差ノ雑務ニ従事ス
   厨司長ハ二人供御ノ調理ニ従事ス
  一膳手及厨司長ハ判任待遇トス

 おや、厨司長というポストは大正11年から始まったのかと大正10年の「職員録」を見たら制度改正の省令番号と年月が違い「宮内省官制(抄)」は明治40年11月皇室令第3号であり、資料その15の1項目と2項目の間に「一 大膳寮ニ頭ヲ置ク/頭ハ一人勅任トス寮務ヲ掌理シ所部職員ヲ監督ス」という1項目が入っており、判任待遇宮内職員職制(抄)の方は大正3年7月宮内省令第10号と改正年月が変わり、膳手の人数が20人となっていました。
 それで溯って見て行ったらですよ、以下職員録の記載ページなどは略すが、大正9年版は10年版と同じ、8年版は9年版と同じ、7年版は8年版と同じ、6年版81Pになって前年の7年版と大きな違いがありました。頭が上野ではなく福羽逸人であり「判任待遇宮内職員職制(抄)」は大正3年7月宮内省令第12号で膳手13人と3人少なく「大膳寮ニ膳手ヲ置ク」であり「膳手ハ判任待遇トス」と厨司長が消えており、当然だが、秋山と緑川の名前はない。でも秋山は厨司長だったことがわかる資料その16の記事があるんですよ。

資料その16
各国皇室の
  食物研究
   世にも果報な
   大膳寮の二人
  ◇秋山厨司長語る
お上の仰せ畏みて欧米各国へ名物
料理の食比べに押蒐ける果報者が
ある、それは宮内省大膳寮の来次
主膳と厨司長秋山徳蔵氏の両人で
古往今来我宮内省から料理の研究
を名として欧米へ留学するのは恐
らく之が嚆矢であらう、両氏は十
四日神戸発若狭丸で先づ世界御馳
走の本場仏蘭西を目指すのである
『研究の
  眼目は 各国の皇室や其
他高貴の方々の御料理の内容です
か、マア主として国々の名物料理
を食べに出蒐ける様なものです仏
蘭西へは丁度八年目に行く訳です
がこの前六年許り居つて巴里の有
名なホテルやレストランの料理を
研究し其処の料理人組合員として
或る資格を貰つて居る関係上種々
の便宜もある、それから一年間に
独、墺、伊、白、瑞、和、英の順
序で
  一巡し 米国を経て帰る
予定であります、戦争の結果料理
の種類や献立、名称抔も非常に変
つて居る様で殊に欧羅巴で一番材
料の優良豊富にそして料理の種類
の多いアルサス・ローレンスが仏
蘭西は復帰した丈けでも名称の変
化は大したものです、それから許
すなれば各国の料理人の研究―
組合の状況等も併せて視て来たい
と思つて居ります』と秋山氏は語
つて居る

 このことから私は宮内省は官制、職制を変えてもすぐ「職員録」に載せず、載せても一部にしたり、すぐに職員録に載せない癖があると考えました。だから大正7年版に同3年の省令12号で厨司長を置くとした項を載せ、初めて秋山、緑川の名前が出たことの説明がつきます。はっはっは。
 職員録を順に見ていくと昭和2年と3年は頭ほか5人しか載っていないけど、4年は頭1、事務官1、御用掛8、主膳監3、主膳66、膳手14、膳手兼務22人と厨司長秋山と緑川(27)の名前が載っています。昭和5年の大膳寮は大臣官房大膳課と変わり、課長以下事務官8、主膳監3、主膳52、膳手14、膳手兼務21人と秋山(28)だけ。ここらで緑川が去り、厨司長は秋山1人になったのです。
 昭和8年版で秋山厨司長の後ろに初めて厨司20人の名前が載ります。明治時代から西洋料理は作られていたのだから、この厨司が秋山の指揮下の洋食専門だったかどうかは、職員録ではわかりません。昭和11年に大膳寮が復活したけれども、秋山は昭和15年まで厨司長のままだったことは資料その17で明らかです。

資料その17
  (1)
     

(2)
 高等官の料理人
  ◇…宮内省厨司長の秋山さん
宮内省では今回大膳課課員の待遇
を改善することになり、まづ厨司
長秋山徳蔵氏は一日付で奏任官に
昇格任命することになつた、三
十一日夕赤坂溜池の氏を訪ねると
大変うれしさうだ
 ……実際これ迄料理人は世間的
 に劣つてゐるものと見られ心外
 でたまらなかつたのですが率先
 して宮内省が地位を向上させて
 下さるんですからねえ……成程
 以前には素行の面白くない同業
 者もあつたし「水商売」として卑
 められたが……時世は変つた
 ……そこで私はいつも部下にい
 つてたんですよ、自らを慎んで
 誠心こめて仕事をやつてゐれば
 要求しなくたつて認めてもらへ
 る――とね、調理に当つては誠
 心をこめてやることが第一です
 よ……【写真は喜びの秋山さん】

(3)
畏き辺では来る九日の関西行幸に
際し四日左の如く神宮並に山陵御
参拝行幸供奉を仰付けられた
     宮内大臣 松平恒雄
    内大臣侯爵 木戸幸一
      侍従長 百武三郎
    侍従武官長 蓮沼蕃
   侍従次長伯爵 甘露寺受長
    宮内事務官 大金益次郎
     侍従武官 山澄貞次郎
     侍従公爵 徳大寺実厚
    宮内書記官 加藤進
   侍従職御用掛 柴伝吉
       侍従 小出英経
     侍従武官 徳永鹿之助
       侍従 小倉庫次
      主膳監 野村利吉
    宮内書記官 筧素彦
       侍医 稲田淳
  宮内大臣秘書官 野上秀時
  宮内大臣秘書官 黒田実
       侍従 内藤政恒
      厨司長 秋山徳蔵
神宮並山陵御参拝行幸供奉被仰付
(各通)蕃
    宮内書記官 加藤進
同行幸主務官を命ず

 結論からいうと秋山が主厨長になったのは昭和18年です。いいですか、昭和18年6月19日付で宮内大臣松平恒雄が内閣総理大臣東条英機宛に我が宮内省の官制を変えたいがと照会した書類の内容について7月13日付で「内閣に於て異存無之候(29)」と認められた。
 その改正理由は「大膳寮ニ於ケル厨司長(現在ハ判任待遇又奏任待遇職員)及厨司(現在ハ判任待遇職員)ノ待遇ヲ改善スル爲同寮ニ主厨長奏任専任一人及主厨判任若干人ヲ置クコトトシ、(30)」云々。足掛け30年勤続に報いる昇格みたいだよね。
 それで昭和14年改正の宮内省官制にある第45条「大膳寮ニ左ノ職員ヲ置ク/主膳監/主膳/主膳監は専任一人奏任トス膳差ノ事ヲ掌ル/主膳ハ判任トス膳差ニ従事ス(31)」を 第四十五條第一項中「主膳」ヲ「主膳/主厨長/主膳」ニ改メ同条ニ左ノ二項ヲ加フ/主厨長ハ専任一人奏任トス供御供膳及饗饌ノ調理ヲ掌ル/主膳ハ判任トス供御供膳及饗饌ノ調理ニ従事ス(32)」となり、ここで初めて秋山は正式に主厨長となったのです。資料その18が証拠書類ね、はっはっは。

資料その18
    

  

参考文献
上記資料その15の出典は印刷局編「職員録」大正11年21ページ、大正11年11月、印刷局=国会図書館デジタル本、 https://dl.ndl.go.jp/
info:ndljp/pid/986604
資料その16は印刷局編「職員録」大正11年21ページ、大正11年11月、印刷局=国会図書館デジタル本、 https://dl.ndl.go.jp/
info:ndljp/pid/986604
資料その16は大正9年10月3日付朝日新聞朝刊5面、聞蔵U、 資料その17(1)は昭和元年3月2日付同7面、同、 同(2)は同7年11月1日付同7面、同、 同(3)は同15年5月5日付同7面、同、 (27)は印刷局編「職員録」昭和4年8月1日現在12ページ、昭和4年11月、内閣印刷局=国会図書館デジタル本、 (28)は印刷局編「職員録」昭和5年7月1日現在8ページ、昭和5年10月、同、 資料その17(1)は昭和元年3月2日付朝日新聞朝刊7面、聞蔵U、 同(2)は同7年11月1日付同、同、 同(3)は同15年5月5日付同、同、 (29)と(30)と(31)と(32)と資料その18は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A14101079200、宮内省官制中ヲ改正ス(国立公文書館)」

 CDには、なぜか秋山厨司長が手がけたはずの大正4年の御大礼の献立が入っていません。でも彼の書いた本「味」には「その時の献立を参考までに記しておこう。ただし、洋風賜宴のものだけにとどめる。(33)」と断って載っているので資料その19(1)にしました。5番目の煑熟冷鷸の鷸はシギのはずなのにウズラと書いている。私の本は第3刷なので誤植なら訂正されているはずだが、間違いなくこの字です。
 「天皇家の饗宴」はこの献立を取り上げず「天皇家の宴」は著書「味」から引用として「うずら」です。秋山がウズラ料理が得意だったとしても「献立を考えるのにひと月かかった。(34)」という饗宴で2品も出すとは考えにくい。
 味の素食の文化センターが平成27年に秋山カードコレクションの寄贈を受けた記念に開いたメニューカード・コレクション展の資料にある「大宴第二日ノ晩餐の料理」によると「大礼記録21巻」の仏文の記述では Chaufroid de Bécassines à la Fraçaise(35) つまりシギの冷たい料理とあるそうだから、やはり書き間違いだね。
 同(2)は記念絵はがきの賜宴の絵で、女性の給仕がいます。でもこういう洋装の女性の給仕を使う、使ったという記録はないから、奥の玉座やテーブルの配置は正しいようですが、想像画ですね。

資料その19
(1)
大正四年十一月十七日於京都二条離宮

 大饗賜宴 献立
 一 鼈清羹(すっぽんのコンソメ) 蝲蛄濁羹(ざりがにのポタージュ)
 一 蒸茹鱒(ますの酒蒸し)
 一 被包肥育牝鶏(とりの袋蒸し)
 一 烹炙牛繊肉(ヒレ肉の焼肉)
 一 煑熟冷鷸(うずらの冷い料理)
 一 椪柑凍酒(オレンジと酒のシャーベット)
 一 燔焼吐綬鶏 交品 鶉 生菜(七面鳥のあぶり焼き、うずらのつけ合せ、サラダ)
 一 湯淪溏蒿(セロリの煮込み)
 一 氷菓(アイスクリーム)
 一 後段果実生果各種(デザート)
   <以下酒類とコーヒー類は略>

(2)
    上記(1)の料理が出た夕方の賜宴の様子
  

  

参考文献
上記(33)の出典は秋山徳蔵著「味」奥付、昭和30年5月、東西文明社=原本、 (34)は同66ページ、同、 資料その19(1)は同68ページ、同、 (35)は味の素食の文化センター編「『天皇の料理番 秋山徳蔵』メニューカード・コレクション展」パンフレット、ページ番号なし、平成27年11月、味の素食の文化センター、 同(2)は絵葉書「二条城内豊楽殿大饗宴之盛儀」作者、製作年月とも不明、絵葉書資料館より購入、ウィキペディアによれば作者か販売者は尚美堂・田中良三、

 コロナ感染が怖いから手持ちと検索で新聞記事を探したら、北海タイムスと大阪朝日新聞にありました。資料その20がそれですが、図書館へ行き探せば毎日と読売の記事も見付かる筈だが、今年はこれで勘弁願いましょう。
 その前にこの御大礼の2日間の宴会の順序を説明すると、第1日の11月16日は和食の宴会、第2日の17日は夕方6時からと夜9時からと2回開かれたのに、秋山は2回目の夜宴の献立は書いてません。
 北海タイムスの資料その20(1)にした記事は、御大礼に先立って祗園で開かれた記者団招宴の名簿から古川金次郎特派員(36)からとみられるが、18日後半の献立はおかしい。これは第1日の和食の献立であり、札幌で記事の順序を間違えたのではないか。その点、朝日のホームページで見付けた記事、資料その20(2)の献立は他の資料に照らして正しい。
 当時の朝日新聞は大阪と東京と分かれており、後でわかったことですが、これは大阪朝日にだけ載った記事で東京発行の紙面には載っていない。地元だけによく勉強して宴会に臨んだことがわかります。

資料その20
(1)
●善美を盡せる珍味
  ▼第二日御献立
君と臣とが寿ぎ交して御代万歳を唱
へし十七日大餐第二日の儀は皇族、
列国使命、親仕官以上約二百名にて
聖上出御と共に六時十五分開宴され
黄白の菊と西洋百花の点綴されし■
々百五十名の配膳掛り赤胴衣青洋袴
に金毛■にて飾り立てし燕尾服を着
し黒白の長靴下にエナメルのスリツ
パ瀟洒に運び出でもられしは
 一、西洋小菜、京葛野農会の産
 二、濃スープ、東京湾の小蝦
 三、澄スープ、国産の鼈入り
 四、フライ、露領勘察加沿岸にて
  郡司大尉の漁せし銀鱒
 五、焼肉、但馬産牛の鰭肉
 六、蒸肉、関東産■鶏■ーガラー
  包
 七、焼肉、宮内省飼育の七面鳥
 八、焼肉御料場にて捕獲の鴨に和
  蘭セロリ
 九、菓子、台湾バナナ入のポン
  チ、アイスクリーム
山科葡萄、台湾バナナ、珈琲、御酒
はセリー、白葡萄酒、赤葡萄酒、三
鞭、平野水、ペリリユー酒の粋を集
められたり(此項十八日午後四時東京発
電話着)
  ▼大饗夜宴献立
夜宴の儀は貴衆両院議員等も加はり
総数千九百八十八名と聞こえ南大手
門より参集者引も切らず八時十五分
舞楽陪覧場に参進せり青線と赤線と
にて陪覧席と宴席とを区別せられし
は進退些も乱れしめず陛下出御あ
りて万歳楽太平楽の妙技は我人共に
神に入らしむ斯くて十時ニ十分雅楽
終了、最敬礼中に聖上一旦入御休憩
の中に陪覧席四面の張を撤せられ四
十二間四面の大饗宴場一望の下に展
開せらる君が代奏楽中に陛下出御、
十八日午前零時半笑歌和楽の酒宴を
開かれ献立は
(式膳)白木折敷、土器盛り△白酒
黒酒、盃、土器脚付△御飯、悠紀
主基両■田米△御汁、白味噌巻鯉
△刺身、塩鮭△焼鳥、若雛△巻昆
布△漬物、葉付き羅蔔浅漬
(餐膳)白木折敷、磁器盛り△吸物三
州味噌澄汁、鱧短冊独活△鉢肴、
照り焼ひがい黄味肉附車蝦かがみ
慈姑△刺身、鯛つくり身、削り羅
蔔、花山葵△甘味、熨斗鳥みの松
蕈末広箱△塩肴、塩焼鯛尾紙金銀
小引紅白糸掛△色飯そほろ鯛青豌
豆松蕈金糸卵子
(島台盛)造花立て(取肴)三包蒲鉾
鶉附焼(鶴亀)百合根煮△酢の物、
笹作り鱚唐辛し島賊小口胡瓜独活
△水物、金柑△吸物、丸め鳩青味
羅蔔
以上三の膳にて島台に添へし挿華は
純銀製にて諸員に引出物として賜は
りし也是等内国産の珍味、布張も速
成畳一箇宛を添へ家苞に便せられし
は心行きの程いとも畏し(同上)

(2)
●内外の粋を蒐めた献立
   ■今宵の大饗第二日と夜宴
今夜六時より二条離宮にて挙げさせら
れる大饗第二日に召されるは皇族殿下
列国使節及び親任官以上二百名である
   ◆聖上陛下が出御
になると食堂が開かれる卓上は黄白の
菊と色々の盆栽とを以て点綴せられ電
灯の光と相映じて眼も覚むる許りの麗
しさであるそれで
   ◆百五十人の配膳
掛が赤のチヨツキに青の半ズボン、金
モールで飾り立てた燕尾服を着け黒白
の長靴下、エナメルのスリツパーを穿
いて出て来る
   ◆第一に運ぶのは
西洋物の小菜でそれは府下葛野郡農会
産次は濃汁で中に東京湾附近の小蝦、
清汁の方には国産の鼈が入つて居
るスープが引かれると銀鱒のフライが
出る、之は露領来察加沿岸で
   ◆郡司大尉の捕獲
したものを生きた儘東京へ持ち帰つて
養魚池で飼育したもの第五番目は焼肉
で但馬産の一頭七八十貫もある生牛か
ら僅に二貫目選り取られた脂肪で包ま
れてある其の次の蒸焼は国東産の一羽
七十匁乃至八十匁の雛鳥のフワーガラ
ー包み、続いて
   ◆宮内省で飼育の
七面鳥と御料場で取つた鴨の焼肉が出
る其の間に和蘭セロリーがある産地は
東京横浜間で作つたものである、後は
台湾産のバナナ入りのポンチ・アイス
クリーム、芽出度い形した菓子、府下
山科の葡萄と台湾バナナ珈琲の十三種
であるそして酒は
   ◆ゼリー白葡萄と
赤葡萄酒、シヤンパン、平野水、リキユ
ー酒の六種で内外の粋を蒐めた献立で
ある更に
   ◆夜宴になる
一同午後九時に参集して陛下の着御を
待つて舞踏が始まるそれが終ると翌十
八日午前零時煌々と輝き照す食堂が開
かれる召される者は二千五百人の多人
数とて卓子の並べ方は前刻の大饗の場
合とすつかり変り金モール紅白の菊花
とで埋められ此時配膳係は六人分宛銀
盆に盛つたコール物を持ち運ぶが第一
番が
   ◆葡萄酒にて煮た
鳴門鯛次ぎが雁の胆で包んだ鶉の蒸焼
牛肉、白葡萄酒で蒸した鶏肉、雁の胆包
みの紐育製のハム、それからサンドウ
イツチ菓子、果実、珈琲又は紅茶の九
種で酒は大饗と同様
   ◆三鞭の外に五種
である夕刻の大饗宴から引続き夜宴を
賜はるものには極めて濃厚な御馳走の
上に今度は淡泊したコール物を頂戴す
ると云ふ極めて苦心の献立で後にも前
にも見る事すら出来ない御馳走である

 はい、秋山の献立と記事2本との違いに気付いたかな。記事ではザリガニが東京湾の小蝦、シギ料理がひよこのフォアグラ包みになっているよね。シギはさておき、秋山が「文芸春秋」に書いた「ザリガニを盗まれた話」によると、北海道で捕った3000匹を京都の二条離宮内に作った生け簀に入れておいたら一夜のうちに全部逃げてしまった。こりゃ大変と必死で探して捕まえ、失ったのは数匹(37)とあります。
 秋山の「仏蘭西料理大全」にあるザリガニのポタージュ「ビスク( Bisque )又はクーリ デクルヴィッス( Coulis d'ecryvisses )」は10人前として「十匁位のざり蟹三十匹」(38)だから1人当り3匹、北海道のザリガニが1匹10匁、37グラムぐらい大きかったとしても、3000匹では1000人分。「何しろ、延べ二千人もの賜宴である。上質の品を、しかもその質を揃えて、大量に集めなければならない。(39)」と「味」に書いたが、残りの1000人分はどうする。献立通りではないけど大量に捕れる海の蝦を使うしかない。
 ところが、この「延べ二千人」は最初の夕方の宴会の人数ではなかったのです。「宮中晩餐会」にある岩壁義光氏の「近代日本における宮中の饗応」によれば「大饗第二日の儀」は「皇族以下、外国大公使、政府高官等二百三名」であり、続く「大饗夜宴の儀」には「二千七百七十九名が実際に参列した。(40)」そうだ。
 「弘前大学教育学部紀要」にある川井唯史、大高明史両氏の論文によれば「大正大礼記録」に「その食材としては『蝲蛄七百匁 鶏肉ハ百匁クリーム牛酪入』と書かれており、ニホンザリガニ700匁(著者による換算;=187g)が鶏肉とクリーム牛乳と共に料理されていたと分かる。(41)」とあり、その記載ページの写真があります。1匁は3.75グラムだから700匁で2625グラムのはずだが、187グラムという「筆者による換算」がわかりませんが。まあよろしい。その写真をよく見ると、スッポンの「十人分ニ付」云々を受けて「仝 蝲蛄…」と書いているから、200人分は700匁の20倍、1万4000匁、1000匁で1貫だから14貫、14貫は52.5キロとなる。
 そこで52500割る3000は17.5だから1匹の体重が17.5グラムあれば間に合うことになりますが、ビスクでは殻は外して茹で、ポタージュの上に赤くなった殻を浮かせるのが決まりで、秋山の「仏蘭西料理大全」にもそう書いてあるし、この川井・大高論文には宮内庁書陵部所蔵の「大正大礼記録」にある小さな赤点みたいな殻を2つ浮かせた桃色の濁羹の絵も収められているのです。
 ではザリがニの体重はどれぐらいなのかと検索したら、ニホンザリガニは体が小さくて、10グラムを超える大物は少ないらしい。秋田県大館市教育委員会の調査報告によると3地区で捕まえた約259匹の平均体重は2.2〜3.3グラム、最大は14.4グラム(42)だったそうだ。支笏湖でのびのび育ったにせよ、全匹17グラム級ではないから「仏蘭西料理大全」には書いていない鶏肉で補ったのでしょう。
 「ザリがニを盗まれた話」に秋山は「味」を読んだ人から、ザリガニに就いていろいろ聞かれた。一世一代の大仕事、最高の料理、めったに味わえぬ珍味を1品はつけたいと決めたビスクではあったが「いまにして思えば、あれを献立の中に入れなければよかったのだ。(43)」とも書いてる。ザリガニが小さくて、完璧なビスクの味を出せなかったことを45年たっても気にしていたのですなあ。
  

参考文献
上記の(36)の出典は京都府編「大正大礼京都府記事 庶務之部 上」469ページ、大正6年3月、京都府=国会図書館デジタル本、 資料その20(1)は大正4年11月20日付北海タイムス4面=マイクロフィルム、 同(2)は朝日新聞DIGITAL「朝日新聞が伝えた「天皇の料理番」秋山徳蔵より、記事は大正4年11月18日付大阪朝日新聞夕刊2面= http://www.asahi.com/
special/kotoba/muka
shino/SDI201506216731.
html) (37)は文芸春秋新社編「文芸春秋」35巻2号51ページ、秋山徳蔵「ザリガニを盗まれた話」、昭和32年2月、文芸春秋新社=国会図書館遠距離複写サービス、 (38)は秋山徳蔵著「仏蘭西料理大全」ページ、大正12年月、国会図書館インターネット本、 (39)は同著「味」67ページ、昭和30年5月、東西文明社=原本、 (40)は松平乗昌編「宮中晩餐会」54ページ、岩壁義光「近代日本における宮中の饗応」、平成24年1月、河出書房新社=原本、 (41)は弘前大学教育学部紀要101号31ページ、川井唯史、大高明史「日光市で発見されたニホンザリガニ個体群の由来、および大正時代に北海道から本州に持込まれた個体に関する宮内庁公文書等に基づく情報」、平成21年3月、弘前大学教育学部= https://hirosaki.repo.
nii.ac.jp/?action=pages _view_main&active_action =repository_view_main_ item_snippet&all=%E3%82% B6%E3%83%AA%E3%82%AC%E3% 83%8B&count=20&order= 16&pn=1&st=1&page_id =13&block_id=21 (42)は大館市文化財調査報告書第9集「2012年ニホンザリガニ及びアメリカザリガニ生息分布調査報告書」19ページ、平成24年12月、大館市教育委員会= https://www.city.odate.
lg.jp/uploads/public/
pages_0000004886_00/0
-10.pdf (43)は文芸春秋新社編「文芸春秋」35巻2号51ページ、秋山徳蔵「ザリガニを盗まれた話」、昭和32年2月、文芸春秋新社=国会図書館遠距離複写サービス、

 それはそれとして、なぜかこの御大礼のメニューはCDに入っていません。「天皇家の饗宴」と「宮中晩餐会」はなしだが「天皇の宴」は載せている。ただし鷸にうずらとした「味」の通りです。それから大礼記録編纂委員会編「大礼記録」には当然だが、夜宴の献立と合わせて載っており、それは別ページにあります。
 「大礼記録」はメニューは資料その19の括弧内の説明なしの献立で「当日ノ賜宴献立ハ次ニ記スガ如シ、玉食ノ献立ヲ異ニスルコトナキハ、洋式ナルニ因ル。(44)」つまり陛下も同じ料理を召し上がられるし、駐日大使31人を含む220人が座ったのだからメニューを配らないわけがない。「大正大礼記録総目次」の中の「大礼饗宴」の項に「大饗第二日献立用紙ノ調製(45)」とあるし、秋山はザリガニ逃亡の際「献立を変更しようにも、手のかかった美しい献立表が既に刷り上がっている。(46)」と書いたのだから8月には完成していた筈です。もし出席人数分しか作らなかっとしても「大礼記録」の記録からすると50人以上欠席(47)した計算になるから、それを取り置きできた筈ですがね。
 私はね、資料その21(1)から御大礼の洋食は全部秋山案通りにならなかったのでコレクションに入れなかったと考えますが、コロナが怖くて東京へ資料調べに行けないので、これはペンディングにして同(2)の秋山の年譜の東京倶楽部就職を取り上げます。これは昭和32年に出た随筆集「舌」を文庫化した「舌 天皇の料理番が語る奇食珍味」にある年譜からです。

資料その21
(1)
 大饗三次ノ玉饌ハ、何レモ大礼使職員タル大膳寮主膳監督ノ下ニ、同厨司長ヲシテ供進セシメ、賜饌中、第一日ノ分ハ、従来大膳寮ノ用達トシテ、三大節、其ノ他宮中ノ賜宴ニ経験アル東京市三輪八百吉・荒木平八・佐久間定吉、及奥田八郎兵衛ノ四名ニ、第二日及夜宴ノ分ハ東京市精養軒、竝ニ東洋軒ニ命ジテ調製セシム、其ノ原料ハ予メ当局ヨリ、指定品目表ヲ示シテ蒐集セシメタリ
(2)
秋山徳蔵年譜
西暦   年齢 事項(『』は著作)
1888  0 8月30日、福井県武生町(現武生市)高森家に出生。5男3女の次男1819 14 武生町尋常高等小学校卒業。鯖江36連隊で西洋
        料理に触れる
1904 16 東京・麹町の「華族会館」料理部で料理修業
1905 17 築地「精養軒」へ
1907 19 三田「東洋軒」に移る。フランス語を学ぶ
1909 21 シベリア鉄道で渡欧。ベルリンのホテル「アドロン」にて
        修業
1910 22 パリ「オテル・マジェスティック」「カフェ・ド・パリ」
        「オテル・リッツ」で修業
1912 24 ニース「オテル・マジェスティック」に移る。マルセイユか
        ら帰途
1913 25 帰国後、「東京倶楽部」料理部長就任。秋山敏子と結婚、
        秋山家入籍。
        (2男1女をもうける)宮内庁大膳寮に就職、厨司長となる
1915 27 11月17日、大正天皇の「御大礼」の宴を主宰
<以下略>

 これだと春とか秋とは書いてないが、1912年、明治45年イコール大正元年帰国となり「天皇家の宴」の略歴の大正2年帰国より1年早く、明治45年7月以前なら天皇崩御とそれに続く一連の皇室行事を予知して帰国を勧められ、秋山はそれに従ったともとれると思いませんか。
 秋山の帰国は大正2年と3年の2説ありますが、私は「味」に欧州を離れたのは「大正三年の三月だった。(48)」と書いていることと、秋山が大膳寮頭の福羽逸人か言葉遣いに注意された話から大正3年帰国を取りたい。
 秋山が大膳寮に入って「僅か一ケ月ほどしか経っていないある日」厨房に入ってきた土足の男に馬鹿野郎などと怒鳴りつけたら、その男は内匠頭の片山東熊だった。後で福羽に役所では乱暴な言葉は使わない方がいいよと注意された(49)という思い出が「味」にあります。この「僅か一ケ月ほど」がキーワードだ。
 大正3年5月1日現在の「職員録」では福羽は内苑寮の頭、大膳頭は万里小路正秀(50)です。秋山が帰国して半年以上身許調査にかかり、それから大膳寮に入ったとして大正3年内でしょう。それから1月ぐらい経ったとき、片山を怒鳴りつけたとき大膳頭はもう福羽に代わっていたことになる。
 翌4年5月1日現在の「職員録」では福羽は大膳寮頭だから、今いった見方はありうるけど、そうじゃないんだな。私は3年5月から翌4年5月までの間、何月に万里小路と福羽が交代したか「職員録」ではわからないので「官報」で調べた。大々脱線だが、その結果が資料その22です。
 春に交代して御大礼の準備を引き継いだと思ったら大違いでね、万里小路の死去で福羽がピンチヒッターとなり、4カ月後に迫った御大礼の饗宴を指揮したのです。

資料その22
(1)
大正4年6月11日
 特旨ヲ以テ位一級被進 大膳頭従三位勲四等男爵 万里小路正秀
 賜一級俸(以上六月九日宮内省)  大膳頭男爵 万里小路正秀
6月12日
 臨時大膳頭事務取扱ヲ命ス     宮内書記官 市來政方
 ○官吏薨去及死去 大膳頭兼式部官正三位勲三等男爵万里小路正秀ハ
 一昨十日薨去シ<以下略>
6月13日
 (6月12日宮内省)通常会計分任官ヲ命ス
        臨時大膳頭事務取扱 宮内書記官 市來政方
7月1日
 襲爵被仰付  故男爵万里小路正秀家督相続人
                    従五位 万里小路元秀
7月21日
 任大膳頭 叙高等官一等   正四位勲三等子爵 福羽逸人
 免兼官          内苑頭兼式部官子爵 福羽逸人
 賜一級俸             大膳頭子爵 福羽逸人
 内匠寮御用掛被仰付        大膳頭子爵 福羽逸人
 臨時大膳頭事務取扱ヲ免ス     宮内書記官 市來政方
7月23日
 (7月20日宮内省)通常会計分任官ヲ命ス
                  大膳頭子爵 福羽逸人
7月24日
 日光行幸行啓供奉被仰付      宮内書記官 市來政方

各辞令の掲載日上から順に
6月11日付官報558号515ページ
6月12日付官報559号12ページ
 同          13ページ
6月13日付官報560号2ページ
7月1日付官報575号34ページ
7月21日付官報592号9ページと12ページ
7月23日付官報594号5ページ
7月24日付官報595号12ページ

 福羽が頭に就任したのは職員録の5月以前ではなく7月だ。怒鳴りつけた話の時期が正しければ、逆算して秋山は6月ごろから大膳寮の厨房で働き始めたことになる。大正3年春に帰国してからほぼ1年、饗宴の「献立を考えるのにひと月かかった。(51)」としても半年以上余る。そこで「味」には書いていない東京倶楽部料理部長就任が仮説以上になるんですなあ、おほんおほん。
 「昭憲皇太后(1914年) 大正3年4月11日狭心症で崩御」(52)」で御大礼は1年延期、宮内省としてはそのために帰国させた秋山を放置してもおけず、身許は問題なしで取り敢えず厨司長にしたものの、秋山がいなくても洋式料理はできるので出勤するに及ばずとした。さりとて秋山もぶらぶらしていては腕が落ちるなんてね、どこかで働くことにした。
 東京倶楽部はね、会員は華族貴族など日本人200人、外国人150人というハイソでね、元独逸大使珍田捨巳、元仏蘭西大使栗野慎一郎も会員(53)だった。大正4年11月に虎ノ門に完成(54)した建物は黒田鵬心著「都市の美観と建築」によると2階には大晩餐室のほか普通の食堂、私食堂、料理室、食器室(55)があった。東洋軒のホームページに大正4年のこととして「『東洋軒』が『東京倶楽部』(東京 虎ノ門)に英国人と貴族その他上流階級をもてなす、西洋料理店を開業』(56)」とあるのは、ここでしょう。
 それで私は秋山は帰国後、身許調査が済むまでの半年ぐらい、そちらの料理長を務めたと考えますがどうでしょうと、東洋軒にお尋ねメールを送ったが、ノーコメントだ。新築の東京倶楽部の勤務は御大礼後になるので無理、それで帰国を促した栗野の誘いもあり、東洋軒に籍を置いたとすれば、内幸町にあった移転前の東京倶楽部(57)であり、帰国後から大膳寮へ出勤し始める4年5月ごろのまでのほぼ1年、形だけでも厨司長だったんだから「味」には書けないね。
 大正4年7月着任の大膳頭が旭川の師団長にザリガニ採りを頼み、8月に3000匹が日光に届き、それが逃げたとき、もう11月のビスク入りの献立表が完成していたなんて話がうますぎるが、そこは秋山のビスクに賭けた熱意のしからしめたことだった―ということで終わります。
  

参考文献
上記の(44)の出典は大礼記録編纂委員会編「大礼記録」504ページ、大正8年8月、内閣書記官室記録課=国会図書館インターネット本、 (47)は同511ページ、同、 (45)は大蔵省編「大正大礼記録総目次」16丁裏、作成年月不明、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08072042500、大正大礼記録総目次(国立公文書館)」、 (46)は文芸春秋新社編「文芸春秋」35巻2号53ページ、秋山徳蔵「ザリガニを盗まれた話」、昭和32年2月、文芸春秋新社=国会図書館遠距離複写サービス、 資料その21(1)は大礼記録編纂委員会編「大礼記録」484ページ、「大礼後儀(上)大饗」より、大正8年8月、清水書店=国会図書館デジタル本、 同(2)は秋山徳蔵著「舌」253ページ、平成26年1月、河出書房新社=原本、 (48)は秋山徳蔵著「味」2版57ページ、昭和30年5月、東西文明社=原本、 (49)は同59ページ、同、 (51)は同66ページ、同、 (50)は内閣印刷局編「職員録 大正三年甲」75ページと79ページ、大正3年*月、内閣印刷局=国会図書館インターネット本、 (52)は東洋文化協会編「幕末、明治、大正回顧八十年史」第9輯7ページ、昭和8年11月、東洋文化協会=国会図書館インターネット本、 (53)は都新聞社経済部編「倶楽部めぐり 附財界犬と猿」165ページ、昭和3年8月、倶楽部研究会=国会図書館インターネット本、 (54)は大正2年11月15日付朝日新聞朝刊3面=聞蔵U、 (55)は黒田鵬心著「都市の美観と建築」108ページ、大正3年2月、趣味叢書発行所=国会図書館インターネット本、 (56)は東洋軒ホームページ「東洋軒の歴史」= https://www.touyouken.
co.jp/sp/history.html (57)は明治42年2月16日付朝日新聞朝刊1面、東京倶楽部新築設計懸賞募集広告=聞蔵U、


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